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第五編 その他

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第一章 出版部

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一 創業準備時代

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 大隈重信が、いわゆる北海道開拓使払下事件に反対して下野した時、これに従って挂冠した小野梓は、彼が終生三大理想とした政治、教育、出版事業の実行に着手し、先ず政党の樹立、次に東京専門学校の創立、更に大学出版部の基礎ともなった同攻会の設立を実現した。同攻会の沿革は明治二十四年三月および四月発刊『同攻会雑誌』第一号および第二号に掲載され、現在ではこれが同会の沿革に関する重要な資料でもある。

明治十七年一月東京専門学校学生中の有志者相謀り一の会合を設立して互に知識を交換し学術を講究し永く交誼を保持せんことを企て之を満校の人々に諮ふ 当時学生間は勿論学生と本校職員及評議員との関係最も親密にして満校殊とに団結の気風に富みたれば立どころに評議員講師学生にて六十有余名の賛成者を得たり……

〔かくて〕五月二十五日〔六月二十四日付『郵便報知新聞』は六月二十二日挙行と報じている〕を以て本校講堂に於て発会式を挙げたり来賓会員を合し会する者無慮三百名とす 当日来賓の重なる人々を挙ぐれば大隈重信前島密、鍋島直彬、小野梓、肥塚竜、犬養毅、田口卯吉等の諸氏にして田口、犬養、肥塚等諸氏の演説あり 講堂に於て本会より一同へ酒餐を供し快談時を移せり〔記録は未完のまま、ここで終る〕

 この記録には原始規則が掲載されていないからその詳細は掲出できないが、『中央学術雑誌』第二五号(明治十九年三月発行)に、原始規則を改正した規則全文五十一条が掲載されている。その主たるものは、

第三条 本会ノ目的ヲ達センガ為左ノ事業ヲ執ル

一内外書籍ノ閲覧 一演説討論 一雑誌発兌 一会合 一支会設置

〔中略〕

第十一条 本会々員ハ東京専門学校学生及ヒ同校ニ関係アル者ニ限ル

〔中略〕

第三十五条 本会ヨリ発行スル所ノ雑誌ハ中央学術雑誌ト名ク

第三十六条 雑誌掲載ノ事柄ハ左ノ項目ニ限ル

論説、批評、講義、翻訳、雑録、記事 (四七―五四頁)

であった。

 同攻会が発足した明治十七年には、小野は直接その企画や委員会に参加していないが、その領袖たる高田早苗山田喜之助などが直接これに関係していたのだから、小野が共存同衆に現したこの社会的文化運動の理念を知らなかった筈はなかろう。かくして以上のすべての計画と実行とが基礎となり、東京専門学校出版部が誕生したのである。

二 草創時代

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 東京専門学校創設の動機となったものに、大隈の「邦語を以て子弟を教育する」という理念があったことを忘れてはならない。小野は明治十五年十月二十一日の開校式に臨んで一場の演説をしている。その中で大隈のこの理念につき、「顧ふに皇家を輔け天下の学者を優待するは内閣諸氏の責なり、唯だ其障礙を蠲き学者をして学問の実体を講ずるの力を寛ならしむるものに至ては、在野の人と雖も亦た其責を分たざるを得ず、而して本校の邦語を以て専門の学科を教授し、漸く子弟講学の便を得せしめんと欲するが如き蓋し其責を尽くすの一ならむ」(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』附録五頁)と述べている。

 小野のこの演説に先立って、同年九月二十二日の『郵便報知新聞』附録に東京専門学校開設広告を掲載し、その一節に「政治経済法律及ビ理学ノ教授ハ専ラ邦語講義ヲ以テシ学生ヲシテ之ヲ筆受セシム」と簡明にその特長を述べているが、教員は自分が読み、且つ教わった洋書を咀嚼し、これに自説を加えて講義を行い、学生は教科書を持たず、それぞれの講義を筆記して自家のものとした。従って万が一にも欠席した場合は、友人からノートを借りてその埋め合せをしなければならなかった。そこでこうした不便を補うため、また講師がその講義を一本の書として保存しておくためにも、活字本が是非必要になったのである。明治十六年八月一日、小野が創設した東洋館書店は、初め外書の輸入を目的として創立されたが、更に門戸を拡げて講師の講義をまとめて出版する事業にも従事するようになった。

 小野梓は明治十九年一月十一日、東洋館書店を起してから僅かに二年有半、漸く事業が軌道に乗った時に、行年三十五歳の若さで他界したのであるから、今もし天が彼に齢を課すならば、必ずやその他の講義録発行にまで踏み切ったことと思われる。ただしこれとは別にその出版事業は、かつて東洋館書店に就職していた坂本嘉治馬が踏襲して冨山房を起し、この事業を継続しているから、小野もまた瞑すべきであろう。

 さて以上の諸事業が捨て石となり講義録が発行されるようになったのであるが、この事業が始められた当初の記録は甚だ少なく、また不正確なものが多い。この中、講義録出版の端緒となった辻敬之の通信教授について言及しているのは『半峰昔ばなし』と『紀念録』だけで、他はすべて横田敬太から筆を起している。しかし講義録の本質は地方における好学者に高度の知識を与えるのが目的であるから、そのものズバリの題名をとった『通信教授○○』の方がその趣旨に叶うものと言えよう。ところが幸いにも本大学図書館所蔵のうちに『通信教授政治学』文学士高田早苗著述(明治二十四年五月二十八日出版、蔵書番号カ二―六一四)なる一書があり、本文およそ五百余頁、上篇政体論、下篇政論の二部から成り、上篇第一章の冒頭に「通信講学会会員各位 余はこの度通信講学会会幹諸氏の嘱托に応じ各位に対して政治学の講義を為す可き義務を負ふこととなれり」と称して政治学講義の筆を起している。

 ここに引用した図書館所蔵本には、明治二十四年五月二十七日印刷、同月二十八日出版と記されており、発行所通信講学会も、発売所普及舎も、その所在地が東京神田区柳原河岸十四号地と同地番であるから、『紀念録』にいうように、普及舎々主と通信講学会々幹とは同一人の辻敬之であったことに間違いはなかろう。ところが本書に奥付が添付され、それには何人かの手によって発刊回数とその年月が記入されており、これによって初版は明治十九年四月で、その後二十二年六月まで実に十一版を重ね、この書き込みが正しければ、ここに引用した蔵書は十二版に相当する。これは当時においてはまさに驚異的な発行部数を記録したことになるから、この好況に刺戟された発行者辻敬之は、本学講師を主とした『通信教授○○』の刊行を継続したのである。

 ところで通信教授のそもそもの発端から、本学の直営に移り、出版部をして今日あらしめた功労者としては、先ず高田早苗を挙げなければならないだろう。『半峰昔ばなし』の中には、多少時代の喰い違いや、記憶に誤りがないわけではないとしても、当事者であっただけに、その記述は尊重されなければならないが、その中の「八五 早稲田の講義録」の章にはこれが経緯を詳しく述べ、最初の出版者である横田敬太に筆を進めている。

 高田は早くから教授の余暇をみて、東京近郊の諸県に遊説に出かけたが、最も多く出張したのが埼玉県であったもののようで、彼が埼玉県内に巡回講演を試みた時、はしなくも同県下北葛飾郡宝珠花村(現庄和町)に住む横田敬太に出会ったが、談たまたま講義録発行のことに及ぶと、横田はそれに一方ならぬ関心を示し、東京に居を移し書店を開くから是非自分にやらせてもらいたいと申し出た。時あたかも我が学苑は経営上の危機に遭遇し、授業料値上げ問題に関して甲論乙駁の時であったから、教職員間で協議の上、高田の企画に従い、その経営を横田敬太に委ねて講義録を発行することになった。そこで横田は上京して麴町区三番町五十三番地に居を構え、政学講義会なるものを興して、明治十九年五月十五日には政治科、経済科、法律科、歴史科の四冊より成る講義録を発行した(第三回よりは『政学会講義録』として四科が合冊されている)。これに先立ち四月には設立の趣旨を印刷に付し江湖に配布した。『中央学術雑誌』第二七号(明治十九年四月発行)に会の規則が掲載されているから、その一部をここに転載しておこう。

政学講義会規則

第一条 本会ハ、専門ノ学校ニ入学スル余暇ナキ者ノ為ニ政治、経済、歴史、法律等ノ処世須要ノ学課ヲ教授スルヲ目的トス。

第二条 本会ハ、帝国大学、東京専門学校等ノ教則ヲ斟酌シ、併テ官吏登用法ヲ折衷シ、予メ修学順序ヲ定メ以テ教授スルヲ期ス。

〔中略〕

第六条 本会ハ講義録ヲ発兌スルト雖ドモ、既ニ上梓セル適当ノ書籍アル教科ハ其書籍ヲ採用シ、敢テ更ニ講義録ヲ発行セズ。

〔中略〕

第十条 会員ハ、本会ノ教則ニ随ヒ自修スルヲ要スト雖ドモ、亦課目中己ノ好ム学課ヲ選ンデ専修スルヲ得ベシ。

〔中略〕

第十五条 本会ノ講義録ハ、第二第四ノ土曜日ヲ以テ之ヲ発行ス。

東京麴町区三番町五十三番地靖国神社脇 政学講義会仮事務所

こうして、学苑の校外教育の実を具えたものが、形式的には、政学講義会という横田の個人的事業として、十九年五月に発足したのであった。

 ところで、政学講義会は、二十年の秋、東京専門学校出版局と名称を改め、学苑の校外教育の責任者であることをきわめて明瞭に示すようになる。尤も、名称変更にも拘らず、経営面では、二十四年一月までは、依然として横田が実権を握っているという過渡的な状態ではあったが、講義録の予約者を学苑の校外生と称するとともに、校外生を学苑の制度の一つとして公認した結果、このような改称が断行されたのであろうとは、容易に想像できるところである。二十年九月の校外生規則は左の如くである。

東京専門学校々外生規則

第一条 本校ハ、校外ニアツテ本校ノ科目ヲ講習セント欲スル者ヲ校外生トナシ、講義筆記ヲ印刷シテ之レヲ頒ツ。

第二条 講義録ハ第一年級ヨリ始メテ満三年ニシテ卒ルモノトス。

〔中略〕

第六条 校外生タラント欲スル者ハ何時ニテモ随意ニ入ルコトヲ得ベシ。

但シ麴町区三番町五十三番地東京専門学校出版局へ申込ム可シ。

〔以下第十七条マデ省略〕 (『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料21)

 三十年の長きに亘って早稲田大学出版部で活躍した種村宗八(明二六文)の私記『早稲田大学出版部の沿革と早稲田大学との関係』には、この時期に関して、次のような記載が発見される。

横田氏が講義録を発行した当時の記録は残つてをらぬし、講義録も今では揃つてをらぬ為め、精しい事は分らぬが、現在残つてゐる明治二十年十月から発行された講義録によつて見るに、表紙には政学部講義と題してあるから、他の学部の講義録をも発行する予定であつた事が分る。発行所は東京専門学校出版局、発行人は田原栄(当時の幹事)としてある。事実の経営者たる横田氏は単に印刷人として署名してあるに過ぎぬ。又明治二十一年十月からは司法科講義、行政科講義の両講義が発行された。同月以後の講義録は毎週一回発行、三ケ年完了の組織であつた。 (二頁)

