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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十三章 人材を温存した佐賀藩

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一 薩長台頭

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 大隈の行動半径は、佐賀と長崎の間三十里を出ずること多からず、学問も朱子学の外に、早く蘭学、続いて英学を修め、当時としては第一級の知識人であったが、仕事は貿易たる代品方の通訳ぐらいで、世務の活機に触るること遠い。この蝸牛殻大の外に、志望が伸びて、天下を念頭に置くようになったのは、大体桜田事変の前後からである。これを境界に国情も激変したが、数え二十三歳で大隈も漸く大人になりかかったのである。

 たまたま翌文久元年(一八六一)の歳末には、鍋島直正は三十年の藩主生活を譲って、広く天下に名前を知られた閑叟となり、後は当然、子の直大が継いだ。大隈一党の進歩的同志は、この世代りに藩政の刷新改革を翹望し、新人材の登用を建議したところ、珍しく聴き容れられた。それは大老の井伊倒れ、鹿児島の島津斉彬逝き、その後幕府も朝廷も、唯一にして最大の頼りとしてきたのは、閑叟の学識才幹である。朝幕こぞってのこの期待に応ずるためには、閑叟も旧態依然たる人的体制を保っているわけにはゆかなかった。しかし新登用者の顔触れを見ると、一向に変りばえのせぬ凡庸者のみで、これはと期待の掛けられる人材の一人も挙用せられないのに、大隈らはいたく失望せざるを得なかった。

 元来、閑叟はこれまでもワンマンで、独裁的傾向の強い君主である。それに世継ぎの藩主直大は僅かに十五の少年に過ぎなかったから、勇心銷磨した重病から健康を回復して、壮心いまだやまぬところある閑叟は、まだ知命には三年の間があり、なお後見の地位にいて実際の藩政を動かしてゆくであろう。更迭せられた新重臣頼むに足らずとすれば、大隈らの新機運を待望する同志も、やはりこの旧君主に望みを繋ぐ外に道がなく、そして彼はそれに値する名君には違いなかった。しかし、この期に臨んで如何にも曖味な態度である。断然、身を退いて世事に関せぬというのなら、また諦めようもあるが、そうも見えず、といって積極的に動き出す風もないから期待をかけていいのかどうか分らない。

 その間に時勢は、桜田事件以来、或いは暗黙に、或いは顕著に、或いは徐々に、或いは急速に推移し、文久年間に入ってくると、いつの間にか江戸と京都との地位に、交替の兆が現れてきた。これは年々、澎湃の度を高めた勤王運動の結果で、勤王運動と言えば水戸が発祥地、そして中国の長州と鎮西の薩摩がこれに相呼応し、三藩が中心の観をなしたが、水戸は激しき藩争の結果、早くも勢力を焼尽して、今や薩長二藩が京師に勢力を扶植してくるに至った。

 そもそも大隈重信が、明治になって政治的全生命をかけたのは、薩長藩閥の打倒潰滅で、早稲田大学の前途に多大の希望を繋いだ所以のもの、実に薩長を基礎として次第に広く繁茂した官僚制度ジャングルの芟除、国民精神の自由開展にあるが、その藩閥は遠く文久の昔に初根を下ろしているのである。

 何が薩長をして、この時局に特に台頭せしめる原因になったか。もし時勢の力と言えば、三百諸侯等しく同じ時勢の中に浮沈したのだし、藩力と言えば、加賀百万石は両藩より大きく、仙台、肥後、筑前、肥前、安芸、土佐などは伯仲或いはそれ以上である。この中では土佐が英邁の藩主山内容堂を戴いて、頭角を抽んでた以外、他は碌々としてなすところがない。してみると原因は藩力以外に求めねばならぬ。

