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第三編 付属機関

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第六章 システム科学研究所

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はじめに

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 現在「早稲田大学システム科学研究所」と呼ばれている機関は、昭和三十一年「早稲田大学生産研究所」として発足したものである。これは当時、まだきわめて低かった日本産業の生産性向上の援助を目的とした、米国の経済政策の中から生れた「ミシガン協定」(後述)が契機となっている。従って我が国の経済復興、産業生産性の向上に伴い、研究所の使命も必然的に変らざるを得ず、当初力が注がれていた民間企業・公共団体からの受託研究から、現在では社会人の教育の場としてのウェイトを高めてきている。

 以下節を追って話を進めていく。

一 生産研究所ができるまで

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 昭和三十一年春、大隈老侯の銅像のまわりで座りこみハンストを行っている一群の学生がいた。

 「大学の自治を守れ」

 「ヒモつき援助は大学の学問・研究の自由を侵す」

 「産学協同反対」

というのがスローガンであった。

 当時、昭和三十一年といえば「もはや戦後ではない」と経済白書が謳い、日ソ国交回復、日本の国連加盟承認という事実が示すように、我が国が一応の経済成長を達成し国際社会に復帰した年である。早稲田大学においてもこの年の一月、米国ミシガン大学との研究協定に基づく研究推進の機関として、生産研究所(現システム科学研究所)が創設された。その創設の主旨に対する疑念をめぐって学内にいろいろ意見の対立があったが、その一つが前記ハンストとなって現れたのである。国外の大学との正式の協定はこのミシガン大学とのものが最初であったが、協定の話そのものはこれが最初ではなかった。既に前年、米国ジョージア工科大学との提携の話があったのであるが、強い反対意見があり実を結ばずに終ったという経緯があり、ハンストはその延長上のものであった。

 話は昭和三十年の出来事に戻る。

 三月である。当時、米国国務省の一機構に国際協力局(ICA)というのがあり、そこから日本生産性本部を通じて早稲田大学に、米国ジョージア州アトランタにあるカレッジ、ジョージア工科大学との「大学契約」の申入れがあった。ICAは、工業化の遅れている当時のいわゆる後進国の生産性向上を目的とした米国政府の援助計画を司る機関であり、その援助計画の一環である大学間の研究者交流プログラムに従っての話であった。所要資金は米国政府が支出するということで、この辺りがヒモつき援助云々として論議を呼ぶところであった。が、とにかく、申入れを受けた大学本部は、かねてから海外交流を考慮していた就任間もない大浜信泉総長の強い意向もあり、契約の内容からみて理工学部がその対象として適切であるとの判断から、青木楠男第一理工学部長にその交渉を委ねた。青木学部長と米国大使館との間に何度か交渉が行われ、ある程度具体的日程の詰めを終えた六月の末、理工学部教授会に報告された。太平洋戦争をはさんでの二十年間、国際的に孤立し学術文化の水準にもまた遅れをとっていた日本の学界にとって、新しい発展の基礎として絶好の機会であるとの認識から、本部および青木学部長はこの契約の実現にむけて力を注いできたのであるが、理工学部教授会はこれに対して反対の意向を示した。反対の理由は数多いが、大学の根本理念に関する重大問題の折衝が事前に教授会に計られなかった、という手続き論と、ジョージア大学の背後にICAがあり、これは教育行政に対する米国の容喙である、というのが主なものであった。反対意見が多数あるとの報告を受けた大浜総長は二度に亘り理工学部教授会に出向いて説得に努め、特に八月一日の教授会に先立つ七月三十日には理工学部教授だけを招いて説得を行ったが、反対運動は却って急速に学苑全体に波及していった。そして八月十六日、こういった空気を察知したジョージア工科大学から見合せの申し出があったことが青木学部長から総長に報告され、この話は一応ケリのついた形となった。