東京専門学校出版局の名で、校外生のテキストとして二十年十月以降配本された講義録は、種村が右に記した『政学部講義』のほかに『法学部講義』があり、それぞれ毎号数種の講義を一冊の中に分載するという『政学会講義録』の方法を踏襲している。

 さて二十一年六月に改定された「東京専門学校規則」(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料23)には、その第十四章として「校外生規則」が加えられ、学苑が通信教育を重要視している事実が内外に宣明された。その内容は前掲の二十年九月の校外生規則と大体において同一であるが、「校外生ニシテ本校ニ入学セントスルトキハ、学力ニ応ジ特ニ第一年級ヨリ第三年級マデニ編入スベシ」とする規定が第五条として新たに挿入されている。このような新規則に則った講義録は『東京専門学校講義録』と名付けられて、政治科、司法科、行政科の三種類が刊行され、二十一年十月以降計画は順調に実施された。既にこの時代において、学苑の名を冠した講義録が好学の士の注目を惹いていることは、明治二十二年六月刊行の『官立私立諸学校規則総覧』に、「麴町区三番町五十三番地東京専門学校出版局」印刷の「講義筆記」の頒布を受けられる校外生についての一項が、学苑に関する記事の最後に掲げられていることによっても明白であった。

 この制度によって計らずも学生数を増強する結果にもなり、また優秀な学生を集める点でも大きな役割を演じることにもなった。一例を挙げれば、文化勲章受章者津田左右吉は、故郷の岐阜で本講義録によって学習し、上京して邦語政治科第二年級に編入、明治二十四年首席で卒業している。このように事の如何に拘らず、本校の首脳部が創立当初に考えた通信教育は、ここに言う校外生制度の確立によって、実質的にも本校の教育制度に取り入れられるようになった。しかしこのような救いの水も横田の大きな負債を済度することができず、廃刊寸前にまで追い込まれた。

 横田が負債に苦しんだ原因は明らかでないが、『半峰昔ばなし』では「何か外の事に手を出して横田なる人は失敗し」た(一九三頁)と言っているから、あるいは株に手を出したか、政治運動に奔走したか、何かで相当の財を費消したのであろう。『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』は、

講義録の発行は大に世の好評を博し、漸次好況を見るに至りしが、横田氏は元と出版の経験ありし者にあらず。且つ稍々勢に乗じたる傾ありしを以て、事業上種々の齟齬を生じ、萎靡不振の状を呈し、漸く発達し来らんとしたる講義録も、将さに廃刊の厄に遇はんとするに至れり。是れ実に明治二十三年末の事とす。当時に於ける本校の幹事は田原栄氏なりしが、深く講義録の廃刊せられんとするを惜み、鋭意之が計画を為し、二十四年一月より学校自から出版発売の衝に当ることとなせり。是れ実に本校が一事業として出版に従事せし初なりとす。 (二三七頁)

と述べ、横田が出版に対する経験がなく、いたずらに事業拡張を計ったため遂に破綻を招き、廃刊寸前にまで追い込まれたと説明している。なお、詳細は『早稲田大学百年史』第一巻第二編第十五章三参照。

三 直営時代

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 当時、東京専門学校の幹事として経営の衝に当っていた田原栄は、講義録廃刊の悲報を受けて非常に憂慮し、直ちに高田早苗と協議して、明治二十四年一月から本校の直営として講義録発行を継続するよう決定し、取敢えず二十三年の初めに高田俊雄を横田のもとに送り込んで、その収拾に乗り出した。高田俊雄(明二五英政)は当時はまだ学生であったが、学校近辺の牛込区矢来に居を構えていたので、麴町の横田方出版局とはそう遠い距離でなかった。ただ弱冠にして学生の身でありながら出版局に出向したというのは、彼が高田早苗の実弟であり、恐らく丼勘定で交通費程度のものをもらっていたに過ぎず、さほど高田の負担にはならなかったからには相違ないが、それにしても、このような難局に処してその衝に当ったのは兄の信頼がよほど厚かったのを立証していると思われる。それはともかくとして、学苑が横田の負債と残本とを引き取って、諸般の事務を学校内に移したのは、二十四年一月のことであった。古記録がないので、学苑が支払った横田の負債がいくばくであったか明らかでないが、本家が赤字に悩んでいる時であったから、多少の損失でも引き受けたくなかった筈で、しかも鳩山和夫校長をはじめ一部の教員の間に難色を示す者さえあった際に、敢然としてこれが続行に踏み切ったのは、高田早苗田原栄らの講義録に対する異常な執念によるものと言わなければならないだろう。いずれにしても横田は「武士の商法」で倒産したが、その創意と高田の慧眼とが、一私立学校をして講義録発刊に踏み切らせたのであった。

 さて出版業務を引き継いだ出版部(この時から出版局は部に改称された)は、勿論独立した家屋がなかったので、教務課の事務室の一隅に割り込み、事務員小久江成一(東京専門学校中退)を長として一、二の助手が事務に携わり、政治科、司法科、行政科の講義録を発行していた。当時小久江の俸給は月額十円であったと言われ、今日の水準に換算すれば中卒の給料にも及ばなかったのであるから、その他の部員の給料は推して知るべしである。

 かくして名実ともに一応本学直営の形が整ったものの、講義録の購読者数は伸びず、経済的には赤字を増すばかりであったから、学校の幹部のうちではしばしば廃刊が取沙汰されるようになったが、高田、田原、市島謙吉らは強くこれに反対して、辛うじて余命を保つことができた。しかしこのままでは早晩廃止の憂目を見ることは必至であったから、何らかの方法による体質改善の必要に迫られていた。こういう時に、米国でPh・Dを得た現教員の家永豊吉が、明治二十五年一月および二月の『同攻会雑誌』第一〇号および第一一号に「英米に於ける教育上の一大現象」と題する一文を投じ、海外の諸大学による校外教育の実情を詳細に紹介したが、中でも、彼が「彼『ケンブリッチ』『オックスフォルド』の両大学が此普及講義の課程を完了して予定の手続を経たる者は大学内に於て已に一年の修学を了へたるものと同様の資格を以て入学を許すを見るも其一斑を知るべきなり」と述べたのは、大いに当事者を力づけ、また幹部や同攻者の関心を高めるのに効果があった。

 この年、小川為次郎田原栄に代って本学の幹事に就任した。小川は、東京専門学校創立当初に教鞭を執った東大生の高田、坪内雄蔵、山田らを小野梓に紹介した人で、早くから統計学を学び、統計院に入って官吏になったが、大隈重信が十四年の政変で挂冠するやこれに従って下野し、本校創立の時に副幹事の地位に就いた。のち辞して印刷会社国光社の社長に就任し、また米商会社理事に挙げられたが、帰国後辞して、本学の幹事になった。この経歴が示すように、経営の才があり、印刷に関する手腕もあったから、まさに適材適所であると言えよう。『出版部の沿革』には「出版上に改善を加へた点も尠くなかつた」と簡単に述べているのみで、その内容は明らかでないが、明治二十六年以降『東京専門学校政治科講義録参考課目』を発刊しているなどは、その改善の一つでないだろうか。

 これに引続き、二十一年六月本校規則中に一章を設けて記載された「校外生規則」を改正し、独立せしめて「東京専門学校校外生規則」とし、二十五年十月からこれを実施することにした。その改正の主要な点は、本校の規則に準じて「校外生入学証」を提出して誓約せしめたこと(第二条)、学生証を交付したこと(第七条)、入学金月謝等ならびに往復通信の送付先を東京専門学校幹事宛としたこと(第十七条、二十五条)等である。このように大学の積極的な援助を得て講義録の刊行が続けられていたが、赤字は一向に解消できなかった。

 ところが、明治二十七年八月に、通信教育の発案者であり、出版部の実質的な責任者であった学監高田早苗は、出版部長を兼任するや、幹部の中にも強い抵抗があったにも拘らず更に文学講義録を発刊し、なお講義録以外にも一般参考図書を続々発行したから、体面上からも、経済上からも、漸く面目を一新することができた。既に学苑は、『小説神髄』を著して文壇に新風を送った坪内逍遙を擁し、二十三年には文学科を増設していたから、文学講義録は当然発刊されていなければならない筈で、この期に及んで発行されたのは、いささか時期遅きに失した怨みがないでもなかった。

 また参考図書として『早稲田叢書』を刊行し、その第一冊には、高田が自ら筆を執ったウィルソン原著の和訳『政治汎論』を上梓し、以下、マーシャル原著井上辰九郎訳『経済原論』、ウォルフ原著柏原文太郎訳『国民銀行論』、中村進午著『新条約論』、バステープル原著田島錦治・土子金四郎共訳『経済政策』、キーエンス〔J・N・ケインズ〕原著天野為之訳『経済学研究』、有賀長雄著『近時外交史』、スコットオ原著高田早苗訳『英国国会史』を続々刊行した。これらの書籍は江湖の好評を博し、起死回生の妙薬として出版部を立ち直らせ、経済的にも初めて黒字を見たから、当局はこれに力を得て、明治三十四年五月、校庭の一部に二十余坪の家屋を新築するに至った。こうして従来教務課の一隅に同室して、肩身の狭い想いをしていた部員一同も漸く愁眉を開くことができたのであった。

 『早稲田叢書』は引続いて数巻刊行されたが、いずれも好学の士から歓迎を受け、その平易な文章と透徹した論理とは、洛陽の紙価を高めるとともに、国内至るところに『早稲田叢書』ブームを巻き起した。従って思わざるところに予期しない影響を与え、発行者も著者も今更ながらに、書籍が及ぼす力の強さに驚きのまなこを見張ったのであった。その好例の一つとして、煙山専太郎著の『近世無政府主義』一巻を取り上げてみよう。

 筆者煙山専太郎は明治三十五年九月、すなわち早稲田大学に、西洋史の講師として招かれた。本書はその年の四月十一日に出版されたもので、当時東京専門学校で外交史を講義していた有賀長雄が校閲している。あたかもその時は日露戦争勃発前の専制政治華やかなりし頃であったから、本書の題名は、多くの人の耳目をふるわせ、いたく人心を衝撃したに違いなかった。筆者は、この題名だけを見て世人が大いに危惧するだろうと考え、執筆の態度をその序言の中で、本書によってこの主義を宣伝高揚するなどは毛頭なく、寧ろ反ってその暴戻を世入に訴え、これを排除せんとする意図さえあることを明らかにしている。しかるにたとえ一部にもせよ全く予期しない結果を招き、著者を啞然とさせたのであった。すなわち明治四十三年六月一日幸徳秋水らの逮捕によって明るみに出た大逆事件の被告のうちに、不測の影響を与えられた者があった。新村忠雄(懲役八年)は、被告中の最年少者であり、幸徳秋水に心酔した最も激烈な無政府主義者であったが、本書を読んで、直接行動論を堅持するようになったという。またこの事件の中心人物と目された宮下太吉(死刑)は、小学校の補習科を出ただけの学歴しか持たなかったが、本書や久津見蕨村の『無政府主義』を読んで大いに得るところがあったとし、後日法廷で、「煙山氏の無政府主義を読みし時、革命党の所為を見て、日本にもこんなことをしなければならむかと思ひたり」(大審院特別法廷覚書)と述べている。新村や宮下らの偏狭な頭脳は筆者の正鵠な論説を理解できず、「かくの如く行動せよ」としか受け取れなかったのであろう。

