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第一編 学部

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第二章 法学部

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一 明治初期における法学教育

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 明治元年(一八六八)成立した明治政権は、我が国の諸制度を西欧諸国のそれを範とした近代的諸制度とすべく諸種の施策を急速にたて、またそれを実行している。そして、諸制度の近代的整備と運営を実現する場合、何といっても行政官僚をはじめとする官僚群や医・工をはじめとする特殊技術者の育成が焦眉の急とされ、明治五年(一八七二)から明治七年(一八七四)にかけて司法省明法寮、東京開成学校、東京医学校、札幌農学校、そして工部省工部大学校が設立された。これらのうち「法律学ノ研究考査及ビ法律家ノ育英」を目的としたのが司法省明法寮でフランス法による法律学の教育が行われていた。司法省明法寮は明治九年(一八七六)には発展的に廃止され、司法省法学校が設立されるに至った。この司法省法学校には、正則科と、速成科ともいえる員外出仕生徒および法学生徒があり、正則科出身者は主として指導的高級官僚群を形成し、員外出仕生徒出身者などは各地の裁判所などにおいて法律の実務に携わっていた。

 これら司法省系統の学校に対し、文部省系統のものとしては、旧幕時代の天文方、洋学所、蕃書調所、洋書調所、開成所に系譜をもつ開成学校(開成所とも称されている)が明治元年(一八六八)九月十二日に鎮将府により開かれた。そして明治二年(一八六九)には旧幕時代の昌平黌に系譜をもつ昌平学校を大学校とし、開成学校と、これまた旧幕時代の種痘所、医学所に系譜をもつ医学校が大学校の分局として附置された。この大学校は、同年十二月大学と改称され、医学校が大学東校、開成学校が大学南校とそれぞれ改称されるに至った。

 この大学南校における明治三年(一八七〇)の「大学規則」によると、大学南校は、普通・専門の二科よりなり、普通科を卒えた者が専門科に入学することを許されるとしており、その専門科には、法科・理科・文科の別があった。その法科のカリキュラムをみると、民法、商法、詞訟法、刑法、治罪法、国法、万国公法、利用厚生学、国勢学、法科理論などが示されている。

 明治四年(一八七一)七月十四日に廃藩置県の詔書が出され、その四日後、文部省が設置されたが、この時、前掲の昌平黌・昌平学校に系譜をもつ大学本校が廃止されるに至った。この大学本校の廃止によって、大学南校は、大学東校とともに「大学」の管轄から離れ文部省の管轄下に入ったのであるが、それにより名称も、単に「南校」「東校」と改称されるに至った。

 文部省は明治五年(一八七二)八月三日「学制」を頒布したが、この「学制」によって「南校」は第一大学区第一番中学と改称され、南校には中学の地位が与えられることになった。しかし、既に前年には、専門学校設立についての議がなされており、この南校の中学への移行は、時代の要求に逆行し、また現実にもそぐわないものであった。そこで明治六年(一八七三)四月第一大学区第一番中学を開成学校とし、これを専門学校とした。開成学校は翌明治七年(一八七四)には、東京開成学校と改称され、「文部省ノ所轄ニシテ諸科専門ノ生徒ヲ教育スル官立大学校ナリ」(明治八年、『東京開成学校一覧』)とされた。そして東京開成学校においては「明治六年四月ヲ以テ専門学科ハ爾来英語ヲ以テ修業セシムヘシ、但シ従来在校ノ仏独学生専門学科ヲ修ントスル者ハ英語ニ転セシメ……」(『東京開成学校第三年報』)とし、語学は英語に一定した。かくて、それまでの仏・独両語の学生については、なるべく英語に転ぜしめるようにしたが、しかし、仏学生徒のためには諸芸学校を、ドイツ学生徒については鉱山学校を設けた。これらにより東京開成学校には、法・化・工・諸芸そして鉱山の五学校が設けられたが、明治九年(一八七六)の一覧においては、法学科・化学科・工学科の三学科のみに改められている。

 明治十年(一八七七)東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学となった。そして明治十七年(一八八四)には、前記司法省法学校が、文部・司法両省協議のうえ太政官の允裁を経て、文部省直轄の東京法学校となり、翌明治十八年(一八八五)には東京大学に合併され、法学部第二科となった。明治十九年(一八八六)三月一日の勅令三号「帝国大学令」によって東京大学は東京帝国大学に、また法政学部(明治十八年十二月に、それまで文学部の中に置かれていた政治学科を法学部に移行し、法学部は法政学部と改称されている)は法科大学となった。そして東京帝国大学法科大学は、名実ともに「最高学府」として行政・司法の高級官僚育成の中枢的教育機関となった。

 以上のような「官」の法律学校に対して、私立の法律学校はどのような特色をもって開設されたのであろうか。徳川幕府を倒して確立された明治政権は、まだ政権の基盤も脆弱であったし、藩閥政権とそしられるような古さももっていた。しかし、他方において、我が国の産業や文化などを西欧先進諸国の水準にまで速かに近づけなければならない使命感をもっていたのであり、このような明治政権によって我が明治維新期における近代化が進められたのである。確かに、それは近代的・合理的なものを志向したのではあるが、その実現においては、民衆の意向にはおかまいなく、力によって押しまくっていくという印象をぬぐい去ることはできなかった。力によって押しまくってくる政府の施策に対して、民衆は反発せざるを得なかったし、民衆の反発は、旧体制側の人々を中心とする力による抵抗運動として明治十年(一八七七)頃までの、我が国の歴史をいろどっていくのである。これら力による反政府の運動は、その最後にして最強の軍事的抵抗といわれている「西南の役」においてさえも、政府の警察力や軍事力の圧倒的強さの前には刃が立たないことが証明されたにすぎず、もはや成功は不可能であることが人々に明白に意識されるに至った。

 このような現実に対して、人々の抵抗は、明治七年(一八七四)辺たりから表立ってきた思想運動《自由民権運動》へと、その力点を移動させていった。そして民衆の願望は具体性をもち、国会開設へと向けられ、明治十三年(一八八〇)には太政官に対して国会開設請願という要求を出すに至っている。

 私立の法律学校や研究機関は、以上のような「民」の動向を反映しながら明治七年(一八七四)辺りから出現してくる。また他方、当時は「農なり商なり満天下皆不平のもののみにて、ただただ得意なるものは官員ばかりなり」(『木戸孝允日記』、明治九年(一八七六))といった現実があり、しかも官員たらんと志を立ててみても、薩長など藩閥出身の者以外は、殆どその望みが達せられることはなかった。そこで、これらの者が身を立てんとしてたどる道は、法曹界ということになり、彼らは競って法律学校へと殺到している。これら私立の法律教育・研究の機関の中には「民」の論理による法律を研究し教育していたものが多くみられたし、更にその実践として、「自由民権」との関係で在野法曹としての面を併せもつものが多く現われている。すなわち、当時の私立法律学校の中で、法律学舎(明治八年(一八七五)、箕作麟祥・元田直創設)・講法学社(明治十年(一八七七)、大井憲太郎・北畠道竜創設)・明法社(明治十一年(一八七八)、大井憲太郎創設)・東京政法舎(明治十二年(一八七九)、高橋一勝など東京大学卒業生らが創設)、東京法学舎(明治十三年(一八八〇)、薩埵正邦ら創設)などは、在野法曹である代言人としての活動も併せ行っていた。

 以上のような私立法律学校のなかには、明らかに政府の思想とは異った法律思想を持つものもあり、政府にとっては好ましくない存在ということができるであろう。それ故に政府は、私立法律学校に対して規制をしなければならなかったのである。その規制は明治十三年(一八八〇)、二つの面から行われている。その一つは、五月十三日の代言人規則(明治十三年司法省甲第一号布達)の制定である。この規則によって、代言人を地方の検事の監督下におき、代言人出願者に対しては、司法省から問題を検事に送付し、これに基づいて検事が試験をするといったことがあるし、更に、その第二十二条で「議会組合以外ニ私ニ社ヲ結ビ、号ヲ設ケ営業ヲ為ス」ことを禁じたのである。この禁止規定によって、代言人としての資格を持つ者は、代言人組合の者のみということになり、私立法律学校が、その実践部門として代言人を兼ねることが不可能になった。

 そしてその二は、改正教育令により、私立学校の設置は府知事・県令に「開申」すればよいとの申告主義を改正して、府知事・県令の「認可」を必要とするとした許可主義を採ったことである。

 以上のような代言人規則そして改正教育令によって、私立の法律教育機関は脱皮せざるを得なくなった。またこの明治十三年(一八八〇)七月十七日には、我が国で最初のヨーロッパ法継受の法典である刑法(旧刑法)が公布され、この刑法が明治十五年(一八八二)一月一日より施行されることになった。これらにより私立の法律学校は本格的な法律教育機関である専門学校として活動を始めるに至った。

 以上が我が早稲田大学の前身である東京専門学校、そしてその法律科が設立された頃の我が国における法律教育機関の概要である。

二 東京専門学校の設立

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 東京専門学校の設立は、明治十四年(一八八一)の開拓使官有物払下問題に関連し、参議を罷免された大隈重信の手によるものであって、その点、他の諸学校の設立とは違い濃厚な政治的色彩をもっていたということができるであろう。それ故に、東京専門学校法律学科は、「大隈の学校」として、法律学を単に技術として教授する一部の法律学校とは異った面を持つ学校として多くの人々から期待され注目されていたと思われるし、それだけに、また政府は警戒の目で見ざるを得なかったのである。

 ともあれ東京専門学校法律学科は、英法系の学校として、高田早苗の同窓小野梓を通じて大隈に紹介された砂川雄峻山田喜之助岡山兼吉の三法学士を講師として明治十五年(一八八三)十月二十一日に開講された。ところで、この時代は、先述の如く我が国の基本的法典としては、刑法と治罪法が成っているのみであって、憲法をはじめとして、民法・商法などは制定されていない。そこで法律学の講義といっても刑法・治罪法以外は、講師達が東京大学で習った英国法をそのまま取り次いだ類の講義しかできなかったのが実状である。今ここに我が東京専門学校開設当時の法律科の課程表およびその内容を知るために参考書表を掲げておこう。

第六表 東京専門学校法律学科課程表および参考書表(明治十五年)

課程表

参考書表(著訳者名は原文のまま)

 なお、この「課程表」および「参考書表」は、明治十五年(一八八二)九月二十七日付で東京府知事に提出された「東京専門学校設置願の件」(東京都公文書館蔵)の別紙のそれをそのまま掲げたが、「参考書表」については、若干問題がある。

 先ず「仏国刑法」であるが、出版年月が一八七八年で著訳者がゴーフ氏となっているが、この時代、ゴーフというフランスの刑法学者は管見では見当らない。これはゴーフではなくブーフの間違いではないかと思われる。設置願を書く時にブをゴと誤記したものと考えられる。また出版年月についても「一千八百七十八年」となっているが、設置願の原本をみると、この七十八年の八の字は墨書で訂正してあり、八と思えば八と読めるもので、八と明記してあるわけではない。それらのことを考えると、これはブーフBeuf, LucìenのRésumé du Code pénaleを明治十年(一八七七)十月に司法省が翻訳出版した『仏国刑法略論』を指すのではないかと思っている。

 またこの表に示されている「出版年代」などについて、それぞれの著書を当ってみたが不明のものがあるので、一応、原著書名を表の順に従って以下示しておく。

Terry, Henry Taylor, 1847-?

First principles of law. Tokio, Z. P. Maruya, 1878. xv, 526 p. 19 cm.

Smith, John William, 1809-1845.

Law of contracts. 4. ed. by John George Malcolm. London, Stevens, 1864.

Law of contracts, 5. ed. by John George Malcolm. London, Stevens, 1868.

Law of contracts. 5th American from the 4th London editon, by John George Malcolm. With note sand references by W. H. Rawle, and with additional notes and references by G. Sharswood. Philadelphia, T. & J. W. Johnson, 1869.

Law of contracts. 6 ed. by Vincent T. Thompson. London, Stevens, 1874.

Pollock, Sir Frederick, Bart, 1845-1937.

Principles of contract at law and equity. London, Stevens, 1876 [1875]

Broom, Herbert, 1815-1882.

Commentaries on the law of England. v 1-4. London, Maxwell, 1869.

Commentaries on the law of England : designed a sintroductry to its study : From the 4th Londo ned. Philadelphia, T. & J. W. Johnson, 1873.

Commentaries on the law of England. With note sby William Wait... Albany, N. Y., J. D. Parsons, Jr., 1875.

Bishop, Joel Prentiss, 1814-1901.

Commentaries on the criminal law. v. 1-2. 6. ed. Boston, Little Brown, 1877.

Williams, Joshua, 1813-1881.

Principles of the law of real property. 11 ed. London, Sweet, 1875.

Langdell, Christopher Columbus, 1826-1906.

Selection of cases on sales of personal property. With reference and citations, by C. C. Langdell... Prepared for use as a text-book in Harvard La wSchool. v. 1. Boston, Little, Brown and Co., 1872.Stephen, Sir James Fitzjames, Bart, 1829-1894.

A digest of the law of evidence, 4. ed. London, Macmillan, 1881.

Best, William Mawdesley, 1809-1869.

Principles of the law of evidence. 6. ed. London, Sweet, 1875.

Principles of the law of evidence. With elementar yrules for conducting the examination and crossexamination of witnesses. 1st American ed. fro mthe 5th London ed. With notes and references t oAmerican cases, by H. G. Wood... v. 1-2. Alvany, N. Y., W. C. Little, 1875-76.

Wharton, Francis, 1820-1889.

Treatise on the conflict of law : or Private international law, including a comparative view of Anglo-American, Roman, German, and French jurisprudence. Philadelphia, Kay, 1872.

Wheaton, Henry, 1785-1848.

Elements of international law. 8. ed. With notes, by Richard Henry Dana, Jr. Boston, Little, Brown and Co., 1866.

万国公法蠡管 高谷龍州注解 中村正直批閲(東京 坂上半七 明治九年(一八七六))

Austin, John, 1790-1859.

Lectures on jurisprudence : or, The philosophy o fpositive law. London, J. Murray, 1875.

Maine, Sir Henry James Sumner, 1822-1888.

Ancient law. With introduction and notes by Sir F. Pollock. 6. ed. London, J. Murray, 1876.

......... 7. ed. 1878.

Beuf, Lucien.

Resumé du code pénale.

仏国刑法略論 司法省蔵版 明治十年十二月印刊

例言 一、此書ハ西暦一八七二年仏国法律学士ブーフ氏の編著スル所ニシテ、「レジュメ ジュ コード ペナール」ト題シ刑法治罪法ノ要領ヲ論説スルモノニ就キ刑法ノ部ノミヲ訳述スルモノナリ。

Amos, Sheldon, 1835-1886.

Primer of the English constitution & government. London, Longmans, Green and Co., 1873.

Lieber, Franz, 1800-1872.

On civil liberty and self-government. 3. ed., rev., ed. by Theodore D. Woolsey. Philadelphia, J. B. Lippincott, 1874.

Haynes, Freeman Oliver, 1818-1880.

Outlines of equity, being a series of elementar ylectures on equity jurisdiction, delivered at th erequest of the Incorporated Law Society, wit hsupplementary lectures on certain doctrine o fequity, and a lecture on the subject of fusion. 3. ed. London, Maxwell, 1873.

 この課程表および参考書表を見ると法律科目では一年の刑法、二年の治罪法、三年の日本古代法律などを除いて、他の多くは英法の科目であり、その参考書も英法の原書があげられている。この点について「我輩が明治十四年に東京大学の講師となった時分は、教科は大概外国語を用ひておって、或は学生に外国書を授けてこれに拠って教授したり、或は英語で講義するといふ有様であった」と穂積陳重も、その著『法窓夜話』のなかで述べている如く(岩波文庫版一七二頁)、当時の法学教育は外国文献を用い、外国語で行われていたのが一般的であった。このような風潮に対し、我が東京専門学校では邦語による教授を打ち出した。開校式における演説の中で小野梓は「余ハ本校ニ向テ望ム。十数年ノ後チ漸クコノ専門ノ学校ヲ改良前進シテ、邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授スル大学ノ位置ニ進メ、我邦学問ノ独立ヲ助クルアランコトヲ。顧シテ看レバ、一国ノ独立ハ国民ノ独立ニ基ヒシ、国民ノ独立ハ其精神ノ独立ニ根ザス。而シテ国民精神ノ独立ハ実ニ学問ノ独立ニ由ルモノナレバ、其国ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其民ヲ独立セシメザルヲ得ズ。其民ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其精神ヲ独立セシメザルヲ得ズ。而シテ其精神ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其学問ヲ独立セシメザルヲ得ズ」「……夫ノ外国ノ文書言語ニ依テ我子弟ヲ教授シ、之レニ依ルニアラザレバ高尚ノ学科ヲ教授スルコト能ハザルガ如キ、又是レ学者講学ノ障礙ヲ為スモノニシテ、学問ノ独立ヲ謀ル所以ノ道ニアラザルヲ知ルナリ。……」と喝破したのである。かくて東京専門学校法律学科においては「学の独立」を具現すべく他科に先んじて邦語による法律学の講義が行われるに至った。

 なお、穂積陳重が述べている如く東京大学での邦語による法律学の講義は、明治十六年から東京大学法学部の別課で、初めて試みられるに至り、明治二十年頃に至って「始めて用語も定まり、不完全ながら諸科目ともに邦語をもって講義をすることができるようになった」(『法窓夜話』)。この東京大学での邦語による法律学の講義より一年早く、我が東京専門学校では邦語による講義を始めており、小野梓は東京大学での試みを知りその『留客斎日記』に東京専門学校による邦語の教育の正しさを書き留めている。

 「学の独立」を標榜した東京専門学校法律学科においては、先掲課程表の下でいかなる内容の講義が行われていたであろうか。明治十六年(一八八三)発行の『明治十五年度東京専門学校年報』に「課程授業報告」が登載されているので、それを転載しておく。

講師 法学士 山田喜之助

本学年中ニ於テ余ハ法律学二年生ノ課業ヲ受持チ英国私犯法英国憲法英国組合法及訴訟演習ヲ教授セリ此諸科ハ悉ク皆教科用ニ供スヘキ善良ノ著訳書ナキヲ以テ一々之ヲ口授シ生徒ヲシテ其講義ヲ筆記セシメタリ其中間々自カラ筆記シ講義ノ大意ヲ示セシ者アリト雖〓生徒ノ精励ニ由ルニ非レバ此回報告スルカ如キ充分ノ好結果ヲ得ルニ至ラサリシナルベシ英国憲法ハ法律学二年生ト政治一年生トヲ同一級ニ編制シ之ニ同様ノ講義ヲ与ヘリ而シテ本学科ハ他ノ学科ニ比シテ稍々不充分ナル結果ヲ得タリト雖〓要スルニ学科ノ解シ難キト講義ノ材料ト為スヘキ善良ノ原本ナキトニ原由スルモノト信ス然レ〓行々憲法史ヲ講義スルニ至ラハ大ニ其欠漏ヲ補フヿヲ得ヘシト確信スルナリ

英国私犯法ハ客年七月中旬ニ講義ヲ始メ本年一月ニ完了シタリ私犯法ハ法学科中最モ必要ナル地位ヲ占ムルモノニシテ余ハ特ニ之レカ講義ニ注意セリ而シテ法学科中実際ニ適用スヘキ法理ヲ含蓄スル最モ多キモノハ本学科ニ過グル者ナキヲ以テ大ニ生徒ノ嗜好ヲ博シ為メニ其業ノ進歩ニ於テ充分ノ好結果ヲ見ルヿヲ得タリ而〓余ハ既ニ講義ノ草稿ヲ整頓シ之ヲ刊行シタルヲ以テ向来ハ大ニ生徒ノ労ヲ省略スルヿヲ得一層研究ノ力ヲ増進スルヲ得ヘシ

英国組合法ハ「ナサニヤルリンドレー」氏ノ会社法ヲ折衷シテ講義セリ本書ハ東京大学教師「テリー」氏ノ賛成ニ由テ余カ本校教科書ニ採用シタルモノナレハ其所説極メテ周密ニシテ生徒ヲシテ容易ニ法理ヲ了解スルノ便利アラシメンヲ信ス而シテ学年最終ノ試業ニ於テ諸生徒ハ充分満足スヘキ答案ヲ出シテ之ヲ余ニ示シタリキ本科ノ講義モ亦不日刊行ニ付シ本校教科用書ニ供セント欲ス

訴訟演習ハ毎週一回訴訟ノ問題ヲ設ケ予メ之ヲ生徒ニ付与シ生徒ノ中ニ就テ順次二人ヲ撰定シテ原告代言人タラシメ又同様ノ方法ヲ以テ被告代言人二名ヲ撰定シ講師自カラ判官ノ地位ニ立チ仮リニ法廷ヲ摸擬シ訴訟ヲ実際ニ演習セシム而シテ間々時ニ臨テ訴訟ヲ作ラシメタリ

本学年ハ本校創立ノ始メナルヲ以テ其教授ヲ始メシヿハ第一学期到着后一ケ月半ナリキ然ルニ此短縮ノ時期ニ在テ校規所定ノ課程ヲ完了セシハ実ニ企望ノ外ナリキ而シテ専ラ邦語ニ藉テ専門ノ学科ヲ教授スルノ難易得失ニ至テハ余充分ニ之ヲ実験スルヿヲ得窃ニ其好結果ヲ得タルヲ賀スルナリ

講師 法学士 岡山兼吉

前学年中余ハ法律大意英仏刑法証拠法商法ノ四科ヲ受持チタリ今各学科ニ就キ其成果ヲ報スル左ノ如シ

法律大意ハ政法一年生ヲ通シテ講義セリ其引用書ハ「テリー」氏法律原論ヲ本トシ間々「ブラックストン」氏法律註解「マークビー」法律大意「オースチン」氏法理論等ヲ参考シ究メテ生徒ヲシテ法律ヲ学フノ門地ヲ固フセシメタリ然ルニ客年開校ノ期学年第一期ノ幾ント半ニアリタルヲ以テ一期ニ之ヲ終了スル能ハス科外講義トシテ第二期ニ亘リ漸ク其大意ヲ尽シ得タリ

英仏刑法ハ法学二年生第一期ニ於テ其講義ヲ為シタリ本課ニ於テハ勉メテ英国刑法ノ法理ヲ講シ生徒ヲシテ刑法原理ノ大要ヲ了知セシメタリ其引用書ハ「スチーブン」氏法律註解、「ラスセル」氏刑法論ニ拠リ第一期ノ終ニ至リ其総論ヲ結了セシメ以テ姑ラク之ヲ中止セリ

証拠法ハ法律第二年第二期ノ教科トシ講義ヲ為セリ「スチーブン」氏私案証拠法典ヲ訳シテ教科書ニ充テ全編ヲ講了セリ蓋シ同氏ノ証拠法典ハ頗ル簡明ニシテ英米証拠法ノ要領ヲ尽シタルモノト認メ他ニ参考書ヲ引用セス

商法ハ政治第一年生第二期ノ教科タリ然ルニ前期ノ教科書タル法律原論ハ第一期ニ講シ尽サヽルカ為メ継続シテ第二期ニ亘リタル故商法ハ六月中澣ニ至テ始メテ其講義ヲ為セリ是ヲ以テ其蘊奥ヲ尽ス能ハス纔カニ其範囲如何ヲ指示シタルニ止マリ頗ル不完全ナリシ蓋シ政治一年生ニ法律原論及ヒ商法ヲ教科トスルハ生徒ヲシテ法律学ノ大要ヲ知ラシムルニ在リ余ハ不幸ニシテ商法講義ヲ結了セサリシニモ拘ハラス生徒ハ必ス教科ノ目的ヲ達シ得タルナラン

講師 法学士 砂川雄峻

余ハ開校第一学年第一期ニ於テ法律第一年及第二年ノ両級へ英米契約法ヲ教授シ第二年級ヘ訴訟演習ヲ教授セリ同学年第二期ニ至テ前期ノ科業ヲ継続シ更ニ第一年級へ英米代理法ヲ教授セリ

契約法ハ「リーグ」氏「ポロック」氏「ラングデル」氏「チヽー」氏等ノ著書ニ依リ大意ヲ筆記シテ之ヲ学生ニ授ケ之ニ依テ講義ヲ為セリ訴訟演習ハ民刑ノ問題ヲ設ケ学生中ヨリ原告代言人二名被告代言人二名及始審判官一名ヲ擬定シ訴訟状ヲ作リ相互ニ弁論シ擬始審判官先ツ判決ヲ為シ訴訟者之ニ服スル能ハサル〓ハ余ヲ上告判官ニ擬シ上告ヲ為シテ更ニ判決ヲ求メシムルヲ以テ例トセリ

代理法ハ余カ嘗テ英米ノ諸書ヨリ抄記セシモノニ依リ契約法ト同一ノ方法ヲ以テ教授セリ

 以上の如き三講師により開講された東京専門学校法律科は、開校当初においては四十六名の学生を数えている。校規によれば定期入学の外、生徒の数が増加する謂れはないのだが、創始の際のやむを得ざる事情を以て傍聴生の入学を許している。明治十五年(一八八二)から翌年の八月に至る一学年度における学生数の変動その他については『東京専門学校年報明治十五年度』(明治十六年九月刊行)からそのまま転載する。

第七表 東京専門学校学生内訳(明治十五年十月―十六年八月)

 この表によると法律科は政治科に比較し約二倍近い学生数を持っていることが分る(英学科は政・法・理の学生が選択受講する補修科である)。法律科が政治科に比較して学生数が多いのは、法律が権力と民衆の対向関係において、より直接性・具体性を以って機能する本質を持っていること、そして、東京専門学校法律科は、在野の巨頭大隈重信の学校であり、その法律科は民の側の論理による法律学を学ぶ所として、心ある人々に期待されたからではないかと思っている。しかし、そのような東京専門学校法律科の性格こそ、先にも述べた如く、政府が最も警戒しなければならなかったものであったと言える。

三 草創期における法律科の危機

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 東京専門学校は、政治家としては一頭地を抜きん出ていた実力をもつ大隈重信により創立された学校である。しかし、大隈が当時の日本の政界において大物であればある程、政府にとっては好ましくない油断のならぬ人物であったのであり、かつての西郷隆盛による鹿児島の私学校の如く、大隈の私学校である東京専門学校は、十分警戒すべき学校として意識せられたし、それ故に東京専門学校に対して政府による種々の干渉がなされるに至ったのである。

 この東京専門学校に対する政府の干渉を最も痛烈に受けたのが法律科であった。先述の如く、政治が民衆に接触する具体面で機能する法律を、反政府的政治家大隈の主催する学校で教育するなどということは、政府に反抗する法律家を育成し、それらを日本全国にばらまくことになるのであり、このようなことは政府として最も警戒しなければならないし、そのような学校学科は萌芽のうちに摘み取り潰さなければならない、と政府の連中が考えるのは、当時としては当然のことであったのであろう。

 ところで、組織を潰すには組織の構成員をなくすことが一番確実であり、東京専門学校法律学科を潰すためには、その教員を東京専門学校から引き抜いてしまうことが手っ取り早いのである。かくて政府の手は、先ず法律科の三講師に及んだ。ところで東京専門学校政治科の三人の講師は専任だから月俸三十円が給せられていたが、法律科の三人、砂川雄俊などは弁護士を兼ねていたので兼任ということになり月俸十五円を給されていたに過ぎなかった。しかし訴訟事件も少なく暮しは楽ではない。遂に明治十六年(一八八三)春、砂川雄俊は大阪の訴訟鑑定相談所である江陽社に招聘され早稲田を去るに至った。しかし、この件について、砂川自身が後年「同社の社長江木信なる者が実は政府の諜者であることが知れた。……疑ひも無く江木は政府筋の人間であったのである」と当時を回顧して語っている(『早稲田法学』十三巻 『法科回顧録』五十頁)。砂川雄俊の東京専門学校辞任は経済的事情のみによる純粋な気持に拠ったものではなく、政府の謀略の手がひそかに彼に及び、彼の東京専門学校辞任を決意させるに至ったことを、彼自身、後になって感ぜざるを得なかったのであろう。

 砂川雄俊が去った後、残った二講師のうちの一人岡山兼吉により、東京専門学校法律科の命運に係わるような重大な提案がなされた。これは、法学教育は、早稲田の如き辺鄙な場所で行われるべきではなく、地の利を得た都心において行われるべきであるとの意見であり、この岡山の意見に山田喜之助も賛意を表するに至った。そして彼らは、明治十六年(一八八三)辺りから増島六一郎・高橋一勝達が設立計画を立てていた英吉利法律学校への参加に強く気持を傾けていった。法律科を形成すべき三講師のうち一講師は既に去り、そして残る二講師も心は既にして早稲田にはなく、都心の英吉利法律学校に移ってしまっており、法律科講師陣は形骸化され、東京専門学校法律科は文字通り壊滅の危機に瀕したのである。東京大学の教授、更には判検事に支援を請いたくても、これらの人々は明治十六年(一八八三)二月以来私立学校に出講することを禁じられており、出講不可能という状態であった。かくて、遂に法律科を一時休校とすることが現実の問題として東京専門学校当局の人々に意識されるに至った。明治十八年(一八八五)六月五日付の大隈重信小野梓の書幹は、この時期における小野梓の苦衷と決意を述べたものであるが、小野梓は、次の如く大隈重信に訴えている。

過日者辱御親臨梓生言詞之厚遇を拝謝するなきに苦しむ。爾後快晴ニ遇ひ直ニ参謁重々之御礼可申述と存候得共、其以来ト角陰天ノミ相続き殊に御親臨之翌日より咽喉掀衝(焮腫か)ニ係り一昨々日と一昨日ハ引き続き咳嗽を発し素り軽症ニ御唑候得共、負傷之軟軀徒らに恐懼之心を起し温臥仕居り、昨今ハ大ニ軽快を覚候得共、猶折々咳気を発し候始末ニ御唑候得者、心之を思ふて之を行ふ能はす、重々過罪を累ぬる耳ニ後坐候。唯偏ニ御海宥を祈る之外無之候。

陳者、我校法学部之義ニ付てハ毎々種々之御尊慮を煩し奉り、実に恐懼之至ニ存候。畢竟、是れ梓生計画之不備より致す所ニして生閣下ニ対し謝する所を知らす、又た自から残念ニ不堪候。就てハ過日も略ほ申上候通り色々配意仕候得共、ト角好結果を得す、此上殆んと即時之措置ニ苦ミ候得者、甚た遺憾至極ニ御坐候得共、一時法学部を中止し、専ら力を政治英学之二目に用ひ、以て我校を維持し、時を待テ再ヒ法学部を起す事と致度存候。是れ固より策之上乗なる者ニ無之候得共、此際仏蘭西之法律を教授するとするも、矢張適任之人物を得かたく、又た人物ハ辛ふして得るとするも、現在之生徒ハ減少する之勢ありて、新入之生徒を得るの望ミ甚不確ニ御坐候得者、進退共ニ其拠る所を失ふの恐れなしとせす。又た小生一箇之身込を以て申せハ、数月を出てずして英律之教帥(師か)を得へき望あり、又た今後良講師を得我か素志を貫くへきハ小生之責なりとまて自任仕候得者、旁々一時仏蘭西律を入れ前途之冀望を杜絶するニ至るなきを冀望仕候。馬場辰猪ニハ未た面会不仕候得共、同人ハ専ら教授を負担するを得さる之事情有之趣ニ存候得者、同人に付託するとするも是非一人専任之講帥(師か)を得さるを得ず、過日奉霽之節ハ磯野斗(磯野計か)を専任として馬場ニ助ケサセ可申ト心組ミ居候得共、一昨日高田天野両人を以て申上候通り、磯野之方も其功を奉呈不仕ニ付キ、右心組も空しく画餅ニ属し、誠ニ残懐之至ニ不堪候。承候者三宅なる人出京之由ニ御坐候得共、未た其為人を存知不仕候得者、果して能く我望を満足するに足る否、また確知仕難く、彼是疑惑仕候。

要するに英律を教授するを以て目的とし創立したる法学部ナレハ恰好之教師を不得時ハ一時中止して、之を授けさる事と致し、中途ニ在テ仏蘭西律を教授し稍々其初志を変するに近き事なき様致度ト存候右者、小生の狭隘なる僻見なりとの評判も可有之候得共、一旦定メたる初志を難事ニ遇ふて変するハ小生之終ニ為す能はさる所ニ御坐候得者、閣下幸ニ其過激を御咎なく、梓之旧癖の起りたりと御憐察被成下度奉希願候。右者本日推ても参会席上陳述可仕心得ニ御坐候得共、療医之言ニ拠れハ咽喉之掀衝(焮腫か)また全くしらす、此際外出ハ甚た危険ニ付キ見合すへき旨申中候間、有心骸意之旨たるを書し下、執事ニ納れ候間、他之諸説御参照之上、宜敷御採択被仰付度、為我校祈願之至ニ奉存候。此外猶御指揮を窺度義御坐候得共、右ハ咽喉快癒次第参謁面り陳上可仕候。時下不相変不順、閣下為蒼生幸ニ御司重被遊度候

匇々 拝殿

六月五日 梓生

大隈公閣下

 これによると「色々配慮仕候得共、ト角好結果を得す」と小野梓がしているのは、恐らく岡山兼吉山田喜之助に対しての説得に失敗した事実に基づいてのことではないかと推測されるのだが、その失敗の結果「法律科を休校とし、東京専門学校としては、専ら政治科と英学科に専心力を注ぎ、東京専門学校を維持し、時を待って法律科を再起させたい」と小野は思っていた。そして、「英法が駄目なら仏法を」の論があったのであろう。この論に対し、「この際フランス法を教授するとしても、教師としての適任者を得難いし、かろうじて教師を求め得ても、学生が減少している現状からみれば、新入生を得る望みは甚だ不確で、開いたはいいが、にっちもさっちも身動きがとれなくなるおそれが出て来る危険性がある。ところで自分だけの見込ではあるが、数ヵ月を出ずして英法の教師を得る可能性がある。……ここで我が法律科に、一時フランス法を入れる事により、将来英法を教授する希望を杜絶することのないよう希望している。馬場辰猪とは、まだ面会をしていないが、同人は専任の教師としての負担をし得ない事情があり、馬場に依頼するとしても、専任の講師を一人おかざるを得ない。先日、磯野計を専任として馬場に助けさせてはと思ったが、高田、天野両人から申した如く磯野への交渉は失敗してしまった。また承った三宅(恒徳)という人については、その人となりを存知していない。我々の希望に添った人かどうか知ることができず、かれこれ疑惑している」とし、「英法を教授する目的で創立した法律科なのだから、恰好の教師を得ることができない時は、法律科を一時中止する。中途でフランス法の教授に転換して、初志を変じることのないようにしたいと思っている。量見の狭い僻見との批判もあるだろうが、一旦定めた初志を難事に遇って変じてしまうことは自分の為すあたわざる所である」と小野梓は大隈に訴えている。

 なお、磯野計を専任の講師として迎えるため、小野梓から磯野に対し明治十八年(一八八五)五月二十八日付けの書幹が発見されている。

一 磯野計宛小野梓書翰「明治十八年(一八八五)」五月二十八日

鬱陶敷御座候処、昨夜御人に承候得ば御臥蓐之旨、本日は如何御座候哉。実に不順之時に御座候得ば、御加護専一に奉存候。啓ば、昨夜は態々御人に預り御丁寧之段、奉謝候。素より御来訪煩はす義に無之、小生より罷出て親敷御相談可仕義に御座候得ば、多々御配意被成下間敷候。依て本日参上可仕心得に御座候処、昨夜御人之御談によれば、参上之方却而御迷惑には非らざる乎、強而罷出候は却而御無礼には非らざる乎と存候得ば、甚々略儀ながら左に願を書き列ね差上候間、一応御通読之上、何分之御報希望致候。

御承知も可有之乎。東京専門学校は小生等之主唱に相成候学校に御座候処、従前法学部には専任之講師無之、夫れが為め頗る遺憾を相覚へ候に付、次之学期より法学教授専任之講師を得度、兼々相心得居候処、未だ適当之人物を得ず罷在候。然るに此頃拝承仕候に、大兄は近時御閑散之身と相成り、代言にも従事せられず、又た官途にも御望み無之由に御座候得ば、自然可相叶事に御座候得ば、右法学部之教授を御担任被成下義は不相叶候哉。私立之学校之事なれば十二分なる御報酬は仕り難く候得共、学校相応には勿論御報酬可為致候間、何卒御承諾被下義は不相叶候哉。素より外にも法学之講師御座候得共、大兄之御都合次第に因ては主として御教授被下、他之講師は之を助勢する様仕度候。

右は如何之者に御座候哉。専門学校之盛衰は小生之名誉に関し、法学部之栄枯は又た専門学校之衰盛に関し候義にて、此際是非相当之講師を得度く存候得ば、自然長き時間御従事之事御不都合なれば、二学期なりとも四学期なりとも宜敷御座候得ば、多少之御都合は御繰合せ暫時小生之事業御助成被成下義は不相叶候哉。誠に希望之至に存候。尤も御承諾さへ被成下候得ば、現在御教授被下義は来る九月よりにても宜敷候間、何卒小生之心事御了察前述御了諾被成下度奉希上候。

自然御了諾被下候之御心持に御座候得ば、学校之監督に紹介致し親しく種々御相談可為仕候間、今日は大体之御意見拝承仕度候。

右は御病中甚だ恐入候得共、極手短にて宜敷御座候得ば、近々Yes or No之一語を御回報被成度奉希上候。何れ御快方次第小生も親敷罷出て重而御相談可仕候。

右御病気御見舞旁、得貴意候也

磯野大兄

五月廿八日

(封筒表) 猿楽町廿四番地

磯野計様 小野梓

煩親展

(「『小野梓全集』補遺(その三)」『早稲田大学史記要』第十八巻)

 小野梓のこの書幹は六月五日の日付であるが、その十数日後の六月十八日には東京専門学校臨時議員会が開かれ、ここで岡山兼吉の法律科を都心に移すとの提案は否決され、その結果、岡山兼吉山田喜之助両講師は東京専門学校を去ることになった。しかし、この臨時議員会においては、このような法律科に対する今後の措置が当然問題になってきている。講師山田一郎は法律科を廃止して、東京専門学校を純然たる政治の学校にすべきことを発言し、高田早苗も会計の事情から法律科は維持し難い旨の発言をして山田案に賛成している。しかし、俣野時中、沼間守一らから法律科廃止についての反対意見があり、また島田三郎は、両科が殆ど同じ講義を受けていたのを、学則を改正して法学と政学を分離すべしと提案している。東京専門学校の首脳とも言うべき小野梓および高田早苗の法律科存廃に対する気持、更に臨時議員会での議員の意見は以上の如くであったが、最終的には大隈の裁量に任されることになり、大隈の判断により、法律科の存続が決定した。