 しかし、海外との交流に執念を燃やす大浜総長は、その年の九月、トルコのイスタンブールで開催された国際大学協会の総会の帰途米国ワシントンに立ち寄り、国務省の高官と会見、大学間の交流の件について早稲田側の事情を説明して幾つかの条件を提示、協議した結果、ミシガン大学と交渉を持つことにおいて合意を得た。大浜総長の提示した条件はすべて大学の自治の保障から発するもので、学ぶべきものは学ぶがその採択の決定は早稲田大学が自主的に決定すること、米国からの学者は特にそのために設ける特別の機関において協力し、学部の授業には参与しないこと、米国からの学者は早稲田大学総長の監督下におき勝手な行動はしないことという、当時としてはかなり強い調子のものであったが、先方も当初からその方針であるとしての合意であった。大浜総長は直ちにその足でミシガン大学を訪れ協力の具体的内容について打合せを行い、契約の草案は工学部長ブラウン教授、工業経営学科長アレン教授の来日を待って決めることにして帰国した。

 前記条件の中にある米国からの学者を受け入れる特別の機関という構想の実現が生産研究所であった。前年、学部直結の協定を試みて挫折した苦い経験から、生産研究所を設立することにより学部の自主性の侵害という憂いを避け、教育と生産性向上運動とを明確に分けることによって米国の教育行政に対する容喙であるという非難をかわそうという考えであった。そして更に、米国からの学者によってもたらされる先進技術を消化し、日本産業の生産性向上のために貢献するいわゆる産学協同の窓口としての機能を果すことも生産研究所の使命として盛り込まれた。

 かくて昭和三十一年一月、大浜総長が一夜にして書き上げたといわれる生産研究所規則を以て早稲田大学生産研究所は発足したのである。初代所長は総長自身が兼務したが、これは学内にある根強い反対運動に対処するためであって、実際の運営には副所長である河辺㫖教授が当った。この月にはミシガン大学から前記二教授が来日し、ミシガン・早稲田両大学の交流に関する協定書の草案作成に取り掛かった。そして三ヵ月後の四月五日、理事会の席上で調印が行われ、四月七日の広報によって全学に通知された。

 前年のジョージア工科大学との協定の内容にくらべ、協定実施の場が学部でないことと、大学自治の保障が得られていることも明らかであったため、少数の教員の反対はあったものの教員全体としての反対は起らなかった。しかし、一部学生による過激な反対運動と呼応して、総評・日教組・革新政党が反対運動に立ち上がるに及び、反対運動は次第にエスカレートし、九月には反対運動グループの掲示、大浜総長の告示が張り出された。反対グループの主張と、大浜総長の剛毅な気性を示す三つの資料を次に掲げて当時を回想することにする。

 九月初めに掲示された文化団体連合会の声明、

声明

早大ミシガン協定は、大学の自治独立を侵害するものであり、学問思想の自由を束縛するものである。我々は建学以来、凡ゆる学問の自由の圧迫、大学自治侵害に抗して来た輝かしい伝統を持っている。

ミシガン協定はアメリカ対日政策の一環として早稲田大学をその政策の下に隷従させる目的に他ならない。

我々の文化はつねに国民と共に発展し、その中で様々の分野に於いて花を開いて来た。

我々が更に発展するために自由こそ最大の条件である。我々は学問文化の自由な発展を妨げるミシガン協定に断固反対し、その破棄を要求する。

協定は既に発効し、来る十二、十四の両日にはミシガン大学よりゴーディ、ページ両教授が来日する事態は急である。

各団体はこの協定について早急に討論を起し、明確な態度を表明される事を要望する。

文化団体連合会常任委員会

 九月十一日、ミシガン問題対策委員会の声明、

声明

各学部代表及び全学協代表、文団連代表を以て組織されたミシガン問題対策委員会は全学協議会の協定破棄の決議に従い、さし当たって次の事業を行う。

○ 十一日抗議団(各学部代表、全学協代表、各サークル代表を以て組織)を米国大使館に派遣して我々の決議文を手渡す。

○ 十二日、羽田に抗議団を派遣し、来日米教授に対し協定破棄の決議文を手渡し、我々の意志を表示する。

○ 十二日午前(十一時)と午後(六時)の二回に同じ内容の抗議集会を大隈講堂に於いて持ち、報告や討議を行う。

この際各党代表総評等よりメッセージを受ける。

さし当たって運動は以上であるが、我々は協定破棄を実現させることを目標にあくまで闘争を行う。さらにその過程に於いて現在極端に制約されている学生自治権を充実させ学園の民主化と明朗化を実現したい。

