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第一編 学部(続)

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第七章 社会科学部

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一 社会科学部の胎動

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1 第二学部の廃止と統合問題

 学苑の政・法・文・商・理の各学部にそれぞれ第二学部が併設されたのは、各学部がいわゆる新制大学として新たに発足した昭和二十四年四月のことであった。それまでも学苑に夜間教育の機関はあったが、それらはいずれも専門学校および中等学校程度のもので、大学学部の夜間教育を行うようになったのは、それが初めての試みであった。第二学部の創設は戦後という特殊な社会・経済の諸情勢に応じ、またそれなりの社会の需要に応えるという理由はあった。

 しかし第二学部が発足してから十二年目の昭和三十六年四月には、第二理工学部が学生の募集を停止した。夜間という限られた時間帯の中で、日進月歩する理工学系の教育を行うことは不可能である、というのがその理由であった。因に第二理工学部設置については、同じような理由から、開設前すでに有力な反対意見があった。

 しかしその理由は同一ではないが、当時既に文科系の第二学部においても、その改廃の検討を迫られるような事態が生じつつあった。それは大きく言えば戦後も既に十数年を経過したという、時代の趨勢によるものといえよう。

 いわゆる六〇年安保闘争の中で倒れた岸内閣の後を受け、第一次池田内閣が成立したのは昭和三十五年七月であったが、同内閣はいち早く高度成長、所得倍増という新政策を掲げ、逐次その具体化を進めた。翌三十六年八月には、経団連および日経連は共同して政府・国会に対し、産学協同と大学理工系学生の増員の繰上げ実施を要望している。その年のスキー客が百万人を突破し、それは前々年度の二倍に当ると新聞が報じたのもこの頃である。

 国民の生活水準は着実に上昇し、また高度成長政策に応ずる、優れた大学卒業者の大量供給が要望されていたのである。昭和三十六年という時点で、第二理工学部が学生の募集を停止し、その分だけ第一理工学部の募集定員を増加したのは、このような時代の趨勢と無縁ではなかった。

 文科系第二学部においても、志願者は累年減少し、入学者もその大部分は昼間学部への転部を目的としており、勤労学徒に勉学の門戸を開くという、第二学部設立の当初の目的は有名無実化しつつあった。因に第二学部在学者で昼間職業を持つ本当の意味での勤労学徒は、平均して二〇パーセント前後であったという。

 そのためか学生の質の低下が憂えられ、またその卒業後の就職状況も、必ずしも第一学部のそれに比して好調とはいえないようになっていた。このような情勢を反映して、第二学部学生の中には、昼間学部への一律編入を要望して学内に集会を開き、各学部当局に交渉するということもあった。

 このような学内外の諸情勢をふまえ、昭和三十六年十二月八日の学部長会において、第二学部検討委員会の設置が要望され、次の十八名が委員に任命された。なお委員長には翌三十七年二月二日の第一回委員会において、常任理事戸川行男が選任された。

第二学部検討委員会委員

本部 大浜信泉 戸川行男 村并資長

政 吉村正 平田冨太郎 酒枝義旗

法 斎藤金作 一又正雄 外岡茂十郎

文 岩崎務 樫山欽四郎 佐藤輝夫

教 斎藤一寛

商 中島正信 北村正次 末高信

理 難波正人 鶴田明

 右の委員会は昭和三十七年二月二日に第一回委員会を開き、次いで四月二十五日、五月九日、五月十九日、六月一日、六月二十三日と、合計六回の会合をもち、七月六日に委員長戸川行男の名で、総長大浜信泉に答申が提出された。

 この答申はかなり長文のものであるが、激変する当時の社会情勢に、学苑がいかに対処しようとしたかという一種の苦悩とも言うべきものを示しているし、また後に新設される社会科学部の構想がほぼ固りつつある点、および夜間学部というものが宿命的に背負わねばならぬ諸点を指摘するなど、貴重な資料と思われるので、煩をいとわず全文を掲載することにする。

昭和三十七年七月六日

第二学部検討委員会

委員長 戸川行男

早稲田大学

総長大浜信泉殿

第二学部検討委員会答申

第二学部に関する基本的諸問題を検討して今後の方針を決定するため、昭和三十六年十二月八日の学部長会の要望にもとづいて設置された当委員会は、十八名の委員をもつて組織され、昭和三十七年二月二日第一回委員会において委員長に戸川行男を選び、審議の結果、結論に達しましたので、経過報告を添えて玆に答申いたします。

一、委員会の経過

当委員会は本年二月二日第一回会合を開き、委員長を選出した後は自由討議の形で意見の交換を行つた。

第二回会合は四月二十五日に開催、総長から「検討を要する問題点」が提示され、併せて、第一学部学生数に関する学園と慶応義塾大学との比較資料が提出された。討議は右問題点をめぐつて行われたが夜間学部に関する一般的な意見や要望が多く述べられた。

第三回会合は五月九日に開かれ、総長から提示された更に細部に亘る問題点を検討した結果、現行の第二学部に代るべき夜間の学部としては、学生数一千二百名程度が必要であり、政経・法・文・商の四系統の学科をもつて組織されることがよいであろうとの見通しがえられた。

第四回の会合は五月十九日に開かれ、夜間の新設学部と関連した問題として昼間の新設学部の問題がとりあげられ、他大学に設置されている学部・学科名の一覧表が参考資料として提出された。委員会はこれの検討を進めたが、前回の夜間新設学部問題について財政面からのもつと詳細な資料が必要であるとの意見、また、この問題に関する各学部の態度を確かめる必要があるとの意見が出され、この二点を次回までの懸案とした。

第五回会合は六月一日に開かれ、先ず、夜間新設学部に予想される授業時間数、所要教員数、および所要経費についての資料が提出され、次いで各学部の意向が報告された。

第六回会合は六月二十三日に開かれたが、前回までの委員会における討議の進展によつて当委員会答申の要点をまとめることができると考えられたので、委員長のもとでこのまとめを行い、これを「答申の要点」として委員会に提出し、検討を行つた。その結果、訂正および補足すべき諸点が指摘された後に、答申内容を決定するに到つた。

二、検討された問題点

一、本委員会の検討は四月二十五日の委員会に総長から提示された四つの「問題点」について行われた。すなわち

 ㈠学生の素質の向上をはかり卒業生の就職を有利にし、延いて大学の評価を高める観点からいえば、現行の第二学部は廃止することが望ましい。

 ㈡ところで第二学部には、十分にその存在理由があるので、それに代るべきものを考えた上でなければ、第二学部を全廃することも適当でない。

 ㈢大学の財政的基礎を維持するために、全体として現在程度の学生数を確保することが絶対に必要である。

 ㈣入学志願者の激増の情勢に鑑み、できるだけ多くの学生に学習の機会を与える趣旨から既存の学部とは別系統の学部の新設を考慮することが望ましい。

二、右の対策としては、

 ㈠夜間に一つの綜合学部を設置する案

 ㈡昼夜開講の単一学部案

の二つが考えられたが、その後の委員会では主として夜間綜合学部案の可否、可能性についての検討が行われた。

三、夜間綜合学部については、更に、次の諸点が問題点として検討された。

 ㈠学部の名称

 ㈡学生定員

 ㈢設置すべき学科、学士号の種別

 ㈣教授会の組織

 ㈤専任教員数とその給与問題

 ㈥授業の開始、終了時間の問題

 ㈦財政的自給自足の可能性

 ㈧教育内容に関する問題

四、昼間新設学部については、設置の必要性、新設学部の性格、内容等が検討の問題点としてあげられ、文理学部、国際学部、社会学部、産業学部等の構想が提出された。

三、夜間綜合学部への要望

各系統の学科を綜合した一学部を夜間に新設する案に対して、趣旨としては賛成であるとの意見が多数述べられたが、同時に、新設学部の在り方について、次ぎの如き要望が出されている。すなわち

 ㈠新しい夜間学部は、学生をして夜の学部に魅力を感じさせうるようなものでなけれぱならない。

 ㈡入学試験の方法についても既往にとらわれない工夫がなされる必要がある。

 ㈢授業時間は午後六時から午後十時半ないし午後十一時までとしてよい。

 ㈣俸給については夜間講義の負担を考慮し、専任者の講義に非常勤給を支給することが望ましい。

 ㈤夜間学部専任の教員数を増しこれを主とする必要がある。

 ㈥理工系を除き各系統の学科を併置しなければならない。

 ㈦夏季学期の必要性は、新しい制度が実施された場合、再検討を必要とする。

 ㈧新学部の教授会は、学科別教授会と連合教授会との二つにする必要がある。

四、夜間綜合学部案に対する批判

この案は第一学部拡大、第二学部縮少の方針を基礎としているので、夜間学部の規模は今後の昼間学部の規模から考えられねばならない。この点については、現行の一系統一千五百名を、昼二千二百名、夜三百名とする方針が出されているので、夜間綜合学部に予定される学生数は各学年一千二百名と考えられる。

そこで夜間綜合学部に対する批判も、先ず、

 ㈠第一学部を一千二百名に拡大することは現在の教員数、教室数からして近い将来に可能であるか。

 ㈡予想されている規模の夜間学部は財政的に自給自足の線を確保しうるか。

の二点を中心としてなされている。

すなわち、

 ㈠第一学部の拡大は、これを一千二百名とした場合、教員数からしても教室数からみても、少なくも三十八年は全く不可能であることが政経学部の第二学部に関する委員会によつて指摘されている。

 ㈡夜間綜合学部における文学科は現在の第二文学部の如く十五専修から成るものではなく、もつと簡素化されたものが予想されているのであるが、この簡素化には相当異論もあり、且つ長い準備期間が必要であるとの意見が文学部教授会から出されている。

 ㈢もし昼一千二百名の予定が完全に実現されず文学科の簡素化が十分に行われないとすると、新設の夜間学部は大学の経理を圧迫することとなり、これが学生数の増加要求となる悪循環も予想されないでない。

教務部から委員会に提出された資料によれば昼各系統一千二百名、夜一千二百名の計画は財政的に可能といわねばならないが、これには文学科の簡素化、等の前提があり、これが実現されないとすると新夜間学部は一千二百名の線を守ることができなくなろう。この結果は夜縮少の基本方針を無意味にする惧れがある。

更に基本的な批判としては

 ㈠第二学部廃止、夜間綜合学部設置という案には、多くのプラス面も考えられる。すなわち、夜㈠の学部に特色をもたせることも、これが一本になつていた方が便利であり、各㈡第二学部を綜合することで人件費の節約や事務費の軽減も十分に予想されようし、第㈢二学部を大幅に縮少した場合にこれを学部として存続させてゆく不経済や不合理も救われうる。しかしながら教育面からすれば、夜を一つにまとめて一学部とすることが、夜の教育に特色をもたせるためとはいいながら却つて夜間部軽視の印象、差別待遇の印象を強めることになり、いわゆる夜間学生の劣等感を強化する結果となりはしないか。

 ㈡夜間の新設学部に対しては前記の如き要望が提出されているが、これら要望が実現されうる確実な見通しなく唯だ機械的に四つの第二学部を縮小、綜合して一学部とすることに果して教育上の意味があるのかどうか。

等の意見がこれである。

五、昭和三十八年度実施について

以上の諸意見を綜合してみると、夜間綜合学部案は、人的物的諸条件あるいは学部の特殊事情からみて、現在はまだ実施の段階に到つていないと考えられる。これの実施を阻んでいる諸条件が緩和されうる時期に再度これを検討する必要は十分に考えられるが、現在この案の実施を急いで、たとえば昭和三十八年度から各第二学部が同時に学生募集を停止することには、多大の無理がある。

六、昼夜間新設学部について

既存の学部と別系統の昼間学部を新設する必要は十分に認められる。しかしこの新設学部問題と第二学部廃止、夜間綜合学部設置の問題とは、寧ろ別々に考えられた方がよい。新設学部問題はそれはそれとして切りはなして考えられるべきであろう。

七、第二学部改善案

当委員会で発言された、新設夜間学部に関する要望意見には、そのまゝ現行の第二学部改善案として採用しうるものが多い。すなわち、入試についての工夫も、学科目編成上の工夫も、照明その他施設面での改善も、また給与面での考慮も、いずれも綜合学部の実現をまつことなく実施しうるものと考えられる。従つて本委員会としては、これら改善の方策を各学部ごとに検討することを要望すると共に、然るべき時期に改めてこの目的のための委員会設置を要望したい。

八、単一学部制について

昼夜開講の単一学部制については本委員会で十分の検討がなされていない。従つてこれについては法規問題、技術的問題の両面にわたつて徹底した研究を行うことが必要であると考える。

 先に新情勢に対処すべき学苑の苦悩といったが、それはまず学生定員確保の問題であった。すなわち諸般の事情から第二学部を廃止もしくは統合した場合、その欠員をいかに補うかで、それには昼間学部学生の増員もしくは昼間学部の新設しかない。しかしそのいずれも相当な準備期間を要する。第二学部の廃止も、少数とはいえ勤労学徒の存在を考慮すれば一挙には踏み切れない。またその縮小統合には学科編成上相当の準備期間を必要とする。特に専攻科目の多い第二文学部を統合する場合にはなおさらである。同委員会が第一学部拡大、第二学部縮小という基本方針に賛意を表し、第二学部の縮小には第二各学部の統合案に傾きながら、最終的にはその実施を昭和三十八年度以降に見送らざるを得なかったのはそのためである。

 因に同委員会を通じて反映された、第二学部の廃止に対する各学部の意向は、商学部が最も積極的で、法学部が比較的柔軟であったのに対し、政経学部は二、三長老教授の意見を取り入れて反対の意向が強かったという。なお多数の専攻科目、従って多数の教員を擁する文学部は第二文学部存続の意向が強かったという(古川晴風氏談)。

 右の答申を受けた学苑当局は、それから五ヵ月後の十二月五日、新たに第二次とも言うべき第二学部検討委員会を発足させた。委員長には新たに常任理事となった時子山常三郎が就任し、委員には第一、第二各学部長と大学院各研究科委員長とが当てられた。学苑当局としては前記の答申が第一・第二学部の統合や夜間学部の新設の必要性を認めながらも、その実施を三十八年度以降としたのに対し、三十八年度以降の具体案を検討するため、新たな委員会の設置が急がれたのであろう。

 しかし第一次の検討委員会が指摘した人的物的な諸条件は依然として変化がないのであるから、十二月五日の第一回委員会も何ら具体的討議に入ることはできなかった。同委員会が再開され、第二回の会合を持ったのは実に一年半後の昭和三十九年四月十日のことであった。

 この頃になると施設面での事態は著しく好転しつつあった。すなわち大久保の理工学部新校舎の第一期工事が完了して理工学部の移転が日程に上り、また水稲荷や宝泉寺の移転によって、その跡地に法・商両学部の研究室を新設するなどのことが可能となり、本部キャンパス内で校舎や教室に余裕が生じる見通しがついたからである。

 従って同委員会はその後、「第⑴一・第二学部を一本化して授業を夜間に及ぶことを妨げない単一の学部とした場合、学生数、授業方法をどうするか。夜⑵間勤務のいわゆる勤労学徒をして修業時限内に如何にして所要単位を取得するように出来るかの二点」に問題を絞って検討することとなった。

