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第一編 学部

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第三章 文学部

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一 総論

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1 東京専門学校文学科の設立とその発展

 東京専門学校が創立された、明治十五年に遅れること八年、明治二十三年五月三十日の臨時評議員会において、来る九月の新学期の開始とともに、文学科を新設することが可決された。それによって六月四日には、文学科課定表が公表され、七月一日に実施された入学試験には、新設の文学科への入学試験も含まれていた。そして九月の新学期開始とともに、東京専門学校(英語)文学科が創立されたのである。この日こそ、早稲田大学文学部が呱々の声をあげた記念すべき日である。〔東京専門学校(英語)文学科と記したのは、明治二十三年六月十八日の『読売新聞』の「学生募集広告」に、東京専門学校広告として、「本校今般新ニ英語文学科ヲ増設シ」と記されており、六月二十日の『官報』にも同文の広告があるので、初めは文学科ではなく、英語文学科が正式の名称であったと思われる。ところが八月三十一日の再募集の広告、十月の編入試験広告では、文学科となっている。創立後二年間は、文学科とも英語文学科とも使われているので、一応(英語)という表現をとった。〕

 こう述べてくると、政治経済学科・法律学科・理学科の正則三学科と、英語学科の四科で出発した東京専門学校が、八年間に坦坦と発展し、文学科を拡充増設するまでに発展を遂げたのだと解されそうであるが、東京専門学校にとって、この八年間は実に棘の道であった。創立当初の経済状態も決して豊かではなかったし、教職員は、皆少額の報酬に甘んじて、多数の科目と多数の講義時間を受け持っていた。明治二十二年当時講師であった田原栄は同年年末に六十円の俸給の内から、寄附金や前借等を差引かれて、残金三円四十二銭六厘しか受け取っていなかったが、英語を担当していた彼は、講読・文法・書取・其他で計四十一時間をもっていた。同じく坪内雄蔵は月給六十円のうち、差引分を除いて、残りの八円八十六銭四厘しか受け取っていないが、文体論・修辞学・文学史・ラム等で二十時間を担当していた。このように各講師は献身的に授業を担当していたが、明治二十六年十月の記録をみると、一ヵ月で、今井鉄太郎の七十六時間を筆頭に、坪内雄蔵の六十八時間、天野為之の四十四時間、大西祝の三十八時間、金子馬治の三十七時間という授業をこなしていた。夏目漱石でさえ二十時間をもたされていたのである。専務講師でさえ、月給三十円程度でしかなかった頃、学校の経費の不足を補なうために、講師達皆毎月の薄給の中から、一割を学校への寄附金として天引されていたのであった。それでもこうした薄給と、過重な授業担当に文句もなく、皆献身的な努力を払って、一途に学校の運営に協力をしていた。

 これらの講師は、殆どが東京帝国大学の卒業者で、創立者大隈重信の委嘱をうけて専ら学校の建設と運営とに当ってきた小野梓の傘下に同志的な結合をもって集まっていた気鋭有為の青年達――鷗渡会のメンバー――であったので、意気が合っていた。東京専門学校を目の仇にしていた当時の文部省や、東京帝国大学の当事者達からは、学校の存立を崩させようと、高い俸給をえさに東京専門学校を去って官吏になるように、盛んに勧誘されたが、彼らは断乎としてそうした要求や、勧説を振切って、大隈や小野のもとに結束して、全身を投げ出して、学校の運営に打ち込んで、八面六臂の奮闘に明け暮れたのである。

 東京専門学校開校当時の藩閥政府からみれば最も強悪な叛徒として映じていた大隈の建てた学校であるから、何とかしてそれを崩壊させようとして、あらゆる官憲の圧迫が加えられた。講師陣の引上げも、高給による説得がきかないとなると、政府は判事や検事、あるいは帝国大学の教授が私立学校の教授に赴くことを禁止し、暗に東京専門学校へ出講する講師の獲得を妨害するに至り、あるいは大隈の旧藩主鍋島侯に対し、財政的な援助をされることは好ましくないと、宮内省の権威をもって干渉したり、さまざまな妨害を加えた。

 このような内憂外患が蓄積している間に処して、学校関係者は一寸もひるむことなく、圧迫が強まれば強まる程、戮力一心、あらゆる犠牲を払って学校の発展を策したのであった。このようにさまざまな重圧が加えられれば加えられるほど、学校の創立者や教員、それに集ってくる学生らは、ますます団結を固めて、あらゆる困難を克服して、矢継ぎ早に改革につぐ改革を策して、学校を軌道にのせて漸次発展への道を歩んでいった。そうした多難な時節にも拘わらず、困難を十分承知の上で、東京専門学校では、新しく文学科の設立を策していたのである。

 明治二十三年七月、前島密が東京専門学校の校長を辞任し、鳩山和夫が代って第三代目の校長に就任したが、専門学校はこの時期において、飛躍的な学制改革がなされ、学制が拡大されたのである。それは九月に行われた文学科の創設である。この文学科の創設は、それ以前において、創立当初より、英語学科があり、明治十九年の改革では、英学部が置かれなどしているが、それらは文学科設置の前提とも見られようが、その創設の主旨において同日に論ずべきではない。

 文学科創設の主たる提唱者は、坪内雄蔵(逍遙)であった。坪内は、明治十六年に東京帝国大学を卒業すると同時に高田早苗に迎えられて東京専門学校に勤務し、高田や天野為之とともに教師として教壇に立ち、政治科や法律科で万国史や、憲法史を講義していたが、夙に『小説神髄』や『当世書生気質』を著して、新文芸の魁を成した彼は、新しい時代の要求に応えるには、国民の気質を高め、生活を向上させるためにも、文学教育振興の必要性を痛感し、啻に外国文化摂取の目的から、語学を習得するというような、安易な目的ではなく、「今日の如き時文の紛乱を済ふの道は、和漢洋三文学の形式と精神とを研究してこれを調和する方法を講ずるより善きはない」と信じて文学科創設を提議した。この坪内の主張を、親交のあった高田早苗が、有能な文学者を抱えながら、彼らに専門外の学科の講義ばかり持たせておくことは、学校として全く無駄・無益のことで、宝の持ち腐れをさせてはならぬと、坪内の手腕を信頼し、積極的に文学科の誕生に援助を与えたので、学校としては、その経営上きわめて苦しい状況の中にありながら、文学科の設立に踏み切ることができたのであった。東京専門学校文学科の設立の日こそ、我が文学部の創立の日なのである。

 主として坪内雄蔵の主張を容れて設立された文学科、この彼の主張こそ、後永く我が文学部の伝統的特徴を築く礎石となったところである。坪内の『小説神髄』は、さまざまな批評があるとしても、我が国近代文学史上において、在来の文学観を百八十度転換させた原動力になったことは、誰も否定できない偉大な功績である。『小説神髄』が出る前の我が国の文芸界は、まさに紛乱を極めていた。戯作文学流の戯著、小新聞の連続新聞小説、自由民権運動の影響の強い政治小説、飜訳小説、漢詩文・古文の復興、文体の乱脈、まことに目に余る有様であったので、坪内はそれらを是正して、我が国に正しい文学を興そうとして、その方法論を示したのが『小説神髄』である。そしていま坪内が、東京専門学校に、文学科を設立するに際して、その設立の趣意とするところは、我が国に純文学を興すため、『小説神髄』で彼が示した比較文学研究方法論を採って、「和漢洋三文学の長処を抜きて調和統一し、以て明治(我がエリザベス時代)文学を作さむこと」を文学科設立の基本精神としたのであった。そのことは端的に、建学当時の学課課程の配当を見ると、よく示されている。すなわち、英文学に属する学課は週十五時間ないし十七時間が配当されており、他に漢文学は週三時間、国文学が週四時間という割に配当され、和漢洋三文学の教育を達成しようとしていたのであった。しかし世評はかかる配当の否を唱える向きも多かったが、坪内は断乎として、それらの反対論は愚論なりと一蹴して、「我校の特色なりとして少しく自負する所のものは、支那院本の科と、俗文の科とを加へたること是也。世の偏狭の学者、動もすれば伝奇、若しくは俗文を排斥すれども、彼等は俗文の真の平民文学たるを知らざるなるべく、伝奇本が純文学の精髄たることを知らざるなるべし。要するに本校は百般の精華を一炉の裡に投じて、未曾有の仙丹を煉らんとする也。小説院本を読ましむると伝え聞きて、我校をもて、軽薄文学を教ふるものと思へる如きは、もとより共に論ずるに足らず」と自信に満ちた発言をしていることこそ、爾来今日に至るまで早稲田の文科、文科の早稲田と天下に自他共に許す、大をなさしめた基本精神と目されるところである。

 かくして、明治二十三年九月に開校された文学科は、坪内雄蔵が教頭となって、その運営に当ったが、先ず彼が自らの理想を実現するためには、和漢洋の三文学に精通する良師を結集することが先決問題であったので、足を棒にして坪内は諸大家を歴訪して、招聘に努めた。その努力は実って、文学科は開設当初より、他に類例がない立派な学者を揃えることができた。英文学では坪内雄蔵が中心となったこと勿論であるが、演劇に精通した上、英語に堪能であった高田早苗と、大隈英麿が援助したし、家永豊吉・今井鉄太郎・三島桂・増田藤之助、それに米人スタンレーや、森鷗外・井上十吉なども参加した。国文学では落合直文・関根正直・饗庭篁村・畠山健三上参次等が加わり、漢文学では森槐南・三島中洲・信夫恕軒が名を連らね、実に当代においては壮々たる講師陣であった。加えて文学に直接関係はないが、文学科の基礎学科として必須不可欠の、哲学・論理学・美学・心理学等の分野において、イギリス心理学派の美学を基礎とし、近代歌学にまで幅広い才能をもつ学者、大西祝(操山)を講師に迎え得たことは、文学科が学問的に基礎づけられたことで大きな力となったのであった。

 このような文学科の講師陣を見ただけでも、新しい文学や芸術に憧憬の念をもつ若い学徒にとって魅力的であったので、東京専門学校文学科を目指して受験する者は、開設の当初より多かった。最初の入学者の正確な数字が不明であるけれども、開設の翌年、明治二十四年七月に執行された第一学年から第二学年への進級試験を受けた者が四十六名とあるので、入学当時は五十名を超えた入学者がいたことは確実であった。入学した学生達は逍遙を父と仰ぎ、操山を母として親しみ、和漢洋の三文学の形式と精神との調和を得て、新しい文学の創造の夢を結実させようとの希望を抱いて、文学の勉学に励んでいたのであった。

2 開設当時の東京専門学校文学科の発展

 東京専門学校文学科開設当時、どのような学科目の編成で授業がなされていたか、的確な史料がないので不明であるが、幸いなことに開設の翌年、明治二十四年の記録によって、同年十一月と十二月との、文学科の学科目と、月間授業時数および担当講師が知られる。従って、開設当時から、およそこのような学科編成で授業が行われていたと推定できる。

第三十一表 東京専門学校文学科学科目および授業時数(明治二十四年十一月・十二月)

 また明治二十四年七月に行われた第一学年の進級試験の科目は、八科目であって、それによると、次のようなものであった。

第三十二表 東京専門学校文学科進級試験科目(明治二十四年七月)

 更に明治二十五年一月の記録によると、第一年度生、第二年度生に科された科目・時数・坦当講師は、次のように拡充されていたことを推察することができる。

第三十三表 東京専門学校文学科学科配当表(明治二十五年一月)

 草創当時の文学科は、各講師や主脳者達の献身的な努力によって、着実に発展の道を歩んだが、そのためしばしば改革につぐ改革の積み重ねがみられるが、それらの発想の根源はすべて、文学科設立当初の主旨であった、時代の要求に応え、国民の気品を昻揚させ、国民文化の向上に資するための、文学・芸術の教育の完璧を期する、というところに発していた。

 明治二十四年十月二十日に、坪内雄蔵の主宰する『早稲田文学』が創刊された。これは文学科を母胎とする早稲田文壇の拠点と見るべきものであり、その創刊はまさに早稲田の歴史に銘記されなければならない、重要な歴史的な日であった。坪内はこの雑誌に非常な情熱をもって当り、毎月健筆を奮って主導的な役割を演じていた。初めは文学科における講義録風な内容であったが、後に『文学科講義録』が別に刊行された(明治二十八年一月)頃からは、啓蒙的なものから、評論的なものへと変り、更に文芸創作を中心とする内容の雑誌へと変貌していった。『早稲田文学』はその後廃刊になったり、復刊されたり、迂余曲折はあったが、今日まで続いて刊行され、文壇の名物の一つとなっている。

 明治二十五年七月の評議員会では、明治二十六年に研究科を開設することが議決され、十二月に文学科三年の課程に新たに「独逸学」が加えられた。翌二十六年には八月二十四日に研究科(二ヵ年)の新設が公表されている。

 明治二十七年四月に文学科本年度卒業論文の心得を定めて卒業生へ公布しているが、その要点をみると、紙数は二百字詰原稿用紙で、三十枚以上とし、題目を決定した上で、六月十日期限で提出をするべきことを示し、なお卒業論文は六十点以上を及第点とし、六十点未満は落第とするという規定であった。以来文学科およびそれを継承してきた文学部で、卒業論文が最も重視されてきた伝統は、既にここに濫觴を認めることができる。

 そして、七月二十日には文学科二十一名の得業証書授与式が行われたのであった。明治二十八年一月二十日には、『校外邦語文学講義』の第一号が刊行され、三月二十日には「専門学校文学会」が組織されるに至った。七月二十日には、本年度の得業証書授与式が行われ、文学科十七名、専修英語科三十五名の得業生を社会に送り出した。そして十一月十六日には文学科に研究科が開設された。

 明治二十八年十一月には懸案であった尋常中学校設立の件が、いよいよ結実して早稲田中学校が創立されることになり、翌年四月から開校になった。初代校長大隈英麿を助けて教頭には、文学科の講師であった坪内雄蔵が任命され、倫理主義教育を施し、自ら禁煙するなど、生徒に対し実践躬行の範を示し、校風大いに興り有為の人材が輩出される端緒を築いた。このように早稲田中学校は坪内を介して、文学部との関係が濃密であった。文学科では、七月二十日に十九名の得業生、二十一名の専修英語科の得業生を送り出した後、九月に英語学部の新設を行っている。それとともに従来の各科の名称を改めて、部と称し、主任講師一名を各部において教務を統轄させることとし、文学科は、文学部と称することとなり、文学部の他に、新たに英語学部が設置された。英語学部は三学年制で、実用教育を主としたが、三年級卒業生は無試験で各学部に入学できるとした。すなわち三年を終えた者は文学部および英語政学部に入学が可能であった。

 日清戦争の動乱期にも我が学苑は、逐次改革を重ね、着実に発展を続けていた。明治三十年三月三十日早稲田学会の名を以て『早稲田学報』第一号を発刊したが、これが今日の『早稲田学報』の濫觴である。七月二十日に得業証書授与式が行われたが、文学科二十一名、専修英語科二十名の得業生が出た。今年度の授与式は、例年と異り、東京専門学校創立十五周年記念祝典を兼ねていた。式場に臨む者約千人、創立以来の盛観であった。そして九月になると各学部各学科の改正が行われて、上のような組織となった。

 この新組織で、明治三十一年を迎えると、先ず三月二十一日に、二階建の教室一棟が落成している。八月十三日の評議員会では、次の諸項が定められた。

一 来学年より文学科選科を廃止する。

二 英語政治科、史学科にドイツ語・フランス語を課する。

三 文学科に歴史地理学科を設け、中等教員養成に資する。

 このうち、第二項にある史学科というのは、本年度から学部学科改正によって、文学部に文学科の他に史学科が新設されていたことを指している。従来文学科は、創作家・文芸批評家などを養成することを主目的としてきたが、十年の歳月の進展につれて、純文学者をつくることとともに教育者をつくることの必要を痛感するようになり、教育者に必要とされる資格を得るために、学科目の改変が必須となってきた。その過程で、尋常中学校および師範学校の教員に適する科目を増設するために、史学科が分立されたのであった。

 明治三十二年になると、この暫定的な改正が一層発展して、高等予科設置の目的で、英語学部が二月に廃部となり、三月から、九月より七月までの一ヵ年で修業する高等予科を創設し、文学科・史学科および英語政治科に入学するべき予備教育を施行する機関とした。尋常中学校、およびそれと同等以上の学校を卒業したものは無試験入学とし、九月より翌年三月までを前期、四月より七月までを後期としていた。高等予科の目的は専ら英語力をつけるところにあった。この年はちょうど学年中途であったので、予定された正規の課程表にはよらず、三月から次のような課目配当で授業が行われた。

第三十四表 高等予科学科配当表(明治三十三年三月)

 前年行われた文学部の、文学科・史学科二科分立時において、各学科は次のようなカリキュラムをもって構成されていた。

第三十五表 文学部学科配当表(明治三十一年九月)

文学科

史学科

 この新設の史学科には、浮田和民有賀長雄久米邦武・中村徳五郎・山上万次郎・中野礼四郎・坪井正五郎らが教授に当り、今までやや稀薄であった史学的色彩を、一挙にきわめて濃厚なものとした。このような構成が推移した一つの理由は、政府が明治三十二年四月五日に、文部省令第二十五号を以て、私立学校の教員免許に関する規定を定めたためで、文学部学科編成を改正し、その認可願を五月六日に提出し、七月七日に認可がおりたので、初めて文学部の得業生は、無試験で中等学校・高等女学校・師範学校等の教員資格が与えられるようになったのである。

 これは文学部にとってきわめて重要なことであった。在来教員資格は官立学校の卒業生のみが得られた特権であったのを、東京専門学校が率先して、東洋大学の前身哲学館、国学院大学の前身国学院の当局者と諮り、私学の卒業者にも中等学校教員無試験検定資格を与えるべきだという運動を起して、文部省と交渉し、それが漸く結実して、初めて教員資格の点で、私学が官学と同等の資格を得たことになったのである。

 そしていま一つ明治三十二年七月三十一日に、政学部・文学部にも徴兵猶予の特典を与えられるよう、東京府知事に出願をして、同年十二月二十三日文部省令第三十四号で、各学部とも徴兵猶予の特典が与えられたことも重要である。こうして三月から、史学科では、国史に内田銀蔵、西洋史に浮田和民両講師による、それぞれの史学演習が設けられて、初めて講師が先ず出題し、参考書を示し、それによって各自が研究し、その結果を講師・学生交々批評するという、セミナー・メソッドが採られ、史学研究に一大進歩をもたらした。

 九月からこの新学制で授業が行われることになったが、文学部を三科に分けて、それぞれの科に応じた教員資格が認可されるという仕組みになっていた。それは次のような構成になる(各科の〈 〉内の科目は、中等学校・師範学校・高等女学校教員資格無試験検定の科目名である)。

一、哲学及英文学科〈倫理・修身・教育学・英語〉

二、国語漢文及英文学科〈国語・漢文・英語〉

三、史学及英文学科〈歴史・地誌・地文・英語〉

 この新学制は、要するに哲学・国漢文学・史学の三科のすべてに英文学を按配して、二種以上の教員資格を得させようという親切心に発した編成であったとみられよう。この年はまた文学部にとっては、文学科創立十周年に当り、五月五日にその祝典が挙げられた。

 明治三十二年になると、その八月三日、政府が私立学校令を発布したことから、東京専門学校に大学部を設置する気運を急速に結集させることとなった。明治三十三年二月七日臨時評議員会が大隈邸で開かれ、大学部設置に伴う基本規定を定め、同十四日には法人定款変更を文部省に願い出て、三月二十三日は認可される等、着々と準備が進展し、明治三十四年一月十四日に大学部設置の願書が東京府庁に提出された。そして当局は、学則を改定して大学部の機構を作る努力をし、二月十二日に文部大臣に学則変更願を出して、四月二日文部省告示第八十二号でそれが認可された。そこで明治三十四年四月から高等予科を開設し、明治三十五年九月から大学部を開設することが許可された。明治三十四年一月三十日に校友会席上において配布された「早稲田大学設立趣旨書」を要約すれば、次の如くである。

一、明治三十五年九月より、早稲田大学と改称する。

二、学科組織を次のように改正する。

 この年、得業証書授与式で、文学科二十名、旧史学科二名、選科二名、計二十四名の得業生が社会に巣立った。そして十月には、初めて『史学科講義録』が発行されている。

 明治三十五年、東京専門学校創立二十周年の記念すべき年こそ、改組された早稲田大学開校の年であった。そしてここに今日の早稲田大学の端緒が開かれ、基盤が形成されたのである。

3 大学部文学科の成立とその展開

 明治三十五年は早稲田大学にとって輝かしい年であった。一月十三日に初めて教室に電燈が使用されるようになったし、四月には大学部校舎・図書館の書庫・閲覧室の建築が始められ、六月十六日には新学年から東京専門学校の名称を早稲田大学に改めることと、十月にその開校式が挙げられることとが学生にも告示されるとともに、学生は必ず制服制帽を着用すべきことが告諭された。それまで全く自由であった服装に、強い規制が与えられたことについて、一部学生間には反発もあったが、組織の拡大につれて、ある程度の統制が加わることも、社会の通念としてまたやむを得ないところであった。七月十五日には東京専門学校として最後の得業証書授与式が行われ、いよいよ九月二日、早稲田大学と改称され、十七日には新しく発足した早稲田大学大学部文学科教務主任に浮田和民、専門部歴史地理科教務主任に浮田和民、専門部哲学及英文学科教務主任に藤井健治郎、専門部国語漢文科教務主任に岡田正美の各講師が嘱任された。そしていよいよ十月十九日待望の早稲田大学開校式が挙行された。またこの開校式は同時に東京専門学校創立二十周年記念式でもあった。明治十五年十月二十一日、僅か数人の講師と数十名の学生とで開校した東京専門学校は、僅かこの二十年という短時日の間に奇蹟的な発展を遂げ、開校時からの所期の目的であった大学組織への憧憬が見事に完成され、新しい組織の下で独立自由の学苑は、更に力強い発展が予想されたのであった。

 明治三十六年三月二十八日には元専門学校文学部得業証書授与式が行われ、哲学および英文学科十六名、国語漢文および英文学科十二名、史学及英文学科二十二名、計五十名の得業生を送り出しているが、そのうち無試験検定合格者に、初めて教員免許状が授与された。この時の得業証書授与式を、『早稲田大学規則一覧』では、文学部第一回得業生としている。その当時の大学部文学科の課程表を見ると、次のような編成であった。

第三十六表 大学部文学科学科配当表(明治三十五年九月)

 また専門部の文学科関連の科におけるカリキュラムを見ると、次のようなものであった。

第三十七表 専門部国語漢文科・歴史地理科学科配当表(明治三十五年九月)

(一) 国語漢文科

(二) 歴史地理科

 大学部文学科は、中学校を卒業した後、高等予科を卒業した者、およびそれと同等以上の学力を有する者を入学せしめ、深く専門の学問を極めるとともに、二種以上の外国語を修め、広く古今東西の書物を参照し、研究に当る人材の養成を目的とするものであり、専門部は中学卒業生、もしくはそれと同等以上の学力を有する者で、直ちに専門学を修めようと欲する者のために開かれたもので、ここでは主として邦語で授業をするが、英語あるいは支那語(中国話)を必修せしめる規定であった。しかし教員資格取得を目的とする国語漢文科・歴史地理科・法制経済及英語科は、中学卒業の上、高等予科第一学期修了者を収容して英語を必修させることに規定されていた。また研究科は、大学部・専門部の得業生で、更に一層研究を続けようとする者のために設けられていた。

 しかるにこの新学制施行後程なく、また学則の一部が変更されて、組織がえがあった。すなわち同年九月には学則一部改正があり、専門部を政治経済科・法律科の二科とし、国語国文科・歴史地理科・法制経済科・英語科の四科を分けて、高等師範部を設置することにしている。すなわち、今の教育学部の前身である。

 明治三十七年四月一日から、早稲田大学は、文部省によって施行された専門学校令による大学として認可された。また二月には文学科教務主任が金子馬治となった。

 明治三十八年三月には大学部の得業生に学士号を称することが認可され、文学科の得業生は、早稲田文学士と称することになった。三月十日には元文学部第三回得業生の得業式が行われ、国語漢文及英文学科得業生二十名、史学及英文学科得業生二十名が出た。そして七月十五日には大学組織となって最初の得業式が行われ、大学部文学科七十四名、高等師範部国語漢文科十八名、歴史地理科二十五名、英語科十四名の得業生を送り出した。

 九月からは研究科が開設され、文学部では、坪内雄蔵増田藤之助島村滝太郎(以上英文学)・松本文三郎建部遯吾(以上哲学)の五講師が、研究科の講師として嘱任された。

 明治二十四年十月二十日に第一号を刊行した『早稲田文学』は、明治三十一年十月で廃刊になっていた。それが明治三十九年一月に再刊され、第二次『早稲田文学』として復活を見た。越えて明治四十年三月に、再び学則改正が行われ、本年度より大学部に師範科を設置し、従来の高等師範科は、在学生修了まで存続させ、明治四十年四月より高等予科中に、大学部師範科の予備科を設け、四十一年九月より本科第一学年級を開設する予定と定めた。そして大学部師範科は、国語漢文科・歴史地理科・英語科の三科に分かれる。

 四月に早稲田大学定款の改正があり、校長・学監を廃止して、あらためて総長・学長を置くこととし、総長に大隈重信、学長に高田早苗が任ぜられ、五月二日にこの改正が認可された。そして五月十六日には、文学科の第一回の教授会が開かれ、宗教学研究科の設置その他の事項が討議された。これが文学部教授会の発端である。そして九月の新学年を迎えて、研究科の中に宗教学研究科が新設された。

 明治四十一年七月三日には高等予科修業証書授与式が行われたが、この日師範科予科生の第一回修業者を出した。

 明治四十二年三月二十七日には文科大会が盛況裡に開かれ、九月十日には第三回文学祭が開催された。そして九月に新聞研究科が新設されたので、政治経済科と文学科との第三学年生より、十名ずつを入科させた。

 明治四十三年三月にまた学科改正があり、従来大学部文学科所属の英文学科第二部・和漢文学科・史学科の三科の学科課程を変更して、高等師範部とした。そして藤井健治郎を教務主任とし、高等師範部の学科は、国語漢文及歴史科〈国語・漢文・日本史・東洋史〉と、英語及歴史科〈英語・西洋史〉との二科に分け(〈 〉内は中等教員無試験検定資格を有する科目)、修業年限は予科半年・本科三年とした。四月には早速高等師範部予科の授業が開始された。そして九月には高等師範部本科が設置され、授業が始められた。

 明治四十四年五月三十日、総長・学長等の推選嘱任があり、総長大隈重信、学長高田早苗、文学科長金子馬治、高等師範部長藤井健治郎が留任した。

 越えて大正二年二月になって、学則の一部が改正され、大正三年九月を期して、文学科に史学および社会学科を置くことに決し、三月にはそのための高等予科生が募集された。そのことは六月二十四日の教授会において、高田学長より報告されているが、それは、

一、文学科の制度を改め、史学及社会学科を設置する。

二、高等師範部の英語科、及び国語漢文科には共に従来史学を包含せしめてきたが、自今以後はこれを削除し、純粋に国語漢文科と、英語科とする。

というのであった。そしてこの決定は直ちに九月から発足した。同時に高等師範部の部長として中島半次郎が嘱任された。十月十七日から二十二日にかけて、早稲田大学創立三十周年記念祝典が行われた。また従来あった早稲田大学史学会は、新たにできた史学及社会学科の学生十数名の入会により、旧来の史学の研究のみを目的とする会則を改めて、「史学及び社会学の研究を目的とする」というように会則を改訂せざるを得なくなった。

 大正四年九月二十日、高田早苗に代って天野為之が学長に就任した。翌大正五年には、文学部文学科学生主催の沙翁記念祭が華やかに開催され、四月二十二―三日両日に亘り、記念展覧会・記念講演会・記念学生劇などの催物があり、記念晩餐会が盛大に行われた。六月三十日の維持委員会で、来年度より露語講座を設ける件が議決され、大正五年九月の新学年より、露西亜語科が新設され、第二外国語として、大学部各科の学生に聴講することを許した。

 また大正五年七月には、九月より高等師範部に属する国語漢文科・英語科に研究科を置くことが定められ、研究科は隔年に開設され、銓衡の上入学を許可するとされた。

 翌大正六年二月二日に、臨時学制調査委員会が、高等予科の修学年限を二ヵ年に延長する案を出し、二月十一日の臨時維持員会がそれを認め、高等予科の修業年限を二ヵ年とし、高等師範部予科修業年限を一年に延長する件が議決された。またこの件について文学科の教授会は二月十日に臨時に招集されて議決をしていた。そして五月六日に年限延長が文部省から許可された。

 大正六年という年はいわゆる早稲田騒動の起った年であった。高田の外遊、文相就任で、天野為之学長の任期満了後の学長を巡る紛争であったが、九月一日に天野学長退任の後、九月二十六日平沼淑郎が維持員会で代表理事に選出され、十月二十四日平沼淑郎を本学代表者とすることの認可が文部省より許されて、漸く騒動も下火になった。大正七年になって、十一月八日の維持員会で理事平沼を学長に嘱任することとし、十一月十九日教授会において文学科長を選出し、金子馬治が当選し、高等師範部長に中島半次郎が選出された。十一月二十七日になって、平沼学長の就任が十月九日付で文部省より公認された。

 大正七年の末に、文部省は新大学令を発し、官公立の大学とともに、私立大学の存立が承認されるに至った。そこで本学苑では大正八年六月十日に、大学令実施準備委員会を組織し、新大学令による大学の大綱を決定した。その新構想は、大学とその予備部門である高等学院とから成る。大学の分科としては政治経済学部・法学部・文学部・商学部・理工学部の五学部制を採り、学生定員二千三百名とした。教育の基本方針は、自知自発、学生に、官公立大学のような詰込主義的伝習方式でなく、自学自習・自由討究の精神を吹込むところにあった。

 これに先立って、大正八年四月より、大学部においては、本年度より四月一日を以て新学年度の開始とし、従来の九月新学年度制を廃した。そして四月より文学科の学科改正が行われた。それによると文学科は、哲学専攻科・文学専攻科・史学専攻科の三専攻に大別され、各専攻は更に細分されている。

(註) 史学科は社会学と分れて独立したが、その中に国史・東洋史・西洋史の専攻者を包含し、各々の専攻として区別せず。

そして三分科にはそれぞれ教務主任を任命し文学科長を助けさせた。初代教務主任は、哲学科・関与三郎、文学科・片上伸、史学科・煙山専太郎の三氏であった。十月十九日には教授会において文学科長の選出を行ったが、金子馬治の重任となり、高等師範部の部長も中島半次郎の重任と決まった。

 このようにして、新大学令による大学の設立へと向けての努力は着実に進められて、申請の認可を待つばかりになっていたのである。

4 大学令下の文学部の成立とその展開――旧制の文学部――

 新大学令による新学制は、大正八年九月十二日を以て文部省に申請されたが、翌大正九年一月二十日文部大臣官邸に開催された教育委員会の討議に付され、満場一致で可決された。二月六日文部省より新大学令による大学設立認可が通達され、また四月一日には三月三十一日付での大学部学則その他の認可が、通達された。

 かくして四月から新しい大学としてのスタートが切られた。その当時の文学部の構成を学科課程表を通して窺ってみよう。

第三十八表 文学部学科配当表(大正九年度)

(一) 哲学科

A 東洋哲学専攻

B 西洋哲学専攻

C 社会哲学専攻

(二) 文学科

A 国文学専攻

B 支那文学専攻

C 英文学専攻

D 仏蘭西文学専攻

E 独逸文学専攻

F 露西亜文学専攻

(三) 史学科

 大正十年、大正六年の早稲田騒動の後始末をつけて、種々難局を処理してきた平沼学長は、このように新大学令による学制改革も順調に進展し、重要な改革もほぼ一段落になったので、任期満了を期して学長の交替の希望を述べたが、十月四日の維持委員会で承認され、新学長として教授中最古参であり、理事でもあった塩沢昌貞が選出された。そして新学長のもと、文学部長は、改選の結果、金子馬治の重任となった。

 いま一つこの年の重要なこととして記さねばならないのは、三月二十一日に、聴講生および特課規程が認可され、本年四月より各学部各学科に女子の聴講生が入学許可されたことで、初めて早稲田大学が女子に開放され、文学部にも、高等女学校や女子専門学校の卒業者が聴講生として入学してくるようになったのである。

 学苑は創立四十周年に当る大正十一年一月十日、早稲田大学の創立者であり、初代の総長であった大隈重信が逝去し、学苑は深い悲しみに閉ざされた。しかし学苑は徒らに悲しんでばかりはいられなかった。大隈が死んだら早稲田は衰えるだろう、というのが当時の風評であったから、そうではないことを早稲田の関係者はこぞって事実を以て、その謬見を一掃する必要があったのである。そこで総長大隈の死を機会に、校規を一新して、新たなる気構を以て処する必要があった。先ずこれまで学長と称してきた学苑の代表者を、以後早稲田大学総長と称することに改めるとともに、理事を二名増員する等の強化策を盛り込んだ校規の改正を断行した。塩沢学長は辞意を表して、維持委員会はそれを受理し、理事の互選で新たに高田早苗を大隈の後の総長に推し、大隈の相続者を代々名誉総長とすることとし、大隈信常を名誉総長とした。そして六月二日高田総長の就任式が行われ、新体制が整った。このようにして漸く新しい力を結集して世の謬見を一掃するべく意を新たにして前進した矢先、大正十二年九月一日の関東大地震に見舞われて、大きな被害を受けた。けれども十月十一日を以て各学部・附属各学校の授業が再開された。

 こうしたさなかにあって、大正十二年、文学部では、四月から、従来希望者がなく開講されていなかった支那文学専攻科が初めて開講された。四月四日には、文学部卒業生の高等学校高等科教員無試験検定資格が、文部省告示二五八号により左の専攻に与えられた(括弧内は教員資格獲得のために必修しなければならない科目)。

国文学専攻―国語 (支那哲学または支那文学・教育学・教授法)

支那文学専攻―漢文 (国文学・教育学・教授法)

英文学専攻―英語 (言語学・教育学・教授法)

仏文学専攻―仏語 (言語学・教育学・教授法)

独文学専攻―独語 (言語学・教育学・教授法)

東洋哲学専攻―哲学 (宗教学または印度哲学・教育学・教授法)

西洋哲学専攻―哲学 (宗教学または印度哲学・教育学・教授法)

 また本学部卒業生の中等学校教員無試験検定資格についての改訂認可も四月五日に通達され、左のように教員資格が各専攻に与えられることになった(括弧内は資格獲得のために必要とする必修科目)。

文学部哲学科各専攻卒業生は次の二課目

修身 (教育学・教授法・実際教授)

教育 (教育史・教授法・教育学)

文学部文学科各専攻卒業生は専攻別に、

国文学専攻―国語 (教育学・教授法・実際教授)

英文学専攻―英語 (同右)

仏文学専攻―仏語 (同右)

独文学専攻―独語 (同右)

支那文学専攻―漢文 (同右)

文学部史学科卒業生は次の一課目、

史学科―歴史 (教育学・教授法・実際教授)

 五月九日の教授会で史学科教務主任煙山専太郎に代って西村真次が嘱任され、また文学部の充実を図るため調査委員会が結成されることに決し、直ちに発足した。そして十二月十二日の教授会で、金子馬治に代って、片上伸が文学部長に嘱任された。

 大正十三年一月二十八日、文学科教務主任は、片上伸の学部長転出の後を承けて、吉江喬松が嘱任された。四月の新学年に際して、文学科支那文学専攻には一名も入学者がなく、同専攻は閉鎖のやむなきに至った。

 同年九月には専門部各科の卒業生が大学各学部へ転入学できるような制度が設けられたので、専門部と学部とが連らなるようになった。そして同月総長の改選があり、高田総長の再任となった。九月十二日に文学部長の改選で、片上伸学部長に代って、五十嵐力が学部長に嘱任された。十二月四日、先に初めて入学を許された文学部の女子聴講生が、日本大学の女子聴講生とともに、女子学生連盟を結成した。

 大正十四年五月、前年十月の教授会で決定された文学部に研究会を結成し、学部の研究機関誌を発刊する件が結実して、早稲田大学文学思想研究会編『文学思想研究』第一冊が発行された。この機関誌は毎年二回五月と十月に刊行することになっており、第四冊以後は、文学部会編となっている。また七月一日の教授会で、次年度より文学科に美術史の講座を設置することが議せられ、東洋文学研究生には東洋美術史、西洋文学研究生には西洋美術史を課すことが議決された。

 大正十五年四月十一日には第四十三回の卒業式ならびに修了式が挙行されているが、東洋哲学専攻二名、西洋哲学専攻四名、社会哲学専攻十五名、国文学専攻十名、支那文学専攻二名、英文学専攻四十六名、仏文学専攻七名、独文学専攻七名、露文学専攻六名、史学科九名、計百八名の卒業生を出したが、この中、支那文学専攻卒業生二名は、実に最初の卒業生であると同時に、最後の卒業生でもあった。支那文学専攻は、後に戦後新制第一文学部において、中国文学専攻が成立するまで、長く廃絶されていた。

 昭和二年十二月十五日と十六日とに亘って、坪内雄蔵のシェークスピア講義の最終講義が、この年の十月十五日に竣工したばかりの大隈大講堂において開かれた。学苑の教職員学生は勿論のこと、他大学や学校の学生・有志・新聞・雑誌記者等多数が聴講して盛況を呈した。そして十二月には第二次『早稲田文学』が廃刊となった。

 昭和三年九月二十日に、「坪内博士記念演劇博物館に関する規定」が協議決定され、十月二十七日午後一時に開館式が挙行された。開館記念の最初の催物として「忠臣蔵に関する展覧会」が二十日間に亘り開かれ、一万余人の参観者が集まってきわめて好評を博した。

 九月に学部長の改選があり、五十嵐力が再選され、昭和四年一月演劇博物館後援会が成立した。この頃から学内でも学生思想運動が活発化し、軍事研究団排撃、大山教授留任運動、早稲田専門学校校名改称問題による一部学生の盟休事件と続き、この年五月十一日から十五日にかけて、雄弁会解散反対デモが起った。この運動は単に雄弁会が解散になることの反対のみならず、それに結びつけて広汎な要求を盛り込んだ、学生自治運動のはしりとなった。すなわち、(一)学生の自治委員会の設立、(二)言論・研究・出版・集合・組織・宣伝の完全なる自由の獲得、(三)社会科学研究会・文化思潮研究会・学生新聞・消費組合の公認、(四)学生課・学生係の廃止、(五)学生の授業料三割値下げ、(六)専制的反動理事会の解散、(七)学生大会開催の自由獲得などのスローガンを掲げてデモを行ったので、文学部でも五月二十二日に教授会を開催して、学生の思想問題に関して種々協議が行われた。

 また五月に演劇博物館長に金子馬治が嘱任され、史学科教務主任に煙山専太郎が嘱任された。十月二十日には、高田早苗坪内雄蔵市島春城浮田和民の四教授が古稀を迎えたので、その祝賀会が催された。

 昭和五年一月、史学科教務主任煙山専太郎が辞任し、西村真次が嘱任され、十月に総長改選があり、高田早苗が総長に留任し、文学部長は五十嵐力に代って吉江喬松が新任された。それに伴って十一月三日各科教務主任の改選が行われた結果、哲学科教務主任関与三郎、文学科教務主任日高只一、史学科教務主任西村真次が嘱任された。この秋から、高等教員無試験検定資格の増加が認可され、哲学科卒業者に修身科の取得が可能となり、また中等学校教員無試験検定資格にあっては、国文学専攻卒業者に漢文の取得が可能となった。

 昭和六年、この年はまた文学部にとって銘記しておかねばならぬ年であった。すなわち前年八月以来木造校舎を移転した跡に着工されていた文学部の新校舎が五月末日に落成し、六月一日より使用されたのである。それは、東京専門学校時代に煉瓦造りの大講堂のあった場所で、大講堂が大正十二年の震災時に崩壊した跡に移転していた旧文学部校舎に替るものであった。その木造校舎は創業時の由緒深い建物であったので、解体して東伏見の運動場へ移転改築させて、体育各部の合宿および俱楽部室に使用した。新校舎は、鉄筋コンクリート造りの四階建で、一部分は五階になっていた。間口五九・六五メートル、奥行三五・五〇メートル、高さ二三・五五メートル、総床面積四四六〇・二一平方メートルの堂々たる建物であった。それは今日いう八号館、すなわち文学部が戸山町校舎に移転した後、教育学部が入り、後更に法学部が移って、現在に至っている校舎である。新文学部校舎は、世界の建築の様式を参酌して、それを近代化して設計されたもので、外観では縦の線を強調し、周囲との調和の保持を考え、色彩を重んじ、内部は簡明清楚を旨として建てられた。特に校歌にみる「聳ゆる甍」のイメージを表現するのに意が注がれ、背景をなす水稲荷の丘の青葉に反映するように明るい赤瓦の屋根が印象的な建物であった。五階・四階に研究室が設けられ、二階に事務所、三階に教員室があり、他は教室に充てられていて、主として文学部が用いることとなった。

 こうしたさなかに高田総長は病気のために、辞意を表明したので、六月二十三日の維持員会がそれを承認し、理事会で田中穂積が総長に満場一致で推挙された。七月三日田中総長の就任式があり、高田前総長が辞任に際して提示した覚書に記されていた学制改革に取り組んでいくことになった。

 昭和七年に入ると早々、文学部でも一月二十日と二月三日の二回に亘り教授会が開かれ、文学部が改革に対応すべき学制改革の原案作成に関して討議が重ねられた。新しい学制改革の骨子は、詰め込み主義の教育を排し、授業時数を減少し、必修科目を減少させ選択科目を増強するために、新しい科目を増設するとともに、演習を重視するという点に存し、三月二日の教授会で文学部の新学制の大綱が決定された。この新学制はこの年四月入学の一年生から採用されることになり、二年生以上は旧学制により、幾らか新学制の主旨を摂取せしめることとされた。そしてこの新学制の実施に伴い、四月から文学部の専攻に若干の改正がなされた。哲学科の東洋哲学専攻を廃止し、支那哲学専攻と印度哲学専攻を設け、更に心理学専攻と倫理学専攻とを設置する。また史学科を、国史専攻・東洋史専攻・西洋史専攻に三分割することにしたのであった。

 いま昭和七年度の新学制に準拠した文学部各科各専攻のカリキュラムを示すと、次の如くである。

第三十九表 文学部学科配当表(昭和七年度)

(一) 哲学科

A 支那哲学専攻(※印ノ科目ハ二科目ヲ選修セシム)

B 印度哲学専攻

C 西洋哲学専攻

D 心理学専攻

E 倫理学専攻

F 社会学専攻

文学部哲学科各専攻共通

哲学科選択及随意科目

(二) 文学部文学科

A 国文学専攻

B 英文学専攻

C 仏蘭西文学専攻

D 独逸文学専攻

E 露西亜文学専攻

(三) 文学部史学科

A 国史専攻

B 東洋史専攻

C 西洋史専攻

 こうした新学制下における文学部の学科編成・課目配当・教授陣の構成等からは、旧制文学部の基盤が、略々完成したとみられるまでに充実してきたことが明瞭に汲み取られる。早稲田大学創立以来この年までちょうど五十年を算えるが、半世紀に亘る不断の努力の結実は賞讃に値する。十月十七日より二十三日まで一週間に亘って、創立五十周年記念式典が挙行された。これを機として学苑は面目一新して一層の飛躍をするべく、種々の新設定が企てられ、実行に移された。

 五十周年記念に際し、皇室から「教育御奨励ノ思召ヲ以テ」金壱万円の下賜を受けたので、学苑は、この御下賜金を基金として、それから得る収入を以て、学術奨励のために恩賜記念賞を設定し、毎年その年の学生の論文・著作、その他特殊な研究で、卓絶したものに授賞するという規定を設け、特に大学に恩賜記念賞審査委員会を組織して、一年を費して審査をし、その授賞に厳正を期した。その規定に従って、昭和九年四月に、昭和八年度に選出された候補論文等の審査の結果、第一回は三名の受賞者を出した。この制度は昭和十六年十二月まで続いたが、その後は戦争のため中止されてしまった。中止まで八年間の受賞者十九名の中に文学部関係者も多数見える。昭和九年今井卓爾(国文学専攻)・昭和十一年関場守(西洋哲学専攻)・昭和十二年金岡武(国史専攻)・昭和十三年岡村務(国文学専攻)・昭和十五年角田健(国文学専攻)・昭和十六年四月平賀正(国文学専攻)・昭和十六年十二月水野祐(国史専攻)の七名である。また同時に、学術奨励のためを以て各学部・各付属学校に優等賞制度を設定した。更に理工学部に中央研究所を建設することと、各学部の木造校舎を改築することの二つを目標として、五ヵ年間の継続事業として完成することを期した。

 この年十月四日、文学部では、学部長に吉江喬松が選任され、哲学科関与三郎・文学科日高只一・史学科西村真次の三教務主任が嘱任された。

 昭和九年五月史学科教務主任を吉江喬松が兼任することになり、六月には昭和二年十二月に廃刊となった『早稲田文学』の第三次復刊が決定され、その創刊号が刊行された。十月には学部長の改選があり、吉江学部長が再任され、哲学科・関、文学科・日高、史学科・吉江(兼任)の三教務主任も決定した。

 翌昭和十年は文学部にとって、また悲しむべき年となった。それは、近代日本の文壇の巨星、そして我が学苑、別して我が文学部の耆宿であり、名誉教授として熱海の双柿舎において喜寿を迎えて間もない坪内雄蔵が、二月二十八日易簀したことである。彼の文学部に対する貢献は筆舌に尽し難いが、三月四日に青山斎場で営まれた告別式に、四千を超す会葬者があったのは、啻に我が文学部あるいは我が学苑に対する貢献によるばかりでなく、真に偉大な彼の国民的な文勲による、国民大衆の彼への追慕の情がしからしめたことであった。一介の文人として貫いた彼の意志を尊重して、田中総長は勲一等の叙勲を拝辞したが、折しも開会中であった衆議院は、院議を以て弔辞を呈した。文学者に対する国会からの弔辞贈呈ということは、まさに異例の扱いであった。翌昭和十一年五月二十二日になって、坪内を偲んで逍遙記念祭(逍遙祭)の第一回の行事が、文学部・演劇博物館・国劇向上会主催で開かれたが、以後学苑の年中行事の一つとなった。

 昭和十年四月一日、史学科教務主任に西村真次が再任された。本年度の新入学生の中に、露西亜文学専攻への入学者が皆無であったため、昭和十二年度の卒業生を以て、同専攻科が廃止されることとなった。

 昭和十一年十月に総長田中穂積が再選され、文学部長に吉江喬松、哲学科教務主任に関与三郎、文学科教務主任に日高只一、史学科教務主任に西村真次がそれぞれ重任と決まった。また十一月の教授会において、文学部の学科制度改革案が協議された。

 昭和十二年四月三日の第五十四回卒業証書授与式において、露西亜文学専攻の卒業生が三名あったけれども、同専攻はこれを最後の卒業生として、後続の学生なく、廃止された。それらに関して、四月二十一日の教授会では、新たに文学部の構成についての協議があり、次年度より専攻の改廃を行う方向に論議が進められた。

 それに基づいて、昭和十三年四月の新学年度より、哲学科に、新しく芸術学専攻が設けられ、同専攻には演劇と美術との二部門が含まれ、独立した専攻として発足するに至った。同時に哲学科の印度哲学専攻が廃止された。また時局の推移と社会の要求に則して、五月四日の教授会では心理学専攻に産業心理学を開講し、専攻学生に課することが決定された。十月二十五日大隈老侯生誕百年記念祭があり、二十五・二十六両日老侯関係図書・維新志士遺墨展が開かれ、明治演劇展覧会が開催された。十一月に入ると早稲田大学を含むインターカレッジの学生運動の検挙が始まった。こうしていよいよ戦時色が濃くなった最中に高田早苗が十二月三日に死去した。またこの年の春より本学苑の教職員に対して定年制が定められた。

 昭和十四年二月十五日、文部省より学則改正の認可があったが、これは来る四月より、早稲田大学各学部に、正規の女子学生の入学を許可することに関する改正であった。これによって四月の新学年度より、特に文学部には、多数の女子学生が入学した。従来は女子は聴講生に限って入学を許可していたので、多少の女子学生は在籍していたが、正規の学生としては当年度の入学生を以て嚆矢とする。このことは、女子には高度の教育を必要とせず、家事に専念することこそ、日本女性の美徳という考えで、女子の高等教育を否定する伝統的な思考の中で、戦時中のややもすれば人命を軽んずる傾向の強まった時代に、早稲田大学が率先して、人間の本質に徹して、女子に対する大学教育の門戸を開き、男女共学の範を示したことは、まことに特筆大書すべきことであった。

 六月二十七日になると、支那事変勃発二周年記念勅語捧読式が行われるとともに、興亜青年勤労報国隊の壮行会が大講堂において開催された。これは東亜新秩序建設、長期建設に協力するため、この夏休みを利用して、北支満蒙地域で勤労奉仕をするため、指導教員八名と、学生六十五名を募集して派遣するというもので、文学部からも参加者があった。九月二十七日には、文学部において、その報告会が行われた。十月、総長の改選があり、田中穂積の再任が決まり、それにつれて文学部長・各科教務主任の改選になったが、これも吉江文学部長・関哲学科・日高文学科・西村史学科各教務主任の重任となった。しかし哲学科教務主任だけは十一月より吉江学部長の兼任となった。その月の十五日の教授会では、国民精神総動員運動大学支部設立に関する件が議せられ、更に十二月二十日の教授会で、国民精神総動員早稲田大学実行委員会文学部支部の結成規定に関して協議が重ねられ、いよいよ文学部でも戦時色は日毎に強まってきた。

 昭和十五年に入ると、新春早々、津田左右吉が早稲田大学教授を辞任した。それは周知の如く、津田博士の『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史の研究』『日本上代の社会及び思想』の四冊の著書が、日本古代史を科学的に追及した研究である故を以て、神典をみだりに批判し、その神聖性を冒瀆して、天皇に対する不敬罪に該当するということで、著書は発禁処分をうけ、著者と発行者が起訴されるという事件によって、文学部を去ることを余儀なくされたのであった。このように軍および超国家主義の跋扈は、強権を発動し、学問思想の自由を極端に弾圧しはじめて、その荒波はひしひしと我が文学部にも押し寄せてきた。その三月二十六日に文学部長吉江喬松が現職のまま病によって死去し、四月には後を承けて日高只一が学部長に就任し、これに伴い、哲学科教務主任に松田治一郎、文学科教務主任に西条八十、史学科教務主任に西村真次が新任あるいは重任されて、文学部の新しい体制が整えられた。そうした最中に、文学部は十月二十五日、創立五十周年を迎え、大隈講堂において、その記念祝典が盛大に挙行された。文学部教職員・全学生が参集し、日高文学部長の式辞、田中総長・教授代表五十嵐力・校友代表島中雄作が祝辞を述べ、午後一時から文芸祭が行われ、翌二十六日には記念講演会が開かれ、哲学科代表杉森孝次郎、文学科代表横光利一、史学科代表渡辺幾治郎が、それぞれ専門分野の講演を公開した。二十七日には文学部長以下教授および学生代表八十余名が熱海の海蔵寺にある坪内逍遙の墓に参拝し、五十嵐・西村両博士の坪内逍遙懐談を聴き三日に及ぶ記念行事を終えた。

 三十日には教育勅語渙発五十周年記念式典が行われ、十一月五日には紀元二千六百年奉祝式典と兼ねて、早稲田大学創立六十周年祝典が戸塚運動場で行われた。この日、先に学苑内で募集した新作記念歌の当選作が公表されて、『若き学徒の歌』の合唱を以て式典が閉ざされた。この記念歌は学苑内で公募に応じた歌詞約二百篇の中から、五十嵐・窪田・日高・西条・日夏の五文学部教授が審査員となり、厳選の上、政治経済学部三年伊藤寛之の作歌を最優秀の当選作とし、それを同学部三年池安延が作曲したものであった。

 昭和十六年四月三日には、第五十八回卒業証書授与式が大隈講堂において挙行された。文学部では、哲学科支那哲学専攻三名、西洋哲学専攻四名、心理学専攻二名、芸術学専攻三名、文学科国文学専攻三十名、英文学専攻三十名、仏文学専攻十三名、独文学専攻三名、史学科国史専攻七名、東洋史専攻三名の計九十八名の卒業生を送り出した。これはまさしく戦前において旧制文学部の正規の卒業生を規定通り社会へ送り出した、最後の卒業式であった。何故ならこの年以後の卒業生は正規に三年間の授業を受けず、毎年戦争のために、修学年限が短縮されて、繰り上げ卒業が行われることになったからである。昭和十七年度の卒業生は、昭和十六年十二月で授業を繰り上げて、同二十五日に第五十九回卒業証書授与式が、大隈大講堂で行われ、文学部でも、支那哲学四名、西洋哲学九名、心理学四名、倫理学一名、社会学四名、芸術学四名、国文学三十九名、英文学三十五名、仏文学十四名、独文学七名、国史十名、東洋史五名、西洋史四名、計百四十名の卒業生を送り出した。この処置は十月に発せられた勅令により、在学年限を六ヵ月短縮することになったための第一回の処置であった。昭和十六年は、一年間に二度卒業式が行われるという、まことに前代未聞の異例な事態が起ったのである。この銘記すべき昭和十六年度に授業科目の改正があったが、このカリキュラムは、戦前の旧制文学部の最終段階での完備したカリキュラムであるから、今その全貌を記しておこう。

 昭和十六年の改正学科目配当表を見ると、全科目は、文学部共通科目、各科共通科目、各専攻必修科目、各科選択科目および随意科目に大別される。以下それぞれに配当されていた科目名と担当教員名を表記しよう。

第四十表 文学部学科配当表(昭和十六年度)

共通科目

哲学科共通科目

哲学科科目

哲学科指導演習

哲学科随意科目

文学科共通科目

文学科国文学専攻

文学科英文学専攻

同専攻教員資格志望者必修科目

文学科仏蘭西文学専攻

文学科独逸文学専攻

一、文学科各専攻二於テ必修スヘキ科目ハ文学部共通科目、文学科共通科目、専攻科目、選択科目、教員資格志望者必修科目及卒業論文ヲ合シテ三十二科目乃至四十科目トス、但シ教員資格志望者ニアラサルモノハ当該科目ヲ履修セサルコトヲ得

一、各専攻共第一、二学年ニ於テ所定科目ノ三分ノ二以上ヲ履修セシム

一、他学部他学科ノ科目ハ学部長ノ許可ヲ経テ二科目以内選択履修スルコトヲ得

史学科共通科目

史学科国史専攻

史学科東洋史専攻

史学科西洋史専攻

一、史学科各専攻二於テ必修スベキ科目ハ文学部共通科目、史学科共通科目、専攻科目及選択科目ヲ合シテ三十科目トス、但シ✕※印ノ科目ハ所定科目数外トシ✕印ハ教員資格志望者ニ、※印ハ地理科教員資格志望者ニ履修セシム

一、高等学校高等科教員資格志望者ハ各専攻科目ノ外更ニ左ノ科目ヲ選択履修スルコトヲ要ス(註 括弧内は科目数)