 なお、『山田霜岳稿、波瀾史』によると、この臨時会議の模様は以下の如くであった。

六月十八日、学校臨時会議ヲ開ク。沼間守一、藤田茂吉両氏新タニ議員トナリ出席セリ。余先ヅ議ヲ発シテ曰ク、熟ラ旬月間校勢ノ進歩ヲ見ルニ、凶兆日進大ニ憂慮スベキモノ頻ル多シ。而シテ其ノ最ナルモノヲ法学部トス。法学部ノ紊乱、此ノ旬月ニ至リテ極マル。紊乱玆ニ至テ極ルト雖、其自ラ来ル所、早ク業ニ本校創立ノ時ニアリ。爾来三年間本校ノ害ヲナスコト多クシテ利ヲ与フルコト少ナシ。之ヲ今日ニ截除スル、亦タ惜ムニ足ラザルナリ。翻テ将来ヲ察スルニ、斯ク講師人乏キガ如クンバ、到底之ヲ永遠ニ維持スルコト難シトス。仄ニ聞ク、今回英語法律学校ノ設立アリト。思フニ、本校法学部ト其性質ヲ同フスル者ナラン。則、学生ノ敢テ途ニ迷フ患アルコトナカルベキナリ。今日ノ要ハ、断乎法学部ヲ廃シ、本校ヲバ純然タル政治ノ学校トナスニ在リ。我輩ノ志ス所ハ、我邦学問ノ独立ヲ保チ、其教育ノ道ヲ全フスルニ在リ。此目的ニシテ達スルコトアランニハ、何ゾ瑣々タル事情ニ拘泥スルヲ須ヒンヤト。股野時中氏、沼間守一氏等之ヲ駁シ、既往ヲ以テ将来ヲ推ス可ラズトナシ、藤田茂吉氏ハ講師其人ヲ得ルコト容易ナリト云ヒ、岡山氏ハ廃スルニ及バズ、移スヲ可ナリトシ、島田氏ハ憲法ヲ改正シテ法学ト政学トヲ分離スベシト云ヘリ。議論錯 定マル所ナシ。高田氏、当局会計ノ事情等ヲ報ジテ法学部ノ維持シ難キヲ述ブルト雖ドモ、奔波ノ中耳ヲ傾クル者ナシ。島田氏言ヲ発シテ曰ク、如此ニテハ到底論局ヲナシガタシ、決ヲ総理ニ仰ガンハ如何ニ。余未ダ会議ノ状察スルニ余ガ意見貫クニ由ナクシテ、余ガ苦心水泡ニ帰スルコト亦タ疑フベカラズ。此際余ガ論拠ヲ打破サレ、以テ決ヲナサンヨリハ、寧ロ全ク総理ノ独決ニ帰スルノ愈レルニ如カザルナリト思惟センカバ、則チ氏ノ議ヲ賛成シテ曰ク、従来ノ組織ヲ変ジ議員講師全体ニテ有セル所ノ権利ヲ総理ニ奉還スベキナリ。衆議玆ニ定マル。之ヲ総理ニ白ス。

(一五葉の裏―一六葉の裏)

 法律科廃止は、大隈の裁量によって、辛うじて阻止することができたが、講師陣は壊滅してしまっている。しかし、このような法律科も、高田早苗らの努力によって辛うじて命脈を保つことができた。明治十八年(一八八五)九月二十五日刊行の『中央学術雑誌』第十四号に、左のような東京専門学校の各科受持表が掲載されているが、その法律科の部に、小野梓の書幹にも顔を出している三宅恒徳が一年の契約法、訴訟演習、二年の代理法、保険法、三年の法理学などを担任しており、更に一年の法律大意、刑法、二年の会社法、行政法、三年の行政法、財産法、擬律の担任者として俣野時中の名がみえている。

第八表 東京専門学校法律科受持表(明治十八年)

 しかしこれらの教師自体、どれだけ法律学に対しての学識を持っていたのか不明であり、学生は「眉唾で聴いた」り、「講師御本人にもよく分って居られたのかどうか疑問である」と当時の学生をして言わしめている(『早稲田法学』十三巻「法科回顧録」十二頁)。この時の講師に関直彦がいるが、関は大隈の改進党とは敵対関係にあった政府系の帝政党の人間であり、『日々新聞』の記者をしていた。この関に改進党の幹部であった高田早苗が同窓のよしみで東京専門学校に講師として来るよう慫慂し、関はオースチンの法理学やイギリスの訴訟法を彼が外遊するまでの三年間早稲田で講義している。

 この諸講師のうち三宅恒徳については後述(二六八頁)するが、ここでは俣野時中について簡単に触れておく。俣野時中は秋田の出身、司法省法律学校に学んだとあるからフランス法系統の人である。東京専門学校では寄宿舎監であった。後に本学を辞し明治二十三年(一八九〇)に『山形日報』が創刊されると、同『日報』の主筆として初号以降活躍している。

四 私立法律学校に対する政府の統制と東京専門学校

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 明治十三年(一八八〇)辺りからの数年は、私立法律学校の勃興期である。官立の法律学校と異なり、民の理論による法律学を研究教授しようとするものを含む私立の法律学校に対し、政府は「飴と鞭」の政策をとることによって、政府の統制の掌中に私立法律学校を収めようとした。この政府の政策とこれに対する東京専門学校側の対応を見ていこう。

 政府は、先ず明治十三年(一八八〇)に「諸学校通則」(勅令第十六号)を公布し、先述の如く私立学校に対する監督権を府知事県令の手に委ねることにした。そして明治十九年(一八八六)八月二十日、左の如き「私立法律学校特別監督条規」が文部大臣森有礼により帝国大学に下達されたのである。

帝国大学

東京府下ニ設置ノ私立法律学校ニシテ適当ト認ムルモノヲ択ヒ左ノ条規ニ依リ特ニ其学総長ヲシテ之ヲ監督セシムルコトアル可シ

明治十九年八月二十五日 文部大臣 森有礼

私立法律学校特別監督条規

第一条 文部大臣ハ東京府下ニ於テ適当ナリト認ムル私立法律学校ヲ択ヒ特ニ帝国大学総長ヲシテ之ヲ監督セシムルコトアルヘシ

但本文ノ学校ト雖尚一般私立学校ノ例ニ依リ地方官ノ管理ヲ受クヘキハ勿論タルヘシ

第二条 帝国大学総長ノ監督ニ属スヘキ私立法律学校ハ必要ノ普通学科ヲ修メタル者ヲシテ入学セシメ三年以上ノ課程ヲ以テ左ノ三科ノ一ヲ教授スルモノタルヘシ

但各科ニ掲クル法律中帝国ニ於テ既ニ制定頒布アリタルモノハ主トシテ之ヲ教授シ外国法ハ傍ラ之ヲ対照スヘキモノトス

仏蘭西法律科

第一年

法学通論

民法(人事篇)

私権、身分証書、住所、失踪、婚姻、離婚、父タルヿ、養子、父権、幼者、後見、丁年者、禁治産、裁判上ノ補佐人

同(財産篇)

財産区別、所有権、収実権、地役

刑法

第二年

民法

時効、契約、売買、交換、賃貸、貸借、附托偶生契約、代理、和解、会社

訴訟法

治罪法

第三年

民法

保証、質、書入質、先取権、相続、贈遺、遺嘱、婚姻、財産、契約

商法

擬律擬判

独逸法律科

第一年

法学通論

民法人権

同物権

刑法

第二年

民法

契約、親族、財産、相続

商法

裁判所構成法

治罪法

第三年

訴訟法

海上法

為替法

保険法

破産法

擬律擬判

英吉利法律科

第一年

法学通論

契約法

私犯法

代理法

刑法

第二年

親族法

組合、会社法

動産委託法

売買法

財産法

治罪法

第三年

財産法、破産法

証拠法

保険法

訴訟法

流通証書

商船法

擬律擬判

第三条 帝国大学総長ノ監督ニ属スル私立法律学校ノタメニ帝国大学総長ハ法科大学職員ノ中ヨリ委員ヲ選定シ常時及試験ノ時ニ於テ該学校ヲ臨監セシムルモノトス

第四条 該私立法律学校校主ハ毎月三日迄ニ其月ノ課業時間割表ヲ帝国大学へ差出スヘキモノトス

第五条 該私立法律学校ニ於テ定期試験ヲ行フトキハ少クトモ三日以前ニ校主ヨリ其科目及時間割表ヲ帝国大学へ差出スヘキモノトス

第六条 該私立法律学校ニ於テハ毎定期試験後二週間内ニ其成績表ヲ製シ校主ヨリ帝国大学へ差出スヘキモノトス

第七条 該私立法律学校ノ卒業生ニシテ帝国大学総長ニ於テ優等ナリト認メタル者ハ法科大学ニ於テ司法官吏立合ノ上更ニ試問ヲ為スコトアルヘシ此ノ場合ニ於テ試験及第ノ者ニハ及第証書ヲ交付スヘシ

第八条 帝国大学総長ハ委員ノ報告ニ因リ該私立法律学校校主ニ学科課程及教授法等ノ改正ヲ諭告スルコトアルヘシ

 そしてこのような帝国大学総長の特別監督に服した私立法律学校の卒業生のなかで「帝国大学総長ニ於テ優等ナリト認メ」られ「法科大学ニ於テ司法官立会ノ上更ニ試問」を受け、「試験及第ノ者」には司法省が判事補に登用するという特典が与えられるとした。

 この「監督条規」制定については、これより先明治十六年(一八八三)五月、穂積陳重ら七人の東京大学教授連名により文部卿福岡孝弟に出された「東京大学法学部内ニ別課設立ノ儀ニ付建議」を注目しなければなるまい。此の「建議」の中で彼らは「夫レ学識ノ標準尺度ハ之ヲ統理スルノ一黌所ナケレハ之ヲシテ統一ナラシムル能ハス苟モ統一ナラサルトキハ世ノ法律ヲ学習セント欲スル者其適従スル所ヲ知ラント欲スルモ亦得ヘカラス……」とし、繰り返し「標準尺度ヲ統理スル一黌所」の必要性を強調している。此の「建議」にみられる穂積らの思想は、頂点に位置した東京大学による法学教育の統制であり、「別課」については予期した効果は挙げられなかったが、東京大学による東京府下の私立法律学校の統制については、三年後の明治一九年(一八八六)に至り、文部省により「監督条規」として実現されるに至ったのである。

 この「監督条規」を承認しなければ、私立法律学校は政府からの諸特典を受けることができず、自滅せざるを得ない。東京専門学校も「監督条規」を受け入れざるを得なかった。かくて、「私立法律学校監督委員長」穂積陳重のもと、土方寧が東京専門学校の「監督委員」に就任した。

 「監督条規」を受入れることにより東京専門学校では規則改正および教員の補充を行った。その結果を、次表の明治十九年から同二十年にかけての教員とその担当学科名に見ることができる(資料は「学年試験問題および出題講師」『中央学術雑誌』四十八号、五十六号、「法学部時間割表」(東京大学庶務課文書)、明治十九年私立法律学校往復及雑書)。

第九表 東京専門学校法学部教員および担当科目(明治十九―二十年)

 右の諸講師のうち、法律科目を担当した人々の略歴は次の如くである(平凡社『大人名辞典』等より編集)。

◦磯部四郎 嘉永四年(一八五一)富山藩士の四男に生れる。明治四年大学南校入学、翌明治五年司法省法律学校に転ず。明治八年フランスに留学、同十二年帰朝。判事。明治十七年司法省権大書記官、同十九年大審院判事、明治二十一年司法省刑事第二局検事、明治二十四年大審院検事、同二十五年退官、その後は法典調査会委員、弁護士会会長、衆議院議員、法学博士、大正十二年関東大震災で没。

◦伊藤悌治 安政六年(一八五九)越後国で出生。明治十六年東京大学法学部卒業、判事に任ぜられる。東京・仙台などの始審裁判所、東京控訴院評定官を経て、明治二十五年東京控訴院部長、同二十七年大審院判事。明治十九年より同二十年にかけて、東京専門学校の教檀に立ったのは、東京控訴院評定官の時代である。著書は、それぞれ東京法学院の出版であるが、『相続法』(明治二十五年)、『債権総論』(明治三十三年)、『地役法』(明治二十五年?)がある。

◦片山清太郎 鳥取県出身、法学士、経歴は目下の処不明。東京専門学校在任は明治十九年三月より同二十一年七月まで、著書としては『分析法理論』一号―六号(盛岡・金子定敬編、明治十七年)がある。

◦高橋捨六 文久二年(一八六二)福井藩士の子として出生。明治十八年東京大学法学部卒。同年大蔵省に入ったが、「幾許もなく辞して弁護士となり」、明治二十五年代言人組合会長、またイギリス法律学校の創設に尽力、明治二十一年専修学校校主、後に日本銀行、正金銀行の顧問、正金銀行副支配人、同監査役、大正七年歿。東京専門学校講師の時代は、弁護士を職としていたと思われる。著書としては、『英米身分法』(明治十九年)、『身分法』(明治二十二年)、『日本親族相続法義解』(明治三十二年)、『動産法講義』(明治二十一年)、『親族法』(明治二十二年)がある。

◦中橋徳五郎 明治元年金沢藩士の子として出生。明治十九年東京大学法学部選科を卒業、大学院に進み商法を専攻、判事補として横浜始審裁判所詰、爾来特許局審査官(明治二十一年には農商務省特許局審判官)、農商務省参事官等を経て明治二十二年欧米に出張、帰朝後、衆議院書記官、明治三十一年鉄道局長、日清戦争後大阪商船会社社長として社運の挽回に努める。大正七原内閣文部大臣、昭和二年田中内閣商工大臣、昭和六年犬養内閣内務大臣、昭和九年歿。

◦松野貞一郎 東京専門学校の講師として在任した期間は明治十九年より同二十四年七月までであり、同講師は、法学士で当時東京始審裁判所判事補である。その他は目下不明であるが、著書としては、『各国比較法理論』(マッケンジー訳)(明治二十四年)、『英国財産法講義』(明治十八年)、『海上法』(海軍主計学校)(明治二十三年)などがある。

◦関直彦 安政四年(一八五七)和歌山藩士の二男として出生。明治十六年東京大学法学部卒業、東京専門学校講師の時代は、前出のごとく「日々新聞」の「日報社」に入る、のちに弁護士となり、また第一回総選挙に立候補し当選、進歩党、国民党に属し、衆議院副議長、昭和二年貴族院勅選議員、昭和九年歿。著書としては、『議院法』(明治二十二年)、『衆議院議員選挙法』(明治二十二年)。『オースチン氏法理学』(明治二十一年)、『大日本帝国憲法』(明治二十二年)、『英国訴訟註釈』(ブールーム訳)(明治十九年)などがある。

◦三宅恒徳 明治元年金沢藩道済館に入りフランス語を学ぶ。明治十二年東京大学法学部卒業、東京大学より法理学飜訳嘱託、同十三年司法省より英法義解飜訳嘱託、同十四年石川県専門学校教授、同十五年私立弘猷館を興し、県下各郡に法学会を設け法律理財の学科を教授、十六年石川県会補欠議員当選、東京専門学校には明治十八年九月より同二十三年十一月まで在任、その後、逓信省嘱託、陸軍省嘱託などを歴任していたが、明治二十八年官命を奉じ、台湾に赴き同年十一月瘴毒により台南において歿す。著書としては、『英国財産法講義』(明治二十一年)、『浩氏国際法』(明治二十一年)などがある。

 「私立法律学校特別監督条規」は明治二十一年(一八八八)五月五日の文部省令第三号の左の如き「特別認可学校規則」の公布により廃され、政府は特別認可学校制度を発足させた。

明治二十年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規則第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ニ関シ特別認可学校規則ヲ定ムルコト左ノ如シ

特別認可学校規則

第一条 本令ニ於テ特別認可学校ト称スルハ明治二十年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規則第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ヲ謂フ

第二条 特別認可学校ハ修業年限三箇年以上ニシテ法理学法学通論憲法行政法民法訴訟法刑法治罪法商法国際法財政学理財学統計学史学論理学等ノ諸学科中七科目以上ヲ学修スル為メ一定ノ課程ヲ設クルモノタルヘシ但法律学ヲ主トスル学校ニ於テハ擬律擬判ノ課ヲ設クルヲ要ス

第三条 特別認可学校ニ入学スルコトヲ得ヘキ者ハ年齢満十七年以上ニシテ尋常中学校卒業証書ヲ有スル者若クハ国語漢文外国語地理歴史数学ノ各科ニ就キ尋常中学科ノ程度ニ依リ試験ヲ経テ及第シタル者ニ限ル但数学中三角法ハ之ヲ除キ代数幾何ハ其初歩ニ止ムルコトヲ得

第四条 特別認可学校二年級以上ニ入学スルコトヲ得ヘキ者ハ前条ノ資格ヲ有シ且該級生徒ノ歴修シタル各級諸科目ニ就キ試験ヲ経テ及第シタル者ニ限ル

第五条 特別認可学校ノ入学ハ予メ学則ニ於テ其期日ヲ定メ置クヘシ

入学試験ヲ行フトキハ試験期日三十日前ニ其科目及日限時間割ヲ該学校長ヨリ文部省ニ申報スヘシ

第六条 特別認可学校長ハ其入学ヲ許シタル生徒ノ族籍姓名年齢及試験答書並評点ヲ具シテ入学期日後二十日以内ニ文部省ニ申報スヘシ但尋常中学校ノ卒業証書ヲ有スル者ハ其校名及年月日ヲ記載スヘシ

第七条 特別認可学校ハ毎学年ノ終ニ学年試験ヲ行フヘシ其科目及日限時間割ハ試験期日三十日前ニ試験成績ハ試験後四十日以内ニ該学校長ヨリ文部省ニ申報スヘシ

第八条 特別認可学校ニ於テ最終ノ学年試験ニ及第シタル者ニハ左式ノ卒業証書ヲ授与シ其族籍姓名ハ授与ノ後十日以内ニ該学校長ヨリ文部省ニ申報スヘシ

(書式略)

第九条 文部大臣ハ特ニ委員ヲシテ特別認可学校ノ試験ニ臨監セシメ及管理授業等ノ実況ヲ視察セシムルコトアルヘシ

 「特別認可学校規則」は、「私立法律学校特別監督条規」を引き続き発展させた性格を持っており、第九条にあるように、政府の私立法律学校に対する監督と統制は依然として継続されていた。

 先述の如く、東京専門学校は在野の巨頭大隈の学校であり、その法律科は、自ずから民の論理による法律学を教授する学校として民・官から意識されていたであろうし、そのことが政府にとって東京専門学校は「反逆人の養成所」のように思われていたであろうし、それ故に「政府筋では何だか意地悪く大隈伯の計画になった学校を苛めるやうな傾き」があったのである(前掲『早稲田法学』第十三巻四頁)。既にして人口に膾炙されたことではあるが、政府の密偵が学校内を徘徊するような次元の低い嫌がらせなども行われており、砂川講師の辞任にしても同講師自らの弁で、この辞任については背後で政府が糸を引いていたことが推測できるとしているし、また法律科移転案、そして、岡田・山田両講師の辞任についても背後に政府の黒い手が働いていたことは周知の事実とされている。このような東京専門学校に対する政府の態度とは対照的に、政府の好みに合った特定の法律学校すなわち、独逸協会学校、和仏法律学校そして東京法学院に対しては多額の補助金の支給が、また司法大臣や帝国大学による支援などが行われていた。さすがにこれに対しては厳しい批判が巻き起こり、明治二十四年(一八九一)一月十九日の帝国議会衆議院第一回通常会予算案全院委員会の議事において、特定法律学校に対する政府からの補助金支給を廻って加藤六蔵、浅野順平そして高田早苗の諸議員からの質疑と政府委員である箕作麟祥司法次官からの答弁が次の如く行われた。

◦加藤六蔵君(二百四十七番) 私がお問ひ申しますのは臨時の歳出の第三款第一項の法律学校補助、第一独乙協会学校、第二和仏法律学校、第三の東京法学院、此の三に就いて質問します、何故に此の三の学校に補助するか、東京に私立学校も大分あるやうで御座りますが、外の学校を一様に補助せずして、唯此の三つの学校に補助するは、どう云ふ訳でありますかと云ふことを質問致します、其の事に就いて委しくは申さぬ、唯要領丈を四つばかりお答を願ひます、第一何故に此の学校に補助と云ふことは承りたい、第二に若し此の学校に補助しなければならぬと云ふことにした所が、なぜ此の三校に補助するかと云ふことを承りたい、第三に止めてはどうか、此の学校などに補助すると云ふことは止めてはどうか、第四に若し止められぬ斯う云ふ約定書がある、或は斯ふ云ふ命令書があるとか、或は斯う云ふ内情があると云ふことならば、それを承りたい、或は約束書があればそれを御朗読を願ひたい。

◦浅野順平君(百六十四番) 学校のことに就いて本員も質問します、第一項の独乙学協会学校は昨年まで二万円の補助をしたのが、本年になって五千円に減じてある、其の減じたる理由を承りたい、最早二万円の補助をしなくても五千円で足りると云ふことであれば、昨年迄は二万円なければ此の学校が立行かないのが、本年に至って一万五千円を減じて、忽五千円で成立つて行くと云ふ理由を伺ひたい。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) お答を致します第一番に何故に此の補助金を遣ると云ふお問に答へますが、定めし御承知でも御座りませうが、司法省には以前法律学校が――官立のものが出来て居りまして、是は正則生変則生と云ふ者がありまして、今日此の判事検事になって居りまする者は、多くは其の学校で卒業した者があります、所が是も先年廃して仕舞ひまして、即大学の方の法学部で卒業した所の生徒を以て、判事検事にすることになって居りますが、何分大学……法科大学から出まする丈の人数では欠乏を告げます、段々法律学校も出来まするがまあ兎に角此の大学ばかりでなく、他の法律学校で法律学者を拵へて貰って、それを以て此の判事検事或は卑い所は書記までも用ゐなければならぬと云ふ必要を感じましたが、即此の補助金を与へることになりましたる第一の原因で御座ります、次に第二にそれなればなぜ三学校にのみ遣って外の学校に遣らぬか、是は即三学校が先づ司法大臣の見込のところでは一番私立学校の中でも、即此の特別認可学校とか申するやうなことになって居って――、外の特別認可学校もありますが――、此の法律学校の中で随分教則もよし教員もよし、補助するに適当の学校と認めました訳で御座ります、それから何か之を止めではどうか、契約でもあるかと云ふお尋が第三にあったやうでありますが――、若し間違ひましたら御免を蒙ります。

◦加藤六蔵君(二百四十七番) 第三は止めてはどうかと云ふのは只今お述べになった如く、元は判事が少かったかも知れぬ、又学校もよい学校がなかったかも知れぬが、今日は……多くて困ると云ふ事実があるやうで御座います、殊に判事は終身官で人も然う沢山要らぬから、止めてはどうかと云ふので御座います。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) どうもそれは只今の所では今述べた通り、法科大学に養成する所の法学者ばかりでは、判事検事並に書記までに致す所の人数には足りないと斯ふ考へましたので、此の三学校に補助をして然うして適当なる法学者を養成して貰う、で最う一つは此の何のことで御座います、契約と申すものは無いんです、即此の三学校から銘々願書を出しまして、其の願書に対して一寸申せば玆で暗誦はして居りませぬが、「願の趣は聞届ける其の学校に一年五千円づゝ下附するから、それを以て人才を養成する資に充てろ」と云ふことになって願を聞届ける、斯う云ふことになって、契約と云ふやうなことはないのです、それから何番で御座いましたか、あとから別にお尋になった独乙協会学校のことで御座りますか、是は初の節は二万円づゝ給与することになって居りましたが、他の学校は五千円宛で御座ります、独乙協会学校も初の程は余程の経費を要しまして、それ丈のものを仰がぬと学校か立ちませぬ位であって、之を補助するには二万円を遣らなければならぬと云ふ必要を感じましたが、追々基礎も立って参りまするし、他の学校と同等の額でよからうと云ふ考で、二十四年度は他の学校と同様に致しました。

◦加藤六蔵君(二百四十七番) 別に約定書もないと云ふお答でありますが、然して見れば止めた所が別に司法省に小言を云ふて来るとか、或は司法大臣が困ると云ふことはないので御座いますか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) それは小言を云ふことはないと云ふのは、二万円を五千円に減じた所が、それ迄のことで御座りまするから、止めても司法大臣が困ると云ふことはありませぬが、只困るのは止めれば判事検事を養成する、所謂源が塞がると云ふことには甚だ困ります。

◦加藤六蔵君(二百四十七番)二万円を五千円に減らす例もありますから別に聴かなくても宣しい。

高田早苗君(百十六番) 今の政府委員の説明に依ると、司法大臣が三つの学校を選んだのは、三つの学校が規則も適当であると云ふことであるが、特別認可学校として同じ地位に立って居るものは、明治法律学校もあれば東京専門学校もあり又専修学校もある、其の中特に三学校を選んだと云ふことに就いては、其の理由其の標準があったことであらうから其の事を伺ひたい、それから最う一つは此の保護金をしなければ、判事を採る丈の人数を其の特別認可学校からして供給しないのであるか、此の保護金があるが為に此の人数が出来るのであるか、保護金を与へない学校からは其の人数を採らぬのであるか、其の訳柄を聴きたい、最う一は願書と云ふものはどう云ふ願書であるか、其の学校が貧乏で独立が出来ないから、其の銭を呉れ――と云ふ理由であるか、又は外に理由があるか、其の願書の文面があればお読上を願ひます。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 何故に外にも特別認可学校がある、即明治法律学校とか、専修学校とか、専門学校とか云ふものがあるに、なぜ此の三の学校を特に選んだかと申すると、是は別にどうと云ふ標準はありませぬ、即此の三学校が適当だらうと云ふので、英、仏、独とあってそれ〱の請願に依って、司法大臣も其の三学校のものを一つ宛選んで許したので御座いますから、どう云ふ標準でどうすると云ふお答を致す訳に参りませぬ、それから第二の御質問は是は此の補助金を貰ひたいと云ふのは詰り良い教師を雇ひ、良い教育の方法をするには何分私立のことで力がそれに及ばぬから、保護を請ひたいと云ふことでありますから、即其の願を上げて良い教育を受けて良い生徒を作るやうにしてやって即適当なる判事検事を養成して貰ひたいと云ふことであります、只今願書があれば読めと云ふことでありますが、読みましても随分長く御座いますから、若し読まずに済むことならば書面を上げるやうにしたいと思ひます。

高田早苗君(百十六番) 宜しい、第二の保護をした学校から判事が出るか、外からも出るかと云ふことは。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 決して然う云ふ訳ではありませぬ、之を保護しても判事検事になる者は此の三学校に限る訳ではありませぬ、保護をすれば適当の人間を余計出すだらうと云ふので、外の学校からの人間を採らぬと云ふ訳ではありませぬ。

高田早苗君(百十六番) 保護をなすつた所の方が余計人が上って居りますか、外の学校の方が余計出て居りますか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) それは只今統計表を持って居りませぬから、取調へて申上げます。

高田早苗君(百十六番) 序に最う一つ――此の願書は外の学校からも均しく出て、然うして均しく外から出た中で、此三校だけを選んだ訳であるか、或は外の学校から願書が出ないのであるか、外の学校から出たのは採らぬのであるか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) それも取調べてお答へ致します。

(明治二十四年一月十九日(月)予算案全院会議事日程第三十号)

 高田議員は、更に一月二十九日(木)の会議(議事日程第三十二号)においても引き続き質問を続けているし、また鈴木議員も関連質問をしている。

高田早苗君(百十六番) 私は少し私立学校の事に就いて質問を致します、其の質問の要点は即私立学校に保護を与へる、其の保護を与へた学校の方から出た判事の方が多数であるか、又は保護を与へない学校の方から出た判事の方の数が多数であるかと云ふ点と、今一つ此の請願書と云ふものは総べての認可学校が差出して居るものであるか、或は或二三の学校のみからして、保護の請願と云ふものが出て居るものであるか、此の二点を畢竟伺ひますのは、私の聞きました所に拠りますと云ふと、請願書なるものは総ての認可学校から出て、其の中で以て司法省が選んだと云ふ訳でなく、保護を受けた学校のみから出たと云ふことを聞きましたからであります又最う一つ判事のことに就きましても、保護を受けた学校の方から出た判事の方が小数であるかも知れぬ、却って保護を受けない学校の方から多数の判事を出すと云ふかも、知れぬと云ふことを聞きましたからして、畢竟彼のお問を起したので御座ります、併ながらそれに就いては政府委員からのお話に依りますと、後にお調べになって調書をお廻しになったと云ふことで御座りますから、それに就いて拝見致しましたらば分りますことゝ思ひますが、爰に序に最う一つ伺って置きたいことが御座ります、それは外のことでも御座りませぬが、先日政府委員のお話しに依りますと云ふと、元司法大臣が此の三校と云ふものを保護すると云ふことになされたのは、此の三校が法律の生徒を養ふのに適当である、即判事検事等の候補者を出すに、最適当のものであると云ふことからして、保護をなされたと云ふことで御座りますが、是は私の聞込みました事実が御座ります、其の事実は外でも御座りませぬが、彼の保護を為す時に当って仏学会とか云ふものがある、其の仏学会と云ふものが一の仏学校を起した、所が当時保護を為す時に当っては、其の仏学校なるものはまだ普通学を教へて居って、法律学と云ふものは教へて居らなんだ、所が政府が保護をするに就いて、之を改良して法律の科を設けしめ、而して是が保護を為したと云ふことで御座ります、若し然うでありますか、果してそれが事実であると云ふことで御座りますれば、余程是は疑はしきことであります、何となれば今迄法律の生徒を養成して而して其の成績がよかった、それが適当であると云ってなれば分りますが、まだ法律の生徒を養はない学校を勧誘して、法律の科を設けて生徒を養はしめ、而して保護を為すと云ふ事であれば、即未来を期した事であって、実に成績に徴したものでない、然うすると何故に適当であるか適当でないかと云ふ差別を為さずして、保護を与へる事になるから余程疑を生ずる訳であります、斯う云ふことを聞きましたが、或は間違かも知れませぬけれども、私は確に聞いた話であって確信して居ることで御座ります、併し其の事実と云ふものがそれでは間違かも知れませぬが、其の事実の有無と云ふのは若し一事実と云ふことであれば、適当不適当と云ふ標準の立方が余程妙であると考へるが、どう云ふ訳で然ふ云ふ標準が立った訳でありますか、夫等の点に就いて甚お手数で御座りますが、今一応御説明を願ひたい。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 是は只今の質疑者は然ふ云ふことをお聞込になったかは存じませぬが、即此仏学校或は仏学会会長と云ふものが連名で司法大臣に向って請願書が出て居ります、其の請願書に対して指令が出て居りますが、其の請願書を御一読下されますれば、即口頭でお答へ申すよりも明瞭に分りますで御座ります、どうかそれを一読の上御考究を願ひたい。

高田早苗君(百十六番) 請願書にそれが書いて御座りますか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 書いて御座ります。

高田早苗君(百十六番) 其の学校に法律科が其の時に有ったか、無かったかと云ふこともありますか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 書いてあります。

高田早苗君(百十六番) 又何時設けたものであるかと云ふことも書いて御座りますか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 書いて御座ります。

◦鈴木万次郎君(二百六十番) 只今の質問に連帯と云ふ訳でも御座りませぬが、此の第三款の表の独乙学協会学校の補助と云ふものが御座りますが、是は法律学校では御座りませぬが、何故に司法省に於て保護をせらるゝのであらうか、此の点に付いて伺ひたいからお問を致します。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 此の独乙学協会学校は普通専修の両科が御座りまして、専修科と云ふは政治、法律学科を専ら教へるものて御座りますが、即専修科に対しては此の学校は法律学校と申して宣しい、即法律を教へる訳で御座ります。

◦鈴木万次郎君(二百六十番) 専修科には幾人の生徒が御座りますか。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 只今独乙協会学校の専修科の生徒は幾人あるかと云ふ尋ねで御座りますが、只今是は即答が出来兼ねますから調べて申します。

◦鈴木万次郎君(二百六十番) 全体の生徒の数並に専修科の数は幾人と云ふことは只今分りませねば後に調べてお廻しを願ひます。

◦政府委員(司法次官箕作麟祥君) 宣しう御座ります。

◦全院委員長(島田三郎君) それでは此の際に一寸申して置きますが、六十七番から最早質問を止めたいと云ふ発議がありまして賛成も御座りますから、二百三十八番の御質問が終りましたならば、査定案の方に移ります積で御座ります。

 かくて同日で政府案に対する質疑を終わり、引き続き査定案が審議されるに至ったが、これについて主査の武富時敏議員より、学校補助については予算委員はこれを廃したいとの発言がなされている。即ち

◦武富時敏君(二百三十七番) (上略)

それから次に申上ますのは、第三款の学校の補助のことは予算委員は廃したい考で御座ります、是は此間から段々御質問も御座いましたが、是は更に契約等のことは御座りませぬ、又唯学校より願出てゝ、其の願に指令が附いて当分の間補助を給することになって、居るので当分であって何年とか何とか云ふ契約らしい文字は更に御座りませぬ、既に此の学校に補助を与へましたことも最早四年であります、最早四年の間政府の方で補助を致しました以上は、其の間に学校の基礎も立って居なければならぬ、何時までも補助をして置かなければ、其の基礎も立たぬと云ふやうな学校であって見れば、補助をしても将来望みのないものである、最早四年補助を致した以上は充分であるそれで此の二十四年度以後は、補助を廃しても更に差支へあるまいと云ふ委員の考で御座ります、(後略)

 かくて、この三校に対する補助金は予算から削除されるに至った(以上『大日本帝国議会誌』第一巻、七五三、七五四、七五五、七六五、七六六頁)。

 政府は人を動かすことによって、東京専門学校法律科を事実上骨抜きにし、更に私立法律学校に対し若干の飴と引き換えに強い枠をはめたのである。すなわち、その「特別監督条規」とか「特別認可学校規則」とかいった枠をはめられることに目をつぶった場合においてのみ、私立法律学校はその卒業生が明治二十年(一八八七)七月の「文官試験試補及見習規則」(勅令三十七号)によって文官試験受験資格が認められるなど官僚機構のささやかな一部にありつける可能性を与えられることになった。更には明治二十二年(一八八九)の徴兵令の改正により、従来官公立学校学生のみを対象としていた徴兵猶予、更に一年志願などの特典といった飴が与えられた。このような飴の魅力がなければ私立法律学校に学生が参集することは、当時として無理であり、飴を求めんとすれば政府の枠を甘受しなければならなかったのである。それは、東京専門学校法律科に期待された、法律学を政治との関連において「民」の論理で究めんとすることに対して、法律学から政治を分離させ、法律学を単なる技術の次元に落し、更に法律学を民の論理から切り離し体制側の論理として民衆支配の道具としてしまうものでしかなかった。開校時の東京専門学校法律科に対して抱いた民衆の期待は、以上のような政府の施策によって完全に押し潰されてしまったと言わざるを得まい。そして他方、明治二十一年(一八八八)二月一日には、大隈重信は外相に就任し、東京専門学校も以前の如く政府から仇敵視されずに済むようになり、学校自体は安定してきている。この期を境にして東京専門学校法律科は、講師に困ることはなくなった。その後帝国大学の人々や判検事の人々が私学出講の禁を解かれ東京専門学校法律科に教鞭を執りに来ているが、官学が体制内における将校養成機関とすれば、東京専門学校をはじめとする私学の法律科は、たかだか下士官養成の機関としか認識されなかったし、そのようなことに満足することによってのみ、私立の法律学校は生存が可能であったのが当時の状況である。

 話は前後するが、明治十八年(一八八五)、東京専門学校は政治科、法律科ならびに専修英語科を卒業した者を学ばせるため高等科を設けた。そして、そこでの「法学講義并質問」については三宅恒徳、俣野時中が当ることになっていた。この高等科と前掲「私立法律学校特別監督条規」との関係について高田早苗は明治二十年(一八八七)の卒業式報告の中で、法律科では「監督規則」外の課目をいろいろ含んでやって来ており、それら万国公法、私法、憲法、羅馬法、列国交際法といった「監督規則」外の課目を高等科とし、尋常科の課目は「監督規則」に基づいて編成する。従来は課目も多く、従って時間も多かったから、「監督規則」に従えば相当時間に余裕ができてくる。そこで、ドイツ刑法、イギリス刑法の研究、それらと日本の刑法との比較など学生に対して委しく講究する時間ができたと報告している。しかしこの高等科は、明治十九年(一八八六)三月より従来三年制であった東京専門学校を四年制に改革し、各学科の名称も「学部」と改めた際、法・政両学部において原書研究に重点をおいた第四学年の学科へと一時吸収されることになった。しかし明治二十年(一八八七)六月一日「私立東京専門学校諸規程取調書」を、また更に九月九日には「八月十三日御尋問の条々御答」を東京府知事に提出しているが、それらに添付された課程表には、文部省の要求に従い、法学部は政学部とともに三年制に戻り、その上に高等科が置かれるに至っている。これは恐らく、文部省の行政指導の結果このようなことになったのであろう。高等科は「一学年ノ間洋書ニ就テ講究セシメ且ツ高尚ナル邦語講義ヲナス」としている。

第十表 東京専門学校法学部課程表(明治十九年)

 明治二十年(一八八七)九月東京府に提出された「東京専門学校現状尋問の件」についての返答書における課程表は次の如くである。

第十一表 東京専門学校法学部課程表(明治二十年)

 明治二十一年(一八八八)五月五日に先掲の如く「特別認可学校規則」が公布されたが、東京専門学校は、その六月二十日、この「規則」に準拠した学則を公表し、法学部を法律科と改称し、課程表を改正している。

第十二表 東京専門学校法律科課程表(明治二十一年六月)

法律科

行政科

 すなわち、この課程表からは高等科が消え、また、法律科のみならず政治科、英学科(本科)もそれぞれ三年制になっている。なお、この課程表からは窺い知ることはできないが、「本則中法律科即チ司法科ヲ第一法律科ト称シ又行政科ヲ第二法律科ト称ス」との改正の付箋が貼付されており、第一・第二の法律科の別がこの時から始っている。

 ところで、「特別認可学校規則」を東京専門学校が受け入れることに対しては、当時の東京専門学校の学生の間で当然とはいえ相当の拒絶反応が出ている。特に政治科の学生達の反発が激しかったので、学校は政治科の外に行政科を作った。これに対し学生達は「学校が政府の干渉に屈するものだ」と言って騒いだが、この時高田早苗は全学の学生を一堂に集め「学校は依然独立である。ただ校内の一部の科が政府の意見を聴いたまでである」と弁じ、学生を煙にまき、騒動を治めたと伝えられている。

 この年、満十四歳以上で、高等小学校卒業、もしくは、これと同等の学力のある者であって、政治科、第一・第二法律科、および英語普通科に入学しようと欲する者の準備のため二年制の予科を設立した。これは「特別認可学校規則」第三条に特別認可学校入学資格の一つとして満十七歳以上の者とあり、それまでの東京専門学校入学資格年齢との差を埋めるためにこのような措置を採ったのである。また、この予科の上に二ケ年の英語普通科、そして、その上に英語専門科として、英語第一法律科(司法科)および英語第二法律科(行政科)を含む三ヵ年の課程がつくられ、英語専門科には、英語普通科の卒業生、更に邦語専門科および英語兼修科を併せ卒業した者などが入学を許された。

第十三表 東京専門学校英語法律科課程表(明治二十一年十月)

英語第一法律科(司法科)

英語第二法律科(行政科)

 この英語専門科の出現は、東京専門学校の当局者が「特別認可学校」制度に併わせて学科目を編成するとスケールが矮小化するデメリットが出てくると考え、そのデメリットを避けるために採った措置と考えられるし、当局者が「恐くは彼の大学に優るあるも劣ることなかるべしと思わる」として、帝国大学を意識している点、また、前掲の小野梓の書幹にも見える如く、東京専門学校は、法律科においても英法系統を貫いてゆかんとしている点が、ここでもみられている。そして、此回のこの改定は将来において、学部・専門部へと発展してゆく素地を作ったとみてよい。

