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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第八章 大庭雪斎の教えた蘭学

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一 大庭雪斎の輪郭

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 大隈重信が、蘭学修業に当り、大庭雪斎が良教師であったと説いていることは、自分の人生行路において、影響を及ぼした恩人として枝吉神陽に感謝しているのに次ぎ、彼が特に人名を挙げた二人目として注目せねばならぬ。また彼は弘道館時代に諸子百家を渉猟したと言いながら、特に一書名を挙げて、その感化の深大だったことを語っている例は見当らないのに、オランダ語においては、晩年に及んでもフォルクス・ナチュールキュンデの内容構造を略説して、これは初歩の物理と化学の書物であるに拘らず、既述のように「その原則を心得たのが政治論にも基礎となって後年中々役に立ったこともある。」と言っているのは、尋常一様の読書経験ではない。この章において、いささか大庭雪斎と『民間格致問答』(フォルクス・ナチュールキュンデの邦訳)について、記述しておく所以である。

 実は大庭雪斎については、この道の大槻如電の名著『新撰洋学年表』の中にも、僅かに『訳和蘭文語』に関する記述一行しかないのを見ても、主として佐賀藩内の蘭学者たるに止まり、決して高野長英や渡辺崋山や、桂川甫周や箕作秋坪のような、全国的に聞えた名声を持たない。しかし『訳和蘭文語』と『民間格致問答』の両訳書を見ても、あの当時としてはなかなかの語学力、翻訳力の持ち主と考えられ、その薫陶下から大隈重信が育ったのは、緒方洪庵の門から福沢諭吉が出たのと、対比すべき貢献である。

 ただし洪庵と福沢は異った藩、大庭と大隈は同じ藩の出身という違いがあり、洪庵の門下からは人材が輩出したのに、大庭の門からは大隈を除けば僅かに先輩に伊東玄朴があるに留まり、多く言うに足らず、最も違う点は、洪庵の経歴が比較的明瞭に調査ができているのに比し、大庭の方はそれが堙滅して、僅かに遺著の序文や凡例に経歴の片鱗が窺われ、後はあちこちの書に零細な事実が散点しているに過ぎない。

 ただ『蘭学史料研究会研究報告』(第一四二号)に古田東朔の発表した「大庭雪斎」が、謄写版で九頁のものながら唯一のまとまったものであろう。その文末に付いた年表(年齢はすべて数え年、その他原文のまま)は次の通りである。

文化二年(一八〇五) 佐賀に生まる。

文政五年(一八二二)頃 十八歳頃 島本竜嘯に学ぶ。

文政八年(一八二五)頃 二十一歳頃 シーボルトに学ぶ。

天保十四年(一八四三) 三十九歳 緒方洪庵に学ぶ。

安政元年(一八五四) 五十歳 弘道館の教導となる。

安政三年(一八五六) 五十二歳 翌年にかけて『訳和蘭文語』刊。

安政四年(一八五七) 五十三歳 洪庵の『扶氏経験遺訓』参校。

安政五年(一八五八) 五十四歳 医学寮に改正を加え、好生館と改む。教導方頭取となる。

文久二年(一八六二) 『民間格致問答』成る。元治二年までにかけて刊行。

慶応元年(一八六五) 六十一歳 松隈元南教導方頭取となる。雪斎退いたためか。

明治二年(一八六九) 六十五歳 雪斎の子大庭権之介(景庵)藩学寮教員となる。

明治六年(一八七三) 六十九歳 残す。佐賀天徳寺に葬る。

簡単に過ぎるが、恐らくこれ以外の材料はまだ見つからないのであろう。

 先祖は平家の大庭景親で、その遠孫は代々竜造寺家、鍋島家に仕え、十七代が雪斎だという。名は景徳、ただし忞の方を著訳書には多く用いている。その他は、生年も彼の訳書『訳和蘭文語』の例言に「忞不肖年三十九ニシテ初メテ原本ヲ習読シ、今日二至ルマデ十有二年」とあることから僅かの推測の手掛りがつくので、この例言の書かれたのが安政二年十二月であるから、逆算すると文化二年生れになる。しかし誕生の月日は分らない。

