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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十二章 名君行状記

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一 教育家大名

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 後年大隈重信は、功成り名遂げて、早稲田の邸宅にある庭園は東京名所の一つとなり、千客万来、世界中からの訪問者で賑おうた。外客の中に、往々、「閣下はお幾人のお子持でいらっしゃいますか」と聞く者があると、時によって大隈は「一万人!」と答えたものだ。夙に大風呂敷の評判は立っていても、この数を正直に受け取れば法外な話なので、客が戸惑うたような表情でも見せようものなら、大隈はしたり顔に、邸から道一筋を隔てた向うに聳ゆる甍を指さして「それはあの大学にいるんである」と補注するのが常だった。げに早稲田大学は大隈の誇りであり、生命だったのである。彼はまた口を開けば、よく言うた。

我輩は初から教育が大好きで、明治十四年に役人を罷めると同時に、早稲田に専門学校(今の早大の前身)を開いたが、其役人になつて中央に出る前迄は、矢張り長崎に致遠館を開いて、自ら教鞭をも執つたんだ。 (『早稲田清話』 二三〇頁)

 教育家としての大隈にも由来と伝統、深く遠しと言うべく、そして彼をその方向に陶冶し、指導してきたものは、今まで伝してきた枝吉神陽、大庭雪斎、フルベッキに、もう一人最後に鍋島閑叟を加えねばならぬ。福沢諭吉が醇乎たる大教育家なるに反し、大隈は、半面教育家、他面政治家であった。恐らく政治家の方が楯の表面だとは、自他ともに許したところであろう。そして政治家たる彼を形成するには、或いは大久保利通、或いは伊藤博文その他先輩友人の影響を数えなくてはならぬかもしれぬが、教育家としての大隈を見るには、上記の四人で足りるかと考えられる。

 鍋島閑叟は、佐賀の大名で、大隈には藩主に当る。藩主だから家臣に感化を与えるのは当然だと考えたら、全くその正反対で、通常、その両者の間には懸絶がありすぎ、接することはきわめて少く、たまたま話しかけられただけでもお言葉を賜ったと言って稀有の恩恵のように有難がる。それに概して大名は凡庸暗愚な者が多く、人の師表たることなどに堪える資格を欠く。

 ただ稀に例外があり、名君が率先して全藩の士風を振い立てたようなのが絶無ではない。その最も著名なのは薩摩の島津斉彬(順聖公)で、幕末における全日本出頭の名主たるばかりか、徳川時代三百年を通じて出没した幾百千の諸大名中に抽んでた英主であろう。ただに治者として卓出したのみでなく、教育者としては更に偉大で、無名の郡吏の中に一西郷吉之助(後の隆盛)を発見し、そのままでは微賤の身分で言葉を掛ける機会がないから、庭方に採用して側近におき、日夕座談の間にもこれを教育したのは、最も有名な話だが、その他、維新に人材雲の如く輩出したのは、みな直接間接に島津斉彬の提斯に与らぬはない。そのままに捨ておけば単に、衣骭に至り、袖腕に至る兵児の青年を、陶冶して悉く天下の人材たらしめた教育能力は、長州において一寒儒の吉田松陰が松下村塾に伊藤・山県以下の諸生を養って、維新風雲の原動力たらしめたのと並び、まさに日本近世教育上の二大偉観である。

 もしそれ、これに次ぐ著名の事蹟を求めれば、佐賀において鍋島閑叟がひそかに士を養い、維新の誘導展開には寸功もない藩を以て、一たび和平の気がきざし内治の時代に入ると、それに処する適材を続々と中央政界に送り込み、戦陣には殆ど鉄砲も撃たぬ藩が忽ち薩長土肥と併称さるる地位を占めて、世を駭目せしめたことであろう。鍋島閑叟は、或いは島津斉彬、吉田松陰に次いで、第三の優れた教育家ならぬ教育家であったとも、言い得よう。そしてよく、島津斉彬の西郷隆盛に当り、吉田松陰の伊藤博文に当る者、鍋島閑叟においては、大隈重信でなくてはならない。