 明治十五年(一八八二)からの約七年間は、東京専門学校、特にその法律科草創期において、一時休学をすら当局者が考えた如く、疾風怒濤に揉みに揉まれた期間であり、明治二十一年(一八八八)頃に至り、やっと草創期の困難を克服して安定期に入ったと言える。しかし、その安定は、政府の力に圧服され、創立時に人々が東京専門学校法律科に対し期待していたものを捨てることによって得られた安定でしかなかったのである。

五 我が国における近代法典編纂期と東京専門学校法学科

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 明治二十二年(一八八九)二月には憲法が発布され、翌明治二十三年(一八九〇)には第一回帝国議会が召集された。

 ところで、明治二十四年(一八九一)に制定された「判事検事登用試験規則」の第五条により「特別認可学校」卒業生には、判事検事登用試験の受験資格が与えられるとした。因に、この試験は、二回受験しなければならなかったのであるが、第一回の試験に合格すると試補として実務修習を行い、第二回目の受験資格が与えられた。帝国大学法科大学卒業生は、この第一回試験免除の特権が大正七年まで引続き与えられていたが、東京専門学校法律科など「特別認可学校」卒業生に対しては、第一回試験受験の許可が与えられたに過ぎなかった。そして明治二十六年(一八九三)十月九日司法省は、判事検事登用試験規則第五条を改正し、この資格について「官立学校及司法大臣ニ於テ指定シタル公私立ノ学校ニ於テ三年以上法律学ヲ修メタル証書ヲ有スル者」とし、この年の十一月四日には「特別認可学校規則」を廃止した。そして十二月十四日の司法省告示第九十一号により、東京専門学校法律科は、判事検事登用試験規則第五条における司法省指定校となっている。なお、「特別認可学校規則」が廃されても、文部省令により、在学中の徴兵猶予と卒業後の「一年志願」の特権は、依然として東京専門学校法律科など旧「特別認可学校」には引続き与えられていた。この特権は法律科の学生についてのみ与えられたものであり、他科の学生にまでこれが認められるに至るのは明治三十二年(一八九五)まで待たねばならなかった。

 東京専門学校は、ともかくも草創の混乱期をくぐり抜けた。そして、その法律科は、政府の施策により、その期待された特性を喪失せざるを得なくなったが、生き延びることは生き延びたし、法律科は法律科なみの安定をみることができるようになった。そして、明治二十五年(一八九二)九月には「各学部課目ノ改正ヲナシ必要課目ノ増加ヲナスコト、及ビ参考課目ヲ設クルコト。各学年学課目ノ順序ヲ改ムルコト。各学課目ヲ系統的タラシムルコト」などを目的として課程表の改定を行ったのを手初めに、その年以降も、カリキュラムの改定を行い、学科目の充実を図っている。明治二十二年(一八八九)には、憲法が発布され、翌年には第一回帝国議会が召集された。更に明治二十三年(一八九〇)には、いわゆる法典論争によって、その全部または一部が施行されるに至らなかったとはいえ、民法(旧民法)および商法(旧商法)が公布され、また裁判所構成法、民事訴訟法、法例など基本的法典が次々と公布された。それに伴って従来の外国法に依存していたカリキュラム編成から日本の法律を基本にしたカリキュラム編成へと、カリキュラム編成の基本が変貌していったのである。これを明治二十三年(一八九〇)課程表でみると次の如くになる。

第十四表 東京専門学校法学科法律科課程表および講師(明治二十三年)

法学科

法律科

 以上のように明治二十二年(一八八九)の憲法をはじめとして近代的諸法典が続々と制定されるに至ったが、これらの諸法典の多くはドイツ法を母法として制定されており、それ故に、明治時代後期における法律学の研究者や学生の多くが、英法や仏法に比べドイツ法の研究や勉学に傾斜していったことは言うまでもない。明治二十五年(一八九二)の次の如き課程表をみてみよう。

第十五表 東京専門学校法学部課程表(明治二十五年)

 この学科配当では、英語法律科および英語行政科が早くも省かれているが、これは、この法科の両科に対する志望学生が減少し、この一・二年においては、十名に達しない卒業生を出すに過ぎなくなったので、財政的にも問題が出てきたため休講扱いになっていたのである。そしてこのような勢いは、東京専門学校の草創期においては英法が主流を占めていたのに対し、明治三十年代に入ると独法や仏法が英法と肩を並べ、そして遂に、明治四十年(一九〇七)の次の如きカリキュラム表となっていく。

第十六表 大学部法学科課程表(明治四十年)

 これによると、法学科の外国語はドイツ語のみとなり、また法学原理・民法・商法総則の講義や債権法・手形法・海商法・刑法の「名著研究」はすべて独書となっている。このような傾向は明治三十五年(一九〇二)に英法のほかに独・仏法の課目を特に設けたことに始まり、明治三十七年(一九〇四)頃より、独法がかつての英法に替る地位を占めるに至ったのである。この頃の学生は、杉田金之助に英法としてテリーの「法律原論」を、また中村進午に独法としてガーライスの「法学通論」をといったように英法・独法兼修であり、特にガーライスの「法学通論」には手を焼いたと、当時の学生で後の教授寺尾元彦は述べている(『早稲田法学』第十三巻・一一二頁)。そして明治四十三年(一九一〇)の学制の改正により、法学科は、独法科と英法科に分かれ、それまでのように、学生の英法・独法兼修が行われたといったことがなくなった。

 これより先、東京専門学校法律科の基礎が安定したことにより、明治三十年(一八九七)にはその学科配当表を若干拡張することを行っている。ところで『早稲田学報』(明治三十年八月発行第六号)によれば、この頃東京府下の私立法学校を合併して法律的大学を創立しようとする企があり、この企を司法省内部でも保護奨励しているとかで、東京専門学校にもその勧誘のための照会があったとしている。この照会に対し東京専門学校は、「(一)本校既に実際的私立大学の地歩を占むる今日に於て、更に新規創業の困難を冒して他の大学を起すの面倒を見るに及ばず。(二)且本校には法律科ありと雖も法律科は本校の全部に非ず。政科文科英科の各部を聯絡して一貫の主義を有するが故に、若し其一を欠損することあらんか、他の学部に非常の影響を及ぼすべし。(三)斯学をして権勢の覊絆を脱し、以て社会に独立せしむるは本校の主義なるに、今また官辺の保護奨励を仰ぎ、其の庇蔭に由りて漸やく維持を計るが如きは、本校実に其の必要なきのみならず、最も潔しとせざる所たり」との理由で断然之を拒否している。このような理由で提案を拒否したことにより、当時の東京専門学校法律科の安定度と、それに基づく人々の自信をみることができる。そして他方においては、この期に及んでも、まだ私立法律学校に容喙しようとする政府の姿がみられる。

六 東京専門学校から早稲田大学へ

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 明治三十一年(一八九八)、東京専門学校は社団法人となったが、この前後からの悲願であった大学部の開設についての具体的な動きが学監高田早苗などを中心にして見えてくる。明治三十三年(一九〇〇)七月の評議員会において、明治三十五年(一九〇二)を期して学校組織を変更して、大学部・専門部に大別する、修業年限は各々三ヵ年で、大学部への入学は中学(旧制中学・以下同じ)卒業程度の学力を有し、本校の高等予科(一ヵ年半)を卒業した者、専門部および高等予科入学は中学卒業程度の学力を有する者であることを要すとすることに決った。この学則の変更を文部大臣が認可し、明治三十五年(一九〇二)より実施せられるに至った。更に、この評議会においては、その後の早稲田大学を特色づける一つのことが決定した。それは留学生の海外派遣である。今日我が早稲田大学の教員の大半は自学出身の者であり、そのことについてのデメリットは勿論なくはないが、しかし、今日の私学の大半が自校出身者以外の者で教授陣を組織しているのに比べると、「早稲田」や「慶応」は自学出身者で教授陣を固めることにより、特色のある学風を持ち、更には学会その他でも官学に対抗して活躍していることなどが、他学の人々から評価され、また羨望されていることは周知の事実である。「早稲田」の教壇には早稲田の出身者をとの考えに基づき、明治三十三年(一九〇〇)、法律科から坂本三郎、そして文科から金子馬治の両名が最初の留学生としてヨーロッパに派遣された。このことは明治三十八年(一九〇五)七月早稲田大学大学部第一回の卒業生が出た時、更に一歩進んだ。すなわち、専任教員養成の目的を以て、各科から一人ずつ、一年間、有給の「特待研究生」制度が施され、法科からは第一期生として北原淑夫、第二期生として寺尾元彦が選ばれている。しかし、この「特待研究生」制度は、この時期においては十分にその所期の結果を収め得ず、第四期生くらいまでは続いたが、遂に中断してしまっている。しかし、この制度は中絶しても、「早稲田」の教壇には「早稲田」の出身者をという、早稲田人の悲願は人々の間に残っていく。そして、それが後に「助手」制度として開花していくのである。学則変更に伴い、東京専門学校は早稲田大学と名称を改めることとなり、その認可願が東京府知事を経由して文部大臣に学則変更と併せて出され、これが許されて明治三十五年(一九〇二)九月より東京専門学校に替り早稲田大学の名称が正式に誕生した。それまでの東京専門学校は、法学部、政学部、文学部に分れており、法学部は法律科と行政科に分れていた。かつては、邦語法律科と英語法律科・邦語行政科と英語行政科に分れていたが、既にして「英語」の方はなくなっており、「邦語」だけになっていたので、「邦語」を略して単に法律科、行政科と称していた。因に、この法律科と行政科は、大半の課目は共通であるが、財政学など二、三の課目が違っており、後年の法学部における類別の一類と二類の相違を思わせるものがある。かくて東京専門学校の法学部は次表のように早稲田大学大学部法学科、専門部法律科の二本立となったのである。

第十七表 大学部法学科および専門部法律科・行政科課程表(明治三十五年)

大学部 法学科

専門部 法律科

専門部 行政科

なお、以上のカリキュラムの担任教員は、明治三十六年九月から同三十七年八月までの「講師及受持課目」では左の如くなっている。

第十八表 大学部法学科・専門部法律科の課目および担当講師(明治三十六―七年)

大学部 法学科

専門部 法律科

 なお、大学部法学科の学生が一・二・三学年とも在籍するに至った明治三十七年七月末の学生数は左表の如である。

第十九表 学科別学生数(明治三十七年七月末日)

 しかし、明治三十六年(一九〇三)に専門学校令が公布され、早稲田大学は「大学」と称しても、まだこの専門学校令に基づく専門学校でしかなかった。それが名実ともに大学となるには、大正七年(一九一八)暮の大学令の公布により当局へ新大学令による認可申請を出し、これが大正九年(一九二〇)一月文部省により認可された時まで、そして高等学院、大学各学部などの新学制についても、三月に認可されたその時まで、待たなければならなかった。

 明治四十一年(一九〇八)十二月、早稲田大学は従来の社団法人を改めて財団法人とし、明治四十三年(一九一〇)三月に学則の改正を行い、前述の如く、法学科は英法科と独法科に分かれた。そして大正三年(一九一四)には、これら両科から卒業生が出ている。しかし、大正五年(一九一六)頃になると、独法科の卒業生は三、四人くらいしか出ず、経済的に問題があるとして、独法科廃止が問題になったが、伝統のある独法だから、入学規則の方を改正したらもっと盛んになるであろうということで廃止は取り止めになっている。

 大正二年(一九一三)に早稲田大学は創立三十年の式典を執り行った。この時「早稲田大学教旨」が宣せられた。そして大正四年(一九一五)十一月には法学科からの留学生寺尾元彦が帰朝している。これより先、大正三年(一九一四)には、大隈重信が内閣総理大臣の印綬を帯び、高田早苗も外遊から帰ると文部大臣として内閣の班に列せられることになった。この内閣は大正五年(一九一六)に総辞職したのであるが、この頃、早稲田の学風の沈滞に対していかなる体制の下でこれを刷新するかについて、天野為之高田早苗をそれぞれの頂点とする二派に分かれての抗争、いわゆる「早稲田騒動」の嵐が学苑を襲った。この「早稲田騒動」の結果、法学科から井上忻治、三瀦信三の両教授らが早稲田を去るに至った。しかし他方、寺尾元彦に次いで遊佐慶夫、中村萬吉らが、中村進午法学科科長の下で若手教授として頭角を現してきていた。

 学校は大正七年(一九一八)の大学令の公布を前に高田早苗を中心にして「大学令実施準備委員会」を組織して、大学令施行についての準備を行っていたが、その過程において法学科にとっては重大な問題が提起されていた。それは「大学令実施準備委員会」において、法学科を政治経済学科と合併して一学部にしようとする議が定まったということである。このことを洩れ聞いた寺尾元彦が、遊佐慶夫および中村万吉の両教授と図り、高田早苗をその自宅に訪ね「法科の沿革を説き、その性質、歴史、伝統の異なる二者を一学部に合する事は将来の発展上、種々の障碍あるべきことを力説し、之を二学部として従来の如く存立するよう改められんことを要望した」(『早稲田法学』第十三巻一一六頁)。これら法学科の三少壮教授の努力によって、この案は否決され、法学科は政治経済学科に吸収合併されなくて済むに至った。

 大学令実施に対して、法科の改革としては、それまでは同じ教室で一緒に講義を聴いていた大学部と専門部の講義の分離を実施した。そして特に専任教員の養成については寺尾元彦、遊佐慶夫そして中村万吉が畢生の努力を傾けるに至った。

七 大学令の公布と法学部の充実

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 大正七年(一九一八)大学令が公布され、その新大学令に準拠した新学制を翌年九月文部省に認可申請し、大正九年(一九二〇)三月三十一日付で大学部学則その他が認可され、ここに早稲田大学は名実ともに大学としての存在となった。そして大正十三年(一九二四)四月には、夜間授業を行う早稲田専門学校が開設され、そこに法律科が置かれ、関東大震災後の勤労学生の要求に応えることになった。かくて早稲田大学では、法学部・専門部法律科・専門学校法律科の三部門により、それぞれの学生の教育が行われることになった。

 新大学令による名実ともに大学としての早稲田大学が発足したのであるが、大学に対する評価はその器ではなく、その器に盛られる中味、すなわちその大学の学問である。早稲田大学法学部に対する評価は、先ずその教授陣の学問によって決っていく。寺尾・遊佐・中村の三教授の努力は、学会の評価に堪え得る専任教員の養成に向けられた。大まかに言って、大正年間にこれら三教授のあとに続き養成され、法学部のスタッフになった諸教授の氏名を先ず掲げておこう。

中村宗雄(大正六年独法卒・民事訴訟法、独法)

大浜信泉(大正七年卒、商法、英法)

高井忠夫(大正九年卒・国際私法、英法)

外岡茂十郎(大正八年専法卒、民法、家族法、英法)

長場正利(大正十二年独法卒、商法、独法)

井上周三(大正十二年英法卒、ローマ法、法哲学、英法)

中村弥三次(大正十二年英法卒、行政法、英法)

 このように、寺尾・遊佐・中村(萬)三教授の努力によって、我が法学部もスタッフが揃ってきた。そこで問題になったのが、これら諸教授の研究の成果を発表する機関雑誌がこの時期の我が法学部にはなかったことである。しかし、機関雑誌を発行するについてはそれに相応する経済的基盤が我が法学部には存在していない。ところで、東京専門学校時代において法律科の外郭団体であった「法学会」が都下法律学校の連合討論会を開いたり、その後も「法学会」大会で講演会を開いたりしていたが、大正十一年(一九二二)寺尾・中村(宗)ら教授達は学生委員に諮り学生を参集させ、その同意を得て、「法学会」を再興組織させ、その「法学会」によって機関雑誌を発行することにした。「法学会」は会員である学生達の納入金で賄われることになり、機関誌『早稲田法学』の第一巻は大正十一年(一九二三)十月に発行された。この第一巻には、遊佐慶夫の「『ハンムラビ』法典の研究」が巻頭論文として、また寺尾元彦の「会社合併論」、大浜信泉の「航海堪能力ヲ論ス」が専任教員の論文として登載されたが、注目すべきは、後に法学部教授となったが、その当時においてはまだ学生であった馬場正利の「独逸戦後の土地法」、井上周三の「『リード』ノ相続制度廃止論」、そして中村弥三次の「社会法学ニ就テ」が教員論文と肩を並べて登載されていることである。

 この『早稲田法学』の発刊により、早稲田大学法学部の学風が学会に明示されていくのであるが、この頃における我が早稲田大学法学部の学風には他学のそれに比べ若干特異性がみられている。例えば、前掲遊佐慶夫の「『ハンムラビ』法典の研究」にしても、その法典が石碑に刻まれたものが、フランスの探検隊によりスサにおいて発見されたのが一九〇一年である。このハンムラビ法典を遊佐慶夫は、この『早稲田法学』第一巻において、初めて日本に紹介しており、また、第二巻、第三巻の「信託法制評論」において、大正十二年(一九二三)に施行されるに至った信託法・信託業法などに関し、その社会的基盤についての問題など、ともすれば解釈一辺倒になりがちな法律学とは一味違った独自の法律論を展開した。また中村万吉の「労働協約の法学的構成」(第二巻・第三巻・第五巻)は当時まだ我が国においては未開拓の分野であった労働協約について、現在の労働法学会に遺産として継承されているくらい、正しく問題を把握しており、「労働協約の研究には、先ずその社会学的研究より始め、更にその進化の跡をも辿らねばならぬ」として、法律学に社会科学的基礎を与えようとした。今日においては常識的なこのようなことも、当時の学界にあっては極めて進歩的な態度といえよう。これら、遊佐慶夫・中村万吉をはじめとして『早稲田法学』の諸論文は、学会に新風を吹き込んだのである。かつては、そのスタッフといえば、官学の人か判検事でのみ構成されていた早稲田に、民衆の学校早稲田に憧れて入学し、早稲田で育ち、早稲田の教授となった法学者が、今や自分達の思潮を自分達の機関誌に発表し始めたのであり、その論文により、早稲田の法律学は独特の学風を持つものとして学界から注目されるに至った。

 また以上のようにスタッフが充実され、その研究成果が機関誌に発表されるに至る前提としては、研究資料の充実がなければならず、この点についても、久しく停滞していた外国法律書の購入が寺尾・遊佐・中村(万)三教授により意欲的に行われた。法学部の図書購入が、その止まるところを知らざるぐらい激しいので、大学の会計担当の理事から、図書購入打切りの厳命が出たくらいであったが、それにもめげず遠慮しつつも本は買い込んでいた。法学部の図書の購入は総花的なものではなく、主力集中主義をとり、先ず専任の揃っている民法に主力を注ぎ、次いで商法、そして民事訴訟法、更に法律雑誌のバックナンバーといった具合に、一つを充たして次に進むといった方法でその充実が図られた。

八 法学部の改革

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 大正の末年から昭和の初めにかけて、法学部においては、三つの重要な改革が行われた。その一つは、第一類(法律)、第二類(行政)、そして第三類(経理)の三類別選択制の採用である。これは、法学部出身の学生も次第に増加し、その卒業後の就職先をみると、大半が企業に就職しているのが実状であり、この実状に鑑み単に法律一点張りでなく企業にも向くように、経済学や商学についての科目を大幅に導入し、学生をしてそれぞれの類別に従って選択せしめようとするものである。もとより法学部であるから、憲法、刑法、民法、商法など基本的な法律科目は各類別を通じて無選択必須の科目となっているが、第一類には、刑事訴訟法、民事訴訟法、国際私法が、第二類には、政治学原理、貨幣銀行論、財政学、社会政策が、そして第三類には、会計学、原価会計学、商業経済などが配当されている。この三類別制の実施については、大正十四(一九二五)年より、寺尾元彦を中心にして、中村宗雄、大浜信泉の三教授によって資料の蒐集整理、原案の起草などが行われ、昭和三年(一九二八)に至って法学部教授会にかけられ、その承認が得られている。この三類別の学科配当よりすると、一類は従来の法学部といってよいが、二類は政治経済学部、三類は商学部の科目を多数導入しており、この点他学部との交渉などに意外に時間を費し、この三類別の実施されたのは昭和五年からである。そして昭和十八年(一九四三)、学生の徴兵猶予が停止され、またその翌年から勤労動員が行われ、「早稲田」から学部学生の姿が消えたその時まで、この三類別制によって法学部の教育が運営せられていた。

 三類別の実施は学生の就職を考慮しての措置といえるのであるが、学部教授会がそのように学生の就職を考慮しなければならなくなった根本には、学生数の増加がある。昭和五年頃の学生数は二百名を超え三百名に近づかんとしていたのである。この学生数と教員数を対比すると、いわゆるマス・プロ教育の弊害が当然出てくるのであり、この弊害をいかにして克服するかが、当時の法学部教授会の検討課題であった。昭和五年の三類別移行に際して、この点について、実験的に各教員の指導下に五十名定員の特殊研究のクラスを作ったが、予想以上の効果をもたらしたことが分ったので、昭和七年の大学創立五十周年記念学制改革の一端として、各学年九科、合計二十七科の「特別研究」を置き、各「特別研究」の定員は三十五名以下として、毎学年選択必須の科目として学生に履修せしめた。このゼミナール・クラスの設置については、専門部法律科においても、「実習」の名称の下に同様なクラスがこの時作られている。

 三類別制の実施「特別研究」の設置などこの時の改革により一応完成したカリキュラムを昭和九年(一九三四)のそれにより見てみよう。

第二十表 法学部および専門部法律科課程表(昭和九年)

法学部(選択課目ハ三学年ヲ通ジ八科目以上トス、類別選択科目中※印ハ必修セシム、外国法ハ独法、英法及仏法中其一ヲ選択セシム)

特殊研究(特殊研究ハ各学年必ズ一科目ヲ選択セシム)

専門部法律科(選択科目数ハ第二、三学年ヲ通ジ二科目トス)

(『早稲田法学』前掲一二九頁)

 法学部における、三つ目の大きな改革は、教員養成について「助手制」を作ったことである。法学部も次第に母校出身の教員が充実してきたし、将来における法学部の更なる発展を期すためには、何といっても次代を継ぐ教授陣の養成を組織的にしなければならない。ここに大正十五年(一九二六)以降、専任教員養成体制として、法学部助手制度が発足した。そしてこの助手制度は多くの星霜を経て今日にまで至っている。この助手制度について、寺尾元彦は「外部から招聘する兼任の先生と異なり、学校の負担が増すのみならず、一たび採用すれば変改は容易でないから、若し人選を誤り、又は研究上の惰気を生ぜんか、法科の空気は沈滞し衰運に向ふことは必然である。人選の慎重と共に、絶えざる刺戟に因る活気を維持することが極めて必要である……。専任の教員が担任を独占することなく、外部から招聘した先生と相竝んで教壇に立ち、常に清新潑剌の元気を鼓舞作興することが肝要である」(『早稲田法学』前掲一二九頁)と、いみじくも述べているが、このことは、現在および将来においても言い得る真理であろう。この時に発足した制度の助手は、法学部教授陣全員の指導を受け、初めは科目を特定せず、公法、私法、法史、法哲学、外国法などをそれぞれの教員から指導され、次いで、刑法、法史学など特定の研究分野の研究を始めている。しかし、研究上の指導や便宜は享受し得ても、助手給など経済的援助はなく、助手に対して助手給が正式に給せられるにようなったのは後年に至ってからである。

 この助手制度により戦前に養成され、母校の専任教員として残った人々としては、野村平爾(労働法・民法)、金沢理康(法史学・英法)、江家義男(刑事法)、和田小次郎(法哲学・独法)、斉藤金作(刑事法)、黒板駿作(民法、独法)、水田義雄(英法)の諸氏、そして戦時中の助手募集中断の前、戦前最後の助手としては、有倉遼吉(行政法・憲法)、星川長七(商法)の両氏が挙られる。

 以上の如く昭和の十年代に至るまでの法学部では、若い研究者が先輩と研究会において激論をたたかわすなど、活気に満ちた研究活動が行われており、『早稲田法学』は、これら専任教授陣によって論陣が張られている。また『早稲田法学』の別冊として、主として当時の助手達により翻訳された古典などが出版され、学会に多くの寄与をなしている。

九 戦時中の法学部

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 昭和六年(一九三一)九月、中国東北における日本軍の攻撃によっていわゆる「満州事変」が勃発し、翌年の一月には、この戦火は上海に及んだ。この年から昭和二十年(一九四五)に日本が米英軍などに完敗するまでの十五年間は、軍部指導による暗い日々が続くのであるが、早稲田大学が戦争の影響を痛烈に被るのは主として昭和十六年(一九四一)十二月に始まった太平洋戦争以降のことである。もとより、それ以前においても、戦争の影響は早稲田にも押し寄せてきていたが、それほど表立ったものではなく、ただ昭和八年(一九三三)まで随意科目であった軍事教練が昭和十四年(一九三九)には必須科目になったり、専門部法律科の軍事教練指導の退役軍人が、昭和十四年(一九三九)辺りから、それまでの黒地の指導服から軍服着用に変ったり、また大隈講堂において、しばしば陸海軍の中枢に位置する軍人の講演会が開かれたりしている。そして、中国大陸において戦火が拡がるにつれて、在学中に召集され彼地において戦死した学生も出てき、それら戦没学生の追悼会が開かれたりしており、昭和十五年(一九四〇)には恩賜記念館の前に報国碑が築かれた。

 ところで、対中国戦争が泥沼化の様相を呈するに至った昭和十三年(一九三八)頃になると、人々は長く続き、そしていつまで続くか分らない戦争に対して、やり切れない気持をもつに至ったが、このような国民に対して、政府はその士気を鼓舞し、緊張を持続させるための施策を種々採っている。その施策の中で警察力による取締は、最も人々の反感を買い、長い目で見れば逆効果しかあがらなかった愚策であったといえよう。夫婦で街を散歩していたら、巡査に交番に連れ込まれ「時局を心得ず、二人連れで歩くとは何事か」と説諭されたなどは、この時代の若い人々の多くが経験したことである。そして昭和十三年(一九三八)二月には、時局認識の徹底と不良青少年の指導教化といった名目をかかげて、警察は東京都下の盛り場を中心に、いわゆる「不良狩」を行った。この「不良狩」は、盛り場に対しては一、二回で終ったが、東京都内では特にその後、早稲田、神楽坂そして戸塚の三警察署によって、主として早稲田大学の学生のみを狙って学校の周辺で持続して行われるに至った。これが当時「学生狩」といわれた警察による不法取締である。正門前の喫茶店・麻雀荘などを警察官が取り囲み、それらの内にいる学生を一網打尽にし、警察署に連行して剣道場の板の間などに長時間正座させ、この間一寸でも体を動かすと、罵声とともに容赦なく竹刀などで殴り、最後に署長などのきまり文句の「時局を何と心得る」といった説教を聴かされ、誓約書を書かされて放免されるといったことが行われていた。

 一体この「学生狩」はいかなる法令上の根拠に基づいて行われていたのであろうか。外食の学生が朝食を摂らんとレストランに入ったら捕まってしまったといったこともあったし、講義のあい間にコーヒーを飲みながら、友人と次の時間のゼミナールの準備をしていたために、板の間に八時間正座させられたといった者も現われるに至った。法学部の学生達は、その法令上の根拠に疑いをさしはさまざるを得なかった。「明治憲法」二十三条によると「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定されており、警察でこのことを問うたら「何を生意気なことをいう」と怒鳴りつけられる始末であった。そのうち警察が「学生狩」の根拠法令としているのは行政執行法ということが校友の国会議員を通じて分った。行政執行法第一条によると「当該行政官庁ハ泥酔者、瘋癲者、自殺ヲ企ツル者、其ノ他救護ヲ要スト認ムル者ニ対シ必要ナル検束ヲ加へ戎器、凶器其ノ他危険ノ虞アル物件ノ仮領置ヲ為スコトヲ得暴行、闘争其ノ他公安ヲ害スルノ虞アル者ニ対シ之ヲ予防スル為必要ナルトキ亦同シ」とし、その第二項には「前項ノ検束ハ翌日ノ日没後ニ至ルコトヲ得ス又仮領置ハ三十日以内ニ於テソノ期間ヲ定ムヘシ」としている。学生が大学周辺の喫茶店でコーヒーを飲んだり、また麻雀荘にいる場合、これが「泥酔者、瘋癲者、自殺ヲ企ツル者、其ノ他救護ヲ要スト認ムル者」ということになるのであろうか。極めて素朴な疑問が法学部の学生の中から涌き上ってきたのは自然の勢いであった。法学部学生の有志が学部当局や憲法担任の教授に質問し抗議をしたが、学生の法律上の疑問には答えてくれず、門前払いを喰わされてしまっている。このような問題についての学校や学部当局の態度は「早稲田」の弱腰、時局便乗と多くの学生が感ぜざるを得なかった。飜ってみれば、この時警察の道場で「非国民」と罵倒された「早稲田」の学生の大部分は、一、二年後には戦場に狩り出され、最も多くの戦死者を出しているゼネレーションだと伝えられている。「早稲田大学」当局の性格を考えさせられた事件であった。

 これも、昭和十八、九年頃のことであるが、英法の教科書『リーガル・カルチュアー』のプラグマティズムについて述べてある部分を、事務所の命令で授業中突然切り棄てることが行われたりしている。

 この時代においては、東亜の新秩序の確立が叫ばれ、その国策に沿った学術研究が要求されていたが、早稲田大学においては、法学部がその国策に沿った研究所を昭和十五年(一九四〇)に発足させている。これが早稲田大学東亜法制研究所である。

 この東亜法制研究所設立の趣旨およびその規定は左の如くであった。

大東亜の新秩序は、亜細亜諸民族の自主性と共存共栄とをその理想とする。従ってそれは東洋独自の道義観と法理念との上に打建てらるべきものであって、功利主義本位の欧米模倣に陥ってはならない。それ故に、新しき角度より東洋諸民族の法律制度を再検討し、この新秩序の基調たるべき法理の体系を樹立することは焦眉の急務であり、それが又吾等法律学徒の時代的役割に外ならぬ。

この自覚と抱負の下に、本大学法学部研究室に於ても、数年来、特に東洋法制研究室を設け資料の蒐集整備に努めその研究に着手し来たったが、斯かる小規模の組織を以ては到底時代の要求に副ふことは出来ない。そこでその組織を拡大強化し名称も東亜法制研究所と改め、大々的に活働を開始するに至った。……

早稲田大学東亜法制研究所規程

第一条 本研究所ハ早稲田大学東亜法制研究所ト称ス事務所ハ之ヲ早稲田大学法学部事務所内ニ置ク

第二条 本研究所ハ興亜体制ニ即シタル法制改革ノ指針ノ確立竝ニ東亜独自ノ法律学体系ノ樹立ヲ目的トス

第三条 本研究所ハ前条ノ目的ヲ達成スルタメ左ノ事業ヲ行フ

一、東亜諸国ノ法律制度及ビ法律思想等ニ関スル資料ノ蒐集

二、東亜法制ニ関スル実地調査

三、東亜法制ニ於ケル固有法理ノ研究

四、興亜体制ニ関スル立法政策上ノ諸問題ノ考究竝ニ立案

五、資料、調査報告及ビ研究結果ノ刊行

六、興亜体制ニ関スル法制上ノ知識拡布ノタメ随時講演会ヲ開催シ且ツ年次科外講義ノ形式ヲ以テ学内学生ニ対シ啓発講演ヲ行フコト

七、其ノ他理事会ニ於テ必要ト認メタ事項

第四条 本研究所ニ左ノ役員ヲ置ク

一、理事長 一名

二、常務理事 一名

三、理事 若干名

第五条 理事長ハ早稲田大学法学部長之ニ当ル

理事長ハ所務ヲ綜理シ本研究所ヲ代表ス理事長事故アルトキハ常務理事其ノ職務ヲ代理ス

第六条 理事ハ理事長之ヲ嘱任シ其ノ任期ハ三年トス、但シ補欠ニヨリ就任シタル理事ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス

理事長ハ理事中ヨリ常務理事ヲ嘱任シ其ノ職務ヲ補佐セシム

第七条 理事会ハ重要ノ所務ヲ審議ス

理事会ハ理事長之ヲ召集シ且ツ司会ス

第八条 本研究所ニ所員若干名ヲ置キ研究ニ従事セシム

所員ハ理事会ノ議ヲ経テ理事長之ヲ嘱任シ、其ノ任期ハ三年トス

第九条 本研究所ニ顧問、賛助員及ビ嘱託若干名ヲ置クコトヲ得。顧問、賛助員及ビ嘱託ハ理事会ノ議ヲ経テ理事長之ヲ委嘱ス

第十条 本研究所ハ其ノ事業ヲ遂行スルタメ左ノ各部ヲ設ク

一、総務部

二、資料部

三、調査部

各部ニ部長副部長ヲ置キ部務ヲ掌理セシム

部長ハ理事長之ヲ嘱任ス

所員ハ各部ニ分属シ其ノ部長ノ旨ヲ受ケテ部務ニ従事ス

第十一条 本規程ノ改正ハ理事会ノ議ヲ経テ理事長之ヲ決ス

附則

第十二条 本規程ノ施行ニ関シ必要ナル細則ハ理事長之ヲ定ム

役員

理事長 寺尾元彦

常務理事 大浜信泉

理事 寺尾元彦、遊佐慶夫、中村宗雄、高井忠夫、中村弥三次、外岡茂十郎大浜信泉、長場正利、中野登美雄北沢新次郎

 この東亜法制研究所では、戦時新立法について課外講義によってその解説を行っていたが、これらをまとめ、昭和十六年九月には『新立法の動向』と題した出版物を出している。また『早稲田法学』も昭和十八年(一九四三)刊行の第二十一巻は、『満州国法制研究』と題し公刊しており、当時の法学部研究室の姿勢をはっきりと見せている。

 この頃早稲田大学においては、学部についてのみ、女子学生の入学を許可することになり、昭和十四年学部入学の学生から、学部編入試験に合格した女子の入学を許可した。法学部にも若干の女子学生の編入希望者があったが、この年入学を許可された者は一名であり、翌年が三名、翌々年が一名であったが、その後は戦火の拡大により、大学個有の教育体制を維持し得なくなり、女子の学部入学は中断している。そして女子学生が再び法学部学生として入学して来るのは戦後のことである。

 昭和十六年(一九四一)十二月八日の太平洋戦争開戦に先立つ七月三十日、文部省は、官公私立の大学および専門学校の総長・校長などを招集し、緊迫している情勢下ではいつ重大な事態が発生するか分らないし、この情勢下において最も欠乏を訴えているのは労働力である。その欠乏している労働力を学生の勤労奉仕によって充足するとし、各大学などに、学生の勤労奉仕のための編隊を組織し八月十日までに報告せよと示達した。この文部省の示達を承け、早稲田大学では、急遽、教職員および在京の学生を八月一日大隈講堂に招集し、総長田中穂積から、文部省の示達を受け「早稲田大学報国隊」が編成される旨、そして、それらについての訓示がなされた。

 この「報国隊」の編成は、昭和十六年七月のことであり、まだ日本は太平洋戦争に突入していないが、既にして政府は、臨戦体制を組み、学生動員の組織化を始めるに至ったのである。この早稲田大学報国隊において、法学部は第二部隊、専門部法律科は第七部隊となっているが、第二部隊および第七部隊の編成は、昭和十七年(一九四二)一月現在で以下の如くである。

第二部隊(法学部)

部隊長 寺尾学部長

幕僚 中村(宗)教務主任、大浜教務主任、油井事務長、宮地陸軍中佐

第一大隊長 江家教授

第二大隊長 斎藤助教授

第三大隊長 金沢教授

第七部隊(専門部法律科)

部隊長 遊佐科長

幕僚 外岡教務主任、長場教務主任、伊藤主事、秋山陸軍少佐、市川陸軍中佐、橋津陸軍大佐、加藤陸軍大佐、小島陸軍中佐

第一大隊長 一又助教授

第二大隊長 酒井助教授

第三大隊長 和田助教授

 以上の如き編成はできたのであるが、昭和十六年(一九四一)から十七年(一九四二)にかけて、報国隊としての組織立った活動はあまり行われておらず、むしろ、専門部、学院の学生を対象とした「学徒錬成部」の方が活発に機能していた。それ故、昭和十七年(一九四二)四月十八日の、アメリカ空軍爆撃機による第一回の空襲においても、一つの組織としての「早稲田大学報国隊」が活躍したのではなく、たまたま土曜日の午後、学校内外に残っていた個々の学生が任意に活躍をしたのであり、これが、学生はすべて「報国隊」の一員であるから「報国隊」が活躍したとされたのである。

 報国隊は臨戦体制に順応して文部省の示達により日本全国の大学・専門学校に設けられたものであるが、これに対し、早稲田大学が独自に採った臨戦学生訓練体制がある。これが昭和十五年に作られ当時の学生に悪評ふんぷんであった前述の「学徒錬成部」である。「学徒錬成部」は、主として高等学院および専門部の学生を対象にし、昭和十六年に開かれた久留米道場に学生を五日間泊り込みで集め、農事作業、体操、精神訓話など戦時に即応する学生の訓練を、禁酒、禁煙、粗食で厳しく行った。

 太平洋戦争に臨む体制を採るに至った政府は昭和十六年(一九四一)十月十六日、勅令で、大学、専門学校などの修業年限の臨時短縮を命じ修業年限三年が二年六ヵ月に短縮せられた。そして戦局が徐々に厳しくなってきた翌年の九月二十七日には第六十回の卒業式が行われ、卒業学生の大部分の者は兵士として戦場に赴いた。「早稲田大学は、陸軍早稲田予備士官学校である」と配属将校が学生達に盛んに演説をしたのもこの頃である。三ヵ年の学年が二ヵ年半に短縮されたが、これは大学の学部や専門学校ばかりではなく、昭和十八年(一九四三)に入ると勅令によって中学校令も改正され、中学、高等女学校、実業学校の修業年限も四年制となり、更に大学予科、高等学校高等科も二年制になった。そして遂に昭和十八年(一九四三)十月には閣議において「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が決定され、理工科系統および教員養成諸学校学生の他は、徴兵猶予が停止された。そしていわゆる学徒出陣により法学部の学生の大半が学業なかばにして、陸・海軍に徴兵されていった。

 それより前昭和十七年(一九四二)の夏休み、東京在住の学部学生に対し「早稲田大学報国隊」の活動の一つとして勤労奉仕の話が学校よりあった。これへの参加は、あくまでも学生の任意の意思によるものであって、仕事は中央卸売市場などにも出入りするトラックの上乗であった。少数の学生が軍事教練の服を着用して、無給の手弁当で約一週間これに参加している。これらは、あくまで「勤労奉仕」であり、いうなれば「お遊び」である。しかし、戦局の逼迫による労働力の決定的不足に対処するための勤労動員と、本土防衛のための動員を徹底させるため、昭和十八年(一九四三)六月二十五日閣議は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定した。これまでは、勤労奉仕であったが、これからは勤労動員となったのである。そして翌昭和十九年(一九四四)一月八日には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議で決定され、学徒の勤労動員は年間四ヵ月を継続して行うこととしたが、それから三ヵ月しか経っていない三月七日の閣議ではこの学徒動員を「通年実施」というように修正するに至った。またこの少し前の二月二十五日には、文部省が食糧増産のため、学徒五百万人の動員を決定した。そして八月二十三日には勅令として「学徒勤労令」が公布されている。これら一連の学徒勤労動員は、国家総動員法(昭和十三年、法五十五号、昭和十六年三月、法十九号により強化)を根拠として、閣議決定が行われ勅令で出されているのである。学部学生の大半は、既にして兵士として徴せられており、この学徒勤労動員の主役を占めたのは、早稲田においては専門部と高等学院の学生であり、それに女子学生を含む若干の学部学生であった。法学部学生は、日東化学横浜工場、陸軍需品本廠芝浦出張所、昭和電工川崎工場に、そして和田教授、星川講師引率の下に北海道にまで出向いている。専門部法律科の学生は、中村宗雄、江家義男、有倉遼吉、中村吉三郎ら諸教員引率の下に、昭和十九年五月から、日本鋼管鶴見造船所、東京都防衛局下谷方面事業所、群馬県木崎町、更には川崎の日本内燃機などに出動した。ここでは、教員も単なる監督ではなかった。江家教授は早朝六時半には正門に立って、入構する学生の敬礼を受け、また自ら学生と同じようにリベット打の重労働に従った。学生も張切っていた。誰の指導も受けずに、船のディーゼルエンジンを、専門部法律科の学生の手だけで組み立て、海軍監督官の激賞を得た一コマもあった。