四 事業統合時代

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 三十年代の出版事業として、出版部は『早稲田叢書』の外に『外交時報』を刊行した。『外交時報』の主筆は文学士有賀長雄、発行所は東京専門学校出版部内外交時報社となっている。『外交時報』創刊は明治三十一年二月であり、日清戦争後の三国干渉が世論を沸騰させていた時代であった。こうした動向と要請に応え、生れるべくして生れたのがこの冊子であるが、後述するように当時、外交問題に関する政府の態度は、甚だしく神経過敏であり、筆禍事件さえ起すほどであったから、少しく勘ぐれば、何か問題が起きた時、累を出版部に及ぼすことを惧れて、別に社を起したものとも考えられる。

 明治三十五年九月二日、文部省告示第百四十九号により、時の文部大臣理学博士男爵菊池大麓から、私立東京専門学校を私立早稲田大学と改称することが認可されたので、これに伴い出版部もまた早稲田大学出版部と改称した。当時発行していた講義録は政治経済科、法律科、行政科、文学教育科、史学科の五科で、一冊の分量は菊版で二百頁内外、毎月二回ずつ発行し二ヵ年間で修了することになっていた。各科を通じて受験欄が設けられ、それぞれ高等文官試験、判検事試験、弁護士試験、文部省教員検定試験等の試験問題を掲げた。これら講義録の購読者は毎年増加の傾向を示し、例えば三十五年度の総数一万三千六百三十名が、翌三十六年度には一万六千四百六名に上昇している。

 この他、三十五年四月から開始された新企画に『中等教育』という雑誌がある。これまた中等教育会なるものを出版部内に設けているが、三十五年十月以降の損益計算書の勘定科目に「中等教育第一期及第二期」の項目があるから、その経営は出版部自体が行っていたものと見て差支えなかろう。

 ところで本学直系の早稲田尋常中学校は、明治二十九年五月本学講堂で開校式を挙げ、校長に大隈英麿、教頭に坪内逍遙が就任している。これは制令に基づいた中等教育機関であるが、これに対し『中等教育』なる冊誌が生れた。『早稲田学報』第六七号(明治三十五年四月発行)は、その目的および特色を直截に表現し、

本校に於ては、現今の中等教育に資し、中学程度の学生等の修養勉学に便せんが為め、今回出版部内に、中等教育会を設け、広く会員を募集して毎月一回『中等教育』と云へる講義録、雑誌の二面を兼ねたるものを発行すと云ふ。……其の主なる特色として掲ぐる所は、(一)専門大家の確実多趣味なる講話によりて、中学程度の学生に穏当確実なる倫理上の知見を与へ其品性を高むること、……(五)各講話凡べて毎号読切とし十五ケ月にして各科全体を講じ終ること。

(「早稲田記事」三八八頁)

と記している。講師としては、高田、天野、坪内、浮田和民、志賀重昂、岡田朝太郎ら学苑講師陣が執筆するのはもとよりのこと、後世各学界に錚々たる名声を馳せた石川千代松(動物)、松村任三(植物)、横山又次郎(地文)、神田乃武(英語)、井上十吉(英語)、本多光太郎(物理)などがこれに参加した。

 この構想を以って発足した当初の会員数は全く不明であるが、損益計算書から勘案すると、大体九千名の会員を獲得したことになる。そこでこれに気を得てか、同年九月二十一日午後一時から本校の大講堂で講話会を開き、高田早苗、田中館愛橘、坪井正五郎浮田和民和田垣謙三、塚原端らが講演を行っている。

 当時出版部の事業に従事していた人員は、事務員、編輯員、小使、給仕を合せて三十一人を数えて、年間一万円を超える純利を挙げ、その中から五千円余の納付金を本校に納め、他に七千余円の広告料が支払えるくらいであった。ただし部員に対する給料は、一般の他企業に比べて低額であるとの譏りは免れないにしても、賞与を一ヵ月半分支給したりして、大いに部員の待遇に気をつかっていた。

 しかし好事魔多しの喩えに洩れず、意外な所に意外な事件が持ち上ってきた。いわゆる出版法違犯事件で、巽来次郎、高田早苗の両名が告発された。被告巽来次郎は、三十五年八月に『日清戦役外交史』を著したが、その一部が外交の機密に触れたとして起訴され、高田早苗はこの著書出版の責任者としてその罪を問われたものである。この間およそ一年有余に亘り調査が続けられたが、巽は罰金百円、高田は無罪の判決を受けて一件は落着した。

 さてこの辺りで『早稲田学報』についても触れておく必要があるだろう。それは『学報』の発行者である早稲田学会が、大学内から出版部内に移されたからである。

 『学報』の創刊は明治三十年三月三十日であった。この冊子の出版母体である早稲田学会の設立趣旨書は、第二号の巻末に初めて現れている。その設立の旨意は、

早稲田学会は我が東京専門学校に関係ある諸氏及び天下の同志と共に政治法律経済及び文学上の問題を学術的に講究するを目的とし此目的を達する為めに早稲田学報と称する学術応用の評論雑誌を発行するものなり。

と言い、規約第二条では「一、東京専門学校講師校友学生 二、同準校友 三、同校外生 四、其他本校に関係ある者」を会員としており、また同第五条には、「雑誌編輯部委員」として講師委員四名、編輯主任一名、校友委員四名、学生委員八名を置くと定められているから、これは純然たる学内雑誌の趣きを具えていた。しかるに三十七年四月号の広告によると、翌五月の第一〇一号より内容の刷新を行うことを稟告し、同年七月発行の臨時増刊第一〇三号では、「早稲田学会設立の趣意」書の後段を、

『早稲田学報』は乃ち政治経済法律及び文学上の時事問題を把へ来りて学術上より精細の観察を下し正確穏健の論議を為さんとするものなり。四方同感の人士幸に本会の意を諒とせば、下文の規約に随ひ入会を吝む勿れ。(圏点筆者添加)

と改めている。こうなっては、大学自体の事業ではなくて、出版部にその業務一切を移譲するのが当然であると言えよう。ただしその移管の時期であるが、早稲田大学出版部と改称された時から始まった「明治三十六年度自卅五年十月至卅六年九月報告書」には、『学報』の「貸借対照表」ならびに「損益計算書」が記載されているから、この時既に早稲田学会の業務一切は出版部内に移されていたと見てよく、講義録、早稲田叢書、外交時報、中等教育などが相当の成績を挙げている中へ、飛んだ貧乏神が迷い込んだのであった。

 しかし経営の主体がどのように変ろうと、またその機構がどのように更新されようと、所詮『学報』は早稲田大学とともに歩んでいかなければならない。大学が在る限り、続く限りは存続しなければならない宿命を負わされていた。従ってこの事業に携さわる者は、『早稲田学報』という旗幟の下に、勇気と誇りを持って立ち向っていた。創刊十周年の記念に当り、当時雑誌『太陽』の記者であった長谷川天渓が、『早稲田学報』第一五三号(明治四十年十一月発行)に寄せた「早稲田大学と学報」という一文の中で、

編輯会は毎月清風亭で開かれた。此の時さしみに鰻飯の御馳走を頂くのが吾々編輯員の報酬で、其の外は雑誌一部頂戴する外に何等の報酬もなかつた。但し図書館に自由に出入して書物を借り出す位の権利はあつたやうだ。今から見れば安い給金のものだ。而も各自が反訳した頁数は十頁乃至二十頁といふ多量で、之れか為に学課の勉強時間を取られたことは蓋し尠くない。……此の雑誌の名を改めて早稲田評論とか、或は其の他何とか、兎に角『学報』の二字を除きて、他の文字を置きたいと言ふ論は余程以前から在つたのであるが、今尚ほこの名で発刊されてゐる。 (二〇―二一頁)

と述べている。思えば長いいのちである。たとえその過ぎこし方に幾多の紆余曲折はあろうとも、先人の跡を継いだ者がよくこの事業を守り、今日まで数えて白寿に達せんとしているのである。

五 存廃両論時代

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 明治三十七年二月十日、露国に対する宣戦の詔勅が下り、全世界注目のうちに日露戦争が始まった。その経過については周知のことで、連戦連勝の朗報は全国民を熱狂せしめた。この頃の出版部の成績は戦争の影響を受けることもなく順調に進んだ。校外生数は増加し、雑誌図書の出版が相次いで行われ、殊に講義録創刊二十周年記念を同年十月に迎えたことは、出版部の士気を昂める上にも一段の効果があったとともに、これを機として大学と校外生との紐帯がいよいよ固められていった。

 更に出版部は、我が国にとってまさに乾坤一擲のこの大戦の最中に、画期的な冒険を敢えて行っている。それは坪内逍遙作の『新楽劇論』およびその見本とも言うべき『新曲浦島』の出版である。逍遙にはこれに似た改良論として、先にかの有名な『小説神髄』ならびに『当世書生気質』があるが、これらはいずれも出版部創立以前の出版である。しかもこれまで出版部の事業としては、政治科、司法科、行政科の講義録出版に始まり、文学科講義録に及んでいるが、単行本についても大体これと同工異曲で、文学物もまた、各種の評釈や文学史的なもの、あるいは翻訳文学に止まっていた。それがここに新しく劇論と舞踊劇の出版に踏み切ったのだから、一大飛躍と言わざるを得ない。この両者は明治三十七年十一月殆ど同時に出版された。本曲が初めて上演されたのは明治三十九年二月十七日のことで、芝公園紅葉館において文芸協会が発会式を挙げた時、その余興として四番目に「新曲浦島」が上演された。しかし「浦島」は前曲のみであったから、役者の出場はなく、唄芳村伊十郎、三絃杵屋六左衛門、同勘五郎、笛望月太左蔵、小鼓望月太左衛門、大鼓福原鶴太郎その他であった。

 逍遙はまた講義や著作の傍ら月刊『中等教育』に専念して多忙であった。同時に、早稲田中学創立当時教頭として教育の実務に当り、更に明治三十五年九月十五日、大隈英麿の校長辞任後、これを承けて校長に就任しているから、その繁忙振りは想像するに余りあるものがある。それにも拘らず今また出版部から『早稲田中学講義』録が発刊され逍遙がその責任をとるに至っては、まさに八面六臂の術なくしては不可能であると言うべきであろう。この講義録は三十九年四月に第一号を発行し、同年度の大学事業報告によると六千二百九十三名の校外生を得、明治の末にはおよそ二・五倍に膨れ上っている。その「発刊之辞」は左の如くである。

光栄ある我が日本帝国は、今や鉄血の中より出でて平和の大奮闘期に徒れり。我が同胞国民たるもの、果して何等の覚悟を以て之に処せんとする歟。……而して此根柢たり基礎たるものは実に夫の国民中等教育に非ずや。熟々我が中等教育の現況を観るに……国家の経済はよく之に応じて中等教育を授くべき中学校の設備を充分ならしむるに足らず、且つや戦後国民生活の状態は、子弟教育の資を給するの余裕に乏しきものを出すこと漸く多からんとす。……今にして此が救治策を講ぜずんば、啻に戦勝国としての実を収むる能はざるのみならず、国家の根柢たる元気漸く沮喪し、建国の基礎為に危殆に瀕するに至るかも測るべからず。

