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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第三章 若き大隈の教養

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一 佐賀藩教の両輪

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 大隈重信の伝記類は、大小十指、二十指を屈して、なお余りある。中で最初に口述せられた『大隈伯昔日譚』と題する自伝は、あたかも福沢諭吉の全著作において、『福翁自伝』が占むるに類する重要性を持つと言われているが、また極言すれば明治の功臣元勲の自伝の先鞭をつけたという歴史的意義を持つ。西洋の偉人には自伝を残す風があり、それが歴史探究の手掛りとして学界を裨益すること多大なのだが、我が国ではそれは手前味噌の不遜に陥るとの遠慮または自己卑下の風習からか、敢えてそれを成したものはない。大隈は大胆にその先例を作ったので、ここにも彼の進歩性がいささか窺われる。

 ただ世間往々、これは大隈得意の自慢話であり、多くのホラが混入すると言う者もあるが(例、伊藤痴遊の政治講談「大隈重信」または一部の政治評論家など)、近年、明治の基本資料の刊行せられるもの漸く多く、その研究が精密詳細に入ってゆくとともに、大隈の談は肯綮に当り、確実であることが着々として証明せられて来つつある。言葉を換えて簡単に言えば『大隈伯昔日譚』に語られていることは、概ね妥当で、信用に値する(勿論全く思い違いのない絶対無謬ということは人間の仕事にはあり得ない)。

 それによって、幼少時代から青年時代までに大隈の教養を探ってみると、勿論数え十六、七歳の頃までは、その藩学を何の抵抗もなく、無批判に、従順に受けている。幼い頃、物の習い初めには誰しも、先生ほどエライ者はないように思い込み、その言うことは、みな聞くのである。先ず大隈自身の語るところを聞こう。

余が郷里たる佐賀藩には、弘道館てふ一大藩黌ありて其の生徒を内生、外生の二校舎に分ち、今の小中学の如く、一定の課程を設けて厳重に之を督責したり。藩士の子弟にして六七歳になれば、皆外生として小学に入らしめ、十六七歳に至れば中学に進みて内生となり、二十五六歳に至りて卒業せしむる程度なり。若し其適齢に及ぶも、猶学業を成就する能はざるものは、其罰として家禄の十分八を扣除し、且つ藩の役人と為るを許さぬ法なりき。(是を課業法といひ嘉水三年に施行したり)然るに其教授法は、先づ四書五経の素読を為さしめ、次に会読を為さしむるものにして、其学派は専ら頑固窮屈なる朱子学を奉ぜしめ、痛く他の学派を擯斥したり。斯くの如き学制なりしを以て、闔藩の少年子弟は、皆な弘道館に入りて、其の規定通りに朱子学を修め、試験に及第して家禄を全収する志を起さざるを得ざらしめたり。偶々、高材逸足の士あるとも、此の方途を践まざれば其の験足を伸ばす能はざるが故に、一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不覊の気象を亡失せしめたり。藩黌に入りて制科に及第せざれば、家禄を減ぜらるのみならず、亦仕途に就く能はずと為すは、是れ明清の登科及第法よりも厳酷なるものなり。明成祖が対偶声律を以て人を採れるさへ、猶後人に秦皇の焚書愚人法よりも有害なりしとて非議せられたり。佐賀藩の学制は、豈に余多の俊英を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや。 (『大隈伯昔日譚』 二―三頁)

 これは公式な藩学教育で、寛政異学の禁以来、全国三百諸侯の藩、みな朱子学を正学としたので、土地により、教師により、若干、解釈や理解に差異が生じたとしても、中心の学説思想は、大体傾向を等しうする。その画一主義には、さすがに封建時代でも飽き足らぬものを感じて、藩によれば、これに独自の訓育法を加えたところがあり、佐賀は、殊にその甚だしきものであった。再び大隈の語るところを聞こう。

余が始めて学に就きたる時代に於ける佐賀藩の学制は此の如くなるが上に、又其窮屈に加味するに、佐賀藩特有の国是とも謂ふべき一種の武士道を以てしたり。謂ゆる一種の武士道とは、今より凡そ二百年前に作られたる、実に奇異なるものにして、而して其武士道は一巻の書に綴り成したるものにして、其書名を『葉蔭』(葉がくれ)と称す。其の要旨は、武士なるものは、惟一死を以て佐賀藩の為めに尽すべしと謂ふにあり。天地の広き、藩士の多きも、佐賀藩より、貴且つ重なるものあらざるが如くに教へたるものなり。此の奇異なる書は一藩の士の悉く遵奉せざる可らざるものとして、実に神聖侵す可らざる経典なりき。其開巻には「釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、曾て鍋島家に奉公したる事なき人々なれば崇敬するに足らざる」旨を記したる一章あり、以て該書の性質を窺ふに足る。且信玄を以て釈迦・孔子に配したるは、当時、信玄が如何に武人の間に尊敬せられたるかをも徴すべきなり。 (『大隈伯昔日譚』 三―四頁)

 この二種の教養を課すること、如何に厳格であったか、しかし時勢の推移は、遂にそれに改革を促す機運を生じ、自分はその反抗の急先鋒をなした者の一人であったことについて、大隈はまたこう語っている。

