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第四編 系属校

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第二章 早稲田中学校・早稲田高等学校

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一 明治二十八年―同四十五年

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 明治二十八年十一月三日、東京専門学校教授坪内雄蔵は、自宅において同校幹事市島謙吉・同講師金子馬治と会合、数年来大隈重信高田早苗等との間で話題となっていた理想的中学校創立の件について協議した。この間の事情を、大正十年十一月刊の『創立二十五周年紀念 早稲田中学校創業要録』は次の如く記す。

明治二十四・五年の頃より大隈伯爵を始め高田早苗坪内雄蔵市島謙吉等の諸氏は、早稲田方面に、一の中学校を設立し、一は以て東京府下殊に山の手方面に於ける中等教育の欠陥を補ひ、一は以て東京専門学校を大学となす時の階梯となさんとの考へを抱き、折に触れ其の意見を漏らされたることありしも未だ具体的に案を立てて相謀りしことなかりしが、時の東京専門学校幹事市島謙吉、文科教員金子馬治の両氏は熱心に中学校創立の事を主張し、遂に明治二十八年十一月三日天長節の祝日に坪内雄蔵氏宅に会し協議の末意見を起草し、創立及維持に関する収支会計予算書を調製せり。

 ここで「東京府下殊に山の手方面に於ける中等教育の欠陥」というのは、「純粋の府立は東京府立第一中学校唯だ一校ありしのみ、私立は城北中学校(今日の府立第四中学校)、開成中学校、正則中学校、錦城中学校、攻玉社中学校、中学郁文館、日本中学校、商工中学校、東京中学校、独逸協会中学校、明治義会中学校にして此の外に略ぼ同程度の中等学校二、三ありしのみ」(前掲書)といった当時の状態を指している。そしてまた、「東京専門学校を大学となす時の階梯となさん」という意向の裏には、東京専門学校生の多数は中等普通教育を受けずに一足飛びに専門学科を専修していた事情があった。この明治二十八年という年は、前年八月に勃発した日清戦役が我が国の勝利に帰し、国内には昂然たる気分の漲り始めた時である。急速な近代国家への脱皮はまた、優れた中学校設立の要望へも繫っていったであろう。

 坪内、市島、金子の三氏は更に大隈重信大隈英麿高田早苗、今井鉄太郎の諸氏に謀り、その賛同を得てここに早稲田中学校の創立は決定された(後に十一月三日を創立記念日としたが、式典の行われたのは大正二年のことである)。十二月十二日、矢来倶楽部において第一回の創立委員会を開き、大隈英麿等九名の委員を挙げ、創立に関する要件を協議決定、越えて二十九年一月十二日より委員はしばしば会合を重ね、同月二十三日までに職員の幹部四名を決定した。すなわち、校長大隈英麿、教頭坪内雄蔵、教務幹事今井鉄太郎、事務幹事兼寄宿舎監増子喜一郎の諸氏である。

 明治二十九年三月十二日、東京府知事より早稲田尋常中学校設置の認可を得、四月五日開校式を東京専門学校講堂で挙行した。来賓二百余名、生徒数は一年から三年まで合計七十八名であった。翌六日同じく東京専門学校校舎にて授業開始。借家の窮屈を脱し、漸く自前の校舎百八十余坪(大隈伯の寄附による)が完成、移転することを得たのは、五ヵ月後の九月七日のことである。その後生徒数は急速に増え、十二月末には合計二百四十七名を数えるに至った。明治の元勲大隈重信伯の設立した中学校ということで、当初からいかに大きな期待が寄せられていたかは、この一事によっても容易に察することができる。

 しかしながら本校への期待は、もとよりこのような外見的要因のみによるものではなく、教授内容の質の高さにこそ、一層強く寄せられたものであることは言うまでもない。明治二十九年二月に起草された『早稲田尋常中学校創立之趣旨』によれば、その目標とするところは「最も倫理の教育に重きを置き併せて時勢の必要に鑑み大に外国語の教授に工夫」することであった。そしてその最も重きを置くべき倫理教育を担当したのが、初代教頭に就任した坪内逍遙博士だったことは、今日よく知られていることである。当時の幹事だった増子喜一郎の談話によると、坪内博士の修身教育に対して払った苦心と努力は、筆舌に尽し難いものだったという。「先生(坪内博士)は知育徳育体育三者の中で、最も重きを徳育に置かれたが、遂に老壮儒教などの東洋思想は勿論、倫理修身哲学に関するあらゆる東西の著書を渉猟討覈して、修身教授の考案を立て」(前掲『創業要録』所収の談話による。次も同じ)たというほどで、それだけにこの授業は「実に感化力の深く且切なもの」だった。しかし博士は単に授業で倫理道徳の重要を説くに留まらなかった。これもまたよく知られた話だが、生徒に禁煙を命じた際、自ら範を示すのでなくては徳育を語ることは許されないという信念から、ひと一倍の愛煙家だったにも拘らず、断然煙草を絶ってしまった。そのため晩年に至るまで甚しい不眠に悩まされたが、遂にこれを押し通したという。この一事から見ても、いかに博士が倫理を身を以て示そうとしたかが分るのである。

 明治三十年六月、早稲田鶴巻町十番地(現在早稲田実業学校所在地)に寄宿舎が落成した。この頃地方では中学校は一県一校のみという状態だったので、中学に学ぶには大多数の者が中学のある都市に下宿せねばならない。どうせ下宿して通学するのなら東京に出た方が良いというわけで、中学生の東京遊学が多かった。従って早稲田中学校も創立の当初から寄宿舎を設けて、地方からの遊学生を迎えたが、それも借家で、現在の水稲荷の所在地、旧早大付属甘泉園が、当時徳川氏の清水邸であったのを借りていたのである。しかし新築の寄宿舎もたちまち満員となったので、九月には「認可下宿舎」を設けることとなった。十月の調査によると、全校生四百四十二名の約五分の一に当る八十七名が寄宿舎生であった。十月十七日、寄宿舎生が興風会を組織し、音楽部、運動部、雑誌部を設け、発会式をあげ、興風会雑誌創刊号を発刊。今日の生徒会所属の興風会の誕生である。雑誌『興風』は、その後二度の中断があったが、昭和五十五年現在再度の創刊二十号を数えるに至っている。

 明治三十一年五月七日、本校初の運動会が穴八幡下の原において行われた。十二月五日、東京府知事の許可を得て社団法人となる。この年校舎の増築があり、八百人以上の生徒を教育し得る設備とした。翌三十二年二月六日に、文部省は中学校令ならびに施行規則を発布し、一校の定員を四百人以下とし、特別の事情ある時は六百人まで増員することができるが、ただしこの規則発布当時既に六百人以上の設備あるものについては、特に八百人まで在学せしめることを得るものと定めた。このため本校は、全国の中学に率先して生徒定員八百名の認可を得たのである。

 明治三十二年四月九日、第一回卒業証書授与式挙行。卒業生は十九名である。人数の甚だ少いのは、五年級への進級試験と卒業試験とがともに極めて厳格だったためで、その結果四年級の時四十余名いた生徒がこのように減ってしまったのである。同日、卒業生は校友会を結成、この十九名が現在一万八千人を擁する早稲田高等学校校友会の第一陣であった。十二月、徴兵令第十三条(徴兵猶予)の適用認定校となる。全国私学中この認定を有するものは二十三校に過ぎなかった。

