Top > 第一巻 > 第一編 第二章

第一編 序説 東京専門学校創立前史

ページ画像

第二章 環境・時代・家系

ページ画像

一 西北九州の海岸線

ページ画像

 特にこの標題の三語を掲げて、大隈重信の成長の跡を考察しようとするのは、実は本学苑文学科創設の当時、教科書として使用し、早稲田が世に誇る一部の学問の形成にまで影響を及ぼしたテーヌの『イギリス文学史』の英訳(Hippolyte Adolphe Taine, History of English Literature)が、批評の基礎として、人種、環境、時代(race, milieu,epoch)の三つを据え、そこから独特の論考を展開しているからで、この書は今日では欠陥も指摘されているけれども、なおかつ大体は拠るべき断案として価値を失わないのである。今テーヌの並べた順序を換え、かつ人種はここでは家系と変更して記述するのが便宜と考える。

 大隈の人間を決定した第一要因は、大隈が生れ、そして而立の三十の年ごろまで留まった地が九州だということであるが、その地名の通り九州には九国あり、藩や幕府直轄地となるともっと多くに分れていて、東西南北、気候も地形も、従って人情風俗も、文化や産業も幾らかずつ違っている。そこで更に絞って、九州は西北隅、日本でも海岸線に恵まれた佐賀の主要部分を占める鍋島家の藩士の家に生れたという点にまで限定してくると、その性格教養の因由してくる事情は、遙かに明確になる。

 佐賀は目の前に長崎を控え、早くから海外の通商が開けた点で、よく遠い昔のギリシアと比較せられる。中国、南洋方面はもとより、南蛮紅毛の学問技芸を吸収する日本で唯一の窓口として、我が国新文化の開発に貢献したことは、今更縷説を侯たぬところである。

 それともう一つ、その海岸線を背景として、佐賀は早くからひそかに海軍力の養成に努めて、船艦も数多く蓄え、技術も修練を積んで高度に達していたが、維新の折、その一切を官軍に提供して、水上に後顧の憂なからしめた。これがなかったら、比較を絶して優秀だった幕府の海軍力に拮抗することはできず、明治国家の成立はずっと遅れたであろう。日本で最初の海軍軍令部長は、維新に戦火の功を誇った薩長土よりは出ず、一発の発砲もしなかったと嘲られる佐賀出で大隈の友人の中牟田倉之助が、日清戦争直前までその任に就いていたのであった。

 三十六万石という全国的に見れば水準以上の大藩であったとはいえ、維新の緒戦と言うべき大切な鳥羽・伏見戦に参加の機会を失し、ひどく後手をとった鍋島藩が、よく薩長土肥と併称せられるだけの勢力を築き上げたのは、良き港湾を利用して養成していた海軍力を以て官軍の弱点を補強したのと、藩内での血で血を洗う党争が不思議に全くなく、養成し、温存していた人材を続々と中央政府に送り込んで、平和時代に入っての建設に他藩の企及できぬ文化的貢献をすることが目覚しかったからである。

 なかんずく、佐賀四傑の副島種臣、江藤新平、大木喬任、大隈重信は、宮廷派も薩長藩閥も、夢にだに知らぬ新知識、新学問を以て、維新新政府の中に新風を吹き込んだ。大隈の才腕は特に光彩陸離として中外の目をそば立たせ、出世も最も早かった。

 次に、時代の考察に目を転ずると、大隈は天保九年の生れで、その三年後は水野忠邦による天保の改革によって知られる著しい特色を持っている。ほぼ十四年続いた天保の後半期に入っての出生だから、大隈出生の際には、天保文化は十分に形成を畢え、天保型が固まっていたのである。

二 天保人

ページ画像

 天保時代は、同じ江戸幕府の歴史の中でも元禄の豪奢を極めた繁昌や、文化・文政の幕府が極盛期に登りつめて、遂に爛熟潰蕩に陥ったほどの顕著な特色はない。しかしそれに雁行して記憶せらるべき時代で、世界的には革命と航海の時代であり、その余波は極東にも及んで、太平洋は捕鯨船に充たされ、異国船はしばしば近海に出没して、警報は各藩の耳朶を驚かせた。

