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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第九章 黒船来航前後

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一 ハムレット的態度

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 もし大隈の伝記を書くのであったら、別の叙法があり、別の史材が取り上げられねばならぬだろう。しかし早稲田大学の設立者の前歴という観点から彼を描くのであれば、せっかく苦労して、どうにか読めるところまで辿りついたオランダ語を思い切って英語に取り換えたほど、大きな転回はないであろう。それは弘道館の朱子学を捨てて、蘭学に踏み切ったのよりも、或いはもっと重大な意味を持つ。

 嘉永六年、ペリーの率いる黒船の浦賀湾頭出現によって、日本はあたかも巨材に楔を打って真二つに亀裂を生じた如く、開国と攘夷に分裂し、それと表裏して尊王と佐幕が火花を散らして抗争するようになった。

 封建制度下においては各藩は独立国のようなもので、みだりに藩境を越えて他藩と来往することは厳しく禁ぜられていたが、経済上その他の原因により、その拘束は次第に緩んで、それに幕府およびその他特別の藩の事情を知るためもあって、鍋島家は殊に早くから熊本の細川家と親しかったところへ、新たに鹿児島の島津家との交際が親密に開けてきた。鹿児島はこれまで殊に藩境を厳重にし、他藩の者の出入りを許さなかったので有名だったが、その時の藩主は島津斉彬で三百諸侯に頭抜けた進取英明の名君であり、佐賀藩主鍋島直正ももとより凡庸の藩主でなく聡明慧敏を以て聞え、いささか英雄、英雄を知るの趣があって、両藩の間に新たに人物交流の道が開けたところ、彼ら互いに帰藩してもたらす見聞は、これまで自藩のみに跼蹐して、井底の痴蛙の夢想に耽っていた愚かさを覚らしめた。

 その矢先に黒船来たるの警報が達したので、佐賀藩内は、忽ち鼎の湧くように周章狼狽し、にわかに藩士を大挙させて、先ず江戸藩邸を防衛し、更に人を派して、各藩の形勢を視察せねばならぬ必要に迫られた。

 しかし大隈ら、いわば異端として藩の上司から白眼視せられてきた同志は、その選に与る恩恵から洩れ、上役の意を迎えて気受けがよく、従って毒にも薬にもならないような人物が先ず選ばれたから、初めは収穫も大してなかったが、時局の切迫は遂に、異端派の青年をも挙用するに至り、殊に島義勇と犬塚与七は、北門の警備がゆるがせにできぬ自覚から、幕府によって蝦夷探険隊が組織せられて、派遣されるに当り、それに参加することになった。島義勇は剛胆を以て聞えた烈士、維新のとき陸軍参議となり、青年明治天皇の君徳大成運動が起ると山岡鉄舟などとともに宮廷に徴されて侍従を拝した人、後に江藤新平の佐賀の乱に坐して惜しくも斬罪に処せられた。犬塚は世に現れなかったが才学衆に優れ、早く東遊して藤田東湖、佐久間象山とも交誼浅くなかった人物。彼らは実地の探索見聞によって、遠い異郷の生きた知識をもたらし帰った。

 ペリーは日本に開国を促す大統領書翰を幕府に渡し、回答は一年後に聞きに来ると言って、艦隊は引き揚げ、後は国論が鼎沸して収拾がつかない。外交の衝に当る直接責任者の幕府は、勿論開国派だが、腹からこれを是認するのでなく、外国勢力の威圧、自国防備の寡弱のため、戦うて勝算がないので、暫く隠忍して、先方の申し分に従うというので、仮に名付くれば便宜主義開国派と呼ぼう。これに対し、領内に海港を有し、貿易の必要、内外の情勢より判断して、腹からの開国を望んでいる藩が、数は少いがないことはない。英主島津斉彬を戴く薩摩、それと往来親密の佐賀の鍋島直正などである。また中には、開国の必至を十分に知りながら、ただ幕府を苦しめ、倒す手段として激しく開国方針に反対して攘夷を唱えるようになった長州のようなものも出てくる。