 シーボルトや緒方洪庵に就いて習学したといっても、同門の多くの弟子達のような華々しい逸話は何も残っておらぬ。ただ大庭のことだから、凡庸な学生で終らず、頭角を現したには違いなく、緒方塾にある時、師の洪庵がHufe-land著の Enchiridion Medicumを『扶氏経験遺訓』と題して訳するに当り「参校」したとある。この参校の意味は明らかでない。木版の校正刷りを訳文と対校して誤脱を正したのか、或いは洪庵の創った訳文を、念のため原文と対照して、正確を期したのか。恐らく下訳を手伝って労力を助けた意味ではないであろう。

 『訳和蘭文語』は、オランダ語入門書として貢献した画期的訳業であるためか、文久二年竹内下野守が正使となり、幕府最初の遣欧使節がヨーロッパに派遣せられた時、福沢諭吉などとともに翻訳方御雇として随行した箕作秋坪が携行して、オランダに寄贈したのが、ライデン大学図書館に、今日も珍書として保存せられているそうである。生前それを知ったら、大庭は、自分の名だけでもその訳書に載って、夢の間も憧れるオランダへ行ったのを喜んだことであろう。

 なお、大庭の未刊行の著訳は、医学や数学に関するものが多かったことは、別に不思議はないとして、ただ、大隈がこう語り残しているのは、注目を要する。

大庭は旧約聖書をも半分程翻訳したが、其中に支那から訳書が来たので、巻を掩うて嘆息して止めた。それは支那の方の訳が優つて居たに相違無い。自分の思ひ附きといふぢやなく、矢張閑叟公の命令でやつて居たのだらう。蘭学寮の中に翻訳局が有つたんで、大庭も其局中の一人であつた。 (『早稲田清話』 四六二頁)

 蘭学と言えば世を挙げて、医学、兵学、科学の範囲に止まり、一、二の先覚者が漸く政治に目を向けた時、早く宗教の翻訳に着手していたこと、さすがに長崎警備を任とする藩だけのことはある。これが大隈の、他日、アメリカ宣教師について新約聖書の講義を受け、それがひいて潜伏切支丹の審問に当るきっかけをなして、彼が中央政界に知られるに至る径路と、直接の関係はないにしても、間接ながら冥々裡の連絡は絶無とは言えない。

二 『訳和蘭文語』

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 『訳和蘭文語』は箕作阮甫翻刻の『和蘭文典』の翻訳である。原本が公共福利振興協会刊のオランダ語『ガランマチカ』ならびに『セエンタキス』であることは、前に述べた通りで、蘭学を学ぶ者必修の入門書でありながら、原書の入ってくる数がきわめて稀だから学生は皆これを筆写した。箕作のこの覆刻の出現はその労を省いたのだから、我が国蘭学進歩の飛躍的階段として感謝せられたものである。しかし初心者はこの書を手にして、何が何だか分らず、ただ闇雲に棒暗記するの外はなかった。そこへ大庭雪斎の『訳和蘭文語』が出て、邦語で勉強に取り掛かれるようになった。ちょうど明治の英学生が、初め文法書はみな原文で学んでいたのだが、後に詳細な邦語英文法講義が現れるようになり、習得が大変楽になったのと、同じような具合だったであろう。語学修得の初歩で幼稚な時代、大庭の邦訳の与えた便益は、計り知られぬものがあったこと、今からでは想像も及ばぬ。