 なお、この外の講義について言えば、従来、政経、法、行政、文など各科が、三十四年度末には平均三千名の校外生を有するほどの壮観を呈し、文学教育科の如きは三・三倍に達したから、これに気をよくしたのか、その内容を分離し、三十五年度には史学科を新設してその講義録を刊行(三十七年度より歴史地理科と改称)した。このため同年末には、千六百三十九名の校外生数を得、文学教育科(四十年より文学科と改称)の購読者数二千五百九名を加えると、およそ四千百五十名、前年度より約一千名、二割五分の増加となった。しかし残念ながら歴史地理科講義録は五ヵ年続いたのみで、四十年には廃刊になっている。同じ運命に遭ったものに高等国民教育科がある。これは四十一年に創刊され、四十三年に廃刊されている。その他、中学科より更に一年古く三十八年度に発刊された商業科講義録がある。幸いにして、この方は毎年校外生数が増加し、中学科講義録とともに長く命脈を保ち、出版部のドル箱となった。

 このように新しい企画が見事に的中したから、中学、商業を主軸とし、大学の各科に準じた従来の講義録を輔翼とする基本方針を定め、将来の見通しも明るいものがあったので、出版部家屋の新築に踏み切った。すなわち三十九年八月に大学正門(今の通用門)前に、洋風木造二階建事務所および倉庫延九十二坪二合五勺(約三〇四・五平方メートル)の新築工事が完成した。

 ところがそれにも拘らず日露戦争終末後から三十九年にかけて、事業熱、投機熱が急速にあおられ、これがため資本を徒費する者が現れて、金融逼迫の反動が起り、中小企業者に大きな影響を与えた。大学出版部もまたこの情勢から脱するわけにはいかなかった。経済上の不況をカバーするために新しい事業を起してみても、却って未収入金が増えるばかりであったから、やむを得ず使用者を半減するという姑息な手段によって、経費の節約を計らざるを得なくなった。そこで遂に出版部廃止論さえ起るようになった。その強硬論者は、当時維持員であった校長鳩山和夫、講師天野為之の両博士で、前掲種村私記の伝えるところによると、

継続論者と廃止論者との間に激論があつて、……高田出版部長は校外教育機関として出版部存続の必要を痛感してゐたけれども、維持員六人中の有力なる二人が熱心の廃止論者である以上、……大学に禍しては大事であると考へて、出版部庶務課長小久江成一、出版課長種村宗八の両人に命じて、廃止に関する善後策を取調べさせた。其取調報告によれば「講義録〔を〕……発行の中途に於て廃刊するのは校外生に対して不徳義であつて、本大学の体面上も亦教育上からいつても忍び難い事である。たとひ将来廃刊するものと確定しても、現在講義録の完結までは継続して発行せねばならぬ……」といふにあつて、則ち出版部は其事業を継続する事が困難であると共に、之を廃止する事も亦容易ならざる事が明かになつた。 (六―七頁)

という。

 ここにおいて出版部幹部の間に熟議が重ねられたが、大学に財政上の危険を及ぼすことも、校外生の迷惑を無視することも到底できないので、大学に損失を及ぼさない継続方法を案出するよりほか採るべき途がないということになり、大学との関係を分離し一個人たる高田が危険を冒して全責任を負い、事業を継続することに決定し、この旨を大学の維持員会に申し入れた。

 そこで維持員会は慎重に協議した結果、出版部を本校より分離して高田早苗個人の経営に移し、名称のみは依然として「早稲田大学出版部」であることを認めた。すなわち、明治三十九年七月十八日召集の維持会の決議に基づき、「高田早苗ハ出版部経営ノ為メニ如何ナル損害ヲ蒙ルトモ其損害ヲ一身ニ負担シ早稲田大学ニ其煩累ヲ及ボサザルベキ事」という契約事項を盛り込んだ契約書が取り交された。

 こうして、一度は創立者高田早苗の手を離れて学苑の一部局となった出版部は、再び実質的には高田個人の掌中に帰した。契約書第三項に記された通り、「経営ノ為メニ如何ナル損害ヲ蒙ルトモ其損害ヲ一身ニ負担」する責を負わされ、しかも第二項に定められたように「利益アルトキハ毎年其純益金ノ二割ヲ早稲田大学ニ納付スベキ」義務を課せられた。まさに背水の陣頭に立たされたのである。彼は先ず冗費節約の第一歩として匿名組合結成を思い立ち、東京専門学校創立以来の同志に呼びかけて協力を乞うた。これに賛同して馳せ参じたのは、坪内雄蔵市島謙吉大隈信常田原栄田中唯一郎、小久江成一の六名で、これに高田を加え合計七人が最初の組合員になった。明治三十九年十二月十五日のことである。その後明治四十年十二月十三日付で、高田俊雄、種村宗八の二名が組合員に加わったから、明治の末期までは、以上九名が責任を分ち合った。しかし高田が経営の全責任を負っていることには変りがない。といって講義録の会費のみに頼っていては、先細りの懸念がある。そこで、起死回生の一案として予約出版による叢書の刊行を思いついた。予約金を前収すれば、これが運転資金となって、次々に出版することが可能であり、その純利が次の子を育てるわけである。ただ一つ、「早稲田大学」の名にかけても、約束した発行日を一日たりとも遅らせてはならない。期限厳守が出版部の将来を左右する重大問題であったから、高田は特にこの点に留意し、四十年一月から『大日本時代史』全九冊を毎月一冊ずつ発刊することとし、代金前納制を採り、購読申込数に照らして印刷すると明記し、申込期限を定めて市販を避け、資金運用の安定を計った。

 そして約束通り四十年一月から配本を開始し、以後一日として発行日を遅らすことなく、この大部冊の配本を完了することができ、同業界ならびに読者から好評と賛辞とを受けた。本叢書は翌年重版の時に維新史一巻を加えて全十冊とし、更に大正四―五年発刊の訂正増補版では日本古代史および徳川時代史をそれぞれ二冊に分けて全十二巻とし、読者の要望に応えている。

 かくてこの予約出版に成功した高田は、先に単行本として発行した『比較行政法』の翻訳出版が好評であったことを思い出し、これに六つの名著を選んで『経世七大名著』と名付けて出版することにした。すなわち四十一年三月のことで、その後続々と出版された『通俗二十一史』(十二冊)、『倒叙日本史』(十一冊)、『通俗世界全史』(二十冊)、『通俗日本全史』(二十冊)、『漢籍国字解全書』(四十五冊)等の予約出版書は、概ね大正年間に発兌されたものであるが、以上各種の出版物は有力な財政源となり、漸く当事者の愁眉を開かせたのみか、契約に基づく大学への納付金は、大学当局者の頰さえ綻ばす効果を挙げた。すなわち本大学各年度の決算報告書に経常費として繰り入れられた出版部納付金の額は、明治四十年から大正元年に至る六年間に二万一千五百二円余、また臨時納付金は明治四十三年以降三年間に一万一千五百円、累計三万三千二円余に達した。順風満帆と言うべきか。このような財政上の余裕は、久しく中絶していた部員慰労会を再興し、四十二年十二月十一日には上野常盤壇において、四十四年一月十一日には牛込神楽坂常磐亭において出版部主催の会合を開き、深夜に至るまで酒歌放談して歓を尽した。

 さて出版事業には、印刷、製本が不可分の機能である。従来『学報』のような定期刊行物さえ、印刷所が転々と変えられていった。奥付を暼見した範囲だけでも、ジャパンタイムス社→熊田活版所→秀英舎→丸利印刷合資会社と改められている。出版部はその事業の性質上、各種目別に別個の印刷所に発注する方が、能率的でもあり、得策でもある。しかしながら叢書のような大部の刊行物は、終始一貫した作業によって進められなければ、統制が非常に困難である。出版部が予想以上の発展をしつつある時、信頼に足る印刷所を要望するのは当然であり、拡張途上にある大学としてもまた秘かに考慮していたであろう。こうした要求がいつしか実り、大学および校友有志を中核とし、早稲田大学の出版物をはじめ、広く内地および清国人の印刷注文に応じ、兼て活字鋳造、石版製本その他を目的とする資本金五十万円の日清印刷株式会社を設立することになった。

 かくて高田が率いる出版部は、今や装備も新しく、高らかに進軍ラッパを吹き鳴らしながら、匿名組合のマスクを脱ぐ日まで、一路発展の道を歩み続けていったのである。

六 会社創業時代

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 匿名組合時代はおよそ十二年間続いた。この時代は、高田早苗が組合全般の事業に全責任を負った期間であるが、この組合から会社組織に発展を見た重要な動機の一つに早稲田大学騒動なるものがある。それは「校紛」と言い、あるいは「学長問題」と言い、または「早稲田騒動」とも言うが、淵源は第二次大隈内閣成立に端を発する。すなわち大隈内閣が成立したのは大正三年四月十六日であったが、翌年大浦内相の辞任に端を発して閣僚の入替が大幅に行われ、このため文相の椅子が空白になったので、大隈重信は、かねてから意中の人であり、教育に対する経験が十分な高田を起用して入閣せしめんと計った。高田も大隈の要請もだし難く、遂に八月九日辞職届を学苑に提出し、翌十日文部大臣に就任した。そこで八月十四日、学苑は維持員会を開き、天野を学長に、塩沢、田中穂積田中唯一郎を理事に、高田を名誉学長、坪内を名誉教授、市島を名誉理事に推薦した。大隈内閣は必ずしも長命内閣とは言えなかったが、その在職二ヵ年半の間には、内政外交上の幾多の難問題を処理し、また歴史的な即位の大礼も無事に果して、大正五年十月四日に挂冠した。高田は創立三十年式典後、学長の職を辞し、暫く学外にあって静観したい希望を抱いていたが、ままならぬは浮世で、これがまた、高田に対して快く思わない人々に疑心暗鬼を生ぜしむる基となり、遂に世に「早稲田騒動」と言われるもの、すなわち高田派と天野派との確執にまで発展したのである(この争いについては、『早稲田大学百年史』第二巻第五編第十三、十四、十五章「早稲田騒動」に詳しい)。

 この高田、天野の確執は、更に尾鰭がついて出版部のあり方についてまでも波及した。匿名組合結成の時期に、天野がこれに加盟していないことから、高田独善に白い目が向けられ、更に経理専断を非難する声まで起った。高田は抽象的な意見は表明したが弁解がましいことは言わなかった。しかし事は高田個人に限る問題ではなかった。献金を受けている大学側にも、当然批評がなされた。そこで高田は学苑騒動が静まり、校規改正の幹部が選任されたので、大正七年一月、組合会議を開いて株式組織に変更することを定め、主事種村宗八に命じて大学幹部の承認を求めさせた。大学へは勿論のことその功労者たる組合員に利益を頒つのみならず、今や一歩を進めその資本までも組合員に分与させようとしたのが、株式組織の計画であった。けれども時の大学幹部は、校規改正のための過渡期の幹部であったから、根本問題に触れたくないと考え、維持員会に諮るに至らなかった。