 表面を見て単純に色分けをし難く、まさに万波重畳の形である。大老井伊直弼は、非常手段を以て反対派を弾圧し、いわば無理な開国をしたのだから、その激しい反動の来ぬわけがなく、遂に安政七年三月上巳の桜田門外の変は、「白昼斬取大臣頭」で、天下を震駭したこと恐らく昭和の五・一五事件や、二・二六事件以上であったろう。

 鍋島家の狼狽も非常なもので、藩主直正は初め、水戸斉昭を英明の豪傑と買いかぶってこれに親しんだが、知嚢藤田東湖の急死により、斉昭がこれまで主としてそれに躍らされていた傀儡に等しい仮面の英君であったのを看破して次第に疎遠となり、この頃は寧ろ非伊に接近した傾向さえあった。この水戸と彦根両藩に代表された極端にして急激な攘夷開国の何れにも、一刀両断的態度で加担できず、中間に彷復したようなこの時局へのハムレットが、或いは佐賀藩主の持ち前であり、そして維新に執った佐賀藩の決断に欠けた態度の前奏曲をなすものであろう。

二 アメリカ行き使節

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 井伊の開国に執った手段はいささか暴挙たるに近かったが、一たび天にはびこった狂瀾は既倒に回らす由もなく、まだ日本国民全体としては攘夷の感情の方が強いのに、実際の国情は、挙げて外国との修交に向って急傾斜し、遂に安政の末には、条約本書交換のため、日本から進んでアメリカまで出向くという積極的姿勢をとるまでになった。

 これに選ばれた正使は新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗上野介(忠順)、それに属官従臣を加えて総人数七十七人、アメリカから特にその用のため回航してきた軍艦ポーハタン号に乗り込み、安政七年(一八六〇)正月十八日品川沖を出発した。この従臣という中には、直接に諸役人の家来でない者まで混っている。これは、この際に便乗して、直接に外国の実情を見聞させたいとの要求を持つ藩があり、ひそかに依頼して、遣外役人の従者として、いわば非公式に見逃されて乗り込んだのである。それらの藩は十余に及ぶが、何れも一人か二人の便乗を頼んだだけなのに、佐賀は少くとも四人を送り込んでいるのを見ても、その要求の強かったことが分る。大隈も内心、しきりにこれが同乗を希望したのだが、藩の上役に受けのよい者でなければ選ばれなかったので、諦めざるを得なかった。しかし同志の先輩が二人まで抜擢されたのは、語学で蘭学寮生の力に依頼せざるを得なかったからである。

 使節はハワイ国王に謁して、サンフランシスコに着き、この港としては空前の大歓迎を受け、パナマに上陸して、初めて鉄道に乗ってアスピンウォール(現在のコロン)に達し、ここで新たに待ち受けたアメリカ軍艦ローノック号に乗り替え、ワシントンに到着して、大統領に謁見して条約書の交換を終り、あまたの歓迎を受けた後、最後にニューヨークにおいて、威風堂々とパレードをしたのは、ホイットマンの詩にも詠まれていて殊に有名である。ここでアメリカ新造の最大艦ナイアガラ号に乗り組み、今度は大西洋を横切り、喜望峰を回り、品川沖に戻り着いたのは九月二十八日だったものの、閏三月があったため往復約十ヵ月で、殆ど世界一周に近い大旅行をしてきたわけだから、同行者の見聞の拡大、蘊蓄の累積は、各人の機根器量に応じ、計り知れぬものがあった。