この協定による援助資金はアメリカの国家機関であるICA(国際協力局)を通じてのものであって明らかに米国の政治的意図を含むものである。この結果我々の学問の独立と研究の自由は不当な権力に屈する。

また生産性向上運動は、あくまでも資本家の立場から行われるものであって、それは労働者の生活を更に圧迫するものである。学問がかかる不純なる研究に従うことは学問の御用化を意味するのであって断じて許されない。我々はこのような見解に於いて

学園の民主化を実現し学問の自由と独立を守るため、全学生の積極的な参加によって断固として闘争を行う。

ミシガン問題対策委員会

 これに対して、九月十五日、大浜総長の告示が出る。

学生諸君に告ぐ

早稲田大学 総長 大浜信泉

早稲田大学とミシガン大学との研究に関する協定は、大学の発展、自主性の確保、その他あらゆる観点から慎重に検討を遂げ学部長会及び評議員会の審議を経て調印されたものである。なお、ミシガン大学からの派遣教授との共同研究は生産研究所において行われるが、同研究所には、政治経済学部七名、商学部八名、理工学部二五名の教授がそれぞれ所属学部の教授会の議に基づき研究員としてこれに参加しているばかりでなく、すでに該協定によって本大学教授たる九名の研究員が渡米し、ミシガン大学が特に早稲田大学のために整備した施設内に宿泊し、同大学の厚遇に満足して各自の専攻科目の研究に従事している。

然るにこの段階に至って、一部少数の学生が外部勢力と連繫してこの協定の実施を妨害、その破棄を唱え、大学の禁止を犯して不法な集会を重ね、さらに来日を予定されている派遣教授に対して非礼不穏な行動に出る形勢をさえ示していることは、まことに遺憾に堪えない。大学の既定方針を妨害するこの種の軽率な行動は、大学の対外信用を失墜し、在米中の本大学教授を困難な立場に陥れる恐れがあるばかりでなく、明らかに大学の自治、研究の自由に対する不当干渉であって、学問の独立に名を藉りて自ら学問の自由をじゅうりんするものというほかはない。

生産性の向上とこれに随伴する諸問題の研究は世界の国々が等しく取り組んでいる重要課題であり、早稲田大学生産研究所もこれらの諸問題の研究を指向しており、ミシガン大学派遣教授との共同研究もこの範囲内で行われるものである。生産研究所は、純学理的の研究機関であって、自ら生産を行う場所ではない。生産性の向上は一部の人々によって勤労階級の利益に反すると言われているが、それらの問題をも併せて学問的に研究することが大学の尊い使命であって、研究それ自体を阻止すべき理由はない。

ミシガン大学の派遣教授はいずれも工業及び経営に関する学者であり、その専門の知識及び技術をもって生産研究所における研究に協力するにすぎない。大学の付属研究所における研究に二、三の外国人教授がその科学的知識をもって参与したからといって、それによって大学の方針を左右され、その自治を侵害されるかのように惧れることは、杞憂であるばかりでなく、自信の喪失というほかはない。

早稲田大学の建学の精神である学問の独立はわれわれ自らがこれを擁護すべきものであって、外部の勢力によって守らるべき筋合のものではない。また学問の独立は厳正な批判力と自主的精神を基調とするものであり、決して外国大学との学問的協力を否定するような排他的の精神を内包するものではなく、寧ろ宏大な気宇を以て積極的に各国の科学の成果の摂取に努めることが我が早稲田大学の伝統である。

以上の見地に立って大学は既定の諸計画を推進する決意であるから、学生諸君は大学の方針を理解して慎重に行動されたい。

昭和三十一年九月十五日

 こうして一時は盛り上がった反対運動も結果的には比較的短期間に収まり、その後は協定とそれに基づく生産研究所の活動は順調に行われていった。そして当初三年間であった協定期間は更に二年間延長され、早稲田大学からは五十一名の教員が米国に渡り米国からは三十一名の学者の来日を見て昭和三十五年協定は終了した。