 しかし、京浜工業地帯は軍事目標として最も敵機による攻撃を受ける危険度の高い地帯で、艦載機の機銃・機関砲による掃射、そしてB29爆撃機による爆撃にさらされた。また作業そのものも危険度の高いものであり、遂に日本鋼管横浜造船所においては、ロールに挟まれて死亡した学生、失明した学生を出すに至っている。

 死亡したのは、専門部法律科の杉山一長君であり、失明したのは川井純治君である。杉山一長君は昭和二年四月山口県吉敷郡大道村に生れ、十九年三月、東京順天中学四年修了とともに専門部法律科に入学したが、十九年(一九四四)十一月二十三日、日本鋼管横浜工場においてロールに挟まれ公傷死亡したのであった。

 また食糧増産については、昭和十九年の春、東京在住者が埼玉県羽生に出向き、野村教授の指揮により暗渠排水とか溝を造っており、これらは現在でも「早稲田堀」という名称で十分に機能している。

 以上のような勤労動員のさなかにあっても、あい間をみて工場で、また登校日などには早稲田で講義が行われていたし、試験の最中に空襲警報が出され、試験が中止になったこともあった。

十 敗戦と法学部

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 昭和二十年(一九四五)八月、日本の降伏によって、長く忌わしかった戦争は終った。中国をはじめ国土を侵略され、同胞を殺傷された近隣諸国の人々には計り知れない憤怒・怨憎そして痛恨の念を与えたのであるが、加害者とされたわれわれ日本人も、戦火によって多くの人々が斃れ、また生き残った者も、傷つき、肉親を失い、家を焼かれ、瓦礫の中で疲弊と絶望そして混乱を厭という程味わされた。この戦争に早稲田からも多くの校友、学生が狩り出され戦場におもむいた。それらの内、大陸にそして南溟に万斛の涙をのんで散った早稲田人も少くはなかった。

 しかし戦火はやみ、ともあれ、平和はよみがえった。大学は九月には授業を開始した。幸にして学苑の戦災による損害は本部キャンパスで約三分の一程であり、主要な教室などは残っていた。灯火管制の必要上窓ガラスを黒いタールで塗りつぶしてあったので、教室は暗かった。停電は四六時中あったので、教壇では占領軍払下げのバッテリーで豆電球をつけ講義が行われた。教室は陸・海軍の軍服姿の学生で常に満席の状況であった。

 同年十月三十日、占領軍は「教師と教職員の調査精選、資格決定に関する覚書」を発した。そして、この覚書を実施するため政府は勅令で「教職員の除去、就職禁止及復職等の件」いわゆる「教職追放令」を公布した。この勅令に基づき、我が法学部においても、教員適格審査委員会が開催され、その結果、中村弥三次教授の教職追放が決定された。

 しかし、この戦争についての早稲田大学あるいは法学部としての反省は、この他律的なパージ以外表面立ってはなされていない。ある教授の戦時中の言動について、一部の学生が激しくその責任を追及したが、その教授そして学校からは一言の弁明すらなされていない。

 ところでこの十五年間の戦争の間、遊佐、中村(万)、長場、寺尾の四教授は鬼籍に入られ、高井忠夫教授が特別の事情で、そして黒板駿策講師が家庭の事情により退職し、戦後前述の如く中村弥三次教授が退職し、また金沢理康教授が病気により退職している。これに対し戦争の中期頃に一又正雄そして末期に中村吉三郎の両氏が講師として法学部および専門部法律科にそれぞれ就任している。

 出征した教員の復員は意外に早く、昭和二十一年(一九四六)春には、法学部教員の全員が揃っている。研究者養成については、文部省の特別研究生制度が戦時中に発足しているが、戦後も、この制度が引続き温存され、国から研究費の補助が支給されて各大学の研究室において若手研究者の養成が行われた。我が法学部においても、同年に杉山晴康、高島平蔵ほか一人がこの特別研究生として研究生活を始めていたが、この年の秋、杉山と高島は助手にも任ぜられている。このほかこの時、林義雄、高野竹三郎の二人も助手に任ぜられ、法学部の助手制度が再びこの年より出発した。

 昭和二十年からの二―三年は復員学生の措置に学部や専門部の当局者が頭を痛めた期間である。学年途中での出征、そして学校は卒業までの必要学年の短縮など、戦時中の混乱の後始末が一挙に押寄せてきていた。大浜、江家の法学部当局は、これらを手際よく整理していたが、これらは昭和二十三年(一九四八)頃には大体落着いてきている。

十一 新制法学部の発足と大学の管理

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 昭和二十二年(一九四七)法律第二十五号「教育基本法」第一条により教育の目的は「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」にありとされ、次いで同年法律第二十六号「学校教育法」によって、いわゆる六・三・三・四制の新学校教育制度が制定されるに及んで、早稲田大学も例によって率先これに対応しようとする動きがにわかに活発となり、早くも昭和二十二年(一九四七)九月、「教育制度研究委員会」が「学制改革に関する本大学の具体的方策に就ての成案」なる答申を島田総長に提出されたのに始まり、更にこれを承けて同年十月十日、大浜信泉法学部教授を委員長とする「教育制度改革委員会」が設置され、翌二十三年(一九四八)二月五日、「学制改革要綱」ならびに次の「四項目の建議書」なるものが総長に提出された。四項目とは、

一、学部(大学院・研究科を含む)及び高等学校各別に設置委員会を設ける。

二、設置委員会の委員長は総長において嘱任、委員は委員長の推薦に基いて総長がこれを嘱任する。

三、教員の配置は大学と各設置委員会とにおいて協議決定する。

四、学部及高等学校の初代の長は総長において嘱任する。但しその任期は昭和二十四年九月末日までとする。

というものであり、この建議に基づいて各委員会が一斉に設置され、それぞれにおいて慎重審議の末、その結論を総括した『早稲田大学設置要項』全六冊数千頁ができ上り、同年七月三十日文部省に対し新制早稲田大学設置の認可申請がなされた。そこで同年十一月十八、十九の両日、文部省大学設置委員会審査員委員長上原専禄らによる実地視察ならびに大学当局の意見聴取などのことがあって、翌二十四年(一九四九)二月二十一日付を以て文部大臣の設置認可がなされた。

 なお、この間、教育に関しては、例えば、昭和二十三年(一九四八)六月十九日、衆参両院が、「軍人勅諭」(明治十五年一月四日)、「教育ニ関スル勅語」(明治二十三年十月三十日)、「戊申詔書」(明治四十一年十月十三日)、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(昭和十四年五月二十二日)の「詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は明らかに基本的人権を損い且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる」から、「憲法第九十八条の本旨にしたがい、ここに院議を以てこれら詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する」との議決を可決するといったことがあった。

 また同年(昭和二十四年)の十二月十五日、法律第二百七十号「私立学校法」が制定されたが、その立法に際しては、特に私立大学、学生の抵抗が激しかったし、就中、島田早大総長など、その急先鋒の観もあったほどで、ともかく、それらが功を奏してか、結局多くの修正が加えられ、私立学校は単なる国公立学校を補助するに過ぎないものではなく、むしろそれと同等に公教育の役割を担うものと明確に位置づけられたばかりでなく、私立学校の「特性」も認められ、その「自主性」が尊重され、従って所轄庁の私立学校に対する監督権も大幅に制限されるに至っている。

 ただここで問題なのは、「教育基本法」にいう「自主的精神」も、「私立学校法」にいう「自主性」も本来、一点に淵源するはずのものだが、前者においては、一人びとりの学生、生徒、学童の「自主的精神」を主眼としているのに較べ、後者においては、いささか個々の私立学校、特に私立大学の「特性」「特色」もしくは「校風」「スクールカラー」といった点に注目され過ぎるきらいがないでもないということである。このことは、例えば、我が学苑でも、学生の「自主性」「自治」ということが、ややもすれば「建学の理念」とか「早稲田精神」とかに席巻されがちであることからもいえよう。

 果して昭和二十四年(一九四九)四月二十四日、安部球場で催された新制大学開設記念式典の当日、最初に問題となったのは、ほかでもない、「教旨」改訂問題だった。ここに「教旨」とは、いうまでもなく、学苑創立三十年の祝典(実は明治四十五年のはずだったが、天皇崩御で翌大正二年十月十七日―二十二日に延期された)に際し、大々的に宣言公表された早稲田大学「教旨」のことである。この「教旨」が、新制大学開設記念式典の当日開かれた維持員会で真先に採りあげられた。直ちに大浜信泉理事を委員長とする「大学教旨改訂委員会」なるものが設置され、検討の結果、その第四段の、

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、立憲帝国の忠良なる臣民として個性を尊重し、身家を発達し国家社会を利済し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。

のうち「立憲帝国の忠良なる臣民として」十四字を削除するにとどめることとなり、昭和二十四年(一九四九)五月二日付で公示された(なお、学苑正門左側の記念碑の文字は歴史的文書として、そのまま保存されることとなった)。ただ、この教旨に、ゆくりなくも「個性を尊重し」なる言葉が、もとからあったということは貴重なことではある。

 それはさておき、昭和二十四年(一九四九)四月一日を以て新制第一法学部(昼間授業)ならびに新制第二法学部(夜間授業)の第三学年までが一斉に発足することとなった。そこで当時の在学生は、全学苑を挙げて次のような基準によって新制度に移行(一年修了者は新制度の一年へ、二年修了者は二年へ、三年修了者は三年へという具合に横滑り)することとなった。

一、旧制高等学院は全員その系統の新制学部へ移行して廃止。

二、専門部、高等師範部、専門学校の一年修了者は全員、二年以上修了者は希望者のみ、それぞれの新制学部へ移行し、希望しない者は旧制のまま卒業せしめて本年限り廃止。

三、旧制学部は本年四月入学の分から新規募集を中止、現在学生は旧制のまま順次卒業せしめて昭和二十五年度を以って自然廃止。

四、新制高等学院(三年制)は本年各学年とも全員を公募し四月開校。

(以下略)

 さて、移行措置は、右のような要領でスムーズに実施されたが、依然として残存する旧制学部と新制学部との社会的評価から生れる格差の問題、更には、新制の第一学部と第二学部の格差の問題を新たに生んだ。特に後の方の格差の問題は、なにぶんその後毎年実施される両学部の入学試験における、いわゆる競争率の差がそのまま両学部学生の質の差と見られがちであることから相当深刻な問題となって尾をひいた。法学部においても、後年第二学部が正式に廃止され法学部単一学部制となるまでは、毎年三月に、相当難関とされた転部試験(第二法学部一年修了者に限り合格すれば第一法学部二年へ、同二年修了者が三年へ、同三年修了者が四年に編入される)が存在していたが、それのみによっては問題の根本的解決には勿論ならなかった。

 すなわちその根本的解決は、いわゆる単一学部制の実現であろうが、その実現は、相当の時間と屈折とを経てからであった。例えば、昭和三十二年(一九五七)五月に、単一学部制を示唆した本部案が提示された際など学生達は、大学制度の反動的再編成の一環であるとか、勤労学生の締め出しだとかと反発した。その結果、昭和三十四年(一九五九)七月、大浜総長の「第一学部拡大、第二学部縮小」の提唱があり、昭和三十六年(一九六一)の第二理工学部の募集停止、第二商学部募集停止の見送りなどのこともあり、昭和三十七年(一九六二)六月、「第二学部検討委員会」の「第二学部は現状のままで、教育内容を検討する」との一応の収拾の仕方に至っている。

 ただ以上の根本的問題とは別に、法学部では、第二法学部の女子学生に限って(ごく少数であったが)、当時の社会情況での夜間通学などの不安を配慮して、筋論からではなく、多分に心情的常識論から、第二学部に在籍したままで、第一法学部の昼間授業を正式に受講できる便宜的措置が諒承されていた。

 一方、教員、助手の第一法学部、第二法学部への本属割り振りの問題であるが、この方は、いわば名目上のことだけなので、殆ど問題なく形式的に第一、第二法学部に、それぞれ振り分けられた。なお、専門科目担当教員、助手については、すべて、いわゆる横滑り方式だったが、非専門科目担当教員については、主として全学苑的の再配置だった。しかし前掲「学制改革要綱」の「四項目建議書」第三に「教員の配置は大学と各設置委員会とにおいて協議決定する」ことになっていたので、すべてそのとおり全学苑的視野観点から慎重適切になされたであろうから、「縁」あって法学部の教員となられたと受け止めるよりほかはあるまい。

 さて、学苑の新制大学が発足して程なく、昭和二十四年(一九四九)五月三十一日、法律第百五十号「国立学校設置法」が制定され、大学についても、各都道府県ごとに全国で六十九もの新制国立大学が一斉に生れることになり、ここに図らずも大学の管理ということが、にわかに国政の場で取沙汰されるようにもなった。もとより大学の管理それ自体は至極当然のことのようでもあるが、問題は、初めから一定の方針があって、それに基づく管理であったというところに問題があった(大学への権力の介入)。

 すなわち、端的に言うならば、先づ昭和二十三年(一九四八)の年頭、ロイヤル米陸軍長官の「日本を共産主義に対する防壁とする」なる演説があり、これに対応するかのように同年七月十五日には、GHQ(連合国軍最高司令部)のCIE(民間情報教育局)は、米国州立大学管理方式を示唆する「大学法試案要綱」(英文)を提示し、日本政府に対し大学管理法制定を要望している。次いで、翌昭和二十四年(一九四九)になると、一方では、その七月五日の下山事件、同十五日の三鷹事件、八月十七日の松川事件と、まことに「変な」気味悪い事件が引き続いて起るなかで、他方では、CIEの教育顧問とかのW・C・イールズなる人物が、同月十九日の新潟大を皮切りに、岡山大、広島大、大阪大、次いで翌昭和二十五年(一九五〇)に入って東北大、北海道大と精力的に全国の新制国立大学を駆け巡って、共産主義教育者の追放、すなわちレッドパージを喧伝してまわり、いわゆる「イールズ旋風」なるものを巻き起している。尤も東北大では、学生の抗議で流会、北大では中止となった。もとより、レッドパージは、なにも国立大学だけのことではなかった。昭和二十五年(一九五〇)二月十三日には、東京都教育庁は、「赤い」教員二百四十六名に退職勧告をなすということもあり、これに対し、一部では小学生の反対デモ騒動すら起っている。そればかりか、イールズ旋風は、学校から次第に、官庁一般はもとより企業にまで及び、いわば、それぞれの箇所で、およそ「好ましくない分子」を追放するために拡張乱用されたきらいすらあった(それも多分にGHQという虎の威を借りて)。

 時あたかも昭和二十五年(一九五〇)六月二十五日、朝鮮戦争の勃発もあり、事態は急速に激化する一方、同年六月、GHQは日本共産党中央委員二十四名の公職追放を指令し、うち徳田球一ら九名は公職追放令違反容疑による出頭命令拒否のかどにより団体等規正令違反として告発され、同年七月十五日には最高検察庁より逮捕状が出されたほか、七月十八日『アカハタ』およびその後身各紙の無期限発行停止がなされている。また、七月八日、国家警察予備隊(七万五千名)の創設、海上保安庁の拡充(八千名増員)も指令されている。

 しかも、これとは逆に、戦犯、公職追放の方は、同年十月十三日、GHQは一万九十名の追放解除を承認したのを皮切りに、同年十一月のA級戦犯の巣鴨拘置所仮出所、翌昭和二十六年(一九五一)六月十六日、鳩山一郎らの、いわゆるメモランダムケース(個人別覚書追放)の撤回をはじめ、以後矢継ぎ早に数次に亘り政財界人、旧陸海軍将校など数万名にのぼる大量の追放解除をしている。

 かくて昭和二十五年(一九五〇)九月一日、第三次吉田内閣は、遂に正式に公務員のレッドパージ方針を閣議決定し、同年九月二十七日、天野文部大臣が「赤い」教授追放を「来る十月上旬強行する」旨を言明するに及んで、学苑においても、いわゆる「十月闘争」の口火を切るように、「レッドパージ粉砕」「早大大山教授を先頭とする進歩的教授団を死守せよ」のスローガンを掲げて都下各大学の学生も参加して集会が開かれた。更に同年十月十七日全国学生ゼネストに呼応して、三千余の学生が大隈講堂に集結し全都総決起大会「平和と大学擁護大会」が開かれたが、この時、はしなくも、いわゆる「第一次早大事件」が引き起され、大学側の要請で出動した警視庁予備隊千名が、夕闇せまる学苑構内に棍棒をふりかざし侵入し、乱闘の結果、多数の負傷者と百四十三名に及ぶ逮捕者とを出した。

 ところでレッドパージとはいっても、果して誰と誰とが追放されるのかは当時、敢えて何人も口に出してはいなかった。学生達がよく名を挙げていたのは、せいぜい大山郁夫(政治経済学部)教授(昭和三十年十一月三十日没)くらいのもので、恐らく、どこかに明確な一覧表が準備されていたのかも知れないが、もとより知るよしもなく、また知りたくもなかった。それを、すすんで臆測したりすることは、まさに瓢簞から駒がでるということもあり百害あって一利なしと、何人もさしひかえていたようである。

 因に昭和二十五年度の第一法学部、第二法学部のカリキュラムと、当時の法学部のスタッフの全貌を見てみよう(敬称略、順序不同)。

第二十一表 第一・第二法学部学科目および担当教員(昭和二十五年度)

 このスタッフから、「進歩的教授」とか「赤い教授」とかを選別することは何人もできまいし、また未だかつてやられたこともない。むしろ、そのことが法学部の伝統であり、全スタッフのコンセンサスのあるところとも言えよう。ともかく、一時は、どこまで荒れ狂うかと思われたイールズ旋風も、いわば大山鳴動しただけで、少くとも学苑、特に法学部においては、さしたることもなく、収まったようである。

十二 安保体制と新制法学部の対応

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 昭和二十六年(一九五一)四月一日より学苑においても新制大学院が設置されることとなり、ここに新制大学院法学研究科の誕生となり、先ずその修士課程(現行の前期課程)から発足した。因に、初代法学研究科委員長には和田小次郎、後昭和二十九年(一九五四)九月より江家義男、昭和三十三年(一九五八)九月より外岡茂十郎が、その任についた。

 なお、大学院法学研究科の発足に際し、民事法学、公法学と並べて、しかも法哲学、法史学、ローマ法学、法社会学、英米法学、社会主義法学等を包括する適切な名称に苦慮した結果、われわれスタッフの創意で「基礎法学」なる呼称が考案された。この新規名称は、後年、東京大学大学院の発足に当っても、そのまま使われたようで、今日では、ほぼ一般にも通用する名称となったようである。

 ところで第三次吉田内閣は、いわゆる全面講和の提唱を「曲学阿世」の論としりぞけて(吉田首相の東大総長南原繁に対する暴言)、昭和二十六年(一九五一)九月八日、四十八ヵ国との対日平和条約(サンフランシスコ条約)に調印し(全面講和に対して片面講和、単独講和などと言われた)、翌昭和二十七年(一九五二)四月二十八日より発効する運びとなった。これで、ともかく占領時代には一応終止符が打たれ、極東委員会、対日理事会、GHQなど日本管理の諸機関は廃止されたが、同時に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)も調印され平和条約と同時に発効したので、依然として米国による半占領(米軍駐留、米軍基地存続、もとより沖縄に限り全面占領)の状況は続いた。そしてこの発効の日を挟むようにして、一月二十一日には札幌市で白鳥一雄警部射殺事件(白鳥事件)が起り、五月一日には皇居前広場において、第二十三回メーデーの参加者六千余名のデモ隊と五千余名の警察隊との乱闘が引き起され、二名の射殺者、千二百三十名の検挙者を出した「流血のメーデー事件」があった。なお、これに先立ち同年三月二十八日には吉田内閣は、破壊活動防止法案、公安審査委員会法案、公安調査庁設置法案などを閣議決定しており、また同年七月三十一日には保安庁が設置され、警察予備隊は保安隊に生れ変った。

 学苑においても、例の「流血のメーデー」事件直後の五月八日に、この事件に関連してか私服警官が学苑に潜入したところを摘発されるという椿事があり、この潜入私服警官を救出(?)せんとした警官隊と学生との間に乱闘(学生達は警官隊の集団暴行と言っていた)となった「第二次早大事件」も起った。

 このような、いわば半独立の不透明な状況(八月十六日、臨時国会で吉田首相は、講和後の米軍「駐留」は日本から希望と報告)のもと、安保体制の整備拡充とともに次第に、経済の復興政策が繰り込まれていく情勢に応じて生れた各種の開発立法、例えば昭和二十五年(一九五〇)法律第二百五号「国土総合開発法」(ある意味で昭和二十六年法律第二百十九号の新「土地収用法」も)、昭和二十七年(一九五二)法律第百八十号「道路法」、同年法律第二百八十三号「電源開発促進法」などをはじめ、更には昭和二十七年(一九五二)八月、四日市旧海軍燃料廠跡国有地の昭和石油への払下から始った巨大な石油コンビナートの出現など、日本の山河まで変貌させ、荒廃させようとする状況に対応して、新制法学部のカリキュラムは果して渇をいやすに足るものであったと言えようか。

 先ず専門科目を見れば、いわば旧制法学部のそれを、そのまま縮小された形で羅列した観があり、この旧態依然の旧法学教育体系(わずかに労働法を除けば)で、当時既に生起する現実の社会状況・法状況に対応し得たであろうか。恐らくは、真面目な学生ほど隔靴搔痒の感を抱いたことだろう。もとより新制大学の理念に徹すれば、これら専門科目の時間短縮は、各種教養科目、外国語などにより十分補わるべきものではあろうが、果してそういくものだろうかにも疑問は残ろう。ところでこのような点も含めて、およそ新制大学なるものを真剣に問い直し、真摯に見直そうとの試みも、いずれはなされるにしても、それには、更に十年余の風雪を要した。

 さて昭和二十八年(一九五三)四月一日からは、先に設置された大学院法学研究科の博士課程も発足する運びとなったが、折も折、戒能通孝教授が突如辞職されるというショッキングな事件が起きた。その理由は、学生の不勉強と誠実さのないこととか言われているが、その真相は何であったのか、もとより定かではない。ただ当時の法学部スタッフの一部には、この問題を善処しようとの熱意に、いささか欠けていたきらいもあったようでもある。

 ショッキングなことといえば、翌昭和二十九年(一九五四)三月一日、米国の水爆実験が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁のビキニ島で行われた際、第五福竜丸の乗組員が「死の灰」の放射線にさらされ障害を受けたという事件(被爆者久保山愛吉さんは同年九月二十三日そのため死没)があり、また同年六月九日法律第百六十四号「防衛庁設置法」、同法律第百六十五号「自衛隊法」が制定され(同年七月一日施行)、従来の保安隊は、更に改組され陸・海・空三軍方式による「外敵」への防衛任務も規定されるに至っている。なお、同年十一月一日にはFLN(アルジェリア民族解放戦線)の「アルジェの戦い」が始まっている。

 この水爆ショックに対しては、昭和三十年(一九五五)七月九日、原子戦争の危険を各国首相に警告したラッセル・アインシュタイン宣言が逸早くなされるほか、昭和三十二年(一九五七)七月六日には、カナダにおいて「科学と国際問題に関する会議」(いわゆるパグウォッシュ会議)が開かれ、米・ソ・日の科学者が参加して核兵器の脅威と科学者の社会的責任を強調する声明も発表されている。

 ところで、前掲旧安保条約の第四条「この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする」とあるのを、「極東の平和と安全のため」へとエスカレートしようとする動きが日米首脳間でにわかに活発となり、いわゆる安保改訂問題が抬頭した。結果から言ってしまえば、昭和三十五年(一九六〇)一月十九日ワシントンで調印され、激烈な安保改訂反対闘争を経て同年六月二十三日発効となった「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)により直ちに「日本の安全に対する」脅威だけでなく、日本を含まない「極東の平和及び安全に対する」脅威にも、日米両国は協議して対処(「相互協力」)することと定められたわけである(新安保条約前文ならびに第四条)。

 一方この間、保守合同・左右社党統一のいわゆる「五十五年体制」(保革二大政党対立)の成立を見るが、大勢は安保体制維持・経済高度成長政策へとおもむき、日本経済は、「復興」の段階から「成長」の段階へと飛躍し、「神武景気」(昭和三十年)から「岩戸景気」(昭和三十四年)への躍進ぶり、その代り昭和三十一年(一九五六)法律第六号「日本道路公団法」、同法律第八十三号「首都圏整備法」、昭和三十二年(一九五七)法律第六十八号「国土開発幹線国道法」、同年八月の建設省の「道路整備十ヶ年計画基本構想」の発表、昭和三十四年(一九五九)法律第百三十三号「首都高速道路公団法」など、まさに「国栄えて、山河亡し」へとのめり込んでいった。

 学生達も、一方では就職の好調(かつての「就職難」に代って「求人難」?)に、ちょっぴりはしゃぎながらも、しのびよる軍靴のひびきにもおびえるといった複雑な心境のまま、やがて、いわゆる「六十年安保の嵐」に巻き込まれていった。尤もその間、俗にオイコラ復活などと言われた「警察官職務執行法」(昭和二十三年法律第百三十六号)の改正案(いわゆる改悪案)の国会提出(昭和三十三年)に対して警職法改悪反対闘争などが果敢になされ(同年十一月審議未了となる)、また、翌昭和三十四年(一九五九)三月三十日には、米軍駐留を違憲と決めつけた砂川事件東京地方裁判所の無罪判決(伊達秋雄裁判長)などもあった。

 さて、安保の嵐は、昭和三十五年(一九六〇)五月十九日深更、衆議院において議長の要請で五百名の警察官が国会内に導入されたままで、五十日間の会期延長が可決され、引続き二十日午前零時六分、新安保条約を承認したことに始り、この後三十日間、つまり憲法第六十一条により準用される同第六十条第二項の規定により六月十九日の経過とともに新安保条約が参議院の議決なしで「自然成立」するに至るまでの三十日間、全国を吹きすさび、殊に、国会議事堂周辺は連日、「安保ハンタイ」「安保阻止」「神武以来の最大暴政岸内閣打倒」「聞け声なき声は国会解散」「花には太陽を、子どもには平和を」などといったプラカードで埋まった。特に六月十五日には、午後六時頃国会議事堂南通用門付近で学生と警官隊との乱闘のなかで、東大文学部四年樺美智子さんが、警察官の暴力により犠牲となるという痛ましい事件もあった(「六・一五事件」)。

 では、この六十年安保の嵐で人々は、学生達は何を学んだろうか。第一に、民主主義の形骸化、日本国憲法の空洞化であったろう。すなわち、日米軍事同盟体制と化してしまった新安保体制の下では、もはや、しのびよる戦争の気配は現実的なものとなり、たとえ国民の大多数が、いかに戦争を回避しようとしても、畢竟、日米の首脳が、その気になれば、いともたやすく、すべての人々を戦渦に巻き込める仕組(体制)が、既にでき上ってしまったのかということである。第二は、連帯感ということ――団結とまでいかなくとも――の心強さ、力強さの実感であったのではあるまいか。学生達にとっても日頃の身近の友達から、他学部の学生へ、更に他大学の学生へ、一般労働者へと連帯の環は、限りなく拡がるばかりでなく、時には一部教員と学生との交流すら生れた。このことは教員の側でも同様、その結果が、昭和三十六年(一九六一)七月一日の早稲田大学教員組合の結成に結実したとも言えよう。それが何故に、恐らく昭和四十三年(一九六八)頃から次第に、この連帯の環が虹の如く消え始め、「連帯を求めて、孤立を恐れず」などということが恰好よく聞こえるようになったのか。

十三 産学協同と新制法学部の対応

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 昭和二十九年(一九五四)三月八日「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」(MSA協定)が東京で調印され、同年五月一日発効となったが、学苑においては、同年九月、大浜信泉法学部教授が総長に選出された。翌昭和三十年(一九五五)七月、米国国際協力局(ICA)の肝煎で、ジョージア工業大学と早稲田大学理工学部との間に「大学契約」が締結されようとしたが、学問の自由を侵すおそれありとする学苑教授達の反対にあい、かつ、ジョージア工大からも交渉打ち切りの通告があって、あえなく沙汰止みとなった。

 ところが、翌昭和三十一年(一九五六)に入って米国国務省を通じてミシガン大学と早稲田大学との技術提携の交渉が急速に進捗し、これに備えるように学苑でも、「生産性向上をはかり社会との接触を密にする」ことを目的とする生産研究所が発足し、この研究所とミシガン大学との間に技術提携がなされることとなり、四月五日、学苑とミシガン大学との間に正式に技術協定が成立するに至った。この間、学苑を挙げて、学問の独立のための反対運動、成立後においては協定実施の厳重な監視、できればその破棄を求むる運動が果敢に展開された。後年、大浜総長は、「正直のところこのときくらい困ったことはなく、在職中一番苦しかった経験の一つであった」と述懐されているが、何故にそれほど固執せねばならなかったか不可解である。なお同年十月二十三日、ブダペストでは、学生・労働者による反政府暴動(「ハンガリー事件」の発端)が起っている。

 そもそも「産学協同」ということは、既に昭和二十六年(一九五一)七月来日した米国対日工業教育顧問団が、「産学協同工業教育協会」の設立を示唆した報告書(同年八月二十五日)に見られるが、それが産業界よりの教育制度全般、特に大学教育についての具体的な注文の形をとってきたのは、早くは、昭和二十七年(一九五二)の日本経営者団体連盟(日経連)の「新教育制度再検討に関する要望書」、次いで昭和二十九年(一九五四)十二月二十三日付日経連の「当面の教育制度改善に関する要望」、昭和三十一年(一九五六)十一月九日付の同「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」などで、いずれも、大学における法文系偏重の不均衡の是正、すなわち理工系学生の増員、法文系学生数の圧縮を要望し、特に昭和三十一年(一九五六)の意見書では、「大学側は産業界の要請を的確に把握して、これに対応する方途を考究すべきである」と決めつけている。

 更にそれが一段と露骨となってくるのは、昭和三十五年(一九六〇)七月、岸内閣に代って登場した池田内閣が、「国民所得倍増計画」を標榜した「高度経済成長政策」を打ち出してからのことであった。果して、翌昭和三十六年(一九六一)三月には、東洋大学において、日立製作所・日本光学の資金援助により「産学協同システム」の工学部が設立されたし、同年八月には、日経連・経団連は、政府・国会あて、産学協同の推進、大学理工系増員計画の繰り上げの要望書を提出している。なお繰り上げといえば、同年九月二十六日には、貿易為替自由化促進閣僚協議会は、昭和三十五年(一九六〇)六月二十四日岸内閣が閣議決定した「貿易自由化計画」の繰り上げを決定している。更に昭和三十七年(一九六二)十月五日には、全国総合開発計画も閣議決定しているという情況であった。

 ここでいま一度、当時の第一・第二法学部のカリキュラムとそのスタッフを総合的に見てみよう(敬称略、順序不同)。

第二十二表 第一・第二法学部学科目および担当教員(昭和三十七年度)

 前掲の新制第一・第二法学部発足当初のカリキュラムと比べても、旧態依然、たいした変りばえもみられないばかりか、寧ろ専門科目の名称変更などに、却って旧制法学部のカリキュラムへの回帰の志向さえうかがわれよう。しかも新制大学制度の枠のなかゆえ、いかに旧制へ憧れても、外国語、一般教養科目に割り当てられる時間数から相対的に専門科目の時間は短縮されざるを得ない。旧制法学部のカリキュラムへの完全なる復帰は所詮、見果てぬ夢ではあるが、なお恋々たるものがあり、少くとも、それから離れられないところに教員側のカリキュラム改革の限界があるのではあるまいか。

 しかし、日経連の「産業界の要請を的確に把握して、これに対応する方途を考究」するということなどは論外として斥けるにしても、この辺で、次元の高いカリキュラムの見直しは、どうでも必須なのではあるまいか。仮に、それが教員側に期待薄(?)とすれば、学生達に期待するほかはあるまい。

 ところが学生達は、純粋、純真であるかも知れないが、いささか力量不足は否めまい。それに、そのためか、学生達は、えてして、足もとを越えて、ストレートに高度経済成長下の企業の巨大化、その結果としてもたらされる管理社会体制それ自体と対決しようとする傾向がある。その結果は、もとより不毛、いたずらに挫折感だけが残るという結果になりがちであった。

 とはいえ、何人も、新制大学とは、管理社会に適応する順応型人間、いきおい過剰適応もしかねまじき「会社人間」を育成するところと決めつけられれば反発しよう。なによりも本節の冒頭に掲げた「教育基本法」第一条の「教育は、人格の完成をめざし……個人の価値をたっとび……自主的精神に充ちた……」に悖ることにもなるばかりでなく、大学という学問の場を逼塞さすことにもなりかねまい。まこと大学とは、かかる驕慢な管理社会それ自体に対する裂帛の批判をも含めて、およそあるべき社会創造のための叡知を模索すべきところで、学生といえども、このためにのみ燃えさかる場にしなければなるまい。そのためには、なによりも大学は、いかなる飴にも鞭にも負けない毅然たる態度を持たねばならない。産学協同に対する批判も大学改革論も、すべてこの原点に立ち返ってから出発せねばならないのではあるまいか。とは言え、この時期では漸く問いかけがなされた程度で、未だ模索の域を脱しきれなかったようであった。

十四 法学部の民主化の動向

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 昭和三十年代は、いわゆる一九五五年体制の形成・展開期に当る。開放経済体制に向けて、資本の国際的競争力を増大すべく、政治的には保守合同と左・右両社会党の統一による二極分解のもとで、なかば永久的な保守政権が確立した時期であった。

 教育面について見れば、マンパワー政策を基調とする産業技術教育の強化・推進が、昭和二十九年(一九五四)の「教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」の後を承けて、日経連の「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」(昭和三十一年)、中教審の「科学技術教育の振興方針についての答申」(昭和三十二年)などの形をとって現われ、この時期の後半に登場する中教審の答申「大学教育の改善について」(昭和三十八年)、経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と政策」(昭和三十八年)に発展する。

 またこの時期は、大衆運動の側では、社会・共産両党を中心に、労働組合(というより総評)、学生、進歩的文化人からなる「革新国民運動」が一つのものとして成り立ち得る時期でもあった。平和と民主主義のシンボルと、それを価値づける新憲法擁護を軸に、労働運動・農民運動・文化運動が協同し得た時期であった。

 この時期に、法学部はほぼ三つの側面で対応する。第一は専門科目担任スタッフの充実である。

 昭和三十年(一九五五)には、内田(武)、佐々木、島田(信)、昭和三十四年(一九五九)には、金沢、佐藤(昭)、篠塚、西原、畑、昭和三十五年(一九六〇)には、鈴木、土井、中村(真)、中山、昭和三十六年(一九六一)には、須々木、昭和三十七年(一九六二)には、新井、内田(一)、大畑、酒巻、長浜、昭和三十八年(一九六三)には、桜井、高坂、昭和三十九年(一九六四)には、佐藤(篤)、昭和四十年(一九六五)には、牛山、浦田、がそれぞれ専任講師に嘱託された。

 これらの人々は、殆ど法学部または法学研究科の出身であり、いわばインブリードな教師である。外来の講師による教育を排し、法学部の卒業生を法学部で育て、教師として立たしめたとき法学部の躍進があったとする自覚は、スタッフ養成方針の基本を貫ぬいて、現在に至っている。

 しかし、現在法学部教授会の中心となって、学の内外で活躍しているこれらの人々は、すべて戦後に大学教育を受け、研究生活を始めた者である。従って、多かれ少かれ身につけている近代的・合理主義的リーガリズムは、一種の同族意識による心情的連帯や、その連帯感の上に作られる権威的な人的支配関係に鋭敏に反応する。法学部および比較法研究所の管理運営について、民主的な改革を先任者と進めることになるが、これらの点について問題を指摘された一又正雄教授が、昭和三十九年(一九六四)に辞表を提出した事件は、まさに起るべくして起った事件である。

 第二は、専門志向によるカリキュラムの修正である。昭和三十年(一九五五)には、随意科目として法学演習(A)が二年生におかれていたが、昭和三十四年(一九五九)には、第一年度へ降された。そして昭和三十八年(一九六三)には、新スタッフの嘱任に伴い十五クラスに増加している。

 次に、民法の学科配当は、民法(1)(2)(3)の三部制から、従前通り、民法総論、物権法、債権総論、債権各論、親族法、相続法の区分に改められ、昭和三十三年に設置された民法委員会の案により、次のように決定された。

第二十三表 民法学科配当(昭和三十五年から実施)

 また刑法についても、昭和三十五年(一九六〇)度までは三年度の専門選択科目であった刑法各論を、司法試験その他を考慮して再検討し、昭和三十六年(一九六一)から専門必修科目に改めた。このため専門科目の単位数は、次のように変った。

昭和三十二年卒(卒業に必要な単位数一四〇)

無選択必修 六〇

選択必修 二八

昭和三十五年(卒業に必要な総単位数一五二)

無選択必修 七二

選択必修 二八

昭和三十七年(卒業に必要な単位数一五六)

無選択必修 七六

選択必修 二八

 このことは、法学研究の発展がもたらす専門化と、新制大学の教育理念との矛盾を、専門化志向によって解決しようとする事例と見ることができよう。その背景には、制度的には新制大学への移行に際し、一般教育科目担任者の充足を図らないまま、縦割り制度を採ったこと、そして入学から卒業までの全課程を、可能な限り司法試験に間に合うような法律知識の修得に当てようとする使命観が流れているように思われる。

 第三は、昭和三十年(一九五五)度から、「受講者の多い科目については、小講堂その他大学施設の不備から生ずる弊害を少なくし、かつ科目選択の範囲を拡げるため」、組数の増加を行った。哲学、法学、経済学、政治学は、それぞれ二組に増し、翌三十一年(一九五六)には、憲法、商法二部もそれぞれ二組設置されている。世界史、教育学、統計学が新設されたのも、この時期である。

 学生数の増加に応じて、問題への対処は、逆に大教室の整備という方向をとり、後に法学部校舎整備委員会を設けることとなった。「専門科目の使用教室五十五室のうち、三十室が学生(定員)を収用しきれない状況」が、その理由である。

 法学教育のマス化に随伴する大教室増加という経営上の要請と、教育方法上要求される少人数クラス制の矛盾は、既にこの時期に現れてくるが、より深刻な課題として提起されるのは、四十年代の大学闘争を通じてである。入学者の増加は上表の如くである。

第二十四表 第一・第二法学部一年入学者数(昭和二十五―五十七年度)

 ところで、昭和三十年代の後半から、激増する受験者数にも明確に現れている大学の大衆化を背景に、重大な画期を迎える。第一・第二学部統合問題がそれである。

 大学当局は、第一学部の学生と第二(夜間)学部の学生との能力の格差を前提に、第二学部を切り捨て第一学部の定員を倍増させることによって、教育効率を上げようとする構想を出した。

