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第二編 学校

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第三章 専門学校の系列

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一 早稲田工手学校・工業学校

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1 草創と育成――開校のころ――

 早稲田大学附属早稲田工手学校(以下工手学校と略称)は、明治四十四年三月に創立されたが、以来ほぼ四十年に亘り、学苑の中で独得の光芒を放ってきた。

 工手学校開校の前後、すなわち明治の中期から後期の頃は、日清(明治二十七年)、日露(明治三十七年)の戦争の影響を受けて、先ず繊維工業部門(製糸、紡績)の台頭があり、続いて重工業部門(製鉄、機械、車輛、船舶)の飛躍的な発展をみた時期であった。従って、国家的段階で理工科関係の学問に対する需要が促されていた。

 早稲田大学学長高田早苗は、工手学校の開校式に臨み、その訓示の中で学苑における理工科の開設に触れ、物を売る商科と相俟って、売る物を造る理工科教育が国益を利するのであると力説している。

 次いで工手学校設立の主旨に言及し、理工科設置の早稲田大学の大目的から割り出して、工手学校の設立もまた国家に貢献するという方針に沿ったものであると説き明かしている。

 すなわち、理工科の高度工業教育に対する中程度の教育を施す場、それが工手学校である。理工科生を士官にたとえれば、工手学校生は下士官に相当し、力量ある下士官の養成はまた時代の要求に応えるものであると断言している。

 そもそも工手学校設立の構想は、創立の前年、すなわち明治四十三年の頃に兆していた。初代校長徳永重康が、学校創立二十五周年の式辞の中で述べているように、総長大隈重信および学長高田早苗から、その創設についての立案を命じられたのが始まりである。

 徳永は、早稲田大学の教務のほかに、東京工科学校の創立(明治四十年十二月、麴町)に深く関与し、且つ同校校長を兼ねていた経験から、工手学校創設の立案と、ひいては校長就任をも受諾したのであった。

 この徳永を助けたのが、阪田貞一手島精一中村康之助といった人々で、これらの人々の努力によって工手学校は呱呱の声をあげたのである。

 私立早稲田大学理事高田早苗をその設立者とする工手学校の「設置認可願」は、明治四十四年二月四日付で、時の東京府知事阿部浩宛に提出され、同年三月十六日付で認可された(『工手学校文書』明治四十四年二月起一冊 大学史編集所収蔵 第九九号)。

 創立当時の学則は、前文のほかに第一章総則から第八章雑則まで全四十条であった。その要目を次に摘記する。ただし、紙数の都合により以下、本稿では学科課程をすべて割愛することにした。

 教育方針は、学校設立の主旨、すなわち「高等技術者と直接技術に従事する者との間に立つ中等技術者の養成」を承けて、「各種工業の実務的学術技能を授ける」ことにあった。

 学科は、機械、電工、採鉱冶金、建築および土木(明治四十五年二月開設)の五科であった。授業は夜間(午後六時―九時三十分)とし、修業年限は二年六ヵ月で、これを五学期に分け、第一、二、三学期は予備教育に、第四、五学期は専門学科の教育にあてた。入学は満十四歳以上の男子に限定し、入学資格は各学期ごとに定められた。第一学期は尋常小学校卒業、第二学期は中学校第二学年修了、第三学期は中学校第四学年修了、第四学期は中学校卒業者とするものであった。これらの有資格者は検定により、無資格者は試験によって入学を許された。また所定の資格と同等以上の学力があると認められる者にも、相当学期に入学できるような便が計られていた。

 さて、このような学則のもとに設立された工手学校の初の始業式は、明治四十四年三月二十九日午後六時から大講堂で行われた。

 年齢、職業の異なる生徒二百八十名に対し、就学に関する説明や、徳永校長の訓示などがあって、式を終えたのは八時過ぎであった。

 ところで開校式は、創立、始業の準備などに追われた事情もあって、始業式に遅れること約一ヵ月余の五月七日午後一時から大講堂で挙行された。先の始業式の後もなお入学志望者は相次ぎ、この日の生徒数は三百五十名を超えていた。式は徳永校長の式辞を以て始まり、高田学長の訓示、大隈総長の演説、来賓東京高等工業学校長手島精一工学博士の祝辞演説、学苑理工科学生牧浦熊次郎の祝辞朗読があり、最後に生徒総代近藤伊作の答辞を以て式を終了した。式に続いて理工科実験室の公開などがあり、意義ある一日の行事を終えたのは午後四時過ぎであった。

 学長高田はこの日の訓示の中で、工手学校の設立の主旨および学苑内における位置づけを明らかにしているが、更にその育成について、学苑理工科と工手学校は兄・弟の間柄にあるから、工手学校の卒業生は理工科の卒業生を兄として手を携えることができ、また、商科、政治経済、法律の各方面の学苑出身者とも提携することができると語り、年々増加してゆく校友と兄弟の義を結び、幅広い活躍を望むのであると、激励の声も高らかにこの訓示を締めくくっている。学苑同人としての工手学校に、大学を挙げて大きな期待が寄せられていたことを、ここに窺い知ることができるのである。

 工手学校創立の頃、東京には既に次のような同種の私立学校が開校されていた。攻玉社(文久三年、芝)、工手学校(明治二十一年、築地)、電機学校(明治四十年、神田)、東京工科学校(明治四十年、麴町)、中央工学校(明治四十二年、神田)などである。学苑内に誕生した我が工手学校は、これらの先輩諸校を追って、営々と歩み始めるのである。

 かくして、創立二年半の後、すなわち大正二年二月に工手学校は初の卒業生を送り出したが、この第一回の卒業式は、二月九日午後一時から大講堂において挙行された。先ず徳永校長から各科の卒業生百十九名に卒業証書を、また各科の優等卒業生に大隈重信夫人寄贈の賞品が授与された。次いで徳永校長の報告と訓示、高田学長の訓示、大隈総長の演説、来賓渋沢栄一男爵の祝辞演説、在校生総代滝正敬の祝辞朗読、最後に卒業生総代川添勝次郎の答辞を以て、初の巣立ちの式を終了した。

 因に、『早稲田学報』(大正二年三月発行第二一七号)は、「工手学校第一回卒業式」と題して、この号の三分の一にあたる七頁に及ぶ記事を掲載している。当時の工手学校に対する学苑の期待の一端を、かいま見ることができるのである。

 この年の七月に、選科生(後に聴講生)制度が設けられ、学則は第一章から第九章まで全四十五条に改められた。

 工手学校の講師の陣容は、おもに学苑の理工科を中心とした各科の新進気鋭の教員によって編成された。また、校舎や実験設備は大学と共用することができたので、大学から与えられる教育上の援護は絶大であった。従って当時は勿論のこと、以来一貫してその教育内容と設備の充実は他に類を見ないところであった。

 創立時における生徒の定員は、五学期の合計で千三百六十名であった。開校当初の第一、第二学期の予備教育課程を担当した教員は、徳永校長以下八名であり、職員は田井善道以下数名であった。初めての卒業生を送り出した大正二年二月には、生徒数が千三百名を超え、教職員合わせて六十名の陣容が整えられていた。

 四十年に亘る校史のなかの教職員の群像を、すべて明らかにすることは難しいことである。本稿では各創立記念式典において、永年勤続などの表彰を受けられた教職員の氏名のみを、それぞれの時期に併せて後掲することに留める。

2 発展と隆盛――創立十五周年まで――

 工手学校創立から十五周年を迎える頃までの歩みを、先ず生徒数の推移によって概観してみよう。創立時の定員は前にも記したように千三百六十名で、生徒数は大正二年から同五年の頃までは、ほぼ定員に相前後していた。しかし大正六―七年の頃から第一次世界大戦直後の好況と、社会的需要を反映して生徒数が徐々に増え、大正八年七月には三千百名に達するほどの発展期を迎えた。その後も入学志望者は増えていたので、大正十一年には定員を三千二百七十名に改めた。翌十二年に起った関東大震災の復興気運などもあって、大正十三年九月の生徒数は三千六百名を超えていた。創立十五周年にあたる大正十五年の頃もなお三千三百名を擁して、隆盛の一時期を画したのであった。

 この時期の学則は、先ず大正九年二月に従来の五学期制を予科、本科制に変更し、修業年限は四ヵ月延長して二年十ヵ月に、また学期区分は、予科は第一学期(四ヵ月)と第二、三学期(各六ヵ月)に、本科は第一、二、三学期(各六ヵ月)に改められた。

 次いで大正十一年四月には高等科が増設され、修業年限を三ヵ年とし、学期区分は、予科を三学期(一年六ヵ月)、本科を二学期(一年)、そして高等科は六ヵ月とされた。これに伴う学則は、第一章「総則」から第九章「選科」まで全三十七条に改められた。

 入学資格は次のように各学期ごとに定められた。予科第一学期は尋常小学校卒業、第二学期は中学校第二学年修了、第三学期は中学校第三学年修了、本科第一学期は中学校第四学年修了者とするものであった。

 これらの有資格者は検定により、無資格者は試験によって入学を許された。所定の資格と同等以上の学力があると認められる者は、従来と同様に相当学期に入学できるような便が計られていた。授業は午後五時または六時に始まり九時終了とし、実験、実習の時間は別に設けられた。

 なお、大正十五年九月から女子生徒の入学も認められるようになった。

 さて、工手学校はその発展と隆盛の時期に創立十五周年を迎えるのである。営々十五年の記念式典は、大正十五年十月十七日午前九時四十分から、第一高等学院(現戸山町校地)において挙行された。参列の人々は定刻前に二千名を超えるほどであった。式は徳永校長の報告と式辞を以て始まり、総長高田早苗の式辞の後、徳永校長から学校創立以来勤続の講師六名(氏名後掲)に、感謝状と記念品が贈呈された。この間、陸軍戸山学校軍楽隊の奏楽と参列者の拍手とが相和して、一段と式典気分を盛り上げた。次いで、来賓松浦鎮次郎文部次官、柵瀬軍之佐商工政務次官、平塚広義東京府知事の祝辞演説があり、最後に校友代表鈴木松太郎(大正二年・建築)の祝辞を以てめでたく式典を終了した。引続き稲友会大会を開催し、諸議事の後この日の祝賀を記念して、校友有志から徳永校長に、謝恩記念品が贈呈された。この経緯は後段で、また稲友会の発足と歩みについては、別項で明らかにしたい。

 一方、この日の式典会場に隣接する高等学院運動場では、午前十一時から工手学校生徒による陸上大運動会が催されていた。競技の参加人員千三百余名、観覧者は無慮五千余名で、花火の爆裂音と応援団の喚声がこだまして、大盛況であったという。更に、正午から大隈会館において、稲友会による祝賀園遊会が催され、来賓百余名、校友五百余名が参会した。庭園には模擬店が設けられ、会館内書院は各種の余興で賑わった。

 高田総長は参集した校友を前にして、懇篤な一場の演説を行った。この演説が終了すると同時に校友の感激に満ちた拍手と、期せずして参会者一同から校長万歳、総長万歳、校友万歳の声が湧き上がり、その声は会館をも揺るがす程であったという。

 『早稲田学報』は、この日の式典、運動会、園遊会の光景を報じて、要約次のようにその記事を結んでいる。

朝来の雲も消えて祝賀日和りに澄みわたった空と共に、早稲田の天地は、終日工手学校の祝典の気分をもって満たされた(大正十五年十一月発行第三八一号一四頁)。

 工手学校では、創立当初から「特待生」制度が学則に定められていた。この制度は「品行方正にして学業成績優秀なる者」に対し、次学期の学費を免除する特典を与えるものであった。予備課程ならびに専門課程の各学期ごとに一名ずつを授与の対象とするこの制度は、苦学力行の生徒達の大きな励ましになっていた。

 この制度とは別に、懇志による「奨学賞」が設けられていた。その第一は、「徳永校長奨学賞」である。既に前に記した通り、創立十五周年記念稲友会祝賀大会において、校友から徳永校長に「謝恩記念品」が贈呈された。校長として母校第一の功労者、稲友会長として校友第一の恩人である徳永重康を、敬慕する校友有志千三百余名の感恩が、その佳き日に結実したものである。この記念品は現金であったので、徳永校長はこれを基金としてその利息を奨学金に充てることを提唱し、これが「徳永校長奨学賞」として実現したのである。この奨学賞は特待生に次ぐ予備課程の各学期二名を対象とし、第二十九回卒業式(昭和二年二月)から授与されるようになった。

 その第二は、「関、青木、松村先生奨学賞」である。大正八年十月に、土木科の卒業生により、おもに同科担当の講師と卒業生の寄附金を基金として設定された。その授与は、当初土木科の優等卒業生に次ぐ一名にのみ限られていた。後に、「旧講師賞」と改称して二名となり、追って単に「講師賞」の名により、専門課程五科の優等卒業生に次ぐ各一名に授与されるようになった。

 なお、工手学校の卒業式において、第一回(大正二年)から第二十一回(大正十二年)に亘り、大隈綾子夫人寄贈の賞品が、各科の優等卒業生に対し、授与されていたことをここに明記しておく。

 工手学校のこの十五年の歩みの間に、時勢は明治から大正への改元があり、また第一次世界大戦(大正三―七年)による経済界の一時的好況と戦後の反動恐慌、更に関東大震災(大正十二年)による混乱などがあった。

 学苑では、大学創立三十周年(大正二年)、三十五周年(大正七年)、四十周年(大正十一年)の記念式典が挙行された。他方、学苑はその祖大隈重信(大正十一年一月十日逝去)、ならびにその夫人大隈綾子(大正十二年四月二十八日逝去)との、永遠の惜別を経験しなければならなかった。

 ところで、前項において触れた先輩諸校と工手学校との生徒数を併記して、その後の十五年を顧みるよすがとしたい (『東都学校案内』昭和二年十月三省堂版)。

東京工科学校(千八百八十六名・神田)、工手学校(二千三百九十六名・淀橋=旧築地)、中央工学校(千百名・神田)。

 同じ時期の我が工手学校の校勢は、生徒定員三千二百七十名に対し、生徒数は三千二百六十五名であり、卒業生数六千四百名、教職員は百二十七名であった(『工手学校文書』同前第九八号)。

 なお、創立十五周年記念式典において表彰された講師は、次の諸氏である。

秋田重季 内藤多仲 岸畑久吉 藤井鹿三郎 北沢武男 武田修三郎

3 低迷と再興――創立二十五周年まで――

 工手学校のその後の十年、すなわち創立十五周年から二十五周年を迎えるころまでの歩みを、前項にならい生徒数の推移によって概観してみよう。大正十五年には定員三千二百七十名に対し、三千三百名の生徒を擁していたが、昭和四年九月には、折からの世界的不況の影響を受けて二千五百名に漸減し、更に同七年九月には千三百名に激減するなど、この期の前半は低迷の時期であった。しかしやがて昭和十年二月には二千三百名に復活し、創立二十五周年を迎える翌十一年頃には、各種工業の振興、大陸へ志向する大企業の経済的活力などの息吹を浴びて、漸く三千名を超えてなお増加の傾向を示し、ここに再興の一時期を画したのであった。

 この間、学則は三度に亘り改正された。その第一は昭和三年二月に従前の高等科を廃止して共通科・本科制に転換し、修業年限は二年六ヵ月(五学期制)としたことである。また、入学資格を第一学期は満十五歳以上の高等小学校卒業者、または中学校第二学年修了者に改め、第二、第三学期もそれぞれ指定の資格に改められた。この学則改正は、後に触れる「早稲田大学附属早稲田高等工学校」の創設と深く係わるものである。

 その第二は昭和七年二月に、予科(十ヵ月一学期)、本科(二年六ヵ月五学期)制に再転換したことである。その第三は昭和十一年第二、第三の改正により、二月に、予科の修業年限を二ヵ月延長して一ヵ年(二学期)に改めたことである。

 予科の入学資格は尋常小学校卒業者とし、該当者は無試験検定のうえ入学を許された。本科の修業年限は従前の通り二年六ヵ月とし、入学資格は、第一学期は工手学校予科修了、高等小学校卒業、中学校第二学年修了者、また第二、第三学期もそれぞれ指定の資格とした。これらの有資格者は検定により、無資格者は試験によって相当学期に入学することができた。

 なお、昭和三年二月の「入学案内」には、工手学校の教育方針が具体的に記されているので、次に再掲しておく。

本校の教育方針は、一般工業に関する学術的知識を授くると共に、実験、実習、製図等に重きを置き、之が為に、早稲田大学の諸設備並に、完備せる製図教室を使用して授業し、卒業後直ちに実務に就くを得る人物を養成するに努む。

(『早稲田工手学校規則書』昭和三年二月教務部学籍課収蔵 一三頁)

 早稲田大学は、「大学と工手学校との中間の学力を有する技術者の養成」を目的として高等工学校を設立し、昭和三年四月一日に開校した。この「早稲田高等工学校」の創設は、前記のように工手学校の学則に大きな影響をもたらしたが、その結果工手学校は、学苑内で更に前進と向上の機会を得ることになったのである。

 学苑内に専門学校程度の学校への進学の道が開かれたことにより、工手学校卒業生は多大な恩恵に浴することができるようになったのである。

 なお、同校開校の準備委員長であった徳永重康は、開校と同時にその校長をも兼任することになった。

 工手学校は、この十年の間に創立以来の科名を次のように改称した。すなわち、「採鉱冶金科」を「鉱山及金属科」(昭和六年九月)に、また「電工科」を「電気科」(昭和十一年四月)に改称したが、その理由はいずれも時勢の変遷と社会の要求に順応させるためであり、また法定上の技術資格を取得させるための布石的な措置でもあった。

 さて、低迷期を脱し、漸く再興期に入った工手学校は、ここで創立二十五周年を迎える。隆隆二十五年の記念式典は、昭和十一年五月二十四日午前九時から大隈講堂において挙行された。参列の人々は三千六百余名に達し、大講堂のみならず小講堂も満席の盛況であった。式は徳永校長の報告と式辞を以て始まり、総長田中穂積の式辞の後、徳永校長から現職の十五年以上勤続の教職員三十名(氏名後掲)に、感謝状と記念品が贈呈された。次いで来賓藤原銀次郎貴族院議員、小川郷太郎商工大臣、横山助成東京府知事、桜井錠二理学博士の祝辞があり、最後に校友代表小森国平(大正二年・建築)の祝辞を以て栄ある式典を終了した。引続き稲友会祝賀大会を開催し、稲友会旗制定のことなどを議し、また物故卒業生千六十六名に対する慰霊黙禱を行った。次いで稲友会から徳永会長に、祝賀記念品として能衣裳「猩々」一揃いが贈呈された。次に徳永会長から稲友会特別尽力者十名(氏名後掲)に感謝状と記念品が贈呈された。続いて徳永会長の挨拶、来賓として学苑校友会常任幹事磯部愉一郎ほか二名の祝辞があって大会を終え、会場を大隈会館に移して稲友会による園遊会が催された。

 なお、午後二時三十分から大隈講堂で、徳永三博(徳永重康)校長の祝賀能(「猩々」)が華やかに演じられて観衆を魅了し、次いで漫談その他の余興が夕刻まで繰り広げられて、すこぶる盛況であった。

 この日の式典や祝賀大会の模様は、「朝日新聞」「時事新報」「東京日々新聞」「電気日報」の各紙に報道された。また当日は、「早稲田工手学校内臨時郵便局出張所」が開設され逓信局特別調製の記念スタンプが使用された。

 工手学校のこの十年の歩みの間に、時勢は大正から昭和への改元があり、また世界的経済恐慌(昭和四年頃)の波は我が国経済界を混乱に陥れ、中小企業の没落や失業者が続出した。次いで満州事変(昭和六年)、上海事変(昭和七年)、五・一五事件(同年)、二・二六事件(昭和十一年)などの動乱による不安と低迷の時期が続いた。