 明治三十三年二月、陸軍補充条例により、本校卒業生は陸軍士官候補生の無試験資格を得た。九月、金子馬治ドイツ留学のため退任。

 明治三十四年四月十四日、第三回卒業式当日、かねて東京専門学校と本校の有志教員によって計画されていた早稲田実業中学校が、大隈英麿氏を校長として開校式を本校講堂において挙行した(翌年二月、校名を早稲田実業学校と改称)。

 明治三十五年九月、大隈英麿校長辞任、坪内雄蔵教頭校長に就任。今井鉄太郎教頭に、増子喜一郎幹事に就任。十月二十一日、東京専門学校は創立二十周年を迎え、早稲田大学と改称した(祝典は二日早い十九日の日曜日に挙行された)。

 明治三十六年四月、三十三年以来校内において開講していた補習科への志望者が多かったため、付属早稲田高等予備校を創設。五月十四日、教頭今井鉄太郎死去。中野礼四郎教頭就任。十二月十八日、坪内校長病気のため辞任。大隈信常校長就任。この年早稲田大学在学中の校友により校友会秀実会が結成された。この明治三十六年という年は、初の早慶野球戦の行われた年であり、遠く海を越えたアメリカで、ライト兄弟がエンジン付きの飛行機で、初めて空を飛んだ年でもあった。

 明治三十七年二月十日、対露宣戦布告。翌日は紀元節であったが、式後仮装行列等の余興は自粛して中止となった。七月、本月末日を以て寄宿舎は廃止と決定。地方中学校の増設に伴い、遊学生が著しく減じたためにほかならない。

 明治三十八年、九月五日に日露講和条約の調印が行われ、一年七ヵ月にわたる日露戦争もここに終結の日を迎えた。

 明治三十九年四月八日、第八回卒業式が挙行されたが、この年は創立十周年に当ったため、同時に記念式典も行われて、来賓は牧野伸顕文部大臣をはじめとして約二百名に及んだ。八月、創立十周年記念館木造平屋建七十坪が竣工。また、校友会が母校創立十周年を記念して募金の結果、百四十八円五十銭を以て蓄音器一台を寄贈、以後この蓄音器は一泊の修学旅行(当時は遠足と称していた)に必ず担がれて行き、宿泊の夜の茶話会を賑わせたようである。

 明治四十年十月二十日、早稲田大学創立二十五周年記念の大隈伯銅像除幕式と、祝典および夜の祝賀提灯行列に、本校生徒全員が参加した。また、三十八年九月以来ほぼ二年に亘って外遊の途にあった大隈信常校長がこの月帰朝、その披露園遊会が二十六日大隈伯邸で催され、教職員全員が招待を受けた。

 明治四十三年十二月、野球部が全国中等学校野球大会で優勝の栄冠をかち得た。この年八月、日韓併合の調印がなされ、朝鮮総督府が置かれた。

 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御。同日大正天皇践祚。九月十三日、校長は大隈伯の介添として、中野礼四郎教頭は校長代理として大葬に参列。この日乃木大将夫妻殉死。国民は深い驚きに打たれた。

二 大正元年―同十五年

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 翌大正二年十月十七日、早稲田大学創立三十周年記念祝賀提灯行列に本校生も参加。早大校旗この年に制定さる。十一月三日、この日本校の創立記念日として式典を挙げることが決定。

 大正三年四月十六日、大隈伯組閣、校長は総理秘書官就任のため辞任、平沼淑郎校長就任。大隈信常前校長を名誉校長に推戴。この年第一次世界大戦勃発、我が国は八月二十三日対独宣戦布告。

 大正四年十一月三日、第二十回創立記念式。この月十日に大正天皇即位の奉祝式が行われた。

 大正五年三月二十八日、第十八回卒業式。卒業記念として校歌制定費金七十円寄贈あり(これによって大正十年校歌制定さる)。この年一月、大隈首相要撃さる。

 大正六年九月、平沼校長早大学長に就任のため辞任し、教頭中野礼四郎校長就任。

 大正七年三月、会津八一教頭就任。十月二十一日、早大創立三十五周年記念祝典。十一月十一日世界大戦休戦条約。

 大正九年四月、早大新大学令による大学認可。第一高等学院開設。

 大正十年五月三十日、校歌制定(歌詞坪内逍遙、作曲東儀鉄笛)。十一月一日、創立二十五周年記念式典。『創立二十五周年紀念 早稲田中学校創業要録』刊行。

 大正十一年一月十日、大隈重信侯薨去。十五日、故大隈侯の国民葬が日比谷公園にて行われ、本校生徒奉送。十一月二日、興風会創立二十五周年記念式が行われ、早大教授中桐確太郎氏祝辞。興風会主催で教職員、校友、学校関係の物故者二百八十六名の追悼慰霊祭。

 大正十二年九月一日。始業式終了後関東大震災。校舎の屋根瓦は殆ど落ちたが、幸い類焼は免れた。五日、一週間休業とし、教員の応援を得て夜警を厳重にした。震災直後の混乱の中で、幹事増子喜一郎のとった教職員家族への計らいには感動的なものがあった。当時の模様を知る旧教員(大沢明)の談話によると、震災直後は甚しい食糧の入手困難な情況で、教職員の多くは、その日から早速途方に暮れる始末だったという。増子は埼玉県在住の一在校生の家に頼んで、できるだけ多くの米を確保するよう大沢に命じ、大沢も非常な困難の結果、白米二十俵を手に入れることに成功、帰路についたときは既に夜になっていた。怪我して痛む足で自転車のペダルを踏んで帰ってみると、増子が待ちかねていて、大沢を見るなり「どうだった」と聞いた。「明日中に白米二十俵が着きます」と答えたところ、増子はその意外に量の多いことに納得しかねる様子で「何?」と聞きかえしたが、詳しい報告によってそれが事実と分ると、「ああそうか、これで安心した。俺はこれでもう死んでもいい」と言ったかと思うと、急に大声をあげて泣き出した。やや暫く泣いていたが、そのうちクリスチャンだった増子は感謝の祈りを始め、大沢の上に神の御恵みがあるようにというようなことまで禱り出された。大沢は感動して立ちつくすのみであったという(『早稲田中学校創立六十周年記念録』所収の座談会記事による)。増子は早中創立の初めから大正十四年二月十一日、肝臓癌で亡くなるまで殆ど休む間もなく校務に尽瘁した、本校にとって文字通りの大恩人であった。

 大正十五年十一月一日、創立三十周年記念式。十二月二十五日、大正天皇崩御。同日今上天皇践祚。

三 昭和元年―同二十年

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 昭和二年四月一日、早稲田中等夜学校が第一回卒業式を迎えた。六月、増子奨学金制度制定。九月、早中文庫閲覧開始。これは第三十一回卒業生(昭和四年卒業)が二年の時、すなわち前年「いなほ文庫」という学級文庫を創設したが、この春奨学会が成立し、その後援を得て全生徒の図書館「早中文庫」の設立を見たのである。

 昭和三年四月、興風会改革あり。すなわち会を学芸部と体育部に分け、学芸部に弁論、文芸、美育、科学、音楽の五部、体育部に野球、庭球、競走、籠球、水泳、柔道、剣道、弓道の八部を置くこととした。十一月、穴八幡内に寄宿舎(自治寮)開寮。この月六日、両陛下即位式のため京都行幸啓。生徒代表奉送。十四日大嘗祭休校。この年六月、関東軍河本参謀らは列車爆破により、奉天引揚げ途上の張作霖を爆殺、十余年後我が国の辿った暗い運命を予告する事件であった。

