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第五編 その他

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第二章 校友会

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一 校友会の設立

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 早稲田大学校友会は明治十八年十二月十三日に誕生した。

 早稲田大学の前身東京専門学校が明治十五年に創設され、早くも十七年には第一回の得業生十一人(後の名簿は追加卒業一人が加えられ、十二人となっている)を世に送り、翌十八年には得業生六十七人を出した。

 そこで、卒業生が互いに親しみを深めるとともに、母校との関係を密にし、母校の将来の発展を期するために、校友会の設立が考えられるようになった。企ての中心にあったのは、東京専門学校議員島田三郎、講師高田早苗田原栄、明治十七年邦語政治科卒業の楢崎俊夫(後に山沢)、十八年同科卒業の田中松三郎、十八年邦語法律科卒業の黒川九馬らで、十八年十二月十三日に東京麴町区富士見町の富士見軒において校友会発足の会合を開いた。

校友会 東京専門学校にては同校と得業生との関係を一層親密ならしめんが為めに校友会なる者を組織し去十三日午後三時富士見軒に於て其発会を開く当日の来会者は同校の教員并に得業生五十余名にして高田早苗氏が発会の趣旨を述べ尋て宴会を開き酒盃の間には前島密島田三郎田原栄市島謙吉諸氏を始め得業生十数名の席上演説あり同八時頃一同歓を尽して解散せしと(『郵便報知新聞』明治十八年十二月十五日発行 二面雑報)

 この日、大隈英麿校長を会長に、田原栄、楢崎俊夫、田中松三郎、黒川九馬の四人を幹事に選出し、左の校友会規約を定めた。

校友会規約

第一条 本会ハ東京専門学校及同校得業生間ノ関係ヲ密ニシ併セテ会員相互ノ親睦ヲ目的トスルモノニシテ名ケテ校友会ト云フ

第二条 本会々員ハ東京専門学校職員并ニ得業生ヲ以テ組織ス

第三条 第一条ノ目的ヲ達センカ為メ三ケ月毎ニ会合ヲ開ク

第四条 本会ハ会長一名幹事四名ヲ置キ会長ハ校長ニ嘱托シ幹事ハ講師中ヨリ一名得業生中ヨリ三名ヲ撰挙ス

但シ幹事ノ任期ハ一ケ年トス

第五条 幹事ハ左ノ事務ヲ執行ス可シ

一 開会ノ報告

一 東京専門学校ノ近状及本会事務ノ報告

一 地方会員ヘノ通信

一 毎年秋季ニ会員名簿ヲ調製シテ全会員ニ頒ツ事

一 会計事務

一 会誌編成

第六条 会員中東京専門学校ニ対シ意見アル者ハ之ヲ提出シテ衆員ニ質シ若シ多数ノ賛成ヲ得ル時ハ本会ノ名ヲ以テ東京専門学校ニ建議スルコトヲ得

第七条 会員ハ東京専門学校ニ対シ応分ノ力ヲ尽ス可シ

第八条 会員中本会ノ名誉ヲ毀損スルカ如キ所為アル者ハ本会ノ決議ニ由テ退会セシム可シ

第九条 会員転居等ノ節ハ其旨幹事ニ通知ス可シ

(『中央学術雑誌』明治十八年十二月二十五日発行 第二〇号 三二頁)

 かくして明治十九年四月に校友会の小会合、十二月には大会を開いたが、その間の事情について「校友会沿革」(明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』巻頭に校友会規約と併載)に次のように記されている。

翌十九年四月四日午後一時雉子橋大隈邸内に於て校友会小会合を催す当日来会者三十三名黒川九馬氏幹事総代として諸報告を為し次て法学部に付ての建議等二三の建議案を議し終て茶菓を喫し談笑数時に渉り同五時過き一同解散したり当日は恰も春日麗かにして邸園の桜花も已に半開に達し殊の外興味を添えたりき

同年十二月十二日午後三時富士見軒に於て大会を開く幹事山沢俊夫氏先つ立て本年四月以来の報告を為し次て従来の得業生に特別監督後の得業生と同等の資格を与えられんことを学校より文部省へ請願されたしとの黒川九馬氏の建議等一二の議案を議決し且つ幹事改撰の期なるを以て投票を促したる処従来の幹事の指名に任かすとのことに決し即ち指命に由りて田原栄、山沢俊夫、小川義春、伊藤幹の諸氏に嘱托す是に於て盛莚を張り席上前島密岡山兼吉、関直彦、田原栄坪内雄蔵小川為次郎、黒川九馬、瀬川光行諸氏の演説あり十時頃一同散会したり当日の来会者は五十余名なりし又当日の会合には本会の規約并に会員名簿を印刷に附して会員に頒布したり

 『会員名簿』は毎年十二月に発刊されるようになり、明治年代は『中央学術雑誌』号外、『東京専門学校年報』付録、『早稲田学報』(明治三十年三月創刊・発行所早稲田学会、明治四十二年校友会発行となる)臨時増刊号、また講義録の別冊といった便法もとられていた(昭和に入っても科別五十音順の『名簿別冊』が数回、『早稲田学報』臨時増刊として刊行されている)。名簿は昭和十八年八月に発行後、戦争のため二十六年十二月まで途絶えた。以後は三、四年ごとに刊行してきたが、四十四年度版を出したあとは、母校創立百周年記念の五十六年度版まで中断、六十年十二月に校友会設立百周年を記念して発刊することになっている。

 なお、『早稲田学報』の創刊来、校友会活動の記録は同誌によるところが多いが、明治三十八年の名簿まで、その巻頭に「校友会沿革」として、創設以後の大会の様子等が順を追って掲載されている(三十年以降はその年度の大会のみ)。また、二次にわたる『中央学術雑誌』『専門学会雑誌』『同攻会雑誌』『中央時論』等に校友会記事がある。

二 校友会大会の開催

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 明治二十年六月二十六日、富士見軒で催した大会において、小会を廃し、大会を年二回、一月と七月に開くことを決めた。以後明治末年までの大会開催日は次の通りである。

二十一年 一月二十八日/七月二十二日 二十二年 二月十一日/七月二十一日

二十三年 一月二十一日/七月二十一日 二十四年 一月二十五日/七月二十一日

二十五年 一月十七日/十月二十日 二十六年 一月三十日/七月十六日

二十七年 一月二十八日/七月二十一日 二十八年 一月二十七日/七月二十一日

二十九年 二月十六日/七月二十一日 三十年 二月二十八日/七月二十一日

三十一年 一月二十九日/七月二十一日 三十二年 一月三十日/七月十六日

三十三年 一月三十日/七月十六日 三十四年 一月三十日/七月十六日

三十五年 一月三十日/七月十六日 三十六年 一月三十日/七月十六日

三十七年 一月三十一日/七月十六日 三十八年 一月十五日/七月十六日

三十九年 一月三十日/七月十六日 四十年 一月三十日/七月六日

四十一年 一月三十日/七月六日 四十二年 一月三十日/七月六日

四十三年 一月三十日/七月六日 四十四年 一月三十日/七月六日

四十五年 一月三十一日/七月六日

 会場は富士見軒のほかに江東中村楼、上野松源楼、上野桜雲台、神田錦輝館、牛込吉熊楼、三十一年以降は芝紅葉館が多く、帝国ホテルや精養軒(築地、上野)も使っていた。明治三十八年春の大会は高等予科教室を使用した。

 校友会大会には国会議員当選者、高等官、弁護士試験合格者、洋行者、帰朝者、あるいは上京校友などを時々に招待し、七月の大会は卒業式の後とし、新卒業生もすぐに参加できた。

 明治四十五年一月の大会の招待者を一例として左に挙げる。

総長 大隈伯爵

校賓 竹内綱

基金管理委員長 渋沢男爵

基金管理委員 中野武営

理工科商議員 竹内明太郎

評議員 町田忠治

海外留学生 中島半次郎

校友代議士 松本恒之助

同 関和知

同 鈴木寅彦

同 森田勇次郎

同 日向輝武

清国ヨリ帰朝 柏原文太郎

福井県ヨリ上京 三田村甚三郎

新潟ヨリ上京 斎藤康造

鳥取県ヨリ上京 菊地茂

大阪ヨリ上京 山本知士

米国ヨリ上京 生方貞一

青森ヨリ上京 北上一郎

(『早稲田学報』明治四十五年三月十日発行第二〇五号 八頁)

 大会では幹事総代による学校の近況報告、来賓挨拶、幹事の選挙等、会の運営に関することを処理し、酒宴に移ってからは数氏が演説したが、時には変った趣向になった。

……酒間坪内雄蔵氏起て満場に謀て曰く相互の親睦を厚ふせんが為各自互に履歴の大要を述べては如何と一同賛成を表して曰く請ふ隗より始めよと依て坪内氏先づ自己の来歴を陳べ之に次て席の左端より順次週演す滑稽諧謔交々起り喝采の声堂を撼す夫より予て準備し置ける福引を催ふし満場更に一段の興に入り夜十時散会す

(明治二十五年一月春季大会・明治二十九年度『東京専門学校年報』)

 定例のほかに臨時校友会も内外の事情に応じて開催した。

 明治二十一年十二月十五日、浅草鷗遊館において、前島会長の逓信次官栄任を祝す臨時校友会。

 二十五年十月八日、築土松風楼において臨時校友会。母校創立十周年に祝意を表する方法を協議し、全国の得業生より義捐金を募集して図書館拡張の資金に充てる計画を立て、委員五人を選出。来会者二十余人。

 二十七年八月七日の臨時校友大会では校友会名義で日清戦争の外征軍隊のために物品を贈ることを決め、各地の校友から義捐金を集め、手拭五千本を献納。来会者四十人余。

 二十八年一月三日、玉川亭において臨時校友会。一日に亡くなった大隈重信母堂三井子の葬儀のために、

一、会員中、評議員、講師は金一円、得業生は金五十銭を出すこと、ただし有志者のみに限る

一、放鳥、供餅、色旗を送ること

一、校友は徒歩にて会葬すること、および会長指名による校友会葬儀委員十三人

を決定、来会者三十余人。

 明治四十年四月三十日、芝公園紅葉館において、大隈総長、高田学長、鳩山前校長の送迎会を兼ねた臨時校友会。来会者百七十余人。

 明治二十五年は十月二十日に大会を開いているが、これは七月の大会を母校創立十周年記念祝典に合せるために繰り下げたもので、以後も、母校の折目、節目の慶事のあるときは記念の大会を開いている。

 三十五年十月二十日、早稲田大学開校式ならびに東京専門学校創立二十周年記念祝賀会に合せて、帝国ホテルにおいて全国校友大会を開き、三百余人が出席した。

 四十五年は十月に母校創立三十周年の祝典が予定され、校友会としても準備委員を選出し、大学の委員と一致協力して式典を盛り上げることにしていたが、明治天皇の崩御により諒闇中のため、記念式典の挙行は翌年に延期された。

 明治二十九年十一月二十三日、午後一時より大隈邸園内において例規小会を兼ねて観菊会が開かれ、大隈の演説があった。以降、この会は続けて開かれるようになり、大隈の演説も通例のことになった。このころより大隈は校友大会にも出席し、一場の演説を行うようになった。大隈邸の校友観菊会は四十二年から秋季大会と記している。

 明治二十六年ごろからは臨時会のほかに大会の準備や名簿の作成、その他会の運営に関して幹事会をもつようになった。

 明治二十二年二月十一日の明治憲法発布の当日、これを記念する大会(校友会の沿革を記した名簿には「臨時校友会」とある)を開催、大津事件に対する反応(本書第一巻第三編第十二章参照)など、校友会の活動は当時の社会情勢とも深く関わっていた。

三 組織・財政・事業

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 校友会規則により、大隈英麿前島密鳩山和夫が歴代会長をつとめてきたが、明治四十年、校長制を廃し、総長、学長制が施行されることになり、高田早苗学長が会長に就任した。

 明治二十六年七月の大会において、幹事の選出方法を「各学年校友中より一名宛講師又は幹事〔学校の〕の中より一名を選挙し更に互選を以て常務委員五名を挙ぐること」に改め、同月末の臨時会で新幹事を発表した(明治三十七年からは教職員中より三名選出)。幹事、評議員の選出は例年七月の大会で行われた。

 明治二十三年、校友中より東京専門学校評議員(現商議員)二人を選出することになり、七月の大会で黒川九馬、山沢俊夫の就任が決まった(任期二年、例年半数を選任)。翌年には二人増員となり、三十年には七人、三十五年十二人、さらに三十七年の校友会規則改正時には二十人が選挙されることになった。また、三十二年に五十人以上の会員を有する地方校友会は評議員を一人選出(ただし一府県に一人)できるようになった(四十四年には二百人以上の会員を有する地方校友会は評議員二人を選出することが可能になった)。

 こうして校友と母校との緊密の度は強固なものになっていった。

 明治二十五年の母校創立十周年の記念大会では「但し得業生に非ずと雖も一旦本校に学籍を有し爾後学識若くは名望等に於て著しき成蹟ある者は会員二十名以上の連署を以て会員に加えんことを本会に提出し本会大会の承諾を経て会員たるを得」という推選校友の制度を設け、会員の枠を拡大した。さらに翌二十六年には、講義録の送付を受けて勉学した人たちに対する「東京専門学校校外生にして校外生試験に及第したる者を以て準校友とす、但し校友会の是認したる試験法に依り受験及第したる者に限る、準校友は校友会に列することを得、但し本会の決議に加わり又は本会より選出する本校評議員及本会幹事たることを得ず」という準校友の制度を設けた(校外生については第一巻第二編第十五章および第三編第十一章参照)。