 前述の如く、その自序は、訳者の思考、為人の片鱗を窺わせるものだから、全文を掲げよう。もとは漢文だが、長文なので、読者の煩を救うため、直訳しておいた。

語に曰く、「清なる者は上って天を為し、濁れる者は下って地を為す」と。此の語実に然らば、則ち清濁混一なる者は新たに分れて天地生為せん。天地の間、人獣草木新たに生じて天地の徳初めて見れん。夫れ人獣の初めて生ずるや、其の蠢然なるを除けば、則ち草木と別無し。独り人其の得る所の土を新たにし、徳を蠢然中に明らかにして其の居処を撰び、其の衣食を定む。是れより以来、俊秀・賢聖は形語を新ためて口語を為り、口語を新ためて文字に通じ、宮室を構り、器械を制り、仁義を論じ、五倫を立て、帛を衣、肉を食いて禽獣と別有るに至れり。世日ごとに降り、事日ごとに新たまって善悪得失千変万化し、餐然として人心と幷行す。是れに由って之れを観るに、天下の日ごとに新たまる者は、蓋し天下の大徳なり。故に天地間の事、古の者を以て今の者を御さんと欲するは、抑も亦た惑わん。皇国日ごとに新たまって、徳沢は異域に及べり。是に於いて、支那。和蘭等の蛮舶碕港に来たれり。其の口語を通事するに、初め喃々然として形語に非ざれば通ぜざるなり。然る後、形語に由りて口語を記し、口語を記して文字を知り、文字を知って夷籍を読み、遂に其の学流の善悪・人智の得失を弁ずるに至れり。是れ他無し。言語は人意の見証にして、文字は言語の記号なればなり。故に方今欧羅巴諸国は、其の文字を新ためて字法・句法・章法を定め、以て文章を作るに之れをして其口語と毫末の差有らざらしむ。是に於いて先覚の者は、斯の法に由って其の已知の理を筆して以て之れを後覚に告げ、後覚の者は亦た斯の法に由って其の論理を読み、其の胸臆を察して其の奥に発明し、以て又た其の後覚に告ぐ。其の後覚は、復た又た愈々其の理を精しくして造化の妙と同致するに至る。是を以て世愈々降れば、則ち日新愈々積まれ、人知の妙は天地と参わるべし。故に日新の極度に至れば、則ち古の聖賢を以て後の常人に比ぶるも、亦た幾多の優劣なかるべし。然らば則ち、今を以て後を制するも亦た難きのみならん。是の故に、他に先んじて物理に新しめば、則ち其の知は他より明らかにして、必ず人国を制するに日新の学を用ってすれば、他国は乃ち之れと齢する能わざらん。故に亦た格物究理の日新なる者は、国家の大宝にして夷狄を御するの大本なり。日新の道は、何ぞ先ず格知の書を読むに如かざらん。読書は、何ぞ先ず文法を知るより先なるはなからん。文法一たび明らかになれば、則ち衆書の義理・聖賢の胸臆瞭然と観るべきなり。今茲に我が明公閣下新たに西学校を闢き、臣等をして先ず和蘭の日新の道を学ばしむ。若乃藩の日新愈々積まれれば、則ち我藩は乃ち皇国の日新の魁にして、亦た外夷を威するの嚆矢なり。窃く惟うに、閣下の先見は或は茲に在るならんか。小臣忞等は恐歓惶喜の至りに堪えず。微力不肖と謂うと雖も、豈に敢えて微忠を竭さざるべけんや。官務の余暇に因って『瓦鸞麻知加』『施尹太幾斯』を訳して『和蘭文語凡例』と名づけ、前後二編と為し、以て二三子としか云う。安政乙卯春三月望、肥国佐賀侍医、西学教導大庭忞雪斎序す。

ここに明公閣下と記するのは、藩主鍋島直正のことで、西学校を闢きと叙するのは、蘭学寮開設のことを指しているのに外ならない。なお、大隈をはじめ、当時の蘭学習得者は大抵、文章法のことをセエンタキスと書いているので、それに従った。