 昭和四年、この頃から学校財政著しく逼迫するに至る。そのため八月下関での校友会に出席した校長が、その足で門司、八幡、博多、福岡の校友を歴訪、寄附の依頼をしたことが当時の記録に見える。加えて翌昭和五年には、世界的経済恐慌の影響で生徒数が減じ、年額五千円からの赤字を生じ、俸給支出にも支障を生ずるに至り、一月九日の幹部会で緊急措置を協議、五月には財政整理のため、教職員の俸給の整理を断行したり、七万五千円に及ぶ負債償却のため石神井、村山にあった校地の売却を決定したりせざるを得なかった。一方校舎の老朽化に伴い、これを改築するに当り、約三百八十坪余の鉄筋コンクリート建築を計画決定。総工費七万七千四百円。十月、本校初の模擬試験を四、五年生に実施した。

 昭和六年八月三十日、新校舎工事完了。これがなお現存する一号館である。九月七日、新校舎屋上に大隈侯寄贈の校旗を掲げて始業式を挙げた。十一月一日、創立三十五周年記念式と新校舎落成式。来賓三百五十余名父兄三百余名列席し、校友会が新校舎を学校に寄附する旨の告示あり。

 昭和七年二月二十日、教職員定年制決定。三月十七日、夜学第六回卒業式。夜学閉鎖。六月、中野校長勤続三十五年と還暦祝賀会が行われたが、校長自身は辞任を老えていたようで、それが洩れて、教職員は校長、各理事を訪問、留任を懇請するという事態が起った。結局それが効を奏し、なお三年中野は校長の職に留まることとなった。この年五月十五日にいわゆる五・一五事件が起き、陸海軍将校が首相官邸を襲撃、犬養毅は彼らに暗殺された。また満洲国の建国宣言があり、我が国がこれを承認した年でもある。

 昭和八年三月二十七日、我が国は国際連盟を脱退、以後暗い戦争への道にのめり込むことになる。

 昭和九年二月、新講堂建設始まる。六月、第三十五回改築委員会で新講堂を「興風館」と命名決定、十月、興風館開館。この月二十九日に学校関係の物故者五百余名の慰霊追悼会を新講堂で開く。

 昭和十年二月二十八日、元校長逍遙坪内雄蔵博士逝去。本校生みの親の一人であった博士は、創立以来明治三十六年十二月、校長の職を退くまでのおよそ八年間、本校の育成と発展とに心を砕き、文字通り寧日ない有様であったと聞く。あまりに校務に熱心なため、本来の英文学研究に割きうる時間が甚しく減じたのは、独り博士の損失であったばかりでなく、学界の損失でもあった。しかしながら博士は自らのことは些かも顧みず、中学の生徒に接するに厳父の属と慈母の愛とをもって、実に懇切だったことは、元幹事増子喜一郎の談話にも見られるところである。前掲『創立二十五周年紀念 早稲田中学校創業要録』に見える増子のその談話を引用して、坪内博士の優れた教育家としての一面に触れてみよう。

明治二十九年当時の本校は、創立後日も極めて浅いこととて、一、二、三の三学年丈けしか設けられてなかった。ところがその中の三年級には、なかなか立派な秀才も入学したが、多数は方々の中学を半途退学して来たといふあぶれものであった。大抵の先生が持て余すところであった。殊に寄宿舎生の一人に府下の五、六の私立中学を退学されたといふ豪の者がゐて、校則を無視した粗暴の振舞が多く、教師舎監の忠告訓戒も馬耳東風と云ふ有様であった。大いにその処置に苦しんでゐる矢先、遂に運動会の当日に方って一椿事を惹起した。そこで予を始め教員一同は、退学処分を議して坪内先生へ申請すると、予等の言に黙々耳を傾けてゐられた先生は、やがて静に面を挙げて「本校の教育をして理想に近いものとすべき意気込があるならば、退校処分などは議すべきではあるまい。是等操行の不良な学生を改悛せしめてこそ、始めて教育の美は済されるのである。一校の声誉は、校舎の完備や碩学の網羅にあるのではない。千の英才を出すよりも、唯一人の不良学生を真実悔悟せしむる事は大切なるものである。」といはれた。かくて先生は、同学生を膝下に喚んで再参再四訓戒を垂れられ、厳文の属と慈母の愛とをもって懇々其不心得を諭された為め、当人は大に悔悟して謹慎自責の風があったが、一歩彼が校門を出ると、従来交を結んでゐた他校の不良書生が彼を囲繞して、依然あらゆる誘惑乃至脅迫を彼に強ひるので、彼自ら希望して暫く東京を去って遠隔の地に身を隠すといふことになり、彼はやがて北海道に赴いたのであったが、数年ならずして帰京するや、遂に旧友の誘惑に抗し切れず、復又不良行為をなして遂に某警察署に上げられるに至ったが、その時のこと、その被害が殆んど各中学に及んでゐるに拘らず、我中学丈けは一人として彼が爪牙にかかってゐないのに不審を打った該署長が、何か理由でもあることかと糺すと彼曰く「自分は曾て早稲田中学校に学んだものであるが、放縦極りなき乱暴者であったに拘らず、坪内教頭は懇々予が不心得を戒め、或時は寛に或時は厳に、唯々自分の改悛を促すべくあらゆる苦心を払はれ、一度として退校処分の口吻を洩らされたことがない。その溢るるばかりの温情とあの愛の籠った慈顔とに想到するとき、遂に早稲田中学生に手出しをすることが出来ない。」と述懐し、是より全く真に悔悟して立派な人になったと云ふ一話に徴しても、先生の感化力が如何に偉大であったかが窺はれるのである。

 三月四日、故坪内博士葬儀(青山斎場。四、五年生は東京駅にて熱海よりの霊枢奉迎、一、二、三年生は斎場参列)。三月十七日、臨時理事会は中野校長の辞意を認め金子馬治博士を後任校長に懇請。四月十五日、金子博士校長就任受諾。

 昭和十一年五月二十一日、金子校長辞任。校友名和長正校長就任。昭和二十六年一月から三十年八月に亡くなるまで第十一代校長の職に在った鈴木拾五郎は、金子校長について次の如く記している。

金子馬治校長は、やはり哲学者だった。本校産みの親の一人であっただけに、可成りの抱負と熱情とを持って就任せられ、われ等もまた先生に期待するところが大きかったのに、一年ならずして辞任されたのは残念だった。

(「昭和時代の諸先生」前掲『六十周年記念録』所収)

 金子博士はそれから一年後、昭和十二年六月一日に亡くなった。この昭和十一年という年は、我が国がロンドン軍縮会議から脱退するという挙に出て、やがて二・二六事件の起きた年であった。年譜を繙くと、次第に「各学年野外教練」とか「五年実包射撃」とかいう記事が目に留まるようになってくる。日独防共協定調印、日伊協定成立もこの年である。

 昭和十二年七月七日、蘆溝橋事件勃発。日中戦争始まる。十一月六日、イタリアの日独防共協定参加に関する議定書調印。同月二十五日、三国防共協定祝賀式に四、五年生参加。この年から応召される教員が増えた。

 昭和十三年八月十四日、元校長平沼淑郎博士逝去。九月、五年生全員を会員とし、校風向上を目的として自治会が生れた。十月二十五日、故大隈重信侯生誕百年祭に参加。十二月三日、高田早苗博士逝去。五日、高田先生告別式、全校葬送。この年国家総動員法案成立。