 しかし一面では、企業資本の集結が進展して財閥の形成が促進され、大企業の大陸への進出と併せて重工業や化学工業の飛躍的な発展の時期でもあった。

 学苑では、大学創立四十五周年(昭和二年)、五十周年(昭和七年)の記念式典が挙行された。殊に五十周年の式典を記念して、大隈、高田両総長の銅像が建てられた。

 工手学校にとって再興期に当る昭和十一年四月の校勢は、生徒定員三千二百七十名に対し、生徒数は三千七十七名であり、卒業生数一万一千七百五名、教職員は百三十七名であった。

 なお、創立二十五周年記念式典において表彰された教職員は、次の諸氏である。

北沢武男 武田修三郎(創立以来勤続) 氏家謙曹 木村三郎 民野雄平 山内弘 吉田享二(二十年以上勤続) 足利於菟丸 荒井惟俊 石井定 江沢善三 緒方一三 大久保常正 大隅菊次郎

久松廉吾 桑田福太郎 小泉素彦 後藤量介 志水直彦 清水直江 鈴木徳蔵 高橋勇

土屋詮教 堤秀夫 徳永庸 萩本文海 日高藤麿 藤本慶祐 三宅當時 師岡秀麿(十五年以上勤続)

また、稲友会祝賀大会において表彰された稲友会特別尽力者は、次の諸氏である。

氏家謙曹 川原田政太郎 塩原正一 田井善道 土屋詮教 堤秀夫 丹尾磯之助 藤田信達

山内弘 吉田享二

4 激増と減衰――創立三十周年まで――

 工手学校のその後の五年、すなわち創立二十五周年から三十周年までの歩みを、前項にならい生徒数の推移によって概観してみよう。昭和十一年には定員三千二百七十名に対し、生徒は三千名であったが、入学志願者が急増する傾向を示していたので、翌十二年には定員を三千六百名に改めた。

 折からの日華事変は、軍需産業の急激な膨脹を促し、工業系人材の需要を急速に高めていた。このような時局の影響を受けて、工手学校の生徒数は引続き増加し、昭和十五年四月には四千六百名に達する程の記録的な激増を示した。翌十六年にはなお四千名の生徒を擁していたが、その後の戦局の変転と共に生徒数は急速に減衰し、総じて激増と減衰の一時期を画したのであった。

 激増期には、入学志願者が募集人員を大幅に超えるようになったので、入学考査あるいは選考が行われた。すなわち昭和十四年四月から、機械科志望者に対し学科試験(算術、国語)と口頭試問が、次いで同年十月からは予科、本科とも口頭試問と体格検査が課せられるようになった。

 日華事変は遂に日中戦争へと拡大し、広範な戦線では膠着状態が続いていた。時局の推移は学校教育の変革をもたらしたのであるが、工手学校も例外ではなく、昭和十六年四月に、従前の学則は大幅に改正された。その理由は、昭和十四年四月以降、青年学校令が義務制となったためで、予科、本科制を廃止して全面的に青年学校令に準拠した。また、「鉱山及金属科」は「採鉱冶金科」に改められた。

 修業年限は三年(六学期)とし、第一、二、三学期は普通学と工学の基礎学にあて、第四、五、六学期は各専門学科にあてられた。入学は選考によることとし、その資格は高等小学校卒業または同等以上の課程を履修した者と定められた。これらの一連の改正によって、昭和十六年十月に青年学校令に適合する学校として認定された。授業は午後六時から九時までとし、実験、実習の時間は別に定められた。なお、当時の「戸塚道場」(後の安部球場)では、その夜間照明設備を利用して「体操教練」(各学期一週二時間配当)に励む工手学校生徒の気鋭の姿が見られるようになった。

 前にも触れたように工手学校は、その講師の陣容と校舎等施設の両面に亘り、きわめて恵まれた教育環境にあった。加えて時流を展望し、学則を改正して教科課程の改善・充実を計るなど、常に進取の精神を具体化する道を歩み続けて来た。その結果、この時期にして漸く次のような社会的評価の結実を得るのである。

一 二級汽缶士試験全免

昭和十三年七月十三日付で、機械科卒業生に対し試験の全部を省略することが認可された。

二 電気工事人学術試験全免

昭和十三年十二月十九日付で、昭和十四年十月以降の電気科卒業生に対し学術試験を省略することが認可された。

三 甲種火薬類取扱免状認可

昭和十五年十二月九日付で、昭和十五年十月以降の卒業生に対し免許資格が認可された。

(一・二、『稲友』昭和十四年二月、第八六号一四頁、三、『稲友会誌』昭和十六年二月、第八九号一七頁)

 工手学校がたゆむことなく三十年を歩み続け、その教育の成果に対する社会的評価も漸く定着してきたこの時期に、校長の交代が行われた。

 徳永校長は、明治四十四年三月学校創立以来、校長としてまた稲友会長として、学校の歴史とともに実に三十年に亘り教育、指導に専心し、生徒、校友から慈父のように慕われてきたのであるが、昭和十五年二月八日惜しくも六十歳を以て不帰の人となった。

 徳永重康は、東京帝国大学を明治三十年に卒業し、同三十五年若冠二十八歳にして理学博士の学位を受け、更に昭和三年二月には工学博士の学位をも受けた。学苑においては理工科、工手学校、高等工学校の創設に大きな役割を果し、後には大学の経営にも参画し、一方、理工学部の教授として教育に研究に多彩な成果と業績を挙げたのである。他面きわめて能楽に長じ、またその芸に対する識見も卓越していたところから、理、工の二博士号に「能楽博士」を加えて自らも三博と号し、世もまた同様にこれを尊称してその聞こえが高かった。

 倦むことを知らない豊かな学殖と、一徹「遊於芸」の人柄は、生徒、校友のみならず知己の人々から師表と仰がれていたのである。

 昭和十五年二月十二日に青山斎場で葬儀が執り行われ、次いで三月九日には大隈講堂において、惜別の追悼式が挙行された。その後間もなく、遺族から工手学校に奨学金として金一封が寄贈された。これを契機に新たに募金した「徳永先生謝恩寄付金」とともに、従前の「徳永校長奨学賞」の基金を加えて「徳永先生記念奨学賞」が設定された。この賞は昭和十五年十月から授与されるようになった。

 初代のあとを受けて、昭和十五年二月二十日に二代目校長ならびに稲友会長として、理工学部機械工学科教授山内弘が就任した。山内新校長は大正五年二月から工手学校機械科講師を勤め、その勤続は既に二十年を超えていた。昭和十三年七月に工学博士の学位を受け、高等工学校機械科主任(昭和十三年四月以降)、専門部工科機械工学科主任(昭和十四年二月以降)などを兼任していた。謹厳な研究者であり、また篤実な教育者でもあった。

 さて、激増期から減衰期への岐路にあった工手学校は、ここで創立三十周年を迎えた。洋洋三十年の記念式典は、昭和十六年五月二十五日午前十時から大隈講堂で挙行された。参列者は三千五百名を超え、先ず国歌奉唱と宮城遥拝が行われ、式は山内校長の報告と式辞を以て始まり、総長田中穂積の式辞に次いで山内校長から現職の満十五年以上勤続の教職員四十三名(氏名後掲)に、感謝状と記念品が贈呈された。続いて来賓東京帝国大学教授俵国一工学博士、学苑理工学部長山本忠興の祝辞があり、最後に校友代表横田元(大正二年・電工)の祝辞を以て式典を終了した。式典に続いて開催されていた恒例の稲友会祝賀大会は、時節柄、自粛し、これに代えて来賓、教職員、校友を大隈会館脇の学生ホールに招き、質素な午餐会を共にして、三十年来の懐旧と、学苑、母校、稲友会の隆盛、発展を祝福するひと時を過した。なお、この日四千名の生徒が期待していた記念体育大会は、前日来の強雨のため第一高等学院運動場の状態が悪く中止された。しかし大隈講堂で映画会が昼夜に亘って催され、学苑を背景として物語が展開する劇映画「人生劇場」や科学映画などの上映に人気が集中して、夜の部が終了したのは午後九時過ぎであった。

 工手学校のこの僅か五年の歩みの間に、時勢は日華事変(昭和十二年)、国家総動員法公布(昭和十三年)、ノモンハン事件(昭和十四年)があり、更に同年には第二次世界大戦の勃発からやがて太平洋戦争に突入する前触れの様相を呈していた。

 学苑では、「亜欧連絡大飛行」(朝日新聞社主催)で世界新記録を樹立した「神風」号の飯沼正明操縦士と機関士塚越賢爾(大正十二年・機械)を、昭和十二年六月三日に大隈講堂に迎え、その壮挙の達成を祝福した。その翌年には、工手学校の設立者であり、当時の学長、また後に総長の重責を担った高田早苗が逝去(昭和十三年十二月三日)した。一方、時局の需要に応えて専門部工科の開設(昭和十四年)があり、また大学創立六十周年記念祝典(昭和十五年)が挙行された。

 激増と減衰の頂点ともいえる昭和十六年四月の工手学校の校勢は、生徒定員三千六百名に対し、生徒数は四千八名であり、卒業生数一万五千三百五十四名、教職員は百六十八名であった。

 なお、創立三十周年記念式典において表彰された教職員は、次の諸氏である。

荒井惟俊 石井定 大久保常正 大隈菊次郎 北沢武男 久松廉吾 桑田福太郎 小泉素彦

後藤量介 志水直彦 清水直江 鈴木徳三 武田修三郎 民野雄平 土屋詮教 日高藤麿

藤本慶祐 師岡秀麿(二十年以上勤続) 新井忠吉 伊原貞敏 猪野勇一 池谷武雄 氏家隆武

大沢源之助 片掛重次 木村幸一郎 沢村幸一 塩沢正一 白井伝三郎 十代田三郎 田辺泰

谷紀三郎 土井良 丹尾磯之助 西村俊春 野田半三 埴野一郎 宮部宏 和田善次

渡辺虎一(十五年以上勤続)

5 新生と終末――工業学校・工手学校――

 工手学校は、その創立三十周年から僅か四年の歩みの後に、新生と終末の時期を迎えるのであるが、先ずその間の時代背景を略記してみよう。

 昭和十六年十二月八日、我が国は太平洋戦争に突入した。それは、学校創立三十周年記念式典を経ること数ヵ月後のことであった。翌十七年四月には米軍による日本本土初空襲があり、学生の勤労動員、学徒兵入隊(昭和十八年)、中学生の勤労動員、学校工場化の促進(昭和十九年)が計られるなど、国家総力戦の様相を呈していた。十九年十一月下旬から翌二十年六、七月に亘り、東京をはじめ全国の主要都市が米軍の爆撃によって潰滅的な被害を受け、遂に昭和二十年八月十五日、無条件降伏によってこの大戦は終結した。

 このような戦局の推移とともに教育の場も衰微の一路を辿るのであるが、工手学校も例外ではなかった。ここでは煩を避けて、この時期の生徒数を掲げることはしないが、太平洋戦争突入から一年半以降の卒業生数の変化の激しさからも、学校終末への道程を推測することができるのである。すなわち、昭和十七年十月六百三十一名であった卒業生数は、十八年三月四百五十七名(この年卒業式は一回のみ)、十九年三月百九十六名と、激減の一途を辿るのである。

 さて学苑ではこの間、出陣学徒の壮行会(昭和十八年)が行われ、翌年には現職総長田中穂積が逝去(昭和十九年八月二十二日)され、中野登美雄が新総長に就任した。なお、昭和二十年春の米軍の爆撃によって、学苑の諸施設は、その三分の一が被災した。

 我が国初めての悪夢の戦乱が去った後、ここに工業学校新生の動きが起るのである。工手学校が工業学校へと転換を計ったのは、戦後の学制改革に伴う中等学校令および実業学校規程によるもので、六、三、三制の教育制度発足に遡ること二年前、すなわち昭和二十年のことである。

 財団法人早稲田大学総長中野登美雄をその代表者とする工業学校の「設立認可申請」は、昭和二十年十一月二十日付で、前田多門文部大臣宛に提出された。この申請は、工手学校を昇格させて工業学校を設立するものであり、その理由は次のように書かれている。

工手学校は、創立以来多くの有為の人材を輩出して、我が国工業界に寄与してきたが、時局の推移は各種学校としての現在の地位を存続することを許さざるに至ったので、上級専門工業技術研究への道を開き新日本建設に資する国家有用の材幹を養成するためである。 (『工業学校関係書類』昭和二十年十一月起一冊 教務部学籍課収蔵)

 この申請は昭和二十一年三月十一日付で認可され、ここに山内弘を校長とする早稲田大学附属早稲田工業学校は、工手学校再生の息吹として新生したのである。学則は第一章から第七章まで全三十五条が制定された。学科は機械、電気(第一分科電気工学、第二分科電気通信)、採鉱冶金(第一分科採鉱、第二分科冶金)、建築、土木の五科とし、生徒定員は各科それぞれ百名、五科併せて五百名に定められた。修業年限は四年とし、第一学年の入学資格は年齢満十五歳以上の男子で、国民学校高等科修了者または同等以上の学力があると認められる者と定められた。入学志望者が募集人員を超える時は考査が課せられた。昭和二十一年度の生徒数は、第一学年五百五十名、教職員は山内校長以下約百名の陣容が整えられた。

 工業学校新生の翌年、すなわち昭和二十二年四月一日付で、早稲田工業学校併設中学校の設置が認可された。設置の目的は、来たるべき新学校制度による工業高等学校への転換に際して、国民学校高等科卒業生をこの中学の三年に編入学させ、彼らに翌年新制中学卒業の資格を与えて、工業高等学校に入学させようとするものであった。この併設中学校は、設置一年の後にその使命を果して廃止されることになる。廃止届は財団法人早稲田大学総長島田孝一の名により、昭和二十三年四月十五日付で安井誠一郎東京都知事宛に提出された。廃止の理由は、「在学生(第三学年)全員を昭和二十三年度において新制早稲田工業高等学校に移行させ」るためであり、従って同年度の生徒募集を停止し、昭和二十三年三月三十一日を以て廃止すると結んでいる。

 さて一方、工手学校は終末へと向うのである。早稲田大学総長島田孝一の名による工手学校の「廃校申請書」は、昭和二十三年十一月十日付で安井誠一郎東京都知事宛に提出され、翌二十四年一月七日付で認可された。ここに、工手学校の四十年にわたる歴史は終止符が打たれたのである。

 工手学校は、かくして工業学校、同併設中学校の設立とともに昇格、再生した。この過程において工手学校在校生に対しては、その在籍する学期に従い工業学校の第一、二学年に移行させる措置が採られた。しかし工手学校に残留を希望する生徒もあり、最終となった昭和二十三年の第七十一回卒業生は、六十八名であった。その日の光景を『早稲田学報』は次のように報じている。

創立以来三十八年に亘る伝統の「早稲田工手学校」の校名のもとに行なわれる最後の卒業式を、去る十月三日午前十時、大隈講堂において行なった。引続き午後は同校の発展的解消の祝賀を兼ねて「稲友大会」を開催し、諸議決の後余興に入り七時盛会裡に幕を閉じた。 (昭和二十三年十月発行第二―九号 二頁)

 遙かに回想すれば、工手学校創立の開校式に臨み設立者早稲田大学学長高田早苗は、その創立の主旨を「早稲田大学の大目的より割り出して、いささか国家に貢献したい……」と懇ろにその抱懐する信念を披瀝したのであった。この大学の大目的を道標として工手学校は大きく成長し、社会の各方面に多くの果実を実らせつつ、ここに栄光に輝やく校史の幕を引いたのである。

6 学窓の内外――集まり散じて――

 工手学校四十年の歴史を振り返ってみると、学苑を慕い工手学校に集い学び、巣立った人々は、北は樺太、南は沖縄に及んでいる。少数ではあるが諸外国出身の人々の名を見ることもできる。また、大正十五年九月からは、女子の入学を認めるようになり、最初の女子生徒を社会に送り出したのは昭和四年二月(第三十三回)である。以後工手学校出身の女性技術者の活躍が見られるようになった。

 工手学校の第一回(大正二年二月)から、最終の第七十一回(昭和二十三年十月)までの卒業生は、合せて一万八千八百五十五名であった。これを学科別で見ると、機械科五千八百二十名、電気科五千三十二名、鉱山及金属科千二百五十六名、建築科三千六百三十九名、土木科三千百八名である。この中から母校ひいては学苑の名を昂揚し、社会的に貢献した人々の名と業績を列挙することは難しい。

 ここでは、叙勲、褒章の栄誉と、学位(博士号)、大臣就任の実績について、その人員数のみを学科別に掲げることに留める。

第六十七表 工手学校卒業生の叙勲・褒賞・学位・大臣就任実績

(『稲友会部会資料』昭和五十三年十月、同五十四年十一月 一部追加)

 このような人々を輩出した工手学校は、学校、在校生、卒業生を結びつけるための機関誌として、『稲友会雑誌』を発行していたが、その創刊は学校創立の翌年三月であった。当初は在校生、卒業生の合同機関誌として、また後に在学生部と校友部とが併立されてからはそれぞれ単独に、また時には合併機関誌として発行された。昭和九年四月から校友部は機関誌『稲友』を発行するようになったが、その創刊号は『稲友会雑誌』の号数を継承して第六二号とされた。それぞれの発行期間と号数は次の通りである。

一 『稲友会雑誌』(総称)

明治四十五年三月(第一号)から昭和十七年三月(第九二号)まで。

二 『稲友』

昭和九年四月(第六二号)から昭和十七年七月(第一〇二号)まで。

 これらの誌面によって、学苑歴代の総長、学長をはじめ理事等の任にあった首脳陣の時勢観、学苑経営の苦心や抱負を知ることができ、また各界名士の思想、権威者の学説に触れることもできる。更に学苑理工系の教員の学究の過程や、大学あるいは工手学校校友の業績をもかいま見ることができる。学校の創立十五、二十五、三十周年には式典記念号が発行されている。それぞれの誌面には「感想」「懐古」「想い出と抱負」などと題して先輩から後輩へと語りかけている文章が見られ、『温古知新』あるいはその時々の『指標』として、感銘深く後輩に受け止められたことであろう。戦前の誌面には生徒の自由投稿欄が設けられていて、生徒達のそれぞれの時代相を反映した文章は、まことに味わい深いものがある。

 学苑内における工手学校の位置づけについては、既に回顧したところであるが、関連する事柄として推選校友制度を採り上げておきたい。工手学校の卒業生が早稲田大学校友(推選)の待遇を受けられるようになったのは学校創立十年余の後、すなわち大正十一年十月に始まる。当初の推選校友は、それまでの卒業生数四千七十二名に対し、四十一名であったが、僅か四年後の大正十五年四月には、卒業生数六千四十名に対し、百六十二名に激増した。その後の経過は省略するが、昭和五十四年現在、工手学校出身者の推選校友は約四百名である(『稲友会部会資料』前出)。

 ところで、早稲田大学の校歌はそのまま工手学校の校歌でもあった。この校歌は、大隈重信が説いた学問の独立を明快にうたいあげ、はつらつとした楽調と相俟って、学苑の全容を象徴するものである。時にこの校歌を高唱すれば、学苑への回想と、青春への回帰の情が、立ち所にいたるのである。同じ校歌を唱和することによって、やがて学苑同人としての一大家族的な連帯感の醸成をも期待したであろう先覚の深慮を、遙かに思い知ることができるのである。

7 稲友会の展望――三十五年の歩み――

 初代校長徳永重康は、学校、生徒、卒業生を三位一体に結びつける母体として会組織によることを発案し、教職員、生徒の協力を得て稲友会を結成した。「会員相互の親睦を厚くし、会員と学校との関係を密接にしその事業を裨補する」ことを目的に掲げ、全十二条からなる会則のもとにその発会式が行われたのは明治四十四年十月十五日のことであった。やがて大正四年頃から部会、地方支部、職域支会などが設けられるようになった。専門課程の各科の卒業生を母体とした各部会では、それぞれ部会会則を定め、また定期的に部会を開催するなどして、稲友会を頂点に母校の後援会的な役割をも果していた。部会の発足の時期は次の通りである。