三 『民間格致問答』

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 大庭雪斎の第二の訳本『民間格致問答』(文久二年壬戌三月官許、思無邪斎蔵)の巻頭題言には、初めから「此書は和蘭陀国にて、『フォルクス、ナチュールキュンデ』と名け問答体に編て村野の土民に教る、理学の書を訳せるなり」とあり、原典は明瞭である。

 ただこの題名中、volksは英語で言えばnational,時としてpopularだから、「民間」の訳語の中には通俗の意味も響いている。しかしNatuurkundeはphysics,或いはnatural scienceで、凡例の「理学」の字は、明治時代は初め「哲学」を意味したこと、中江兆民の名訳『理学沿革史』その他を見ても明らかだが、ここに用いたように今日の理科の意に解したのは、その方が妥当である。しかし題名の「格致問答」は、今の読者は首を捻るであろう。これこそ朱子の説の「格物致知」(物にいたり知を致す)の略語で、真理の極致を究める意味だから、江戸時代の人には「物理学」などという耳馴れない新語より、この方が有効に、具体的に、内容の見当がついたのだ。

 注目すべきはその訳文であろう。その冒頭に「玆に童稚の時より格致の学問に身を委ねたる人あり」というのは、少年時代から物理学を専攻した人がいたということで、それが田舎の住居に引退し、難解の万有学を村人、特に庭園を業とする土民トインマンに説明してやる。そのHeer(旦那)とTuinmanという園丁の対談、そしてレクチュアの中に、まま問答も挾むという形式になっている。若干必要とせられる地の説明の文は、当時普通の文語体で訳されていること勿論だが、その両人の問答に至っては、珍しくも言文一致体である。早くから『梅暦』など江戸俗文学の草双紙は大抵この式の文体である。また僧侶の説教は地方訛を超越して全国に理解せられるのに、往時のラテン語、今のエスペラント語のような必要があったから、「そんなもんでござる」というような独特の調子が生じ、通俗の説教書にはそれを用いたのがあり、学術書においても口語を用いる例が必ずしも絶無ではないが、しかしきわめて稀有のことなので、その点も異例として本書の訳文が注意せられねばならぬ所以である。

 なお大隈がヘンテーとヤンテーの二少年の問答と語っているのは、記憶違いと思われる。また既掲の『大隈侯座談日記』において、「ハンデンブルグと云って多分ドイツ人かと思う人の書いた……」と語ってもいるが、ハンデンブルグの書も同じ頃輸入されていたから、時に混同して語っているのである。ナチュールキュンデはJohannes Buijisの著であること間違いない。