 国内的には、蘭学が漸く盛んになろうとして、守旧的な林家の儒学と衝突し、国政的には、天保の改革が断行せられて、いわば幕府最後の敢為な政治家とも言うべき水野忠邦が大英断を揮って断行した封建制度下の一種の急激なデフレーション政策は、将軍嗜好の芽生薑が贅沢品としてその食膳から消えたという瑣事が蟻穴となって、せっかくの改革企画も潰え去る原因になったと言われる。大隈重信は実に、この国際情勢の切迫の警報と、天保改革の経済緊縮政策とを、胎教とし、幼稚園的教育として生育しきたった。ただしその海外警報の影響は後に彼の外務交渉において大いに発揮せられ、倹約の方は後年の生活に全く現れず、有名な築地の梁山泊以来、大名を凌ぐ豪奢とは言わぬが、富豪も真似をし得ざる豪快な生活を送ったのは、幼時の無意識の緊縮風潮が全く反対の結果を現したものと言える。

 天保人には、一種別趣の風格があった。それはなお明治人が独特の気骨を持ったというのに、やや似ている。前代の人間から天保人を見ると、ハイカラで進取的に見えたかと思われること、あたかも丁髷をのせた江戸ッ子から見れば、ザンギリ頭の明治人が驚異であったのと同じであろう。しかし後世の明治人の間では、天保老人とか天保生れとか言うと、旧弊で、頑迷で、度すべからざるものとのイメージが浮かんだこと、なお昭和の現代ッ子が明治人を見て、一面、手腕、知識、気節、礼儀あるに服し、他面、手のつけられぬ分らず屋と考えるのと似ている。

 大隈と最も親交し、また対立し、明治政治家として最大の成功者となった伊藤博文。古今東西ロシア軍を撃破した唯一の将軍と言われる日露戦争の時の満州軍総司令官の大山巌。海運業を起して世界第一級の富豪となった岩崎弥太郎。財界の大御所渋沢栄一。文化人としては、一人にして一代なりと言われる明治最大の指導者であり、これまた大隈と親しく、しかも終世背くことのなかった福沢諭吉。これら日本近代史上、最大の業績を遺した先人達は皆「天保生れ」で、大隈もその例外でない。

 明治陸軍随一の英才と言われた川上操六が少将の時、鎮台から組織を師団に変える計画を練り、先輩大山巌を訪ねて、「この際、天保生れの、ゲベール銃で調練した老いぼれ連中は、みんな始末しなければ、日本の軍の前途に発展は期せられません。」と言うと、「おいどんも、天保生れのゲベール銃組じゃが、老いぼれとして追い出されるのか。」と問い返されて恐縮したという逸話がある。大隈の頭脳は明治を経て、大正に入り、数え八十五歳で死ぬまで老化しなかったので有名で、クーデターこそ受けたれ、老朽淘汰の対象とせられたことはない。蓋し天保人の雄なるものであった。

三 両親の感化

ページ画像

 テーヌのいわゆる人種は、ここでは家系として考えなくてはならない。彼の父信保は、大隈自身分り易さから砲台長と呼んでいるのだが、正しき役名は石火矢頭人で、長崎警備に当っていた。三百石を領し、物成として百二十石を給せられていた。よく歴史家によって明治維新は下士階級の起した革命であると言われ、大体においてそれに相違ないが、大隈家はこれで見ると、大身ではないにしても、また下士でもない。中士という名称があればそれに当ろう。

 この父は有為の才を抱き、人を服せしめる徳があり、優れた軍学者、殊に荻野流の砲術家として名声が高かった。しかし嘉永三年、八太郎(重信の幼名)が数え十三の時、彼を頭に二男二女を遺して病没した。従って父への記憶、父から受けた感化が明確で著大だとは言えないが、大隈は早くより亡父を敬慕すること厚く、自分も父の職を継ぎ、父の如くなることを理想とした。藩主鍋島直正(後の閑叟)が、彼の英敏の才に着目して、航海術を学ぶべきを勧めた時、これを辞して、兵法の修業を願うた。