 昭和十四年七月二十五日、東部練馬農場鍬入式(爾後各学年各組放課後交替で農場作業に行く)。同月二十八日、四、五年生勤労作業(兵器支廠および戸田橋滑空所)。

 昭和十五年五月十一日、名和校長逝去。十四日校葬。十六日、校友堤秀夫理事会により校長に推さる。二十六日、堤秀夫校長承認。七月二日、満洲国皇帝見送(四年)。十一月十日、紀元二千六百年奉祝式。日独伊三国同盟成立はこの年の九月二十七日、十月十二日には大政翼賛会の発会式が行われた。

 昭和十六年四月一日、社団法人を改組して財団法人早稲田中学校となる。七月二十九日、生徒の住所ブロック編成なる。八月十九日、ブロック編成により全生徒を非常召集して防空演習を行う。十二月八日、大東亜宣戦布告。校長訓辞。

 昭和十七年四月十八日、米空母を発進した爆撃機の初空襲により、校内に百数十発の焼夷弾が落下、その直撃を受けて一人の生徒が即死するという惨事が起った。その時の模様を昭和十九年、四十六回生として卒業した岡田光の手記によって記す。

この日、十二時二十分を、一、二分過ぎた時、午後の授業をうけるべく、校庭に散在していた生徒は、突如、見慣れぬ型の飛行機を二機、鶴巻町の方角に認めました。その時私は、花崎君、小島君、酒井君など五、六名の級友と雑談に花を咲かせていましたが、たしか酒井君が、その機影をめざとくみつけて、『あっ、ノース・アメリカンだ。』といって、近づきつつある機影の方へかけつけていきました。と、次の瞬間、全く、青天の霹靂の形容通り、それまで平和だった校庭が、一変して修羅場と化したのです。焼夷弾の雨だと気が付く間もあらばこそ、生徒は、右往左往するばかりでした。すべては一瞬の出来事でした。その一瞬の中で、小島君は、不帰の客となったのでした。焼夷弾の直撃をうけて……。

(「校庭に散った友」前掲『六十周年記念録』所収)

 銃器庫や隣接民家からの出火は生徒の活躍によって消火。三日後の二十一日、小島茂の報国団葬が講堂で行われた。当然のことながら、年譜を繰ると、防空演習の実施回数がこの年から著しく増加している。

 昭和十八年、学徒動員制の成立、徴兵年齢の一年引下げの実施等のことがあり、戦時色いよいよ濃く、中学生の身辺にも銃弾の匂いが立ちこめてきた中で、四、五年生の陸海軍諸学校への入学、予科練への入隊等が相次いだ。

 昭和十九年四月二十四日、五年生第一陸軍造兵廠に入廠。六月一日、四年生全員に秋草、大業、鈴木、不二越の四工場へ動員命令。十一月三日、創立四十九周年記念式。勤労動員出動学徒について、各学年付添いの教員より報告発表あり。十二月二日、三年生全員ドラム缶会社と中央気象台とに動員命令。

 昭和二十年三月十日、東京はB29の夜間大空襲に見舞われ焦土と化す。図画の教員だった長明爆死。五月二十五日、夜間の大空襲により学校罹災。外廓のみ残して内部は悉く焼失した。六月十一日、理事会は戦災応急措置について協議。同月二十九日、一、二年生を練成隊組織とし、武州御嶽山中に集団疎開させた。こうして、校舎は焼け教員も生徒も不在の廃墟の中で、本校は八月十五日の終戦を迎えたのである。九月一日、焼跡の講堂に全校生徒が集合し、新発足の始業式を挙げた。同月十七日、各学年三組編成とし、五百七十名の生徒に対し授業開始。十一月三日、大隈講堂にて創立五十周年記念式典。同月十三日、興風会復活す。

四 昭和二十年―同三十年

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 ここに一枚の油絵がある。裏面には次のように記されている。

焦土月情 昭和二十年五月廿五日 東京大空襲の翌日 早稲田中学校の残骸と月光 一汀学人

 一汀学人とは早中第八代校長、のちに早大名誉教授となった堤秀夫の雅号である。堤は昭和二十年五月二十五日の東京大空襲の翌日、焼土に立ってこの絵を描いた。本館(現一号館)の窓はすべて焼け落ち、紅蓮の炎がなおめらめらと燃えさかり、その炎は夜天に映って、真赤な半月が不気味に漂っている。早中校舎の最期の姿を描き留めておこうという堤校長の悲愴な執念が伝わってくるような絵である。

 この日から三ヵ月足らずして古き日本は亡びた。九月一日、焼跡の講堂に教職員、生徒全員が集まり、新発足の始業式が行われた。この年十一月三日は奇しくも創立五十周年の記念日で、大隈講堂で式典が挙行され、式後の祝宴には、鯣と、学校農場で取れたサツマ芋、それに尾野(生徒の父)の厚意によるパン一個ずつが供されたという。

 マッカーサーを最高司令官とする連合国はこの年九月、連合国総司令部(GHQ)を設置し、日本政府に対する指令として民主主義を押し進めようとした。教育の面でも戦時中の軍国主義、帝国主義教育をなくすため、修身・地理・歴史教育の廃止、軍国主義教員の追放、軍国主義教材の廃止が行われ、二十一年三月には第一次米国教育使節団が来日し、日本の教育再建に関する基本方針、諸方策の報告書がGHQに提出された。これに基づき、六・三・三・四の新しい学制が敷かれ、学習指導要領が文部省から出された。また二十三年三月には教育基本法・学校教育法が公布された。その六月には日本教職員組合が結成され、教師の立場が確立された。

 終戦後のこの三年間の本校の歩みは、こうしたGHQの指令による国および教育界の歩みの中で、苦難に満ちた、しかし未来を翹望する熱情に湧き立って進められた。二十一年三月、大戦の六年間苦労を重ねた前記堤校長が辞任、広本義章が校長に就任。校友会に戦災復興資金募集実行委員会が組織され、二百万円(のち四百万円)の目標額を定め、生徒奨学資金の援助などの活動が行われた。戦後最初の卒業生は五十二名と少ないが、これは戦時中四年制に短縮されていたのが五年制に復活したため、四年卒業を希望する者のみに卒業証書が授与されたからであった。また戦後最初の中一入学者は三百六十五名ときわめて多い。当時在校生は五百七十名で、学校再建のためにはできるだけ生徒を入学させたいという判断から中一の募集を三百六十名としたところ、応募者は三百六十七名で、作文のみの試験で結局三百六十五名が入学したのであった。教室不足のため四十分授業で二部制という状態であった。全教職員が乏しい中から醵金して校庭の周囲にヒバの苗木を植えるなど環境整備が行われた。興風会(生徒会)も前年十一月に復活、二十一年の秋の運動会は女子学習院の校庭を借りて行われた。

 二十二年一月十三日、名誉校長大隈信常(第三代校長)逝去。四月、奨学会(父兄会)が総会でPTAに改組を決定し、五月にその発会式が行われた。教職員組合は既に結成されていたが、この年十月、理事会との間に初めて労働協約が結ばれた。