電気部会 大正四年五月九日

土木部会 大正四年十二月十二日

建築部会 大正五年五月十四日

採冶会 大正六年十月三十日

稲機会 大正七年十二月一日

 地方在住の卒業生によって、大正年代に名古屋、関西、所沢に地方支部が設けられた。昭和期に入るとその数は国内は十九支部、国外は十支部に達した。各方面の同一職域内の卒業生を母体とした職域支会は、会員の親睦、技術の交流を目的として設けられ、激増期には十四の支会に達した。稲友会に在学生部と校友部が置かれるようになったのは昭和二年十一月からであるが、これは卒業生数が七千名を越え、地方支部が続々と誕生していたので、会全体の円滑な運営を計るためであった。

 稲友会は発会以来春秋に例会を催し、また母校の創立記念式典には挙げてこれに協賛し、記念祝賀大会を併催するなどして、三位一体の連携を保ち、母校の発展と会の隆盛を計ってきたのである。

 稲友会の事業としては、創立十五周年式典祝賀大会の席上で、稲友会館建設の意見が述べられている。それから約十年後の創立二十五周年記念事業として漸くその実現をみるのである。昭和十年七月に「記念事業趣意書」が校友、教職員、篤志家に送られたが、その事業計画には次の四項目が挙げられている。

一 稲友会館建設

二 稲友寮建設

三 稲友文庫の設立

四 稲友賞の設定

 これらの事業のうち稲友会館の建設に重点が置かれ、その他については将来の実現を期することとされた。会館建設用地として、昭和十三年七月に大学の後援を得て、当時大学が校地拡張を進めていた「甘泉園」の地続きに、建物を含む敷地を取得することができた。その規模はおよそ次の通りであった。

敷地面積 百十坪

建物 木造和洋折衷様式、二階建(一部三階)、延面積百十五坪、室数和室十室、洋室三室

価額 土地、建物共約一万二千円

 因にこの建物は旧相馬子爵邸である。

 このようにして用地を確保したのであるが、所期の目的である稲友会館の建設は、当時の社会情勢からみてその実行は困難であった。そこでこの既設の建物を利用することとし、約三十メートル移動させて立地条件を整え、また種々の修理を加え、昭和十六年十月に改装を終えた。翌十七年四月には、それまで工手学校事務所(現一号館二階)に同居していた稲友会事務所をこの建物に移転した。

 以後、この建物は稲友会館の名称のもと、校友・生徒の集会や宿泊など、多目的に利用された。稲友会館は、幸い太平洋戦争での被災を免れ、戦中・戦後の一時期には、被災した校友や、学苑の教職員の仮住居に提供され、それらの人々から大いに感謝されたのである。

 工手学校の終末は、そのまま工業学校への再生であり、工業高等学校への進展でもあった。学校としてのこのような変転はともかく、稲友会の名は、後の産業技術専修学校をも含めて継承されていることを付記しておく。

二 早稲田高等工学校

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1 草創の頃

 高工の文字を稲穂が包む、これがその校章であった早稲田高等工学校は、昭和三年の創立である。その後閉校までの二十三年間に、卒業生九千余名を技術社会に送り、大きな功績を残しながら、学制の改変によって、昭和二十六年閉校となった歴史を持つ。

 この学校創立の頃、早稲田大学の工業教育機関は、理工学部と、中等教育の工手学校のみであった。

 ところが科学技術の目覚しい進歩は、中等教育程度の学力のみでは、その理解が困難となり、少くとも一段高い専門学校程度の学力が必要となってきた。従って工手学校卒業生の間からも、早く早稲田にもこの程度の学校を設けてほしい、という強い要望が、再三に亘って大学当局に出された。

 このような機運を踏まえ、大学でもいよいよその設立に意を決し、当時工手学校長であった徳永重康を委員長に、理工学部および工手学校の各学科主任、ならびに大学幹事等を委員に嘱任して、早稲田高等工学校開設準備委員会を設けた。ここで慎重討議の結果得た成案によって、時の総長高田早苗を代表者として、認可申請を行い、昭和三年三月設立の認可を得た。

 そこで初代校長に、開設準備委員会の委員長であった徳永重康を嘱任し、同年四月待望久しい早稲田高等工学校は、ここにめでたく誕生したのであった。

 当時私学でこの程度の学校は、日本大学と攻玉社、それに工学院にあるのみであったが、当時は「大学は出たけれど……」という時勢であったので、大学当局としてもその設立には、希望とともに、またいろいろの論議も湧いたことと想像される。

 学校は夜間の各種学校であったが、専門学校程度の教育を目的とした。その教育方針については、設立の年の五月に行った創立記念式典において、徳永校長が式辞の中で、この学校は母体が早稲田大学であるため、教員の陣容ならびにその施設が、他に比類をみないきわめて充実したものであること、また他より面倒な制約を受けることなく、自由自在に理想的な教育を授けられる、きわめて特色ある学校であるとその特長を挙げた後、更に、

こう言う面白い学校である以上、どうしてもこの学校におきましては、ある特別の方針を以て、教育を施さねばならぬと思うのであります。それには何を措いても、先づ第一に考えますことは、穏健堅実なる思想の涵養、第二には徒らに学理のみに走らずして、実際的の技術を授ける、というこの二つの点を完全に実現するよう努めねばならない、と思うのであります

(『稲工』第一号)

とその方針を述べている。

 当時の学則によると、開設された学科は、機械工学科、電気工学科、建築学科、土木工学科の四学科であった。

 学科課程等は、工業専門学校のそれをもとに、修業年限、教育方針等を勘案し、取捨整理したものであった。修業年限は当初二ヵ年で、これを四学期に分け、第一学期と第三学期は四月一日から十月三十一日まで、第二学期と第四学期は十一月一日から翌年三月三十一日までとした。

 また各学期の初めに学生を募集したので、昭和十四年四月学年制に移行するまでは、毎年四月と十一月に新入生があり、三月と十月にそれぞれ卒業生を出した。

 授業は毎日午後六時より九時三十分までとし、これを四時限に分け、週間二十四時限が標準であった。入学資格は、中学校、工業学校、早稲田工手学校およびこれと同等以上の学校の卒業者とした。

 授業料は毎学期四十円(一ヵ年八十円)とし、機械実習費一学期十円、測量実習費五円は、いずれも実習のある学期のみ納入することになっていた。

 創立当時の役職者は次の通りであった。

校長 徳永重康

協議員 徳永重康 山本忠興 佐藤功一 内藤多仲 小林久平 密田良太郎 山田胖

井上秀二 松縄信太 沖巌 吉川岩喜

教務主任 機械工学科・沖巌 電気工学科・密田良太郎 建築学科・佐藤功一

土木工学科・山田胖 共通学科・岡村千曳 藤井鹿三郎

主事(後の事務主任)・坂本隆昌

 教員はすべて講師とし、専門科目は土木を除いて、殆ど理工学部にある同系統学科の若手の教授、助教授が担当した。また共通科目(語学、数学等)は他の学部や、高等学院からの担任が多かった。しかし第三学期ともなると、専門科目担当には、鉄道省、逓信省、東京電灯、芝浦製作所その他から、実務に明るい練達の技師連が多く招かれていた。

 土木工学科のみは、その頃まだ理工学部に土木がなかったので、初めから、内務省、逓信省、東京帝国大学、東京府、東京市等から、その道の権威者がきて教鞭を執った。従って教務主任も、初代は鶴見臨港鉄道の山田胖理事であり、第二代は東京帝国大学の田中豊教授、第三代は内務省土木試験所の青木楠男所長であった。

 このようにして、第一回卒業生の出た昭和五年三月には、各学科合わせて百三十五名という、充実した教員陣容を持っていた。

 校舎は当時の第二高等学院の校舎(現一四号館)を共用した。実験室はそれぞれ理工学部の実験室、製図室は現六号館の位置にあった木造建物であった。ただし建築、土木の測量実習などは、夜間には実施できないので、土曜日の午後または日曜日に行った。構内の広場または旧水稲荷、穴八幡神社の境内が恰好の実習場で、時々神主さんから小言を喰った思い出もある。

 事務所は校舎の一階(半地下)にあって、あまりカラリとした気分ではなかったが、安部球場側の入口の太い石柱には、「早稲田高等工学校」と雄大な文字の看板がかかっていた。

 第一回の入学試験は開校早々でもあり、果して希望通りの志願者が集まるだろうかと、当事者間でもかなりの心配があった。ところが工手学校の卒業生達が開校を待ち侘びていたこともあって、募集を開始するとたちまち千名を超す志願者があって、担当者をホッとさせた。

 なお入学試験の結果は次の通りである。

第六十八表 高等工学校第一回入学者および志願者数(昭和三年)

 この入学者を出身学校別にみると、中学校卒、早稲田工手学校卒、工業学校およびその他の学校卒業者が、奇しくもほぼ三分の一ずつであって、この傾向はその後もあまり変らないようであった。

 この学生を迎える入学式は、始業式という名目で、昭和三年四月十六日、竣工間もない大隈講堂で行われた。当日は入学手続きの際渡された真新しい帽章に、蛇腹を巻いた丸帽が多かったが、中折れ帽もかなりあって、学生の年齢、社会的立場の種々相が現れていた。式は徳永校長の式辞、井上秀二協議員の訓辞等があったが、いずれも本校最初の人としての入学を喜ぶとともに、長男を育てる細かい心遺いが滲んでいた。

 次いで五月十三日には、創立記念式典ならびに稲工会の発会式が行われた。

 当日は来賓として、平塚広義東京府知事、加茂正雄東京帝国大学教授の臨席があり、大学からは総長病中のため、代って田中穂積常務理事が出席した。式中それぞれ祝辞、記念講演の中で、創立を大いに祝福するとともに、将来の大発展を願望した。

 なおこれに引続いて発会式を行った稲工会は、そのときどきの校長を会長とし、教職員、卒業生、学生を一丸とする会であって、夜間授業のもつ欠陥をカバーすることをその目的とした。

 そのため各学科にあった部会とともに、会員の行う研究、調査、見学等の成果や、特別寄稿または文芸作品等を、その機関誌『稲工』に掲載発表する等、いわば学校の裏方的な存在であって、この会に触れずには、学校のすべてを語ることはできない。

 第一回の卒業式は昭和五年四月六日、大隈講堂で行われた。この日、栄えの卒業証書を受けた者は四百十九名で、その内訳は、次の通りであった。

機械六十一名 電気九十九名 建築(構造)四十七名 同(意匠)六十八名 土木百四十四名

 当日来賓として東京帝国大学俵国一教授、大学よりは総長代理として田中穂積常務理事が出席した。徳永校長はその式辞の中で、諸君は本校第一回の卒業生として、その一挙手一投足も、学校ならびに後輩の運命を左右するものであるから、特にその門出を慎重に、人格技術の練磨に努力してほしい、と要望した。

 因に当日在学生を代表して、送別の辞を述べたのは、松本喜一(建築)であり、また卒業生を代表してこれに答え、謝恩の言葉を述べたのは宇佐美勇司(土木)であった。

 なおこの時の卒業者数は、入学当時に比べると約六〇パーセントで、四〇パーセントが脱落している。修業年限が僅か二ヵ年の短いものであったとはいえその修学がいかに厳しく、またつらいものであったかが推察される。

2 十周年の頃

 昭和八年三月、学業奨励の目的を以て、優等賞制度を設け、卒業の際に各学科一名ずつ、成績の優秀な者に、賞状と賞品を授与することとした。

 その選考に当っては、毎学期の学業成績とともに、その人物考査も条件とし、もし適当な候補者のない場合には、これを授与しない、という厳しい規定であった。

 なお第一回の受賞者は、この年三月の卒業者で、機械工学科・斎藤守、電気工学科・一宮泰、建築学科・斎藤敏夫、土木工学科・矢田季夫の四名である。

 なお当時の主事は丹尾磯之助であった。

 時勢の推移とともに、本校の修業年限にも、二度の延長措置が採られた。第一回は昭和十年四月の入学者より実施したもので、上海事変、満洲事変等を背景に、工業界がにわかに活発化し、これに伴う科学技術の長足の進歩に即応するため、従来の二ヵ年(四学期制)を、半ヵ年延長して二ヵ年半(五学期制)とし、教育の充実を図ったものであった。

 二度目の延長は、創立十周年を過ぎた十四年四月である。この時も更に半ヵ年延長して、三ヵ年とし、従来の科目制、学期制を改めて学年制とした。従って今まで春秋二回にあった入学期が、年一回に改められ、ここに初めて専門学校としての体制が整えられたのであった。

 なおこの頃は技術者不足の甚だしい時であり、この時に当って更に半ヵ年の延長にはいろいろ批判の声もあったが、最後の勝利を得るものは素質の十分な者であるとの高い観点から、延長に踏み切ったのであった。

 昭和十三年一月には、電気工学科の卒業生について、電気工事人免許に関し、学科試験省略の認可があった。この頃になると、学校も設立後既に十年を経たこととて、卒業生も三千七百名、在学生千五百名を超す堂々たる学校に成長していた。

 徳永校長はこの十周年を機に辞任したので、後任として、建築学科の教務主任である内藤多仲が、同十三年四月一日付けで、第二代校長に就任した。

 またこの時本校に新しく教頭制度が設けられ、電気工学科の教務主任川原田政太郎が、四月一日付けでこれに就任した。

 創立十周年の記念式典は、昭和十三年早稲田の森が鮮緑に包まれた五月十六日に行われた。当日は来賓として、長倉東京府知事代理、大学よりは田中総長、平沼、塩沢両理事のほか多数の幹部、学校側は内藤、徳永の新旧校長始め教職員卒業生、学生の多数が出席した。特にこの日は、三日前の十三日に飛び立った、東京帝大航空研究所の長距離機が、今日までの無着陸飛行の世界記録を堂々破って、現在まだ快調に飛び続けている、という快挙の日でもあったので、式典の気分はいやが上にも盛り上った。内藤校長はその式辞で、この式典は過ぎし十年の歴史を追憶し、今日の隆盛を喜ぶばかりでなく、十年を一期として、更に一大飛躍のもととしたい、と力強く述べた。なおその終りを

菊咲いて今日までの世話を忘れけり

の一句で締めくくったが、思えば創立より今日まで長い十年間、その発展に日夜苦心努力を惜しまなかった教職員、特に徳永前校長の今日の胸中を思い起し、心から感謝の意を表したものであった。なおこの日、卒業生代表として祝辞を述べたのは、峰岸政(土木一回卒)であった。

 続いて永年勤続教職員三十四名の表彰を行い、その労苦に謝意を表したが、いずれも創立当時からの人々であった。

 表彰者(順不同)は次の通りである。

原田実 川原田政太郎 吉田享二 山田胖 藤井鹿三郎(以上教務主任)

今井兼次 石井定 埴野一郎 帆足竹次 沼倉三郎 乙葉真一 大沢一郎 大隅菊次郎

渡辺寅次郎 加藤観三 門倉則之 樫部保 坪谷幸六 半井直彦 上浪朗 栗原嘉名芽

松永材 前原重秋 増田綱 小林正助 小島達太郎 児玉顧太郎 江崎歓蔵 有元岩鶴

佐藤武夫 斎藤三三 木村武一 森井健介(以上講師) 佐藤修次(職員)

 因に当時の各学科教務主任は、機械工学科・山内弘、電気工学科・川原田政太郎、建築学科・吉田享二、土木工学科・山田胖、共通学科・原田実、藤井鹿三郎であった。なお主事は森本丈助である。

 この頃の求人状態をみると、工業界の盛況を反映して、この年三月の卒業者百六十四名に対し、二千七百五十八名の採用申し込みがあり、昭和四十年代の神武景気にも匹敵する感があった。

 昭和十四年二月には機械工学科の卒業者について、一級汽缶士試験の際、学科試験免除の認可があった。

 十月には、校長内藤多仲が、この年四月に開設された専門部工科長に就任のため辞任したので、これに代って、建築学科の教務主任吉田享二が校長に就任した。

 昭和十五年二月には、本校生みの親、育ての親として、十余年間その発展に日夜尽瘁した初代校長徳永重康が、僅か数日の病臥で八日卒然として死去された。このことは単に本校のみでなく、早稲田大学としても、また国家的にも誠に大きな痛恨事であった。葬儀は二月十三日、青山斎場で厳かに執り行われた。

 同十五年四月には応用化学科を新設した。この頃には化学工業の目覚しい発展に伴って、応用化学の技術者払底が強く叫ばれてきた。

 ところがこれを養成する機関、別けても学校における応用化学科の設置は容易なことでなく、特にこの程度の学校としては、至難の業と考えられていた。しかしこれを敢えて設置することによって、工業界、教育界に裨益するところが、きわめて大きいものがある、との判断から、大きな犠牲を覚悟で、その設置を決意したのであった。初代の教務主任には小栗捨蔵が就任した。なおこのとき入学した学生は、昭和十七年九月この学科第一回生として、四十三名が卒業した。

3 報国隊と稲工報国林

 早稲田大学に、有事即応勤労動員等のため、報国隊が結成されたのは、昭和十六年八月であった。

 本校でも吉田校長を部隊長として、早稲田高等工学校報国隊を結成し、早稲田大学報国隊第十四部隊となった。部隊の編成は、第一大隊・機械工学科、第二大隊・電気工学科、第三大隊・建築学科、第四大隊・土木工学科、第五大隊・応用化学科であった。

 この結成式は十一月二十三日早朝、当時の代々木練兵場に、吉田部隊長をはじめ、全学生教職員が集合し、部隊の編成と部隊長訓辞の後、明治神宮に参拝して式を終った。この日は晩秋ながら練兵場は真白い大霜で、時局の厳しさと、冷たさがひしひしと身にしみる朝であった。

 なおこれより前、本校の学生にも軍事教練が課せられ、安部球場(当時は戸塚道場と呼んだ)の夕闇をついて、徒手訓練や銃剣術訓練等の鋭い号令とともに、ここにも歴史の重苦しい足音が響いていた。

 昭和十六年十二月には戦時の特別措置として、大学、専門学校等の学生で、十七年三月に卒業予定の者は、いずれも修業年限を三ヵ月短縮して卒業させることとなった。

 本校でも同年十月十六日、文部省令第七十九号を以て、公布された関係法令によって、専門学校に準ずる私立学校として指定されたので、その措置に従って、この年次の学生は十二月に卒業させた。各学科合わせて二百二名で、三年制となった当初の学生であった。これ以後の学生は、終戦の二十年まで、専門学校同様いずれも修業年限を六ヵ月短縮して、毎年九月の卒業となった。

 昭和十八年四月は創立十五周年に当ったが、戦時中のために、記念式典、記念事業等は一切行わなかった。しかし稲工会では、同じく十五周年となるのを機に、学校に代って記念事業を行うこととし、植林事業を計画した。

 この事業は、当時不足の甚だしい木材の生産に寄与し、併せて本校学生の錬成の場、および翌年新設予定の木材工業科の実習林とする含みであった。資金はすべて稲工会で調達し、労力は学生、教職員の勤労奉仕と、地元の人々の応援によることとした。幸い都下八王子市外の横山村(現八王子市寺田)に、約一万坪の格好の雑木林が手に入ったので、これを事業用地とし、「稲工報国林」と称した。

 四月二十九日に地鎮祭を行った後、毎日曜日には教職員学生が、報国隊の編成に従って現地に出かけ、鎌や鍬を握って慣れぬ作業に汗を流した。作業は主として整地と植樹であったが、二十年の春までに、約五千本の檜や杉の苗木を植えた。あまりの早天に苗の枯れるのを心配して、山麓を流れる湯殿川から、バケツ・リレーで水を運んで灌水する等、学生ならではの心遣いをした。

 また地元の人々の指導で炭焼きも行った。この木炭は義務的に一部を供出させられたので、どこかに「早稲田高等工学校稲工会製造」のラベルの付いた木炭を使った家庭があった筈である。残りは一部を地元の小学校に贈るとともに、学校に運んで、冷え切った教員室や事務室、それに大学本部等に幾らかの暖を送って、非常に喜ばれたものであった。

 なおこの植林事業には、東京都の林務課と地元の熱心な指導応援が得られたことと、この事業の推進役であった主事の森本丈助が、森学関係を修めていたことがまことに幸いであった。