当時、余は専ら泰西実用の学芸を研究せしが、中に就きて最も意を致したるは、大砲術、築城学等の如き総て軍事に関する者に在りし。有体に云へば、余は今日まで特に専門の学業を修めたることなく、只種々雑駁なる多少の智識を得たるのみにて、一も取るに足るものなし。然れども大砲、築城等の事に至りては、稍知る所なきにあらず。是余が少年時代に於て最も意を致したる所なれば也。特に、大砲てふ思想は、最も強く余の脳漿に印影せり。 (『大隈伯昔日譚』 九―一〇頁)

敢えて藩主の命に背いても、乃父の業の砲術を継こうとの希望に燃えたのだが、学問を修めるようになってこの夢は忘れ去り、遂に砲術とは似もつかぬ道を歩むようになったのは、蓋し性格であり、また大きな時勢の変化の然らしめたところだ。

 父なき後の訓育は、専ら母の手一つに成ったのだが、これは同藩杉本氏の出で、名を三井子といい、温雅鷹揚、空竹を割ったようなさっぱりした性質ながら、慈愛心が深く、真に稀代の賢夫人というより、得易からざる良母であった。伝えられるところによると、大隈八太郎は幼時、病弱で、悧発でない。封建時代、長男の賢愚英鈍は、家運の消長に関係すること多大なので、母は熱心に神仏に祈念を凝らし、訓育に心肝を砕いた。その甲斐があって、健康も少しずつよくなり、知力も漸々に進歩し、遂に非凡の英才を発揮するに至ったのも、一に母の苦心によるところと伝えられている。

 そのように愚鈍なものが、如何に母の慈愛と苦心によったとて、真反対の英才に一変し得るものかどうかに疑問があり、幼少時鋭鋒が暫く隠れてはいても得易からざる優等児だったに違いないとは思うが、母の訓育が並々ならず優れていたことも異論の余地があるまい。母については大隈はいろいろなことを語り遺しており、ここに、『大隈重信は語る』(「大隈重信叢書」第一巻二七五―二七六頁その他)からその大意の一、二を録しておこう。

元来、母は大層客を好まれたから、我が家は今の俱楽部のようなもので、友人が尋ねてくると喜んで、手料理をこしらえ、団子を作り、ボタモチまたは柏モチなどを作って、御馳走をしてくれられた。これが多少の感化を与えたとみえて、吾輩も客は甚だ好きである。生れた家は総体で一段ばかり、畑だけが二百四、五十坪あった。豪富というほどではないが、金銭上においては比較的自由で幸福な境遇で、友達の困難災厄を救うため、母に相談すれば、できるだけ力を貸してくれ、そのため、よく友人間に幾分の地歩を占めることができた。母は書物が好きで、『太平記』や『楠公記』や『水滸伝』を、おもに愛読されていた。

 母は『楠公記』や『太平記』を愛読した影響で、尊王、佐幕の議論が、女の耳にまで熟するように、拡がってくる前から、目的意識的でない、自然発生的な勤王女性であった。

母は勤王の志が厚く、毎朝早く起きて洗面すると、すぐ遙かに皇居の方をおがんで聖寿を祈った。私が長じて勤王の大義を唱え、維新の大業を翼賛するようになったのも、母の感化である。

とも言っている。老女が毎朝仕事に掛かる前に、日の出に向って祈念するのは、全国一般の風習で珍しくないが、多くは家族や知人、殊に遠く離れた者の平安を願うたので、大隈の母のように、この時代において天皇のために祈るというのは、異例である。またこうも追加している。

母は珍しいほど、度量がひろく、寛大な人であった。人の過失を責めず、人の罪をとがめなかった。私は叱られたことは殆どない。金銭の支出も寛大で、勤王のためならば、家財も借銭もなにかあらんというふうであった。また喜怒哀楽を色に現さない。維新早々、私も西郷、木戸、大久保とともに参議となった。母は内心では喜ばれたであろうが、表にはあまり現さなかった。また条約改正問題で、兇徒にやられた時も、さほどに悲しまなかった。私は楽天家だと言われるが、それは多く母の感化であった。