 三十九年度の昼間各学部の新入学生の数がいずれも一千名を越えたことも、事態を好転させた原因の一つであった。

 このような委員会の動きとは別に、昭和三十九年一月の理事会は、可能な学部においては四十年度から第二学部の学生募集を停止してもよい、という方針を打ち出した。これを受けて法学部の第一・第二合同教授会は六月十七日、四十年度からの第二学部の学生募集の停止を決定した。

 同年七月六日、第二次第二学部検討委員会は第四回の会合を持ち、その時の結論をもって委員会の答申とし、総長に提出した。

 その基本的部分には

各学部を通じて両学部の一本化の方針が認められたが、学部によって条件が異なっていた。政経学部は、一本化の具体的措置として第二学部の学生募集については、勤労学徒に修学の機会を与えるための綜合学部(政経、法、商、文などの諸学科を含む)を設置することが必須条件であるとし、法学部は一本化の具体的措置として、四十年度より、第一・第二学部を廃止して、新学部を発足させることとし、夜間綜合学部を設置すべきか否かについては他学部との関係があるので、白紙でのぞむとし、商学部は昭和三十六年一二月八日の学部長会に提出した案をそのままで、来年度から第二商学部の学生募集停止を強く要望し、代わるべき新設校を必要としないとし、文学部は、第二学部の廃止については、それに代る新設校(必ずしも学部でなくてもよい)が具体化されることを必須条件とし、教育学部は、法・商に近い案がよいとし、理工学部からは、現在通りの方針で進みたい旨発言があった。

以上については討議の結果、当委員会としては、系統学部一本化の方針で第二学部を廃止するが、学⑴部廃止の時期および形式についてはさらに検討すること、廃⑵止に代わる新設学部ないし新設校の内容についてはあらためて検討委員会を設けて審議することの条件づき答申を行うこととなつた (『教務部保管文書』)

とある。

 この答申に基づいて更に具体的検討を加えた結果が、同年九月十五日の定時評議員会に「学部統合に関する件」として上程され、次のように正式決定をみた。

第二学部の廃止に関する件

現行の第二法学部および第二商学部はこれを廃止する方針の下に、左記の措置を講ずる。

一、第二法学部および第二商学部につき、昭和四十年度から第一学年度の学生募集を停止すること。

二、前記両学部は、すでに入学を許可した学生が全部卒業したときに、廃止の手続をすること。

三、第一法学部および第一商学部の入学定員は、左記の通り改め、改訂定員は昭和四十年からこれを実施すること。(括弧内は現行定員)

第一法学部 八百五十名(六百名)

第一商学部 千名(六百名)

四、第一法学部および第一商学部の呼称は、第二法学部および第二商学部廃止の時に、第一の二字を削除して、それぞれ法学部または商学部に改めること。

附帯事項

一、政治経済学部および文学部についても同様の方針をもつて進むこととし、第二学部の学生募集の停止は、昭和四十一年度から実施する予定である。

二、勤労学徒を対象として夜間において授業を行なう機構については、現行の第二学部とは別途に考慮することとし、昭和四十一年度から発足することを目標として、早急に特別の委員会を設けてその具体案を検討すること。

 昭和三十七年七月の第二学部検討委員会の答申以後、第二学部の廃止が正式決定をみるまで二年余の年月を経ているが、その間、理工学部および文学部の新校舎が完成した外、大教室などの各種施設が整備され、昼間における学生定員の増加を可能にしたことがこの機運を早めたといえよう。

 さて評議員会において決定をみた、「第二学部の廃止に関する件」の附帯事項に盛られた「勤労学徒を対象として夜間において授業を行う機構」を検討するものとして、夜間新教育機構検討委員会が同月中に発足し、昭和三十九年九月二十九日にはその第一回委員会を開催している。

 その委員は総長と三常任理事に全学部長および各学部選出の一教員とから成り、その氏名は次の通りである。

大浜総長 戸川行男 時子山常三郎 村井資長 小松芳喬 佐藤立夫 兼近輝雄

大野実雄 有倉遼吉 佐藤昭夫 樫山欽四郎 新庄嘉章 山路平四郎 葛城照三

芳野武雄 鳥羽欽一郎 大滝武 難波正人 鶴田明

 なお教務部長古川晴風が職務上これに加わり、委員長には時子山理事が就任した。

 同委員会は翌四十年二月まで、七回の全体会議と三回の小委員会を重ね、二月二十四日付で大浜総長に対し「新設夜間学部設置要綱」という報告書を提出している。

 右の「設置要綱」は「一、学部の設置」「二、学部の性格、名称、学士号」および「三、学科目の編成」の三部から成り、一においては新設機構は勤労学徒を対象とする単一学部とし(短期大学もしくは各種学校ではなく、しかも複数学部としない)、二においてはその名称を社会科学部、学士号を社会科学士とし、その内容を経済、商学の両分野に重点を置くこと、三において外国語は一カ国語を必修とし、第二外国語を随意科目とするとし、別に「新設学部学科目等編成表」を添付している。なお学部名としては経営学部、法経学部、産業社会学部、社会学部、応用経済学部等の諸案があったが、社会科学部に決定した経緯を記し、また一外国語の必修制に有力な反対意見のあったことを附記している。

 この委員会報告書は同年三月十三日の学部長会の議に附されたが、前記一の「学部の設置」の最後に「現行の第二文学部を廃止した後、文学部系統の夜間教育機構を別箇に設置するかどうかはあらためて審議する」の一項が加えられ、二の「学部の性格」については経済・商学の二分野に法学が加えられ、三の外国語問題については外国語十二単位を第一外国語八単位、第二外国語四単位とし、第二外国語の履修は学生の選択に委ねることに改められた。

 なお右の学部長会には「新設夜間学部設置要綱追加」が提案され承認されている。その追加の要旨は学生の入学定員を五百名とし、この学生定員に対する教員は大学設置基準によれば、一般教育科目と専門教育科目とにそれぞれ二十一名と二十三名の専任教員を必要とするが、実際には専任教員を二十名前後に留めること、修業年限を四ヵ年、学費は昼間学部より低額にすべきことなどがもられている。

2 社会科学部設置委員の発足

 学部長会の承認を得た前記「新設夜間学部設置要綱」ならびに「同追加」を承けて、これを実施すべき具体案を作製するための社会科学部設置委員会を新たに設けることも承認され、「社会科学部設置委員会要綱」が作製された。それによると同委員会は「教務担当の常任理事および教務部長を含む七名程度」の委員で構成し、「学科目の年次配列、授業時間数、単位計算、履修方法等に関する案を作製する」ことをその任務とした。また各科目の担任者についても「委員会自体または所属学部長との個別的協議による推薦により候補者を選考して案を作製する」ことも併せてその任務とされた。

 そうしてそれら諸案は「六月二十日頃までに作製の上理事会に報告し、理事会はこれを検討の上、七月上旬の学部長会の承認を経て、七月の定時評議員会に付議する」ことも定められていた。

 なおこの新設学部の事務機構として、教務部内に「社会科学部設置事務局」を置き、事務主任以下若干の職員を配置することも同時に学部長会の承認を得た。

 そして設置委員には左記の八名が任命された。

時子山常三郎(理事) 古川晴風(教務部長) 佐藤立夫(二政学部長) 有倉遼吉(二法学部長) 芳野武雄(二商学部長) 清原健司(一文教務主任) 大杉徴(教育学部教務主任) 田中正男(理工学部教務主任)

 なお設置事務局は事務主任に曾我正一、職員として新沼五郎、河合清一、柵橋達男(兼務)が配属された。

 そして第一回社会科学部設置委員会は昭和四十年四月二十八日に開催され、当日は大浜総長も出席し、前記「設置委員会要綱」などの説明に当っているが、同時に委員長として芳野武雄を指名し、全委員がこれを了承した。

 同委員会はそれ以後、同年十一月九日まで計十二回の審議を重ねている。そして学科目の編成原案を作製したばかりでなく、しばしば重要な決定を行っている。例えば授業時限については

第一時限 五・四五―七・一五

第二時限 七・二〇―八・五〇

第三時限 八・五五―一〇・二五

 つまり、一日三時限、一時限を九十分、休憩時間五分間の原案を作っているが、(第二回)これは終了時間が遅きにすぎることを考慮して後に

第一時限 五・二五―六・五五

第二時限 七・〇〇―八・三〇

第三時限 八・三五―一〇・〇五

と修正決定された(第八回)。

 また科目担当者の決定については

 ⑴科目別に系統学部で人選を行なう。

 ⑵必要な専任教員の配分は次の通りとする。但し、学部三役は別扱いとする。

専門教育科目 二十名(政経九名、法五名、商六名)

一般教育科目 五名(内二名は文で人選)

外国語 七名(文、教で人選) 〔下略〕

等の申合せを行い、事実この線に沿って人選が進められた。

 新学部創設の始めにおいては止むを得ぬ措置であったかもしれないが、この系統学部別人選は社会科学部発足後も暫くは尾を引き、学部独自の教員の嘱任ならびに補充を困難ならしむることがしばしばであった。

 教員人事が進捗するにつれ、学部長予定者を決定しておく必要があるという意見が委員会の大勢を占め、六月二十九日の第六回委員会において、理事会が学部長予定者として芳野武雄委員長を決定した旨の報告が行われた。なお同じ頃、設立事務所を当分の間第二商学部事務所内に設置することも決定をみた。

 第六回委員会においては、次のような「社会科学部設置目的」が承認されているが、これは文部省に提出する新学部設立のため申請書に必要な書類の一部であった。

社会科学部は、早稲田大学設置の趣旨に従い、特に勤労学徒を対象とし、社会科学系専門分野に関する綜合的知識能力を修得させ、もって社会各界に貢献しうる有能な人材を育成することを目的とする。

 十月十二日の第十回委員会においては、委員長から既に前月の九月二十九日に社会科学部設置認可申請が文部省に提出されたことが報告された。

 なお設置の認可を見越し、教授会に代って入試業務等を処理すべき「社会科学部開設委員会」を設置すべきことが審議され、これは後に学部長会の承認(四〇・一一・二六)を得て次のように決定された。

開設委員会の構成

社会科学部設置委員会委員八名のほかに、配置転換により社会科学部専任の教授、助教授に予定されている教員を加えて、社会科学部開設委員会を構成する。

但し、特例として法学部関係委員に第二法学部教務副主任を加える。

 社会科学部設置委員会はいわば新たに開設委員会を設置することによって発展的解消をとげ、十一月九日の第十二回委員会をもってその幕を閉じた。

 文部省による実地審査が行われたのはその三日前の十一月六日であった。

3 設立認可の申請および認可

 設置委員会における審議事項を中心に叙述してきたので、時間的には前後するが、昭和四十年七月十五日の定時評議員会に「社会科学部設置ならびにこれに伴う校規改正の件」が上程されて承認された。これは右の設置委員会においてほぼ大綱の成案が得られたので、正式な認可申請に備えて採られた措置であろう。同日印刷交付された「社会科学部設置要綱」を掲載しておく。

社会科学部設置要綱

一、社会科学部設置の経緯および目的

社会科学部は、第二政治経済学部、第二法学部および第二商学部に代わるべき単一の学部として構想され、したがつて社会科学を専門分野とする大枠が決められた。しかし社会科学を専門分野とするとしても、既存の特定の専門分野に偏することは、三学部廃止の方針に合わない。就中、新しい学部の性格に、勤労学徒の要望ないしは社会的需要の度合、あるいは卒業生の進路等を斟酌して決定するを要する。ところで従来の実績から見ると、政・法・商学部卒業生の就職先は、ひろく社会各界に亘つていて、卒業学部の如何に拘わらない。したがつて何れの方面に向うにも社会科学に関する基礎知識を修得させることが必要となつているばかりでなく特に夜間学部の卒業生にとつては、多く大企業よりも中小企業に迎えられていて、とりわけ、経済成長と社会開発につれて、細分化された専門的知識よりも、広く社会科学に関する基礎的な知識能力を望まれる傾向にある。このような観点から新しい学部には政・経・法・商等の何れかの分野に限るより、社会科学に関する基礎科目を配当し、学生をしてこれらに関する知識を綜合的に修得させることが必要である。

以上の事情と趣旨に照らし、特に勤労学徒を対象とする社会科学部は、社会科学系専門分野に関する綜合的知識を修得させるとともに、これらに関する能力を啓発し、もつて社会各界に貢献し得る有能な人材を育成することを目的としてこれを設定する。

二、入学定員および学士号

学生の入学定員は五百名とし、その卒業生に対しては社会科学士の称号を授与する。

三、教員組織

大学設置基準によれば、学生の入学定員を五百名とした場合には一般教育科目については二十一名(うち教授十一名)、専門教育科目については二十三名(うち教授十二名)の専任教員を必要とするが、実質的には専任教員を三十名程度にとどめ、他は既存学部、附属学校あるいは研究所等からの配置転換によるほか必要に応じて学内専属の教員を社会科学部の専任教員として届出て、認可申請に必要な教員数の充足を図ることとする。なお出来るだけ学内からの兼担教員の協力を求めることによつて教員陣容を整え、学外からの非常勤講師を少くする方針である。

四、学科配当および履修単位

学科配当は設置の趣旨および目的に従つて、別紙の通り編成し、それぞれ所定の年度別に配当する。但し三年ないし四年後に経験に照らし年度別配当を変改することがある。

五、修業年限および授業時間

四年制を採り三時限授業とする。午後五時二十五分に始まり、一時限九十分、休憩時間五分、一日三時限とし、午後十時五分に終了する。時間割編成面に可能な限り第三時限授業を少くするよう調整し、なお、必要によつては夏期授業で補なう。

六、学費

学費は勤労学徒を対象としていることと、社会一般の例とを参照して、昼間学部より低額とする方針であるが、しかし、現行額以下にすることは昼間学部との均衡上問題があるので、大体現行額通りとし、事情によつて分納制を採用する。

七、実施の時期

昭和四十年度から第二法学部、第二商学部の学生募集が停止されているが、昭和四十一年度から第二政経学部の学生募集を停止し、それと見合つて新学部を同年度より発足させるものとする。

 この定時評議員会に提出された設置要綱を見ると「新しい学部には政・経・法・商等の何れかの分野に限るより、社会科学に関する基礎科目を配当し、学生をしてこれらに関する知識を綜合的に修得させることが必要である」というような、それまでの設置要綱とは異る表現があるが、委員会での討議の結果を反映しているのであろう。また最小限必要とする専任教員数を従来の二十名程度から三十名程度としているのも同様の経過からであろう。設置目的における「早稲田大学設置の趣旨に従い」も「早稲田大学建学の精神および新制大学設置の趣旨に則り」に置き替え、多少の表現を改めているところがある。

 それはともかく評議員会の正式決定を経て、九月二十九日に設置認可申請書が文部省に提出されたことは前述の通りである。

認可申請書はその冒頭に

早稲田大学社会科学部設置認可申請書

このたび早稲田大学社会科学部を設置したいので、学校教育法第四条の規定により認可下さるよう別紙書類を添えて申請します。

昭和四十年九月二十九日

学校法人 早稲田大学

理事長 大浜信泉

文部大臣十村梅吉殿

という文書に始まる膨大な量の書類で、その原稿も大型ファイルに(その一)(その二)として保存されている。

 その内容は「l、設置要項」「二、学則」「三、学部及び学科別学科目又は講座に関する書類」「四、教員個人調書」「五、保健体育科目担当教員個人調書」「六、校地等に関する書類」「七、校地等建物面積表」「八、設備概要に関する書類」「九、設置者に関する書類」「十、経費及び維持方法を記載した書類」「十一、現に設置している学校の現況」「十二、将来の計画」を記載した書類等から成っている。

