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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第一章 総 説 ――設立者をめぐって――

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一 大学とその学風

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 早稲田大学は、もと東京専門学校と称し、明治十五年(一八八二)十月二十一日を以て開校した。昭和五十七年(一九八二)には百周年を迎える。欧米の名ある大学に比して、この歴史は言うに足らず、我が国でも先輩校に当る学校は二、三に止まらぬ。しかし顧みれば、この間よく風雪に耐えて、国家の伸長、世界の進展に、或いは沿い、或いは逆らい、学界においては時ありて一世を指導し、新時代を開発する新説高論を以て注目を惹き、世には年々、幾多の人材を送って隆興繁栄に貢献して、独り国内の代表大学として指目せられるのみでなく、広く世界にもまた聞ゆる学績を挙げているのは、顧みてそのcentenaryをいささか記念し、慶祝するに値せずとしない。その設立者は、後の侯爵大隈重信である。

 彼は天空海闊の性格に加うるに、高邁英達の識見と、一世を空しうした博弁宏辞を以て、常に世界に日本を代表した野の巨人でもあれば、時ありて内閣の首班に立った朝の政治家でもある。従って、自ずからそれに薫染して早稲田学風ができ上がったので、或いは早稲田大学を除いても、大隈には他の半面として残るものがあるが、しかし大隈を除いての早稲田学苑はあり得ない。

 もともと、大学とその創立者は、如何なる関係にあるのが最も理想的であるかを定めようとしても、容易なことであるまい。しかし実際としては大まかに言って、次の三様式に大別せられるのではないか。

 第一は、何れかの都市に進学年齢の人口が殖え、これを収容しようとする行政的、政策的或いは便宜上の考慮から設立せられた大学で、中には多分に見栄または営利事業に近い算盤勘定の上から企画したものも少くない。これらは大抵個人格としての設立者が曖昧で、その徳風が大学に及んで、学風を形成するには遠いのである。戦後、大学の名を冠する新校が競うように簇立し、従って甚だしく不備未整頓の跡が多く、駅弁大学、速成大学、インスタント大学など、思いのままの蔑称を付して呼ばるるもの、すべてこの類項を出でぬであろう。今日、短期大学をも加えると、日本の大学総数は九百に近く、アメリカに次ぎ、ヨーロッパ諸国より遙かに多いと言われる。もし大学の数を以てその国学芸の盛衰を判じ得るなら、日本はその点で宇内に冠絶した文化国と誇称するに足るであろう。ただし、これらの紛然渾沌たる新大学も、何らかの存在意義はあるので、ピラミッドが裾を引く如く、日本学界の現状の最底辺としての支えにはなっていなくもない。

 そしてその上に、設立者も明瞭で、どの程度にかその学徳が浸潤して、好もしい学風を作っている大学がある。これこそまさしく教育の府で、或いは尊敬に値し、または好意が寄せられる。前の戦後派的諸大学に比し、数は著しく減少するが、各大都市に一、二校、或いは二、三校ずつはあり、全国を合せると蓋し少い数ではあるまい。

 ただし、その設立者が一般的の有名人でなかったり、或いは一地方の名望家たるに留まって、世間から広い認識を受けるに至っていないのが遺憾とせられる。尤も天下最高度の知名人が、教育に使命を感じて、生命と情熱をこれに傾瀉して成功するというような例は稀有のことだから、大学としてはこの程度で一応の満足を表さねばならないであろう。実業家の造る商工の職業大学、医科大学、またキリスト教、仏教、国学関係、多くの信仰団体、修養団体の大学などがこれに属する。

 その上にピラミッドの尖頂の形をなして、設立者が、天下の偉人、碩学、篤信者で、その影響が、設立された学苑のGeistをなしている大学がある。その最も著名なるものとして、少くとも左の四大学を挙げ得る。

