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第三編 付属機関

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第十一章 大学史編集所

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一 大学史編集所前史

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1 図書館時代

 昭和三十四年五月、坪内雄蔵、三十五年五月、市島謙吉、同年十一月、高田早苗、三十六年十一月、天野為之と、引続き予定される物故功労者の生誕百年祭記念展の企画・実施を当時担当した早稲田大学図書館では、高野善一を中心に、関係資料の収集・整理に努めていたが、間近に迫る創立八十年誌編集の資料としても、早急に担当個所を設けて、未整理の貴重な校史関係資料の散逸を防ぐとともに、整理・未整理併せて一括収集・管理する必要が痛感された。そこで昭和三十六年、図書館長大野實雄の発意により、図書館の整理部門内に「校史資料係」が創設され、司書補高野善一と、雇杉本冨士夫とが専属係員として配属されて、図書館特別資料室の一隅において精力的な活動が開始された。

 創立八十周年を迎えた三十七年には、『早稲田学報』十月号に、大野図書館長は、「校友各位へのお願い」と題して、「只今本館では、校史に関するどのような資料も、血まなこになって集めております。例えば、初期の講義ノート、得業証書、通信簿、レポート、記念写真、帽章、各部バッジ、クラス会誌、クラブの記録等々。今日になりましては、どのようなものも、校史に関する重要史料でないものはございません。地方校友会支部の沿革に関する記録などは勿論のこと、改進党、進歩党支部の活動に関するものなど、いわゆる外史的資料ももとよりこの中に含まれます。校友各位のお手もとに、もしもそのような諸資料を御所蔵でしたら、何とぞ本館へ御一報頂きたく、御願い申し上げます」(六四頁)との一文を草し、大学史編集資料の収集への協力を全国校友に向って積極的に訴え、更に同誌十一月号、翌三十八年四月号および十月号と引続き、要請するところがあった。

 図書館時代の校史資料係は館長の熱意に支えられて、本学苑関係資料の収集・整理に専念し、大学史編集所の基礎を築く上に多大の貢献を行ったが、同時にこの間、一、天野為之生誕百年記念展(三十六年十一月)、二、創立八十周年記念展(三十七年十月)、三、大隈侯生誕百二十五年記念展(三十八年十月)等を担当して成果を挙げている。

2 教務部所管時代

 昭和三十七年十月、創立八十周年の記念祝典を挙げるとともに、募金運動を成功せしめて記念事業を無事軌道に乗せた学苑は、翌年末に至り、『早稲田大学八十年誌』編集の任に当った定金右源二、中西敬二郎らの貴重な体験に基づく進言に聴従し、『慶応義塾百年史』編集の先例を参考として、校史資料係を総長直轄とし、本部機構への移管に踏み切った。

 すなわち、昭和三十八年十二月五日の理事会は、「校史資料室設置要領」を決議し、「事務は当分の間教務部で行うこととする」として、「教務部所管」時代が開始した。この時代は、三十九年十月八日の理事会で決議した「総長室に関する規程」(四十年二月一日から適用)制定に至るまでの僅か一年有余の短い期間ではあったが、本設置要領の制定によって、校史に関する資料の収集・整理のみに止まらず、「大隈記念社会科学研究所」の改組(三十八年七月十五日改正)によりその事業目的から削除された「大隈重信の事績の研究」を継承して、創立者大隈重信の事績の研究をも遂行するに至ったのである。すなわち右の設置要領は左記の如くである。

校史資料室設置要領

一、校史資料室を設置し、理事会の直轄下において総長が統括する。

二、資料室は本大学の歴史および創立者大隈重信の事績に関する資料の蒐集・整理・保存、竝びにその研究をなすことを目的とする。

三、前項の目的を達成するために、嘱託若干名をおく。

四、嘱託は原則として非常勤とし、その任務の内容、勤務条件および報酬は嘱任に際してその都度個別的にこれを定める。

五、資料の整備および研究の推進に関し、嘱託を補佐させるために補助員を若干名おくことができる。

六、補助員は、原則として非常勤とし且つ大学院の学生のうちから採用し、給与については大体副手に準じて取扱う。

(『昭和三十八年度 理事会記録㈢』)

 次いで、本設置要領に基づいて人事構成が決定し図書館旧館長室に校史資料室が開室した。

 すなわち、研究部門に関しては、大学史研究を中西敬二郎、大隈重信研究を木村毅、高垣寅次郎、阿波田時彦(四十年三月退任)、池田浩太郎(同前)、岡田清(同前)、岡田俊平によって推進する体制が整った。他方、資料整備部門は、高野善一を主体に補助者をおいて、百年史編集に向って、資料の収集・整理に図書館時代よりも百尺竿頭一歩を進めるに至った。

 かくして、僅か一年有余の短い期間であったが、三十九年十月に第一政治経済学部、第二政治経済学部、体育局、図書館の共催で行われた安部磯雄生誕百年記念祭への参画(早稲田大学校史資料室編『安部磯雄――その著作と生涯――』昭和三十九年十月、早稲田大学教務部刊、参照)をはじめ、同年十一月に第一商学部、第二商学部、早稲田大学経済史学会の共催で行われた平沼淑郎博士生誕百年祭への協力(早稲田大学経済史学会編『平沼淑郎博士生誕百年記念誌』昭和三十九年十一月、早稲田大学第一、第二商学部刊、参照)、更に同年十二月に第一文学部、第二文学部、教育学部、図書館の共催で行われた吉田東伍博士生誕百年記念祭への参画(早稲田大学史学会編『吉田東伍博士年譜と著作目録』昭和三十九年十二月、早稲田大学教務部刊、参照)など、新陣容の成果を示した。

3 総長室時代

 大浜信泉総長が三選され、創立八十周年記念事業の完成による新局面への転換の時期を迎えた学苑は、内部機構の充実を計るべく、三十九年十月八日の理事会において本部機構組織の改正が協議され、翌年一月七日の理事会で事務組織一部改正が決定された。その結果、本部に総長の直轄下の機関として、部に準ずる総長室が設置され、秘書課のほかに、校友課、企画調査係と校史資料係とが置かれることとなった。この改正規程は、四十年一月十七日から施行、二月一日から適用と定められた。

 新設の総長室に関しては、「総長室に関する規程」が制定されたが、その第二条において、「校史資料係」について、

一、大学の歴史に関連する資料の蒐集、管理に関する事項

二、大学の歴史の編纂に関する事項

三、大隈重信の事績に関する資料の蒐集、研究および研究成果の発表に関する事項

の三項目に亘り事業目的が規定されるとともに、その第八条には、

第二条の規定による校史資料係の所管事項中大学の歴史の編纂ならびに大隈重信の事績の研究および研究成果の発表に関する事項については、特別の委員会を設けてこれにあたらせることができる。

2、前項の委員会の委員には本大学の教職員をして兼務させるほか、必要に応じて嘱託を委嘱することができる。

(『昭和三十九年度 理事会記録(四)』)

と明記され、教務部所管当時から発足した大隈研究を主たる目的とする研究部門の規定化に加えて、特別の委員会の設置が実現することとなった。すなわち、四十年二月十一日の理事会は、左の如き「早稲田大学史編纂研究委員会設置要領」を制定したのである。