 明治四十三年、会則の推選校友の項を改正し、早稲田大学に学籍を有した者のほかに、早稲田中学校、早稲田実業学校に学籍を有した者、ならびに講義録によって勉強し準校友となった者も、幹事会の選考を経、大会の決議によって推選校友になることができるようになった。

 明治三十一年の春季大会において、毎年作成する名簿の印刷費の中へ、会員より五十銭以上一円までの程度の寄付をすることを決めたが、翌年の春季大会の席上、校友会の財政基盤を確立するために全会員から「毎年五十銭以上二円以下」の維持費を徴収することを決議した。その後、三十六年七月の大会で「毎年一円以上」、三十九年一月に「毎年二円以上」を拠出することに改めた。

 大会等はその都度、会費を徴していたようで、明治四十二年一月の富士見軒における校友大会の会費は二円五十銭とある。

 明治二十一年一月の大会で「毎月第二日曜日に学校において校友学術演説会を開くことにし、その費用を学校より支出されるよう請願する」ことを決めた。

 この件については三月に幹事連名による建白書を提出し、その許可を得、五月十三日に発会した。この日は黒川九馬、平田卓爾、呉文聡が得意の弁をふるった。十月十四日には高田早苗(「英辞学の必要を論ず」)、上遠野富之助(「日本貿易論」)、高木守三郎(「モッセ氏の国家論を読む」)が、十一月十一日には川田水穂、降旗元太郎が演説した。

 校友会の発議によって校友学術演説会が開かれ、二十六年夏から学校主催の「地方巡回講話」が始まったが、これらは学校と校友の連携による草創期の高揚を示すものであった。

 巡回講話に協力した各地の校友には謝状が贈られた。巡回講話は日清戦争の影響もあって四年ほどうまくいかなかったが、その後、地方校友から要請が相次ぎ活発に行われた。

 学苑は十周年、二十周年と祝典を挙げ、節目を固めながら幾多の困難を越え発展を遂げるが、明治三十五年、二十周年を迎えて早稲田大学と改称、これに従い東京専門学校校友会も早稲田大学校友会と改めた。

 明治三十五年七月の大会において、十月の早稲田大学開校式、創立二十周年記念祝賀会に併せて全国校友大会を催すことを決め、会長指名により準備委員十五人を選出することにした。

 同年九月九日、準備委員は校友会幹事とともに会合を催し、左の事項を決め、各項について専任の委員を置き、計画の実行を期した。

一、十月十九日(日曜)本校々内に於て式を挙げ、式後大隈伯邸園に於て一大園遊会を開き、夜に入り学生講師校友等一団となり提灯行列にて市内の要衝を練り歩き、二重門外に到り万歳を三呼して解散すること

一、二十日二十一日の両日午後一時より本校に於て、校友紀念学術大演説会を催すこと

一、二十日午後五時より帝国ホテルに於て校友相集まり大祝宴会を開くこと

一、本校創立者大隈伯、創立以来教鞭を執られたる高田、天野、坪内の三講師及び現任校長鳩山氏、前校長大隈、前島二氏等に校友会より紀念肖像(油絵)を贈り、其他同校に功労ありし人々へ謝状を呈すること

一、五種の意匠より成る紀念葉書を調製し、式場に於て来賓に頒布のこと

一、紀念の為め学校の沿革実況等を詳録したる冊子を編纂発行すること

 明治二十八年から卒業式において校友会の代表が祝辞を述べることになり、この年は山沢俊夫が行った。以後は幹事会において校友総代を卒業年度の順に選んだ。

 先に記したように母校創立十周年の際には、校友より図書館拡張資金を募集しているが、明治三十四年一月の大会において、高田早苗学監が早稲田大学開校を期に拡張基本金三十万円を募集し、五万円を建築費に二十五万円を利殖を図って校費の補充としたいと、学苑飛躍の構想を述べ、大隈も私立学校が国家に必要なこと、私立学校の国家に貢献した功績を例証し、学苑経営の惨憺たる過去を語り、満場、熱誠をもって拡張基本金募集を行うことを決め、前島密評議員を募集委員長に、校友会幹事、校友会選出評議員を委員とし、募集方法等を講ずることにした。

 大学より二十五年祝典のときに理工科・医科を造る第二期計画が発表されたが、これに対しても四十一年五月の臨時大会において募金活動を行うことを決め、校友会選出評議員、校友会幹事を基金募集委員とした。さらに四十五年七月には未申込者に校友会幹事連名で勧誘状を発している。

 爾後、昭和の今日に至るまで、母校記念事業等に対する校友の募金活動は連綿として受け継がれている。

 明治四十年一月の大会において、高田学監より大隈の古稀に当って銅像を建設し、大学の創立二十五周年と兼ねて祝したいと提案があり、了承され、二十五年会および銅像建設のため校友十五人に委員を嘱託することにした。

 同年九月二十一日、牛込赤城清風亭において校友会幹事会および銅像建設委員会開催。左の事項を決めた。

一、大隈伯爵銅像除幕式挙行の件

一、左記六名の大学功労者に校友会より多年尽瘁せられたる功績に対し謝意を表するため記念品を贈ること

高田早苗 天野為之 坪内雄蔵

鳩山和夫 市島謙吉 田原栄

一、右の事項を決議するため来二十九日午後五時清風亭に於て臨時校友大会を開催すること

一、大学創立二十五年祝典に校友総代祝詞朗読のこと

 追って九月二十八日、約六十人が参集し、臨時校友大会。左の事項を決議した。

一、六人の功労者に対する記念品購入費の予算は金一千円とし、校友会全体より一人金一円以上の標準にて拠出すること

一、大隈伯爵銅像除幕式および二十五年祝典に関する校友の委員を校友会幹事および銅像建設委員に委任すること

一、銅像建設資金および記念品購入費はこれを共用すること

 大会はいやが上に盛り上がった。二度の例規大会、四月の臨時大会のほかに、この大会のために再々会合を重ねるなど、母校を守り立てようとする校友の意気は盛んであった。

校友大会(感謝式)

早稲田大学校友会は鳩山前校長並びに高田、天野、坪内、市島、田原六氏の終始一貫母校の為めに尽されたる功労に対し感謝式を挙げ併せて紀念式参列の為め上京せる地方校友の歓迎を兼ねて二十一日午後六時より紅葉館に於て全国臨時大会を開きたるが出席者は北は佐渡南は長崎其他の地方より出席の校友を併せて三百余名大隈総長を中央に高田天野坪内市島田原大隈信常氏等を主賓として斎藤和太郎氏校友総代として左の感謝品捧呈の辞を述ぶ……。

(『早稲田学報』明治四十年十一月一日発行 第一五三号 八三頁)

 明治三十三年一月の大会において、校友倶楽部の設置が提案され、可決。会長指名で調査委員十人を決める。しかし、倶楽部はなかなか進捗せず、三十九年一月の大会の席上、岡田庄四郎が東京に校友中央事務所を特設し校友会全体にわたる一切の斡旋をするようにし、その事務所と懸案の校友倶楽部の両者の妙用を発揮すべしとの意見を述べている。

 同年七月の例規校友大会において、調査委員黒川九馬が校友倶楽部設立の調査結果を報告した。それによると、最初は適当な家屋を借入れ、漸次理想に近づく方針で計画が立てられ、毎月の支出は二百八十五円(支出内訳によると二百九十円)、これは在京会員三百人が一カ月一円あて拠出することによって賄い、倶楽部創始に関する費用は二千百五十円、これは入会者三百人より五円の入会金を得、不足の六百五十円は特別会員の寄付に依りたいとしている。

 ここで調査委員の任務が終り、鳩山校長より新たに市島謙吉をはじめとする十人を倶楽部設立の実行委員に委嘱した。

 この日、大隈は演説の中で、校友が増え(校友四千二、三百、学生七千余)、社会のあらゆる方面にわたり力を発揮していることを喜ぶとともに「……先刻前後七年掛って校友会の倶楽部の案を拵えたというお話があったが、あれは実に情ない、一年経っても案が立たぬ、二年経っても立たぬ、遂に前後七年掛ったという。一人取り離して見れば其人格は天下畏れるものはないという如き英雄達が七人或は十人集まって前後七年の歳月を費して造り出した案はどういうのかというと一年に一円というのである。而して是又之れを実行するのが頗る困難で更に又実行委員を選ばなければならぬという、是が何年掛るか分らぬ、斯ういう訳である。そこで先ず世の中で一番困難なものは金という問題になって来る。(中略)併ながら是は時が許さぬのだ。独り早稲田校友会のみならず国家も困って居る。皆困って居る。……」と述べ、最後に「(早稲田大学を)大いに奮って内地に於ける総ての学校と競争しなお世界の大学と競争するという地位にまで進めることを望んで止まないのである。之は決して不可能ではない。なそうと思えば出来ない道理はない。それにはどうしても校友会が必要である。校友会という後援がなければ盛んにはならぬ。早稲田大学の校友会は一の有機的の団体である。共同の生活を持って居る所の同一の生命である以上は之は出来ない道理はない。(中略)それで来年はもう少し校友会の幹事諸君の愉快なる御話を承わりたいと思うのである。併ながら当年の校友会の会計は頗る良好である。之は大いに意を強うする。どうか来年は当年より有望なることを希望するのである」と語っている。

 明治四十一年十一月十日の矢来倶楽部における幹事会において、校友倶楽部設置の件、『早稲田学報』を校友全体へ配付する件を協議。

 地方から久々に校友が上京しても落ち着いて話し合う場所がない。慶応には交詢社という立派な倶楽部があり、早稲田にも同様のものを設立すべきと考えられていたところ、大学の第二期拡張計画の中で、全額とはいかないまでも、倶楽部設立費の基本となる額を予算に編入する内議もあり、校友会としては感謝の意を表すべきことがらであった。

 校友はよろしく母校の基金募集を完了させるために援助し、小規模でも(たとえば当分借家をしても)倶楽部の形をつくり漸次拡張して完備を期する方針をとることになった。倶楽部については、数年を経た明治四十五年七月の大会において、山田英太郎校友倶楽部創立委員長が創立基金として金百円以上を拠出する者をもって創立委員とすることを提案し、まず八人が受諾の旨を発表、同日の来会者中十余人が創立委員を承諾した。

 この時期、六千人の校友中、維持費の拠出者は八百人くらいで、『早稲田学報』および『校友名簿』はこの人たち以外には配布されず、したがって母校の様子や校友相互の動静を知る数は五分の一にも達せず、勢い母校と校友相互の関係が遠くなりがちであった。

 従来の仕組みを替えて校友全体に『早稲田学報』を配布するために、四六判二倍の二十四頁くらいのものに縮小して、大学より年額一千円、出版部より三百円の補給を受け、内容的には普通雑誌にある論説その他を省き、地方に在住の校友にも居ながらにして母校の状況、校友、学生の動静を知ることができるようにする案が検討され、早稲田学会による『早稲田学報』の経営を校友会の事業として発行することを決めた。さらに変更の期日は四十二年一月からとし、校友会において校友より編集員を選定することにし、会長に一任と決めた。

 『校友名簿』についても校友全体に配布することにし、費用は維持費を厳重に徴収してこれに充当することになり、年末には校友全体からもれなく維持費の拠出を仰ぐ方法を講じ、実行を期することになった。

 翌四十二年一月の大会において、幹事会における案が承認され、『早稲田学報』および『校友名簿』等の発行を校友会の事業として、校友全体へ配付することにし、校友倶楽部設立委員十人を会長指名により委嘱することを決めた。

 維持費の納入、校友倶楽部の設置など、財政に関わる点については不如意の面もあったが、東京に呼応する形で各地に校友会がつくられ、全体として学苑の名声が内外に広まる気運は満ちていた。明治末年までにはおおよその主要都市のほかアメリカなどでも校友の会合がもたれていた。そのほか在京の各地出身者の会、同期会等も開かれていた。地方の会に大学関係者が時には招かれたが、明治四十年十月二十七日、創立二十五年祝典を機として関西、九州等各地在住の校友を対象に関西校友大会を大阪で開催した。大隈総長、高田学長、天野、坪内両博士、市島図書館長、田中幹事等が西下、講演会も行われた。

 校友会は学校および校友関係者に対する慶弔にもことのほか意を尽し、鳩山会長の衆議院議長就任に当っては記念品を贈呈(明治三十年)、二十四年十月の美濃・尾張の大地震、二十七年十月の両羽(山形殊に劇)の震災、三十二年八月の横浜と富山の大火の際には鳩山会長名で罹災地在住の校友、家族などに見舞状を発している。

 東京専門学校校友会誌(第十六回報告)には「三月十四日大隈伯邸火災に罹る、本会幹事は直ちに本校に集会し本会幹事谷新太郎、斎藤隆夫五十嵐力、大西孝次郎、小松崎吉雄、坪内鋭雄の諸氏全国校友を代表し伯邸に到り伯爵に面会し見舞の辞を述べ西洋食品を贈呈せり」「大隈伯九月病気に罹りて悩まる、十月五日本会幹事堀越寛介、宮川銕次郎二氏は全国の校友会を代表して見舞たり」(『早稲田学報』明治三十四年十二月発行臨時増刊第六二号)の記述もある。

四 大正時代の校友大会

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 明治三十年代の初め頃から孝明天皇祭(一月三十日)をもって春の大会を開くのを通例としていたが、年号が改まって孝明天皇祭が祭日から除かれ、大正二年の春期大会は一月の最終日曜日を選んだ。

 大正時代の例規大会は左の通りである。

二年 一月二十六日/七月六日 三年 一月三十一日/七月六日

四年 一月三十一日/七月六日 五年 二月六日/七月六日

六年 二月三日/七月六日 七年 /七月六日

八年 二月十六日/七月十二日 九年 三月十二日/七月十二日

十年 四月二十四日/十二月十二日 十一年 四月十四日/十月二十一日

十二年 四月二十三日/十一月十八日 十三年 四月十四日/十月二十六日

十四年 四月十三日/十月二十五日 十五年 四月十二日/十一月三日

(大正七年春季大会は総長病気のため開催見合わせ)