 昭和十九年四月には規則を改正して、航空機科、電気通信科、木材工業科を新設し、同時に既設の機械工学科を機械科、電気工学科を電気科、建築学科を建築科、土木工学科を土木科、応用化学科を化学工業科とそれぞれ改称した。新設科も実験設備は理工学部のものを共用したが、木材工業科はそのほかに小規模ながら木工機械の一通りを備えた、日本航空機工業会社の早稲田大学勤労所が、大隈庭園内に建ったので、これを実習工場として使用した。この工場は戦後暫く大学の木工所として活用された。

 ところが航空機科のみは、翌二十年終戦の結果、連合国軍の命令によって遂に廃止せざるを得ない運命となった。そのためこの学科の在学生は、二年生は機械科または電気科の二年生に、一年生は存続する学科の一年生に、それぞれの希望によって転科修学させることとし、同年十一月三十日を以てこれを廃止した。

 なおこの新設学科の教務主任には、航空機科に東大航空研究所の石井定技師、電気通信科に広田友義、木材工業科に十代田三郎がそれぞれ就任した。

4 豆電球の授業から昇格問題のころ

 戦時中本校の学生は、まとまって動員されることがなかったので、授業は曲りなりにも続けられた。しかし東京が空襲されるようになると、足の乱れによる授業の混乱はたびたびのことで、一番苦労だったのは灯火管制であった。警戒警報の発令とともに大急ぎで、各教室の窓一杯に暗幕を張って、光の洩れるのを厳重に防ぐのは大仕事で、こんなことが幾晩も続くことがあった。やがて二十年八月の終戦、それによる大混乱と虚脱の中から、早くも九月には授業再開の気運となった。大学では木造の建物は殆ど焼失したものの、教室棟が壊滅的な被害を免れたのはまことに幸であった。しかし配電設備は決定的な破壊を受けたので、教室の照明には手の施しようがなく、やむなくローソクで出発した。間もなく進駐軍用の乾電池が手に入るようになったので、これに豆電球をつけて、漸く教師の手元だけを照らす授業が暫く続いた。やがて幾らか電気が送られるようになると、関口町にあった東京電灯の変電所に日参して、配電の状態を尋ね、授業の計画を立てた。夜間授業にあっては、照明問題は一番の泣きどころであった。なおこの頃の事務主任は金児武であった。

 主任会や講師会には、平時であれば時には、お茶菓子や、食事が出たものであったが、一椀の雑炊さえも切符制で店頭行列の終戦直後では、そんなことは思いもよらなかった。こうしたある日の会議に、お茶菓子として出たのが、報国林で採れたジャガイモのふかしたもの十二個に、塩少々であった。これを見て、「ホウこれは大変なご馳走だ」、と一同目を丸くしたことがあった。物資あふれる今日では、別世界の出来事のように思われる。

 創立の頃は実力養成一本やりで過ぎたが、世の変転につれ、資格の問題にも眼が向くようになった。特に三年制になってからは、「早く専門学校へ」との要望が、学生間に非常に強くなった。

 学校でもこれに対応して、早稲田工業専門学校の設立を計画し、昭和十九年には大学理事会の承認を得、二十年一月総長中野登美雄の名をもって、文部省に認可申請を行った。

 しかしこの申請は、夜間の工業専門学校はまだ前例がない、という事情もあって、残念ながら遂に認可を得るには至らなかった。この時は既に終戦も間近く、混沌とした国情下でもあったので、いろいろな事情があったものと思われる。

 と、こうするうちに終戦となり、その後に来る文教政策の大転換等によって、この設立計画は遂に日の目を見ずに終ってしまった。

 そこでやむなく、二十二年に至って、早稲田高等工学校のまま「専門学校卒業者と同等」との文部大臣の指定を受けるよう、申請をしたのである。

 このころ大学でも、新しい教育制度に切り換えるため、旧制度の学部、学校は二十六年三月限り廃止する、との意向を打ち出したことも、この問題の促進に更に拍車をかけた。学生もまた非常に積極的で、たびたび学生大会を開いて、その結果を踏まえた代表が、学校は勿論、大学や文部省にも、しばしば陳情に出かける状態であった。

 こうした中で学校でも文部省当局と頻繁に折衝を続け、施設や授業状態の視察もたびたびあって、漸く昭和二十三年三月に至って、次の通り指定を受け、ここに不十分ではあったが、長い間の懸案は一応達成したのであった。

校学一一九号

大正七年文部省令第三号第二条第二号により左記のものを高等学校高等科卒業者若しくは大学予科修了者と同等以上と指定する。

昭和二十三年三月十五日

文部大臣 森戸辰男

一、早稲田大学附属早稲田高等工学校本科卒業者、但し昭和二十三年三月以降の卒業者で中等学校卒業程度をもって入学資格とし修業年限三年以上の者に限る。

 しかしこれは当初の希望通り「専門学校卒業者と同等」との指定ではない。その経緯は次の通りであった。

 当時文部省担当者の話では、現在「高等学校卒業者と同等」と指定する省令はあっても、「専門学校卒業者と同等」と指定する省令がない、今この省令のできるのを待っていては早急に間に合わない。また早稲田高等工学校は、世間では既に専門学校と認められているのだから、この指定で、ということであった。終着駅が目前に迫っている学校としては、不本意ながらこれを受けざるを得なかった。

 なおこの指定によって学部進学の道が開けたが、このほか専門学校卒業者と同じ扱いを受ける主なものに、次のものがある。

昭和十六年十二月以降の卒業生について、

一、各学科卒業者とも、科学技術庁の行う技術士試験において、予備試験が免除される。

一、土木科卒業者は、測量士、同士補の資格取得に際し、専門学校卒業者と同様の取り扱いを得る。

昭和二十三年三月以降の卒業者について、

一、電気科卒業者は、電気事業主任技術者第二種の資格を得る。

一、土木科卒業者は、土木施工管理技士の試験において、専門学校卒業者と同様に扱われる。

 昭和二十二年三月には、電気通信科二十名、木材工業科十名が、それぞれの科の第一回生として卒業した。

5 閉校と吉田校長

 昭和二十三年七月には、創立二十周年の記念式典を行った。世が世であれば、この三月には文部大臣による資格の指定校となったこともあって、盛大に行われたであろうが、まだ終戦後の混乱期でもあり、更に三年後には閉校の運命にあることもあって、いま一つ盛り上りを欠いたのは止むを得なかった。なおこの頃の事務主任は佐々木延次であった。

 昭和二十六年三月三十一日、最後の卒業式が大隈講堂で行われた。この日は島田総長はじめ、教職員多数が出席したが、残念なことに吉田校長は病中のため出席できず、共通科の定金右源二教務主任が代って、卒業生五百五十一名に卒業証書を授与した。

 島田総長はその式辞に、長い間本校が社会に尽した功績を称えるとともに、学校は今年限りで消滅するが、その生命は脱皮生長して、長く早稲田大学の中に生き続けるであろうと述べたことは、最後の卒業生を送るにふさわしく、また励ましの言葉となった。

 こうして、創立以来三十二回目、再び繰り返すことのない卒業式は、参列の人々の幾多の思い出のうちに滞りなく終了した。

 校長吉田享二は、昭和十四年第三代の校長に就任以来、これを畢生の仕事と称し、戦前戦後の最も困難な時局を乗り切ってきたのであった。二十五年頃からときどき体の不調を洩していたが、二十六年一月、心臓疾患と診断され、一時東京大学病院に入院した。しかし経過思わしからぬまま退院して、代々木の自宅で療養中であったが、四月二十九日病改り、遂に不帰の客となられた。

 思えば戦中戦後の苛酷な日常は、その健康を徐々に害し続け、更に大学の復興問題、学制の改変、本校の昇格問題等に対する心労は、一段と健康状態を悪化させたのではあるまいか。いずれにしろ、学校とその運命を共にしたことは、まことに悲しいことと言わざるを得ない。教育者として、また建築学者として実に偉大な六十三年の生涯であった。葬儀は五月四日、内藤多仲が葬儀委員長となり大隈講堂でしめやかに執り行われた。

 吉田校長逝去のあと、教務主任の定金石源二が校長事務取扱いに嘱任されて残務の処理にあたり、閉校のための手続き等一切を終って、昭和二十六年十月三十一日、早稲田高等工学校は、遂にその幕を閉じた。

 なお最後の各科教務主任は、機械科・新井忠吉、電気科・埴野一郎、建築科・木村幸一郎、土木科・青木楠男、化学工業科・石川平七、電気通信科・田中末雄、木材工業科・十代田三郎、共通科・定金右源二、藤井鹿三郎であり、この閉校の跡始末に苦心努力した事務主任は、角田良平であった。

 因に各科の卒業者数は次の通りである。

第六十九表 高等工学校卒業者数累計(昭和五年三月―二十六年三月)

6 歩んできた路

 授業が夜間であったから、学生の相当数は、昼間しかるべき役所、会社等に勤務していた。従って工手学校や工業学校の出身者中には、職域でも既に立派な技術者となっていて、その風貌も先生と間違えられる者もいた。

 変り種では、当時陸軍関係で新鋭軍用機のテストパイロットとして華々しい活躍をしていた者や、在学中にたびたび召集されるので、長い間卒業ができず、その間の戦功で随分高級な勲章の所持者もいた。またある女子大の出身者で、母校の教職に就きながら、学友ともども、電気科と建築科にそれぞれ入学して、立派に卒業していった篤学の女性もあった。

 また文部大臣の指定校となってからは、それ以前の卒業生で、資格取得のため再入学する者もあり、その後理工学部に進学した者も若干あった。

 戦争が始まると、応召者が日増しに多くなって学生数も減り、学籍簿にも韓国、台湾等の出身者が特に多いのが目につく学科もあって、時の流れの厳しさをまざまざと感じさせた。

 在学中の就職先は、東京鉄道局、陸軍技術本部、日立製作所、逓信省、芝浦製作所、沖電気、東京電灯、東京府、東京市その他建築事務所等で、通学に比較的便利で、また時間的にも経済的にも幾分恵まれた職域が選ばれた。このような関係から、卒業後もそのままその職域に居坐る人も多かったが、卒業を機に自分の専門をより有効に生かすべく、他に転じてゆく者もあった。特に実業界で時と処とを得た人は、一流企業、中堅企業の経営陣にあって、その敏腕を奮い、あるいは自分で事業を起して大成した人も数多い。

 建築の出身者には、設計方面に堪能の人が多く、紀元二千六百年記念の建国記念館設計懸賞で、見事金的を射止めた人、または大東京建築祭の銀座街共同建築設計その他に入選し、堂々その力量を世に示した入もいた。これらの人人はそれぞれ一流の建設会社や、設計事務所等にあって、よく建築早稲田の一翼を担っていた。

 官公庁方面には職種の関係から、土木科や電気通信科の出身者が特に多く、地方庁わけても東京都庁には土木科出身者の活躍が目立った。建設事務所長や、各区の土木部長、課長クラスに多士済々であったが、世代の交代で、今ではこの流れを学部出身者が受け継いでいる。

 また電々公社には、電気科、電気通信科の出身者が多く、地方の統制無線中継所長や、電話局長等第一線に重きを成している。

 学校の性格からか、政界を志す人は少なく、前衆議院議員の向山一人(電気十年)のみであるが、地方都市の首長には、昭和五十四年八月の時点で、深谷市長小泉仲治(土木十四年)、川崎市長伊藤三郎(土木十五年)、武蔵野市長藤元政信(機械二十年)等があって、早大出身の市長二十八名の中で万丈の気を吐いている。

 その他数は多くはないが、職域での研究結果をまとめて、学位を取得した努力家もあれば、大学、高校等で教育に情熱を注いでいる人々等、その活動範囲は非常に広い。従ってそれぞれの専門分野における功績によって、各種の褒賞を受け、あるいは叙勲された人々も数多い。

 また特に記したいことは、早稲田学園内におけるその存在である。大学本部や、各学部等で職員の主要ポストに活躍している人も多いが、理工学部では、各実験室の課長始め、指導的立場にある人々は、殆ど本校の卒業生であって、実験実習指導、実験室運営等の大きな柱となっていることはまことに頼もしい。

 なお卒業後母校の講師陣に加わって、後輩の育成指導に熱情を傾けたのは次の人々である。

青柳釵二(土) 加藤清作(建) 加藤正雄(機) 金児武(土) 亀岡健次(機)

斎藤友良(土) 佐藤滋夫(建) 鈴木栄二(機) 田中勇(建) 成田順蔵(機)

平野鷹雄(土) 蛭田捨太郎(建) 福本善次(建) 峰岸政(土) (五十音順)

 こうして学校は遂に閉校となったが、稲工会は現在もその活動を続け、年次の大会と、地方支部、職域支部の会合、会誌『稲工』の発行等によって、不十分ながら、卒業生の心のふるさととしての責務を果している。

 八王子にあった稲工報国林は、閉校によって学生活動の場も不要となり、また年々その維持も困難となったので、昭和四十二年にこれを処分して会の運営資金とした。なおこの際、売却代金の一部は、長い間特に関係の深かった理工学部の新キャンパスの環境整備費に、また一部は、植林事業によって稲工会と一脈相通ずるものである大学思惟の森の会青鹿寮建設費に寄附して、果し得なかった夢を後に託することとした。

三 工業高等学校

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1 設立とその経緯

 戦後の学制改革の基本方針に従って行われた早稲田大学機構改革の第一着手として、早稲田大学付属早稲田工業高等学校(新制)は昭和二十三年三月十日に設置が認可されて発足した。

 これより先、早稲田大学教育制度改革委員会(委員長大浜信泉)の意向によって同年二月新制工業高等学校設置委員会が設けられ、四月にその具体的成案が提出された。設置委員会の構成は次の諸氏である。

委員長・工手学校長 山内弘。委員・理工学部機械工学科 助教授柴山信三、電気工学科 教授埴野一郎、助教授荒畑誠二、建築学科 教授鶴田明、土木工学科 教授兵藤直吉、応用金属学科 助教授加山延太郎、第一高等学院 教授渡鶴一、教授小林正、教授田崎友吉。第二高等学院 教授竹野長次

 新制工業高等学校(以下工業高校と称す)は、修業年限四ヵ年の定時制課程(夜間)にて、入学資格は新制中学校卒業者またはこれと同等以上の学力があると認められたものとし、機械科、電気科(第一分科電気工学・第二分科電気通信)、金属工業科、建築科、土木科の五科とし、各科一学年の定員百名、計二千名である。

 工業高校はその開校に当って今までの工手学校を継承し、工手学校が昇格してできた工業学校の二学年修了者(この年度における最高学年)は二学年に、その併設中学校の三学年修了者は一学年に受け入れ、また外部からは補欠募集をし、これらは編入の形をとって、第一学年と第二学年を開設した。生徒数千三百三十三名で二十三年四月二十四日午後五時から大隈講堂で開校式が行われた。初代校長には山内弘が嘱任され、次の各主任が就任した。

機械科・柴山信三、電気科・荒畑誠二、金属工業科・若林章治、建築科・鶴田明、土木科・兵藤直吉、理数教科・田崎友吉(以上兼担)、国語教科・橋本勇(早稲田中学校教諭)。

事務主任・村田光敏

 五月には夜間付属学校初めての専任教員として、藤田信達(工手学校講師)、英敏道(東京都立九段中学校教諭)、中野匡夫(元早稲田中学校教諭)の三氏が迎えられ、その経験を生かして学校運営にあたった。

 大浜信泉総長は早稲田大学改組の基本とその当時の構想の経緯を「工業高等学校と工手学校の関係」と題して要旨次のように述べている。

戦後の学制改革にしたがって六・三・三・四制を骨子とし、今までの早稲田大学の「恰も学校集団の観を呈していた複雑な機構を、新学制による単線形の学校体系に切換える」ことにあった。「ところで高等工学校と工手学校については、学校の性格や在学生の特殊事情などの関係で……工手学校については修業年限に多少の無理はあったが……正規の高等学校として存続させることにした。」高等工学校の場合は、高等学校と大学との中間的な存在となるため「結局終止符を打つほかなかった。」

(早稲田大学工業高等学校・早稲田稲友会共同発行 『早稲田大学工業高等学校創立五十周年記念誌』 昭和三十六年十一月発行 二頁)

 因に開校時の学費は、授業料月額二百円、入学検定料百円、入学料三百円その他に学友会費、自治会費である。

 当時の教員構成は、専任講師三名、兼担を含め臨時講師六十五名。学科目は文部省令設置基準に基づき、普通教科、専門教科、自由研究からなり、普通教科目(国語、社会、数学、理科、体育、外国語)の必修単位数は三十八単位、必修専門教科目は、各科多少の差はあるが、普通教科目の一・二倍である。専門教科目のうち実習科目(製図、実験、実習)の占める割合は、五七パーセントから四四パーセントで、金属工業科と機械科が多く、電気科は少い。そのほかに選択教科目が二ないし四科目ある。また自由研究は各科共外国語を四単位あてている。

 山内弘校長は「工業高等学校の発足」と題して次のように述べている。

工業高等学校の教育は実習即ち実技の習熟を中心とし、これに関係諸学科を配して専門的内容を強化すると共に一般教養や倫理的教育の面をおろそかにしないように努めた。……更に又教育の機会均等の保証される今日、向学心あり能力あるものの大学への進学の道に備えての教養も深く考慮し指導するよう企図されております。

(『早稲田大学彙報』昭和二十三年四月発行)

 なお学校事務所は工手学校以来の二号館(当時以下同じ)に置かれた。校章とバッジは設置委員会では理工学部建築学科・今井兼次教授に図案を依頼することになっていたが、検討の結果、今までの付属学校の形式に従って、校章は「工高」の文字を稲穂で囲むものに決定した。帽子は丸帽に蛇腹および顎紐を付け、バッジはWにEHの文字を入れることに決定した。

2 機構の拡充と整備

 工業高校はその後着々と形態も整い、十月には改めて次の諸氏が各主任に嘱任された。

金属工業科・川合晴幸(理工学部採鉱冶金学科助教授)、土木科・藤田信達、国語教科・英敏道、社会教科・中野匡夫

 二十四年度からは新制早稲田大学の新学制が発足し、そのために廃止が決定した専門部工科から伊藤道学、藤平春男、川喜田隆、民野好一、佐藤忠夫の諸氏と、鋳物研究所から牧口利貞、高等学院臨時講師池田美代二、ほかに学外から濵部憲一、矢島正治、小野禎三等が迎えられて工業高校専任教員に嘱任され、教員人事は一気に十三名に拡大強化された。また藤田信達は教頭の職をも兼務した。理工学部をはじめ学内からも多数の教授・助教授が兼担教員として参加し、その後また渡辺保忠、古藤田喜久雄等も迎えられて教員陣容は漸く確立された。事務主任は二十四年五月から渡辺保夫が就任した。

 戦災で焼失した旧第一高等学院の敷地高台にあった陸上競技場跡地(現文学部校舎所在地)に久留米錬成道場が移築され、戸山町校舎として完成したので、高等学院と共用することになり、二十四年四月からその一六号館に移転した。この木造校舎は古くて床に穴があいたりなどして相当ひどい建物であった。教室には手焚きのだるま型ストーブがあり、その薪に使うために生徒が床板を剝がした事件があって、学院生か工高生かで問題になったこともあった。その後新築された木造二階建一七号館に教室を移し、またコンクリート三階建一八号館の生物学実験室の一階に管理室が移った。しかし実験・実習・製図等は従来通り理工学部の施設を使用していたために、その都度本部キャンパスまで通うのであった。建築科の製図は、二十四年十二月に新築完成した一五号館の二階製図教室を学部と共用したが、他の科は八号館の高等工学校事務所の上の製図教室を使った。このように実験・実習・製図はすべて理工学部と設備を共用していたので、それらの関係者は内心緊張の連続であった。しかし学部当局の理解と、技術職員の適切な指導とによって万事円滑に生徒は学習ができ、誠に幸いであった。このことは敢えて一言ここに付け加えておく必要があると思う。授業は午後五時三十分に始まり、九時に終った。生徒は皆何らかの職場に勤務している男女勤労青少年である。