 なお同申請書には担当専任教授として小山甫文(倫理学)、岩瀬孝(文学)、西村朝日太郎(文化人類学)、宮田斉(英語)、中谷博(独語)、酒枝義旗(社会科学方法論)、青木茂男(会計学)、時子山常三郎(財政学)等、他学部の教授二十余名が列挙してあるが、申請上、設置基準を満すための措置であったことは言うまでもない。

 同申請書は十月十四日に書類審査、また前述したように十一月六日に実地審査を受け、十二月十七日の大学設置審議会の総会にかけられた。

 この間、理事の時子山は自らが設置審議会に籍を置いていたので、各委員に個人的に説明あるいは説得するなど、その努力と苦心には並々ならぬものがあったときく。例えば一日三時限の授業をもってしては、修業時限を五年間とすべきである、という審議会の大勢を、原案通りに決定をみたのは主としてその努力によるものであったという。

 しかし十七日の総会では種々な修正意見が出て正式認可には至らなかった。修正意見とは次のようなものであった。

経済学専門委員会意見

 ⒈社会科学科一学科を設けるものとす。

 ⒉経済関係の科目に重点をおくべきではないか。商学関係が強すぎる。

法学専門委員会、経済学専門委員会意見

申請によれば専任教授十二人(このほか保留三人)専任助教授二人、専任講師三人である。学生定員五百人ならば専任教員数二十三人以上必要であって、このままでは成立しない。経済学部として考えるならば財政学の専任教員一人を追加することで足りるが、法学、政治学の教員を加えた社会科学部としては、少なくとも法、政関係の教授六人、助数授(講師を含む)五人とすることが必要と考える。

社会学専門委員会意見

社会科学系専門分野の綜合的知識を修得させるため、下記の科目を設置すること。

 ⒈社会学

 ⒉社会調査

 ⒊法社会学、産業社会学等

尚その担当者は兼担又は兼任でも差支えない。(「申請関係書類綴」)

 なお右の修正意見とは別に採用予定教員に対する判定も行われ、研究業績の追加を求めて保留された者、および研究業績と担当科目の不当を指摘され、担当科目を削減された者数名があった。

 なおこの修正意見に沿った修正と教員の人事は十二月二十日から二十八日までのきわめて短期間に行われ、その作業は教員人事を除いて文部省六階第四会議室で行われた。新しい教員人事は発展的解消を遂げた筈の設置委員がこれを行ったようである。

 この文部省の修正意見を容れてのいわば第二次申請がいつ認可されたかは明らかでないが、翌昭和四十一年の一月上旬には、認可の内報が大学当局に対して行われたようで、同年一月十八日付けで、開設委員長芳野武雄は開設委員および教員予定者等に次のような通知を出している。

社会科学部設置認可のお知らせ

標記の件につき、設置認可の内報がありましたのでお知らせいたします。設置認可の申請にあたっては、格別なご協力をいただきまして誠に有難うございました。

いよいよ本年四月より正式に社会科学部として発足いたしますので、なお一層のご協力をお願いいたします。 以上

 同じころ常任理事時子山常三郎は「第二学部(政経、法、商)の廃止と社会科学部の新設」と題する一文を『早稲田学報』十二月号(通巻第七五七号)に載せている。その文章は学苑における講義録による校外生教育や夜間授業の歴史から説き起し、最近における社会の趨勢に応じ、今次の改正を行わねばならなくなった事情を説明するとともに、新学部の特色とそれへの抱負を次のように記している。

近年の傾向からすれば、政経、法、商いずれの学部卒業者も、特定方面の職場に限られることなく、殆んどあらゆる職域に迎えられ、細分化された専門知識よりも、広い視野に立って社会科学に関する基礎的知識を修得、その上でそれぞれの専門を選ぶ必要に迫られているに鑑み、この新学部は社会科学系専門分野に関する綜合的知識を習得させるとともに、自主的研究を促してこれらに関する応用能力を開発し、以て社会各界に貢献しうる有能な人材を育成することを眼目としている。〔中略〕かつて早稲田学園が政治経済学部(学科)を設けたのに倣って他の大学でも同様学部(学科)を設置し出したように、社会科学部についても同様の歴史を開くのではないかとも見られている。この早稲田における新設で社会科学部なるものがわが国制度の上ではじめて認められることとなるので、この新構想による統合学部が諸大学から大きな関心を持たれているのである。〔下略〕

二 社会科学部の発足

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1 社会科学部開設委員会の発足と授業開始

a 開設委員会の活動

 先に記したように、社会科学部教授会が正式成立するまで、それに代って当面の入試等の事務を処理するため、その設置が決定された社会科学部開設委員会の第一回委員会は昭和四十年十一月二十九日に開催された。その委員は次の十八名である。

芳野武雄(二商学部長) 時子山常三郎(理事) 古川晴風(教務部長) 佐藤立夫(二政学部長) 有倉遼吉(二法同上) 清原健司(一文教務) 大杉徴(教育同上) 田中正男(理工同上) 岡村真楯(法同上) 新井清光(商) 鈴木弘(政) 服部弁之助(教) 中内正利(商) 桃并金台(商) 掛下栄一郎(学院) 木村時夫(同上) 原田謙一(語研) 栗山昭一(商)

 新井以下は教員予定者で、役職上の委員は岡村を除いてすべてかつての設置委員であったものである。

 第一回委員会においてはまず委員長として芳野が推薦されて就任し、同委員長から教務主任および同副主任予定者として、新井清光および鈴木弘がそれぞれ指名されて諒承された。

 なおこの委員会においては入学試験科目およびその配点が外国語八〇点、国語六〇点、社会・数学各六〇点が決定された他、既に各学部において廃止されていた面接を行うことも併せ決定された。

 また新設科目の政治機構論、社会学、法社会学、産業社会学の配当年次を三・四年とすることが決まった。

 第二回委員会(十二月十三日開催)において、学部事務所および研究室が八号館二階(現四号館)に設置されることが決まり、三月六日(日)に第一次試験を行うことやその出題委員も決定をみた。

 この委員会はそれ以後昭和四十一年三月十六日まで計七回開催されたが、その間、第三回目(十二月二十一日開催)に山之内光躬(助教授)、井内雄四郎(講師)、本戸啓嗣(同上)、また第四回目(四十一年一月十八日開催)に小林茂(助教授)の新任が承認された。その他最後の二回は入学試験の判定教授会の役割を果したが、それらについては入学試験の項において触れることにする。

b 最初の入学試験と当時の学内情況

 社会科学部第一回の入学試験は昭和四十一年三月六日に行われた。しかしそれは決して平穏な情勢の下で行われたのではない。いや開設委員会そのものが第二回以後、長期化を予想された学内紛争の中で開催されていたのである。この期の紛争については別に詳しく述べられているが、当時既に新たに完成した第二学生会館の管理運営権をめぐって、学生自治会が構成する全学共闘会議と大学本部とが鋭く対立していた。そして満足な回答が得られぬことを不満とした一部学生は、昭和四十年十二月十一日の深夜、本部に突入して、折から会議中の理事以下の教職員を監禁状態に置いた。大学の要請で機動隊が出動し、翌十二日早朝には事態は一応正常化された。しかし、冬休み明けの一月十三日、大学が新年度からの学費の改定を発表したので、紛争は学館問題の上に学費値上げ阻止の闘争を加え、多数の一般学生をも巻き込むこととなった。そして十八日以後は一法、教育、一文、一、商一政、理工と逐次無期限ストに入り、各校舎の入口はバリケードで封鎖され、二月十日以後は本部校舎も封鎖、占拠された。大学は入学試験を正常に行うため、二月二十一日早朝、再び機動隊の出動を要請し、本部をはじめ各校舎の封鎖を解き、占拠学生を退去させ、入試準備の作業に入った。しかし機動隊の撤収と同時に、同日夕刻、再び一部学生は学内に突入し、各校舎を再封鎖した。

 大学は一日おいた二十二日早朝、三度機動隊の出動を要請して封鎖を解除するとともに、機動隊の援護の下に、教職員以外の学内立入りを禁止するロック・アウト体制をとった。

 二十四日の一政を最初とする昭和四十一年度入学試験はこのような情況の下で、このような体制で行われ、以後それが長い慣習となった。しかし入学試験は危惧されたような事態もなく平穏のうちに行われた。

 三月六日の社会科学部の入試は志願者は千九百二十名(受験者実数千八百名)で前日の二文よりも少く、まして前々日までの一万を越えた昼間各学部に比べると、人影まばらな淋しい入試風景であった。

 第六回開設委員会議事録によると、第一次判定は二百点満点で七〇点以上を合格(英語一〇点未満および国語、社会、数学で〇点のある者を除く)とし、千五百七十四名を発表した。

 同月十六日第二次試験として面接を行い、第一次試験で九〇点以上の者を合格とし、千六十三名(内女子三十五名)を発表した。

 第二次試験の面接は、最初のことでもあるので、志願者の実態を把握する意味で行われたのであるが、一人の若い教員が一女子から長々とその身の上話を打ち明けられて困ったという話が、今も語り伝えられている。因に第二次試験は翌年から廃止された。

 なお社会科学部の入学志願者は昭和五十七年度に一万五百六十九名、五十八年度はやや減少して八千六百六十六名であったが、開設当初とは隔世の感がある。

c 最初の教授会と入学式

 四月十四日午後一時から社会科学系大学院(現七号館)会議室で、社会科学部第一回の教授会が行われ、助教授以上二十四名(欠席一名)が参加した。

 席上専任講師福山仙樹の新規嘱任をはじめとする非常勤、兼担等の人事が承認され、併せて学部運営委員、クラス担任制度運営委員、研究雑誌検討委員等各種委員の嘱任が行われた。

 また今年度の入学者が九百四十四名であったことが報告され、今後教授会は毎月第二木曜日に開催されることが決定された。

 なお新規嘱任者が大部分で、顔見知りの者も少なかろうという学部当局者の考慮で、教授会の座席があらかじめプリントされていたので、記念のためにこれを掲示しておこう。

 教授会に引続き午後五時から、上野池の端の東天紅で社会科学部教職員の初めての顔合せとも言うべき懇親会が、大学主催で行われた。当日は外部から教授として就任した植田捷雄、大畑末吉、難波田春夫のような碩学の顔も見えた。総長大浜信泉や常任理事時子山常三郎らも連日の紛争解決のための努力にも拘らず、さして疲れた様子も見せず一場の挨拶をした。

 入学試験は無事に済ましたが、その後も既存学部においては無期限ストが継続し、新学年は迎えたものの、前年度の学年末試験は未済のままで、いつ正常化されるとも予想できぬ状態ではあったが、当日は新学部の発足ということで、会場には華やいだ空気が流れていた。

 なお入学式は五月一日(日)午後二時から記念会堂において、第二回目として教育学部等と同時に行われた。当日、式辞はすでに辞意を表明していた総長大浜に代って常任理事の時子山が述べた。

 式終了後、学部始業式が二二号館三階の大教室で行われた。制服姿の現役らしい学生の姿も見られたが、多くは浪人生活を余儀なくされたらしい学生の姿が多かった。長い紛争の直後で、しかも完全には解決していない段階であったから、創立間もない新学部ということもあってか、付添いの父兄の顔には一抹の不安の色が見られた。

第四図 社会科学系大学院会議室着席表(19号館1階)

d 授業開始と当初の学科配当

 授業開始は五月十二日(木)であった。他学部は依然として無期限ストが続き、それが逐次解除されるのは翌六月の下旬であったから、この年、この時期に授業を行っていたのは新生の社会科学部だけであったということになる。

 当時の授業時間帯は次の通りであった。

第一時限 午後五時二十五分―六時五十五分

第二時限 同七時〇分―八時三十分

第三時限 同八時三十五分―十時五分

 そして火曜と木曜の両日だけ、第三限の授業が行われ、それ以下の日はすべて第二限で授業が終っている。

 一週間の総コマ数は三十七で一年度生だけであったからとはいえ、今日の二百余コマとは比較にならぬものであった。

 学科配当の変遷については別に記さなければならないが、ここでは開設当初の学科配当を掲げておく。第二年度、第三年度の配当科目も掲げられているが、これは学生の履修上の参考として掲げられたまでで、実際には開講されていない。

 またこの他に体育局設置の保健体育(講義・実技)の科目があったことはいうまでもない。

第三十五表 社会科学部学科配当表(昭和四十一年度)

一、一般教育科目

備考 各系列から三科目ずつ合計九科目(三十六単位)を選択履修。

☆印の科目は本年度開講しない。

二、外国語

外国語は第一外国語と第二外国語に分けられ、三年まで十二単位を履修する。

第一外国語……英語、独語、仏語

第二外国語……独語、仏語

ただし、英語以外の外国語を第一外国語に選択した場合は第二外国語の履修を許さない。

三、専門教育科目

専門教育科目は専門選択必修科目および専門選択科目とからなり、八十四単位を履修しなければならない。

(A) 専門必修科目

(イ)

(ロ)

(B) 専門選択科目

e 当初の教職員組織

 次に開設当初これらの学科を担当した社会科学部の専任教員および職員を役職と資格別に列挙しておこう。

学部長 教授 芳野武雄(証券論)

教務主任 教授 新井清光(会計学)

同副主任 助教授 鈴木弘(英語)

教授 植田捷雄(国際関係論)

大畑末吉(独語)

大谷恵教(政治学史)

霜田乾夫(政治学)

時岡弘(憲法)

中内正利(貿易英語)

難波田春夫(社会科学方法論・経済政策)

服部弁之助(政治学原論)

桃井金台(仏語)

助教授 池島宏幸(商法)

大畑弥七(経済学・貿易論)

掛下栄一郎(哲学・倫理学)

木村時夫(歴史学・文明論)

栗山昭一(英語)

小林茂(社会調査)

竹下英男(社会法概論・労働法)

田中由多加(商業経済)

田村貞雄(経済学)

出口保夫(英語)

原田謙謙一(英語)

杉原正(英語)

山之内光躬(財政学)

講師 井内雄四郎(英語)

岡野光雄(刑法)

弘法春見(英語)

佐藤和夫(英語)

佐藤忠夫(物理学)

高瀬礼文(数学)

竹川裕淑(化学)

長谷川洋三(英語)

福山仙樹(法学・法学原論)

本戸啓嗣(英語)

事務主任 曾我正一

主事補 橘川昭夫

新沼五郎

書記 石塚秋広

泉寛

河合清一

後藤泉

臨時 増田徳雄

薄葉良裕

副手 大森国利

白水英成

丸山宏

2 当初の施設と学部内諸制度の整備

a 当初の施設

 発足当初の学部の施設はきわめて粗末なものであった。事務所は前述したように現四号館二階に置かれ、その左にベニヤ板で仕切った学部長室と教務の部屋とがあった。そして事務所の右に研究室があった。研究室といっても、大部屋一室に三十余名の専任教員の机が並べられただけで、向い合った二つの机の中間には、五〇センチほどの高さのカーテンが間仕切りに置かれていた他は、何の調度品もなかった。

 教員用の図書室も学生読書室の備えもなかった。その設置が議題になったのは七月七日の第四回教授会においてで、同じく現四号館の地下に約七十坪、収容人員百名の学生読書室を新設し、その一画に教員図書室を含むというものであった。しかし夏期休暇中に工事を完了し、使用開始は休み明けの九月からであった。