 これを設立の歴史的順序に記すれば、福沢諭吉の慶応義塾(安政五年)、新島襄の同志社(明治八年)、クラークの北海道大学(明治九年)、そして大隈重信の我が早稲田大学(明治十五年)である。勿論天下著名なるもの、決してこの四大学に限らない。試みに拾えば、中村敬宇の同人社や中江兆民の仏学塾は、慶応義塾の福沢に声望相如く名士によって設立され、世の信頼を博することも決して劣らなかった。ただ経営に万全ならぬところがあり、恐らくは耐忍を欠いて、教育界痛惜のうちに早く消滅した。続いて日の丸を背景として東京大学が日本の最高学府と自負して天下を睥睨し、その他の国立高専の諸学校も教育界に重きをなした。私立では、当時の世上の最も手近かに要望する学問に応えて、五大法律学校(専修、東京法学校、明治、東京専門学校、英吉利法律学校)の名が起り、その連合討論会はよく都下青年の血を湧き立たせるに足りた。キリスト教界では明治学院が島崎藤村をはじめ『文学界』に拠って日本ロマンティシズム発祥の中心勢力となり、青山学院は篤実敬虔の風を以てキリスト教界の慶応義塾と見られた。しかし新聞、ラジオ、テレヴィジョンと三代のマス・コミュニケーションの寵児となって、半世紀以上、津々浦々の小学校生の耳にまで熟したのは、野球校で、一高先ず覇を称し、早慶これに代り、明治、法政、立教、東大が加わって六大学連盟を結成し、これに続いて東都大学連盟、関西六大学連盟をはじめ、その他全国各地に続々と野球校のリーグが結成された。野球を以て名が拡まったと言っても、それまでに皆それぞれに教育的業績を積み上げ、文化的役割を果してきたので、決して単なるスポーツ学校では終らない。別に女性の教育機関としては、津田塾大学、日本女子大学、東京女子大学(設立年代順)、その他地方にも世に聞えた女学院などがあって、男子大学に比し、多く遜色はないであろう。

 仔細に数えたら、特異の学風を作って尊重される大学は、他にまだ林の如く、雲の如くに多いかもしれず、その設立の内外人には、高徳博識で尊信を博した人も少くないだろうが、しかし、その名の知られている範囲が広汎でなく、遂に到底、上記の慶応の福沢、同志社の新島、札幌農学校(北海道大学の前身)のクラークないし黒田清隆、早稲田の大隈の知名度が、天下の常識となり、小中学校の教科書に載り、中には小説、劇、映画にまでなっているのには遠く及ばない。そして極言すれば、高名の設立者と大学と、一体不離で発展したのは、或いは早稲田大学が最後で、その後こうした学苑の大成を見ないのは、江戸時代から継承した私塾の伝統の消滅によるであろう。

 前記の四大学は、何よりも先ず設立者の教育的情熱と、知徳普及の盛んな欲求から出発した。すなわち初めは昔の寺小屋式或いは私塾式の名残りの消えぬささやかな集りが、漸を逐うて雪だるまのように拡大していったので、初めから国家権力を背景とし、或いは厖大なる資金を擁し、権勢や政治力の拡張に燃え立ったものの企画と著しく差異がある。大学事業は、樹木の成長に譬え得られよう。晴曇こもごも凌ぎ、五風十雨互いに享けて、枝葉を生い繁らせ、幹に青苔が生ずるようにならなくては、円熟した教育的機能は果せぬであろう。今の大学設立は多く先ず募集人員が予定の数に充ちて、経済的に成り立ってゆくかどうかが最初最大の問題とされ、教育者の人格学識を問うことは二の次となり、有資格無資格、ともかく文部省規定の数の教授講師の頭数さえ揃えれば、それで大学は成り立つ状態である。もし名付けることが許されるならば、人格的大学は漸く跡を絶ち、父親不明の人工受胎的大学が全国に充ちようとする。勿論、教育機関として強固な骨格の具わらぬこうした学園も、年を経過すれば歴史的年輪は加わってくるが、追慕すべく欣仰すべき学祖学父を欠いて、果してどれだけの学風、雰囲気を醸成し得るか。我らが学苑の誇りと自負は、実にここにある。

二 「大隈さんの学校」

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 慶応義塾は、発祥の源頭が安政の昔であり、志を同じうして来る者は拒まず、塾生活の不備乱暴を嫌って去る者は追わず、設立に明確な一定の方針も計画もない未整備渾沌の状態で始まったのだから、その鉄砲洲の初期は定まった名さえなく、近所では専ら「蘭学塾」と俗称したのは当然で、後に英学を教えるように変っても、一旦付けられたこの世間の呼び名は、なかなか改められなかった。慶応義塾と正規の名が定められても、時に従って福沢塾と書いている例が少くないのは、塾主の名声が天下に聞えて、一部には塾の正名よりもその方が分りが早いからであり、また「三田」と呼ばれて通ずるのは、遷ったその地名がよく知られていたからである。