早稲田大学史編纂研究委員会設置要領

Ⅰ 総長室規定第8条の規定に基き、校史資料係の所管として委員会を設け、これを早稲田大学史編纂研究委員会と称する。

Ⅱ この委員会は、下記の事項を任務とする。

⑴ 大学の歴史に関する資料の蒐集(諸家訪問録音採取をふくむ)に関する方針の検討。

⑵ 大学の歴史に関する研究および研究成果の刊行。校史全体のまとまったものの編纂と刊行は創立百年を目標として考えるべきであるが、校史の一局面または特定の事項につき、全体との関連をはなれて特別の研究をとげ且つ刊行することが望ましいものについては、この委員会の判断によって、これを推進することを妨げないものとする。

⑶ 大隈重信の事績に関する資料の蒐集に関する方針の検討。

⑷ 大学史との関連における大隈重信その他の功労者の事績に関する研究と研究成果の刊行。

Ⅲ この委員会の委員には、さしあたり下記の諸氏を嘱任する。

時子山常三郎(担当理事)、小松芳喬(政)、中村吉三郎(法)、京口元吉(文)、尾形鶴吉(教)、入交好脩(商)、高木純一(理)、中西敬二郎(嘱託)、阿部賢一〔評議員会長〕、木村毅〔嘱託〕、丹尾磯之助〔校友会常任幹事〕

Ⅳ 上記委員会の下部機構として、大学史編纂準備委員をおき、上記委員会の記録の作成、委員会の定めた方針に基く資料蒐集の実施、委員会の研究成果の編纂および刊行にあたらせる。 (『昭和三十九年度 理事会記録㈣』)

 右要領によって明らかな如く、それに基づいて設置された「研究委員会」の性格は、現行規定による「運営委員会」とは異なり、大隈研究および大学史に関する研究方針の立案ならびに推進を直接担当するものであった。

 研究委員会委員の研究成果は、創刊せられた機関誌『早稲田大学史記要』第一巻第一号(昭和四十年六月三十日刊、「紀要」でなく「記要」としたのは木村毅の発意である)に発表され、大学史編集事業の第一歩が踏みだされたことを全学に印象づけた。総長大浜信泉は、創刊号に「早稲田記要の刊行にあたって」と題して、

早稲田大学は、一九八二年すなわち昭和五十七年には創立百年を迎える。おそらくはその記念事業の一環として百年史を刊行しなければならないと思うが、一世紀といえば悠久の歴史に大きく節付けをすることになるので、百年史こそはその内容においても事実の考証においても完璧を期さなければならないであろう。それにはいまから資料の収集、整理につとめる反面、いろいろの角度から掘りさげた研究を積み重ねて行く必要がある。この趣旨に基き、総長室の機構内に校史資料係を設けるとともにそれぞれの専門家に研究を委嘱した。……そこでその時々の研究の成果をとりまとめ、早稲田大学史記要と題し逐次巻を追うて刊行することとした。 (二頁)

と述べて、総長室の設置に際し校史資料係をその所管に移すとともに、全学的な編纂研究委員会を設け、機関誌を刊行するなど、面目を一新して、来たるべき百年史編集に遺憾なからしめようとする抱負を宣言した。この宣言の趣旨は、教務部所管時代以来、担当理事として運営・育成に専ら意を用いてきた常任理事時子山常三郎によっても、同誌上に寄せた「大学史編纂研究の新発足に当って」において、次のように繰り返し強調されている。

十七年後に創立百周年を控えて大学史編纂研究の作業を新らたにはじめることとなった。……この大学史編纂研究の新発足によって、新しい資料の蒐集、整備によるのみならず、旧い資料からも得られよう現段階的史眼に俟つ研究の成果によって、来たる創立百周年記念事業を飾りうることを念願してやまない。 (二―六頁)

 さて、総長室時代は五ヵ年に亘ったが、その間の特筆すべき足跡の第一は、右の機関誌の刊行であった。この機関誌には、単に研究委員による研究論文のみに止まらず、学内外に呼び掛けて、早稲田大学の歴史に関する論稿の掲載を計り、また未公刊の史料の紹介に努力した。第一巻は三分冊、第二巻は二分冊として刊行されたが、第三巻以降は、年間一冊が慣行となり、百周年式典までに十五巻(通巻十九号)を刊行した。

 次に、三十八年の校史資料室の改組に伴い、前述の如く大隈研究部門が設けられたが、その最初の成果が、木村毅監修『大隈重信叢書』全五巻(昭和四十四年四月―四十五年五月、早稲田大学出版部発行)の刊行であった。

 大隈は、明治維新という騒然とした時代背景の下で新政府の重職を占め、新日本の建設に参画して以来、藩閥官僚の世俗的権力主義と戦い抜いて、偉大な人格を築きあげ、卓越した大経世家として、朝にあって内政・外交上に顕著な功績をのこし、また、多年野にあって政治上は勿論、経済・社会・教育等多方面に亘り国民の指導者たると同時に、常に国民の休戚を双肩に荷って世界の世論を動かすことを怠らず、来朝の外国人にしてその邸を訪わざるはなく、「早稲田の道は世界に通ずる」といわれた。この世紀の偉人大隈を知ることが、激動の時代に生きる上にも大いに役立つと確信して、口述筆記の著作の中から、現代に最も適切な題目を選んで五巻に編んだのが、この『大隈重信叢書』である。本叢書の刊行に当り、「本大学の建設者で且つ世紀の大政治家であった大隈重信侯の世界的獅子吼を身につけてこそ、初めてほんとうの早稲田人である。その大雄弁の結晶が本叢書だ」と記した監修者木村毅は、刊行後数年ならずして、胃の大手術を余儀なくされたのであったが、当時既に高齢にも拘らず、まだ壮者を凌ぐ元気をもって、若い編集員の指導に間然するところがなかった。本叢書の内容は左の如くである。

第一巻『大隈重信は語る――古今東西人物評論――』(校訂者和田穣)

第二巻『大隈伯昔日譚』(校訂者中西敬二郎)

第三巻『大隈侯昔日譚』(校訂者中西敬二郎)

第四巻『薩長劇から国民劇へ――明治政党興亡史談――』(校訂者和田穣)

第五巻『大隈侯座談日記』(校訂者高野善一)

 なお、大隈研究に関連して、図書館特別資料室収蔵の『大隈文書』の翻刻も検討された。校史資料室設置当時から、大隈財政史の研究を担当した高垣の要望もあり、四十四年二月には、その計画書を作成、当時の時子山総長を交えて実行案の作成を協議した。しかし何分にも、文書四千八百冊、書翰六千六百四十通におよぶ膨大な翻刻なので具体化するに至らず、その後、村井資長総長時代にも再度検討されたが結局実現されず今日に至っている。

 総長室時代に収集・整備された資料の主なものには、まず、『早稲田学報』の複写がある。本誌の内容は、校友会記事や校友の動静のみに止まらず、学苑関係者の論文をはじめ、校報、学会記事、雑報にまで及び、現在の『早稲田大学広報』の領域をも包含した大学史資料として不可欠のものである。本資料室は、早くからその前身をなす、第一次『中央学術雑誌』、『専門学会雑誌』、『憲法雑誌』、『日本理財雑誌』、『公友雑誌』、『同攻会雑誌』、第二次『中央学術雑誌』、『中央時論』を含めて、これらのすべての複写を計画し、漸くにして昭和四十一年九月完了することができた。このほか、特記すべきものに、大隈家寄贈分を含めて四千四百五十枚にのぼる写真の複写・整理があった。