 大正十四年十月の幹事会において、春季大会は母校卒業式(四月中旬の日曜日に挙行)の翌日、秋季大会は十月の第四日曜と定めているが、翌年秋、種々の事情で開催日が変更になった。

 大会の会場は上野精養軒が多く、他に築地の精養軒、富士見軒、帝国ホテルを充てたが、大正十年春の大会は三月に落成した穴八幡下の高等学院において開催した。十二年以降は春は上野精養軒、秋は大隈会館。

 大正時代の祝賀記念大会、臨時大会の幾つかを列記してみよう。

 大正二年十月十八日、上野精養軒において母校創立三十年記念祝賀校友大会を開催、約千人が参集、下足札が出尽し、会場の大食堂は満員、後庭に急ごしらえの天幕張りの掛出し食堂を設けるという盛況であった。

 席上、大隈総長に下村観山筆金屛風一双、高田学長に寺崎広業筆三幅対画幅、理事・教授・講師・幹事・副幹事に金印材一顆を記念品として贈呈し、高田学長の欧米教育制度視察等漫遊を母校に対し建議する案を可決した。

 母校創立三十周年を祝して、大隈総長以下のスタッフが同行して名古屋で大講演会が開かれ、大阪においても同様の講演会がもたれ、関西校友会が開催されるなど、四国、九州、その他各地で校友の祝賀会が催された。

 大正三年六月十四日、大隈総長邸において関東校友有志大会、約千人が参集、大隈の組閣を祝賀した。

 同年十一月二十七日、築地精養軒において中央校友臨時大会(明治四十三年頃から評議員の改選時に、地方に対して中央校友会という表記を用い、その後、春秋の校友大会等にも中央の名を冠している。大学校規の評議員の項に中央校友会、地方校友会の表記がある)、約二百五十人が参集、高田学長の欧米視察報告会。

 大正四年九月十九日、築地精養軒において臨時校友大会、参会者約二百五十人、高田学長文部大臣就任、天野理事の学長就任、その他理事の就退任に伴う送迎会。

 同年十月三十日、大隈総長邸において秋季中央校友大会、参会者四百余人、御大典記念事業遂行に協力、援助を要請。

 大正五年十一月十二日、帝国ホテルにおいて秋季校友大会、参会者約三百人、大隈総長昇爵祝賀、高田名誉学長退閣慰労を兼ねて開催。

 大正六年十二月十六日、芝紅葉館において臨時全国校友大会、参会者約千三百人、大隈総長八十(天盃、鳩杖拝受)の寿宴。翌十七日には早稲田倶楽部において、祝賀会に上京した各地校友を招待して、母校による午餐会が開かれた。

 大正七年十月二十八日、上野精養軒において中央校友大会、来会者二百五十人。同日正午より、母校主催の地方校友有志招待会が富士見軒で催された。前日は母校創立三十五周年記念祝典が行われた。

五 全国組織へ――会則の変更――

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 校友会発足時の規約は九条から成る簡略なものであったが、会の充実、発展とともに条項を増し、明治三十五年には十八条となり、同四十三年の規則では第一条に大学の事業を後援することを目的とすると謳っている。大正十年、高等学院における春季大会において承認を得た規約を掲げる。

早稲田大学校友会規則

第一章 総則

第一条 本会ハ早稲田大学校友会ト称ス

第二条 本会ハ会員相互ノ親睦ヲ厚クシ会員ト早稲田大学トノ関係ヲ密ニシ早稲田大学ノ事業ヲ裨補スルヲ以テ目的トス

第三条 本会ハ本部ヲ東京府ニ支部ヲ各府県道庁所在地ニ設置ス

第二章 会員

第四条 本会ハ左ノ会員ヲ以テ組織ス

一、早稲田大学卒業生

二、早稲田大学現任教職員

三、早稲田大学維持員、評議員、基金管理委員、商議員タリシ者及之ニ準ズベキ者

四、推選校友

第五条 推選校友トハ左記各号ノ一ニ該当スルモノニシテ本会幹事会ノ銓考ヲ経、大会ノ決議ニ依リ推選セラレタル者ヲ云フ

一、早稲田大学教職員タリシ者ニシテ前条第三号ニ該当セザル者

二、早稲田大学ニ一学年以上在学シタル者

三、早稲田大学附属学校、早稲田中学校、早稲田実業学校ノ教職員及卒業生

四、早稲田大学校外生トシテ所定ノ学科ヲ卒業シタル者

第六条 本会会員中不都合ノ行為アル者ハ大会ノ決議ヲ以テ除名スルコトアルベシ

第七条 地方在住ノ本会会員ハ別ニ地方校友会ヲ組織スルコトヲ得

第三章 会議

第八条 本会ノ会議ハ大会及幹事会ノ二種トス

第九条 大会及幹事会ハ会長之ヲ招集ス

定時大会ハ毎年春秋二回之ヲ開キ事務会計ノ報告ヲ為シ及必要ノ事項ヲ議定ス

臨時大会ハ幹事会ニ於テ必要ト認メタルトキ又ハ会員五拾名以上ノ請求アリタルトキニ週間以内ニ之ヲ開ク

第十条 大会招集ノ通知ハ郵便又ハ新聞広告ニ依ルモノトス

第十一条 幹事会ハ会長又ハ幹事拾名以上ニ於テ必要ト認メタルトキ之ヲ開ク

第十二条 幹事会ハ幹事拾名以上ノ出席アルニアラザレバ決議ヲ為スコトヲ得ズ

第十三条 緊急ヲ要スル事項ニ付キテハ東京府ニ在住スル幹事ノミヲ以テ幹事会ヲ開キ決議ヲ為スコトヲ得

但此場合ニハ東京府在住幹事ノ四分ノ一以上ノ出席ヲ要スルモノトス

第十四条 大会及幹事会ノ議長ハ会長之ニ任ズ会長事故アルトキハ幹事ノ互選ヲ以テ代理者ヲ定ム

第四章 役員

第十五条 本会ニ会長壱名幹事五拾名ヲ置ク

第十六条 会長ハ早稲田大学々長之ニ任ズ

第十七条 幹事ハ左ノ方法ニ依リ会員中ヨリ選出ス

一、定時大会ニ於テ出席会員ノ互選ヲ以テ幹事銓考委員拾名ヲ選出ス

二、前項ニ依ル選挙ノ結果銓考委員ノ定数ニ不足ヲ生ジタル場合ハ会長ノ指名ニ依リ之ヲ補選ス

三、幹事銓考委員ハ其合議ヲ以テ左ノ区別ニ依リ幹事五拾名ヲ指名ス

イ、現任教職員中ヨリ 四名

ロ、推選校友中ヨリ 弐名

ハ、卒業生ヲ其修業学科ニ依リ政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部ノ五部ニ分チ各部ヨリ三名宛及之

ニ残余ノ拾九名ヲ各部卒業生ノ現在人員ニ按分シタル数ヲ加ヘタルモノ

ニ、幹事銓考委員 拾名

第十八条 幹事銓考委員ノ選挙ハ幹事ヨリ交付スル一定ノ用紙ヲ用ヒ大会出席会員ノ単記無記名投票ニ依リ得票多キ者ヨリ順次拾名ヲ以テ当選者トス

第十九条 幹事ノ任期ハ三年トス

第二十条 幹事ニ欠員ヲ生ジタルトキハ現任幹事ノ合議ニ依リ之ヲ補選ス

補欠者ノ任期ハ前任者ノ任期ニ依ル

第二十一条 会長ハ本会ヲ代表シ会務ヲ統理ス

第二十二条 幹事ハ左ノ事務ヲ執行処理ス

一、本会ノ諸会合ニ関スル件

二、早稲田大学及本会状況ノ報告ニ関スル件

三、会誌(早稲田学報)ノ編纂並ニ会員名簿ノ調製及其頒布ニ関スル件

四、予算決算其他一切ノ会計ニ関スル件

五、推選校友ノ銓考ニ関スル件

六、幹事及評議員選挙ノ事務管理ニ関スル件

七、其他本会ノ目的ヲ達成スルニ必要ナル事項ノ計画処理ニ関スル件

第二十三条 幹事ハ幹事会ノ決議ニ依リ会務ヲ分担シ及其互選ヲ以テ常任者ヲ設クルコトヲ得

第二十四条 会長ハ幹事会ノ決議ニ依リ書記其他ノ傭員ヲ任用スルコトヲ得

第二十五条 会長及幹事ハ無報酬トス

但常任者ニ対シテハ報酬ヲ附スルコトヲ得

第五章 早稲田大学評議員

第二十六条 本会ハ早稲田大学校規ノ所定ニ従ヒ同大学評議員ヲ選出ス

第二十七条 前条評議員ノ員数ハ左ノ区別ニ依ル

一、大会ニ於テ選出スル者 弐拾名

二、支部ニ於テ選出スル者

会員百名以上ヲ有スル支部 壱名

会員弐百名以上ヲ有スル支部 弐名

会員四百名以上ヲ有スル支部 参名

以上弐百名ヲ増ス毎ニ壱名ヲ加へ拾名ニ至リテ止ム

第二十八条 本会大会ニ於テ選出スル評議員ハ第十八条ヲ準用シ東京府在住会員中ヨリ選出ス

当選者ハ出席員三十分ノ一以上ノ数ノ得票ヲ要ス

選挙ノ結果定数ニ不足ヲ生ジタル場合ハ会長及当選評議員ノ合議ニ依リ之ヲ補選ス

第二十九条 評議員ノ任期ハ三年トス

第三十条 評議員ニ欠員ヲ生ジタルトキハ第二十七条及第二十八条ニ基キ補欠選挙ヲ行フ但次回ノ選挙会マデ之ヲ延期スルコトヲ得

補欠者ノ任期ハ前任者ノ任期ニ依ル

第六章 会計

第三十一条 会員ハ本会維持費トシテ毎年参円以上ヲ醵出スベシ

但一時ニ金四拾円以上ヲ醵出シタルトキハ爾後前項ノ維持費醵出ヲ要セズ

第三十二条 本会ノ会計年度ハ毎年四月一日ニ始リ翌年三月三十一日ニ終ルモノトス

第三十三条 本会ハ其基本金及維持費トシテ会員其他ノ寄附ヲ受ク

第三十四条 維持費ニ剰余ヲ生ジタルトキハ幹事会ノ決議ヲ経テ之ヲ基本金ニ編入スルコトヲ得

第七章 支部

第三十五条 本会支部ハ支部規則、会員ノ住所氏名及職業ヲ具シテ本会本部ニ報告スルモノトス

前項ニ異動ヲ生ジタルトキ亦同ジ

第三十六条 本会支部ニハ一定ノ事務所ヲ設ケ役員ヲ置クモノトス

第八章 附則

第三十七条 本規則ニ於テ早稲田大学ト称スルハ元東京専門学校ヲ包含ス

第三十八条 本規則ニ於テ本会支部ト称スルハ早稲田大学校規ニ於ケル地方校友会ヲ指スモノトス

第三十九条 本規則第十七条ニ於テ政治経済学部ト称スルハ邦語政治科、専門部政治経済科、英語政治科、大学部政治経済学科ヲ、法学部ト称スルハ邦語法律科、専門部法律科、英語法律科、邦語行政科、英語行政科、大学部法学科ヲ、文学部ト称スルハ英語本科、英語学科、英語普通科、専修英語科、文学科、文学科選科、大学部文学科、高等師範部、清国留学生部ヲ包括ス

数科部ヲ卒業シタル者ハ最後ニ卒業シタル科部ニ属ス

第四十条 幹事銓考委員及評議員ノ選挙ニ於テ得票同数ナルトキハ先ヅ卒業年度ノ順序ヲ以テ定メ卒業年度同ジトキハ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム

第四十一条 会員其住所氏名職業ヲ変更シタルトキハ速ニ本会本部ニ通知スベシ

第四十二条 本規則ニ規定セザル細目ハ幹事会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム

第四十三条 本規則ハ幹事過半数ノ同意及大会出席者過半数ノ承認ヲ経ルニアラザレバ之ヲ変更スルコトヲ得ズ

第四十四条 本規則ハ大正十一年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

 この規則は大正八年に改正した規則を追って再改正したもので、前回、幹事を「京浜在住者」と限っていたのを削除した。

 大正四年、高田早苗の文部大臣就任により、天野為之が学長に就任、その後、平沼淑郎塩沢昌貞が学長をつとめ、大正十二年、高田早苗が総長となった。校友会長もその順を追っているが、大正八年の規則では会長は学長ではなく、「会長ハ幹事会ノ推薦ニ依リ大会ニ於テ之ヲ決定ス」となっており、大正十年十月、塩沢が学長に選ばれたとき、前掲の規則では会長は学長にと旧に復していたが、規則の施行が翌十一年四月一日からとなっており、それまで平沼が会長の席に留まった。

 大正八年の規則改正により常任幹事を置けるようになり、同年四月十八日の幹事主務委員会の推挙を経て鈴木佐平次がその任に就いた。大正十一年から常任幹事が二人となり、名取夏司、蠣崎敏雄が五月に就任した。この時から常任幹事は学外、学内各一人の形をとるようになった。

 常任幹事は各種の委員会に出席し、大会において、校友状況、会計状況等の会務を報告した。

 この規則改正により、幹事定数を四十人とし、現任教職員中より四人、推選校友より二人のほかは卒業年ごとの選出を廃し、学科別に選出することになった。さらに大正十年の改正で幹事総数を五十人とした。