 早稲田大学はこれに反し、新時代の教育が漸く形を整えようとした時代の設立なので、初めから東京専門学校という正規の名を冠して発足したのであっても、まだどこか江戸が余喘を曳いてその面影を全く消滅してはおらず、東京は、トウケイといいトウキョウと呼び、読み方もまちまちなところへもってきて、専門学校などという舌になじまぬ新語が続いては、容易に一般の口頭に受けつけられにくかった。そこで市井では便宜に多く「大隈さんの学校」と呼ばれたのは、先の筆頭参議として権勢並ぶ者なく、婦女幼童もその名を心得ているほど高名の設立者だったからである。しかし彼を敵視する藩閥政府は「大隈の私学校」と目した。ほのかに西郷隆盛が郷土に開いた私学校の連想と暗示を世間に拡め、これが謀反人の養成所のような警戒と恐怖を流布しようとする陰謀が含められている。

 しかしその後、一旦クーデターで廟堂を逐われた大隈も、太政官制度が廃止され、内閣組織の新しい政治が行われだすと、どうしても薩長藩閥政府だけでは運営できず、彼の識見才幹を必要として、内閣に招くに及んで、さすがに「大隈の私学校」の名は消えたが、「大隈さんの学校」の方は明治から大正に及んでも、律義な江戸気質の遺老や、学生相手の下宿の女中までこう呼んでいた。また男子は丁年になると、徴兵検査を受けねばならず、それで初めて「おとこ」になると言われたものだが、明治から大正にかけ、その検査官の将校は、一々壮丁の名簿を翻閲して、早稲田大学の卒業生や学生の名に出会うと、「大隈さんの学校だな」と言ったものだ。一つには彼が帝国軍人後援会の会長を依嘱せられていた関係もあろう。既にして「大隈の私学校」と言い、また「大隈さんの学校」と言う。何れにしても大隈の名を離れず、すなわち設立者の大隈重信と早稲田学苑とは、世間一般の耳目にさえ、如何に表裏一体であり、密接不離であったかを明証している。

 つまり早稲田学苑の初め半世紀の歴史は、大隈の前半世の履歴と相纏綿しており、逆に言えば大隈の書生時代に積んだ教養は、直接間接に早稲田学苑の学風の醞醸に多大の影響を与えてきているということになる。繰り返して結語すれば、早稲田大学百年史の前半は、大隈の「幼年、少年、青年」(childhood, boyhood and youth)の経歴の影響下に展開する。

三 四大学の特徴

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 大隈重信は天保九年(一八三八)二月十六日、佐賀の鍋島藩士の家に生れ、父信保は砲台長であったが、数えで十三歳の時死別した。幸い賢母に育てられ、学齢に達して藩校の弘道館に学び、外生寮(小学校に当る)から内生寮(中学に当る)に移る頃から、漸く持ち前の鋭鋒と不覊の気を現し、騒ぎを起して放校せられて、蘭学寮に移り、更に英学に変った。仮にここまでを第一段落として考察するに、これらのこと一々、大隈の人生の門出を形成するに重大な意味を持ち、従って早稲田大学の設立発展とも間接の関係がある。

 先ず大隈の生れた佐賀ないし鍋島藩が位置するのは、九州の西北の一角、日本でも海岸線がゆたかで、良港を控え、諸外国との貿易が盛んであるとともに、文化の吸収口であったことに注意しなければならない。我が歴史に九州の果した役割は、ヨーロッパにおけるギリシアに似る点があるとは、早くから識者の間に唱えられているところである。 あの蕞爾たるギリシア半島は、よく小アジア、イタリア、シチリア、エジプト、ペルシアなど進んだ異種の諸文明に接触し、次第にそれらを渾融統一して、独特の高度な文化を築き上げ、実にその後のヨーロッパ三千年の歴史の経行をよく摂理したと言われる。