 天下分け目の関ガ原に、不覚の惨敗を喫し、爾来、隠忍して兵甲を練り、藩力を養い、ひそかに復讐の機を待ったのが、ここに二百年にして漸く両藩にその時節が到来したのだという従来の史説は、確かに半面の真相を語って興味深い。しかし関ガ原の結果として深大の被害を被ったのは上杉家であるのに、ここで薩長に肩を並べ得なかったところを見ると、それのみを全体もしくは主たる原因と数えるわけにはゆかぬ。やはり両藩に、時勢の活機に敏感なる対応をして誤るところ少き明断があったとせねばならぬ。

ニ シュトゥルム・ウント・ドランク

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 薩長の京師における勢力伸長を導くに至ったのには、その前に浪士の輦轂を目差しての集合がある。彼らは横浜にロシア軍艦の水兵の命を奪い、桜田門に井伊大老を屠り、アメリカ人通訳のヒュースケンを殺害し、坂下門に安藤対馬守を傷つけ、イギリス公使館を襲い、その人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る乱暴狼藉は、後代から歴史的に見返しても目に余るものがある。

 今や時勢は急斜して、いわゆる「菊はまた咲く葵は枯れる」と歌われたことが実現しようとし、宮廷の実力は漸増してくるのに対し、幕府の威権は西風落日の状態に急ぎつつある。不満と焦燥と激情と無謀の浪士達は、あたかも夏の虫の灯を目掛けて飛びくるように無謀に、向う見ずに京都に集まり、その国籍は各地に跨るが、長州、土佐、薩摩、肥前など、その数を多く出している藩ほど活気に充ちて、時代の先頭に立っている。

 いわばそれは幕末と維新の境界に竜巻きを起したSturm und Drang(疾風怒濤時代)で、時代的流行病のハシカのようなものであるから、一度これに感染して脱出しないと、次期の新時代を担うスタミナはつかない。薩摩は先ず伏見の寺田屋に同志相殺戮する惨劇を演じて、比較的短期にこれを切り抜け、長州はやや遅れ、九門の変に禁裏に銃砲を撃ち込み、再度の長州征伐軍を差し向けられ、それに堪えて漸くこの時代的苦悩から脱出することができる。

 薩長がその後、半世紀に及ぶ不抜の藩閥の根を下ろしたのは、文久二年(一八六二)、前後して勅使を擁して東上し、オールマイティに見えた征夷大将軍をあたかも膝下に跪かせるが如き地位を執り得たことにあろう。薩摩は藩主が年少で、実父島津久光が後見して実権を握っていたが、この四月入洛、兵杖を帯したまま堺町御門を過ぎて、親戚の間柄の近衛邸に下馬した。元来、皇居の九門は武装しての出入り厳禁なのに、それを無視してこの行動に出たのだから、彼の眼中既に所司代も幕府もない。そして中山大納言忠能、すなわち後に明治天皇となる睦仁親王の生母の実父、および声望それに匹敵した正親町三条大納言実愛および岩倉具視を呼んでもらって、時勢の改革案を陳述した。中山、正親町三条両大納言は参上して、孝明天皇に奏上すると、叡感斜めならず、勅書を下されて、久光に輦下の守護を命ぜられた。由来、幕府は、宮廷と大名の連絡を警戒し、その直か取引は厳禁していたのに、薩摩は、先代斉彬がひそかに御製の色紙を賜った前歴があり、今また久光が内謁の栄に与った。殊に京都には所司代という幕府の出店が昔からあるのに、別にまた外様の薩摩藩に洛中守備の下命あること、真に前代未聞である。

 四月、長州藩主の毛利元徳が江戸から帰国の途上、入洛したので、朝廷は勢力の均衡上これも留めて浪士の鎮撫のため、島津久光に協力せよとの沙汰が下った。そこへ土佐の山内容堂も藩兵を率いて入洛したので、これも同じく禁闕守護の命を蒙り、いわばこれまで武備は丸裸であった禁城は、急に天下三大藩の守護に囲まれることになったのである。久光の「国務八箇条」奏上の中に、幕閣から老中久世大和守を上京させよとの一条があり、それを江戸へ伝達すると、承諾はしたが遷延して腰を動かす風がない。そこで再び久光の建言を用い、勅使を江戸に派遣することになった。岩倉具視がこの選に当ったが、その力量は須臾も闕下を離れ難い事情があるので、誠忠硬直で鳴った大原重徳(三位卿)が勅使となり、島津自ら護衛の役を務めた。六月七日江戸到着、十日将軍家に三ヵ条の勅命と細目数十条を伝えた。