 その帰藩の思い出を大隈はこう語っている。

其の時佐賀から小出千之助も随行し、帰途に大西洋を航して喜望峰を廻り、万延元年に帰つて来た。此小出は安政の初に、弘道館の秀才の中から抜擢されて、蘭学寮に移つた男で、学才もあり、語も直に外国人に通ずる。専門は分析だつたけれども、本と弘道館に居たんだから、政治の事も心得て居る。此小出が軈て其年の秋に帰つて来て話すには、英米は世界に於ける東西の大国であつて、共にアングロサクソン民族で同一の語を話す。最早印度も英国の手に入つたといふ始末、其勢力は世界的に広がつて居るから、世界は将来は遂に英語になるだらう。我藩も今迄の様な事ではいかぬ、此際何とかせねばならぬ。佐野のやつて居る製煉所、斯様な小規模な物ではいけぬと。佐賀に世界の近況の明瞭に知れたのは此時からで、為に全藩の思想が一変し、是より蘭学からそろそろ英学に転ずる気運を導いた。小出は此時色々の木綿織物、ナツプキン、卓子掛の様なものから、ビードロ、西洋蠟燭、マツチ等其他チョイチョイした日用品、それから自分の専門の化学機械、薬品、諸種の鉱物の見本類、是等は閑叟公の命があつて買つて来たんであらうが、まだ外に棒砂糖の様なものも買つて来た。我輩も西洋蠟〔燭〕やマツチは、此の時初めて見たんであつた。又大分英語の書物をも持つて来、其中には小供の読むリーダーの類迄あつた。遂に文久三年から此小出と、外に秀島藤之助や中牟田倉之助(故海軍中将)の三人が藩命を以て英語を学ばせられる事になつた。小出の事は世間に余り知られて居らぬ様だけれども、佐賀の洋学には大益のあつた男だ。 (『早稲田清話』 五〇〇―五〇一頁)

なお、小出千之助という名、この時の一行の正式名簿に見えず、しかし「佐賀 小池専次郎光義(二十九歳)」というのが勘定格徒目付の刑部鉄太郎政好の従者として乗り込んでいる。こうした各藩の便乗者は多く名を偽って届け出ているので、恐らくこれであろう。とすれば彼は大隈より六歳の年上であった。

 あらためて付記するまでもないが、この時、正使に随行した成臨丸は、あの矮小な古船(それでも日本では第一の洋船だった)を以て、荒波を乗り切って太平洋の初横断をしてサンフランシスコまで行った。これには軍艦奉行木村摂津守の従者を志願して福沢諭吉が乗り込んでいた。果然、この鎖国以来初めての外国使節派遣は、日本の代表的両私立大学の早稲田と慶応を産み、また発展せしむるに、間接ながら重大な因縁を持つ。

三 理化学と接触

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 小出千之助が、海外を直接に見聞してきた清新な刺戟で、佐賀藩首脳部も、英語教修の必要を認め、秀島藤之助、中牟田倉之助、石丸虎五郎の三人に通詞の三島末太郎をつけ、長崎留学に出した。この中、中牟田倉之助は明治になって、最初の海軍軍令部長となり、日清戦争の時までその要職を占めた。また藩内においても、小出自ら指南役となり、蘭学寮に英蘭対訳辞書を購い求め、不十分ながら英語講習を開いた。大隈は無論一議に及ばず、その学生となった。しかるに小出は、急に領内の地質調査を命ぜられることになった。オランダに注文した軍艦の飛雲と電流の二隻が到着し、注文中の風丸の竣工も遠くないので、その代金支払いに莫大の費用を要するところから、泥縄式ではあったが、鉱脈を発見して、これに充てようとしたのである。小出は各地に出張して繁忙を極めるので、大隈に助力を求め、彼またこの先輩について常住の談片の端々にも、新知識を得ようとする要求から、喜んでこれに応じた。その結果は、

鉱塊を入れる革袋と、金槌と、それからアルコール洋燈と持つて方々を探査し廻り、何でもそれかと思ひ当る鉱塊を発見しては、ブラス、パイプを以てアルコール洋燈の焔を吹き附け、其最高熱の処を当てれば如何なる金属も鎔けるので、それを金槌で打ち欠いたものを革袋に一杯詰めて持ち帰つた。 (『早稲田清話』 四一九頁)

と語っており、鳥羽院山で銅、天山に鉄、今山で黄金の鉱脈を発見し、その他にも銀や水銀が見つかったが、何れも鉱脈が細くて、実際には採掘するに至らなかった。しかしこれも決して無駄には終らず、二十年後になって東京専門学校を建設するに当り、政治経済学科・法律学科とともに最初から理学科を置き、時が早すぎて学生の応募者を欠いて中途から廃絶せねばならなかったとしても、日露戦争後の国運進展とともに、この前歴を踏まえて再興して「早稲田の理工科」の名が内外に喧伝するに至る源流は、早くここに見られる。