 大正七年十月大学の新校規ができて、新幹部が就任し、平沼淑郎が学長に推されたので、高田はまた主事種村宗八に命じて組織変更の件を相談させた。平沼学長、理事および維持員会は株式組織の方を可なりと認めて、大学が最大株主たることに同意したのである。ここにおいて出版部は同月二十九日組合会議を開いて株式組織の議を決し、総資本金十万円の中三万円を大学に提供して最大の株主となす代りに、従前の納付金制度を廃止することに内定し、十二月二日高田より参考書類を添付して組織変更の承認を大学に申請した。

 維持員会はこれを承認可決し、定款と契約書の字句修正は出版部の当局者と協議して決定することを平沼学長および理事田中穂積に一任した。かくして同月十二日に平沼学長と田中理事と種村出版部主事とが協議・決定した結果が、株式会社出版部の定款および早稲田大学と出版部との間の契約書となったのである。契約書は六ヵ条に及び、その要点は次の通りであった。

一、大学ニ於テハ株式会社早稲田大学出版部ノ名称ヲ用ヒテ従来ノ如ク講義録、教科書、一般図書ノ発行販売及ビ其附属事業ヲ営ムヲ会社ニ許ス事

二、大学ニ於テハ校規ノ許ス範囲ニ於テ校外生募集ノ便宜ヲ会社ニ与へ大学ノ名ヲ以テ卒業証修業証、賞状、賞品ヲ授クルコトヲ許シ且ツ卒業者、修業者ノ校内入学ニ際シテハ従来与へ来レル特別ノ便宜ヲ与フル事但シ専門部上級編入試験ハ大正八年マデニ限ル事

 出版部が株式会社になったのは大正七年十二月十九日で、翌八年一月から会社として開業した。会社創立当時の役員は、取締役部長高田早苗、取締役主幹市島謙吉、取締役種村宗八、同高田俊雄、監査役田中唯一郎、同小久江成一で、相談役は初め大隈信常平沼淑郎田中穂積であったが、大正九年に塩沢昌貞が加わって四人になった。また学校直営時代から終始一貫して坪内雄蔵が編集の指導に当り、大正十二年に金子馬治が加わるまでは唯一人で編集顧問の地位を守っていた。

 組合時代から会社創業時代に亘り出版されて好評を博したものは、『経世七大名著』、『沙翁全集』(四十巻)、『通俗二十一史』、『通俗日本全史』、『倒叙日本史』、『通俗世界史』であった。

 講義録は従来政、法、文、中、商の五科目であったが、会社組織になってから高等女学、電気工学、電気工学予備、建築の四講義が加わった。中学講義は大正二年より、また商業講義は大正七年より春秋二回募集の制度であったが、政、法、文の三講義は年一回募集の制であったのを、会社組織となると間もなく、すなわち大正八年の春から、各講義ともすべて毎年春秋二回募集に改めた。ところがその結果は非常に良好で、春秋二回とも大差なき成績を挙げ得ることが判明したので、爾来長い間春秋二回募集の制度を維持した。

 かくの如く出版部の事業が会社組織後急速に発展したので、いくばくもなく資本を増加する必要が起り、大正十年十二月七日総資本金を従前の三倍の三十万円に増加したが、毎期相当の利益を挙げた。

 大正十年十月は出版部創業三十五年に相当するので、その記念祝賀会を盛大に開くことになったが、それに先立ち、出版部員全員、大学職員、小使、職工に至るまでに酒肴料を贈与して、慶びを分ちあった。越えて十月三日、帝国ホテルに学苑幹部、講義録執筆者、出版部関係著述家、旧出版部員、その他出版部関係者および新聞記者等二百余名を招待して祝賀会を開いた。席上高田早苗は立って一場の挨拶を試みたが、長い年月、ひたすら育児の生長を見守り続けてきた育ての親として感慨一しお深いものがあったようである。次いで学校側を代表して平沼学長、来賓側を代表して桑木厳翼博士がそれぞれ祝辞を述べ、主客とも交歓の限りを尽して頗る盛会であった。因に明治十九年の『政学会講義録』に始まる学苑の講義録は、大正十年末の年次報告では、読者数十万九千余、創業以来の累計およそ九十三万に達している。

 大正十二年五月十二日、高田部長が早稲田大学総長に就任して、出版部を監督する位置に立ち、主客が顚倒したため、役員を辞して相談役に回った。この際定款改正が行われたことは言うまでもない。特に注意すべきは、大学との紐帯を固くするため株式の譲渡に制限を加えたことである。すなわち出版部の現在株主は悉く早稲田大学と密接な関係を有する者であるけれども、その株式が転々して大学関係以外の者の手に渡り、遂に株主の多数が大学関係以外の者となった時には、出版部と大学との関係は現在のように円滑にはいかず、創立の本旨に背くことになる。そこで出版部の定款第九条に、株主がその株式を勝手に売買することを禁じて、出版部の承認する者でなければ売渡しができないと規定したのである。要するにこれは株式の大学関係以外の者の手に渡ることを予防した規定に外ならない。特にこの契約においては早稲田大学の功労者、関係者、同情者を選んで新株主とするのを前提として、買受人に必要ある場合にはなるべく直接、または間接に金融の便を図るべきことまでも規定している。

 このように大学関係者と出版部とが唇歯輔車の関係をとり、相互の繁栄が共存を招来したが、また講義録の読者が出版部を支え、その発展に貢献した事実も無視することはできない。特に講義録の読者が山間僻地にまで行き渡っていて、それが大学の声援者となり、大学のためになることもまた看過できない事実である。講義録読者の大多数は、都会に出て高等の専門教育を受けられない境遇の人であるが、昭和の初め大学において大隈老侯記念事業費募集の際これに応じた者の数は約一万の多きに上ったのである。しかもこれは講義録上の記事を読んで自発的に寄附してきたので、勧誘された結果ではない。しかのみならず彼らの中には、各地にあって大学の記念事業費募集事業を応援し、その努力を惜しまぬ者も少なくなかった。校外生中には大学を母校と仰いで衷心からその繁栄を祈っている者の少なくないことは、これらの事実に徴して疑う余地がない。幾十万の早稲田大学渇仰者が各地に散在していることは、大学の一大声援であらねばならぬ。而して彼らと大学との連鎖となるものは、実に出版部発行の講義録である。

 かくして出版部の事業は会社組織後着々として順調の発達を遂げ、約十ヵ年間に亘り好配当率を持続した。けれども出版部の事業もまた経済界の景気・不景気の影響を免れ得ない。その兆候は既に大正十五年頃から顕れ始めて、講義録の校外生は爾来漸減の傾向を辿り、その後発行した電気工学講義、建築講義の如き、最初の募集には相当数の校外生を得られたが、いくばくもなく財界の不況ますます深刻となり、校外生が激減したために、少なくとも一時は困難な状態に陥った。単行本は以前から損益相半ばする有様であったが、その後特に売行が激減した。予約物では昭和二年頃までに募集した『漢藉国字解全書』『日本時代史』『物語日本史大系』『通俗世界全史』等いずれも相当多額の収益を得たが、その後募集のものは、『近世実録全書』『物語支那史大系』など好成績とは言い得ない。

 これより先、高田は中等教科書事業の教育上有益にして事業上有望なるに着目し、これが発行の準備をなさしめつつあったが、昭和五年には五十嵐力編の『純正国語読本』(十冊)、昭和七年には牧野謙次郎編の『模範漢文選』(五冊)を発行し、中等学校教科書として江湖から絶賛を得た。

 出版部の事業内容は以上の通りであるが、設備もこれに伴い長足の発展を成し遂げた。先ず、明治三十九年七月十八日の早稲田大学維持員会の決議に基づいて大学から交付された建築物は、木造二階建百余坪の事務所と、同じく木造二階建五十余坪の倉庫とであった。この中、倉庫の方はその後数回の修繕を加えて今なお使用しているが、事務所の方は昭和二年鉄筋コンクリート三階建の新築事務所が竣成したのでこれを廃棄した。また出版部の事業が着々として発展するとともに、応急策として事務所を増築し、二十坪、三十坪くらいの物置を新築したこともあったが、大正九年には鉄筋コンクリート・ブロックの三階建倉庫、総建坪百二坪余(地下室を除く)を新築して従来の物置を破却した。建築費は二万一千五百余円であった。大正十三年には鉄筋コンクリート・ブロック三階建、総坪数二百八十八坪(地下室を除く)の倉庫、倉庫発送事務取扱所平屋建二十七坪、カード室二階建九坪余を新築した。その総工費は六万二千二百余円であった。続いて大正十五年十月事務所もまた改築に決し、その設計を理工学部教授佐藤功一に依頼した。新事務所は鉄筋コンクリート三階建総坪数三百十六坪余で、その総工費は十一万五千六百六十円余であった。

 なおこの期に属するものとして、たとえその生命が短く、また竜頭蛇尾に終ったとはいえ、代理部の事業について一暼を与える必要があろう。その末路は定かに跡づけることは不可能であるものの、出版部の一事業としてまことに華々しい門出をしたのであった。代理部の創設は大正十一年九月のことであるが、それ以前から校外生の要求により、書籍、文房具等の購入斡旋をしていた。単独の営利事業でなく、いわば校外生確保の便法であったとも言えよう。左は『早稲田学報』第三三二号(大正十一年十月発行)に掲載された記事である。

今回本大学出版部に於て代理部を新設し、日用必需品を奉仕的に販売することとなつた。従来も校外生の需要に応じて書籍其他の代理販売をしてゐたのであるが、今回時代の要求に応じて一層規模を拡張し、特に代理部を分立させたのである。本大学前の広場に在る新式の洋館二階建がそれである。所謂通信販売であるが、世間多数の通信販売とは信用上、非常の相違がある。本代理部は本大学出版部の経営であるから、基礎の鞏固や品物の確実は言ふ迄もなく、品物の仕入なども、本大学に対する信用に由り、外国の大工場から直接に仕入れる便宜がある。而も極めて薄利であるから、他店より廉価に供給出来る訳である。当事者としては、米国其他に在つて斯業に経験深き鈴木富蔵氏、及び顧問として伊東屋の前支配人野島常次郎氏があり、出版部の直接監理する所であるから、校友、学生諸君は十分之を信頼し、大に此機関を利用せられんことを望む。 (一二頁)

その意気込みは盛んなるものがあった。代理部の扱った品目は多種多様であり、初めは主として地方の校友の便宜を計ったものが、後には都市の校友、学生の趣味に合い利益になるような商品さえ加えるに至った。

 かくして大正十二年九月の関東大震災時にも被害はきわめて僅少で、修理回復に要した期間は二週間に過ぎず、講義録の印刷発行にも殆ど支障がなかった。しかし代理部の方は、まだ事業がその緒についたばかりであったのと、販路を地方に拡充したこととが、郵便、交通の延滞等に煩わされ、若干の齟齬を来した。代理部の営業状況を数字で示した何らの資料もないが、せっかく大きな希望を抱いて開始した書籍類の代理販売も、俗に言う餅は餅屋のたとえに洩れず十四年三月老舗丸善の世話にならざるを得なくなり、高田が創業の時厳にいましめた、武士の商法の蹉跌が案外早く現れたようであった。大正十五年十月一日より昭和二年三月三十一日までの第十四回決算書によると、出版部が臨時費として本校自動車購入費の内へ寄附金二千円、演劇博物館建築資金寄附五千円等が出せるほど、相当の純利を挙げているのに反し、立替金として早稲田大学出版部代理部清算人小久江成一に三万四千二百十一円九十一銭を与え、収支計算内訳では代理部出資欠損として六千六百五十円を立てている。