国史専攻者ハ 東洋史(二) 西洋史(二)

東洋史専攻者ハ 国史(二) 西洋史(二)

西洋史専攻者ハ 国史(二) 東洋史(二)

一、中等教員資格志望者ハ各専攻科目ノ外更ニ左ノ科目ヲ選択履修スルコトヲ要ス(註 括弧内は科目数)

国史専攻者ハ 東洋史(一) 西洋史(一)

東洋史専攻者ハ 国史(一) 西洋史(一)

西洋史専攻者ハ 国史(一) 東洋史(一)

一、各専攻共第一、二学年ニ於テ所定科目ノ三分ノ二以上ヲ必修セシム

一、他専攻ノ科目ハ之ヲ選択科目トシテ履修スルコトヲ得

一、他学部、他学科ノ科目ハ学部長ノ許可ヲ経テ二科目以内選択履修スルコトヲ得

文学部第二外国語

文学部各科必修科目

 この学科目配当は、一月十二日と二月十二日に開かれた教授会において、学科改定案が討議され、決定をみたもので、十六年度新学年の四月より、哲学科に教育学専攻が設置され、また史学科には、将来地理学専攻を設置する目的を含め、史学科各専攻学生が地理科の教員資格をも取得できるように、地理学・地誌学関係の必要な科目を設置した。このように整備された文学部の編成、そしてカリキュラムも十分その成果を挙げることはできなかった。それは刻々と激化する戦争のために、研究や教育が、大きく疎外されるに至ったからである。十二月八日の宣戦布告はこうした流れを決定的なものとし、十七年度の卒業式が開戦後間もない十二月二十五日に繰り上げられたのを皮切りに、勅語捧読式とか、報国隊結成式とか、学苑関係戦没者慰霊式とかが矢継早に行われたり、国民体錬科や、特修科が設置され、早稲田大学報国隊が結成されるなど、昭和十六年の一年間は目まぐるしく、一路戦争へのあわただしい流れの中に、文学部も日に日に巻き込まれていった。

 昭和十七年に入ると、二月十八日に戦捷第一次祝賀式ならびに祝賀行進があり、四月二日には例年の如く学部入学式が行われたが、以後、学年短縮のため入学式は秋に変るのである。九月に文学部長の改選があったが、日高学部長の再任となり、哲学科教務主任松田治一郎、文学科教務主任西条八十、史学科教務主任西村真次の三教授も重任となった。そして九月二十七日に繰り上げ卒業で第六十回卒業証書授与式が行われ、文学部では、支那哲学五名、西洋哲学二名、心理学五名、社会学六名、芸術学二名、国文学二十九名、英文学三十八名、仏文学八名、独文学二名、国史十五名、東洋史九名、西洋史七名、合計百二十八名の卒業生を送り出した。そしてその四日後の十月一日には、本年二度目の入学式が挙行された。それは高等学院の修業年限が六ヵ月短縮されたので、入学式を秋に移すことになったためである。

 昭和十八年三月には、勤労鍛錬に挺身するため学生の春季休暇は返上されることになった。五月二十七日史学科教務主任西村真次の死去に伴い、史学科教務主任には清水泰次が嘱任された。九月二十六日には第六十一回卒業式が行われ、文学部は百七十名の卒業生を送り出した。そして徴兵延期の特典を中止された五千八百の在学生を戦場に送るために十月十五日に学徒出陣の壮行会が戸塚道場(安部球場)で開かれた。この年の一月には高等学校の修業年限を二ヵ年に短縮することが、政府決定となり、第一高等学院も二年に短縮されることになり、十月には学生の在学期間中の徴兵検査延期の特典が撤廃された。この決定により以後大学においては満二十一歳以上の男子学生は病弱者以外就学不可能となり、殆ど在学することが不可能な状態に追い込まれ、ごく少数の男子学生と、女子学生とだけが在籍するということになった。その上就学中の学生でも、年間を通じて、軍需工場等への勤労動員が強制され、動員期間もこの一年間に飛躍的に増加した。

 昭和十九年三月には、学徒勤労動員の通年制が実施され、そうした社会情勢の激変は学生の極端な減少を招き、文学部では細かな専攻別の授業は不可能になり、哲学科・文学科・史学科に三分して、各科の下の各専攻別を廃止して授業をするという方法が採られるに至った。八月二日に総長田中穂積が逝去し、代って九月十六日には中野登美雄が総長に就任した。九月二十四日に卒業式が行われ、十月二日に学部入学式があった。

 昭和二十年四月二日に学部入学式があったものの、この月国民学校初等科を除く、全学校の授業の原則的廃止が閣議決定となった。そのため文学部の学生も殆ど姿を消し、授業らしい授業も行えなくなった上、遂に五月二十五日の大空襲により、旧文学部校舎(現法学部校舎)は三階以上の教室と、研究室とが火災を起して内部が全焼してしまった。そして授業は殆ど休止となり、終戦の日を迎えた。終戦になって、内地部隊に配属されていた兵士の復員が行われ、学徒出陣で出征した学徒兵として業半ばにして兵役に服していた学生達が、ぼつぼつ学苑へ復帰してきたので、九月八日より授業の再開となった。それとともに早稲田大学も新しい大学の再編成に向って動き始めた。

 昭和二十一年一月二十五日中野総長が辞任し、戦後の新事態に対応するために、校規を改正する必要が感じられ、二月十二日には林癸未夫総長事務取扱の下で校規改正案起草委員会が組織された。文学部においては、四月より、新しく史学科に人文地理専攻が設置され、また文学科に露西亜文学専攻が復活した。そして戦前には哲学科に属していた芸術学専攻は、専ら美学および美術史を主としていたが、本年度より、哲学科より文学科に移し、演劇専攻コースと、美術専攻コースに二分して、合せて一つの芸術学専攻とすることになった。新設各専攻の専攻主任には、人文地理専攻主任定金右源二、露西亜文学専攻主任岡沢秀虎、芸術学専攻主任河竹繁俊(演劇)・坂崎担(美術)の四教授が選任された。六月十日、初めて新校規による総長公選が行われて、元文学部教授津田左右吉が当選したが、辞退したので、二十四日に再選挙を行い、島田孝一が選出され、九月十七日に島田総長就任式が行われた。それに伴い九月に各学部長の公選が新校規によって行われた結果、文学部長には谷崎精二が当選した。

 昭和二十二年九月二十八日には、旧学年制による卒業生の最後の卒業式が行われたが、いよいよ新学制による教育制度の大改革への動きが活潑化し、十月十日には教育制度改革委員会が設置された。越えて昭和二十三年二月五日には、その委員会の大浜委員長より答申が出た。それによって、四月には各学部設置委員会が設置され、昭和二十四年四月を期して発足する新制学部設立へ向っての準備が、五月一日の入学式をはさんで着々と進行し、各学部より大学学部設置委員が選出された。文学部からは、新制第一文学部設置委員として、委員長谷崎精二、委員岩崎務・福井康順・赤松保羅・松田治一郎・原田実・伊藤康安・日高只一・佐藤輝夫・舟木重信・岡沢秀虎・河竹繁俊・坂崎担・荻野三七彦・定金右源二の十五名の委員が選出され、新制第二文学部(夜間学部として新設)の設置委員として、委員長佐藤輝夫、委員赤松保羅・河竹繁俊・原田実・岩崎務・工藤好美・暉峻康隆・中谷博・荻野三七彦・十河佑貞・安部民雄の十一名の委員が選出され、新制学部設置についての、細目に亘っての検討が重ねられ、更に設置を推進させるために高等学院設置委員会・一般教養科目研究委員会・新制大学学則起草委員会等が設けられ、衆智を集めて鋭意新制学部の具体案の決定に努力が注がれた。その結果、七月三十日に成案を得て、文部省へ申請した。それによると文学部は、第一文学部と、第二文学部(夜間)とに分れ、第一文学部は三科十四専修に分かれ、第二文学部は科別をせず、八専修に分かれるという構成になった。すなわち、

第一文学部

哲学科 東洋哲学専修・西洋哲学専修・心理学専修・社会学専修・教育学専修

文学科 国文学専修・英文学専修・仏文学専修・独文学専修・露文学専修・芸術学専修

史学科 国史専修・東洋史専修・西洋史専修

第二文学部

哲学専修

心理学専修

社会学専修

教育学専修

日本文学専修

外国文学専修

芸術学専修

史学専修

という構成であった。

 九月には戦禍をうけて使用不可能であった三階以上の文学部校舎の修理も完了し、着々と来年度よりの新制文学部へ向っての準備が推進されていた。十月になると演劇博物館では創立二十周年記念祭が行われた。

5 新制文学部の発足と展開

 昭和二十四年四月一日、新学制による早稲田大学が発足し、旧制文学部は第一文学部・第二文学部の二つの新制学部となって生まれ変った。各学部長には、大学学部設置委員会の委員長として準備を進めてきた谷崎精二(一文)、佐藤輝夫(二文)が就任した。四月十六日には新制最初の入学式が行われ、二十四日には安部球場において新制大学開設記念式典が盛大に挙行された。

 これに先立ち、昭和二十四年度の入学試験が実施されていたが、公募による第一学年入学志願者数は一文で千三百二十三名、二文で七百九十三名に上っていた。募集人員は一文が三百五十名、二文が二百五十名となっている。また、教員数も新制移行時のものが不明なので、昭和二十六年度の数値を参考にあげると、文学部では教授五十七名、助教授八名、講師二十名、兼任講師五十三名という陣容であった。

 新制初年度の各学部は一年生から三年生までの三学年で先ず発足した(四年生は旧制度の学生)。一文は哲学科・文学科・史学科の三科十四専修に再編成され、それぞれの専修主任には、福井康順(東洋哲学)、岩崎務(西洋哲学)、戸川行男(心理学)、松田治一郎(社会学)、原田実(教育学)、伊藤康安(国文学)、本間久雄(英文学)、佐藤輝夫(仏文学)、舟木重信(独文学)、岡沢秀虎(露文学)、河竹繁俊(芸術学)、荻野三七彦(国史)、栗原朋信(東洋史)、定金右源二(西洋史)が嘱任された。四年間に修得すべき総単位は一二八単位以上であり、昭和二十四年の各専攻の学科課程表は、次のようになっていた(一般教養科目を除く)。

第四十一表 第一文学部各専攻学科配当表(昭和二十四年度)

 新制大学の発足に際して、各学部に夜間学部としての第二学部を設置したことは、戦後の民主教育の精神を最も具現するものとして画期的なことであった。第二文学部長佐藤輝夫は『早稲田学報』復刊第九号(昭和二十四年五月二十日)に「第二学部創設の意義」という文章を寄せて、「民主教育、教育の民主化といふことを根本理念としてきたこの度の制度改革の賜」と第二学部の創設を位置づけ、「数年間の混沌を通過して、今や若き人々は立上らうとしてゐる。帰趨に迷った無聊の暗き広野の中に立って、方向を認め、道を定め、生活の規律を求めようとしてゐる。それらの人々は文学に哲学にはたまた史学の研究に於てそれを求めようとしてゐる」と第二文学部への熱い期待の手ごたえを披瀝している。第二学部に集う学生のなかには、「ある人々は妻子を郷里に帰し、文字通りに背水の陣を敷き、乾坤を一擲したものもゐ」(佐藤輝夫)た。

 二文の場合は、上記の如く科に分れず、八専修となっておりそれぞれの専修主任には、福井康順(哲学)、戸川行男(心理学)、武田良三(社会学)、原田実(教育学)、暉峻康隆(日本文学)、中谷博(外国文学)、坂崎担(芸術学)、十河佑貞(史学)が嘱任された。昭和二十四年の学科配当表は、次のようになっている(一般教養科目などを除く)。

第四十二表 第二文学部各専修学科配当表(昭和二十四年度)

哲学系共通専門科目

文学系共通専門科目

史学系共通専門科目

一、共通専門科目は哲学、文学、史学の三系列中より、第一学年に於て二科目八単位を、第二学年に於て三科目十二単位を、第三学年に於て五科目二十単位を各選択履修し、三学年を通じて合計十科目四十単位を履修するものとす。

二、文学専攻者は各自専攻の文学に関する「各国文学思潮」を必修するものとす。

三、四科目までは他系列中より選修することが出来る。

専修科目

哲学系指導演習

文学系指導演習

史学系指導演習

一、指導(実験)演習は三学年四学年に於て選択必修し、二ヶ年を通じて一科目四単位と数う。

二、哲学系、文学系、史学系に於て各専攻に従い各指導(実験)演習の一科目を選択必修しなければならぬ。

 昭和二十四年十月一日には、学部長公選の結果、一文学部長に谷崎精二が、二文学部長に佐藤輝夫が選任され、次いで教務主任に武田良三(一文)、萩野三七彦(二文)が新たに嘱任された。十一月に入ると、第一回の早稲田大学祭が開かれ、十日には文学部大会も行われた。旧制から新制への移行に歩を合わせるように、文学部を中心とした学術活動が盛んになった。『国文学研究』『史観』の復刊、『総合世界文芸』(独文・仏文・露文・演劇・美術各専修共同編集)の創刊、『古代』(早大考古学会)の創刊、『英文学研究と鑑賞』(早大英文学会)の創刊が相次ぎ、二十四年五月には第四次の『早稲田文学』も発刊された(ただし九月で廃刊)。二十五年十二月十一日には文学部創設六十年記念祭が挙行された。

 昭和二十六年三月二十五日、新制の早稲田大学は最初の卒業生を送り出した。一文の卒業生は二百六十九名、二文は九十一名、旧制度の学生は三百二十二名であった。

 学部の新制移行に伴い、新制大学院設置の準備も進められた。昭和二十四年十月設置の大学院制度研究委員会を経て二十五年六月には大学院設置委員会が設置され、具体的検討を加えた末、同年十一月、設置認可申請書を文部省に提出した。そして、翌二十六年四月一日、学部における一般ならびに専門的教養の上に、広い視野に立って専攻分野を研究し、該博な学識と研究能力を養うことを目的とした新制の大学院が開設され、先ず修士課程が置かれた。

 文学研究科は文学部と教育学部に対応するもので、入学定員は二百十名、東洋哲学、西洋哲学、心理学、社会学、教育学、日本文学、英文学、仏蘭西文学、独逸文学、露西亜文学、芸術学の十一専攻に分れていた(史学専攻の設置は昭和二十七年四月)。四月二十一日、文研の第一次試験が行われたが、認可時期の遅れなどの理由により、志願者は定員の半分以下の百一名に留まった(合格者は八十名)。授業は五月上旬より開始された。文研委員長には河竹繁俊が就任し、十月二十一日の学苑の創立記念日を期して、大学院開設式が行われた。なお、この設置時の文研の教員数は、教授三十三名、講師一名、兼任講師十六名を数えた。昭和二十八年六月には、博士課程も設置され、名実ともに新制大学院の陣容が確立した(史学専攻の博士課程設置は昭和二十九年四月)。

 修士課程は三十二単位(講義十二単位、文献研究十二単位、演習八単位)以上、博士課程は五十二単位(講義二十単位、文献研究十二単位、演習二十単位)以上の単位履修が義務づけられ、科外授業として語学の選択履修も必要となっていた。現在知りうるかぎり最も古いと推測される昭和二十九年度の学科配当表(博士課程二年まで)は次のようになっている。

第四十三表 大学院文学研究科学科配当表(昭和二十九年度)(講は講義、文は文献研究、演は演習の略)

東洋哲学専攻

西洋哲学専攻

心理学専攻

社会学専攻

教育学専攻

日本文学専攻

英文学専攻

仏文学専攻

独文学専攻

露文学専攻

芸術学専攻

史学専攻

共通科目

 昭和三十年四月一日には、高校教諭一級普通免許授与の所要資格を得る課程として各研究科の課程が認定された。文研の場合、免許教科の種類は国語・社会・英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語の六科目となった。

 新制学部の基礎が固まると、次第に学生数・教員数も増えてきた。一文の場合、昭和三十年の学生数は早くも三千名を超え、二文も二千三百余名を数えた。その後、一文の学生数が四千名を超えるのは昭和三十九年度、二文は昭和三十一年をピークに漸減傾向に転じた。また、文学部の場合、女子学生の割合が高かったことも特徴的である。一文における女子学生の割合は学苑全学平均の四倍以上の割合で、昭和二十五年の九%が、昭和三十年には二〇%、そして昭和四十年には四〇%を突破するほどであった。

 このような文学部学生の増加の直接の背景は、入学志願者数の増加にあったが、学生の増加は多様な講座の要請となって表れてくる。既に早く昭和二十七年度より一文の芸術学専修は演劇と美術専修に二分されていたし、昭和三十二年度には二文の哲学専修が東洋哲学と西洋哲学に分れた。一文の学科課程は、昭和三十二年度を例にとると、一般教育科目・共通専門科目・専修科目・外国語・卒業論文・体育・随意科目から成り、一三二単位以上の修得が必要であった。二文の場合も同様の科目構成を採るが、履修方法が異なるために卒業に必要な総単位は一三六単位となっていた。

 昭和三十四年五月二十二日から二十六日にかけて、文学部と演劇博物館を中心に、坪内逍遙の生誕百年を記念して、記念式典・学術講演会・公演・逍遙展など多彩な行事が繰り拡げられた。

 昭和三十四年暮からは創立八十周年記念事業の準備が進みだし、翌三十五年五月の「八十周年記念事業要目」で文学部の戸山町への移転、新校舎の建設が確定した。十二月八日には新校舎の起工式が戸山町の一六号館跡で行われた。多数の教室のほかに百以上の研究室を配置するために学苑出身の建築家村野藤吾は、高層立体化の構造を採用し、「あまりにも特異な格好、傾向をさけ」「暗い感じ、尖鋭な感じを与えないよう」設計に苦心したという(『早稲田学報』昭和三十七年三月発行第七一九号 二〇頁)。この建物群は同年の建築学会賞を受賞し、その後研究棟は「国連ビル」と愛称されることになった。工事は順調に進み、昭和三十七年一月には一文・二文・文研が竣工なったばかりの新校舎に移転を完了し、四月五日には落成式が同校舎大講堂で行われた。なお、このとき一文学部長は岩崎務、二文学部長は樫山欽四郎、文研委員長は佐藤輝夫であった。

 昭和三十七年十月には、坪内逍遙以来の比較文学の伝統を継承して「比較文学研究室」が発足した。初代室長佐藤輝夫を中心に、各専修の枠を越えた研究態勢が組まれ、四十年三月には機関誌『比較文学年誌』を創刊した。

 昭和四十年一月、大学院学則の改正により、各研究科に当該研究科の基礎となっている学部所属の教授で、その研究科の科目を担任する者を似て組織する委員会が設置され、各研究科の議決機関となった。同年七月には「教務主任・同副主任職務規程」が制定され、昼間学部においては教務担当・学生担当の二名の教務主任を置くことができることになった。この規程の九月一日からの施行に伴い、同日から一文では新たに学生担当の教務主任が嘱任された。

 昭和四十年秋からの百五十日間に及ぶいわゆる早大闘争において、文学部ではスト突入・試験ボイコットなどの事態を生じていたが、これに対し、文学部当局は早急な収束を図るとともに、教職員学生協議会によって恒常的な話し会いの場を設けようとしたり、後述するような学科組織やカリキュラムの改革を行ったりして、学生達が投げかけた学問や教育・研究のあり方への根源的な問いに答えようとした。

 昭和四十一年四月、文学部は大きな改革を行った。既に二月の入試より、一文・二文とも専修別入試を廃止し、後述するようなⅠ類・Ⅱ類という類別入試を実施していたが、それらの入学生から「新構想」による課程に移ったのである。長期間の研究討議を経てまとめられた「新構想」は、「学問研究の総合性と、大学教育の高度の教育・教養の必要性」(『学部要項』)に応じようとしたもので、その中身は学部組織および学科課程の変更の二本柱から成る。先ず、前者では一文をそれまでの三科十五専修から二類十八専攻へ、二文を十三専修から二類七専攻へと改組した。

第一文学部

Ⅰ類 哲学・東洋哲学・心理学・社会学・教育学・日本史学・東洋史学・西洋史学・美術史学・人文

Ⅱ類 日本文学・中国文学・英文学・フランス文学・ドイツ文学・ロシア文学・演劇・文芸

第二文学部

Ⅰ類 東洋文化・西洋文化・社会

Ⅱ類 日本文学・英文学・美術・演劇

 一文の場合、西洋哲学専修が哲学専攻に、国史専修が日本史学専攻に、美術専修が美術史専攻にそれぞれ名称変更となるほか、人文・中国文学・文芸の各専攻が新設された(実際の専攻のスタートは昭和四十三年四月より)。人文専攻では「専門の学科にとらわれず、ひろく人間性を基調とする東西古今の文化と思想を、現代の観点から把握することを目的」(『学部要項』)とし、文芸専攻は作家・評論家・文学的ジャーナリストを志望する学生に基礎的訓練を施すもので、卒論に小説や戯曲、詩なども認めるユニークさで、その後、各種の新人賞作家が輩出することになった。

 二文の場合は、一文以上の大改革であった。一文とは全く異る内容の学部として、「夜間学部であるための諸種の事情を勘案し、もっとも効果的に早稲田大学文学部の特色を発揮し得る」(『学部要項』)ことが目指されたのである。その意図は、特に東洋文化・西洋文化・社会の三専攻の設置に表れている。例えば東洋文化専攻は「東洋文明の諸相と特徴を正確に認識した人材」の養成を、社会専攻は「新らしい総合的な人間科学の研究と教育」を行うこととした。

 学科課程の変更は、一文・二文ともに第一・第二年度を教養課程とし、第三・第四年度を専門課程としたことである。教養課程には、一般教育科目・外国語科目・保健体育科目・専門科目B(二年配当)・随意科目の五種類の科目が、専門課程には、外国語科目・演習・専門科目A・専門科目B・随意科目・卒業論文の六種類の科目が配当されていた。一文では一五二単位が、二文では一三六単位が卒業に必要な総単位数であった。演習のクラスは約三十名単位で、専門科目A(研究)のクラスは約五十名単位で編成されることになっていた。この改革時の役職者は、一文が学部長樫山欽四郎、教務主任清原健司・守屋富生、二文が学部長新庄嘉章、教務主任押村襄であった。

 この「新構想」は新年度生から順次適用され、昭和四十三年四月より専門課程が実質的に発足した。この年度の専門科目は次のようになっている(一文では三年十八専攻、四年十五専修、二文は三年七専攻、四年十三専修)。

第四十四表 第一文学部専門教育科目学科配当表(昭和四十三年度)

専門B(9科目以上選択必修。○印は非常勤講師)

専門A(必修)

専修科目(全科目必修)

第四十五表 第二文学部専門教育科目学科配当表(昭和四十三年度)

専門科目B(選択科目)

東洋文化専攻課程系列

西洋文化専攻課程系列

社会専攻課程系列

日本文学専攻課程系列

英文学専攻課程系列

美術専攻課程系列

演劇専攻課程系列

各専攻課程共通

専門科目A(専攻課程必修科目)

東洋文化専攻課程

西洋文化専攻課程

社会専攻課程

日本文学専攻課程

英文学専攻課程

美術専攻課程

演劇専攻課程

演習科目(専攻課程必修科目)

東洋文化専攻課程

西洋文化専攻課程

社会専攻課程

日本文学専攻課程

英文学専攻課程

美術専攻課程

演劇専攻課程

専門科目(専修必修科目)

東洋哲学専修

西洋哲学専修

心理学専修

社会学専修

教育学専修

日本文学専修

英文学専修

仏文学専修

独文学専修

露文学専修

演劇専修

美術専修

日本史学専修

東洋史専修

西洋史専修

 昭和四十四年一月、文学部教員と学生の意思疎通を目的として『文学部報』が創刊された。

 昭和四十四年から四十八年にかけては、いわゆる「大学紛争」の嵐が文学部にも吹き荒れた。四十四年の「大学立法」反対闘争、四十五年の学生会館・早稲田祭などを巡る紛争、四十六年の授業料値上反対の紛争、四十七年の革マル派による川口大三郎君殺害を巡る紛争と続き、文学部ではストライキ・試験ボイコットなどの事態が相次いだ。

 昭和四十一年以降、昭和五十三年度に学科課程に大きな変更がなされるまで、一文・二文ともに幾つかの変化があった。先ず一文の場合からみると、昭和四十五年度より一般教育科目のなかに「教養演習(プロ・ゼミ)」が新たに置かれたことが注目される。この「教養演習」は教養課程における多人数講義の反省に立って設置されたもので、「一クラス平均二十人の小人数による演習形式の授業科目」(『学部要項』)であった。初年度の講義では三十二クラスが設置され、「マルクス主義の基本問題」「映画社会学」「日本古代の技術」など、多彩な内容となった。このような教養課程の見直しは、一般教育科目や外国語科目(外国語A)の削減、専門科目Bの一年度生への配当などによって順次進められた。この結果、総単位数も昭和四十五年度より百四十単位に減少した。

 また、昭和四十六年度の入学者から類別制度を廃止した。学問体系上支障がないこと、転類希望者が増加していることなどからの理由による(二文の類別入試廃止は昭和五十四年度より)。更に昭和四十八年度から推薦入学制度を採用することとなり、初年度は百六十五人の推薦入学者をみた。

 二文では、昭和四十五年四月より文芸専攻が置かれ、「世界各国の主な文芸思汐、文芸作品等の比較研究、あるいは、総合研究によって、広く文芸一般の知識を修得させる」(『学部要項』)こととした。また同年度から、一文同様「教養演習」が新設された(十五クラス)。教養課程の見直しも一般教育科目の履修数の削減、専門科目Bの一年度生への配当などによって進められた。総単位数も昭和四十六年度より一三二単位に減少した。

 文学研究科の学則改正や組織の変更をみると、先ず昭和四十五年三月五日の大学院学則の一部改正により、博士課程の入学資格を明確化した。次いで同年四月の新年度から西洋哲学専攻は哲学専攻と名称が変更となり、四十八年度からは新たに中国文学専攻が設置された。また四十九年四月からは慶応義塾大学大学院文学研究科ならびに学習院大学大学院人文科学研究科の修士課程との間に相互科目の履修に関する協定が結ばれ、二科目を限度に履修することができるようになった。

 そして、昭和五十一年四月一日、大学院学則の全面的な改正がなされた。設置の目的として「高度にして専門的な学術の理論および応用を研究、教授し、その深奥を究めて、文化の創造、発展と人類の福祉に寄与すること」を掲げた。改正の中心は、それまでの修士・博士課程の二本立てを止め、標準修業年限五年の博士課程に一本化し、「博士号」の概念を変更したことである。すなわち、博士課程は「専攻分野について研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力およびその基礎となる豊かな学識を養うものとする」とその趣旨が規程された。この学則改正と同時に史学(考古学)専攻が新設され、それを含めて文研十三専攻全体の入学定員は前期課程三百名、後期課程百五十名となり、総定員は千五十名を数えることになった。なお、このときの文研委員長は樫山欽四郎、教務委員小嶋謙四郎であった。

 昭和五十二年五月には、創立百周年記念事業計画委員会の発足に伴い、文学部の主体的立場において教育・研究・施設に関する長期計画を検討し、その実現を図るために、文学部長期計画委員会が設置された。

 ところで、先に述べたような一文・二文の教養課程見直しの作業は、昭和五十三年四月から、第二年度生より各専攻に進級して専門の勉学を行うことで一段落した。一文を例にとると、第二年度生は、一般教育科目・外国語科目・保健体育科目のほか、専門教育科目のなかから演習一科目、専門科目A一科目、専門科目B二科目の履習が必要となったのである。この学科課程の変更により、卒業に必要な総単位数は一文・二文とも四単位増加して、それぞれ一四四単位、一三六単位となった。このときの役職者は、一文では学部長安藤信敏、教務主任伴博・三谷貞一郎、二文では学部長藤平春男、教務主任棗田光行・松村憲一であった。なお、翌五十四年四月より、専攻二年生が誕生し、教養課程一年、専門課程三年の体制が整った。この段階の学科配当表は次のようになっている(専門教育科目のみ)。

第四十六表 第一文学部専門教育科目学科配当表(昭和五十四年度)

第四十七表 第二文学部専門教育科目学科配当表(昭和五十四年度)

 昭和五十五年四月、新入生を迎えて、一文の総学生数は五千名を突破した。こうした学生数の増加に伴い、文学部校舎の増改築もしばしばなされた。主なものでは、昭和五十二年十二月竣工の学生ラウンジおよび文研学生研究施設(第二体育館屋上)、昭和五十六年七月竣工の第三四号館がある。第三四号館には、一般教室のほか、一文・二文の学部長室、教務主任室と事務所が置かれている。

 ところで、新制文学部の歩みのなかで忘れてならないことは、エジプト調査である。昭和四十四年の予備調査を経て四十五年四月、早稲田大学古代エジプト調査委員会が設立された。四十六年十二月のマルカタ遺蹟の第一次発掘調査を皮切りに、文学部の川村喜一・桜井清彦らを中心とした教員・学生の調査隊は「魚の丘」彩色階段の発見など、幾多の輝かしい成果を挙げた。昭和五十二年四月には文学部構内に古代エジプト調査室も開設された。またこれに先立ち、昭和四十五年八月には、松田寿男を隊長にイラン南道を踏査する西南アジア学術調査団も派遣された。

二 哲学専攻

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 明治二十三年坪内雄蔵の構想によって文学科が創設され、翌二十四年大西祝が招かれて、哲学、哲学史、論理学、倫理学、美学、心理学などの講義が行われ、ここに東京専門学校における哲学諸学科が開講された。

 大西は抜群な批判力をもち、哲学者として優れていたばかりでなく、評論家として論壇に活躍し、文学、美術などの素養も深く、歌道を論じて自ら和歌を詠み、宗教的心情に厚く、かつ教育にきわめて熱心であったので、彼の七年間の在任中に学生に与えた感化と影響はすこぶる多大であった。その学生たちの中には朝河貫一(エール大学)などの異色の人も何人かいたが、学苑の哲学関係の人達に限って言うと、金子馬治、中桐確太郎、紀淑雄島村滝太郎中島半次郎、綱島榮一郎らがいた。

 しかし学閥や官私の別に拘らずに人材を求める創立当初からの本学の基本方針に沿って、本学出身者のほか東京大学、京都大学、同志社、慶応義塾、その他、諸方面から多くの人材が学苑の教壇に立ち、明治から大正にかけて哲学関連科目の授業に携わった人々の名をあげるだけでも、当時の日本で行われた哲学思想のほぼ全領域を覆うに足るものであったことが推察される。

 大正期に入って日本の西洋哲学研究が漸くアカデミックになるにつれ、哲学科の体制も序々にそれに準ずるように整えられて行った。因に大正十一年の文学部哲学科西洋哲学専攻の教員ならびに担当科目を見ると、金子馬治が心理学、西洋哲学史、美学、西洋哲学研究(カント)、遠藤隆吉が東洋哲学史(支那)、本田親二が科学概論、熊崎武良温が哲学研究(アリストートル及プラトー)、帆足理一郎が文学研究(スチュアート・ミル)、増田藤之助が文学研究(ハーバート・スペンサー以降)、杉森孝次郎が倫理学、社会学、桑木厳翼が西洋哲学史、哲学通論、久保良英が実験心理、伊達保美が西洋哲学研究(カント、ベルグソン)、田中喜一が認識論、深澤由次郎が文学研究(カーライル)を担当している。

 このころはベルグソン、ジェイムス、シラーの哲学に代って次第にカントおよび新カント派哲学が流行してきた時代であった。ドイツの哲学界の影響を受けて、特にヴィンデルバントおよびリッケルトの哲学が最もよく研究され、哲学は価値判断の学であり認識批判の学であると言われていた。大正十三年のカント生誕二百年記念を中心にカント研究、新カント派哲学の研究が高揚した。桑木の『カントと現代の哲学』(大正六年)その他の著書は当時の哲学学徒の必読書であった。桑木は官学にありながら、大西亡きあと講師として早稲田の講壇に立ち、明治、大正、昭和と第二次大戦中まで、時流に投ぜず流行に染まらず独自の講義を続けていた。金子は五年(一九〇〇―一九〇四)に及ぶドイツ留学から帰朝して、哲学、倫理学、心理学、宗教、教育、文芸等に関する当時の思想界の尖端に立って自己の所見や欧米の新思想を発表していた。大正中期から末期にかけての金子は理論哲学、特に認識論、論理学、存在論、更にその後は現象学に向っていったが、当時の基礎理論は新カント派哲学であった。北昤吉、伊達保美らもこれに続いた。伊達はヒューム、ジェイムス、ベルグソンから次第にドイツ哲学、特にバーデン学派に傾いたが、宗教哲学の著書、訳書(ブライデラー)で貢献した。帆足はデューイの影響を受けて米国から帰国し、デューイの哲学をよく受け継いでいたが、創造的進化を信ずる宗教的色彩が強く、宗教哲学や民主主義思想の著書が多い。彼は官憲や時流の圧迫に屈せず戦後まで自己の信念に忠実であった。杉森は英国留学中The Principles of the Moral Empireを出し、彼の地で非常な好評を博した。それは英国風の立場にドイツ的なものを包擁した思想で、彼の師田中王堂藤井健治郎の影響が見られると言う。王堂田中喜一は八年間の米国留学の最後をシカゴ大学で三年間デューイに師事したが、ジェイムスやサンタヤーナの影響も大きかった。田中は帰国後、プラグマティストとして明治大正の論壇にきわめて独創的な評論を次々と発表した。

 その後も教授や科目に多少の異動や変更はあったが、常に時代の移り変りを反映しつつ着実に進展して、教授陣にも、河面仙四郎(宗教哲学研究)、赤松保羅(心理学)、渡利弥生(プラトン研究)、関与三郎(社会学)、松田治一郎(社会心理学)その他が加わった。河面は明治四十三年哲学科を卒えて間もなくドイツに赴き、キリスト教研究、宗教哲学研究に従い、第一次大戦後まで長く彼地で研究を続けていた。彼の宗教哲学もキリスト教の解釈も、既成の権威によらず独自の特色をもっていた。関は金子馬治波多野精一田中喜一の指導を受け、特に田中の影響が大きいが、明治四十年から昭和十九年まで母校で教鞭を執り、哲学、文明史、進化論、民族心理学、社会学、社会問題、人類思想史等を教え、広い学識と鋭い才能に恵まれていたが、著書もなく、二、三の短論文しか残さなかった。

 昭和に入り、二十四年の新制大学令施行による大学制度の改正までには、次のような人々が新たに加わった。すなわち、大江精一、出隆(ギリシヤ哲学)、岩崎務、今田竹千代、大西昇(美学)、仁戸田六三郎(キリスト教研究)、佐藤慶二、小山甫文、樫山欽四郎、植田清次、大滝武(自然科学論)などである。彼らはすべて西洋哲学を専攻したので、特殊な科目以外はここには挙げなかった。また心理学、社会学、教育学などの担当者氏名も省いた。それは、早稲田大学ばかりでなく日本の哲学全体が、昭和になってから明治・大正時代に比して、著しく細分化し専門化してきて、それらの科目が独立した結果、哲学専門課目に入らなくなったからである。哲学史は古代、中世、近世初・後期、現代というふうに個別的に研究されるようになり、更に古代もアテネとかローマなどと専門化された。また論理学、認識論、存在論、倫理学などというような部門別の研究も細分化して、個々の研究者の間にも独自の領域が形成されるようになった。

 先に挙げた人びとのうち、大江はリッケルト研究からハルトマン、シェーラー、ハイデッガーと進んだ。岩崎も大江、今田、佐藤らと同じく桑木のもとでへーゲルを学び、へーゲル、ハルトマン、ハイデッガー、ヤスパースを論じたが、特にアリストテレスに関する研究や訳書で知られている。今田はカント、ラッセルなどの研究の外に科学哲学の普及に尽力し、学生の育成に努め、現在は徳山大学学長として教育界に貢献している。佐藤は昭和初期から金子の指導のもとに現象学を研究してこの方面で先鞭をつけたが、フッセル、シェーラー、更にハイデッガーの研究に向った。小山は哲学、哲学史、論理学など講じていたが、倫理学界で活躍し、また明治以降の日本の哲学の歴史に多くの照明を与えた。仁戸田はプロティヌスの研究、キリスト教、宗教哲学、宗教学を研究し講じていた。樫山はヘーゲル研究から入ってドイツ哲学を遍歴しつつ実存哲学に向ったが、その講義は個性的な深みを感じさせるものがあった。植田は昭和初期から英米哲学の研究に没頭し、長く学界や世間の不遇をかこっていたのが、戦後はアメリカの招聘や出版などで埋もれた力を発揮することができたものの、過労のため中途で倒れた。

 昭和二十六年大学院が開設された。二十八年度の西洋哲学関係の指導教授を挙げると、岩崎務、大江精一、小山甫文、佐藤慶二、仁戸田六三郎、樫山欽四郎などであるが、それから五十五年現在までにそのすべてが去り、現在は、松浪信三郎、石関敬三、川原栄峰、磯野友彦、小山宙丸、伴博(以上六名文学部所属)、塩屋竹男(法学部所属)、植田重雄(商学部所属)、神沢惣一郎(同上)、峰島旭雄(同上)、掛下栄一郎(社会科学部所属)の教授達がいる。松浪はパスカル、ベルグソン、サルトルその他多くの訳書で名声が確立しているが、実存哲学や幅広いフランス哲学の研究を行っている。石関は『実質的価値倫理学の研究』(昭和三十年)によって従来研究者の稀薄な領域に踏み込んだが、技術社会の究明やフランクフルト学派の現代文化批判の研究を行っている。川原はニーチェ、ハイデッガーを中心としてドイツ近代・現代哲学を研究し、従来よりもより根本的な理解を追求している。磯野はデューイやサンタヤーナの研究からアングロサクソン哲学の系譜を追求している。小山は中世哲学・宗教哲学を専攻しているが、特にアンセルムス、トマス、クザーヌスからギリシア哲学に及んでいる。伴は近代・現代のドイツ哲学、とりわけカント、ヘーゲル、ハイデッガー、ヤスパースに焦点を当てている。塩屋は長く実存主義とマルクス主義との間を究明し続けている。神沢は論理学、倫理学の基礎的な問題と取り組んでいるが、特に「情念論」を中心に研究している。植田は宗教哲学、宗教学を担当しているが、芸術的感受性に富んだ彼は旧約、中世神秘主義、仏教等の宗教現象を通して人間の宗教性を追求している。峰島はカント哲学から出発して実存主義に入ったが、シェリングと仏教との比較の如き比較哲学にも及んでいる。彼のレパートリーは広く、学会活動も活発である。掛下はフランス系の哲学、特に美学の方面を追求している。

 これらの教授の大部分は文学部の授業にも関係しているが、このほかに文学部では、谷口竜男、岩波哲男、北村実、遠藤弘、富永厚の諸教授がいる。谷口は「想像力」の問題を実存の相互主体性の場において捉えようとして、現在は親鸞と取り組んでいる。岩波はヘーゲルの宗教哲学から出発してキリスト教思想の現代的意義を追求し、ニヒリズムの克服や実存主義思想に志向している。北村はマルクス主義、サルトル、ポッパー、フランクフルト学派などを講ずる傍ら、ドイツ観念論の歴史的展開を研究している。遠藤は米、独に滞在して、数理論理学、科学方法論における直観主義の思想に関心をもち、エアランゲン学派や現象学派の研究をしたが、更にホワイトヘッドに、更に形而上学に重心が移ってきている。富永はサルトルから近代に遡って検討し、現在はルソーを研究している。

 以上概観してみると、坪内逍遙が構想し、大西祝によって置かれた哲学科の礎石の上に、金子馬治が八面六臂の働きをして体制を整え、岩崎務、樫山欽四郎がそのあとを受けて現在の形に整備した。その後はこのように一人のひとが頂点に立ち、あるいは中心になって全体を運営することは、研究内容からも人事や科目配当からも、非常に困難なものとなった。また、「西洋哲学専修」が昭和四十三年に「哲学専攻」と改められたことにも、哲学という語に内在する思いがけない困難がある。西洋という語はこの場合、たんなる地域や限定を指すのではなく、哲学の本質に係わってくるからである。

 しかし以上のような諸事情は、哲学専攻が社会の要求に応じ、多元化しつつある学生の目的に対応するために生じた必然的な発展であると考えられる。現在の教授達はこの必要に応えるために、相互の交流、学会活動、海外の大学や学会での研究や発表などを、かつて見られなかったほど盛んに行っている。

三 東洋哲学専攻

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1 旧制大学時代

 大正九年、新大学令の実施に伴い文学部哲学科東洋哲学専攻が発足した。しかし、東洋哲学関係科目が置かれたのは早く、明治二十九年に松本文三郎が支那哲学史を、南条文雄が印度哲学史を講じ、後には村上専精・根本通明・有馬祐政・牧野謙次郎松平康国・桂五十郎・遠藤隆吉・武田豊四郎の諸氏がそれを担当した。

 東洋哲学専攻創設当時の学科配当は、必修科目として心理学・西洋哲学史・東洋哲学史(支那)(遠藤隆吉教授)・科学概論・西洋哲学研究・文学研究・英語学が置かれ、選択必修科目中に仏典研究(椎尾弁匡講師)・印度哲学研究(武田豊四郎教授)・国史および東洋史通説(津田左右吉講師)・支那歴代思想概説(市村瓚次郎講師)等があった。また、随意科目として独・仏二外国語が設けられた。

 二年後の大正十一年の学科配当は第二学年に倫理学と美学とが充てられ、東洋哲学として印度哲学が二科目(武田教授・馬田行啓講師)、支那哲学一科目(牧野謙次郎教授)が置かれており、第三学年には卒業論文とともに哲学通論と社会学が課せられ、印度哲学が二科目(椎尾・武田)、支那哲学一科目(市村)があった(第一学年は創設時とほぼ同じ)。

 武田・遠藤両教授を軸とした東洋哲学の運営は暫く続いたが、共に史学科に主なる講義を持っていた市村・津田両教授が次第に本専攻の必修科目を担当するようになった。なお、当時の選択必修科目中に、西村真次教授の日本哲学研究(後に岩橋遵成講師担当)があった。

 大正十五年に津田教授は選択必修の支那哲学研究で「経書研究」と「秦漢以前の支那思想」とを講じ、昭和三年の東洋倫理研究では「儒教倫理の研究」を講説し、また西洋哲学専攻の選択科目に充てられた東洋倫理研究では日本哲学を講義した。

 昭和四年に津田教授は東洋哲学専攻に移り、また選択科目の東洋倫理研究を旧制大学院で津田教授の指導を受けた福井康順講師が担当した。

 東洋哲学専攻は他の哲学二専攻とほぼ同じ科目を選択できたので、哲学全般の広い視野を通して自由な学問研究ができ、一定の枠内に留まることがなかった。また、印度・シナ・日本の三方面から学生の研究意欲を誘う本専攻の本領が早く形成されたようである。

 津田教授は大正二年以来、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』『古事記及び日本書紀の新研究』等、日本の古典および日本人の思想の歴史の研究に力を尽したが、満鮮地理歴史の研究とシナ思想の研究とを併せ行った。東洋哲学専攻の講義を持って間もない大正十一年には「上代支那人の宗教思想」によって学位を得、昭和二年には精緻な研究方法を明示する大著『道家の思想と其の開展』を東洋文庫論叢第八として出版された。また、昭和五年から八年にかけて『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』等日本思想に関する著作も上梓された。博士は春秋二期に行われる東洋文庫の学術講座で講演した。昭和十年刊行の『左伝の思想史的研究』もその成果の一つである。

 昭和七年に東洋哲学専攻は支那哲学専攻と印度哲学専攻とに分れた。当時津田教授は一年の支那哲学史と二・三年の東洋倫理研究とを担当し、他に遠藤・牧野両教授が講義を持った。印度哲学専攻は、武田教授が一・二年の印度哲学史、二年の印度哲学研究を担当し、他に仏教教理史(馬田)と仏典研究(椎尾)とが置かれた。選択科目中には武田教授の梵語及梵文学が、随意科目の第二語学中に梵語があった。昭和九年には、津田教授の支那思想史とともに、中国留学から帰った福井講師の東洋倫理研究と日本哲学、出石誠彦講師(第二高等学院教授)の支那社会史があり、翌年には津田教授の日本思想史(神道史)が哲学科全体の必修課目となり、福井講師の東洋倫理研究が一つは「宋代の儒教」、他は「六朝思想史」と題した。津田博士の神道の講義は『東洋学報』に掲載され、後に『日本の神道』として出版された。なお印度哲学専攻においては、昭和十一年に田中於菟弥講師(後に中央大教授、昭和四十三年から本学教授)が印度哲学研究を担当し、福井助教授が仏典研究を持った。翌十二年には福井助教授が仏教教理史も担当し、田中講師が梵語及梵文学を講じた。

 津田博士はかねてから「東洋文化」についての世間の見方を鋭く批判し、シナ文化とインド文化と日本文化とには、それぞれ本質的な差異のあることを指摘したが、昭和十三年に岩波新書の一冊として『支那思想と日本』を出版して多くの反響を呼んだ。津田教授の講義が文学・芸術に及んだことは、昭和十二年の支那哲学研究が「支那文芸論」であったことでも知られる。

 これより先、博士は、大学の正課としての演習を更に進め、研究を深めるために研究室を学内に設け、報告書を作成して、その成果を国の内外の東洋学研究者におくることの意味を考えて、常任理事の金子馬治教授と吉江喬松文学部長と協義の上、昭和十年に東洋思想研究室を、木犀の花の香りのただよってくる恩賜館三階の一室に開設した。それに相馬愛蔵氏の好意も加わって、昭和十二年に年報『東洋思想研究』が創刊された。津田博士の「「大学」の致知格物」「念仏と称名」の両論文が載せられたが、全く自由な立場から儒家と仏家の思想を考察したものであり、また、福井助教授の「道教成立以前の二三の問題」、栗田直躬研究員の「上代支那の典籍に見えたる『気』の観念」をはじめとしていずれの論文も当時の学界に超絶した新研究であった。同年報創刊号に執筆された研究員には、シナ上代の説話の解明に民俗学的方法を導入した出石誠彦氏(遺著『支那神話伝説の研究』)、初め印度哲学を研究し、後に津田博士に師事してシナ哲学を考究した相良克明氏、社会哲学専攻出身で、戦後ソウル大学教授になった李相佰氏(著作に『韓国史近世前期篇』がある)、第二高等学院教授となって中国家族制度と中国言語の基礎的研究を多く遺した郭明昆氏(遺著『中国の家族制及び言語の研究』)がいた。

 昭和十三年、支那哲学専攻は支那学専攻と改称され、印度哲学専攻は旧制だけのこされ、選択および随意科目中に福井助教授の仏典研究と田中講師の印度哲学史と梵語及梵文学とがあった。翌十四年からは田中講師に代って、この両科目を坂井尚夫講師(後に北大教授)が担当した。

 国際情勢の緊迫に伴い、軍部勢力は増大し超国家主義的風潮が生じて、昭和十五年には、津田博士の日本古典および上代思想に関する四著作が一種狂病な空気の中で思わぬ災厄を蒙り、博士と発行者の岩波茂雄氏が起訴されることとなり、博士は累の大学に及ぶのを恐れ辞任されたので、本専攻はここに津田博士を教壇から失うこととなったのである。

 支那学専攻は昭和十五年に福井助教授が支那哲学史(東洋哲学概論)を担当、前年中国留学を終えて間もなく就任し栗田直躬講師が同じ科目で支那思想史を講じ、東洋倫理研究の「上代の教学」を栗田講師、「近代の教学」を福井助教授が担当、坂井講師が印度哲学史と梵語梵文学とを、硲慈弘講師が仏典研究をそれぞれ講義した。なお、哲学選択および随意科目中に大久保幸次講師(回教文化研究所所長)の回教文化があった。

 昭和十六年からは支那哲学・印度哲学を総合した形の以前の東洋哲学専攻の名称が復活した。学科目は福井教授の東洋哲学史・東洋哲学概論・日本思想史、栗田講師の支那思想史・東洋哲学研究(荘子研究)、中国留学から帰朝した相良克明講師の東洋哲学研究(書経研究)、出石講師の東洋哲学研究(クリール研究)、坂井講師の印度哲学史・梵語及梵文学(印度文化の諸相)、硲講師の仏典研究であった。また、この年には東洋哲学専攻指導演習が設けられ福井教授が担当した。なお、昭和十八年の選択科目の仏典研究で宇井伯寿博士が仏教概説を講じ、村岡典嗣博士が日本思想史を担当した。また、この年からの文学部共通必修科目中に関与三郎教授の人類思想史が置かれた。関教授は以前に哲学科主任を務められ、東洋哲学にも造詣があり、津田博士の学問の真の理解者であった。

 この年の春の東洋文庫学術講座で津田博士は「論語のできたみちすじ」と題する講演をされた(昭和二十一年『論語と孔子の思想』出版)。

 東洋哲学専攻は津田博士の辞任した後、福井教授・栗田助教授を中心とする諸氏の努力によって戦時の苦難を超克し得た。しかし、この間に、出石誠彦・相良克明・郭明昆諸氏の逝去があった。

 昭和二十一年の総長選挙で津田博士が選ばれたが、博士は固辞された。しかし、博士は大学当局の要請に応えて、この年の十一月に三日間、大隈講堂で「学問の本質」「学問の立場から見た現時の思想界」「学生と学問」と題する講演を行なった(本講演は『学問の本質と現時の思想』と題して岩波書店より出版された)。

2 新制大学時代 (上)

 昭和二十四年、新制度による第一・第二文学部が発足し、第一文学部には、東洋哲学専修が置かれ、第二文学部は東西を合わせた哲学専修として出発した。両専修共に福井教授が初代専修主任となった(昭和三十二年に第二文学部東洋哲学専修が独立し、栗田教授が初代専修主任となった)。

 設置科目は一・二文ともほぼ同じであって、必修科目は指導演習、共通専門科目には東洋思想と東洋哲学概論が置かれ、選択必修科目には日本思想史・中国哲学史・梵語及梵文学・仏教概説・仏教史研究・東洋哲学研究(一)・(二)(後に(三)を増設)があった。発足当初のスタッフは、専任としては福井・栗田の両教授のみ、非常勤講師としてインド学仏教学の泰斗宇井伯寿、梵文学の坂井尚夫・田中於菟弥、中国思想の原田正己・楠山春樹の諸氏が協力した。また、日本文学の伊藤康安教授に、仏教史研究担当として応援を仰いでいる。しかしその後、大学の飛躍的発展期にも際会して、昭和二十八年四月には原田・楠山両氏が専任講師となり、三十年には宮本正尊博士(東大名誉教授)を教授として、三崎良周氏を専任講師として迎え、翌三十一年には、新制高等学院の発足の当初から要職にあった小林昇氏が転属してこられ、激増した学生数にも対応して教授陣の整備が進められた。

 昭和二十四・二十五の両年は、本専修にとって真に喜び多き年であった。

 昭和二十四年秋に津田左右吉博士が文化勲章を受賞され、また福井康順教授が「道教の研究」によって学位を得た。本論文は昭和二十七年に理想社から『道教の基礎的研究』と題して出版された。本書に主査津田左右吉、副査宇井伯寿両博士の審査要旨が載せられている。また同じ年に栗田直躬教授の『中国上代思想の研究』(岩波書店)も出版された。本書に載せる津田博士の序文からも栗田教授の学問を窺うことができる。翌二十五年には福井教授の『東洋思想史論攷』(法蔵館)が出版された。本書は後に出版された『東洋思想の研究』(理想社)・『東洋思想史研究』(書籍文物流通会)とともに博士の三部作を成すものであり、また博士はこの論攷巻頭の「現代シナにおける倫理思想」に手を加えて『現代中国思想』(早稲田大学出版部)を上梓した。

 昭和二十六年には新制大学院が開設され、東洋哲学専攻が発足した。科目配当は東洋哲学問題(福井)、中国哲学特殊問題(栗田)、印度哲学(宇井)、東洋哲学文献研究(一)(福井)、東洋哲学文献研究(二)(栗田)、東洋哲学演習(福井)であった。印度哲学は宇井博士の退任後、宮本正尊博士が担当された。宮本博士は昭和三十年から教授となられ、福井教授とともに東洋哲学演習(二)を持たれた。その後栗田教授が増設の演習(三)を、小林昇教授が同じく文献研究(三)を担当されるようになり、着々と整備されていった。

 さて、新制度の発足は諸全国学会の新発足でもあった。福井教授は昭和二十五年に日本道教学会を設立、会長に就任したほか、日本中国学会(昭和四十年には理事長)・日本宗教学会・日本印度学仏教学会の理事を務められ、常に学会活動を推進した。宮本正尊教授も昭和二十六年に日本印度学仏教学会を創設、理事長として運営に当った。福井・宮本両教授共に日本学術会議会員を長く務められ斯学の発展に貢献された。栗田教授も後に日本中国学会の理事となったが、教授は常に晩年の津田博士の傍らにおられ、博士の学問を学び伝えることに力を尽された。

 津田博士は昭和二十三年以来、『日本古典の研究』、改訂版『文学に現はれたる国民思想の研究』四冊、『儒教の研究』三冊、『日本文芸の研究』『シナ仏教の研究』『歴史学と歴史教育』『思想・文芸・日本語』等を次々に岩波書店から上梓したが、殆ど毎巻、栗田・小林両教授が校正と索引作成に尽した。長らく中絶していた『東洋思想研究』も第四冊が福井・栗田両教授の奔走によって復刊の運びとなり、その後更に、第五・第六冊が大学の補助で出版された。津田博士はほかに『学問の本質と現代の思想』『日本人の思想的態度』『必然・偶然・自由』等をも出版した。

 昭和三十五年十月三日、津田博士の米寿祝賀の式典が小野講堂で行われ、賀宴が大隈会館で催され、一同で博士の一層の御健勝を願ったが、翌三十六年十二月四日、博士は武蔵境の御自宅で逝去された。同月十一日に宗教によらぬ御葬儀が大隈講堂で行われ、墓域は野火止平林寺に定められた。津田博士を偲ぶ文には栗田教授の「津田左右吉先生の学問と人」(『世界』昭和三十七年三月号)がある。津田博士の全著作に出版法違反事件の折の博士の上申書や日記・日信等をも加えた『津田左右吉全集』(岩波書店)全三十三巻が昭和三十八年から四十一年の間に出版された。

 これより先昭和三十三年、福井教授の還暦祝賀会が上野精養軒で催され、頌寿記念『東洋思想論集』(五十七篇・八七〇頁)が刊行された。また、その頃福井教授の学界活動に関連して、本学が全国学会を引き受けること頻繁であった。日本中国学会(二十九・四十六年度)、日本印度学仏教学会(三十五年度)、日本道教学会(二十七・三十三・五十年度)など。なお道教学会の事務所は、三十一年から四十三年まで、福井研究室に置かれていた。博士はまた宗門の教学にも貢献してきたが、三十四年に天台宗勧学となり、三十九年には編著『慈覚大師の研究』が出版されている。