 このミシガン大学との協定は早稲田大学の国際交流の先鞭であり、その後の早稲田大学の国際交流に大きな影響を与えた。また、大隈庭園の一隅にある外人宿舎での、派遣研究員による「英会話教室」は、当時を知る人々にとっての語り草になっている。

二 受託研究

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 前章で述べたように、生産研究所設立の趣旨は、当時の先進国米国の科学技術を導入することで、我が国産業界の生産性向上に寄与することであった。従ってその根底にはいわゆる産学協同を是とする姿勢がある。生産研究所設立の原動力であった大浜総長が自ら所長を兼務したのも、学内外にある根強い産学協同反対の空気を熟知していたからにほかならない。専任でない所長を補佐すべく副所長として当時の筆頭理事、村井資長教授がその任に当った。そしてもう一人、昭和三十四年から副所長に就任した河辺㫖教授の存在が大きかった。河辺は明治三十六年十歳で渡米、ミシガン大学で学位を得たのち米国の鉄道畑を歩み交通経済の権威であった。出生は日本人でありながら長い米国での生活によりその考え方は完全に米国的であった。我が国産業界の生産性向上に貢献することを目指して創られた生産研究所の活動は、産業界との密接な協同研究――研究所の側から見ればこれは受託研究となる――によってのみ可能であり、そのための研究費は委託側が負担しその研究費によって研究所の運営を賄っていくというのが河辺の考えであった。

 昭和三十二年、まだ専任の研究員はいなかったが、受託研究の第一歩として次の四つの研究が記録に残っている。

「高速道路の研究」――ロックフェラー財団

「技術進歩、特にオートメーションの雇用に及ぼす影響」――労働省

「生産管理部門および原価管理部門の研究」――光学工業会社

「月賦制度に関する調査」――日本生産性本部

 ちょうどこの頃、新しい経営手法として米国で成功をもたらしたというオペレーションズ・リサーチというものを我が国企業へ導入しようという気運が生れていた。これに対応して、昭和三十三年の六月と九月に相次いで気鋭の研究者が研究所の専任助教授として招かれた。吉谷竜一と松田正一である。吉谷は今でいう経営工学の出身、松田は理論物理学者であったが、この二人は既に前任所の茨城大学において協同して新しい科学的経営法、特にオペレーションズ・リサーチについての論文を幾つか発表していた。着任と同時に吉谷は「生産日程計画の研究」を某鉄鋼二次製品会社との協同において行い、松田は兼任研究員の洲之内助教授(本属理工学部数学科)とともに某石油会社のオペレーションズ・リサーチに参加した。当時相手石油会社には、米国某石油会社から米人重役が出向してきており、こちら研究所の河辺とは研究に対する考えが完全に一致していた。受託研究というと、ある研究テーマがあり、そのテーマについて研究を行う、というニュアンスがあるが、松田が参加した石油会社の場合そうではなかった。会社の中に重役会直属の新しいグループが編成され、会社の運営そのものをどうすべきかというのが問題であった。松田と洲之内はそのグループの一員に組み込まれたのである。当時を振り返って松田は次のように述懐する。

あの仕事は大変だった。週に二度製油所へ行って状況を調べ、その結果を週に一度開かれる研究会議で報告し次の週の研究計画を立てる。月に一度は重役会での報告があったし……

 この受託研究を相手石油会社がどの位重視し、また研究所に対してどれほど期待をしていたかは、研究費として研究所に納入された金額を見ればはっきりする。研究費は、研究者の実働時間に対して月当り三十五万円を上限として支払われた。現在物価が当時の十倍であるとみれば、月額三百五十万円であり年間にすれば四千二百万円になる。これほどの金額規模の受託研究は四半世紀に及ぶ研究所の歴史の中でもそう多くはない。松田と洲之内は昼間は殆ど研究所にいることはなかった。夕刻になって研究所に戻ってきた松田と洲之内が、その日の状況確認と翌日の準備のために夜遅くまで議論をしている光景が見られた。そして二年後ジェネラル・レポートとテクニカル・レポートの二編が完成し、松田と洲之内のハードな活動は一段落した。当時この他には、