 日本史に九州の果したのがまさにそれに類似した役目で、アジア大陸に直面しているため、古代は暫く問わず、初期の宋学もここを通過して入り、キリスト教もここを中心として栄え、鉄砲その他の武術・築城法・医学・本草学・外交書など、殆ど皆ここを経由し、或いはここに繁栄した。中には、三浦梅園その他の著書にケネーの重農学説が反映しているという考証もあり、そうすると西洋初期の経済学説も早く九州を通過しているのだ。その九州だから、日本の近代教育の勃興繁栄に、至大の関係を持つはおろか、西洋式近代教育は、皆ここから東漸して、播延したと言っても過言でないのである。ヨーロッパの中世末期からルネッサンスにかけて形成せられたセミナリオは、文禄・慶長の昔、早くも暫くの間ではあったが、長崎天草の切支丹学林として若干の痕跡を後世に遺した。

 こうした耶蘇学林(イエズス会系統)から、一、二世紀の断絶期間を置いて、蘭学教育が芽生え、江戸宗家の桂川学統は途絶えたとも見られようが、大坂の緒方洪庵の塾は維新形成に多くの人材を生み(橋本左内、大村益次郎、寺島宗則、加藤弘之、柳川春三)、殊にそこから巣立った中津藩の福沢諭吉が江戸鉄砲洲に開いた蘭学塾は、次第に慶応義塾に成長し、変貌し、発展して、日本の近代教育の濫觴をなし、その繁栄に直結する。殊に江戸城授受の後における上野彰義隊攻撃の砲声を聞きながら、いわゆる官軍にも所属せず、幕軍にも加担せず、学問中立の大抱負の下に、福沢がウェーランドの経済書(経済学はその当時新興学問の中心または象徴のように考えられた)の講義を継続し、悠々として動ずる色のなかったのは、如何に光輝ある近代学校の発足であったことか!

 明治第二の重要なる新教育機関の同志社は、慶応義塾が蘭学から起って、英学の淵叢として大成し、主として十九世紀の燦爛たる物質文明を形成する諸学説を講述するに努めて、宗教には甚だしく或いは全く無関心であったのに反し、学祖の新島襄が幕末アメリカに密航して、その新大陸独特の教育とともに、当時栄えたニュー・イングランド式宗教訓練を受け、片手に英学という中にも当時新興の経済学を学科の特徴として広く学生を吸集したこと、慶応義塾と併び称せられたが、他の片手にバイブルを奉じて同信の徒を糾合したことで、慶応義塾と全く違うところがあった。同志社の同志の語は、十九世紀の終末頃、世界各国の社会主義者お互いが連絡を通じて仲間を呼ぶに新しい共通用語としてcomradeという語を選んだのに吻合してしかも三十年を先んずるばかりか、「カエサルのものはカエサルに、キリストのものはキリストに」の聖主の遺訓に従い、わざわざ地を京都御所の裏に求めて、地上の統治は皇家に任せ、天上精神界のことは我ら専らこれに当らんとの盛んなる意気を示した。同志社の設立者新島襄は上州安中の藩士であり、その片腕となって補佐した山本覚馬は会津若松の藩士である。さればそれだけでは九州と関係がないように見えるが、しかもこの学校設立とともに、その風を望み、靡然として大挙入学して、学生の中軸をなした後年の名士横井時雄、海老名弾正、宮川経輝、浮田和民、徳富蘇峰・蘆花兄弟、安部磯雄、原田助など、この学校の存在を天下に重からしめたものの多くは、有名なゼンス大尉の率いた熊本バンドの一党か、そうでなくても、少くとも九州人なのである。

 明治新教育第三の殿堂とも言うべき札幌農学校は、国立なる点において、ここに挙げる他の三大学と全く性質を異にするが、文部省直轄でなく、北海道開拓使がしかも中央を離れた辺地に発足せしめ、明治政府の官僚的臭気から独立し得て、初代教頭として迎えたアメリヵ人クラークに一切その設立経営を任せ、暫く後任教授もその推薦を受けたため、特殊の学風を樹立したこと、私立学校に酷似する。すなわち国立大学も、仕様によっては私立大学的風格を持ち得る特異の例として、ここから除外し難い。

 クラークが日本に滞在したのは、一年に充たぬ短期間であったが、帰国するに当り、見送りに来た学生達に馬上から帽子を振って発した“Boys, be ambitious!”の訣別の一語は、不思議の魅力と意義を帯びて、ただに札幌の学生ばかりか、今日では実に、全国の青年の士気を奮い立たせる。明治の中期に学界の最大不祥事として一世を震動した教科書疑獄に連座した者は、殆ど官立大学、公立学校の出身者だったのに、この学校の卒業生にして教育に携わる者の中からは、一人の汚職者も出さなかったと聞くだけでも、学校を薫染した設立功労者の遺徳の床しさが分る。