 二十三年四月、六・三・三・四制による初の早稲田高校の開校式が行われ、PTAの基礎も漸く固まり、隣接地二百五坪を買収するなど、学校の財政状態も軌道に乗り始めたかに見えたこの頃、早大との合併問題が噴出したのであった。これは当初、早大の方から合併希望の意向がもたらされ、それに呼応して生徒および父母の一部から合併を希望する声が起り、生徒会などが激しく動いたため、理事会がしばしば開かれ、七月二十八日にはPTA総会が開かれて合併問題調査委員会が設置されたりした。しかし、八月二十一日には校友会幹事会は「早大との合併を認めず」と決議、同二十九日、理事会はこの問題につき声明書を発表、翌二十四年一月、PTAも総会で合併問題の打切りを認め、調査委員会、合併促進会も解散を決定し、漸く終止符を打ったのであった。

 早大との合併問題は校内を二分する性格をもった大問題で、当然のことながら関係者は渦中にあって苦慮したわけだが、これとは別に特記しておきたい事項がある。それは二十三年四月、新制高校開校と同時に科外講座が設けられ、講師として石原謙博士(校友)外二十名が委嘱され、この年度だけでも九回の講座が開かれている。講師として演壇に立った人々は堤秀夫前校長(早大教授・校友)・北沢新次郎早大教授・原田淑人早大教授・中島克三医博(校友)・窪田空穂早大名誉教授・吉岡俊亮博士(校友)・法華津孝太氏(外務省整理局長・校友)・大越諄東大教授(校友)・服部嘉香早大教授といった錚々たる顔ぶれで、合併問題で揺れ動く中でこうした講演会が度重ねて開かれたのは、そこに、少年たちに真理を探究することの尊さや、厳しい時代にあって曇りのない眼を養おうという学校当局者の英断が見られると思うのである。

 二十四年四月、長らく病気静養中の広本校長が辞任、渡辺清が校長に就任。この年は前記の通り合併問題が一応の終結をみたが、九月、戦後初めての修学旅行が復活(高三・関西方面一週間など)、十月には新校舎復興二号館が竣工したのをはじめ、テニスコートが完成、興風会(生徒会)の活動も活発化したことを特に記しておきたい。また、明治三十年十月興風会雑誌として創刊された雑誌『興風』は昭和十八年四月、第四十六巻を最後に発行不能の状態となっていたが、この年十二月復刊号(第四十七巻)が発行された(ただし復刊二号は出ず、昭和三十六年に再創刊されるまでその活動は見られない)。この『興風』復刊と相前後して、歴史研究部・新聞部・ラグビー部・映画研究部・文芸部・ラジオ部・将棋部などが次々と誕生または復活し、既に活動を始めていた硬式・軟式両野球部や硬式庭球部なども都下高校大会に出場するなど、クラブ活動という名称のまだ定着していないこの時期、その後築かれた伝統ある各部の盛んな産声を聞くことができたのである。

 二十五年に入り、四月、待望の図書館が落成。また奨学金給付制度が制定され、学業優秀なるも経済的に困窮する生徒を全校より約二十名選定して授業料を支給することとなった。この時代の一般的経済状況はなおこのようであったため、授業料未納者が増加し、教職員給与支給にも支障を生じ、幹部が父母を歴訪して借入金をするというような苦しい一面もあった。十二月、渡辺校長辞任。二十一年から主事(教頭)として広本・渡辺両校長を補佐してきた鈴木拾五郎が校長に就任、二十六年四月には父母からの借入金も全額返済にこぎつけることができた。また鈴木校長の発案で毎月一回『校報』が発行され、学校と家庭との連絡も一層密となってPTA活動も活発化し、例会・総会には村岡花子女史、リビングストン女史などを招いて講演会が催され、こうして理事会の六十周年記念事業計画も、PTAの全面的後援を得ることが可能となった。また、この夏、長く中断していた臨海学校(観音崎)が復活、秋の学芸部大会は生徒数の増加と父母の観覧希望者増加のため講堂に収容しきれず、中・高を別に行うという盛況であった。生徒への科外講座は引続き行われていたが、前年辺りから校外授業も盛んになり、観劇、新聞社見学、映画教育、国会図書館見学などが行われるようになった。軟式野球部が都下高校の大会で二位、水泳部が都下中学校大会で一位、また、一度潰れた新聞部が再発足し、『早稲田新報』第一号が創刊された。

 前々年(二十五年)六月、朝鮮戦争が勃発、前後してレッドパージが開始され、二十七年をピークに学生運動も活発化した。この二十七年に注意を惹くことは、各教科の研究授業が活発に行われるようになったことである。国語科、数学科、英語科、社会科などが競って研究授業を行った。時代の状況は混乱を呈していたが、教員一人びとりは戦後の一方的な枠組から自由になって、漸くその教育的力量を試し合うという反省と余裕を得たであろう。九月には理科教室が完成、十月には相馬安雄(校友)、三船久蔵十段(元教員)を迎えて柔道場開き式が行われ、また戦災を蒙った講堂の修理も終った。臨海学校に続いてこの夏は箱根仙石原の中学校校舎を借りて林間学校も開かれた。十一月の校友大会には創立六十周年記念事業後援会の委員長に三村起一(校友)を推し、また校友会誌が復刊される(第三十一号)など、こうした盛んな復興への気運は翌二十八年に引続いていく。

 二十九年八月、創立六十周年記念校舎が落成。かくして創立六十周年の記念すべき昭和三十年を迎えたが、この年八月二十一日、鈴木拾五郎校長が逝去、その悲しみも癒えぬ九月三十日、裏磐梯修学旅行中の高一生徒が土湯湯泉で吊橋のロープが切れて落下、重傷者八名、軽傷者二十六名を出すという惨事が起った。十月十二日、約一ヵ月半に亘って空席だった校長に堀切善次郎(校友)が就任、土湯事件負傷生徒の父母との懇談が数次に亘って開かれたり、負傷生徒十七名が土湯温泉に負傷治療のため招かれたりすることなどがあって、福島市と学校との間に示談が成立したのは翌三十一年十月のことであった。こうした不運な事件はあったが、三十年十一月には六十周年記念式典が大隈講堂で滞りなく行われ、三十一年六月には待望のプールも完成した。

 以上、戦後の十年間を振り返ってきたが、ここで中学入学志願者の増減を見てみたい。昭和二十一年、志願者三百六十七名で三百六十五名が入学したことは既に記したが、二十二年の志願者は七百七十八名と一挙に激増、以後二十三年は七百三十名、二十四年は七百七十三名、二十五年は五百五十名と推移している。二十六年以降五年間については、学級数・生徒数を合せて表示してみる。

 校舎の整備拡充と相俟って学級数が増加し、三十年には中学六クラス・高校五クラスの形が整ったが、一暼して分る通り、二十六年の中学一学級の生徒数は五十七名―五十八名、三十年には六十二名―六十三名という超スシ詰めの状態であった。

第九十四表 早稲田中学入学志願者(昭和26―30年度)

五 昭和三十一年―同五十年

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 やや遡るが、昭和二十七年から高校には学習コース制が敷かれた。学習能力別によってクラスが分けられていたのである。強固な受験体制を組んで大学合格者を一人でも多く出さなければならぬというこの経営的至上命令は生徒の心理にさまざまな陰影を落し、教員もまた困難を背負い続けてきたのだが、紛糾ののち三十年度を以て廃止された。

 三十二年、本館(現一号館)地下室工事完成。三十三年には生徒のための『読書のすすめ』が読書指導部と多くの教員の協力によって作られ、毎年改訂を重ねて以後二十年間に及んだ。地下室に食堂が開設され、一杯二十円のうどんが販売された。