 校友会を全国組織の大校友会として発展させるため、大正十二年来、幹事が地方支部を歴訪して各支部の意見を徴した結果、十四年より左の事項を実行することになった。

一、東京に特約旅館を設けて地方校友上京の際の便に供すること

二、地方の校友大会には本会よりなるべく出席して地方校友との意思の疎通を図る

三、本会幹事は各地方支部よりも選出すること、これを本年四月の改選期より実行す

四、学報紙上には絶えず地方校友会の消息を記載すること

 地方との連絡を密にするため、地方校友会に通知幹事を置くということもあったが、大正十四年四月より、地方校友会からも幹事六十人を選出することにし、東京府選出も六十人とした。

 大学評議員についても、大正五年、地方校友会より会員二百人以上三百人まで二人、三百人以上百人を増すごとに一人を加えられることになり、大正十年の規則に至った。

六 永楽倶楽部の発足

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 大正七年一月二十八日、丸の内永楽町の新築永楽倶楽部(日清生命保険会社三階)において、移転式を兼ねた新年宴会が開かれた。

 これより先、大正四年九月一日、麴町区内幸町に紆余曲折を経て設立された早稲田倶楽部を大正六年十二月二日に新築の建物に移転し、二十八日の役員総会で名称変更を決め、この日の会合となった。

 大隈総長は元気旺盛に演壇に立ち、新築移転は喜びにたえないと述べ、「……抑も倶楽部は近代文明の進歩と共に欧米に発達し、社会的に最も必要なる機関として汎く利用せらるゝに至つたものである。現今の社会は産業上に於ても、政治上に於ても又教育上に於ても競争が激甚となり非常なる努力、活動を要するに至つた、然しながら人間の力には自から限りがある、活動の後には必ず休息を要する、此休息の時間を倶楽部に於て費し、疲労したる心神に慰藉を与ふることが必要である、我国には昔から茶屋、待合と云ふものがあつて一種の倶楽部のやうな用を為し来つたものであるが、之は大に弊害があるやうである、社会の進歩と共に西洋流の倶楽部の発達を来し茶屋、待合と云ふやうな旧式のものは漸次減少するであらうと思ふ。……(略)」と演説した。

 参会者は約百人。

 倶楽部の規約は五章十八条から成り、第二条に「本倶楽部は早稲田大学の縁故者を以て組織す」とある。

 役員は委員二十人が選ばれ、平沼淑郎が委員長をつとめ、会長欠員であった。

 大正五年九月から六年八月までの収支決算は、収入二、三五八円四七銭五厘、支出二、〇五二円八七銭五厘。

 永楽倶楽部となった時点での会員数は二百三十人、大正九年には五百三人となっている。同年四月の総会で高田早苗が会長に就任した。

七 大隈重信逝去、綾子夫人の死

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 大正十一年一月十日、大隈逝去。同月十七日に日比谷公園の斎場において告別式が行われたが、諸役員はそれぞれに役割を分担し、校友も一団となって葬列に加わった。教職員、学生、生徒のほかにも多数の会葬者があり、その数は二十万とも三十万とも言われた。

 校友会では『早稲田学報』(大正十一年四月発行第三二五・三二六号)による「故総長大隈侯追悼号」を発刊した。

 同年四月の中央校友会大会において、三月に大学において計画された故総長記念事業に全面的に協力することを決め、満場一致で左のように決議した。

決議

早稲田大学校友会ハ母校今回ノ企図タル故大隈総長記念事業ノ趣旨ヲ賛同シ極力之ヲ援助シ其ノ必成ヲ期ス

右決議ス

大正十一年四月十四日

早稲田大学校友会

 故総長の一周年追悼会の翌日、大正十二年四月二十三日に春季校友大会が開かれたが、同月二十八日、故大隈総長未亡人綾子夫人が逝去。校友会では翌二十九日に緊急幹事会を開き、墓前祭に参列する校友会代表者その他について誠意を披瀝して協議を重ね、終了後、幹事代表者等が大隈邸を弔問した。

八 関東大震災

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 大正十二年九月一日に発生した大震災により、校友、学生の死者が出、大学は応用化学科の建物が焼失、大講堂が崩壊するという被害を受けた。

 十一月十八日、大隈会館において秋季校友大会と震災遭難者追悼会を併催した。

 まず、遭難校友、学生の遺族を招いた神式による追悼会を行い、高田総長・会長の弔詞、救護会総代学生の弔辞を奉じ、次いで遺族が玉串を捧げ、参会者が参拝した。『早稲田学報』(大正十二年十二月十日発行第三四六号)には遭難者として三十八人の校友と、十二人の学生名が記されている。

 大震災については『早稲田学報』―大震災臨時号―(大正十二年十月十日発行第三四三・三四四合併号)に詳しい。

九 昭和前期の活動

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 前例に倣ってまず終戦までの校友大会開催日時を掲げよう。

二年 四月四日/十月二十三日 三年 四月三日/十一月四日

四年 四月三日/十月二十日 五年 四月七日/中止

六年 四月三日/十月二十五日 七年 四月三日/十月十九日

八年 四月三日/十月十七日 九年 四月三日/十月二十一日

十年 四月三日/十一月三日 十一年 四月三日/十一月三日

十二年 四月三日/中止 十三年 四月三日/十月二十五日

十四年 四月三日/十一月九日 十五年 四月三日/取り止め

十六年 四月三日/中止 十七年 四月十二日/中止

十八年 四月二十五日

 昭和年代に入って卒業式は四月三日の神武天皇祭に行われるのが通例となり、春の校友大会は殆どその夜に開催、会場は四年から十六年まですべて上野精養軒を当てている。秋の大会は十月の第三あるいは第四の日曜日を考え、二十日前後が多かったが、早慶戦と日が重なり、十一月に行われることもあった。会場は講堂か書院、大正十三年秋より家族同伴の庭園での園遊会形式となった。

 昭和五年秋の大会の中止は、早慶野球入場券割当問題から改正校規問題に及んだ紛争によるものであり、十二年の中止は日中戦争の勃発による。十五年秋は時局に鑑み宴会等の会合を取り止め、『早稲田学報』十一月号を紀元二千六百年記念号として発刊した。十七年の中止は第二次大戦によるもの。十八年春の大会は京浜および近地の出征家族の慰労を兼ねて開いた。以後終戦まで開くことができなくなった。

 校友会規則により、幹事中より校友会連絡、会計、編集、推選校友銓考の各委員を選出していたが、そのほかに大正十四年には時代を反映した職業相談委員として原安三郎ほか四人を選んでいる。校友の就職に関する相談事務を担当する主事を置くことも前年に決めていた。そして、昭和二年春の大会において、名取常任幹事が職を失った校友のために全国に協議員を選任して助力を得るようにし、この事業を徹底したいと述べている。

 昭和二年秋の大会は母校創立四十五周年ならびに大隈講堂開館記念式典のあった十月二十日から四日後で、地方から上京の校友を含め三千人が参集し、講堂前には長蛇の列ができた。

 校友会は母校創立四十五年を記念して教職員の恩給基金として金壱万円を学校に寄付し、早稲田大学のために終始尽力した渋沢子爵に記念品を贈呈した。

 翌三年春の大会は講堂で行い、珍しく宴席を小講堂に設けた。

 同年四月十八日、幹事会並新旧幹事送迎会を開き、黒田善太郎、大島正一が常任幹事に就任した。

 大島は昭和二十二年までその職にあり、黒田に代わって磯部愉一郎が昭和六年から、その後、平野登美夫が昭和十二年から、市川繁弥が昭和十六年から二十二年まで常任幹事をつとめた。

 秋の大会では通例、講談、音楽、舞踊等の余興が行われた。三年秋の大会の余興番組は左のようなものであった。

(一) 小太鼓と銀笛

「ヤンキーズーズル」 星出糸子

(二) 漫談 大辻司郎

(三) 木琴と鉄琴 星出糸子

「軍艦マーチ」

「凱旋ポルカ」

早稲田大学オーケストラ伴奏

(四) 「おもちゃの兵隊」 芽生座

(五) 手踊 常磐津 坂東亀次

「常磐の松島」

(六) 「ベニーとシイラ」 芽生座

早稲田マンドリン部伴奏

(七) 曲芸 たぬきや連

(八) 奇術と霊交術 高松虹夫

(九) にわか たぬきや連

 大辻司郎の漫談は「放送局内輪話」というもので五十分もの熱演であった。当日はこの年開館した坪内博士記念演劇博物館が開放された。

 四年秋の大会は高田早苗総長、市島謙吉名誉理事、坪内雄蔵名誉教授、浮田和民教授の古稀祝賀会に引続いて開催した。四先生には校友会より記念品を贈呈した。また余興はお祝い物の舞踊「鶴亀」をトップにコミック、仁輪加などを上演した。

 なお、評議員について東京府在住会員が選出する二十六人を四十人に増員することを決めた。

 昭和五年四月三日に上野精養軒において東京府在住会員中より選ばれた評議員選挙人による母校評議員の補充(前年改正)および補欠選挙を行い、十五人が当選した。同七日同所における春季校友大会の記事中(『早稲田学報』昭和五年四月発行第四二二号)の会務報告概略(自昭和四年四月一日至五年三月三十一日)を次に掲げる。

一、卒業生総数 三六、二三三

(一) 旧卒業生 三四、〇八八

内訳 住所判明者 二九、〇〇七

死亡者 三、七二九

(本年度死亡二七四名)

不明者 一、三五二

(二)新卒業生 二、一四五

総数 三六、二三三

一、幹事数

内訳 東京 五九 (欠一)

支部 五三 (欠七)

未選出支部(七支部)

山形県 福井県 滋賀県 奈良県 山口県 佐賀県 長崎県

一、評議員

内訳 本部 二五 (欠一)

支部 六七

一、会合

校友大会

(1)春季 四月三日 上野精養軒にて 出席 一五八

(2) 秋季 十月二十日 園遊会(大隈会館)

出席 五四三

同伴 五六〇

特別会合

(1) 大臣政務次官其他招待会

七月二十日於丸ノ内東京会館 出席 三一七

(2) 高田、坪内、市島、浮田四先生古稀祝賀会 十月二十日

於大隈講堂 出席 五四三

幹事会 二回

委員会 二二回

連絡 二回

推選校友銓考 二回

編集 一二回

会計 三回

評議員選挙事務管理 三回

支部会合 二七三回

一、弔問 二四七

内訳 香奠 二四五

花輪 二

遺族ヨリノ寄贈 三件

一、会員名簿

発行部数 二一、〇〇〇(頁数七八四)

索引 発行部数 一、八〇〇(頁数三一三)

一、学報

校友配布(一ヵ月) 二八、一〇〇

学生同 (同) 一一、九二〇

一、会員転居数 約八、五〇〇

新設地方校友会

池上早稲田会 玉川校友会 渋谷校友会 横須賀校友会 湘南校友会 東毛校友会 足利校友会 蘇東校友会 知多西北倶楽部 中丹校友会 南予校友会 蘭陽校友会

 六年春の大会において幹事選出に当って学部等から選ぶ中の残余の十九人を九人に減じ、幹事銓考委員を三十人(大正十三年秋の大会において従来の十人から二十人に変更することを決めた)とするように規則改正を行ったが、同日は大会前に銓考委員を選挙したため、二十人の委員を選び、七日、委員会を開催して四十人を選出した。同日、大会当日選出された評議員十七人に加える二十三人の評議員も選出された。

 昭和六年七月、高田早苗病気のため総長退任、田中穂積の総長就任により、校友会長も同総長となった。

 七年春は新代議士祝賀を兼ねて開催、因にそのとき当選した代議士は校友六十五人、学苑関係者十七人であった。

 昭和七年は母校創立五十周年に当り、母校における祝賀式当夜、記念の秋季校友大会を開いた。このときの様子は次のようであった。

十月十九日母校に於て祝賀式挙行の当夜、丸ノ内東京会館に於て創立五十周年記念秋季校友大会を開催した。毎年校友会の秋季大会は、大隈会館庭園に於て、家族同伴の園遊会を例として来たが、本年は母校創立五十周年式典が十月十七より向ふ一週間に亘つて行はれたので、その式典期間中に校友大会を開催して祝賀の意を表すると共に、記念式参列の為に上京した地方校友をも迎へ、名実共に全校友を網羅校友大会を開くといふ意味から、時日を繰上げ例年の型を破つたわけである。

当夜の主賓は、過般の改選によつて芽出度当選の栄を得た、貴族院の男爵議員、多額議員及び今夏羅府に開催の第十回オリムピツク大会に於てスポーツ日本の名を世界に輝した我出場選手の中心勢力をなしたところの校友並学園在学選手と役員、及前記の地方上京校友等多数の諸君であつた。午後六時開会といふに四時頃から顔を見せた気早な人達もあつたが、五時半から六時にかけてドツと押寄せた多数の諸君は、来賓一般共に受付氏を少なからず転手古舞はせた。がそれもその筈六百名といふ、校友大会稀の出席人員であつた。午後六時より演芸場に於ては、山本東次郎氏一座が能狂言、素袍落、墨塗が演ぜられ、上品なおかし味の中に観客を笑はせてたが、かうした間にあつても、あちらの角に一団、こつちの廊下に三人といつた工合に、何年振或は十何年振で顔を合せた同窓が、いくら語つても尽きないといつた様に話をはづませてゐる。能狂言が終るや直ちに、更に一階うへ三階の宴会場に入り、旧友を中心にテーブルを占めて、善友寸酎といつた型で、互に杯を交しつゝ快談又快談、どのテーブルにも祝賀校友大会に相応しい歓喜が溢れてゐた。