佐賀藩は実に斯の如き経典と朱子学とを調和して教育主義となし、之を実行せしむるに、陰に陽に種々の制裁ありて、一歩も其範囲外に出る能はざらしめんと務めたりき。是を以て、私学、私塾の如きは之を賤斥して士林に歯ひせられず。他に新奇なる学説意見を立るものあれば、悉く目するに異端邪説を以てし、痛く之を排斥したり。故に、一藩の年少子弟は皆此の厳格なる制裁の下に束縛せられ、日夜孜々として只管に文武の課業を励むの外は、毫も游刀の地はなかりしなり。当時、余も亦た其の束縛を免る能はざりしが、後漸く長ずるに及んで、其形勢次第に陵夷し、窮屈なる学制の束縛は頽然として壊敗するに至りぬ。而して余は実に其束縛に反抗し、学制の改革を促がしたるものの一人なりし。然れども、其の改革に至りたる遠因を尋ぬれば、之を時勢の変遷に帰せざる可からず。 (同書 四頁)

 つまり大隈は、この二大教養に反逆したのである。それでは、その感化は受けていないかと言うと、十六、七の頃まで叩き込まれた教学が、その心に何の烙印も押さなかったなどということのあるべき筈がない。早い話がヘーゲルの観念論を逆立ちしていると冷評したマルクスが、最も深厚なヘーゲル系統の学説を立てているようなもので、大隈も佐賀の二大教学に反逆したには違いないが、ある点ではその性癖の馴養に、深刻な影響を受けている点も見られるから、早稲田学風の源流としては、その点に溯って考察する必要があろう。

二 古賀穀堂の「済急封事」

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 その前にきわめて大まかに概観すると、『葉隠』は、伝来の源流として戦国騒乱に発する竜造寺、鍋島両家に伝統の美談を、約百年後に、一種の郷愁に駆られて集大成したので、一つのtraditionalismであり、自藩を絶対とするclannism(藩中心主義)であって、後の極端なnationalismに当る内容を持つ。これに対し、弘道館の教えた朱子学は、幕府が正学として天下に公布した御用学で、各藩同様にこれを奉じなければならないのだから、internationalism,communism(共産主義でなく、岡倉天心が「アジアはひとつ」の論で孔子の主張として述べている意味の共通主義、共同体主義に当る)、更に拡大して、鎖国内におけるuniversalism的性質を帯びる。

 それは正反対のもので、互いに激しく反発し、排擠するとともに、また補佐し、相互扶助し、融和統一さえもする。

 或いは今の若い読者にはQuo Vadisを思い出してヘレニズムとヘブライズムの対立、相剋、調和の推移と比較して考える方が理解が早いかもしれない。『葉隠』の集成せられた享保元年は、戦国の世を去る百年、元禄の豪華爛熟を経過して、江戸上方の頽廃弛緩の士風は、遠く西陲の佐賀にも浸潤してきた。それに対する慨歎と刷新の意気込みが、この後世「鍋島論語」と言われた『葉隠』に結晶した。あたかもローマの末期に及んで、典麗優雅のギリシア主義(ヘレニズム)が、ネロ皇帝の宮廷を中心に頽廃堕落の極に達したのを嫌悪するペトロニウスの歎きに当る。

 古賀精里、穀堂の父子が、弘道館の設立に企図努力するところ多く、朱子学を入れて、藩の固陋を排し、教学に新風を吹き込んだのは、頽廃ローマの中に、東方の清新な教義なるキリスト教が入ってきたようなものだ。弘道館中興の原動力となって、鍋島の藩風を天下に重からしめた功績者は古賀穀堂で、彼が草した「済急封事」は、その主張の厳烈沈痛な点で、ポーロの『ローマ書』に比較できるであろう。鍋島十代の藩主直正(後の閑叟)が襲封して、入部した翌天保二年に差し出されたもので、彼はその権威が絶対で、苟も触るることをタブーとせられた『葉隠』に、敢えて批判非難の利刃を加えたのである。それには、

〔藩士は多く〕不学にして自己の才を恃み、人に益を求むる心なく、大理に暗く、只今日の手数位にて何事も済む様に思ひ、己を修め人を治むるの攻究なく、間には士鑑用法を聞覚え、天下の事はこれにて済むと存じ、又は『葉隠』一巻にて事足る様に存じ、其外槍剣等の一小技を仕覚えて心地を試すなどと言ひ、聖賢の道は外国の事上古の事にて、今当国の事は同様にならぬとの下心あり。之に加ふるに無性の素質にて勤苦を厭ひ、四書だけにても攻究する能はず、武事は一事一芸にて足ると存じ、兵道武備には至て疎く、御国初の戦争もしみじみ覚えぬ程にて、一生を送るもの十の八九、誠に浅猿き限りなり。中興の事業出来かぬるも亦宜なり。 (『鍋島直正公伝』第二編 五三―五四頁)

とあって、すなわち古賀穀堂は、『葉隠』の一藩閉じこもりの固陋主義に一大打撃を与え、鍋島家の教学の一大回転軸となった。それは目覚しい改革を起し、藩風を一変せしめたかに見えた。しかしその藩土に自生した固有の力もまた強い。目的意識的主張によって、自然発生的思想の払拭消滅させられてしまうことはないのである。ちょうど中世にキリスト教が全勝を占めても、ギリシア諸神の信仰も残り、後にそれが弁証法的統一をして、人類の歴史にあって最大の絢爛さと言われるルネッサンスの文化を満開させた。前に引いた『大隈伯昔日譚』の一節を、再びここに引用すれば、「佐賀藩は実に斯の如き経典〔『葉隠』〕と朱子学〔弘道館学問〕とを調和して教育主義となし……」とあるところを見ると、ほぼ同程度にその感化影響を受けているらしく見える。別々に取り上げて、もう一度、この鍋島藩教学の二大主柱に照明を当てよう。