 一方で大隈は、貿易を司る藩の代品方や、蔵方が、オランダ語の通弁を必要とするところから、それを依頼してきたので、同志江藤新平が代品方書記だった関係もあって、進んで、これに応じた。

 当時、藩財政充実のため、新規事業開発の衝に当った人物は原五郎左衛門といい、多くの功績を残したが、黄櫨を植えて白蠟を製してオランダ人に売り、素麺を作って中国に輸出するなどの交渉を大隈に頼んだ。彼は挨拶から簡単な用件ぐらいを通弁し、難しい、込み入ったことになると、専門通詞に託したが、商人らはそれでも、ひどく語学ができるように彼を買いかぶった。しかし漢学を学ぶ時から荻生徂徠など実用派の学を好んだ大隈は、実際の国際経済に接触して、異常の興味を感じ、意外の隠れた才能を発揮して、ますます商人の信用と尊敬を博した。この用で彼は、佐賀から三十里離れている長崎へしばしば往復し、その開港場の実状が次第に身にしみついて分ってきた。

四 経済と外交

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 長崎――

 そこは鎖国で三百年眠った日本が、僅かに開いている片目であったが、しかし西洋文明の光の射し込んで来る所は他にないので、日本の開明史に不滅の足跡を残した。そこが嘉永の神奈川条約の締結とともに、オランダの外にも広く諸国に開港され、今までの通商がオランダ一国に限られていたのと異り、締盟したどこの国の船が乗り込んで来てもいいことになったので、漸く両目の開いた状態である。

当時は長崎の最も繁栄を極めたる時にて、諸事の便宜に乏しからず。条約に依りて開きたる港は猶他に横浜と函館との二港あれども、横浜は江戸に近き故を以て、其警衛殊に厳密に、且商人に非ざれば出入することを得ず。函館は蝦夷地なれば内地との関係に甚だ遠ざかりて、容易に往来すべくもあらず。独長崎は斯くの如き事情なく、且久しき開港地なるを以て、各藩人士の往復頻繁なるのみならず、外人との交通も亦甚だ便利なりし。是を以て、長崎は京師に次ぎて全国有志の輻輳する所となりたり。舟航の便利も比年に数層の進歩を為し、各大藩は少くも一二艘の汽船を有し、薩州、佐賀の如きは五六艘を有して各々江戸、横浜、大阪等に往復したるを以て、江戸の消息、各藩の事情を審にするを得。其上、各藩より購求する武器、弾薬、船舶等は多くは長崎に於て取引せしを以て、何れの藩は幾許の武器を買ひ込み、何れの藩は如何なる計画を為しつつあるやをも知悉することを得たり。夫れのみならず、当時は已に毎月一回欧洲よりの便船ありしを以て、其便りに就て欧米各国の事情及び世界の大勢をも略ぼ聞知することを得たりき。 (『大隈伯昔日譚』 八二―八三頁)

 ここで大隈は、商人に貿易の「先き見通し」を語って知恵を授け、長崎の丸山遊廓に流連する軍資金ぐらいは、楽に稼ぎ出した。

余等は彼等に対して遠く他方に出でて商業を営めば必らず巨利を博すべきを説き、「今江戸、長崎、函館間の物価表を取りて閲すれば、其相違の甚しき実に驚くべき程なり。左れば、長崎の物品を積み出して、之を大阪江戸若くは函館等に送り、商機を計りて其売買を為さば、其利益は必ず居ながらの貿易に比して倍蓰するものあるべし。若し夫れ、其力の許すに従ひ、支那、印度等に向はば更に巨大の利益を占むるを得ん」といひたり。余が第一着に是等の商人に向ひ謂ゆる「船に由ての商売」を為さんことを勧めたる地は大阪にはあらで江戸なりし。蓋し、関東は比年不穏にして米価大に騰貴し、一般の人民は其為めに非常に困頓したるに、関西は之れに反して年頻りに登り、人皆米価の下落を嘆ずるの時なりしを以て、余等は此機を利して関西の余米を以て江戸に輸送し、他の便利を図るの間に巨利を博すべしと思量したり。従来、九州の物品を江戸に送るには、必ず大阪人の手を経たれば、米穀の如きは概ね大阪に止まりて其以東に及ばず、江戸は関東奥羽の田野よりして其供給を仰ぎしものなり。是を以て、尋常の場合には、斯かる重荷を九州より江戸に送りて其利を得ることは頗る難事なりけれども、当時の如く彼地は痛く飢饉を告げて此地は豊作つづきし時に在りては、収支上に大利益のあるの事業にてありしなり。幸に佐賀の豪商某は余の説を容れ、数艘の巨船を艤し、米穀を積んで江戸に輸送することと為せり。 (同書 九一―九二頁)