やがてデザートに入り田中会長起つて今夜の挨拶を述べ、之に対し当選貴族院議員を代表して板谷宮吉君、オリムピック選手役員を代表して山本博士、地方校友を代表して大阪の砂川雄峻君の謝辞があり、外に小山松寿君のテーブルスピーチがあつて後、大隈(信常)侯爵の発声にて早稲田大学万歳を三唱して解散した。

(『早稲田学報』昭和七年十一月十日発行 第四五三号 四五頁)

 香川県支部では校友大会に毎年二人の代表を送ることを総会において決議し、赤尾定則、大森清の二人を昭和十年の春の大会に派遣した。田中会長は挨拶でこのことに触れ、各府県もしくは朝鮮、満州あたりからも校友代表者がこの校友大会に追々出席してくれるようになるのではないかと期待している旨述べた。因にこのときの会費は三円五十銭。

 ここで春秋の大会のおよそのスタイルを少し詳しく、昭和十一年を例にとって述べてみよう。

 この年の春は新代議士当選祝賀会を兼ねて開き、磯部常任幹事が会計、会務を報告し、議事として規則一部改正の件を諮り、前年度物故会員三九二人に対し黙禱を捧げ、宴会場に移って卓を囲む。デザートコースに入って田中会長が挨拶に立ち、招待者を紹介し、学苑の近況等を報告、更に所感を語っている。

 主賓側より新博士、代議士、新卒業生の代表の中野登美雄小山松寿、金岡武がそれぞれ謝辞を述べ、最後に大隈(信常)名誉総長の発声で「早稲田大学万歳」を三唱、校歌を歌って散会している。前年に引続いて香川県より二人出席。

 秋季校友大会はオリンピック出場役員選手および母校教職員を迎えて開催。絶好の小春日和の中、二千五百人という大会始まって以来の人々が集まった。十一時半、大書院において磯部常任幹事の開会の辞で始まり、田中会長の挨拶、オリンピック出場者代表の千葉五郎の謝辞が終ると、一斉に模擬店を開く。

 夫人、子供連れも多く、どっと模擬店に押し寄せ、庭園のあちこちに家庭を中心とした小園遊会が展開される。その間、初めての試みとして丹下左膳のチンドン屋が通る。一時、振鈴によって余興開始、大書院前の芝生席は大盛況、別館前芝生のところでは猿の曲芸や紙芝居があってこちらも黒山の人だかり。水兵漫劇、小品舞踊、ベビー・ナンセンス、曲芸、満州奇術、滑稽仁輪加等々の余興も大喝采のうちに終了、三時、レコードによる応援歌に送られて散会。

 十一年春、維持費が三円から四円に、終身維持費が四十円から六十円に改められた。

 昭和十二年春の大会は、早稲田特有の和やかさはあったものの、会務報告として、陸海軍への献金、出征校友留守宅への会長慰問状、戦傷校友への見舞状・見舞品、戦死校友への弔詞・花立捧呈、凱旋校友への記念品贈呈等があり、一般校友とは別に日中戦争戦没校友四十六人に黙禱を捧げるなど、一種の緊張した空気が満堂を引き締めていた。

 昭和十三年十月二十五日、大隈老侯生誕百年記念祭が行われたが、その当夜六時から上野精養軒において大隈老侯生誕百年記念校友大会を開催した。秋の大会は大隈会館で家族同伴の形式がほぼ定まってきていたが、前年は時局柄中止、二年ぶりの秋の大会であり、それも老侯を記念するとあって三百五十人という精養軒における校友大会の最高出席率を示した。

 戦没者のために黙禱を捧げた後、大隈老侯が「憲政に於ける輿論の勢力」と題して吹き込んだレコードに聞き入ったが、老侯照影のかたわらの拡声器から流れ出る声はあたかも画面の老侯の口から出るような感じであった。レコードが終って間もなく、六時二十五分、愛宕山の放送所から田中総長の記念放送「故大隈老侯を偲ぶ」が拡声器に入り、参会者一同三十分にわたる名講演に引き込まれた。

 日中戦争勃発以後、秋の大会は時局柄、見合せるようになっていたが、十三年は老侯生誕百年を記念して開催、十四年も会則の一部改正と、阿部内閣組閣に際し、永井逓信・鉄道大臣、河原田文部大臣、遠藤書記官長、そのほか数人の政務次官が誕生したので大会を開いたが、これが戦前最後の秋の大会となった。

 昭和十五年春の大会は皇紀二千六百年の年でもあったが、卒業式当日の四月三日、吹き降りの中、九百五十余人が出席した。二百数十人が返信なしで出席したため、精養軒では用意した第一、第二のほかに第三、第四の会場を急設したが、それでも間に合わず、第五会場まで設け、ほとんど全館借切りの状態となり、田中会長は平野、大島両常任幹事を帯同して各会場をあいさつして回るというレコード破りの盛況さであった。

 しかし、十七年四月十二日の大会の田中会長の挨拶冒頭に「物資欠乏の際、適当の会場がなくなった」とあって、大隈講堂で総会を開催し、庭園で折箱を開いて昼食をとるという状況となり、学苑関係の出征者や帰還者、戦死者等の数が記され、戦局の芳しくないことが窺える。

 『早稲田学報』の発行も昭和十八年二月に年四回の季刊とする断りがあり、同年は三、四、七、十月に発行、翌十九年一月刊で途切れた。その内容も一、二の時局に関連した巻頭文、学園記事の校報、戦地便りとして外地からの校友の通信、戦死通知等で、十八年一月から会報(合)、校友消息等の欄はなくなった。

 昭和十八年四月二十五日(日曜日)の午後一時より大隈会館庭園において、春季校友大会を兼ね京浜および近地出征校友遺家族の慰安会を開催。書院前の芝生のところに設けられた舞台の上で、講談、浪花節、奇術、軽音楽、漫才などの余興を楽しみ、午後四時半散会した。

 出征校友遺家族の参会者は三千人を超え、一般校友も千人近く参集し、校友会始まって以来の出席者数であった。

 これが戦前最後の大会となった。

 昭和前期の校友会の様子を示すものとして『早稲田学報』昭和十一年四月十日発行第四九四号掲載の「謹告」(抜粋)を掲げる。

謹告

陽春之候各位愈〻御佳適大慶に存じます。扨別項決算報告書の通り此三月を以て昭和拾年度を終了し拾壱年度を迎へました、不相変御高援偏に希ひ上げます。

尚左記御含み置きお願ひ申し上げます。

㈠ 校友諸君への謹告……学報上此欄を以てすることがあります故毎月特に御留意下さい。

㈡ 維持費集金……新年度維持費は集金郵便により又は集金社に委託して四月中旬乃至五月一杯に校友諸君に一通り差上げますから御手配置きを願ひます(但前以て案内状を差上げます)。尚この方法により収納の場合当会より更めて受取書を差上げません。

満鉄本線沿線以外の満洲国、朝鮮の所々、内南洋には集金が出来ませんから御手数でも御送金願ひます。

㈢ 地方校友会と本会維持費……大阪其他各地方に校友会が組織せられ維持費御徴収の模様でありますが之等は地方的親睦団体として、本会は全校友を網羅する団体として御混同なく双方御高援を願ひます。

㈣ 会員名簿及早稲田学報……名簿は経済の都合上当該年度維持費未払込の方には乍遺憾御送り出来ません。又都合上御払込を待つて御送りする事も併せて御承知置き願ひます。学報も同様維持費を頂戴致しません方々へは御送り致し兼ねます。

㈤ 御異動の通知……御住所御勤先の御通知には地名社名等を省略せず正式の称号にて御願ひします、事務上誤りと手数を要します故。御姓名に必ず御卒業年学科及フリガナを御書添へ下さい、同姓名又は紛らはしい場合多き故。

㈥ 保留……本年度各学部科御卒業後引続き他の学部に入学の方にして「保留」の御届けがありますれば、在学中維持費を頂戴致しませんから左様の方は当事務所に御届け願ひます。但学報は其間差上げません。

新校友諸君へ

日頃蛍雪の功成つて今回芽出度御卒業の栄誉を得られ、思出多き学園から実社会へ進出される皆様の多幸なる将来を慶賀いたします。本会も校友諸君の熱誠なる御声援に依り逐次隆運に向つて参りました。折から多数の英気に満ちた皆様を新に会員として御迎へ申し誠に本懐の至りです。之より会礎愈鞏固に将来の発展期して待つ可きを信じて疑はぬ次第です。雄々しき御活動の裡にも本会を通じて心の故郷にふり返り、皆様の良き先輩とも御親しみの機会を得られますやう切望いたします。

今後会員として御留意願ひたい事柄を左に摘記いたします。

東京市淀橋区戸塚町一丁目(大隈会館内)

昭和拾壱年四月 早稲田大学校友会

電話牛込(34)五一三(5)

振替口座 東京八九八六

(本会規則第二条 本会ハ会員相互ノ親睦ヲ厚クシ会員ト早稲田大学トノ関係ヲ密ニシ早稲田大学ノ事業ヲ裨補スルヲ以テ目的トス)

一、卒業生諸君は別に申込なくして当然本会会員となるものであります。

一、本会維持費 (会計年度自四月至翌年三月) 年額金参円 又は一時醵出金四拾円。

大阪、京都其他地方的校友会は其地方在住校友の親睦機関として、本会は全国的団体として双方御高援を願ひます。

御払込方法は集金郵便で又は集金社に委託し、御伺ひの際は前以て御案内申し上げます。大体五月下旬乃至六月中旬に不取敢金参円集金に上ります、但御卒業後一旦御帰郷かと思はれます方々へは御国の方へ差上げます。尚集金の場合には集金書の一片を受取とし当会より更めて受取書を差し上げません。

尚御卒業後直に他の学部科に御入学の場合には「保留」の御届出により御卒業迄会費を頂戴致しません。但其間でも御異動は御届け願ひます。

一、会員住所職業の訂正

新会員原簿は各学部の学籍簿に依つて作製し学報発送其他の通信を致す次第ですが御卒業後転居、就職先決定の際は至急御届け下さい。所番地及社名等は省略せず正式の称号にて御通知願ひます。

(御通信御送金の場合は同姓名或は紛れ易い場合も多き故必ず卒業年学科及フリガナを御書添への事。改姓名の御届けには戸籍抄本も御添へ下さること。

一、早稲田学報 (母校並に会員の活動其他報告雑誌)毎月一回中旬発行。維持費御払込無之方へは経済上御送り申上げ兼ねます。

一、会員名簿、毎年十二月上旬発行、当該年度維持費醵出者にのみ配本。

一、校友間の連絡並に親睦に関する諸催

春秋二回の定時校友大会。

春季(会務報告、新卒業生諸君歓迎の意を兼ね卒業式当夜開催)

秋季(十月中の日曜、又は休日、大隈会館にて家族同伴の園遊会、余興の催あり)

本会幹事、大学評議員の選出。

一、人事相談部 職業其他の御相談に応じます。幹事中より五名の委員を設くる外先輩校友中より賛助員〔東京七五名、大阪二〇名、京都一〇名〕を委嘱し斡旋を依頼。

一、特約旅館 地方校友上京の際の御便宜に左記特約旅館を設け茶代廃止等の特約を結ぶ。

名倉屋本店(日本橋区室町三丁目)、同支店(下谷区車坂町八)、今城旅館(神田区錦町一)

一、役員 会長(総長兼任)、幹事百二十名(東京選出六〇名、支部選出六〇名)、内常任幹事二名の外連絡(一〇名)、会計(五名)、編輯(五名)、職業相談(五名)、推選校友銓衡(一〇名)の各委員を設けてあります。

十 校友会の再興に向けて

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 第二次大戦の激化、敗戦の混乱により、『早稲田学報』が昭和十九年一月号を最後に休刊となり、大学・校友会本部と校友とのパイプが途絶えていたが、昭和二十二年四月、大学は全国八万の校友と連絡を図るために『早稲田大学彙報』(B5判、初回のみ八頁、以後は四頁建て。校友会支部宛に一括発送し、無料配布。個人宛希望者は一円二十銭の切手を貼付した封筒を編集室に前送。昭和二十三年二月、発行部数五千とある)を創刊した。

 五月二十日発行の『彙報』の第二号に「学園ニュース」として、四月の銓衡委員会で大学評議員五十人と校友会幹事六十人が決定したとある。

 そのときの選ばれた幹事は左の人たちであった。

〔政経系〕(十五人)伊藤道機、石川勝治、石黒敬七、大島正一、金子八郎、唐沢嘉一、昆田謙一、崎山義一、相馬安雄、田村又六、高広三郎、壺田修、中林貞男、丹尾磯之助、横山三郎

〔法科系〕(九人)我妻源二郎、内田一郎、太田金次郎、郷田真一、杉野金市、野村佐太男、宮沢喜運治、毛受信雄、吉田初雄

〔文科系〕(五人)上井磯吉、大野誠一、谷馨、橋本勇、逸見広

〔商科系〕(十九人)阿部勇五郎、赤山政治、東清重、磯部愉一郎、大島作次郎、木倉純郎、栗原一平、黒田善太郎、佐藤欣治、清水清次良、杉山謙治、田島守保、田中専一、武山光信、高島隆平、戸野秀夫、中瀬直雄、野口保元、若月晋

〔理工科系〕(八人)市川繁弥、尾関俊郎、竹田虎雄、谷鹿光治、寺本幸男、内藤雅悟、中山幸二、室山忠雄

〔推選〕(二人)村上浜吉、和田信賢

〔本部〕(二人)大原宇之一郎、鈴木孝助

〔常任幹事〕毛受信雄、丹尾磯之助

 『彙報』の昭和二十三年三月二十日号は“新卒業生におくる言葉”を特集しているが、その一面に左の記事が掲載されている。

校友会の再建について

毛受信雄

わが早稲田大学校友会は現在約八万の会員を擁し、戦前には日本全国は勿論世界各地に支部をもちその数二百有余に及ぶ盛況であった。そして機関誌「早稲田学報」を毎月刊行、また年々会員名簿を編纂して、母校の発展と会員相互の親睦に寄与して来た。太平洋戦争のためにその活動は一時まひ状態に陥ったけれども、終戦後、戦災の傷手になやむ母校の復興のために立上った全国校友の愛校心は期せずして校友会再建の要望となり、すでに地方支部の復活したもの一二九を越え、本年中には残り全部の復活を見る状勢にあり、学報の復刊、名簿の編纂も着々企てられている。