一、将軍家には大兵を率いて上京し、公武一和の実を示すこと。

一、豊臣太閤の故事に倣い五大老を置き、攘夷を促進すること。

一、一橋刑部卿〔徳川慶喜〕を将軍後見、越前中将〔松平春嶽〕を大老職に任ずべきこと。

 この要求の是非を言う前に、先ず勅使の使命の変化に驚く。赤穂義士の発端となった勅使参向の如く、従来は京都から江戸の御機嫌を伺ったもので、尊号一件で中山大納言が松平定信と対面して激論を戦わせた如きは、全く稀有のことに属する。今やそれが転倒して難題の押しつけの形と変った。しかもその内容たるや、将軍家の上京は第三代将軍以来、絶えて例を見ず、政治組織を豊太閤の故事に倣えというは、幕政への干渉の甚だしきものであり、攘夷は当時の天下の表看板となること、日清戦争後の臥薪嘗胆の如く一般的であったが、幕府は初めその不可能なのを知りながら、渋々と呑み込んだことであり、朝廷は不可能の実状に全く盲目で押しつけているので、これまた承服すれば、どんな難題になるか分らぬ。一橋慶喜は第十四代将軍の座を家茂と争って失敗した人、現将軍をその後見下に置くなどということは、屈辱も甚だしい。

 そこで幕府は二旬の間粘り抜いたすえ、漸く第三条だけを引き請け、後は曖味のままで勅使は引き揚げることになった。十分ではなくても初めてとしては若干の成果を挙げたのだが、その帰途、行列が生麦を通る時、イギリス人一行が供先を横切ったので、リチャードソン以下四人を無礼打ちにして死傷させ、思いがけざる攘夷を華々しく実践し得て天下に溜飲を下げさせ、薩摩の評判は九天の高きに上ったが、この後でどんな不慮の事が起るかもしれぬので、島津久光は京都立寄りを避けて郷国に引き揚げた。

 諸国の浪士は、兄の斉彬の急進開明の態度を思って、久光に望みをかけたが、思いの外に頑固な保守家なのは、寺田屋事件以後、事々に証明されるので、彼の弾圧を避けて一時退散していたものの、その帰藩とともに再び京都に集合し、草莽烏合の力で大胆にも、宮中の粛清を企図するに至った。

 目差すのは、公武一和を図って、和宮の降嫁に主動力となった九条尚忠関白、久我議奏、酒井所司代。これがいわゆる三奸である。またその陰に動いたお局の女官二人がいる。二嬪である。この三奸二嬪に、この降嫁の参画者、賛成者の岩倉、千種有文などの宮廷有力者を、皆失脚させようというのである。しかし孝明天皇にとっては、皆股肱であり、殊に二嬪には寵愛が深かったので、浪士の圧力ぐらいで、変動のあるべき筈がない。

 そこで浪士らは、示威脅迫の手段として、落首、張紙、投書から、夜昼構わず気に入らぬ者を暗殺し、その生首を御所に投げ込み、方々に放火し、狼藉の限りを尽すので、遂に孝明天皇も彼らのいわゆる三奸二嬪を宮中から退け、岩倉の如きは蟄居落飾の目に遭わされた。街上浮浪の徒のほしいままの意向が、九重の奥深くに浸透して、主上の政治裁断まで左右したこと、主権在民の現在でも、絶えて聞かぬ話である。長州はこの過激な浪士と連繋し、後援し、同一行動をとることもあった。