 この考え方は、従来の市民教育型のあり方を一挙にハイタレント・マンパワー型のそれに換えたことを意味すると同時に、スタッフの増員、カリキュラムの修正など困難な課題をもたらすことになった。

 大学は、学部長会、評議員会の議を経て、次のような方針を公表した。

第一、第二学部の統合方針

早稲田大学は創立以来昼間授業を建前とする学校として発展を遂げて来たが、大正十二年の関東大震災により夜間授業に重点をおく多くの大学がその校舎を焼失したにかかわらず、本大学は幸に災禍をまぬがれたので、勤労学徒に修学の場を提供して社会の要望にこたえる趣旨により大正十三年夜間授業を建前とする専門学校を開設し、校名については一般の慣例によらず、専門部の呼称をさけて特にこれを早稲田専門学校と称した。ところで当時の交通事情の影響もあったと思われるが、とにかくこの学校は当初予想したほど志願者がなかったばかりでなく、開校の翌年から校名改称の要求をめぐって騒動をくりかえし、学生数も漸減し校運衰退の兆さえ示すにいたり、遂に昭和六年には理事会においても廃校問題を取り上げたことがあったほどである。

戦後の学制改革に伴い昭和二十四年に既存の学校体系を新制度の体系に切替えるにあたって、教育学部を除き他の五系統の学部については、昼間授業を建前とする学部のほかに夜間授業を建前とする機構を別個の学部として編成し、それぞれ第一学部、第二学部と呼ぶことにした。夜間授業を建前とする機構を昼間のそれと別個独立の学部として編成したのは、学校教育法の規定に準拠したものである。

夜間授業を建前とする第二学部が制度上昼間通学することのできないいわゆる勤労学徒を対象として構想されたものであることはいうまでもない。しかるに第二学部の実状についてみると、勤労学徒はきわめて少数であって、大部分は昼間通学にさしつかえのない立場の学生である。ところで昼間授業の学校と夜間授業の学校とは、その理由はともかく、伝統的に社会的評価の上に格段の差があり、このことは、第一学部と第二学部との入学志願者の数の上にも如実に反映しているが、卒業生の就職に際しても差別的の取扱いがなされることが多い。そこで従来第二学部の学生から、学部の名称上の区別の撤去または昼夜両学部の単一学部化等の要求が繰返されて来た。しかし夜間授業を建前とする機構を存続しながら、昼間授業を建前とする機構と併せて単一の学部として編成することは学校教育法の適用上許されないことであり、また昼夜両学部が並存する以上、名称上の区別を撤去することも不可能である。この問題は、結局勤労学徒を対象とする機構については別途に考慮することとし、現行の形態による第二学部を第一学部に統合する以外に解決の方策は見出せない。しかし第二学部の廃止によって学生の収容定員を激減することは、年を追うて大学進学者が増加する社会的傾向に逆行するばかりでなく、大学の財政的基礎に及ぼす影響も大きく、したがって第二学部を第一学部に結合するには第一学部の学生定員の増加を前提条件としなければならない。そこでこの問題は、施設の拡充と相俟って解決する方針の下にこれを持ち越して来た。

その後文学部新校舎が完成したほか、理工学部新校舎の建設と新校舎への全面的移転および大教室の建設計画等により大学全体として施設面に大幅にゆとりが見込まれるようになったので、まず理工学部については昭和三十六年度から第二学部の学生募集を停止して学部統合に踏み切ったが、施設の建設計画も全面的に進捗をみるにいたったので、他の学部についても統合を断行する方針の下に左記の措置を講ずることにする。

一、学部の統合は、第一学部については名称を変更する(第一の二字削除)ほか学生収容定員を増加し、第二学部についてはまず第一学年の学生募集を停止し、すでに入学を許可した学生が卒業したときに学部廃止の手続をする方法による。ただし第二学部廃止の手続が完了するまでは両学部が並存することになるので、第一学部の名称変更の手続は、第二学部廃止の手続のときに併せ行なうことにする。

二、統合後の各学部の学生入学定員は、大学設置基準との関連を考慮して定めることとし、大体の目標は次のとおりとする。

(括弧内は現行定員)

政治経済学部 八五〇名(七〇〇名)

法学部 八五〇名(六〇〇名)

商学部 一、〇〇〇名(六〇〇名)

文学部 八〇〇名(五〇〇名)

三、第二学部の学生募集の停止は、法学部および商学部については昭和四十年度から実施し、政治経済学部および文学部については昭和四十一年から実施する予定である。

四、統合学部の授業は、昼間において行なうことを建前とするが、教員の時間繰りの都合または教室の都合により、例外的に夜間(大体八時頃まで)に及ぶことも妨げないものとする。

五、勤労学徒を対象する教育機構については、昭和四十一年度からの開設を目標に、特別の委員会を設けてその具体策を検討することとし、この委員会は昭和三十九年九月中に発足するものとする。

(庶務部文書課所蔵『昭和三十九年度評議員会記録』)

十五 第二法学部廃止問題

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 本来勤労学生のために、夜間教育機関として置かれていた第二法学部も、次第に転部試験を通じて第一法学部へ移行するための機関と化し、他学部の場合と同じに、その存在価値を問われるようになっていたことは事実であった。そこで昭和三十九年(一九六四)、法学部教授会は、第二学部検討委員会を設けて、この問題を採り上げたが、勤労学生のための教育機関の必要性を無視することはできず、いかなる学部を作るべきかについて、新夜間教育機構検討委員会を設置して、審議することとなった。第二政経学部、第二法学部、第二商学部を統合した現在の社会科学部は、その具体化である。第二法学部は昭和四十年(一九六五)度から募集を停止し、同四十八年(一九七三)廃止される。

 右の第二法学部廃止に伴う対策として、第一に採り上げられなければならないのは、昭和四十年度から増加する新入生対策であった。そこで法学部は、一般教育科目と外国語科目に関する検討を行うことにした。

 本来一般教育科目は、戦後新制大学の理念を最もよく表現するものであったが、次第に専門技術者養成に重点が移行するにつれ、軽視されていく傾向にあった。

 ところで、六十年安保を経て、いよいよ明確になる高度経済成長は、池田内閣のいわゆるニューライト路線の下で進められ、合法性による支配ないし管理の体制が次第に確立されていく。

 この時期に大学は新たな問題に直面する。我々の側からすれば、単に憲法の規範的価値をうんぬんするだけでは足らず、現実社会へ鋭角的に切り込んでいく科学を持たねばならない。そしてその上に、現代法の科学的認識を打ち立てねばならないというあせりであり、学生の側からすれば旧態依然たる一般教育科目の講義に対する批判であった。

第二十五表 第二学部新入生のうち定職を持つ者の割合(昭和三十六―三十九年度)(%)

(『学生生活状況報告書』)

 昭和三十九年(一九六四)、法学部は一般教育科目検討委員会を設置し、既設の科目を、現代のヒューマニティーズの動向や、社会科学、自然科学の発展状況をふまえながら見直し、次のような原案と報告書を作成した。しかし問題は担任者であって、従来、主として学内兼担教員によって占められたものを、広く学外から求めることにした。

第一法学部一般教育科目検討委員会案

一般教育科目(選択必修)

人文科学系

哲学 A・B・C・D 文明論 A・(B)

文学 A・B・C・D 論理学

国語学 美学

歴史学 A・B・C・D 人文地理学

社会科学系

法学 A・B・C・D 社会学 A・B・(C)

経済学 A・B・C・D 教育学

政治学 A・B・C 統計学

社会思想 A・B・(C)

自然科学系

数学 A・B 地学 A・B・C

物理学 A・B 自然科学論 A・B・C

生物学 A・B・C 心理学 A・B・C

人類学 A・B

註1 「文学」Aは文学論、Bは日本文学、Cは中国文学、Dは世界文学。

2 「歴史学」A・Bは日本史、C・Dは世界史。

3 「法学」については従来の取り扱いを改め、これを他の社会科学系の科目と同等に扱い、必修的なガイダンスはしない。従って担任者を学部長、教務主任に限る必要はない。

4 現行では専門選択科目として二年に配当されている「社会思想」は社会科学系一般教育科目に移す。

5 ()印のあるものは担任者をえられるかどうかにより、四一年度からになるかもしれない。なお、同一課(たとえば文学)の中の二つのクラス(たとえばAとB)をとることはできない。

一般教育科目検討委員会報告書

一、委員会は、現行の新制大学一般教育科目の基準―すなわち、人文科学・社会科学・自然科学に配当された課目からそれぞれ三課目を選択させるという方式を前提として、各種の資格取得に必要な課目を考慮して、一般教育科目の検討を行う建て前をとった。(これは教授会の決定による。)

二、従って委員会は無制約の立場から「一般教育は如何にあるべきか」という検討を行うことは、短期間に結論に達することが困難であるばかりでなく、たとえ結論に達したとしても差し当って実現することが不可能なので、今年度は当面の問題である四〇年度の学課配当を如何に実施すべきかという立場から検討に当った。(将来「理想案」がまとまるなら大学基準協会などに意見を反映させるよう努めることも考えられないことではないが。)

三、前記の基準ないしは方式内において、「一般教育は如何にあるべきか」は勿論考えられることであり、検討されたのである。ただその場合に、例えば人文科学のなかの文学論・日本文学・世界文学とか、日本史・世界史といった隣接課目をとることの可否について、関連課目をとる方が教養は深められ身につくという肯定論も聴くべきものはあるが、その考え方によれば人文・社会・自然の三系統から三課目という枠自体既にその意に反するものであり、その枠内では不徹底をまぬかれない。そこで委員会の多数意見はなるべく隣接課目をとることを排すことになった。このゆき方を一層徹底させるためには、人文・社会・自然の各系統の中でさらに隣接課目のグループを作り、例えば哲学・倫理学・宗教学・論理学のグループ、国語学・日本文学・中国文学のグループ、文学論・世界文学・美学のグループ、歴史学・文明論・人文地理学のグループといった区分けをして、同一グループからは一課目しか選択できないことにする方がよいわけであるが、これは実施面で技術的に実現できないので、委員会案のように、文学を一課目として従来のように日本文学と世界文学と中国文学というふうに三つはとれず、歴史学を一課目として、従来のように日本史と世界史と両方はとれないようにしたのである。

四、文学とか歴史学の場合はこのような統合ができるが、例えば哲学の場合、哲学のあるクラスを倫理学とか宗教学とか美学にすることは無理なので別立てにした。

五、いかなる課目を新設するかについては、一つの観点としては「真・善・美」というものを基準とし、それぞれ哲学・倫理学・美学がこれに当るという考え方が取り上げられたが、倫理学については委員の中にも異論があり、倫理学の書物をみるなどして再検討したが、やや専門的な学問になり一般教育として適切かどうかということが難点と思われるので、研究課題となった。

六、既存の宗教学については、担任者が更新されるので新設課目と同じように再考することになり、重要度の判定で委員の意見が二分したので保留とした。

七、倫理学・宗教学については、委員会でも教授会でも設置することに異論があり、異論に尤もな点があるので今後慎重に検討することにしたのであるが、他の課目についての教授会での異論は、主として「その課目が法律学を学ぶのは必要であるかどうか」という観点から出されており、委員会としてはそのような立場を採らないので原案のままにした。委員会としては、直接法律学に関連させて考えない方が、むしろ法律学を学ぶためにも基礎になるという見解である。

八、文明論については、近代の学問が専門化の傾向を辿り、綜合の面に欠けているので、それを補うものとして考慮された。

九、地学は、自然科学系の課目が現状よりも多くなることが望ましいので―それには物理学が七〇名収容の教室で行われるという制約もあって―新設することにした。

一〇、心理学は、その担当者が医学博士であることをみてもわかるように、近時自然科学に属すと目す方が適当なので、人文科学系から自然科学系に移した。

右の案は昭和四十年(一九六五)から次のとおり実施された。

第二十六表 法学部一般教育科目表(昭和四十年度)

 しかし、この改正は、学内他学部からの批難をあび、次のような学部長会の申合せもなされることになった。

申合せ事項

各学部の教授会は、その教員組織すなわち教員の進退、担任科目、担任時間等につき自主的に立案実施することが認められており、この学部自治の原則は大学自治の理念に基き尊重されなければならないが、しかしこの原則は絶対、無限定のものではなく、本学部は総合大学の一環として相互に協力して大学の機能の発揮と名声の保持に関して連帯関係にあること、竝びに私立学校の場合には学校の組織とその設置経営の法的主体としての学校法人の組織との二重構造のものである特質にもとずき、他面専任教員の権利の尊重と地位の保障等の観点から、次項以下の制約に服しなければならない。

一、兼担教員の任免について

兼担教員の任免については、所属箇所の長との協議が必要とされ、さらに禀議書にもその印鑑の押捺が必要とされている。所属箇所長との協議を必要とするのは、学校の人事管理権は第一次次元においては本属箇所に属しているからであり、認印を必要とするのは、協議が整ったことを証するためである。

専任教員の進退、担任科目、担任時間等に関する問題は本属の学部その他の箇所(以下学部という)とにおいて管理する建前になっており、従ってある学部が他の学部を本属とする教員に兼担させることを希望する場合には、その本属学部の了解を求めければならないことは当然の事理に属する。この場合、本属学部においては、所属教員の全体との関連において、序列の問題、持時間の振合等の問題を考慮しなければならない。また一旦兼担を委嘱された教員がその兼担を解任された場合には、本属学部においてはその教員の再配置、担任時間をどうするか等の問題に直面することになる。

なお専任教員は原則としてすくなくとも八時間の授業を担任することを要請され、それを超える分に対しては時間外勤務給を支給することになっているが、給与の基礎となるべき担任時間は兼担時間をもふくめて通算する建前になっているので、兼担の担任は、給与にも影響し究極においては教員の地位の保障にも関連する重要問題であることを看過してはならない。

兼担教員の任免につき本属学部の長との協議を必要とするのは、如上の諸事情を勘案した結果によるものであるから、この手続は絶対に遵守しなければならない。ところでこの場合の協議とは、一方的の通告を意味するのではなく、話し合いの上その了解を得る趣旨であることはいうまでもない。そして認印は、話し合いの結果了解に達したことを明確にするための手段であるので、形式上の要件ではあってもこれを軽視すべきでない。

二、教授会の決議と大学の承認

学部教授会の決議は、人事に関する決議をもふくめて大学の承認を要することになっており、裏返していえば教授会の決議は大学の承認を経てはじめてその拘束力を生ずるものである。むろん学部自治の原則からいえば教授会の決議は尊重されなければならないが、しかし大学全体の運営の責任をになう理事会の立場からいえば、学部相互間の均衡をはかる必要から、あるいは財政上の考慮、大学の名声、大学の基本方針等の観点から、学部に再考を促して調整をはかる必要がないとはいえない。教授会の決議につき大学の承認を必要とするのは、この点の考慮に基くものであり、いわば必要やむをえない場合の安全弁ともいうべきものであって、理事会が教授会の決議に対して不当に拒否権を行使した事例もなければ、今後といえどもそのようなことは良識上ありえないであろう。

第二十七表 第一・第二法学部学生数(昭和25―40年度)

三、非常勤講師の起用と財政上の配慮の必要

教員の起用にあたっては、教育的観点からの考慮が最も重要であることはいうまでもないが、しかし専任教員にその科目を担任する余裕がある場合には、他に特別の理由があれば格別であるが、そうでない限りは、その専任教員を起用することがその教員の立場からいっても、また大学の財政負担軽減の観点からいっても望ましい。非常勤講師の起用にあたっては、この点の配慮も必要である。

第二十八表 第一・第二法学部入学志願者数(昭和25―40年度)

第2図 第一・第二法学部学生数の推移(昭和25―57年度)

十六 学費値上げといわゆる第一次紛争

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 昭和四十一(一九六六)年は、学費値上げ反対闘争で明けることになった。

 昭和四十年十二月十八日の学部長会で、大浜総長は、四十一年度の新入生について授業料現行五万円を八万円に、入学金現行三万円を五万円に、施設費現行五万円を七万円に改定する(法文系)と発表し、その理由として(ⅰ)奨学金の増額、(ⅱ)在外研究費の増額、(ⅲ)建物その他の施設の維持費、(ⅳ)専任教員の増加に備える点をあげた。この学費値上げ発表は、現行十三万円から二十万円と上げ幅が非常に大きく、また冬季休業に入ってから発表されたことから、教職員、学生に強いショックを与え、民衆の大学であるべき早稲田大学に入学できる階層が自ら限定されて大学の大衆性が失われ、質的低下を招くのではないかとの危機感をつのらせた。

 大学当局は「学費改定について」(一月)という文書で次のように言っている。「大学の財政は、経常勘定の面においても、基本勘定の面においても、その財源のほとんど全部を学費に仰いでいる。ところで、大学の経費は、年を追って膨張をまぬがれない。そこでこれに対処するためには、国庫補助その他寄付金等に財源を求めることが困難な現状においては、学生数を増加するか、学費を改訂して増収をはかる以外に途がない。私学が周期的に学費の改訂を繰返えしているのはそのためである」とし、これを打開する方策として国庫助成の必要を主張する。「私学の学費は、一面においては教育の機会均等の理想に照し、他面においては国公立の大学との比較において、批判の対象とされている。学費は低額であればあるほど教育の機会均等の要請に合致することはいうまでもない。しかしこの理想は、国の文教政策によってその実現をはかるべきものであって、この理想の故に私学の教職員とその研究、教育の施設を犠牲に供することは許されない。そうでないと、私学は研究機能においても教育機能においても、ますます質的低下の運命を辿らざるをえないであろう。……私学も国家社会の需要に答え、その貢献においては国公立との間になんら差異がなく、公共性においても区別することはできない。然るに大学教育の大半をになう私学を顧みないことは、国の文教政策上片手落ちというほかはない」と国の文教政策を批判し公費助成に努力することを決意している。

 高度経済成長政策の下で、私立大学は全国の大学生の約七〇%以上を引受け、そこでの教育の実態はマス・プロ教育であった。教職員の労働過重と研究・教育内容の低下が深刻になってきた。いわゆる「私学危機」の状況があらわになってきたのである。法学部では、専任教員一人当り学生数は八十六・四人(東京地区私大教職組合連絡会討議資料)となっており、持時間数・研究費・研究室設備など研究教育条件は、国公立大学に比較していちじるしく劣悪なものであった。大学当局は、この私学危機に対して、財政危機ないし経営危機としてとらえ、経営権が理事会にあることから、財政建直しのために大学構成員のコンセンサスを得ることなしに授業料値上げを行うという事態になったのである。

 学生の間には学費値上げ反対の声が高まってきた。一月二十四日からの昭和四十年度学年末試験を目前にして、学生のクラス討論が白熱化し、第一法学部の学生は全学のトップを切って学費値上げ反対無期限ストライキを決議し、学年末試験ボイコットの方針を打ち出した。また前年十二月以降の学生会館の管理運営権の要求も重なって、ストライキは全学に拡がった。

 法学部では、学年末試験が始まる前日の一月二十三日(日曜日)、第一・第二法学部臨時連合教授会が招集された。第一議題「学年末試験日程に関する件」は教授会が教員会に切り替えられ、講師・助手も審議に参加して深夜にわたって議論が白熱し、(ⅰ)大学本部の要請であった、明二十四日早朝に全教員による説得は行わない、(ⅱ)「一月二十四日よりの当学部の試験は延期する。試験に関する事項は一月二十七日午後三時に発表する」という掲示を出すことに決定し、教員会で審議決定した件について、教授会はこれを教授会の決定とすることにした。この方式はその後教授会と教員会の関係についての基本原則となった。翌二十四日、再び教員会が開かれ、学部当局は引き続き学生と話し合いをすること、試験日程は一月二十六日開催の教員会・教授会で審議すること、今回の学費値上げについて検討すること、大学当局が教授会と無関係に昨日試験中止の「告」を出したことについて事実を調査することが決定された。一月二十六日の教員会・教授会は、大野実雄、有倉遼吉両学部長の報告に基づき、(ⅰ)一月二十七日「試験は引き続き延期する。試験に関する事項の次回の発表は明二十八日午前十時にする」という掲示を出すこととし、学費値上げ問題、今般の事態に関し学生の意向を知るために学生と接触する組織を作るべきだとの意見が出された。一月二十七日の教員会・教授会では四年生の分離試験を実施することに決定し、次のような掲示を出すこととした。

第一・第二法学部学生諸君に告ぐ

現在の事態の下で、当学部全学年の試験を一斉に行なうことはきわめて困難である。

しかしながら、四年度生以上の諸君については、社会的諸条件を勘案すれば、三月末日の卒業を実現させることが是非必要であり、そのためには四年度生以上の諸君の試験を三年度生以下の試験と分離して行う以外に方法はない。しかも、その試験をすべてレポートその他の手段に代えることは、技術的に不可能である。

さらにその試験は、日程上二月一日に開始することが必要である。したがって、特別の事態が発生しないかぎり、この日程にしたがって試験を行ないうることを希望し、その詳細を三十日午前十時に発表する予定である。

学生諸君が本教授会の意を解し行動することを希望する。

一月二十七日

第一第二法学部連合教授会

第一第二法学部連合教員会

 けれども学生は、学費値上げ問題や学館問題について大学当局とまったく接触がないまま、大学当局・学部長会の試験強行策には強く反発した。法学部教員会は、一月二十七日、このような諸情勢を見ながら、四年度生を三月中に卒業させるため、「ある科目をレポートにするなど技術的に可能なかぎりの操作を加え……二月三日から試験を開始したい……三年度生以下については四月以降に延期する」ことを掲示した(三十日)。一月二十九日の教員会で、教員会は学部長以外の議長三名を互選しその下で議事を進めることにしたが、これは法学部始まって以来の画期的出来事であった。

 総長は、二月四日記念会堂で一万五千の学生に学費値上げについて説明した。しかし学生はこの説明に納得せず、四年生のレポートを自主管理するために誓約書をとり始めた。法学部はやむなく四年度生以上の試験をレポートに切り替えざるを得なかった。史上初めてのレポートによる卒業生(レポ卒)を送り出すことになった。全共闘系の一部の学生は値上げの白紙撤回を求め、二月十日大学の本部に乱入し封鎖を行うに至ったのである。

 入学試験は目前に迫ってきた。二月十四日の教員会は、今回の学費値上げについて教員会のとるべき基本態度について審議し、「今次学費値上げについて再検討を要請します。理由⑴今次学費値上げが、教員の意向をはかることなく、かつ、考慮の余裕なしに、性急に決定されていること、⑵学費値上げの内容そのものが、再検討を必要とすると考えられること」を決定し、翌二月十五日開催の評議員会において、法学部選出の評議員によって口頭で伝えることにした。二月十七日の教員会では、この趣旨を学生に対して次のような声明を発し、入学試験への協力を求めたのである。

学生諸君にたいする要望

われわれは教育者としての良心に基づいて卒業試験を実施しようと心を砕いたのであるが、紛争の根底に横たわる問題の進展なしには学生諸君を説得することは到底できないことであって、やむをえず全科目をレポートにせざるを得なかった。それにもかかわらず事態は悪化の一途を辿り、今日入学試験の実施すらも危ぶまれる事態に立ち到ったことは、誠に憂慮にたえない。

かかる本学の危機に臨んで、これまでわれわれは幾度となく教授会、教員会を開き、われわれが「学費値上げ」問題についていかなる態度をとるべきかを慎重審議した結果、今回の「学費値上げ」はその決定手続の側面から見ても、内容の側面から見ても、少なくとも緊急に再検討を加えるべきであるという決定をみるにいたった。「学費値上げ」の再検討こそ根本的解決法であり、それなくしては学生の不信を増し、大学の信を失うものだからである。

しかしだからといって一部学生の本部占拠などはいかなる観点よりみても、本来の学生運動を逸脱することはなはだしい暴挙であり、われわれはこれを許すことができない。

当学部教員会は本部不法占拠の学生諸君が速かに本部を撤退し、少なくとも入試阻止などという暴挙にでることのないよう心より強く希望するものである。

いま、受験生諸君は長年の苦しい準備期を経て、その実力を問おうとしている。この時にあたって、それらもっとも弱い立場にある受験生諸君をあたたかく迎え、平静な状態の下でその実力を十分発揮して競いあえるよう準備することは、学生をふくむ全学園関係者の責務である。

われわれは、入試受付の妨害をおこなわなかった学生諸君の良識を歓迎し、また、およそ大学にふさわしからざる警官庇護の下での入試のごときは極力これを避くべきであると考え、これまで大学当局にたいして警官等を導入せざるよう要請してきた。

以上、入試の妨害が法的にみても受験生諸君の権利、利益を侵害する重大な不法行為を形成するものであることをも併せ考えて、本部占拠をとき、受験場等のバリケードを外して、われわれすべての者にとって貴重な伝統の後継者となる受験生諸君をあたたかく迎え入れる準備を可能ならしめるよう強く希望する。今次紛糾の根本問題の解決は、学生諸君の良識ある行動を前提とすることなしには不可能であると考えるからである。

昭和四一年二月一七日

第一・第二法学部連合教員会

 この声明はこのたびの紛争で全学で初めて公にされた教員側の意見であった。このような主張は、大学における民主的あり方を求める多くの教職員にとっては至極当然のものであったが、大学当局は、学生との話合いの道よりはむしろ機動隊導入によって学生を排除し機動隊警護の下での入学試験の実施を選択した。二月二十一日早朝警官導入全学ロックアウト体制がとられ、学生はクラス討論の場を失ってしまった。この過程を見ると、クラスやサークルの素朴な学生の声は反映されず、一部の執行部と大学当局との馳引きが、事態を深刻にしていったことが分る。大学当局は、学生運動の指導的な学生のみに目を奪われて圧倒的多数の学生を見失った。

 政府は、二月二十三日異例の文相談話を発表し、二十五日の閣議では佐藤首相が「早大紛争は一大学の問題としてでなく、より根本的な問題として検討しなければならない。私学振興のためには財政援助も必要だが、その方法については私学の自治と関係するので慎重に考慮する必要がある。また大学自身の管理体制の整備が大学の自治の前提である。……諸外国の例なども研究して管理体制の強化について検討してもらいたい」(『毎日新聞』二月二十六日朝刊)と文相に指示し、大学の管理体制のあり方に重大な関心を示した。

 入学試験終了後、国会稲門会の動きなどにより動揺を示していた大学当局が、再び最初の値上げ方針を堅持したため、「学費値上げ再検討」を提案した法学部に対する他学部の批判が起り、法学部はむずかしい立場に立たされるようになった。大野実雄第一法学部長、有倉遼吉第二法学部長は三月九日の教授会で健康上の理由で辞任が認められ、第一法学部長に星川長七教授、第二法学部長に高島平蔵教授が選出された。

 法学部教員会は、カリキュラム問題などの教育制度改革、大学経理の公開、大学の民主化など今次紛争において学生から提起された諸問題をふまえ、先ず、教授・助教授から七名、講師から二名、助手から二名の計十一名から成る「法学部教育制度検討委員会」を発足させることを決定した(三月十四・二十二日)。また、学年末試験に関し教員と学生との交流をはかる委員会(九人委員会、後に教員学生懇談委員会と改称)の設置を決定し、この委員会にバリケードによる試験ボイコットの事態改善の努力を委ねることにした。本年度は法学部の卒業式を行わないことを決定し(二十二日教授会決定)、学年末試験の実施と新学期の授業開始を求めて多様な形で在学生との精力的話し合いが行われた。

 大学当局も四月五日「大学の当面の課題と対策について」と題して事態収拾のためのパンフレットを配布した。それによると、「学生から提起されたいろいろな問題……に対しては謙虚な態度で耳を傾け、大いに反省し、採り入れられるべきところは採り入れ、またできるところは積極的に改善していかねばならない」と述べ、当面実施しうる改善策として、⑴教育の在り方に関する問題として、大学の規模の拡大に伴う問題に対して、(ⅰ)教員と学生の人格的接触、(ⅱ)学生生活ガイダンス、(ⅲ)学生相互の人間関係の密接化をあげ、一般教育科目、単位制度の問題に対して「講義の内容、アプローチの角度、講義方法、配列の年度などについての再検討の必要を認める。現行制度は単位制に徹底し学年制度が加味されていないが、これも再検討の対象になろう。これらの問題を、各学部教授会、目下計画中の全学委員会などで早急に研究したい」、⑵学費の値上げと予算について、値上げを撤回せずそのかわり大幅に奨学金を増やすこと、⑶学生厚生センター、物件費の国庫助成が認められれば設備費の軽減も可能であること、⑷学生会館については、学生の自主管理に委ねるのではなく、大学側委員と学生側委員による学生会館委員会を設置し、これに管理を委ねる、というものであった。

 これに対し、一法学友会常任委員会は、⑴授業料不払宣言をクラス毎に決議してカンバンに出す、⑵大浜総長および三理事退陣要求の署名を行う、⑶クラス毎の団交要求決議をする、という方針を掲げ、同時に大学の管理運営、大学の自治と文教政策に関する連続講演会(自主講座)を開催した。三年度生(旧)クラス連絡協議会はこのような中で、闘う姿勢を崩さず、三年のみの学外分離試験を受けることを決議した。これに答えて教員会の審議の結果、結局一法は五月二日より九日まで、二法は十六日より二十日まで、早稲田実業学校で夜間試験を実施した。

 この間、大学当局は学生との対話を求めたが果せず、校舎はバリケード封鎖のまま授業も再開できず、五月一日に予定された入学式の目処もたたず、学内教職員の間に当局批判が現われ総長退陣の声もあがった。大浜総長はこのような状況の下で、四月二十三日評議員会阿部賢一会長に辞表を提出し、翌日の理事会で全理事が総長に辞表を提出した。また、今次紛争が一部の指導者によって引き起され拡大したという観点から、当局は三月下旬各学部に処分対象者を提示していたが、四月二十八日学部長会の議を経て法学部を除く政経・文・商・教育・理工の学生計四十名(内除籍九名)の処分を発表した。法学部では処分に疑問を持つ教員も多く、漸く四月三十日の教授会で学生処分に関する委員会を発足させた。

 大浜総長は、五月一日の入学式には欠席したが、七日大隈講堂で千三百名の教職員に所信を語り、十日の評議員会で後事を託す人を指名して辞任することを明らかにした。法学部教員会は、既に四月二十八日総長に対し総長代行は現理事を除く専任教員から選ぶよう要望していたが、五月七日の教員会では五月十日の評議員会に向けて、法学部選出の評議員が席上校規に従った厳格な手続をとるよう発言すること、総長代行者指名の手続はまず現理事全員が総長に辞表を提出し、次に総長を含む理事選考委員会で新理事を決定し、その新理事の中から総長が代行者を決めた後に総長が辞任するのが最も合理的であることなどを主張するよう決定した。評議員会では、阿部賢一氏が理事に選任されかつ総長代行第一順位者に指名され、大浜総長の辞任が認められた。五月四日の学部長会に提案された「事態処理委員会」も動き出した。阿部総長代行は積極的に学生の集会に出席し、施設費二万円の引下げ、学生会館については学生と話し合うとしながら、私立学校法や設置基準における必要授業日数の最終期限と考えられた五月二十三日からの授業再開に向けて努力を重ねた。共闘会議派の強行路線は多くの学生の支持を失った。各学部ではストライキ解除のための学生投票が次々と行われた。

 法学部では、この紛争の間に設置された教員と学生との連絡機関「教員学生協議会」(教員側十名、学生側は学友会・サークル代表により構成)やクラス・ミーティングなどを通し授業再開の努力を続けた。一法については、五月二十七・二十八日には、教員・学生代表が議長となって総長との会見集会を開催し、他方では公開講座を開き、新一年生に対しては六月十三日より一部の授業を開始した。六月十三・十四日の学生の投票(投票総数二三六七票、ストライキ解除賛成一九一二票)によりストライキが解除され、二法についても、六月二十日の学生大会でストライキ解除が決議され、一法・二法ともに六月二十二日より全面的に授業が開始されることとなった。一法の二・三年の学年末試験は、六月二十七日より早稲田実業学校で夜間実施された。星川(一法)・高島(二法)両学部長は五月三十一日の教授会で辞任し、六月七日の教授会で新たに有倉遼吉(一法)・杉山晴康(二法)両教授が学部長候補者に選出された。学生処分についての審議は夏休み明けに持ち越され発表されたのは翌年二月であった。

 ここで注目しておくべきことは、この紛争を契機に文部省が、⑴国が私学の経常費を援助する場合、経理の公開や入学定員、授業料などの規制問題が生ずるが、私学側がこれらの点を自主規制できないなら私学法を改正して国が直接規制する、⑵管理運営体制については大学の自治に関連して、理事会と教授会の関係などに特別の規律が要求されるが、これは私学側の自主検討に期待するとし、私学が自主規制しない限り国が監督規制せざるを得ない、という線を打ち出したことである(四月十八日)。これは後の「大学の運営に関する臨時措置法」(昭和四十四年八月成立)の前触れであった。

 約六ヵ月に亘ったこの紛争で学生から提起された問題に、法学部はどう答えてきたか。

 学費値上げについては、大学当局は経理を公開し、値上げの最終決定をする前に少くとも教職員(法学部では教員会)の了解を求めておく必要のあることが全学的な共通の意識となったことは、大学民主化という側面から見れば一歩前進であった。

 法学部内部では、今次紛争の当初から教授・助教授のみで構成される教授会ではなく、講師や助手をも含む教員会がこれに対処し、学部長とは別に互選による議長団(三名)制をとり、白熱した議論はしばしば深更に及んだ。しかも特筆すべきことは助教授を中心とする若手教員の積極的活躍がみられ、学生に対してばかりでなく大学当局に対しても発言したことである。

 学生による教育のあり方についての批判に対しては、教員会はこれを深刻に受け止め、先ず教育制度検討委員会を設置して(三月十四日教員会)問題点を整理することとし、四月十九日の教授会では従来からの「専門科目検討委員会」「一般教育科目検討委員会」「外国語科目検討委員会」の委員選出を留保した(後掲資料参照)。他方では教員・学生それぞれの代表から成り両者の連絡協議機関として恒常的な教員学生協議会の設置を提案し(四月十一日)、学生との間に合意された。また、学生と教員との日常的接触をより密にするためにクラス担任制度を改善し、各クラスの語学担任者が持ち上りで同一のクラスを担任することとした。更に、教育制度検討委員会からの提案で「法学部カリキュラム検討委員会」(カリ検)の設置が決定された(八月三十日教授会)。

学部要求基本案 一法学友会 (四十一年七月十三日提出)

一 勉学条件に関するもの

⒜ 授業内容について

(ⅰ) 講義の授業の人数を減らすよう要求する。

(ⅱ) ゼミを拡充し、二年連続してとれるよう、また少人数制を確立するよう要求する。

(ⅲ) 科目登録の抽選制を廃止し、とりたい科目を全てとれるように要求する。科目登録の前にオリエンテーションを設けるよう要求する。

(ⅳ) 講座数をふやすよう要求する。特に一般教養科目をふやすよう要求する。

⒝ クラス活動について

(ⅰ) クラスのH・Rの時間、場所を保障するよう要求する。

(ⅱ) クラスにロッカーを作るよう要求する。

(ⅲ) クラス連絡板を改善するよう要求する。

⒞ サークル活動について

(ⅰ) 一サークル一部室を要求する。

(ⅱ) 机、椅子、ロッカー、黒板を新らしくするよう要求する。

(ⅲ) 予算を増加させるため、法学会から大幅に予算をおろすよう要求する。

(ⅳ) 自治会、サークル用の電話を入れるよう要求する。

⒟ 法学部ゼミナール協議会について

各ゼミナールの交流による研究活動の発展と共通の要求にもとづいてゼミナール協議会を結成しよう。

「法学部カリキュラム検討委員会(仮称)」の設置について

法学部教育制度検討委員会は、今次紛争を契機として、第一第二法学部における教育制度の改善について検討を重ねてまいりましたが、左記により「法学部カリキュラム検討委員会(仮称)」の設置について要望いたします。

一、趣旨 第一第二法学部は、すでに一般教育科目・外国語科目・専門科目検討委員会を設けて法学部における教育をより科学的効果的ならしめるための検討を加えてきましたが、当委員会は、その基礎の上に立ち、今次紛争において提示された諸問題を分析し、あらためて教育制度全般に対する再検討を行なってきました。そして、その過程において、当委員会は、紛争を通じて露呈された一つの問題点が、いわば「学生の教室からの、したがってまた学問・教育からの疎外」ともいえる事態にあることに注目し、この観点を含めて、全カリキュラムを重ねて検討すべきであると考えるにいたりました。そこで、来学年度の学科目編成期をひかえた今日、とりあえず専門科目とその編成・配置等を主な審議内容としつつも、法学部における教育課程全体の改善を指向する「カリキュラム検討委員会」を設置されるよう要望いたします。

二、委員会の構成 この委員会は、委員十三名をもって構成し、そのうち四名は教授会において選出し、他の九名は、図書委員会の例にならって公法、私法および諸法の各グループから各二名、教育科目・外国語のグループから三名を互選してこれにあてる。

三、主な審議事項

⑴ カリキュラム全体について

(イ) 卒業に必要な単位数は従来のままでよいかどうか検討すべきである。

(ロ) 各学年への科目の配置について検討すべきである。

(ハ) 週四時間・前(後)期四単位制、あるいは週二時間・前(後)期二単位制の併用の是非について検討すべきである。

(ニ) 基礎教育科目の設置の是非について検討すべきである。

⑵ 一般教育科目・外国語科目について

(イ) 一般教育科目の学科目と教科内容について再検討すべきである。

(ロ) 人文・社会・自然の三系列への単位の均合的配分方法について再検討すべきである。

(ハ) 外国語科目における時間数と単位数の関係について検討すべきである。

(ニ) 外国書研究と外国語科目との関連について検討すべきである。

⑶ 専門科目について

(イ) 学生の関心と能力により、実質的にはコース制に近い選択をなしうる制度について検討すべきである。

(ロ) 右との関連において必修科目・選択科目の学科目と教科内容について再検討すべきである。

(ハ) 右との関連において綜合講座を設置すべきかどうかについて検討すべきである。

(ニ) 従来の法学演習Aを教員と学生の人的交流または一般教育科目と専門科目の相互連関などの点から再検討すべきである。

(ホ) 法学演習Bを必修科目とすべきか否か、これを全部随意科目とすべきか否かについて検討すべきである。

(ヘ) 演習の定員制、担任教員による審査制をとり入れるべきか否かを検討すべきである。

⑷ その他委員会において検討を必要と認めた事項

昭和四十一年八月三十日

法学部教育制度検討委員会

第一・第二法学部教授会殿

 カリ検は鋭意審議を重ね、十一月二十二日外国語科目検討委員会設置の提案をして承認され、十二月二十日の教授会ではとりあえず、⑴法学を基礎科目とする、⑵一般教育科目の選択方法をA(人文3・社会3・自然2)かB(人文2・社会3・自然2)のいずれかにし、⑶具体的な科目の配列は今後の検討に委ねる、⑷法学部五年制問題についても今後検討すると提案し、承認された。このように従来学生の批判の強かった問題を、今後地道に検討し、学生の勉学意欲を高めるために本腰を入れて取り組む体制ができたことは、法学部にとって大きな成果であった。