「名神高速道路関係府県の資源開発」――日本道路公団

「中央自動車道(東京――小牧)の輸送需要分析」――建設省

があり、河辺を中心に研究が進められていた。

 こうした学外機関との協同研究の成果に力を得た河辺は、昭和三十五年、正式に副所長に就任すると、更に受託研究の質・量を充実させるべく研究所スタッフの拡充を計った。そのころ研究所の専任は教授三名、助教授二名、助手三名であった。河辺の胸中には、いずれは専任研究員の給料も大学本部に依存することなく独立採算で賄おうという気持があったようであるが現実はまだそこまで行っていなかった。米国的感覚が身についている河辺は、プロジェクトのワーキング・フォースとして嘱託制度を活用することを考えた。昭和三十六年には七名の嘱託が嘱任され、翌三十七年にはこれら七名は専任の研究員とともに二十五のプロジェクトに参加している。河辺の研究所構想がやがてという時、ある一つの事件が発生する。そのころ研究所内では幾つかの研究グループが自主的に形成され、それぞれの分野で実戦的研究を行っていたが、そのなかの一つに「地域開発研究」があった。日本能率協会から「地域経済研究」を委託されたのはまさにこの時であった。研究の目的はある特定の地域を独立経済圏と見なした場合、その地区が自立し得るための必要最小限の条件を求めようというもので、対象地区として中部地方が選ばれレオンチェフ型投入産出分析が行われていた。ところがこの「地域経済研究」が軍事研究であるということで、学生の一団が問題にしたのである。研究所としてはこの研究は日本能率協会から委託された純粋な「地域経済研究」と受け止めていたのであるが、その研究費のもとが防衛庁からのものであることが分ったためであった。このプロジェクトの主担当者は、河辺副所長のもとで副所長補佐の任にあった西野吉次教授であった。西野はこのプロジェクトの契約が行われた年の九月にミシガンから帰国して最初の仕事でもあり、助手、嘱託を交えた若い研究者とともに鋭意研究に没頭していた最中であった。昭和三十七年九月十七日、早稲田大学新聞の第一面に「学園生産研、防衛庁と結び“軍事研究”」の見出しとして現れたのである。副所長の河辺は国連関係の仕事でナイジェリアへ長期出張中であり、副所長補佐、当該プロジェクト主担当者として西野は反対運動の矢面に立つことになる。大学では次から次へと学生記者の来訪を受け、家に帰れば電話攻めである。西野は、これは絶対に軍事研究ではないとの自己の信念を表明し続けたが、反対運動の勢いはますます盛んになり、遂には研究を中止しなければ十月十七日に全学ストを打つという段階にまで進んで行った。ここに至って十月六日、生産研究所管理委員会は事を平穏に収めるべく日本能率協会との契約を更新しないという決定に及び、十月十二日には全学中央闘争委員会の公開質問状に対する大浜総長の回答が出されたこともあって、反対運動は一応の勝利ということで終焉した。

 この軍事研究問題で若干の動揺はあったものの、生産研究所がそれまでに蓄積してきた研究成果は徐々に世間に広まり、受託研究の数も年間二十件の線を維持し続けた。当初は、生産問題、交通問題といったハード面が主であった受託研究のなかに

「ローカル・ステーション・イメージ研究」――日本放送協会

「時計の色と形についての研究」――日本色彩研究所

といった人間の面を主題とするものが増えてきたのもこの時期であり、これは後に生産研究所からシステム科学研究所への名称変更の伏線になる。

 そして十年。研究所活動の一つの柱であるこの受託研究は引き続き行われてきたものの、当初に比べて比較的小規模のものになる傾向が見られ、河辺の描いていた受託研究による独立採算の夢は既に消えていた。しかし受託研究を通じて生の社会と接触しながら開発し蓄積してきた経営科学に対する新しい方法論と方法は、研究所の知的財産となり、やがてこれらを社会に還元すべく昭和四十八年から社会人を対象とした「システム分析・設計コース」という全日制一年間の教育コースが設立される。これに伴い、受託研究は、独立採算を目指した収入源としての研究から、経営科学の理論と実践の接合点としての研究と社会人教育の栄養源としての色彩が濃くなって今日に至っている。