 元来、長州は、桜田事変後の時勢においては、先ず公武一和で雄略博弁の長井雅楽が朝野のイニシアティヴを執り、間もなくこれを揚棄して尊王攘夷に切り換え、巧みに天下浪士の心を収攬し、世の先導をする自負心でいたところ、勅使の江戸下向を護衛する晴れの役を、後から出てきた薩摩に攫われて、嫉妬、競争、憤懣の心おく能わざる気持でいたところ、土佐が長州に加担し、新たに再度の勅使を立てる周旋をした。蓋し先の大原勅使は三策を求めて、一策の承諾しか得てこぬ。残る二策も実行させる必要があるとの強硬意見が、次第に勢力を得てきた。これで再度の勅使を立てることになり、先に六月勅使を立て、その舌の根も乾かぬに同じ年また勅使を立てることに疑義と非難のあるのを無茶苦茶に押し切り、追いかけて十月に発向したのである。

 正使は三条実美と姉小路公知。先の大原勅使や岩倉が公武合体を奉ずる保守温和派なのに対し、これはまた尊王攘夷の急進過激派で、共に公家中の日月と併称さるる俊爽の貴人であった。今度は島津家のように定まった一藩が随従しない。しかしその随従の両家家来には長州と土佐の藩士が形を変じて付き添い、久坂玄瑞、井上聞多、河野敏鎌などが潜入した。かく多数の陪臣が江戸城本丸に乗り込んだこと、実に前代未聞で、いよいよ幕府も末にきたことが痛感せられた。そして勅使下知の諸条件を、苦薬のように呑み込まされ、殊に攘夷は不可能が明らかなのに、無理押し付けに押し付けられて、跳ね返す力がもう幕府にはなかったのである。日ならずして長州が、馬関海峡通過の外艦に無謀なる砲撃を加えて、それ以後に起る万波重畳の事件の発端となるのは、当然の帰結である。

三 鍋島閑叟の上洛

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 消息という消息、通信という通信はすべて長崎に集まらぬはない。そして志ある佐賀藩青年は、この天下の形勢に切歯扼腕せざるを得なかった。島津久光なにする者ぞ。先代斉彬こそ天下に卓出した英主だったが、久光に至っては、多少の学問はあり、庸主ではないというだけで、保守的な、癇癖の強い、時勢の分らぬ頑固親爺に過ぎぬ。長州の毛利元徳に至っては、真に平々凡々の、文字通りなすところなきお大名の標本である。それに反し、鍋島閑叟は、今や天下第一の名主と仰がれ、また土佐の山内容堂と併称する者あり、自ら持することは容堂の方が高いが、行動はややもすれば常軌を逸して危ながられ、その点堅実にして英発、天下の期待と信任を集めていることでは、遙かに閑叟が上にあった。

 しかるにその閑叟は、京洛のただならぬ風雲が、視野に映らぬものの如く、詩を作り、碁を打ち、鶯を飼い、盆栽をひねくって、太平無事に日を銷するに余念がない。情熱に燃える青年達は、このヘドロの如く凝滞した藩の空気に我慢がならぬ。副島、江藤、大木、大隈と併称さるる四傑のうち、直情径行の江藤が先ず禁を犯し、藩を脱して、京師に奔ったのは文久二年六月二十七日で、涼風都門に入る初秋に近く、島津久光が勅使を擁し東向した翌月であった。彼は藩の力を見限ったのである。大隈はその自伝『大隈伯昔日譚』において、この僚友の心事を、「江藤は夙に藩内の事情を察し、藩の力を挙げて皇室の為めに尽さんことは、其当時に於て、頗る為し難きを知りしを以て、先づ自ら京紳等の心を動かし、内外相応して以て、閑叟の心を動さんと欲し、蹶然脱藩して京師に入りたり。」(六八―六九頁)と説明している。