十七 大学の制度改革の提案と大学法の成立

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1 大学の規約改正・機構改革の諸問題

 阿部総長代行は、昭和四十一年九月九日正式に総長に選出されたが、代行の時代から、今時紛争が学生の一部指導者によって引き起されたとする考え方をとらず、学生全体がこれまでの早稲田大学のあり方を批判したものと捉え、教員と学生との接触を密にすることの必要性を強調する一方、大学の制度全般を見直す方針を打ち出した。

 このような方針から、大学当局は大学の規約改正・機構改革に関する問題点の指摘を各学部教授会に依頼した。法学部ではこれに関する委員会(大学機構検討委員会)を教員会を母胎として設置することとし(十一月二十二日)、構成は両学部長のうちから一名、大学院委員長ないし委員、比較法研究所所長の三名を職務上の委員とし、教授・助教授から四名、講師・助手から各二名、合計十一名とした(十一月二十九日)。委員会は野村平爾委員長、高島平蔵幹事で七回の審議を重ね、昭和四十二年四月四日の教授会に原案を提案した。教授会では次のような答申が審議決定され、第一・第二法学部は翌四月五日総長に答申した。

答申

この答申は、さしあたっての措置として、可及的速やかに改善すべき重要問題のみをとりあげたものである。

一、大学機構に関する問題

1 総長の被選挙資格、任期、選出等に関する問題点

⑴ 総長の被選挙資格につき、選挙時における年齢および再選・三選等について一定の制限を設けるべきではないか、また任期の再検討の必要はないか。

⑵ 総長選挙規則につき、何等かの方法において学内専任教職員の意思を的確に反映するよう検討する必要があるのではないか。たとえば、まず学内において一定数の候補者を選定するための直接選挙制度を新設し、この候補者に対して、教職員・校友から選出された選挙人をもって総長を選出する方法等、さまざまの方式を検討する必要があるのではないか。

なお、この場合、職員の総長候補者選挙制度への参加については、別に検討すること。

2 評議員の被選挙資格、選挙方法等に関する問題点

⑴ 評議員の被選挙資格につき、学内、学外評議員の年齢差を平衡化する必要はないか。この点については、名誉評議員制度を活用することの適否ともあわせて考えること。

⑵ 評議員選出基準について規定(校規第二十六条第一号および三号関係)を改める必要がある。

⑶ 校規第二十六条一号の評議員中に、大学院研究科委員長、附置研究所長を加えるべきか否かを検討すること。

⑷ 職員からの評議員選出制度について検討すること。

⑸ 校規二十六条による校友代表選出方法(五号・六号)について検討すること(商議員会規則第二条第一項三号、四号および校友会規則第二十七条・第二十八条とも関係する)。

3 理事に関する問題点

理事選出の方法について現在慣行化している方法の適否を再考する必要はないか。

4 商議員の選出に関する問題点

学内における学部改廃にともなう体制に照応して学内商議員の各学部選出人員を改める必要がある。

二、教学および研究等に関する問題

教学および研究に関しては、教員の持時間数、図書費、研究費等、検討すべき点はきわめて多いが、とりあえず、早急に検討を必要とするものを左に例示する。

1 教務予算について学則七十五条二項に規定があるが、これを実効あらしめるよう、たとえば予算案作成過程においてその案を教授会に内示し、説明し、意見をきく等の方法が必要ではないか。

また、各学部、各箇所提出予算について、これを予算案の中で増減するには、大学は当該学部等と折衝を行なう必要がある。

なお、決算についても、これを教員全般に周知させる方法が必要である。

2 助手制度について

優秀な研究者を確保し、専任教員の充実を図るため、現行助手制度を再検討すること。とくに学士修了者についてこれを助手に任命しうるよう規定を改める必要の有無を考慮すること。

3 学生数と教員数および施設が学部間において均衡を失し、かつ適正を欠いているので、この点是正の必要がある。

4 学生厚生施設の整備・拡充の必要がある。

 以上の論点は、いずれもこんどの紛争の中で指摘された最も基本的な論点であり、法学部としては実現に向けての大学当局の努力を強く希望していた。大学当局は、各学部の答申を受けて、大学機構研究委員会および教育研究委員会の設置を決め、それぞれの委員選出を提案した。法学部では、五月二十三日第一・第二法学部連合教員会を開催し、高木常任理事より両委員会設置の趣旨などについて説明を受けた後、選挙権者の構成を教授・助教授・講師・助手、被選挙権者の構成を教授・助教授・講師と決め、先ず教育研究委員会委員に有倉第一法学部長、島田信義教授、中山和久助教授を選出し、次に大学機構研究委員会委員に星川長七、大野実雄、高野竹三郎の三教授を選出した。けれどもこれら二つの委員会は相互にどのような関係にあるのか、権限・目的・性格は曖昧のまま発足することになった。

2 カリキュラム改正の問題

 カリキュラム問題は、教育制度のあり方を検討する最も重要な柱であった。カリ検は、その設置の趣旨に従って、昭和四十二年(一九六七)九月十二日に専門科目についてさしあたり可能な改正草案の成案を見、これを九月十九日の教授会に提出した。改正草案の要点は次のようなものであった。

一、一般教育科目外国語科目について専門科目との関連を十分考慮して引き続き検討する

二、専門科目カリキュラム編成の基本方針として

⑴卒業必要単位数を縮小し履修専門科目のミニマムを百単位とする

⑵無選択必修科目を減らし選択科目を増やす

⑶各科目間の関連に留意しできるだけ系統的に配列する

⑷選択科目を分けて実用法学科目・基礎法学科目・法学周辺科目・法演・外国書・外国法科目とグループに分け、それぞれから一定数を履修させる

⑸第一年度には専門科目を置かず一般教育科目全部(三十六単位)を履修させるようにし、基礎教育科目として法学Ⅰ(基礎法学)・法学Ⅱ(実定法)を設けてこれを必修とする

⑹第四年度には無選択必修科目を置かない

 教授会ではこの草案を専門科目担当者懇談会(専懇)・外国語科目検討委員会で検討することが決定されたが、専懇では対案が出されるなど合意に達することが困難であったため、カリ検としてはカリキュラム再編成の前提条件として法学教育に関する理論的実証的研究の必要を痛感し、専懇の審議を一時保留して法学教育に関する研究会を催すことを教授会に提案した。教授会はこれを承認し、同時にロシア語・中国語・スペイン語を「第一外国語」とするかどうか外国語科目検討委員会に付託することにした(十一月二十一日)。十二月の教授会で、昭和四十四年度より「外国文学A・B」を「文学論」と「欧米文学」に改め、いずれも学部内の教員が担当することにし、昭和四十三年度より法学を基礎科目とし一般教育科目の履修比率を人文・社会・自然それぞれ3・3・2または2・3・3とする案が審議されたが、一月の教授会で保留となった。また、昭和四十三(一九六八)年度からロシア語と中国語については、それぞれ三コマ(六時間)授業のクラス一つを設置し、そのうち二コマを履修したものを第二外国語、三コマを履修したものを第一外国語とする、スペイン語については、第一外国語クラス(三コマ六時間)、第二外国語クラス(二コマ四時間)のそれぞれ一つ設置することにした。

 専門科目の新増設や改廃については、従来からの例に従って、個別具体的に決定された。この方式は、今日までカリキュラム再編成の基本方針の合意が見られないまま、なお踏襲されてきている。この後今日まで、「経済法」「犯罪者処遇法」「担保物権法」「社会保障法」「借地借家法」「ローマ法」「中国法史」「西洋法史」「教育法」「農業法」などなどの科目が新設された。しかし、カリ検が科目編成について全く機能しなかったわけではない。昭和五十三年十二月の教授会では、三年度「外国法・外国書研究」から一科目選択必修を三年度「外国法」から一科目選択必修に改め、三年度「外国書研究」は二科目選択科目中に編入し、昭和五十四年度から実施、昭和五十二年度入学者よりこれを適用することにしたことなどがそれである。

3 第二法学部の廃止の決定

 既に大学全体として第二文学部を除いて第二学部廃止の方針が策定され、社会科学系学部においては新入生の募集を停止し、あらたに夜間学部として社会科学部を設置することになった。

 昭和四十二(一九六七)年十二月の教授会に、第二法学部学生の減少に関連し、第二法学部役職者は本年度限りで退職したいという申出がなされ、翌一月の教授会では次のような決定が行われた。

(ⅰ)昭和四十三年三月以降に卒業できない学生が少数でも残存する限り学部は存続することとし、学生の全部が卒業したときに学部廃止の手続きをとる。

(ⅱ)第二法学部教授会は、学部廃止の手続きが完了するまで存続し、学則上定められた選挙その他の事項は、従来通り同教授会においてこれを行う。

(ⅲ)第二法学部の現在の学部長・教務主任・教務副主任は昭和四十三年三月末日をもって退任することとする、ただし、当分の間、第二法学部専任の教務主任の制度を存置する。

(ⅳ)第二法学部長の退任に伴い、その者は昭和四十三年度以降評議員会および学部長会の構成員としての資格を当然失うものとして取り扱う。

(ⅴ)第二法学部長その他の役職者の退任は、役職そのものが原則として第一法学部役職者による兼務の形式により存続することになるので、辞任の形式によってこれを処理する。

(ⅵ)昭和四十三年四月一日以降においても、第二法学部学生のため、夜間において勤務する職員を存置する。

 以上の決定は昭和四十三年(一九六八)三月二日の学部長会、三月十五日の評議員会で承認され、最終的には、昭和四十八(一九七三)年三月末日をもって、第二法学部は廃止となった。

4 総長選挙制度改革の提案

 教・職両組合に対して団体交渉を拒否し続けてきた阿部総長および理事が、教職員の批判のうちに、遂に昭和四十三年(一九六八)四月十五日の評議員会で辞任したので、総長選挙が実施されることになった。投票日は五月十八日と決まり、各学部では総長選挙人選挙が行われた。

 法学部は、かつて大学当局に大学機構、特に総長選挙について幾つかの問題点を指摘して答申したこともあり、また教・職両組合も、昭和四十一年(一九六六)七月に推薦・立候補制による候補者の明示、大学の研究教育に関する候補者の見解の明示、この二項を実現するための選挙準備委員会の設置(いわゆる三項目)を要求しており、今回もこれら三項目実現に向けて取組みを強化し、総長選挙についてのアンケートの集約も実施した。このような中で法学部学友会も問題を提起し、五月八日総長選挙についての教員・学生討論集会を開催し、また、五月六日から十五日まで総長選挙についてのクラス討論を行い、遂に総長選挙民主化のためのストライキに突入する方針を提起するに至った。五月十八日大隈会館で選挙人会が開催されたが、同時刻学生の総長選挙阻止集会も開かれ情勢が緊迫した。そこで選挙人会長および投票管理者は、当日の投票を断念し、五月二十七日より六月六日まで郵送投票の方法で投票を行うことを決定した。このような学生の動きは、昭和四十年(一九六五)、昭和四十一年(一九六六)と政府によって軍事力の強化、産学協同の強化策の実施、大学の管理体制の強化などの政策が進められてきたのに対して、「大学の反動化を阻止し民主的制度を確立すべきである」という主張に支えられていた。

 六月六日開催された教員会では、総長選挙についての教員会の統一的意思決定を保留し、学生の動きについても静観することにした。また、同日の教員会では、大学機構研究に関する法学部教員会小委員会の答申がなされ、六月十一日の教員会で「現在実施中の総長選挙を現行総長選挙規則にてらしどのように評価するかについて、教員会は意思の表明その他の措置を講ずべきか否か」の議題を採択したが、郵送投票について適法論と違法論があり結着を見るに至らなかった。結局、六月十八日の教授会で法学部の意見を、次のようなAB二案併記での大学機構研究委員会法学部関係委員の意見書という形でとりまとめ、大学当局に提出した。

A案一、教員および職員による直接選挙により、総長候補者を選出する。

(註) ⑴ 候補者は、得票者の全員とする。

⑵ 得票者は、候補者の地位を辞退することができる。

⑶ 候補者は、選挙準備委員会(仮称)の定める手続により自己の意思・抱負などを述べるものとする。但し、これを辞退することもできる。

⑷ 教員の範囲は専任講師以上とするが、助手を含めるか否かについては、検討の余地がある。また、職員の範囲は書記およびこれに相当する者以上とするが、その勤続年限を考慮する必要がある。

二、上記の候補者について、教員・職員・校友による間接選挙によって、総長を選出する。

(註) ⑴ 教員・職員・校友の選出比率および人数が問題であるが、現行規則における選挙人選出比率を一応の基準とし、なるべく多数が選挙人となることのほうが望ましいとの考えに立って、選挙人の人数を次のとおりとする。

教員 約二五二名

職員 約三八名

校友 約一八七名

合計 約四七七名

⑵ 校友一八七名という人数は、学内教職員を除外した評議員および商議員の合計の二分の一である。この一八七名から逆算した数が上記の教員および職員の人数である。

B案一、教員・職員・校友による間接選挙によって、候補者を選出する。

(註) ⑴ 教員・職員・校友選出の比率および人数は、現行規則における選挙人会の構成とほぼ同じものとする。

⑵ 本案についても、A一、⑴⑵⑶の各項目は、そのまま適用する。

二、上記候補者について、教員および職員による直接選挙によって、総長を選出する。

(註) ⑴ この場合における教員および職員の範囲はなるべく広く考慮するものとする。

 各学部の答申をふまえ、大学機構研究委員会は九月九日に、また教育研究委員会は七月七日に総長に対して答申を行い、具体的改正作業に入るところまで到達した。この間の議論を通じて、法学部の教員には少くとも従来からの公明正大ではない総長選挙のあり方を民主的な形に改めるべきであり、そのためには総長選挙規則の改正が必要だとするコンセンサスができた。

 九月、学部長候補者として、有倉教授に代って高野教授が選出された。

 さて、郵送投票の結果、時子山教授が総長に選ばれたが、新大学当局は、昭和四十一年(一九六六)以来努力が積み重ねられてきた制度改革および教育改革に直ちに着手するのではなく、大学機構研究委員会・教育研究委員会の答申とは別に各教授会に対して「大学問題研究協議会」の設置を提案した。その設置(案)によると、「……大学存立の理念、大学自治の本質、研究・教育上のシステムの総合的再検討、学生自治活動その他諸問題に関する学問的研究、協議のための研究機関」であり、教職員・学生も参加し、「大学問題に関する諸種の研究・調査・講演会および研究討論をおこなう」ことに主たる狙いを持つものであった。これは、昭和四十三年(一九六八)初めから東大や多くの大学で紛争が発生し、他方で政府からは大学の管理運営の整備強化の要請があるなど、学生運動に対する一つの対応策でもあったと考えられる。

 法学部教員会は、このような提案に対して十二月十日の教員会で、

⑴いわゆる大学問題について、積極的に研究、協議することを必要と認める。ただし、このための機構が、当面の諸改革を遅らせる要因とならぬように、校規改正委員会の早期発足を希望する。

⑵前記の大学問題を研究・協議する機構のために、準備委員会を設置する。

⑶前記の準備委員会は、教員、職員、学生をふくむものであることが望まれるが、当面、教員代表と理事者によって構成し、審議の過程で職員学生の意見をきくものとする。

⑷準備委員会は、各統系学部二~三名の委員と理事者をもって構成する。各系統学部の委員は、教授から助手までを含むことが望ましいが、各系統学部で教授会または教員会において選出するものとする。

との意見をまとめ、これを学部長会の席上答申することにした。学部長会では「早稲田大学大学問題研究会準備委員会」という名称が決定され、各学部から二名ずつ委員を選出することにした。法学部からは有倉遼吉教授、浦田賢治助教授が、大学院法学研究科からは杉山晴康教授が委員に選出された。同時に学部内に大学問題学部委員会を設置することにした。また、昭和四十四年(一九六九)二月五日に開かれた教員会では、この学部委員会に法学部学友会・大学院自治会・比研専任教員・職員組合に必要に応じて出席を要請することにした。法学部では、このような大学当局の方針には批判的で、何よりも先ず早急に校規改正の具体的作業に着手すべきだという考え方が強かった。

 このようにして、大学当局は六月、大学問題研究会準備委員会の答申を受け諮問機関として大学問題研究会を発足させ、⑴大学の理念および大学の自治と学生の自治に関する事項、⑵大学全体の管理運営とその組織機構に関する事項、⑶教育・研究体制、特にその制度運営に関する事項について三つの研究部会を設け、早稲田大学が直面している基本的な問題について根本的に研究・調査・討議することにした。この研究会に法学部からは安藤昌一教授、中山和久教授、宮坂富之助助教授が参加した。この成果は翌昭和四十五年(一九七〇)四月から中間報告として公表された。また、校規の改正問題については「校規および同付属規則改正案起草委員会」(校規改正委員会)が校友代表を加えて発足し、七月十一日第一回の委員会が開催された。この委員には有倉遼吉教授、野村平爾教授、大須賀明助教授が選出された(六月二十日教員会)。

5 新研究棟への移転

 既に早くから本部キャンパスの利用の新計画が策定され、法学部は二号館(現一号館)から四号館(現八号館)への移転、新研究棟の建設が決定され、法学部内に検討のための委員会が設置されて審議を重ねてきたが、研究棟の落成に伴って昭和四十四年二月教授、助教授、講師、助手の代表からなる「新研究棟委員会」をあらたに発足させることとした。委員会は研究棟の利用について、⑴共同研究室を設け共同図書を備える、⑵助手も一人一室とし、割当に際して別扱いしない、⑶部屋割については五、六、七階は専門科目担当教員、八、九階は非専門科目担当教員が利用する、⑷専門科目教員については全員抽せんによって部屋割を決定し、五階各室は希望による、これ以外の方法(例えば話し合いなど)で割当を変更することはできないものとした。この委員会提案は五月六日の教員会および教授会で承認され、また「研究室規約制定委員会」の設置が決定された。移転は五月末に完了した。一人一室となり、専用電話も架設されて、研究条件は飛躍的に改善された。けれども、ここに新しい問題が出てきた。一つは南側研究室の条件と北側研究室の条件の違いである。冬は寒く夏は暑い北側研究室、そのうえ学生のマイクの騒音に悩まされることになったのである。もう一つは安全問題である。火災や地震の場合本当に安全なのかということである。これらの問題については、各教員からの提案を受けて、研究室委員会が活動することとなった。

6 「大学の運営に関する臨時措置法」をめぐる動き

 昭和四十三年(一九六八)以来続いていた東大紛争が四十四年(一九六九)二月十一日大学当局と学生代表との確認書の正式調印がなされ、東大の入試中止が決った。この過程で、ヘルメットをかぶりゲバ棒、鉄パイプを振り廻す学生集団は多くの学生の支持を失った。各学生集団は相互に抗争しながら拠点の確保を試み、「大学を出撃基地」(政府側の言葉)として「街頭闘争」に繰り出し、多くの大学でテロやリンチが続発した。このような情勢に対して、政府は中教審の答申「大学の管理運営について」(昭和三十七年十月)を具体化し、一月三十一日には内閣法制局は東大確認書についての法的疑義に関する覚書を文部省に手交し、三月には文部省は各大学に自衛官の大学受験拒否は不法であると通達、四月になると大学内の正常な秩序維持について通達を発した。四月三十日中教審が「当面する大学教育の課題に対応する方策」を答申すると、政府の力による大学統制政策は一挙に吹き出し、遂に五月には「大学の運営に関する臨時措置法案」が国会に上程されたのである。反対運動は燎原の火の如く拡がった。

 法学部でも、六月二十日の教員会でこの法案に反対の声明を出すことに決定し、既に六月十七日にとりまとめられていた「法学部教員会の見解」とともに、これを総理大臣、文部大臣、衆参両院議長、各政党本部その他に送付し学生にも配布した。法学部教員会がこのような行動をとったことは、学部創設以来まさに画期的な出来事であった。ここに教員会の「声明」と「見解」を掲げておく。

声明

早稲田大学法学部教員会は「大学の運営に関する臨時措置法に対する法学部教員会の見解」に基づき右法案に反対する。

昭和四十四年六月二十日

早稲田大学法学部教員会

大学の運営に関する臨時措置法案に対する法学部教員会の見解

第一法学部

第二法学部

一、総則的規定(一、二、三条)

(一) この三ヵ条はこの法案の頭部ともいうべき総則的規定である。

法案の私立・公立大学への準用を定める十二条において、この三ヵ条が準用される規定のなかにふくまれていないが、それは私立・公立大学には適用がないという意味ではない。四条以下の諸規定の基底をつらぬく法案の基本的観点がこの三ヵ条に明示されているのであって、四条以下の規定が準用されるさいには、つねに必らずその前提において適用される規定なのである。

(二) 法案は「大学の運営に関する臨時措置法案」となづけられているが、この三ヵ条を通読するだけで明らかなように「『大学紛争の収拾』に関する臨時措置法案」にほかならない。今日全国的に展開している大学紛争は、その形態が多用であり、かつその要因も多様である。

法案はまずこの多様性を捨象して大学紛争を現象的にかつ形式的にとらえ、施設の占拠、封鎖、授業放棄をふくむ「学生(これに準ずる研究生等を含む。以下同じ。)による正常でない行為により、大学における教育、研究その他の運営が阻害されている状態」と規定する(二条)。

しかも法案の目的は、「大学紛争」の「妥当な収拾」(三条一項)であって正当な解決でないことから明らかなように、紛争をその要因から切りはなして、いわば現象的に解決しようとする。ここには紛争要因の正しい解決による紛争の真の解決をはかろうとする姿勢がみられないばかりでなく、大学における現象的な「平静」状態が確保されさえすればよいという、強権的な姿勢が強く感じられるのである。

一般に大学紛争に対する治安対策的立法だといわれる理由はここにあるといえよう。すでに紛争の自主的な解決の方途が緒につきはじめている大学もある今日の段階において、このような法案が成立し、大学紛争に対する文部省の介入が強化されるならば、自主的な解決の芽がつみとられるばかりでなく、紛争は一段とエスカレートすることになるであろう。この法案がのちにのべるその仕組みからも明らかなように、現実には、大学の自主的な努力をはばみ、大学を破綻の淵におとし入れる可能性が極めて大きいので、一条がかかげる「大学紛争が生じている大学によるその自主的な収拾のための努力をする」という主目的には深い空しさを感ぜざるをえないのである。

(三) この法案の「大学紛争」の定義によれば、それは、「大学の管理に属する施設の占拠又は封鎖・授業放棄その他の学生による正常でない行為により、大学における教育、研究その他の運営が阻害されている状態」をいう(二条)のである。この定義は、「正常でない行為」の質的・量的な程度、「阻害されている」度合いなどについて、まったく定めるところがなく、極めて包括的であってあいまいである。したがって、大学の自治の保全・発展にむけてこの定義を解釈するが、縮減ないし崩壊にむけてこれを解釈するか、によつて、はげしい差異の生ずるものである。もちろん、正しくは、法律の解釈にそのような恣意的な理解は、ゆるされうるものではない。

大学の自治は、憲法の保障するところであって、憲法上の原則であるから、その保全と発展の方向にむけて解釈すべきものである。しかし、この法案の立案の動機、その趣旨・目的からみて、それとは反対の方向にむけて解釈される危険性は、いちじるしく大きい、といわなければならない。先刻、文部省の発表した「紛争大学一覧表」のなかに、当時本部と学館が封鎖されていただけで、研究・教育が阻害されていない早稲田大学がふくまれていたことによっても、その危険性は明らかである。さらにこのようなあいまいな定義によつて「紛争大学」だと文部大臣(私・公立大設置者)に認定されると、つぎのようなさまざまな基本的権利がおびやかされ、ついには「大学解体」にまでいたる危険性が極めて大きい。

この基本的権利には、広義の大学の自治(文部大臣や警察権に対する大学の自治、文部大臣に対する評議会・教授会の自治、学長・運営機関等に対する教授会の自治を含む)、教職員学生の学問・思想信条の自由、教職員の労働基本権、生存権、学生の教育を受ける権利等を含んでいる。こういうわけで、「大学紛争」の定義のあいまいさはひじように重大な意味をもっているのである。

ちなみに、このようにあいまいな定義によってとらえられた「大学紛争」の名のもとに、のちにのべるような文部大臣の直接的な大学統制、介入がおこなわれるとすれば、この法律の目的だとされている「大学によるその自主的な収拾のための努力をたすけること」にはならないで、かえって「大学紛争」を激発し、大学人による自主的な解決の努力をおさえ、民主的な力による大学改革をおくらせることになるだろう。

(四) 十二条は四条以下の一定の諸規定が私・公立大学にも準用されることを定めている。この準用される規定をみるとその大部分は、この法案の基幹をなしている重要な規定であることは、以下の検討からみても明らかなところである。したがってこの法案は私立大学には無関係であるとか、成立してもあまり影響がないという考えは、この法案の仕組みに即してみるかぎりは適確ではないといえよう。私・公立大学も国立大学とほぼ同様な規制をその方法の相対的な差異はあれ受けることになるであろう。

以下の検討はこのことを明らかにしている。

二、文部大臣の権限の強化

この法案が、文部大臣などの機関を通じて、大学に加えようとしている規制は、大別して、三つの手段によって行なわれる。

第一は、大学の学長の自主的な協力を前提として行なわれる、というかたちをとる規制であり、第二は、文部大臣等が学長または大学に対して直接に加える規制である。第三は、大学の教職員および学生にむけて行なわれる制裁を内容とする規制であり、廃校その他の国立大学にむけてのその生存を奪う規制である。

この第一の手段に属するものには、⑴大学紛争の生じた国公立大学の学長、私・公立大学の設置者は、直ちに文部大臣・公立大学の設置者に、その旨およびその状況を報告する義務のあること(四条一項)、⑵紛争大学(国公立)で、副学長その他の学長補佐機関や大学の運営の管理・執行機関を設ける場合、大学の権限を学長等に集中する場合には、学長があらかじめ文部大臣・公立大学の設置者に協議してこれを行なうこと(六条三項)、⑶紛争大学の学部・私立大学の理事等の間で紛争収拾に重大な支障となっている紛争がある場合、学部等の長の同意を得て、学長・私立大学の設置者が文部大臣にあっせんを申請することができること(十条一項)、⑷紛争大学(国公立)における入学者選抜または学生の卒業の見通しが困難なときは、学長は文部大臣・公立大学の設置者に協議する義務があること(十一条)、がある。

⑴は文部大臣・公立大学の設置者による紛争大学に対する関与の第一の足がかりである。しかも、報告が自主的になされなければ報告を求めるといううらづけのもとに、「紛争大学」であるかどうかの認定を、大学の学長等の側におしつける。そして紛争の初期の段階や紛争が解決するのではないかという段階での大学の学長等の報告への配慮を、紛争がエスカレートして、紛争大学と認定できる段階で、無報告のゆえのエスカレートであると責任づける手段につかう可能性が、この報告の義務づけのなかにあらわれている。

大学紛争への非難が、大学ないし学長に集中する仕組みである、といえよう。それに、文部大臣の紛争大学に対する措置は、この報告のうえに行なわれるかたちをとるから、すべては、学長の要請によるものという体裁になってしまうのである。

⑵についていえば、教育と研究をめぐる紛争の解決に、これらの機関の設置や学長等への権限の集中が必要であるというのであれば、それは、大学の自主的な判断にもとづいてのみ可能のこととすれば足りることであろう。国公立大学についてのみ、文部大臣・公立大学の設置者との協議を定める必要があるとするのはなにゆえか疑問である、といわなければならない。

国公立大学への文部大臣・公立大学の設置者の不当な干渉というべきであろう。

⑶についていえば、たとえ、紛争大学の学部等の間で紛争があり、それがその大学の紛争の解決にとって重大な支障となっているとしても、このような問題こそ、まさに、大学の自治の専属事項のもつとも基礎的なものである。その解決を文部大臣のあっせんにゆだねるなどということは、大学がみずから大学の自治を放棄する以外のなにものでもない。

もちろん、このあっせんは、関係学部等の長の同意を得て、学長が文部大臣に申請することができるものとされている。

しかし、このような重大な問題が、関係学部等の長の同意だけで足りるものなのであろうか、疑いなしとしない。

このあっせんの制度も、⑷の入学者の選抜・学生の卒業について、文部大臣との協議の制度も、大学と大学の長の自主管理能力の欠如を前提にした考えかたにほかならない。

しかも、この協議も、あっせんも、大学の学長の側に、その要請の任意性をあたえるかたちがとられている。それは、学長の自主性を重んじた、と立法者によつて解説される事項の一つである。しかし、この自主性は、「大学の自治」の放棄を前提とする、その意味での自主性にほかならないのである。

規制の第二の手段は、まず、(A)学長に対し、⑴当該大学の大学紛争の状況並びに当該大学紛争の収拾及び当該大学の運営の改善のため講じた措置及び講じようとする措置の報告を求めること(四条二項)、⑵国公立大学にあっては、「当該大学紛争の収拾及び当該大学の運営の改善のため講ずべき措置について、臨時大学問題審議会にはかり、(公立大学の場合は、あらかじめ文部大臣と協議して)、必要な勧告をする」こと(五条一項)、であり、(B)大学に対し、⑶大学(国公立)が設ける副学長その他の学長補佐機関・大学紛争収拾と大学運営改善の審議機関・大学運営の管理執行機関の構成員の文部大臣・公立大学の設置者による任命(六条三項)、⑷「紛争大学の学部等において大学紛争が生じた後九月以上を経過した場合又は学部等の大学紛争が収拾された後一年以内に同一の学部等において再び大学紛争が生じ、その後六月以上を経過した場合において、なおこれらの大学紛争の収拾が困難であると認められるときは、文部大臣・公私立大学の設置者は、当該大学の学長の意見をきいたうえ、臨時大学問題審議会の議に基づき(公私立大学の場合は、文部大臣と協議して)当該学部等における教育及び研究に関する機能を停止すること」(七条二項)、である。

⑴についていえば、状況の報告のみならず、紛争収拾・運営改善の措置をも加えて報告させる権限を文部大臣に与えることによつて、その監督権限を強化拡大し、さらにそれらの措置の適否を、教育・研究の現場にある学長や教職員の立場によってではなく、文部大臣等の側の考えかたから、判断しようという意図がみられる。文部大臣等が、教育行政の最高機関ではあっても、教育・研究そのものの管理・運営の機関とはいえないことを考えるならば、このような判断能力があるといいうるか疑わしいといわなければならない。

⑵についても、このことは、いいうる。

ところで、この「勧告」が、国公立大学の学長に対していかなる法的な拘束力をもつているか。

五条三項は「勧告を受けた紛争大学の学長及び当該大学のその他の機関は、その勧告を尊重し、勧告に係る措置の実施に努めなければならない。」と定める。

それゆえ、たとえ、その国公立大学の教授会その他の機関や学長が、現場にいるものとして、勧告による措置より、すぐれた措置を講ずる手だてがあると考えてこれを実行しようとしていても、それを文部大臣等がその考えかたからみて否定し、この勧告が行なわれるようなことがあれば、現場の学長や教職員は、その考えかたや手だてに不適切さを認めながらも、それらによつて、処理されなければならない、ということにならざるをえない。

しかも、国公立大学の学長や教職員も公務員であれば、この尊重や努力をしない場合に、そこまでのエスカレーションは万一にもないと考えたいところであるが、懲戒という問題が提起されないではない。この種の危惧がたんなる懸念でないことはすでに、この法案の前身が、非協力教官の排除というかたちを唱えていたことから明らかである。

さらに、この勧告にあたっては、学長の意見さえも、あらかじめ聴くという制度はない。いかに文部大臣等の側からの一方的なおしつけになる可能性が多いか、知るべきであろう。たしかに、国立大学の場合臨時大学問題審議会にはかることとはされている。しかし、この審議会の委員の構成において、御用機関的人選が行なわれるならば、審議会は、文部大臣のかくれみのにすぎない。その危険性は、まず、委員の任命が文部大臣によるものであること、つぎに委員(十五人以内)が、⑴大学の学長または教員及び私立大学を設置する学校法人の役員、⑵その他大学問題に関し広い識見を有する者、と羅列してあるだけで、その人数の割合も定められていないことにみられる。

さらに、勧告にさいしては、審議会に文部大臣が「はかり」さえすればよいのである。「基づく」のでも「よる」のでもないから、審議会の意見とまつたく異なる勧告も、審議会にはかった勧告、ということになる危険性が考えられるわけである。

⑶に掲げた各機関の構成員が国公立大学の場合文部大臣等に任命権があたえられるのは、国や地方団体の行政組織の一部ということからたとえやむをえないこととしても、またそれが「学長の申出に基づき」(六条三項)任命されるものであるとしても、文部大臣等の意にそわない人選が実質的に拒否される可能性なしとはしない。すでに、紛争の起ったいくつかの大学で、そのような任命形式をととのえなくとも、同じような方法がある程度の実効をあげているものとすれば、学長等への権限集中に問題のあるいま、さらにこれに輪をかけて、それに文部大臣等という行政権力による基礎づけをすることには疑問があるといわなければならない。

⑷の文部大臣等による紛争大学の学部等の教育・研究機能の停止処分は、大学の紛争が多くの場合、直接間接に教育と研究をめぐるものであることを思えば矛盾である。大学は、いかなる場合においても、教育をみずから回避すべきではないし、研究をみずから怠るべきではない。停止の制度の考慮のなかに、紛争解決への努力をしないと文部大臣等の考える教職員や学生への制裁の意味が含まれているとすれば、この制裁は、紛争のエスカレーションをひきおこし、真の解決をさらにおくらせるにすぎない。

第三の手段による規制は、(A)制裁を内容とするものには、⑴教職員に対しては、大学の教育・研究機能が停止されると、国公立大学の場合、休職にされ、俸給・手当の「それぞれ百分の七十以内を支給する」(八条一号・二号)ということになること、⑵学生に対しては、大学のいかんを問わず(イ)休学とされ、その期間は在学期間に算入されず(八条八号)、(ロ)日本育英会の学資の貸与が行なわれなくなること(八条十号)、が定められており、(B)国公立大学にむけては、大学または学部等の廃止措置を含むと解される国立学校設置法(公立学校設置条例)の改正の措置を講ずること(九条一項)、が定められているのである。

(A)の⑴の休職になると、「休職者は、職員としての身分を保有するが、職務に従事しない」(国家公務員法八十条四項等)ことになる。

紛争大学において、教職員のほとんどが休職になり、職務に従事しなくなって、一体、その紛争は解決することになるのであろうか。この法案において「紛争の解決」ということばを用いずに、「紛争の処理」とか「紛争の収拾」ということばを使つている意味が、ここで判然とするのである。

(B)に掲げたように、教育・研究の機能が停止された後「三月以上の期間を経過してもなお大学紛争の収拾が著しく困難であり、当該大学又はその学部等の設置の目的を達成することができないと認められるに至ったときは、その事態に応じ、国立学校設置法を改正するための措置その他必要な措置が講ぜられなければならない。」(九条一項)と定められている。教職員のほとんどが職務に従事しない、あるいはできない状態の中でどうして、大学紛争の解決が可能であろうか。教職員が職務に従事していてさえ、長びく紛争であることを思えば、いうまでもないことであろう。つまり、ここでの紛争の収拾は、当事者の一方である教職員のほとんどをないものにして、紛争の他の当事者である学生に一人相撲のかたちをとらせ、収拾という名の解決を「困難」というよりは「不能」とさせる。

それを理由に、大学なり学部等なりの廃止などをもって、学生の身分さえ剝奪し、大学紛争を物理的にないものにし、それでももし、身分を剝奪された学生が事をかまえるときは、「大学の自治」という名分も実質もないところで処理しよう、ということを予定しているものであるといえよう。

大学紛争の解決ではなく、大学紛争の滅失であり、大学の滅失による大学紛争の滅失が、この法案のいう「大学紛争の収拾」の最後の姿である、ということになる。

三、大学の管理機関の強化

この法案は、大学運営の執行機関にあらゆる権限をできるだけ集中して、大学の管理体制の中央集権的な強化をはかり、政府の意図する「大学紛争の収拾」を実現しようとしている。このことは、一方において大学の管理運営を行なう学長(公立大学においては都道府県の知事または市長、私立大学においては理事会の長)の権限を強化して、評議会もしくは各学部の教授会の権限の弱化をはかり、他方において国すなわち文部大臣との関係においては学長等の権限を弱めて、それがそのまま文部大臣の強大な権限のもとに従属する仕組みが構成されているところに明確にあらわれている。そこでは憲法二十三条の保障する大学の自治が二重に侵される。まず従来大学の自治において大きなウエイトを占めていた教授会の自治が、教授会の権限事項をいつでも学長等を中心とする管理機関に吸いあげることができるように定めていることで侵されるとともに、かような大学内部における管理体制の強化が、そのまま文部大臣の大学に対する支配権の強化につながることから、国家権力の支配干渉を受けずに、大学が自主的にその管理運営を行なうことを保障する大学の自治は、崩壊してしまうのである。

管理体制の強化はまず学長等の権限の強化によって行なわれる。六条一項二号は「学校教育法及び教育公務員特例法……に規定する機関で当該大学に置かれているものの職務及び権限の一部を、学長がみずから行なうものとし、若しくはこれらの機関の議を経ることなく行なうことができる」と定めている。この両法律が定めている機関には評議会や教授会などがある。一般に学長等は大学の管理運営の執行機関であり、これに対して評議会・教授会は研究教育の内容や方法、教員人事などを決定することを本来の職務としている。

ところが法案ではこのたてまえがふみにじられ、学長等は必要に応じて評議会・教授会にはかりさえすれば(しかも評議会または教授会の意思決定に学長等が拘束されなければならないという保障はない)、いつでも評議会・教授会の管轄する教学事項を自ら審査し決定することができるようになっている。さらに七条一項は、「紛争大学の学長は、大学紛争を収拾するため必要があると認めるときは、大学紛争が生じている学部、教養部、大学院研究科その他の部局又は組織(以下『学部等』という)における教育及び研究に関する機能の全部又は一部を、六月以内の期間、休止することができる」と定める。つまり六条一項二号が教授会などの管轄権の一部を学長等が吸いあげることができると定めているのに対して、ここでは学長等が評議会・教授会の管轄事項である教育研究の機能を、評議会・教授会の議によらずに、六月の長期間(場合によってはさらに三月間延長できる)、一方的に中断することができるのである。ここには学長への権限集中による管理体制の強化の一定の完成形態をみてとることができるといえよう。

また七条二項は、紛争が九月以上経過した場合または紛争の収拾後一年以内に再燃し六月以上を経過した場合には、国立大学においては文部大臣が「臨時大学問題審議会」の議にもとづいて、私立・公立大学においてはその設置者があらかじめ文部大臣と協議して、学部等における教育研究機能を停止できるとしている。この機能停止には期間の定めがなく、紛争が収拾されたとその停止権者によって認められるまで際限なく続く。すでにのべたようにこの法案は紛争の真の解決をはかるものではなく逆にそれを激化させるものである以上、この措置は法案のレベルでは大学閉鎖の前段階的措置であるとしても、実際には大学機能を廃絶する動きにつながる働らきを果すことになるであろう。しかもここで重大なのは、大学に関する非常事態措置の権限ともいえるような重要な権限が、国立大学においては文部大臣ににぎられ、私立・公立大学においてもたてまえはその設置者にあることになってはいるものの、文部大臣との事前の協議を義務づけられていることから、文部省の意向が大きく影響せざるをえない仕組みになっていることである。

このことは本来は大学の専管事項である入学者の選抜または学生の卒業に関しても、紛争大学によつては文部大臣との協議を義務づけられている十一条においても明らかであるが、学長等の大学管理における最高の執行機関に多くの権限が集中されて著しく強化された管理体制が、最終的には文部省の強大な権限のまえにひれ伏し、文部省による大学支配が大学内部のすみずみまでゆきわたるための道具として機能することになる危険性が極めて大きい。