 丸善は大正十四年三月に「今般早稲田大学出版部代理部と特約店の契約致候に就ては向後本店同様御引立の程奉願上候」との広告を『早稲田学報』に掲載し、事実出版部代理部の仕事を代行したが、翌十五年十月二十日これと契約を取り交して建物その他一切を買収した。十一月六日には丸善早稲田出張所と称して丸善株式会社の系列に入り、完全に出版部の手を離れた。

七 会社盛衰時代

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 先に、この代理部の不振を武士の商法と酷評したが、実は必ずしもそうとは言い切れないものがあった。すなわち、早稲田大学出版部の第十三回(自大正十五年四月一日至同年九月三十日)事業報告書の営業の概況には、

講義録ハ従来ノ如ク六種類ヲ継続発行シ、単行書ハ新刊十冊ノ外ニ既出書ノ重版ヲ発行シタレドモ両者トモニ財界ノ打撃ニヨリ日露戦後以来ノ不況ニ陥リタルヲ遺憾トス。

とあり、これを外的事情による不可抗力としていた。出版部が代理部廃止のみに損害を止めたのは、寧ろ不幸中の幸いであったと言えるかもしれなかった。それには早稲田大学という金看板が大いにものを言っていたことは言うまでもなかろう。すなわち代理部の欠損があるに拘らず、大学の校外教育と表裏一体を成す講義録の発行と、ある意味では大学教育を補強する性格を持っていた単行本の発行が、その経営を支え、昭和恐慌末期を迎えた昭和六年三月末の決算期に四百九十五円二十九銭の赤字を出すまでは、経費の削減を計りながらも、何がしかの利益配当を行ってきたのであった。

 ところで代理部を解消し、本来の通信教育・出版業に主力を注ごうとした出版部は、『電気工学講義録』を創刊するため、新しくその掛を置き、原稿作成に取り掛からせ、当初の出版予定であった昭和三年四月を五カ月早め十二月その第一巻を発行した。既に学苑は私学として最も完備した理工学部を持っていたのであるから、今までこの種の講義録が刊行されていなかったのは、不思議なほどであった。その広告文は次のように述べている。

毎年二回に亙つて行はるる逓信省電気主任技術者資格検定試験は、正規に学校を経ざる独学力行の士に取つて唯一斯界に於ける登竜門である。而も……本大学出版部は此の要望に応ぜんが為に、……右受験に必須なる電気工学の主要学科、其他を包含する講義録を発行し以て如上の欠陥を補ひ、併せて工手学校、工業学校程度の学生諸君必読の好参考書たらしめんことを期する。

 これに対し、昭和三年九月には「中等教育の素養がない電気工学講義講修者の予備門と云うべき『電気工学予科講義録』を発行する」こととし、更に昭和四年十月より『建築講義録』を出版して、一般の需要に応えんとした。後者の特色、内容等は、一言にしてこれを言えば、監修者内藤多仲の次の言に尽きるであろう。

広く建築の専門的教育を開放して、多数の技術者を養成せんとすると同時に又汎く一般に建築の専門的知識を普及して、その関心を高めるの挙に出で、今度更に内容の充実を計り、従来の編輯法を捨てて科目制を採用したるは洵に時世の進運に伴へる適切なる企てと信ずる。

この講義録は、内藤とともに、我が国建築界の明星と仰がれた伊東忠太および佐藤功一が協同監修に当り、講師にはそれぞれの専門分野に従い、斯界一流の学者が執筆指導に当った。

 このように講義録の発行に全力を傾倒したから、職員の数も昭和三年度末には、部長四、主任六、編集員十三、書記二十四、書記補十五、その他で合計八十九名の多勢を抱え、これに伴って設備も増大された。例えば三年末における校正室の新設がそれである。講義録の方は既往の各科のものに加えて更に二種を増し、早稲田大学が設立当時より独特の運動を続けてきた校外教育の運動に貢献するところ大であったが、単行本の方は、順時時勢の影響を受けて予期したほどの成績を挙げるに至らなかった。出版部関係書類として残存する「昭和二年十一月以降同三年十二月迄」の『日記』を見ると、二月三日の項では「一、単行書ノ出版ハ前年度ヨリ三割ヲ減ズル事……二、講義録半期ノ広告費ハ前年ノ決算ニ対シ六分ヲ減ズル事……三、単行書籍ノ広告費ハ前半年(三万円)ヨリ一割位ヲ減ズル事」、また九月二十日の項では、「一、校外生ノ状況ガ昨年ニモ一昨年ニモ劣リテ少数ナル事。二、二大漢籍国字解ノ募集状況思ハシカラザル事。三、物語日本史大系、近世実録全書トモ予約者ノ継続思ハシカラザル事」……「有価証券中、浅野セメント旧二百株新四百株、第二新株三百六十株日本石油旧百株、日本活動旧二十株新株二十株ヲ売却シテ負債償却ニ宛ツル事」……「経営ノ前途多難ナルニツキ其対策ヲ講ズベキ事」とある。経営の前途多難なることは十分自覚したので、昭和三年二月三日と九月二十日の両度の役員会は生残り策を協議した。その結果、常時九十名前後の職員を抱えていたのを、人員を逓減し、六年以降では六十名台に整理し、経費の節約を計った。

 この間、講義録の改善や各種中等学校教科書の出版に力を注ぎ、昭和四年十二月十六日には五十嵐力編纂の『純正国語読本』全十巻の検定認可、昭和五年四月五日の、『電気工学予科講義』改題『最新電気講義』第一号の発行、六年一月九日、伊地知純正編纂中学校用教科書『スプリング・リーダー』全五巻の検定認可、同年十二月十六日、牧野謙次郎編纂『模範漢文選』全四巻の検定認可を見た。この外、かねてから好評があり再刊を求められていた『国民の日本史』既刊十二巻は、更に東京時代二巻を加えて十四巻とし、六年九月に購買予約者の募集を行うというように、精力的な活動を展開した。また五年十月から六年三月に至る第二十二回事業年度において初めて四百九十五円の赤字を出し、最悪の苦境に立たされたが、その後の経営合理化によりやや営業成績を挙げたため、三年九月の役員会で問題となった『漢籍国字解全書』正篇十二巻、続篇十五巻、後篇九巻合計三十六巻の出版に踏み切り、昭和七年四月、予約募集を開始した。冒険と言えば冒険であるが、営利を度外視して学問的出版をなすのが、早稲田大学の名を冠した出版部の使命であったから、この企画は当然と言えるかもしれない。しかしまた株式会社である以上は、必ずしも商売を無視するわけにもいかなかった。二兎を追うもののつらさは、この二律背反を敢えて行わなければならなかったのである。すなわち昭和七年九月二十日より向う四十日間、早稲田大学創立五十周年記念図書特売と称し、既往発行の図書の殆ど全部に亘って特価販売を実施した。在庫品整理と言えばそれまでであるが、こうした思い切った営業政策によって得た当期の利益も僅かに二千七百九十円四十銭に過ぎず、前期の利益を合算しても、後期繰越金は六千六百四十八円四十四銭に過ぎなかった。

 そこで、余儀なく最後の切札である減資を行うことになった。八年三月の臨時株主総会は次の如く議決している。

第一 資本減少ノ件

一 当会社資本金三十万円ヲ減少シテ十五万円トナスコト

二 資本減少ノ方法ハ現在五十円払込済ノ株式二株ヲ併合シテ五十円払込済一株トナシ現在株式総数六千株ヲ減少シテ三千株トナスノ方法ニ依ルコト

しかるにその後財産整理の必要に迫られ、十年七月の臨時株主総会は再び減資を議決した。

一 資本減少ノ件

(イ) 当会社ノ資本総額金十五万円ノ内金七万五千円ヲ減少シ以テ繰越欠損金ノ整理ニ充当スルコト

二 法定積立金全額ヲ繰越欠損金ノ整理ニ充当スルノ件

大正七年に組合から脱皮して株式組織に改めた当初の資本金は十万円であったが、それが異常な発展を遂げた結果、三年後の大正十年には、三倍の三十万円に膨れ上った。しかるに世界情勢の影響を受けたとはいえ、昭和八年には半額の十五万円に、更に十年にはそのまた半額の七万五千円に減額され、資本の点からこれを見ても、往年盛時の四分の一に縮小された。この種の事業には不可避の運命とは言いながら、栄枯盛衰の激しいのに、今更哀愁の情を深くするのである。しかもこれが裏付けとなった満州事変以降における我が国の社会情勢は、軍事費の膨張を促し、軍需産業とこれに関連する産業が伸び、景気の回復を招来したが、政府ならびに軍部は果しなき戦争にメドをつけることなく、成算なき太平洋戦争に引きずり込まれていったのであった。

 こういう情勢下において、出版部もそれなりに影響を受け、その業績も左右されたので、今その実態を第三十三回(自昭和十一年六月至同十一月末)事業報告書以下の各報告書中の事業概略について通覧してみよう。

営業ノ概況

最近一般経済界ハ概シテ好転シツツアリト雖モ出版界ハ未ダ活況ヲ呈スルニ至ラズ

翻ツテ我出版部ノ営業状勢ヲ観ルニ講義録ニ於テハ新聞広告、編輯其他事務各般ニ渉ル刷新ハ普及運動ノ拡大強化ト相俟ツテ全国的ニ独学ノ気運ヲ高潮セシメ新入学者ハ異数ノ増加ヲ示シ近年比類ナキ好成績ヲ収メタリ而シテ書籍ニ於テハ今日ノ出版界ノ状勢ニ鑑ミ積極政策ニ出ヅルヲ差控へ重版書ノ販売ヲ主トシ新刊書ハ之ヲ僅少ニ止メ以テ堅実ナル営業方針ニヨリ之マタ相当ノ成績ヲ示シタリ

更ニ教科書ニ於テハ数年前ニ於ケル経済界不況ノ影響タル各中等学校ノ学級数ノ減少ト定価ノ値下トハ今ナヲ其復活ヲ見ルニ至ラズ加フルニ同業者間ノ深刻ナル競争ト古本使用ノ傾向ナド相当考慮スベキ点多々アル現状ナレドモ当部発行ノ各教科書ハ何レモ好評ヲ続ケ居リ之マタ堅実ナル営業方針ノ下ニ鋭意開拓ノ道ニ努メタルヲ以テ一ケ年ヲ通ジテハ稍々収支償フノ成績ヲ挙ゲ得タリ

ここで注意すべきは、業態が正常化し、長い間無配当を続けていたものが第三十三回事業年度から初めて三分の配当を起し、その後多少の起伏があったが、終戦時までこれを続けることができた点である。尤もこれには昭和十一年十二月以降専務理事の椅子についた東清重の功績も忘れてはならないだろう。東清重は、大正五年大学部商科を卒業し、直ちに明治製菓株式会社に入り、のち昭和二年出版部に入社、九年十二月、取締役に就任し、多難なる時代に対処してよく難関を切り抜け、昭和三十二年一月退社した。そこで再びこれについて事業報告書の記載事項を辿り、概況を述べてみよう。