 江藤は上京後、すぐに長州の桂小五郎(後の木戸孝允)と相知り、その手引きで姉小路公知に紹介せられたのは、思いの外の知遇に恵まれたものであった。前にも言ったが、三条と並んで公卿中の出頭第一の俊才だったのである。この姉小路との問答を覚え書きにして江藤が郷藩に送ったものを見ると、卿が先ず、佐賀の国是を尋ね、江藤これに「要するに天下のお為筋には国力のあらん限り相尽候儀」が国中平日の覚悟と答え、それならこの時勢に藩主はもとより誰一人、上洛しないのは何故だと詰問され、長崎防備の命を受けている、京に上るも海港を固めるも、報国の一念は同じだと逃げ、「しからば藩主に御上洛の内命下り候はば如何」と尋ねられて、それなら奉勅上洛の儀、申すまでもないと、欣然として返答した。閑叟をして中原に縦横の策を施さしめるには、召命を蒙るのが一番の捷径だと思ったからだ。英俊は英俊を知る、二人は直ちに意気投合した。姉小路も貧乏公卿だから余裕はなかったに違いないが、江藤の毎日の食事にも事欠く窮乏を憐れんで、日に二朱の金を与えて、その足をわざわざ京師に引き留めたほど目をかけた。江藤は平生の持論を封事として、姉小路の手を通し、天子に上奏をしている。それを見ると薩摩の公武合体の温和論にも賛成せず、長州の尊王攘夷の急激論にも同調せず、それより今当面して解決を迫っている問題から、実際的に片づけてゆく必要があるとする。それは対外問題で、鎖国攘夷が圧倒的な国論だが、そんなことは実現不能の妄論である。しかし開国論は一握りにも足らぬ先覚者が抱いているだけ、それも公言すれば暴徒に暗殺されるから、ひそかに考えていても心にしまっておかねばならぬ現状である。されば外交権はこの際朝廷に収めて処理し、次いで大政も掌握する段階へ持ち込んでゆくべきだというのが、江藤の上奏文の真意である。

 草莽の陪臣が封書を上奏するのは、取り次いでくれる公卿さえあれば、必ずしも絶禁のことではなかったらしいが、一つ間違えば藩の運命を傾けるほど危険なことだから、佐賀藩では、捕吏を急派して、遮二無二連れ戻した。重臣達は、皆口を揃え、この突拍子もなく出過ぎたことをする江藤に下すに厳刑を主張してやまず、斬罪は必至だろうから、そうと定まれば江藤は事前に機を見て長州に脱走し、旧知桂小五郎のもとに身を寄せる決心でいたところ、閑叟は「他日有用の器なり、之をして斬に処せしむるべからず」と、断乎として左右の言を退け、助命して永蟄居としたのは、真に異例に寛容の藩主であった。

当時は到る所の藩々に、切腹、禁錮或は追放等の惨刑を以て数多の志士を誅罰したれども、佐賀藩に於ては一人もかかる不幸に遭ひし者なし。……江藤の如き、大木の如き、将た副島の如き、何れも皆其寛容に浴して厳刑を免かるるを得たり。余が如きも、当時の法律典刑に対しては幾たびか死すべかりしに、能く生存して今日に至るを得たるもの、全く彼〔閑叟〕の仁恵の賜なりと謂はざるを得ず。 (『大隈伯昔日譚』 六六頁)

 江藤の上洛は、しかし、決して暖簾に腕押しの手応えなしには終らなかった。それは閑叟の心を刺戟し、上洛の意が動きつつあるとは、江藤がまだ在京中から風の便りに伝わってきたので、これに力を得て詳細の情勢報告書を作り、「京都見聞」と題して、閑叟に上呈した。それは堂上諸卿の人物評、各藩の動静、浪士の往来、市中の人気など巨細に探索して剰すところなきに近い。

 閑叟の心はいよいよ京都に向って動くのであったが、あたかもよし朝廷からの召命が届いたのである。

薩州長州専周旋叡感之事候得共、於鍋島家も同様為国家抽丹誠周旋之義、御内々御倚頼被遊度御沙汰候早々御内達可有之事。 (『鍋島直正公伝』第五編 一八四頁)