 この『格致問答』の訳書は、六分冊で十二章を包容し、各章やや詳しい目次がついているが、要約すると内容は左の如くなっている。

第一巻 講義第一回 物体、分子 第二回 分子

第二巻 第三回 引力、重力 第四回 熱

第三巻 第五回 天体 第六回 水

第四巻 第七回 空気、大気の圧力 第八回 酸素、窒素、水素

第五巻 第九回 水蒸気 第十回 電気 第十一回 磁力

第六巻 第十二回 日光、神

なお、本書の内容の知識を一層具体的にするために「題言」の全文を次に掲げておく。

題言

一此書は和蘭陀国にて、「フォルクス、ナチュールキュンテ」と名け問答体に編て村野の土民に教る、理学の書を訳せるなり、近年彼国大に文明になりて、士分の者は大抵諸芸の学を知ざる者なし、是において無知の土民をも導て、才智を開かしめんと思ふ国王の仁心にて、諸芸勧進の文社官に命じ、眼前に発現る諸事諸物の道理を説て、土民を導くべき書を捧たる者には、賞金を与へんと国中に行令しむ、此時数輩の学師、各一本を編成て捧たるを、文社官にて之を撰び、論理文章ともに抜群なりと称誉て、此本を出板し国民に与へにけり、今我邦には是等の道理学問、いまだ一般行はれず、士農工商ともに見も聞も慣ぬ事の様にて、容易は解難かるべければ、余もまた命を蒙れるまゝに、己が不才を顧ず俗言にて訳にけり、されば物の道理は些少にても言の端、てにをはの聞やうにて、あらぬ様に悟ること多し、況や奥深き道理は彼此混合て、悟り難きものなれば、此書の如き眼前の事を諭せるも、能々気を付て読べし、凡書物にては、如何に詳かに説示したりとも、言の色彩五言の上り下りの記標もなければ、口伝の様に定かにもあらず、然るを一通に読て解らぬと云捨るは詮なし、只工夫をこらして、幾へんも〳〵操返し読ば、自と前後の道理の味もしれ、不思議なる天地の事をも悟らるべし、

一文面の言ざまは賤しけれども、事の道理は賤しからねば、世の玩びの戯作物の様に疎かにせず大切にして読べし、彼国にては子生れて六七歳になれば、十二三歳まで仁義五常の道を教へ、或は算学地理学を習はせ、十三四歳より十六七歳まで学校に入て、此書の如き万有学を学しむ、故に六七歳の童子には早くいろは仮名を習せ、朝夕間に読教へて、事の道理を漸々に諭せは、幼少より才智開けて、自と文字の義理もしり、高上なる漢書を学ぶ時の助けともなるべし、又親たる者は其身の課業と定め、朝夕其子に読教れば事の道理いよ〳〵明になりて、経世日用の事にも弁利のことのみ考へ出て、無益に人力金銀を費すこと少なかるべし、返す〳〵も書を読時は、如何程平易き書物たりとも、能気を付て、道理の意味の心にうれしく覚るまで工夫をこらすべし、若些少も解難きことあらば然るべき人にも問尋ぬべし、人に問ことを恥て臆案に任せ置ば、仮令天性鋭敏人たりとも、道理の根本間違ひて、生涯同様の才知にて暮す事あり、兎角に学問読書は才知を増ためのものなれば、彼此に心をとむべし、

一昼夜を二十四時とし、その時の六十分一を密扭篤といひ、又その六十分一を施昆度と云、又会爾は、我念仏曲尺三尺三寸に当る、その十分一を把爾牟といひ、把爾牟を十分して兊母といひ、兊母を十分して私多列比と云、又弗多は、一尺許に当り、里は、我九町八間一尺二寸四分余に当る、又封度は、把爾牟立方蒸餾水の秤量にて、二百六十八銭三分三厘三毛強に当る、穏斯は、その十分一にして、羅独は、又その十分一なり、

一和漢に物体は有ても名のなき物は訳べき言なし、故に喩ば素質と訳て、傍に「ストフ」と記せるが如きは、些少は字義にも由れど、彼の邦の「ストフ」と云名を其儘にて訳せるなり、又剥林、越列幾の如く字義にもよらず、其儘の名を目的にして訳せるもあり、如何なる物と云ことは論の序にて悟るべし、只訳文の拙きは不才不学の筆に罪あれは、看人願くば紓給ひて、事の道理のみを採用ひ給へがし、

 これで見ると、葦の髄から天を覗くような当時の洋学修業法ながら、ある程度までオランダの初等教育、一般教育の状況を探り当てている。

 ただし大隈は、この書を翻訳の『民間格致問答』によって読んだのではない。この訳書の第一巻の刊行は文久二年だが、大隈はその前年既に蘭学寮の教官に任ぜられているし、また早くも英学修業に転向しかけているから、つまり『格致問答』の訳本の刊行以前に読んだに違いなく、その何回か語り残している回憶も、まさしくそう読み取れる。

四 全大隈の基礎

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 大隈が大庭雪斎から学んだオランダ書として、最大の興味を以て再三語り残しているのは、このナチュールキュンデだが、他にも幾つかの書を読んだ思い出を語っている。