三 教育活動

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 生産研究所が受託研究を主たる活動としてきたことは前述した通りであるが、生産研究所にはもう一つ、生産性を向上させるための新しい経営の手法を産業界に知らしめるという啓蒙の仕事があった。昭和三十二年初夏、ミシガン大学からの派遣研究員を中心としたオペレーションズ・リサーチ・セミナーが開催され、これが後の研究所の教育活動の発端になる。このセミナーは早稲田大学の教室を使って行われた研究者対象のかなり大規模・詳細に亘るものと、箱根のホテルで企業のトップを対象にして行われた紹介コースの二つであった。講師はミシガン大学の教員だけでなくミシガン大学を通じて派遣されてきた他の機関からの派遣員も含み、ウィルソン、ウッドベリー、フィーニー、メイコールという当時オペレーションズ・リサーチの世界では一流の研究者達であった。早稲田大学でのセミナーには日本におけるこの分野の殆どすべての研究者が参加して熱気溢れる討論が展開され、また箱根のホテルに集まった人々には大きな感銘を与えてこのセミナーは成功裡に終了した。八月にはゲージ、ストールによる、MTMの講演が行われ、これを皮切りに派遣研究員と生産研究所研究員との混成グループによる日本全国啓蒙行脚が始まる。その内容も、マーケティング、ヒューマン・リレーションズ、経済予測、新製品開発等々多岐に亘り、ミシガン協定の終了する三十五年までに北は北海道札幌から南は九州八幡まで四十件近く開催された。協定終了後も、研究所の専任、兼任研究員によって続けられていく。こうした全国遠征セミナー・講演会での経験と、受託研究等から得た知的財産をもとに四十三年からは東京に本拠を置いた「経営科学講座」が開設された。これは、毎週月曜から金曜までの夜、京橋にあるビルの一室を教室にして八コースを以てスタートした。「組織・人事管理」「貿易経営及び実務」「マーケティング」「経済分析」「オペレーションズ・リサーチ」「インダストリアル・エンジニアリング」「管理会計」「生産管理システム」の各コースであり、受講者は三百八十名であった。

 この頃から受託研究の状況はその件数こそ二十件の線を維持してはいたが、例の軍事研究騒動以来、国がらみの受託研究に及び腰になってくると、受託の対象はいきおい民間企業中心ということになる。しかし初期の某石油会社のように全社的に取り組んでくれる相手はなく、一件当りの受託料も低額のものになってくる。これは一つには既に日本の企業の体質が改善され、その中に優秀な研究能力を持つ人々が増えてきているという事実に起因している。当初受託研究による独立採算を目指して専任研究員を増員してきた研究所の歴史は大きな曲がり角に立つことになった。私立大学の学生を持たない研究所のあり方、そしてその将来構想についての論議が研究所員の間でなされ始める。研究所なのだから研究成果を以て大学に還元すれば良いという純粋研究論もあったが、河辺副所長時代からの研究員の頭の中には、研究成果は当然のこととして更にある程度の収入を確保し大学に還元すべきであるという考えも根強かった。毎週一回開かれる研究所員会で白熱した議論が繰り返された。私立大学がその経費の大部分を学生の納入する授業料に依存していることから、研究所に学生を持つことの可能性が論議され始めたのもこの頃である。さまざまな構想が浮かんでは消えた中で「女子情報短期大学」の案がかなり具体的に検討され大学本部に提案したが、短期大学は早稲田には馴染まない、ということで没になった経緯もある。