侍従久世通煕の署名の書翰で、閑叟は閏八月一日(文久二年)受け取って披見した。実はこれまでも一再ならず内命には接していたのに、隠居して世を譲ったと言い、長崎防備の重命を負うていると言い、健康を害して温泉療養をしていると言い、辞を設けて辞退していたが、今や健康も漸く回復したので、この上懇命に背くのは臣下の分でない。勅なればいとも畏し、閑叟もいよいよ上洛を決心したので、大隈ら同志の喜びは言うまでもない。ただ連行する人材の登用に、なすなき凡物のみを選んだのが不満だった。しかし、

朝廷に於ては已に仙台、米沢、備前、因州、芸州幷に筑前の如き諸大藩の藩主を上京せしめ、公武合体其他の事に関し、各其力を致さしめんとせられしに、是等の藩主は、概ね斯る難局を料理するに足る技倆を有せざりし、因て朝廷は一層望を閑叟に属するに至りけり。 (『大隈伯昔日譚』 七一―七二頁)

と自ら述懐しているにみても、大隈の彼に期待するところが如何に多大であったか分る。朝廷でも待ちかねたという様子で、直ちに孝明天皇への拝謁が許された。藩主、元藩主にしてこの栄に浴するのは、きわめて稀で、閑叟もまた初めてである。それから天皇側近の公卿達と時事を論じ合った。イギリスが生麦事件の解決に軍艦を以て薩摩に迫ったのはその翌年、英・仏・米・蘭の連合艦隊が長州への報復攻撃に向ったのは翌々年であるから、当時の京洛は物情恟々、遠からず外艦の兵庫、大坂に迫る日が来るのではないかと、それを恐るるのみであった。

 それに対応した閑叟の所見を読むと、今日から見ても、なかなかの卓見で、長崎警備の任にある佐賀は、銃砲共に旋条最新式のものを備え、もし薩摩が乱暴を働くならば、佐賀の銃隊四十人で鎮圧してみせると豪語し、摂津の海岸は芦萩の湿地帯だから外艦も砲を上げにくいということを公卿が心頼みにしている甘さを笑い、英・仏連合軍が太沽のクリーク戦で示した実状を語って、的確の新知識に堂上を驚かした。そして自ら策ありと言って、伏見・桃山の警備を佐賀藩に仰せつけられたく、その駐兵が認められれば、京師は安泰に防御申し上げると、自信の程を述べた。諸公卿は皆感心して耳を傾けながら、しかし結局それが実現しなかったのは、反対派の公卿や諸藩の邪魔が入ったからである。

 朝廷では、大原重徳(島津久光が護衛)や後の三条実美・姉小路公知(これには長州・土佐の浪士が家来として随行)の場合のような勅使は立てぬが、江戸行を閑叟に嘱任された。如何に尊王第一主義でも、閑叟夫人は徳川家の出であり、将軍と同席して彼を迎えた幕府の政事総裁の松平春嶽は、閑叟夫人の実兄だから、二人は義兄弟になる。その姻戚の親しみから、幕府においても特に懇遇を受けて、将軍相談相手を申しつかり、登営の侍は坂下門から馬上で通る特権を与えられた。もし和宮降嫁に象徴せられるように、国論が公武合体で一貫すれば、その間を斡旋するに、鍋島閑叟ほどの適材はない。彼は十分の手腕を発揮して、実際に歴史に残っているのとは別な英名を伝えられたろう。

四 最後に勝ちし者

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 江戸から京都に帰ってみると、長州の激徒(当時そういう名称が用いられた)煽動はいよいよ激しく、殺人、強盗、放火は日常茶飯事と化し、まさに百鬼夜行のアナーキーの状態である。その真っ只中へ勅命によって年少将軍家茂が上京してくることに定まったのは、反幕気勢の燃えさかる中へ好んで飛び込むような危険があるから、今までの幕府の出先機関の京都所司代だけでは心細く、東北の強藩会津中将の松平容保が、新たに設けられた京都守護職の重任を帯びて赴任する。その会津藩兵の別働隊の如く徴募して送られたのが関東浪士の新徴組で、京都到着の上、願書を出して新選組に改組する。今までの薩・長・土の脱藩の士およびその風を望んで諸国から集まった浪士を仮に最左翼とすれば、それに対抗して、右翼反動の浪士が屯集したのだから、京は一触即発とも累卵の危険とも、譬えようがない。