 この頃東京都学務課から夜間学校給食の要望があり、二十五年九月からビスケットとミルクの給食を始めた。また翌年からは給食設備が整い脱脂粉乳の給食が行われた。しかしこの程度の給食では生徒の空腹を満たすに至らず、効果が上がらないため、二十八年度から休止され、代りに大学の学生ホールが出張して、うどんの販売をすることになった。またこれまでなじみであった戸塚町(現西早稲田町)の木村屋パン店がまた出張販売を始めた(木村屋パン店主人は後年学校が廃校になると決まった時「今まで十四年もの長い間お世話になった学校に、心から有難度う御座居ましたと感謝をこめて申し上げたい」と生徒会宛に一文を寄せてきている)。

 昭和二十五年十二月私立学校法令による早稲田大学校規改正によって、校名は早稲田大学工業高等学校と改称された。

 二十六年三月三十一日には新制工業高校として第一回卒業生二百五十八名を送り出した。卒業生は工手学校の卒業生によって組織されている早稲田稲友会を継承することになった。また卒業生で、大学進学希望者のうち、特に成績の優秀な者は特別選考を受けて、新制第二理工学部に入学が許可されることになった。

 社会的経済事情の影響を直接的に蒙るこの種の学校として、本校も戦後のインフレ収拾策によって起きた経済不況の影響を受け、入学者数の減少する科が出始めた。そしてその現象の顕著な金属工業科はついに二十六年度の生徒募集を停止することになった。また土木科は二十七年度の募集を停止した。

 昭和二十六年は早稲田大学の校規によって、初めて専任教員による校長選挙が行われ、九月に埴野一郎(理工学部電気工学科教授・工学博士)が第二代校長に選ばれた。埴野校長は人柄磊落にして、人々はそれに引きつけられるのであった。また工手学校出身でもあるので、稲友会の信頼も厚かった。

 科主任として理工学部から助教授稲田重男(機械)、山崎秀夫(電気)、南和夫(建築)が迎えられ、金属工業科は牧口利貞、土木科は藤田信達が嘱任された。また生徒主任が新設されて、伊藤道学が就任した。しかし藤田信達はこの時病気を理由に教頭を辞任され、翌年十二月十三日病改まり、惜しくも逝去された。

 事務主任には角田良平が就任した。

 伊藤道学生徒主任は、学校と生徒との意志疎通を図る意味から、教職員生徒懇談会を開き、また年中行事として早工祭を発足させ、毎年十二月一日には大隈講堂で弁論大会や生徒会演劇部の公演等を行い、全校を熱狂させた。

 その頃学苑は、戦後の進駐軍最高司令部(GHQ)の「赤い教授追放」声明反対のレッドパージ事件、二十七年のメーデーに関連して私服警官不法学内立入り事件に端を発した五月八日事件等で騒然としていたが、幸い授業は夜間であり、戸山町校舎の関係もあって、生徒がこれらの事件に巻き込まれることもなく、平静な状態を保つことができた。しかし定時制工業高校の将来の在り方について、学内関係者の間で改革の論議がかわされ始めてきた。いわく工業短期大学、六年制工業専門大学等々。しかしこれらは、いつしか消え去っていってしまうのであった。

3 学校の強化と発展

 昭和二十七年四月の新学期にあたり、稲友会会員斎藤真氏から機械科に、また渡辺和美氏からは電気科に奨学金の特志寄附があり、また三十年には稲友会建築科奨学資金後援会から建築科に奨学金の指定寄附があって、これらは斎藤賞、渡辺賞、稲友会建築賞として四年生の成績優秀者に一年間の授業料相当額を奨学金として授与し表彰した。従来の大隈記念奨学金、日本育英会奨学金、東京都育英会奨学金等と併せて奨学制度は整備された。また卒業時には本校賞を最高賞として、その他に日本私立中学高等学校連合会、産業教育振興中央会、東京都産業教育振興会、日本建築協会、稲門建築会等から優等卒業生に賞状と賞品が贈られてこれを表彰した。

 二十七年六月には、学校当局およびその関係者の努力によって電気事業主任技術者第三種第一次試験免除学校に認定され、電気科の生徒にとって大きな励みの目標となった。

 二十九年九月埴野一郎校長は再選され、教頭および各科主任が次のように嘱任された。

教頭・明石信道(理工学部建築学科教授)、生徒主任・池田美代二、機械科主任・川喜田隆、電気科主任・山崎秀夫、建築科主任・明石信道(兼任)、土木科主任・埴野一郎(兼任)

 この時大学校規の改訂があり、総長の任期は三年から四年になり、学校長等の任期は三年から二年になった。

 金属工業科主任牧口利貞は、科の生徒募集停止の決定に従い、二十九年三月最後の卒業生を送り出して退職された。その後氏は工学博士の学位を得られ、科学技術庁金属材料技術研究所研究部長、同研究所筑波支所長等の要職に就いて活躍中である。土木科は三十年三月最後の卒業生を送り出して廃止された。また二十九年度からは各科一学年の定員を八十名とした。

 事務主任は小口富雄が二十八年六月から就任した。

 池田美代二生徒主任はその情熱と独自のヒューマニズムで生徒の指導に当たり、生徒会会則を改正して生徒会とそのクラブ活動の強化発展を図り、早工祭、体育祭、展示会、映画鑑賞会等をすべて生徒会の自主運営に移し、自治精神の育成に努めた。

 第一回体育祭は三十年十一月十三日戸山町校舎の運動場で行われた。第二回はたまたま記念会堂建設工事のため高等学院上石神井運動場を借りたこともあったが、記念会堂完成後はここで独自の室内運動会が毎年引き継がれて行われた。また一、二学年の見学旅行、三学年の修学旅行は授業の一環とし、その意義を確立した。

 生徒会機関誌『早工誌』が三十年に創刊された。生徒を主体として随筆や写真等と生徒会活動の報告が記載され、A五版の七十―八十ページのものである。また池田生徒主任は小口事務主任と協力奔走して生徒図書室を開設したことは大きな業績である。夜間の勤労学徒にとって、人間の愛情、相互の親睦、そして学校生活の盛り上げは特に必要な要目である。これは池田生徒主任の言葉である。

 このように学校の性格が整うにつれ、生徒の素質は向上して、中途退学者も減少した。一方大学への進学希望者は増える傾向となり、これが第二理工学部当局と交渉の結果、その了解が得られて三十年度からは本校推薦の生徒は、第二理工学部に無試験で入学が許可されることになり、毎年二十数名が進学して、全国から夜間高等学校の特異校として注視されるようになった。

 三十一年九月第三代校長に帆足竹治(理工学部電気工学科教授・工学博士)が選出された。教頭には山崎秀夫、生徒主任に池田美代二が嘱任された。また理工学部教授竹内盛雄が建築科主任に迎えられた。

 校長選出方法として二十六年から行われていた専任教員による選挙方式は、なにかと問題が生じるらしく、三十三年度からまた任命制に戻り、総長がこれを任命する建て前になった。しかし工業高校に関しては、その後も教員会の意向は十分尊重されていた。

 帆足校長は厳格な内にも温情があり、任命制になってからもその徳望が反映して、校長の要職を三期継続された。

 なお今までの教頭の名目は教務主任と改められた。

 この頃朝鮮戦争を契機に社会事情は一変し、学校教育においては、中学卒業生は全日制普通高校への進学志向が際立って増強し、職業高校希望者は顕著に減少し始めた。この社会的現象は夜間工業高校の在り方についての問題を改めて提起した。

 帆足校長はこの状勢に心を痛め、学校の教育全般に検討を加え、教員組織の革新に取り組んだ。そして先ず若い新進の教育者と高等学校教育経験者を導入すべきであるとし、三十二年四月から三十六年に亘り十名の諸氏を大学内外の研究室や、あるいは他の高等学校から、専任教員に迎え入れ、清新の気風を導入した。

 しかし次の諸氏は他の学部へそれぞれ転出された。三十二年、矢島正治は教育学部へ、渡辺保忠は理工学部へ、三十六年、藤平春男は文学部へ。結局専任教員は十六名になった。渡辺保忠はその後工学博士の学位を受け、また早稲田大学古代エジプト調査委員としてピラミッドの研究に、藤平春男は第二文学部長、系属早稲田高等学校初代校長等の要職に就いて、大学のために活躍されている。

 教員人事の整備強化に伴って、文部省奨励研究費、東京都私学教育助成金等による教員の研究活動も活発に行われ、工業高校研究発表機関誌『研究年誌』が三十四年に創刊された。しかしこの研究年誌は四十一年第七号を以て、学校の廃止とともに廃刊となった。その終刊号に掲載された論文は十二編である。また二十七年から四十一年までの間に専任教員の海外研究活動として、古藤田喜久雄はアメリカ・マサチュセッツ工科大学、野口広はミシガン大学、田中弥寿雄はイギリス・サザンプトン大学に留学、川崎浩司はソ連のエネルギ産業視察、池原義郎はアントニオ・ガウディおよび現代教会建築の研究のため欧州視察、田中弥寿雄はソ連レニングラードにて開催の国際シェル学会(IASS)にて研究論文を発表した。

 なお三十五年には野口広に理学博士、田中弥寿雄に工学博士の学位が授与された。

 三十六年度における生徒会クラブ活動は、文化部門と運動部門合わせて十五部であったが、特に重量挙部、陸上競技部、柔道部は全国高校選手権大会、各地域主催競技会、国民体育大会東京都予選その他において個人および団体競技に上位入賞を獲得し、その活躍は目覚しいものがあった。また建築科は池原義郎指導による建築設計が全国工業高等学校設計競技会、日本建築協会デザイン・コンクール工業高校生コンクール、日本大学工業高校生デザイン・コンクール等でそれぞれ毎年上位入賞し、その名声を全国に広めていたことは特筆すべきことである。

 卒業生の組織団体である稲友会は在学生との疎通をはかる目的で、三十四年から機械部会・電気部会・建築部会を逐次設けて学校発展のために側面から寄与した。また会則を改正し「稲友会会長は母校現校長とする」とし、帆足校長は稲友会会長をも兼ねることになった。これらの努力の成果として三十二年度から入学志願者と在学生徒数は急に増加し始めた。

4 技術専修科の開設

 定時制職業高校で第二理工学部への進学者が一〇パーセントもあるということは大学の付属校であるが故の恵まれた特質であるが、その第二理工学部は三十六年度から学生募集を停止することになった。これは大きな衝撃である。勿論それに代って第一理工学部への推薦入学の道は開かれたけれども、それは各科一―二名に制限するという条件が付けられた。

 この状況変化によって、せっかく教員組織の改編によって教育的成果は向上したにも拘らず入学生徒数はまた減少し、早稲田大学として工業高校改革の問題は既定のこととしていよいよ表面化するようになった。

 因に昭和三十八年度における四年生の大学進学希望者は、調査回答者百七名(在籍百四十九名)中、四十七名で在籍者比三一・五パーセントである。このクラスが一年生(三十五年度)の時の調査では百七十五名(在籍者二百七名)中、七十三名で、三五・三パーセントが進学を希望している。東京都下公私立定時制高校生に対する調査によると一年生二〇・三パーセント、四年生九・八パーセントである(『工業高校研究年誌』昭和四十一年発行第七号十一頁)。これは早大工業高校生の勉学意欲に対する評価でもある。

 帆足校長はこれら客観的状勢の変化による学校の将来を憂慮し、三十五年五月理工学部から難波正人教授を機械科主任、門倉敏夫教授を電気科主任に迎え、将来の改革案とその構想を審議に付した。ここで帆足校長は専科大学なるものの必要性を提唱し、国家の生産力増強は、その基礎に科学技術の振興がなければならないとし、それには専門的実技の訓練を極度に強化した工業教育を拡充して堪能技術者を育成することの必要を説き、また工業高校から大学院までの一貫した教育の有機的結合体の設立を主張した。

 審議の結論として、結局、技術革新時代における産業界の要望に応えるためと、第二理工学部学生募集停止によってつまずきを生じた進学希望者のために、特色ある技術教育を目標とした半年ないし一年課程の専修科を、理工学部の援助のもとで、三十六年度から工業高校に開設することになった。しかし難波正人は専修科開設構想の半ばで、九月から第一理工学部長に就任したため、稲田重男教授が理工学部から迎えられて機械科主任に就任した。また事務主任には九月から鈴木栄二が就任した。なお工業高校は三十六年三月戸山町から本部キャンパスの一五号館に移転した。

 新規構想の早稲田大学工業高等学校技術専修科は三十六年四月二十四日次の主旨のもとに発足した。

早稲田大学では急速に進歩しつつある我国産業界の技術を現場において推進し得る中堅特能技術者を養成する機関として、工業高等学校卒業程度の学力を有する者に、早稲田大学の有する新しい設備を活用し、大学内外のその方面のエキスパートの協力を得て、新しい方面の技術教育を新しい方法で施し、その方面の技術分野で直ちに役立つスペシャリストを養成することを目的として次のコースを設置す。

精密工作技術、材料試験技術、製図、IE作業研究、IE工程管理、IE品質管理、電子計算

 各コースは、定員二十名ないし三十名。授業時数は午後六時から九時までとし、週三日ないし四日、六ヵ月二十週とした。しかしその授業内容と時数は、実験・実習を主体として各コースごとにそれぞれ独自に企画された。

 当時我が国未曾有の技術革新に追われていた企業からは、絶大な歓迎を受け、精密工作技術コースでは受講希望者が殺到し、設備の関係からその選考に苦慮する状態であった。受講生は既に会社等に勤務する社会人であるが、電子計算コースには商学部等の学部在学生も多数みられた。各コースの受講生数は、精密工作五十七、材料試験二十一、製図二十六、作業研究二十一、工程管理二十四、品質管理二十一、電子計算十七、計百八十七名である。

 技術専修科の修了式は大隈会館書院で行われた。修了生は特に式後のパーティにおいて先生と直接歓談できたことに特別強い感銘を受けたようであった。この好評に応えて三十七年度には木型工作技術、原価管理、電気基礎、自動制御、産業数学の五コースを追加新設した。

 これら三十七年度の十二コースの受講者総数は二百五十八名であった。

 工業高校教員会はこの間学校将来計画案を改めて作製し、関係各箇所に配布して改革運動を推進した。すなわち技術専修コースは更に発展させ、同時に早稲田大学八十周年記念事業として、現在の工業高校の上に夜間工業短期大学を設け、また昼間には工業高等専門学校を設置するというものである。

 これらの問題について大学理事会および理工学部の大勢は反対ではないような雰囲気であり、文部省も夜間の高等専門学校は考えないが、夜間の短期大学ならば受け付ける用意があるということであった。しかし理工学部主任会の一部と、文部省の一部に短期大学とはせず各種学校にするようにとの意見が出てきて、大学本部も第二理工学部廃止の経緯もあり、慎重な構えとなった。

5 創立五十周年記念祝典

 昭和三十六年度は工手学校創立から五十周年に当るので、これを受けて早稲田大学工業高等学校創立五十周年とし、十一月十二日午前九時から大隈講堂で式典が挙行された。また大隈庭園では十時から稲友会と共催にて園遊会が開かれ、余興に曲芸、落語、奇術、漫才等が賑やかに行われた。また参会者には帆足校長描く墨絵額が贈られた。午後からは二一号館で生徒会主催の早工祭が行われ、稲友会会員オリジン電気社長後藤安太郎の「技術者とデモクラシ」の特別講演と、生徒会の弁論大会等が催されたが、女子生徒の雄弁には男子生徒も圧倒され、女子の強さをのぞかせる一幕もあった。稲友会は後日生徒会と記念展示会を開き、また創立五十周年を記念して「稲友会奨学金」を創設した。生徒会の『早工誌』は稲友会誌との合併特集号『工業高校創立五十周年記念誌』を発行した。

 大浜信泉総長が同誌に寄せられた一文(前出)の末尾に次の一節が述べられている。

ところでその後継者たる工業高等学校は、いままでのところ工手学校のかつての盛況とは比ぶべくもないが、しかし一面日本経済の急速の膨張の趨勢を考慮し、他面技術者に対する需要の加速度的の増加の傾向に照し、むしろその将来に望みを託し今後の発展を期待したい。

 また同じく帆足校長は同誌(四頁)に「創立五十周年に際して」と題して概要次の一文を寄せている。

今の早稲田の風潮には憤懣を禁じ得ない所が一、二にして止まらない。校歌に歌われる進取の精神と久遠の理想とはどこへやら。この技術者不足の時代に第二理工学部を廃止し、僅かの赤字をあげつらって工業高等学校をとやかく言う。国家有用の材を育成し、私学らしい教育の機会均等の場を塞ぎ、濤々として官学のひそみに做わんとする。……一方、私は漸くにして議会において法案の通過を見た工業高等専門学校を考える。私の考える理想像とは甚だしく異質的なものとなり相ではあるが、今の日本において真に要求される技術者はこうした専門学校の出身者ではないか。大学教育は勿論必要である。然しアメリカの大学に匹敵するような多数の大学をわが日本に必要とするだろうか。今のようなぜいたくな非能率的な教育の場としての大学よりも技術者らしい技術者の養成は、専門学校でこそできるのではなかろうか。現場における中堅技術者は元より研究者としても充分に能力を発揮できる技術者は充分養成できると確信する。〔略〕

早稲田大学の当局者にして五十年前の抱負と決意とがあるなら専門学校設置の如きは当時の理工学部設置と比較して問題にならない程容易であり意義あることである。〔略〕

創立五十周年の記念すべき日を迎え、日本と早稲田大学の一層の発展を願うが故に改めてここに卑見を述べた次第である。

 この一文から帆足竹治校長の教育理念と、その気迫と情熱の一端を窺い知ることができる。

 ここで工業高校の実状を知る意味で、三十六年度における学校の概況を次に示す。

 専任教員(役職にある兼担教員を含め)二十四名、非常勤講師四十一名。在籍生徒数は各科定員三百二十に対し機械二百九十八、電気三百六十二、建築二百七十四、計九百三十四名である。教科課程は文部省高等学校学習指導要領によって、普通教科(国語、社会、数学、理科、保健体育、英語)五十八単位。職業教科は機械九科目三十八単位、電気十六科目三十九単位、建築十一科目四十一単位。選択科目四単位で、実験・実習・製図等の実技科目はこの内三五パーセントから四〇パーセントである。また卒業必要単位数は合計九十単位以上とされている(各科目一週一時間、一学年三十五時間をもって一単位とす)。

 授業は午後五時四十分から九時十分まで、四十五分授業、四時限である。特別教育活動として、ホームルームがあり、またほかにクラブ活動と生徒会活動があるが、この二つは夜間の学校であるための時間的制約から、特に十時までそのための教室と運動場が開放された。

 学費は入学受験料五百円、入学金千円、授業料月額一万円、その他に、生徒会費、旅行積立金等である。当時の私立高校を調べてみると、平均授業料月額二千三百円、入学金二万円である。

 三十六年度第一学年の入学者数は、各科定員八十名に対し機械七十七、電気八十、建築五十一、計二百八名。これに対する志願者は二百三十六名で、電気科が多く、建築科が少い。これらの数字は芳しいとは言えないが、当時の全国公私立定時制工業高校のうちでは上位の部にあった。

 在学生の年齢は、三十七年度調査によると、一年生で十五―十六歳が約七五パーセントで、二十歳以上は六パーセントである。都下の定時制高校と比較して平均年齢は若い。これは地方出身者が少ないためのようである(前出『研究年誌』第七号五頁)。

6 工業高等学校改革案

 工業高校の将来の方針を検討するための検討委員会が、三十六年十一月設置された。中尾徹夫常任理事を委員長に、理工学部現・元学部長と理工系各機関長等十三名の委員で構成され、その答申案は翌年七月二十一日に提出された。大浜総長は委員会の開会に当り「五十年の歴史をもつ工業高等学校は良い形で存続させる考えであり、廃校させるための会合ではない」旨特に発言している。その答申案の内容を要約すると

現状のままの工業高校の存続は困難である。将来案として、夜間短期大学、高等専門学校、専修コースの三案が考えられるが、夜間の高等専門学校は法規的に不可能。夜間短期大学は理工学部の意見を徴し、諸般の事情を勘案した結果、実現の可能性はない。