 三十四年六月、堀切校長辞任、安孫子理幹事が校長に就任。三十五年一月、元校長鈴木拾五郎の記念文庫(岩波文庫全冊)開設。同一月五日、広本義章元校長逝去。

 この三十五年は、岸内閣による日米安全保障条約の改定が強行された年である。本校でも教職員組合が安保反対を決議、生徒会も六月八・九両日の中央委員会で声明文を採択、政府関係者に送ることを決議した。これは教職員会議の慎重な討議を経て、十八日即日速達で清瀬衆議院議長と岸首相宛送付を認めた。六月四日は安保反対ストのため中学は休校、高校は短縮授業。安保条約自然承認の十九日までは、殆ど連日、多くの教職員が国会へのデモに参加した。二十七年以来、箱根仙石原中学を借りて行われていた林間学校が、この年から中強羅恵風会館で行われるようになった。

 三十六年には読書指導部より『ライブラリー・ニュース』が年五回発行されるようになった。また、既に触れた通り二十三年復刊号を出したままになっていた『興風』が、学校の多大の援助を得て、生徒の雑誌として再創刊された。敢えて復刊の呼称を避けたところに、これに係わった教員・生徒の意気込みを知ることができる。この年、軟式野球部は春の東京都大会に優勝、関東大会に出場して宿願の優勝を果した。

 三十八年、新館(現二号館)が完成。また長野県諏訪郡富士見町入笠山鈴蘭寮一棟を購入、翌年から林間学校はここで開かれることとなった。十二月、安孫子校長辞任、飯島武(校友)が校長に就任。三十九年六月、西条八十(校友)作詩、古関裕而作曲による第二校歌の発表会が大隈講堂で行われた。十月、東京オリンピック。国を挙げて湧き立ったスポーツムードの中で、陸上競技部・剣道部・卓球部・硬式庭球部などの活躍が目立つ年であった。

 昭和四十年は創立七十周年の年。その記念式典は十一月三日、早大記念会堂に全教職員・生徒と、来賓・父母など計三千八百名が会して盛大に挙行された。折から興風祭学芸大会が開かれ、教職員による坪内逍遙展も参加し、多数の参会者が校祖の遺徳を偲んだ。

 この年十月、中二は校外教育として初めての「利根川歩行」を計画、この学年が高三卒業時までに全行程二百五十キロメートルを踏破するという壮挙の出発となったが、この種の校外教育はその後他学年にも引き継がれて今日に及んでいる。またこの年、関東大会に優勝した軟式野球部は、翌四十一年には全国大会に出場、準々決勝で平安高校に敗れたが、ここ数年の本校運動クラブの中で最も気を吐いたクラブであった。また放送委員会もこの頃から毎年、東京や関東地方のコンテストは勿論、全国高校放送コンテストにも出場して、音楽部門、アナウンス部門、朗読部門等に優勝するなど、その活躍ぶりは全国関係者の注目を集めた。

 四十三年二月、中三主任会は「中三卒業論文」を計画、中三全生徒が原稿用紙五十枚以上の研究をまとめ、その展示会は新聞・テレビなどにも紹介されて反響を呼んだが、この種の計画もその後の学年にさまざまな形で受け継がれることとなった。

 四十四年一月、反日共系学生が占拠する東大安田講堂の封鎖を大学当局は機動隊を導入して解除、この年の東大入試は中止された。これは全国的な学園紛争の発端をなす事件で、早大では第二学生会館の管理運営をめぐって学生と機動隊の攻防が行われるなど、早大界隈は連日騒然たる有様であった。大学教育の根源的な在り方を巡る紛争は、さまざまな形を以て全国諸大学に及び、それはやがて高校にまで波及してきた。本校では六月十三日の朝、一号館前菩提樹の下に、受験教育粉砕・模擬試験ボイコットを主張する立看板が数名の高校生により立てられ、これはその後約十ヵ月に及ぶ紛争のきっかけとなった。生徒による「安保問題討論会」「教育問題討論会」などが開かれ、十月には学校の教育方針につき生徒有志から公開質問状が学校に提出された。更に十月十五日、一部高校生が日大奪還闘争に加わり過激な活動をしたため本富士警察署に留置されるなどの事件が起り、飯島校長を補佐する戒能通忠・鈴木晋善両主事はもとより、当該学年(高三・高二)の主任たちも日夜激しい心労の連続であった。しかし、会議が度重なり開かれる一方、緊張の中にも授業や興風祭等の学校行事はほぼ滞りなく進められた。四十五年に入って漸く平静化したが、幾つかの痕と多くの教訓とが遺された。四十五年の制帽の自由化(高校生)、四十七年の鞄の自由化など、いずれも時代の状況を反映しているが、紛争時に生徒が求めた自由化の欲求が、時を経て漸く顕在化した一つの事例とも言えよう。

 四十五年九月、幹事一沢徳司が自死した。氏は三十四年いらい幹事の要職にあったが、公金を着服、自責の念に堪えず、自ら命を絶つという不幸な事件であった。代って長沢幸一が幹事に就任、翌四十六年には戒能主事に代って小橋修司が主事に就任した。

 教員の研究成果を発表する機関誌(紀要)発行の要望はながく一部教員から出ており、国語科のみが『国語の研究』を発行してきたが、それを含む形でこの年、雑誌『早稲田――研究と実践――』が創刊された。

 本校の教職員会議は永年に亘って校長(または主事)が議長となって議事が進められていたが、教職員の要望強く、四十八年二月、教職員から議長三名を選出して議事を運営する制度が決定した。

 四十九年五月、十年余に亘って校長の席にあった飯島武が突然辞任、退職し、代って広本武夫が校長に就任した。四十八年から五十年にかけては主事・幹事の異動が激しく、かくして創立八十周年の年(昭五十)を迎えたのであった。

六 昭和五十一年―同五十七年

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 ここで、昭和四十年・五十年の教職員・生徒数を表示してみる。

第九十五表 早稲田中学校・高等学校教職員・生徒数(昭和四十・五十年)

教職員

生徒

第六図 早稲田中学校・高等学校志願者・合格者数の推移(昭和40―50年)

 次に、四十年以降十年間の、中学・高校志願者数と合格者数とを図示する。

 中学入試の状況はこの図表からも窺われるように、四十年代の交通機関の飛躍的な発達とともに受験者の増加が見られる。しかし、このことは必ずしも生徒の質的向上に繫がってはいない。その大きな理由として、この四十年代から特に顕著になった進学塾の隆盛、そこにおける受験生の受験校振分けの問題を無視するわけにいかないのである。受験生の大多数が罹る塾に通って入学を果している現状は、今日の学校教育の大きな問題であるとともに、優秀な個性を求める本校としても関心事として議論を重ねながら今日に及んでいる。

 昭和三十年当時、中学六学級、高校五学級であった編成は、その後の校舎の整備拡充と経営的配慮から高校七学級に定着した。図表から知られる通り、高校の志願者は四十六年の七百十四名をピークにその後漸減している。六ヵ年一貫教育を謳う本校の後

第九十六表 早稲田高等学校卒業生大学合格者数(昭和40・50年)

私立大学合格者数

国立大学合格者数

第七図 早稲田高等学校国公立大学合格者数の推移(昭和30―50年)

第八図 早稲田高等学校卒業生早慶両大学合格状況(昭和45―50年)