 他方、四十一年十一月、浮田和民博士二十年祭には、記念追悼展を担当(早稲田大学校史資料室編『浮田和民博士年譜と著作目録』昭和四十一年十一月、早稲田大学総長秘書室刊、参照)、次いで十二月には、ホテル・ニューオータニに、大隈信幸、藤川年、前田利男、安部民雄、中谷博の諸氏を招いて「学祖大隈重信を語る」座談会を開催、また、野々村戒三、服部嘉香の古老を訪ねて聴取調査を行った。この時代の学苑は、紛争に明け暮れする異常事態の連続であったが、四十一年の紛争時における、過激派学生との対話を『早稲田大学史記要』に掲載したり、四十四年には、危険をおかして紛争の実状をカメラに収めるなど、激動する学苑の生の記録を残すよう努めた。なお、四十二年十月、佐賀市の大隈記念館の竣工・開館に当っては、高野善一を現地に出向させ館内展示に協力せしめた。

 既述の如く、総長室時代において特筆せられるべき人事構成の面についての進展は、全学的な基盤を確立するために、各学部長ならびに校友会長の推薦に基づく委員によって構成する「大学史編纂研究委員会」が設置せられたことと事務主任が置かれたこととである。五年間に亘る同委員会委員は、左の通りであり、付属機関として独立する基盤はこの間に着々整備せられたと言ってよかろう。

大学史編纂研究委員会)

二 大学史編集所の設立

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 前章に説述した如く、昭和三十六年図書館の一隅に呱々の声をあげた校史資料係は、三十八年末に校史資料室として一室を与えられるとともに教務部所管の理事会直轄機関となり、更に四十年の本部機構改正に伴って総長室所属に移ったが、その活動を一層能率化して遺憾なからしめるためには、これを付属機関として独立せしめることが必要であるとの認識が、その直後既に時子山常任理事(教務担当)を中心に抱懐せられ、四十一年一月には早くも「大学史編纂所」の名称を付した試案が作成されるとともに、「大学史資料編纂所――昭和四十一年度新設予算表――」も作成された。しかし、こうした動きも、学苑紛争の激化により暫く中断せざるを得なかった。

 四十三年六月、阿部総長の後を継いだ時子山総長は、かねてから懸案の本問題を再び取り上げ、四十四年五月三十日の理事会で、「事務組織規則等一部改正の件」としてこれを可決、六月一日付をもって「大学史編集所」と改称されるに至った。しかし、規定の制定は更に検討するということになったので、形式的には総長室を離れて一人立ちはしたものの、実際の運営は旧体制によるという変則的な状態がなお数ヵ月続いた。

 四十五年一月、初代所長に政治経済学部教授小松芳喬が嘱任された。次いで三月六日の理事会において、「大学史編集所規程制定の件」に併せて所長の処遇については、付属機関長に準ずることが決定され、更に四月十五日の評議員会において、「総長室校史資料係を改め大学史編集所とし、小松芳喬所長のもとに、百年史の編集・大隈文書の刊行等の事業に取り組むこと」が決議された。

 すなわち大学史編集所の命名は、上記の通り、四十四年六月に行われたが、改組に伴う規定の制定とこれに基づく機構の改革等により、実際的意味における新発足は四十五年四月を待たなければならなかった。本編集所設立により制定された当時の規程は左の通りである。

早稲田大学大学史編集所規程(昭和四十五年四月十五日庶文達第一号)

第一章 総則

(編集所の設置および名称)

第一条 本大学に、大学史編集所(以下「編集所」という。)をおく。

(目的)

第二条 この編集所は、本大学の歴史(以下「大学史」という。)および大隈重信の事績を明かにし、これを将来に伝承するとともに本大学の発展に資することを目的とする。

(業務)

第三条 この編集所は、前条の目的を達成するために、次の業務を行なう。

一 百年史の編集および刊行

二 大学史および大隈重信に関する資料の蒐集、調査、研究およびその成果の発表ならびにレファレンス・サービス

三 前各号に定めるもののほか、この編集所の目的達成に必要な事項

第二章 所長

(所長)

第四条 この編集所に、所長一人をおく。

(所長の職務)

第五条 所長は、所務を統括し、編集所を代表する。

2 所長が欠けたとき、または所長に事故あるときは、第十条第一項第一号に規定する理事がその職務を行なう。

(業務計画および経過報告の承認)

第六条 所長は、毎年度の終りに、当該年度の業務処理の経過および次年度の業務計画を大学に報告し、その承認を得なければならない。

2 前項の規定は、業務計画を変更したときに準用する。

(所長の嘱任)

第七条 所長は、本大学の教職員のうちから、大学が嘱任する。

(所長の任期)

第八条 所長の任期は、二年とする。ただし、再任することができる。

2 所長が欠けたとき、その後任者の任期は、前任者の残任期間とする。

第三章 運営委員会

(運営委員会)

第九条 この編集所の運営に関する重要事項を審議するため、運営委員会をおく。

(運営委員会の構成)

第十条 運営委員は、次の区分により、大学が嘱任する。

一 総長の指名する理事 一人

二 各系統学部から推薦された専任教員 各一人

三 編集員のうちから所長の推薦する者 若干人

四 校友会常任幹事のうちから、校友会長の推薦する者 一人

2 所長、図書館長および総長室長は、職務上運営委員とする。

(運営委員の任期)

第十一条 運営委員の任期は、職務上の運営委員を除き、二年とする。ただし、再任することができる。

(運営委員会の招集および定足数)

第十二条 運営委員会は、所長が招集し、その議長となる。

2 運営委員会は、運営委員の過半数の出席がなければ、これを開くことができない。

第四章 顧問

(顧問)

第十三条 この編集所に、必要に応じて顧問若干人をおき、業務遂行上の協力を求めることができる。

2 顧問は、所長の推薦により大学が嘱任する。

第五章 編集員

(編集員)

第十四条 この編集所に、編集員若干人をおく。

(編集員の任務)

第十五条 編集員は、資料の蒐集、調査、研究その他編集所から付託された業務に従事する。

2 所長は、編集員に対して、随時、業務報告を求めることができる。

(編集員の嘱任および解任)

第十六条 編集員は、本大学の教職員のうちから、所長の推薦に基づき、大学が嘱任する。

2 前項の規定は、編集員の解任について準用する。

第六章 事務長および事務職員

(事務長および事務職員)

第十七条 この編集所に、事務長一人および事務職員若干人をおく。

2 事務長は、所長の命をうけて、編集所の業務を処理する。

附則

 この規程は、昭和四十五年三月十三日から施行する。 (『早稲田大学広報』昭和四十五年四月三十日発行 第六八四号)

 なお、本規程はその後一部改正がなされた。すなわち、本大学史編集所の所管は、当初、総長室であり、運営委員の構成について規定する第十条第二項には、所長、図書館長および総長室長は職務上運営委員と定められていたが、その後四十九年二月に、教務部所管となり、右規程中「総長室長」が「教務部長」と改められた(昭和四十九年二月二十五日教務達第十七号)。また、校友会規則の改正(昭和五十四年十一月三日から施行)により、常任幹事のほか新たに代表幹事が置かれることとなったのに伴い、本規程第十条第一項第四号中の「校友会常任幹事」を「校友会代表幹事または常任幹事」と改める改正(昭和五十五年五月九日教務達第六号)がなされている。