 現一四号館に、事務所その他学部関係諸施設の移転計画が、本部から提示されたのは翌四十二年三月で、それが実現したのは同年九月である。初めて教員室が開室したのは同年十月九日で、一室二人制ではあったが、個室的な研究室が整備されたのもこの頃である。

 『早稲田学報』の同年第十号に次の記事がある。

社会科学部は八号館から十四号館へ移転した。学部長室、教務主任、教務副主任室、教員室、研究室、事務室は二階。教員図書室、学生読書室は三階。

 また週二日、午後十時五分までの時間帯を設置しながら、スクールバスの運行時間は依然として午後九時四十五分までで、火曜・木曜の両日は、最後までの授業を担当した教員およびそれを受講した学生の、高田馬場に至る足の便はなかった。もっとも教員用にはハイヤー二台ほどが予約されていて、高田馬場までは送ってくれた。

 六月十七日の授業中、スクールバスの運行時間延長に関する調査が、学生を対象に行われている。それでも運行時間の延長が実現したのは九月以降であったと記憶する。

b クラス制度

 このような外見的な他にも、学部としては早急に制度化しなければならない問題があった。まずクラス制度をどうするかがそれであった。そのため第一回教授会で嘱任された、クラス担任制度運営委員(大畑(末)・大谷・山之内・小林・大畑(弥)・松原・弘法・佐藤(和))は種々協議した結果、語学クラスを二分割し、ほぼ二十五名を一クラスとして、それぞれ専任教員が担任となることに決定した。そして毎週一回あらかじめ定められた教室において、中・高校のホームルームにも似た会合がもたれることになった。これは既存学部における紛争に鑑みるところがあった苦心の企画であったが、四十一年度だけで解消され、四十二年度からは一年生は語学担任教員が語学クラス毎に担任し、二年生についてはその他の教員が担任となる現行の制度が行われるようになった。

 しかしこの一年間だけで解消したホームルーム制も、決して不毛なものではなかった。それはこの制度によって生れた教員と学生との固い絆が、学生の卒業していった今日も継続されているという例をしばしば聞くからである。

c 社会科学部学会の発足

 なお第一回教授会で嘱任された研究雑誌検討委員(時岡・霜田・栗山・田村・高瀬・井内・本戸・岡野・福山)はその後、社会科学部学会の創設およびその事業について検討するところがあったが、やがて専門科目担当教員のために『早稲田社会科学研究』を、そして語学および一般教育科目担当の教員のために『早稲田人文・自然科学研究』の二学会誌を刊行するなどの、事業内容を含む社会科学部学会会則を起草し、六月十六日には学会の設立準備会が開催され、四月一日に遡って発足することとなった。

 当日決定された会則と役員とは次の通りである。

早稲田大学社会科学部学会会則

第一条(名称及び事務所)

本会は早稲田大学社会科学部学会と称し、事務所を早稲田大学社会科学部内に置く。

第二条(目的)

本会は社会科学及び教養諸学の研究とその発表を目的とする。

第三条(組織)

本会は次の会員をもつて組織する。

一、早稲田大学社会科学部の本属教員たる通常会員

二、早稲田大学社会科学部に在籍する学生たる学生会員

三、本会の会長が評議員会の同意を得て推薦した賛助会員

第四条(会費、入会金その他)

正会員は入会金一千円、会費年額一千円、準会員及び賛助会員は入会金五百円、会費年額五百円を本会に納入しなければならない。

2本会は会員およびその他の者から、本会の目的に副う寄附を受けることができる。

第五条(事業)

本会は第二条の目的を達成するため、次の事業を行なう。

一、学術雑誌「早稲田社会科学研究」及び「早稲田人文・自然科学研究」の発行

二、研究会、講演会の開催

三、その他の事業

第六条(評議員会)

評議員会は通常会員を以つて構成する。

2評議員会は会長がこれを招集し、重要な会務を審議する。

第七条(役員)

本会に次の役員を置く。

一、会長 一名

会長は会を代表し会務を総括主宰する

二、副会長 一名

副会長は会長を補佐し、会長に事故あるときはその事務を代行する

三、監事 二名

監事は本会の会計を監査する

四、研究雑誌委員 若干名

研究雑誌委員は「早稲田社会科学研究」及び「早稲田人文・自然科学研究」を発行し、その他第五条に定められた事業を行なう

会長及び副会長は職務上研究雑誌委員となる研究雑誌委員の内二名は財務を担当する

2会長は社会科学部長これにあたり、その他の役員は評議員会で互選し、会長が委嘱する。

3役員の任期は一年とし再任を妨げない。

(付則)

一、本会の会則の改正については評議員総数の三分の二以上の者が出席し、その過半数の者の同意を得なければならない。

二、本会の会則は昭和四十一年四月一日より施行する。

以上

昭和四十一年度 社会科学部学会役員

会長 芳野武雄

副会長 霜田乾夫

監事 難波田春夫 服部弁之助

研究雑誌委員 芳野武雄 霜田乾夫 時岡弘 ×栗山昭一 ×田村貞雄 井内雄四郎

岡野光雄 高瀬礼文 福山仙樹 本戸啓嗣(×印は財務担当)

 なお右の会則は昭和五十七年四月一日、部分的に改正されたが、それは次の通りである。

1 第三条第一項の本属教員の下に「及び助手」を挿入した。

2 第四条の正会員を「通常会員」に改め、入会金一千円を「二千円」、会費年額一千円を「三千円」に、また学生会員及び賛助会員の入会金五百円を「千五百円」、会費年額五百円を「千五百円」にそれぞれ改正した。

3 第五条第一項の学術雑誌二誌の発行に、「それぞれ年一回以上発行する」ことを追加した。また第三項のその他の事業を、「その他本会の目的を達成するに必要と認めた事項」と改めた。

 なお『早稲田社会科学研究』および『早稲田人文・自然科学研究』のそれぞれの第一号が刊行されたのは、翌四十二年三月二十日で、前者は縦組み二八二頁、後者は横組み一三四頁であった。

d 学会の活動と成果

 その後の刊行の状況および掲載論文の題目については、前者については昭和五十八年三月発行の第二十六号に、また後者については同時刊行の第二十三号にそれぞれ、それを集録したものがあるのでこれを掲げておく。

『早稲田社会科学研究』論文所載目録

第一号(一九六七年)

〈論文〉

発刊の辞 芳野武雄

社会科学方法叙説 難波田春夫

政治理論の基礎としての“人間性”論 大谷恵教

イギリス社会法改正における投資者の保護 池島宏幸

公労委の機能 竹下英男

刑法における困果関係論否認説 岡野光雄

あとつぎ問題の農政 小林茂

地域港における輸出構造と産業構造との乖離の展望 大畑弥七

公共経費の効率性 山之内光躬

わが国証券市場の今後の課題 芳野武雄

我国における会計原則論の動向 新并清光

セールスマンの類型 田中由多加

Coming of Socialism Mikio Shimoda

第二・三合併号(故芳野武雄先生追悼号・一九六八年)

故芳野武雄先生追悼の辞 服部弁之助

〈論文〉

技術の哲学 難波田春夫

政治における宗教 霜田美樹雄

政治理論の基礎としての“人間性”論(試論その二) 大谷恵教

日本国憲法における統治行為 時岡弘

社会的規制と自由の原理 福山仙樹

新しい景気変動の研究方法 原祐三

わが国のメガロポリスの農業 小林茂

定常経済と成長経済に関する一考察 田村貞雄

準公共財とその配分方式 山之内光躬

人的販売管理論の一考察 田中由多加

〈新刊紹介〉

The Autobiography of Bertrand Russell 服部弁之助

芳野武雄先生の学問と人間 桶田篤

芳野武雄博士年譜

第四号(一九六八年)

〈論文〉

社会科学とは何か 服部弁之助

刑法における相当因果関係説の批判的考察㈠――判例における因果関係論の検討―― 岡野光雄

民主化の経済的帰結――日本経済現状批判―― 難波田春夫

私の「中小企業問題」観――日本の中小企業問題とは何か―― 原祐三

所得分配理論についての一考察 田村貞雄

公共財理論の展望――small-numberモデルを中心にして―― 山之内光躬

Occidental Critics on the Soviet Atheism Mikio Shimoda

Rationalization of Land and Water Usage in Paddy Rice Cultivation in Japan Shigeru Kobayashi

第五号(一九六九年)

〈論文〉

マルクス主義国家論批判 大谷恵教

投資関数――利潤極大原理と加速度原理―― 田村貞雄

Social Balanceと公共財 山之内光躬

太平洋先進諸国の東南アジア援助 大畑弥七

販売員監督の本質――フィリップ・コトラー教授の所論を中心として―― 田中由多加

〈判例研究〉

他人の行為の介入があった場合に刑法上の因果関係が否定された事例 岡野光雄

第六・七合併号(一九六九年)

〈論文〉

帝政ロシア末期の宗教政策 霜田美樹雄

都市化過程における農民層の分化分解 小林茂

直接課税対間接課税論についての一考察 山之内光躬

ケインジアン成長論の特色 田村貞雄

経済協力の法的機構をめぐる問題企――業法、資本法の側面を中心として―― 池島宏幸

国際活動と要員育成の問題について 田中由多加

貨幣価値の変動と実現概念の展開 長谷川茂

Lenin,his religion on socialism Mikio Shimoda

〈判例研究〉

境界標を損壊しても境界が不明にならない場合と境界毀損罪の成否 岡野光雄

第八号(一九七〇年)

〈論文〉

ソビエト政権の宗教政策――国教分離布告をめぐって―― 霜田美樹雄

公労委命令の研究 竹下英男

日本経済躍進の実体と分析 原祐三

英国農産物価格政策の合理性 小林茂

新ケインズ・モデルの特色 田村貞雄

「物流」覚え書 田中由多加

〈判例研究〉

専ら報復または侮辱虐待の目的をもって婦女を脅迫し裸にして撮影する行為と強制わいせつ罪の成否 岡野光雄

第九号(一九七一年)

〈論文〉

ボンチ=ブルエヴィチの政治と宗教 霜田美樹雄

南北問題の新展開――世界共同体と国際分業再編成論―― 大畑弥七

公共財理論の展望⑵ 山之内光躬

「ケインズ派統合」についての一考察 田村貞雄

第十号(一九七一年)

〈論文〉

レーニンと宗教 霜田美樹雄

EEC農政の矛盾とマンスホルト・プランのねらい 小林茂

新しいインフレーションの性格 田村貞雄

企業への投資意思決定のための利益 長谷川茂

〈判例研究〉

いわゆる信頼の原則と自車の交通法規違反との関係 岡野光雄

第十一号(原祐三教授古稀記念号・一九七二年)

発刊の辞 木村時夫

〈論文〉

社会科学と仏教 難波田春夫

広域市町村圏の再検討 時岡弘

刑法における相当因果関係説の批判的考察(二・完)――相当性判断の構造―― 岡野光雄

世界経済と日本の農業 小林茂

資源問題の意義と性格 大畑弥七

財政モデルについて 山之内光躬

セールスマン管理の一考察――カード・システムと多目標管理―― 田中由多加

原祐三教授年譜

第十二号(一九七三年)

〈論文〉

クラシコフの政治と宗教 霜田美樹雄

政党に対する国庫補助制度――スウェーデンの経験―― 岡田憲芙

現代法としての独禁法――いわゆる経済法との関連を中心として―― 池島宏幸

PANEM ET CIRCENSES――古代ギリシャの厚生福祉政策―― 難波田春夫

地域開発の地元民に与える影響――水力電源開発の場合―― 小林茂

混合経済体制における国家の機能と問題の所在――求心的国家の検討―― 田村正勝

財政的選択と多数化ルール 山之内光躬

予算統制システム理論の研究――Budgetee行動との接合を求めて―― 佐藤紘光

C・I・バーナードのリーダーシップ論 大平金一

第十三号(服部弁之助・中内正利両教授古稀記念号・一九七四年)

発刊の辞 時岡弘

〈論文〉

イギリス民主政治における“保守”と“革新” 大谷恵教

動態的安定論――成熟社会の政治システムへの一試論―― 岡沢憲芙

社会構成の交――代社会科学の方法序論㈠―― 霜田美樹雄

独占資本収奪下の小農経済の弱さと強味 小林茂

わが国の資源問題研究 大畑弥七

財政決定過程とグループの構造 山之内光躬

社会科学の方法――全体性を求めて―― 田村正勝

長期株式投資家の意思決定と予算の公開方法 長谷川茂

成長企業の動学モデル 小野俊夫

日本のインフレーション・展望 田村貞雄

INNOVATION-BUSINESS-ZIVILISATION 難波田春夫共同購買事業の重要性 田中由多加

企業予算編成の行動過程とその数理的解析――Generalized Goal Decomposition Modelの適用―― 佐藤紘光

服部弁之助教授年譜

中内正利教授年譜

第十四号(植田捷雄教授古稀記念号・一九七五年)

発刊の辞 田中由多加

〈論文〉

動態的安定論――コンセンサス・ポリテイックスの理論モデル―― 岡沢憲芙

マルクスの未来社会――社会科学の方法序論㈡―― 霜田美樹雄

経済の変動と商法改正 池島宏幸

食糧危機と日本の農業 小林茂

近代的世界経済像の運命 田村正勝

公共財理論の展望⑶ 山之内光躬

その後の日本経済――日本経済現状批判(第二回)―― 難波田春夫

企業行動と生産物の耐久性 小野俊夫

事後最適システムと企業の環境適応能力――Demskiの所論を中心として―― 佐藤紘光

〈判例研究〉

道路交通法七十条、百十九条二項、一項九号は過失犯処罰規定を欠く同法の他の各条の運転者の義務違反の罪の過失犯たる内容を有する行為にも適用されるか 岡野光雄

植田先生年譜

第十五号(難波田春夫教授古稀記念号・一九七六年)

発刊の辞 田中由多加

〈論文〉

社会主義計画経済システムの展開――北朝鮮社会主義計画経済の建設過程(一九四六―七一年)と工業管理システムについて―― 永安幸正

民主政治の精神的条件と“公共の哲学” 大谷恵教

社会主義国の政治文化 霜田美樹雄

スウェーデンの政治文化――コンセンサス・ポリティックスの社会心理学的分析モデルを求めて―― 岡沢憲芙

分析法学者J・ベンタムの再認識――「J・ベンタム全集」の刊行をめぐって―― 福山仙樹

EC農業と共通農政の矛盾 小林茂

公共性の構造とその基本問題 田村正勝

南北問題における国際協力の新しい理念 大畑弥七

企業予算の外部公開と会計予算原則 長谷川茂

耐久財生産企業の動学分析 小野俊夫

不確実性下の資本予算モデル――Chance-Constrained Programmingの適用 佐藤紘光

社会システムの分析方法についての覚書――システム・ダイナミックスから行動システム理論へ―― 常田稔

難波田春夫教授年譜・著作目録

第十六号(社会科学部創設十周年記念号・一九七七年)