結局短期大学程度の夜間の各種学校とし、その大綱は、現在の技術専修コースに基礎コースを加えた形とし、高等学校卒業以上の者を対象として、理工学部の全面的協力の下に、理工学部構内に置く。現在の工業高校はこの学校の中に発展的に解消するものとする。

 稲友会はこの間、土木科復活の陳情書を総長に提出したが、大学当局は建築科の中に土木コースを置き、将来は土木科に発展させるという意向を示し、結局理工学部土木工学科と話し合うことにして、三十七年度は見送られた。

 工業高校はその将来の命運をかけた多事多端の時、山崎秀夫は三十七年十月第四代校長に任命された。教務主任は川喜田隆、生徒主任は高見沢戒三が就任した。山崎校長は真面目な上によく周囲の観察に心し、体制に流されることなく、常に自らの信念を持ち、感傷的に陥らないこの性格は、感受性の強い青少年に接するとき、その心を捕えるに十分であった。

 山崎新校長は先の工業高校検討委員会が出した答申案に対して、かねてから不満を持っていたが、翌年八月これを再検討する必要ありとし、独自の改革案を関係方面に配布した。その第一案は帆足前校長の案を骨子とした昼夜間の工業高等専門学校。第二案は現工業高校に短期大学を併設した六年半の夜間産業技術専門学校とも言うべきものである。

 これらは産業技術の進展に対処できるための一貫教育を目指したもので、後期の半年間は技術専修コースとし、また理工学部のエクステンション・コースでもある。

 このように将来案の問題に関して大学本部と工業高校とは対立の形となった。その焦点を要約すると、大学本部は、夜間の理工系の正規の学校は全廃して各種学校とするという方針であるのに対し、工業高校側の主張は、勤労学徒のためには夜間に正規の教育機関を置くべきである、というものである。またこの間に、稲友会案も加わり、論議の展開は複雑を極めた。

 このような混迷の続く時、本校設立以来の専任教員として、また私立中学高等学校協会常任委員として活躍していた中野匡夫は三十七年十一月七日の朝、狭心症にて急逝された。惜しいことであった。

 時子山常三郎常任理事は、三十八年十一月三十日、工業高校教諭会を招集し、最終宣告とも言える次の要旨の説明を行った。

一、工業高校は三十九年度の生徒募集は停止する。

二、新学校は各種学校とし、設置のための小委員会をつくる。

三、工業高校の後進校は早稲田大学産業技術専門学校とし、本科と専修科を置き短期大学程度の実力を施す一方、産業学部の性質を持たせる。

四、学校の管理・分担は大学直接とし、運営委員会を設ける。

五、その他

 この宣言によって三年間余に亘って論議が繰り返された工業高校将来案も漸く決着をみたのである。

 十二月には産業技術専門学校設置準備委員会が設けられ、時子山常三郎、戸川行男、村井資長の各常任理事。古川晴風教務部長。難波正人第一理工学部長。鶴田明第二理工学部長。理工学部関係各科から稲田重男(機械)、三田洋二(電気)、武基雄(建築)、松井達夫(土木)、商学部から中島正信、生産技術研究所から西野吉次の各教授。工業高校から山崎秀夫校長、川喜田隆教務主任の十四名が委員として参加した。この件に関し苦慮している大浜総長は委員会を開くに当って、「工業高校からはこの件に対して強い要望があるが、多数決にて決定された場合にはこれに従ってほしい」旨発言されて、今後の紛糾を防止されたのであった。委員会は鶴田明を委員長に選び、四回の委員会と三回の小委員会を開き、十二月十四日大要次の答申書を作製して総長に提出した。

日本の技術の進歩と教育水準の高度化による社会の要求を見ると、早稲田大学としては、より教育効果のあがる重点教育に集中すべきである等の観点から次の結論を得た。

現在の工業高校は三十九年度から生徒募集を停止し、新学校は同年四月から発足させる。入学資格を高等学校卒業として、二ヵ年の本科と半ヵ年の専修科を併置する各種学校とする。

 大学評議員会もこれを承認可決し、ここに工業高校に代る新しい各種学校が三十九年度から発足することに決定した。生徒会の『早工誌』第八号(昭和三十九年三月発行七一頁)に生徒一同として「僕たちの願い」と題する一文を載せているので抜粋して紹介する。

僕たちの一人は、夜空の星に向って、こう呼びかけています。

星よ、僕たちの大きい苦しみ、小さい喜び、それがあなたには解るまい。

でも、いつまでも、僕たち夜学生の頭の上に、美しく輝いていてくれ。

そして、この大きい苦しみを小さくし、小さい喜びを大きくしてくれ。

僕たち夜学生が、どんな苦しみを胸に秘め、どんな喜びを心に抱いて毎日を送っているか、それは僕たちそれぞれにしか解らないのです。僕たちの中にはいろいろな人がいます。……でも僕たちは、みんな希望に燃えて学校へ入って来ました。

ところが、このように、僕たちみんなが、何よりも大事にしている学校が、いま無残にも、僕たちの手から奪い取られようとしている。僕たちにかかわりなく取りつぶされようとしている。僕たちは驚かずにはいられません。嘆かずにはいられないのです。〔略〕

夜学は赤字だから止めるのだと聞いています。勿論これが理由のすべてではないでしょうが、……僕たちの中からは次のような声もあがっています。それならば、僕たちの月謝を上げてくれたっていい。僕たちの生活は苦しい。……学校がなくなるよりはましだから、僕たちはその分だけ稼げばいいんだ。……まだこどもこどもした一年生までがみな真剣な眼差しで、言っているのです。〔略〕

もはや、定時制の時代ではないのだ……いまや、高校は義務教育化しつつあるとも言うでしょう。……夜学は、何も早稲田に限ったことではない。都立もあるし……月謝もそちらの方が安いのだから、……しかし現に僕たちは、そうした中でも、進んでこの学校に来ているのです。早稲田こそは、都立では受けることのできないすぐれた教育をしてくれるところだと確信しているのです。……月謝の多寡や設備の良否は、それほど問題ではないのです。

毎夜各教室で真剣に勉強している姿を一体、誰も認めてくれないのでしょうか。……人々はなぜ理解しようとしないのでしょうか。……どこが劣っていると言うのでしょうか。

7 工業高等学校閉鎖

 工業高校停止の決定に伴い併設の技術専修科は新設の産業技術専修学校に移管された。また三十九年九月二十一日付にて大学教務部長と校長との間で次の取り決めがなされた。

本校は昭和三十九年度より生徒募集を停止したことにともない、昭和三十九年三月三十一日現在における本校の教諭は、その資格を廃校に至るまで継続し、教育に当るものとする。

 新設早稲田大学産業技術専修学校初代校長木村幸一郎は同年十月から工業高校第五代校長をも兼任した。木村校長は包容力のある大器量の人で、細かいことには口を出さず、若い者には自由にその力を発揮させた。そして校長の希望によって各主任は全員重任して終局の処理に当ることになった。また教員の配置転換は積極的に開始された。かくて四十年度までには、川喜田教務主任を残して、専任教員はすべてその所属を他に移籍し、さしもの難問題も一件落着したというところである。

 山崎前校長はその心境の一端を『早工誌』第十一号(昭和四十二年二月発行 最終号 七頁)に「思い出の工高」と題して、一文を寄せているので、抜粋して要約することを許してもらうことにする。

私が工業高校に教鞭を取ったのは昭和二十四年十月からで、それまでは夜学を教えたことは無かったので、その頃は大学は何故こんな学校を作ったのかと、なじる気持ちが強かった。その内にだんだんと定時制高校の実態を把握すると共に、その意義を知ることができるようになって、この人達にほんとうに良い教育の場を与えることは大きな意義があり、おろそかにすべきでないと思うようになった。

しかし良い教育を行えば行う程、それは赤字を増大し、また花々しい存在でもないので、間も無くこれが大学の経営担当者間で問題になりだしたが、残念なことに始めに述べた私の態度のように、彼等は定時制高校の意義を理解しない人達であった。勿論国力が増大し福祉教育制度が進歩すれば、勤労青少年の技術教育は、時代と共にその焦点と形態とを推移させなければならないことは当然であるが、現時点においては未だその存続には大きな意義と必要性とがあると思えるのだが、しかし、とうとう工業高校は廃校に決定された。〔略〕

新設された産業技術専修学校はその主旨と内容とにおいて、勤労青年に対する教育機関として一つの形式ではあるが、早稲田大学としては、やはり希望すれば夜間通学によって理工系学部を卒業しさらには大学院教育まで受けられる様な機構を持って教育の機会均等を守らなければならない〔中略〕

大学の建学の主旨を生かし、これらのことから更に産業技術専修学校を発展させて、勤労青年の技術教育に成果をあげてほしいものだと思う。〔以下略〕

 四十年度から理工学部西大久保新校舎の第二期工事が完成したので、工業高校はその三号館に移転して授業を行うことになった。しかし四十一年一月から約五ヵ月間に亘る授業料値上反対に端を発した学園紛争には、幸いその余波も蒙らず平常通りの授業を行うことができた。

 四十二年三月二十六日第十七回卒業式は最後の卒業生百五十一名(機械五十五、電気四十七、建築四十九)を送り出した。

 兼担および非常勤講師は三月三十一日付で解任となり、最後に川喜田隆教務主任が産業技術専修学校へ移行して、工業高校は昭和四十三年三月三十一日実質的に閉校した。

 早稲田大学理事長阿部賢一から東京都に提出された学校廃止認可申請書(昭和四十二年十二月二十七日付)には大要次の理由書が付されている。

開校後すでに十数年を経過したにもかかわらず、期待に反して志願者が少なく今後一向に好転の見込みがたたないばかりか、生徒の資質の向上にも困難を感じられ、……その発展を期待することが極めて困難であるため……昭和三十九年度以降生徒の募集を停止していたが、在学生の処置が決定したので廃止するものである。

 工業高校は稲友会の援助を受けて、山梨県南巨摩郡早川で見つけた富士川錦繡石を移送し、大隈庭園に庭石として寄贈した。この石は阿部総長によって「稲友石」と名付けられ、学校の存在を永遠に記念して、大隈庭園の中央、完之荘へ行く道端に置かれている。

 総長はまた四十二年十一月二十四日、今までの学校関係者一同を大隈会館に招待してその労をねぎらい、最後の幕を引いたのであった。

 卒業生の社会的活動状況をみると、勿論技術者あるいは研究者が最も多いが、経営者として各方面の、いろいろな分野で活躍している者も多い。また政界に進出して地方議員となり、特異の行政活動をしている人もいる。

 工業高校十九年間に送り出した卒業生総数は三千二百六十八名と記録されている(『研究年誌』第七号 一八〇頁)。

四 産業技術専修学校

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1 開設の経緯

 早稲田大学産業技術専修学校は、学校教育法第八十三条による各種学校として、昭和三十九年四月に創設されたが、その開設の経緯については、『早稲田学報』(昭和三十九年三月号)に掲載された時子山常三郎(当時、常任理事)の「早稲田大学産業技術専修学校の開設」と題する一文が、最も簡明にその模様を伝えているので、以下随所その記事から引用しながら、開校の意図・組織の概要等を記すことにする(「」の中が同掲載記事の引用部分である)。

 大学当局に本校の設置を計画する決意を促した理由は、幾つか挙げることができるが、まず朝鮮戦争を契機として、我が国の社会経済の向上がもたらされ、「中学卒業生で進学を希望する者が年々増加しているが、その大多数が普通高校を目指すなどで、公立工業高校にまで定員割れの傾向が現れ、やがて来る中等卒業者の減少を控えて、私立工業高校のさい先不安が訴えられはじめ」たのが認められてきたこと、そして直接には特に早稲田大学が三十六年四月から第二理工学部を廃止したため、それまで卒業生の一〇パーセントを無試験推薦入学させていた道を閉された早稲田大学工業高等学校(以下、工業高校と略称する)への入学者が次第に減少の兆しをみせてきて、同校をはじめ、学苑当局者の間に、工業高校改革の論議が表面化してきたことが第一の原因である。

 一方では、「新学制以来の我が国教育水準の高度化、自然・社会両側における革新技術の導入による急速な経済成長等で、より高級の大学レベル、大学院レベルの産業技術の学習を希望する者、現職者で新科学技術の再教育を希望する者が増加し、この種・程度の技術教育施設の整備、拡充が必要となって、科学技術教育施設に対する社会的要請が急転してきた」のであるが、このような事態の推移に応じるものとして、「生産研究所が大学レベルから大学院レベルに及ぶ高級の経済科学講座を設け、一ヵ年(前期・後期各六ヵ月)の各種技術専修コースを実施してきた」。そしてまたこれと歩調を合わせ、工業高校も三十六年四月から理工学部スタッフの協力を得て、一般産業界、特に現場の技術者、あるいは理工系ばかりでなく法文系学生の要望にも応じられるような、短大ないし大学レベルの専門技術教育を行う短期(六ヵ月)の各種技術専修コースを設置してきたのであったが、これによって「産業界各方面・大学諸学部から、最新の産業技術の学習を求める多数の受講者が参加し、これらの応急的な措置がよく事態の推移に応じえていることが実証され」た事実が第二の原因であって、ここに大学当局が幾多の論議討議を経て、上述の教育施設の変転と社会的要請とに照応する学校の開設の決意を固めるに至ったとみなしてよいであろう。

 かくして、三十九年一月十日、早稲田大学理事長大浜信泉の名儀を以て、新宿区長岡田昇三を経て東京都に対し、早稲田大学産業技術専修学校設置認定申請書が提出された。これに対する認可は三十九年三月三日に下付され、ここに中学卒業者を対象とする工業高校は発展的に解消することとなって、代って高等学校卒業ないしそれと同等以上の学歴者を対象とし、高度の中堅技術者の養成を目的とする早稲田大学産業技術専修学校(以下、産専と略称する)が誕生したのである。授業はすべて夜間(六時―九時二十分)とし、おもに職場からの受講者を期待し、特に会社からの委託生を受け入れる態勢を整えた。

2 組織の概要

 この新設学校の組織は、短期大学レベルの本科(二ヵ年をもって卒業する)と、四年制大学レベルから大学院レベルに及ぶ専修科(半ヵ年ないし一ヵ年を期間とする)とを併置するものとし、受講者がそれぞれの学歴や実務経歴、更には各自の希望に従って専門技術を自由に選択履修することのできる独得の機構をもつものとした。このような意図によって設立された学校であるから、たとえ本科を卒業しても、短大卒などの資格のつかない各種学校とすることが当初からの大学の方針であった。資格を主とするか、あるいは実力を主とするかの問題は、開設後もしばしば学校当局者の間に少からぬ論議を呼んだのであるが、この方針はその後も全く変ることなく続行された。資格よりも実力という一貫した考え方の根本を成すものは、同じく前掲の時子山常三郎理事の記述を引用すると、「この新学校を各種学校としたのは、現下の急速な技術革新の進行、産業経営の発展に即応し得るよう履修科目の自由な差し換えができ、また適当なガイダンスによって受講資格を認定し、窮屈な制度上の制約を避けて、弾力ある受講者の採用ができるからである」という点にあった。そして、その背後には、本大学に戦前、旧学制の下に設置されていた「専門部政治経済科と同法律科とが、当時の専門学校令によらず、その学科配当、担当教員を自由に、独自に採用し、教育することのできた往年の自由な学園の利点を想起し」たことが、設立趣旨の中に盛り込まれた点も忘れてはならない。

 こうした意図と方針とによって設置された本科と専修科とは、当初どのような学科配当によるものであったか。本科の方は機械工作科・電気科・建築科・産業経営科に分けられたが、先ずこの四科に共通するものとして一般科目(一般教養・工業英語・工業数学・物理・化学。ただし、このうち英語と数学は必修、他は選択。尤も、大学在学者あるいは卒業者に対しては、認定の制度を設け、既に履修した英語・数学は本校で単位を取得しなくともよいこととした)および共通科目(機械工学概論・電気工学概論・建築学概論・経営工学概論。ただし、すべて選択)があり、次いで各科ごとに別個の専門科目があった。以下、昭和三十九年度の『入学要項』に記載された各科別の科目配当の説明を引用すると、

機械工作科は、機械工作およびそれに伴う機械設計・機械材料・測定法などに関する基礎知識を授けると共に、本校の特色として実験・実習・製図などの実際作業に重点を置いて、現場で生産作業に従事する技術者の向上を目的としている。

電気科は二年間に新制大学卒業生の持つ主要な基礎技術を吸収せしめるのを目的とする。すなわち、専門科目については概説に止め、電気理論・回路理論・電気実験に主眼を置き、二年間を通じて演習および実験により基礎を把握せしめ、卒業後各専門別に別途勉学するのに十分な実力を与えることを目的としている。

建築科は人間生活の容器を形づくるという建築の多岐にわたる分野への入門的な技術と知識を与え、製図実習を通じて具体的にこれらを把握せしめ、とくに現場に役立つ技術者の素質の向上を考えている。

産業経営科は、産業社会の急速な発展に伴う高度の経営技術と広い視野をそなえた技術者への要求に応え、管理工学・生産技術など経営工学の基本的な知識を授けるとともに、経営経済学・産業心理学・経営数学・産業統計など、基本的な経営学の知識を演習を通じて教える。また、会計学・貿易実務・商業英語など、商業活動の実際的な知識と広い素養を体得するよう教課が組まれている。

となっている。ただし、その後も各種学校としての特典を活かし、教育効果の向上の見地から、年を追って科目の変更や入れ替えが随時に行われた。

 入学許可は筆記試験によらず、書類選考と面接とによるものとした。定員は、本科では毎学年各科三十名という数にしたのであったが、志願者数が定員数を遙かに上回ったため、三十九年四月十二日に行われた面接の結果では、機械七十一名、電気六十名、建築百五名、産経五十八名を合格させることとした。次に専修科は、前述の通り工業高校で設置していたものを本校が引き継ぎ、本科に併設して三十九年四月下旬から十月下旬までの夜間半ヵ年の技術専修コースとして開講したわけで、三十九年度は、精密工作技術・製図・IE作業研究・IE工程管理・IE品質管理・原価管理・電気基礎・自動制御・電子計算・産業数学の十専修を開講の予定であったが、選考の結果をみると(前の数字は定員、後の数字は合格者数)精密(三〇―二六)、製図(二〇―一四)、作業(三〇―一二)、工程(二〇―一一)、品質(三〇―二)、原価(三〇―六)、電気(三〇―八)、自動(二〇―九)、電子(三〇―一四)、数学(三〇―一八)であった。そこで品質は応募者少数のため、これを取り止め、合格者を工程へ転科させ、結局九専修を開講した。従って、本科と専修科とを総計すると、定員数合計三百九十名に対し、合格者数合計四百十二名という形で発足したことになる。

3 教授陣と教育施設

 理論面の授業は、早稲田大学の教授・助教授が主として担当し、実験・実習には同じく本大学の技術職員が指導に当ったが、またこれと併せて、産業界の第一線に活躍する先輩権威者を講師に招き、実際面についての講義を委嘱した。

 ここで特筆しておかねばならないのは、本科各科に共通する一般科目の中に置かれた教養講座と名付ける科目である。これは、仮に産専を短大卒などの資格を与え得る学校とすれば、文部省による学科目上の規制を受けることとなり、教養科目の数が多くなるため、基礎的な技術を系統的に修得させるという本科の教育目的にそぐわない結果を生じるのは明らかであった。さればといって、教養科目を全く設置しないことは、豊かな人間性の形成に大きな面を欠くことにもなりかねない。そこで計画されたのがこの教養講座である。その内容は、人文・社会・自然の各科学を網羅するようにし、種々の主題の一回または二回で終る講演形式の授業を毎土曜日に置き、この日は他の講義や実験実習は行わず、全学生(専修科の学生も課外講座という形で聴講が許される)が出席できるという独得のシステムを採った。それには、綜合大学としての本大学の利点を活用し、政経・法・商・文・教・理工という六系統の学部スタッフの出講を依頼するとともに、学外からも理工系ばかりでなく、法文系の専門権威者、あるいは産業界の第一線に活躍する経験者をも講師として招くことにした。因に、三十九年四月から夏季休暇までに実施された教養講座の日程と題目を示せば次の通りである。