大隈の考えること多くはこの類で、時流を遙かに抜いていた。ただしこの件のみは江戸商人が義理が固くて、従来の取引先以外からの輸送品は買わぬ習慣があるので、思わぬ失敗をしたが、しかし十中の六、七は企画が図に当り、殊に奇利を博したのは、蝦夷地に着眼して、遠く釧路の東海岸の昆布を採集し、関西一円はおろか中国地方にまで輸出したことで、その往きも空船でなく、佐賀の物産を載せて運んだから両得である。これは大隈の同志島義勇や犬塚与七が蝦夷地探険に行った報告から夙に思いついていたので、かりそめの話も聞き捨てにせず、実際に役立てるのが、大隈の特長で、後に明治初年の空乏した財政を担当して、どうにかやりくりして危機を乗り切り、周囲が「大隈は無から有を生ぜしめる」と驚歎した手腕は、この頃から鋒鋩を現しかけた。

 明治・大正・昭和の三代に亘り最高の文明批評家たる三宅雪嶺は、大隈に対しては常に好意的立場をとったが、彼の死に当り、「銭勘定と交際術に秀でた大隈侯」という人物評を公にした。

大隈は早く藩主に才能を知られ、藩中の働き手となり、それで新政府に知られたが、如何なる才能かと云へば、会計と交際とに独特の能を具へ、それが生涯の経歴を造つて居る。銭勘定が早解りすると、人と話合ひするの巧みなのとが結びつき、銭が豊かに見えて交際し易く、人と交際するので財源を見出し、何処でも大手を振つて通ることができた。銭勘定が早解りするとて自分で大金儲けするの意なく、誰とでも交際し得るとて之を利用しようとせず、必要に臨んで処置する所が、自然に之で便宜を得、余り苦しまずに何処にでも頭を出すを得た。 (『人物論』 一〇四―一〇五頁)

そして大隈の一生をこの二つの特長の作用で割り切り、殊に明治十四年のクーデターで一朝、野に下っても、一向に挫折せず、板垣の自由党に対しては改進党を創って一層立派な政党にしようとし、福沢の慶応義塾に対しては東京専門学校を設けて、更に優れた学校に仕立てようとし、政府であらゆる妨害抑圧を加えても、七転び八起き、一向に弱った顔をせず、事、十分に志に添うたとは言えなくても、明らかに薩長政府の一敵国たるを失わなかったのは、「会計(大蔵)と交際(外交)とを兼ねるの才をそなえるのによる。」と結論している。

五 英学転向

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 大隈は、鍋島藩の代品方、蔵方の通弁用務を帯びて、佐賀と長崎を往復する間も、暇さえあれば、新たに学習を始めた英語の勉強を忘れず、殊に長崎に滞在すること、次第に長くなるに及び、東古川町一番地にある高橋啓次郎という素人宿を定宿とし、断続たりながら前後六年の長きに亘って世話になり、その間に英語を読書に事欠かぬだけに身につけた。大隈が晩年に及んでもアメリカ雑誌『アウトルック』と『リテラリィ・ダイジェスト』を購読し、また『ステーツマンズ・イヤーブック』は毎年取り寄せて、自分の世界知識の宝庫と珍重した読書力の素地は、孜々としてこの間に築かれたものである。