 昭和三十九年三月に宮本教授が退任し(その後駒沢大教授に就任)、大学院の演習(二)および印度哲学講義は金倉円照博士(東北大名誉教授、後に学士院会員)が担当することとなったが、間もなく同博士から西義雄博士(東洋大教授)へと受け継がれた。同年四月、以前から非常勤講師として東洋哲学研究を担当していた菅原信海氏を専任として迎え、また大学院に田中講師による印度思想特殊研究が置かれた。

 昭和四十年、福井教授と慶大中国文学の奥野信太郎教授とあい計って早慶中国学会が発足、第一回が本学で開催された。以後相互に会場を提供し、また本学側では新設の中国文学専修も加わって、今日まで回を重ねている。

3 新制大学時代(下)

 昭和四十一年、文学部の改組に伴って本専修の設置科目にも大幅な変動を生じた。一文では科目が増設されて、必修としての演習四科目(日本思想・中国思想二・インド思想)、専門A四科目(日本仏教史・中国古典・日本思想・中国近代思想)のほか、従来の共通専門に代わる専門Bとして、日本思想史・中国哲学史・仏教概論・インド思想史・東洋哲学概論の五科目が選択必修として配当され(ほかに一・二文共通の東洋倫理思想史)、従来の東洋思想は一般教育科目に編入された。また一・二文共通の随意科目として梵語初・中・上級、漢文初・中・上級が新設されたが、それは本専修の要望によるところ大であったことから、かなりの部分を本専修で担当することとなった。更に新設の人文専修においても、その運営に参加して演習一科目を分担するようになった。

 一方、二文では東洋哲学専修が廃止されて、新たに発足した東洋文化専修を、日本史・東洋史両専修と共同で運営することとなり(初代専修主任に福井教授が就任)、本専修では演習二科目・専門A二科目のほか、専門Bとしての日本思想史、インド文化史・仏教概論・東洋哲学概論の四科目を分担することが決まった。

 昭和四十三年四月、旧制時代から断続はありながらも長くインド学関係の科目を担当してきた田中於菟弥講師(中大教授)を教授として迎えた。これより以前、大学院には、小林昇教授の演習(四)が開設されていたが、更に田中教授による演習(五)が増設されて、ここに演習担当教授五名の現状に到達したことになる。同年三月に西義雄講師が退任され、大学院の演習(二)および印度哲学講義には、平川彰博士(東大教授、後に本学教授)が嘱任された。博士は更に学部の仏教概論をも担当。この年校友御木徳日止氏の指定寄附を基として早稲田大学東洋学会が発足、福井教授が会長に就任した。

 昭和四十四年三月、福井康順教授が退任した(その後名誉教授)。津田博士の後を承けて三十年に亘り本専修の中心であった博士の最終講義「東洋学遍歴五十年」には、全国から集った受講生が教室を埋めつくした。古稀祝賀会は前年十月に大隈会館で催され、また頌寿記念『東洋文化論集』が、内外の寄稿八十篇、千三百余頁の大冊として刊行されている。なお博士は、以前から大正大学教授を兼任していたが、本学退任の後は同大学理事の職にあり、昭和四十七年には学長に就任している。またその前後に、儒仏道三教に亘る多年の学績によって紫綬褒章を受賞され、勲二等に叙せられている(その後京都妙法院門跡に就任)。同年四月から、大学院では原田教授が演習を担当し、三崎・楠山両教授が講義を担当するようになった。四十七年四月、教育学部助教授として本専修の科目を兼任していた福井文雅氏が本学部に転属、正式に本専修の一員に加わった。

 昭和四十九年三月、栗田教授・田中教授が退任した。両教授合同の最終講義には全国から馳せ参じた受講生多数も加わって盛況であった。教員一同と大学院生を加えた伊豆旅行は思い出多いものがある。栗田教授の古稀祝賀会は同年四月新宿中村屋で催され、田中教授の会は、古稀記念出版『酔花集』の刊行祝賀を兼ねて六月に大隈会館で行われた。栗田・田中両教授とも引き続き東海大学教授に就任。なお栗田教授は名誉教授に推され、その後勲三等に叙せられている。同年四月、これまで非常勤講師のまま大学院の演習まで担当願っていた平川博士を教授として迎えた。大学院では栗田・田中両教授の演習を楠山・三崎両教授が相当、新たに菅原・福井両教授が加わって講義を担当することとなった。また印度哲学特殊問題の担当者として原実博士(東大教授)を迎えた。なお昭和五十一年、大学院の改組に伴って研究指導の時間が設けられ、演習担当の平川(一)・三崎(二)・楠山(三)・原田(四)・小林(五)の五人が同時に担当することとなった。

 さて文学部の改組によって、また大学院の充実整備によって、本専修の担当する科目は増大の一途を辿ったが、その後更に一般教育強化のための教養演習が設けられ、本専修でも三科目を分担、また専門A一科目が増え、本専修ではこれを中国宗教史に当てることとなった(福井文雅担当)。ところが、この頃から大学の経済事情もあって専任教員の増加は極度に制限されるようになり、特に本専修の場合、四十九年度まで八名であった専任者を七名に減ぜざる得ない事情となった。既に一般教育担当の村山吉広助教授の応援を得てはいたが、到底覆い切れるものではなく、また学界の動向を睨んで新設した科目については適材を適所に配する必要もあった。かくて五十年を前後する頃から外部の講師を相当数嘱任せざるを得ない情勢となった。いま増大した科目と歴任・現任の担当者を年次別に示すことは煩にたえないので、次に外部から嘱任した方の尊名と担当願った科目とを列挙しておく(専任者の担当については後述する)。

原実東大教授(大学院印度哲学特殊問題、インド思想史)、指田清剛講師(梵語)、長柄行光講師(梵語・インド文化史)、上村勝彦講師(後に国学院大教授、梵語)、伊藤瑞叡立正大助教授(梵語・東洋文化研究・東洋思想)、小林正美高等学院教諭(東洋倫理思想史・漢文)、竹内肇講師(漢文・東洋文化研究)、島田正義(漢文)、岡本天晴防衛大助教授(東洋文化・専門英語)、岸本良彦明治薬大助教授(教養演習・漢文・東洋文化演習)、水野実講師(漢文)

 昭和五十四年三月、小林昇教授が退任。教授は最終講義でも五十三年秋の哲学会公開講演会でも、津田博士の「国民思想の研究」について話され、教授の学問生活が津田博士の学問の理解と継承にあることが窺える。大学院・学部の演習で日本思想・中国六朝思想を講ぜられ、また栗田教授の後を受けて日本思想史を担当。また昭和五十一年十月から二年間第一文学部長を務めた。名誉教授。教授は退任の後、これまでの論攷をまとめて一本とすることを計画し、着々と準備を進めていたが、不幸にも昭和五十六年七月逝去された。教授の遺志は研究室一同によって継承され、『中国・日本における歴史観と隠逸思想』(早大出版部)として刊行されている。

 昭和五十四年四月、これまで高等学院教諭の傍ら本専修の科目を担当していた小林正美氏を専任講師として迎え、大学院では小林昇教授の演習(五)が菅原教授に代った。

4 本専修の現況と出身者

 先ず昭和五十七年三月現在、本専修を構成する専任教員・助手について寸描し、担当科目を記しておく。

 原田正己教授(昭十二支那学)は、初め津田博士指導のもとに漢代思想を専攻、昭和十五年から七年間中国に留学し、漢代思想と併せて民間信仰習俗の調査に従事、両者に関する論文多数。その後福井博士の開発した清代思想の研究に従事し、特に康有為の研究家として知られる。五十八年に『康有為の思想運動と民衆』を刊行、それにより文学博士。大学院・学部で中国近代思想関係の演習・研究を担当するほか、中国哲学史・東洋思想を講じた。聖心女子大にも出講。また東南アジアの民俗研究に従事し、拉曼学院客員教授。平川彰教授(昭十六年東大印度哲学)は『律蔵の研究』(学位論文)・『原始仏教の研究』の両著で学界で重きをおかれるが、近年『インド仏教史』上下両巻とともに、インド・中国・日本と連なる『仏教通史』を出版された。大学院・学部の演習・研究、仏教概論を担当。三崎良周教授(昭十八東哲)は日本・中国の仏教を専門とするが、特に天台密教研究で広く学界で知られ、昭和五十六年には「台密の研究」により文学博士。大学院・学部の演習・研究、また東洋思想・東洋倫理思想史を担当。大正大講師。楠山春樹教授(昭十八東哲)の専攻は中国思想、『老子伝説の研究』(昭和五十二年提出の学位論文)・『淮南子』の訳業等、道家・道教の研究で学界に地歩を占め、福井博士の研究活動を継承して日本道教学会・日本中国学会の理事として活躍。大学院・学部で中国思想関係の演習・研究を担当、ほかに東洋哲学概論・東洋倫理思想史など。東大・東北大・大阪大・京大・慶大等に出講。後に日本学術会議会員、日本道教学会会長。菅原信海教授(昭二十八年文修)は、日本思想とりわけ神仏習合思想の研究に新境地を開いている。『神道大系』の編纂に従事し、特に「日光・二荒山」を担当、大学院・学部で演習・研究を担当、また学部の日本思想史。大正大講師。福井文雅教授(昭三十四文修)は儒仏道三教の交渉を専門領域とするが、昭和三十六年から三年間、フランス政府留学生としてパリの国立高等研究院宗教学科で学び、宗教社会学の方法を駆使して東洋の諸宗教を考察、また優れた語学力により各種国際学会で活躍している。敦煌学にも令名高く『講座敦煌』七巻を責任編輯。大学院・学部で演習・研究を担当、また新設の中国宗教史を講ずる。大正大講師、また東京大・大阪大等に出講。昭和五十九年「般若心経の歴史的研究」により文学博士。村山吉広教授(昭和三十二文修)は詩経の研究家として知られ、雑誌『詩経研究』を主宰。また清学・日本儒学にも造詣深く著書論文多数。大学院の文献研究、学部の演習・研究・東洋思想・漢文を担当。筑波大講師。日本中国学会理事。小林正美助教授(昭和四十四文修)は六朝思想、特に三教交渉に関する研究者として知られる。中国思想関係の演習・研究・東洋倫理思想史・漢文を担当。(昭和五十八年より一年半、ハーバード燕京研究所の招聘研究員として現地学者との共同研究に従事)。土田健次郎助手(昭五十一文修。昭和五十七年四月専任講師嘱任)は、宋代思想研究者として早く学界の注目を集め、その将来が期待されている。

 出身校友を語ると、古い哲学科出身者中に石橋湛山(明四十)のように政治家であるとともに立正大学学長ともなり、宗教界にも貢献された大人物があり、同時代に三代政邦(明四十、島根東光寺)・室谷祐善(明四十四、宝塚円国寺地蔵院)の諸氏もおられ、明治四十五年卒の山中忍海は大津聖衆来迎寺の住職および京都山科の毘沙門堂門跡となり、天台宗宗務総長をも務められた。東洋哲学創設後の出身者中にも仏教諸宗門、新宗教団体で活躍された先達、それぞれの郷土で学校長、町村長等の役職を務め教育・行政に携わった諸氏が多い。また、近年は研究者として他大学に職を奉ずる人も輩出している。

 本専攻の行事にしばしば参加協力され、また諸方面に活躍される諸氏を挙げれば、榊原帰逸(昭十印哲、インド舞踊研究者)・水野美知(昭十一支哲、歌人、浅野学園)・藤井正夫(昭十二支哲、国会図書館)・沢田昌夫(昭十七支哲、北野高校教頭)・小野真海(旧制大学院、国立大学事務長)・秋山久(昭二十六東哲、東京都教育庁人事部長)・清水厳矩(昭三十三文修、長く副手を勤務)・磯部教三(昭二十九東哲、ニッポン放送取締役総務局長)・荒井繁(昭二十九東哲、在学中野球部の捕手、明電舎重役)・野末和彦(陳平)(昭二十九東哲、参議院議員)・田中博民(仙翁)(昭三十六文修、大日本茶道学会長)・木村新太郎(昭三十一東哲、木村機械建設社長、学外商議員)・北畠泰清(昭三十六東哲、朝日新聞社論説委員)・植木暢久(昭三十二東哲、陶器うえき取締役、有馬高校教頭)・北憲五(昭三十六東哲、北産業社長、学外商議員)・松原哲明(昭四十五文修、仏教に関する著作多数)等の諸氏がある。

 学内および本学縁故関係機関に奉職された人々に内山義郎(昭八東哲、図書館事務長)・澄山暲(昭十四印哲、理工学研究所事務長)・鈴木晋善(昭十八東哲、早稲田高校副校長)・平松一也(昭二十五東哲、図書館、今は竜善寺住職)・矢作武(昭三十八文修、語研講師、相模女子大)・柳瀬喜代志(昭四十一文修、教育学部助教授)・村井由敬(昭四十五文修、図書館)・谷中信一(昭五十一文修、早稲田高等学院)の諸氏がある。

 また、他大学に奉職する人々に東元多郎(慶喜)(昭十二印哲、駒沢大教授)・今枝二郎(昭二十九東哲、大正大助教授)・佐藤成順(昭三十四文修、大正大助教授)・大谷哲夫(昭三十五文修、駒沢大講師)・大室幹雄(昭三十五東哲、山梨大助教授)・福島正義(昭三十五文修、国士館大教授)・柴田哲彦(昭三十六東哲、大正大講師)・森川重昭(昭三十八東哲、椙山女子大教授)・藤井明(昭三十八東哲、大東文化大助教授)・松本照敬(昭四十東哲、大東文化大学助教授)・末広照純(昭四十一東哲、大正大学講師)・加藤智見(昭四十一東哲、東京工芸大学講師)・田平暢志(昭四十三文修、鹿児島短大助教授)・浅井茂紀(昭四十二東哲千葉商大助教授)・岡本天晴(昭四十四文修、防衛医大助教授)・谷貞志(昭四十五文修、高知工専助教授)・岡本光生(昭四十九文修、埼玉工大講師)、水野実(昭五十文修、防衛大講師)等の諸氏がある。なお海外で研究生活を続けている人に、後藤敏文(昭四十七東哲、西独エアラニゲン大学助手)・岩田孝(昭四十六文修、西独ハムブルグ大学。後に本学専任講師)・吾妻重二(昭五十四文修、北京大学。後に関西大学講師)の諸氏のあることをつけ加えておく。

 本専攻出身者および留学生として在籍された外国人学者には、前述の李相佰・郭明昆両氏の外に、韓国の嶺南大学教授、韓日文化研究所所長の洪淳昶博士(昭十七支那学)、媽祖信仰の研究で知られる台湾出身の李献璋博士(昭三十二推選校友)、唯識の研究で初めて本大学で新制度の学位を得、今はロサンゼルスの仏教瞑想国際センターの学長として活躍されるヴェトナム出身の釈天恩博士、台中市教育部長、台湾大学でも教鞭を執られる林灑聡氏等がおられる。

四 心理学専攻

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1 沿革と変遷

 昭和七年文学部哲学科に心理学専攻が誕生した。創設者赤松保羅(パウロ)教授は大正十二年にコロンビア大学から四年間の留学を終えて帰国し、金子馬治教授の後任として、「心理学概論」の講座を持った。昭和六年に内田勇三郎講師を迎え、一方恩賜館内には小実験室が開設され、実験器具が準備されていた。設立時点では赤松保羅、内田勇三郎、戸川行男の三氏によって授業、学生指導が行われた。戦後、旧制大学哲学科の科目に改変がなされ、昭和二十三年、心理学専攻は、心理学、心理学史、実験心理学、民族心理学、神経生理学、哲学概論、心理学研究、指導演習を必修とした。

 昭和二十四年に新制大学が発足し、第一・第二高等学院の大学各学部への編入が行われ、学科目に大幅な改革が行われた。共通専門に心理学概論(赤松)、専門科目に心理学史(赤松)、神経生理学(原島進)、実験心理学(戸川)、心理学実験実習、心理学研究(演習)、選択科目に民族心理学(松田治一郎)、教育心理学(戸川)、一般教養科目に心理学(本明寛)が設置された。昭和二十五年には更に社会心理学、産業心理学が追加された。新制文学部には第一、第二学部が併設され、第三学年編入の第二文学部卒業生が昭和二十六年に十名卒業した。その後、昭和四十四年に二十一名の卒業者を送り出すまで第二文学部に心理学専攻が設置されていた。その後現在まで、心理学専攻は第一文学部にのみ開設されている。

 新制大学院は昭和二十六年に修士課程、また同博士課程は昭和二十八年に開設されたが、心理学専攻科は同年に発足している。

 昭和五十六年に心理学教室は創設五十周年を迎えた。諸設備を完備したコンピュータ室、動物飼育実験室を持ち、第一文学部の第二、第三、第四学年生約二百十名、他に大学院生約七十名を加えた大世帯で、新しい心理学専攻を形成しているというのが現状である。

2 教育と研究

 心理学専攻は既に述べた如くきわめて少数の心理学専門科目を以て昭和七年に発足したのであるが、当時の学生は哲学科という枠組の中で、多くの哲学系の授業を受講していた。開設後、昭和二十年まではいわゆる「心理学教室」の教員は赤松保羅教授、戸川行男教授、内田勇三郎講師、宮田義雄講師、非常勤の原島進慶応義塾大学教授の五名であった。学生数も少く、第一期生、第二期生ともに一名で、昭和十年に橋本鍵一(後に東京少年鑑別所長)が卒業した。昭和十二年二名、昭和十四年三名、同十五年四名、同十六年六名で、昭和二十年までに計三十八名の卒業生を社会に送り出している。

 戦前の教室の研究は内田勇三郎講師の影響が大きく、官学の学習・知覚等の研究に対抗して主として応用分野の独創的研究が進められた。主題からみて三つの研究領域に分けることができる。第一は、GSR(電気的皮膚反射)の研究である。昭和八年の『哲学年誌』第三号に「精神電気的反応の測定」という論文が載っている。内田・戸川・外岡豊彦等の意欲的研究がなされた。これに昭和十二―三年頃にウソ発見器という俗称がつけられ、広く社会に注目されるようになった。現在警察庁が公認しているウソ発見器のもとになっている。当時はGSR測定器と呼吸計を使用した。第二は、性格研究の分野である。代表的な研究は内田勇三郎講師の「内田クレペリン検査」の開発と、戸川行男教授・宮田義雄講師の「内向―外向性」の研究および「体格と分離性性格」の研究であろう。内田講師はクレペリン連続加算検査を第二高等学院の入学試験に実施した。短い時間で検査を完了するために、十五分作業、五分休憩、十分作業の方法を考案し、また採点のための定型曲線(一万人の平均曲線)作りに大変な努力をされた。戸川行男教授は「分離性性格と躁うつ性性格の自己論断表」を発表し、また分離性性格者の上半身裸体写真を重ね焼にしてその体型の特徴を明らかにしようとした。

 第三の領域は、今日早大心理学教室の名声を高めている臨床心理学、異常心理学の研究である。内田・戸川らは自ら被検者になり、メスカリン(薬物)の幻覚現象の研究を行った。『哲学年誌』第五号(昭和十年)に発表された「メスカリン酩酊における精神変化」は学界に衝撃を与えたと聞いている。特に戸川教授の自己観察記録、さまざまな生理・心理学の測定結果は注目された。日本の心理学者で薬物実験を本格的に行った初めてのものだと思う。

 また臨床分野では戸川、宮田らの八幡学園での精神薄弱児の臨床研究がある。といっても、当時のことで、知能検査と性格検査を行う程度のものであった。しかし昭和十年の山下清の個展が銀座の青樹社で開かれ、また作品集が出版されて、一躍、心理学教室の名声が高まった。その後『特異児童』を戸川教授は公刊され、当時のベストセラーとなり、出版元を驚かせたということである。

 昭和二十年までの心理学教室の研究業績は以上のような華々しいものであったが、それらはいわば応用の分野に集中したものである。研究室二、地下実験室一という設備で、大学が支給した研究費も名ばかりのものであった。器具、機械類も一部を除き、手製で、僅かなスタッフでよくあれだけの業績を挙げたものだと思うのである。また内田勇三郎講師の考えは、ともかく実際にやってみるという実行に力点をおいておられ、朝から夜遅くまで、教員も学生も活動させられた。当時は赤松保羅教授を中心に教員も学生もひとかたまりになっていて、教室全体のチームワークもよくとれていた。しかし、昭和十六年第二次大戦が始り、大学の修業年限が短縮されて以来、学生は殆ど軍隊に召集されていった。特に学徒出陣後、昭和十九年には事実上研究室は開店休業状態となり、宮田義雄講師は陸軍航空研究所へ、また昭和二十年には戸川行男教授も陸軍へ応召された。実験室の器材、図書は大学の方針によって急に疎開することになり、教室は全く無人となってしまった。当時の少数の学生は、陸軍航空適性検査部へ勤労奉仕に出かけた。その後心理学研究室を高射砲の部隊が宿舎として使用していたようである。

 戦争が終って、昭和二十年九月に赤松保羅、戸川行男教授、第二高等学院の伊藤安二教授、本明文学部教務補助らが集り、米軍の爆撃によって大破している旧文学部校舎での授業再開について会合した。除隊兵士の使った畳、諸道具、ごみを運び出し、研究室二つはどうやら使えることになった。地下実験室はバラバラになった器材が疎開先から戻ってきたが、どうにも使いものにならなかった。陸軍航空適性検査部に赤松教授が出かけ、不用になった実験器材を払下げてもらう交渉がまとまり、漸く基礎実験の器材が揃うという有様であった。昭和二十四年新制文学部が発足するまで、焼跡の急造の補修工事で授業も十分にできなかったし、実験研究も見通しが立たなかった。それでも昭和二十一年に九名、同二十二年に三名、同二十三年に七名、二十四年に六名の卒業生があった。なお旧制大学の卒業生は引続いて昭和二十五年に十五名、同二十六年に十八名が卒業している。この中には、旧陸海軍の学校、旧師範学校、旧制高等学院を出て応召した復員者等がかなり含まれていた。

 昭和二十四年に新制文学部が発足してから、心理学教室には三島二郎(後に教育学部教授)と清原健司が加わり、教育心理学、産業心理学の講座が開設され活気を呈するに至った。また心理学実験演習には新美良純が助手から進級して担任となった。第一文学部心理学専修主任に戸川行男、第二文学部同主任に伊藤安二教授が就任した。

 昭和二十六年に新制の第一回生が十一名卒業し、昭和二十七年に十五名、同二十八年二十四名、同二十九年二十二名で、特に第一回、第二回は旧制高等学院からの横スベリ組と、旧制高等学校、旧制師範学校からの編入者が殆どであった。第二文学部も昭和二十六年十名、同二十七年十一名、同二十八年二十三名、同二十九年十三名の卒業生を送り出している。終戦後学制改革があり、新旧重複して授業を行い、また卒論指導を行った。昭和二十年代は学生指導と新しいカリキュラムをこなすことに力を注ぎ、教室の研究業績も十分とはいえなかったと思う。ただ、戸川行男教授を中心に、他大学の研究者も含めて、投影法の勉強会を行ったのが対外的には唯一の活動だったと思われる。ロールシャッハ・テスト、TATの日本版試作にかなりの時間をかけて、発表を行った。二十年代は外国文献の入手が困難で、いろいろの手づるを求めて購入した。進駐軍の心理学将校から投影法の原典を借用して、手分けして書写したこともあった。また、実験用の動物を飼育するため、教員がポケットマネーを出し合って、旧文学部の地下室隣に掘建小屋を作った。動物実験を辛うじて行うことができるようになった。この掘建小屋から、亀山勉(後に名城大教授)、平井久(後に上智大教授)、ロールシャッハ・テスト、TAT試作版時代に滝沢清人(後に自治医大教授)、木村駿(後に群馬大学教授)が育っていたのである。なお昭和二十年代の卒業生で、昭和五十七年現在、早大の心理学教員として活躍しているのは、旧制では浅井邦二教授(昭和二十三年)、小嶋謙四郎教授(昭和二十四年)、新制では富田正利教授(昭和二十七年)、橋本仁司教授(昭和二十七年)、相馬一郎教授(昭和二十八年)、上田雅夫教授(昭和二十九年)らである。

 昭和三十年代に入ると教育・指導の体制も整い、外国からの文献もかなり自由に入手できるようになった。第四学年、あるいは大学院では新しい外国文献を講読することができるようになり、遅れていた日本の心理学研究に新しい水を入れることができた。戦前の我が国の心理学はドイツ系のものであった。そしてアメリカの心理学の進歩を十分に知らされていなかった。戦後急速にアメリカ心理学が輸入されて、心理学研究の領域が拡大され、若い研究者が、新しいアメリカ心理学に特別の関心と魅力を感じる時代になった。その一つは社会心理学という新しい領域の研究であり、他は基礎的な研究としての生理心理学を挙げることができる。またアメリカの心理学者の四六パーセントが属しているといわれる臨床・相談心理学分野のおびただしい研究論文である。当教室では社会心理学は伊藤安二教授をリーダーとして、更に昭和三十四年からは相場均(後に教授)がアメリカ・ヨーロッパの新しい学問を身につけてサブ・リーダーとして研究に学生指導に活躍した。生理心理学は新美良純助教授(後に教授)が生理心理実験室を創設し、学生の指導に当るとともに、日本の学界にその多くの業績を発表した。更に臨床心理学は戸川行男教授を中心に、診断に関する研究から、小島謙四郎講師(後に教授)をサブ・リーダーとする小児臨床治療の実際的活動を行った。昭和三十八年度の心理学専修の学科目を別記しておく。この他に心理学概論を宮田義雄講師、造形心理学を本明教授が担任し、この形式が昭和四十一年まで続くことになる。

第四十八表 第一文学部哲学科心理学専修学科配当表(昭和三十八年度)

 昭和三十年より昭和三十九年までに第一文学部学生三百七十三名、第二文学部学生百八十三名を心理学専修より送り出している。この十年間に学生は次第に多くなり、昭和三十九年度には四十四名の卒業生があった。

 昭和四十年代に入り、早大は第二学生会館の管理と、学費値上げが原因で全学がストライキに入った。昭和四十一年に大浜信泉総長が辞任され、阿部賢一総長代行が任命された。樫山欽四郎一文、新庄嘉章二文学部長は同年四月まで粉骨砕身解決に努力されたのである。我が専修としては、この時期に約十年間早大常任理事として本部におられた戸川教授が教室に戻られて、教室員の研究動機を高めることになった。これ以後、『臨床心理学論考』(昭和四十六年)、『自我心理学』(昭和四十八年)、『人間とは何か』(昭和五十年)と矢継ぎ早に大著を公刊し、昭和四十八年定年となられた後も、『人間学的心理学』(昭和五十三年)、『意志と性格の心理学』(昭和五十四年)をまとめられて、後学を驚かせたものである。昭和四十一年の大学紛争の時にも、心理学専修の教員と学生の間にはかなりの対話があって、卒業論文の資料集めや実験についても、指導教員が細かな配慮をしていた。

 昭和四十二年より、第三学年から心理学専修へ専門の学生が入ってくるようになり、新しいカリキュラムを編成した。心理学実験が第三学年に集中することで、教育上の問題がいろいろ出てきた。卒論に実験・調査を不可欠条件としている心理学専修として、卒論指導についても新しい考え方を取り入れることになった。昭和四十三年度の学科配当表は別表の通りである。第一・二学年を教養課程とし、第三年・四学年を専門課程とするという東大の方式に文学部は移ったが、心理学のような自然科学系の学問では、教育にかなりの無理があった。東大も実験実習に関する科目

第四十九表 第一文学部Ⅰ類心理学専修学科配当表(昭和四十三年度)

(この他に第三学年に「教育心理学」が配当され、昭和四十三年は潮田武彦講師であった。)

を心理学科の学生に限り本郷で第二学年から受講できた。昭和五十四年度に文学部全体が第二学年から専門に進むように改められ、心理学専修としては漸く教育体制が正常化された。

 昭和四十年代の一文の卒業生は五百九十六名、二文は昭和四十四年までで百一名であった。第三学年に専門学生が入ってくるようになり、心理学を希望する学生が次第に多くなってきた。昭和五十一年以来、一学年の心理学専修の割当で学生数は約七十名となっている。

 昭和五十一年相場均教授、昭和五十二年清原健司教授が早世され、教室では社会心理学、臨床心理学の指導者を失い、内外の研究活動に支障を来たした。後任に小杉正太郎助教授(後に教授)、西本武彦講師(後に助教授)が嘱任された。また、昭和四十三年の配当表の中に載っていない教員は、岩下豊彦教授、久米稔教授、織田正美助教授(後に教授)、木村裕助教授(後に教授)である。

3 就職、その他

 戦前の卒業生は大部分教職関係に就職したが、会社の人事・教育関係、法務省の少年鑑別所、刑務所に専門職として勤務した人も出ている。昭和二十年代の卒業生は法務省技官、家庭裁判所調査官、都や県の児童相談所技官および大学・研究所の教授として活躍している人が多い。

 昭和三十年代に入っても、二十年代の傾向が強く、また現在小・中・高校の教頭、校長となって教育界に活躍している人が少なくない。しかし、一般の商社、新聞、放送、出版関係の企業に入社する人も次第に多くなってきた。

 最近の傾向を知る手掛りとして昭和五十三年度の卒業生についてみると、商社二十三名、新聞・出版・放送六名、教員二名、公務員六名、研究所二名、大学院六名、不明十五名、(総計六十名)という数値になっている。不明者の多くもどこかに就職したのであろうが、届出がない。これによっても商社に就職する学生が次第に多くなっている。

 早大の旧制心理学専攻、専修、教育心理学専修(教育学部)および大学院出身者で、早大心理学会をつくっている。毎年一回大会を開催し、学術講演、シンポジュームを行い、機関誌を発行している。昭和五十六年に、創立五十周年の記念事業が行われた。各卒業年次より実行委員が選出され、記念式および記念事業が遂行された。『早稲田大学心理学教室五十年史』は五十六年十二月に刊行された。総ページ三五六、我が教室の五十年間に亘る業績がすべて集録されている。記念式典は清水総長の臨席で、日本の各心理学会幹部の参加も得て盛大に挙行された。参加者約五百名、北海道、九州からも卒業生が集った。なお心理学教室の全出身者は昭和五十七年までに二千名を超えた。

4 文学研究科

 新制大学院が昭和二十六年に発足と同時に心理学専攻が開設された。赤松保羅教授、戸川行男教授、伊藤安二教授、原島進講師、相良守次講師が初期の陣容であった。特に相良守次(東大名誉教授)教授はその後定年まで指導教授として多くの大学院生を育てられた。同教授は日本の学習研究の権威者である。大学院の制度もたびたび変革があり、また指導教授も交替が行われてきた。昭和五十五年度の心理学専攻の人的構成を別表で示しておく。また昭和五十七年までに新制文学博士号を受けた者は学内六名、学外三名、計九名である。

第五十表 大学院文学研究科心理学専攻科目および担当者(昭和五十五年度)

心理学専攻

前期課程

後期課程

五 社会学専攻

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 明治期の近代科学思想の展開に占める社会学の役割は、決して小さなものではない。しかし何と言っても、社会学を檜舞台に押し上げていったのは、自由民権運動をめぐる思想状況と、これに理論的支柱を与えたスペンサーの受容にあったと言うことができるだろう。

 明治十年から三十三年までに、我が国で飜訳されたスペンサーは三十二種類にのぼるといわれるが、そうした風潮は、大学の講座をも外におくものではなかった。このことは、発足当時、明治十五年の政治経済学科に、「世態学」(現在の社会学)の「大意」と「詳論」が、二年第二期と三年第一期にそれぞれ科目として配置されており、また英学教科書としてもスペンサーが選ばれているところにも示されている。

 だがそうした動きにも拘らず社会学の講座は、明治三十一年まで文学科にはなく、政治学科に一科目置かれていたに過ぎない。

 最初にこれを担当したのは高田早苗であったらしく、『東京専門学校年報』(明治十五年度)の「科程授業報告」には高田の筆により、次のように記されている。

社会学ハ政治経済二年生ノ学科ニシテ余ハ専ラ〝スペンサー〟氏著社会学ニ拠リテ講述セリ二年生社会学ヲ修ムルノ時日ハ僅カニ半学年ナルヲ以テ咸ク該学ヲ尽スヲ得ス唯々社会進化宗教進化ノ原理ヲ説キ以テ其講筵ヲ閉セリ蓋シ三年ノ第一期ニ至リ前講ヲ承接シテ周密ニ渉ラシメントス。

 次いで明治十七年、この社会学の講義は、坪内雄蔵(逍遙)に代り、彼は史学とともにこれを講じている。

 尤も当時の社会学は、社会科学の一個別経験科学として位置づけられるというよりは、社会哲学ないし歴史哲学の一部門として性格づけられており、大学における講座も、その線に沿って組まれていたと言ってよい。大学科において社会学の科目が見られるのは明治二十四年のことで翌二十五年からは哲学課目の一つとして組まれている。学科として独立を認められるのは、大正二年に至ってからである。このとき社会学は哲学科より分れ、「史学及社会学科」という形をとることになる。その後再び哲学科に編成しなおされるといった推移を辿るが、大正九年の新大学令により、文学科も文学部と改称し、これとともに大正十年に「哲学科社会哲学専攻」として再編されている。

 こうした変遷は、社会学の辿ってきた道程からすると、きわめて一般的なものと言ってよい。明治三十五年から四十三年まで、文学科で社会学を講じていたのは、当時、東京帝国大学にあって、外山正一の跡を継ぎ、社会有機体説の立場からその体系化を図っていた建部遯吾であった。文学科がこのように兼担の形をとっていたのに対し、寧ろ独自の陣容を整えていたのは政治経済学科であり、ここでは前にも述べたように、高田、坪内によって社会学の講義が行われると同時に、明治二十八年からは岸本能武太が迎えられ、次いで三十年からは浮田和民がこれを担当している。そして同四十三年からは、これと併行して安部磯雄が「都市問題」を講じるといったように先行した構成をとっていたことが窺える。

 岸本、安部、浮田は、いずれも同志社の出身で、ともにアメリカに留学後、本学に迎えられているが、なかでも岸本、安部は、我が国における社会主義の先駆者として、広く影響を与えたことはよく知られている通りである。なかでも安部の『社会問題解釈法』(明治三十四年)は、明治社会主義の展開を見ていくとき、その理論的基盤を形成したものとして名高いが、岸本も『社会学』(同三十三年)を、また浮田も『社会学講義』(同三十四年)によって、時代にむけ強い発言を試みていった。そして興味深いことは、後に文学科の教授として迎えられた遠藤隆吉が、明治三十五年に、政治学科専門部の講師として顔を見せていることである。彼は、このとき既に我が国における心理学的社会学の導入者として、E・H・ギディングスの『社会学』(同三十三年)を飜訳し、本学の出版部から出している。

 因に、明治十九年、東京専門学校出版部(後の早稲田大学出版部)として発足した本学の出版事業が社会科学の発展にもたらした貢献は実に大きく、当時の社会学関係の出版をひろってみても、飜訳では、遠藤のギディングスの『社会学』のほか、E・ロス、高橋正熊訳『社会統制系統論』(同三十八年)などがあり、研究書としては前掲の安部の『社会問題解釈法』をはじめ、杉山重義『都市発達論』(同三十五年)、更に講義録として安部の『比較市政論』(同四十三年)、『市政論』(同四十四年)などの問題作を送り出している。そしてこの他、当時、『普通社会学』四巻の体系化を急いでいた建部の社会学の輪郭を示す『社会学原理』(同三十四年)、『社会学』(同三十七年)、『社会学汎論』(同三十九年)などといったものを見ることができる。

 こうした経緯を辿りながら、明治四十三年、文学科においても、また政治経済学科においても、一つの転機を迎える。先ず文学科では、この年にこれまで社会学を担当してきた建部が退き、あらためて哲学科と史学科にそれぞれ社会学の講義が新設され、前者は遠藤隆吉が、また後者は山崎直三が担当することになる。そして同年、政治経済学科に「都市問題」の講義が安部の担当で置かれたことは、先にも述べた通りである。

 このような変遷を、明治三十一年から、大学令発布(大正七年十二月)に基づく機構改正の大正八年までの文学科と、政治経済学科における社会学関係の講義とその担当者を示すと、第五十表に見られるような構成と変化になる。

 さて大学令の公布により、新たに公私立大学および単科大学が、大学として設置を認められることになるが、この改革が、明治以降の我が国の教育制度にとって重要な意味をもっていたことは言うまでもない。そしてこの学制改革に伴う学部昇格に伴い、各学科とも学科構成の上で充実が図られ、社会学も哲学科社会哲学専攻として再出発したことは、前にも述べた通りである。

第五十一表 社会学関係科目および担当者(明治三十一―大正八年)

 尤も大正九年度は、哲学科に、新たに「人類学」(担当・西村真次)が置かれ、また政治経済学部より杉森孝次郎が出講するに留まっている。しかしその翌年の大正十年度になると、文学部においても社会学は、関与三郎を中心として、大幅な改革を見ることになる。その一端を示すと社会学関係では、「社会学」が二年度と三年度に分割され、その他に三年度に「近世社会問題」と「統計学」が配置され、更に大正十三年からは、「社会学」が一年度に、二年度に「社会学研究」「社会問題」、三年度に「社会学研究」「統計学」が置かれている。このうち「社会学研究」は、二年度では応用社会学の諸部門を、また三年度では学説史を講じていたようであり、この構成はその後も長らく続けられている。

 なおこの時期になると、本学出身の社会学者の活動もしだいと活発となり、既に大正三年『プラグマティズム講話』を世に送り、また留学中The Principles of the Moral Empire(1917)によって名声を得、続いて『新社会の原則」(大正十年)、『倫理学』(同十三年)、『社会進歩の純粋原則』(同年)、『社会学』(昭和二年)、『改定教育と社会改造』(昭和六年)を次々と刊行、文明評論家としても独自の地位を築いていった杉森孝次郎をはじめ、大正十三年『社会学原論』を発表、次いで『社会学概説』(昭和四年)等の業績を生んだ川辺喜三郎、あるいは大正十四年『社会学十二講』によって、当時、若い学徒達に社会学啓蒙のうえで多大な影響を与え、その後も『文化の社会学的考察』(昭和三年)をはじめ、社会問題にも鋭い発言を続けていった杉山栄など、いずれも戦前の我が国の社会学の発展を飾る人物を送り出していくことになる。

 こうして本学の社会学も、時代とともにその裾野を拡げ、優れた人材を輩出していくことになるが、特に大正デモクラシーの興隆から、昭和初期のプレ・ファシズム期に激しく揺れ動く社会科学の潮流にあって、学内だけではなく、学外においてもさまざまな動向が見られるようになる。その一つが、昭和六年に結成された「社会学研究会」の活動であろう。

 この研究会は、現実社会よりの逃避のなかで「老境の静寂を楽しみつつある」と言われた形式社会学の克服を目指して、一九二〇年代の思想状況のなかで展開された文化社会学の導入に先進的な役割を果しただけではなく、「唯物論研究会」結成前夜にあって、戸坂潤らを中心に、厳しいイデオロギー論争に身を投じた若いリベラリスト達の集りでもあった。こうして出版されたのが、『文化社会学叢書』三巻(昭和六―八年)であり、またこれを引き継いだ形で送り出されたのが、『社会哲学社会科学評論』(昭和八年)である。

 後者は、惜しくも第一輯だけで終っているが、そこで示された文化批判とイデオロギー論は、その後の知識社会学と市民社会論の展開のうえで、きわめて大きな意義をもつことになる。そしてこの中心メンバーとして活躍したのが、当時、本学の哲学科を卒業して間もない岩崎務、武田良三、佐藤慶二であった。

 ここで岩崎は、特に文化哲学の立場から価値体系の問題に立ち向かい、また武田は、G・ルカーチ、K・マンハイムを、更に佐藤は、M・シェーラー、W・イェルザレムをとおして知識社会学の分析に向かうことになるが、そこに見られたのは、いずれも当時の市民社会の危機に対する厳しい緊張感に支えられた文化批判にあったと言ってよい。その後まとめられた武田の『知識社会学の展開』(昭和二十三年)、および佐藤の『文化社会学』(同十七年)は、いずれもこの時期に始まる彼らの文化社会学の体系化の一端を示すものと言えよう。

 一方、学内においては、昭和七年度から社会哲学専攻は社会学専攻と改められ、これに従って学科編成のうえでも変更を見ることになる。ここで新たに配置された社会学専攻の科目は、「社会学」「社会問題」「社会学研究」「民族心理学」であり、この構成は昭和十五年まで変っていない。そして昭和七年から渡利弥生を、また昭和八年度、欧米の留学から帰国した松田治一郎を迎え、関、渡利、松田によってこれらの科目が担当されることになる。

 昭和十六年度からは、文学部の履修規定が変り、哲学科においては、各専攻を通しての文学部共通科目、哲学科共通科目、専攻必修科目および選択科目、合計十八科目の履修を必要とするうえ、これ以外に専攻指導演習および卒業論文を求められることになるが、社会学関係について言うと、文学部共通科目として「人類思想史」が、また社会学専攻の科目のなかに「社会学」「社会学史」「社会問題」「社会学研究」が置かれている。なおこの年から、川又昇が「社会学研究」のうち「社会調査」を担当、また十九年度から、武田良三が「社会学研究」を担当し、この構成は、科目および履修規定のうえで多少の変更をみながら学制改革による昭和二十四年の新制大学への移行期まで至っている。

 因に、昭和二十四年度の社会学専攻の必修科目は、「社会学」「社会学史」「社会問題」「民族心理学」「社会調査」「心理学研究」「社会学研究」「指導演習」となっている。二十五年度からは大幅な改正がみられ、「社会学方法論」「社会学史」「社会調査」「実践社会学」「文化社会学」「民族心理学」「社会学研究」「演習」という構成になる。特にこうした変動期にあって、当時専攻主任として松田治一郎教授の果した功績は大きく、「社会学史」「社会学方法論」「演習」といった一貫したシステムによって、今日の社会学教育の基礎を築き上げていくことになる。

 しかし変化を遂げたのは、このような教育制度やカリキュラムの面だけではなかった。戦後の混沌とした社会状況と新たな民主化の過程のなかで、我が国の社会科学自体もまた大きな変化を経験しなければならなかった。そして恐らくそのなかでも、最も激しく変貌していったのが、社会学であったと言えるだろう。このことは、「アメリカン・サイエンス」とまで自負されたアメリカ社会学の流入にだけよるものではない。確かに占領下という状況をも含めて、戦後このような動向のなかで、我が国の社会学研究者の数が飛躍的に増大していったことは事実である。けれども更に重要なことは、戦後、急激に進行する都市化・産業化の波によって変化を強いられた現実のなかで、社会学そのものが実証性を強めながら、経験科学として力強く進み始めたことにある。

 勿論、戦前の我が国の社会学においても、農村や家族研究の領域において、高い水準の実証研究が行われ、多くの業績を挙げてきたことは、よく知られている通りである。だが戦前にはドイツ社会学の強い影響下にあり、また厳しい言論・思想の統制のもとにあって、社会学も現実との結びつきのうちに実証研究を進めていく状況にはなく、観念的な性格を強く持たざるを得なかった。こうして戦後の新たな社会的・思想的状況のもとで、社会科学を縛る枷が外されたとき、社会学もまた質的に大きく変化していくことになるのである。そしてこのような動きは、当然、若い社会学徒達に新たな刺戟を与えずにはおかなかった。こうしたなかで、本学の社会学も、松田、武田を中心として一段と教育体制の充実が図られるとともに、新たな研究活動のための土壌が培われていくことになる。

 「早稲田大学社会学会」設立の動きは、なによりもそうした社会学の夜明けを告げる鶏鳴であったと言えよう。この学会は、昭和二十一年二月十四日に創立準備大会が持たれたあと、翌二十二年一月十八日に第一回総会が開かれ、結成の運びとなる。そして学内の教授および研究者に、石橋湛山(明治四十年文学科卒業)をはじめ卒業生を加え、ここに学会が誕生、新たな研究活動が開始されることになる。戦後の混乱期にこのような研究活動の場が組織されたことは、本学における社会学がいかに強靱な伝統を持っていたのを如実に示したものということができよう。そして結成十年目に当る昭和三十一年より、機関誌として『社会学年誌』が刊行され、今日に及んでいる。

 なおこうした学会活動とともに、戦後の新しい動きとして特筆しなければならないのが、調査研究活動である。武田は、活発な研究活動の傍ら、これらの調査活動を通じて大学院の育成に努め、その成果は、その後広く後進によって、引き継がれていくことになる。昭和二十七年より始まる北海道八雲町開拓地農村調査、三十年の瀬戸内海伊吹島の離島調査、あるいは三十三年に始まる福島県常磐炭鉱調査と、それに続く新産業都市地域調査などは、いずれもこれを伝えるものである。これらの調査結果は、それぞれ「離れ島漁村の社会システム――瀬戸内海伊吹島の場合」(『社会科学討究』特集・六号)、「炭鉱と地域社会――常磐炭鉱における産業労働家族および地域社会の研究――」(『社会科学討究』特集・二十二、二十三号)としてまとめられている。

 また同時に指摘されなければならないことは、こうした動きと併行して、隣接科学との共同研究や調査が幅広く推し進められていったことであろう。これには、昭和三十年四月、これまでの「人文科学研究所」と「大隈研究室」が統合され、新たに「社会科学研究所」が設立、学内の社会諸科学の連携と共同研究の場として再出発したことも、大きく係わっている。昭和三十三年度、三十五年度の総選挙の実態調査をはじめ、三十八年に始まる地方産業都市の権力構造の調査などは、いずれもこの社会科学研究所の共同研究として行われたものであるし、また三十九年に始まる親族組織の調査もその例外ではない。

 さてこうしたなかで社会学教育もまた、新しい方向へと向っていくことになるが、ここで特徴的なことは、昭和二十九年度から必修として、「社会調査実習」が、他大学に先がけて取り入れられたことであろう。こうして社会学専攻のすべての学生が、フィールド調査の経験を与えられることになり、教育面からも多大の成果を挙げていった。そして昭和三十七年には、小集団の実験室が開設され、教育・研究の両面においてユニークな業績を挙げていくことになる。

 なお新制大学発足後の社会学専攻専任教員を示すと、松田治一郎(昭和八年―三十九年)、武田良三(昭和十七年―四十三年)、川又昇(昭和十三年―五十一年)、鈴木二郎(昭和二十三年―二十六年)、林三郎(昭和二十八年―五十二年)、近江哲男(昭和三十二年―五十八年)、外木典夫(昭和三十七年―)、佐藤慶幸(昭和三十八年―)、秋元律郎(昭和三十九年―)、喜多野清一(昭和三十九年―四十六年)、浜口晴彦(昭和四十二年―)、牧野巽(昭和四十四年―五十年)、正岡寛司(昭和四十三年―)、嵯峨座晴夫(昭和五十年―)、間宏(昭和五十一年―)、長田攻一(昭和五十二年―)、坂田正顕(昭和五十三年―)となる。

 また商学部にあっては、寿里茂、教育学部にあっては、丹下隆一が社会学を担当、文学部社会学専攻において兼任している。

第五十二表 第一文学部社会学専攻科目および担当者(昭和五十七年度)

 カリキュラムについては、戦後幾たびか改正を見ているが、昭和五十七年度の第一文学部および同五十八年度大学院の科目編成と担当を示すならば、第五十二表および第五十三表に見られる通りである。

第五十三表 大学院文学研究科社会学専攻科目および担当者(昭和五十八年度)

 また第二文学部は、昭和四十四年の改革に伴い、従来の社会学専攻は社会専攻と改められ、内容もこれまでの専門部門別による編成をやめ、社会学、心理学、教育学の連携によって、新たな統合的な人間科学教育を行っており、いわば学際的な構成が採られている。

 更に大学院は、昭和二十六年の新制大学院の開設以来、修士課程・博士課程を持ち、今日に至るまで優れた人材を多くの大学および研究機関に送り込んでいる。そして在学の院生による研究活動もまたきわめて活発に行われており、注目すべき業績を発表し、その成果が期待されている。こうして生みだされた力強い芽が、次代を担う力であることは言うまでもないところであろう。

六 教育学専攻

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 早稲田大学文学部教育学専攻の創設は、昭和十六年に溯る。

 主任には同年一月に、論文『教育哲学』を以て文学博士号を取得した稲毛金七教授が就任している。

 稲毛教授はドイツ理想主義教育哲学研究者であり、大正末年に八大教育思潮の一つとして「創造教育論」を提唱して広く知られていた。かねてから教員養成のためのみではなく、教育論壇に新風を送る人材養成のために哲学科に教育学専攻の設置を念じていたが、漸くその念願が実ったわけである。

 第一回の入学者に、今日、地元の短大にも出講している大沢俊吉(行田市史編纂室)が、続いて女子学生の田中未来(白梅学園短大教授・幼児教育学専攻)らの名が見える。

 ところで昭和十八年十一月の学徒出陣式、また勤労動員と戦火が熾烈になるにつれ、いわゆる授業は形だけのものとなり、授業の正式再開は、戦後の昭和二十年九月をまたなければならなかった。

 ここで戦後の専攻の経緯を明らかにする前に、戦前の、古くは明治時代からある文学部における「教育学」なる学科目とその担任者について見ておきたい。

 先ず金子馬治が明治二十六年から五ヵ年に亘り教育学と教育史を、三十一年から三ヵ年教育制度史を講じていることは見落せない。

 また明治三十五年には専門部文学諸学科で中島半次郎が教育史、教授法を担当しているのを知る。それはこの前年、東京専門学校から早稲田大学に改称し、実質的に大学として発展を目指していたこと、ならびに翌年春、無試験検定による中等教員免許状が初めて発行されていることと無縁ではない。この中島の属していた文学諸学科は、改正学則実施すなわち三十六年九月から高等師範部に属しているが、中等教員養成の充実のためか、中島は教育学、教授法を、また松本孝次郎が、特殊教育、教育法令、教育学を担当と変化をみせている。

 中島の場合、翌三十七年には高師で上記のほかに教育史および実地授業を担当し、更に文学科で始めて教育学・教育史・教授法の科目が設けられ、これを担当した。翌年高師における教育学を松本に委せている。

 明治四十年からは文学科では、教育学と教育史を、当時高等師範学校教授で教育学・教育史研究で令名の高かった大瀬甚太郎が、その後大正期を通じ、昭和四年の文理科大学長の就任に至るまで担当している。大瀬が文部省検定委員であったことは文学科ならびに文学部学生にも利するところ大であったと考えられる。

 いずれにせよ大正期は、文学科では、中島が教授法と教育学研究を、また大瀬が教育学と教育史を講じていたといえるが、その特色は英米流のプラグマチズムを主流とするものであったと解することができよう。また、大正七年の大学令改正により、早稲田大学も大学として認められ、それによって大正十二年から文学部卒業生に高等学校高等科教員無試験検定資格が与えられるところとなり、教育学と教授法が必修とされている。

 さて昭和に入り二年から、中島半次郎に代った稲毛金七が、哲学科において教育学、教育史を講じ、前述のように昭和十六年の専攻設置に伴い、教育学研究と教育学演習をも担当するところとなった。

 稲毛は既に見たようにドイツ理想主義教育学の研究者として知られ、その独自の研究を進めていたが、教授法ならびに教育行政については、師範学校長をも歴任した小沢恒一の援助を最初から得ていたことを付け加えておこう。

 かくするうちに終戦を迎えたわけであるが、稲毛金七教授の昭和二十一年春の死去に伴い、第一高等学院長として教務部長の職務をも兼務し、更に昭和十六年の専攻創設以来教育史を講じていた原田実教授が、文学部教育学専修主任に任ぜられた。そして実に早稲田大学文学部教育学専攻は、同教授の昭和三十五年三月の定年退職に至るまでの幅広い活躍によって、その基礎を固めることができたのであった。

 原田は大正二年に文学部文学科英文学科を卒業、中島半次郎の推挙で『教育時論』記者、のちに主筆として教育論壇に重きを成す一方、大正五年エレン・ケイ女史の『児童の世紀』訳書を大同館より刊行、大正九年には同じく訳書『恋愛と結婚』を天佑社より刊行するなど、エレン・ケイ研究家として、また大正期新教育運動の理論的推進者でもあった。そして大正十三年母校に乞われ、第一高等学院教授、高等師範部教授、同部長を経て第一高等学院院長の職にあった。

 新たな陣容により出発することとなった昭和二十一年度の教育学専修の学科配当をみれば、原田は、教育史、教授法と教育学研究(一)で教育哲学を、それに教育学指導演習を、小沢恒一は教育学研究(二)で教育行政を、我が国における教育社会学の草分けでもある田制佐重は教育学研究(三)で教育社会学を、教育心理学は特異児童研究で知られていた戸川行男のそれぞれが担当している。

 教育学は東京大学教授で日本教育学会副会長の要職にあった上村福幸(昭和二十八年教育学部教授)が担当しているが、同教授が昭和二十九年の逝去に至るまで、教育学専攻のみならず広く文学部学生に、その該博な学識と温厚な人格によって与えた影響を見落すことはできない。

 昭和二十四年に新制大学への移行に当って、高等師範部が教育学部に昇格するに伴い、文学部教育学専修もそれに統合されるかにみえたが、原田が「アメリカのコロンビア大学のような実験小学校をもたない教育学部への統合はあり得ず、従ってリベラルな文学部の中に教育学を位置づけることが必要である」との見解を持っていたことは、知られざる秘話である。また同教授は内閣の大学設置委員会臨時委員および文部省教科用図書検定調査審議会長を務め、なおかつ『アメリカ教育概説』(昭和二十三年、東京堂)をはじめ多くの労作を公にするという多忙の中にあっても、学生の指導はきめの細かい懇切なものであったことは、多くの人の崇敬するところであった。

 さて上村の推挙で、神奈川師範学校助教授を経て、東京大学付属中学校で学習指導の分野で活躍していた大槻健を、昭和二十五年から非常勤講師として、二十八年に専任の助教授として迎えたことは、新制大学の文学部教育学専攻の新たな発展をもたらすところとなった。

 大槻は『学校と教師』(昭和五十二年、青木書店)をはじめとする数多くの労作を公にするとともに、教育科学研究会常任委員、日教組講師団、日本教育学会常任理事を歴任し、現在は同学会事務局長をも兼務し、文字通り民間教育運動の指導者となっている。同教授はその特異な活動によって教育学科の充実と発展に努めている。

 昭和二十八年からは、樫山欽四郎教授の下で西洋哲学を専攻し、旧制大学院で原田実教授の指導により教育哲学を専攻し、玉川大学で小原国芳学長の絶大な信頼を得ており、ジョン・ロックの『教育に関する考察』(昭和二十八年、玉川大学出版部)の邦訳を完成していた押村襄を講師として迎えている。

 押村は著者『ルソー』(昭和三十九年、牧書店)を公にしているように、ロック、ルソー等近世教育哲学の優れた研究家であるとともに、昭和三十一年専任講師となり、その後第二文学部教務副主任をはじめとして、第一、第二文学部教務主任、第一・第二文学部長、理事、常任理事といわゆる大学行政に参画し異彩を放った。なお永年に亘り、教育哲学会常任理事を務めたことも付記しておきたい。

 昭和三十四年には二人が専任として迎えられた。その一人は東京都立大学助教授であった児玉三夫であり、ペスタロッチやデューイの研究家であり、昭和三十五年に第一文学部の主任教授となり、昭和五十一年に教育学部に移籍し、昭和五十三年に退職、現在明星大学学長の要職にある。