 この規程に従い、小松所長のもとで、運営委員会委員、顧問および編集員が委嘱されるとともに、百年史編集要領が作成され、これに基づいて『通史』ならびに『学部・学校・付属機関史』の編集に着手した。また、五月には、本部の二号館(現一号館)への移転を機会に、図書館から本部三階(現二階)に移転、この時点において初めて大学史編集所の体制が名実ともに整備したといえよう。

 すなわち、五月十六日に開催された第一回運営委員会の冒頭、小松所長は、昭和四十年一月、総長室校史資料係が設けられ、百年史の編集業務に当っていたが、昨年六月、「大学史編集所」と改組され、この一月、所長に任命されると同時に、今回の機構改革に伴う規程の制定、編纂研究委員会の解散および室の移転問題等に手を染め、幸いにして困難であった室の移転も一号館三階と決まり、今月中には移転可能の見通しがついている、と挨拶した後、新たに委嘱された運営委員および顧問ならびに編集員の紹介がなされた。引続き、「百年史編集要領」を含む大学史編集所業務計画が決定されたので、これを『早稲田大学広報』に掲載、新発足に当っての所長の挨拶を寄稿し、大学史編集所の設立の経緯および百年史編集計画について述べるとともに、左の如く全学的な事業遂行の立場から、関係機関の協力を呼びかけた。

ご挨拶大学史編集所長 小松芳喬

昨年六月総長室校史資料係が早稲田大学大学史編集所に改組されましたが、紛争のため規程の制定も遅れていましたところ、漸く去る四月に公布を見、五月十六日には新規程に基づく第一回運営委員会が開催され、本年度の業務計画が決定され、陣容を整備して新しく発足する運びとなりました。

編集所の当面最大の事業は、一九八二年に迎える創立百年を期して早稲田大学百年史を刊行することであります。大学史に関する資料の蒐集ならびに研究は従来とも実施してまいりましたが、いよいよ本年度からは、二年後に迎える創立九十周年を記念して、百年史の一部を稿本として上梓するのを目標に、積極的活動に転ずることになりました。

幸いに五月下旬に編集所は二号館に移転、今までよりはかなり広い場所で執務できることになりましたので、大いに能率をあげ、ご期待に添うよう努力する心組でございます。なお、百年史としては、本編集所が直接担当いたします通史編(仮称)のほかに、学部・付属機関編(仮称)をも刊行、それぞれの歴史のご執筆を学部・付属機関にお願いいたしたいと考えておりますので、何とぞよろしくご協力くださいますよう、お願い申し上げます。

(『早稲田大学広報』昭和四十五年六月二十二日発行 第七〇五号)

大学史編集所業務計画等

大学史編集所業務計画

1、百年史編集の件

下記の要領により編集する。

⑴編集区分

(イ)通史編(全4巻)

第1巻 創設前夜→明治35年早稲田大学開校まで

第2巻 早稲田大学開校→大正7年大学令公布まで

第3巻 大学令公布→終戦まで

第4巻 戦後、新制大学・大学院発足→現在まで(付、年表・系統図等)

(ロ)学部・諸学校編(以下「学部史」と呼称)(1巻ないし2巻)

学部、諸学校、付属機関の創設・変遷(含む、年表・系統図等)

教授陣、学生・卒業生(社会への貢献)

⑵執筆

通史は編集所で、学部史は各学部で執筆方をお願いする。

⑶刊行

通史第1巻を、90周年(昭和47年)までに、稿本の型で刊行する。

⑷頁数

各巻の平均頁数を800ないし850頁程度とする。

⑸旧制高等学院について

今日の段階で執筆の必要を認める旧制高等学院について、調査・執筆する。

2、紀要刊行の件

年一回刊行する。

3、大隈文書復刻の件

予算を与えられた段階で復刻する。

昭和45年度業務計画

1、百年史編集

本年度は、通史第1巻稿本作成に着手。学部史については、その大綱を作成して各学部にお願いする。

旧制高等学院については、第一高等学院を中谷博氏に、第二高等学院を定金右源二氏に執筆をお願いする。また、野々村戒三氏に設立当時の事情を伺う。

2、紀要刊行

年刊とし、明年3月刊行。(現在まで3巻6冊刊行、44年度分は6月末刊行予定) (同上)

三 大学史編集所の足跡

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1 『大隈伯昔日譚』の復刻刊行

 本書は、大隈が八太郎時代に遭遇した明治維新前後の史実を大隈旗下の逸材、斎藤新一郎、矢部新作、円城寺清の三人に順次口述したものを、明治二十八年六月に立憲改進党々報局より刊行したものである。少年時代の佐賀藩の藩情から、明治六年の征韓論をめぐっての廟堂の破裂までが回顧されている。本書は、維新政府の外交・財政を鞅掌し、参議の上席として岩倉一行渡欧米中の留守内閣を預った大隈自身の実歴談であるが故に、きわめて貴重な証言を提供しているものである。しかし、『大隈伯昔日譚』が、福沢諭吉の『福翁自伝』とともに、明治維新史研究の貴重な文献資料であるにも拘らず久しく絶版となり、その入手がなかなか困難な実情にあったところから、本書の復刻を希望する声が少くなかった。本編集所は、これらの要望に応えるべく、当編集所監修、「大隈重信侯五十年祭・早稲田大学創立九十周年記念出版」として、四十七年三月に明治文献から復刻刊行した。

2 『小野梓』の復刻刊行

 本編集所は、四十七年十月七日、創立九十周年記念事業の一環として高知県宿毛市に建立された、創立の功労者小野梓の墓碑除幕式ならびに小野梓八十七回忌法要が、村井資長総長、元総長阿部賢一、小野家ご遺族ならびに地元代表、四国校友会代表参列のもとに執り行われたのを機会に、永田新之允著『小野梓』(明治三十年十二月、冨山房刊)を復刻、「早稲田大学創立九十周年・小野梓墓碑建立記念出版」として同年九月に早稲田大学出版部より刊行した。小野梓の伝記には、パンフレット程度のものとしては、山田一郎編『東洋小野梓君伝』(明治十九年二月、東京専門学校同攻会刊)ならびに早稲田大学仏教青年会編『小野梓』(大正十五年六月、冨山房刊)があるが、伝記と呼べるだけの体裁分量を具えたのは本書と西村真次著『小野梓伝』(昭和十年十一月、冨山房刊)があるのみである。高田早苗は、本書の初版に、「之れを読むに故東洋居士の面目躍如紙上に現はれ人をして今昔の感に勝へざらしむ。此書実に必要の時期に出でたり。故小野君の志を知り故小野君の不幸短命を嘆惜するもの豈深く永田君に向って感謝せざるを得んや」と記しており、記念出版として本書の復刻が選ばれたのは、単なる懐古趣味より出づるものではない。村井総長も、本書の復刻刊行に当り、巻末に「今日学園創立九十周年のひときざみをトして、故先生の生地高知県宿毛市の一隅にささやかの建碑を行うにあわせて、同時に先生の伝記としてもっとも定評確定せる永田新之允著の『小野梓』を復刻するの微意は、……やがてむかえようとする創学一世紀を目標に、学祖の初心の万分の一にもこたえるべき、自奮自励の一礎石たらしめんとするにあります」と述べたように、本書復刻は単なる遺徳の顕彰に留まらず、寧ろ大学の新しい出発のための一石にもと意図されたのである。