 しかしこの学校も元を質せば、開拓使の企画で、その開拓使の中心は薩摩藩を以て構成せられた。蓋し薩摩は、徳川時代、琉球の支配を委嘱せられて海外または辺地の経略に馴れ、それに北海道占拠の叛軍を討伐したのも、薩摩が主力をなし、一時は二世西郷の称のあった黒田清隆が指揮したのである。その縁で彼は北海道開拓使長官に任ぜられ、伝記によれば、クラークを迎えると、自ら同船して北航した。その船上、黒田は新学校の徳育方針の如何を尋ね、クラークからキリスト教を中心にすると聞いて、びっくり仰天し、切に翻意を求めたが、それならば自分は学問技芸のみを教えて徳育には全くタッチせぬと言われてこれにも当惑し、再考したすえ遂に洪量大腹の彼は、信を相手の腹中に置いて「ようごわす」とこれに同意してまた他を顧みなかった。クラークは横浜を発つ時、あらかじめ聖書を購い求めて、開校とともに学生に一冊ずつを与える手回しのよさであった。由来、切支丹伴天連の妖教として久しく忌避嫌悪せられた外来宗教を以て、政府設立の学校の徳育の基礎とするなどということは、十余年の後に教育勅語が発布せられたことと思い合せ、今日では想像も及ばぬ思い切った決断だが、そこは薩摩人の大雑把と洪量にして、初めてこの外来の宗教教育を丸呑みにするというような離れ業が演ぜられて、しかも幸いなことには意想外の効果、成功を収めた。薩摩が九州の南端で、そこ育ちの黒田の九州人なるは言うを要せず、とすればクラークという外人教頭のこの学校も、九州的影響の上に乗って長所を発揮したのに外ならない。

 第四はすなわち東京専門学校で、その創立者大隈重信の藩主鍋島家の領する佐賀は、言うまでもなく九州の西北部、海岸線のゆたかな一角を占めているので、そこ出身の彼の学校であるから、醇乎として全く九州人の手に設立せられたことでは、福沢の慶応義塾と好一対をなしている。しかも福沢の中津と、大隈の佐賀がほぼ九州北部の同一緯度線上に東西両端をなして在り、その距離が余り遠くないことは、ここに特に注目しておきたい点である。

 そして東京専門学校を最後として、特色ある人物が特色ある理想を引っ提げて学校を興し、その人格的薫染が幾久しくその学校の学風をなしているような例は、絶無とは言えないかもしれぬが、それに近く、殊に終戦後、各地に建設せられるのが、外形いたずらに厳めしく、内容殊に人間的あたたか味を欠き、定まった学父のない人工受胎の大学となっていることは、前述の通りである。思うにこれは時勢の影響することが甚大なためで、或いは世界的傾向であるのかもしれぬ。

四 西南日本の文運

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 見きたれば、新日本の新教育機関たる新学校は、主として九州人によって興されたとするに異論の余地はない。後に他地方から流入する違った勢力の加わること、漸次に多きを加えて発達しているといっても、主軸ないしは地色が九州から発してきている事実は動かせぬ。早稲田大学百年の歴史を叙するに当り、底辺として考察の基礎に据えねばならないのは、この点であろう。

 そのことと関係があるかないか、終戦直後、我が国政治の盛衰起倒について政治評論家たちの間に説をなす者があり、明治以降の近代日本は、西南人が政権を執って勃興し、西南人、中部人、東北人が相共に、または交互に政権を担当した中期は平衡を保ち、最後に一部の東北人の専有に堕ちるとともに、俄然日本は滅亡に陥ったと言うのである。もとより言、いささか奇矯に過ぎ、にわかに賛同はできぬが、一種の見方としてうなずける点もないことはない。