 もう一人は、中嶋博であり、昭和二十五年に本専攻を卒業し、旧制大学院に進み原田実教授の指導を受ける一方、同年文学部で新発足の制度により副手となり、昭和二十九年に日本女子経済短大助教授となり本学講師を兼ねていたが専任講師に迎えられた。この年の春『アメリカ教育思想の展開』(刀江書院)を公にしていたが、昭和三十七年から一ヵ年ヘルシンキ大学に招かれ、帰国以来、北欧の教育を中心とする比較・国際教育を専攻しており、昭和五十年末から五十五年九月まで専攻主任を務めた。現在日本比較教育学会常任理事、スウェーデン社会研究所常務理事をも務めている。

 昭和四十二年には昭和二十九年に本専攻を卒業し、引続き新制大学院で原田実教授に師事し、本学副手、助手を経た村田勝彦が、米国アーラム大学招聘教員の任から帰国し、専任講師として迎えられた。専攻は教育社会学で、共著『現代教育学』(昭和四十四年、協同出版)その他があり、現在第二文学部社会専攻主任である。

 昭和四十六年には、松村憲一が専任講師に迎えられた。松村は昭和四十二年から本学助手を務めていたが、大学院を経て芝浦工大付属高校に職を奉ずる間、一貫して近代教育思想史・日本社会教育史を専攻しており、昭和四十五年には共著『愛国心教育の史的究明』(青木書店)を公刊するとともに、国立教育研究所が学制頒布百周年を記念した出版『日本近代教育百年史』全十巻(昭和五十年)の社会教育の第七・八巻の執筆者として加わっている。松村は昭和五十三年―五十四年の間、カナダのブリティッシュ・コロンビア州立大学に在外研究員として留学後、第一文学部教育学専攻主任となり今日に至っている。

 昭和五十三年には鈴木陽子を専任講師に迎え、教授陣の強化が図られた。鈴木は自由学園から本専攻に学び、東京教育大学附属聾学校で多年教鞭を執り、米国パーキンス盲学校に交換教員として派遣され、ハーバード大学にも学んでいる。スミスダス『光と音を失っても――三重苦の人生』(昭和四十三年、日本放送出版協会)の翻訳などの業績のある特殊教育学専攻の数少い研究者の一人であり、新しい時代の教室の発展をここに見ることができる。

 以上昭和五十七年現在の教育学専攻の専任教員六名についてのプロフィールを明らかにしたが、それぞれの専攻分野について整理してみるならば、大槻健教授(学校教育)、押村襄教授(教育哲学)、村田勝彦教授(教育社会学)、松村憲一教授(社会教育史)、中嶋博教授(比較・国際教育)、鈴木陽子助教授(特殊教育)となろう。

 ここには教育行政が見当らない。従って教育学部の鈴木慎一教授に担当を願っている。また日本教育史は旧制大学最後の卒業生で、新制の大学院の第一回生でもあり、論文『明治初期における私立中等学校の研究』で本学から文学博士号を授与された神辺靖光を迎えている。なお第二文学部においても、その設置以来以上と同様の陣容で臨んできた。

 これまで学部のことを中心に述べてきたが大学院、特に新制大学の文学研究科のことについて触れておかなければならない。

 新制大学院は昭和二十六年四月に開設され、文学研究科の教育学専攻が原田実教授を中心に組織されていることは言うまでもないが、日本教育史の尾形鶴吉教授、教育心理学の戸川行男教授の三人を以て発足し、翌年文献研究に上村福幸講師が加わっている。

 やがて慶応義塾大学から小林澄兄博士、上智大学から稲富栄次郎博士、お茶の水女子大学から石川謙博士、富山大学教育学部長の長谷川亀太郎教授、東京大学から牧野巽講師(のち本学教授)ら、我が国の教育学界を代表する方々を迎えるところとなり、全国各地の大学出身者を学生として収容することを得た。

 昭和五十七年現在の大学院は、教育学研究指導を大槻健教授(学校教育)、押村襄教授(教育哲学)、山下武教授(日本教育史)、中嶋博教授(比較・国際教育)が担当しており、前期・後期課程を通じて約三十名の院生を擁している。

 この新制大学院の修了者は教育学の各分野で活躍しており各大学で教鞭を執るものも少くない。

 また話は前後するが、原田実が昭和三十五年三月に定年退職され、その古稀記念教育学論文集『人間形成の明日』を昭和三十六年十一月に刊行することを得た。そこには専攻関係教員、門下生のみならず、我が国を代表する教育学者を広く糾合することを得たことは、教授の人柄のしからしめたころとはいえ、当教育学専攻の社会的位置を物語るに十分である。

 原田のことについては、昭和三十一年十二月に論文『教育の基礎的考察』により文学博士号が授与され、昭和三十五年定年退職後、名誉教授となられ、私学教育研究所長として精力的な活動を続けられたが、昭和五十年一月に他界され、享年八十四歳であったことを付け加えておきたい。

 当専攻が主体となって招き講演もしてもらった諸外国からの著名な学者としては、アメリカのR・ウーリッヒ教授Prof. Robert Ulich(教育史)、イギリスのE・キング教授Prof. Edmund King(比較教育)、西ドイツのJ・デルボラフ教授Prof. Josef Derbolav(教育哲学)、フィンランドのM・コスケンニエミィ教授Prof. Matti Koskenniemi(教員養成)らがある。

 明治・大正期に中島半次郎によって、戦前に稲毛金七によって、更に戦後に原田実によって確立された、教育学専攻のリベラルで在野的な伝統のあかりは、今日および明日の激動と革新の時代において我々の行方を照らしているかにみえる。

 なお教育学専攻で、昭和四十二年以来続けられている春秋二回の専任教員と学生の全員参加を原則とする合宿研究会は、相互の意志疎通を図り、信頼感を呼び起すところとなり、そのために昭和四十一年、四十四年、四十七年と相次ぐ学園紛争、とりわけ文学部ではバリケード・ストライキという異常事態下にあっても、その絆を断ち切ることのなかったことに、当専攻の民主的な特色をみるものである。

七 人文専攻

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 人文専修課程は、昭和四十一年度の学部組織の改変によって、文芸専修課程とともに新設された課程である(当時は、「専修」ではなく、「専攻」と呼ばれいてた)。既に当時、一文組織委員会には、松浪信三郎教授が人文専攻課程新設のために加わり、他の委員とともに鋭意学部の改組について検討を重ねていたが、昭和四十年六月の臨時教授会で改組案が承認された。新制度は昭和四十一年新入の学生から適用、発足、同四十三年四月から、専攻主任を松浪信三郎教授として、人文専攻三年生、四十三名(定員六十名)を迎えることとなった。

 人文専修設立の趣旨は、当時の改組趣意書に記されているように、細分化されて、相互に連絡を欠く傾向にある学問分野に、綜合研究のための場を提供することにあった。そこで、専門の学科に囚われず、広い視野に立って、人間性を基調とする東西古今の文化と思想とを、現代の観点において学生達に把握させることをその目的とした。これは優秀な人文学者、評論家、公正なジャーナリスト、エディターなどが輩出することを期待していたからである。この目的を達成するために、演習として、三年度生に「現代思想」A、B二クラス、「近代思想」A、B二クラスを、四年度生に「西洋古典」A、B二クラス、「東洋古典」A、B二クラスを置き、これを必修とした。演習は原則として日本語ないし翻訳を使用することとし、でき得るかぎり多くの書物を読ませ、また文章による表現を養うことに重点を置いた。演習以外の他の専門科目Aと専門科目Bとは、当初においては、原則としてⅠ類の、後に、Ⅰ類、Ⅱ類の枠を撤廃して(昭和四十七年度)、他のすべての専門科目のうちから所定の必要単位を自由に修得することができるように定めた。また卒業論文には特に重点を置き、人文専修のために新たに専任教員を採用しなかったので、文学部全専任教員にそれぞれ分担指導していただくこととなった。

 さて、演習担当者は、昭和四十三年度、「現代思想」Aが鈴木成高、「現代思想」Bが松浪信三郎、「近代思想」Aが樫山欽四郎、「近代思想」Bが押村襄の諸教授であった。昭和四十四年度では更に、「西洋古典」Aは松浪信三郎、「西洋古典」Bは有田潤、「東洋古典」Aは小林昇、「東洋古典」Bは水野祐の諸教授がその担当者であった。この年、「近代思想」Bを平岡昇教授が押村教授に代って新たに担当した。また昭和四十六年度からは、新たに社会思想の武藤光朗講師(昭和五十年四月以降、客員教授)に「現代思想」Bの指導を依頼した。また「現代思想」Aの方は哲学から教員を出すようになった。この他、「近代思想」は哲学と教育から、「西洋古典」は哲学と西洋史とから、「東洋古典」は東洋哲学と日本史とから、それぞれ教員がいわば出向する形であった。

 さて、実際に、このような制度を発足させ、人文に学生を迎え入れて見ると、発足当時から、昭和四十八年度に至るまで、定員六十名の学生を集めることは難しく、特に、人文を第一志望にする学生は人文進級者の半数位で、現実には、他の専攻に進めないで、第二、第三志望として人文へまわされる学生が多く、演習の授業も、学生の関心が多岐に亘っているため統一を欠き、授業の雰囲気は必ずしも感心できるものとは言えなかった。しかし、昭和四十九年度から、学生の関心を呼び、第一志望者が増え始め、最近では、第一志望者のみで定員を満たし、遂には人文に進級できない者を他の専攻へまわすこともあるような状況になってきた。またそれにつれ、十分な研究意欲と志向性とをもった学生が集まるようになり、人文設立の意図が実現するようになってきた。

 さて、人文設立の趣旨と目的とを生かすため、学生の提出した卒業論文のうち優秀なものを発表するという目的で、人文専修の機関誌として、論集『現代思想』が発刊されたのは、昭和四十六年十二月であった。創刊号には、松浪信三郎教授が創刊のことばを書き、「サルトル」「メルロー‐ポンティ」「ニーチェ」に関する卒業論文三点が掲載されている。また巻末には、卒業論文題目と演習担当者の氏名一覧が掲載され、これはそのまま人文専修の歴史を物語っている。以後、五十七年三月に至るまで、ほぼ隔年で五号まで刊行されたが、いずれも、卒業論文を中心にし、卒業論文題目と演習担当者氏名を巻末に記録してある。しかし、昭和六十二年三月号からは『人文論選』と改題し、福井文雅主任教授が「改題・発刊の辞」を寄せている。

 このような新しい学科の運営が上手に行くかどうかは、学生を指導する教員に重大な責任がある。発足当初から、一名の専任教授もおらず、若干の専攻から出張教授をする状況では、学生指導の面で期待すべきほどのことは少く、昭和五十年には「人文・文芸各専攻運営委員会に関する内規」が考え出されたが、昭和五十一年十月に、いわゆる出向制度が教授会で討論の上決定された。しかし、これも、実際の運営は各専攻に任かされており、現実的にはまだ改善されるべき点をかかえている。当時の岩波哲男、中嶋博両主任の努力と、新助手制度の発足に伴い岩見輝彦、實成望、池上公平の三助手の尽力によって、学生指導の面で少し改善が見られたことを付記しておく。

 昭和五十四年度から、一・三制の発足に当り、新たに人文二年生を迎えるようになったが、カリキュラムは基本的に変更されることなく、ただ演習の配置を、二年生一演習、三年生二演習、四年生一演習とし、他は従来通り自由選択とした。その結果、新制度の二年生の演習は「西洋古典」とし、四年生は「東洋古典」を必修とするのみで、三年生の演習に関しては従来通りとした。しかし、昭和六十一年度から、定員九十名一学年三クラスになり、それに伴う新カリキュラムは六十三年度に完成した。「地域研究」(北欧、南米、スペイン、東南アジア等)が新設されたのが、その特徴である。

 人文専修発足以来、既に二十数年の歳月を数えるに至った。昭和四十五年三月に最初の卒業生を送り出してから、既に六百人以上の人文専修卒業生が社会で活躍している。その就職先も千差万別で、新聞社、テレビ・映画界、出版社等のジャーナリズム関係、公務員、教師、コンピュータ関係、その他一般会社等、文学部としては、恐らく最も多彩を極めているといえよう。また大学院に進級した者のうちには、既に研究者として活躍している者も出ている。

八 日本文学専攻

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1 創設時から旧制時代まで

 和漢洋三文学を兼修し、その調和を目途として、文学科が東京専門学校内に創設されたのが明治二十三年九月、以来大正九年新大学令施行までの間に設置された日本文学関係の科目(講師)は、次の通りであった。

徒然草(畠山健)、古今集・文学作歌(落合直文)、和文学史・和文文法(関根正直)、課外講義(饗庭篁村)

 開設当初の入学者には、一期生水谷不倒・永井一孝、二期生島村抱月、三期生五十嵐力綱島梁川らがいた。

 講義科目については、明治二十五年には畠山による歌集(古今・万葉)、関根による古文(枕草子・水鏡・源氏物語・大鏡・増鏡・宣命・栄花物語)など具体的作品名が知られ、同二十七年には今泉定介が講師陣に加わり、以後三十七年国文学(芳賀矢一)、近世国文学(佐々政一)、三十八年国文学(岡田正美)、近世国文学(佐々)、三十九年国文学(畠山)、国文学史(佐々)、国文学研究(永井一孝)、そして明治四十二年に文学科に和漢文学科が独立設置された。

 その輪郭は、左の表の如くである。

第五十四表 大学部文学科和漢文学科学科配当表(明治四十二・四十三年度)

 明治四十四年、五十嵐力の源氏物語が三年次の科目に新設され、他は科目内容・担当者とも大差はない。

 大正九年新大学令施行とともに、和漢文学科から発展的に国文学専攻が誕生する。当初の科目表をみると、必修としては、五十嵐の国文学概論と窪田通治(空穂)の国文学だけであるが、別に、源氏物語・王朝散文研究(五十嵐)、万葉集(窪田)という科目のあったことを伝える資料もあり、他に、史学科の国語として国文提要・徒然草(永井一孝)、名著断片(五十嵐)、文法(岡田正美)の科目もあった。

 大正十一年には科の内容も左のように整備された。

第五十五表 文学部文学科国文学専攻学科配当表(大正十一年度)

 四半世紀を超える前身時代を経て、五十嵐力窪田空穂山口剛という三碩学を柱とする国文学専攻が成立したのである。

 五十嵐は山形県米沢市の出身、明治二十三年秋東京専門学校に入り、坪内逍遙大西祝に師事、「真善美を論じて詩歌の精神に及ぶ」を卒業論文として提出。文学科講義録に二十九年以降「近世独逸文学史」を連載、教壇に迎えられてから「児童学」を連載、『児童之研究』をまとめ(三十九年二月)、また、我が国文章心理学の創始である『文章講話』を三十八年(後増補して『新文章講話』を四十二年)に、日本文学史を純粋に文芸学的に説述しようとした『新国文学史』を四十五年に、以下、学位論文となった『国歌の胎生及び発達』の他『軍記物語の研究』『平安朝文学史』『大日本古典の偉容』の諸研究書、『祝詞』『枕草子』『大鏡』『和泉式部日記』『源氏物語』などの評釈・口訳書、『純正国語読本』十巻、『五十嵐力集』六巻の随筆などを遺して、終始、文芸の文芸としての味読・研究を志向すべきことを説いた。大正九年には文学部長となり、その後、幾度となく要職についている。昭和二十二年没。

 窪田は長野県東筑摩郡出身。一度、東京専門学校に入ったが一年間で退学、実業に携わったり、小学校の代用教員を勤めたりした後、三十三年再入学、その間『文庫』に短歌を投稿して与謝野鉄幹に認められ、以後『明星』に短歌や詩を寄せたり、『電報新聞』短歌欄の選者となったり、『山比古』『紫陽花』『北光』等の短歌誌を創刊主宰したりして、三十八年第一詩歌集『まひる野』が刊行される。

 時に自然主義文学の、時に心境小説流行の文壇の動向に沿うように、短歌・小説などの創作を遺歌集『清明の節』まで旺盛に続け、その間伊勢物語・枕草子・万葉集・古今集・新古今集等の評釈、『奈良朝及平安朝文学講話』『平安朝文芸の精神』『古典文学論』『近世和歌研究』等の研究、源氏物語の口語訳など、その秀れた詩人的感性に基づく諸業績を遺し、全集二十八巻にまとめられている。昭和三十三年国の文化功労者に選ばれ、昭和四十二年没。

 山口は茨城県土浦の出身。明治三十五年東京専門学校高等師範部国漢文科に入学、三十八年卒業。四十五年に講師、大正七年には高等師範部の助教授となっていたが、その学殖は和漢に通じ、万巻の書を関東の大震災に消失してのち、陸続と研究を発表した。『源氏物語』については、「もののけ」や「もののまぎれ」をめぐって考察し、『源氏』と西鶴の『好色一代男』との対比研究をし、『日本名著全集』の怪異小説、西鶴・浮世草子・酒落本・黄表紙・合巻・滑稽本・人情本・読本等に亘って、厳密に本文を校訂し、深切な学問的解題を附するなど、また、近松や歌舞伎の戯曲、成美、一茶の俳諧に関する研究、更に、『詩経国風』『西廂記』『長恨歌伝』など中国古典の日本語訳、『春秋左氏伝国字解』などの注釈と、その業績は深く広い。『断碑断章』『明和の一人』などの名随筆とともに、『山口剛著作集』六巻に収められている。昭和七年没。

 三碩学に共通する、文学を文学として研究する方法が以後早稲田の学風となった。

 西村真次は、人類学・民族学・神話学など広汎な領域に亘って先駆的業績を挙げた史学科の教授で『万葉集の文化史的研究』などの著書がある。

 その後、大正十三年には、窪田の万葉集(1・2年)、和歌史(2・3年)、山口の近松研究(1年)、江戸小説史(1・2・3年)、七部集(2年)、五十嵐の源氏物語(1・2・3年)、上中古文学(1年)、中古散文研究、安藤正次の国語学と黒木勘蔵の浄璃瑠史が加わった。安藤はのちに台北帝大の総長にもなり、戦後初代の国語審議会会長として、現代かなづかい当用漢字の案をまとめた国語学者であり、その著作集が近年刊行された。黒木は浄璃瑠研究者で、その業績は『近松門左衛門』『近松以後』『浄璃瑠史』にまとめられた。大正十四年には逍遙の文学通論(歌舞伎史)、五十嵐の鎌倉室町文学が加わり、十五年には山口の江戸文学概論(1年)、俳諧研究(2年)、窪田の万葉記紀歌史(2・3年)が置かれ、安藤に代って、国語学(1年)、言語学(共)を金田一京助が担当する。戦後まで国語学を担当することになった金田一は言語学・国語学者であるが、『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』などの著者でアイヌ語アイヌ文学研究の第一人者としても著名であり、昭和三十九年には文化勲章も受けている。

 昭和に入っても科目構成に変化はなく、四年に、山口担当の近世小説が上方(1年)と江戸(2年)に分けられ、日本演劇史(共)を吉村(河竹)繁俊が、明治文学史(共)を宮島新三郎がそれぞれ担当し、五年には五十嵐の鎌倉文学(3年)と野々村戒三の室町文学(謡曲)(3年)とに分けられ、明治文学史(1・2年)を樋口国登日夏耿之介)が担当する。野々村は本来西洋史学の出身だが、精細な評釈を施した『謡曲五十番輯釈』や『狂言集成』(安藤常次郎との共編)の仕事を残している。吉村(河竹)は近世歌舞伎の性格研究で学位を得、『歌舞伎作者の研究』『歌舞伎史の研究』『日本演劇史』など著書多数を遺し、演劇科を創始した。日夏はキーツの研究『美の司祭』で学位を得た英文学者だが、比較文学的成果は『明治大正詩史』以下犀利を以て知られ、詩業ともども『日夏耿之介全集』に収められている。

 昭和六年のカリキュラムは、左の如くである。

第五十六表 文学部文学科国文学専攻学科配当表(昭和六年度)

 この年から明治文学史を本間が担当している。本間はワイルドを中心に『英国近世唯美主義の研究』で学位を得た英文学者だが、実証的な明治文学史五冊以下の業績を残した。

 翌七年のカリキュラムは次のように改編された。

第五十七表 文学部文学科国文学専攻学科配当表(昭和七年度)

 岩本の随筆研究が新設され、鎌倉文学概論を伊藤が継いだ。岩本は素白と号して自らも『山居俗情』以下の文人的香気溢れる随筆を残し、『日本文学の写実精神』以下博学の所産とともに、全集三巻に収められている。伊藤は、『禅と社会』『沢庵』『仏教の理論と展開』など、仏教の側から深く日本文学とりわけ中世文学を探究した。

 昭和七年、山口剛逝去の後を承けて、八年には、浄璃瑠研究・徳川時代小説研究・徳川文学概論を石割松太郎、俳諧研究を島田青峰、支那文学(白氏文集)を近藤潤次郎、日本文学概論を再度五十嵐が担当している。石割は『人形芝居の研究』『近世演劇雑考』を著わした浄璃瑠研究者であり、島田は俳諧の実作にも携わって新興俳句に理解を示し、『青峰集』『子規・紅葉・緑雨』などの著がある。

 昭和九年以後十二年まで日本文学概論を石割と五十嵐で交互に担当、その間十年には柳田泉が共通選択科目の明治文学を、染谷進が平安和歌研究を担当する。柳田は二年に『明治初期の飜訳文学』『政治小説研究』を著わし、資料実証主義による研究はその死まで続き、明治文学叢刊全九冊として結実している。染谷は空穂門下の歌人で繊細鋭敏な研究はその夭折を惜しまれている。十一年には会津八一の東洋美術史が国文科の必修となっている。

 十二年には、石割の後任として江戸演劇と徳川文学概論を吉村(河竹)が継ぎ、翌十三年、徳川文学概論の中、散文小説の分野を独立させて暉峻康隆が担当している。同年は国語学の中の国文法の分野を独立、後藤興善が担当してもいる。暉峻は学位論文となる『西鶴 評論と研究』をはじめ、『定本西鶴全集』の校訂・小学館刊『現代語訳西鶴全集』の完成に至る西鶴研究を頂点に、舌耕文芸史をも含めて広い研究を続けている。四十六年には学部長として大学紛争の収拾に当った。後藤は説話文学の研究から国文法研究に転じた。

 十四年には日本文学概論を岡一男が担当。岡は紫式部の研究によって学位を授けられるが、源氏物語を中心に、博く補助科学を動員して日本文学の全貌を文芸科学的に捉えることに努め、成果は『源氏物語の基礎的研究』『古典の再評価』『古典逍遙』等となっている。

 十五年には異同なく、十六年に俳諧研究が必修科目に移り、三年間に選修すべき科目に国文学特殊研究四科目が開設されたのが注目される。岡の紫式部、安藤常次郎の世阿弥、暉峻の西鶴、吉村の近松がそれである。安藤は早く野々村と『狂言集成』の仕事をしている能狂言の研究者である。

 十七年には平安文学研究が岩津資雄の担当となり、十八年には平安文学研究が窪田章一郎、歌論史が岩津、俳諧研究が中村俊定の担当に代った。岩津は学位論文『歌合の歌論史研究』の他、『短歌―古典と近代』『会津八一』、歌集『とほじろ』などがある。窪田は空穂の長男。早くより西行研究を進め、西行の和歌に関する研究で学位を得、歌誌『まひる野』を主宰する。歌集も近作『素心臘梅』に至る数点がある。中村は永く学外にあって博捜した俳書の知見をもとに俳諧と連句の研究に努め、『俳諧史の諸問題』にまとめられた研究の他、連句、俳諧、俳文の校訂注釈の仕事も多い。なお十七―十八年に日本文学を岡と吉村とで担当している。

 太平洋戦争末期の十九年、二十年は、その影響が学科配当表にも反映された。

第五十八表 文学部文学科国文学関係学科配当表(昭和十九年度)

日本中心比較文学(樋口)が別にあり、他に五十嵐の国体の本義、教員資格取得希望者のために、岩本の随筆研究と暉峻の江戸小説が置かれている。二十年には五十嵐が定年退職し、カリキュラムも次のようになった。

第五十九表 文学部文学科国文学関係学科配当表(昭和二十年度)

 教職必修科目として、随筆研究(岩津)、歌論史(岩津)、日本劇研究(吉村)、平安朝散文(岡)、国語学(金田一)、国文法(服部嘉香)が設けられた。稲垣は早く近世文学とともに近代文学を修め、『作家の肖像』『近代日本文学の風貌』を経て、鷗外の歴史小説の研究で学位を与えられ、岩波版荷風全集を編纂し、また、日本近代文学館の設立に参加、事業推進の原動力となった。服部は書簡文作法に詳しく、学位論文も日本書簡史についてであった。

 戦後昭和二十三年には定年退職した空穂の後任として土岐善麿が出講している。土岐は歌人としても著名だが、『田安宗武の研究』で帝国学士院賞を受け、学位をも与えられている。『京極為兼』など、新鮮鋭敏な感性と知性の調和した論著やエッセイも公刊されている。この年のカリキュラムは次の通りである。

第六十表 文学部文学科国文学専攻学科配当表(昭和二十三年度)

2 新制大学になってから

 昭和二十四年、新制大学として、第一文学部(昼)と第二文学部(夜)が発足し、従来の国文学専攻は日本文学専修と名称変更された。カリキュラムは二本立て、教員構成にも若干の異同があった。紙数の都合で専門科目に限って以下に述べよう。

 一文は殆ど旧制を踏襲したが、二文では、日本文学思潮・近世散文指導演習を共に暉峻が担当した。二十五年、一文では共通専門の日本文学主潮(岡)の他、三年に上代文学(一)(土岐)、同(二)(岡)、中世文学(伊藤)、国文演習(岩本)、四年に近世文学(稲垣)、現代文学(本間)、中国文学(近藤)、国語学(金田一)、詩歌研究(窪田)、俳諧研究(中村)、二文では三年に近世散文演習(暉峻)、四年に日本文学主潮(暉峻)、国語学(服部)、中世近世詩歌研究(前期中村・後期窪田)、平安散文(岩本)、中世散文(佐々木八郎)、戯曲研究(安藤)、上代詩演習(谷馨)が置かれた。佐々木は軍記文学・中世文学を専攻し学位論文『平家物語の研究』三巻の他『芸道の構成』(後、『芸能』と改題)『語り物の系譜』などの論著がある。谷には『額田王』以下『和歌文学論攷』『現代短歌精講』の論著がある。

 二十六年、一文の現代文学を稲垣が、近世文学を暉峻が、二文の戯曲研究を芸術専修と合併で印南高一がそれぞれ担当している。二十七年は異同なく、二十八年の一文では国文研究が設けられて窪田・岩津が担当し、国語学は辻村敏樹が金田一の後を継ぐ。二文では近世小説を鵜月洋が担当する。辻村は『敬語の史的研究』にみるように敬語法を中心に国語学国語史と広汎に研究している(第二・第一の文学部長を務め、語学教育研究所長にも選出)。鵜月は近世小説を幅広く専攻していたが『雨月物語評釈』完成間近に病没した(同書は中村博保の助筆を得て公刊)。

 二十九年、一文では岩本に代って今井卓爾が国文演習を、窪田・岩津に代って山路平四郎と岩津で国文研究を担当する。今井はその学位論文『平安時代日記文学の研究』をはじめ、物語史に関する研究三冊など中古散文を主たる研究対象とする。二文では今井が岩本に代って平安散文を、戯曲研究を安藤が、日本文学演習を山路が、共通科目の日本現代文学思潮を石丸久がそれぞれ担当する。山路は広い知見をもとに、『記紀歌謡評釈』に結実する研究をこの頃から手掛けている。石丸は象徴詩をはじめ、広く近現代の文学を専門としている。

 三十年、一文の中国文学担当が近藤から堤留吉に代り、共通科目の文学論が本間から稲垣に代っている。堤は日中両文学に詳しく、『白楽天研究』の主著がある。

 三十一年、一文上代文学(一)が土岐から窪田章一郎に、二文国語学が服部から辻村に交代。三十二年一文に国文法が併設され、岡が担当、三十三年から三十六年まで担当した。三十四年、二文の文学主潮を岩津・暉峻で担当、戯曲研究を安藤(前期)と山本二郎(後期)で担当。山本は永く演博にいて後、教育学部に属し、近世演劇を専攻する。

 三十五年、一文中国文学倉石を武四郎が担当し、三十六年、一文中世文学が伊藤から国東文麿へ、二文中世散文が佐々木から梶原正昭へ交代している。国東は説話文学を中心に研究し、『今昔物語集成立考』等の著書があり、梶原は軍記物語の研究者で、『将門記』等の堅実な注釈がある。

 三十七年、一文の国文演習クラスが増設され、担当は今井・窪田・山路・中村。日本文学研究は、中村国文法が辻村・杉本つとむの担当になり、中国文学が倉石から堤の担当に代る。三十八年、国文学演習が更に増設され、神保五弥・辻村・藤平春男・伊地知鉄男・清水茂が担当者に加わり、中国文学(二)を倉石が再度担当し、国語学を辻村に代って時枝誠記が担当している。神保は『為永春水研究』を早く公刊、広く近世文学を専攻、藤平は『新古今歌風の形成』にみるように、歌論史和歌史を広く専攻している(第二文学部長を務めた)。伊地知は『宗祇』など連歌と連歌論を中心に研究し、永く宮内庁書陵部に勤務し、『書誌学提要』の監修もしている。清水は近代文学専攻、『二葉亭四迷』などの編者がある。時枝は『国語学原論』を代表作とする言語過程説で著名な国語学者。三十六年、東大の定年退官とともに教授に嘱任され、四十三年に没するまで務めた。杉本は『近代日本語の新研究』で学位を得、辞書史、異体字、蘭学者の日本語研究などを手掛けている。この年、二文戯曲研究を前後期山本が担当。

 三十九年、国文法(一文)を二クラスに増設。辻村と秋永一枝が担当し、四十年再度辻村・杉本に代り、二文国文法を辻村・秋永で担当。四十一・二年、文学(共)を一文では稲垣、二文では藤平が担当し、四十二年国語学概論(一文)を時枝が担当。中国文学(一)に詩経研究をはじめ中国古典文学の目加田誠が九大退官とともに着任、担当としている。秋永は国語におけるアクセントの研究者で、『古今和歌集声点本の研究』などにその成果をまとめている。

第六十一表 第一・第二文学部日本文学演習・研究担当一覧(昭和四十三・四十四年度)

 四十三年、一文日本文学主潮を岡・国東で各一クラス、上古文学を山路が、日本近代文学を清水(但し休講)がそれぞれ担当。二文に漢詩文が新設されて松浦友久が、国語学概論を辻村、国文法を秋永、国語学特論を杉本(但し休講)が担当、日本文学研究Ⅰの担当が窪田・神保、Ⅱが稲垣・今井、Ⅲが谷・梶原となり、日本文学演習Ⅰが中村・清水、Ⅱが伊地知・竹盛天勇となり、改編されている。松浦は李白詩研究で学位を得た唐詩研究者だが、日本漢詩文にも詳しく、この科目も日本漢詩文に関するもの。竹盛は鷗外、荷風の研究を中心とする近代文学研究者である。武部は国語表記について早くから研究し、『日本語の表記』などの著作がある(本稿執筆時、語学研究所教授)。

 四十四年には、藤平が国東に代って一文日本文学主潮の一クラスを担当、四十五(六)年には、科目内容に応じた演習・研究の改編が行われた。

第六十二表 第一文学部日本文学演習・研究担当一覧(昭和四十五・四十六年度)

 他に共通科目として、日本文学概論Aの担当は岡(四十六年、山路)、Bが山路(四十六年、武川忠一)、国語史は秋永(四十六年、杉本)、日本近代文学は稲垣、日本上中古文学は岡(四十六年、窪田)、日本近世文学は神保、日本近代文学は竹盛であった。

 上野は『後拾遺集前後』で学位を得た和歌史を中心に古代文学の研究を続け、松尾は芭蕉を中心に古典俳諧を研究し、『芭蕉研究』以下の編著があり、山下も古典俳諧を中心にその近代における受容をも視野に収めている。戸谷は古代前期文学、特に万葉景物の研究に特色をもつ『古代文学の研究』の著者。上坂は物語文学とその受容を研究して、『古代物語の研究』などにまとめている。佐々木は白鳥や藤村などについての研究を鋭意進めている近代文学者。武川は近代短歌の研究とともに実作の面でも秀れた仕事をしている。なお四十六年には日本文学特論を設置、児童文学の鳥越信が担任した。

 同年、二文では次のようになっている。

第六十三表 第二文学部日本文学演習・研究担当一覧(昭和四十五・四十六年度)

 四十七年、一文演習の古代文学を戸谷から都倉義孝が、研究の近代文学を竹盛から石丸が、二文の演習Ⅲが近代文学となり、竹盛、武川が、古代文学二を山路から福島秋穂が、国語学を杉本から秋永が、研究中世文学を藤平から今成元昭が、日本文学概論を藤平から神保がそれぞれ引き継いでいる。

 谷脇は西鶴論を中心とした近世文学専攻で、島田は無頼派をはじめ近代文学の研究者。都倉は古代前期文学就中『万葉』の、福島は記紀神話を中心とした古代文学の、今成は『平家物語の伝流に関する研究』以下の著書をもつ中世、仏教文学研究者。

 四十八年は、都倉が上野に代って演習Ⅰをもち、都倉に代って演習Ⅳは福島が担当した。二年単位を原則とする特論はこの年から謡曲、能楽論の表章が担当した。表は法政大学能楽研究所員。この年、二文の演習ⅠAの担当が前期森朝男、後期松野陽一、中近世の演習が今成・松尾、中世の研究が伊地知・国東となっている。森は万葉集の研究者であり、松野は平安和歌の研究者で学位論文になった『藤原俊成の研究』などがある。

 四十九年には一文の日本近代文学を榎本隆司が、特論を近世演劇研究の山本二郎が担当。二文では近代文学関係の研究に久保田芳太郎が当っている。

 五十年は、上野・福島で古代文学(一)を、都倉・福島で古代文学(二)の演習をそれぞれ担当、日本文学概論が武川・上野に、特論が短歌論となって佐佐木幸綱の担当に代った。二文では武川の短歌演習を窪田が代り、久保田の近代文学研究を清水が代った。また日本古典文学主潮(古代)を窪田から上坂が引き継いでいる。榎本は自然主義を中心にした近代文学研究を専攻し、後に教育学部長。久保田も無頼派などを中心にした近代文学研究者。佐佐木は短歌史を広く研究するとともに現代短歌の実作者としても注目されている。

 五十一年、古代文学(二)の演習が山路・福島に、日本文学概論も山路・上野に代った。二文の中近世文学の演習に堀切実が、近代文学の研究に中島国彦が加わり、日本文学概論を上坂が、日本文学主潮(古代)を藤平がそれぞれ交代した。堀切は蕉門俳諧とその俳論を専攻し、中島は荷風・漱石を中心に近代文学を専攻する。

 五十二年、一文の中近世文学の演習に今成が加わり、古代文学(二)に都倉が加わる。日本文学概論が上野・武川の担当となり、特論は文体論の原子朗が担当した。同年二文中近世演習に八嶌正治が、近代文学演習が中島・武川、同研究が清水・久保田のそれぞれ担当となる。日本古典文学主潮(古代)を田尻嘉信が藤平に代って担当する。

 五十三年は一文中世文学の演習を寺田純子が、中近世文学の演習を近世文学の研究ともども雲英末雄が担当する。原は『文体序説』などにみる文体研究のほか、『大手拓次研究』など近代詩研究も詳しく、自らも詩集数冊をもつ。八嶌は謡曲・能楽の研究者であり、寺田は新古今集時代を中心とした和歌史研究者である。また雲英は古典俳書に詳しい俳諧研究者で『貞門談林諸家句集』がある。

 五十四年は多年懸案の一・三制(二年から専攻に分かれる制度)への移行のための過渡的現象が始まる。二年次に演習と研究各一コマが置かれるわけである(漢数字が新制度のもの)。

第六十四表 第一・第二文学部日本文学演習・研究担当一覧(昭和五十四年度)

 他に、日本文学概論Aが武川、Bが佐佐木(幸)、国語史が杉本、日本近代文学が清水、上中古文学が上坂、中近世文学が神保、特論が川崎展宏となっている。橋本は人麻呂論を中心とした「古代宮廷歌人の研究」で学位を得た万葉研究者、日下は軍記物語を中心に中世文学を、渡辺は平安初期の文学を特に研究している。特論は俳句論で、実作とともに、『高浜虚子』の論著をもつ川崎展宏が担当している。

 二文でも一文同様一・三制への移行が始まった。

 他に日本文学概論が竹盛、日本近代文学が石丸、国語学概論が杉本、日本上中古文学が田尻、日本中近世文学が神保、国語学特論が杉本となっている。奥津は平安時代物語を中心とした研究者であり、江本は西鶴を中心とした近世文学を研究する。

 五十五年は、演習Ⅰ・Ⅱと研究Ⅰ・Ⅱ・Ⅲとがなくなり、新たに演習二・三と研究二・三・四とが設けられた。それぞれの担当者は次の通り。

 一文の演習一は、橋本達雄に代って森朝男が、国語史は杉本に代って秋永が、特論は川崎に代って中村明が担当した。また旧制度の演習Ⅲは杉本に代って秋永が、Ⅳは都倉・藤平に代って橋本達雄・橋本不美男がそれぞれ担当した。二文でも演習一は橋本(不)が藤平を、研究一は国東が今成を引き継ぎ、国語学概論・国語学特論も、杉本が担当していたのを武部・秋永がそれぞれ引き継いだ。また旧制度の演習Ⅲ・Ⅳは一クラス減となり、清水・佐々木(雅)に中島が、また福島・上坂に三谷邦明が交替した。橋本は「院政期の歌壇史研究」で学位を得た、中古中世歌壇の研究者。中村は文体論・表現論を中心に国語学を専攻する。畑は明治時代の自然主義を中心とした。また東郷は昭和文学を中心とした研究を展開し、三谷は平安時代物語に取り組む研究者である。

 五十六年度は、一・三制の完成年度で、旧制度の演習Ⅲ・Ⅳと研究Ⅳとが姿を消し、演習四と研究五とが新たに設けられた。

 一文の演習一は、森に代って再び橋本(達)が、二は中島に代って佐々木(雅)が担当、また研究二は三谷が奥津に、三は雲英が神保にそれぞれ交代した。また、二文の演習二は前期のみ杉本に代って岩淵匡が担当、三は畑・東郷から佐々木(雅)・武川に、研究一は日下から八嶌に、二は渡辺から神野藤昭夫に、四は鳥越から中村に交代した。また国語学概論は武部から桜井光昭に、日本中近世文学は神保から雲英に交替、日本上中古文学も前期のみ福島が田尻と代った。岩淵は言語生活を中心とした国語学者で、教育学部教授。神野藤は平安時代物語文学の研究者である。桜井は『今昔物語集の語法の研究』にみられるように、古代語の語法や解釈文法などの研究で知られる国語学者で、教育学部教授、同学部長。

 五十七年は、一文の演習一が森から橋本(達)に、三が今成から日下に、また四が杉本から辻村に交代。研究では、二の三谷が神野藤に、四の辻村が杉本に代った。国語史と特論も、それぞれ秋永・中村に代って杉本・鈴木敬三が担当した。二文は、演習二が杉本から秋永へ、四が堀切から日下へ交代、また研究一は八嶌から今成へ、二は神野藤から三谷へ、更に四は中村・秋永から鈴木敬三・杉本へと交代した。日本文学概論・国語学概論・国語学特論も、それぞれ竹盛・桜井・秋永から上野・秋永・杉本に引き継いだ。鈴木は絵巻、風俗史の研究者。

 文学部には専門科目Bとして、各専攻共通選択の科目があり、日本文学関係のものを、資料の都合により、最近十年余のものを左に掲げる。

第六十五表 第一・第二文学部日本文学関係共通選択科目担当一覧(昭和四十三―五十七年度)

* 第二文学部の国語学概論は「各専攻共通選択科目」ではなく「日本文学専攻系列科目」に入る。

 なお、右のように生成発展してくる途上、国(日本)文学科教員・卒業生・学生の研究親睦の集いとして早稲田大学国文学会があり、年二回の研究発表会の他、機関誌として、国文学研究の発行されていることを附記しよう。創刊は昭和八年、年刊、毎輯四〇〇頁位、十八輯をもって昭和十八年に用紙入手困難のため終刊。戦後復刊第一輯の発行が昭和二十四年、以後、年二回発行から三回発行となり、五十七年現在七十九集を数えている。その間、戦前版の終刊から戦後の復刊までの橋渡し的存在として、昭和十九年から二十年にかけて小冊子ながら、「国文学研究」が三号発行されていることも見落してはならないし、更に、五十嵐力窪田空穂両教授の頌寿記念の大冊が、『日本古典新攷』(昭和十九年十月六五一頁)『日本文学論攷』(昭和二十九年三月八二八頁)として別途刊行され、伊藤康安・岡一男両教授の退職記念号が増大号として出ていることも特記しておこう。

3 文学研究科日本文学専攻

 昭和二十六年に新制度の大学院が設置されたのに伴い、文学研究科の中の一専攻として日本文学専攻が設けられた。

 それ以前にも大学院の制度はあったが、それは現在のようにきちんとした就学年数や取得単位が定められていたわけではなく、学生は個々に随時指導教授の指導を受けただけであった。従って、大学院については昭和二十六年以降について記述する。

 発足当時の講座および担当者は左の通りであるが、文学部、教育学部(旧高等師範部)の両方から教員が出て、早稲田大学における日本文学関係の研究者が一体になって教育に当るようになったのが注目される。また、学生も、第一、第二文学部の日本文学専攻、教育学部の国語国文学科の卒業生のみならず他大学の出身者にも広く門戸が開放された。

第六十六表 文学研究科日本文学専攻講義科目および担当者(昭和二十六年度)

 伊藤・岡・暉峻の文献研究は、それぞれ中世・平安・近世の文学についてのものであり、佐々木・暉峻・竹野・柳田の演習は、中世・近世・平安・明治の文学を対象としたものであった。

 担当者はいずれも文学部または教育学部に所属するので、その業績等についてはそれぞれの学部の解説に譲る。

 昭和二十七年度は特に変化はないが、二十八年度には講義に「平安和歌」「近世小説」「国語学」の三科目が加わり、それぞれ窪田章一郎・暉峻・湯沢幸吉郎が担当している。また、「中国文学」は「中国古典文学」と名称変更され、担当者も福井から近藤潤治郎に代った。

 文献研究は一講座増えて⑴が暉峻、⑵が伊地知鉄男、⑶が伊藤、⑷が安藤常次郎となり、演習も一つ増えて岡が加わり、⑴暉峻、⑵竹野、⑶岡、⑷佐々木、⑸柳田となった。

 昭和二十九年度は演習に「国語学」が加わり湯沢が担当したほか特に変更はないが、「中国古典文学」は担当者の近藤の急逝のため休講となっている。

 昭和三十年度は、講義にかなりの名称変更があり、全体的に従来より体系化されて次のようになった。

第六十七表 文学研究科日本文学専攻講義科目および担当者(昭和三十年度)

 ただし、右に見るように担当者にはあまり変更がないが、もとの「明治文学」は「近代小説」と名称変更されるとともに担当者も本間から稲垣達郎に代っている。なお、「中国古典文学」は、昨年近藤の死後後任を得ないままである。

 昭和三十一年度は三十年度と殆ど変化ないが、「古代歌謡」が土岐から山路平四郎に代った。

 昭和三十二年度も前年度とほぼ同様であるが、長く空席となっていた「中国古典文学」を大矢根文次郎が持つようになった。

 昭和三十三年度には国語学の講義と演習が湯沢から時枝誠記に代っている。

 昭和三十四年度には講義に近世俳諧が増設されて中村俊定が担当することとなった。

 昭和三十五年度は竹野の定年退任のあとを受けて演習⑵を窪田が持ったほか特に変化はない。

 昭和三十六年度は伊藤の定年退任のあと「中世物語」の補充はなく休講、稲垣の「近代小説」も休講となっている。

 昭和三十七年度は前年度休講だった「中世物語」を小林智昭が担当し、「近代小説」は稲垣が元通り務めている。

 昭和三十八年度には「国語学」に文献研究が増設され、辻村敏樹が担当するようになった。

 昭和三十九年度は「中世物語」の講義を小林に代って国東文麿が持ったほか異同はない。

 昭和四十年度には定年退任した柳田の代りに演習⑸を稲垣が持ち、その稲垣の持っていた「近代小説」の講義を川副国基が担当するようになった。また、「文献研究⑸」が増設され平安文学の今井卓爾が担当した。

 昭和四十一年度には「中世物語」が「中世文学」と改称されて伊地知が担当し、「近世小説」は暉峻に代って神保五弥が持った。なお、辻村の「国語学文献研究」は辻村が在外研究員のため本年度休講であった。

 昭和四十二年度には講義に「日本文学特論」が増設されて岩津資雄が歌論史を講じた。また、「近世小説」の講義と「文献研究⑴」はいずれも暉峻に代って神保が担当した。なお、「国語学文献研究」は辻村が元通り持っている。

 昭和四十三年度は「近世小説」を興津要が担当し、「文献研究⑴」は暉峻に復した。また、国語学関係は時枝の逝去に伴い講義を白石大二、「文献研究」を吉田澄夫、演習を辻村が担当した。吉田は埼玉大の名誉教授で、近代語に詳しく、学位論文の基となった『天草版金句集の研究』などの著がある。

 昭和四十四年度は、「近世小説」を再び神保が持ったほか、佐々木の定年退任に伴い、「文献研究⑷」を能楽の戸井田道三、「演習⑷」を伊地知が担当した。

 昭和四十五年度にはカリキュラムの構成上の大きな変化があった。すなわち、従来あった「文献研究⑴~⑸」を廃し、「演習」を倍増して、指導は教授を専攻ごと二名、計十二名とするとともに、講義も、「国語学」「文献研究」「中国古典文学」の三科目を除いて、特定の名称を廃し、「日本文学講義⑴~⑺」とした。

 それに伴い担当者にもかなりの出入りがあったので、全科目名とそれぞれの担当者を示すと次のようになる。

第六十八表 文学研究科日本文学専攻学科目および担当者(昭和四十五年度)

 「日本文学講義」は⑴が上代文学、⑵が中古文学、⑶が中世文学、⑷が近世文学、⑸が中世文学と近世文学の交代で本年度は近世⑹⑺が近代文学という割当となった。

 また「日本文学演習」は⑴⑵が上代、⑶⑷中古、⑸⑹が中世、⑺⑻が近世、⑼⑽が近代の文学となっている。

 なお、「日本文学講義⑴」の林勉は政経学部教授(のち東京学芸大教授)、「日本書紀」その他上代文献の訓読に詳しく、「国語学」の築島裕は東大助教授(のち教授)、訓点語研究の第一人者であり、『平安時代の漢文訓読語につきての研究』により学位を得、学士院賞も受けている。

 昭和四十六年度には、岡・安藤の定年退任に伴い「講義⑵」を藤平春男が持ち、「講義⑶」は前期に本田安次、後期に郡司正勝が中世演劇について講じている。また「講義⑷」は栗山理一、「講義⑸」は梶原正昭、「国語学」は杉本つとむの担当となった。栗山は成城大教授。芭蕉の俳論に詳しく『中興俳諧の研究』で学位を得ている。なお、「文献研究」は、従来の「日本文学文献研究」という科目とは異なり、文献学的立場からの文学作品の扱い方などを論ずるものである。更に、「演習⑶」は岡に代って岩津資雄が担当するようになった。

 昭和四十七年度は「講義」の⑴を戸谷高明、⑶を梶原正昭、⑸を興津要、⑺を竹盛天勇が持っている。

 また、「演習」は稲垣の定年退任に伴い⑼を川副、⑽を紅野敏郎が持つようになった。

 昭和四十八年度からは「講義⑸」の中世・近世交代をやめて、近代関係の科目とし「講義⑺」をローテーションの科目とすることとした。その結果、「講義」は⑴上代、⑵中古、⑶中世、⑷近世、⑸⑹近代、⑺ローテーションとなった。担当者は⑴戸谷、⑵中野、⑶梶原、⑷暉峻、⑸清水、⑹竹盛、⑺表である。

 また「国語学」は「国語学講義」と改称、担当は桜井光昭であった。

 なお、「中国古典文学」は大矢根の定年退任に伴い目加田誠の担当となり、「演習⑷」も岩津の退任のあとを受けて藤平春男が持った。

 昭和四十九年度には「講義」にのみ変更があり、⑴を戸谷、⑷を宮本三郎、⑸を竹盛、⑹を榎本隆司が担当した。宮本は学習院大教授で、芭蕉の俳論に詳しく、『蕉風俳諧論考』などの著がある。また、「中国古典文学」は定年退任の目加田に代って沢田瑞穂の担当となった。

 昭和五十年度は「講義」の⑴を戸谷、⑵を阿部秋生、⑸を清水が持ち、⑺のローテーション科目は国語学の辻村が担当した。阿部は東大名誉教授・実践女子大教授で、源氏物語を中心とする平安文学研究の泰斗。学位論文となった『源氏物語研究』などの著がある。演習科目は本年度も異同がない。

 昭和五十一年度からは大学院の制度が変り、従来の修士課程、博士課程は博士課程の前期課程、後期課程と呼ばれるようになり、いずれの課程においても学生は「研究指導」を受けることになったが、前後期とも研究指導には従来の演習担当者を以て当てることとした。念のため研究指導者を表示すれば次の通りである。

第六十九表 文学研究科日本文学専攻前期・後期課程研究指導者(昭和五十一年度)

 「講義」は⑴が橋本達雄、⑶が今成元昭、⑷が暉峻康隆、⑹が竹盛天勇、⑺が金田一春彦に代っている。金田一はアクセント研究の権威であり、国語アクセント史の研究によって学位を得ている。著書に『四座講式の研究』その他多数あり、その研究領域は広い。

 昭和五十二年度は「講義」にのみ変動があり、「中国古典文学」が松浦友久、「講義⑵」が大曾根章介、「講義⑺」が林勉、「国語学講義」が秋永一枝に代った。大曾根は中央大教授。『本朝文粋の研究』で学位を得、平安漢文に詳しい。

 昭和五十三年度は、伊地知鉄男、暉峻康隆の定年退任に伴い、前期課程の「研究指導」の⑸に梶原正昭、⑺に雲英末雄が入り、演習の⑸⑺も同様。講義科目では「文献研究」に橋本不美男、「講義」の⑴は林勉、⑶は三谷栄一、⑷は神保、⑹は竹盛、ローテーションの⑺は中古の中野、「国語学講義」は桜井となった。橋本は宮内庁書陵部図書調査官で『院政期の歌壇史研究』で学位を得ている。また、三谷は実践女子大教授、『民俗文学の成立に関する基盤的研究』で学位を得、『日本文学の民俗的研究』などの著がある。

 昭和五十四年度には「日本文学専攻」内に現代日本語研究を旨とする「日本語コース」ができた。そのために設置された科目および担当者は次の通りである。

第七十表 文学研究科日本文学専攻日本語コース科目および担当者(昭和五十四年度)

 なお、右コースの関係科目として文研共通の科目に⑴「比較文化論」⑵「日本文化論」⑶「近代日本研究」の三つが置かれ、⑴は吉田禎吾、⑵は水野祐が担当。ただし⑶のみは本年度休講。吉田は東大教授、文化人類学者で、宗教人類学に関する著作が多い。なお、本年度は窪田章一郎、今井卓爾の定年退任に伴う異同もあり、「研究指導⑵」「演習⑵」は共に今井から中野幸一に代った。また、「講義」の⑴は橋本達雄、⑵は山中裕、⑷は谷脇理史、⑺は井上宗雄が担当、「演習⑴」の代りに臨時的に「講義⑻」が置かれ神田秀夫が担当。「国語学講義」は杉本つとむに代った。

 山中は東大(史料編纂所)教授。歴史物語に詳しく、学位論文となった『平安朝文学の史的研究』その他の著作がある。神田は武蔵大教授。上代文学に詳しく、その著に『古事記の構造』などがある。

 昭和五十五年度は、川副国基の定年退任に伴い、「研究指導⑼」「演習⑼」は竹盛天勇に代った。また、「講義」の⑶は井上宗雄、⑹は榎本隆司、⑺は森淳司が担当。「国語学講義」は桜井光昭、「現代日本語特論」⑴は杉本、⑵は森田良行に代った。なお、「日本語コース」関係共通科目の「比較文化論」は休講、「近代日本研究」は鹿野政直が担当した。森は「柿本朝臣人麻呂歌集の研究」で学位を得ている。

 昭和五十六年度は「講義」にのみ変動があり、「中国古典文学」は村山吉広、「講義」の⑴は林勉、⑵は上坂信男、⑷は長谷川強、⑸は榎本、⑹は清水、⑻は森淳司に代った。また「国語学講義」は秋永に、「現代日本語特論」⑴は石綿敏雄、⑵は武部良明にそれぞれ交代。関係共通科目の「近代日本研究」は秋元律郎が担当した。長谷川は国文学研究資料館教授、『浮世草子の研究』で学位を得た近世文学研究者。石綿は茨城大教授、言語情報処理や外来語の研究で著名である。

 昭和五十七年度は、白石大二の定年退任に伴い、「現代日本語演習」⑵は武部良明に代った。また「講義」⑻は橋本達雄、「現代日本語特論」⑴は秋永、⑵は中村明にそれぞれ交代した。「国語学講義」はこの年から二科目となり、⑴を杉本、⑵を桜井が担当した。また木村宗男の定年退任により「日本語教育及び教授法」の講義は休講となった。なお、関係共通科目の「近代日本文化」は、前期を正岡寛司、後期を秋元律郎が担当した。中村は成蹊大教授、文体論を中心とした国語学者で、『比喩表現の理論と分類』等の著書がある。

九 中国文学専攻

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1 創設の趣旨

 中国の文学・語学に関する諸問題を、古代から現代に至る各時代、および詩・小説から文字・音韻に至る各ジャンルを通じて、総合的に理解することを目的とする。学科設置の基本方針としては、外国文学科としての性格を明確にし、古典から現代作品まですべて中国語音によって読むことを原則とする。

2 創設の経過

 早大文学部中国文学科は、昭和四十一年度、文学部の新制度(二・二制)とともに発足した。ただし、専攻課程が三年次からとなったため、専攻学科としての授業は四十三年度に始まる。

 その前身は、大正九年四月から昭和七年三月まで設置されていた「早大文学部文学科支那文学専攻」である。ただしこの学科については、大正十二年度入学。十四年度卒業の学生二名の在籍が記録されるだけであり、実質的にはこの一期三年だけで廃止されたことになる。因に、学生の一人は、後年の実藤恵秀教育学部教授(近現代文学、日中交渉史。『中国人 日本留学史』くろしお出版、など)である。

 中止後の約四十年間に、再設置の動向はある程度存在したようであるが、現在の中国文学科に直結する一連の準備は、昭和三十年頃から、国文学科所属の堤留吉教授(唐代文学、日中比較文学。『白楽天研究』春秋社、など)を中心に、精力的に進められた。