わが学園は母校と校友を一体とし、わが学園の卒業生は全部校友会員となる建前である。校友会は言わば学園の半身であり、今日のような疾風怒濤時代には母校の発展は校友会の積極的活動にまたねばならないと思う。この際新卒業生諸君を新たにわが会員としてお迎えすることは校友会の心からの喜びとする所である(筆者は校友会常任幹事)

新卒業生諸君へ

本年卒業生の方々に近く本会より校友会御加入の勧誘状を差上げる事になって居りますので、此点を何卒お含み置き願います

校友会

 かくして、校友会の再建の準備はわが国復興の槌音とともに着々と進みつつあった。

 また、地方校友会の動きも出てきて、昭和二十二年五月十日には静岡県吉原町に岳南稲門会が結成され、上坂酉蔵酒枝義旗が講師として赴いている。

 同年七月五日には、島田総長が伊原常務理事、丹尾庶務課長、鈴木就職課長を帯同して大阪校友会に出席、再建の準備が整ったところで開いた大会で二百人が参集し、盛会であった。翌六日には同メンバーが京都を訪問、仁和寺における京都校友会に出席した。

 八月には大学の主催により、北海道夏期大学が函館、旭川、室蘭で開かれ、末高信、和田小次郎、京口元吉、伊藤道機が講師をつとめた。同講師陣による学術講演会も札幌、岩見沢、小樽において行われた。いずれも盛況で三、四百人の聴講者を集めたが、日程に合せてそれぞれの地で校友会が催された。

 夏期休暇中の会合として、大垣校友会、福井県校友会の報告もある。

 大牟田校友会では八月二十日、“人生劇場”を主な演し物として学生劇を上演、純益金一万円を大学復興会へ寄付した。

 十月には二週間にわたり、復興会ならびに校友会支部再建の用務を帯びて、伊原常務理事、中島正信教授、丹尾庶務課長が北九州、山陽地方(別府、大分、熊本、大牟田、福岡、下関、尾道、福山、広島)を訪問し、校友と懇談した(広島には磯部愉一郎復興会副会長と中島教授、福山は伊原常務理事、丹尾課長が出席)。

 十一月には職域校友会である大日ビール稲門会の開催報告がある。

 十一月十六日から二十日にかけて、島田総長、池原常務理事、久保田政経学部長、堤専工科長、鈴木復興会主事等一行七人は北陸地方(新潟、富山、金沢)を歴訪し、各地で講演会を行い、校友と懇談し、復興会への寄付を得た(新潟、高岡市では校友大会開催)。

 十二月には「大山郁夫講演会」が大阪と京都で開かれ、同時に校友大会も催された。

 二十三年一月発行の『彙報』には復活せる校友会支部として、関東二十四、北海道九、東北十五、中部十四、東海十三、北陸十一、近畿十、中国・四国十六、九州十七、計百二十九の支部や校友会名が記されている(現在、支部の名称は道・府・県単位のみ使用し、他は稲門会、校友会、早稲田会等の名称となっている)。

 一月中旬、島田総長は福田秘書課長、鈴木復興会主事を帯同して、三重、名古屋、静岡(大浜理事も出席)の各稲門会へ、二月末には島田総長、伊原常務理事、鈴木復興会主事一行が熱海校友会へ出席した。

 また、三月には富山県校友会再建発会式、四月初めには群馬県支部大会が開かれるなど、大学の復興会からの働きかけ等もあって、各地の稲門会の動きも活発になりつつあった。

 校友会本部では、昭和二十三年三月三日、永楽倶楽部において、連絡・会計の合同委員会を開き、校友会の復興、春季校友大会の開催について話し合った。更に同月二十四日、同所において幹事会を開き、昭和二十三年度より校友会費を百円(二十二年に二十円に改め、終身維持費納入者からも徴収している)に値上げすること、春期大会開催の件を協議した。

十一 復活第一回校友大会

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 昭和二十三年四月二十九日午後一時より、大隈講堂において家族同伴の春の校友大会を開催した。

 昭和十八年春を最後に途絶えていた校友大会でもあり、地方からの出席者も多数あって千四百人が参会した。

大会順序

一、開会の辞 丹尾常任幹事

一、会長挨拶 伊原会長代理

一、会務報告 毛受常任幹事

一、議事

一、余興

イ、詩朗読 加藤道子

ロ、武者小路実篤作「だるま」文芸協会

ハ、坪内逍遙作「役の行者」朗読文芸協会

ニ、坪内逍遙作「お夏狂乱」坂東彦三郎 中村福助

 議事は規則一部改正(維持費を年百円に増額)、満場一致で可決。その後は余興を楽しむとともに、一階ベランダ、二階廊下の売店に相集い談論風発、幕間に福引当選番号を発表、和やかな雰囲気のうちに五時半閉会した。当日の会費は五十円、同伴者一人ごとに三十円であった。

 この大会以後、春秋の大会は今日まで連綿として続いている。その日時は左の通りである。

二十三年 四月二十九日/十一月三日 二十四年 四月十七日/十一月六日

二十五年 五月三日/十月二十二日 二十六年 四月三日/十月二十一日

二十七年 五月十日/十月二十二日 二十八年 四月十日/十一月三日

二十九年 四月十日/十一月三日 三十年 四月九日/十一月三日

三十一年 四月十日/十一月十一日 三十二年 四月十日/十月二十七日

三十三年 四月十一日/十一月三日 三十四年 四月八日/十一月三日

三十五年 四月八日/十一月三日 三十六年 四月十一日/十一月三日

三十七年 四月五日/十月二十日 三十八年 四月十日/十一月十日

三十九年 四月九日/十一月三日 四十年 四月九日/十一月三日

四十一年 四月十二日/十一月三日 四十二年 五月二十九日/十一月三日

四十三年 四月十二日/十一月三日 四十四年 四月九日/十一月三日

四十五年 四月七日/十一月三日 四十六年 四月十二日/十一月三日

四十七年 四月十二日/十一月三日 四十八年 四月十二日/十一月三日

四十九年 四月十二日/十一月三日 五十年 四月十三日/十一月三日

五十一年 四月十八日/十一月三日 五十二年 五月一日/十一月三日

五十三年 四月二十三日/十一月三日 五十四年 五月二十日/十一月三日

五十五年 五月二十五日/十一月三日 五十六年 五月十日/十一月三日

五十七年 五月三十日/十月二十二日

 春の大会は大体四月初旬か中旬であったが、昭和四十九年に交通ストによって百人弱しか出席できないということもあったため、五十四年以降は五月開催となった。秋は母校創立七十周年(昭和二十七年)、七十五周年、八十周年、百周年等、創立記念日の十月二十一日とかかわって開催したこともあったが、十一月三日が通例となっている。

 会場は昭和二十七年春に十年ぶりに上野精養軒で催し、以後、春は上野精養軒、秋は大隈会館・庭園が定例となっていたが、五十年以降、春は大隈講堂・会館・庭園・校友会館、秋は大隈会館・庭園・校友会館となった。

 三十七年春は竣工なった文学部講堂で、四十年春は理工学部新校舎七号館で開催した。

 昭和二十三年九月、『早稲田学報』復刊。判型は『彙報』と同じまま、最初の頃は四頁建てもあったが、後には八頁建てとし、二十五年四月号から現在と同型のA5判の雑誌となった。

 『早稲田大学彙報』は二十二年に八号、二十三年に八号(七、八号は合併で七月二十日発行)、計十六号を刊行したが、戦後の窮乏時代、大学と校友をつなぐ貴重な情報紙であったため、講読希望者が多くなり、最後の頃は校友会維持費納入者に限って発送した。

 二十三年春には戦後の海外稲門会のトップを切って、中日校友による山西省太原稲門会の会合報告が寄せられた。

 二十三年当時の校友会財政は、同年度決算報告によると、経常費の収入は一、二〇二、九三〇・二五円、基本金部の収入は二一三、三九九・〇六円で、『学報』編等費として大学より二三九、九九七円の補助を仰いでいる。

 昭和二十四年度より維持費を年額二百円に改めた。

十二 校友会館の建設

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 昭和二十五年四月、幹事改選、各科別卒業生を案分して六十人を選出。毛受、丹尾常任幹事重任。総務、会計、編集、推選校友選考の各委員も決定。

 二十六年春の大会において、翌年の母校創立七十周年を期して大校友会館を建設すべしとの提言があり、拍手を浴びた。この年度より維持費を三百円に値上げすることを決めた。

 また、秋に名簿を発行した。代価は五百円、予約は四百五十円、送料は三十五円。

 二十七年春の大会において、記念事業として校友会館建設案、新制大学院卒業者を校友にする件、維持費値上げ(四百円)を可決。

 校友会館建設については実行委員を会長より指名することにした。

早稲田大学創立七十周年記念事業校友会館建設基金募集

「我等が母校」早稲田大学は、明治十五年創立以来年々有為の人材を輩出して今や十万の校友を擁するに至り、本年十月にはその創立七十周年記念日を迎えんとしておりますことはまことに御同慶にたえません。

この秋に当り、本会はこれが記念事業として、校友大会の決議に基き、永年の懸案である校友会館を建設して、校友諸君の社交室と地方校友の宿泊室とを設け、兼て現在の本会事務所と早稲田学報編輯室とをここに移し、以て校友相互の親睦を計り母校と校友との連絡を一層緊密にして、本会の使命を達成せんとするものであります。

ここにおいて常にかわらざる母校愛をもつてその繁栄に寄与せらるる校友諸君の御賛同を請い、御醵出を願つて、この記念事業の完成を期したいと存じます。

昭和二十七年七月

早稲田大学校友会

◇これまでの経過◇

早稲田大学校友会館建設のことは、既に卅年来の懸案でありまして、従来本部ならびに各地支部の各種会合の席上において屢屢話題となりましたのにも拘わらずその機熟さず今日に至るまで遂に実現をみる事なく経過したものであります。

今回母校創立七十周年記念事業につき幹事会にて寄々協議のうえ、準備委員を設けてこれを進捗することに打合せ、昭和廿六年十月二十六日会長より先ずその準備委員二十二名が嘱任せらるるに至りました。第一回の準備委員会を同年十一月七日開催、協議の結果ここに校友会館建設案がなつたのであります。

その構想については都内に既存する他校の会館を参考とし、建設候補地については夫々実地に調査を遂げて、同月二十六日第二回、十二月十七日第三回の準備委員会を開催し、数箇の案を検討協議致しました。

もとより十万の校友を擁する本会の会館としては、都心に近く宏壮なるものをとの希望は、何人も等しく抱くところではありますが現下の経済事情等を考慮致しまして、将来適当なる時期に更に拡張する構想の下に一先ずこの案に依ることとしました。

次いで本年三月二十四日の幹事会の議を経て、五月十日の春季校友大会にはかり全会一致をもつてこれが実行に着手することに決定し各位の格別なる御支援を期待することとなつた次第であります。

建設計画

建設予定地 大隈会館敷地内

様式 鉄筋コンクリート造二階建延約二百坪

予算 一、金参千万円也(建設費・什器費その他)

募集要項

一、一口 金壱千円以上

一、御申込はなるべく十月末日迄に御願い致します。御送金は近日御送付の振替貯金用紙御利用又は御便利の方法で御願い致します。

一、寄附者の氏名は早稲田学報誌上に順次発表致します。

(『早稲田学報』昭和二十七年七月一日発行 第六二一号 三七頁)

 十月二十二日、安部球場における記念祝賀式に引続き、午後二時半より大隈会館・庭園において秋季校友大会を開催、全国から出席者があり、参会者千二百人。会は丹尾常任幹事の司会で始まり、島田会長の挨拶についで、招待者のうちから右派社会党の吉川兼光新代議士、地方校友会を代表して広島校友会長の島田兵蔵中国電力社長が挨拶し、二十五年以上勤続の校友会幹事および職員、常任幹事担当者に会長より感謝状ならびに記念品を贈った。

 感謝状贈呈者氏名は左の通りである。

東清重、井芹継志、石川勝治、磯部愉一郎、市川繁弥、上井磯吉、大島正一、影近清毅、黒田善太郎、鈴木佐平次、田島守保、高広三郎、中瀬直雄、丹尾磯之助、平野登美夫、毛受信雄、山森利一、蠣崎敏雄、(事務)今井一郎

 なお、七十周年を記念して各地で校友会が開催されたが、島田総長、丹尾校友会常任幹事、福田秘書役一行は十一月八日西下し、大阪(関西連合大会)、福岡、佐賀、名古屋の校友会に出席した。関西連合大会には原安三郎評議員会長、河竹繁俊演劇博物館長、内藤多仲理工学部教授も出席、原評議員会長は名古屋校友会にも出席した。以上のほか、広島および兵庫の校友会には安念精一理事、山本研一理工学部教授、丹尾常任幹事が、淡路校友会には山本教授、丹尾常任幹事が出席した。

 二十八年春、規則改正を行い、幹事を二百人(東京在住、地方在住各百人)増員した。毛受常任幹事に代って高木謙吉常任幹事就任、丹尾常任幹事は重任。

 翌二十九年秋の大会当日、開会前に校友会館の定礎式を行った。

 三十年十一月三日、午前十一時半、大隈会館ロビイ前の式場で校友会館落成式が行われた。ただ、落成式当日に至っても建設資金三千万円のうち千七百万円しか寄付が集まらず、高木常任幹事が「校友諸兄の一層の協力を願いたい」と窮状を訴えている。