 長崎だから直接に、外人に就き得る便宜があり、彼が初めから教えを乞うた師匠はフルベッキである。この人博聞鴻才、第二のシーボルトとも言うべき大きな文化的貢献を、新日本の歴史の上に残したこと、今更ここに説くまでもない。枝吉神陽、大庭雪斎に次いで、大隈の若き魂を培うた第三の恩人は、まさにこの人としなくてはならない。

 その初接触の事情は明らかでないが、佐賀にいる頃から、その名声は大隈の耳に入っていたに違いない。というのは、大隈は同じく蘭学を修めた縁で、鍋島家の一門で多久の領主村田若狭の知遇を得ていた。この村田若狭はフルベッキが長崎に到着すると、最初に家臣二名を遣して、キリスト教の話を聞かせたので、フルベッキにとっても永久に忘れ難い人である。文禄・慶長の昔、耶蘇会の信仰を持った諸藩主達を「切支丹大名」と呼ぶのに対し、幕末開港後に新教の洗礼を受けた者には「クリスチャン・サムライ」という呼び名が付けられている。

 然らば村田はどうしてフルベッキと連絡がついたのかというと、彼は長崎警備に就いていて、知り合いのオランダ人からセヴァストポール要塞戦の絵を貰い、見るからにその戦闘の激烈にして大規模なのに強い印象を受け、西洋に対する好奇心を強めていたところ、たまたま小艇に乗って水上巡視中、波上に漂うている一冊の小本を拾い取り、通詞に読んでもらうと、天地創造のことと、キリストの生涯とその信仰、その道徳を書いた本だと言う。すなわち旧約と新約聖書の合冊であったらしい。これに興味をかき立てられた村田は、一層詳細にこの書の内容を知りたいという念に駆られ、佐賀に帰任すると、今度は江口梅亭という従者を長崎に送った。表面は医学研究という触れ出しであったが、実際はこの書を、もっと深く研究させるためであった。しかしその内容がキリスト教に関するものであるとは、おぼろげながら彼に分り、それは厳しい禁制であるから、表向きにその修学を願い出ることは憚ったのである。調べた結果これは既に漢訳ができていることが分り、そして上海から漢訳聖書を輸入した。村田はそれを読みに掛かったが、難解で分らぬところが多いので、誰かそれを説明して聞かせる良い教師はあるまいかと思っていると、吉報が耳に入ったのだ。このほど長崎開港の先頭を切ってアメリヵ人の一家族が到着し、オランダ人のように出島でなくて、珍しく街中の民家を借りて住んでいるというのであった。

 それがフルベッキであった。彼は日本開国とともに、アメリカ派遣の伝道師の先陣として、一八五九年(安政六)の十一月に長崎に上陸した。しかしまだ切支丹禁制の高札がものものしく立てられている時代だから、日本人は近寄る者さえなく、やむを得ぬから、ゆくゆくの伝道に備えるため、日本語の習得に没頭して空しく一年が過ぎた。そこへある日、思いがけなく二人の日本青年が訪ねてきて、しかも厳しい禁制で近づくのさえ恐れられているキリスト教の教えを乞いたいと、向うから求めるのだから、フルベッキは驚喜した。

 この二人こそ、前述した村田若狭から派遣せられてきたのであった。村田は佐賀の支藩の多久の領主であって、大藩佐賀の家老を務めている。家老といえば藩の総理大臣格の重臣で、自ら軽々しく動けないから、実弟の村田綾部が、小出千之助とともに、遣米使節に随行して、先頃帰国したばかりで、外国の事情に接触していたので、様子を探り旁旁に、彼を使者に立てたのだが、こうした貴人には家来が付き添う。それが本野周蔵だった。この三人は数年後の慶応二年五月二十日にはフルベッキから洗礼を受けるので、実に新教の受洗者としては二番目に早い先駆者となる。

 大隈は、上役で先輩の村田若狭からは、かねて特別の知遇を受け、その弟の綾部とは、蘭学書生として、一緒の仲間だったので、彼らがフルベッキに連絡をとると、すぐにその話を耳にし、段々に交渉が深まってくるのも、逐一聞いていたから、この新来の宣教師については、十分の知識を持っていたわけである。