 以下、その経過を順次に記す。

◦中国文学科既設諸大学のカリキュラム調査。

◦早大文学部中国文学科設置のための趣意書ならびにカリキュラム概要の作成。

◦第一第二文学部長、教務部長、総長などへの学科新設に関する進言。

◦従来の第二外国語に加え、新たに第一外国語として中国語を設置。

◦文学部改組委員会の発足に伴ない、中国文学科設置案を提示。

◦同委員会において、中国文学科設置を決定。

◦カリキュラム・人事等の具体的準備のため、国文学・東洋哲学・東洋史学・美術史学の各主任による協議会、および、以上の各科からの選出委員による準備懇談会を設置。

◦文学部新制度(二・二制)の発足。

◦新制度による専攻課程発足。

 発足に至る過程には多くの困難があったと伝えられるが、結局、①中国文学そのものの質的量的な豊富さ、②日中両国の関係に見られる歴史的地理的な緊密さ、③早大文学部における各国文学研究の伝統――などが要因となって、新課程による中国文学科の新設が実現したものである。

3 研究――教授陣・主要業績・学風など――

 専攻課程の開始に当っては、その前年、既に堤教授の後任として九州大学から赴任していた目加田誠教授を専攻主任(昭和四十三―四十七年度)に、大野実之助教授、長谷川良一助教授、蘆田孝昭助教授、松浦友久助教授(いずれも、当時)の計五名を専任教員として発足した。

 ここでは先ず、現時点(昭和五十七年三月)で既に定年退職の、目加田・大野両教授について述べる。

 目加田教授は、『詩経』『楚辞』をはじめ六朝唐代から現代文学に至る幅広い学識によって、創設期の中国文学科をバランスのとれた形で発展させてゆく上で、大きな成果を挙げた。在任中から大学院の古典専攻の学生を対象として始めた『世説新語』の会読は、退職後も継続され、現在『世説新語』上中下三冊(明治書院)として結実している。

 大野実之助教授(昭和四十八―九年度専攻主任)は、李白・唐詩を中心とする唐代文学を専門とし、漢魏六朝文学や日本漢文学についても関連の著作をもつ。『李太白研究』(早大出版部。増補版、有明書房)は、その主著である。

 現時点での中国文学科専任教員は、以下の六名である。

沢田瑞穂教授(昭和五十年度―現在、専攻主任。中・近世文学、特に仏教・道教・民間伝承等に関する民間文学。『増補宝巻の研究』図書刊行会、など)

長谷川良一教授(中国語教授法、特に入門期の教授法。『中国語一六〇〇――単語からの中国語入門』文林書院、など)

蘆田孝昭教授(近世・現代文学、文体論、特に三国志演義・魯迅。『物語三国志』社会思想社、など)

松浦友久教授(中古・中世文学、中国語声調論、特に唐詩・李白。『李白研究――抒情の構造』三省堂、など)

杉本達夫教授(近・現代文学、特に革命文学・老舎。老舎『ラクダ祥子』訳、学習研究社、など)

稲畑耕一郎助教授(古代文学、特に楚辞・漢魏賦。郭沫若『屈原研究・屈原賦今訳』訳、雄渾社、など)

 研究対象が多岐に亘る如く、それぞれの研究方法・態度も多様であるが、共通する認識としては、

①中国文学・語学を純粋に外国文学・外国語学として扱う。

②日本文学・日本語学との比較研究の視点をもつ(①を前提として初めて正確に②が生まれ得る)。

③基礎的部分での資料性・実証性を重視する。

の三点であろうか。このうち特に基本をなすものは①である。これは前述の如く、早大文学部中国文学科設置の基本方針であり、設置に至る過程のなかで、多くの議論を尽して確認された要点であった。

4 教育――カリキュラムの特徴・在学生の動向・卒業生の社会的活躍など――

a カリキュラム

 古代から現代に至る各時代、詩・小説から文字・音韻に至る各ジャンルに亘って総合的に編成されている。対象範囲の広大な中国文学科の学生にとっては、中国文学語学の全体像を在学中にひと通り展望するということが、特に必要だと思われるからである。これら専攻科目は、専任教員を中心に、兼担・非常勤の教員によって分担されている。

 カリキュラムの実施に当って重要な点は、古典から現代まで、中国の文献はすべて中国語音によって読むという指導・学習が原則とされている点である。他の外国文学研究の分野から見れば異常なことではあろうが、我が国における中国研究では、現代語文献は語学としての中国語によって、古典語文献は旧来の訓読によって分担されるというのが、従来の一般的な傾向であった。思想研究や歴史研究においてだけでなく、言葉のリズムや響きを離れては本来の姿が捉えられない筈の文学研究にあってさえも、この傾向はなお根強く残存している。文語から口語まですべて中国語文献として統一的に指導・学習するという中国文学科は、全国的に見てもまだ必ずしも多くはない。早大文学部の中国文学科が、その数少い先進例の一つでありえているということは、創設の趣旨の適確さと、それを継承実現した現在の在り方として、高く評価されてよいであろう。

b 在学生

 昭和五十三年度から、いわゆる一・三制が実施され、五十四年度以後は、二・三・四年次の専攻学生をもつことになった。対象範囲の著しく広い中国文学科にとっては、専攻年限が増えるのは、好ましいことと言えよう。現在、各学年平均二十五名前後。古典から現代までを包括した外国文学研究という点で、学生は一般に熱心に勉学する。因に、図書館の利用率では文学部各学科で一、二を争う高率だというのが、書庫担当者の非公式の談話である。

 卒業論文のテーマとしては、これまでを平均的に見て、清朝以前の古典文学と民国以後の近現代文学とがほぼ相半ばし、それに少数の語学研究が加わる、という情況にある。

c 卒業生

 昭和四十五年三月の第一期生の卒業以来、五十七年三月の第十三期生の卒業まで、満十三年という短期間であるが、活動分野はかなり多方面に亘っている。

 卒業後の進路は、大学院進学、中学・高校教員、新聞社・出版社・放送局等のマスコミ関係、商社・公務員等の一般業務の四つにほぼ大別される。大学院の卒業生については、一期生卒業後の期間が更に短いが、国公私立大学の助教授・専任または非常勤講師として、既に研究職についている者も少くない。

d 大学院

 中国文学科関係の大学院としては、昭和四十五年度に、先ず「東洋哲学専攻(中文)」という形で、大学院進学のコースが用意された。そして三年後の四十八年度には、中国文学専攻修士課程が正式に設置され、続く五十年度には、博士課程が継続設置の運びとなった。現在は、昭和五十一年度の大学院学則改正により、博士課程前期(二年)・後期(三年)と改められている。大学院新設に当って目加田教授が学内外に果した役割はきわめて大きい。

 昭和四十五年度以来、中国文学科大学院に所属した専任教員は以下の如くである。

目加田誠教授(既述)

松坂茂夫教授(近世・現代文学。特に白話小説。曹霑・高顎『紅楼夢』訳、岩波書店、など)

大野実之助教授(既述)

大矢根文次郎教授(中古・中世文学、特に陶淵明・世説新語。『陶淵明研究』早大出版部、など)

陣内宜男教授(近代・現代文学、特に白話詩。『中国近代詩論考』桜楓社、など)

――以上、旧教員

沢田瑞穂教授(既述)

長谷川良一教授(既述)

蘆田孝昭教授(既述)

松浦友久教授(既述)

杉本達夫教授(既述)

駒田信二客員教授(近世・現代文学、特に白話小説。『対の思想』勁草書房、など)

――以上、現教員

 カリキュラム・学風等、基本的には学部専攻課程のそれと共通し、内容的にはより高度に専門化したものとなっている。

e 学会・機関誌・研究班など

 昭和五十年秋の教室会議において、専攻開設以来の懸案であった「早稲田大学中国文学会」の設立が決定し、大会・研究会の開催、機関誌『中国文学研究』『集報』の刊行などが計画された(会則は『集報』各号最終ページに付載)。

 計画実施後今日までの経過は次の如くである。

大会・研究発表会。昭和五十一年度以来、春季大会と秋季発表会とを定期的に開催。

『中国文学研究』。昭和五十年十二月創刊。研究論文を中心とした学術誌として編集。現在、中国文学研究の専門誌は、全国的に見て他に三種を数えるのみである。

『早稲田大学中国文学会集報』。五十年度末、すなわち五十一年三月の創刊。中国文学科・同研究室・同学会の彙報として編集。卒業生の増加とともに、同窓会誌としての性格も加わりつつある。

 なお、昭和五十四年六月には、中国文学会の活動の一環として、学生・院生を主体とした学習研究グループ「中国文学会研究班」が組織された。現在、唐詩・近世小説・現代小説・語学などの諸班が、それぞれの方式で活動している。

十 英文学専攻

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 英文学科の前史について考えると、これは結局東京専門学校の創立当時に遡ることになる。英語教育は時代の要請の一つであった。明治十年前後から英語の学習者が急増したと言われているし、東京大学での授業も英書が教科書に使われ、殆どが英語で教授されていたという時期である。この英語万能の状況が「我邦学問ノ独立」を妨げていると小野梓は考えて、「速成ノ教授」を求め、「邦語ヲ以テ高等専門ノ学科ヲ教授スル」ことにしたと開校式の祝辞に述べたけれども、その彼もまた、近代欧米文化の知識が英語を通じて流入してくる事実を無視していたわけではない。「正科ノ外別ニ英語ノ一科ヲ設ケ、子弟ヲシテ深ク新主義ノ蘊奥ニ入リ、詳カニ其細故ヲ講ズルノ便ヲ得セシメント欲ス」とつけ加えていた。

 そこで政・法・理の三学科の学生に語学力を与えるために、東京専門学校発足の明治十五年の翌年から既に英学科の課程が設けられた。英学科は予科二級、本科六級に段階分けされていて、学生にその学力に応じて選択させ、正科の勉強とは直接の関係なしに自由に学ばせることにした。十八年にはそれが兼修英学科と呼ばれ、その他に専修英学科という独立学科を設け、その両方を「英学部」(明治十九年)あるいは「英学科」(明治二十年)と呼んだ。二十一年には英語普通科と予科を置いて、この課程を通ってから正科に進むようにさせた。正科には邦語政治学科などに対して英語政治科、英語法律科が新設されたり、英学本科、予科という名称が使われたりした。

 この英学部で何をどう教えていたかと言えば、使用されていたテキストから主に推測するほかないが、文学書を中心にかなりさまざまな英語を教えていたと言っていい。例えば予科ではウェブスターによるスペリング教本や『ユニオン・リーダー』の訳読から、ミルの『自由論』やスペンサーの『哲学原理』やモーリーの『地理学』などを読ませている。本科ではバジョットの『憲法論』やフォーセットの『小経済書』やスイントンの『万国史』のほかに、ラムの『シェイクスピア物語』、マコーレーの『クライヴ伝』『ヘイスティングズ伝』、スペンサーの『哲学原理』から、アンダーウッドの『英国大家詩文集』やシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』まで、一応古典的な価値をもつ文学書をテキストに選び、訳読、輪講、文法作文、会話などの形で授業が行われた。坪内雄蔵(逍遙)が日本で初めて比較文学の講義をしたと言われる「ポズネット氏比照文学」講義も、明治二十二年から翌年にかけてこの英語普通科で行われた授業の一つである。

 教員陣はどうであったか。初めは全部で七名しかいなかったので、それぞれの専門教科のほかに掛け持ち分担で英語を教えていた。坪内逍遙が史学や憲法論を担当しながら一方で『ジュリアス・シーザー』を教えていたり、外交学や貨幣論・立憲政体論を受け持つ高田早苗が『マクベス』を使って英語の読み方を教えていたりした。物理学や化学が専門の田原栄が英作文を教え、天文学や数学の大隈英麿が英会話を教えていたし、貿易論の天野為之がギゾーの『文明史』を講読したり、論理学の市島謙吉が『ユニオン・リーダー』(その二)を使って訳読を教えたりもしていた。勿論、これらの教員はまだ二十歳代から三十歳代であり、それぞれ独自の若々しい魅力をもって授業に臨んでいたことは容易に推測される。例えば江戸っ子の高田は貴公子の風貌で、芝居や戯作の趣味を持ち、歯切れのいい言葉で話したと言われているが、朴訥な佐賀人の天野は突っ立ったまま、手も体も眉も動かさずに、諄々と語っていたかと思うと、寄席演芸を愛好した坪内は身ぶり手ぶり、表情たっぷりで、弁舌さわやかに、週四十時間以上もの授業を受け持っていた。また漆塗料工場経営の実業家をしたこともある田原は響きのいい声で正確な発音を教え、『ユニオン・リーダー』の英文を実に明快に解説して聞かせた。大学中退で教員に迎えられたという今井鉄太郎も五分刈頭に発剌とした声でスペリング・訳読・英作文を教え、才気煥発で、常に学生にさわやかな感銘を与えた。

 英語教育のこの状況は、殆どこのまま、文学科が創設される明治二十三年まで続いた。これが英文科の前史と呼んでよさそうな期間の状況である。

 明治十七年当時の英語関係の授業担当者と主な科目内容は、表示すると次のようになる。

坪内雄蔵(逍遙)(安政六―昭和十年) 英学科でスイントン『万国史』『クライヴ伝』『ヘイスチングズ伝』『ジュリアス・シーザー』を教える。

高田早苗(半峰)(安政七―昭和十三年) 英学科で読み方、クリーヴランド『大家詩文集』『マクベス』『コーマス』を教える。

天野為之(安政六―昭和十三年) 英学科で読み方、ベルファースト演説、ジョンソン『ラセラス』ギゾー『文明史』

大隈英麿(安政三―明治四十三年) 高等科で英作文・会話・英学科で英習字。

田原栄(安政五―大正三年) 高等科で英作文・会話、英学科で読み方・文法。

市島謙吉(春城)(安政七―昭和十九年) 英学科で読み方、『ユニオン・リーダー』『万国史』

今井鉄太郎(文久二―明治三十六年) 英学科で綴字・訳読・単語を教える。

 明治二十三年の九月に、坪内逍遙が中心となって、いわゆる「和漢洋之文学ノ長処ヲ抜キテ調和統一シ以テ明治文学ヲ作サムコト」を目的とする文学科が設立された。和漢洋之文学の統一といっても、これは当時既に一般に論じられていたことで、必ずしも坪内の独創的な主張というわけではない。それでも設立された文学科の課程内容をみれば、やはり英語と英文学が主で、国文学、漢文学、哲学、史学はそれに従うように併存するという形を少くとも当初は採っていた。実際、英語普通科が和漢文学を併合して文学科になったと考えられていたし、文学科はその証拠に初め二年間ほど英語文学科と英語専門科の二科で構成されているという時期があった。当然なことにこの文学科では英語英文学教育が優勢になっていた。例えば英文学史はテーヌの『英文学史』に基づいて授業が行われていて、シェイクスピアをはじめスペンサー、ミルトン、アディスン、スコット、カーライル、ディケンズ、またアーヴィング、ホーソーン、フランクリンなどの作品が教えられていた。英文朗読には演説文や脚本が使われ、述義には詩作品が扱われた。評釈には史伝や評論、小説、戯曲、詩がテキストに選ばれ、英作文では課題創作や韻語敷衍の形が採られてもいた。実際の授業内容がどんなものであったかは詳しくは分らないが、課程表で見るかぎり、この形式や方法は当初かなり高度すぎる水準を目指していて、それが次第に組織的なカリキュラムに発展していったようである。なぜなら明治二十八年の教科の改正では、例えば「従来はシェークスピヤの劇詩の如きをも初級生に読ましむる制なりしが、本学年よりはまづ抒情詩的のものを初年に読ましめ、次に叙事詩・劇詩とやらの順序にて教授する都合に改めたり」と『早稲田文学』第九十六号に発表している。

 しかも文学科に付属していた専修英語科が明治二十九年に独立して英語学部となり、時代の要請に応じて実用英語を四ヵ年かけて習得させることになった。三年級を修了した者は英語政治科や文学科へ無試験で編入を許可されたし、また英語専門科に進むことができた。専修英語科でも既に、例えば課程表の文法の項に「実用ニ緊急ナル限ノ語論文格ヲ口授シ会話作文ノ速成ニ便ナラシム」と説明されていたり、会話や朗読、作文、筆記を毎学年に強調して教えていたが、英語学部になると、「学生ヲシテヨク英語ヲ語リヨク英文ヲ作ルニ至ラシメル」というふうに、従来の静止的な英語講読から英語の活用を重視するプラクティカルな英語教授法に方針を変更している。この英語学部は明治三十二年に廃止されてその代りに高等予科が設けられた。更に文学科も、この同じ年、哲学及英文学科、国語漢文及英文学科、史学及英文学科の三学科に分れ、それから三十五年まで三年間、この制度が続く。

 教員は初め、坪内、高田、天野、大隈英麿田原栄、今井鉄太郎らがやはり主要メンバーとして英語を教えていたが、学生数が増えるとともに、新しい教員が加わってきた。坪内とともに双壁と言われた英語学の大家、増田藤之助は、明治二十七年にきてそれ以来四十年間、語学の面から熱心に英作文や英詩を教えることになる。また、文学科第一回の卒業生の首席だった金子馬治(筑水)が二十六年に加わり、その同窓生の紀淑雄は二十九年に入ったが、彼らはどちらも初めは専修英語科や英語学部で英文法や『ナショナル・リーダー』を教えていた。高山樗牛は三十一年九月から二年間、美学とともにキーツ詩集による英語の授業も担当した。田中王堂はまた哲学、心理学のほかに、ジョン・デューイーやサンタヤナの英文も教えた。同志社出身の岸本能武太は二十八年から英作文、文法、発音などを教え始めて二十六年間に及び、安部磯雄は三十二年に来校して史学科の講義をするとともに、英語の訳読や会話の授業も引き受けた。英会話はまた高杉滝蔵が教え始めている。理学士だが英文学にも精通していたという磯野徳三郎、それからドイツ文学科出身だが英文学を教えるようになったという藤代禎輔など、ともに明治二十三年にスコット、ディケンズの作品をテキストにして英語を教えた。まだ学生服を着ていた夏目漱石が大西祝の推薦で教えにきたのは、岡倉覚三や饗庭篁村も教えにきていた二十五年・二十六年のことで、それから森鷗外が講師だった二十九年にもたぶん、文学科と専修英語科で、ミルトン、バイロン、デ・クウィンシーなどを熱心に講義していた。

 英語学部は初め、文学士と神学修士の学位をもってアメリカから帰国した片山潜を主任にして発足したが、主任の役は間もなく宗教学者でいて修辞書や英作文を教える岸本能武太に交代した。この学部の担当講師は、片山が英語で社会学を教え、天野がジョン・スチュアート・ミルの経済学、高田は憲法、坪内はアーヴィングの『スケッチ・ブック』やチャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』、増田はマコーレーの『ミルトン論』を教えた。また既に名前を挙げた今井、金子、紀などのほかに、文学修士の岡田猛熊が英作文、読み方を担当し、神崎直三が英文法、時事文、発音を受け持ち、柏原文太郎がスペリングや『ナショナル・リーダー』を扱い、吉田俊雄が会話読本を使っている。また文学士の梅若誠太郎がフォーセットの『小経済書』をテキストに教え、農学士の佐久間信恭が『クオーレ物語』の英訳本をテキストにしていた。島村滝太郎が講師として現われるのは明治三十二年の高等予科設立のときだが、翌年から文学科の講師になって次第に活躍することになる。

 外国人講師は、明治二十一年から二年間だけ教えた文学修士のロバート・S・フォールスや二十四年から十年近く教えたアメリカ人の牧師フレデリック・スタンレー、独歩や紅葉の作品を英訳した人で一年間だけ教えた上品なイギリス紳士アーサー・ロイド以来、L・B・チャモレーとかウィルソン・K・アズビル、G・P・モーア、ヘンリー・T・ページ、クレー・マッコレー、ガーディナー、ブラッドベリー、スティヴンソン、G・H・ホースウェルという人達が続いた。彼らは殆どすべて英会話や朗読法の授業を担当した。

 学生はさまざまな科目の授業でさまざまな教員の個性に刺激を受け、卒業後さまざまな専門に分れて進んだようである。明治二十六年文学科第一回生の金子馬治は母校の英語教員から哲学者になり、紀淑雄も初め英語を教えていたがやがて『日本帝国美術略史』を書くようになり、水谷弓彦(不倒)は小説作家からやがて江戸文学の研究者となった。永井一孝は平安期文学の研究者、中桐確太郎は論理学・倫理学者として長く母校の講師となり、土肥庸元(春曙)は新劇俳優として有名になった。第二回生の島村滝太郎は作家、評論家、英文学者、新劇指導者として活躍し、中島半次郎は教育学者として活躍した。明治二十八年卒の五十嵐力は国文学者、綱島栄一(梁川)は哲学者、朝河貫一は歴史学者としてイエール大学教授を務め、明治三十九―四十年に一時帰朝したとき英語、英文学を講義した。三十年卒の長谷川誠也(天渓)は評論家の後で英文学の講師になり、喜安璡太郎は研究社の『英語青年』を編集し、卒業間近に退学した繁野政留(天来)は詩を書いた後、日本におけるミルトン研究の先駆者になった。三十四年卒の正宗忠夫(白鳥)、徳田浩司(近松秋江)は小説家としてそれぞれ一家をなし、三十六年卒の中村吉蔵は小説、戯曲を書き、「日本戯曲技巧論」で博士号を受けた。三十七年卒には歌人の窪田通治(空穂)、随筆家の岩本堅一(素白)がいる。三十八年卒の西村真次は文化人類学者として優れた業績を残したが、初め小説やイギリス・ロマンティシズムの詩を翻訳していた。

 この時期(明治二十三―三十四年)に文学科、英文学科、英語学部の授業に新たに加わった主な教員は次の通りである。

磯野徳三郎(安政四―明治三十七年) 理学士。明治二十六年から文学科でスコット、ディケンズの輪講。

増田藤之助(慶応元―昭和十七年) 英語学。明治二十七年から昭和十一年まで英詩・英作文・講読。

金子馬治(筑水)(明治三―昭和十二年) 明治二十六年から専修英語科で、三十年から英語学部で、英語を教え始める。後に哲学・心理学を専門とする。

岸本能武太(慶応元―昭和三年) 明治二十八年から英作文・文法・発音を教える。二十九年に英語学部の主任講師。

安部磯雄(慶応元―昭和二十四年) 明治三十二年から史学とともに英語訳読。後に史学科の専任となる。

島村滝太郎(抱月)(明治四―大正七年) 明治三十二年から大正二年まで(明治三十五―三十八年は海外留学)英語・英文学史・支那文学史・近世欧州文芸史などを教える。また文芸評論家・新劇運動指導者として活躍。

高杉滝蔵(明治三―昭和十八年) 明治三十四年から英会話を教える。

田中喜一(王堂)(慶応三―昭和七年) 哲学者、評論家。明治三十五年からジェイムズ、デューイ、サンタヤナ、ペイターなどのテキストで英語講読。

 なお夏目金之助・植村正久・高山樗牛が文学科で英語を教えた他に、片山潜・紀淑雄・岡田猛熊・梅若誠太郎・神崎直之・柏原文太郎・吉田俊雄・佐久間信恭なども英語学部で英語教育に当った。

 明治三十五年に早稲田大学と改称されたとき、三つの学科は再び統合されて、大学部文学科と呼ばれる単一の学科になった。教員の顔ぶれは殆ど変らなかったし、カリキュラムもそれほど改まってはいない。

 しかし、三十八年にこの文学科の第一回生、七十名が出たが、かなり多くの卒業生が実にさまざまな方面に目覚しい活躍を見せた。人形芝居の研究家である石割松太郎(眉葉)、童話作家の小川健作(未明)、美術批評家の河野譲(桐谷)、水戸学研究者の高須芳次郎(梅渓)、インド哲学者の武田豊四郎、宗教哲学の原口竹次郎らがいる。英文学関係では日高只一がアメリカ文学やページェント劇を研究し、横山有策は逍遙の後を承けてシェイクスピアを講義したが、吉江喬松(孤雁)は英文学を教え始めてやがてフランス文学の研究者に変った。次の三十九年卒百一名にも活躍した卒業生が多い。会津八一(秋艸道人)は歌人で書家で、東洋美術史を講義しながら、高等学院ではずっと英語を教えた。岡村千曳も英文学の講義を担当して、幕末洋学を研究しながら東西文化交渉史も講義した。神話学を教えた野尻正英(抱影)は星の民俗史研究で知られ、演劇を講義した楠山正雄はまた近代ヨーロッパ劇を翻訳した。校歌「都の西北」を作詞した相馬昌治(御風)はトルストイの作品を訳し、英文学科でロシア文学思想を教えたが、郷里の糸魚川に帰って良寛研究に没頭した。片上伸は文芸評論家として活躍し、英文学のロマンティシズム時代を講義したが、ロシア留学以後、ロシア文学科主任になった。そのほか倫理学者の杉森孝次郎、ユーモリストの生方敏郎、仏典研究家の大屋徳城、日本精神史研究家の村岡典嗣、哲学を講義してついに著書を書かなかった関与三郎、新派演出家の桝本清好などがいた。

 そして明治三十七年に、「英文学科」という独立した専攻学科が初めて文学部に誕生した。この明治三十七年に文学部は哲学科と英文学科との二学群に分れて、翌年にはその研究科も開設された。明治四十一年には哲学科、英文学科のほかに、和漢文学科と史学科が設けられたが、英文学科は高等師範部の英語科が編入されることになって、そのために第一部と第二部から成るという構成がそれから十二年間、大正九年度卒業生まで存続する。

 ところで、この英文学科は、英米文学を中心に教えることになってはいたが、厳密にそれに限定しようとする傾向は全くなかった。寧ろ英語を通して学ぶ外国文学科というか、ヨーロッパ文学科というか、領域の広い一般文学科であって、英米のほかに仏・独・露・伊・北欧諸国の文学の傑作を満遍なく扱おうとしていた。明治四十二年以降の学科配当表を見ると、例えば金子馬治がキュルベの英訳著書を使って哲学概論を講義したり、プラグマティズムを解説したり、ヘイの『ギリシア悲劇』をテキストに欧州文芸思想史を教えたりしていて、これが当時の学科の未分化で雑多な状況の一種の豊かさを象徴していたと言ってよい。例外は恐らく増田藤之助が英文学十九世紀の詩と小説の講読だけ担当していたことや、坪内逍遙がこの頃からシェイクスピアの作品の講読と研究だけにして大正五年に退職するまでその通りに続けていたことくらいである。その他の教員は幅広くさまざまな講義を担当しなければならなかったらしく、とりわけ片上伸は後で露文科の主任教授になっただけに、四十年から英詩や英文学史を教えるほか、文芸評論やドストエフスキー研究に『カラマゾフの兄弟』を扱ったりしていた。島村抱月は英小説のほかに近世欧州文芸史や美学だけでなく、明治三十二年からは暫く支那文学史まで教えていた。吉江喬松になると明治四十五年から現代英文学の講読を始めたが、大正二年以後はボードレール研究、ゴーリキー研究、メーテルリンク研究を受け持ち、更に大正八年には仏文学専攻が独立するとその専属教員になったものである。明治四十二年の文学研究科では坪内がイプセン、島村がトルストイ、神学の植村正久がブラウニング研究を担当していた。

 学科の豊かな未分化状況といえば、大正二年から六年にかけて、英文科を二種に分けて教育する実験を試みたことがあった。第一部約四十名は従来通りに全科目を履修させることにして、ただ第二部約二十名については、特別に、提出論文によって詮衡し、英作文や教育法などの実用科目を免除してさまざまな講義を自由に選択させ、第二学年からは論文なり小説なり翻訳なりの試作を提出させる、という風変りな制度を採り入れることにした。創作家や評論家を養成するために、負担を軽くして思う存分才能を伸させよう、という島村抱月の発案であった。その方針に応じて、講義のテーマも急にヨーロッパ文学芸術の全般に拡がった。抱月の西洋美術研究がいちばん人気があったというが、山岸光宣のホフマンスタール研究や片上伸のアーサー・シモンズ象徴主義論、中村吉蔵のイプセン研究なども、多くの学生を集めていたという。しかし、この自由放任の教育方針は、間もなく、予期したほどの成果を挙げるとも思われなかっただけでなく、手のつけられない劣等生を送り出す恐れがあると考えられてもきた。しかも発案者の抱月は松井須磨子事件で大学を去り、片上伸吉江喬松は海外留学に出て、結局この第二部は熱心な責任者を失って自然に消滅する結果となった。尤も、ついでに言えば、これは後になって思いがけなく多方面に活躍する人材を豊富に送り出した、早稲田文科空前の多産時代、という評価が与えられたりすることもある。

 この時期に加わった他の教員については、内ケ崎作三郎が明治三十五年から、チャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』を使って英文訳読を教え始めている。また同じ年、吉岡源一郎が高橋重哉とともに英会話を受け持ち、宮中安吉が英作文、英文法、武信由太郎が英文練習、菅野徳助が英文学輪講を担当した。四十二年から戸川明三(秋骨)が三年間だけ英文学史や英詩を教えている。大正三年、四年に相馬昌治(御風)が講師として近代ロシア文学思想を講義したことがある。また大正三年から長谷川誠也(天渓)が四年間イギリス近代劇、四年から勝俣銓吉郎がジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』やデ・クウィンシーの『阿片常用者の告白』の講読、会津八一がアーサー・シモンズの『イタリア紀行』やポールグレイヴの『英詩選集』などを教え、五年から吉田源次郎(絃二郎)がバーンズやブレイクの詩とともに欧州文芸思想史を教えた。同じ五年に坪内逍遙が引退して名誉教授になると、入れ替りに坪内士行が加わって近代のイギリス小説を講義するようになった。横山有策は大正七年に参加している。外国人教員はスタンレー、スティヴンソン、ミセズ・ケイト、M・C・レナード、カニングハム、H・A・コックス、H・B・ベニンホフらが会話を教え、クレメントが英文学発展史を講義した。また東大を辞めたラフカディオ・ハーンが明治三十七年三月から急死する九月までの短い期間、高田早苗学長の依頼を受けて、英文学史を喜んで講義した。

 卒業生もこの頃の英文学科が持っていた未分化の豊かさを反映して、さまざまな専門に進んだ人が多い。明治四十年の第一回生の佐久間原はアメリカ文学者になり、秋田徳三(雨雀)は劇作家として、中村将為(星湖)は小説家として、池田銀次郎(大伍)は喜劇作家として、それぞれ有名になった。翌年の卒業生には詩人や歌人が多く出た。加藤寿太郎(介春)、土岐善麿(哀果)、服部嘉香、原田譲二(ゆづる)、人見円吉(東明)、福田有作(夕咲)、若山繁(牧水)などがそうで、中退した詩人を加えれば北原隆吉(白秋)と三木操(露風)がいた。四十二年卒業生には演劇関係者が多い。戯曲「夜叉丸」を書いた島村民蔵や劇から映画も扱った仲木真一がいるが、本間久雄はイギリス世紀末文学と明治文学の研究の両方で優れた業績を挙げた。坪内士行は演劇研究者と演出家として活躍し、市川又彦はバーナード・ショウの戯曲の翻訳で功績を表わした。また四十三年卒の坂崎坦は美術研究家、花園兼定(緑人)は幕末史に詳しいジャーナリスト、四十四年の河竹繁俊は歌舞伎研究家、長田幹彦は旅役者の群を描く小説で作家になり、加能作次郎も北国漁村の生活を描く作家。三富義臣(朽葉)は詩人になったが、二十八歳で水死した。吉田源次郎も英文学の教鞭を執りながら感傷的な筆致で愛読される小説を書き、森下岩太郎(雨村)は推理小説を書いて探偵小説興隆の父と言われた。四十五年卒の大手拓次は歯磨会社に勤めながら香気あふれる独自の詩を書いた。

 大正二年卒の谷崎精二は作家として出発し、「小説形態の研究」で文学博士になり、英文学を教えて永く文学部長を務めた。その親友だった広津和郎は評論家として出発し、やがて知的な社会批判を含むモラリスティックな小説を書く作家になった。彼らと親しかった今井国三(白楊)は、詩人として嘱望されながら卒業後間もなく犬吠崎で三富朽葉と遊泳中に共に水死した。また彼らの雑誌『奇蹟』の同人だった相馬泰三は中退したが作家となり、やはり同人の葛西善蔵は聴講生で、後に自然主義的私小説の作家になった。白鳥省吾は民衆詩派の代表詩人、また増田綱は英作文の大家、矢口達は翻訳家、原田実は教育学者になった。三年卒の樋口国登日夏耿之介)は英文学科で教えながら、独特な詩人であるとともに、明治大正詩史やイギリス・ロマンティシズム研究に功績を残した。トルストイを全訳した原久一郎、美術学者の森口多里、新国劇の沢田正二郎もこの年に卒業したが、小説家の三上於兎吉と宇野格次郎(浩二)は中退している。四年卒の西条八十も仏文学科で教えながら日夏とともに詩人として大正詩壇の象徴詩時代をつくった。田中純は牧師の心理描写の得意な作家、松原至大は童話作家、また坪田譲治は同じ童話作家としても現代児童文学界の先達となった。青野季吉はプロレタリア文芸理論の指導的評論家として活躍し、宮島新三郎は英文学者として文芸批評史を教えながら翻訳や大正文学研究などの功績を残した。また保高徳蔵、細田民樹、細田源吉という作家達もいるが、中退した植木宋一は直木三十五のペンネームで高級な大衆作家として成功した。その直木賞の第二回を受賞した鷲尾浩(雨工)は同窓である。五年卒の工藤直太郎は英文学者で、早稲田派詩人の系譜を英文で著わした。六年卒の木村毅は博覧強記の雑学巨匠と言うべき比較文化研究の大家で、多方面に健筆を発揮した。平林初之輔は青野とともにプロレタリア文学運動の理論的指導者となり、マルクス主義文学理論の問題の解明に努力した。高田保は劇作家であるとともに軽妙酒脱な随筆家として知られた。小泉一雄は『父小泉八雲』に肉親ラフカディオ・ハーンの思い出を書き残した。また戯曲家の永田衡吉、美術批評家の荒城季夫、映画シナリオ・ライターの野田高梧、ロシア文学者の馬場哲哉(外村史郎)などもいた。そして七年卒の高原延雄はシェイクスピア研究で知られた英文学者。柳田泉はカーライル全集を訳し、明治初期文学を精密に研究して、東西文化交渉史を講義した国文学者。大槻万二は精神分析学者。名取堯は芸術学者。また浜田広助(広介)、水谷勝(まさる)、吉田甲子太郎などは児童文学者として親しまれた。八年卒の牧野信一は小説家、九年卒の幡谷正雄は英文学者、額田六福は劇作家。

 次の人達がこの時期(明治三十五―大正八年)の英文学教授陣に加わった。

片上伸(天弦)(明治十七―昭和三年) 批評家、ロシア文学者。明治四十二年から英詩、英文学史でトムスン、ワーズワス、アーサー・シモンズ、イェイツを教える。大正四―七年ロシアに留学。大正九年から露文学科主任。『思想の勝利』『ロシア文学研究』

吉江喬松(明治十三―昭和十五年) 仏文学者。明治四十一年から高等予科で英語を教え、四十四年から文学科で英詩、英小説を講義。大正五―九年フランス留学。帰国後仏文学科主任、文学科教務主任、文学部長。『仏蘭西古典劇研究』

戸川明三(秋骨)(明治三―昭和十四年) 評論家、英文学者、翻訳家。明治四十二年から三年間イギリス近代劇、英文学史、欧州文芸思想史を教える。『英文学講話』『都会風景』

長谷川誠也(天渓)(明治四―昭和十五年) 批評家、英文学者。大正三年から四年間、英文学史、欧州文芸思想史を教える。評論集『自然主義』『文芸と心理分析』

吉田源次郎(絃二郎)(明治十九―昭和三十一年) 小説家、随筆家、劇作家。大正五年からブレイク詩集、欧州文芸思想史を教える。「島の秋」「彼岸詣り」を含む『吉田絃二郎全集』八巻。

中村吉蔵(春雨)(明治十―昭和十六年) 劇作家、劇文学者。明治三十九―四十二年アメリカに留学。戯曲創作で日本近代社会劇の祖と言われる。大正二―三年イプセン研究、近代劇を教え、昭和二年から死ぬまで英文学専攻の教授。『嘲笑』『井伊大老の死』『日本戯曲技巧論』

勝俣銓吉郎(明治五―昭和三十四年) 英語学者。大正四年からエリオット、デ・クウィンシー、ラスキンの作品で英語を教える。『英和活用大辞典』

会津八一(明治十四―昭和三十一年) 歌人、美術史家、書家、大正四年から英語、英詩、英随筆を教え、やがて英文学、中国美術史、奈良文化史を講義。歌集『鹿鳴集』『渾斎随筆』

坪内士行(明治二十―昭和六十一年) 劇作家、演劇研究家、逍遙の甥で養子。宝塚少女歌劇団や東宝に関係した。明治四十二年から七年間欧米に留学。大正五年から近代英文学を教える。『舞踊及び歌劇大観』『妙国寺事変』

横山有策(明治十五―昭和四年) 英文学者。大正五年からシェイクスピア研究のほかに英文学史、イギリス近代劇を講義し、英文学科主任を務めた。

 また吉岡源一郎(英会話)、武信由太郎(英作文)、菅野徳助(英文輪講)、宮井安吉(英文法)、内ケ崎作三郎(訳読)、相馬昌治(ロシア文学思想)、更に中桐確太郎、五十嵐力、畔柳都太郎、中村仲、煙山専太郎杉森孝次郎大石熊吉・平井広五郎なども英語を教えていた。

 大正九年に早稲田大学が新大学令によって法律的に認められたとき、文学部の文学科が国文学、支那文学、英文学、仏蘭西文学、独逸文学、露西亜文学の六専攻に分れ、これで英文学専攻は、初めて教授も講義もかなり専門的に限定されることになった。

 それでも初めは幅広い教養を身につけさせようという配慮は変っていない。英文学専攻の一年生が受ける授業は、英文学概論(横山有策)、散文小説(日高只一)、詩(吉田源次郎)、英語学(増田藤之助)、英作文(勝俣銓吉郎)などの他に、文芸思想史(片上伸)、西洋哲学史(金子馬治)もあり、第二外国語を一科目選択させている。ところが、大正十一年になると、二年生が受けるのはシェイクスピアおよびマーロウ(横山)、ヴィクトリア文学(増田)、英詩研究(樋口国登)、ペイター(吉田)、ホイットマン(横山)、英文学の背景(日高)、英作文(ジョーンズ)のほかに、西洋哲学史(桑木厳翼)、美学(金子)などとなって、にわかに授業のテーマが細分化していく傾向を見せはじめる。数年間のうちにこのカリキュラムは次々に変更され、項目を増やし、いかにも試行錯誤の過程だったことを思わせるが、大正年間の終りにほぼ安定した形を示す。

 安定したというのはこれが昭和元年から六年まで変らずに継続されているからである。こころみにその昭和元年の「英語及び英文学」の必修科目というのを列挙すると、第一学年は、一、英文学史(横山)、二、英文学研究法(横山)、三、英詩学概論(樋口)、四、英文学批評(本間久雄)、五、詩(十九世紀前半期、繁野政瑠)、六、プロソデー及作文(バントック)、七、小説(ビクトリア朝前期、日高)、八、小説(十八世紀、谷崎精二)、第二学年は、一、英米文学史(日高)、二、劇(沙翁、横山)、三、散文(アメリカ、増田)、四、小説(ビクトリア朝後期、日高)、五、小説(十九世紀前半期、谷崎)、六、詩(近代、樋口)、七、散文詩及作文(バントック)、第三学年は、一、散文(近代、増田)、二、小説(最近代、日高)、三、劇(近代、横山)、四、文法史(勝俣)、五、悲劇及作文(バントック)、六、英語発達史及発音学(伊地知)というふうに、かなり細分化された内容がそれぞれの授業科目に割り当てられていた。

 そして昭和七年から、どういうわけか、また題目の簡略な授業構成に戻っている。例えば、詩(繁野・樋口)、小説(日高・谷崎)、評論(宮島・本間)、近代小説(増田)、近代英詩研究(バード)、古典詩研究(繁野)、アメリカ文学(谷崎)、文芸批評(宮島)、エッセイ研究(岡村千曳)といったぐあいである。そのかわり選択必修の授業として、世紀末英文学研究(本間)、アイルランド劇研究(日高)、上代英文学及英詩分類学(樋口)、英語学(勝俣)、シェイクスピア研究(中村吉蔵)、叙事詩研究(尾島庄太郎)、近代英詩研究(長谷川誠也)、現代英詩及英詩作法(岡田)、英詩研究(ライエル)というような、特殊な、担当教員がそれぞれ得意とするいわば呼び物の授業があり、それが年によって教員の都合で増えたり減ったりしている。この時間表に、例えば昭和十五年には、英文学主潮(日高)やアメリカ文学概論(佐久間原)や英詩象徴法理論(樋口)などが加わり、翌年には選択必修科目に英文学特殊研究という題名を使うようになったりしているが、ほぼ同じ方針に基づくカリキュラムだったと考えられる。そしてこのまま終戦の昭和二十年まで続く。この時期の変った授業といえば、大正四年に引退して名誉教授もやがて辞退した坪内逍遙が、大正十四年に文学通論の授業に歌舞伎史を講義して文学部学生全部に聞かせたことがあり、また翌年から二年間随意科目としてシェイクスピア講読の公開授業を行い、文学部学生ばかりでなく外部の聴講者も数多く加えて聞かせたことがある。

 教員は、初めは増田藤之助片上伸吉田源次郎横山有策勝俣銓吉郎などが英文学専攻の中心で、大正九年に日高只一、大正十一年に谷崎精二樋口国登、大正十四年に本間久雄をそれぞれ加えて、例えば大正十四年には総勢九名の専任で教育に当っていた。しかしこの年に吉田源次郎が戯曲創作に専念するために退職し、翌年に講師のバントックも退いて、昭和年代に入ると、急に著しい世代交代が行われることになった。文芸思想史を講義していた片上伸は昭和二年まで教えて翌年春四十五歳で亡くなり、逍遙の後を継いでシェイクスピア劇を担当していた横山有策も更にその翌年に没し、ミルトン研究で名前を知られた繁野政瑠も昭和八年に六十歳で世を去った。英語学と古典詩研究を教えて逍遙とともに英文学科草創期から長く尽力してきた増田藤之助も、昭和十一年度を以て遂に退任した。シェイクスピア研究の中村吉蔵も昭和十六年で辞めている。

 そこで、昭和八年には随筆文学研究者の岡村千曳や、アイルランド文学研究者の尾島庄太郎が専任教員に入り、また既に昭和二年から教えていた講師バードにトマス・ライエルも加わって英詩を教えた。前に大正三―七年に教えていた長谷川誠也も再び昭和九年から十四年まで教授陣に参加する。昭和十五年にはアメリカ文学研究者の佐久間原が加わった。尤も、昭和三年に英語と批評史を教え始めた宮島新三郎は、文芸評論や翻訳、明治大正文学研究、客観的な英米批評の紹介などに活躍しかけたところで、昭和九年に四十二歳で急逝した。

 ところで、この大正十二年から昭和二十年までの卒業生には、主に英文学研究者として活躍する人達が多く出た。作家や評論家としてジャーナリズムに活躍する者や全く別の分野に転出する者も幾らかいたにはいたが、何といっても前の時代の場合ほど変化に富んではいない。

 大正十二年卒業の尾島庄太郎はW・B・イェイツを中心にするアイルランド文学を研究し、帆足図南次はアイルランドやアメリカの民主主義文学を調べ、どちらも後に教授を務めたが、中山議秀一人作家として有名になった。川津孝四はソロー研究者として知られ、露文出身の杉木喬はアメリカ文学者となって多くの翻訳を試みた。翌年の工藤好美はペイターの『享楽主義者マリウス』を訳し、『文学論』を著わし、英文学者として活躍した。

 昭和年代に入ると、二年卒の垣内武二が後に講師としてチョーサーを教え、三年卒の飯島小平(シェイクスピア劇)、杉山玉朗(英米文学評論)、渡鶴一(英米小説)らは昭和二十年代に文学部の教授として英文学専修教員の中心になった。鈴木金太郎は商学部で英語英文学を教えた。四年卒にはT・S・エリオット研究家の荒川竜彦、ハーディ研究家の小野武雄(木下準之助)のほかに、印南高一(演劇学)、本田安次(日本民俗芸能研究)がいた。五年卒には理工学部で英語を教えた高杉信、ロゼッティ研究の小花和武夫、『近代英文学の倫理』の永野正人。六年卒の宮田斉(英語学)は昭和三十年から文学部でアメリカ英語を教えたが、同年の普後俊次は『ベドオズ論攷』を著した。八年卒の北田勤、椎名忠吉、鈴木悌二、牧野力など商学部、理工学部、政経学部などで英語を教え、福田義孝は『サヴォイ・オペラの研究』で知られた。九年卒の鈴木幸夫(アメリカ文学・推理小説)は昭和二十四年から文学部で教え、千葉恒心は法学部で教えた。十年卒の大内義一は政経学部で教えてアイルランド文学論やアメリカ黒人文学論について書き、藤島秀麿はハーバート・リード論を扱い、清水安治は『ホイットマン研究』を著した。野村尚吾は小説を書き、十一年卒の榛葉英治も作家として知られ、十二年卒の川本茂雄は英語学からフランス語に移り言語学者として知られた。十三年卒の東浦義雄(英語学)は理工学部で教えた。十四年卒の大沢実(ヴァージニア・ウルフ研究)は昭和二十五年から文学部で教えて翻訳家としても活躍した。同窓の内山正平は法学部で英語を教え、木村宗男は語研で日本語を教えたが、ウィルソンの『アクセルの城』を訳した大貫三郎は信州大学、英語学の黒河内豊は埼玉大学で、それぞれ英米文学を講義した。結城信一は小説を書き、坂本朝一はNHK会長を務めた。十五年卒の巌谷大四は評論家として活躍し、長崎吉晴はフォースター論を書いた。十七年卒の倉橋健(アメリカ演劇)は演博館長を務め、小沼救(イギリス小説)は小説を書き、共に文学部で英米文学を教えた。山脇百合子は実践女子大教授。十八年卒の古川晴風(古典語)は図書館長を務めながらラテン語、ギリシア語を教え、日本で最初のギリシア語辞典を編集した。十九年卒の守屋富生も文学部教授(イギリス小説)となった。

 この時期(大正十二―昭和二十年)に英文学専攻教員に加わった人達は次の通りである。

日高只一(明治十二―昭和三十年) 大正九年から『ロビンスン・クルーソー』やコンラッドの『西欧の眼の下で』をテキストに小説を教え始める。『英米文学の背景』『英国劇大観』『娯楽と民間芸術』など。

谷崎精二(明治二十三―昭和四十六年) 大正十一年から昭和三十五年定年退職までイギリス小説を講義、第三次『早稲田文学』を主宰。小説『地に頬つけて』『離合』『結婚期』などを書き「小説形態の研究」で文学博士。

樋口国登日夏耿之介)(明治二十三―昭和四十五年) 大正十一年から昭和二十年まで近代英詩研究を教える。詩集『転身の頌』『黒衣聖母」のほかに、『明治大正詩史』『英吉利浪曼象徴詩風』があり、「美の司祭」で文学博士。

本間久雄(明十九―昭五十六年) 大正十四年から昭和三十二年定年退職まで英文学評論、文学概論を教える。「英国近世唯美主義の研究」で文学博士。『明治文学史』

宮島新三郎(明治二十五―昭和九年) 昭和三―八年にラスキンをテキストにイギリス評論を教えた。『文芸批評史』『明治文学十二講』『大正文学十四講』

尾島庄太郎(明治三十二―昭和五十五年) 昭和八年から昭和四十五年定年退職まで詩学、英詩概論を教える。「イギリス文学と詩的想像」で文学博士。『現代アイァランド文学研究』『叙事詩の研究』

岡村千曳(明治十二―昭和三十年) 昭和八年からエッセイ研究を教える。後に図書館長。『紅毛文化史話』

増田綱(明治十九―昭和四十五年) 昭和九年から英作文を教えた。教育学部に所属した。

佐久間原(明治二十三―昭和二十年) 明治十五年からアメリカ文学評論を教える。『アメリカ小説の研究』『アメリカ批評の研究』

 また外人講師にバントック、バード、ジョーンズ、ライエルらがいた。

 昭和二十年から数年間は学問の諸制度が民主化されていく過渡期だったが、卒業生が十名そこそこに減少していた文学部の英文学専攻の学生はにわかに増大してきて、昭和二十四年に新制大学となって第一文学部と第二文学部が設置されるようになると、次第にそれぞれ一学年八十名を超える学生数になってくる。教員は一文、二文の両方の英文学専攻を均等に教えることになって、増員の必要は当然に起ってきた。

 この頃英文学専攻の専任教員は谷崎精二、本間久雄、尾島庄太郎、それに英作文を教える増田綱を中心にして、コンラッドやロレンスを教える渡鶴一、英文学評論の杉山玉朗、シェイクスピア劇研究の飯島小平を加え、更に二十五年に英米小説を扱う鈴木幸夫、二十六年にはアメリカ演劇の倉橋健、古典語の古川晴風がそれぞれ海外留学から帰国して、イギリス・ロマンティシズム研究の大沢実とともに教授陣に加わった。そして三十年前後にイギリス十九世紀小説を専攻する小説家の小沼救、英語学の宮田斉、イギリス民主主義文学の帆足図南次、言語学英作文の岡田秀穂、バーンズ研究の三浦修が入った。更に三十四年前後には高等学院で教えていた守屋富生、西川正一、林昭夫が移ってきた。三十五年以後は野中涼・氷室美佐子・松原正・臼井善隆・大井邦雄・小池規子・虎岩正純・紺野耕一・引地正俊・新保昇一・井内雄四郎・中山末喜・三谷貞一郎・小黒昌一・甲斐萬里江・大島一彦らが加わった。更に五十七年以後、留守晴夫、三川基好、村田薫、安藤文人が専任講師となった。外国人の客員教授にデイヴィッド・フレンド、ケニス・レンドンの二人がいる。大沢実は四十三年に早逝し、、五十七年に中山、三谷が続けて亡くなった。現在は三浦以下二十四名のメンバーが英文学専修の専任教員を構成している。

 早稲田大学文学部の英文学会は、いつ設立されたか、今のところその時期を確定するのが難しい。『早稲田学報』三二七号によると、大正十一年二月二十六日に英文学会主催でホイットマン逝去三十年祭が行われたという記録があるが、これがどういう組織の英文学会であったか、その後どのように活動し、どのように存続したのか、分っていない。また横山や吉田・日夏・島村が寄稿した『外国文学研究』(大正十二創刊)や日高が寄稿している『文学思想研究』(大正十四年創刊)、繁野や日夏や本間が寄稿している『欧羅巴文学研究』『綜合世界文学研究』(共に昭和六年創刊)などとの関係はどうだったのか。ただ、ずっと後、昭和九年に早稲田大学英文学会の名前で紀要論文誌『早稲田英文学』を創刊し、昭和十五年まで年一冊、毎年発行して第八号まで続けて出している。ここには尾島庄太郎の「オシアン論争考」や鈴木幸夫の「ジェイムズ・ジョイス序説」や川本茂雄の「It is me試論」、杉山玉朗の「聖林への道」、大内義一の「シェイクスピアの妖精とアイルランドの妖精」などの論文が載っていた。それが昭和十六年に『稲英』と改題されて、百ページほどの第一号を出したまま、あとはたぶん戦時下に入って途絶えてしまった。そして戦後の昭和二十五年に、本間久雄の提案によって『英文学――研究と鑑賞』が創刊された。これがずっと継続して、年に一冊ないし二冊を発行し、平成元年までにそれが第六五号に達している。紀要誌は初め主に教員だけが執筆していたが、第四〇号(昭和三十九年)あたりから編集方針が変り、大学院文学研究科の英文学専攻博士課程の在学生や卒業生が投稿する論文によって大部分が占められてきた。また雑誌発行のほかに、昭和三十五年から毎年一回年末に研究発表会および講演会を開いている。

十一 フランス文学専攻

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 早稲田大学にフランス文学科が設置されたのは大正八年である。この年から四月新学年制が導入され、それまで大学部文学科のうちに哲学科・英文学科(一部・二部)・史学及社会学科が設けられていたのに対し、哲学科内に東洋・西洋・社会各専攻科、文学科内に国文学・支那文学・英文学・仏文学・独文学・露文学各専攻科、史学科内に国史・東洋史・西洋史各専攻科が新設された。翌年の新大学令による大学設立認可とともに、その全体が文学部に昇格した。

 片上伸が大正四年ロシアに派遣されたのと同様、英文学科教授吉江喬松が大学の命を受けて翌五年フランスに留学したのも、この仏文科設立の準備のためであったが、吉江教授の帰国が大正九年九月まで延期されたために、発足時の教授陣は辰野隆(仏蘭西文学、仏蘭西文学概論、フランス語)、五来欣造、鈴木貫一郎、関与三郎、メタクサ夫人(以上フランス語)といった、東大仏文科の支援を得た混成軍であった。辰野隆は大正五年、東大を卒業したばかりの少壮学徒であったが、後に我が国のフランス文学研究をリードする同氏が、我が仏文科の創設に関与したというのは興味ある事実である。ただし早稲田大学内部においても、英語を通してであるとはいえ、吉江喬松が既に明治四十三年以来ボードレール、マーテルリンクに関する特殊研究の講座を担当し、大正三年には仏蘭西文学史の講座を開いていることを忘れてはなるまい。また、大正五年四月には、今日の早稲田フランス文学会の前身ともいうべき「仏語会」が発会している。

 以上の経緯を見ても、仏文科創設に当って吉江喬松の果した役割の大きさが推測されるが、更に帰国後カリキュラムの充実を図り、優れた人材を登用し、率先して次々に注目すべき業績を挙げたばかりでなく、抜群の指導力を以て今日の同科の隆盛の基礎を固めたのも、彼であった。大正十年にはフランス文学会主催の下に、「ボオドレエル生誕百年祭」(十一月)、「フロオベル祭」(十二月)を企画し、他方、『東京朝日新聞』『文章世界』等に寄稿した滞仏中の文章を集めて『仏蘭西印象記』(精華書院)を上梓した。大正十一年には、更にシャルル=ルイ・フィリップ十三周忌記念講演会で「大地の声」なる講演を行って、農民文学勃興の機運を促し、『近代神秘主義の思想』(三徳社)を上梓するかたわら、『新潮』誌上に「仏蘭西文芸印象記」を巻頭連載し、翌年これも新潮社より出版している。とりわけ後者は、アナトール・フランス、フィリップ、フロベール等を初めて本格的に紹介して、当時の我が国の文学界に多大の反響を呼んだと言われる。この時、彼はまだ四十三歳であった。