第三十五回(自昭和十二年六月一日至昭和十二年十一月三十日)事業報告書

出版界ハ近来一般国民ノ読書力ノ減退セルト印刷代殊ニ紙価ノ暴騰、日支事変ノ影響等ヲ享ケテ概シテ不振閑散情勢ヲ呈シ居ルモ幸ヒニモ当部ニ於テハ前期同様ノ業績ヲ挙グルコトヲ得タルモ……今回所轄税務署ヨリ……税額追徴ノ通知ヲ受ケ測ラズモ多大ノ追徴税金ヲ納入セシタメ今期利益ハ殆ド皆無トナリシヲ以テ乍遺憾無配当トナスノ已ムナキニ至レリ

講義録ニ付テ看ルニ期半頃迄ハ日支事変ニ因ル精神的動揺ノ為メ継続率極メテ悪ク秋期新入学ノ如キハ前年同期ニ比シ約四割九分ノ減少ヲ来シタルモ其後皇軍ノ連戦連勝、九国会議ノ失敗、蘇ノ態度等諸情勢ガ著シク好化セシタメ期末ニ至リテ継続及新入学共ニ好調ヲ呈セリ

書籍ニ於テハ近来一般国民ノ読書力ガ著シク減退セシコト、日支事変ノ影響ヲ享ケテ一部雑誌事業以外ハ不振深化ノ情勢ナルヲ以テ新刊ハ差控へ……〔タ〕リ

第三十六回(自昭和十二年十二月一日至昭和十三年五月三十一日)事業報告書

我社ハ鋭意合理的経営ニ努メシタメ幸ヒニモ佳良ナル業績ヲ挙クル事ヲ得タリ。之ヲ講義録ニ付テ看ルニ……春期新学期募集ニ於テ……入学数……ハ寧ロ増加ヲ示シ継続ノ如キモ亦好調ヲ呈シ良好ナル成績ヲ挙クル事ヲ得タリ。

書籍ニ於テハ事局ノ影響ヲ受ケ一般ニ出版界ノ状勢ガ香シカラサルヲ以テ……新刊書ハ見合セ居ルヲ以テ業績ハ前期ト大差ナシ。

第四十回(自昭和十四年十二月一日至昭和十五年五月三十一日)事業報告書

当部今期ノ業績ハ日支事変ノ永続ト欧洲大戦ノ急激ナル進展ニトモナヒ統制ハ愈強化シ資材入手難ハ人的不足ト相俟ツテ経営ニ益々困難ヲ生ゼシメタルモ極力合理的経営ニ努メシ為良好ナル業績ヲ挙グル事ヲ得タリ

講義録ニ於テハ校外教育運動ノ拡大強化ニ伴ヒ……入学者ノ非常ナル増加ヲ見過去十数年間ニ未ダ比類ナキ佳良ナル成績ヲ収メタリ

書籍ハ用紙入手難ノタメ新刊ノ発行ハ出来得ル限リ之ヲ繰延シ……タリ

第四十一回(自昭和十五年六月一日至昭和十五年十一月三十日)事業報告書

当部今期ノ業績ヲ見ルニ日支事変勃発以来既ニ満三年ノ年月ヲ経テ聖戦目的完遂ノ為メ諸般ノ経済統制ガ施行セラレコレガ為メ当部ノ生命タル講義録用紙ノ配給ガ著シク減少セシ為メ……次期ヨリハ楽観ヲ許サザル状態ナリ

是ヲ講義録ニツイテ看ルニ近年当部ノ勤労青少年ニ対スル独学普及運動ノ奏功ニヨリ……入学志望者激増シ本年九月十四日現在ニ於ケル志望者ハ前年同期ニ比シ二万二千六百名一割四分ノ増加ヲ来セルモ講義録ノ用紙不十分ノ為メ到底志望者全部ヲ収容シ能ハズ遂ニ十月ヨリ遺憾ナガラ入学ヲ断ルニ至レリ従ツテ……稍良好ナル業績ヲ収メルコトヲ得タリト雖モ次期ヨリハ楽観ヲ許サザルモノアリ

書籍ニ於テモ用紙入手難ノ為メ新刊書ノ発行ハ全然出来ズ

第四十四回(自昭和十六年十二月一日至昭和十七年五月三十一日)事業報告書

当部今期ノ業績ハ前期ニ比シ稍不良ナリ

講義録ニ付テ之ヲ見ルニ日支事変勃発以来勤労青少年ノ向学心ハ著シク旺盛トナリ年々入学者ノ増加ヲ来スニモ拘ラズ講義録ノ生命タル用紙ノ供給量ハ愈々窮屈ニナリ殊ニ今春開講期ヨリ募集人員ヲ制限セラレシタメ入学志望者全部ヲ収容スル能ハズ不得已四月十五日ヲ以テ入学ヲ締切リ……タリ

書籍ニ於テ……ハ高等工学校、工手学校、高等学院等ノ教科書ヲ刊行シタルニ過ギザルモ桑木〔厳翼〕博士著新編哲学概論初版三千部ガ即日売切ノ盛況ヲ見タルト少年国史物語ノ売行良好ナルヨリ佳良ナル業績ヲ挙グルコトヲ得今後漸次新日本文化確立ニ貢献スル優良図書ノ出版ヲ企画ナシ居レリ

 以上一連の事業報告書を見れば、日ごとにつのる第二次世界大戦の窮乏が出版部の業績にいかに大きく作用したかが察知できるであろう。特に用紙割当制実施によるその不足は致命的な打撃で、この苦難をいかに乗り切るかが首脳部の悩みの種であった。十二年度前期の決算では僅かに一千百九十五円余の利益を挙げたものが、後期には一躍二万八千二百六十五円の利益を見て、一割の株主配当を行い一応愁眉を開いた。しかしそれは主として人員削除による経営の合理化によるもので、その好況も長くは続かず十六年度前期における八万六千七十八円余を上昇の限度とし、それ以降は、一路下り坂を辿る悲運をかこたなければならなかった。しかも外的な悪条件は「入るを計って出ずるを制する」初歩的な経済原則をさえ変更せしめ、遂には入るを制するのやむなきに至った。すなわち校外生の入学制限を行ったのがそれであった。

 そして遂に来るものが来た。一億防衛の決心も空しく、二十年三月九日の夜半から十日の未明にかけて米軍B29が大挙来攻して東京大空襲を敢行し、焼失家屋二十三万戸、死傷者十二万を算する惨事を現出した。この時いわゆる四大印刷会社もまたその厄に遇い、出版部御用の大日本印刷もそのため烏有に帰した。第五十回(自昭和十九年十二月一日至昭和二十年五月三十一日)事業報告書は、「醜翼ノ空襲ノタメ」「印刷能力ガ低下」した結果、事業が全く不振に至ったけれども、「極度ニ経費節約ヲ計リ五分ノ利益配当ヲナスコトヲ得タ」状態を報告している。

 かくして他の平和産業と等しく、苛酷な桎梏の下にあえぎながらも、明日の日あるを所期しつつ、荊棘の道を歩んだが、遂に終戦の日を迎えて、事業の一時中絶をやむなくせしめられた。しかしそれにも拘らず、動員令の社員徴発による人員逓減や経費節約で予期以上の成績を挙げたのは、必ずしも事業報告に言う自画自賛ではなかったろう。

八 会社再興時代

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 終戦と同時に、軍需生産の解体とともに労働者の首切りが始まったため、十月初めには四百万人の失業者が国内に溢れ、加うるに軍隊からの復員、外地からの引揚げ者等で、およそ一千万人の人々が職を失った。しかも食糧不足は最も深刻で、国民は食糧獲得に東奔西走した。

 当出版部の第五十一回事業報告書は終戦を挟んで行われたもので、期間としては二十年六月一日から十一月三十日までのものである。本学苑はこの年三月九日の帝都絨毯爆撃に際し幸いにも被害を免れたが、五月二十五日の襲撃にはおよそ三分の一の建物が罹災している。しかし当出版部の建物は学苑とは道を隔てて建てられていたから、総延坪六百七十坪八七は何らの被害を受けなかった。ただ前期に引続き開店休業のままで、今期の事業報告書の記事も簡単であり、「空襲の激化と印刷所の罹災の為、講義録、書籍の発行困難となる人員を整理して経費の節約を計る」とのみ記載されている。因に報告書には部員の数が十五名となっているが、当出版部保管の社員名簿によると、当時在職していた部員は左の十二名である。

竹下宗之 竹内真正 田中清一 小内正次 宮内豊 関口七郎 田口朝子 柳下数江

三浦高久 荻原益次 小倉長之 中島直吉

この他役員として専務東清重、取締役吉田秀人、監査役前島勘一郎、顧問大隈信常の名が記されている。なお事業不振とはいえ、半期の利益として二千三十九円二銭を上げている。

 さて、連合国に降伏した我が国を統治するため占領軍は横浜に司令部を置いて直接統治にかかった。GHQが実際の活動に入ったのは、十月四日の政治的、民事的、宗教的自由に対する覚書の手交に始まる。

 しかしこれに先立ち、文部省は九月十五日に「新日本建設ノ教育方針」を発表した。その要点を摘記すると、初めに㈠新教育の方針を述べ、これに続き、㈡教育の体勢、㈢教科書、㈣教職員に対する措置、㈤学徒に対する措置、㈥科学教育、㈦社会教育、㈧青少年団体、㈨宗教、㈩体育、(十一)文部省機構の改革等につき、その大綱を記している。このうち特に出版部の事業に関係あるものは、㈦社会教育の項で、これに示された全文は左の通りである。

国民道徳ノ昂揚ト国民教養ノ向上ハ新日本建設ノ根底ヲナスモノデアルノデ成人教育、勤労者教育、家庭教育、図書館、博物館等社会教育ノ全般ニ亘リ之ガ振作ヲ図ルト共ニ美術、音楽、映画、演劇、出版等国民文化ノ興隆ニ付具体案ヲ計画中デアルガ差当リ最近ノ機会ニ於テ美術展覧会等ヲ盛ニ開催シタキ意嚮デアル

 GHQは引続いて日本教育制度に対する管理政策について指令を出し、また印刷許可のない教科書の製造を禁止した。これら一連の指令により出版部の事業の大半は停止し、第五十二回事業報告では、「ポツダム宣言受諾により講義録発行の打切」を伝えている。尤もポツダム宣言受諾の如何に拘らず、印刷用紙の不足は講義録発行に致命的な障害を与え、出版部の事業に支障を来したことが、大きな原因となった。それにしてもこの支障は案外早く解決され、同年十一月、政府は新聞出版用紙割当委員会を設置し、一年後には日本出版協会の公的存在を確認し、用紙割当委員会を内閣所管とし、必要なる印刷物に対する用紙の割当を行った。従って二十一年下半期においては、辛うじて植田清次著『現代西洋哲学』、桑木厳翼著『哲学要義』『西洋哲学史概要』の三冊を出版することができた。

 GHQは、二十年十二月、修身、日本歴史、および地理に関する教科書の回収に関する覚書を出し、その授業の停止を指令した。このことは先に掲げた「講義録発行の打切」を決意せしめた主因になったが、しかし二十一年六月および十月の地理科ならびに歴史科授業の再開に救われ、中学科および女学科講義録を継続発行している。ただし用紙不足のため、新入生募集には制限を加えざるを得なかった。