3 「小野梓研究グループ」の設立と『小野梓全集』の刊行

 小野梓の著述については、西村真次が冨山房創立五十周年記念出版として『小野梓全集』(上・下二巻)を昭和十一年五月に上梓している。ところが、最近まで研究者の間では湮滅したかのように考えられていた『国憲論綱』および『羅瑪律要』の両著作が、法務省図書館に小野梓自筆の稿本として収蔵されていることが発見されたのを機会に、完全な全集の編集刊行を大学に提案したいとの要望が、元図書館長大野實雄から提起された。本編集所としては、大学史編集上、小野梓研究の進展は喫緊事であると認め、四十八年七月、本編集所を所管個所として、「小野梓研究グループ」の設立に協力し、十月には指定課題研究費の助成を受けて、同研究グループは全集刊行を目的とする事業活動に入った。すなわち、グループ代表には小松所長が就任し、その発足に当って、『早稲田学報』(四十八年十一月号)、『早稲田大学広報』(四十八年十月十九日、第九六五号)、『早稲田ウィークリー』(四十八年十一月十四日、第一九七号)に、小野梓研究グループの設立の趣旨ならびに全集刊行に関する資料の提供について協力方を、学苑内外に呼びかけた。

 研究グループには、「編集委員会」が設けられ、着々編集が進められたが、五十二年二月に及んで、『小野梓全集』全五巻の刊行案が具体化したので、本編集所は、急遽二月十五日、運営委員会を開催し、大学の意向を酌んで、左の如き方針を決定した。

一、『小野梓全集』刊行を、大学史編集所の業務の一環として採用する。

二、刊行の期限を昭和五十二年度より向う三ヵ年とし、初年度においては少なくとも一冊を刊行する。第二年度及び第三年度においては、それぞれ二冊宛刊行する。

 すなわち、この時点において、改めて大学の事業として位置付けられ、創立百周年記念事業の一環として、五十二年度より大学史編集所の業務として遂行推進されることとなった。

 『小野梓全集』の編集に当っては、ひとえに小野の主要な著作原稿を所蔵されている坂本起一および旧全集の発行所冨山房の全面的な協力を得たことを特記しておかなければならない。また、資料の蒐集については、学内外の諸機関から一方ならぬ便宜をいただいた。加えて、各関係者、例えば、京都在住の小野家をはじめ、岩国の永田新之允遺族宅、小野の生誕地の宿毛、改進党時代小野が遊説に廻ったと思われる新潟、茨城、長野、千葉、埼玉等の地を訪れるとともに、小野と親交のあった小野義真、広瀬進一、馬場辰猪、佐佐木高行、赤松連城、島地黙雷、中川六郎等数多くの個々人の遺族やその研究者にも極力手を尽して、関係資料の蒐集に万全を期した。殊に、龍谷大学福島寛隆教授の紹介による赤松連城(徳山市徳応寺)関係文書から、小野の著作、文書が最近になって多数発見されるなど、誇るに足る成果が見られ、全集の決定版が目指された。かくして、全集全五巻(付別冊)は、本編集所編、早稲田大学出版部発行として、編集実務に阿部恒久・大日方純夫が当り、勝田政治・吉良芳恵・松田義男・吉井蒼生夫の協力を得て、第一巻福島正夫担当(五十三年六月刊)、第二巻中村吉三郎・佐藤篤士担当(五十四年九月刊)、第三巻兼近輝雄担当(五十五年四月刊)、第四巻間宮國夫担当(五十六年四月刊)、第五巻・別冊中村尚美担当(五十七年三月刊)として、順次刊行され、創立百周年記念の年に全巻が完結した。

 なお、小野梓研究グループの研究員は、小松芳喬(グループ代表・当編集所々長、五十一年三月まで)・洞富雄(グループ代表・文学部教授、五十一年四月より五十二年三月まで)・中村尚美(グループ代表・社会科学研究所教授、五十二年四月より)・古川晴風(図書館長)・浜田健三(総長室長、四十八年十一月まで)・正田健一郎(教務部長、四十九年四月より同年九月まで)・柏崎利之輔(教務部長、四十九年十一月より五十一年三月まで)・兼近輝雄(政治経済学部教授)・大野實雄(法学部教授、五十一年三月まで)・中村吉三郎(法学部教授)・福島正夫(法学部教授、五十二年三月まで)・佐藤篤士(法学部教授、五十三年三月より)・由井正臣(文学部教授)・入交好脩(商学部教授、五十一年三月まで)・市川孝正(商学部教授、五十一年四月より)・木村時夫(社会科学部教授)・間宮國夫(社会科学研究所教授)で、顧問には斎藤一寛(名誉教授、五十三年四月まで)の他、研究員の大野實雄・小松芳喬・福島正夫・洞富雄が定年退職と同時にそれぞれ就任した。

 全集編集の過程で蒐集された資料は、すべて阿部恒久・大日方純夫編「小野梓関係資料目録(文献編)ならびに小野梓研究文献目録」(『早稲田大学史記要』昭和五十八年十月発行、第一六巻)として目録化され、本編集所に「小野梓文庫」として所蔵されている。

4 『早稲田大学百年史』の刊行

 本大学史編集所の主たる業務が、本大学創立百周年記念事業の一環としての『早稲田大学百年史』の編集刊行であることは言うまでもない。既に述べたように、昭和三十六年、図書館校史資料係設立以来、一貫してこれと取り組んできた。殊に「大学史編集所」と改組され、四十五年四月、規約が制定せられるや、五月にはこれに基づく第一回運営委員会を開催し、次いで七月に開催の第二回運営委員会において、次の如き「学部・学校・付属機関史編集要領」を決定し、ここに初めて全学的な百年史編集の方針が確定せられ、本格的な編集に入ったのである。

学部・学校・付属機関史編集要領

一 学部・学校・付属機関史を二巻とし、原稿用紙一枚半(六〇〇字)をほぼ一頁とする。

二 別巻(括弧内は、定本一巻刊行後訂正されたものである)

第一巻約七六〇頁(約一一〇〇頁)政・法・文・商各一六〇頁(二三〇頁)、教一二〇頁(一九〇頁)宛とする。

第二巻約八〇〇頁(約一一〇〇頁) 理工一六〇頁(二三〇頁)、社学五〇頁(六〇頁)、国際三〇頁(四〇頁)、体育五〇頁(六〇頁)、学院新旧各五〇頁(新旧各六〇頁)、産専・高工・工手・工業七〇頁(専門校・産専・高工・工手・工業八〇頁)、図書五〇頁(六〇頁)、演博三〇頁(四〇頁)、社研・理工研・鋳研・生産研・比研・語研各三〇頁(各四〇頁)、校友会五〇頁(六〇頁)、出版部三〇頁(四〇頁)宛とする。なお、その後生産研はシステム研と改組され、新設の産経研・現政研および史編については、右に準じて執筆することとした。

三 草稿提出期限 創立百周年(昭和五十七年)の二年前とする。(その後、五十四年十二月末日と訂正)