 仏文科の歴史はこうした吉江喬松の多面的な活動と歩みを共にしてきたので、いま少し彼の生涯を詳述すると、長野県塩尻出身の彼は、明治三十八年英文科を卒業し、島村抱月の指導の下に「英文学に現はれたる自然美の研究」をテーマとして研究を続けた。この題目を見ても分る通り、終生自然を愛した彼は、早くから蘆花・独歩の流れを汲む『緑雲』『高原』(ともに明治四十二年)、『旅より旅へ』(明治四十三年)、『青空』(大正元年)等の文集を著わし、それが後に農民文学や海洋文学を提唱する素地となった。研究対象としたのも『近代詩講話』『純一生活』(ともに大正四年)に見られるように、ボードレール、マーテルリンク、モーパッサンを別にすれば、ツルゲーネフ、ゴリキーであり、イエーツであった。後に学問としての文学研究の厳密さを強調するに至っても、背後にこうした詩人的直観の鋭さと感性の豊かさがあったからこそ、彼の業績が狭い学界を越えた広汎な影響力を及ぼしたものと思われる。彼は常に、研究と実作との併行を主張した。

 留学中も、研究のかたわら坪内逍遙の『役の行者』『新曲浦島』を仏訳し、これをパリで出版したりしたが、しかしソルボンヌで文献実証主義の元祖ギュスターヴ・ランソンやモラリスト研究の第一人者フォルチュナ・ストロウスキー教授の直接指導を受けたこと、そして帰国後仏文科の主任教授として研究方法指導の責任を負わねばならなくなったことが、科学としての学問研究への傾斜を決定的なものにしたに違いない。その方面の業績としては、大正十四年に発刊された文学部の研究誌『文学思想研究』に「仏蘭西古典悲劇研究」を発表したが、これは後の博士論文『仏蘭西古典劇研究』(昭和六年、新潮社)の母胎となったものである。また、春秋社版『大思想エンサイクロペディア』に「現代仏蘭西文芸思潮」(昭和三年)、新潮社版『世界文学講座』に「仏蘭西文学概観」(昭和四―六年)を執筆、両者をまとめて『仏蘭西文学概観』(昭和八年、新潮文庫)として刊行している。そのほか岩波講座のための「流派の歴史・古典主義」、文学部の欧羅巴文学研究会の機関誌『欧羅巴文学研究』に発表した「仏蘭西浪曼派の文芸」「仏蘭西レアリスムの動向」「ウェルテルと初期ロマンティックに現はるるウェルテル型の作品」など枚挙に遑なく、さらに多数の翻訳もものしたが、とりわけ注目を浴びたのは、彼の企画監修になる『モリエール全集』三巻(昭和九年、中央公論社)、『世界文芸大辞典』七巻(昭和十―十二年、中央公論社)の刊行であった。その著作の大部分は、没後白水社から刊行された『吉江喬松全集』全八巻に収められている。

 これらの業績は当時の学界の最高水準を行くものであったが、吉江喬松はまた、昭和九年に文学部に文芸学研究会(今日の比較文学研究室の母体)を設けるなどの先見の明を以て、文学部全体の改組にも尽力し、昭和五年に文学部長、昭和十三年に大学理事を務めた。晩年は仏文科内の文学青年たち、学問よりは創作を志す劣等生達にも温顔をもって接し、昭和十五年の死に至るまで、谷崎精二主宰の第三次『早稲田文学』の最も有力な後援者であった。

 創設時の卒業生数は、記録によれば、大正十一年一名(小林龍雄)、大正十二年九名(佐藤輝夫、和田博、内田傳一ほか)、大正十三年六名(宮本正清ほか)、大正十四年十名(神部孝ほか)、大正十五年八名、昭和二年九名(川島順平、斉藤一寛、恒川義夫ほか)、昭和三年八名(根津憲三ほか)、昭和四年九名、昭和五年八名(新庄嘉章ほか)となっている。括孤内に挙げた各氏は、後に『沃土』『大日向村』等の話題作を発表、農民文学の第一人者となった作家和田傳、関西日仏学館主事を経て大阪市大教授となったロマン・ロラン研究家宮本正清を除き、すべて本学各学部で終生フランス語教育に専心された先達達である。第一回生には、井伏鱒二と、その友人で在学中早逝を惜しまれた青木南八もいた。

 学科編成は、大正十一年には既に次のような本格的なものに変っていた。すなわち、仏蘭西文学概論(西条八十)、近代小説(吉江喬松西条八十)、古典研究(吉江喬松、シェリング)、フランス語(藤本民雄、イナ・メタクサ、五来欣造、鈴木貫一郎)。因にシェリングは吉江喬松が帰朝に際して招聘したスイス人、メタクサ夫人は少女時代アナトール・フランスと親しかったという博学で陽気なギリシア貴族であった。鈴木貫一郎は後の外語大教授鈴木健郎氏の父君である。この教授陣に、大正末から昭和初頭にかけて、平林初之輔、椎名其二、山内義雄、神部孝、佐藤輝夫が順次参加し、早大仏文科は一層の充実を見た。とりわけ、吉江・西条・山内がその代表的存在として重きをなした。

 西条八十は一般には、言うまでもなく童謡・歌謡曲の作詞家として知られているが、『砂金』(大正八年)、『蠟人形』(大正十一年)によって当時の若者を陶酔と哀傷に引き込んだ象徴派詩人でもあった。早稲田中学の恩師吉江喬松を慕って英文科に入学し、在学中から詩作に没頭、三木露風らの「未来」、日夏耿之介らの「聖盃」「仮面」に拠った。大正十年英文科講師となり、翌年あたりから仏文科でも講義を行ったが、大正十三年渡仏、ソルボンヌで二年間学び、ロンサールからヴァレリーに至る仏詩人の作品を耽読した。帰朝後仏文科助教授を経て、昭和六年教授となった。詩・劇の講座を担当するかたわら、『白孔雀』『愛誦』『蠟人形』等の詩誌を主宰し、その誌上に多くの訳詩・研究を発表した。英詩にも多くの翻訳・研究があるが、仏詩ではとりわけランボーを愛し、「ランボー初期の詩篇」「ランボーの詩と感覚」等の論文を発表している。第二次大戦の終結と同時に早大の教壇を去ったが、晩年に発表した『アルチュール・ランボオ研究』(昭和四十二年、中央公論社)は、三十有余年に亙るランボー研究の集大成である。

 平林初之輔は大正六年英文科を卒業。その後もアテネ・フランセでフランス語を学び、大正九年国際通信社に入社して海外通信の翻訳に従事していた。そのかたわら同僚の青野季吉らとマルクス主義の研究に没頭し、大正十二年に仏文科で仏評論の講座を担当、デカルトなどを講じた頃には、既に『唯物史観と文学』(大正十年)によって気鋭の文芸評論家として知られていた。「種蒔く人」同人として、『第四階級の文学』(大正十一年)等で、日本ではじめて唯物史観に基づく文学理論を確立したが、やがて『文学理論の諸問題』(昭和四年)で芸術の自主性を前面に押し出し、政治への芸術の従属を自明の理としたマルクス主義芸術理論を批判して、蔵原惟人・勝本清一郎らと対立した。フランス文学の方面では『文学思想研究』に発表した「自然主義文学の理論大系」が主な論文であるが、ルソーやフランス革命についても堅実な研究を行い、ポワンカレーの科学哲学を紹介した。昭和六年早大留学生として渡仏し、第一回国際文芸家協会大会に日本代表として出席したが、六月急病のためパリで客死した。

 椎名其二は吉江喬松が留学中、パリで早大への招聘を約束して帰国させたと言われる。明治四十一年早大哲学科を中退し、石川三四郎やカーペンターら無政府主義者の影響を受けて、四十三年に渡米、翌四十四年渡仏、ブリュッセルの自由大学でポール・ルクリュおよびポール・ジルからフランス文化・社会学などを学んだ。大正十一年に帰国し、翌年から仏文科でパスカル、モンテーニュらフランス・モラリストに関する講座を担当した。しかし昭和初頭に再び渡仏し、パリの陋巷で製本業に従事しながら、プルードン研究家としての思想を身をもって生きる誠実な態度を生涯貫いた。第二次大戦後の留学生森有正、辻邦生、野見山暁治らが彼を心から敬愛した事実は、意外に知られていない。

 山内義雄は暁星中学、東京外語を卒業の後、京大法学部に籍を置き、上田敏に私淑した。しばらく母校東京外語の講師を務めたが、昭和二年小牧近江を通じて知った吉江喬松の招請を受け、仏文科の教壇に立って近代小説、劇、近代詩などを講義した。駐日フランス大使であったポール・クローデルと親交があり、クローデル文学のよき理解者であったが、『狭き門』(大正十二年)、『贋金つくり』(昭和四年)の流麗な訳文によって翻訳界に新風をもたらし、文壇にジッド・ブームを巻き起した。更にロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』全七巻(昭和十三―二十七年)を完訳して芸術院賞を受けた。昭和二十四年に政経学部に籍を移したが、定年まで早稲田に留まった。

 神部孝は大正十四年の仏文科卒業生で、昭和三年『文学思想研究』に「メリメ研究」を発表、大学では「テーヌ研究」などの講座を担当、その将来を嘱目された。不幸にして昭和十三年夭折した。

 佐藤輝夫は大正十二年卒業。同十五年から昭和三年にかけて、ソルボンヌおよびボルドー大学で中世ならびに十六世紀フランス文学を学んだ。昭和七年から文学部で教鞭を執り、昭和十六年助教授、昭和二十年教授。昭和二十四年、多年の研究成果である『ヴィヨン詩研究』で博士号を得、これを出版(中央公論社)して昭和二十八年に読売文学賞を受賞した。『トリスタンとイズー物語』『結婚十五の愉しみ』『ローランの歌』の訳のほか、『フランス中世語り物文芸の研究』(昭和十六年、白水社)、『フランス文学の精神』(昭和二十四年、小石川書房)、『ローランの歌と平家物語』上下(昭和四十八年、中央公論社)等の著書も多く、この最後の著書によって昭和四十九年度の学士院賞を受けた。更に、「ヴィヨン」「ローラン」と併せて彼の三部作となる『トリスタン伝説流布本の研究』(中央公論社)も刊行され、話題を呼んだ。学部長、大学院文研委員長の要職を歴任し、仏文専攻科の中心的存在となったばかりでなく、学界でも、中世フランス文学研究の最高権威とみなされた。

 戦前の仏文科が吉江・西条・山内三先達によって代表されたとすれば、戦後の仏文科の盛運は、佐藤輝夫、根津憲三、新庄嘉章、河合亨(昭和八年卒)の果した指導的役割に負うところが大きい。

 その前に戦時中の状況を一瞥すれば、日支事変以後戦争色一色に塗り潰された「銃後」の緊迫した空気のなかで、フランス文学研究者など、享楽を事とするデカダンスの輩と白眼視されたから、肩身の狭い思いをしたのは勿論である。昭和十八年頃からは勤労動員に明け暮れ、殆どまともな授業は行われなかったらしい。学科の区別もなく、ある学生達は栃木の田舎へ田植えの手伝いに、ある学生達は横浜の造船所へ、また他の者は荒川辺の木工所で上陸用舟艇の製作へと、たえず動員され、それに応じて教員も交代で、一週間とか十日ずつ泊り込んで学生の監督に当ったという。戦後教壇に立つ川島順平や室淳介(昭和十六年卒)は、軍属として仏領インドシナに徴用されている。

 終戦後もしばらくはインフレと食糧難のため、授業は容易に正常に戻らず、今日では信じ難いくらい休講が多かった。それでも当時入学した学生は余程向学心に燃えていたということであろうか、現在の仏文科の最も活動的な世代を構成するに至ったのは、歴史の皮肉と言うべきである。

 昭和二十四年四月、アメリカ式六・三・三・四制の導入によって学制が改革され、新制度の文学部が発足した。仏文科の各学年学生数も二十名前後から一挙に六十名前後となり、やがて漸増して今日の九十名定員となる。女子学生もこの年から見られるようになった。

 小林龍雄は第一回生(厳密には旧制最後)として卒業後直ちに高等学院、次いで文学部で教鞭を執り、『文学思想研究』に「アレフレッド・ヴィニー研究」(大正十四年)を発表の後、アンドレ・シェニエ、バルザック等を研究した。根津憲三はプルースト、ヴァレリー、フランス浪漫主義理論などを研究し、なかんずくアナトール・フランス研究にかけては当代の第一人者だった。仏文科運営の蔭の功労者であり、ながらく高等学院のフランス語教育の責任者でもあった。古参としては、劇作・演出等の演劇活動の後、新制度発足とともに教壇に戻って、『ジャン・ジロドゥーの戯曲』(昭和三十四年、白水社)等を著わした川島順平、ながらくアテネ・フランセで教鞭を執った後、早稲田に迎えられた大村雄治がいた。平岡昇も東大教養学部から客員教授として迎えられ、在職十年の間に十八世紀文学研究の基礎を作った。

 新庄嘉章は昭和七年高等学院、次いで文学部で教壇に立ったが、処女出版のジッドの『女の学校・ロベエル』(昭和八年、春陽堂)の翻訳で志賀直哉の絶讃を博した。以後、スタンダール、バルザック、モーパッサン、ラディゲ、ランボー、マルロー、モンテルランと十九・二十世紀の代表的作家を相次いで翻訳紹介し、日本の翻訳界に一時代を画した。とりわけロマン・ローランのよき理解者として『ジャン・クリストフ』全八巻(昭和三十一―三十四年、新潮文庫)を訳し、また山内義雄の愛弟子としてジッドの諸作品を紹介した。特に『ジイドの日記』全五巻(昭和二十五―二十七年、新潮社)には心血を注いだ。深く文学を愛し、第七次『早稲田文学』(昭和四十四―五十年)の発行人を務めるとともに、一文、二文の文芸科創設の発案者ともなった。

 河合亨(昭和八年卒)は、フランス政府給費留学生として昭和十三年から七年間滞仏し、帰国後教鞭を執った。ドーデ、ジュリアン・グリーン、エルサ・トリオレ、アンドレ・スチールなどの作品を訳し、ラ・フォンテーヌとスタンダールを研究した。山岳部長を務め、日本フランス語フランス文学会の重鎮であった。村上菊一郎(昭和十年卒)は『夏の鶯』(昭和十六年、青磁社)などの詩集があり、とりわけボードレールの『悪の華』(昭和十一年、版画荘)の名訳者として知られている。ほかに『ランボー詩集』『ボヴァリー夫人』『風車小屋便り』等の訳がある。安井源治(昭和十三年卒)は著名なパスカル研究者であり、室淳介(昭和十六年卒)は現代批評文学にも詳しいが、ながらくサント=ブーヴの研究を続けている。

 川本茂雄は英文科を卒業した後フランス政府給費留学生として渡仏し、帰国後英文科教授となってから数年後仏文科に籍を移したという異色の経歴の持主である。三省堂のコンサイス仏和辞典と講談社のニュー・ワールド英和辞典を共に監修するという類のない業績を残す一方で、雑誌『言語』の編集長を務めたり、ヤコブソン、チョムスキーの主著を翻訳したり、日本記号学会を設立して会長に選ばれるなど、日本を代表する言語学者の一人として、たえず学界の最前線で活躍した。

 現在の仏文科は室淳介、岩瀬孝、弓削三男、窪田般弥、品田一良、小林路易、平岡篤頼、鷲田哲夫、高橋允昭、井上登、加藤民男、佐藤実枝、清水茂、加藤尚宏、遠山一郎、市川慎一、小林茂、倉方秀憲、江中直紀、石井直志、千葉文夫、コレット弓削、助手川瀬武夫を擁し、私学随一の豊富な陣容を誇っている。そのせいか、どの分野にも専門研究者がおり、科目編成も遺漏のない組織性をもっている点で、学界の定評を得ている。長老岩瀬孝はコルネイユと現代演劇の研究で知られ、早稲田フランス文学会会長、日仏演劇協会会長である。小林路易は日本フランス文学会幹事長を務めた後、第二、第一文学部長を歴任した。平岡は文芸専攻科主任を八年間務めた後、新庄嘉章の跡を継いで第八次『早稲田文学』(昭和五十一年復刊)発行人として奮闘している。その他、詩人として一家を成している窪田般弥をはじめ、各人の業績を紹介すれば枚挙に遑ないが、紙数の関係上後日に譲らざるを得ない。

 新制大学発足以来、ともすれば学部間の連絡が十分とは言えなかったが、政経学部の恒川義夫、法学部の数江譲治、吉永清、島岡茂、野村英夫、町田徳之助、商学部の近藤等、鈴木豊、寿里茂、教育学部の斉藤一寛、高橋彦明、稲田三吉、伊藤洋、理工学部の桜井成夫、伊東英、更には文学部内でも哲学科の松浪信三郎、演劇の安藤信敏(ペンネーム安堂信也)、美術の大沢武雄、西洋史の安斉和雄、野口洋二らが仏文科の発展のために協力を惜しまなかったことも、忘れてはならない。

 学外者でも辰野隆、鈴木信太郎、小場瀬卓三、鷲尾猛の諸氏が行われた名講義は語り草となっており、外人教師としてはシェリング、メタクサ夫人以来、サトー(佐藤)夫人イズレール、ヌエット、ルキエ、ジャンムジャン、アングレス、リーチ神父、ビヤール神父など、実に多くの人々の協力を得ている。

 機関誌としては、勿論フランス文学専攻科のみの機関誌ではないが、大正十四年発刊の『文学思想研究』(新潮社)、昭和四年発刊の『欧羅巴文学研究』(三省堂)、昭和二十五年発刊の『綜合世界文芸』(新樹社、次いで綜合世界文芸委員会)を経て、昭和三十六年に『ヨーロッパ文学研究』が発刊され、現在第三十三号を数えている。また、新制大学院発足以来の文学研究科機関誌『文研紀要』は三十一号を数え、更に大学院在学生のみを寄稿者とした『文研紀要別冊』が昭和四十九年に発刊されている(現在第十二号)。なお、昭和初年に、教員を中心に仏文科出身有志による同人雑誌『仏蘭西文芸』が金星堂から発行されたが、昭和五十一年に同じ形式と趣旨のもとに、やはり『仏蘭西文芸』(現在第十一号)と題する同人誌が刊行され、中堅研究者達の充実した研究論文が掲載されていることも付記しておきたい。また、大学院生の自主運営による『フランス文学語学研究』も、第二次が昭和五十七年に復刊され、毎号院生の意欲的な論文が発表されている。こうしたフランス文学研究に対する熱意が結集して、昭和五十八年十二月、久しく休眠状態にあった早稲田フランス文学会が活動を再開し、全学のフランス語教員、大学院生のみならず、卒業生をも会員として、年二回活発な研究発表会が催されている。

 余談にわたるかも知れないが、仏文科出身者のなかからは、次のような作家・評論家が輩出している。井伏鱒二(大十一中退)、和田傳(大十二)、田村泰次郎(昭九)、小田仁二郎(昭十)、井上友一郎(昭十一)、多田裕計(昭十一)、八木義徳(昭十三)、辻亮一(昭十三)、中村八朗(昭十三)、虫明亜呂無(昭二十一)、矢代静一(昭二十五)、秋山駿(昭二十八)、野坂昭如(中退)、富島健夫(昭三十)、三浦哲郎(昭三十二)、阿刀田高(昭三十五)、田中美代子(昭三十五)、鈴木志郎康(昭三十六)、宮内豊(中退)。これも仏文科のもう一つの特色と言えるかも知れない。

十二 ドイツ文学専攻

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 大正八年四月、文学科から文学部への改編に伴い、独逸文学専攻科が、仏蘭西文学科・露西亜文学科と並んで開設された。既に明治二十五年十二月、「独逸学」が文学科三年課程に加えられ、明治四十年三月に「早稲田独逸学会」が全学的組織として結成されていた。その後、大正五年の同学会再興、翌六年の発表式を経て、漸く独逸文学科の創設に至った。

 開設に当って、仏蘭西文学科と露西亜文学科は、早大英文科出身の吉江喬松片上伸が在外研究の後に主宰したのに対して、独逸文学科は、東京帝国大学出身の山岸光宣(明治三十七年東京帝大独文卒、昭和十八年没)が、主任教授に就任した。講師として、山本有三(大正四年東京帝大独文卒、昭和四十九年没、劇作家、小説家)、オーストリア人の日本文学・芸術研究者ヘルマン・フロイドルシュペルゲル(一九一一年ウィーン大修了)、早大出身の演劇学者・島村民蔵(明治四十年早大英文卒、東京帝大独文中退)がいた。島村は劇作家としても著名であり、ヘッベル、イプセンなどの近代劇、演劇論の研究(『戯曲の本質』大正十四年)のほかに、フライターク『戯曲の技巧』(昭和二十四―二十五年)を訳している。その後間もなく山本有三、島村民蔵が辞任し、大正十年から劇作家としても知られる吉田豊吉(明治三十八年東京帝大独文卒)、新進の小説家であった舟木重信(大正八年東京帝大独文卒、早大名誉教授、昭和五十年没)、文芸評論家の江間道助(大正九年早大英文卒、文学部教授、昭和二十六年没)が加わった。大正十一年初回の独文科卒業生一名を出した。ヘッベル研究者の浦上后三郎(本名五三郎、法学部教授、昭和三十七年没)である。『遺稿集』(昭和三十八年)に収められた「ニーベルンゲンの三部曲に就いて」のほか、シュミットボン『ライン牧歌』(昭和十三年)、ゲーテ『詩と真実第一部』(昭和二十四年)などの訳業がある。有島武郎、山本有三に師事した浦上は、小説、戯曲の作品も残している。

 独文科の創成期に、山岸光宣は主として「ゲーテ研究」と「文芸学」を担当していたが、ドイツ自然主義文学とゲルハルト・ハウプトマン研究の分野に重要な業績を出した。主著に『現代の独逸戯曲』(大正十三―昭和二年)、『独逸文学概説』(昭和十一年)がある。彼は『ゲーテ全集』(大村書店版)の監修者として、翻訳のほかに評伝『ゲーテ』(大正十四年)を別冊として刊行した。昭和初期にかけて、吉田は「古典詩」を担当し、舟木は「グリルパルツェル研究」を講義した。ロマン派の運命悲劇の研究から出発した舟木は演劇に強い関心をもっていた。彼の業績は、ドイツ古典主義・オーストリア文学・ハイネを軸とする青年ドイツ派・表現主義・社会主義文学・北欧文学に亘って多彩である。昭和七年から始めた「ハイネ研究」の講義、『ゲーテ・ハイネ・現代文芸』(昭和十一年)、『ゲーテ――生活と作品――』(昭和十八年)などの著作は、優れた科学的研究であると同時に、ファシズムに対する不屈の抵抗の軌跡である。

 舟木のハイネ研究は、昭和二十六年に開設された新制大学院文学研究科において続講され、昭和三十九年、古稀を記念して出版された。政治的革命詩人としてのハイネの本質を解明したライフワーク『詩人ハイネ・生活と作品』に、昭和四十年度芸術院賞が贈られた。

 主として「文学評論」を担当していた江間には、文芸批評家としての業績に、『前向き文学論』(昭和十年)がある。その鋭敏な批判精神は、昭和初期のドイツ文学の研究において異彩を放っている。『世界文学講座』(新潮社版昭和五年)に発表された「一八世紀評論文学」「トーマス・マン」「浪漫的イロニーについて」などの主要論文には、美学と文芸学の深い学殖が窺われる。

 山岸・舟木・江間達の指導を受けた独文出身者達の業績は、夙に昭和十年代に開花する。中谷博(大正十三年卒、名誉教授、昭和四十六年没)は、昭和十二年三月、ドイツ留学を終えて、文学部講師として「現代小説評論」を担当する。「シュニッツラー研究」(昭和二年『文学思想研究』五巻)を発表した中谷は、ひたすら小説研究に専念する。アカデミックな文学史から無視されがちなドイツ通俗文学の研究に留まらず、昭和初期のいわゆる大衆文学を、初めて時代思潮と読者論の視座から考察し、独創的な大衆文学論を展開した。第二次大戦中の講義「青年ドイツ派」は、戦後、大学院において一九世紀の社会小説「ツァイト・ロマーン」として継続された。著書に『早稲田精神』(昭和十五年)、『西鶴の芸術』(昭和二十三年)、『大衆文学』(昭和四十八年)がある。

 江間の後を受けて、昭和十三年以降、「文芸理論」を担当した小口優(昭和五年卒、文学部教授、昭和四十五年没)は、ゲオルゲ派の文芸学者グンドルフを初めて日本に紹介した。『グンドルフ文芸論集』(昭和九年)、『ゲーテ』(昭和十六年、昭和三十一―三十三年)のほかに、ニーチェ『悲劇の誕生』(昭和十六年)を訳出している。第三次『早稲田文学』に寄稿した多数の論文のなかに、「ニーチェと独逸文芸学」「情熱を取扱へるギリシャ悲劇についての断想」がある。透徹した歴史感覚と犀利な文体には定評がある。

 昭和十八年、浅井真男(昭和七年卒、名誉教授、ヘルマン・ブロッホ『罪なき人々』昭和二十九年)は「近代文学研究」を受け持ち、その後、「独詩研究」の講義を続ける。ヘルダーリン研究を起点とする浅井の初期の業績には、「C・F・マイヤー論」「トーマス・マンの課題」のほか、マイヤー『フッテン最後の日々』(昭和十六年)、ベルトラム『ニーチェ――一神話の試み――』(昭和十六年)、ブルクハルト『ルーベンスの回想』(昭和十八、昭和二十五年)など、後年の研究方向を予示する重要な翻訳を出している。第三次『早稲田文学』に発表された森鷗外、芥川龍之介を対象とするきわめて斬新な作家論は、最近の「かぶき」に関する論稿とともに、日本文学研究への優れた寄与である。

 昭和十七年、「ドイツ文学特殊研究」は、森㑺郎(昭和三年卒、文学部助教授、昭和二十一年没)が担当した。彼は恵まれた語学的才能と多年ベルリン、ミュンヘンに留学した体験を生かして、『ドイツ語四週間』『ドイツ語会話』を著わしたほか、当時来日したブルーノ・タウトの著作の最初の翻訳者として知られる。『日本文化史観』(昭和十一年)、『ニッポン』(昭和十六年)のほか、ヴィーヒェルト『生の掟』(昭和十七年)の訳書がある。

 昭和十年代後半の重要な業績として、ニーチェの作品と研究文献の共訳がある。小口優・浅井真男・野中正夫(昭和十一年卒、文学部助教授、昭和二十一年没)といった若いニーチェ研究者を主体とする緊密な協同作業の成果である。フェルステル=ニーチェ『若きニーチェ』『孤独なるニーチェ』(昭和十五年)、ボイムレル編『ニーチェ書簡集』(昭和十八年)、フムボルト『教養への道』(昭和十七年)のほか、後年膨大なシラー研究を発表する島村教次(昭和九年卒、名誉教授)も協力者の一人である『世界女流文学全集Ⅰ』(昭和十六年)の訳出は、いずれも翻訳における新しいスタイルの一つの達成とみられる。なお野中正夫には、ニーチェ『悲劇の誕生』(昭和十年)、『ギリシャ人の世界』(昭和十八年)、シュトレッケル『ニーチェとストリンドベリ』(昭和十九年)の訳業がある。戦後もニーチェ研究と翻訳は、主として浅井によって現在に至るまで継続されている。

 ニーチェ研究と並行する、トーマス・マンへの顕著な傾斜は、江間による初期作品群の解明から始まっている。『早稲田文学』(昭和十二年七月)には、江間・小口・浅井(筆名青木)によるマン研究が特集されている。亡命作家マンに大きい期待をよせる小口の、マンにおけるヒューマニズムの的確な指摘は注目に値する。熊岡初弥(昭和十年卒)と竹田敏行(昭和十三年卒、商学部講師、昭和三十二年没)との共訳『魔の山』(三笠書房版全集十・十一巻、昭和十三―十四年)、『大公殿下』(八・九巻、昭和十六年)は共に本邦初訳である。熊岡は『マリオと魔術師』ほか二篇を訳している(二巻、昭和十六年)。浅井による『ボン大学への往復書簡』の訳註『通告と返信』(昭和十二年)は、検閲のため発禁処分を受けた。後に浅井は『トーニオ・クレーガー』と『ヴェニスの死』を翻訳するが、昭和三十年、独文科主催マン追悼講演でもマン文学の展開を、共時的に追求してきた情熱と造詣を窺わせる。これらの業績は、戦後のマン研究者達によって継承されただけでなく、竹田敏行、武田繁太郎(昭和十八年卒)、山田智彦(昭和三十三年卒)の創作活動にも、深い影響を与えている。

 以下、小説部門から主な訳業をあげる。岡田幸一(昭和九年卒、元法学部教授)の訳書リカルダ・フーフ『月夜の踊り』(昭和十六年)がある。岡田は『早稲田文学』の現代ドイツ文学時評において、ドイツ亡命文学とユダヤ系作家の動向を丹念に追跡し、昭和二十年代のカフカ研究につないでいる。コルベンハイヤー『生命の城』(浅井訳、昭和十七年)のほか、シュテール『後継者』(昭和十七年)、ティース『ツシマ上・下』(昭和十七年)が藤原肇(昭和三年卒、元商学部教授)によって邦訳されている。藤原にはホフマン『壁絵師』(昭和十八年)のほか、ザーリス『ギリシャ芸術』(昭和十八年)など多くの訳業がある。精神分析学的文学研究の分野では、平塚義角(昭和三年卒)の訳したノイフェルト『ドストイェフスキーの精神分析』(昭和十一年)が目立つ。共同翻訳は、『ホフマン全集』(昭和十一年)、『ドイツ戦話集』(昭和十四年)、『ナチス新鋭文学選集』(昭和十六年)などである。ホフマン全集の翻訳には、ドイツ演劇の研究者・小森三好(昭和三年卒、商学部講師、昭和二十一年没)、ニーベルンゲンに関する業績の多い林文三郎(昭和三年卒、元政経学部教授)ほか数名が参加している。

 吉村貞司(本名・弥吉三光、昭和六年卒、杉野女子大教授)の『ニーベルンゲン伝説』(昭和十八年)は、橋本八男(昭和十年卒)の『中世独逸文法』(昭和十四年)とともに、ドイツ中世文学の先駆的研究である。吉村には日本精神史の研究を中心に、日本文学・芸術・神話に関する著作が多く、『著作集』(昭和五十四―五十五年)のほか、長篇小説『海鳴り』(昭和五十五年)が刊行されている。

 逸見廣(大正十四年卒、元教育学部教授、昭和四十六年没)は、戦後、文学部において昭和三十六年まで『小説概論(小説発達史)』を講義していた。シラー、ニーチェに関する著書のほか、『村の倫理』(昭和五年)、『悪童』(昭和十年)の創作集があり、後者は芥川賞候補になった。定年を記念して『逸見廣選集』(昭和四十四年)が出版されている。小林達夫(本名辰尾、昭和十七年卒)には、短篇集『風物語』(昭和十七年)がある。

 俳優座を主宰する千田是也(本名伊藤圀夫)は、独文科在学中から演劇活動を始め、大正十三年築地小劇場の創立に参加し、『海戦』に出演して以来、『三文オペラ』『ハムレット』『ファウスト』に主演し、ブレヒト戯曲・理論の翻訳など、演劇論に関する著作が多い。『作品集』が刊行されている。

 昭和十九年に文学史の講義として設置された「独文学主潮Ⅰ・Ⅱ」(舟木)と「文芸評論」(江間)、「小説研究」(中谷)は、戦後に持ち越される。昭和二十年に「近代文学研究」(浅井)が加わり、昭和二十一年に小口が「古典詩」を受け持つ。昭和二十三年になると講義内容は更に細分化され、殆どすべての研究分野を包括するに至り、その後のドイツ文学科の講義科目がほぼ出揃う。新制大学へ移行する前年、昭和二十三年度の課目内容は次の通りである。

第七十一表 文学部文学科独文学専攻課目内容(昭和二十三年度)

 昭和二十四年、新制大学の開設とともに、独文科は、専修主任・舟木のもとに、中谷、小口、浅井が教授に昇進する。二十七年には、文学部教授に就任した山崎八郎(昭和九年卒、昭和五十四年没、『マルクス・エンゲルス文学論』昭和二十九年)が、「独文学主潮」を担当し、江間急逝のため、関口存男(大正八年上智大哲学卒、昭和三十三年没、『冠詞』昭和三十五―三十七年)が臨時講師として「独語史」を受け持つ。昭和三十年、中村英雄(昭和十六年卒、名誉教授、クチンスキー『文学・経済学試論』昭和四十三年)と志波一富(昭和十六年卒、名誉教授、ティーリケ『ニヒリズム』昭和二十九年)が教授に昇格する。中村はゲオルク・カイザーの表現主義戯曲の研究から出発し、ゲーテ、ビュヒナー、ハイネ、抵抗文学、東独文学、近世文学に亘る研究分野を受け持つ。志波はゲーテ、マンから出発し、クライスト、ヘルダーリン、ブルクハルト、リルケ、カフカを軸として現代文学、ドイツ文学におけるギリシャ精神を研究対象とする。独会話と独文演習はナチス・ドイツから亡命したハンス・ヴォルファルト(昭和二十一年より文学部講師、昭和四十四年没、『ドイツ抒情詩』昭和三十一年)が担当していた。

 昭和二十六年、新制大学院が開設される。舟木・中谷・小口が主として「研究指導」に当り、浅井・関口・ヴォルファルトが「文献講読」を担当した。同三十四年には、山崎が「文献講読」を受け持つ。同三十六年、最初のボン大学交換教授から帰国した浅井が「研究指導」に加わる。小口は「演習」でヘルダー、ゲーテ、ヘーゲル、シュレーゲルを講読し、更に啓蒙思潮を講義する。浅井はニーチェ、ジンメルの講読のほかに、ゲオルゲ、リルケ、ベンを中心とする現代詩を講義、ヘルマン・ブロッホ、アイヒ、リッセを紹介する。山崎はレッシング『ハンブルク演劇論』、悲劇論の講義、関口は『ファウスト』講読、ヴォルファルトは抒情詩のほかドイツ神秘思想、ジャン・パウル、シュタイナーの人智学、ハンナ・アーレントの現代思想などの研究・紹介を、それぞれ担当した。

 教場・研究室における教育指導と不可分の、教師・学生間の親密な交流が、明るい自由な学風を生み出す母胎となっていた。それは舟木の「社会主義的ヒューマニズム」、中谷の「在野精神」、更に戦後間もなく小口と浅井によって提唱された「外国文化の批判的摂取」と「創造的なカオスへの信頼」に要約される。昭和三十七年に戸山町の新研究棟に移転し、新制大学・大学院修了者が教職・研究職に就き、『綜合世界文芸』や、その後身として新しく発刊された『ヨーロッパ文学研究』『大学院文研紀要』に業績を発表し始めた。ゲーテ協会やドイツ文学振興会の賞を授与される若い研究者が続出した。在外研究・留学も漸く盛んになってきた。同人誌『シュトゥディウム』が刊行される(昭和三十七―四十四年)。

 昭和三十七年、「独文演習」は「作品研究」(浅井)と「方法論研究」(山崎)に分割される。「独文学主潮Ⅰ」は戸室博(昭和二十五年卒、教育学部教授)が受け継ぎ、二文の「詩歌研究」は浅井の次に中村浩三(昭和十九年卒、名誉教授、リッセ『こうもり』昭和三十一年)が担当し、「独評論」は加藤真二(昭和二十三年卒、理工学部教授、マン『ドイツとドイツ人』昭和三十二年)が受け持つ。更に昭和三十九年に加藤は一文の「独文学演習」(現代文学)を引き受ける。昭和三十九年舟木定年の後、中村英雄が「独戯曲」を続ける。昭和三十八年より全教員が卒業論文の指導と審査に参加することになる。三十九年、二文の「詩歌研究」は志波担当に代る。「ドイツ語史」の講座は、森の没後、江間が担当し、江間亡き後を受けて関口存男がその急逝に至るまで続け、中村英雄に引き継がれて、昭和三十六年から、大木健一郎(昭和二十七年卒、文学部教授)が担当し、平野具男(昭和三十八年卒、東京学芸大教授)に至る。フンボルト財団奨学生としてボン大学に留学した後、大木によって初めて「中世ドイツ語」の講座が開かれる。高木実(昭和二十六年卒、文学部教授)は、オーストリア政府招聘によるウィーン大学留学の後、昭和三十八年より「ドイツ語学」の講座を開き、更に同四十年に担当した「独文学主潮Ⅱ」(前期)が、同四十三年から「ドイツ中世文学史」と改称されて以来、同五十四年に山田泰完(昭和四十一年卒、理工学部教授)に代るまで担当する。昭和四十二年、山田広明(昭和二十七年卒、文学部教授)が「独評論」を受け持つ。同年、重原淳郎(昭和二十八年卒、文学部教授)担当の「独文学主潮Ⅱ」(後期)は、翌昭和四十三年から「ドイツ近世文学史」に改称される。二文の「古典名作」はそれまで中谷、山崎、志波が講じていたが、同四十二年より新井靖一(昭和三十二年卒、文学部教授)が受け継ぐ。「ドイツ語会話」は、昭和四十年よりヴォルファルトほか、弓削コレット(現在仏文講師)、クリストリープ・ヨープスト(ボン大修了、語研教授)によって行われ、「演習」はヴォルファルトの後、ギュンター・ツォーベル(ケルン大博、政経学部助教授)、ハインツ・ルートヴィヒ(ミュンヒェン大博)、ゲルハルト・クレープス(フライブルク大博)が担当して現在に至る。

 研究活動としては、春秋の研究発表会のほか、ゲーテ二百年祭、シラー百五十年祭、ハイネ百年祭、ヘルダー、ヴァーグナーに関する公開講演会、マン追悼講演会など、多彩な行事が催された。昭和四十二年、東ドイツとの交流を推進する全国的な文化団体「ヴァイマール友の会」の本部が、中村英雄研究室に置かれた。現在は有賀健(昭和三十三年卒、法学部教授)研究室にある。

 昭和四十二年、大学紛争後の文学部のカリキュラム改編に伴い、独文科はⅡ類(文学系)に編入され、専攻課程は三年次からになる。従来の「独小説」「独詩」「戯曲」「評論」がそれぞれ「演習Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ」となり、新たに講義科目として「ドイツ文学研究Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ」が併置される。その内容は次の通りである。「Ⅰ古典・ロマン主義」「Ⅱ近代・現代文学」「Ⅲ中世ドイツ語」「Ⅳ現代ドイツ語」(ドイツ人講師担当)。従来の「ドイツ文学主潮Ⅰ・Ⅱ」は、専門科目B(選択)として、「ドイツ中世文学史」「近世文学史」「現代文学」に細分される。「古典研究」は、専門Bの「ゲーテ研究」に改称される。最初の担当者は大畑末吉(大正十五年東京帝大独文卒、昭和五十三年没、『ファウスト論集』昭和四十七年)である。専門Bとして「文芸学」(浅井)が復活し、「ドイツ思想史」(山崎)が新設される。更に共通専門科目として「文学論Ⅰ・Ⅱ」が加わる。

 昭和四十二年、第二文学部の独文科が廃止され、翌四十三年より「独文学主潮」と「古典名作」の二科目のみ、それぞれ「ドイツ文学史」(山田)と「ドイツ文学特論」(新井)と改称されて、共通専門科目として存続する。共通専門の「文芸学」を棗田光行(昭和二十九年卒、文学部教授)が担当する。

 昭和四十五・四十六年に現在までの科目がすべて網羅され、次第に担当科目が定着化する。一文では昭和四十六年「ドイツ文学演習Ⅰ現代文学」は山田、「演習Ⅱ詩」は前期が神崎巌(昭和三十四年卒、教育学部教授)、後期が助広剛(昭和三十四年卒、理工学部教授)、「演習Ⅲ戯曲」は棗田、「演習Ⅳ評論」は重原、「ドイツ文学研究Ⅰ小説」は志波、「研究Ⅱ戯曲」は中村英雄、「研究Ⅲ語学」は大木、「研究Ⅳ詩」浅井が担当した。専門B「現代文学」(志波)、「ドイツ語学」(大木)、「ドイツ語史」(大木)、「文芸学」(棗田)、「文学論Ⅱ」(新井)、「ドイツ思想史」(酒田健一、昭和三十五年卒、文学部教授)、「ドイツ中世文学史」(高木)、「近世文学史」(前期・柴田健策、昭和三十三年卒、文学部教授。後期・森(旧姓、降旗)祐子、昭和三十五年卒、文学部教授)、「ゲーテ研究」(大畑)、その後「ゲーテ研究」は重原、大久保進(昭和三十八年卒、文学部教授)、森が担当して現在に至る。「現代文学」は志波のあと神崎、古沢謙次(昭和三十五年東大独文卒、教育学部教授)、岡田素之(昭和四十一年卒、法学部教授)が担当している。「演習(詩)」は、山本定祐(昭和三十五年卒、商学部教授)、井原恵治(昭和二十四年東大独文卒、法学部教授)が順次受け持っている。二文では「ドイツ文学特論」(重原)、「ドイツ文学史」(前期・柴田、後期・森)。その後、「特論」は柴田、山本、森が担当し、「文学史」は酒田、大久保が受け持っている。なお、昭和四十五年から一年生を対象とする「教養演習」が設置され、山崎、大木をはじめとして、各教員が随意のテーマによって順次担当している。昭和四十四年に新設された文芸科の演習に、志波をはじめ山田、重原、助広、大久保、酒田、長田弘(昭和三十八年卒、詩人)が出講した。昭和五十三年度入学者より、いわゆる一・三制方式に変り、二年次から専攻課程に進級することになる。

 百周年を迎えて、科目担当者の交代、大学・学部間の協力の活発化など、幾つかの新しい動きがみられる。昭和五十五年からハイネ研究者・林睦実(昭和三十八年大阪大博・ライプツィヒ大博)が教授に就任し、「研究」「演習」「文芸学」を担当する。昭和五十七年度より林と福原嘉一郎(昭和二十七年東大独文卒、政経学部教授、ロイナー『芸術創造の精神力学』昭和四十九年)が大学院文研科の授業に加わる。

 昭和五十七年度のドイツ文学関係の科目と担当者は次の通りである。

第七十二表 第一・第二文学部・大学院ドイツ文学関係科目および担当者(昭和五十七年度)

第一文学部

第二文学部

大学院

 独文専攻出身者には、殆ど全国各地の国・公立を含む諸大学におけるドイツ語学・文学の教職をはじめ、教育界、マスコミ・出版界で活躍している人々が多い。なかでも、米軍軍政下の沖縄で人権闘争を展開した元琉球新報社長・池宮城秀意(昭和五年卒、『沖縄に生きて』昭和四十五年)、ドイツ語学関係の出版界では大学書林の創設者・佐藤義人(昭和三年卒)が大きな存在である。ドイツ語学・文学界における顕著な業績としては、ドイツ精神史研究の古館喜代治(昭和七年卒、日本大教授、『ルネサンス前期文芸思潮』昭和二十三年、『世界主義思想の研究―近代ドイツ精神を中心として―』昭和四十八年)、ドイツ語史・文体論的研究の小島公一郎(昭和十一年卒、南山大名誉教授、『ドイツ語史』昭和三十九年、『ハンス・カロッサ――作家論の試み――』昭和五十年)、リルケ研究から出発して、美術批評の分野で多数の著書と早大美術館の構想をのこした坂崎乙郎(昭和二十六年卒、政経学部教授)、『ハイネ研究』誌を刊行、ハイネ学を推進する鈴木和子(旧姓、吉住、昭和三十四年文研博、日本女子大教授、『ハイネ―比較文学的探究―』昭和五十年)、浅井のあとを受けて、ヘルマン・ブロッホ研究を展開する入野日真右(昭和三十八年文研博、中央大教授、ブロッホ『崩壊時代の文学』昭和四十八年)、エルンスト・ブロッホ紹介に先駆的業績をだした好村冨士彦(昭和三十七年卒、広島大教授、『希望の弁証法』昭和五十三年)、ユング心理学の研究で知られる松代洋一(昭和三十八年卒、帝京大教授、『ユングの文明論』昭和五十四年)など、枚挙にいとまがない。創作の世界では惜しくも早世した小説家・竹田敏行(カフカの影響の濃い『消滅』、『スピノザの石』(昭和二十八年)によって、芥川賞候補)、『生野銀山』の作者・武田繁太郎『耽溺』(昭和五十年)、『オレンジ運河』のあとの長い沈黙から『仏蘭西田舎遺聞』(昭和五十六年)を発表した吉岡達夫(昭和十八年卒)、銀行調査役と小説家を両立させて旺盛な創作活動をみせる山田智彦(昭和三十三年卒)が有名である。詩歌においては、戦後詩を代表する長田弘(『長田弘全詩集』昭和四十三年)、アララギ派の松田松雄(昭和十一年卒、元宮崎大教授、昭和五十五年没、『日向』昭和五十三年)の後、同派のドイツ抒情詩の研究者・山田博信(昭和十八年卒、法学部教授、昭和五十七年急逝)は、短歌同人誌『存在』主宰、歌集『昏迷』(昭和三十九年)を刊行、『ドロステの詩』の訳業がライフワークとなった。第一回生・浦上五三郎と同期に在学していた山口草堂(太一郎)は、俳誌『南風』主宰、句集『四季蕭嘯』(昭和五十二年)で第十一回蛇笏賞を受賞、ヘルダーリンの研究と翻訳がある。評論の分野では、児童文学の研究に大きな足跡を残す藤田圭雄(昭和五年卒、『日本童謡史』昭和四十六年)が健在であり、藤川徹至(小川泉、昭和十三年卒、『私小説の超克』)、松本鶴雄(昭昭三十二年卒、群馬県立女子大教授、『井伏鱒二論』昭和五十三年)がいる。

十三 ロシア文学専攻

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 露文科は日本で最初に創設されたロシア文学研究の拠点として、輝かしい伝統を誇ってきたが、一時中断の憂き目をみるなど、その歴史は必ずしも平坦ではない。

 通常、露文科創設の時期は、大学令に基づく改正が行われた大正九年ということになっているが、大正八年四月には、既に発足していたと判断できる資料がある。

 すなわち、『早稲田学報』(大正八年五月発行第二九一号)には、大正八年四月に実施した文学科学科課程の大改正が報じられていて、そのなかに「大学部文学科に於いては、今新学期を機会として従来の学科課程に一大改革を行ひ、最も新しき試みを実行することとなれり」とあって「文学科は国文学、支那文学、英文学、仏文学、露文学」の各専攻名が記されているのである。

 が、本史第二巻の伝える通り、露文科は「突如として出現したものではなく大正の初頭にまでその前史をたどることができる。」(七一八頁)

 既に、大正元年の秋、一年間にすぎなかったとはいえ、英文科第一部を(甲)(乙)に二分した際、(乙)にあっては「ドストエフスキー研究」を片上伸相馬御風が、「ゴルキー研究」を吉江喬松が担当する旨、学科配当表には記載されており、この(乙)に入学した学生が最終学年を迎えた大正三―四年には、英文科第三学年に「露文学研究(ドストエフスキー、ザ・ブラザース・カラマーゾフ)」の科目があって片上伸が担当、更に大正四―五年には「露文学研究(ドストエフスキー、レターズ・フロム・ゼ・アンダーグラウンド等)」があり、片上が露文科創設の基礎固めと資料蒐集の目的を以て、大学派遣留学生としてロシアに赴くに及んで、この教科を、代りに昇曙夢が担当している。

 この時期の日本の文学潮流を全体的に眺めた場合、英訳を媒介としてロシア文学が盛んに読まれるようになるのは、明治三十年代の半ばからであるが、特に英文科からは、ロシア文学に傾倒した作家、翻訳者、研究者、批評家らを数多く世に送っている。

 例えば、正宗白鳥広津和郎、宇野浩二らは、ロシア文学の多大な影響のもとに創作活動を始めており、秋庭俊彦はチェーホフの優れた訳業で、日本へのチェーホフ移植に貢献、更に柳田泉木村毅など、のちに該博な知識をもつ文学史家も、英文科に学んだ若き日トルストイの翻訳紹介を行っており、相馬御風吉江喬松はつとにツルゲーネフに心酔したことで知られるなど、ロシア文学熱は英文科にあまねく浸透しており、露文科創設への気運は、こうした時代状況のなかで、おもむろに醸成されていった。

 ロシア語そのものに関しては、大正五年九月、大学部各科の第二外国語として採り上げられ、担任講師として昇曙夢のほか、八杉貞利が嘱任されており、大正六年九月からは、馬場哲哉(外語露語科・早大英文科卒)が講師に迎えられている。

 次いでこの年の十二月、金子馬治教授を会長とし、滞露中の片上伸を副会長、昇、八杉、馬場などを顧問とした露語研究会が発足をみる。このように大正八年の露文科創設のときまでに教員の陣容も整っており、露文科の主任には、大正七年に帰朝した片上伸が推された。

 因に、大正九年の学科配当表によれば、露文科は、片上が文芸思想史、露西亜文学概論、露西亜語学(ミヘーヘフ読本第一)を担当、馬場が露西亜語学を、金子馬治が西洋哲学史を、横山、日高、吉田が、それぞれ英文学を担当しており、他に第二外国語を英・仏・独語のうち、一科目選択することになっている。なおこの年には十一月二十七日に露西亜文学科主催で、トルストイ十年祭が催された。

 更に大正十一年における一年から三年までの学科配当表によれば、授業内容はジャンル別となり、より一層具体性を帯びてくる。例えば、必修課目のみを眺めても、第一学年は、文芸思想史(片上)、西洋哲学史(金子)、露西亜文学概論(馬場)、近代詩選(マグニツキー)、トルストイ小説(原)、プーシキン散文(片上)、ツルゲーニェフ小説(片上)、露西亜語学の面では文法(馬場)、アンドリェーエフ小説(原)、近代評論文(マグニツキー)、文章練習(ワノーフスキー)、第二学年は文芸思想史(片上)、西洋哲学史(桑木)、美学(金子)、文学の面では、プーシキン詩(片上)、近代詩選(マグニツキー)、トルストイ小説(原)、ゴーゴリ小説(馬場)、ドストイェフスキー小説(片上)、語学の面では、レールモントフ小説(馬場)、ゴンチャロフ小説(原)、チェーホフ劇(ワノーフスキー)、第三学年は、倫理学(杉森)、美学(金子)、文学の面では、現代文学(マグニツキー)、プーシキン詩(片上)、ゴーゴリ小説(馬場)、ドストイェフスキー小説(片上)、語学の面ではゲルツェン等(八杉)、チェーホフ劇(ワノーフスキー)、文章練習(ワノーフスキー)、となっている。この配当表には、マグニツキーとワノーフスキーという二人の外人講師の名がみられるが、ゲンナーデイ・マグニツキーの方は、本史第二巻の科外講義一覧表中に、ロシア小説家の肩書で「最近西伯利に於ける農民生活の印象」と題する講義を行っていることが記録されている(一〇二八頁)ことと、亡命作家と伝えられているのみで、大正十一年四月に教員となっているが、退職の年月はさだかでない。アレクサンドル・ワノーフスキーは、大正九年から昭和十八年まで教職にあるが、大学に残されている履歴書によれば、最初は技術系の学校で機械工学を学び、のち、文学研究に転じ、日本に来たのは一九一九年のことである。しかし、実際には、彼は航空士官出身の革命家であり、レーニンとも交友があったが、メンシェヴィークであったため、日本に渡ったのだと言われている。

 こうした教科の充実に伴い、大正十二年二月には、「露西亜文学会」第一回大会が、発会式を兼ねて行われ、四月には露西亜文学科を中心に『露西亜研究』の発刊をみた。

 大正十二年十二月には、露文科の中心的存在であり、対外的にも広く評論活動を行っていた片上伸が、文学部長に推されたが、大正十三年七月、一身上の理由で退職し、続いて大正十三年十月、馬場哲哉、原久一郎が退職するに及んで、露文科は一時、壊滅の危機に瀕したが、大正十三年には、レニングラードの帝室美術アカデミーで絵を学び、十一年に来日した画家のワルワーラ・ブブノワ、大正十四年には外語出身の除村吉太郎、同じく外語出身の奥村泉、更に大正十五年には、岡沢秀虎、小宮山明敏がそれぞれ教員に推され、辛うじて急場を凌ぐことができた。

 が、昭和六年満州事変の頃から、学生の政治運動が激化し、露文科の学生がこれに参加、逮捕者が大量に出るなどの諸問題が重なるに至って、大学当局は、文部省に「露西亜文学専攻は学生の漸減並に適当なる指導教員を得難き理由を以って之を廃止することと為したり」という学則変更の認可書類を、昭和十二年二月三日に申請、同年三月十日に認可を得ている。

 因に、昭和十年の学科配当表を参照しても、教員数の著しい不足の事実は明らかである。第一学年では、ゴーゴリ研究(岡沢)、チェーホフ研究(ブブノワ)、第二学年では、文芸科学研究(岡沢)、詩歌史(ブブノワ)、露西亜シンボリズム(ブブノワ)、露西亜語史(八杉)、ドストエフスキー研究(ワノーフスキー)、ツルゲーネフ研究(ブブノワ)、第三学年では、プロレタリア文学論(岡崎)、露西亜近代劇研究(ブブノワ)、形式主義研究(ワノーフスキー)、トルストイ研究(岡沢)、現代作家研究(岡沢)となっており、奥村は昭和八年に、除村は昭和十年に退職し、日本人教員は岡沢、八杉のみとなっているが、その八杉も昭和十一年に退職し、廃止後は岡沢のみが大学に残り、ロシア語、ロシア文学概論、文芸批評の講義を担当、ロシア語は第二外国語として存続する形となった。

 なお、この間、第一回の卒業生を送り出す大正十二年から昭和十二年の露文科一時閉鎖までに、多くのロシア文学研究者、翻訳者を世に送っている。すなわち、三宅賢、梅田寛、平井肇、佐々木隆彦、黒田辰男、大隈俊雄、八住利雄、岡沢秀虎、村田春海、小宮山明敏、石井秀平、山村房次、中山省三郎、横田瑞穂、杉本良吉、宮坂好安(谷耕平)斎藤勉、国枝重夫、小川利治、小椋公人らの卒業生のうち、三宅賢はドストエフスキー紹介、黒田辰男はロシア・シンボリズム、ソビエト文学の紹介、岡沢、小宮山、村田はソビエト文学理論や批評の研究、中山省三郎はプーシキン、ドストエフスキー、チェーホフ等の研究、横田瑞穂はゴーゴリの翻訳紹介、谷耕平はネクラーソフの詩作品の翻訳紹介、八住利雄はロシアの演劇を研究、中退した平井肇はゴーゴリの翻訳紹介に打ち込むなど、さまざまな作家・作品の我が国への移植で果したパイオニア的役割の意義は大きい。

 また、のちに作家となった網野菊、チェーホフ劇などの翻訳紹介で活躍する湯浅芳子らは、一時期露文科の聴講生であった。

 戦後の昭和二十一年、まだ戦争の傷も生生しい混乱のさなかに、露文科は新たに復活することになり、戦時中、唯一人大学に残っていた岡沢秀虎が専修主任に推される。この年、戦前の露文科卒業生黒田辰男、東京外語出身でドストエフスキーの翻訳者として著名な米川正夫、早稲田の英文科出身で、早くからロシア文学に親しみ、ドストエフスキー研究で業績のある松尾隆、外人講師としては戦前にも早稲田で教職にあったブブノワが教員に迎えられ、同二十二年には、露文科卒業生の谷耕平、戦前非常勤講師を務めた除村吉太郎がそれぞれ、教員として迎えられた。