四月二十五日「技術とは何か」(一)……時子山常三郎(常任理事・政経学部教授)

五月二日「技術とは何か」(二)……同右

五月九日「工学的な物の見方と考え方」(一)……難波正人(理工学部長)

五月十六日「工学的な物の見方と考え方」(二)……同右

五月二十三日「独創性について」……戸川行男(常任理事・文学部教授)

五月三十日「金属の破壊について」……黒田正夫(理化学研究所名誉研究員)

六月六日「生の哲学」(一)……広池利三郎(神奈川工業大学教授)

六月十三日「生の哲学」(二)……同右

六月二十日「技術家と文学」(一)……中谷博(文学部教授)

六月二十七日「技術家と文学」(二)……同右

 時間は午後六時から八時までであるが、講義のあとは、特にこの講座のために制定したレポート用紙を配り、これに毎回講義の概要と感想を書いて提出させ、これを以て各学生の出席と成績評価の判定資料とした。

 総じて教育施設は、早稲田大学本部キャンパスの理工学部教室・実験室・実習設備が主として使用されたが、必要に応じて大学院や研究所等の付属機関も利用できることとした。

 初代校長には、理工学部建築学科の木村幸一郎教授が就任した。その人柄は磊落かつ洒脱な性格の持主であったが、一方ではよく人々の意見を聴取して適切な処置判断を下し、創成期の産専のよき統率者であった。なお、三十九年十月からは、工業高校の校長も兼任した。産専事務主任には、工業高校の鈴木栄二事務長が兼任となった。その在任中は、豊かな経験を生かして数々の新しいアイデアを生み出し、また学生とのよき橋渡しとなる大任を果した。開校時の役職者は以下の通りである。校長・木村幸一郎、教務主任・渡辺真一(理工学部工業経営学科教授)、専修科主任・鶴田明(理工学部建築学科教授)、機械工作科主任・稲田重男(理工学部機械工学科教授)、電気科主任・門倉敏夫(理工学部電気工学科教授)、建築科主任・吉阪隆正(理工学部建築学科教授)、産業経営科主任・新沢雄一(商学部教授)、一般課程主任・東浦義雄(理工学部一般教育教授)。

4 その後の推移

 上述のような経緯をもって開設されてから以後の、産専が辿った経過につき、以下年代を追って記すこととする。

昭和三十九年

 四月十九日、一九号館四一八教室において、午後六時より初の入学式を挙行した。式後、各科・各コースに分れて主任の挨拶や講師の紹介等を行い、本科は第二時限より産専として最初の授業を開始した。

 工業高校に技術専修コースが設置されたとき、受講学生にブリーフ・ケースを配布したが、産専がこれらのコースを受け継いだ後もこれは同様に続けられ、四月の開講と同時に専修科の全学生に手渡された。ケースは青色ビニール製で、三方にファスナーが付き、薄型だがノート、テキスト、筆記用具などを入れることができるもので、その趣旨は職場で勤務が終ったら、このケースさえ抱えてくれば、忘れ物に気を配ることなく、そのまま手軽に登校できるということにあった。しかしこのケースはその後に補充されず、学校に手持ちがなくなった時点で中止となったのは惜しまれる。

 六月、『早稲田産専月報』の創刊号が発行された。学生相互間および教員学生間の意見や情報の交換と親睦のため、学校側が編集するB五判四ないし六頁建てのもので、一、二ヵ月に一回の割で発行、学生に配布された。毎号、教員の随筆か教養講座の紹介、学生の投稿記事のほか、折々の学校行事の報告やスナップ等が紙面を飾った。この月報は、産専が専門学校となって『専門学校月報』と名称を変えるまで継続され、最終号は五十三年二月発行の第六十四号であった。なお刊行数年後に、学生側からも自主的に学生自身の編集になるザラ紙一枚程度の新聞様式のものが一、二出されたことがあったが、いずれも長続きしなかった。

 十月、アジアで最初のオリンピック大会が東京で開催されたことは、この年の記録として、最も記念すべきものの一つであろう。単に開催地東京だけに止まらず、まさに国を挙げての行事であったから、大学も各学部では十月八日から二十五日までを特別休業とする措置を講じた。産専では九日まで平常通り授業を行い、十二日から二十四日までを特別休業とした。ただし専修科だけは、この期間中も日程通りの授業を実施した。

昭和四十年

 三月、西大久保構内における新築の二期工事の竣工により、理工学部が本部構内から移転したため、それに伴い産専も本年度より西大久保校舎に移転、授業と事務を行うこととなった。本科は昨年度の実績に鑑みて、選考を三月と四月との二回行い、募集人員も増加させて合計約二百名とした。しかし入学手続完了者数はこれを更に上回り(機械四十七、電気五十六、建築百二十二、産経五十九)、合計二百八十四名であった。専修科は、昨年度開講の九専修のうち、自動制御を取止め、新たに建築ディテール・土質工学・セクレタリーテクニック・人間工学の四専修を開設した。入学者は前年度の数を遙かに超え、合計百八十二名となった。

 四月、教養講座は、本年度から一般教養と工学教養とに分け、隔週交替に行うこととし、単位も三十九年度は一学年四単位であったものを、第一年度二単位、第二年度二単位と改めた。専修科の授業は、各専修により十二週・十六週・二十週のいずれかとし、十月下旬までに全専修が修了することに定めた。

昭和四十一年

 三月、二十六日に大隈講堂において、第一回生の卒業式を行った。在籍者数百七十一名に対し、卒業者は百二十名であった。証書授与に引き続き、各科より一名宛選ばれた成績優秀者に対し校長賞(時計)を贈ったが、この慣例はその後も変更されることなく続けられた。産専卒業式の前日、挙行を予定されていた全学の卒業式は、学費改訂に端を発した学内の不穏な動きのために中止となっていたので、本部と文学部の両キャンパスを通じて、卒業式を挙げたのは単に全学中産専だけであった。しかし、学内がこのような混乱中であったので、本年度は面接選考は取止め、書類審査のみで入学の合否判定を行った。本科の入学手続完了者は、昨年度より幾分減少し、二百四十八名であった。専修科は、昨年度開講の十二専修のうち、原価計算を取止め、新たに応用電気工学を設けた。入学者は本科と同じく前年度より四十名近く減じて、百四十一名であった。

 四月、これまで志願者や新入生が本校の組織と授業内容等を知るには『入学要項』(のちに『入学案内』と改称)があるだけであったが、本年度から『学習案内』を作製して、これにより新入学生に学習指導を行うこととした。また授業上では、必修科目を原則として演習・実験科目に限定し、単位制を特徴づけて選択科目の自由度を増すこととしたが、これは本年度の改革として特記すべき事項である。

 六月、校章リングを本科生に配布した。これは昼間に勤務先で着用する服装等の関係で、学校の襟章の着脱が億劫になり、登校の際これを忘れてくる者が多くなって、製図や実習のため入室する場合に、本校生であるか否かの確認ができないきらいがあった。そこで襟章に代るものとして指輪(銀製。欧米の大学のカレッジリングに相当するもので、その発案ならびに産業技術専修学校の頭文字であるSGSの文字をあしらったデザインは建築科主任吉阪教授による)を作製し、本年度から学年始めに配布することとした。しかし、ある種の煩わしさが感じられるためか、次第に着用する者が減じ始めたので、数年後には、本科の卒業生だけに、卒業記念として贈るという方式に改めた。

 十月、木村幸一郎教授が校長に再任(工業高校校長を兼任)された。木村校長は、本年度の入学者が本科・専修科とも前年度より四十名ほど減少し、予期しているほどの増加をみないのは、卒業生が無資格のため社会的に厚遇されないのではないかとして、産専改組案すなわち、本校を各種学校でなく、例えば産業技術学部とでも称する夜間学部へ改組してはどうかという提案を主任会に出した。主任会はこれを審議し、今後の産専のあり方につき種々討議がなされたが、卒業生に資格を与えるか否かの点は更に今後も検討を加えることとした。

昭和四十二年

 三月、本年度は本科の入学選考を二回(三月と四月)行い、入学手続完了者は計二百七十七名であった。専修科は昨年度開講の十二専修のうち、産業数学を取止め、材料試験技術を新設した。選考は一回だけで、計百八名が入学した。両科の選考に際し、本校を知った動機につき調査した結果をみると、新聞広告によるものと紹介によるものとが相半ばし、本校の存在が次第に社会的な認識を得てきたことが実証された。

 四月、木村校長が停年退職となったため、稲田重男(理工学部機械工学科教授)が校長に就任した。新校長は厳正なうちにも温健な人格の持主であり、緻密な計画を実行に移し、志願者数を次第に上昇カーブに向ける功績を挙げた。なお、本科の一般科目中に、本年度から行動科学(選択)が加えられた。これは人間行動の総合的・統一的研究であり、特に企業経営の場におけるその実践性を重点的に講義して行くもので、選択ではあるが、以後毎年度多くの受講生があった。

 五月、いわゆるゴールデン・ウィークには、殆どの職場が連休となるので、これとの関連から本校においても五月一日・二日・四日・六日を振替休業とし、結局四月二十九日から(日曜日を含め)八日間を休業と定めた。この措置は本年度だけではなく、以後産専の慣例となった。

 六月、日曜日を利用し、昼間の水泳大会を高石プール(文学部構内)で行った。約六十名の学生が出場したが、競泳には教職員も参加、力泳して喝采を博し、親睦のためにも益するところ大であった。

 十二月、鈴木事務長が高等学院へ転属となったため、後任に青木安正(本部建設課長)が就任した。

 本年度の役職者は以下の通りである。校長・稲田重男、教務主任・渡辺真一、教務副主任・東浦義雄・寺田利邦、機械工作科主任・川喜田隆、電気科主任・木俣守彦、建築科主任・吉阪隆正、産業経営科主任・新沢雄一。

昭和四十三年

 三月、本年度の募集人員を本科は五百名、専修科は各専修とも五十名ずつとした。また従来の選考日という呼称を面接日と改め、本科・専修科とも面接を二月と三月との二回行うこととした。専修科は、昨年度開講の十二専修のうち、人間工学と材料試験技術を取止め、電子技術・電気工事士・建築表現技術を新設した。なお昨年度までセクレタリー・テクニックと呼んでいたものは、事務管理と改称された。入学手続完了者の数は、募集人員の数を増したことと呼応するように大幅の増加をみた。これについて、稲田校長が『早稲田産専月報』(昭和四十三年五月発行、第一九号)に「新学期に際して」と題する一文を寄せているので、次にこれから抜粋する。

特に本年は本校を志願する者の数が激増し、本科においては昨年より百名増の約四百名、専修科においては電子技術・電気工事士・建築表現技術の三専修を新規に開講したためもあって、昨年の二倍以上の約三百名、合計約七百名の新入学者を迎えることができた……産専校もいよいよ順調に軌道に乗ってきたと感ずると共に……今まで以上に気持を引きしめて努力せねばならないと思う次第である。

 なお、単位取得について若干改正があったが、これも同じく『月報』に掲載された稲田校長の記事から引用する。

……本年度より本科は二年間を毎期十五週間の四期に分け、各期毎に区切りがつけられるようにし、仮に何等かの事情である期から学業を中断するような事があっても、翌年はその中断した期から再び継続できるようにし、また学年制的考え方をやめて単位制度を確立し、所定の単位を履修した者に単位取得証(卒業証書)を授けるようにした。また専修科においても各専修一律に一期間を十六週間とした。

 十月、稲田校長が再任となった。専修科は、本年度から前期に引続いて後期にも開講することが決定された。そして本年度は、前期に新設した三専修のほか、後期から製作設計・自動車整備技術・機械材料・品質管理技術・計量士・建築積算が新設となったので、合計九専修が開講された。なお、この前・後期開講制度は、四十三年度から五十年度まで引続き実施された。

昭和四十四年

 三月、本年度の本科の入学手続完了者数は計三百七十七名で、前年度より二十二名の減少であったが、専修科は計三百二十三名で、前年度より二十二名増し、結局両科を合計すると、四十三年度と同数となった。なお、専修科内の各専修は、本年度からコースと呼ぶことになった。

 四月、これまで産専の授業期間は、前期を四月から九月(末)まで、後期を九月(末)から翌二月までとしていたが、本年度から夏季休業の前および後で区分することに定め、前期試験は七月末までに完了するように改めた。当時としては全く新しいこの改革を断行したことについて、商学部の新沢雄一教授(当時、産専産業経営科主任)が『産専月報』(昭和四十九年十月、第五〇号)に寄せた「十年を顧みて」と題する記事の一部を次に引用する。

産専では七月二十日頃まで授業を行って、七月末までに前期試験を実施し夏季休暇に入る制度を逸早く確立したが、産専によるこの試みは成功して、間もなく早稲田大学では全学部がこれに賛成し、さらに有力各大学もこの制度を採り始めている。

 専修科は、前期には昨年度中止していた材料試験技術を復活、更に安全管理技術・工業化学・建築積算を新設し、結局十七コースを開講した。

 九月、後期には専修科に建築構造計算と実用外国語(中級英語クラス・初級ロシア語クラス)の二つが加わって、計十コースを開き、入学者は計百七十四名であった。

 十月、学園紛争が悪化し、バリスト等による全学の校舎の損傷が目立ってきたため、その補修整備の目的で、十六日から一週間に亘り大学構内は立入り禁止となった。そこで産専では早稲田実業校の校舎をこの期間中借用して、授業を中断しない措置を講じた。同二十三日からは全学が授業を再開する運びとなったが、実際は昼間の学部だけであって、夜間の入構はなお制限を受けたため、産専では引続き三十一日まで早稲田実業校で授業を行った。なお、この処置につき、同じく『月報』五十号所載の新沢教授の記事を引用すると次の通りである。

大学全体が閉鎖された時においても、学外に教室を確保し、不測の事態が発生しない限り授業を続けたのは、大学の中で産専唯一校のみであった。原則として休講はしない、止むを得ず教員が休むときは必ず代講を立てるというのが今日まで貫かれてきた教育姿勢であって、学生側にしてもややもすれば休講を喜ぶといった雰囲気は全くないのである。

 建築科主任吉阪隆正が理工学部長に就任したため、井上宇市(理工学部建築学科教授)が同科主任となった。

昭和四十五年

 三月、本年度の本科の入学者は、機械四十七、電気五十六、建築二百三十九、産経四十二、合計三百八十四名であった。専修科は、昨年度開講分のうち建築表現技術・材料試験技術・作業研究を取止め、計十四コースを開講、入学者は計二百四十九名であった。

 九月、同じく後期には、前年同期に開いた自動車整備技術・実用外国語の二コースは応募人員が少ないため取止め、結局六コースを開講し、入学者百二十九名であった。

 十一月、校長が稲田重男教授の後任として理工学部電気工学科の三田洋二教授に代った。新校長は自らグライダーの操縦桿を握り、学生を引率して北欧に数万キロの自動車旅行をし、スケッチブックを片手に山野を跋渉するなどスポーツで鍛えた強靱な体軀と、円満明朗な性格に恵まれた人で、校務を迅速果敢に処理し、産専の発展と改革に向って終始活発な行動をとった。

 校長の交替に伴い、役職者にも以下のような異動があった。教務主任・横溝克巳(理工学部工業経営学科教授)、教務副主任・東浦義雄、同・寺田利邦、機械工作科主任・川喜田隆、電気科主任・矢作吉之助(理工学部電気工学科教授)、建築科主任・松井源吾(理工学部建築学科教授)、産業経営科主任・新沢雄一。

昭和四十六年

 一月、本科電気科の主任技術者課程を履修して卒業した者には、第二種電気主任技術者の資格を与え得る認定校となった。

 三月、本科の面接は、昨年同様に二月と三月との二回行い、結局本年度の入学者数は、機械六十、電気五十一、建築二百八十五、産経四十九、計四百四十五名で、昨年度より約六十名の増加をみた。なお、本年度から機械工作科においては、特に設計の履修を希望する者の数の増加が認められたため、これを設計クラスと工作クラスとに分けて編成し、設計に関する科目と工作に関する科目とを設置して、学生がそれらを自由に選択できるようにした。専修科では、電子計算コースは前年度まで応募者が多かった(四十五年度は四十八名)が、本年度は急に激減し、前期は入学者十名で開講したが、後期は取止めとなった。実用外国語コースをLL外国語コースと改称したためか、本年度はこのコースに応募者があり、中級英語クラスを開講した。結局、前期は十二コースを開講し、入学者百九十六名であった。

 七月、三田校長は、本科の入学者数は多少増加はしているが、依然として伸び悩みの状態であること、また本科の学生数が現在七百五十名はあるものの、その六五パーセントが建築科に集中していることを憂慮し、その理由は建築科で二級建築士の受験資格が取れることにあり、電気科は今回、二種主任技術者の資格を与えられるようになったから今後入学者の増加が見込まれるが、機械工作科と産業経営科の不振は短大相当の資格を与えられないことにあると判断して、産専の短期大学案を起草し、主任会においてこれを今後継続審議することとした。この案は、本科を三年制の短大部とし、これに二年制の専攻科(現在の産専本科を充当)と、半期の研究科(現在の専修科を充当)を併置してはどうかというものであった。

 九月、専修科の後期は、九コースを開講、入学者は百七十三名であった。

昭和四十七年

 三月、本年度の本科の入学者数は、機械五十二、電気四十九、建築二百八十三、産経四十一で、建築科が依然として圧倒的に多数を占めた。専修科は、構造解析が新しいコースとして発足し、合計開講コース数は十三、入学者は百六十七名であった。なお、従来事務管理と称していたコースは、本年度から事務システムと改称された。

 九月、専修科後期は、四コースを開講、入学者五十名であった。

 本年度の役職者は、教務副主任の寺田利邦が高見沢戒三に、電気科主任の矢作吉之助が小貫天(理工学部電気工学科教授)に交替した。

昭和四十八年

 三月、本年度の本科の入学者数は、機械二十八、電気六十、建築三百十、産経三十三、計四百三十一名であった。なお、建築科は本年度からAコース(建築意匠設計志願者入門コース)・Bコース(同じく再教育コース)・Cコース(建築技術志望者コース)を設置し、学生は各所属コース独自の科目と、三つのコースに共通の科目から選択履習するように改めた。専修科は、コース数が若干減少し、前期は開講が十一コース、入学者は百五十五名となった。

 九月、専修科後期は六コースを開き、入学者は八十三名であった。

 十月、産専を短大化する案は、主任会でその後も引続き論議されてきたが、この月あたりから、短期大学部あるいは専門部とする案が、かなり具体的に構想され始めた。

 十二月、学生の体育と親睦のため、体育局コートでソフトボール大会を開催した。優勝は建築科一年チームであった。教職員チームも参加健闘したが、二回戦で敗退した。

昭和四十九年

 三月、本年度の入学者数は、本科が機械四十一、電気四十五、建築二百七十一、産経三十一で、計三百八十八名となり、前年度に比べ五十名近くが減じ、四十五年度以来の最低数を示した。これは四十八年秋に起った石油ショックと、いわゆる狂乱物価による不況の影響とも考えられる。専修科も本年度はコース数がかなり縮小され、前期の開講数は十一、入学者は前年度より六名減じて百四十九名であった。

 四月、本科のうち、従来機械工作科と称していたものが、機械科と改称された。

 五月、産専改革案が論議されるに従い、この頃から校名変更の要望がたびたび主任会の議題に上り、専修部あるいは専門部などの名称が提案審議され始めた。なお、この月に公開講座として、海洋構造講座が開かれた。

 六月、職員人事異動により、青木安正事務長と交替して橋口泰(施設部建設課長)が就任した。

 九月、専修科の後期は、IEコースのみを開き、入学者は十名であった。

 十月、本大学の各学部は始業が八時二十分であるが、これは他の私大と比較しても、最も早い時刻であり、しかも教室の効率がそれに比例していない等の点から、授業時限変更が学苑教務主任会で議題となった。産専も理工学部の教室等を使用している関係もあり、横溝教務主任がこの会に出席した。しかし数次の審議の結果、変更は見合わせ、従来通りとするという結論が出された。