 学部・学校・付属機関史の編集については、運営委員を通じて連絡を密にするとともに、直接同委員会と連係のない学校・付属機関とは、「学部・学校・付属機関史編集連絡会」を通じて、業務連絡に遺憾のないよう努めた。

 通史の執筆は、本編集所規程に定められた編集員によって主として行われ、編集上の諸問題については、編集員により構成される編集会議で討議に付せられていった。

 百年史の編集基準をどこに置くかという問題については、大学史編集所設立に先立ち、既に執筆を開始した木村毅が、『早稲田大学百年史』の編集における学問的水準は、「専門的な学術書というよりは、読者の対象を一般卒業生や学生におく」との持論を強調し、編集所設立後、編集会議で承認せられたのであった。この点について、小松所長は「稿本早稲田大学百年史の刊行」の中で、左の如く説明している。

百年史を編むに当って、標準読者を奈辺に想定するかという問題は、われわれを悩ませるところが少なくなかった。もちろん、史書として専門研究者に絶大な貢献をおこないながら、しかも多数の読者によって愛読されるのが理想であるけれども、この両目的を両立させることは、かなり至難の業であると認めざるをえない。もし百年史が専門的学術論文の集成の観を呈するならば、執筆者の学的良心には大きな満足が与えられ、専門学者からは賞揚されるであろうけれども、読者の数はきわめて限定され、大部分が書斎の単なる装飾としての用途しかもちえないことになろう。それでは、いわゆる早稲田精神、大隈精神が泣くのではないか。そこで、百年史編纂途上にえられた学的成果の一端は珠玉の論攷としてすでに『大学史記要』を飾り、また将来も飾るにちがいないが、われわれは敢えてそれらの示すacademic styleを捨て、readablenessをもって、第一の目標とした。もちろんreadablenessとは低俗化を意味するものではない。引用文献をすべて新仮名遣いに書き改めるとか、当用漢字以外の使用を一切差控えるとかは、われわれの潔しとせざるところである。われわれは学部卒業生を一応の規準と考え、若い校友諸氏の理会力に期待して、ルビの乱用もまた自制するのを原則とした。大学史としての格調の維持について、われわれの意のあるところを汲んでいただければ幸甚である。 (『早稲田学報』昭和四十七年十月発行第八二五号 二一頁)

 百年史六巻中通史四巻は、完璧を期するため、先ず稿本を刊行し、大方の叱正を仰いだ後定本を作成することとした。稿本第一巻の執筆分担が定められたのは四十五年春であり、創立九十周年に上梓するよう計画されたが、執筆者中に健康を害した者が生じたばかりでなく、執筆者間の調整に時間を必要とした関係上実施が困難であるのが判明したので、上・中・下の三分冊として逐次刊行することに変更した。幸いにして木村毅執筆の『稿本 早稲田大学百年史』第一巻(上)は、早稲田大学出版部を発行所にして、予定通り四十七年十月、創立九十周年記念出版として、百年史のトップを切って世に贈られた。本書は、本編集所大隈重信研究の担当者木村が、多年の蘊蓄を傾けた圧巻であり、独自の史観に基づく大隈像を、百年史の第一編として極めて率直・簡潔にまとめたものである。本書を一度繙いた読者は、木村の筆力に圧倒されて、二五五頁を一気に通読しないではいられない。まさに大学史としては、他に比肩するものを発見することが困難であると言っても過言ではなかろう。

 以後、同第一巻(下)(総編集木村毅)を四十九年三月、同(中)(総編集木村毅)を五十年三月、同第二巻(上)(総編集木村毅)を五十一年三月、同(下)(総編集木村毅)を五十二年三月、同第三巻(上)(総編集正田健一郎・滝沢武雄)を五十五年三月に上梓、また、これら稿本に小松芳喬監修の下に雌黄を加えた定本についても、その第一巻を五十三年三月に、同第二巻を五十六年九月に刊行した。結局、稿本、定本ともに、五十七年十月の創立百周年記念式典までには、以上の巻まで刊行し得たに留まった。目下、通史編の稿本第三巻(下)、第四巻(上・下)、定本第三巻、第四巻と学部・学校・付属機関史編の定本第五巻、第六巻についても、極力早期刊行完結を目指して編集が進められている。

5 『都の西北――建学百年――』の刊行

 創立百周年記念出版として本編集所が当初計画したものは、『早稲田大学百年史』のほかに、「大隈文書」の翻刻および学生配布用百年小史の編集刊行であった。「大隈文書」の翻刻については、前記の通り諸般の事情から実現されず、『小野梓全集』の刊行をもって、僅かに渇を癒すことになった。また、小史の編集については、木村毅以外に適当な執筆者を発見することは困難であるにも拘らず、木村は執筆を受諾する積極的な意思を表明しなかったので、遂に、写真集の刊行を以てこれに代るべきものとすることに、五十二年十月に決した。翌年十月に、明年度より作業を開始する旨が示され、その結果、五十四年二月、編集担当者に政治経済学部教授堀家文吉郎が嘱任され、堀家を中心に鋭意編集の進展が図られた。実際の作業は五十五年二月より開始され、同時に藤原洋二が編集助手に嘱任された。同年七月には「編集大綱」が策定され、二月舎阿部棟也に主としてカラー写真の撮影を委嘱し、新規の撮影と併行して、本編集所の所蔵する数千点に及ぶ写真の中からの選定作業が進められた。写真の収集は、学内手持ちのもので足りる筈はなく、『早稲田学報』(昭和五十五年六月号)を通じて校友に協力を呼び掛け、その結果、戦時下を主とする貴重な写真その他の資料の提供を受けることができた。同年十二月には、写真集の書名も『都の西北――建学百年――』と決定され、その揮毫を阿部賢一元総長に依頼した。五十六年に入り、百周年記念式典に多数参加する外国からの賓客および今後とも何かと来学するであろう外国人向けに英語版を作成することが決定され、五十七年一月から教育学部教授中尾清秋に堀家執筆の日本語版の翻訳が委頼されて、作業が開始された。かくして、日本語版、英語版ともに装幀とレイアウトがグレービー片岡秀夫によってなされ、阿部元総長の題字揮毫による日本語版(上製・並製の二種)と英語版の『都の西北―建学百年――WASEDA UNIVERSITY A Photographic History of 100 Years(1882-1982)』は十月中旬に完成し、二十一日の百周年記念式典当日に内外の来賓に贈呈された。教職員および学生にも引続いて配布された。なお、編集の経過は、藤原洋二・堀家文吉郎補綴「『都の西北 建学百年』の編集作業について」(『早稲田大学史記要』昭和五十八年十月発行、第一六巻)に克明に記録されている。

四 記念行事

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1 塩沢昌貞博士生誕百年記念祭

 本大学第二代総長塩沢昌貞の生誕百年は、四十五年十月であったが、本編集所主催による同博士を偲ぶ生誕百年祭を、四十六年六月に行った。

 六月二十一日、東京染井墓地に小松所長以下所員が展墓し、翌二十二日午後二時から小野講堂において記念講演会を開催した。小松所長の開会の挨拶に続いて、名誉教授北沢新次郎、評議員小汀利得、成城大学学長高垣寅次郎、独協大学教授本位田祥男による「塩沢昌貞博士を偲んで」と題する講演が行われた。また、二十二日、二十三日の両日大隈記念室において記念展を開催し、小冊子『塩沢昌貞先生略歴・著作年譜』(大学史編集所編、昭和四十六年六月刊)を配布した。二十二日の午後五時からは、校友会館においてご遺族招待会を開催した。なお、この記念祭は、「塩沢昌貞博士を偲んで――生誕百年記念祭講演録――」(『早稲田大学史記要』昭和四十七年三月発行、第五巻)として記録されている。