早稲田大学合格者数

早稲田大学合格者の現役と浪人との比率

慶応義塾大学合格者数

早稲田大学学部別合格者数

慶応義塾大学学部別合格者数

半三年に、新しい息吹の導入を計ったこの高校入試は、その受験者の減少、それに伴う質的な問題とも相俟って、種々の議論を呼んだのであった。このことは、大学進学の問題と切り離しては考えられない。次に、四十五年と五十年の大学合格者数を表示して、進学の状況を見てみたい(前頁参照)。

 本校は各界に広く人材を送ろうとの校祖の意を体した長い伝統に輝く進学校で、卒業生の殆どが大学に進むが、四十年代から五十年代にかけての状況は、右の表から明らかであろう。第一に眼につくことは、早慶両大学進学者の衰退である。これは一面、両大学の合格層のレベルアップに伴うことではあるが、他面、家庭的に比較的富裕な本校生徒の他力的勉強にも起因していよう。私立高校の存続は、いわゆる有名大学への進学者数に大きく左右されている今日、人造り教育の本質を見失うことなく、学力向上に努力することの反省・検討が重ねられたのであった。

 この昭和五十年に、生徒の雑誌『興風』は第十五号を発行したが、この号の特集は「我等晩稲の子等」というのであった。そのプロローグの一節を写してみよう。

我々は現在「早稲田」に在学して「早稲田」という言葉を固有名詞としてとらえているので、この言葉の意味を一般名詞として考えたことがないと思う。「早稲」とは、読んで字の如く早く生長する稲のことである。人生に置き換えてみれば、人生の花道をできるだけ早く進むエリートのことである。それに対して「晩稲」は、自力的原因にせよ、他力的原因にせよ、普通の人より進度が遅れた人間のことである。世の人々は前者を高く評価し、後者を軽視する傾向にある。けれども、この特集は別に後者を見直せとか、後者の道を勧めるつもりで企画されたのではない。早稲組には早稲組の苦難の道と栄誉がある。ただ我我は、群集心理の愚かさからか、人より遅れることにあせりを感じて時々誤った人生の道を進むことがある。最近とくに、そういう道に入りやすい主体性のない人間が増えているようだ。高度経済成長などというあわただしい時代の日本はもう終った。現在、ユックリズムに象徴されるようなスローの見直しがブームとなっている。しかし、我々の求める晩稲とはスピードに対する単なる反動ではない。主体的自由を持ったユックリズムである。

 四十四年の学園紛争後、幹事一沢の自死や、学校幹部の目まぐるしい交替の中で焦慮を感じていた教職員よりも、生徒たちは柔軟な眼と心とで時代の状況・学校の現状を見、且つ感じ取っていたのかもしれない。

 この昭和五十年は、創立八十周年を記念して第三号館建設に着手した年でもあった。木造の理科室・図書館がいずれも老朽化し、教育効果のうえからも新しい設備を望む声は早くから上がっていたのだが、漸く着工の機を迎えたのであった。建設の進められる中で、八十周年記念式典は早大記念会堂で生徒・父母・校友多数が参集して行われた。ところが、その直後(十二月初旬)、教職員の耳目を聳動させる事件が発生したのであった。昭和三十八年より勤務し、四十八年四月から会計主任の任にあった岡稔が、四十九年春から五十年秋までの約二年間に、商品相場の失敗の穴埋めに数回に亘り授業料・校舎建設資金等、併せて総額約一億三千余万円を横領し、五十年十二月初旬、その事実が発覚すると同時に失踪した、という事件であった。明けて五十一年一月には第三号館(図書館・理科教室)は完成したが、重苦しい気分の中で落成式が行われた。学校としては刑事事件として岡稔を告訴するとともに民事訴訟を起し、同人不在のまま裁判が行われた。事件発覚時の理事会は五十一年六月、理事長以下全理事が引責辞任、理事長・校長であった広本武夫は職を退いた。

 本校では校長は長く理事長を兼任し、校務と経営との両面を統轄してきたが、一沢の事件に引続く今回の事件への深い反省から、理事長と校長とを分離することとなり、新理事会は五十一年六月八日に発足、理事長に大隈信幸、校長には鈴木晋善が就任、七月三十日、古川秀穂・橋本喜典の両氏が高校・中学の教頭(主事を改称)に就任して校長を補佐することとなり、また事務長(幹事を改称)には校外から高橋正二郎(校友)が起用され、新しい体制のもとに事件の処理に当るとともに、学校財政の安定化と事務体制の整備に努力することとなった。岡は失踪後居所不明であったが、五十一年九月二十五日、警視庁捜査二課と渋谷署が同人を業務上横領の疑いで全国に指名手配したことから新聞・テレビ等に報道され、事件は初めて父母・生徒・学校関係者の知るところとなった。

 経営の再建と信用の回復という厳しい責務を負った理事会は、そのような中にあって早稲田大学との緊密化の問題を採り上げることとなった。戦後の「合併問題」以来絶えていたこの問題が、三十年を経て再びここに採り上げられたのである。早大への緊密化要請の趣旨は、本校が創立以来早大とはきわめて深い縁故関係にあること、早大の協力を得て教育の充実と経営の安定に努めることが、将来の発展にとって最も適切であると判断したことにあった。この早大への要請は五十二年一月に行われたが、早大からは「前向きに検討する」旨の回答があった。この間の事情を教職員会議に発表したのは、中・高の入試を終えた二月十六日であった。入試以前に発表することは徒らな混乱を招くという配慮からであったが、この突如の発表は、早大との緊密化というきわめて抽象的な表現であっただけに、教職員に大きな衝撃を与えた。早大側が、前向きに検討すると約したその理由も、受験競争に伴う弊害を避け、充実した中・高一貫教育を受けた早大志望生徒を受け入れられること、早中高を教員志望学生の実習校とし得る利点があると判断したことなどで、教職員会議では、こうした緊密化が、果して本校の歴史と伝統を生かすことになるのかという疑問が噴出した。

 その後、同年秋、早大より非公式に一試案が示されたが、それは本校としては直ちに受け入れ難い内容であったため、再考を要請し、その後、早大側の事情もあって、この件を巡る交渉は一時中断のやむなきに至った。この間、校内には五十二年四月以降、「早大関係委員会」の設置が議され、七月に発足、前後七回の会合がもたれたが、実質的な「合意書案」が示されぬまま討議を重ねても進展は見られぬため、五十三年七月、教職員会議で同委員会の解散が決定された。

 一方、中断されていた早大との交渉は五十三年七月十一日、早大からの要請で、改めて両者の会談が持たれたが、それは主として早大側が早高側の主張や事情を聞くという性格のものであった。次いで、八月二十九日、早大村井総長(当時)も出席、正式の会談が開かれ、ここに初めて早大側の考えが示された。そして、九月以降、数次の会談の結果、徐々に「合意書」の内容が煮詰められていった。この九月以降は、右の「合意書案」について教職員一同の理解を得べく、幾たびもの教職員会議が開かれた(九月十三日、同二十七日、十月二日、同十六日、十一月一日、同十五日、同二十九日、十二月十三日)。席上、理事会は説明を重ね、教職員からも熱心な意見が述べられた。また、評議員会(十二月六日、同二十二日)、校友会幹事会(十二月二十八日)を開き、その席上においてもさまざまな意見が交された。

 以上の経過を踏まえ、五十四年一月六日の評議員会で、理事会決定の最終報告をし、同八日の教職員会議で同じく理事会の決定を報告、一方早大側でも一月十六日の評議員会で早高問題が決定され、同二十五日、早大校友会館で両者の調印が行われた。その後、校内では直ちに生徒会、新聞部、高校三年学年会議等に右の趣旨を説明、また校長より校内放送を以て全生徒に説明するとともに、保護者には文書を以て報告がなされた。緊密化は具体的に言えば次の如くである。