 閑叟は撥乱解紛の蛮勇ある乱世向きの英雄でないから、こうした鼎沸状態を処理する好みも、能力も持たぬし、第一従えてきた兵士が僅少で、手も足も出ない。閑叟がイギリス軍艦の渡来の兆あるのに備えるのを理由として、帰国を願い出たのは当然であり、また甚だ自然である。しかし閑叟の帰来(文久三年三月)を迎えた大隈らの失望はいうばかりなかった。鎮西の雄藩の、隠居とは名ばかりで、実権を掌握している閑叟が、一呼して上洛を決した以上、忽ち風雲を起して天下の指導者になると期待したのに、小人島津、庸主毛利の裳の塵を払うほどの仕事もできず、いたずらに大山鳴動の観あって、鼠一匹出なかったのだ。

 大隈は、これを初めとして、その後の閑叟の行動進退に対する不満と痛恨は、よほど骨身にこたえたと見え、事に当り、時に及び、或いは同じ言葉、或いは違う表現を用いて、幾度か述べている。

斯くの如き異分子を藩内に貯へつつ、彼長州の如く、水戸の如く、血を以て血を洗ふの分裂衝突を見ることなく、版籍奉還の時に至るまで能く平和を保全したるは、全く閑叟の力にして、佐賀藩の幸福とする所なりと雖も、亦之が為に中原に一歩先着を失せしの観あるは、切に憾むべしと為す所なり。実に閑叟は寛厚雅量の君子なりしなり、之れをして無事搆成的の時代に処せしめば、其の施設は大に佐賀藩の改良進歩を促がすを得たりしならんも、時勢恰も雑乱紛糾し、快刀乱麻を断ち、百難を排して猛進するの言動を要したりしを如何にせん。閑叟にして早く之を明察して此方途に出で、快断を以て其意志の在る所を明言し、藩吏等をして其の向ふ所を知らしめたらんには彼模糊中にありし異分子は分裂し、同気相求めて個々に結晶し、礌々落落快活の運動を為すを得たりしやも料り知る可からず。然るに、彼は只寛厚の雅量を以て独裁したるを以て、余等の同志は進んでは全藩一致の大運動を試むる能はず。退いては異分子を分裂せしめて、己が智能を発揮し、壮快なる活劇を演ぜしむる能はず。謂ゆる、即かず、離れずの間に、孤拳を振つて逆浪を凌ぎたるを以て、其心身の辛酸は、寧ろ他に倍蓰したるに拘はらず、比較的に其効果を奏する能はざりしは、誠に是非なき事にてありけり。回顧すれば天下に改革の風雲動きしより以来、桜田の変を見るに至るまで、佐賀藩は有望無二の地位に立たりしに、其風雲漸く熟したる時に至りては如何ん、改革已に完成したるの時に於ては如何ん、憶嘻、復た問ふを休めよ。 (『大隈伯昔日譚』 五二―五三頁)

 しかし晩年は幾らか考えが変って、穏やかになり、こう弁護している。

維新前、公卿と武士の間に紛争が生じ、風雲すこぶる急となり、当然活動をはじめなければならなかった時でも、公は泰山のように動かなかった。しかしこれは、公が老年、しかも病弱で、臣下もまた多くは年をとっており、おまけに、朱子学で固めた融通のきかない人たちが多かったからであろう。しかるに文久、慶応の際、旗色がようやくはっきりしてくると、公はにわかに活動をはじめた。ここにおいてか、悪くいう者は公をもって卑怯者であるとした。公は決して勢を見て利につくような人ではなかった。この説は二つながら誤っている。遠く当時にさかのぼって、公の周囲と境遇とを見るがよい。公自身は年老い身衰え、嗣子は温柔平和の性質で、到底、乱世に起って腕を揮うに堪えないのである。良材があって公を扶けて、はじめて事の成就は期し易いのであるが、よくよく家臣を顧みたとき、手足となって働く者が大して見えなかった。かといって自分は多病である。何時まで生きていられるものではない。聡明な公はこのように考えて、遂に保守に傾いてしまったのである。それゆえ、表面にあらわれた公は、卑怯者らしく見えていても、裏面にかくれた公は、たしかに君子であるのだ。