 式後に開かれた大会で、校友会館建設資金五万元と衝立(会館一階に現存)寄贈の目録を寄せた台湾同学会(校友会)へ感謝状を送付することを決めた。

 大学院、学部に籍を置く藤間菫、中村芝寿、花柳寛、若柳雅康の四人が舞踊「浦島」「島の千歳」「連獅子」を披露した。

 全国各地からの参会者は千百人を超えた。

 校友会では新しく「わせだタイ」を製作し、即売した。

校友会館 一階 一四二・一〇坪

二階 一一四・七〇坪

合計(延)二五六・八〇坪

工費 主体工事 一七、三五三、〇〇〇円

電灯、動力、火災報知器工事 一、九二五、〇〇〇円

給排水、衛生、消火栓工事 二、四一九、八九五円

瓦斯工事 五〇二、七八五円

家具什器 二、二一七、三二〇円

合計 二四、四一八、〇〇〇円

設計監理施設部建設課

主体工事請負 株式会社戸田組

電気関係請負 株式会社愛工社

給排水衛生関係 施設部直営

家具装飾 高島屋・東横百貨店其他

十三 全国支部長会のスタート

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 昭和三十一年春の大会において、㈠維持費増額の件(従来の年額四百円を五百円に増額)、㈡幹事増員の件(東京都在住会員中より選定の幹事百人を百二十人に増員)(東京都在住会員中より選定の幹事中現任教職員に割当てる三人を五人とする)が決定。

 当時の校友会概況は、新校友数(昭三十一年三月)は五、六〇八人(学部卒業生)、二六二人(大学院修了者)、一四人(推選校友)、校友総数一二九、〇一六人(死亡一七、一九八人)、住所判明者九四、六一二人、支部四五、地方校友会一二三である。

 翌日、正午より大学と校友会共催のもとに全国支部長会を校友会館食堂において開いた。大浜総長(昭和二十九年就任)が大学の近況を話し、各支部長がそれぞれの支部の現況を語るとともに、大学への要望を述べた。

 この年、大浜総長が『早稲田学報』一月号に

校友が母校を中心に団結し、心の古里としてこれを慕い、その発展のために力を捧げる気風は、日本では私学特有の現象のようである。そこに私学のよさと、強味があるともいえる。しかし英米のそれに比べると、組織的にも、精神的にも、まだしもの感を禁じえない。母校は、社会の舞台に活躍する校友にとっては、大きな背景であり、スポット・ライトである。母校の名声が高まることによって、校友の姿も引立つ。逆に社会の各面における校友の地歩が高まり、その力が増大することによって、母校の声価もたかまり、いよいよ繁栄するのである。この面において一段の工夫をこらしたいと思うが、大隈庭園内に建設された校友会館も、母校と校友とをつなぐ上に大きな役割を演ずるであろう。(三頁)

と述べ、現在、大学主催で行われているホームカミングデー等の大学と校友を結ぶ行事を紹介している。その手初めに具現したのが全国支部長会で、現在も全国校友代表者会として引続き行われている。この折は多数の支部長が前日の大会に出席し、校友会館に宿泊した。

 三十二年十月二十七日、母校創立七十五周年記念秋季校友大会を開催。

 午前に故田中穂積総長の銅像除幕式を終え、正午より大会を行い、左の人々を特別功労者として表彰した。

赤堀秀雄、浅川湖郎、天谷丑之助、井上啓一郎、井本孝、飯塚信太、家本為一、石黒大次郎、石原善三郎、稲田元長、今井帰一、宇野秀吉、請川卓、小熊倉次郎、小貫太郎、大森慶次郎、太田秀一、河瀬敏男、柏晃、河辺泰、草皆久治、熊原一郎、小出惣一、小林与兵衛、後藤幹次、近寅一郎、佐藤政吉、坂口献吉、阪田冨三郎、篠原秀吉、杉本忠道、田村文之助、多巻達夫、高木謙吉、武田与十郎、寺田七男、武塙祐吉、辻村良衛、土橋一雄、殿界栄吉、名和野秀雄、奈良勝美、中山均、永松健一、野島寿平、野村洋三、服部敬雄、原玄太郎、原澄治、原田友厚、原田謙二、星島伎史良、堀勇吉、真鍋英二、増田静、松栄俊三、宮沢喜運治、宮田重文、村井久太郎、村井彦右衛門、森脇魁、山口治郎兵衛、山田力蔵、山本武、吉見勢之助、吉村禎三、吉本清治、米沢多助、和島茂兵衛、和田喜太郎

 三十四年春、東京在住者から選ぶ幹事を十人増員することを決め、五月一日に決定。高木常任幹事に代って菅野肇常任幹事就任。丹尾常任幹事は重任。

十四 母校創立八十周年

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 昭和三十六年春の大会において、大浜総長は前年春秋の大会よりさらに具体的に記念事業の概況を述べ、校友の協力を要請した。

 同年校友会館増築。

 翌三十七年春の大会は、八十周年記念事業の一環として竣工した文学部校舎の落成式当日、文学部講堂で行い、文学部学生市川染五郎、北大路欣也が日本舞踊「風流船ぞろい」を披露した。

 同日、維持費を八百円に増額する件を可決。

 当時の校友会概況は新校友数六、八九一人(学部六、四四三人、大学院三〇三人、専攻科二八人、博士一人、推選一一六人)、校友総数一六九、一七六人、支部四五、地方校友会一八二、職域校友会一六四、校友会館利用者八七、〇〇〇人、宿泊者七八四人。

 同年、幹事改選、丹尾常任幹事(学外)、大西鉄之祐常任幹事(学内)就任。総務、会計、編集、推選校友選考の各委員会のほかに校友会館運営委員会を増設した。

 秋季校友大会は創立八十周年記念式典の前夜、十月二十日、歌舞伎座で上演中の石川達三原案「人生百二十五年」の観劇に振り替えて行われた。久板栄次郎が劇化、演出に当り、大隈には尾上松緑が扮した。

 三十九年七月、大学と校友会共催による第一回職域代表者会を開催。地方校友会は県、都市単位で組織され、充実しつつあるが、東京においては職場単位の稲門会を中心に組織を強化し、大学と校友とのつながりを深めようというもので、今日まで毎年続けて行われている。

 同年秋の校友大会は東京オリンピック出場選手、役員を招待して挙行し、久々にちょっぴり高級な景品を用意して福引きを行い盛況であった。

 校友会規則を改正し、東京都在住会員から選出する幹事を百六十人、地方から百二十人とした。

 四十年春は、八十周年記念事業募金によって完成した理工学部新校舎七号館において開催。難波理工学部長の案内で教室、新設備等を見学した。韓国同窓会から金允基、金相根、閔晶植、張河鼎の四人の幹部が出席した。

 八十周年記念事業の募金に当っては多くの校友が募金委員、募金実行委員として、目標額二十億円の達成に努力し、これを完遂させた。

十五 学園紛争と校友会

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 昭和四十年春、幹事改選、内古閑寅太郎常任幹事(学外・新任)、大西鉄之祐(学内・重任)選出。

 四十年十二月から翌年六月までいわゆる学園紛争によって大学は荒れた。

 二月になって校友国会議員が調停に乗り出し、大いに努力を重ねたが功を奏さなかった。

 三月十日の校友会幹事会において、大浜総長は「事態が緊迫しはじめ、内古閑常任幹事より校友会としてなにか役に立ちたいとの申し入れがあったが、大学と学生の問題であるので、静観してほしい、校友会としての声援だけいただけば結構だと回答した。二月四日は初めて経験した異様な雰囲気の中でヤジ学生と対決して失敗したが、学内の空気を一新するために、大学の立場を明らかにした書面にタブロイド判広報(早稲田)や『早稲田学報』を添えて学生ならびに父兄に発送する。このほか各学部の主宰する説明会に出席して将来に対するビジョンを述べ、質疑応答もする考えである」と、紛争解決への積極的な態度を示した。

 しかし、事態は解決の方向へ進展せず、大浜総長が五月十日退任、阿部賢一評議員会長が総長代行に就任、九月、第八代総長に選ばれ、校友会長に就任。

 この間、校友会は大学を鞭撻する意味において左のような要望書を出した。

要望書

母校早稲田大学の騒乱は二ヵ月有余に及ぶ今日、未だ解決の曙光だに見えず、全校友の等しく深憂しているところである。

八十余年の歴史と伝統をもつ早稲田大学の建学の精神に基づき、理事者、教職員、学生、互に反省して、建設的に問題を解決し、一日も速やかに、信頼と協力を基盤とした秩序を取り戻し、失われた大学の威信と名誉の回復に尽力されたい。

われわれは、今回の紛争を単なる学園騒動として終らせることなく、この問題を大学の大きな転換期として捉え、払われた多くの犠牲を、大学の画期的発展に結びつけ、後日に禍根を残さないよう、真にこの難局突破に挺身されることを要望する。

昭和四十一年四月十二日

早稲田大学校友会春季校友大会

今日の早稲田大学の紛争を校友としては、このまま傍観してよいものであろうか。今年の卒業生は卒業式もなく涙をのんで学園を去ったということである。外からみていて、簡単なことではなく、根が深いということがうけとれる。はたして早稲田だけで解決できる問題であろうか。本日ここに集まった方々は一日も早い正常化を望み、早稲田が多年の名声を復することを念願されていることと思う。他の私立大学は早稲田の斜陽をなんとみているだろうか。

ここにおきまして私は提案をしたい。さる三月十日の校友会幹事会にさかのぼりますがその席上、幹事の皆さんから決議をつくれという話があった。あまり唐突だったので、私がおあずかりして、四月七日、総務委員の方々と相談しましたところわれわれの総意として大学を鞭撻したらどうだろうという案がでました。今日集まった皆さんがこういう方法において要望書をだすことをご賛同ねがえるならば、ここに文案を考えてきましたので読み上げたい。

(春季校友大会における内古閑常任幹事の提案理由)

(『早稲田学報』昭和四十一年五月十五日発行 第七六一号 七頁)

 四十二年三月、大西常任幹事(大学秘書課長・校友課長)が体育局教授に転出のため退任、浜田健三庶務部長が就任。

 翌年三月、浜田部長が経理部長に転任のため、国分保庶務部長が常任幹事に就任した。

 同年より維持費を千円に値上げした。

 同年五月、任期満了により幹事改選、東京都在住会員より百六十人を選出。野島寿平常任幹事(学外・新任)、国分保常任幹事(学内・重任)就任。

 これより先、四月に阿部総長辞意表明、選挙の結果、第九代総長に時子山常三郎政治経済学部教授が選ばれた。七月五日、時子山新総長・新校友会長招待による臨時校友会幹事会が永楽倶楽部において開催され、新会長が抱負を語り、数人の幹事が激励の言葉を述べた。

十六 ホームカミングデー始まる

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 昭和四十五年十月、村井資長理工学部教授が第十代総長に就任することが決まった。

 大浜総長時代から構想のあった大学主催によるホームカミングデーが実現することになり、十一月二日、大隈講堂、大隈庭園において第一回ホームカミングデーが開かれた。

 卒業後二十五年目に当たるOBを毎年順に招待すること、それ以前の卒業生については明治年間、あるいは大正のある時期と区切り、順を追って招待することが決められ、この日は昭和二十一年と明治年間の卒業生が招かれた。

 村井総長が歓迎の挨拶を述べ、大浜元総長が外国におけるレユニオン、ホームカミングデーについて語り、昭和二十一年の卒業生代表(村野賢哉)、明治年間の卒業生代表(井本孝)が謝辞を述べた。この後、庭園で園遊会に移った。

 この年は秋の校友大会の前日に開催したが、翌四十六年からは校友大会と同日に催し、ホームカミングデー終了後、全員が大会に合流する形で行われるようになった。

 四十六年春、規則改正。幹事の定数を三百五十人(東京在住百六十人を百八十人、各支部百二十人を百七十人)とし、年度維持費を千五百円に改定した。

 幹事改選、野島(学外)、国分(学内)両常任幹事留任。

 八月、国分常任幹事退任、渡部辰巳庶務部長が就任した。

 四十八年より終身維持費(三万円)の制度を設けた。また、大学からの要望もあり、被推選校友の範囲を大学関係者にまで拡大した。

 第五条第一項第三号「早稲田大学関係者で、早稲田大学より推挙された者」。

 四十九年春の大会においてさらに規則改正。校友会幹事および早稲田大学商議員の各道府県別割当数を従来の在住会員数ではなく在住の維持費納入会員数の比率で算出することに改め、維持費を年二千円、終身維持費を四万円に値上げした。

 幹事改選、野島、渡部両常任幹事重任。

 五十年から春の大会を大隈講堂で行うことにした。上野精養軒における春の大会は同軒の好意によって低廉な会費で行ってきたが、会員が多くなって最終的な出席者数の把握が面倒になり、パーティを大隈庭園での園遊会形式に替えたものである。

十七 幹事の任期を四年に延長

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 昭和五十年、郵税の値上げによる通信費の増嵩が避けられない状勢になり、諸物価の高騰、人件費の増等も考えて年度維持費を二千円から三千円に改定した。終身維持費は六万円とした。

 地域別維持費納入者名簿(頒布代実費三千円)を作成した。

 同年春の幹事会において「幹事の任期を商議員と同じ四年にして同時に選出するようにしてほしい。支部で選出する場合、人選が行いやすい」との提言があり、規則改正委員会で検討を重ね、「幹事の任期を四年とし、現任幹事の任期を五十三年三月三十一日までとする」改正案ができ、五十一年秋の校友大会で承認を得た。