 十一月、三田校長は任期が満了となったが、評議員会の議決により、留任と決定した。役職者として新しく交替したものは次の通りである。教務副主任・高見沢戒三が桜井譲爾に、電気科主任・小貫天が高見沢戒三に、建築科主任・松井源吾が田村恭(理工学部建築学科教授)に。

昭和五十年

 三月、四十九年度本科卒業式ならびに専修科修了式を十六日に挙行したが、当日専修科総代として修了証書を授与された女子学生高橋礼子について、一筆ここで触れておきたい。高橋は産専に在学した最も異色ある学生で、昭和四十五年に専修科の電子計算コースに入ったのを皮切りに、建築ディテール・計量士・機器分析・機械製図・工程管理・IEの各コースを履修、いずれもかなりの成績で修了し、五十年度には本科の電気科に入ることとなった。教場での受講態度はきわめて熱心で、ときには教場から廊下、廊下から教員室へと担当教員を追い掛け、質問攻めにすることも一再ではなかった。

 五十年度の本科入学者は、機械二十一、電気三十四、建築百九十三、産経十五、計二百六十三名で、前年度より百二十五名という大幅の減少を来した。機械科には、これまで工作クラスと設計クラスとに分けた編成を行い、それぞれに分れた科目を設けて、どちらかを自由に選択できる制度があったが、工作クラスを希望する学生が激減したため、本年度からはこれを一つのクラスにまとめて、総合的な知識を習得させるようにした。専修科も志望者が減じ、前期は電気基礎・事務システム・土質工学・工業化学・建築構造計算・構造解析の六コースだけが開かれ、入学者は計百十二名であった。

 四月、土曜日に設けられている教養講座は、一般教養と工学教養とに分れ、隔週交替で行っているが、このうち一般教養は一般科目という総称名と紛らわしいきらいがあるため、本年度から文化教養と呼ぶことに変更された。工学教養と交互に行うことは従来と同じである。

 六月、入学者の激減もさることながら、抹籍される者の数が増加してきたことも、看過できない事実となった。この月の末にまとめた本科の抹籍者数は、機械十、電気十二、建築六十七、産経九、合計九十八名で、すべて学費未納によるものであるが、種々の面で産専の体質を改革すべき段階にきていることを示唆するものではないかとの考えを一層強めるに至った。

 十二月、産専創立十周年祭の式典ならびに記念講演会が、六日大隈講堂で催された。講演は文学部の川村喜一教授による「エジプトの古都テーベ」(早大マルカタ遺跡発掘に関するスライド使用)と、理工学部の加藤諦三教授による「疎外と現代」があり、終って会場を校友会館一階に移し、懇親パーティーを開いた。村井総長をはじめ谷鹿評議員会々長も臨席され、出席教職員および一般招待者五十六名、出席学生は卒業生百二名を含めて百八十四名に達し、十周年を祝うにふさわしい盛会となった。なお同夕、『産専月報』の特集号と卒業生名簿、それに記念品として五十一年度用手帳などを来会者全員に配布した。

昭和五十一年

 三月、長年に亘り工業高校および産専の建築科で教鞭をとった蛭田拾太郎講師が本年をもって定年退職するに際して、銀製文鎮(校名・受賞年度・受賞者名を印刻)の長期継続寄贈を申し出られた。産専ではその趣旨を体して蛭田賞を制定し、毎年の卒業者の中から、特に学業に精励し優秀な成績を挙げた者を本科各科一名宛を選び、五十年度卒業者より今後十年間これを授与することとした。五十一年度の本科入学者数は、機械二十五名、電気四十五名、建築百四十五名、産経十七名、合計二百三十二名であって、学生数は前年度より更に減少した。しかも入学者の大半が依然として建築科生によって占められていることは、例年通りの現象である。専修科の五十一年度前期開講は、構造解析・材料力学・建築設計・電気基礎・事務システム・工業化学の六コースで、入学者は計八十二名であった。この他に開講を予定し、その準備はしていたが、志願者数が僅少なため開講不可能となったものは七コースに達した。

 六月、職員人事異動により事務長が交替し、橋口泰に代って久田勲(教務課)が就任した。なお、月末における集計によると、学費未納のため抹籍の扱いを受けた者は本年度もかなりの数に上り、機械五、電気十四、建築五十六、産経十一、計八十六名に及んだ。

 七月、大学創立百周年記念事業計画委員会で一応まとまった長期計画構想の概要が発表となった。この中、夜間教育体制の再編成と継続教育機関の設置と称する項目において、産専が新しい専修学校令に基づき、専門学校に移行吸収される案のあることが明示された。これに対して産専では、各科あるいは教員個人で種々の将来計画案が練られ、本腰を入れた討議がいよいよ活発に行われ始めた。

 九月、専修科の後期は、前期開講のコースのうち、構造解析と建築設計だけを継続設置した。

 十二月、主任会の議題としてこれまで論議が続けられてきた産専の改革構想を、「早稲田大学産業技術専修学校―将来構想に対する提案」と題する十三ページから成る印刷物の形で十二月中旬本部その他に提出した。これには本校が将来担当する学制・校名・移行措置等が詳細に提議されている。

 本年度において交替した役職者は以下の通りである。教務主任・構溝克巳が示村悦二郎(理工学部電気工学科教授)に、機械科主任・川喜田隆が林郁彦(理工学部機械工学科教授)に、建築科主任・田村恭が池原義郎(理工学部建築学科教授)に、産業経営科主任・新沢雄一が古田稔(商学部教授)に。

昭和五十二年

 三月、これまで主任会等で討議されてきた将来構想がまとまり、『産専の専門学校移行計画案』と題する印刷物の形となったので、九日の管理委員会の承認を得て、本部に提出され、ここに専門学校という名称が明瞭に打ち出されることとなった。五十二年度の入学者数は、本科では機械二十一、電気三十、建築百三十七、産経二十二、計二百十名であった。専修科では工業化学・電気基礎・建築設計・構造設計・事務システムの五コース(ただし、建築設計と構造設計とは後期にも引続き授業を行う)を開講した。

 五月、「専門学校学則案」を作製し、臨時管理委員会を開いてこれを検討した。その結果、大綱が了承決定され、案の各条項につき一応の結着を得たので、これを大学当局に提出した。

 六月、五月に提出した学則案につき、大学側と協議を行った結果、決定案ができ上ったので、産専では改めて臨時管理委員会を開催し、学則の制定を確認した。ただし、条項の細部については、その後もなお検討の余地のあることが明らかとなったため、七月・十月・十一月に定例あるいは臨時の管理委員会を開き、学則の一部に訂正を加えた。

昭和五十三年

 一月、再三に亘り修正を施した専門学校学則も、この月の定例管理委員会で漸く最終的にまとまったことが了承され、ここに本年四月から専門学校として新たな一歩を踏み出し得る段階を迎えた。

 三月、十九日(日曜)午後四時から五七号館において産専としては最後となる五十二年度本科卒業式ならびに専修科修了式を行った。本科からは四科合計百八名の卒業生を、専修科からは後期の二コースで合計三十一名の修了者を送り、これを以て産専の行事がすべて終りを告げ、四月から発足の専門学校にバトンを渡すこととなった。

五 専門学校

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1 開校への道

 昭和五十年七月十一日、学校教育法の一部を改正する法律が公布され、従来から学校教育法第一条に示されている小学校、中学校、高等学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校および幼稚園、ならびに八章雑則中の第八十三条に定められていた各種学校の他に、新たに第七章の二として専修学校の条項が追加されることになった。この法律の改正に当った当時の文部大臣は永井道雄氏で、氏が、早稲田大学の大先輩で雄弁をもって鳴らした早稲田大学教授故永井柳太郎のご子息であることはよく知られるところである。

 早稲田大学産業技術専修学校(以下産専と称す)がこの法律改正に対応するため、専門学校制度の研究を始めたのは、昭和五十一年二月二十八日に新宿の文化女子大学で開かれた、東京都および東京都各種学校協会主催の専修学校令関係説明会に関係者が出席してからのことである。当日説明会に出席したのは、本部からは滝沢玄吉、産専からは教務副主任の桜井譲爾と事務長の橋口泰の三名であった。

 専修学校の法令によれば、高校卒以上の学生を対象として専門教育を行う機関で、設置規準に適合し認可が得られた場合は専門学校と称することができる一方、昭和五十二年四月以後においては、この法令に基づいて認可された学校以外は、専修学校を名乗ることは禁止されている。早大産専は、各種学校ではあったが、開設当初から短期大学水準以上のカリキュラムを組み、理工学部、商学部の応援によって優秀な教授陣を持ち、大学の施設を活用して教育を行っていたから、申請さえすれば、当然専修学校の中でも最上位の専門学校として十二分に適合する内容を持っていた。

 しかし当時の産専は不況の影響を受けて、最盛期に比較して学生数が半減し、大学当局の資料によれば、産専の経営は、年間数千万円の赤字を示しており、産専側の試算でも若干の赤字になっていた。そのことがあってか、産専からの専門学校への昇格の働きかけに対し、大学当局は重い腰を上げなかった。

 昭和五十一年十一月、役職者の交代があり校長には、理工学部電気工学科の三田洋二教授が再任、教務主任には、同じ学部学科の示村悦二郎教授が新任、教務副主任は、桜井譲爾が再任された。また事務長もそれまで大学本部教務部に在職していた久田勲が着任した。この時点から産専から専門学校への昇格作業が漸く動き始めたのである。

 産専側では、新しい学校開設を目指して産専の教育の長所を生かしながら、しかも新しい形の専門教育を生み出すべく、毎週木曜日に開かれる主任会では、遅くまで熱心な討論が繰返された。当時の主任会のメンバーは、前述の四名の他、一般科目担当教務副主任の理工学部教授東浦義雄、機械科主任の理工学部機械工学科教授林郁彦、電気科主任の同学部電気工学科教授石塚喜雄、建築科主任の同学部建築学科教授池原義郎、産業経営科主任の商学部教授古田稔、それに産専専任の川喜田隆教授(機械)、高見沢戒三教授(電気)、寺田利邦教授(機械)の諸氏であった。

 これらの議論の中から、産専に設置されていた機械科、電気科、建築科、産業経営科の四科を専門学校にそのまま移行することが承認されるとともに、教科内容を充実し、教育の期間を三年とすれば、建築系では、一級建築士受験資格の取得の可能性があることから、産専の専修科に設けられていた建築設計コース、構造設計コース(いずれも修業年限一年)を本科の第三学年に置き、一、二年は建築科と合併授業を行うことで、経営に大きな負担をかけず、しかも発展性があると考えられる建築設計科の新設を桜井教務副主任が提案し、主任会で承認が得られた。

 この新専門学校についての産専側の原案に対する大学本部教務部の姿勢は厳しいものがあった。当局としては、大学経営の改善、合理化に腐心していたので、一部の人々ではあったが、この際採算のとれない産専を廃止すべきであるという強硬な意見すらある雰囲気であった。このような学内情勢では、専門学校へ移行させるだけでも大学本部としては、最大の譲歩で、移行に当っては、最大限の合理化を要求したのは無理からぬことであった。

 しかし早稲田大学が庶民の側に立つ大学として広くその地歩を築いてきたことは否定できない。ところが近年の大学受験競争の激しさを見る時、特に早稲田のそれは、大学を庶民から大きく引離してしまっていた。このような状況であるから、専門学校という庶民への門を、単に経済的理由から閉ざすべきではないというのが、産専側の主張であった。それに大学内の赤字の原因の中で、産専の占める部分は実際にはそれほど大きくはなく、他にもっと合理化すべき部分があったのも事実であった。本部としては、合理化を計るなら、組織改変の時機を除いてはないと考えていたのが本心であったのだと思われる。

 このような状況であったから本部との接衝に当った三田校長、示村教務主任の苦労は一通りのものではなかった。

 その結果は、建築科、建築設計科の併設はそれまでの実績から認められたものの、一方において各科共、設置科目を見直すとともに、非常勤講師数をできるだけ削減すること、特に在籍学生数が少なかった産業経営科と、受講学生数が不安定な専修科の廃止を要求されたのである。

 この要求はその後、産業経営科については、在籍している学生が卒業するまでの教育の場を確保するためと、将来経営的に成り立ち得る新学科設立の場合のことを配慮して、廃止の代りに休止扱いとし、新入生の募集はしないことになり、その代り、商学部系の新専門課程の新学科を設けてもよいことになった。

 また専修科についても、新設される建築設計科の第三学年の科目の実験コースとして、二年間を限って、建築設計コースと、構造設計コースの二コースの残置が認められたのである。当初の本部当局の姿勢から見ると、一歩も二歩も前進した積極的なものに変ったことになるが、その裏には、交渉に当った校長、教務主任の努力とともに、専門学校設立に理解を示していた人々の陰ながらの強力な応援があったからだと想像される。

 これで専門学校の組織の大綱は決まったのであるが、経営の合理化が求められていることはそれ以前と変らなかった。産専側では、各科の主任と専任教員とで、カリキュラムの見直し作業が進められ、機械科、電気科では、専門学校として必要最小限の科目としたカリキュラム案が提出された。

 建築科、建築設計科は、建築士受験資格取得に必要な科目に限り、従来二クラス並行授業であったものは、反対意見はあったが、敢えて必要最小限の科目を残して、一クラス化した案が作られた。

 この案に基づいて、校長、教務主任が本部と交渉していたが、桜井教務副主任も一度だけ同席したことがある。その時の本部側の出席者は、村井資長総長と清水司理事、および吉村健蔵理事であった。当時は、専門学校の科目配当についての折衝の最終段階にあり、当日の議題が建築科、および建築設計科の科目配当についてであったため、建築科に属する桜井の出席が求められたのである。

 それにしても、総長、理事が同席されていることは異例なことであった。その意味は産専側が建築関係学科の科目配当の説明を終ったとき判ったのである。口を開いたのは吉村理事であった。その主旨は、専門学校の設置規準の最低限度を目標に大幅に教科を削減してほしいという意味のことであったが、それに対し桜井教務副主任は、建築士の受験資格取得のためには原案の線を譲れないことを述べて、二人の意見は並行線を辿ってしまった。そのとき総長が初めて口を開き、吉村理事の案と産専案との中間の案を提示された。大学の最高責任者の提案である。産専案は教育現場の実情をふまえての必要最小限の案であったが、専門学校設立の可否にも繫がることでもあり、修正を約して総長室を辞した。

 この交渉を最後に専門学校設立の作業は軌道に乗ることになったのである。

2 その後の歩み

 昭和五十三年四月一日早稲田大学専門学校は産業技術専門課程のみの形で発足した。ここで、専門課程とは大学における学部に当るもので、その下に学科が置かれる。

 同専門課程には機械科(学年定員四十名)、電気科(同四十名)、建築科(同百二十名)の夜間二年制の三科と、夜間三年制の建築設計科(学年定員二十名)の一科が設けられた。

 建築設計科の第三学年は、建築設計コースと、構造設計コースに分れ、それぞれの専門を専攻できるようになっていた。

 産業経営科は本部との約束で、第二学年のみ開講し、新入生は募集しなかった。その代りに昭和五十四年四月一日開講を目標に商学部系の新専門課程を設立することになった。

 すべてが順調なすべり出しのように思われたが、一つだけ問題が生じた。それは、開校は四月一日であったが、その認可証が東京都から届いたのが四月五日頃であったため、国鉄への学生運賃割引の申請が遅れ、学生諸君の一部は、約一ヵ月学割が利用できず、通勤定期で、急場を凌いでもらったのである。

 役職者、教職員はほぼ産専のスタッフそのままを継承し、事務所なども旧産専で利用していた理工学部五二号館一階の一教室分を引き継いだ。役職者は、校長・三田洋二、教務主任・示村悦二郎、教務副主任・桜井譲爾、および事務長は久田勲であった。また機械科主任は林郁彦、電気科主任は石塚喜雄に代って理工学部電気工学科教授の小貫天、建築科および建築設計科主任は池原義郎、産業経営科主任は古田稔であった。

 昭和五十三年九月、最初の専門学校の卒業式が行われた。その数は十二名であった。この学生達は、本来五十三年三月産専を卒業すべき人々であったが、単位不足などで卒業延期になっていたため、却って専門学校の最初の卒業生という名誉をうけた幸運な人々であった。

 一方商学部系の新専門課程設立の準備作業がこの年の初夏の頃から始められた。その衝に当ったのは三田校長、示村教務主任、古田稔教授および商学部の関係者で、その実際の作業は、古田教授および久田事務長が当ったようである。新専門課程は、産業経営専門課程、設置学科は、会計科に固まったのはこの時期だと思われる。

 昭和五十三年十月末日、役職者の交代が行われた。また産専時代、一般科目担当の教務副主任であり、専門学校になって大学本部の意向で一人教務副主任制となったため、その職を離れてからも、教養講座および一般科目の指導教授として尽力していた東浦義雄教授も身を引くことになった。しかし同教授は、産専の英字名を引継いだ専門学校の英字名College of Technologyの命名者として学校の歴史に長く留められることになろう。

 新しい役職者は、校長吉阪隆正、教務主任は渡辺真一が当ることになった。吉阪教授は理工学部建築学科の中心的存在であり、かつて理工学部長を務めたこともある。

 渡辺教授は、理工学部工業経営科の教授で大学本部で学生部長として活躍したことがあり、しかも二人共、産専創設時の役職者でもあって、恐らく清水司新総長が専門学校発展を期待しての人事であった。その他教務副主任は桜井、事務長は久田が留任した。

 各科の主任は機械科は林郁彦教授(留任)、電気科は秋月影雄教授(新任)、建築科、建築設計科は神山幸弘教授(新任)、産業経営科は古田稔教授(留任)が当ることになった。

 昭和五十四年一月二十六日、校友会館三階で「専門学校を発展させる会」が開かれた。この会は産専の卒業生、専門学校の在校生が中心となって企画されたもので、多数の理事、教務部関係者も出席し、二百名を超える盛大な会合であった。

 吉阪校長、渡辺教務主任は、就任以来、専門学校を文科系の分野まで拡大すべく各方面に強力に働きかけている。その成果は直ちに結実しないかも知れないが、専門学校発展の大きな礎となると思われる。

 昭和五十四年四月一日、産業経営専門課程会計科(夜間二年制、学年定員四十名)が発足した。この科は授業は本部構内で行われることになり、学校の事務所の分室も本部構内に設けられた。産専時代の理工色の学校を脱却して総合的な教育機関の設立という主旨の一端が実現された歴史的な出来事であった。

 専門学校に応募する学生は、幸い質量共に当初の予想を上回っている。これはこの学制が社会の要求に適合していたということであろう。全体の三分の一近くが大学、短大卒業者または在校者などの高学歴者で占められていることからも、設立の理想とした新しい社会人のための高等教育機関、大学を超えた新しい学校という構想が徐々にではあるが、社会に認められてきた証だと考えている。

 昭和五十五年三月十六日(日曜日)、第三回の卒業式(正規に専門学校の課程を卒業した第一回)が理工学部五七号館の大教室で行われた。その卒業生全員に卒業の証として卒業証書とともに吉阪校長が新たにデザインしたループタイが手渡された。ループタイの要には専の字をデザインし、学校の理想を形どったマークが金色に輝いている。この要の部分は、女性のペンダントなどにも使えるように工夫されたもので、卒業生がこれを胸にするとき専門学校の出身者としての誇りを強く思い起すことであろう。

 昭和五十五年三月末日、工高、産専、専門学校と永年工学教育に尽力していた川喜田隆教授が定年で退職した。初めての専任教員の退職であった。川喜田隆は絵画をよくし、記念に静物の油絵を学校に寄贈した。今、学校の事務室の壁を飾っているこの絵は、専門学校の限りない発展を見守っているかのように思われるのである。

〈後記〉

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本章は次のように分担執筆された。

一 伊藤幸七

二 金児武

三 川喜田隆

四 東浦義雄

五 桜井譲爾