(『大隈重信は語る』 二六〇―二六一頁)

 しかし大隈が、佐賀は後れをとったから、たとえ薩長土肥と併称されても、廟堂においてひけ目を感じ、従って勢力が不足で、自分らが明治政府に出仕しても元勲と言われるにはその勢力の厚味が欠けるように感じ、再度内閣を組織しながら、薩長藩閥のような、網の目式の精緻堅固な官僚組織によって基礎を支えられておらぬので、縦横に手腕を揮い、自由に経綸を行うことができなかったという遺憾は、終生腹の底から消えなかったものの如くである。

 しかし閑叟がもし、薩・長・土のように、あの際、中原に活躍し、副島、江藤、大木、大隈の四傑をはじめ壮年有志を自由に駆使したら、彼らは維新政府へ登場するの機なく、早き時期において或いは暗殺され、或いは死罪を申しつかっていたかもしれぬ。明治のいわゆる聖世に、いや大正になってからさえ、爆弾を見舞われ、隻脚を失い、辛うじて死を免れている大隈は、その性格の際立つ点、すなわち俗に言う出過ぎ者と映るので、佐久間象山の如く、坂本竜馬の如く、横井小楠の如く、大村益次郎の如く、必ず暗殺を免れなかったと、これは断言してよい。その点も大隈は気が付いていなくはなかった。

佐賀は大藩で、薩州と長州を除けば、三百諸侯の中で最も人間の多い方であったが、よくこれを統卒して動揺させず、切腹・暗殺がしきりに行なわれ、国家の大法はすたれ、地におちた時にあって、平和のうちに維新を迎えることが出来たのは、全く閑叟公の技倆といわなければなるまい。実をいうとわが輩は、始終不満に思っていた。維新前風雲急を告げるときにあたって、しばしば公を動かそうと思ったがなかなか動かない。ある時などは、その心を疑って鋒先を向けようとまで思ったこともあるが、何処やらえらいところがあるので不満の中にも何事かを期待して、わが輩はもちろん、過激の輩も沈黙して時の到るのを待っていた。――この、今に起つ、も少し経てば何事かをするというように思わせて、人心をつなぎ、一藩をして何らの動揺なく、廃藩置県の際完全に藩籍を奉還し得たのは、列侯中稀に見る事実ではないか。 (『大隈重信は語る』 二五九頁)

 もし大隈が薩・長・土に生れて幸い暗殺せられず命ながらえたら、勿論悠々として、もっと早く、或いは最初の総理大臣になり、藩閥の官僚網を動員して、実際に彼が残した政績より遙かに立派な結果を収穫し、伊藤、山県と並び、恐らくはこれを凌いで筆頭の大勲位公爵となったであろう。その代り政治の躓きもなく、クーデターにあって野に下る機会もなかったろうから、早稲田大学はなかったに違いない。言い換えれば、我が学苑が今日の盛大を致したのは、鍋島閑叟が維新に薩・長・土と共に動かず、形勢が定まって文化的建設時代になって、人材を送り出した間接の結果であると言わねばならぬ。

 それに伊藤、山県となって、生前に位人臣を極めたのが栄誉、幸福であり、大隈となって野に虎嘯したのが、屈辱、悲惨であったか、今日から見て、実は勝敗は明らかである。伊藤畢生の事業で、不磨の大典と言われた明治憲法は終戦後において廃紙となり、山県が世界一と誇った軍隊は、弱いと言われたアメリヵ軍の前に羊よりおとなしく武装解除させられた。独り大隈の営々として育て上げた早稲田大学のみが、今も都の西北に甍を聳えさせている現状を何と評価する。