朱子派の順序を践みて深く四書五経を研究する事を為さず、却て諸子百家の書を渉猟し、好んで経世済民の方法を攻究したる中にも其最も愛読したるは管子及び白石、祖徠の著書にてありき。斯く一方には和漢の雑書を研究すると同時に、他の一方に於ては、蘭書に就きて地理、兵制、物理等、泰西実用の学を修めたるが、よし是等は簡易なる書冊なりしにもせよ、其の当時に在て、啓発の功は実に少なからず。之に因て始めて欧米諸国の貧富、強弱、土地の肥瘠、物産の豊乏、及び制度文物等の一斑を窺ふことを得たり。而して当時最も深く余の脳漿を刺激せしは、荷蘭の建国法なりき。余は非常の苦心を以て漸く之を読みしに、其の記する所、着々経国の要領を得たるを以て、余は夷狄の国にも亦かかる良制度ある乎と感嘆措く能はざりし。

(『大隈伯昔日譚』 一七―一八頁)

これは漢学と蘭学の比較であり、大隈が生来、空想絢爛の文学よりも、経世済民の実用学を好む性癖なるを語り、ヨーロッパの政治の記述が禁断の果実を初めて味わわしめた経験の回想である。

鳴呼、是れこそ実に余が立憲的思想を起したる濫觴にして、是まで多年立憲政体の設立に苦心焦慮したるは、全く此の思想の発達したる結果なりとす。加之ならず、余は北米合衆国が英に叛いて独立したる往時の宣言文を読んで、始めて泰西人の謂ゆる自由権利てふものの真意を解し、彼の文物制度、頗る我れに優過する所あるを覚り、窃かに之を移植せんとの志望を懐きたり。之を要するに、余の自由思想、立憲主義は、蘭学寮在学の日に於て其萌芽既に発生したりしなり。斯くの如く、余は和漢の智識と泰西の思想とを調和し、且つ之を実地に施さんとせしを以て、其論策は幸に空漠に流れず。而して財政の整理、国憲の確立と云へるが如き、国民の一日も等閑に附し去るを得ざる実地の政策主義を胸裡に画定したるは、自ら以て、一朝一夕の故にあらずと信ず。 (同書 一八―一九頁)

 蘭学攻究の総収穫をこう概括しているのである。大隈の一生の政治的業績は、広義に言えば在朝在野の別なく、日本の立憲政治そして政党政治の達成を以て一貫しているが、その端緒は実に蘭学寮において得られたものであることを確言している。最も注意を要するのは、ここで読んだのが、オランダの自由な政治的知識ばかりでなく、実にアメリカ独立の宣言文に接しているのは、後に早稲田大学の設立とも、密接な関係を持ってくるので、深く記憶に留めておかなくてはならない一節なのである。

 具体的な読書例としては、久しく時を隔てて大隈は「座談日記」において、こうも語っている。

殊に、ナポレオンに就いては、あの日本武士的の生涯が私の青年的興味や奇好心をも強く惹いたが、元々、和蘭を通じて徳川時代に入つて来た西洋事情の中で、一番早く、一番詳しく分つたのは、ナポレオンとピヨートル大帝との伝記であつた。山陽の詩にも出てゐる、大槻磐渓の詩にも見える。私の当てがはれたのは、七百頁ばかりの和蘭書であつたが、もとより先生のあるわけでなく、辞書と首引で読むだもので、一年か一年半位かかつたらうと思ふ。大抵の本は、始めから五十頁か百頁位読めば倦くのが普通である。私は、白状するが元より勉強家ではないのである。所が、ナポレオンの伝記だけは無暗に面白くて到頭読み了へたものである。 (『文明協会講演集』大正十年五月発行 大正十年度第五 一一六頁)

 確かに蘭学は、大隈重信の人間造りに著大な役目を果し、その大隈と盟友福沢諭吉の二人を通じ、早慶両大学開設の基礎をなした。