発刊の辞 小林茂

〈論文〉

インフレ観の錯誤とこの悲劇的帰趨 原祐三

二宮尊徳の思想 服部弁之助

社会科学方法考 難波田春夫

靖国神社問題と信仰の自由 霜田美樹雄

自由の哲学的意味――自由論㈠―― 大谷恵教

現代スウェーデン政党政治史論㈠――院制議会の誕生とその政治構造―― 岡沢憲芙

農家人口流動と農業経営の変容 小林茂

〈Ökonomische Theorie der Politik〉の展望 山之内光躬

ユーロ・カレンシー市場――ユーロ・ダラーとオイル・ダラー―― 田村正勝

経済の変動と会社法改正 池島宏幸

近代ドイツにおける土地法制の理論と歴史 大西泰博

販売管理者とSCCモデル 田中由多加

Stedry企業予算モデルの分析と批判 佐藤紘光

商店街のイメージ構造 常田稔

二月革命前ペトログラート機械工の賃金関係 辻義昌

第十七号(高橋赳夫教授古稀記念号・一九七七年)

発刊の辞 小林茂

〈論文〉

ハイエク社会理論体系の研究㈠――ハイエクの社会科学方法論―― 古賀勝次郎

市場経済論の系譜と問題点 永安幸正

自然的自由と社会的自由――自由論㈡―― 大谷恵教

ナショナル・インタレスト概念の再検討――対外政策三過程モデルについての試論―― 大畠英樹

現代スウェーデン政党政治史論㈡――LO・社民党の誕生―― 岡沢憲芙

ボゴミール派とキリスト教 霜田美樹雄

社会政策論の対象に寄せて 辻義昌

近代ドイツにおける地上権制度の考察 大西泰博

成長企業とマークアップ・プライシング 小野俊夫

高橋赳夫教授年譜・著作論文等

第十八号(一九七八年)

〈論文〉

ハイエク社会理論体系の研究㈡――自由と法と法律―― 古賀勝次郎

社会主義経済論叙説――現代社会主義とその展望―― 田村正勝

社会的意思決定システムのパラダイム――経済・政治・社会領域の交渉―― 永安幸正

消極的自由㈠――自由論㈢―― 大谷恵教

現代スウェーデン政党政治史論㈢――第一次普選闘争―― 岡沢憲芙

古典的社会政策論の再検討 辻義昌

現代株式会社における企業金融法制の新たな展開――会社法全面改正と関連して―― 池島宏幸

ドイツ不動産所有権法の現代的課題――所有権法研究㈠・その覚え書き―― 大西泰博

〈書評〉

相沢久『国家と宗教』 霜田美樹雄

〈論文〉

現代企業社会と巨視的動学 小野俊夫

多重目標下の意思決定過程の分析(Ⅰ)――多目標線型計画法の適用―― 佐藤紘光

都市変容モデルの開発 常田稔

第十九号(一九七九年)

〈論文〉

社会科学方法論考――近代の超克と社会科学の新生のために―― 田村正勝

ハイエク社会理論体系の研究㈢――正義、政治および経済政策―― 古賀勝次郎

消極的自由㈡――自由論㈣―― 大谷恵教

ユリアヌス小伝 霜田美樹雄

現代スウェーデン政党政治史論㈣――第一次選挙法改正と政界再編成―― 岡沢憲芙

政党競争と予算 山之内光躬

株式市場をもつ経済と巨視的動学 小野俊夫

多重目標下の意思決定過程の分析(Ⅱ)――意思決定者との応答過程―― 佐藤紘光

〈研究ノート〉

公共的問題と管理科学 常田稔

第二十号(一九八〇年)

〈論文〉

経済社会体制論叙説 田村正勝

コモンズの原理と贈与システム 永安幸正

ハイエク社会理論体系の研究㈣――抽象・規則・秩序―― 古賀勝次郎

消極的自由㈢――自由論㈤―― 大谷恵教

現代スウェーデン政党政治史論㈤――第二次選挙法改正と議会の変容―― 岡沢憲芙

社会科学の方法に関するウェーバーとマルクス 小林茂

研究開発および革新の動学分析 小野俊夫

企業の高齢化社会への対応(その一) 田中由多加

第二十一号(一九八〇年)

〈論文〉

ハイエク社会理論体系の研究㈤――ハイエクの経済理論―― 古賀勝次郎

消極的自由㈣――自由論㈥―― 大谷恵教

政党政治と政権パターン――単独政権の理論と構造―― 岡沢憲芙

利得償還請求権をめぐる判例の動向 池島宏幸

企業の高齢化社会への対応(その二) 田中由多加

多重目標下の意思決定過程の分析(Ⅲ)

――分権的多目標予算モデル―― 佐藤紘光

第二十二号(一九八一年)

〈論文〉

「技術の文化哲学」に寄せて――構想力と技術および道徳―― 田村正勝

ハイエク社会理論体系の研究㈥――ハイエクのケインズ体系批判―― 古賀勝次郎

消極的自由㈤――自由論㈦―― 大谷恵教

政党政治と政権パターン――連合政権の理論と構造㈠―― 岡沢憲芙

ポベドノスツェフ小伝 霜田美樹雄

西ドイツにおける土地法の展開 大西泰博

民主主義と経済理論――先駆的発展の素描―― 山之内光躬

成長企業モデルと初期企業規模 小野俊夫

生活文化の尺度化について 常田稔

第二十三号(一九八一年)

〈論文〉

欧州統合と国際経済秩序――ECの新展開―― 田村正勝

ハイエク社会理論体系の研究㈦――ハイエクとオルドー学派㈠―― 古賀勝次郎

消極的自由㈥――自由論㈧―― 大谷恵教

政党政治と政権パターン――フランス第五共和政の連合政権―― 岡沢憲芙

八十一年商法改正の法社会学的一考察(覚書) 池島宏幸

財政過程における錯覚の問題 山之内光躬

〈研究ノート〉

医療技術の高度化と費用上昇 田村貞雄

第二十四号(早稲田社会科学研究・早稲田人文自然科学研究合併号・一九八二年)

〈特集 現代における学問〉

発刊の辞

現代における学問 田村正勝

現代イギリス経済の政治算術――自立的国民経済の可能性―― 永安幸正

宗教不滅の公式――唯物史観との対比で―― 霜田美樹雄

マルクス「資本論」と現代 小林茂

現代経済学の再生を求めて 田村貞雄

異文化理解のめざすもの――ダグラス・ラミス『内なる外国―「菊と刀」再考』―― 池田雅之

社会科学における弁証法的理論と分析的理論 速川治郎

物理学の研究方法――実験―― 小山慶太

〈論文〉

ハイエク社会理論体系の研究㈧――ハイエクとオルドー学派㈡―― 古賀勝次郎

消極的自由㈦――自由論㈨―― 大谷恵教

ジョージ・オーウェルと現代――『一九八四年』をめぐって―― 照屋佳男

第二十五号(一九八二年)

〈論文〉

社会システムの自然的基礎 永安幸正

ハイエク社会理論体系の研究㈨――オーストリア学派におけるハイエクの位置㈠―― 古賀勝次郎

消極的自由㈧――自由論㈩―― 大谷恵教

政党政治と政権パターン――連合政権の理論と構造㈢―― 岡沢憲芙

自由経済の変動と社会保障 田村貞雄

行政の管理化――二つの対応―― 辻隆夫

〈書評〉

ゲーテ『自然と象徴――自然科学論集』 古賀勝次郎

〈論文〉

経営と地域情報システムに関する試論 土方正実

第二十六号(一九八三年)

〈論文〉

大恐慌と現代資本主義 永安幸正

ハイエク社会理論体系の研究㈩――オーストリア学派におけるハイエクの位置㈡―― 古賀勝次郎

消極的自由㈨――自由論(十一)―― 大谷恵教

イギリスにおける首相とスタッフに関する一考察 辻隆夫

「農業=先進国型産業論」批判 小林茂

西ドイツにおける土地取引認可制度と先買権制度に関する一考察㈠ 大西泰博

財政理論と政治行動 山之内光躬

早稲田人文・自然科学研究論文所載目録

第一号(一九六七年)

〈論文〉

発刊の辞 芳野武雄

夢と現実と 鈴木弘

Another Keats 出口泰生

後退の美学 井内雄四郎

ヘミングウエイに於ける「ロスト」の意味について 長谷川洋三

ゲーテの諦念について 大畑末吉

山路愛山の国家社会主義㈠ 木村時夫

Über die Widerspruchs freiheit des Axiomns der Gruppe Reibun Takase

第二・三号合併号(故芳野武雄先生追悼号・一九六八年)

故芳野武雄先生追悼の辞 服部弁之助

〈論文〉

「秘密の小さい空地」を目指すロレンス 佐藤和夫

ヘミングウエイ初期における問題意識と虚構をめぐって 長谷川洋三

疎外の諸断面㈠ 掛下栄一郎

山路愛山の国家社会主義㈡ 木村時夫

〈研究ノート〉

ChichesterにおけるR.Gittings氏とKeats 出口泰生

芳野武雄先生の学問と人間 桶田篤

芳野武雄博士年譜

第四号(一九六九年)

〈論文〉

摂理の海――『老人と海』の海をめぐって―― 長谷川洋三

D・H・ロレンス論のための覚書 松原正

政治的コンラッド観とその展開 井内雄四郎

「ミドルマーチ」の構成と登場人物の現れ方 佐藤和夫

英国文芸雑誌(一七八九―一八三二)とローマン派の社会的背景(Ⅰ)――Th eGentleman' Magsazineを中心に―― 出口泰生

ジャン・ジャック・ルソーとサミエル・リチャードソン――『新エロイーズ』序論―― 森乾

明治初年における和歌山藩の兵制改革について 木村時夫

第五号(一九六九年)

〈論文〉

亡命文学の系譜(けいふ)としてのアベ・プレヴォの『クルヴラン』 森乾

離群の論理――『ウォールデン』をめぐって―― 長谷川洋三

C.Day Lewisとスペイン戦争 本戸啓嗣

サミュエル・ベケットの「マロウンは死ぬ」をめぐって 中山未喜

B・マラマッドのTh sAssistant鑑賞 中林瑞松

「ゲーテとフランス革命」序章 大畑末吉

第六号(一九七〇年)

〈論文〉

W.H.Audenの長詩「Spain 1937」――その改作をめぐる問題―― 本戸啓嗣

理念と感覚の乖離――『ウォールデン』の矛盾と変貌―― 長谷川洋三

夏目漱石におけるナショナルなもの――その文学観・文明観を中心として―― 木村時夫

第七号(一九七一年)

〈論文〉

英語教授法の考察・教材「つめた貝」(MoonShell)と「菊」(The Chrysanthemums)をめぐって――その内容の特異性への教育的アプローチ―― 原田謙一

ヴェルコールの沈黙のたたかいの中に払われた「海の沈黙」について 森乾

日本文学の英語訳についての覚え書 佐藤和夫

美的時間――持続から瞬間へ―― 掛下栄一郎

第八号(一九七一年)

〈論文〉

ジェニファー・ドースンの世界 井内雄四郎

『深夜以後のヴェルコール』――彼の作品とヒューマニズム―― 森乾

〈資料〉

バーディ作品の中の仮名と実名⑴ 本戸啓嗣

〈論文〉

再び道元と良寛の歌をめぐって 長谷川洋三

第九号(大畑末吉、弘法春見両教授古稀記念号一九七二年)

発刊の辞 木村時夫

〈論文〉

H・E・ベイツの短篇小説――その技巧について(Ⅰ)―― 中林瑞松

崩壊感の造型 ヘンリー・ジェイムズ『カサマシマ公爵夫人』論 井内雄四郎

アーサー・ウェイリー頌 佐藤和夫

〈資料〉

ハーディ作品の中の仮名と実名⑵ 本戸啓嗣

〈論文〉

ベルグソンと美学 掛下栄一郎

良寛と寒山の比較について 長谷川洋三

日本ナショナリズムの特色とその土壌 木村時夫

大畑末吉先生年譜

弘法春見先生年譜

第十号(一九七三年)

〈論文〉

会津八一の学規について――真我に至る道―― 長谷川洋三

津田左右吉小論――家永三郎氏の所説によせて―― 木村時夫

明治末期の短歌――散文とのかかわりをめぐって―― 武川忠一

沈黙という言葉のいみについて――ヴェルコール、サン・テクジュペリ、モーリアック、ルクレジオの場合―― 森乾

哲学的論理学についての一考察 速川治郎

第十一号(一九七四年)

〈論文〉

技術哲学 速川治郎

マーガレット・ドラブル小論――『碾臼』を中心に―― 井内雄四郎

アルベール・カミュの『幸福な死』の中の「幸福」のいみについて 森乾

H・E・ベイツの短篇小説――その技巧について(Ⅱ)―― 中林瑞松

〈研究ノート〉

Little Hintock村の位置について 本戸啓嗣

〈論文〉

文学と宗教の間㈠ 長谷川洋三

歴史の見方とその叙述について――津田博士の「子どもの時のおもひで」を中心に―― 木村時夫

『カンガルー』について 照屋佳男

第十二号(一九七五年)

〈論文〉

統合的科学理論⑴ 速川治郎

アメリカのネオ・レアリズム文学とサルトル、カミュ 森乾

アメリカにおける日本の短詩型文学(俳句)の影響――HaikuとHokku―― 佐藤和夫

科学と宗教の相補性 佐藤忠夫

文学と宗教の間㈡ 長谷川洋三

瞬間の美学への試論(Ⅱ)プラトンを中心に 掛下栄一郎

『翼のある蛇』について 照屋佳男

第十三号(一九七六年)

〈論文〉

H・E・ベイツの短篇小説そ――の技巧について(Ⅲ)―― 中林瑞松

「落花枝にかえると見れば胡蝶哉」 佐藤和夫

英語ハイク論――形式について―― 高橋悦男

Cross-in-HandとThomas Hardy 本戸啓嗣

新しい科学技術論 佐藤忠夫

瞬間の美学への試論(Ⅲ) 掛下栄一郎

北一輝と二・二六事件――その切点の解釈をめぐって―― 木村時夫

文学と宗教の間㈢ 長谷川洋三

D・H・ロレンス晩年の思想 照屋佳男

第十四号(社会科学部創設十周年記念号・一九七七年)

発刊の辞 小林茂

〈論文〉

社会科学の哲学 速川治郎

GaymeadはThealeかShinfieldか〈研究ノート〉――T・Hardyの'The Son's Veto'の舞台について―― 本戸啓嗣

Haiku Poetry and Its Use in the Elementary School (A lecture delivered to faoulty and students,School of Education,San Diego State University,September 15~October 15,1976) Kazuo Sato

英語の音声的特質 東後勝明

俳句と英訳とオノマトペ 高橋悦男

与謝野鉄幹をめぐって 武川忠一

北一輝と二・二六事件(承前)――その周辺者の思想的対比―― 木村時夫

瞬間の美学への試論(Ⅳ)――プロティノスからアウグスティヌスへ―― 掛下栄一郎

D・H・ロレンスとヒューマニズム 照屋佳男

現代詩の難解について――アンリ・ミショーの『砕け散るものの中の平和』について―― 森乾

第十五号(一九七七年)

〈論文〉

Tao-Liの革新と貢献 高橋悦男

H・E・ベイツの短篇小説そ――の技巧について(Ⅳ)―― 中林瑞松

フランス小説の変遷「実存主義」以後 森乾

デカルトと美学 掛下栄一郎

ジョージ・オーウェルと知識人 照屋佳男

文学と宗教の間㈣ 長谷川洋三

明治二十年代の歌論 武川忠一

第十六号(一九七八年)