 さて、三月五日にGHQの要請により来日したアメリカ教育使節団の示唆により、文部省は通信教育制度の実施を取り上げ、二十二年十月二十九日に「中学校通信教育規程」を公布し、翌二十三年一月七日に中等程度通信教育実施について通達した。これは、これまで出版部が実施していた諸講義録に代る重要なものであったから、ここにその要項を掲げておく。

六・三制義務教育の実施とともにこれと並んで更に教育の民主化機会均等の実を挙げるため、現在各方面より要望されている通信教育実施については、本省において昨年より種々考慮中であったが、愈々本年度より別紙実施要項により中等程度通信教育を実施することになったからこれが実施準備方につき至急御手配煩わしたく、右通達する。

中等程度通信教育実施要項

中等程度通信教育実施の趣旨 本年度より新に設けられる中等程度通信教育制度は……当分の間新制中学校及び恒久的に新制高等学校程度の教育を受ける機会を与えようとするものである。……各所定の課程を修了し試験に合格した者に対しては通信教育各コース修了の認定を与える、教科課程は新制中学校及び新制高等学校のそれに準ずる新制高等学校程度の通信教育によって得られるクレディットは、新制高等学校卒業資格の一部をなすことが出来る。

 こうした画期的な文部省令の発令により、当出版部もこれに対処するため態勢を刷新し、役員の改正を行って取締役に前島勘一郎と吉田秀人を起用し、部員数も二十六名に増員した。しかしこの期および次期の事業報告は、「講義録はインフレの急激なる昂進により購買力減少してやや不良」「商業講義及女学講義は募集予定数僅少のため予定数に達したるも、中学講義はこれに達せず」と報じて、事業の不振をかこっているが、それでも良書の刊行によってこの欠を補い、十七万二千九百六円余の利益を挙げた。

 このように出版部本来の事業である講義録の刊行が不振を極めている時、二十三年二月文部省は新制高等学校実施に関する件を通達し、同年四月一日から新制高校が発足した。しかも五月二十日には矢継ぎ早に、文部省令第五号により「高等学校通信教育規程」を公布している。これは、二十四年に出版部が企画発刊した「高等学校講義録」の気運を促進せしめるに関係がある重要な規程であった。この企画に対する出版部の肩の入れ方には並々ならぬものがあった。昭和三十一年に発行された『早稲田大学通信教育の概要』と題する手引には左の如き記載が見られる。

高等学校科について

中等教育の総仕上げ 今の高校教育は中等教育の一部をなすものである。……従って今の高校は名は高校でも、その精神からいえば上級中学というべきもので、本来ならここまで義務教育とすべきものなのである。……

中堅層の育成が目的 学校教育法にも「新制高校は中学に於ける教育の成果を発展拡充させて国家及び社会の有為な形成者としての必要な資質を養う」とある。今の高校では数学とか理科とかいう普通学科のほかに、職業的な専門学科もいくつか授けるが、之もやはり社会の中堅層を育成するのが目的である。

 こうして二十四年四月より発行された講義録の評判はきわめて良好で、募集開始当初から入学数が予期以上の成績を挙げ、二十六年三月末日現在の入学数は、前年の同期に比べると、約一千名の増加で、書籍の売行の不調にも拘らず、第六十二回事業報告の半期の決算では七十一万七千三百九十九円の純益を挙げている。しかし同年六月二十五日朝鮮戦争が始まり、我が国がその軍需工場化して、いわゆる「神武景気」という景気回復に向ったが、出版部の事業は反って不況に陥り、講義録の入学率は漸減の道を辿り、これに加えて継続率も低下し、反面用紙の暴騰、郵便料金の引上げ等により収益率も減少していった。更に、これを支える書籍の刊行も殆ど途絶え、僅かに採用教科書や指定参考書類の出版、良書の重版等で糊塗する有様であった。

 そこで業態の根本的な改革に迫られた出版部は、二十六年十二月、先ず役員の改造を行い、東清重の専務については異動がなかったが、新たに大島正一、河竹繁俊を取締役に、大浜信泉、前島勘一郎を監査役に任命し、講義録学費の引上げを行って増収を計るとともに、そのPRに専念した。第六十五回の事業報告は、従来の簡単な記述を廃し、その努力を次の如く詳細に記している。

講義録に於ては、早稲田大学が今秋創立七十周年を迎へ、祝典を挙げるので、出版部に於ても月刊紙早稲田春秋並に規則書等に於て、学園の校友及び学生の父兄以外の一般大衆に対して、此記念祝典を知らしめることによって、燦として輝ける学園の歴史と伝統を認識せしめる一大PR運動を起す一方、在学者及び十月三十日迄に学費三ヵ月分を前納する新入学生に対し、記念品として大隈講堂をあしらった美麗な模様のビニールの風呂敷を贈呈して、継続の良好化及び新入学の増加を計ったが所期の目的は果せなかった。

このようにして極力売上高の増加を計ったため、前期よりもやや良好な成績を納めたが、相次ぐ広告費の値上げに収益が圧迫され、更に、利用すべき残本が皆無となり、毎号新たに印刷製本を余儀なくされたため、今期には四十三万一千六百九円余の赤字を出すに至った。加えて、こうした業態不振は、先に述べたような、都道府県の高等学校で施行した「高等学校通信教育」が漸次完備・普及したことにも影響されて入学率の低下を招いた結果であるとも言えるであろう。また書籍について見ても、これまで当出版部刊行物の主軸であった学術研究書等の売行が悪くなり、これに代って通俗的な娯楽ものや、小説類が多く読まれるようになったことにも基因する。

 さて朝鮮戦争のため神武景気を謳歌した日本の経済も、二十八年七月の休戦協定により、米国からの特需が失われ、大きな曲り角に立たされた。これまで特需によって支えられてきた好景気が、急激に下向きになり、恐慌に落ち込む恐れがあり、事実二十八年後半には景気は漸次下向きとなっていった。このため、これまで農村地方の青少年を対象としていた講義録の購読者数は激減し、この期の決算でも六十三万六千円余の欠損を出した。しかし書籍部内では、北沢新次郎著『資本主義、民主主義、共産主義』他五点の早稲田選書や、中島正信著『英語貿易通信文入門』、石田文次郎著『債権各論』他四点を出版した。

 講義録の不振はその後も続き、遂に三十二年、代表取締役に磯部愉一郎、取締役に市川繁弥および上坂酉蔵、監査役に黒田善太郎の四名を選んで役員の全面的変更を行い、講義録購読者の募集打ち切りを決定した。これに伴い使用人の数も減じて九名に止めたから、この期では慰労金、退職手当金支給のため三百八十余万円の欠損になっている。しかしこれでも業態を改革できなかったから、三十二年四月二十五日、早稲田大学と土地および建物の賃貸契約を結び、鉄筋コンクリート事務所延建坪三百十六坪八七の中三十三坪(現出版部)を残して二百八十三坪八七(現診療所)を、倉庫二百十六坪中七十二坪を残して百四十四坪を、大学に貸与した。また鉄筋コンクリート・ブロック造三階建倉庫九十六坪を大学へ譲渡したのもこの時期で、この結果新たに増築した倉庫延四十七坪二八を加えて、延建坪八十坪余となり、初期の建築物のおよそ一二パーセントに縮小された。

 かくて画期的な改革を行い、主力を書籍の出版に注ぎ、最も好評であった『債権各論』『経済学要論』『民法総則』他十一点の重版を刊行し、また平沼淑郎遺著・入交好脩編『近世寺院門前町の研究』および大野実之助著『唐詩の鑑賞』続篇を発刊した結果、第七十五、七十六回を通じておよそ三百六十五万円余の純益を挙げた。しかし、出版部、否大学にとってまことに遺憾とするところは、創業以来七十二年の歴史を持つ講義録発行が三十三年三月を以て廃止されたことであった。

 講義録発行を断念した出版部は、三十三年新たに出版界の新鋭渡部良吉を取締役に加えて、書籍刊行に重点を置いたため、第七十七回より一割の株主配当を行うことができ、八名の部員をフルに活動せしめて、新刊、重版合せて年間十四、五点の書籍を刊行した。また第八十九回の事業年度から、毎年二回の決算期を年一回に改め、四十九年五月の決算期には、学術振興のため百万円を大学に寄附し、翌五十年五月の決算期には、学術書出版助成金として二百万円を大学に寄附した上、純益を繰越金に累加した。

 出版部本来の事業である講義録の発行を失った上は、著書出版に専念しなければならなくなった。都内の多くの大学は出版部を設け、その大学の教授達の著作を学内に、または広く学外にまで売り出して、好学学徒の需要を満たしていた。我が出版部はこれと競うわけではなかったが、学苑では社会的にも有名な多数の学徒が他を稗益する研究を行っていたから、その著作の刊行は難事ではなかった。昭和五十六年と五十七年に刊行された新刊書の中から、著(編)書を取り出して列挙すると次の如くである。

早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年史』(二)、同編『小野梓全集』(四)、早稲田大学社会科学研究所日本近代思想部会編『近代日本と早稲田の思想群像』(一)、虫明竌・行安茂編『綱島梁川の生涯と思想』、木村時夫著『黒船の衝撃』、同著『維新をめぐる人々』、白鳥令編『現代政治学の理論』(上)、大沢勝・高木修二編『日本の大学教育』、大槻宏樹著『自己教育論の系譜と構造』、葛城照三著『一九八一年版英文積荷保険証券論』、太田正樹著『航空輸送の経済学』、川田侃・西川潤編『太平洋地域協力の展望』、杉本つとむ著『江戸時代蘭語学の成立とその展開』(Ⅳ)、同編『江戸時代翻訳日本語辞典』、富田仁著『永遠のジャポン』、本明寛著『進歩の時代を生きる』〈以上昭和五十六年刊〉

早稲田大学大学史編集所編『小野梓全集』(五)、難波田春夫著作集刊行会編『難波田春夫著作集』(全十巻・別巻一)、早稲田大学哲学会著作刊行会編『岩崎勉ギリシア哲学思想史』(上・下)、早稲田大学社会科学研究所北欧部会編『北欧デモクラシー』、白鳥令編『現代政治学の理論』(下)、佐藤慶幸著『アソシエーションの社会学』、有吉広介・浜口晴彦編『日本の新中間層』、角本良平著『モビリティと日本』、渋谷隆一・鈴木亀二・石山昭次郎著『日本の質屋』、津本信博著『更級日記の研究』、今井卓爾著『古典近代文学とその環境』、杉本つとむ著『江戸時代蘭語学の成立とその展開』(Ⅴ)、永井道雄著『早稲田の杜』、子安美知子著『西欧の親子関係』、加藤諦三著『現代若者の心理と行動』〈以上昭和五十七年刊〉

これに対し五十年度第百回(自昭和五十年六月一日至昭和五十一年五月三十一日)営業報告では、九千九百万円の売上げ高を計上し、三十九万七千円の利益を得、年一割の配当を行った。以後五十五年度に至るまでこの配当率を堅持して、経済の堅実化を誇ることができた。また売上げ高は五十一年度には一億一千万円台に乗せ、五十五年度には一億五千万円台を記録した。

 かくて出版部は大学に遅れること四年、今や九十六年を迎え、今後の飛躍発展は江湖の期待するところ多大なものがあるのである。 (執筆 中西敬二郎)