管理体制の強化はさらに学長の権限執行を補佐しもしくは補充する機関の設置にみられる。六条一項において学長が設置できる機関として定めている「副学長その他これに準ずる学長を補佐する機関」は、学長のブレーン組織であり、「大学の運営に関する事項を管理し及び執行する機関」は、集中された学長の権限行使を代位しもしくは補充する機関である。法案においてはそれらの具体的な権限事項は明らかではないが、いずれも学長の紛争収拾のための迅速な執行体制を強化する少数者による機関であることは間違いのないところであろう。さらにその執行内容を審議するものとして「大学紛争の収拾及び大学の運営の改善に関する事項について審議する機関」の設置が認められ、さらにそれをつつみこむようにして、「大学紛争の収拾及び運営の改善に関する諸問題について意見を聴取し又は協議するための会議」の設置が認められている。このようにこの法案の至上目的である「大学紛争の収拾」という一点にむけて管理体制の強化がはかられているのである。

四、教職員・学生の権利侵害

この法案は、教員の基本的人権、とりわけ学問の自由や思想の自由をおびやかすだけでなく教職員の労働者権さらには生存権さえも侵害するおそれをもっていると考えることができる。また、学生についていえば、とくにその教育をうける権利を侵すおそれがあるものだということに注目する必要がある。

(一) 教員の学問の自由・思想の自由の侵害

七条二項の停止措置は、学部等における教育・研究に関する機能を停止することになっている。問題なのは研究機能の停止である。つまり学問の自由というものはどのような場合にも他人の人権を侵害することはないから、その制限は憲法上絶対に禁止されているのである。したがって、「大学紛争」を理由に、研究の自由を教員から奪うことは憲法上許されていない。この研究機能の停止は憲法の定める学問の自由を侵害するものである。

六条(運営機関等の特例)一項の措置がとられると、一般に教員は教授会の議に基づかず、さらに国公立大学では評議会の審査を経ないで、学長によつて懲戒処分にされる危険性がこの法案には存在する。

国公立大学の教員を懲戒処分にするためには、現行法では、教授会の議に基づかなければならないし、またさらに評議会の審査をうけなければならない(教育公務員特例法九条、二十五条)。ところが六条一項二号によれば、学長が、教員の懲戒処分を任免権者に申請する(教育公務員特例法十条)ためには、教授会の議に基づく必要もないし、また評議会の審査の結果による必要もないと解しうる余地が充分にあるのである。

つまり同号の規定があいまいであることから、解釈のいかんによっては、六条における機関の「職務および権限」に評議会の審査も含むすべての「職務および権限」を含ませることが可能である。

このことは、法案二条が教職員の協力・努力義務を規定し(一項)、そのうえで学長に対して、指導性を発揮し教職員の意思の統合をはかり紛争の収拾を推進する努力義務を課している(二項)という法案の基本的前提からおして考えると当然であるように思われる。しかも、学長は、このような措置をとるときには、あらかじめ文部大臣と協議すると定められている(六条三項)。

そうだとすれば、学長は文部大臣と事前協議していわゆる非協力教員を懲戒処分にするよう任免権者に申請することができることになる。ここでいういわゆる非協力教員とは、学長や文部大臣の考えに同調せず大学紛争の原因について自由に自らの信ずるところを積極的に表明し、これと関連して紛争収拾の方法や大学運営改善策について大学当局や文部省の方針や施策に積極的または消極的に反対する者を指すことになると考えられるが、もしこれらの教員が事実上、このようなことを理由にして大学自治の制度的保障をうばわれて懲戒処分になりうるとすれば、それは単に大学自治の問題であるのみでなく、ひとりひとりの教員の学問の自由と思想の自由をもおびやかすことになると考えざるをえないであろう。

私立大学の場合には、文部大臣との協議は不要であるとはいえ、実質的には同じ危険性が存在していることを見逃してはならない。

(二) 教職員の労働者権・生存権の侵害

紛争大学の学長が収拾のため必要と認めて教育等を休止したのち、ついに文部大臣が教育等を停止したときに発生する効果のうち主なものはつぎのとおりである。

(ⅰ)教職員は国家公務員法七十九条(心身の故障・刑事事件での起訴)・八十一条(適用除外)の規定にかかわらず、特定の職員を除いて休職にする。この場合は、教特法十条は適用しない。

(ⅱ)休職者には俸給等の百分の七十以内を支給する。

(ⅲ)この休職は、本条に別段の定めがある場合を除き、国公法七十九条(本人の意に反する休職)による休職とみなす。

このように、国公立大学では文部大臣が教育・研究等を停止する措置をとると、教職員は休職になり減給されるわけである。

ところで、教職員は教育・研究という特殊な職務に従事する専門職員である。それゆえ、たとえば、大学教員については失業保険の適用がないほど身分保障が厚いのである。このような教職員の専門性に基づいて定められている教特法十条の規定がこの休職には適用にならない。つまり、大学管理機関の申出によらないで、休職にされてしまうおそれがある。また、国公法七十九条や人事院規則十一―四に定められている休職の理由は、刑事事件で起訴されたり、学校・研究所などで本属の業務に関連のある調査・研究の業務に従事する場合などのようなものである。これと本法案による休職とは異質なものである。なぜなら、国公法・人事院規則による休職は教職員個々人にかかわる事由によるものであるが、本法案による休職は「大学紛争」のための停止の結果なされるからである。本法案によるこのような休職処分は、公務員に関する平等取扱いの原則に反するおそれがある。

それだけではなく、この休職処分が減給処分と結びつくときは、この休職処分はひいては、教職員の労働者権をおびやかし、さらには生存権にもかかわる問題をはらんでいる。

これらの諸規定は私立大学には準用されていないが停止が長期にわたる場合には、国公立大学と同じ状態が、もしくはそれよりも劣悪な状態が事実上起り得ることは、私大一般の財政能力からみて容易に想定できることである。

(三) 学生の教育を受ける権利の侵害

この法案は、学生の基本的人権をおびやかすものだといわざるをえない内容をもっている。

法案八条によれば、文部大臣が教育・研究等の停止措置をとると、学生の地位にはつぎのような大きな変化が生じる。学生の意思や責任にかかわりなく、その地位はおびやかされる。

(ⅰ)停止期間内は、法令の規定による在学期間に算入しない(八号)。

(ⅱ)日本育英会奨学金の貸与は行なわれない(十号)。

これらの措置は、直接に、学生の教育をうける権利を侵していると考えることができる。学生は、大学に入学した以上、大学に対して一定の内容の教育的給付を請求できる地位をえている者だと考えるのが当然であるが、そのような利益を文部大臣が一方的に奪うのであるから、この行為は国家の行為による学生の教育を受ける権利を侵害することになるわけである。

私立大学の場合には、停止措置はその設置者によつてなされるが、実質は右と同様である。

また、教育を受ける権利は、具体的内容についてみると、教育の機会均等の実現のための権利であつて、この意味で奨学金制度が国家的に組織されているのである。

日本育英会制度がその最たるものであるが、この日本育英会が、休学中は奨学金を貸与しないというふうに決定することは、一見、休学にともなう通常のことのように思われるが、これも、国家公務員の休職と同様に、学生に直接責任のない事柄によつて、教育の機会均等のための学生の経済的権利を侵すことになると考えざるをえない。

しかも、このような奨学金の停止は、国立大学の場合は、授業料とくらべて十倍するような額を停止するのであるから、学生個々人としてみれば、大きな経済的圧迫となるわけであって、この点も看過すことができない。

奨学金貸与停止は教育を受ける権利の観点からみて大きな問題だといわなければならないだろう。

 他学部も圧倒的にこの法案に反対の意見を持っており、総長も六月十一日公・私立大学学長代表と総理大臣の会見の際、「このような行政的手段だけで紛争の収拾をはかろうとする措置は、却って紛争を誘発するおそれのあること、国家・国民の将来にかかわる教育や大学問題の処理に関しては、超党派的に十分審議をつくすべきで、いわんや与党だけの単独採決を強行しないよう申入れ」た(大学当局の「ご家庭の皆様ならびに学生諸君へ」八月十五日)。法学部では、校舎が二号館(現一号館)から四号館(現八号館)に移って間もなく学友会によってバリケードが築かれた(学友会はこれを全学共闘や法共闘、革マル派などの襲撃から法学部を防衛するための内バリと呼んだ)。法学部の学友会はストライキを提起しておらず、内バリの中で法学部の授業が行われていたが、ストライキ実行委員会などとの学生間の衝突がしばしば起り、四号館に対する投石などもあり、六月中旬には四号館では事実上授業を行えなくなった。七月二十日には法共闘によって四号館が封鎖された。しかし教員会は授業を行える校舎では授業を実施するという方針を堅持し、図書館封鎖があっても法商研究室棟が封鎖されても、休講措置をとるようなことはしないことに決定した(七月十一日、八月三十一日)。

 総長は、八月七日政府が「大学運営臨時措置法」を強行採決によって成立させ八月十七日より施行としたので、このことに強く遺憾の意を表し、「ことここに至った以上は、この新法にしばられるような事態にまで大学を立ち至らせないようにあらゆる努力をつくすことが先決」であり、「大学紛争解決の本道は、大学みずから独自の力で自主解決をはかること」であると述べている(前掲パンフレット)。しかしこのような考え方をとれば、結局、機動隊導入による授業再開への道を進まざるを得なくなることを、その後の過程は如実に示すことになったのである。

 夏休み明け直前に教員会は、授業・前期試験はしばらく延期することとし、学生に対し次のような掲示を出して授業再開を期待した(九月九日)。

七月中旬以来法学部では諸般の事情により授業(前期試験を含む)が行なえなくなっている。いつまでもこの状態が続くことは困るので、なるべく早く授業を再開したいと考えている。

しかし、このままの状態で無理に授業を実施することはできない。授業を再開するためには、条件が整わなければならない。

その条件とは、法学部学生の大多数の意見によってバリケードが撤去され、事態が平常に復することである。

学生諸君は相互に話合いを積み重ねて、早期に授業が再開できるよう努力されたい。

続いて、学友会から九月二十九日の学友会主催の学部集会に学部当局が出席するよう要請されたのに対し学部当局がこれを拒否したので、学友会から⑴授業再開に関する教員会の審議経過を学部集会で教員会から話してもらいたい、⑵本日の教員会終了後学部当局と話し合いを行う、⑶学部当局から多くの学生が登校するよう手紙を出してもらいたいとの三点の申入れがあった。同日の教員会では⑵については翌日、⑶については受け入れることにした。けれども学友会に対立している学生大会実行委員会は依然としてバリケード・ストライキ決議への動きをしていることから授業再開への事態の進展ははかばかしくなかった。

 このような中にあって、大学当局は警察力によってバリケードを撤去する方針を学部長会にはかり、十月十六日未明機動隊を導入し、建物修復のための立入禁止措置をとった。同時に警備に法学部教職員も協力することになった(十月十六日)。その際立入禁止解除後の学生証確認措置に対しては、機動隊が大学構内に駐留しないこと、この措置が学内者と学外者を判別する趣旨のものであることを前提として協力することにした(十月二十二日)。大学当局は学部長会に、立入禁止解除後学内の秩序を維持するための警察力導入の規準(五項目)、警察による夜間パトロール、学生証確認のため何らかの施設をつくるなどを提案し了承された(十月二十一日)。早稲田大学に鉄の門がつくられることになった。このことは早稲田に門のないことを誇りにしていた法学部教員にとってもショックだった。法学部は、生命身体に危険がある場合だけ機動隊を導入すべきであると主張し続けた。

 十月二十三日には法学部学生大会が開催され、大会は定足に達しなかったが、二十七日からの授業再開、ロック・アウト糾弾、大学立法の適用拒否、大学の改革の四項目をアピールとして採択した。教員会は大学当局の提案通り二十七日より授業を再開することに決定し、この趣旨を学生に知らせることにした(十月二十四日)。二十七日には、機動隊常駐の下で法学部の教職員もやむなくこれに参加して(ただし強制はしなかった)学生証確認が行われ、授業が再開された。二十八日の教員会では、このような大学当局の措置について学生の反発が強かったので、「学生証確認をやめて機動隊も常駐しない」とする意見が多く、この趣旨を学部長会に伝えたが、学部長会では法学部の意見が多数意見とならず、引続き機動隊常駐・学生証確認を行うことになった。

 大幅に授業日程が狂ったので、この年度は授業日数を二十九週に短縮し、冬季休業を十二月二十九日より一月三日とし、前期試験は行わないことにした。昭和四十五年度の入学試験も機動隊常駐の下で行われることになったのである。唯一つの救いとなったのは、この昭和四十五年度から盲人の受験を認めたことであったかも知れない。

7 校規改正委員会への取り組み

 総長選挙制度の改革については、法学部教員会は、これが大学民主化の要点であるという認識から、既に検討すべき問題点を大学当局に答申し、大学問題研究会準備委員会発足に際しても先ず校規改正委員会の発足を要望した。

 校規改正委員会は、昭和四十四年(一九六九)七月十一日に第一回の委員会が開かれ、評議員毛受信雄氏を委員長に、青木茂男教授を副委員長に選び、七月二十五日第二回、九月から総長選挙制度の検討を本格的に行うことになり、小委員会(大浜信泉委員長・野村平爾幹事)をつくって案を起草することにした。

 法学部では委員会の審議内容が教員会に報告されたが、委員でない教員の側からは、委員会を公開制にせよとか審議内容を学生にも知らせるようにとの意見が寄せられた。しかし委員会は教員組合の委員長の傍聴も拒否するという実情であった。昭和四十五年(一九七〇)四月二十八日の教員会では副総長設置の是非について検討され、これに関する法学部選出委員の反対意見に異論は出なかった。学生も学友会が学部当局と教員学生協議会を通じて、校規改正および大学問題に関するパネル・ディスカッション方式での「教員学生大討論集会」の開催を要求してきたので、教員会も当日の午後の授業を休講として、これに応ずることにした。教員側の討論者として、学部当局から教務主任西原春夫教授、校規改正委員野村平爾教授、大学問題研究会委員安藤昌一教授、教員会代表として浦田賢治助教授が参加した。

 さて、校規改正小委員会は、六月二十日に総長の選挙方式について三案併記で、六月二十四日に学生の参加のあり方については報告書をまとめ、各学部の討議に委ねた。法学部では、総長の選挙方式について六月三十日と七月一日の教員会で小委員会に対して法学部選出の委員を通じ、また文書によって次のような申入れを行うことに決定した。

⒜ 小委員会より提示された三つの総長選挙の方式について考える限りでは第三案が望ましい(第三案はつぎの通り。候補者選考=教員・助手、二十歳以上の職員、学外評議員のそれぞれ全員による出頭投票。決定選挙=教員・助手、二十歳以上の職員、学外評議員・商議員のそれぞれ全員による出頭投票。但し決定選挙の場合特例として不在投票郵便投票も認める)。

⒝ 校規改正委員会の現在の改正作業のタイム・テーブルについては問題がある。従ってこの点に関して校規改正委員会に対して次の事項を要望する。(イ)小委員会は直ちに全教・職員にアンケート調査を実施し、その結果を夏休み中に集約し公表する。(ロ)大委員会は、このアンケートの結果を十分に尊重した上で、九月までに中間報告書を作成し公表する。(ハ)夏休み終了後できる限り早く、この中間報告書についての公開の聴聞会を開くなどして、できるだけ教・職員、学生の意見を聴き、慎重審議の上で答申案を作成すること。(ニ)以上のことを実施したために、総長選挙が九月二十一日以前に行なわれ得なくなったとしても、それはやむをえない。

というものである。

 七月六日公聴会が開かれ、法学部教員も公述人として意見を述べた。

 続いて、七月七日の教員会では、⒜学生参加について、在籍者数の二分の一の反対があった場合、信任されなかったものとする小委員会の考え方に賛成するものはなく、信任投票期間が三日間では短かすぎるという意見もあった。⒝第三案の修正意見が出され⑴郵便投票は一切認めるべきでないこと、⑵決定段階で学外評・商議員は除くべきであることの二点が教員会内部で確認され、専任職員の年齢を十八歳以上とすべきかどうかについては校規改正委員に一任するとした。

 校規改正小委員会は法学部の意見をとらず、第一案(候補者選考=教員・助手、勤続五年以上または二十五歳以上の職員、学外評議員によるそれぞれ全員の出頭投票。決定選挙=学部・体育局・研究所・学院各五十名、産専・国際部全員、学外評・商議員全員の出頭投票を原則とし特例として不在・郵便投票も認める)を若干手直しして、七月中「総長選挙規則」および「総長選挙規則施行規程」をとりまとめて評議員会にかけ、これらの改正案(現行規則)が承認された。学生については、拒否権を伴わない信任投票という参加方式が採用されたに留まった。今回から総長はこの方式で選ばれることになったのである。

 これに対して法学部の学生は九月十八日から十月四日までストライキを行って、学内の大方の意向を無視して大学民主化の方向に沿わない総長選挙規則を制定し選挙を強行したとして抗議した。選挙管理委員会は総長決定選挙を郵便投票に切り替えた。

 新制度による選挙によって村井総長が誕生した。総長は各学部に対して大学改革の具体化について諮問し、法学部はこれに「大学改革の具体化に関する法学部報告について」(昭和四十六年七月二十六日)を答申した。

大学改革の具体化に関する法学部報告について

さきに総長より、大学改革の具体化に関する各個所の調査報告を求められたので、法学部としては問題を本学部大学問題検討委員会に付託し、同委員会の作成にかかる報告書原案を教員会および教授会において慎重に審議した結果、次のとおり法学部報告書を提出する。

調査項目Ⅰ

学部において現在計画もしくは検討されている諸改革の立案または検討の経過とその見通しについて、またすでに立案の終ったものについてはその概要について

(A) 法学部においては教育制度検討委員会、カリキュラム検討委員会、入試制度検討委員会、外国語科目検討委員会、大学問題検討委員会などの委員会を設置して検討を重ね、また随時、教授会、教員会における個々の教員の直接の発議により、たえず諸改革の努力をつづけている。

(B) すでに立案を終り実施に移した改革を例示すると、つぎのようなものがある。

⑴ 教員会の開催回数を増し、また従来教授会設置の委員会を教員会設置にあらため、助手を含む全教員の平等な立場における自発性と衆知に頼り、学部運営ならびに改革案の検討を重ねている(昭和四十一年以来)。

⑵ 教員・学生協議会を設置し、学生参加の途を開いた(昭和四十一年以来)。また必要に応じて学部団交を行なっている。

⑶ 盲人の入試受験の途を開いた(昭四十五年以来)。

この問題については、(イ)入試の具体的実施方法および(ロ)合格した場合においても学生生活上の不便(たとえば教科書・辞書・六法全書の点訳など、および安全の問題)が存するので、入試制度検討委員会および教授会で討議を重ねた結果、(イ)については視力障害者センターおよび日本点字図書館よりの無償の労力供与をえて(点訳者・墨訳者 計四名)点訳の方法によること、(ロ)については視力障害者に設備のないことを納得してもらうこととして、受験許可に踏切った(現在まで、受験生各年度一名、合格者はない)。なお、今後、盲人受験生が増加する場合には、一学部では充分対処できないと考えられるので、大学本部において入試の際の点訳者の確保、設備その他の充実を検討するよう要望する。

(C) 現在計画または検討されている諸改革は、つぎのようなものである。

カリキュラム検討委員会は、大学設置の大学問題研究会の成果などをふまえて、カリキュラムの再編成などについて審議してきたが、一般教育科目の編成の改正に関連して、「法学」を基礎科目とするほか、綜合科学系統科目の新設(たとえば、環境論など)を含む改正案要綱を決定した。これは本年九月の定例教授会において審議される予定である。なお、この要綱につき、教授会において成案が得られたのちはそれを基本として、専門教育科目の編成の改正案作成作業に入ることとなつており、昭和四十七年度より実施しうるよう配慮している。

調査項目Ⅱ

学部として、現在まだ検討、立案の段階にはないが、近い将来、その改革の必要があると考えられる問題について

⑴ 学部、大学院をとおしての教育制度の改革、再編。年限の再検討を含む。

⑵ 教員の確保、養成の計画。助手制度のあり方の再検討を含む。

⑶ 全学的もしくは学部に共通する教育、研究上の計画や実施について審議する機関、たとえば外国語科目全学教育計画委員会などの設置の検討。

⑷ 外国語科目検討委員会は、法学部における外国語教育のあり方を基本的に審議することと関連して、採点規準の再検討のほか、本大学他学部の外国語授業の実状調査および主要な他大学の語学授業の実状調査を考慮している。

調査項目Ⅲ

当該学部に限定しないで、全学的な立場から、改革が必要と考えられる問題について

⑴ 教学評議会について

大学問題研究会報告書の線にそい、教学にかんする学内の意見をひろくくみあげるため、かなり多数の構成員からなる評議会の設置が望ましい。

ただしそのさい、学部自治を侵すことのないよう十分に留意すること。

⑵ 評議員会について

(イ) 大問研報告書の線にそい諮問機関とする。

(ロ) 付議事項は大学経営にかんする重要事項とする。

(ハ) 構成員につき、現行総長選挙規則を前提とする限りにおいて、学内・外の構成比率を3:2に近づけるよう努力すべきである。

(ニ) 構成員につき、後進に道をひらくため名誉評議員の制度を活用する。教授の停年制にあわせることも考慮すべきである。

⑶ 商議員会について

校友各層の意見を民主的に反映しうるようにその構成をあらためる。その点が実現されるまでは、大学と校友との意見交流の場にとどめる。

⑷ 総長選挙制度について

(イ) 総長の選出は専任教職員の直接投票による。

(ロ) 校友は総長候補者の推薦にのみ参加する。

(ハ) 学生参加については、信任投票制度をより実質化する。

(ニ) 教職員、学生それぞれによるリコール制度を設けること。

⑸ 大学改革推進機構について

改革原案作成のため、教職員により民主的に選出された大学改革推進委員会を設置する。この委員会には総長が加わるものとする。

以上

 また、校規改正委員会も存続することになったので、商議員規則・評議員に関する校規改正小委員会報告書についても「校規改正小委員会報告書に関する意見」(後掲)を提出し、翌昭和四十七年十一月再開された校規改正小委員会で、当時の教員会議長佐藤(篤)・西原両教授が、大浜委員長に法学部意見の趣旨を説明した。

校規改正小委員会報告書に関する意見

(法学部大学問題検討委員会案)

大学全般の改革につき、法学部の基本的考え方は、すでに提出してある回答にのべております。当学部はこの基本的考え方を変更するものではありませんが、当面の改革として、校規改正小委員会報告書にかんし、つぎのような改善意見を申しのべます。

一、商議員会規則について

現行総長選挙規則は、総長選挙人の学内外の比率三対二を原則としてつくられており、改正当時の学外評議員、商議員の総数は三八〇人でありました。今回の改正案によると、これが商議員会規則第二条一項による商議員をのぞき、すでに約三八〇人(商議員三五〇人、評議員二八人ないし三二人)となります。したがって、同項による評議員会の推薦の仕方によっては、学外商議員がさらに五〇名増加しうることとなり、総長選挙規則の重要点を、実質的に動かすことになります。

こうした不合理を避けるため、学外商議員の総数は、昨年の総長選挙規則改正当時の実数をさしあたり動かすことなく、これを定数化するのが妥当であります。

なお、この学外商議員の定数案が、学内商議員の定数増加を考慮して定められたとすれば、学内商議員は学外商議員とちがって総長選挙人になるものではない、という点に留意する必要があります。またもしそれにもかかわらず、商議員会自体における学内外の比率が重要だというのであれば、学内商議員の総数を動かすことなく、選出系統を調整すればよいと考えます。

二、評議員について

1 高等学院選出の評議員数 本改正案においても、商議員については学院を一系統学部に相当するものとしてとり扱かっております。

これを、評議員にかんして他学部の半分の一名とするのは理由がなく、教員間に無用有害な差別感をのこすものであります。

したがって、これを二名に改めることが妥当であります。

2 学部における評議員の選出方法 これを専任教員の無記名投票によるとした点は改善でありますが、その投票方法につき、二名連記と規定化するのは不適当であります。定数いっぱいの連記では、学部内の少数意見が代表される機会が失なわれるからであります。

3 職員の被選出資格 これを「職制上特定の職務を担当する職員」に限るのは不適当であります。それらの者が「一般的には」最高議決機関のメンバーとなる適格性を有する、ということが真実であるとすれば、選挙の結果もまたおのずから、多くの場合それらの者が選ばれるであろうことも、みやすいところであります。しかし例外的には、一定の役職者以外でも、それらの役職者と同等もしくはそれ以上に適任の者がいることも考えられます。

したがって、誰が適任と考えられ、選出されるかは、被選出資格を役職により制限することなく、選挙の結果に任すべきであります。例外的にであれ役職者以外の適任者が選出される可能性を規則により排除するのは、非民主的であるばかりでなく、ひろく適任者をうるという点からいつても、合目的的ではないからであります。

4 学外評議員の定数 二八人案の意見が合理的であり、また評議員会の総数の増加を必要最小限度にとどめるためにも、二八人よりふやすべきではないと考えます。各学部についていえば、従来一系統学部からは学部長を含め四人の評議員がでておりました。それが改正案では三人に減らされましたが、そのようにまでして総数の増加を抑えているからであります。

 その後、法学部の意見を容れた小委員会の改正案が出され、これに対しても法学部は意見を述べた(昭和四十八年十一月六日)。

校規改正原案の一部改訂案に関する意見(案)

法学部教員会は、さきに発表された貴委員会小委員会の校規改正原案にたいし、昭和四十六年十月十九日の意見書をもって、数点の修正を要望いたしました。貴委員会は小委員会においてその説明を聴取され、右意見のうち、「一 商議員会規則について」および「二 評議員について」中の「2 学部における評議員の選出方法」をほぼとり入れて一部改訂案をつくられたことは、当教員会のよろこびとするところであります。

しかしながら、「同1 高等学院選出の評議員数」「同4 学外評議員の定数」が依然として旧のままであること、「同3職員の被選挙資格」については、改訂案で「およびこれに準ずる者」を加えたにとどまることは、はなはだ遺憾であります。ことに「同3」について、職員の被選挙資格を若干拡大したことは改善であるとはいえ、これを職員中のごく少数の者に限っていることは、とうてい納得できません。そのような制限は、大学を支える全職員の善意と英知、民主的な選挙結果に信頼をおかないことを意味しているからであります。

貴委員会においてはこの点をさらに考慮され、前要望書中の残された諸点を修正されること、ことに職員選出評議員の被選挙資格の制限についてはこれを撤廃されるか、すくなくともその資格者に職員選出商議員を加えるよう、重ねて要望いたします。

昭和四十八年十月三十日

法学部大学問題検討委員会

8 学部長候補者選挙の問題

 総長選挙制度に関する討論は、学部長候補者選挙の問題にも及んだ。そのきっかけとなったのは、昭和四十六年(一九七一)八月二十八日に開催された教員組合第二区職場懇談会の問題提起であった。総長選挙制度(旧)と同様に学部長候補者選挙も講師・助手の意見が反映されず、また候補者が誰か分らないままに選挙しなければならない。職場懇談会では、現行制度の枠内でできる改善案として、教員会で候補者を選出する(ただしこの決定は教授会を拘束しない)方法がとられるべきだとして教員会の開催を申し入れた。

 九月三日開かれた教員会では、⑴この問題は、教授会の権限を教員会に漸次移譲して行くという原則が確認されたうえで考えられるべきであって、学部長選挙に限らず全般的な問題として検討すべきである、⑵改善は機会を捉えて段階的に行うのが現実的である、⑶現行制度は経験の蓄積の上に成立しており軽々に変更すべきでない、という三つの基本的考え方が開陳された後、改善案として「教員会において、学部長候補者一名を投票によって選出し、教授会に推せんする」という案、これに「教授会の権限を教員会に移譲すべきだという今後の改革の第一段階として今回の学部長選挙をおこなう」という条件を付した案と二案が出されたが、結着がつかず、本件を重要事項と指定して(後述)継続審議事項とすることにした。結局、九月八日の教員会では、改善するとする二案と現行通りとするという対案で採決した結果、現行通りとすることになった。同日開催された教授会で高野教授が学部長候補者として選出された。

 改善案が再び議論されたのは昭和四十七年(一九七二)九月になってからである。同年九月八日の教員会で、講師、助手から教員会で各構成員が学部長として適任と思う者について、アンケート的意味の投票を行い、その投票結果(推せん候補者は複数となる)を教授会に報告して参考に供してもらう、教員会議長は教授会に対して、教授会における学部長選挙に当って教員会での投票結果を参考にするよう申入れるとの提案があった。異論がなかったので、直ちにアンケート的投票を行ったところ、高野竹三郎教授・西原春夫教授・杉山晴康教授・高島平蔵教授・内田武吉教授の順に得票し、この結果を参考として、同日の教授会では西原教授が学部長候補者として選ばれた。これ以後、法学部では学部長候補者選挙にはこの方式が採られてきている。学生自治会(規約改正して昭和四十六年四月一日より学友会から学生自治会となった)から学部長選挙に学生参加を実現するため今回の選挙を延期せよとの申入れがあったが、延期すべき理由が不明確であるとして、教授会は選挙を実施した。この場合も学生参加が果されないまま残されることとなった。

9 教員会の議事運営

 これまで述べたところからも明らかなように、昭和四十一年(一九六六)の第一次紛争以来法学部では人事やカリキュラム編成、休講措置などの決定以外は、なるべく講師・助手をも含む教員会で審議しようという方向をとり、教授会設置の委員会を教員会設置の委員会へと移してきた。議事運営も学部長ではなく互選による議長団(任期一年ないし十二回)によって行われる方式を採り、教員会の決定を教授会の決定とする、ないし教授会でそのまま承認するという慣行が積み重ねられてきた。教員会は定例化していないけれども、問題が起れば臨機応変に開催され、法学部の基本方針となるような重要な決定は殆ど教員会でなされてきた。それだけにしばしば長時間に亘り、また講義時間と重なる場合も生じて審議の継続ができなくなる場合もあった。そこで教員会の議事運営について議論されることになったのである。

 昭和四十四年(一九六九)三月十八日の教員会でこの問題がとりあげられた。教員会の定足数を従来通り三分の一とすることには異論がなかった。次に、重要事項指定方式を採用するか否かについては賛成多数でこれを採用することにした。続いて重要事項の指定には通常の三分の一の出席の過半数の賛成によることには異論はなく、重要事項を審議する場合の定足数を二分の一、継続審議となった場合定足数を下げないことについては、いずれも賛成多数で決定した。また、提案を投票に付する場合、その提案について他の賛成者を必要としないことにした。重要事項方式の採用は、一面では重要と思われる事項についてより多くの教員が意見を述べて叡知を集める点で意義を持ったが、他面では重要事項に指定されると定足数に達しなければ結論を出せず定足に達するまで決定を待たねばならないという弊害もあらわれる。昭和四十七年(一九七二)三月三十一日開催された教員会では、教員会の審議時間などについておおよそ次のような決定がなされた。それは、⑴、審議時間は四時間を限度とする、⑵、四時間にみたない場合でも午後八時を限度とする、⑶、⑴⑵の場合は継続審議とする、⑷、緊急の場合は採決によって続行することができるが、この場合は一時間の休憩をとる、⑸、招集通知に会議時間を明示する、というものであった。同時に教員会の議事手続を明確にするため委員会を作って議事の基本的方針を決めるべきだという提案があり、四月四日の教員会で設置を決定した。

 委員会(議事運営要項案作成委員会)は、⑴議長の選出方法について、⑵教員会の招集等について、⑶議案の提出について、⑷議案の採決方法について、原案を作成し教員会に提出した。六月二十日の教員会では、右の⑵と⑶について承認された。

教員会の招集等について

イ 教員会の招集 ⑴教員会は学部長が招集する。⑵教員会構成員の十分の一以上から請求があった場合には、学部長は教員会を招集しなければならない。

ロ 議題の決定および表示 ⑴議長団は、提出者の議題(協議事項)に対し、協議の上、修正を求めることができる。⑵提出者が修正に応じなかったときは、提出者の議題による。⑶議題は、予め構成員に対し、具体的に示されなければならない。

議案の提出について

⑴議題を提出した者は、議案を提起しなければならない。⑵議案の提起者は、議長の指示により、議案の趣旨と理由を示さなければならない。議案の提出者が複数のときは、代表者一人を定めなければならない。

 ⑴の議長選出の方法については、現議長団の任期の終る昭和四十八年五月二十九日の教員会で審議され、議長・副議長制を採用することにした。

議長選出の方法について

⑴正議長一名を選出し、正議長の指名によって副議長二名を選任する。

⑵正議長の選出は選挙によるものとし、過半数をえた者を当選者とする。第一回の投票で過半数をえた者がいない場合には、第一回投票における上位の得票者二名につき決選投票をおこなう。

⑶議長の任期は従来どおりとし、一年または十二回のいずれか早く到来した時期をもって終了する。再任を妨げないが、再選された場合には辞退することができる。

⑷この選出方法が採用された場合には、これによって選出された最初の議長の終任(辞任および不信任による解任を含む)の時点において、この制度を継続するか否かにつき再検討を加えるものとする。

 更に⑷の議案の採決方法については、昭和四十九年五月二十八日の教員会で修正の上、次のように決定された。

⑴原案に対して修正案が提起された場合には、(イ)まず修正案の可否を問い、(ロ)これが否決された場合には原案の可否を問う。

⑵原案に対して対案が提起された場合には、(イ)まず対案の可否を問い、(ロ)対案が否決された場合には原案の可否を問う。

⑶修正案が複数提起された場合には、(イ)いずれの修正案が原案から遠い修正案であるかをまず決定し、(ロ)原案から遠い修正案から順次採決を行なう。

⑷対案が複数提起された場合には、(イ)まず対案の採決順序を決め、その順序に従って可否を問い、(ロ)これがすべて否決された場合には原案の採決を行なう。(ハ)順序の決め方は、その都度、議長がこれを諮る。

⑸原案に対して修正案と対案が提起された場合には、(イ)まず対案の可否を問い、(ロ)これが否決された場合には、修正案の可否を問い、(ハ)さらに修正案が否決された場合には、原案の可否を問う。

⑹いかなる案を修正案とし、また対案とするかについては、議長は自己の判断を示さなければならない。

10 教育制度検討委員会・外国語科目検討委員会の廃止

 教育制度検討委員会は、既に述べたように昭和四十一年(一九六六)の紛争の中で提起されたさまざまな問題に対応し法学部の今後の方針を検討するために設置された委員会であった。委員構成も教授・助教授・講師・助手の各層から選ばれるように配慮されており、教授会や教員会に意欲的に問題提起を行ってきた。この委員は、同年八月三十日教員会に答申を行い、同日カリキュラム検討委員会の設置を提案したばかりでなく、教職員懇談会開催、クラス担任制度の改善、クラス・ミーティングの実施、ガイダンスの実施、ホーム・ルームの時間の設置などについても翌昭和四十二年(一九六七)にかけて提案をしている。これらの提案は、学生のマス・プロ教育批判に答えていこうとの努力の現われとも言えるものであった。

 その後、教育制度問題の検討の主力はカリ検に移ったが、法学部のカリキュラム編成、卒業単位数などについての基本方針の合意ができないまま、昭和四十三年(一九六八)十二月十日の教員会で、「昭和四十一年八月三十日付で決定されたカリキュラム検討委員会審議事項のうちの「卒業に必要な単位数は従来のままでよいかを検討すべきである」につき、従来単位数削減の方向で考えられていたのを白紙に戻して検討すべきである」という教育制度検討委員会の提案が承認された。翌昭和四十四年(一九六九)四月二十二日この委員会が教授会に学生指導費の使用基準について提案した際に、この委員会の性格について論議があり、同年五月六日の教員会で「本委員会の本来の性格上大学問題全般につき審議することを任務とするものと考えるかどうか」賛否両論がたたかわされ、結局大学問題については別に委員会(法学部大学問題委員会)を設置することになった。これ以降、大学の制度改革については、大学問題委員会があたることとなり、教育制度検討委員会はもっぱら学生指導費や法学演習(クラス数・人数の検討、演習室の整備)、試験制度など学部内の個別的な問題が提出されるごとにその都度検討するようになり、結局、昭和四十七年(一九七二)三月三十一日の教員会で、採決の結果廃止されることになった。また、同日の教員会で、かつて外国語科目の人事や持ち時間、外国語教育のあり方(カリ検からの付託事項)について検討してきた外国語科目検討委員会も廃止されることになった。既に昭和四十四年(一九六九)からこれらの問題については、非専門科目担任者懇談会(非専懇)が審議するようになっていたからである。しかし、その後外国語科目検討委員会は復活した。昭和五十三年(一九七八)には外国語の種類を拡大し、イタリア語・朝鮮語について昭和五十四年(一九七九)度より語学教育研究所設置の当該科目を受講し単位を取得すればこれを法学部における履修にあてることを提案、承認された。

11 法職課程教室の開設

 司法試験を受ける学生が年々多くなり、受験勉強に資するために法職課程教室を開設せよとの声があがり、昭和四十三年(一九六八)九月の教授会で開設を決定した。

 その後、昭和四十五年(一九七〇)五月の教授会で管理委員会を設けることにし、六月の教授会で委員構成七名、一法教務担当教務主任を職務上の委員とし、残りの六名を教授会より選出する。委員の任期は二年、一年ごと半数交替とすることにした。各年度の収支決算・事業計画は教授会の承認事項となった。法学部の教員をはじめ、他大学の教員を講師に招いたり、また、司法習修生などが指導にあたり、活動は活発で、合格者の数も一定の水準を維持している。しかし、司法試験科目に従った純粋な実用法学の教育が、本来の法学部教育にどのような影響を与えるか、学生の学問的興味を疎外しないかどうか、批判的精神がなくならないのかどうか、まだ十分議論が行われていない。特に重要な点は、司法の反動化が叫ばれている中で、早稲田が今後どのような法曹人を送り出していくのかということである。ただ合格者の数が多ければいいとするのではなく、今後いろいろな観点から検討する必要があろう。

十八 大学の再編成と法学部

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1 学費値上げ問題と法学部の態度

 昭和四十六年(一九七一)十月大学当局から再び学費値上げが提案された。大学当局は、前回の紛争の経験やそれ以後の経験から、あらかじめ値上げについて教職員のコンセンサスを得ておくことが必要であると考えたものと推測される。十月二十六日教員会で村井総長と財務担当理事が経常勘定および基本勘定の長期予想、向う三ヵ年間における収入および支出の見通しなどの資料を示し、向う三年間に見込まれる累積赤字の七〇%にあたる四十七億円を補塡するために、残りの三〇%は国庫補助などに期待することにして、授業料は法文系現行八万円を十二万円に、理工系現行十二万円を二十万円に(ただし大学院は昭和四十八年度よりとする)、入学試験検定料現行五千円を八千円に、入学金現行五万円を八万円とするというものであった。このような説明をめぐって、値上げの根拠、三年経過後の見通し、また値上げによってどのような大学を作ろうとするのか明らかでない、値上げが原則的に好ましいものでなく最後の手段であるとすれば、それ以前に尽すべき努力が十分なされていない、一挙に大幅な値上げをするのは適当ではなく物価スライド制なども考えるべきではないか、というような反対論が述べられ、また学部当局からは赤字補塡のため今回の値上げはやむを得ないという賛成論も述べられた。しかし、他大学でも学費値上げを検討していることから、それらの大学の経理内容などに関する資料の提出を求めた。