〈論文〉

コギトから神秘へ――ガブリエル・マルセルの人間の哲学―― 掛下栄一郎

影響力というもの――『息子と恋人』をめぐって―― 照屋佳男

文学と宗教の間㈤ 長谷川洋三

第十七号(佐藤忠夫教授古稀記念号・一九七九年)

発刊の辞 小林茂

佐藤忠夫教授年譜

〈論文〉

神の狂気を求めて㈠――ヒエロニムス・ボッスの旅―― 掛下栄一郎

狂信の誘惑――コンラッドの政治小説―― 照屋佳男

文学と宗教の間㈥ 長谷川洋三

近代短歌史の一面――破調歌をめぐって―― 武川忠一

〈研究ノート〉

T・S・エリオット論ノート 池田雅之

〈学術交流〉

中国学術交流紀行 木村時夫

〈論文〉

情報化社会の諸問題 佐藤忠夫

第十八号(一九八〇年)

〈論文〉

神の狂気を求めて㈡――ヒエロニムス・ボッスの旅―― 掛下栄一郎

意識の冒険――『虹』をめぐって―― 照屋佳男

一般科学理論と社会科学㈠ 速川治郎

ジョン・オカダとNo-No Boy――日系米人によって書かれた初めての本格的小説―― 坂口博一

H・E・ベイツの短篇小説――その技巧について(V)―― 中林瑞松

写真家としてのLewis Carroll 本戸啓嗣

第十九号(一九八一年)

〈論文〉

日本における条約改正の経緯 木村時夫

文学と宗教の間㈦ 長谷川洋三

転倒した世界――「セイント・モー」―― 照屋佳男

語りの魔力――ヨーロッパ民話の世界―― 池田雅之

〈研究ノート〉

T・S・エリオット論ノート 池田雅之

〈論文〉

一般科学理論と社会科学㈡ 速川治郎

二冊の手記を通してみた二世像――モニカ・ソネのNisei Daughterとジム・ヨシダのThe Two Worlds o Jfim Yoshidaから―― 坂口博一

第二十号(一九八一年)

〈論文〉

明治維新の功罪 木村時夫

メーヌ・ド・ビランの美学㈠ 掛下栄一郎

圧制の病理――『恋する女たち』―― 照屋佳男

イギリス・モダニズム文学ノート――一九二〇年代論のために―― 池田雅之

WECHSEL DER WISSENSCHAFTIN JAPAN 速川治郎

相対論的チャネリング電子のスピン偏極 小山慶太

第二十一号(早稲田社会科学研究・早稲田人文自然科学研究合併号・一九八二年)

〈特集 現代における学問〉

発刊の辞

現代における学問 田村正勝

現代イギリス経済の政治算術自――立的国民経済の可能性―― 永安幸正

宗教不滅の公式――唯物史観との対比で―― 霜田美樹雄

マルクス「資本論」と現代 小林茂

現代経済学の再生を求めて 田村貞雄

異文化理解のめざすもの――ダグラス・ラミス『内なる外国―「菊と刀」再考』―― 池田雅之

社会科学における弁証法的理論と分析的理論 速川治郎

物理学の研究方法――実験―― 小山慶太

〈論文〉

ハイエク社会理論体系の研究㈧――ハイエクとオルドー学派㈡―― 古賀勝次郎

消極的自由㈦自――由論㈨―― 大谷恵教

ジョージ・オーウェルと現代――『一九八四年』をめぐって―― 照屋佳男

第二十二号(一九八二年)

〈論文〉

近代の長歌 武川忠一

想像力と伝統の感覚――『ナーシサス号の黒人』『台風』 照屋佳男

神の狂気を求めて㈢――ヒエロニムス・ボッスの旅―― 掛下栄一郎

〈書評〉

渡辺正雄編著『ニュートンの光と影』 小山慶太

田原嗣郎著『赤穂四十六士論――幕藩制の精神構造――』 木村時夫

森田貞雄著『アイスランド語文法』 森乾

〈論文〉

一般科学理論と社会科学㈢――ある社会科学者の論理―― 速川治郎

電子捕獲スペクトロスコピーによる表面磁性の研究 小山慶太

第二十三号(一九八三年)

〈論文〉

対華二十一条要求と大隈重信 木村時夫

D・H・ロレンスの『黙示録』論 照屋佳男

神の狂気を求めて㈣――ヒエロニムス・ボッスの旅―― 掛下栄一郎

〈書評〉

中林瑞松著『ラッシュデンの燈心草』 霜田美樹雄

〈論文〉

〈日本文化〉論の現在 池田雅之

二十世紀初期における放射圧測定の考察 小山慶太

 また学会の事業として、学部との共催で種々の講演会を開催したが、それは次のようなものであった。

第一回 昭和五十一年十二月三日

①PM二時~三時三十分 (小野講堂)

②PM三時三十分~五時

① 演題「社会科学と歴史的方法」

一ツ橋大学名誉教授 板垣与一

② 演題「ゲームの理論の社会像」

東京工業大学教授 鈴木光男

第二回 昭和五十二年十一月二十九日

①PM四時~五時三十分 (小野講堂)

②PM五時三十分~七時三十分

① 演題「社会科学の危機と危機の社会科学」

前早稲田大学教授内外経済調査室理事長 難波田春夫

② 演題「法と経済」

慶応義塾大学教授 正田彬

第三回 昭和五十三年十一月二十一日

① PM四時~五時三十分 (小野講堂)

② PM五時三十分~七時

① 演題「日中条約と新しいアジア」

鹿島平和研究所常務理事 高橋通敏

② 演題「戦後農政の理念と現実」――わが国の農業は立ち直れるか――

明治大学教授 寺田由永

第四回 昭和五十四年十一月十三日

① PM四時~五時三十分 (小野講堂)

② PM五時三十分~七時

① 演題「中国近代化の隘路」

サンケイ新聞論説委員 柴田穂

② 演題「現代アラブの動向」アジア経済研究所 浜渦哲雄

第五回 昭和五十五年十一月二十五日

①PM四時~五時三十分 (小野講堂)

②PM五時三十分~七時

① 演題「新聞記者の見た司法界」

朝日新聞社編集委員 野村二郎

② 演題「人口問題と高齢化社会」

大阪医科大学教授 吉田寿三郎

第六回 昭和五十六年十一月二十五日

①PM四時~五時三十分 (①七―一一四)

②PM五時三十分~七時 (②七―一一二)

① 演題「レーガン政権の経済政策について」

野村総合研究所常務取締役東京研究本部副本部長 岡本昌雄

② 演題「近代経済成長の回顧と展望」

一ツ橋大学教授 南亮進

第七回 昭和五十七年十一月二十六日

①PM四時~五時三十分 (七―一一二)

②PM五時三十分~七時

① 演題「資源と人間」

日本経済新聞社取締役論説主幹 阪口昭

② 演題「二十一世紀日本の選択」

学習院大学教授 飯坂良明

 学会の活動の中で、特筆すべきは、右の講演会とは別に、大学の創立百周年を記念して、昭和五十八年一月十八日に「新しい社会科学を求めて――社会科学の過去・現在・未来」をテーマとして、学部専任教員によるシンポジウムを開催したことである。同シンポジウムは多数の参加者を集めて有意義なものとなったが、学会は同時に、同一テーマの下に専任教員の論文を集め、誌名もシンポジウムのテーマと同一のものとし、同年三月二十日に刊行した。

 同書は刊行後、社会の注目を集め、高い評価を受けたが、学部が多年目指していた「社会科学の総合化」の重要な指針をなすものであった。

e 在外研究員内規

 在外研究員制度も学部内規として早急に制定されなければならぬ問題であった。十月十三日の教授会で、四十二年度分として国内研究員、在外研究員(短期)各一名の枠が与えられたことが報告された。国内研究員には希望者なく、在外研究員には助教授出口保夫が希望して承認されたが、同時に学部として今後の推薦順位を総合的に研究すべきであるという意見が出て、四十二年一月十二日の教授会で留学制度検討委員会(仮称)の設置が決定した。またそのため専任全教員の履歴および業績を改めて調査することになった。

 在外研究員制度については六月八日にその原案が発表され、七月六日の教授会において承認された。その要点は

 ⒈教授グループ(A)と助教授グループ(B)に分け、各グループの推薦順位は卒業年次によることとする。

 ⒉Aグループに希望者の無かった場合はBグループから推薦する。

 ⒊当分の間、長期派遣を止め、分割して短期二名を派遣する。

 ⒋最近五年以内に六ヵ月以上の在外研究の経験ある者は当分の間推薦しない。

 これは若手教員にもなるべく在外研究の機会を与えることおよび、ローテーションを早く回転させるという趣旨に基づくものであった。

 その後新任教員の増加や、第一回在外研究以後十数年を経過し、第二回目の派遣を要望する声などもあって、現在検討中である。

 なおこれまでの在外研究者は次のようになっている。

昭和四十三年度 原田謙一(短期) 霜田美樹雄(短期) 昭和四十四年度 田中由多加(短期)

昭和四十五年度 小林茂(短期) 佐藤和夫(短期) 昭和四十六年度 大谷恵教(短期)

昭和四十七年度 大畑弥七(短期) 本戸啓嗣(短期) 昭和四十八年度 掛下栄一郎(短期) 池島宏幸(短期)

昭和四十九年度 木村時夫(短期) 福山仙樹(長期) 昭和五十年度 山之内光躬(短期) 田村貞雄(短期)

昭和五十一年度 竹下英男(短期) 長谷川洋三(長期) 昭和五十二年度 岡野光雄(長期)

昭和五十三年度 森乾(長期) 速川治郎(短期) 昭和五十四年度 中林瑞松(長期)

昭和五十五年度 長谷川茂(長期) 永安幸正(短期) 昭和五十六年度 佐藤紘光(長期)

昭和五十七年度 大平金一(長期) 大畠英樹(短期) 昭和五十八年度 岡沢憲芙(短期) 田村正勝(長期)

3 芳野学部長の急逝

 このように発足当初の学部はたどたどしくはあったが着実な歩みを続けていた。そして四十二年度の入学志願者も前年度より五百二十三名増(二七パーセント増)の二千四百四十四名となり、それは学部関係者にとってささやかな喜びであった。

 三月五日に入学試験、そして採点の終った六日夜の慰労会には、元気で一座を賑わせていた学部長芳野武雄は、それからいくばくもない三月十日午後七時十分、帰宅後間もない自宅において狭心症のために急逝した。翌十一日の判定教授会においてその死が新并教務主任から報告され、新井は学部長代理となった。

 芳野の葬儀は第一商学部長青木茂男を葬儀委員長、新井を同副委員長として、三月十七日午後一時から大隈小講堂において、両学部合同葬として行われた。

 当日阿部総長は弔辞を述べ

君の為人は温厚篤実、学究として、また真の教育者として人々の敬仰の的となっておりました。

社会科学部設立後日未だ浅く、また学園の一層の発展充実をはからなければならない今、突如として君を永遠に喪うにいたりましたことはまことに痛恨の極みであり、早稲田大学にとって他をもって代え難い一大損失であります。

(『早稲田学報』昭和四十二年四月発行 第七七十号二五頁)

とその死を悼んでいる。

 また愛弟子の一人であった商学部教授桶田篤は

先生の軽妙な講義は学生をいつも魅了し、「和製チャーチル卿」とか「轟先生」とかいったアダ名をつけ、好々爺として非常な人気があった。それは先生自身の風格からくる春風駘蕩たる雰囲気のためであり、人と争いを好まれない平和な感情が学生の気持に訴えるものがあったのであろう。〔中略〕

軽妙酒脱な話術は間口が広く、政治を語ったかと思うと歌舞伎の声色が出、興いたれぱ三味線を手に小意気な渋いのどを聞かせるといったあんばいで、われわれの楽しみは、酒の入った先生のいつ終るともなき酒仙の話に耳をかたむけ夜のふけるのを忘れることであった。 (『早稲田学報』昭和四十二年五月発行 第七七一号一六頁)

と、そのかくれた一面を回顧している。

 さて三月二十三日の臨時教授会において芳野の後任として、教授服部弁之助が学部長候補として選出された。

 この頃、教務副主任鈴木弘が本属学部に戻り、その後任として助教授松原正が副主任になった。また九月十五日付けで、教務主任新井清光が本属学部に戻り、その後任には教授大谷恵教が就任した。

 学部内における学生運動が激化の兆しを見せたのは、ちようどこのような学部首脳が一新された頃であった。

三 試練下の社会科学部

ページ画像

1 学生運動の発生と激化

 学部は発足当初の昭和四十一年には、無期限スト中の既存学部に先がけて授業を開始し、その後も暫くは学生運動については無風状態とも言うべき平穏さが保たれていた。しかしその底部においては社学同系の一部学生が中心になって、自治会結成のための動きがあった。

 昭和四十一年十一月十日の教授会においては学生自治会設立準備会の学生のために、十月二十八日以降、当分の間八号館三階の小部屋を貸与する、ということが教務から提案され、了承されている。しかし学生自治会が実際に結成されたのは、それから約一年後の昭和四十二年十二月六日である。当日の結成準備会を終った学生は、当然のこととして自治会公認、学生部室の学生による自主管理、自治活動のための教室借用、カリキュラムの改善等々の諸要求を学部当局に提出し、教授会との団交を要求してきた。

 学部は十二月十一日(月)の教授会後改めて開催された専任教員会において、右の自治会からの要求を検討するとともに、今後の問題として自治会の公認、自治会費の代行徴収、自治会室の貸与等の問題を協議したが否定的な意見が多く、明確な結論を得ることができないまま閉会された。しかしその日の夕刻学生が回答を求めてくる筈なので、「助教授以下は事務所傍の準備室に待機されたい」と教務から要請された。「個人的に学生と応対することは止めて欲しい」というだけの要望だけで、具体的にその間の経緯も、待機することがどういう意味を持つのかも説明されないままに居残った助教授以下の若い教員は、夕刻六時頃から十時頃に至るまで、全く無言のまま自治会学生の怒声と罵詈の中で時を過さねばならなかった。

 次いで十四日(木)午後三時から教授会、続いて専任教員会が開催されて自治会問題が協議されたが、夕刻から結成準備会学生十数名によって学部事務所が占拠され、会議室もまた外部から封鎖され、学生は学部との団交開催を要求し、当局がそれを受諾しない限り封鎖を解こうとしなかった。しかし学部当局はこれら学生と折衝しようとはせず、漸く後日の交渉を約束することによって、教職員が構内を出ることができたのは午前零時を過ぎており、キャンパスには厚い霜が降りていた。

 翌十五日、学部は学部長名の左のような告示を出し、前日の事件に対して学生の自重を求めた。

告示

昨夜から今暁にかけて、自治会結成準備会を含む十数名の学生が、サークル部室の完全自主管理およびそれに関する学部当局との団体交渉などを要求し、教職員の帰宅を阻止、事務所内に坐り込み、午前零時二十分頃まで教職員を軟禁した。

学部は、少数代表者とは話し合うむね常々言明しているが、教員と学生との間には、いわゆる団体交渉はあり得ない。まして、今回のごとき異常なる状態にあっては、正常な話合いは不可能である。