四 菅公と大隈

ページ画像

 直接に哺育の感化を与えた父母の人柄は以上の如くであるが、大隈自身は遠祖を菅原道真から興ると信じていた。菅公はすなわち天神様で、学問の神様である。今でこそその崇拝は、例えば一時国民崇拝の中心であった楠木正成や乃木大将に今日では疎遠になったように、いつしか稀薄になってきたが、明治時代には天神様尊信が甚だ盛んで、各地にその神社があり、学問ができるようにといって学童は袂を連ねて参詣し、祭礼の日には学校を休み、清書を供えるような風習の地方も珍しくなかった。

 大隈が菅公の遠孫なりと信じた理由はここに詳記する必要なく、ただ次のことを述べておけば足るであろう。すなわち筑紫に配流せられた菅公の幾代目かと言われた菅原家泰なる者があり、筑後の国久留米領の大隈村に移って、その地名をとって大隈姓を名告り、初代を彦次郎といったが、その曾孫大隈信吉の時、鎮西の名族・竜造寺(隆信)家に仕えることになって佐賀に移り、この頃は実に二千石を領する豪族であった。鍋島家がいわば円満授受の形で竜造寺家を継ぐに及び、当然移って、大隈家は鍋島の藩士となって維新に及んだ。しかし恐らく、徳川家に譜代と外様の区別があったように、この転移で幾らかは疎外冷遇せられたに違いなく、一時は逼塞して、家運甚だ振わなかったが、重信の祖父の代から、漸く挽回の機運に向いてきて、彼の伸び盛りの頃は、その自ら語り残している如く、どちらかと言えば不足なしに、裕福に成育のできる境涯にあった。そのため居常何時も菅公を忘れず、明治になって志を成すと、早稲田邸の一隅に菅公の祠を設けて祭祀を絶やさなかった。

 菅公を崇拝し、天神様を学問の神として祭る習俗は、時代によって消長し、今も一部、いやかなり広い層に保存せられているが、しかし明治時代とは較ぶべくもなく、普通教育、中等教育の普及、大学教育の整備とともに、菅公評価は極頂期に達したのである。あたかも日露戦争の一年前の明治三十六年が、菅公没後の千年祭に当り、全国に亘って盛大を極めたことは、今なお遺老の記憶にある。その二、三年前から、その先触れをなすが如く、さまざまの行事が準備せられた。最も目覚しかったのは、明治論壇のシュトゥルム・ウント・ドランクの驍将といわれた高山樗牛の『菅公伝』(明治三十三年三月)の刊行である。

 それに刺戟せられたかどうか、北野会という全国組織的な菅公を讃仰する講中が起り、記念講演を菅公の遠裔と言われた大隈に頼んできた。彼は直ちにこれを快諾し、その所見についてはあらかじめ高山樗牛を招いて批判を聞こうとしたのである。樗牛は文名天下に布くといっても、大学を出て数年を経ぬ書生上り、一方は維新の功臣で総理大臣を務めたこともある大家だから、社会的地位には大分の懸隔がある。樗牛は甚だこれを光栄かつ誇りとしたに違いなく、大隈の見解はあらかじめ新聞に発表されて心得ていたので、大いに意見を述べる積りで出かけたところ、例の博弁宏辞に吹きまくられて、殆ど寸言を発せず、ほうほうの態で引き下がった。

 大隈のこの時の講演筆記が『菅公談』(明治三十三年)として世に出るに先立ち、再び樗牛に一文を求めた。同書付載の跋文「大隈伯が菅公談の後に書す」がこれである。思うに校正刷りで読んだものらしい。これは共に有名なものだが、ここには、当時第一流の文化批評家と言われた樗牛が、この書というより、菅公と大隈の因縁をどう見たかを知る上で、興味なしとせぬから、樗牛の文章の一節を引こう。