 更に昭和二十四年には、学制改革で新制大学が発足し、戦前の露文科卒業生横田瑞穂、朝日新聞のモスクワ特派員であった東京外語出身の丸山政男が、教授陣に加わり、二十五年には、戦前に早稲田の高等学院を卒業後、レニングラードに留学し、ソビエト演劇を研究した野崎韶夫が教員に推されるなど、露文科の授業内容は、こうした多彩な顔ぶれにより、著しく幅と厚みを増した。

 岡沢秀虎はロシア文学史等を講じ、米川正夫はチェーホフを主としたロシア戯曲、黒田辰男は比較的新しい時代を対象とするロシア文芸思潮、横田瑞穂は、チェーホフ、ツルゲーネフ、ショーロホフの小説講読や初級ロシア語を担当、谷耕平はネクラーソフを主とする詩の講読、ブブノワはプーシキンの『オネーギン』の原詩を連続的に講読、除村吉太郎はロシア批評、丸山政男はロシア史、野崎韶夫は初級語学とソビエト演劇を担当した。ほかに山村房次、八住利雄も、一時非常勤で出講している。

 昭和二十四年四月からは、また、第二文学部(第二文学部の露文科卒業生は昭和四十五年まで)が発足し、露文科は第一文学部の露文科の教員が兼任の形をとったほか、戦前の露文科卒業生小川利治が昭和二十六年、専任教員として、小椋公人が昭和二十八年、法政大学の専任の傍ら、非常勤講師として迎えられた。

 この時期に特筆すべき重要な事柄は、昭和二十五年七月に、日本ロシア文学会が創設され、事務局が四十八年三月まで早稲田大学に置かれたことである。その間、早稲田大学の露文科教員がこぞって、講演や研究発表に協力した。とりわけ谷耕平は事務局長の任に当り、大学当局から補助金を仰ぎ、全国のロシア文学研究者の結集のための土台作りに尽した功績は看過し得ない。

 次いで昭和二十六年四月には新制大学院が開設されるが、ロシア文学専攻の大学院生が入学するのは昭和二十七年のことである。大学院での演習指導には、当初、岡沢秀虎、米川正夫が当り、ほかに、除村吉太郎、黒田辰男が授業を担当した。初期の卒業生には、田辺稔、早川光雄、草鹿外吉、斎藤安弘、藤沼貴、川崎浹らがいる。

 この間、昭和三十一年には松尾隆が急逝したため、新たに、フォークロア研究の金本源之助、戦後の露文科の第一回卒業生でドストエフスキー研究の新谷敬三郎が昭和三十二年に、次いで、昭和三十四年にはトルストイ研究の藤沼貴が教員に迎えられた。

 が、三十年代の後半から五十年代の初めにかけて、露文科は転換期を迎え、新旧世代の教員の交替の時期にさしかかる。昭和三十七年に米川正夫が、同四十二年には除村吉太郎が定年退職したのを皮切りに、四十五年には丸山政男が定年退職、四十八年三月には定年退職を直前にした岡沢秀虎が死去、同年黒田辰男の定年退職、四十九年には谷耕平、横田瑞穂、五十二年には野崎韶夫がそれぞれ定年にて退職、また、この年、小川利治が、定年より二年早く退職した。一方これと相前後して、ロシア思想史を専攻する安井亮平(昭和四十一年)、チェーホフ研究後、比較文学研究の分野に進んだ柳富子(昭和四十五年)、マヤコフスキー研究の後、広くソビエト文学の翻訳紹介を手がける水野忠夫(昭和四十八年)、ロシア思想史を専攻し、のち東北大で教職に就いていた高野雅之(昭和五十年)らの新制大学院露文科の卒業生が、教員の陣容に加えられた。また昭和五十年に東京大学を定年退職した木村彰一が、教授で迎えられ、次いで昭和五十二年にドストエフスキー研究の井桁貞義が教員に推されるなど、露文科の変貌には著しいものがある。(更に五十九年にはフォークロア研究の伊東一郎が国立民族博物館から専任教員として迎えられ、翌六十年に木村彰一が定年退職して、全教員が露文科復活後の世代で占められることとなった。)

 こうした中で、世界全体の動向、国際政治情勢の影響等によって、ロシア語、ロシア文学を学ぶ学生数には若干の変動が生じたものの、授業内容はそうした時流に左右されることなく行われており、古代から現代までの文学を包括し、詩、散文、評論、戯曲の各分野に亘って、研究と演習の時間が設けられている。ほかに、ロシア・ソビエト研究、ロシア文学史Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、ロシア思想史等の講義課目もある。

 専任教員のほか、高野明、草鹿外吉、中村喜和、栗原成郎、佐藤純一、五味義勝、伊東一郎、宮沢俊一、生田真司、大木昭男、狩野亨、佐野努、佐藤靖彦、御子柴道夫、工藤幸雄、浦雅春らが時期的にずれはあるが、それぞれ非常勤講師として迎えられており、大学院では、同じく時期を異にするが、金子幸彦、染谷茂、栗原成郎、江川卓らが他大学から非常勤で招かれ授業を担当している。また異色の存在としては、西洋史の専任教員の傍ら時に応じてロシア語の授業を担当する井内敏夫がいる。

 外人講師としては、ブブノワの退職後、野村タチアナが現在まで授業を担当しており、ほかに、ゲイ・クルチーニン、川崎エヴァ、奥山ガリーナ、小山田ガリーナ、中川エレーナ、石郷岡イリーナが、それぞれ短期間講師に迎えられたが、現在では東井ナデージダが学部で、加藤タチアナが学部と大学院で授業を担当している。

 国際化時代を反映しての、こうした外人講師達の受け入れに加えて、更にいま一つ、露文科の研究の充実、発展に、画期的意義をもたらしたものに、昭和四十八年に結ばれたモスクワ大学と早稲田大学間の交換研究協定がある。これによって露文科の専任教員は交代で留学できるようになり、現在では既に、希望の全員の留学が終了し、第二周期目に入っている。

 また暫く休止状態にあった早稲田大学ロシア文学会も、この時期に復活をみ、年一回、大学の内外の研究者を招いての公開講演会のほか、大学院生の研究発表を中心とした例会も既に回を重ねており、年一度の総会を兼ねた懇親会は、旧露文科教員、卒業生、在校生らが一同に集う貴重な場の役割を果している。この会の機関誌発行については、目下懸案事項となっているが、教員および大学院生の研究成果は、『大学院文学研究科紀要』『ヨーロッパ文学研究』『比較文学年誌』『早稲田大学図書館紀要』等の学内誌に主として掲載されている。

 戦前、戦後を通じ、露文科の学風は、会話の上達に比重をおくよりも、寧ろ、ロシアの思想、文化、文学を、味読を通じてより深く理解する方向を一貫してとってきており、こうした学風に培われた卒業生のさまざまな分野への進出は、戦前より更に一層目覚しい。

 露文科に残った教員達のほか、学内の各学部に専任教員として残っているものに、教育学部の川崎浹、理工学部の笠間啓治、法学部の高山旭、語学教育研究所の中島とみ子がおり、そのうち、川崎、笠間は、大学院文学研究科でも教科を担当している。また全国各地の大学には専任教員として、吉上昭三(東大)、米川和夫(明大、昭和五十六年死去)、草鹿外吉(日本福祉大)、出かず子(北大)、早川光雄(慶応大)、法橋和彦(大阪外大)、奥村剋三(立命館大)、漆原隆子(東北大・死去)、近田友一(法政大)、松本忠司(小樽商大)、岡沢宏(専修大)、木下豊房(千葉大)、狩野昊子(筑波大)、青山太郎(九州大)、藤家壮一(北大)、灰谷慶三(北大)、大木昭男(桜美林大)、沓掛良彦(東京外大)、矢沢英一(富山大)、黒沢峯夫(新潟大)、村井隆之(神戸大)、杉山秀子(駒沢大)、阿部軍治(筑波大)、島田陽(東大)、中村泰朗(上智大)、佐野努(慶応大)、坂内徳明(一橋大)、沢田和彦(新潟大)らがいて、ロシア語、ロシア文学の教育、研究活動に当っている。更に全国各大学のロシア語非常勤講師や、各種ロシア語教育機関で活躍しているものの数は限られた紙面で挙げきれぬほど多い。

 また作家となったもののうちには、芥川賞受賞者の宮原昭夫、李恢成、三木卓、H賞を受賞した三木卓、一色真理、文学界新人賞を受賞した宮原昭夫、森内俊雄、泉鏡花文学賞を受賞した森内俊雄、谷崎潤一郎賞を受賞した後藤明生、直木賞受賞者の五木寛之らがいる。更に児童文学者として古田足日、内田梨沙子らがおり、漫画家として東海林さだおがいる。

 このほか、政治の分野に進出したものに、衆議院議員の榊利夫と、岩佐恵美、藤沢市長を務める葉山峻らがいる。なお、紙面の制約上、いちいち名前は挙げられないが、多くの卒業生が、ジャーナリズム、貿易商社関係の第一線で活躍中である。

十四 演劇専攻

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 演劇が旧制早稲田大学の中に、一専攻分野として独立創設されたのは、終戦直後の昭和二十一年四月であった。ただし当時は今のように演劇専修と称したのではなく、美術と併せて「芸術専攻」とされていた。表記には、文学部文学科芸術専攻(演劇)という形であった。

 言うまでもなく早稲田大学における演劇の研究と実践は、坪内逍遙以来長く輝かしい伝統をもつ。文学部内でも、他大学に比類のない演劇関係の講座が戦前から特色を成していた。

 しかしそれらは国文科などに設けられた講座であって、未だ独立した専攻課程をもってはいなかった。それは金子筑水会津八一以来、美学・美術史に長い伝統をもつ美術分野においても同様であった。そこで終戦直後この二分野が肩を寄せ合い、芸術科として新設されるに至ったのである。

 その背景には、文化国家としての日本再建における情操ないし芸術教育、あるいは視聴覚教育の重要性の認識という、戦後日本の一般状況と国家的要請があったのは言うまでもない。こうした情勢のもとに設立を準備し、初代の専攻主任として基礎作りに当ったのは演劇が河竹繁俊、美術が坂崎担の両教授であった。

 以来今日まで三十五年、その演劇科(と略称する)の歩みを、一応次の三期に分けておこう。

第一期(昭和二十一―二十六年)、草創時代

第二期(昭和二十六―四十三年)、新制拡充時代

第三期(昭和四十三年―現在)、転回時代

以下各期における演劇科の動向、特色的な、また顕著な事柄などを、早大全体および社会との関連にも触れながら、略述する。

1 第一期――草創時代――

 両主任は河竹が館長だった演劇博物館(以下、演博と略称する)の袖に当る部分に、向って左が演劇、右が美術とそれぞれ主任室を構えた。以下演劇だけについて記すが、こうして専攻のセンターが館内に置かれたこともあり、当時は演劇科と演博の関係は、今からは考えられないくらい密接であった。無論単一学部で学生数が十人から二十人と、少なかったこともある。

 講義も専門科目の大半が館内の現在の閲覧室あるいは地下室で行われた。その地下室はまた学生の溜り場でもあり、先輩後輩の交流や、演劇と美術の学生の交流も盛んで、教師との交歓も密であった。学生は根っからの芝居・映画好きで、戦争中の不如意な禁縛からの解放の喜びと、飯より好きな道に進める幸福に胸ふくらませて集ったものばかりであった。

 昭和二十四年三月に第一期生が卒業するが、その中から例えば近年物故した劇評家大木豊、映画製作の吉野誠一、監督の斎藤武市、近代座々長で俳優の根本嘉也、劇作家で大阪芸大教授の千代間寛、演博最古参の菊池明らが出ている。

 教授陣にも専任の教授河竹繁俊、講師印南高一(喬)、郡司正勝のほかに、学苑に長い縁故をもつ専門大家が欣然として応援出講し、我が国の最高水準を示した。主な講師と講義内容をあげると、坪内士行(欧米演劇史・シェークスピア研究・演技演出研究)、楠山正雄(西洋近代劇)、田中良(舞台美術)、田辺尚雄(日本音楽史)、飯島正(映画論・映画史)。

 専任では河竹繁俊(演劇概論・日本演劇史・イプセン研究)、印南高一(東洋芸能・映画研究)、郡司正勝(日本戯曲研究)など。ほかに他専攻の先生ではあるが、関連深い科目に日高只一(民間芸能)、佐々木八郎(日本歌謡史)があった。が、日高教授は間もなく定年退職となり、「民間芸能」は教育学部専任に迎えられてきた本田安次教授に引き継がれることになる。

 二回生には民放草分けの小沢亮、演博のベテラン林京平、映画放送作家で活躍する橋田寿賀子らがあり、三回生にはテレビ製作の小川秀夫、劇作家野口達二、照明家梶孝三、現教授河竹俊雄(登志夫)らがある。が、三年制のいわゆる旧制はこれまでで、昭和二十四年に「六三三四」制による新制大学発足に伴い、編入による新制三年が生れた。俳優の北村和夫、映画放送作家の西沢裕子、テレビ評論家の志賀信夫、フジテレビ社長羽佐間重彰らはこの新制第一期生で、旧制三回生と同じ昭和二十六年三月に卒業する。筆者がここまでを第一期とした所以もここにある。

2 第二期――新制拡充時代――

 演劇科がある意味で最も活発で華々しかったのは、この時期であった。新制大学制度の定着に伴い、教室の授業と併行して「実験実習」が正課として施行されたからである。それは心理学や美術の場合と同じく、学生から徴集される実験実習費によって運営実施された。内容は、三年次生を中心に年に一度の「実習公演」と、古典・民俗芸能および優秀・稀覯映画の見学鑑賞、年数回の学外専門家を招いての課外講義――の三本立であった。

 しかし、後者の二つは良かったが、第一の実習公演には、終始多大の困難や問題がつきまとった。それは演劇科が本来文学部の一専攻であって、いわゆる演劇学校ではないことによる。卒業生からプロの俳優や劇作家などが出ることは、無論結構で寧ろ期待すべきだが、実際的演劇人を養成するために実技を教えることは直接の目的でなく、将来演劇・映画・放送等に広く携わるために必要な「基礎的学問」を授けるというのが、今日も変らない姿勢である。

 にも拘らず実習公演を正課としたのは、たとい評論家や学者になるにしても、一度は演劇の製作過程を体験することが有意義と考えられたからであった。この理想は正しかったし、事実、この実習が動機あるいは土壌となって、幾多の優れた実際活動家を生んでもいる。またこの間、昭和三十七年に文学部の新校舎移転と同時に、学部当局の好意と他専攻の理解により、一八一号大教室が演劇の実習のため優先的に提供もされた。しかし結局は、演劇専攻学生の目標の多様性、予算の限度、そして何よりもスタッフが不足で仕事の過重などのため、指導担当者は毎回大変な労苦をもって当らねばならなかった。それはやがて一、二年が教養課程となって、実習公演そのものが物理的に不可能になるまで、続けられたのである。

 しかしそうした困難のなかにも活発な意欲と実践力は、さまざまな形で実を結びもした。例えば昭和二十六年には現役学生と卒業生が協力して、CIE指導による日本最初の「円形劇場」を大隈小講堂で試演して多大の反響を呼び、二十七年の早大七十周年および三十二年の七十五周年には、やはり学生・卒業生合同で「大隈重信」「高田早苗」などの記念劇を制作上演し、三十三年の演博三十周年には近代劇場が「冬の夜ばなし」を、三十四年の逍遙生誕百年祭には新設の記念会堂において学生、卒業生、スタッフが総力をあげて記念劇「ジュリアス・シーザー」を上演するという壮挙が相次いだ。

 三十年には学生による戯曲、シナリオの創作発表の場として機関誌『早稲田演劇』を発刊、更に三十四年にはスタッフおよび学生の学術論文発表のための機関誌『演劇学』も創刊をみた。前者はやがて実験実習の廃止とともに廃刊の止むなきに至るが、後者は優秀な修士論文卒業論文の要約や投稿も容れつつ、今日も毎年刊行を続けている。

 なおこの期には演劇専修から文学部全体の共通科目として、演劇概論(河竹俊雄)、日本音楽史(田辺秀雄・小島美子)、シナリオ研究(小林玄勝)、放送概説(庄司寿寛)などを提供、夏季学期にも演劇概論(河竹俊雄・後には安藤信敏と分担)をもって協力した。

 昭和三十五年には本専攻創設者の河竹繁俊が定年退職、演博館長も飯島小平教授に代り、一時代が画された。七年後の四十二年には名誉教授となっていた河竹繁俊が死去、『演劇学』第九号は「河竹繁俊博士追悼号」となった。

 大学院もこの間、昭和二十六年に設置され、初期には西洋演劇の泰斗新関良三博士の来講も仰ぎ、順調に充実化されている。ただし形式上は未だに美術史学専攻と併せて「芸術専攻」となったままである。

3 第三期――転回時代――

 昭和四十三年に一・二年が教養課程となるにおよび、実験実習は廃止を余儀なくされた。四年は卒業論文や就職関係で余裕なく、初めて顔を合せた三年次生だけでは事実上不可能だからである。かくして演劇専攻は、必要な基礎的学問を身につけるという本来の目的一本に絞り、一文二文とも同等に、教室における授業内容の充実へと転回しつつある。

 また現在に繫がるこの期は、スタッフの面でも漸く新しい交替期を迎えたといえよう。創設以来の主力スタッフであった飯島、印南、本田、郡司の各教授が、健在ながら昭和四十七年、四十九年、五十一年、五十八年と相次いで定年退職したからである。『演劇学』はその都度、各教授の〝古稀記念〟特集号を刊行した。

 かくて現在の演劇専攻は面目一新、河竹俊雄・安藤信敏・鳥越文蔵・山本喜久男・内山美樹子・岩本憲児・古井戸秀夫の七名が専任教員として、充実発展に努めている。しかしまた近年著しいのは、第一線で活躍する卒業生の中から非常勤として出講を依頼するケースが増しつつあることである。これは演劇科の歴史が漸く幅と厚みをもってきたことの一証でもあろう。

 ここまで名の出なかった人々――例えば市川染五郎・北大路欣也・加藤剛から高瀬春奈までの俳優、映画の篠田正浩監督や放送演出の和田勉・千本よしこ、テレビ編成の北代博や法亢堯次、劇作家のふじたあさやや清水邦夫、評論の大笹吉雄、小説家の青野聰・村上春樹・三田誠広等々、演劇科出身者は各方面に活躍している。

十五 文芸専攻

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 文芸専攻課程は、昭和四十一年度の学部組織の改変によって、人文専攻課程とともに第一文学部の専攻課程として新設された。学部の改組案は昭和四十年六月の臨時教授会で承認され、昭和四十一年入学の学生から適用されるものとして、実質的には昭和四十三年四月から発足した。

 文芸専攻課程設置の趣旨は、作家、評論家・ジャーナリストを志望する者に専門的訓練を行うところにある。近代日本の文学史において本学出身者の果たした役割は大きい。その歴史的背景の下に本学ほど作家志望の学生の多い大学は類がないが、文学は教えられないという前提に立って、作家・文筆家の養成を直接の目的とした専攻課程は存在しなかった。しかし関係諸学問の極度の専門化と分業化、また経済立国・工業万能の理想の挫折、激化してゆく社会の情報過多と大衆化に伴い、社会と人間に対する根源的省察の営みとしての文学芸術の地位は日増しに尊重されている。そのような時代の要請に応じて設置されたのが文芸専攻課程に他ならない。

 いかなる教育によっても大作家を生み出すことはできないという意味では、文学は教えられない。しかし美術におけるデッサンのように、作家たらんとする者に不可欠の基礎知識や基本的訓練が存することもまた事実である。詩や小説、批評の本質とその歴史の通観、東西の作品の分析と比較を通して得られる技術の多様性と重要性の認識、レポートや機関誌による実地訓練の蓄積などが、主たる教育の目標である。この目標を達成するために演習に最も力を注ぎ、三年度生に演習ⅠA「詩歌」、演習ⅠB「戯曲」、演習ⅡA「小説」、演習ⅡB「評論」、四年度生に演習ⅢA「小説」、演習ⅢB「評論」、演習ⅣA「表現」、ⅣB「ジャーナリズム」を配当し必修とした(各学年とも演習二科目をABの中から選択し必修する)。各ジャンルとも現代に重点を置き、外国文学のテキストは翻訳を使うことにした。演習以外の他の専門科目A(講義)は、原則として第Ⅱ類(文学科コース)の配当分より必要単位を修得するものとし、必要に応じて第Ⅰ類(哲学科・史学科コース)より修得することができ、専門科目(講義)BはⅠ類Ⅱ類の中から自由に修得することに定めた。しかしこのⅠ類Ⅱ類の枠は、昭和四十七年度からは撤廃され、他のすべての専門科目の中から所定の必要単位を自由に修得できるように変った。文芸専攻課程の最も特色ある点は、卒業論文に代えて、詩集・戯曲・小説・評論などを卒業制作として提出することが認められているところにある。しかし大学院進学希望者には、評論または研究論文であるように指導することになっている。

 なお、昭和五十四年度から、文学部の制度に更に改変があり、一・三制が導入されることになった。すなわち第二学年から専攻課程に進む制度であるが、カリキュラムの上での基本的変更は行われていない。演習の配置を二年度生に一演習、三年度生に二演習、四年度生に一演習を置くことにし、他は従来通り自由選択である。前にならって示せば、二年度生に演習ⅠA「小説」、同ⅠB「評論」、三年度生に演習ⅡA「詩歌」、同ⅡB「戯曲」、演習ⅢA「小説」、同ⅢB「評論」、四年度生に演習ⅣA「表現」、同ⅣB「映像研究」(前期)、「ジャーナリズム」(後期)を履習させることとした。

 教員組織は専攻主任一名を定め、これを補佐するものとして文芸専攻課程運営委員会が設けられた。運営委員は本学部専任教員で文芸専攻課程の演習担当者の中から選ばれた。初代専攻主任は暉峻康隆教授(日本文学)であり、出発期の基礎固めのために多大の貢献があった。同教授は近世文学特に西鶴研究の権威として学界に重きをなしているが、闊達な人柄で文壇・ジャーナリズムにも広く知られており、新設専攻の多難を乗り切るに最もふさわしい存在であった。昭和四十五年十月から平岡篤頼教授(フランス文学)がバトンを引き継ぐことになるが、「文芸科」としての性格は、同教授の主任時代に一層明確となり、充実と進展とがもたらされた。平岡教授はフランス現代文学の研究者・紹介者として知られるが、一方で作家・文芸評論家としても注目すべき活躍をつづけ、作家・文筆家の養成を目途とする文芸専攻課程にとって、同教授の果たしている役割はきわめて大きい。昭和五十三年九月からは、竹盛天勇教授(日本文学)が交替した。

 先に触れたように、教室運営機関として発足当初から文芸専攻課程運営委員会が設置され、主任の補佐に当った。しかし委員それぞれは自分の専攻に所属しているために不便があり、昭和五十年に「人文・文芸各専攻運営委員会に関する内規」が作られ、昭和五十一年十月、いわゆる出向制度が教授会によって討論の上決定された。

 教室運営とは別に演習担当スタッフについて見なければならない。文芸専攻課程の生命はここにあるからである。学内の専任教員の兼担は言うまでもないが、可能なかぎり第一線で活躍中の現役の詩人・作家・批評家を講師陣に迎えて、学生の自主的な演習に対する指導と啓発を仰ぐことが方針となっている。発足以来の演習科目と担当者名を掲げると次の如くである。

第七十三表 第一文学部文芸専攻演習科目および担当者(昭和四十三―五十六年度)

 学生数は二演習定員六十名で発足したが、当初は新設専攻として馴染が薄く、第一文学部教養課程から志望する学生のみでは定員に満たぬため、他学部からの転部入学、学士入学を受け入れざるを得なかった。しかし、卒業生の活躍などによって漸次その特質が知られるに至ったこととともに、社会の風潮、学生の志向に微妙な変化が起りつつあるためであろうか、昭和四十八年度辺りから第一志望者数が増え始め、最近では、第一志望者のみで定員を満たすのみか、文芸に進級できぬ志望者を他専攻へ回すような状況を呈してきた。それとともに優れた資質をもつ、意欲的な学生が自ずから集まるようになったことを言わねばならない。

 作家・文筆家養成を目的とするためには、書く機会をできるかぎり多く与えるべきである。文芸専攻課程の機関誌として、昭和四十四年九月『蒼生』第一号が発刊された。当初は学生の自主的編集に委ねたが、第五号辺りからは、卒業制作もしくは演習での創作を中心とするようになり、質的にも著しく向上して来、現在第十七号まで刊行されているが、同人雑誌評などで批評対象になる作品も少くない。

 卒業生は昭和四十五年三月、第一回生を出して以来、今日に至るまで約六百八十名の数になるが、その間、荒川洋治はH氏賞を受賞するなど詩人として目覚ましい活躍をし、山田純代は中島梓の筆名で「群像」新人賞(評論)、栗本薫の筆名で江戸川乱歩賞を受け、それぞれの分野で多産な作家となった。渡辺政義(筆名、五十嵐勉)は「群像長編新人賞」を受け、見延典子は卒業制作「もう頬づえはつかない」、同じく田中りえが「お休みなさい、と男たちへ」で話題になった(渡辺と同級の笹倉明は二十年の辛苦の末、「遠い国からの殺人者」で第一〇一回直木賞を受賞)。その他出版社・新聞社・放送局などに進路を得て活躍している者も多い。また在学中に教職単位を取って教職に就くものも少くなく、まだ大学院に進んで研究者への道に入る者も見られ、卒業生の進路は多様であると言わねばならない。

 第一文学部に続いて、第二文学部においても、昭和四十五年度より文芸専攻課程(演習定員六十名)が置かれ、フランス文学の新庄嘉章を主任として発足した。

 それより先、昭和四十一年、第二文学部は第一文学部とは別に、独自の内容を持った学部として専攻課程の編成を変えて、従来、一文に倣って置かれていたフランス文学、ドイツ文学、ロシア文学の専攻課程を廃止していた。文芸専攻は、従ってそれらに代る課程としての役割を荷うことになり、一文の文芸専攻とは若干違う性格を伴っている。

 昭和四十五年の『学部要項』の専攻課程紹介の項には、文芸専攻について、こう書かれている。

本課程の特徴は、世界各国の主な文芸思潮、文芸作品等の比較研究、あるいは総合研究によって、広く文芸一般の一般の知識を修得させるところにある。

 更に、このことは昭和四十八年の『学部要項』では次のように敷衍されている。

近代以降の各国文学はたがいに影響し合いながら展開しているので、各国文学を個別的に見ていたのでは、却ってそれぞれの国の文学を理解することはできない。そこで文芸専攻課程では、世界文学とか一般文学とかいった視野のもとに、更に今日さまざまに専門分化した諸科学の成果をも自由に採り入れて、あるいは総合的に文学の諸現象を考察したり、あるいは文学作品を比較対照しつつ研究したりする。そのために本専攻課程では、演習以外の専門科目はきわめて自由に選択することができるようにしてある。

 文芸専攻は、演習以外は、他専攻の専門科目に依存し、教員も他専攻からの出向という形を採り、専攻所属の教員を置かないことにしたが、この制度には一長一短があり、過渡的な処置として、その見直しが文芸専攻に係ってきた教員の間で、絶えず問題になっている。

 以上のような主旨のもとに、演習は第一文学部の文芸専攻に倣って編成されているが、主として文学系の諸専攻の教員が、できるだけ均等に担当するようにした。例えば、初年度は主任の新庄嘉章、ドイツ文学の志波一富、ロシア文学の宮坂好安、翌昭和四十六年は、日本文学の清水茂、竹盛天勇、中国文学の松浦友久、英文学の松原正、フランス文学の窪田般彌、演劇の山本喜久男、それに現立正大学教授保昌正夫(本学国文昭和二十七年卒)を非常勤講師として招いた。

 昭和四十七年、専攻主任は新庄に代って、ロシア文学の新谷敬三郎がなった(昭和四十九年まで)。演習担当はその新谷のほか、清水茂、英文学の大井邦雄、フランス文学の弓削三男、非常勤講師は保昌に、更に現東横学園女子短大教授久保田芳太郎(本学国文昭和二十四年卒)を加えた。この二人はいずれも日本近代文学が専門である。この年度第一回卒業生十九名を世に送り出した。

 以下演習担当者の交代だけをあげると、昭和四十八年は再びドイツ文学の志波一富、新たにロシア文学の柳富子が入り、四十九年は弓削に代ってフランス文学の加藤民男、志波に代ってドイツ文学の棗田光行、清水茂に代って日本文学の佐々木雅発、五十年には棗田に代ってドイツ文学の山田広明、新たに非常勤講師に現代演劇協会の演出家荒川哲生を迎えた。なおこの年、国内留学で一年休職する新谷に代って、英文学の野中涼が専攻主任になった。

 昭和五十一年、演習は棗田に代ってドイツ文学の重原淳郎、加藤民男に代ってフランス文学の加藤尚宏が入り、翌五十二年には佐々木に代って日本文学から中島国彦が入った。なおこの年、主任に新谷が復帰した。五十三年、加藤尚宏に代ってフランス文学の小林路易、五十四年重原に代ってドイツ文学の大久保進、野中に代って英文学の虎岩正純、大島一彦が演習を担当した。五十六年、主任交代し、再び野中涼が就任して、五十八年度より柳富子が主任となる。

 以上が、文芸専攻が創設されて十二年ばかりの間の、唯一の専門科目である演習の担当者の異動の概略である。今はそのそれぞれの授業内容にまで立入る余裕はないが、こうした目まぐるしい担当者の異動は、好かれ悪しかれ、文学教育に新しい視野を招こうとして設けられた、まだ歳若い専攻の現実を象徴している。専攻の運営は第一、二文学部合同で、演習担当者による教室会議によってなされてきたが、担当者はそれぞれ自分本来の専攻があって、負担が過重になるばかりなので、昭和五十一年、出向制度なるものが設けられ、二名の文芸専攻出向者を決め、自分の専攻内の義務から解放されて、文芸専攻の運営に専心するよう、図られた。がこの制度の実効は必ずしもあがっていない。

 こうした専任教員のいない、また学問、教育の輪廓のあいまいな専攻にも拘らず、志望する学生は次第に増加し、定員を二割余も超えるほどになり、卒業生も昭和四十八年二十六名、四十九年三十七名、五十年四十六名、五十一年五十三名、という具合に出している。その進路は、いわゆるマスコミ関連を中心として、きわめて雑多である。

 このように文芸専攻は、発足から二十年ばかり経過したが、それはちょうど文学の表現の媒体が多様化し、流通は大量化して、表現伝達の様相の激しく変化する時期に当っていた。そうした時代の要求に十分対応する教育の方針とその実践の方法を、文芸専攻は具えているとは言いがたい。今その転機に立っている。

十六 日本史学専攻

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1 東京専門学校の創設と国史

 早稲田大学に歴史の科目が設けられたのは、遠く明治十五年の東京専門学校の開設当初、政治学科・法律学科の一年の科目として史学が置かれた時のことである。しかし、その講義はヨーロッパ史が中心で、国史は取り上げられなかった。そのことは、同二十三年に文学科が独立して、史学が全学年の必修科目となった後も同じであった。この頃学苑の文学科で学んでのちに歴史家として大きな業績を残した人に朝河貫一がいる。国史の講義が初めて行われたのは明治二十九年のことで、この年から萩野由之、三上参次などの大家が文学科講師として教壇に立った。

2 史学科の設置

 明治三十一年、文学部に文学科と史学科が置かれた。この史学科は早くも翌年には改組されたのであるから、この史学科の設置は真の独立と言うべきものではない。しかし史学科の系譜は一応ここまで辿ることができ、史学科の発足をここに置くのが適当である。史学科設置の趣旨は尋常中学および師範学校の教員を養成することにあった。史学科設立の趣旨が右の如きものであり、また当時は本校入学者の間に歴史の研究を志すような学生は殆どいなかったから、史学科の性格はその後も相当長い間変らなかった。しかしそこで教える教員には一流の人物が集っていた。この年より考古学を坪井正五郎が、国史を内田銀蔵が担当した。のちの京都帝国大学教授で、我が国における経済史学の創始者となった内田は東京専門学校邦語政治科で学んだのち東京帝国大学国史科に学び、卒業後早稲田で国史演習、上古史、経済史(日本経済史の講座としては、日本で最も早いものである)などの講義を担当した。

 前年一旦独立した史学科は翌明治三十二年には史学及英文学科となった。そしてこの年久米邦武が講師になった。佐賀藩出身で大隈重信の同輩である久米は東京帝国大学国史学科の教授であったが、『史学会雑誌』に「神道は祭天の古俗」と題する論文を発表し、やがてそれが『史海』に転載されるに及び、神道家その他保守派の攻撃をうけ、帝大教授を辞職させられていた。大隈は久米を招聘し、やがて久米は早稲田において古文書学その他を教えるようになった。久米は国史学を合理主義で実証的な史学とした人であり、また古文書学の開拓者でもあった。

 吉田東伍は二年後の明治三十四年、初めて文学部において日本地誌を講じ、その翌年から国史をも教えるようになった。吉田は独学で国史学者として大成した人であるが、非凡な能力と努力により夙くからその名を知られ、『史学雑誌』、『歴史地理』などに多くの論文を発表する傍ら、既に『日韓古史断』、『徳川政教考』などを出版し、更に『大日本地名辞書』の刊行に着手していた。

 このように、文学部には国史に久米・吉田の両碩学や中野礼四郎、更には明治三十五年の外遊までは内田も在職し、『史学科講義録』の出版、『大日本時代史』の刊行などの活躍があり、また東洋史・西洋史にもしかるべき学者を迎えていた。しかし教員養成のためには必ずしも学生を大学部に入学させる必要はなく、また史学のみを専攻する者も少かった関係から、明治三十五年の東京専門学校の早稲田大学への昇格とともに、史学科の所属と名称は専門部の歴史地理科、高等師範部の歴史地理科、大学部師範科の歴史地理科等の紆余曲折を経て、大正初年になっても大学部文学科の史学及社会学科として、なお史学科として独立するには至らなかった。明治末年の頃の国史の科目は吉田を中心に久米、中野らが担当したが、大正初年に史学及社会学科が設けられた頃以降は、吉田が殆どの国史の講義を担当した。この頃の史学及社会学科の卒業生は十名前後であった。

3 早稲田騒動と西村・津田

 大正六年のいわゆる早稲田騒動は、学苑の歴史にとっても大事件であったが、日本史学専攻の歴史にとっても画期を成す事件となった。先ず、のちの東北帝国大学教授となり、日本思想史の研究で大きな業績を残した村岡典嗣は、この騒動を機に語学教師を辞して大学を去った。また騒動後に理事の要職に就いた吉田が翌大正七年一月に死去した。かわって同年四月から西村真次津田左右吉が講師に就任した。西村は国語漢文及英文学科の卒業生であるが、専門分野においては独学に近く、東京朝日新聞社、富山房などに勤めて多くの名士・学者に接するうちに、自ずから知見を広めて考古学、人類学、民俗学などの研究から更に古代史の研究に取り組むようになった。大学においては先ず人類学、次いで国史を講義し、その研究成果を『文化人類学』『国民の日本史―第一篇 大和時代』(共に大正十一年刊)などの著書として世に問うた。特に後者は我が国の歴史を天孫降臨等の記紀神話と無関係に科学的に記述した画期的なものであった。西村にはその他にも多くの業績があるが、人物とその学問については、『日本民俗文化大系 10 西田直二郎・西村真次』(講談社刊)に詳しい。

 津田左右吉は邦語政治科を卒業し、千葉中学等で歴史の授業を担当したことから史学研究に進むことになった。彼の研究は多方面に亘るが、史学の研究では東洋史家の白鳥庫吉の知遇を得、リースやディルタイなどの影響をうけた。日本史に関しては既に『神代史の新しい研究』を出版して記紀の文献批判を大きく発展させ、思想史の分野では『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の刊行に着手していた。津田の人物とその輝しい業績については前記「東洋哲学専攻」のところで詳述されているが、歴史学者としての津田については、家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店)、上田正昭編『津田左右吉』(三一書房)、その他の論著に詳しい。西村と津田の研究はその方法論こそ異るとはいえ、学界に与えた影響は大きく、史学科学生のみならず文学部学生に与えた学問的影響は更に大きかった。また本学に学ばなかった者の中にも、若き頃二人の著書に啓発されて本格的な歴史研究を志し且つ大成した歴史学者も多かった。二人を迎えたことは史学科の一大慶事であった。しかるに二人は学問上の良きライバルとして終始しなかったことは惜むべきことであった。

4 史学科の独立

 西村と津田を迎えた翌年、文学部に史学科が置かれ、かくして史学科は漸く独立することになった。そして史学科には国史、東洋史、西洋史の各分野を担当する教員とそれに応じた科目が整えられ、学生はその中の一分野を専攻とすることになった。ただし一分野のみの授業だけを受けたのではなく、例えば国史を専攻する学生も東洋史、西洋史各数科目は必修しなければならなかった。

 大正九年、学苑は大学令に準拠した大学に昇格し、西村・津田も教授に昇任した。その頃史学科で国史を担当したのは両教授のみであった。西村は日本古代史・人類学を、津田は国史概説、日本上代史、日本維新史などを担当した。そして大正十三年に至ると史学科のカリキュラムも更に整備された。西村は新たに考古学の科目を担当した。また元学習院教授で、歴史地理学会創設者の一人であった大森金五郎が講師となり(大森は大正七年から一時講師を務めたことがある)、新たに設けられた国史演習を担当した。このように国史の科目はこの時からかなり充実したものになった。西村の人類学と考古学の講義はのちの早稲田史学にかなりの影響を与えた。人類学や考古学などの学問が早稲田に根づいたばかりではなく、これらの学問を古代史研究に努めて援用しようとする学風を生んだ。人類学も考古学も現在(昭和五十七年)専攻として独立していない。しかし西村の学風を継承する研究者は文学部と教育学部に分れそれぞれ活躍している。津田の古代史研究の与えた影響もまた大きかったが、この年から彼が日本維新史に代って明治思想史を講じたことにも注目したい。それは早稲田史学における近代史重視の先駆と考えられるからである。西村・津田の講義のほかに、大森が翌年から王朝末期史、室町時代史などを講じ、また昭和三年以降東大史料編纂所の花見朔己講師が安土・桃山時代史、徳川時代史などを講じ、講義内容は充実していった。しかしこの頃の国史を専攻する学生は数名にすぎなかった。

5 国史専修の独立

 このように、史学科における国史担当の教員と講義内容は充実していったのであるが、昭和四年に至って津田は哲学科に移り、そのあとは大森・花見らによって補うことになった。こうした状態が二年続いた後、昭和六年からは会津八一が寧楽時代史を担当した。秋艸道人会津八一は英文学科の卒業生で、歌人、書家としても著名であるが、美術史家として一家を成し、文献学的な教養を身につけていた。会津の人と学問については美術史学のところで詳述されるので、ここでは省略するが、日本史に関する研究書に『法起寺法輪寺建築年代の研究』がある。会津の講義は昭和十五年まで行われた。

 史学科の独立当時は、そこに学ぶ学生数も少く、また学問も細分化されていなかったが、その後学生数もやや増加し、学問も専門分野が次第に明確化してきたこともあって、昭和七年より史学科は国史、東洋史、西洋史の三専修に分けられた。この分割に伴って、カリキュラムもかなり大幅に変った。最初国史専修の学生は西洋史が必修ではなかった。代りに史学科学生が三年間に必修すべき科目は増加し、新たに古文書学、土俗学などの科目も設置された。昭和十二年からは史学科の一年生は国史・東洋史・西洋史の各概論の講義を受けた。この概論を三専修の学生は合併で受講した。

6 史学科卒業生の講師就任

 史学科が国・東・西に分れた翌年、京口元吉が初めて文学部で江戸時代史を講じた。京口は大正九年の大学令に基づく早稲田大学が発足した時、同時に設けられた高等学院の初の入学生であり、後述の荻野、深谷、洞らとともに、大正末年から昭和の初めの頃の史学科に学んだ人々の一人である。彼らが国史専修で講義を担当するようになったことは、日本史専攻の歴史のうえでも特筆すべきことの一つである。京口は既に在学中にオットー=ブラウン(Otto Braun)の『歴史哲学概論』を翻訳し、一躍学界に知られ、その後昭和八年に高等学院教授に就任し、同時に文学部講師となったのである。

 古文書学の科目は昭和七年より設けられ、大森、花見らが担当していたが、昭和十一年から荻野三七彦が担当することになった。荻野講師は大学卒業後直ちに東京帝国大学史料編纂所に勤務し、和田英松、相田二郎らのもとで『大日本古文書』の編纂に従事していた。史学理論にも造詣が深い京口、各時代にまたがり豊富な史料に直接接して研究を進めていた荻野らの参加によって、西村を中心にこじんまりとまとまっていた国史専修に新風が吹き込まれることになった。戦中戦後の混乱期、昭和十二年の日中戦争の勃発以来、我が国は次第に戦時色につつまれていき、大学もまたその影響を受けていたが、太平洋戦争が始まるに及んで、国史専修の教員、学生もまた受難の時期をむかえた。開戦直前の昭和十六年三月、京口助教授は舌禍により突如辞任させられることになった。四月から急拠荻野が助教授に就任し、新たに日本近世史を担当した。更に洞富雄が国史概論を担当した。洞は既にそれ以前から西村と半期交代で土俗学を担当しており、この年より一人で土俗学を担当するとともに史学科の必修科目である国史概論を担当したのであった。なおこの年から会津に代って植松孝穆が古代史を担当し、新たに深谷博治が現代史を担当した。深谷は史学科では西洋史を専攻したが、卒業と同時に宮内省の明治天皇御伝記編纂局に勤務して渡辺幾治郎のもとで働き、近代史史料の豊庫とそこに集まった多くの研究者に啓発され、日本近代史の研究に転じ、既に『伊藤博文伝』の一部を執筆し、この年四月には主著『華士族秩禄処分の研究』を出版したばかりであった。こうして一時中断していた近代史の講義は復活した。深谷の講義も戦時中は一時中断するが、明治維新史の如きは国史学の研究範囲とは考えられないきらいのあった頃、こうした科目を設けたのは一つの英断であった。

 このようにして、教授陣容は一応整えられたが、戦局の苛烈化に伴い大学においても正常な授業を行うことが次第に難しくなっていった。こうした状況のなかで西村が昭和十八年四月に死去し、国史の専任教員は荻野ただ一人となった。やがて学生は戦場に駆り立てられ、学生数はにわかに減少した。そこで同年十月には講師は一斉解任となり、国史専修も他専修同様有名無実と化した。

 しかし戦後の復興の息吹とともに国史専修も次第に元通りになっていった。学生は戦場から学苑に帰り、深谷・洞も講師に復帰し、京口も助教授に再任された。植松は戦時中に病死したので、新たに水野祐が講師に就任した。なお国史とは直接関係はないが、明石原人の発見者で古生物学、人類学の分野で大きな業績を残した直良信夫が共通専門科目の一つとして地質学、のち先史地理学を教えるようになった。直良の講義は昭和四十七年三月まで行われた。

7 新制大学と大学院の発足

 戦後の学制改革に伴い、昭和二十四年から新制大学が発足したが、第一文学部では史学科は元の通り国・東・西の三専修に分れた。国史の必修科目としては、二年が国史綜論(昭和三十一年より国史綜論と史籍講読)、三年が上代史、中代史、特殊研究(一)、演習、四年が近代史、最近代史、特殊研究(二)、演習で、他に史学科共通専門科目として、史学概論、考古学、古文書学その他が置かれた(史学科共通専門科目は昭和三十年より全学科の共通専門科目となった)。第二文学部には史学専修が置かれた。新制大学の発足によって教授陣容を整える必要があり、深谷が専任講師になった。また四年後の昭和二十八年四月からは水野祐が専任講師となった。

 新制大学の発足に伴って、新制大学院も発足した。史学専攻は他専攻より一年おくれて昭和二十七年より修士課程が、二年後に博士課程が発足した。博士課程の発足に際して、東京大学史料編纂所教授の西岡虎之助が教授に就任した。

8 国史専修の充実発展

 新制大学の発足後、学生数も次第に増加し、教授陣も整えられたが、昭和三十年代、すなわち一九五〇年代の中頃から約十年は新制大学の新制大学院はともに草創の期を脱し、国史専修が充実していった時期であった。昭和三十二年四月には洞が助教授に、同三十四年四月には考古学専攻の桜井清彦が乙種非常講師に、同三十六年四月には近代史専攻の鹿野政直が専任講師となり、国史の専任教員は八人になった。この時期は安保騒動など、学苑が一時騒然となったこともあったが、比較的平穏な時期であった。新制大学草創の頃からこの時期にかけての国史の卒業生は、学界をはじめ各界の中堅として活躍している。

9 カリキュラム改定・学園紛争

 昭和四十一年は文学部にとっても国史専修にとっても一つの転機となった年であった。先ず三月には西岡が定年退職した。西岡は東大卒業後長く史料編纂所に勤務して、実証的な研究により荘園史の研究を発展させた一人であり、主著に『荘園史の研究』がある。後任には貨幣史、近世史専攻の滝沢武雄が助教授に就任した。

 この年四月より一・二文の改組に伴って、カリキュラムが大幅に改定され、従来の必修科目は専門Aに、共通専門科目は専門Bと改称された。国史専修の専門Aは、演習が日本史学演習Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ、講義が日本史学研究Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳはそれぞれ古代・中世・近世・近代に対応)に分れた。学生の定員は六十名とされたので、これらの演習、講義は各々二人の教員で分担することになった。この改定によって、学生は自己の研究に応じて授業を選択できることになった。しかし国史の学生であっても、国史の教員の授業を一度も受講しないで卒業できる仕組みになったのである。二文の史学専修は廃止され、新たに東洋文化専攻が設けられ、国史の教員は東洋文化に設置された科目を担当することになった。

 翌年三月京口元吉が定年退職した。京口はその信ずるところを直言してはばからぬ硬骨の士であり、そのため前述の如き舌禍にもあったが、広汎な学殖をもち、他学部の学生を含めた多くの学生を教えた名物教授であった。後任には史料編纂所教授の竹内理三が教授に就任した。なおこの年四月より国史専修は日本史専攻と改称された。そしてこの頃より、日本史専攻は他専攻以上に学園紛争の嵐に巻き込まれていった。昭和四十年末より翌年の授業料値上げ反対闘争が起り、更に二年後には全国的な学園紛争の嵐が吹き荒れ、その後も混乱が断続的に続いたことは、通史に記す通りであるが、ことに日本史専攻の学生はこうした動きには敏感であり、他専攻より混乱が大きくなることが多かった。

10 四教授の定年退職

 学園紛争も漸く終息した頃、昭和十年代に初めて母校の教壇に立ち、以来困難な時期によく日本史専攻を守ってきた人々が退職していき、更に竹内も定年を迎えることになった。京口については先述したが、昭和四十八年三月深谷博治が定年退職した。深谷は新制大学の発足とともに専任講師となり、以後早稲田において近代史を学ぶ学生を指導し、近代史研究盛行の基をつくった。後任には同じ近代史専攻の由井正臣が助教授に就任した。次いでその翌年三月には荻野三七彦が定年退職した。荻野は戦中戦後の混乱期にただ一人国史専修を守り、大学においては教務部長、理事の要職にも就いた。専攻は中世史、文化史、古文書学等で、著書に『聖徳太子伝古今目録抄の研究』、『日本中世古文書の研究』などがあり、また古文書の蒐集に力を入れ、蒐集古文書千四百余通のなかには「尾張国解文」その他の重要文化財を含み、現在図書館に保管されている。後任には近世史専攻の深谷克己が専任講師に就任した。

 昭和五十二年三月には、更に洞富雄が定年退職した。洞は長い間学苑の図書館に勤務した関係もあって、博識でその研究領域は古代から現代に及び、古代天皇制、家族、鉄砲、近代対外関係、北方問題、近代戦史などに亘り、主な著書に『日本母権制社会の成立』『鉄砲伝来とその影響』『幕末維新の外圧と抵抗』などがある。洞の定年退職と、翌年度から日本史専攻の教員が一名増加したため、昭和五十二年四月より史料編纂所助教授で中世史専攻の瀬野精一郎と高等学院教諭・文学部講師で古代史専攻の福井俊彦が共に助教授に就任した。また深谷克己も助教授に昇任した。その翌年、更に竹内理三が定年退職した。竹内は東大卒業後、史料編纂所、九州大学に勤務し、古代、中世の社会経済史を研究し、著書に『奈良時代に於ける寺院経済の研究』『寺領荘園の研究』『律令制と貴族政権』等があり、『寧楽遺文』『平安遺文』『鎌倉遺文』の編者としても有名である。竹内の後任には近代史専攻の安在邦夫が専任講師に就任した。なお、昭和五十四年、由井正臣が教授に昇任した。

11 日本史専攻の現況

 四教授の定年退職によって、日本史専攻の教授陣容は一新した。専任教員は、水野祐、滝沢武雄、桜井清彦、鹿野政直、由井正臣の五教授と、瀬野精一郎、深谷克己、福井俊彦の三助教授、それに安在邦夫講師となったが、昭和五十六年には安在が助教授に昇任し、現在五教授と四助教授の計九名で、二十名近い講師とともにそれぞれの専攻分野において、大学院、一・二文の学生を指導している。昭和五十四年度からは、カリキュラムに変更があり、一・二文とも二年から専攻に進むことになり、二年生には二つの専門科目を必修することになった。一文の学生定員は一学年六十名であるが、日本史専攻に進むことを希望する学生は百名を超す年もあり、実際には七十五人前後の学生を受け入れている。学生は全国から集まり、その半数近くが女子学生である。学生全体の半数近い三十余名の学生が卒業論文のテーマとして近代を選び、このような傾向は二文の東洋文化専攻にもみられる。残りの学生が各時代に分れるが、一文に考古学専攻が設けられていない関係もあって、毎年十人以上の学生が考古学を専攻し、桜井を中心に発掘調査を行っている。考古学を専攻する学生は専門分野への就職も良好である。その他の学生は教員、研究機関の職員、マスコミその他に就職し、若干名が大学院に進学する。

 大学院は他大学から受験するものも多く、毎年三十名を超える受験者があるが、前期課程の合格者は五、六名程度である。卒業生の専門分野への就職は必ずしも良好とはいえないが、徐々にではあるが研究者として育っていく者が増加している。

十七 東洋史学専攻

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 「歴史は過去の出来事を記述したり、考証したり、つまり死んだ事件を取り調べる検査官のやうなもの」では全くなく、「そんなものを歴史学に対して要求しない」と開陳しているのは、他でもなく学苑創設者の大隈重信である。大隈はまた、「歴史学といふ一つの科学の一要素として、過去の事実を可成的冷静に、考証したり取り調べるといふことも必要な事であるに相違ないのだが、ただそれが歴史の研究の全体ではない」といい、「頭脳の大きい人、目を開いた学者には歴史上の事実は単に死んだものとしては表はれて来ない。其人々の目には古い、一見現代と何等の関係もない事件も、盛んに活動して、生命を持つものとして表はれて来る」べきものであるといって、その史学観を披瀝している(「文明史から学ぶ経験」『早稲田学報』明治四十三年九月発行第一八七号 二頁)。大隈はある意味で、白柳秀湖が下した「歴史を作るものは大なり小なり歴史家である」(「明治の史論家」『明治文学全集』第七七巻所収 四二八頁)という定義に合致する一人であると断ぜられて然るべきであろう。このような「歴史家」を創設者に戴いたことは、学苑史学科の生成にとって一種の沃土として与っていたことは否めないであろう。

 東洋史学という専門分科の名称が、東京帝国大学において明治三十七年に採用するところとなった国史・東洋史・西洋史の三分科制に濫觴し、日露戦争後漸次定着して行ったことは周知の如くである。また、東京帝国大学に朝鮮史講座が開設されたのが明治四十年の日本の併韓に歩調を合わせてのことであった事実を合せ考えると、日本の東洋史学の発生および展開がその対外的発展と不可分の関連を帯び、それに奉仕する宿命を当初から担わされていたことは否定しようとしても不可能事であったといえよう。学苑文学部にあっては、大正八年九月、史学科が「国史、東洋史、西洋史各専攻科に分」かたれることがあり、次いで昭和七年四月に史学科が国史・東洋史・西洋史の三科に分立されたことによって定着し、今日に及んでいるのである。しかし、文学部(大正八年までは文学科)に史学科が設けられたのは、明治三十一年にまで溯ることができる。この史学科は、尋常中学および師範学校教員の養成を目指したもので、浮田和民の提議によって成ったといわれ、その浮田が西洋史の、内田銀蔵が国史の柱石として加われば、中村徳五郎(明治三十一―三十三年在職)と箕田申之(明治三十一―三十五年在職)が東洋史の講義を担っていたのである。けれども期年にして史学科は中等教員の養成を主目的にした史学及英文学科に改められたことからきわめて短命のうちに閉じられてしまった。次いで史学科が設けられたのは明治四十一年のことで、これが開設のために市村瓚次郎・橋本増吉が招聘され、翌年には高桑駒吉も招かれて東洋史の講師陣に加わったのであるが、これも僅か三ヵ年を閲するばかりにして頓坐を来たさざるを得なかった。その後、「史学を専攻せんとするもの、歴史地理の中等教員たらんとするものおよび史学の知識を基礎として将来社会に活躍せんとするものを養成する方針」(『早稲田学報』大正二年三月発行第二一七号二頁)を掲げて大正三年に設けられた史学及社会学科を介在して、史学科が定着されるに至るのは、大正八年に公布制定された「大学令」の施行に伴って翌九年に行われた学科改正を俟たなければならなかったのである。このような曲折を描いた明治三十一年から昭和七年に至るまでの期間は、東洋史専攻にとっていわばその前史と目され得るであろう。この東洋史専攻の前史を支えた講師陣は、前述した中村徳五郎・箕田申之・市村瓚次郎・橋本増吉高桑駒吉の他に、中川正信(明治三十二―五年在職)・川田鉄弥(明治三十五―六年在職)・牧野謙次郎(明治四十三―四年在職)・清水泰次・藤田豊八・板橋倫行等を数えることができる。また大正十年前後には津田左右吉も東洋史を講じていたことは周知の如くである。ところで内藤虎次郎が明治三十三年の新学期から学苑の教壇に立つことが予定され、「東京専門学校規則一覧」にその名を列ねていた(『早稲田学報』明治三十三年七月発行第四一号 四五頁)ことは存外に知られていないようである。『内藤湖南全集』第一四巻所載の「年譜」にさえ記載が見えない。永く操觚界にあった内藤が、この年四月に「万朝報を退社」していたことと、最初の史学論文「明東北疆域弁誤」を『地理と歴史』(明治三十三年七月発行第一巻 第五号)に投載したことはこの学苑講師応諾と無縁ではなかったに相違ない。しかし、「年譜」に見えるようにこの七月「大阪朝日新聞社に再入社」したため、学苑の講壇に講師として登場することは実現するところとはならなかったのである。何れにせよ一種興味の惹かれる挿話ではある。

 前記の諸碩学に彩られて東洋史専攻の前史が展開したわけであるが、その過程で市村瓚次郎を中核とする学統が醸成され、東洋史専攻の背骨が形成されて行ったということができるように思われる。