勿論学部は今回の一部学生による暴挙を断じて黙過することはできない。

本学部学生諸君は、暴力を容認するがごとき態度をとることなく、終始、理性ある学生として振舞われんことを望む。

昭和四十二年十二月十五日

社会科学部長

 当時の学生運動は日共系と反日共系とあり、その反日共系内部でも三派の分裂や革マル系との対立があって、互いに派閥抗争を繰り返していたばかりでなく、著しく政治運動化し、佐藤首相の南ベトナム訪問およびアメリカ訪問を阻止しようとし、この年十月八日に第一次、十一月十二日に第二次の、それぞれ羽田事件というものが勃発し、学生運動家と警備の警官隊との間に激しい衝突があった。そしてそれぞれの場合、学苑は拠点校の一つとなり、キャンパス内に宿泊した学生活動家が、そこから羽田を目指して出発するということがあり、またそのたびに日共系学生との小競合いが行われた。

 学部に自治会結成の動きが急速に活発化したのは、このような学生運動間の力関係によるところも多かったのであろう。それにしても学部としては新設学部の悲しさ、なかんずく教職員の経験不足、学生運動に対する理解の欠如が、無用の紛糾を招いたように思う。十五日に招集された緊急専任教員会においても、守衛の力を借りて過激学生を排除せよとか、学部を数日間閉鎖して鎮静化を計れというような意見が声高に述べられた。

 十二月十一日以降、学部は実に前後七回の専任教員会を開催して学生対策を協議しているが、寧ろ当局の狼狽ぶりを示すものであろう。

 この間十二月二十五日付で、大谷教務主任が教務担当から学生担当に代り、そのため松原が教務主任心得から教務担当に代った。なお同月二十七日付で助教授大畑弥七が、新たに設置された教務副主任に就任した。

 なお翌四十三年一月の教授会において、従来のクラス担任制度運営委員会を廃止し、新たにクラス担任制度委員会が発足することになり、池島、掛下、木村、栗山、小林、田村、山之内の各助教授に佐藤、長谷川、福山の三講師がその委員に嘱任された。これは実際には激化する学生運動に対処するものとして置かれたもので、設置の目的を「今後のクラス担任制度のあり方および学生問題対策を検討する。なお、学生問題について緊急を要する場合は、この委員会に一任する」とした。

 しかし年来あれほど緊迫化した学生運動は年が変ると、危惧されたような事態の進展はなく、むしろ鎮静化していった。これは学苑内での派閥間の激しい抗争の結果、革マル系が主導権を握り、反日共系三派の勢力が退潮したためであったらしい。

 さて四十三年度入学試験関係の仕事が一段落した時、大谷、松原、大畑の三教務は一斉に辞任し、三月十六日付で、新たに助教授木村時夫および同掛下栄一郎がそれぞれ教務担当教務主任および学生担当教務主任となった。また助教授竹下英男が教務副主任に就任した。

2 自治会の承認問題

 新教務の下で、四月一日学部始業式が行われたが、その公式行事終了直後、自治会準備委員会は初めて新入生に対する発言の機会を与えられた。そして十七日には自治委員総会を開催したが、新たに学生会議を結成した革マル系の学生の激しい突き上げによって流会した。しかし準備委員会と学生会議とは、暫くは併存し、二十六日にはベトナム戦争反対を旗印にして行われた、全学ストの一環として学部をバリケードで封鎖した。しかし土曜日でもあったので実害はなかった。

 五月十八日は阿部総長の辞意の表明をうけ、大隈講堂において新総長を選ぶ選挙人会が開催される予定であったが、それより少し前から総長選挙制度の改革を求める学生の一団によって阻止され、選挙は郵便によって行われることとなった。べトナム反戦、成田空港反対や学内民主化の要求等が一つになり、当時の学内においては日毎に学生運動が激化しつつあった。

 このような情勢を背景に、自治会準備委員会は自治会の正式結成を計って、再び六月十日に総会を開催したが、革マル系の反対行動によって流会し、執行部は総退陣し、学部においては革マル系の支配が確立した。しかし三派系の残存勢力や代々木系の反発もあって、学部に対し自治会の公認問題を正式に提示してきたのは十二月の九日であった。そして主としてこれと折衝したのは学生担当の掛下助教授であった。学部はかねてから、学生間の派閥とは関係なく自治会公認の要件として自治会結成の事実経過、自治会規約および役員名簿等の提出を求めていたが、その要件が満たされた以上、これを公認することとなり、教授会の議を経て、同月十四日午後六時から学部集会を開き、その席上これを公表した。そして翌昭和四十四年一月十五日付で学部長名により、「社会科学部学生諸君へ」という一文を全学生に郵送した。その中では公認に至るまでの経緯や交渉の経過を説明し、

〔前略〕学部としては「自治会準備会」として認めた諸君が学部の提示した条件を満たし、正式に自治会の承認を求めたことに対して、この「規約」によって運営される組織を当社会科学部の学生自治会として承認する。そして委員諸君の抱懐する信条や所属する党派等に関しては、いささかも関与しないという方針を決定した。

以上の如き最終的基本態度に基づいて、十二月十二日教授会は「社会科学部学生自治会」を正式に承認したのである。

と述べ、

現社会科学部学生諸君全員は、本学部のパイオニアとして誇りと責任において、たえず事態を見まもり、積極的にこの組織に参与して、その健全な発展に尽力されんことを衷心から要望する次第である。

と結んでいる。

 勿論公認後も自治会勢力と代々木系学生との対立は続き、学部当局に対しても強い不満をぶつけてきたが、学部は右の文章に示された態度で終始一貫し、四十四年度からは自治会費の代行徴収を実施した。

3 専門演習の設置とその現況

 四十三年は学生問題、わけても自治会の公認問題に終始した感があるが、他に重要なこととして、初めて設置すべき専門演習についてしばしば審議を重ね、一応の決定を見たということがある。昭和四十四年は、学部に初めて第四年度生が生れ、名実ともに学部が一年から四年生までを擁する独立した学部として完成する年であった。従って第四年度生に課する専門演習の設置は早くから議題に上っていたが、四十三年十二月中にはその募集を終っていなければならなかった。

 学部としてはまず既存学部における専門演習の実態を研究し、第四年度生の約六〇パーセントが何らかの専門演習を受講できることを前提に、一クラスを二十名として二五クラスを設置することとした。そして二五クラス中、一七クラスを専任教員が、そしてその他八クラスを兼担もしくは非常勤講師(内二クラスは商学関係)に担当してもらうこととし、演習題目および人選に入った。

 その結果四十四年度に実際に設置された専門演習の題目と担当教員は次のようになった。

第三十六表 社会科学部専門演習題目および担当教員(昭和四十四年度)

 翌昭和四十五年度からは第三年度生から専門演習を受講することができるようにした。そして三年度生において履修した演習を四年度においても継続して履修するか、また別のテーマを履修するかは学生の選択に委せられた。

 演習のクラスは年を追って増設されたが、昭和五十八年度における、演習の担当者と題目は次の通りである。開設当初に比べれば、そのクラス数は二倍になっている。そしてそれは単なるクラス数の増加ではなく、社会科学系諸学科の総合化を目指す、学部の基本方針を裏付けるものでもあった。

第三十七表 社会科学部専門演習題目および担当教員(昭和五十八年度)

4 紛争の終結と最初の卒業式

 紛争中の学部の努力として、最初にカリキュラムの改正について記したが、施設面においても少しく改善されるところがあった。その第一は第一四号館中庭に学生用ラウンジを新設したことである。これは同施設のないのが当学部だけであったので、学生からも強い要望があった。その敷地についても消防上の難点や教育学部の掲示板の撤去等、種々折衝すべきことがあったので、当初の七月着工、十月末竣功の予定が少しく遅れたが、同年十二月十三日には開室の運びとなった。

 第二は学生読書室の増設で、それまでの教員読書室を一四号館二七教室に移転し、その跡地を学生読書室の書庫に充てるとともに、書庫と読書室の間に、新たに印刷室を設け、学生の利用に供したことである。

 更に紛争中、臨時に事務所および教員室を設置した、一〇号館(現一三号館)三階を新たに学部が恒久的に利用することができるようになったので、ここに研究室二〇室を新設することにした。これによって学部研究室は既存の一九室を加えて三九室となり、専任教員は従来の一室二人制から解放され、すべて個室制となった。そして改装を終って四十五年度始めから利用することができた。

 他に紛争中特記すべき事柄として十月十二日の午後一時から、学部のゼミ連合を名乗る一部学生を中心に、自主学生大会が安部球場において行われた。これは早期の封鎖解除を目的とした一部学生の自主的な行動で、多少の紛擾はあったが、結果的には封鎖解除を決議した。

 当日は学部長以下専任教員一同は、旧武道館から大会の成行きを見守っていた。そして当日夜のNHKのニュースは、社会科学部の自主的封鎖解除としてその成果を放送し、大学当局もこれを全学的封鎖解除の端緒としようという意図をもって学部に要請するところがあった。しかし一部学生の心情は諒としながらも、それは自治会規約に照らしても大会開催の手続きにおいて不備があり、学部がこれを正式に取り上げて封鎖解除を実行することには無理があった。結局全学的封鎖解除は十月十六日早朝からの、機動隊の出動によってほぼ一日がかりで行われ、事後暫くは機動隊が学内に常駐することによって僅かに平静が保たれ、授業は同月二十七日から再開された。この前後専任教員は交替で学内に宿泊し、徹夜で学内の警戒に当るなど、心身ともに困憊を極める日々であった。

 封鎖解除の翌日は労務員の助けを借りて校舎内の清掃整備に当ったが、六月の異動で、開設以来の事務長曾我に代った杉山正三郎は、率先してトイレの清掃に当り、暫くトイレ事務長の名をかたじけなくした。

 このようにして、長期に亘る紛争は一応は終熄されたかに見えたが、余燼とも言うべきものは依然としてくすぶり続け、学部においても革マル系自治会に反対する民青系の学生が、別に新執行部を結成し、現執行部と事毎に対立するなど、対処に腐心せねばならぬ事態が進展しつつあった。全学的にも紛争の火種は決して完全に消去されてはいなかった。

 昭和四十四年度の卒業式はこのような事態を考慮し、本部は従来のような統一的な形式をとらず、各学部毎に自由な形式で行うこととした。学部によっては単に教室で卒業証書を授与するだけですませたところもあった。しかし学部としては最初の卒業式であり、しかも初めて社会科学士という新学士を世に送り出す、日本の教育史上、画期的なことでもあったから、学部単位ででも立派な卒業式を行いたかった。種々の検討と準備の上、それは三月三十日午後二時から大隈大講堂において挙行された。貧弱な施設の中で、しかも種々困難な情況の中で学び、漸く卒業証書を手にした、新学士四百九十八名はそれぞれに感慨をもったようである。

 因に新卒業生の就職状況は就職希望者二百七十五名の八七パーセント、二百四十名の就職が決定した。その内容は商業の六十四名、サービス関係の二十四名を筆頭に官公署の十二名、食品関係の十一名がこれに次いだ。因に八七パーセントの就職率は昼間の一文や教育をそれぞれ一〇パーセントおよび三パーセントを上廻るものであった。

5 長期化する学内紛争

 昭和四十四年度も波瀾含みの開幕であった。三月二十五日の卒業式にも全共闘系学生の妨害はあったが、式そのものは予定通り済んだ。しかし四月一日の入学式当日には、同じ全共闘系学生が本部に乱入してこれを占拠した。以後解除と占拠とがイタチごっこのように繰り返されたが、その間、革マル系学生により講堂や第二学生会館までが占拠されていった。

 これら紛争の主たる原因は第二学生会館の管理運営権を巡る問題であったが、それを更に複雑にしたのは学生団体間の激しい派閥抗争であった。すなわち前年秋、文化団体連合会の主導権を握った革マル系に対して、捲き返しを企てる全共闘系(社青同解放派その他の非日共系)とこれに民青系を加えた三つ巴の勢力争いであった。

 しかしそれも五月二十三日の本部封鎖の解除以後、次第に鎮静化の傾向を示していた。ところがその同じ日、自民党政府は「大学の運営に関する臨時措置法」、いわゆる大学立法なるものを国会に上程し、全国を風靡する大学紛争に圧力を加え、これを法的に規制しようとした。

 そのため、それまでそれぞれの大学固有の問題に端を発していた紛争が、反政府、反権力の政治闘争に一元化していった。学苑においてもその事情は同一であった。大学立法粉砕が事後の学生運動の旗印となった。そしてそれは当時進行中であった中国の文化大革命や、欧米を席捲した学生運動とも呼応するかのように、造反有理や大学解体等のスローガンが叫ばれるようになった。

 大学立法粉砕までの無期限ストが各学部自治会の主要議題となり、六月以降、理工学部を除く各学部は逐次無期限ストに突入し、校舎はバリケードをもって封鎖されるに至った。

 学部においても六月十三日の学生大会において自治会が無期限ストを決議し、投票の結果十四日から校舎を封鎖し、ストに入った。これら一連のストは夏休みが過ぎても解除されず、それが解除されたのは十月十六日で、授業が再開されたのは同月二十七日、実に四ヵ月を越える長期の授業放棄となった。それはまた大学立法が八月三日に、国会において自民党によって強行採決され、同十七日から施行されたためでもある。

四 学部改革の努力

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1 カリキュラムの改善と新設科目

 ストのため校舎は封鎖されたが、その出入りは可能であった。しかし万一の場合を考慮し、十六日以降事務所および教員室を一〇号館(現一三号館)三階に移転した。そして折からの猛暑をおかし、狭隘な臨時教員室で、しばしば教授会や専任教員会が開催された。当時の記録によれば、六月が四回、七月が五回、八月二回、九月三回、十月五回、実にスト突入からその解除まで、合計十九回開催されている。異常且つ緊急な事態に対処するため、従来の教授会方式を採らず、会議はすべて専任教員会の形式を採った。しかしそれらの会議は単なるスト対策のためばかりでなく、学部運営委員会と併行し、カリキュラムを中心とする一種の学部改革を行うためのものでもあった。

 というのは、大学立法の粉砕を目的とする無期限ストではあっても、これに同調する一般学生の中には、学部施設の貧困やカリキュラムや時間帯等々についての多くの不満がくすぶっていたからである。特に林一夫(後保谷市議)を中心とする一年M組の学生は、学生活動家の派閥とは無縁に、熱心に学部の改革を要求し、自らも種々な資料を準備して、しばしば教務主任と交渉するところがあった。教員としても学生のおかれている現状をよく理解していたので、無期限ストという厳しい環境の中においても、学部としてできることはやろうということになったのである。

 たびたびの検討の結果、昭和四十五年度から実施することになった主な改革としてまず、外国書研究を含めて、すべての必修科目を廃し、すべて選択必修制にした。これは学生の要望の最も多かったもので、たとえ社会科学系諸科目の総合履修といっても、全くその性格を異にする諸科目をすべて必修させることに問題があったからである。一般教育科目として人文・社会・自然の各系列に演習を新設し、二年度配当科目とした。因に四十五年度の演習題目と担当者は左の通りである。

第三十八表 社会科学部一般教育演習題目および担当教員(昭和四十五年度)

 また、社会科学総合研究を第二年度配当科目として新設した。これは社会科学の総合化の具体的な指標として新設したもので、一つのテーマを複数の教員が担当するという形式は、理工学部にその先例があったが、専門科目としては初めての試みであった。四十五年度は取敢えず「都市問題」と「独占企業論」の二科目を設置した。その分担と担当者は次の通りである。

第三十九表 社会科学総合研究題目および担当教員(昭和四十五年度)