 一方、研究所にはプロジェクトの受託先などから派遣されてくる人々を受け入れる研修員制度があり、既に何人かの人々が研修中であった。彼等は将来それぞれの企業において研究プロジェクトを推進していく立場の人間であり、そのために研究所が開発・蓄積してきたプロジェクトに対する新しいアプローチの仕方を学んでいた。こうした事実と、三十六年から実施している夜間の教育コースの実績から、研究所の知的財産を広く社会に還元するための昼間コースの設立が検討され始めた。そして四十七年九月十八日の研究所員会で全員の合意を得、翌四十八年四月の開講を目指して具体的な作業にはいった。名称を「早稲田大学エクステンション、システム分析およびシステム設計に関する一年制専門教育課程」と定め、村井総長、堀家教務部長と折衝の結果、大筋の了解を得、十月三十日の研究所管理委員会の承認を経て理事会に提案、十一月十七日コースの設立が決定した。

 この課程は、設立の背景からして一般学生を対象とするものではなく、企業等に入社して後、数年間の実務経験を持つものを対象とした社会人教育を目指す、いわゆる大学におけるエクステンション活動の一環として位置づけられるものであった。

 さて、威勢よく早稲田大学エクステンションとぶち上げたものの、それからが問題であった。コースはできたが蓋を開けたら研究生がいない、ということになっては大変である。いかにして研究生を集めるかが焦眉の課題であった。それまで各種のセミナー、講演会、講習会を実施して企業に対してのPRの仕方は経験しているものの、この課程のように一年間の昼間フルコースの教育コースではそのPR方法は当然これまでとは違った方法を採らなければならない。研究所の事務職員諸氏の熱意ある協力のもとにこれまで研究所と関係の深かった官公庁、企業をリストアップし、それらの企業に研究員と職員によるアベック訪問セールス活動が始められた。これとともに、大学としても全く新しい事業を始めることになったわけで、村井総長も大きな関心を寄せ、広報活動として総長の呼び掛けにより報道・出版関係その他諸団体に対しての趣旨説明記者会見が四十八年二月五日、ホテル・グランドパレスで行われた。朝日新聞社、読売新聞社、毎日新聞社の三大新聞はもとより、日本経済新聞社をはじめとする数社、ダイヤモンド社等の出版関係数社、団体としては日本経営者団体連盟、東京商工会議所、日本能率協会等多数の出席を得た。出席の各社とも、翌日の記事として取り上げ

日本経済新聞「システム分析など社会人向け専門コース、早大生産研究所が開設へ」

毎日新聞「早大に経営システム分析の昼間講座」

読売新聞「エクステンションコース、早大、社会人対象に開設」

等々各社とも非常に関心を持った記事が掲載された。

 こうしてコース開設決定から僅か数ヵ月の募集活動の結果、第一期生として十四名の研究生を受け入れることになったが、このコースはその後名称を「一年制専門教育課程」「ビジネスシステム教育課程」と変更しつつ順調な発展をみせ、五十五年の八期生まで合計百八十六名を送り出した。

 現在更に教育内容を充実させ、効果のある教育方法を考えることで、早稲田大学の一つの特徴ある看板にすべく、研究所員の間で鋭意検討が繰り返されている。

四 研究活動

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 既に何度も繰り返し記したように、生産研究所の設立は「ミシガン協定」に基づいたものであり、初期の仕事は協定に従ってミシガン大学から早稲田大学へ派遣されてくる人々の受け入れ、そして早稲田大学からミシガン大学へ派遣される人々のために当時はまだ自由でなかった海外渡航の諸々の事務手続きを行うのが主なものであった。しかしこの機関の設立を契機に、学内に生産性向上について研究しようとする任意小規模ながら熱心なグループが結成され、その会合への援助、またミシガン大学からの派遣員による学外セミナーの企画・開催も手掛けていた。

 当時行われていた研究所内部の研究グループの活動、ミシガン大学派遣員による対外セミナーには次のようなものが記録に残っている。

作業研究部会

Operations Research部会

Marketing部会

Method Time Measurement

米国に於けるインダストリアル・エンジニアリングとその効用

 こうした部会研究会は、生産研究所が受託研究をその活動の主体にし始めるとともに変化し、ミシガン大学からの派遣員によるセミナーも、三十五年協定の終了とともに当然終りを告げる。