 すなわち顧みれば維新は薩長土肥によって成り、新内閣制度は薩長藩閥の政権たらいまわしを以て発足し、続行した。その中の二つの例外内閣の大隈と西園寺の中、西園寺は公卿だから例外とし、藩閥の反対に立つ大隈といえども九州人そして西南人たることには違いない。大正中期以後、寺内正毅、田中義一などの西南人が、原敬、高橋是清、斎藤実などの東北人、加藤高明(愛知)、犬養毅(岡山)などの中部・中国人と相交錯して政権担当をしたまでは、どうにか陸軍の横暴を抑えて社稷をもちこたえ、殊に米内光政(岩手)の組閣は、その誠実と見識によって、国民の輿望を負うこと多大だったが、一木を以て倒るる大廈を救うには、時あまりに遅きに過ぎた。近衛文麿は最高貴族の身を以て、この前後に亘り三度組閣したものの、優柔不断、無為無策に終始した後、遂に東条英機(父は岩手)に譲ったのは、子供に火遊びを許したようなものであった。直ちに日米戦争に暴走突入して陸軍の空しき野望は満たされたが、事、志と違って敗報櫛の歯をひくが如く、小磯国昭(父は山形)が受け継いで敗戦は決定的となり、最後に鈴木貫太郎(千葉)が貧乏籤を引いて全面降伏を受諾した歴史は、今更繰り返すに及ばない。

 明治から大正の初め、政権が薩長藩閥の壟断に帰している時、異例は藩閥外の大隈重信と西園寺公望が二度ずつ組閣していること、前述の如くである。そのうち西園寺は公卿の中でも高位の名家九清華の一に生れ、明治天皇幼時の遊び相手で、英明は夙に中外に聞え、後年、長閥の首魁、伊藤博文の創立した政友会を継承して第二代総裁になったのだから、半ば長州閥と言ってもよく、従ってこの人が早晩首相の印綬を帯びるべき日の来ることは、万人の常識的な期待であった。

 大隈に至ってはしからず、明治十四年のクーデターにあって失脚しては、西郷の二の舞を演ずる乱臣賊子と誣いられ、政党を率いては天下の安寧を脅かす者と警戒せられた。しかし藩閥は、政治の行き詰まりに当面すると、どうしても大隈の力を借りないでは、切り抜けができなかったのである。つまり難局の糊塗手段として利用したので、その政権は永続すべき基盤も、目覚しい政績を挙げ得べき因縁もない。大隈の最初の組閣は、板垣退助と共同で大命降下した(明治三十一年)寄り合い世帯であり、藩閥の背景はなく、多年に亘って薩長が駆使してきた官僚組織と、軍の統帥権というタブーで、或いは揺すぶり、或いは怠業したから、長期を要する芳ばしい実績は挙げられないのが当然である。しかし不完全ながら、日本最初の政党内閣の芽生えを作り、しかも最後を尾崎行雄文相のいわゆる「共和演説」で玉砕したのは、第一次大隈内閣が世評の如く決して無為の内閣ではなかった証拠である。

 第二次大隈内閣は、大正三年に成立して、直ちに思いがけなく、第一次世界大戦が勃発し、日本はかつての三国干渉の臥薪嘗胆に対する報復、更に日英同盟の条文の規制から連合国側に参加した。これまた異論をたてる者があり、参加の時機を遅くしてイギリスを今少しく焦燥に陥れ、疲弊困憊に差し掛かってから力を貸したなら、講和の取引を更に有利にし得たろうと説く。それは戦国策式の手練手管の駆引きで、公明を旨とすべき文明外交ではない。この時の大隈内閣の時宜を誤らぬ参戦は、やがて日本に初めての黄金の雨を集中させ、ヴェルサイユの平和条約調印に当っては、日本に世界四大国の一つの地位を確保した。当時のいわゆる皇国の前途を誤らなかったと言うべきである。それも大隈が西南日本人、特に九州生れであることに因由するところあるかと思われ、これがもし仮に東条と同じく岩手、小磯とともに山形の出であったら、明治三十一年の昔早くも政党内閣を造る進取性を欠き、第一次世界大戦に連合軍側に機宜の参戦をなし得たこと、たとえ大隈の力量才幹を以てしても覚束なかったかもしれない。

 大隈が九州人であったことには、まさに千鈞の重大意義がある。ギリシアに譬えられる九州生れの大隈が本大学の仏を造り、そしてフランスのジロンド州にも比せらるべき自由の郷土の土佐出身の小野梓がその魂を吹き込んで、早稲田学苑は発足したのである。