 なお一般教育演習は昭和五十八年現在、二十クラスが設置されており、その内容および担当者は次の通りである。

第四十表 社会科学部一般教育演習題目および担当教員(昭和五十八年度)

2 社会科学総合研究の設置とその現況

 社会科学総合研究について言えば、その後テーマは数年毎に変えられ、「中国問題」「公害問題」「福祉社会問題」「人口と資源」「インド・東南アジア問題」「地方自治」「南北問題」等々を取り上げたこともある。いずれも現代的な問題であるばかりでなく、長く研究されなければならない学問上の問題であった。

 因に昭和五十八年度における社会科学総合研究は八クラスが設置され、その質量ともに学部の代表的講座となっている。左にその内容と担当者とを掲げておく(○印は専任教員を示す)。

第四十一表 社会科学総合研究題目および担当教員(昭和五十八年度)

 次に種々な改革の意欲をこめた新しい昭和四十五年度の学科配当表を掲げておく。開設当初のそれと比べ、僅か四年後における充実ぶりは、学部自体の努力の成果として評価されるべきである。

第四十二表 社会科学部学科配当表(昭和四十五年度)

一般教育科目

専門教育科目

専門教育科目はA群(専門選択必修科目)およびB群(専門選択科目)とからなり、八十四単位を履修しなければならない。

A群

B群

専門専門科目は左の科目より十六科目(六十四単位)を選択履修しなければならない。

随意科目

正規の科目のほかに、左の通り随意科目を設ける。ただし、随意科目は卒業に必要な単位には算入されない。

 なお昭和五十七年度の学科配当表を参考のために掲載しておく。これを見ると一般・専門の両分野において、それぞれ数講座を増加し、随意科目にロシア語、中国語の二講座を増設しているが、これを見ても四十五年度のカリキュラム改革のもつ意義の大きかったことが分る。

第四十三表 社会科学部学科配当表(昭和五十七年度)

一般教育科目

専門教育科目

専門教育科目はA群(専門選択必修科目)およびB群(専門選択科目)とからなり、八十四単位を履修しなければならない。

A群

B群

専門選択科目は左の科目のうち十六科目(六十四単位)を選択履修しなければならない(一般教育科目を三十六単位履修する場合)。

随意科目

正規の科目のほかに、左の通り随意科目を設ける。ただし、随意科目は卒業に必要な単位には算入されない。

3 自治会問題の推移その他

 昭和四十五年度を迎えた学部が最初に対処せねばならなかったのは自治会問題である。すなわち革マル系自治会に対し、民青系もまた自治会を結成し、前者の現執行部に対し、後者は新執行部を呼称し、前者は代行徴収した自治会費の即時交附を要求してきたのに対し、後者すなわち新執行部は社会科学部の正式自治会としての承認を求めてきた。

 両執行部ともその成立に必要な手続きが取られており、学部当局に提出された書類も自治会としての条件を充たしていた。

 学部は五月十四日の教授会において現と新との執行部が一本化されるまでは自治会費を交附せず、またそれまでは新執行部を承認しない旨を決定し、これを告示した。これは事実上自治会費を学部が凍結したもので、以後、卒業式の際、自治会費を卒業生に返還した。

 九月五日の教授会において服部学部長に代り、教授木村時夫が学部長候補に選出され、同月十五日就任した。

 十月四日の総長選挙の結果、時子山総長に代り、新たに理工学部教授村井資長が総長に就任した。

 学部当局は十一月十八日、村井総長および新理事との間に懇談の場を持ち、教員の定員増をはじめとする、学部の要求事項を申入れるとともに、大学新執行部の学部に対する将来構想に関する説明を受けた。しかしその内容は学部の現状維持を主張するだけで、失望を禁じ得なかった。そのため十二月二十四日の教授会では、学部独自で、学部の基本的性格を決定し、教員数の増加や、将来の展望を得るために、明年度から学部検討委員会を発足させることに決定した。

 なお当日の教授会は、紛争中の検討の結果をふまえ、明年度から時間帯を大幅に改正することを決定した。すなわち土曜日を除き、月曜日から金曜日までを、すべて三時五十分開講とし、土曜日は二時十分開講とした。そして、八時三十五分から十時五分の時間帯は火曜日と木曜日の二日に限って設置することとした。

 また従来検討を続けていた助手制度についても、その職務、契約期間、募集方法、受験資格等々についての細則を定めた、社会科学部助手規程を決定した。その後多少の修正を行って「社会科学部助手選考方法等内規」とし、これが学部長会で承認されたのは翌四十六年十一月である。これに基づいて公募の手続きが進められ、四十七年四月一日付で、岡沢憲英(政治学関係)、田村正勝(経済学関係)、佐藤紘光(商学関係)の三名が初めて助手として採用された。

 前記の社会科学部検討委員会は教授難波田春夫を委員長として四十六年四月から実質的な審議を開始したが、その手始めとして大規模な学生の実態調査を行うことになった。調査項目は主として教授小林茂が原案を作り、六月二十一日から七月三日にかけて学部全学生を対象として行い一―三年生については六五パーセント、全体では五四パーセントの回答率であった。これによって種々な事柄が明らかとなったが、特に入学に際し、当学部を第一志望とする者の皆無であること、勤労学生が一〇パーセントに満たないこと、大部分が昼夜開講制、もしくは昼間学部への移行を希望していること、カリキュラムの改編を希望する者の多いことなどがわかった。

 集計の結果は小冊子にまとめられ、関係各方面に配布されるとともに、学部改革の重要な指標となった。

 四十六年末、翌年度の学費値上げが決定されたから、これに反対する学生の活動は活発となり、年を越した四十七年一月以降、団交と称する学部当局と両執行部との折衝がしばしば行われたが、結局はバリケードを構築しての無期限ストが行われ、一月末に予定した学年末試験はすべてリポートの提出という代替措置に切り換えられた。

 そのような事態において、一月二十二日には大隈小講堂において、三月末日をもって定年退職する大畑末吉、原祐三両教授の最終講義が行われ、多くの学生が聴講した。前者は「フアウストの根本問題」、後者は「経済学の曲り角」をそれぞれその演題とした。

 さて授業料値上反対の学生運動も、新学年度の開始とともに終熄したが、夏休みを前にした六月中旬、自治会の現執行部と、当時再建自治会と自称していた新執行部とが、ほぼ同時に自治会費の凍結解除を学部に要求してきた。学部は慎重に協議した結果、学部学生の総意に委ねることとし、両執行部のいずれを支持するかを学生の投票によって決定することとし、これを全学生に公示し、また教員立会いの下に三日間に亘って投票を行い、六月三十日を以てこれを終った。

 開票の結果は現執行部が過半数を獲得したので、七月六日、学部は同執行部に自治会費を交附することを決定した。しかるにその直後、再建自治会執行部は自治会費の支払停止を求める仮処分の申請を東京地裁に提出した。そのため木村学部長は七月中、東京地裁において事情説明をするとともに、大学においても顧問弁護士谷正男や教務部長および文書課職員をもってこれに対処する委員会を設置した。しかし同申請は翌年四月十六日に取り下げられ、学部の自治会費に関する決定はそのまま実施された。

 四十七年九月、教授時岡弘が学部長に就任した。

 この年の早稲田祭が終ってから間もなく第一文学部の学生川口君が学内において革マル系学生から暴行を受けて死亡するという不幸な事件が発生した。これを糾弾する民青系学生と革マル系学生との間に、激しいやりとりが連日学内において展開されたが、学部内もまたその例外ではなかった。学部学生の支持を得て、一時その正統性をかち得た自治会は、臨時新執行部を呼称する民青系学生と激しい抗争を展開した。新執行部は学部に対して正式自治会として承認するよう要求してきた。しかしその成立過程が不明確であることを理由に学部はこれを拒否した。両執行部間の対立は激化し、そのためいずれの執行部が要求する学部団交も常に開催は不可能という状態であった。

 しかし川口事件を契機として、一般学生の自治会離れが顕著になり、時間の経過とともに学生運動そのものも概して鎮静化していった。

五 現況と課題

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 昭和四十九年九月、時岡に代って教授田中由多加が学部長に就任した。

 昭和五十一年は学部創立十周年に当るので、五十年五月にはそのための記念事業準備委員会が設置され、記念論文集の刊行、記念講演会の開催、学部史の編集、社会科学部デーの創設、記念祝賀会の開催等の諸行事が決定された。

 社会科学部デーについては十月の教授会で、五月と十一月とにそれぞれ三日間をあて、授業を休講してゼミ関係の合宿や学生の見学等に利用することとした。

 記念祝賀会は五十一年六月五日(土)大隈会館において総長以下多数の来賓を招いて盛大に行われた。

 この年九月、田中に代って教授小林茂が学部長に就任した。小林は五十三年九月に再選され、その任期は二期四ヵ年であった。

 五十五年九月にはその小林に代って教授掛下栄一郎が学部長に就任した。

 そして五十七年九月には掛下に代って、教授大畑弥七が学部長となり現在に至っている。

 この間の社会科学部には特筆すべき事柄はない。あえて言えば小林時代に、後に述べる長期計画委員会が発足したこと、掛下時代には一三号館に学生読書室を移転し、同時に研究室を増設するなど、施設面の大幅な改善をみたこと、および入試科目中従来おかれた地理Bと倫理社会を廃止し、従来の配点法を改めたことなどが挙げられる。

 しかしこれはこの間の社会科学部が決して無為に過したということではない。十余年間の実績の上に立ち、漸く敷かれたレールに沿って、いよいよその内容を充実発展させてきたと言ってよいであろう。そしてその間営々たる努力は続けられてきたのである。

 現在社会科学部は語学を含む一般教育科目は五十四講座、演習を含む専門教育科目は一四一講座、合計一九五講座を設置している。

 これを担当する専任教員は教授三十四、助教授六、講師四、助手二、合計四十六人で、他に七十四名の非常勤講師を擁している。

 更に職員は専任十五に学生職員六、合計二十一名を有している。

 これらの数字は十余年前の発足当初に比すれば、まさに隔世の感がある。

 また夜間学部であり、我が国に初めて設置された社会科学部という特色も、次第にその評価を高め、世評も定着したものの如く、昭和五十一年度に一万名を超えた入学志願者は、五十五年度には一万二千七百八十七名に達し、五十八年度に一万を割ったとはいえ、毎年一万を超える盛況である。

 しかし社会科学部十余年の歴史と時代の趨勢とから、大局的に考える場合、問題がないわけではない。たしかに学生の資質は年々に向上し、それなりの社会的評価を高めつつはあるが、それは勤労学徒に対する門戸開放という、設立の趣旨に沿ったものではなかった。昼間職業を有する学生の数は年々減少し、新入生について見るかぎり、それは僅か二ないし三パーセントしかなくなった。要するに他大学や本学の昼間各学部に入学できなかった学生の溜り場として、社会科学部が機能し始めたのである。

 しかも高度経済成長政策の結果として、戦後も急速に変貌し、昼間働いて夜学ぶという学生の形態は世間一般の風潮にそぐわぬものとなってきた。学資のための労働はレジャーのためのアルバイトに変りつつあるのである。また夜間学部卒業生に対する社会の就職時における差別も大きな問題である。

 既に学部が昭和四十六年から学部検討委員会を設置したのも、学部にふさわしいカリキュラムと、昼夜開講制の可能性の検討に主たる重点が置かれたのである。前者については社会システム論関係の講座等について進展をみたが、後者については、現行法令に縛られて進展を見ることができなかった。

 しかし早稲田大学は昭和五十七年十月にその創立百周年を迎えるに当り、早くも五十二年四月には創立百周年記念事業計画委員会を発足させ、総合学術情報センターや新学部の創設等いわゆる記念事業の三本柱の計画も確定し、五十五年七月には記念事業実行委員会も発足し、各分科会を設けて事業の具体化が動き出した。

 このような大学の動きに関連し、学部は小林学部長を委員長とする社会科学部長期計画委員会を設置し、五十二年七月二十一日に審議を開始し、当面「創立百周年記念事業計画委員会の議事進行過程(とくに当学部との関連事項)に適切に対処し、抽象的、観念的な論議ではなく、現実の夜間学部としての現状を認識把握し分析総合するとともに、それをふまえて将来の在り方を取り上げて検討すること」とした。

 一時的中断はあったが、五十四年四月二十四日の委員会においては、学部の新しいあり方を検討して次の三案を得た。すなわち

1 新キャンパスに新しい構想による昼間学部を創設する(夜間授業は行わない)。

2 新設学部は、最初昼・夜間開講とし、昼間授業は新キャンパス、夜間授業は現キャンパスで行い、夜間受講学生が減少(無くなった)した時点で再考する。

3 新設学部は昼夜開講とし、将来もこの形を続ける。

 また同年六月二十八日の同委員会においては、次のような社会科学部(新)の設立趣旨を起案し、教授会に提案した。それは、

社会科学は、これまで多くの分科科学に専門化することによって、長足の進歩を遂げてきた。しかし、社会科学が分析の対象とする社会法現象を生きた実在として把握するためには、総合的な科学的理解が必要である。現社会科学部は、社会法科学を総合的に研究し教育することを目標に掲げて発足したが、設立以来十数年間の教職員および学生のたゆまざる努力により多大の成果を挙げることができた。しかし、現状のもとではその発展には制約がある。

そこで早稲田大学創立百周年記念を契機として勤労学生の学習の機会を保証しつつ、新キャンパスに昼間部を設立する。かくして社会科学部は、これまでの成果を踏まえて、研究・教育の内容を拡充し、社会の情勢と学生実態の多様化に応えて、広く門戸を開放し、以て広い視野に立つ基礎的総合的知識をもった進取の気性に富む人材を育成することを期する。

というものであった。

 右の趣旨に基づいて、六月二十九日に開催された学内小委員会第二検討部会において、社会科学部が新キャンパスにおける新設学部の一つとして積極的に取り組む姿勢のあることを申入れた。

 しかしこの学部の姿勢は、七月三日の学部選出の実行委員と理事者との懇談において、結果的には拒否され、社会科学部の新キャンパス移転および昼間学部化は記念事業計画から外し、経常的計画として今後も検討することとなった。

 理事会がこの決定を行った理由として提示されたのは、1(昼間学部に移行するに当り)恩恵を受けるのが三―四年先からとなり、直ちに恩恵に浴したい学生からの反発が予想される。2勤労学生が減少したと言うことでは夜間学部縮小の理念とはならない。3一、二部制を採るのか、別組織とするのか、一・二文との関係もあり、もっと煮つめる必要がある。4昼間学部として新キャンパスに移ることは、外見的には新学部の設立とはならない、などということであった。

 しかしそれまでの対応の経過からみて、この突然の理事会の決定は奇異な点があり、否決の理由には別なものがあったと思われる。この理事会の方針が教授会に報告された時、教授会は当局の態度に対し強い不信感を投げかけた。

 五十五年五月からは小林委員長に代って田中由多加前学部長が委員長に就任し、委員会は継続されることになった。

 昭和五十七年十月二十一日を中心に、早稲田大学創立百周年記念の諸行事は盛大に行われた。しかし記念事業そのものは再度に亘る不祥事件や学内意見の不統一から、その実行が大幅に遅れている。しかしそれも昨今漸く緒につきつつある。我が学部がこの記念事業とどのような係わりを持つに至るか、現段階においては未知数である。そして今後も書き継がれるであろうこの学部史がそのことをどのように記述するか興味あることである。