 しかし「ミシガン協定」によって海外との接触を持った実績は、やがて三十八年、戦後初めての国際学会を日本に招聘することになる。日本オペレーションズ・リサーチ学会との共催によるTIMS(The Institute of Management Sciences)国際学会東京大会の開催である。TIMSは米国に本拠を置く経営科学の学会であり、三十四年、生産研究所の研究員を主体にして東京支部が結成されていた。この結成に当って活躍したのが前にも登場した国際人、河辺であった。三十六年晩秋、時のTIMS会長C・W・チャーチマンから河辺に働き掛けがあり、河辺がジェネラル・チェアマン、ミシガン協定による留学から帰国したばかりの前記西野をプログラム・チェアマンとして二年間の準備の後、三十八年八月二十日から二十四日までの五日間丸の内のパレス・ホテルで行われた。セッションを十六ほど持った大国際大会であった。その苦労話や会の内容は、西野が『生産研究所所報』No.8に詳しく記しているのでここには各セッションのタイトルだけを記し、その盛会ぶりを偲ぶことにする(括弧内は発表講演数)。

セッション

A Methodology of Management Science(4)

B Mathematical Programming(6)

C Queueing and Related Problems(5)

D Inventory(5)

E Behavioral Science Application(5)

F Prediction and Forcasting(5)

G Decision Problems(5)

H Managerial Economics(6)

I Planning I(5)

J Compute Application(5)

K Planning II(5)

L Industrial Application(6)

M Mathematical Programming(2)

N Production Scheduling(3)

O Marketing(3)

P Planning(2)

 セッションM、N、O、Pはラウンド・テーブル方式のものであった。

 この国際学会のあと暫くの間、研究所は専ら受託研究に専念することになり、研究員は受託研究を通じてそれぞれ自己の研究を深めていく。この期間は研究所の研究員にとって次の飛躍への準備期間であった。受託研究を通じて開発・蓄積された知識・技術そしてそれらを活用する方法論の研究、物理学からスタートし、オペレーションズ・リサーチに従事していた前記松田はやがて「一般システム論」に出会い、ロジスティックなオペレーションズ・リサーチから人間を含んだ社会システムの研究に傾斜していく。松田の周りにはいろいろな学部の学生や大学院の学生が出入りしはじめ、研究所内の若手研究者とともに熱心な研究が続けられていく。一方、吉谷は、米国ワシントン大学のナドラー教授の「ワーク・デザイン」に巡り合い、研究所の若手研究者とともに日本人に適合したものの考え方に基づく「システム設計」を開発する。更に、受託研究において需要の増えてきた企業行動の研究、人間行動の研究を母体に、会計学・心理学・社会学を統合した研究、そしてこれも前記西野等による「地域開発研究」と、次第にその高まりを見せ、研究所内での方法論論議の結果と併せて、昭和四十九年、一つの方法論に結集した学際的研究を発展させるべくその名称が「生産研究所」から「システム科学研究所」と改められた。そして早稲田大学創立百周年を翌年に控えた五十六年には生産研究所時代を含めた研究所創立二十五周年を記念して六つのシンポジウムが開催され、学内外から多数の参加者を得て成功裏に終了した。

 詳細は『システム科学研究所所報』No.35に掲載されているので、ここには標題だけを掲げて現在の研究所の研究活動の一端を示すことにする。

「環境アセスメント」 二月十七日 於 システム科学研究所

「第2回 MRPシステム」 三月九日―十一日 於 大隈小講堂

「人間社会とシステム」 十月十七日 於 小野記念講堂

「日本的生産システム」 十月二十九日 於 小野記念講堂

「物流の動向」 十一月十二日 於 小野記念講堂

「日本におけるCDPの展開とこれからの問題」 十一月十八日 於 小野記念講堂

おわりに

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 システム科学研究所の活動は甚だ多岐に亘っており、従って歴史もまた複雑である。紙数の関係で書き残したことも多い。しかし研究所が現在活動している方向が以上の歴史の上にあることは確かであり、研究員一同更にその機能を発揮すべく鋭意研究・教育に専念していることを記して筆を置くことにする。 (文中 敬称省略)