2 大隈重信五十年祭

 四十七年には、学祖大隈重信の没後五十年祭に加えて、本大学創立九十周年を記念する多彩な記念行事が学苑の内外において行われた。本編集所は、これら諸行事に対して協力を惜しまなかった。

a 明治村における大隈重信展

 五月十日から月末まで、財団法人博物館明治村主催、早稲田大学協賛による「大隈重信展」が、愛知県犬山市郊外の「明治村」で開催された。明治村では例年茶会の時期に、明治顕彰展覧会が開かれるのが恒例であるが、この年は大隈重信没後五十年ということから、先年の「福沢諭吉展」に倣い、大隈重信展が企画されたのであった。同記念展には本編集所が参画協力し、木村毅を中心に準備が進められた。ことに木村は、明治村理事であり、今回の明治顕彰展覧会委員長でもあったから、万事至極順調に運ぶことができた。

 開催初日の五月十日の式典には、大学から村井総長が出席したほか、地元名古屋支部校友会もこの日愛知会館に名古屋支部大会を開き、支援の実を示した。

b 学苑における大隈重信展

 学苑においても、六月八日から十五日まで、七号館の大隈記念室および一階会議室において「大隈重信展」を開催した。展示品も明治村での展示品に加えて建学に関する資料のほか、スポーツ関係等を追加した。また、小冊子『大隈重信――没後半世紀記念の栞――』(大学史編集所編、昭和四十七年六月、早稲田大学刊)を刊行し、開催期間中配布した。

c 大隈重信五十年祭記念講演会

 六月八日午後二時から大隈講堂において、科外講演部長石田栄雄司会による「大隈重信五十年祭記念講演会」を開催した。村井総長の開会の挨拶に続いて、校友の衆議院議員三宅正一(大一二政経)が、「政治史上から観た大隈重信」と題して、労働運動の先覚者として農民運動に奔走した老政治家にふさわしく往年を偲ぶ熱弁を奮った。次いで、慶応義塾大学名誉博士富田正文が、「福沢諭吉と大隈重信」と題して、福沢と大隈の出合いから「明治十四年の政変」に至る両巨人の人間像を余すところなく語り尽した。最後に、本編集所より木村毅が、「校祖大隈重信を語る」と題して、大隈を語り、建学の精神を説き、苦難に満ちた大学の歴史を論じた後、混濁の時流に喘ぐ早稲田大学の現実の姿を憂うるの至情を吐露した。

3 創立九十周年記念行事への参画

a 創立九十周年記念「学宝展」

 四十七年九月二十六日から十月一日まで、日本橋三越本店七階において、本編集所の担当による創立九十周年記念「学宝展」を開催するとともに、同店屋上ならびに三越劇場において学生サークルによる記念演奏会を行った。

 学宝展開催の初日は、村井総長によるテープカットをもって開幕した。開催期間を通じて多くの参観者を迎えることができたが、ことにこの日は、隣室の「日本伝統工芸展」に台臨せられた高松宮、同妃両殿下に随行の明治村博物館副館長田内静三の配慮により、両殿下にお立寄りいただき台覧を賜わった。両殿下は、早慶両校の建学の歴史等について種々ご下問あるなど、学宝展に多大の関心をお示しになり、意義深いものがあった。

b 創立九十周年記念講演会

 十月十六日午後一時から、大隈講堂において科外講演部長石田栄雄司会による「早稲田大学創立九十周年記念講演会」を開催、村井総長の開会の挨拶に続いて、慶応義塾々長佐藤朔が祝辞を述べた後、本大学理工学部長吉阪隆正が、「日本列島の未来像」と題して講演した。吉阪は、高度の技術革新がもたらした経済成長の歪が公害問題を中心に生存の危機さえ与えつつあった当時の雰囲気を背景にして、二十一世紀の日本というものをもっと深く掘り下げた、いうなれば「日本の未来学」といった見地から話を進めた。次いで校友作家石川達三が「早稲田と私」と題して、大正十四年に第二早稲田高等学院に入学してから中退するまでの約三年間に亘る当時の学苑生活の思い出を語った。

 以上は、この年行われた記念行事のうち、本編集所が直接担当したものであり、これらは、坂井秀春「大隈重信没後五十年祭 早稲田大学創立九十周年記念行事記」(『早稲田大学史記要』昭和四十八年三月発行、第六巻)として記録されている。

4 田中穂積博士生誕百年記念祭

 続いて五十一年には、第四代総長田中穂積博士の生誕百年記念祭を行った。

 命日二月十七日には、長野市篠ノ井石川の墓地に、ご遺族をはじめ村井総長、清水常任理事のほか、野島寿平校友会常任幹事および地元校友会員の展墓が行われた。更に六月十七日には、午後三時から小野講堂において、科外講演部長石田栄雄司会による記念講演会を開催した。清水常任理事の開会の挨拶に続いて、末高信名誉教授、入交好脩教授、阿部賢一元総長が、それぞれ故博士を偲んで講演した。また、六月十五日から十七日まで、大隈記念室において記念展を開くとともに、本編集所編『田中穂積先生生誕百年記念――記念行事概要・追憶・略歴・著作目録・展示目録――』を刊行して配布した。十七日午後五時からは、校友会館においてご遺族招待会を開催した。なお、この記念祭は、坂井秀春「田中穂積先生生誕百年記念行事記」(『早稲田大学史記要』昭和五十二年三月発行、第一〇巻)として記録されている。

5 木村毅博士一周忌追悼展示会

 木村毅(大六大文)は、昭和三十九年一月、本編集所の前身である「校史資料室」に大隈重信研究のため嘱託に就任した。当時の校史資料室は、前述の如く『早稲田大学百年史』の編集を究極の目的として大学史の研究および校史関係資料の収集・整備に従事する一方、創設者大隈重信に関する事績の研究をも併せて行っていた。木村は、大隈研究に専念する傍ら、百年史編集の総編集者として百年史の構想について独創的な試案を錬っていた。四十五年四月、大学史編集所と改称され、小松所長のもとに本格的な編集業務に着手するや、木村の試案を骨子とした編集方針に基づく百年史編集の具体的方針が決定されたことは前述の如くである。木村自身その執筆者としてその豊かな学殖を独特の筆致をもって展開した『稿本 早稲田大学百年史』第一巻(上)こそ、まさに木村の本編集所における大隈研究の成果であった。以後の稿本においても、文学・スポーツといった特に関心の深い項目を執筆したほか、編集上の諸問題についても、きわめて貴重な助言をたえず惜しまれなかった。しかし、創立百周年を待つことなく、五十四年九月十八日に八十五歳で死去した。