 五十二年春の大会において、村井会長(総長)は「五年後の百周年については、学内の意見をうかがい、理事会で検討し、さらにまた学内の意見を徴した上、今年の二月の評議員会で早稲田大学百周年記念事業計画委員会をつくることを決定した。委員約百名の人選は五月二十日までに終え、評議員会で決定の上、その委員会を発足させることになっている。その中の専門委員会等で、今後の早稲田大学の進むべき道、記念事業が討議されるが、委員会だけでいろいろなことができるわけではないので、その際には校友のみなさんの全面的な協力を得たい」と百周年へ向けての決意を披瀝した。

 同年秋の大会から食券を発行しないことにし、模擬店は現金で利用願うことにした。

 因に大会会費を見てみると、三十年春八百円、秋三百円、四十一年春千円、秋五百円、四十九年春二千五百円、秋千円となっている。春の会場は上野精養軒で各人が席についての食事、秋は大隈庭園で立食、以前は食べ物を指定した券を出していたが、最近は金券で自由に模擬店を利用する形式にした。

 昭和五十三年、幹事改選、友田信常任幹事就任、渡部常任幹事留任。

 秋、清水司理工学部教授第十一代総長に就任。

 秋季大会において、母校創立百周年の記念事業を強力にバックアップする意味からも校友会組織の基盤をより強固にするため、幹事を三百五十人から四百八十人(東京百八十人を二百三十人、各支部百七十人を二百二十人、現任教職員三十人)に増員する、東京二百三十人中職域から百二十七人を選ぶことのほか、推選校友に関する条項等、規則を改正した。

 五十四年春の幹事会において、清水会長より「友田常任幹事に幹事の代表という意味で代表幹事の名称で活躍いただきたい」との提案があり、満場一致で賛同を得た。

 五月末、渡部庶務部長定年退職のため、校友会常任幹事退任。六月、長谷川泰庶務部長常任幹事就任。

 幹事数を六百人とする規則改正案を春の大会で議決、秋にも推選校友の被推選資格の生ずるまでの年数等、規則改正案が大会に提出され、承認を得た。

 左にその規則を掲げる。

早稲田大学校友会規則

第一章 総則

第一条 本会は、早稲田大学校友会という。

第二条 本会は、会員相互の親睦を厚くし、会員と早稲田大学との関係を密にし、早稲田大学の事業を援助することをもって目的とする。

第三条 本会は、本部を東京都に、支部を各道府県におく。

2 地方在住の会員は、別に地方校友会を組織することができる。

第二章 会員

第四条 本会は、左の会員をもって組織する。

一 早稲田大学卒業生

二 早稲田大学大学院および早稲田大学専攻科各課程修了者

三 早稲田大学教職員

四 早稲田大学評議員または商議員

五 推選校友

第五条 推選校友とは、人格識見その他早稲田大学校友として推選するに足る人物で、左記各号の一に該当し且つ本人がこれを希望する者につき、本会幹事会において選考の上推選した者をいう。

一 早稲田大学教職員であった者

二 早稲田大学評議員または商議員であった者

三 早稲田大学関係者で、早稲田大学より推挙された者

四 早稲田大学附属早稲田工手学校、同早稲田工業学校、同早稲田高等工学校、早稲田大学工業高等学校卒業生または早稲田大学高等学院(旧制)修了生

五 早稲田大学に満二年以上在学した者で、退学後満五年以上を経過した者

六 早稲田大学高等学院卒業生で、卒業後満七年以上を経過した者

七 早稲田大学産業技術専修学校本科または早稲田大学専門学校専門課程卒業生で、卒業後満五年以上を経過した者

八 早稲田大学システム科学研究所一年制専門教育課程を修了した者で、修了後満二年以上を経過した者

2 早稲田大学在学満二年に達しない者でも、早稲田大学または本会に特に功労があった者は、前項第五号の規定にかかわらず、これを推選することができる。

3 被推選者が東京都在住者の場合は、二人以上の本会幹事において、また地方在住者の場合は支部または地方校友会において、履歴書および推選に関する資格書類添附の上推挙するものとする。

第六条 会員中不都合の行為があった者は、大会の決議をもって除名することができる。

第三章 会議

第七条 本会の会議は、大会および幹事会の二種とする。

第八条 大会および幹事会は、会長がこれを招集する。

2 定時大会は、毎年春秋二回これを開き、事務会計の報告および必要の事項を議定する。

3 臨時大会は、幹事会で必要と認めたとき、または会員の百分の五以上の請求があったとき、幹事会の決議を経て三週間以内にこれを開く。

第九条 大会招集の通知は、郵便または新聞広告によるものとする。

第十条 幹事会は、会長または幹事十人以上が必要と認めたときこれを開く。

第十一条 幹事会は、幹事五十人以上の出席がなければ決議をすることができない。

第十二条 緊急の事項については、東京都に在住する幹事のみをもって幹事会を開き決議をすることができる。ただし、この場合には、東京都在住幹事の四分の一以上の出席を要する。

第十三条 大会の議長は、会長がこれに任じ、会長に事故あるときは幹事の互選をもって代理者を定める。

第四章 役員

第十四条 本会に、会長一人幹事六百人以内をおく。

第十五条 会長は、早稲田大学総長がこれに任ずる。

第十六条 幹事は、左の区分によりこれを選任する。

一 東京都在住会員のうちから選出する者 二百三十人

二 各支部在住会員のうちから各支部毎に選出する者 合計二百二十人

三 在住地域にかかわりなく職域等から選出する者 百二十人

四 現任教職員のうちから早稲田大学総長が指名する者 三十人以内

第十七条 前条第一号所定の幹事は、左の方法によりこれを選出する。

一 会長は、東京都在住会員のうちから幹事選考委員十五人を指名委嘱する。

二 幹事選考委員は、その合議をもって左の区分により幹事二百三十人を選考する。

イ 百人は、会員の修得した学科により、政治経済科、法科、文科、商科、理工科の五部に分け、各部維持費納入会員数の比率に応じて選考する。

ロ 三人は、推選校友のうちから選考する。

ハ 百二十七人は、前各号の区別にかかわりなく職域別に選考する。

2 前条第二号の規定により各支部の選出する幹事の員数は、各支部の維持費納入会員数の比率に応じ幹事会の決議によって、各支部に割当てるものとし、各支部に割当てられた幹事は、各支部において、その支部在住の会員のうちから、支部規則の定める方法によりこれを選出する。

3 前条第三号所定の幹事は、会員のうちから会長が指名する十五人の職域幹事選考委員の合議によりこれを選任する。

第十八条 幹事の任期は、四年とする。

第十九条 東京都在住会員選出幹事に欠員を生じたときは、東京都在住の現任幹事の合議により、各支部選出幹事に欠員を生じたときは、その選出支部において、職域選出幹事に欠員を生じたときは、当該職域より、それぞれ補充する。ただし、次の改選期までこれを延期することができる。

2 補欠者の任期は、前任者の残任期間とする。

第二十条 会長は、本会を代表し、会務を統理する。

第二十一条 幹事は、幹事会を組織し、左の事務を執行処理する。

一 本会の諸会合に関すること

二 早稲田大学および本会状況の報告に関すること

三 会誌(早稲田学報)の編集、ならびに会員名簿の調製およびその頒布に関すること

四 予算決算その他一切の会計に関すること

五 推選校友の選考に関すること

六 幹事および商議員選挙の事務管理に関すること

七 その他本会の目的を達成するため必要な事項の計画処理に関すること

2 幹事は、幹事会の決議により会務を分担することができる。

第二十二条幹事会に、幹事の互選によって代表幹事一人、常任幹事若干人をおく。

2 代表幹事は、議事を整理する。

3 常任幹事は、代表幹事を補佐し、代表幹事に事故あるときその職務を行う。

第二十三条 会長は、幹事会の決議により事務職員を任用する。

第二十四条 本会に、顧問および参与若干人をおくことができる。

2 顧問および参与は、幹事会の議を経て、会長がこれを委嘱する。

第二十五条 会長、顧問、参与および幹事は、無報酬とする。ただし、代表幹事および常任幹事に対しては報酬を支給することができる。

第五章 早稲田大学商議員

第二十六条 本会は、早稲田大学校規の定めるところによって、商議員三百五十人以内を選出する。

第二十七条 前条の商議員の員数は、各都道府県在住の維持費納入会員数の比率に応じ幹事会の決議によって、各都道府県に割当てるものとする。

第二十八条 前条によって東京都に割当てられた商議員は、東京都在住会員のうちから左の方法によりこれを選出する。

一 会長は、東京都在住会員のうちから商議員選考委員十五人を指名委嘱する。

二 商議員選考委員は、その合議をもって商議員を選考する。

2 前条によって各道府県に割当てられた商議員は、各支部において、その支部在住の会員のうちから、支部規則の定める方法によりこれを選出する。

第二十九条 商議員に欠員を生じたときは、前条の規定に準じ補充する。ただし、次の改選期までこれを延期することができる。

2 補欠者の任期は、前任者の残任期間とする。

第六章 会計

第三十条 会員は、本会の維持費を納入しなければならない。年度維持費は金参千円、終身維持費を金六万円とし、終身維持費を納入したときは、爾後維持費の納入を要しないものとする。

第三十一条 本会の会計年度は、毎年四月一日に始まり翌年三月三十一日に終る。

第三十二条 本会は、基本金および維持費として会員その他の寄附を受ける。

第三十三条 維持費に剰余を生じたときは、幹事会の決議を経てこれを基本金に編入することができる。

第七章 支部

第三十四条 本会支部は、支部規則、会員の住所氏名および職業を本会本部に報告するものとする。

2 前項に異動を生じたときもまた同じである。

第三十五条 本会支部には、一定の事務所を設け、役員をおく。

第八章 雑則

第三十六条 本規則第四条第一号で早稲田大学というのは、早稲田大学各学部、早稲田大学専門部、早稲田大学高等師範部、早稲田専門学校、東京専門学校を包括する。

第三十七条 本規則第十七条で政治経済科というのは、邦語政治科、専門部政治経済科、英語政治科、大学部政治経済学科、政治経済学部、早稲田専門学校政治経済科、大学院政治学研究科および経済学研究科を、法科というのは、邦語法律科、専門部法律科、英語法律科、邦語行政科、英語行政科、大学部法学科、法学部、早稲田専門学校法律科、大学院法学研究科を、文科というのは、英語本科、英語学科、英語普通科、専修英語科、文学科、文学科選科、大学部文学科、文学部、大学院文学研究科、高等師範部、教育学部、専攻科、清国留学生部を、商科というのは、大学部商科、商学部、専門部商科、早稲田専門学校商科、大学院商学研究科、社会科学部を、理工科というのは、大学部理工科、理工学部、専門部工科、大学院理工学研究科を包括する。数部科を卒業した者は、最後に卒業した部科に属する。

第三十八条 本規則第十七条および第二十七条に定める維持費納入会員の員数は、幹事もしくは商議員の当該改選の年における二月末日を基準日としてこれを決定する。

第三十九条 会員は、その住所氏名および職業を変更したときは、速やかに本会本部に通知しなければならない。

第四十条 本規則に規定しない細目は、幹事会の決議をもってこれを定める。

第四十一条 本規則は、幹事会出席幹事の三分の二以上の同意および大会出席者過半数の承認を経なければこれを変更することができない。ただし、第三十条の維持費額の改定については、幹事会出席幹事の三分の二以上の同意を経て行うことができる。

付則

1 この改正規則は、昭和五十四年十一月三日から施行する。

2 この改正規則施行後に選出される幹事の任期は、第十八条の規定にかかわらず、昭和五十七年三月三十一日までとする。

 五十五年春、商学部入学試験問題漏洩事件発生。

 清水総長は校友会幹事会、大会、全国校友代表者会等で、校友に対し、三月に開始する予定であった募金活動を一時期見送ることを表明した。

 しかし、熱意あふれる校友、父兄から寄付が集まり始めており、寄付者芳名の第一回発表を『早稲田学報』四月号で行い、七月号には募金実行委員名を発表、募金活動も活発になり始めた。

 五十六年春、商学部で過去の不正入学、成績原簿改竄が明らかとなり、関係者は苦境に立たされたが、春の校友大会ではしめくくりに「清水総長万歳」を三唱し、同総長を大いに激励した。

 同年より維持費を三千五百円に値上げした。

 新キャンパス用地の決定にあたっても紆余曲折があったが、春季大会の前日に行われた全国校友代表者会において「清水体制を支持し、募金活動に邁進しよう」と決議した。

 五十七年春、母校の創立百周年を記念して十年ぶりに発刊する校友会会員名簿が完成。二分冊。収録人員約三十三万人(物故者約三万人を含む)。頒価は会員一万五千円(年度維持費三千五百円を含む)、一般二万円。

 幹事、商議員改選、校友会選出商議員数を三百五十人から三百七十人に増員した。

 友田代表幹事、長谷川常任幹事再任。

 母校創立百周年に当っては『早稲田学報』十月号を創立百周年記念号とし、十一月号を記念式典記録号とした。また別途、創刊時からの早稲田関係者の名論文、随想等を集めた創立百周年記念臨時増刊号を発行した。

 十月二十二日、早稲田大学創立百周年記念校友大会をホームカミングデーと併せて記念会堂において開催。記念大会とあって約二千人が参集した。

 清水司総長・校友会長、次期総長西原春夫法学部教授、校友代表の坂本朝一前日本放送協会会長、昭和十九年卒業生代表の富岡唯一日本重化学工業社長、昭和三十三年卒業生代表の熊谷太一郎熊谷組社長が熱のこもった格調高い挨拶をした。

 この後、大隈会館、庭園で園遊会を催し、歓談の時を過ごした。