昭和五十四年四月一日より早大の系属校となる。但し両者は別個の学校法人であり「系属」の名称も「法人名及び学校名に『早稲田大学系属』と付記することができる」と定められている。理事長には当分の間、現理事長(大隈信幸)があたる。必要な寄付行為の改訂により理事・評議員は早高・早大よりともに半数ずつの構成となる。新校長は早大理事会が選定した者がこれにあたり、学校を代表するが、新たに副校長制を置き、本校理事会によって選定された副校長・教頭が校内の指導にあたる。今後定められる方式により、一定の生徒が早大各学部に推薦されるが、六ヵ年一貫教育の独自性は尊重され、また教職員の身分は保障される。キャンパスについても、創立以来の現在地を変更する意思は全くない。

 こうして「合意書」に則り寄付行為の改訂が行われ(七月)、新校長に藤平春男(校友・早大文学部教授)が就任、鈴木晋善は改めて副校長に就任、古川・橋本両教頭は留任して正副校長を補佐することとなり、新理事会も十月に発足を見たのであった。

 この緊密化問題が起った直後(五十二年七月四日)、丹沢でボッカ訓練中の山岳部員(高一・塚田岳)が疲労による心不全のために死亡するという事故が発生した。全校教職員・生徒は深い哀悼を捧げたのだが、数ヵ月後、塚田家は理事長・校長・山岳部顧問の責任を問い、東京地裁に告訴するという問題に発展した。告訴の動機は、下山途中の訓練の状況を確かに見たという一登山者の、塚田家への投書によるもので、最愛のわが子を喪った両親の苦衷は十分理解しつつも、事実誤認に基づく告訴に対しては学校としても法廷で争わねばならないという苦悩を背負うこととなった。合宿訓練出発(七月二日)の直前に、引率予定の顧問教員が健康上の理由で参加できなくなり、OB(元山岳部員・社会人)が引率を代行するという事情もあり、学校としても深い反省のもとに、以後十七回に及ぶ公判に学校代表者が出席、OB数名も証人として当時の状況を陳述した。漸く両者の間で示談が成立したのは五十六年三月のことであった。四年に近い不幸な歳月であった。

 この間、更にいま一つの事件があった。緊密化問題の起った直後、経営の刷新と事務体制の整備のため、事務長高橋正二郎は財務担当理事となり、代って早大より総長室調査役後藤朝一が出向(五十四年四月、正式に事務長に就任)、困難な校内事情の中で事務の近代化に努めた。ところが、五十五年三月、突如社会の耳目を聳動させた早大商学部不正入試事件に、後藤もジャーナリズムから疑惑の眼で見られるに至り、後藤は身の潔白を遺書にしたためて鉄路に自裁した(三月二十一日)。本校関係者は誰ひとり後藤を信頼せぬ者はなかっただけに、大きな衝撃であった。六月、後藤の後任事務長として、早大より下田光宏が出向、就任した。

 さて、緊密化問題が一応の結着を見たあと、理事会が着手すべき前向きの問題は新体育館の建設であった。昭和九年に建てられた講堂(興風館)は戦災に遭い、その後の数次の補修も限度に達しているため、新たな講堂兼体育館の建設は、生徒・父母・校友の年来の宿願となっていた。限られた校地のどこに建設するか、結局は一号館東側よりないと判断されたが、その地下には暗渠が斜めに走っており、公設下水道の地上には建造物は許可されないという厳しい制約を負った場所でもあった。しかもこの暗渠は国家の所有で、維持管理を東京都に委任しているという複雑な行政事情もあって、都に対するその路線変更の交渉は難航を極めた。担当理事は校友の応援を借りつつ、五十五年四月には同暗渠の国から都への移管に漕ぎつけ、更に同年六月、都の認可が実現した。その後、建設理事会(理事)、建設委員会(教職員)の度重なる協議を経て、同年十月、晴れて鍬入れ式が行われた。交渉の月日は記録的には一年足らずであるが、成否に責任をかけ心血を注いだ担当者にとっては一喜一憂の長い時間であった。そして五十六年十二月五日、無事竣工式を迎えることができた。

 一方、緊密化(系属化)以後の重要な問題として、早大各学部への推薦基準づくりの作業があった。藤平校長のもとに、推薦調査委員会が設けられ、生徒はその個性と学力とによって早大に限らず、いかなる大学への進学も可能ならしめねばならないという本校の伝統を損うことなく、しかも堅実な前進を展望し得る推薦のあり方をめぐって、熱心な討議がくり返された。その成案をみたのは五十五年十二月であった。詳細は省略せざるを得ないが、定められた推薦基準により五十六年度高三生から早大各学部への推薦が行われるようになった。

 更にもう一つ。本校では堀切校長時代(昭三十三)教職員定年制が敷かれ、専任教員は六十歳定年、ただし以後三年間は専任講師、更に二年間は特別講師、それ以後は学校と本人との協議で非常勤講師を継続し得るという形態を慣行としてきた。これについて、定年延長を望む声が強く、理事会は専門家の助言を受けつつ、新定年制(六十五歳・ただし六十歳以後の専任か講師かは本人の選択による)を打出し、組合との合意をみた(五十六年より五年間は移行措置期間とする)。五十五年三月には、四十八年間に亘り勤続の神谷喜美男が退職、五十六年三月には四十年間勤続の鈴木貫孝(元主事)をはじめ戒能通忠(元主事)、重面稔(元主事)、小浜浩、門田喜久らが、いずれも後進に道を譲るべく退職した。昭和五十七年十月、早大の創立百周年記念には、本校吹奏楽部もその記念パレードに参加、記念式典には全教職員と代表生徒が参列し、慶びを共にしたのであった。

 以上、昭和五十年以降七年余の歳月は、従来より山積していた問題、新たに生起した問題の処理に寧日ない有様であった。しかし、父母・生徒はそれらの問題の推移を冷静にみつめ、教学上いささかの混乱も起らなかったのは、根底に学校への信頼があったからであろう。生徒会やクラブ活動も遅滞することなく、PTA活動も毎年秋に開かれる講演会をはじめとして、例えば公費助成運動などを例にとっても積極的な協力を得ている。校友会活動も事務局の努力と幹部役員の熱意が実り、着々と基盤が固まりつつある。そして学校財政も漸く安定の緒についた。

 生徒一人びとりを大切にする――教育の場であれば、それは当然のことである。しかし今日、広く社会を見渡したとき、子供達はそれぞれ掛替えのない一個の人間として、どこまで大切にされているか。それを思う時、例えば喫煙をした一人の生徒の指導をめぐって真剣な議論がたたかわされるといった本校の教育姿勢は、根本において微動だにしてはならない筈である。それは本校創立当初の諸先生方の創意と情熱を引き継ぐものなのであり、その伝統は脈々として明日へ向ってなお流れゆく筈のものである。限られた紙数で八十余年の歴史を通観してきたが、ここに、先輩諸先生方の心を心とし、二万余(故人約四千)の校友の信頼に応えるべく、日々学ぶ生徒たちとともに、新しい歴史の創造を目指し、なお一層の努力を傾けていきたいと念願する。

執筆者 教諭 黒川光 教諭 橋本喜典

後記

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黒川光氏は昭和五十九年十月八日死去。共同執筆者として哀悼の意を表する。(橋本)