 このような木村の貢献に対する感謝の微意を表するため、その一周忌をトして、五十五年十月一日から三日まで、大隈記念室において「木村毅先生追悼展示会」を開いた。開催に当っては、桑子夫人提供の遺品を初めとして、郷里岡山の勝央町公民館、津山市立郷土博物館ならびに津山朝日新聞社の協力により、数多くの貴重な出品の提供を得て、充実した展示会を開くことのできたことは、本編集所の本懐とするところであった。また、小冊子の本編集所編『木村毅先生追悼展示会――展示会概要・追悼文・自記略伝・主要著書目録・展示品目録――』(昭和五十五年十月)を刊行配布したほか、『早稲田大学史記要』第一三巻(昭和五十五年五月発行)を「木村毅先生追悼特集」として刊行し、謹んでその霊前に捧げた。このほか、九月三十日には、東京都府中市紅葉丘の立正院の墓地において桑子夫人とともに展墓を行った。また、十月二日には、校友会館においてご遺族招待会を開催した。郷里岡山の親族をはじめ、校友の元衆議院議員稲村隆一(大一二政経)、大学からは元総長阿部賢一、同時子山常三郎が出席し、それぞれ故博士に対する深甚なる追悼の辞を述べた。

6 創立百周年記念行事への参画

a 「建学百年 早稲田大学展」

 五十七年の創立百周年記念の各行事に関しては、学内に記念行事実行委員会および各行事専門委員会が設置されて、実行計画を検討し、実施していったが、本編集所は、その中で、「建学百年早稲田大学展」の実施に参画した。事務長北川幹造と、特にこの展示会のために嘱託となった元事務長坂井秀春が計画から実施まで精力的に奔走した。同展は、学外展と学内展の二度に分けて行われた。学外展は、建学以来の学苑百年の歩みと伝統を広く学外の人々に知ってもらおうと、十月八日から十三日まで東急百貨店日本橋店の七階グランドホールで開催された。展示は、人物展・百年史展・早稲田スポーツの歩み・演劇博物館と坪内逍遙・古代エジプト研究・二十一世紀を目指す早稲田の現況・校友子弟の進学相談コーナーに分けられ、屋上特設会場では、軽音楽部演奏合戦も行われた。本編集所では、これらのうち、主として学苑の歴史関係部分を担当した。

 学内展は、式典を中に挟んで、十月十九日から二十三日まで、七号館の大隈記念室と会議室において開催され、ここでは学外展の展示品中から歴史部門を重点的に展示した。本編集所からの出品は、特に長年に亘る編集の過程で蒐集した資料や写真が多く、両展示会場とも、とりわけ東京専門学校時代の古い資料や写真などは入場者の強い関心を集めた。なお、両展示会場で、小冊子『建学百年 早稲田大学展』(昭和五十七年十月、早稲田大学刊)が入場者に配布された。

b 『小野梓全集』完結記念講演会

 創立百周年記念出版として刊行された『小野梓全集』全五巻の刊行完結に伴い、本編集所は、百周年記念行事の一環として、二ヵ所において講演会を開催した。先ず、三月二十七日に、小野の郷里高知県宿毛市の中央公民館で宿毛市教育委員会と学苑との共催で、「早稲田大学創立百周年記念・『小野梓全集』完結記念講演会」を行った。地元の校友会高知県支部や高知新聞社等の後援を得たこの講演会では、全集の編集委員である社会科学研究所教授間宮國夫の司会で、大学を代表した総長代理の常任理事外木典夫の挨拶などの後、宿毛市文化財保護審議会副会長橋田庫欣の「小野梓と宿毛」と、小野梓研究グループ代表の社会科学研究所教授中村尚美の「近代日本と小野梓」と題する二つの講演が行われた(この講演会に関しては、「『小野梓全集』全五巻完結と二つの記念行事」と題する記録がある。『早稲田大学史記要』昭和五十七年九月発行第一五巻)。

 次いで十二月二日に、学内の小野講堂でも同様の講演会を開催した。ここでは、全集の編集に協力した神奈川大学短期大学部助教授吉井蒼生夫の「日本近代法思想の展開と小野梓」と、全集編集委員の政治経済学部教授兼近輝雄の「立憲改進党の結成と小野梓」と題する二講演が行われた。なお、宿毛市と学内の二会場で、本編集所編『早稲田大学創立百周年記念・「小野梓全集」完結記念講演会』(早稲田大学発行)と題する小冊子(前者は三月刊、十六頁。後者は十二月刊、十二頁)が、それぞれ配布された。

 本編集所は、『早稲田大学百年史』の編集の過程で、各種資料の蒐集・整理に努めてきた。その中でも、まとまった資料は、『早稲田大学史記要』に左の如く目録化されて、保管されている。

「大隈信幸氏寄贈品ニ就イテ」(中西敬二郎編、第一巻第一号、昭和四十年六月)〈「大隈文書」の続〉

大隈重信論著目録㈠~㈢」(河野昭昌編、第六巻―第八巻、昭和四十八年―五十年)

「教務課より大学史編集所に移管された東京専門学校・早稲田大学本部書類」(佐藤能丸編、第七巻、昭和四十九年)

「教務課より大学史編集所に移管された早稲田大学本部書類(続)」(新谷暢子編、第九巻、昭和五十一年)

「第一早稲田高等学院関係資料目録」(大槻いずみ編、第一一巻、昭和五十三年)

「『大隈信幸氏寄贈文書』目録」(佐藤能丸編、第一二巻、昭和五十四年)〈「大隈文書」の続〉

「浮田文庫仮目録」(松田義男編、第一五巻、昭和五十七年)〈浮田和民

小野梓関係資料目録(文献編)ならびに小野梓研究文献目録」(阿部恒久・大日方純夫編、第一六巻、昭和五十八年)

木村毅蒐集ホセ・リサール文庫」(河野昭昌・松本康正編、第一七巻、昭和六十年)

 また、創立以来の写真を原版・複写版合せて約五千枚保管しており、『早稲田大学百年史』の通史の各巻該当写真も順次整理して保管している。加えて、大正期以降の学苑関係者の学苑に関する貴重な証言を録音テープに収めたもの七十余件を保管している。これは、本編集所発足以来の顧問、阿部賢一大浜信泉(五十一年二月まで)・高垣寅次郎を中心にして開催された「顧問会」の記録が大部分であり、その内容は『早稲田大学史記要』に随時公表している。この他、大隈重信以下、小野梓高田早苗坪内逍遙天野為之市島謙吉ら学苑創立期の功労者の著作をはじめ、国公私立大学の各大学史の蒐集にも努めており、それらの書籍を含む本編集所の蔵書は、『早稲田大学大学史編集所蔵書目録』(昭和五十六年三月刊)にまとめられている。

 ところで、本文に記したように、『早稲田大学百年史』は全六巻、すなわち通史編四巻(第一巻―第四巻)、学部・学校・付属機関史編二巻(第五巻―第六巻)の予定で編集作業を進めてきたが、五十八年九月三十日の編集会議で、従来の通史編を五巻とし、学部・学校・付属機関史編二巻の呼称も別巻Ⅰ、別巻Ⅱと改めるよう決定され、同年十月二十八日の本編集所の運営委員会で承認されたことを付記しておく。

 大学史の編集にあたっては、学苑内外の多数の各位の協力を迎ぎ、史料の提供をいただいた。これらの方々に対して末筆ながら深甚の謝意を表したい。

(執筆 坂井秀春)