 これより先、九月二十八日と十月十二日に教員学生協議会が開かれ、学生側委員より、学費値上げについて大学当局から値上げの根拠、将来どのようなヴィジョンを持っているのかを質してもらいたい、また学費値上げ決定の手続は民主的に行うべきであること、値上げ問題を議題として教員学生集会を開催するよう要望がなされていた。

 十一月一日再び総長を迎えて説明を求めた。総長は、文部省の会計基準が変わって退職金積立が大幅に増加したこと、私学も公教育であること、中教審答申に出ている公費助成に関する運動は強力に推進すること、手続的には理事会から評議員会に提案して決められるが、教職員と学生とは立場が違うので、学生に対しては正式決定後に学部単位で説明するつもりであることを明らかにした。これに対し、学費値上げの根拠が曖昧で絶対反対であるという意見もあり、学部当局は、教員会として何らかの意思を示す必要があると思うので、大方の意向を知るという意味で理事会案について賛否の投票をしてみてはどうかと提案したが、教員会は結局次のような要望書を総長に提出することにした。

要望書

今般の学費値上げの理事会案について、評議員会における決定以前にできるだけ早く直接学生に対し、その内容と根拠を説明されるよう強く要望いたします。

昭和四十六年十一月二日

第一・第二法学部連合教員会

 十一月十一日学費値上げ問題について大学当局が出席して教員学生集会が開催された。同日学費値上げが評議員会で承認決定されたが、これについての学生の質問に大学当局は殆ど答えようとせず、成果はあまり見られなかったので、学生自治会は教員学生協議会を通じてもう一度集会を開くよう申し入れた。十一月二十五日には政経・商・教・文・社は、学生大会の定足数がみたないところもあったが、無期限バリケード・ストライキに突入しており、法学部もストライキ必至の状態であった。このような情勢の中で、十二月八日大学主催で法学部教員学生集会が開かれ、翌九日には学部当局・法学部選出評議員出席のもとに、中教審答申・大学財政問題・カリキュラム問題・教育内容・研究条件などをテーマとしてパネル・ディスカッション方式で教員学生院生討論集会が開かれ、教員・学生・院生それぞれから一名ずつ選ばれて司会にあたった。この日の討論で、何故カリキュラムの改革が進まないのか、教育内容をどのように新しくしていくのか、などといった従来に見られなかった一歩踏み込んだ発言があらわれたことは特徴的なことであった。翌昭和四十七年一月十三日法学部学生大会で無期限ストライキの決議が行われ、教員会はまた期末試験をどうするかに追われることになった。同日開かれた教員会で法学部自治会委員長から学生大会で可決された方針について趣旨説明を聞き、期末試験の実施については平穏に実施できるまで延期することを決定した。

 けれども四年生の卒業が目前に迫り、四連協(四年生連絡協議会)は期末試験を自由テーマのレポートに切りかえてもらいたいとの申入れを行い(二月十四日)、翌日開かれた教員会では四連協代表と自治会代表の申入れの趣旨の説明を聞き、教場試験を実施する、すべてレポートにするという提案もあったが、結局四年度生以上については一般教育科目・専門科目についてはレポートをもって試験にかえ、語学については教場試験を原則として行うが前期試験および平常点で成績が出せる場合は必ずしも教場試験を行わなくともよいと決定した。第二回目の「レポ卒」が出ることになった。三年度生以下については、一旦ストライキが解除されるまで一切の試験を行わないと決定したが、自治会からの申入れもあり、四年度生以上の場合と同様とすることに決定を変更し(三月八日)、決定変更の理由を付して発表することにした(三月十一日)。学費問題の現状打開策については継続審議となり、その後検討されないままになってしまった。けれども四月五日からの語学教場試験は、学生によって阻止され、最終的には六月上旬に行うことに決定した。

 学費値上げが、理事会によって考えられても評議員会の最終決定以前に学生も含めて大学構成員のコンセンサスを求め、場合によってはその上げ幅や他にとるべき手段など話し合う姿勢がない限り、学費値上げの度びごとに同じようなことが繰りかえされるのではないか、という危惧の念を与えたことは指摘しておかねばならない点であろう。学生も含めての大学づくりないし学生も大学自治の担い手という考え方に立たず、中教審の答申のような考え方に立てば、はてしなく学生との対立が続くことになるのではないか、このような指摘のあったことは重要である。

 他方、私大の慢性的財政危機に今後どのように対処するのかという問題は、各私大の教授会が連合して国庫助成運動を起すべきだという声をあげさせることになり、昭和四十八年(一九七三)七月十日関東地区私立大学教授会連合準備会結成大会が開かれ、法学部教員会はこの大会にオブザーバーとして代表を派遣し、準備会の実態について大学問題検討委員会に付託し検討することにした。

2 筑波大学法案に対する法学部の見解

 政府は、中教審答申の線で、既に東京教育大学の廃校を伴う筑波大学創設準備会を発足させ、昭和四十六年七月には準備会は筑波新大学のあり方について発表した。その内容は大学の管理運営と研究教育を峻別し、管理運営においては副学長制を採用し学外者をこれに参与として参加させ、研究教育にたずさわる教員の大学の管理運営への参加を抑えようとするものであり、学生は教育の対象でしかなく、いわゆる大学の全構成員が自主的に大学を運営していこうという大学の自治の考え方に真向うから対立するものであって、他の大学にも大きな影響を与える可能性を持つものであった。政府がこのような考え方を盛り込んだ筑波大学法案を国会に上程するや、反対運動は全国の大学に拡がり、早稲田でも学生ばかりでなく組合でもこの問題が採り上げられるようになった。

 法学部教員会は、七月三日法学部大学問題検討委員会から提出された「筑波大学法案について――法学部教員会の見解」を採択、決定し、各方面に送付した。

筑波大学法案について

――法学部教員会の見解――

法学部教員会は、学問研究と高等教育の発展にともなう、大学改革の必要性を深く認識している。したがって、このための法改正や新立法にいたずらに反対するものではない。しかし、大学改革の方向は、大学関係者の自主的な努力により、民主主義を指導原則とし、国民の教育権と真実を知る権利を実現するものであるべきだ、と考える。したがって、教育・研究の自由、大学全構成員による自治、および「国民に開かれた大学」づくりの三原則は、憲法上の要請である、と解するものである。

このような見地からみて、筑波大学法案はひじょうに問題が多いといわざるをえない。法案は、研究と教育を組織的に分離し、学外者を含みうる新しい副学長制を導入することを一般法(学校教育法)で規定している。これはたとえ任意規定であっても、行政指導等により他大学へ大きな影響を与える可能性をもっている。研究、教育の専門家集団が、教育・研究内容の自主決定権や教員人事権をもちえない体制のもとでは、大学の自治が制度上保障されていないことになる。これを学部自治から全学自治への改革というのは、研究・教育を支配する条理に反する立論だというほかない。とりわけ学長が選考する学外者によって構成される参与会等の制度は、学長を頂点とする中央集権体制であり、しかも学外者の支配を導入しようとするものである。これは、戦後一貫して政府が試みてきた大学管理法案の具体化であり、しかも中教審答申の構想と基本を同じくする政府の大学政策の先導的試行にほかならない。

この法案は、筑波大学創設のためにつくられていると説明されるけれども、実は、さまざまな影響を実質的に私立大学に与えないではおかないものである。このことは、筑波大学構想においては、大学紛争の反省から、教員を管理機能から分離し、学外者を含む専任者によって管理権の中枢を掌握する、いわゆる私学方式を採用するという見解に示されている。学外者を含みうる副学長制や学部以外の教育研究組織の新設は、私立大学における中央集権体制と経営優先の運営状況をさらに強める方向に作用するおそれが強い。教授会自治を否定する筑波方式の新設は、いまなお実質的に確立していない多くの私立大学の教学権をおびやかすおそれがある。

筑波方式は、いまだ方向の定まっていない各私立大学の自主的改革のあり方に、行財政上の指導や援助を通じ、一定の進路を示すであろう。このことによって、私立大学改革における経営偏重の志向が教学尊重の志向に優先する傾向をいっそう強め、その結果、大学の民主的改革の試みを妨げることとなろう。

教育改革の基本構想にかかわる問題について、全国の大学関係者、とくに私立大学の教員に対し、あらかじめ基本的な合意を求める努力が乏しかったことは、立法過程の民主性の要請をみたしていない。衆議院での審議の過程においても、未だ明らかにされなかった点が少なくなく、とくに学生の地位と権利については疑問が多い。

法案のうち、国民的合意に達することが容易な医学部増設等の条項はいわゆる筑波関連条項と切り離して、審議・成立させることがのぞましく、筑波関連条項については、今後立法過程の民主性の要請をみたし、かつ、その内容も憲法上の要請に適合するものにすべきであろう。もし、それができないとすれば、わが教員会は、このような筑波関連条項の成立に反対するものである。

一九七三年七月三日

早稲田大学法学部教員会

3 「暴力問題」への対処と早稲田祭問題

 大学当局が学生の声を吸いあげようとしなかったことの背景には、学生側自身の問題も大きかった。当時の早稲田の学生自治会の多くは、一部の活動家のものとなり、ヘルメットをかぶりタオルで顔を被い角材や鉄パイプを振りまわし、火炎ビンを投げる学生のものとなっていた。このように民主的に学生の声が集約できないような学生自治会のありようは、多くの学生を自治活動から目をそむけさせ、自治活動無関心派が増大した。法学部は、ともかく教員学生協議会のパイプがあり、問題の起るたびごとに教員学生集会が開催されてきただけに、他の学部の学生集団に攻撃をしかけられ、しばしば校舎が破壊される有様であった。

 このような状態であったから、学部長に就任した西原教授は、学生自治会の公開質問状に答えて、暴力行為についてはこれまでの教員会の議論をふまえながら、学生に「自治会活動に関心を持つように」また「暴力は絶対反対である」と呼びかけたのである(昭和四十七年十月)。それから間もなく、十一月八日文学部校舎において革マル派による川口君リンチ殺人事件が発生した。従来、革マル派による教職員や他派の学生に対する暴力行為がしばしば報告されていたことから、教員組合も直ちに声明を発して暴力行為を批判した(十一月十一日)。法学部では、自治会が「法学部教員会への公開質問状」四項目を発し、教員会での審議を要請した。⑴「革マル」派学生によるリンチ殺人事件に対し責任ある見解を示せ、⑵村井総長に対し、大学当局者としての責任を教員会として追求すべきであるがどうか、⑶この件に関して教員学生集会を開くべきであると思うがどうか、⑷学園の自由回復、大学の自治の発展のために学生とともに共同して闘うかどうか、というものであった。

 教員会は、⑶を先議し、法学部主催で集会に総長または理事の出席を求めること、集会参加者の学生証チェックについては当局一任、日時は十一月二十二日頃を目処とし、集会の行われる時間は休講とすることにし、議長団は教員があたる方向で自治会と折衝することに決定した。けれども集会出席について総長の同意が得られず、十八日の教員会では、⑴教員会に総長を含む大学当局者の出席を求める、⑵教員学生集会については事態が流動的であり直ちに採決せず継続して審議することにした。

 他学部では、これまで暴力をふるい自派以外の発言を封じてきた自治会執行部が学生大会でリコールされ、代って新しい執行部が生れた。早稲田全体が熱気に包まれ、無関心派の学生も自活会活動に参加するようになってきた。法学部自治会も十一月二十四日学生大会を開き「学園の自由回復」のために努力することを決議している。当然のことながら力で学生大会を開かせまいとする動きも活発になり学内は緊迫した。大学当局は、このような学生の動きに対して、新執行部を正規の執行部とは認めようとせず、そのかわり、「緊急事態における教職員の協力体制案」を各教授会に提案した。これは第一次出動・第二次出動……といった軍隊か警察の方式であり、教員の賛成を得ることはできなかった。法学部の学生も、他学部の多くの学生と同様、このような大学の態度に不信を抱くようになったのである。

 このような自治会正常化運動は、同時に早稲田祭のあり方についても反省を迫らせることになった。教員会に対して法学部自治会からも問題提起がなされたが、教員自身が早稲田祭期間中の実行委員会の行動について問題を感じていたから、十月十一日早稲田祭委員会で早稲田祭開催を決定したことが報告されたとき、教員会ではさまざまな疑問が出された。法学部自治会は、「リンチ殺人事件を起した革マル派がにぎる早稲田祭実行委員会による早稲田祭を承認することは納得できない」として、⑴八号館の使用許可を白紙撤回せよ、⑵大学当局に対し早稲田祭中止を申入れよ、⑶教員学生集会を開催せよ、⑷この集会に学生担当理事の出席を求めよ、という四項目の要求を教員会に申入れた。しかし結論として、これらの要求に対してはいずれも応じられないが、拡大教員学生集会に学生担当理事に出席するよう交渉する、八号館使用については三ヵ所の入口ではいかなる検門もしない、四階の学生読書室への学生の出入りは自由である、八号館で早稲田祭に使用している部分の管理責任は大学当局にあるとの条件で使用させることにし、早稲田祭に対する法学部教員会の批判については早稲田祭終了後に発表することにした。更に学生自治会からの法学部祭開催についての申入れについては、実施当日休講とすることにした。

 なお、次に掲げた法学部の意見は、正本を大学当局に提出し、『大学広報』『早稲田ウィークリー』に掲載を申入れ、八号館に掲示することにした。

早稲田祭に関する法学部教員会の意見

「第二〇回早稲田祭」は、多くの問題を残しながら十一月二十六日に終了した。早稲田祭は本来学生の祭典であるが、これに対しては大学が補助金を支出しているばかりでなく、各学部教授会でこれを授業に準ずるものと認め、その期間中の休講を決定し、各学部の管理になる号館を使用させるものであるなど、教職員もこれに対し無関係ではない。そこで、今年の早稲田祭が終了したのを機会に、早稲田祭に関する法学部教員会の見解を明らかにしておきたい。

昨年の川口事件後、この事件の当事者である革マル派やその他の一部学生集団は、その後も学内への凶器、ヘルメットの持込みをやめなかったのみか、再三にわたり学内外で傷害事件を惹き起こしてきた。早稲田大学としては、まだ学内の正常化が実現していないといわなければならない。しかも、早稲田祭は右の革マル派とは無関係ではないとしてこれに反対する勢力があり、その緊張関係のため教職員が警備に動員されたり、早稲田祭の期間中およびその前後かなりの長期間にわたって機動隊が連日出動、警戒に当たったりし、これがなければ学内の安全が保たれないような状態にわが早稲田大学はあった。このようなときに、いかに課外活動の成果を示すためとはいえ、学外の多数人の来場の予定される「祭典」を開催すべきであったかどうか、これを疑問とする教職員学生はかなりの多数に上ったと思われる。しかも、早稲田祭の開催が理事会で決定された以前の学部長会で、今年の早稲田祭は行なわない方がよいとする意見は述べられたが、開催を積極的に支持する意見はなかったようであるし、また、開催の可否につき各学部の現場でもっとも苦慮している学生担当教務主任の意見は、ほとんど公的に聞かれなかったということである。結局、一般教職員の多くは、なぜ早稲田祭が開かれねばならないのかを十分納得しえないまま、早稲田祭を迎えたことになる。法学部教員会としては、早稲田祭が全学的行事であることなど諸般の事情からやむをえず八号館の使用を認めたが、本年における早稲田祭開催の決定手続にはかなりの疑問があり、来年以降仮に早稲田祭を開催するにしても、事前に少なくとも各学部教員会の意見を十分に聴取・斟酌し、全学的合意を得ることが望ましい。

さらに本年の早稲田祭においては、法学部教員会からの強い申し入れにかかわらず、号館の玄関ばかりでなく各門でプログラムチェックが行なわれ、その結果、読書室での勉学やサークル活動・自治会活動のため来校した学生がプログラムの購入を強く要求されたり、中には暴行を受ける学生も出たり、また研究や勤務のため入構しようとする教職員が身分証明書の提示を求められたりした。これらのまことに遺憾な事態もまた、今年の開催に無理があったことのあらわれであり、このようなことが来年以降も行なわれるならば、早稲田祭は教職員学生の大学における自由を害するものとしてこれに反対せざるをえない。来年以降の早稲田祭については、その手続・内容・条件に関し今後時間をかけて徹底的に再検討すべきであると考える。

昭和四十八年十二月十一日

法学部教員会

4 特別予算検討委員会の発足

 昭和四十九年(一九七四)四月二十三日の教員会で、大学当局が政・法・商三学部に特別予算として一億五千万円を配分する意向であることが紹介され、五月の教員会では、学費値上げの結果このような措置が採られるのなら、むしろ法学部としては受けるべきでないとの意見もあったが、ともかく特別予算を利用すべきかどうかも含めて委員会を設置して検討することにした。委員会はこの予算を勉学条件の改善に使うことにし、先ず学生読書室の改善、視聴覚教室の整備拡充、学生ラウンジ・学生サークル部室の改善、学生自治会に印刷器械の設置、冷暖房設備、法職課程教室事務室の移転などに用いることとした。その後、学生の要求や教員の希望によって、八号館に若干のゼミ室をつくり勉学条件は多少なりとも改善され、また北側研究室の窓を二重窓にして研究条件の改善が試みられたけれども法学部では、他学部に比べて、特に教室不足は深刻であり、今後の本部キャンパス整備計画の中で、飛躍的な拡大充実が期待されたのである。

5 学費値上げと教員学生討論集会

 学費値上げのテンポは急に早くなってきた。昭和四十九年(一九七四)十一月二十六日の教員会で、大学当局は昭和五十年度学費値上げの説明を行った。教員会は、学生自治会からの申入れを受けて自治会委員長の意見を聴取した。翌昭和五十年(一九七五)一月十三日、学生大会が開催され、そこで、二月八日までの学費値上げ反対のストライキが決議され、教員会は三度るつぼの中に巻き込まれることとなったのである。さしあたり、昭和四十九年度の残りの授業については、従来のように各担当教員の裁量に委せることとし、学年末試験についてはこれをすべて延期することにした(一月十四日)。自治会の申入れを受けて、教員会は教員・学生集会を開催することにし、更に学部当局との「団交」要求にも応ずることにした。教員・学生集会は一月二十四日と二月三日に行われ、議長団名で次のような「確認事項」が発表された。

一・二四法学部教員・学生集会の報告

法学部教員・学生集会は、一月二十四日午後一時から五時半まで、八号館三〇一教室で開催された。集会において、教員・学生の間で学費値上げ問題等について討論を行った結果、次のことが確認された。

一、今回の学費値上げにあたって示された大学当局の財政説明は充分とは認められず、当局は、教職員・学生に対して、財産目録の公開を含め、よりわかり易く具体的に経理を公開すべきである。

二、学費の一方的な値上げは望ましくなく、学費問題の根本的な解決のため、今後全大学構成員の間の話し合いが必要である。

三、今回の値上げ発表にあたり、現行の早稲田大学の管理運営に必ずしも適切でないと思われる点がある。今後制度の問題を含めて改革の必要がある。

なお、今回の集会において討議できなかった問題について、できるだけ早い機会に再度教員・学生集会を開催するため努力することが確認された。

昭和五十年一月二十四日

一・二四法学部教員・学生集会議長団

二・三法学部教員・学生集会の報告

法学部教員・学生集会が再度、二月三日午後一時から七時半まで、八号館三〇一教室で開催された。集会において、教員・学生の間で学費値上げ問題等について討論を行った結果、次のことが確認された。

一、⑴ 学費値上げの根源として、インフレ、中教審答申、政府の文教政策などが考えられる。これらの根源のもつ意味をさらに解明し、いかに対処すべきかについて検討することが必要である。

⑵ 学費値上げ問題に関連して、大学における教育・研究の本質的検討が行われる必要がある。

二、公費助成に伴って私立大学に対する統制が強化されることは避けるべきである。そのために、公費助成運動のあり方、助成金の配分基準とその途用の適正化、関係審議機関の民主化、さらに大学側の問題として大学の民主化などについて検討を加え、必要な行動を行うべきである。

三、教員・学生集会に意義を認め、今後、これを継続的に、また、実り多いものとして開催するための条件について検討する。

なお、二・三教員・学生集会にあたり、革マル派と思われる学生数名によるその開催を妨害する行為があった。かかる行為を許すことはできない。

昭和五十年二月三日

二・三法学部教員・学生集会議長団

 他方、四年度生の学年末試験については、一般教育科目および専門科目についてはレポート試験を実施することにし、外国語未済試験についてはこれを別に取り扱うことにした。また三年度生以下の試験は「ストライキが終了し試験が実施できるようになるまでこれを延期する」こととしたが、結局この年は三月二十六日から四月十一日まで教場試験を実施した。新学期の授業が実質的に開始されたのは漸く五月六日であった。学費値上げがこのように頻繁に行われると、研究・教育が疎外される度合も多くなるわけであり、このような悪循環を断ち切るにはどうすればよいのか、深刻に考えさせることとなったのである。

 法学部自治会は、昭和五十一年(一九七六)一月になって、教員学生協議会で学費問題について教員側委員に次のような要望をした。⑴学費の二年連続値上げについて教員会が反対の意思を表明すること、⑵学費値上げに賛成した法学部選出評議員は、その賛成意見を撤回すること、⑶学費の国庫助成獲得のため声明を出すこと、⑷法学部自治会と学部当局間の団体交渉権を認めること、⑸教員学生集会を制度化し、教員学生協議会が主催すること、⑹学費値上げ問題で国会議員に面会するため、学部長に法学部出身の国会議員宛に紹介状を書いてもらいたいというものであった。このような申入れに対し教員会は全体として消極的な態度をとり、わずかに⑸について今後開催の条件等を検討するとしたに留まった。

 ところが大学当局は、昭和五十二年(一九七七)十一月になると昭和五十三年度・五十四年度新入生の学費を二年連続して値上げすると発表したのである。同年十二月出された「学費改定について」によれば、昭和五十三年度は法学部の場合二八パーセント増、五十万二千七百円となり、昭和五十四年度は、二七・九パーセント増、六十四万二千七百円となり、他私大に比べてもかなり高水準のものであった。また、大学院については一年遅れの昭和五十四年度・五十五年度値上げ実施の方針が打ち出された。法学部でも、従来の慣例通り、大学当局が教員会(十一月二十二日と二十九日)で大学財政の今後の収支の見通し、財政窮迫に対処するための措置(学費値上げ)について説明し、質疑応答がなされた。大学当局側はひたすらこの値上げについて教員の理解を求めるという態度で終始し、値上げについて再考することもあるというような柔軟性を持ってはいなかったようである。学生に対しては、前回と同様事前の説明は全くなされずパンフレットが配布されるにとどまった。

 法学部自治会は、昭和五十年(一九七五)一月二十三日と二月三日の教員学生討論集会の確認事項に基づいて、教員学生討論集会の開催を教員会に申入れた。教員会はこれを受けて昭和五十三年(一九七八)一月十日開催を学生側に提案し、同日第一回の集会が開催された。一月十三日には法学部学生大会が開かれ一月十四日から三月三十一日までのストライキが決議されたので、教員会は、従来のように残りの授業については各教員の自主的判断に委せる、予定されていた学年末試験は当分の間延期することに決定した。

 他方では、教員学生討論集会は一月十四日(第二回)、十八日(第三回)に開かれ、次のような「確認事項」が承認されたのである。

昭和五三年一月十四日の教員・学生討論集会確認事項

一、法学部当局による大学財政問題についての説明が不充分であったので、総長、筆頭理事、財政担当理事、学生担当理事が経理公開説明会に説明資料をもって出席するよう、学部長の責任において要請する。この説明会は一九七八年一月二四日までに開催するよう努力する。

一、右記資料は、一九七一年度から一九七六年度までについての早稲田大学会計規則第一七条に定める書類(一九七八年一月一八日変更)とする。〈補足〉右公開資料に関しては、早期に大学当局から法学部学生自治会に手渡し、自治会の責任で必要部分を印刷し、配布する。印刷費用等の詳細は学部当局と自治会との交渉に委ねる。

一、大学当局からの回答はできるだけ早く得られるよう、法学部当局において努力し、開催日時、場所については、法学部全学生に葉書をもって事前に通知する。

昭和五三年一月一八日

一・一四法学部教員・学生集会議長団

昭和五三年一月一八日の教員・学生討論集会の確認事項

一、昭和五三年一月一四日の教員・学生討論集会の確認事項二、の「学校法人会計基準第四条の計算書類」を、「早稲田大学会計規則第一七条の書類」と変更する。

二、右前回の確認事項一、の「経理公開説明会」の主催団体は、法学部教員・学生協議会とすることが望ましいが、最終的には法学部教員会によって決定される。

三、教員・学生討論集会の確認事項は、毎回すみやかに、学部当局の責任において掲示する。

四、法学部当局は、教員・学生討論集会の開催が決定した場合には、できるだけすみやかに、各教員に通知し、学生に対しては学部内に掲示する。

五、法学部当局は、学部の予算および決算ならびに特別予算について法学部教授会および大学当局の了解を得て、次回教授会以降すみやかに公表するよう努力する。

昭和五三年一月一九日

一・一八法学部教員・学生集会議長団

 教員会はこの「確認事項」に基づき、大学当局による経理公開説明会を法学部と学生自治会との共催で実施することに決定し、二月四日説明会が開催された。続いて二月八日、第四回の教員学生討論集会が開催され、最終的に次の事項が確認されることになったのである。

一九七八年二月八日の法学部教員・学生討論集会確認事項

一、法学部当局は、一九七七年度収入現在高及び内訳についての概算額を大学理事会より報告を受け、すみやかに法学部学生自治会執行委員長に通知する。

二、一九七七年度の決算書が評議員会に提出された場合において、基本金組入れ額が予算に示された範囲を超えて計上されたときに、高野学部長(評議員)の責任において、これについて質問し、疑問点を明らかにしたうえで、教員学生協議会を通じて、学生側に説明する。

三、法学部当局は、大学理事会に対し、再度の経理公開説明会を開催することと、早稲田大学会計規則第十七条に定める文書を法学部学生自治会に交付すること、を重ねて要求する。

四、一九七五年度決算の学生生徒納付金と一九七六年度決算の同納付金との差(推計では二十二億円)が、一九七六年度決算の学生生徒納付金と一九七七年度予算における同納付金との差(推計では六億三千万円)よりも著しく大きいが、その理由について、法学部当局の責任において、大学当局に質問し、疑問点を明らかにする。

五、一九七八年二月八日の教員・学生討論集会は、百周年記念事業が募金額の範囲を超えて執行されることに反対する。さらに学部長は、百周年記念事業についての中間報告が、評議員会でなされた後、すみやかに教員・学生討論集会が開催されるよう努力する。

六、高野学部長は、一九七六年度決算を審議した評議員会において配布された文書を、法学部学生自治会に交付することにつき、理事の了承をえて、これを交付する。

七、①大学の管理運営及び学生参加②公費助成、の問題については、それぞれ独立の議題として、一九七八年三~六月の適当な時期に、再度討論を行うことが有益であり、とりわけ管理運営問題は、学費問題との関連で重要であるので、教員学生協議会及び教員会の再審議を経て、できるだけ早期に開催されることが望ましい。

八、教員学生討論集会が教員と学生の合意を民主的に形成するために、有意義な制度として今後とも開催しうるよう学部当局は誠意をもって努力する。

昭和五三年二月九日

二・八法学部教員・学生集会議長団

 これまでと同じようにまた四年度生の卒業問題がクローズアップされてきた。これについては二月七日の自治委員総会の決議について学生側代表の説明を聞いた後、外国語未済科目については教場試験、その他の科目はレポートによる評価をすることにした。三年度生以下については四月三日から十五日の日程で教場試験を実施した。

6 百周年記念事業計画と法学部

 大学創立百周年記念事業については、昭和五十二年五月十七日の教員会で大学当局から説明があり、大学に事業計画委員会が発足することになり、法学部からは西原教授が選出された。また法学部として創立百周年に向けてどのような提案をなすべきかを検討するために、法学部記念事業検討委員会を設置することにした。記念事業検討委員会は、同年十一月二十九日に「法学部の意見(案)」を提出し、若干の修正を経た後承認された。法学部としては、創立百周年を期してなすべきことは、あくまでも既存の学部の整備充実を主とすべきであって、厖大な金のかかる新しい拡張は行うべきではないとする考え方が貫かれていた。

 法学部の意見は次の通りである。

百周年記念事業に対する法学部の意見

百周年記念事業については、すでに各方面から新規の研究・教育機関を設立すべきである旨の提案がなされているが、法学部としては、新規事業よりもむしろ既存の研究・教育機関の整備拡充に重点をおくべきであると考える。なぜなら、これら既存の研究・教育機関は、二一世紀においても依然として早稲田大学の社会的活動の中心をなすべきものであるにもかかわらず、すでに現時点においてもその人的物的設備はきわめて不十分であり、まして将来に向けてのその抜本的な整備拡充にいたっては、経常予算ではとうてい実現することができないからである。法学部としては、百周年を記念して大学全体であるいは学部単位でいかなる事業を行うべきか、さらに検討を続ける方針であるが、とりあえず成案を得た事項について以下に提案する。

Ⅰ、法学部について

一、法学部の使用しうる教室を現在よりも飛躍的に増加させる必要がある。

二、教室および研究室の勉学・研究条件(騒音防止、換気、冷房など)を根本的に改善する必要がある。

三、小教室のうちの相当数をゼミ室にあてる必要がある(現在法学部には専用のゼミ室は一つもない)。

四、教員控室、事務所を根本的に拡張・整備する必要がある。

Ⅱ、大学院法学研究科について

現在における全国的な(とくに国立大学における)大学院制度改革の動向をも考慮し、大学院の人的物的設備その他の研究条件の大幅な整備拡充をはかるべきである。とくに後期課程の学生については、その特殊性に対応した物的財政的基礎の確立が急務である。

Ⅲ、法学部専用校舎の新築について

以上のような法学部および法学研究科学生の勉学条件を向上させるためには、単に他の校舎に教室を求めるというような手段ではもはやとうてい不十分であり、現在法学部の専用校舎とされている――キャンパスでもっとも古く、勉学にきわめて不便な――八号館を建て直すか、あるいは法学部専用校舎を別に新築する必要がある。

Ⅳ、図書の管理・利用について

図書の管理・利用の方法を全学的にかつ根本的に改善する必要がある。

Ⅴ、奨学、研究奨励および国際交流のために十分な基金を設定する必要がある。

 けれども大学当局は、既存の研究・教育施設の整備充実という点は今後経常的日常的に努力するとして百周年事業計画からこれを外し、創立百周年記念事業計画委員会小委員会は中間報告(昭和五十三年四月十四日)で、各方面からの意見を参考にして「全学的に関係の深いものを中心に総合的に検討し」、⑴総合学術情報センターの新設、⑵新キャンパスと新学部の設置、⑶体育・厚生施設の建設、⑷国際交流センター・校友会館および大学本部の建設、⑸高等学校の設置、⑹その他を発表し、保存図書館と高等学校設置については早急に検討し計画することが望ましいとした。またこの委員会はこの中間報告に対する意見や提案を求めたので、法学部としては、九月二十六日重ねて次のような意見をとりまとめ記念事業計画委員会に提出した。

創立百周年記念事業計画委員会小委員会の中間報告についての法学部の意見

百周年記念事業については、このたび計画委員会小委員会の中間報告が提出されたので、これに対する法学部の意見を明らかにしておきたい。

⑴ さきに法学部は事業計画に関し、既存研究・教育施設の充実改善を優先すべきものとする意見を提出したが、中間報告ではこれが、ほとんど顧みられなかったことは遺憾である。大学当局の応答としては「全学的に関係の深いものを中心として総合的に検討し、選定」するという立場から「既存の学部・大学院・研究所の整備充実その他経常的、日常的に検討することがふさわしいものについては、今後ともひきつづき、大学においてさらに検討し、研究教育条件の改善に資することとしたい」とされているが、法学部が要望したのは「経常的、日常的」な予算の範囲ではとうていまかないきれないと思われる規模のものであった。現在の法学部専用校舎は、学生数を若干削減したとしてもカリキュラムの改革さえ自由に行えないほどに狭隘であり、しかも機能的でなく、これではとうてい次の百年にふさわしい法学教育を行うことはできない。そうしてこのような事情は、多かれ少なかれ他学部や大学院各研究科、各研究所などにも存在すると思われる。もちろん「経常的、日常的」な改善がこの程度の規模のものを含みうることの確たる見込があれば別であるが、それが示されない以上、既存教育研究施設の拡充改善を今次の事業計画からはずすのは適当でない。百周年記念事業に全学が情熱をもって当たりうるためにも、それはぜひ必要であると思われる。

⑵ 法学部はさらに、研究・奨学・国際交流のための基金の設定を要望したが、このうち実現されつつあるのは国際交流基金のみであって研究・奨学基金が事業計画の中に含まれていないのは遺憾である。とくに奨学基金は学費値上げによって教育の機会均等が失われるのを防ぐための有力な手段であり、今後も値上げ自体を防止しうる対策がたてられない以上、そしてまたこの種の基金の設定を経常予算の範囲内で行なうのが適当と思われない以上、この種の基金の設定を今次の事業計画からはずすのは適当でない。なお付言するならば、今次の事業計画の中には、学費値上げをできるだけ抑制しうるような計画を含めるべきではないかと思われる。それは単に教育の機会均等を確保し、学生の父兄の負担を軽減するためばかりでなく、学費値上げ反対運動による教育の荒廃、教職員の精神的肉体的過重負担を除去するためにも急務と思われるからである。

⑶ 記念事業に関する個々の「候補」の中でとくに検討を要すると思われるのは、総合医科学研究所ならびに付属病院の設置および付属高等学校の設置である。前者については発案の経緯が唐突、かつ不明瞭であり、全学的な願望のあらわれとはいいがたい。また内容的にみても、それが大学の経営をさらに困難にさせ、現在の研究教育条件をさらに圧迫するのではないかという危惧の念を起こさせるし、逆にもし採算がとれるというのであれば、そのようなものが早稲田大学にふさわしい社会的使命に適合するかどうか疑問である。また付属高等学校の設置についても、それが真に「本学の伝統と特色を生かす」ことになるかどうか、大学教育の改善にいかなるかかわりをもつか、学院・早実・早高を含む付属・系属高校からの受け入れ率はどの程度のものであるべきかなど、かなり長期にわたって検討すべき基本的な問題点が含まれている。安易に結論を急ぐことのないよう要望するものである。

⑷ 最後に指摘しておきたいのは、今次の記念事業策定のための手続である。まず計画委員会が評議員会の諮問機関であることは認めるとしても、実質的策定者たる総長が諮問に対し答申すべき機関の長であるのは適当でない。総長の交替を機会にこの点は正すべきである。次に学内教職員の意見の汲み上げは、制度的には行われていることになっているが、その制度が実質的に機能しているかについては疑問がある。百周年記念事業は、全学的な了解のもとに情熱をもって実施されねばならないが、そのためには事業計画策定のための手続を形式実質両面において正すことが必要であると思われる。

昭和五三年九月二六日

 結局、事業計画委員会は昭和五十四年七月十六日、小委員会の報告を受け、基本的な記念事業の大綱を決定した。これは先の中間報告を具体化したものとなっており、⑵新キャンパスと新学部の設置の中に、人間科学系の学部と体育・スポーツ科学系の学部に加えて、この計画策定当初から猛烈な反対のあった総合医科学研究センターが再度浮上している。

 付属高校については、設置するか否かも含めて、別に高等学校設置検討委員会が発足し(昭和五十四年三月)、本庄校地に付属高等学校設置を決定したが、法学部教員会としては、これまでの経験から法学部教育の今後のあり方との関連でさまざまな疑念ないし危惧の念を払拭することができなかったのである。

十九 法学部・大学院法学研究科授業科目および担当者一覧

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 最後に、創立百周年にあたる昭和五十七(一九八二)年度の法学部、大学院法学研究科の授業科目と担当者の一覧表を掲げておきたい。

第二十九表 法学部学科担任者一覧(昭和五十七年度)

基礎科目(必修)

一般教育科目

外国語科目

専門教育科目(無選択必修科目)

第三十表 大学院法学研究科研究指導および授業科目(昭和五十七年度)

民事法学専攻

前期課程研究指導および授業科目(講義・演習の欄の数字はそれぞれ単位を示す)

後期課程研究指導

公法学専攻

前期課程研究指導および授業科目

後期課程研究指導

基礎法学専攻

前期課程研究指導および授業科目

第一節については、東京帝国大学編『東京帝国大学五十年史』、大久保利謙『日本の大学』、利谷信義『日本資本主義と法学エリート――明治期の法学教育と官僚養成――』(『思想』四九三、四九六)、麻生誠『大学と人材養成――近代化にはたす役割』、天野郁夫『旧制専門学校――近代化への役割を見直す――』、を参照した。

後記

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 法学部百年史を編集するため「法学部百年史編集委員会」(以下、「委員会」と略称)が法学部内に新設されると決定し、その委員として、浦田賢治、大畑篤四郎、佐藤篤士、杉山晴康、中村吉三郎、畑穣、浜田泰三の諸教授および小口彦太助教授が、法学部教員会において選出されたのが昭和四十九年四月である。「委員会」は委員長として杉山教授、幹事として小口助教授を選び、当面の課題としては、法学部百年史についての資料の収集を専らとすることとした。そして、この資料の収集は、その基本的なものについては昭和五十三年度頃まで行われている。資料収集については、「大学史編集所」で保存してある資料などを、法学部百年史の観点から整理したものが大部分で、その一部であるカリキュラム表などについては、既に「早稲田法学」第五二巻第一・二号〔昭和五十二年〕以降「早稲田大学法学部百年史資料」として逐次同誌に登載し現在にまで至っている。

 早稲田大学創立百年を数年後にひかえ「委員会」の活動は、それまでの資料収集より百年史の執筆の段階に進むべきであるとの認識の下に「委員会」の強化・再編成が図られた。昭和五十三年四月の法学部教員会においてこの提案が可決され、前「委員会」の諸委員に岩田洵、岡田幸一、町田徳之助の諸教授が加わり新「委員会」がつくられ、委員長としては杉山教授、幹事として佐藤(篤)教授が選任された。

 新「委員会」は同年六月の会議において、法学部史の一応の時代区分の目安、更にそれぞれの時代区分における執筆準備担当者を以下の如く決めた。

⑴明治十五年から昭和二十四年、杉山、畑、中村(吉)の諸委員

⑵昭和二十四年から昭和三十六・七年、大畑、岡田、中村(吉)の諸委員

⑶昭和三六・七年から昭和四十一年、岩田、畑、町田の諸委員

⑷昭和四十一年以降、小口、佐藤(篤)、杉山、浜田の諸委員

 更に同年十一月の委員会において種々検討の上、右の執筆準備担当者のうち主たる執筆者として、⑴については杉山委員、以下⑵中村(吉)委員、⑶畑委員、⑷佐藤(篤)委員が選ばれるに至った。

 かくて、昭和五十四年九月頃には、それぞれの執筆者によって「第一次稿」が成り、その「第一次稿」について昭和五十五年四月頃まで各分担期の委員による検討、更に全委員による検討が重ねて行われ、昭和五十五年六月には一応の成稿を得るに至った。

 この法学部百年史編集に際し、御意見をお寄せ下さった諸氏、また当方の質問に対し親切に御教示下さった先輩・校友の諸氏、更には、種々御尽力下さった諸氏に対し、「委員会」を代表し厚く謝辞を述べる次第である。

早稲田大学法学部百年史編集委員会

委員長 杉山晴康