凡そ人物の評論に於て最も難しとするは同情也。是れ無くむば則ち人の内面の生活得て描写すべからず。唯其の位に在らざれば其の境を覚り難く、其の境を覚らざれば其の心を察し難し。英雄唯英雄の心事を知るとは即ち是を謂ふ乎。大隈伯の政治的閲歴は、少くとも其の形跡に於て菅公に類似するもの無しとせず、伯が菅公の境遇に関して常に深厚なる同情を寄せらるるもの、想ふに其の情に於ても相通ぜるものあるに因る無きを得むや。時勢を達観して其の大体を把持せるの烱眼に於ても、予は是の篇に敬服する所無きを得ず、奈良朝以来の文物を綜攬し、政治、宗教、学術三者の関係上より菅公の時代を描破せるところ、真に大処の着眼を誤らずと謂ふべし、是の着眼ありて公の人物亦能く活現せるを観る。若し夫れ四百年来の系譜を有せる菅公の遠孫としての伯が菅公崇拝を目的とする北野会に於ける演説としては、叙述論評おのつから其の法あるべし。是の篇史論の体面を保ち、而かも是の機宜に処して誤らざるの技倆に到ては、予の特に敬服に堪えざる所也。

(『早稲田小篇菅公談』跋文 二―三頁)

 勿論樗牛は、この書の持つ欠陥も鋭く衝いているのであるが、それは今必要がないから顧みずにおこう。ただここで興味のあるのは、菅公と大隈の政治的閲歴に類似があると言った点である。

 菅公は儒家から出でて遂に大臣になったが、当時この高位顕要の職は主として藤原氏以外には就くを得なかったので、他に菅公に似て儒家から大臣に抜擢を蒙る栄に与ったものは、独り吉備真備があるのみである。これは、維新の際において、参議は公卿と大名に限られたのに、後に維新の三傑および板垣退助などとともに、先ず大隈が挙げられ、また太政官が廃せられて内閣制度ができてからの総理大臣は、薩長の藩閥出身者たるを要したが、例外の一人は公卿から西園寺公望、もう一人は閥外佐賀の出の大隈重信がこの印綬を帯びたのに似ている。

 しかも、先に維新三傑が没し、大隈は任官の年次によって、最古参の参議となり、四年間、勢威が廟堂を傾けたのは、菅公が宇多、醍醐両帝の信寵を一身に受けて、奏して聞かれざるなく、企てて成らざるなかったのを思わせる。一朝、反対派の嫉視による讒陥によって賊名を着せられ、特に左大臣藤原時平の年少にして才に驕る陰謀が功を奏して、遠く太宰府に配流せられたのは、大隈がいわゆる明治十四年の政変の際、薩長藩閥の陰険なる謀略により、乱臣賊子、第二の西郷の汚名を着せられて、太政官から放逐せられたのと、多く変るところはない。この時、藤原時平の役を果した者は、或いは年少の切れ者、長州の山田顕義(当時参議陸軍中将)が、東西に奔走周旋したのではなかったかと推察せられている。

 彼山田は、才敏に、気鋭く、夙にナポレオンに私淑して、その軍略の信奉家であったが、西南戦争とともに、将来我が国においては兵を用いる余地は久しく来ないものと見通して、軍職に見切りをつけ、やはりナポレオンが法典を完成したのに倣うて、彼も日本の法典編纂を志した。そのように俊敏には違いないが、器局小さく(三宅雪嶺の批評)、伊藤・井上・山県らの長州先輩の意を迎えて、大隈に反感を持ち、その排撃追放に各種の策を講じた。多分司法大輔時代、大隈は司法部を支配下に置く参議の地位におり、才に誇る山田を小僧扱いにしたのに対する宿怨もあろう。

 東京専門学校を西郷の私学校になぞらえて、これを潰すことに肝胆を砕き、あの手、この手を用いて至らざるなかったもの、悉く直接に山田の方策に出たとは言えぬかもしれぬが、間接には大抵与り知らぬ筈なく、殊に東京専門学校は、市外僻陬の地にあって学生の通学勉強に不便だから、せめて法科だけでも、中枢地区の神田に移すべきであると主張し、これをもぎ取って英吉利法律学校(今の中央大学)を独立させようとしたのは、明らかに山田の策謀である。しかし百折不撓、何度悲境に陥っても、また盛り返してくるのが大隈の最も著しい特徴で、この点、一度挫折したが最後、そのまま再起できなかった菅公と大いに異るものがある。