 市村瓚次郎(明治二十年東京大学古典科漢書課卒)は、明治三十八年に東京帝国大学教授となり、「支那哲学支那史学支那文学第二講座」を担当していたが、四十一年九月学苑の招聘に応じて講師を兼務したのである。これより以後、大正十四年に東京帝国大学を退官するまで学苑講師を兼ね、退官と同時に学苑の専任となり、そして昭和十八年に退職するに至るまで一貫して学苑東洋史学の発展のためにその魂魄を挙げて注いだのである。もとより、市村は白鳥庫吉と並んで日本における東洋史学の創設者の一人であり、明治二十二年から二十五年にかけて刊行された全六巻から成る『支那史』は、東洋史学のあるべき進路を明示した歴史的意義の高い著作として今日に至るも光芒を失なわない。中国を中心とする政治史、中国思想史を講じていた市村の講筵に列した定金右源二は、その教室には何時も早大出版部の速記者を伴って、「大抵和服姿で長髯を撫しながら、威儀端然と教卓に着き、特長ある美声で名文そのままの淀みない講義をされた。そして時折の板書以外には冗談はもとより、肩やすめの挿話一つなく、時間一杯に続けられたのであった。さうした講演がずっと後年まで継続され、これを集成し、推敲して公にされたのが『東洋史統』である」と記している(「早稲田史学の伝統」『人文科学研究』昭和二十九年十月発行第一五号 八五頁)。畢生の大著である『東洋史統』全四巻誕生の一面をも伝える記述であるが、本書の第四巻は市村の没後、高弟の栗原朋信の献身的な尽力により、また市古宙三(現中央大学教授)の協力をも得て刊行され全巻の完結を見ることができたのである。その他の著書には『東洋史要』『支那論集』『文教論集』などがあり、未刊行のものとして『支那歴代思潮』『清朝建国史考』などがある。定金の描写した市村の長髯については、市村自ら、「二十九の時です。余り年が若いから支那に行ったら軽んぜられるといふので、支那通の人が、少し年を取つて見えるやうにして行き給へ、それには鬚を生して行け、その鬚の講釈に、頤鬚は四十以後の人が生やす、それでこの鬚を生やしさへすれば若くは見えないといふ、その言葉に従つて生やしたのがこの鬚なんだ。今まで残つて居る」とその由来について述べている(『文芸春秋』昭和十四年一月発行第一七巻第二号 六八頁)。市村の状貌が彷彿としてくるが、定金はまた、市村が「謝恩会その他の新睦的な会合によくおつとめになり、何時も打ちとけて愉快に談笑せられ、親切で人間味ゆたかな好々爺的半面を吝みなく示されたことを床しく懐いおこ」している(『人文科学研究』第一五号 八五頁)。市村の学風は前掲の諸著作から窺われるように厳密な考証学に基礎を置くものであったが、それはその門下に伝えられ、更には東洋史学専攻の背骨を成して今日に及んでいるものと見て誤りない。その市村の高弟の一人である橋本増吉は、明治四十一年東京帝国大学文科大学史学科を卒業すると同時に学苑に招かれて、以往四十四年にかけて、また大正三年から六年にかけて都合六年間を講師として務め、漢代史・南北朝史を講じた。橋本の講義を聴講した定金は、「東大出の書生気質がまだぬけきらぬ若々しさ、小柄ながら満身これ精力と言ったはりきりかた、こぼれるような笑顔で、いとも懇切に講義せられた」ことを回憶している(同誌同号八六頁)。橋本はのち慶応義塾大学に招ぜられ、その東洋史学の柱石となる。この橋本に後れること一年にして学苑に招かれた高桑駒吉(明治三十二年東京帝国大学文科大学史学科卒)は、明治四十二年から四十四年にかけ、また大正三年から四年にかけて学苑に講師となり、蒙古史および東南アジアを中心としたアジア史を「長身瘦軀に無雑作に和服を着け、幕末の志士を思わせる風格」をもって講じていたという(同誌同号 八六頁)。ところで、「学余文を草し酔後詩を吟ず、窮措大の風、人或は目するに狂を以てす、ゆめゆめ孔子の所謂狂者進取の狂にあらずと知るべし、東京専門学校、哲学館〔東洋大学の前身〕に講師たるの外、常職なし」(『太陽』明治二十九年二月五日発行第二巻第三号 八四頁)と自身の境涯を記しているのは、藤田豊八である。思うに、藤田の師である市村瓚次郎が「博士は風流文士の面影あり、固より他日史界の重鎮たらんとは予期せざりき」(藤田豊八『東西交渉史の研究』南海篇 序一頁)と感受したのはこの前後のことであったのであろう。明治二十八年東京大学文科大学漢文科卒業と同時に学苑講師に招かれた藤田は、しかし三十年春にこれを辞して清国に赴き、馬建忠とともに新聞事業の経営に当たったのをはじめ、羅振玉の幕友に聘せられ、殊に「羅氏の教育事業にして博士の計画したるもの多く、博士はまた羅氏によりて学問上の啓発をうけたこと少なくない」といわれ(小柳司気太「文学博士藤田豊八君略伝」同前書、六―八頁)、後年辛亥革命が起ったとき藤田が羅振玉一家を日本に避難させるのに尽力するほどの親密な関係が培われたのである。なかでも、三十一年に羅振玉が上海に開設した東文学社に田岡嶺雲とともに教習として参画して王国維の指導に当ったこと、それに三十四年羅振玉が両広総督の岑春煊に招かれた際にもその教育顧問となり、同年末に留日学生三十余人を帯同して帰国したことなど、清末の教育近代化に関与した足跡が特筆される。そうして藤田は大正十三年再び学苑に招かれるわけであるが、それは、帰国後の藤田が「その全力を東洋史の研鑽に傾注するに至」り、それも「博士の炯眼は時人の未だ多く着手せざる南海方面に向けられ」たことに従い、また西域史の研究と相俟って「博士の盛名はまた隆々として学界に起」ったのに接した市村瓚次郎が、「余もまたその初期時代と全然趣を異にせるを知り……博士を早稲田大学史学科の教授に推薦した」のに縁由したものである(同前書 序三頁)。定金に「講師室や親睦会では、その軽妙磊落な座談に酔わされるのが常であった」と評せしめた藤田は、「奔放な民間詩人的前半生が遺した野人的風格は寧ろ早稲田向きで、謹厳な市村先生とは好対称をなしていた」のではあった(『人文科学研究』第一五号 九六―九七頁)。藤田は学苑に復帰はしたものの、台北帝国大学に文政学部長にと懇請され、ために昭和三年三月を以て学苑を辞さなければならなかった。西域史・南海史の講義と研究はしかし、板橋倫行(昭和三―十八年在職)、白井長助(昭和八―十四年在職)、松田寿男(昭和二十年―四十九年三月在職)、長沢和俊等に承継され、その学統は守られている。藤田の他界後、その高弟である松田寿男の編集に係わって刊行された『東西交渉史の研究』西域篇・南海篇の二大冊は斯学の先駆的業績として不抜の地歩を保つものである。

 ところで、東洋史専攻の前史のなかでこの藤田豊八が迎えられた大正十三年は一つの画期として注目に値するように思われる。その前年度は清水泰次が明史を、市村瓚次郎が「支那思想史」を講ずるばかりであったものが、清水が「洋行」して不在ではあったが、東洋史特殊講義として藤田が東西海上交通史と西域史を、市村が両晋南北朝通史と歴代思潮を、津田左右吉が東洋史演習(日韓交通史)をそれぞれ担当し、講義内容の多様化と専門化が進められるとともに演習が充実されるなど、東洋史学が教育制度面で飛躍的に整備されているからである。言うまでもなく、これは史学科全般の整備に伴うものであり、それはまた史学科の三分科制採用のための布石でもあったといえる。こうした東洋史学専攻前史の終曲を告げたのが、昭和七年の東洋史専攻の成立であったことは前述した如くであり、成立時の東洋史専攻の必修科目の配当は左に掲げる通りである。

第七十四表 文学部史学科東洋史専攻必修科目(昭和七年度)

 東洋史学専修の創始期の中核を担ったのは前述した市村瓚次郎はもとより、市村と形影相伴ったその高弟清水泰次である。清水は、明治四十五年に史学及英文学科を卒えると同時に市村の勧めで東京帝国大学文学部東洋史学科、同大学院に学び、大正九年その業を畢えるとともに学苑講師に嘱任された。清水は当時研究の処女地であった明代社会経済史を字義通りの開拓に貢献した。その研鑽の結晶である『中国近世社会経済史』と、没後山根幸夫の編纂の労のもとに公刊された『明代土地制度史研究』は、広く明代史研究の原点の意義をも含んで不動の業績であるといえよう。かかる清水の明代史の開拓にとって顧炎武の『日知録』がその「杖」ともなっていたことから、昭和九年の蘇州農村実態調査の折には崑山にまで足を延ばして顧炎武の墓に詣で、祭祀をいとなんで、「私は、課せられていた自分の任務を一つ果たした」と洩らしていたという。清水はこの調査を含めて前後八回に亘って中国調査旅行を遂げ、李大釗・孫文・陳烱明・溥儀・孔子の裔孫などと親しく面晤するなどのことがあった(栗原朋信「清水泰次先生小伝」『清水博士追悼記念明代史論叢』三―四頁)。「とにかく律義で正直なことは定評があり、野人で、枯淡で、孤独で……人間らしい面白味を感じさせなかった人といえるかも知れない」が、「明治の学者の最後を飾った一人だ」とは、松田寿男の回想するところである。更に松田の回顧によれば、常に「清水さんはズックの小学生のカバンを肩から下げて」いて、その「ズックのカバンには、広告の紙の裏を使った講義案と書き抜きの紙がいっぱいつまっていた」と伝えられ、学究としてかくあるべき一個の姿勢が彷彿とする(「清水先生とカバン」『早稲田学報』昭和四十八年十一月発行第八三七号 一七頁)。清水のカバンは皮革製であったという説もあるが、それはともかく、こうした明代史の学究としての清水は一面、時事問題にも夙に関心を寄せ、殊に中国をとりまく国際関係、思想・社会問題などに関する識見を新聞・雑誌などに随時発表していたことも忘れてはなるまい。こうした側面と密接してのことだろうと思われるが、「イギリスに行かれて、議会を傍聴して、マクドナルドか誰かの演説を聞いた」ことを清水が「生涯の誇り」としていた、とは栗原朋信の回想するところである(『史観』第一〇〇冊一五七頁)。

 その栗原は東洋史専攻の最初の学生の一人であり、その回顧によってみれば、昭和五年の専攻科の「東洋史は一人でした。一人ですから、演習のときには先生のお宅にうかがって、応接間で指導を受けたと聞いております。それからその次が三人。私達の時は満州事変が勃発していたのですが、いきなり五人が進学したので、清水、市村両先生が『これは将来東洋史が盛になる吉兆だ』と言われて、私達に御馳走してくれました」(『史観』第一〇〇冊一五〇頁)というような情景は東洋史専攻の出帆を如何にも象徴的に伝える挿話の一つである。こうして解纜した東洋史専攻にあっては、昭和八年以降、市村瓚次郎が「支那古代史」(のち東洋古代史)、東洋史演習を、板橋倫行が隋唐史(のち東洋中世史)を、清水泰次が「支那制度史」、明史(のち東洋近世史)を、白井長助が西域史を、また東洋史概論を市村、のち清水がそれぞれ担当し、白井が「満州建国大学」に転出した昭和十五年には清水が西域史を講ずるなどのことがあった。昭和十六年には新たに東洋現代史が設けられ、出石誠彦(大正十二年文学部史学科卒)が担当したが、翌年物故されたため柴三九男(昭和十七年―二十六年在職)に代っている。なかんずく注目されるのは昭和十八年であろう。東洋史専攻をその前史から双肩に担い尽瘁してきた市村が退職し、東洋史専攻の第一回生である栗原朋信が講師陣に参加したことが、東洋史専攻が市村の腕子から「離陸」したことを意味するからである。東洋史専攻の航路は、対中国、米英戦争という波濤に揺れ動くなかで操舵され、十九年十月には学則の変更に伴って専攻が廃止されるといった事態に見舞われもしたが、その間にあっても学統は死守されたのである。そして敗戦後、昭和二十四年に学苑は新制大学として再発足することになるが、旧制度最期の東洋史専攻の必修科目の配当を掲げれば次の如くである。

第七十五表 文学部史学科東洋史学専攻必修科目(昭和二十三年度)

 新制大学の発足はまた、文学部に第二文学部の開設を伴い、東洋史専修もこれに併置された。第二文学部の東洋史専攻は昭和四十四年に東洋文化専修に改編されるが、第一・第二文学部に学ぶ専修学生は、他専修と同様に漸次著しい増加を示して行っている。一方、昭和二十七年には新制大学院に史学専攻の修士課程が、翌々年博士課程が設けられ、これに東洋史専修が置かれることにより、研究者の養成も堅実に行われて行く道が確保されたのである。松田寿男(昭和三年東京帝国大学文学部東洋史学科卒)が学苑に招ぜられたのは、この大学院史学専攻の開設のためでもあった。この大学院開設に向けた人事は当初、山梨大学教授の浜口重国を以て申請していたことが『大学院文学研究科史学専攻増設申請参考』によって知られるが、事情あって松田に代ったのである。松田を迎えて新たな陣容を整えた東洋史専修の専修科目配当は次の如くであり、昭和三十二年度から根本誠が担当する史籍講読が第二学年に課せられたこと、三十五年に清水の退職に伴って山根幸夫(現東京女子大学教授)が東洋最近世史を、井上晃が東洋中世史をそれぞれ担当、三十八年に根本誠が小杉一雄に代って特殊研究(一)を、また新制大学院第一期生の古賀登が史籍講読を担当するといった異動はみられるものの、四十二年度まではこの科目配当が踏襲されて行ったのである。

第七十六表 第一文学部史学科東洋史専攻必修科目(昭和二十七年度)

 こうして新たに抜錨した東洋史専攻に向けて、根本は

早稲田大学はすでに一つの綜合された世界である。あらゆる学問的研究が行われ、歴史の分野でも深い研究がなされ津田史学、西村史学などとよばれている。これらは偉大な成果を創り出している。だが歴史そのものは発展的なものであるから、これらの史学のなしたものをさえのり越えるということは学問の世界においてあり得ることである。そしてそれは意義深いことである。これは東洋史についてもいえる。方法論的考証や解釈のすぐれたものをもつ時代にそくした新しい立場というものが求められねばならない。法学において法社会学が生れたように歴史の分野でも現実社会をそのまま歴史理論にむすびつけたような社会史的なものに、なお新しい研究分野が残されている。このような面で伝統と先輩をのり越えて行くことが若い学徒の一つの研究態度であろう。先人の労作はさまざまな利益を我々にもたらす。

と、「先人をのり越えろ」と獅子吼していたのである(『早稲田大学新聞』昭和二十八年五月十一日号)。そして略々着実な発展一途の足跡を刻んで行った東洋史専修ではあったが、危機と呼び得るものがあったとすれば、敗戦直後東京文理科大学の教授を兼ねた清水が、その後の規則改正で兼任教授の制度が廃されたため、学苑には講師として出講することを余儀なくされた昭和二十二年から二十六年に至る時期に過ぎるものはなかったであろう。このとき孤軍奮闘してこれを堅守し、その後の発展の礎石を築いたのは栗原朋信であった。栗原は市村瓚次郎の衣鉢を継ぎ、中国古代政治史、上代日中関係史などに犀利な史眼を以て新生面を開拓し、中華世界秩序としての冊封体制の構造とその展開の諸相を剔抉した業績は、ハーヴァード大学(Harvard Univ.)のJ・K・フェアバンク(Fairbank, J. K.)教授からも高い評価を受け、その編著Chinese World Orderにも紹介されて世界的に注目されている。五十四年九月、定年を半歳後に控えて病没されたが、その『秦漢史の研究』『上代日本対外関係史の研究』は永く斯学を牽引するものであろうこと疑いを容れない。また根本誠(昭和八年文学部史学科卒)は、中国法制史・思想史を中心に古代から現代に及ぶ旺盛な研究の軌跡を『上代支那法制の研究―刑事篇・行政篇』『専制社会における抵抗精神』『中国伝統社会とその法思想』などの著作に残した。四十六年、創価大学に理事兼文学部長として迎えられることとなり、惜しまれながら学苑を後にしたのである。東西交渉史を中心に「シナ史を超え」るべきアジア史を講じた松田寿男は、文献研究はもとより、四十五年学苑に組織された西南アジア学術調査委員会の委員長に推され、パキスタン、アフガニスタン、イラン各地を踏破して多大の成果を収めた。著書には『古代天山の歴史地理学的研究』『丹生の研究』をはじめ、啓蒙的著作などにも亘って多くを数える。

 こうした諸先学の尽力によって安定した東洋史学専修は、前述の如く根本が四十六年に、松田が四十九年に退職し、栗原が五十四年に他界したことから新旧の世代交代が急速に訪れ、現在に及んでいるのである。

 現在の専任教員の陣容はとみれば、中国古代史、日本神話専攻の古賀登教授(昭和二十七年第一文学部卒)、中央アジア史専攻の長沢和俊教授(昭和二十六年第二文学部卒)、中国古代政治思想史専攻の福井重雅教授(昭和三十三年第一文学部卒)、モンゴル史専攻の吉田順一教授(昭和三十九年政治経済学部卒)、それに中国中世史、近代東アジア国際関係史専攻の細野浩二教授(昭和四十一年第一文学部卒)、宋代政治思想史専攻の近藤一成専任講師(昭和四十四年第一文学部卒)からなっている。この他に政治経済学部教授の安藤彦太郎、社会科学研究所教授の増田与、本専修出身で東海大学教授の藤家禮之助、同じく本専修出身の宮田節子、東京女子大学教授の山根幸夫等が講師として臨んでいる。

 一方、東洋史専修の卒業生に眼を転ずれば、中・高等教育機関、牛山純一をはじめとするマスコミ関係や出版関係、その他広範の分野で活躍している。また大学院には台湾・韓国・香港などからの留学生も少なくなく、現在韓国の成均館大学校教授である金在満(昭和三十四年修了)はその出身者の一人であり、日本の旧植民地であった朝鮮からの「内地留学」組の一人の厳永植(昭和八年修了)は、慶熙大学校の史学科教授に任じている。

 胡適は、「日本のやっていることは皆外国の受売りではないか。西洋の受売り、焼直しばかりをやっている日本にわざわざ学問しに行く位なら、むしろ本家本元へ行った方がよい」と信じていた一人であったが、その胡適をしてしかし、「その後絶えず日本を研究して見ると、日本は必ずしも西洋の学問の焼直しばかりやっていないことを発見した」といわしめるに及ばしめた。それは、「殊に自分の国でやるべきである東洋史の如きは日本人の研究を俟たなければ到底正確な歴史は学び得ない」というように日本の東洋史学の業績であったのである。これは、戦前日本における東洋史学が到達した研究水準の所在を伝える一挿話である。こうした評価は今日からするとき全く問題を含まないとはいえないが、事実上自他ともに許すところでもあったわけであるが、「然し最近三十年の間に、日本に発達した東洋史学が、何時々々迄も日本に花を持たせて置く事が出来るか何うかは、多少の不安がないでもありません」という懸念を呈したのは清水泰次であった。それは他でもなく「支那に起りつゝある支那史学」に対する顧慮であり、「支那がまだ西洋流の史学を採用しないから」「昔栄えた此学問は今日は非常に衰へている様であるが、……若し彼等にして、一朝志を立てゝ学問をしたならば、吾々よりも遥かに有利な立場に置かれている事を思うと安心している訳にはいかない」という自戒の念であった。喩えば、「英の村落制度を始めて研究したのは、独逸のマウエルである。ギルドを研究したのも独逸のブレンタノである。然るに英国にメイン、シーボーンが続いて出ると、マウエルの研究等は光を失つて了う。スミスのギルドの研究が発表せられゝば、ブレンタノの価値は失せて終」ったからである。ために、清水は、日本の東洋史学研究も「余程の努力をしないと、折角やり掛けた仕事を何もならなくして了うかも知れ」ず、かかる「不安を打消すだけの努力奮発をしたい希望も起るのであ」る、と将来の東洋史学研究の指針を明らかにしていた(『早稲田学報』大正十五年四月発行第三七四号 三一―三二頁)のである。こうした「努力奮発」は、学部・大学院を通して東洋史学専修の基調として今日にあってもなお脈打っていることは言うまでもない。

十八 西洋史学専攻

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1 草創期の早稲田と西洋史学

 早稲田で西洋史が講じられた歴史は古い。既に明治十五年に東京専門学校が開校した時から、希臘史、羅馬史、欧米州近世史などの科目が設けられていた。翌十六年からこれらの科目を講義したのは坪内雄蔵(逍遙)である。次いで、明治二十三年に文学部の前身である文学科が新設されると、ここにも上古史、中世史、近世列国史などの科目が置かれ、下山寛一郎、斎藤阿具などの講師が担当した。尤も、この時代には概説的講義や英書講読が行われていたに過ぎないし、講師も専門の西洋史家ではなかった。しかし当時の西洋史学は、西洋文化の摂取に必要な知識、西洋文化の研究者が常識として心得るべきものとみなされていたに過ぎないから、それもまた当然であったとも言えよう。

2 史学科の創設とその変遷

 このような状態にあって、明治三十年に浮田和民が京都同志社から招かれ、西洋史関係の講座を担当したことは特筆すべきことであった。この時学苑に初めて専門の講師による西洋史の講座が開かれたからである。また翌三十一年には、彼と、国史の内田銀蔵、東洋史の中村徳五郎などによって、文学科内に史学科が誕生した。この史学科の設置は、私学では最も古く、また官学を含めても、この前後に地理歴史専修科の設置をみる高等師範や女高師とともに、東京帝国大学のそれに次いで早いものであった。

 けれどもこの史学科は、教員養成を主とするものであったから、翌年には早くも史学及英文学科に改編され、次いで明治三十五年に廃止されて、高等師範部(のち師範科)の歴史地理科に受け継がれた。またその後、明治四十一年に学部の文学科に再び史学科が置かれたが、これも三年後には廃されて、高等師範部の英語及歴史科となり、次いで大正二年に学部の史学及社会学科に改編されるという運命を辿った。このように西洋史専攻の母体である史学科は幾多の試行錯誤を重ねながら目まぐるしく変化を遂げたが、この間西洋史の教育と研究が一貫して続けられてきたことは言うまでもない。

3 西洋史専攻の誕生

 大正八年文学科内の学科が大きく改革され、史学科が独立するとともに、それが国史、東洋史、西洋史の三専攻に分かれた。次いで翌九年、新大学令の施行に伴い文学科は文学部として新しい歩みを始めたが、西洋史もその一専攻として新たな出発をした。今日に至る西洋史専攻の歴史が始まったのはこの時である。

 発足後二、三年してほぼ定着をみた専門科目とその担任者を大正十四年のそれを例に表示すると次のようである。

第七十七表 文学部史学科専門科目および担当者(大正十四年度)

(第一学年は史学科共通、第二学年から専攻に分かれる。なお、これらの専門科目は題目と担当者に若干の変更があるが、昭和六年まで変わらない。)

この表からも分かるように、当時の西洋史専攻の学生は、西洋の史学研究を中心としながらも、国史、東洋史などをも含めて歴史学一般に亘る知識を学んだのであり、決して西洋史のみを学んだのではなかった。またその中心となる西洋史の研究も、結局は啓蒙的意義の殻からあまり脱していなかったと言える。

 しかしその反面、発足した当座は学生数が少く、西洋史を専攻する者は毎年僅かに一、二名で、教師の数の方が多かった。これは今日のマスプロ教育から考えるとまるで夢のような恵まれた状態である。それに授業も専攻の別なく史学科学生全体に対する合併授業が行われた。しかも、当時、国史・東洋史を講じていたのは、津田左右吉、市村瓚次郎、西村真次などの優れた諸教授である。そのため西洋史の学生であっても専攻外の諸教授や学生に親しく接し、広く歴史学全般について学ぶことができるという恵まれた環境にあったのである。

4 専攻の基礎を築いた教授達

 大正八年西洋史専攻が独立した頃、教授陣は、浮田和民煙山専太郎、原随園、野々村戒三、定金右源二の諸教授であった(これに後から国際法・国際政治の信夫淳平、経済史の平沼淑郎、外交史の小島幸治が講師として加わる)。これらの諸教授は原を除けばすべてほぼ太平洋戦争の混乱期までその職にあった。西洋史専攻の基礎を築いたのはこれらの人々である。そこで次にその略歴と業績を簡単に記しておこう。

 先ずその中心となったのは浮田であるが、彼は先にも述べたように明治三十年に学苑に迎えられ、昭和十六年に八十三歳で勇退するまで四十四年に亘って文学部と政治経済学部で西洋史を講じた。文学部での担当科目は古代史から近代史に亘るが、中心は政治史にあり、欧米の名著を読破し、それを独自の史眼で採択しつつ学生に歴史研究の本質を説いたという。またその学識と識見は教室での講義を通じて学生を啓蒙したばかりでなく、『史学概論』『西洋上古史』『西洋中古史』などを講義録として出し、後にこれらを単行本として公刊して、清新の学風と新知識を広く一般の人々にも提供した。更には彼が雑誌『太陽』の主筆として政治、外交、教育、社会などの諸問題に健筆を揮ったことも忘れることができない。

 浮田とともに早稲田の西洋史研究の基礎を置いたのは煙山専太郎である。彼は明治三十五年に東京帝大の哲学科を卒業後間もなく学苑に迎えられ、戦争中に退職するまで文学部と政治経済学部で五十年近く近世史、最近世史などを講じて学生の指導に当たり、またその傍ら研究と著作に没頭した。その成果は、セニョーボス『文明史』等の翻訳や、『西洋近世史』(大正五年)、『西洋最近世史』(大正十一年増補)、『英国現代史』(昭和五年)、『続英国現代史』(昭和十一年)、『世界大勢史』(昭和十九年、二十五年増補)などの多数の著作として残されている。なかでも『西洋最近世史』はウィーン会議から第一次大戦までの諸国家の状勢、諸民族の盛衰、社会の変遷などを説いた大著であり、戦争中に書かれた『世界大勢史』は小冊子ながら彼の研究成果を集約したものと言うことができる。

 また、原随園、野々村戒三は、共にランケ門下のリースに学んだ東京帝大の西洋史学科出身者で、西洋史専攻が誕生する前後の時期に学苑に招かれ、ランケ史学の学風を早稲田に伝えた。尤も、原は大正十年から四年間史学概論と近世史を講じたに過ぎない。しかし野々村は大正十一年から昭和二十年終戦直前に退職するまで二十五年のあいだ、中世史、基督教史、史学概論などの講座を担当して、若い学徒に新たな史学研究法を植えつけた。その著書、論文はきわめて多いが、『史学概論』(昭和四年、のち『史学要論』に改訂)などの史学研究法に関するもの、『基督教史の研究』(大正十年)、『基督教思想十講』(同十三年)、『パウロ研究』(同十四年)などキリスト教史に関するもののほか、ギボンの名著『ローマ衰亡史』の翻訳、更には能楽と狂言に関する優れた多くの歴史研究がある。

 なお戦後の再建期まで引き続きその職にあった定金については後に述べるが、要するにこれらの諸教授とともに西洋史専攻の基礎が確立し、次いでその発展期を迎えることとなるのである。

5 専攻の整備とその発展

 事実、昭和に入ると、独立した専門分野としての西洋史学の認識が高まる一方、専攻する学生の数も次第に増加し始めた。それでも一学年、四、五名で、三学年併わせても十数名程度であったが、昭和六年には四階建ての文学部校舎が新築され、翌七年にはカリキュラムが改訂されて、専攻の体制が著しく整備された。それはこの時改訂された次のような専門科目配当表からも十分に窺えよう。

第七十八表 文学部史学科西洋史専攻専門科目および担当者(昭和七年度)

 右は必修専門科目のみで、この外に三年間で必修すべき教養諸科目、史学概論(野々村)、考古学概論(西村)、西洋美術史(坂崎)、言語学(金田一)など合計十五科目が置かれていた。なお右の専門科目は題目と担当者にかなり変更があるが、その大筋は昭和十一年まで変わらない。

 更に昭和十二年になると、専門科目の配当は次のように改訂された。

第七十九表 文学部史学科西洋史専攻専門科目および担当者(昭和十二年度)

 このカリキュラムは科目名や担当者に若干の変更があるものの終戦直後まで続いたものであって、ここに専攻としての体制が一応完成をみたと言ってよい。

6 戦争中の混乱期

 しかし、その後戦争が開始され、更にそれが激化すると、学生のうちには応召する者が少くなかったし、教授講師の退職が相次いだ。昭和十六年には西洋史発足以来常に教授陣の中心をなしてきた浮田が退職し、また終戦の年には、煙山、野々村の両教授が相次いで退職した。そのため教授は定金が一人残り、学生も激減したうえ、学徒動員に駆り出されて、教育も研究活動も殆ど行えないという寥々たる状態を迎えるに至った。こうして西洋史の歴史は、混乱のうちにその第一期とも言うべき時期を終わる。

7 戦後の復興

 戦争中の混乱から立ち直り、陣容が再建されたのは終戦後間もなくの数年間である。特に昭和二十四年の四年制新制大学発足以後は、他の専攻と同じく西洋史専攻の学生も著しく増加をみた。しかも、第一文学部のほか、新設された第二文学部の史学科にもかなりの数の学生が含まれていたから、西洋史を専攻する学生は両学部の四学年を合わせると百名以上にもなった。またこれに応じて教授陣や授業内容も次第に充実をみたことは言うまでもない。

 新たに発足した新制大学では、二―四年に専門科目が置かれカリキュラムの上でも大きな変化があった。両学部の西洋史関係の専門(専修)科目を列記すると次のようである。

第八十表 第一・第二文学部西洋史関係専門科目(昭和二十四年度)

第一文学部史学科西洋史専修

第二文学部史学専修

 その後これらの科目には学年配当や担当教員に若干の変更があったが、その大筋は昭和四十三年まで変わらなかった。またこの外に、多くの教養科目や第一―三学年に選択すべき共通専門科目として、史学概論、文化史概論、歴史地理学、史学発達史(以上一文)、欧米思想、史学概論、文化史概論、史学史、米国史、ギリシア・ローマ史、欧州史(以上二文)など多くの科目が置かれていた。しかし、戦前の啓蒙的性格をもつ西洋史学の教育は、以後急速に専門的なそれへと転換していったのである。

 これとともに、従来の大学院に代って新制の文科系大学院が発足し、昭和二十七年に史学専攻(修士課程)が設置され、その中に西洋史専攻が置かれたことも特筆すべきであろう。ここに専門的研究者養成のための制度の基礎が確立されたからである。それは更に二年後に博士課程が発足して完成されたが、発足当時のその科目編成は、歴史学原論、西洋文化史論、西洋史特論、文献研究、演習からなっていた。

 その後、第二文学部の史学科西洋史は昭和四十三年以後西洋哲学とともに西洋文化専攻として分離発展を遂げるが、一方第一文学部の西洋史も、三、四年の専攻課程の一つとなり、定員が六十名に増加され、それに伴ってカリキュラムがかなり大幅に改訂された。すなわち、専門科目として、第三学年に古代、中世の演習と古代、中世、近代の講義が、第四学年に近代、最近代の演習と近代史の講義および卒業論文が置かれ、演習と講義はそれぞれ二名の教員による並行授業が行われることとなり、この外に、史学概論、西洋史概論、西欧史ⅠⅡ、アメリカ史、史学発達史、歴史地理学、西洋考古学などが選択科目として置かれた。

 更に昭和五十三年から専門課程を第二学年に繰り下げる措置が採られるなど、その後も制度上かなりの変遷を遂げたが、これらの措置がいずれも専門的教育の強化充実を目的としたものであったことは言うまでもない。

8 戦後の再建・発展期の教授達

 ところで、戦後の混乱を脱して西洋史専攻の再建に努め、諸先学の打ち立てた伝統を受け継ぎつつ今日の発展を礎いたのは、定金右源二、十河佑貞、小林正之、鈴木成高、平田寛の諸教授であった。このうち定金は、先に述べたように大正九年の専攻発足当時から講師として加わり、戦中戦後の混乱期にも一人踏み止まって西洋史専攻を支えてきた功労者である。彼は明治四十五年に卒業した西洋史最初の学苑出身の教授で、大正六年に高等予科に教鞭を執って以来昭和三十三年に退職するまで、四十年以上ものあいだ学部と大学院で古代史のほか史学発達史、考古学、歴史地理学などを講じ、後進の育成に努めた。また彼は早くからメソポタミア、エジプトを中心とする研究に没頭し、古代オリエント史の全体的把握を目指した。学位論文『古代東方史の再建』(昭和三十年)は、古代東方諸国の遺跡発掘ならびに研究に関する欧米諸学者の業績を綜合し体系づけて、古代東方史研究の基礎づけを行わんとしたものであって、我が国におけるこの分野の先駆的業績として注目される。

 十河佑貞は大正十二年の西洋史出身で、早稲田中学、立教大学で教鞭を執ったのち昭和十四年に高等学院の講師として母校に復帰、同十九年から同四十三年に退職するまで二十四年間学部と大学院で近代史を講じ、多くの研究者の養成に努めた。その業績はフランス革命期における独仏関係の思想史的研究を中心にしており、著書に『フランス革命とドイツの思想』(昭和二十四年)、『フランス革命思想の研究』(昭和五十一年)がある。

 また昭和六年に西洋史を卒業、同二十年から五十二年に退職するまで三十二年間に亘って学部あるいは大学院で近・現代史を講じた小林正之は、早くからユダヤ史、ユダヤ人間題にその関心を集中し、著書に『ユダヤ人――その歴史像を求めて』(昭和五十一年)があるほか、訳書にヘイズ『近代民族主義史潮』(昭和十四年)、ヴェントウィッチ『再建のイスラエル』(昭和三十三年)などがある。

 更に、昭和二十九年から五十二年に退職するまで教授を務めた鈴木成高は、昭和四年に京都帝大を卒業後、第三高等学校、京都大学で教鞭を執ったのち学苑に迎えられ、学部で中世史と西洋史概論、大学院で文化史特論、演習などを担当して研究者の養成に当たった。彼には既に京都時代に『ランケと世界史学』(昭和十四年)、『ヨーロッパの成立』(同二十二年)、『封建社会の研究』(同二十三年)などの多くの著書があるが、学苑に移ってからは、文化史、精神史に関する研究論文を発表する傍ら、トインビー史学の紹介や文明批評に筆を揮った。

 また昭和十一年に西洋史専攻を卒業し、同二十一年に非常勤講師として教壇に立った平田寛は、以後五十六年に退職するまで三十五年間に亘って学部と大学院で西洋文化史、古代史を講じ、後進の指導に努めた。そしてその傍ら早くから科学史の研究を精力的に進め『科学の起原』(昭和四十九年)、『科学の考古学』(昭和五十四年)などの古代科学史に関する多くの著書や論文、ディールス『古代技術』(昭和十八年)、サートン『古代中世科学文化史』(昭和二十六―四十一年)をはじめとする多数の訳書を公にするなど、科学技術史の研究と普及に大きな業績を挙げた。

 この外、政治経済学部教授であった小松芳喬が一時、学部で中世経済史を、また大学院で長らく演習を担当したし、大学院では原随園、山中謙二が、学部では政治経済学部教授の増田富寿のほか、中西敬二郎、立川昭二などが暫く講師として授業を担当したことがある。

 またこの外、中世史の松崎功(在職昭和二十三―二十九年)、史学史の五十嵐久仁平(同三十四―五十三年)、古代史の川村喜一(同四十―五十三年)の在職中に亡くなった三教授の存在も忘れることができない。特に川村は、メソポタミア史の領域で優れた業績を挙げたばかりでなく、昭和四十六年以来早大古代エジプト調査隊長としてエジプトのマルカタ遺跡の発掘調査を行い、第十八王朝時代の彩色階段の発掘という大きな成果を挙げたことは特筆するに値しよう。

9 西洋史専攻の特色

 このように西洋史専攻の歴史は多くの人々によって育まれ発展をみたのであるが、これを振返ってみると幾つかの特色をあげることができよう。

 その第一は、学問に対する徹底したリベラルな態度である。これは今から百年前に大隈を中心に学苑が開かれて以来の伝統であるが、それはまさに我が西洋史の伝統でもある。時代の要請に対する敏感ではあるが冷静な対応、政治的、思想的、社会的に権威的・時流的な風潮に対する批判的、抵抗的態度、これらは戦前戦後を通じて変わることのない特色の一つであると言ってよい。

 第二には、西洋史創設以来培われてきた西洋史を綜合的に把握せんとする態度である。専攻の基礎づけを行った浮田、煙山は優れた世界史家でもあった。勿論、西洋史学の発達に伴って研究の細分化、専門分化は避けることができない。しかし、世界史的視野の下での西洋史の全体的理解や各国の相互関係の追求、あるいは東西の比較研究は、早稲田の西洋史の一特色を成している。それは十河の独仏関係の思想史的研究、小林のユダヤ史研究にも反映されているし、更には近年ロシア史や東欧史や北欧史、日仏関係を研究する者が現われているところにも示されている。

 第三の特色は文化史への強い関心である。既に野々村によるキリスト教史の研究や、戦後の鈴木による文化史、精神史の研究を通じてヨーロッパ文化の究明がなされてきたし、また古くから定金によって開かれてきたオリエント文化史の研究は若くして世を去った川村によって継承され、あるいは平田による古代科学技術史の研究に受け継がれて今日に至っているが、文化史の研究も早稲田の西洋史の一特色であると言えよう。

10 西洋史専攻の現状と卒業生

 現在、第一文学部の西洋史専攻には、毎年六十名以上の学生が進級している。この外に第二文学部の西洋文化専攻にも西洋史を専攻する者が少くない。また、大学院には他大学の卒業生を含め毎年三―八名が進学している。そのため専門科目を担当する教員の数も多く、専任の教員として、ロシア史の山本俊朗、中世社会経済史の野崎直治、イギリス近・現代史の栄田卓弘、フランス近代史の安斎和雄、中世史の野口洋二(以上教授、学部と大学院を兼担)と、古代史の小林雅夫、ドイツ近代史の大内宏一(以上助教授)、北欧史の村井誠人、シュメール史の前田徹、ポーランド史の井内敏夫らの諸講師がいる。この外、大学院の演習と講義に教育学部教授の村岡哲が出講しているし、大学院、学部の幾つかの科目を、三浦一郎、中田一郎(以上大学院)、曾根暁彦、仲手川良雄、堀越孝一、近藤申一、植田覚、松井二郎、吉村作治、福田良子、今谷和徳などの諸講師が担当している。

 このように今日の西洋史学科は、学生数、教員数ともに著しい増加をみた。その規模は、恐らく我が国における大学の西洋史学科の中で最も大きいものであろう。大正、昭和を通じて、戦前戦中の状態に較べると実に隔世の感がある。

 この間西洋史を卒業した人々はかなりの数に上っている。かつての卒業生の中には、文学部の人類学を担当し昭和五十五年に退職した西村朝日太郎教授(昭和十四年卒)や、歴史地理学の中島健一教授(昭和十五年卒)も含まれ、卒業生の数は新制大学発足以後急激に増加した。これら卒業生のうちには、全国の大学、高等学校で教育、研究に貢献している者がきわめて多いが、このほか報道関係、出版関係、その他の分野で活躍している者も少くない。

十九 美術史・美術専攻

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 現在の第一文学部美術史専攻・第二文学部美術専攻が、それぞれ独立の専修となったのは昭和四十三年で、それまでは一・二文とも美術専修として演劇専修とともに芸術学専攻を形成していた。その限りでは本専攻の歴史は文学部諸専攻の中でも比較的に浅いといえる。しかしそれはあくまで制度上のことで、本専攻発祥の真の歴史は大正十五年に東洋美術史学・西洋美術史学の講座が文学科に開設された時に始まるのである。それ以前にも紀淑雄教授による「美術史」が大正初年から各科共通の選択科目として置かれていたが、十五年に会津八一(東洋)、坂崎坦(西洋)両講師を加えて、今日の専攻の事実上の基盤が据えられたのであった。

 殊に会津講師の講座の比重は重く、昭和六年同講師が教授に昇進するとともに、同教授の「寧楽時代史」(昭和十三年日本古代史となる)および「東洋美術史」は史学科の必修科目となったが、「西洋美術史」は選択科目に置かれたままであった。なお、当時会津教授指導による旧制大学院が置かれていた。このようにしてその後の本学における美術史学興隆の気運は、会津教授を中心として推進されて行ったのである。

 会津教授の教育者としての抱負は、当時官学独占の観があった美術史学研究の場を、本学の学生に与えることにあった。またその研究法としては、同教授の美術史的関心が当初にはギリシャ美術にあり、のちに飛鳥時代美術に移った経過に見られるように、日本美術史を大陸の側から見なおす立場をとることにあった。大正九年のギリシヤ学会創立、昭和五年の早稲田東洋美術史学会創立は、共に同教授の研究の軌跡を如実に示すものであった。また美術史の研究は実物と文献との両面から成すべしとする年来の主張から、私費を投じ三千余点の明器その他の資料を蒐集した。昭和九年その一切をあげて本学に寄附し、東洋美術陳列室を旧恩賜館に開設したのである。これらの事実は会津教授が如何に専攻の育成を畢生の事業として心血を注いできたかを物語るものにほかならない。

 かくして会津教授の早稲田美術史学興隆のための布石は着々として進められたが、昭和十三年に至り同教授を専攻主任として、美術史学および美学を内容とする芸術学専攻が、哲学科内に新設されるに至って、遂に同教授年来の努力は結実することになった。

 されば昭和十三年こそは名実ともに我が専修生誕の年として、記念すべき年と言うべきであろう。今日、本学が他のいかなる大学も持たない日・東・西各美術史の講座を具足していること、またこれも他に比類をみない東洋美術陳列室を有することは、すべて会津教授の功績によるものなのである。

 そののち大戦の影響は勿論本専攻にも及んだ。昭和十九年、学徒出陣による学生数の激減により、文学部の各専攻は解体され哲学・文学・史学の三専攻に要約されたが、本専攻も例外ではなかった。坂崎坦教授や美学の大西講師は退職し、哲学専攻には会津教授の日本・東洋美術史を残すのみとなった。更に二十年四月会津教授も辞任し、ここに本専攻の歴史は空白の一年を迎えた。

 終戦とともに、二十一年四月芸術学専攻は哲学科を去って文学部の中に再興することとなった。しかし美術史学単独ではなく、演劇学とともに芸術学専攻を形成し、名称を美術として再帰した坂崎坦教授が主任となった。

 昭和二十三年七月、新制大学の具体案を文部省に申請する際、本専攻は、第一文学部は文学科芸術学専攻となり、第二文学部は一文のように分科せず、翌年新制大学開設の運びとなった。この昭和二十四年度の教員の陣容は、坂崎坦(西洋美術史)、小杉一雄(東洋美術史)両教授、大西昇(美学)、安藤正輝(日本美術史)、児島喜久雄(東西美術研究)三講師。大学院の設置はこれにおくれ、昭和二十六年十月に発足したが、前記諸氏の他、矢崎美盛(芸術学)、田中一松(日本絵画史)、富永惣一(ギリシヤ美術)、田辺泰(建築史)講師など錚々たるメンバーであった。

 昭和三十一年十一月、会津八一名誉教授が亡くなられる前後に、安藤正輝(『鑑真和上伝の研究』)、小杉一雄(『中国美術史における伝統の研究』)両教授が文学博士号を受領。昭和三十二年には長年に亘って本専攻の隆盛に努力された坂崎教授が定年のため退職され、その後任として板垣鷹穂(西洋美術史)教授が迎えられた。そして昭和三十七年一月に、本部構内にあった文学校舎、旧四号館より戸山新校舎への移転が行われ、美術史研究室は三階の一角に移った。

 次いで昭和四十一年四月より文学部専攻別入試の廃止、Ⅰ類とⅡ類による各類別の入試が行われ、一文十八専攻、二文七専攻からなる新たな構想のもとに改革が行われた。この改革は教養課程二年、専門課程二年とする制度上の大改革であったが、この際に本専攻でも大幅な改革が進められ、一文は美術史学専攻、二文は美術専攻と称して専修名を異にすることとなった。

 専攻の名を異なるものとした理由は、一文を美術史学に重点をおき理論を重視するものとし、二文をデザイン・デッサン・印刷美術など、特に実技の面を強化しつつ美術の幅広い応用を図るものとしたところにあり、現在の本専攻が一文と二文の間において、演習科目、専門科目などの構成にかなりの差異があり、性格を異にするのはこの時の改革の理念が今日にまで及んでいるためである。

 この当時の教員の陣容は、板垣鷹穂(西洋美術史)、安藤正輝(日本美術史)、小杉一雄(東洋美術史)、青柳正広(美学)、大澤武雄(美術評論)の諸教授。講師としては熊谷宣夫(西域美術史)、摩寿意善郎(イタリア・ルネサンス美術史)、中川千咲(日本工芸史)、佐々木剛三(日本美術史)、吉村怜(東洋美術史)、高橋栄一(西洋美術史)らである。

 当時は学生運動が活発を極めたが、小杉一雄教授が第二文学部長に嘱任されたのはこの年の九月、在任二ヵ年であった。

 その後、昭和四十三年板垣鷹穂教授が定年のため退職され、澤柳大五郎教授が就任することとなった。なお翌四十四年、従来の「専修」が「専攻」に改められている。昭和四十五年十月には安藤正輝教授が、翌四十六年十一月には大澤武雄教授がいずれも在任中に逝去され、同年法学部より加藤諄教授(日本美術史)が本専攻に迎えられた。また昭和四十七年に青柳正広教授(昭和五十六年四月逝去)、昭和五十二年に加藤諄教授、昭和五十四年に小杉一雄教授、昭和五十七年に澤柳大五郎教授、太田静六教授が定年のため退職された。

 現在の講義担当者は、専任教員として、佐々木剛三(日本美術史―中世絵画)、吉村怜(東洋美術史―中国仏教美術)、高橋栄一(西洋美術史―中世)、濱谷勝也(西洋美術史―ルネサンス)、星山晋也(日本美術史―絵画史)、大橋一章(日本美術史―上代彫刻)教授。大島清次客員教授、丹尾安典(西洋美術史―近代)助教授、また講師陣には西川新次(日本美術史―仏教彫刻)、戸田禎佑(東洋美術史―中国絵画史)、河野元昭(日本美術史―近世絵画)、名取四郎(西洋美術史―中世)、高見堅志郎(西洋美術史―近代)、中山典夫(西洋美術史―古代)、近藤秀実(中国絵画史)、奥村秀雄(日本美術史―工芸)、谷田博幸(芸術学)、土居淑子(東洋美術史―古代)、肥田路美(東洋美術史)、益田祐作(印刷美術論)、井口啓(デッサン)、酒井道夫(広告)、秋山光文(東洋美術史―インド美術)の諸氏を擁し、他大学に比べて多彩豊富な教授内容を誇っている。

 本専攻では昭和初年以来毎年奈良・京都への研修旅行を行い、実地での教育活動を行うのが恒例となっているが、最近では海外にある史跡や博物館などに対する現地調査が活発に行われており、大学院生・学部学生を含めての研究分野も従来にない幅広いものとなってきている。

 卒業生は現在、千数百名に及んでいる。その活躍もまた社会のあらゆる分野に亘っている。博物館・美術館のような専門機関をはじめ、大学・高校・中学校などの教育関係、放送・新聞などの報道関係、広告・編集などの出版関係、評論家・画家・写真家・デザイナーなどの美術に関する諸分野で目覚ましい成果を挙げている。

二十 比較文学研究室

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 「比較文学」は江湖の甚だしい誤解を招き続けてきた。この呼称は現在、世界的に定着しているので、おいそれと別称を用いるわけにはいかないのであるが、一般に解されているように、単なる二文学の比較学を意味するものではなく、一八二〇年代から世紀末にかけて英独仏三国で若干ニュアンスを異にしつつ成立した、国際的・学際的な巨視的文学研究をさす。

 この新しい学問の見地を、英人H・M・ポズネットの『比較文学』に依拠して最初に日本に導入したのがほかならぬ坪内逍遙(雄蔵)であり、彼はこれを、草創期の東京専門学校文科で、「比照文学」の名称のもとに講じていた。そのほか彼は、『八犬伝』と『仙女王』、『西遊記』と『天路歴程』のような東西の二文学を「兄弟文学」として対比したり、百合若伝説をユリシーズの転化とするかの有名な仮説を立てるなどして、日本の斯学の創始者となった。彼によって創設(明治二十三年九月)された東京専門学校文科の綱領に、「和漢洋三文学の形式と精神の調和」が声高に謳われているのはけだし当然と言えよう。

 開設当初、国文学、漢文学、英文学の三専攻であったものが、現在の早稲田大学第一文学部では、専攻数十九、その発展ぶりはまさに瞠目すべきものがあるが、こうした時流の要請による学問各分野の専門化・細分化とともに、本大学には逍遙以来常に一貫して、巨視的・綜合的な学問的見地重視の根強い伝統があった。極微化した専門的研究の学際的視野による修正乃至補正がかまびすしく云々され始めた昨今の学界の動向を、本大学の文学研究態勢は、その当初から既に先取りしていたといっても過言ではないのである。

 逍遙の巨視的文学研究の学統を守り、実質的な意味で早稲田を比較文学の牙城たらしめたのは、『世界文芸大辞典』監修の吉江孤雁(喬松)、『明治文学史』の本間久雄、『明治大正詩史』の日夏耿之介(樋口圀登)、『明治初期の翻訳文学』の柳田泉、『日米文学交流史の研究』の木村毅らであって、そのいずれ劣らぬ並はずれた博識・識見は、つとに喧伝され、今更ここに喋々するまでもないであろう。そして、彼らを巡る広義の比較文学者達、金子筑水(馬治)、島村抱月(滝太郎)、津田左右吉会津八一(秋艸道人)、片上天弦(伸)、土岐善麿、青野季吉、平林初之輔、宮島新三郎、西条八十、山内義雄、佐藤輝夫、岡沢秀虎、斉藤一寛、岡一男、根津憲三、村上菊一郎、鈴木幸夫らや、『紅毛文化史話』の岡村千曳、『中国人日本留学史稿』の実藤恵秀、『近代日本文学論』の川副国基らの名前も逸することができない。

 しかし個々の業績を離れて、本大学のなかに綜合的な文学研究の機関を設置しようとする組織的な試みの面からすると、その先達の筆頭は吉江喬松であり、谷崎精二を経て、佐藤輝夫に至る。

 吉江は、大正九年、フランスから帰ると文学部に仏蘭西文学科を創設、ロシア留学から帰って露西亜文学科を創設した片上伸と名コンビを組んで、早稲田の杜に文学研究の新風をもたらした。昭和六年にその博士論文『仏蘭西古典劇研究』の筆を擱くや、本格的な世界文芸の研究に着手、教室でポール・ヴァン・チーゲムの『比較文学』などの理論書を購読する一方、若い教員や学徒を集めて「文芸学研究会」を発足させ、本比較文学研究室創設の事実上の第一歩を踏み出したのであった。中央公論社の創立五十周年を記念して刊行された前記『世界文芸大辞典』七巻は、このグループを中心に、当時の日本の学界の主力の殆どすべてを執筆陣として網羅結集し、吉江の組織力・統率力の非凡さを遺憾なく示している。

 第二次世界大戦の空白期を経て、戦後は荒廃した教育・研究条件の改善のための悪戦苦闘のうちに推移し、その間、第一文学部長谷崎精二らの綜合世界文芸研究室創設の構想もあったが、単に共同研究の機運を醸成したに留まる。

 次いで、吉江の世界文学的発想と共同研究態勢を名実ともに受け継いだ佐藤輝夫の八面六臂の活躍がくる。彼は昭和二十四年、第二文学部の創設を主宰して初代学部長に就任し、博士論文『ヴィヨン詩研究』を完成、昭和二十九年度には本大学大学院文学研究科に「比較文学」の講座を設置して自ら担当し、同年文学研究科委員長、大学理事を兼任、日本フランス文学会でも副会長として重きを成した。彼の学位論文は、のちに『ローランの歌と平家物語』『トリスタン伝説』と合わせて、フランス中世文学研究の浩瀚な三部作となるが、彼が早稲田に残したもう一つの大きな足跡、本比較文学研究室の創設を忘れることはできない。

 「早稲田大学比較文学研究室」は、昭和三十七年十月、佐藤の主唱のもとに、先ず「早稲田大学比較文学研究グループ」として発足、半年後、文学部教員図書室の一角に研究室を得て、現在の名称を定着させた。当時の運営委員は、佐藤(委員長兼室長)のほか、岡一男、鈴木幸夫、山崎八郎、黒田辰男、飯島正、安藤更生(正輝)、岩崎務、平田寛の八名、研究員は稲垣達郎、大野実之助、中村英雄、新谷敬三郎、五十風久仁平、河竹登志夫(俊雄)、小林路易、新井靖一、臼井善隆、野中涼の十名、それに柳富子、富田仁の二名が嘱託研究員として加わった。以後、三十八年五月には日本比較文学会創立十五周年記念講演会を早稲田に迎え、フルブライト派遣のJ・D・ヨハンナン教授を招いて特別公開連続講義を行い、月例の研究発表会を続行し、四十年三月の機関誌『比較文学年誌』(年刊)の創刊となる。

 研究室開設当時の諸般の事情については、小林路易の「早稲田大学比較文学研究室について」(『比較文学年誌』第六号 昭和四十五年三月 所収)に詳述されているので、ここに繰り返すことは差し控えるが、初期の研究員が共同して行った最も顕著な業績として、文部省科学研究費助成による『近代日本における西洋文学紹介文献書目―雑誌篇』(一八八五―一八九八、悠久出版)と方法論の集成『比較文学――方法と課題――』(早大出版部)の刊行(いずれも昭和四十五年)を特記しておく。

 創設後今日まで二十年、その間、室長は佐藤輝夫から稲垣達郎、平岡昇、河竹登志夫と代り、現在は新谷敬三郎。最高議決機関としての運営委員会の下に、昭和四十四年以降実行委員会が設けられて、実質的な室の運営は室長とこの実行委員会(現在、竹盛天勇、安斉和雄、小林路易、野中涼、柳富子、引地正俊、市川慎一、小林茂、中島国彦の九名で構成)に委ねられ、一名の専任助手が日常の雑務を担当している。研究員は、全学の諸学部・諸機関からの参加を得て次第に増え、現在四十一名。そのなかから、河竹登志夫による日本伝統演劇の海外における反響調査、武田勝彦による日本現代文学の海外における反響紹介、富田仁による日仏文化交流史研究など、多くのユニークな業績が陸続と出てきている。

 『比較文学年誌』は数々の貴重な論考や資料を収録して好評裡に二十号を数え、学内外の碩学・作家・評論家等による公開講演会の開催は通算四十四回、月例の研究発表会にいたっては優に百回を超える。

 施設面でも漸次改善・拡張が行われ、現在二室を確保して、収蔵図書約一万五千。日仏英独露中その他世界各国の比較文学・文化関係基本文献の大半を網羅し、小粒ながら、東大教養学部の比較文学比較文化研究室と併称される、世界有数の比較文学・綜合文芸研究センターとしてのゆるぎない地歩を築いている。