二 ナポレオン戦争の余波

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 幕末、いわゆる三百諸侯を通じて、五名君の聞えある大名がいた。第一に挙げられるのは、徳川斉昭(烈公)であった。後に箔が剥げたが、賢臣藤田東湖以下に擁せられ、その唱うる勤王愛国の精神は天下の翹望するところとなった。これに次ぐのが薩摩の島津斉彬で、真に仰いで高しの感があり、逸速くイギリスに紡績機械を注文して、日本の産業革命の第一歩を印したのを見ても、見識の非凡が察せられる。それに雁行して土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、佐賀の鍋島閑叟が並び、容堂は卓犖不覊、眼中に人なき概あり、春嶽は幕府の筆頭親藩で慎密細慮の風があり、閑叟はその中間に在りと言うべきであろう。

 鍋島閑叟は文化十一年の暮(一八一五)に江戸藩邸に生れ、文政十三年、十四歳で襲封した。フェートン号乱入という思いがけなき事件の突発により、父斉直が幕府の譴責を蒙ったのが長く尾を引いて、結局、この世代交替となったのである。もし新しき世紀の陣痛とも言うべきナポレオン戦争の影響が遠く我が日本にも影響した事蹟を求めるなら、フェートン号事件こそは最も顕著で、或いは唯一とも称し得られるであろう。その結果、偶然にも少年の身を以て大名の座に坐ることになった鍋島直正は、もし極言すれば、ナポレオン戦争の申し子的大名であったとも言い得る。

 由来、長崎の警備は佐賀藩主の鍋島家と筑前藩主の黒田家とが交代で当ることを、幕府から命ぜられ、文化五年(一八〇八)は、鍋島家の輪番に当った。しかし世俗にもいう文化・文政の幕府酸敗期に入った泰平に馴れ、殊に近年、オランダ船の入舶がなく(ナポレオン戦争のため)、慣例によれば五月入港、九月出帆と定まっているのに、今年七月過ぎても船影が見えないので、もう渡来することもあるまいと推測して、鍋島家では奉行にも告げず、諸砲台の番士だけを残して、藩兵を引き揚げた。こうすることが近年の例となり、それで格別不都合もなかったのである。

 それが今年は、八月十五日になって珍しくオランダの国旗を掲げた船が訪れて来たのである。しかも先例のない季節の入港なので不審を抱きながらも、慣行に従い奉行所の検使は、「旗合せ」という行事のため、オランダ商館の書記役二人を伴うて舟を出して応接すると、それはオランダ船でなく、イギリス軍艦だと分った。彼らは検使を拒んで乗艦せしめず、書記役のオランダ人二名を捕え、検使船には威嚇を加えて追い返した。それとともに檣頭に偽装として掲げたオランダ旗は下ろしてイギリス旗に代え、傍若無人にもボート三隻、港口の砲台前を悠々と通過して、勝手に港内の捜査をしてオランダ船を求めたのである。

 やがてその日暮に及んで、軍艦からは人質に取った両オランダ人のうち一人を送り返し、こう告げさせた。この軍艦はイギリス海軍の所属でフェートン号という。今ヨーロッパでイギリスはフランスと戦争中だが、オランダはフランスに加担し、且つその領有下に入ったので、これはイギリスの敵となるため、オランダの出島を捜索するのは当然である。しかしオランダ軍艦は発見されぬから、薪水食料の供給を受ければ、このまま引き揚げるというのである。

 長崎奉行は憤怒し、兵船を集めてこれを包囲して拿捕する計画を立てたものの、千人駐屯すべき戍兵が七、八十人に充たず、切歯扼腕しても、如何ともする術がない。オランダ館長ドゥーフは、万一戦端を開く段となれば、出島は亡びるかもしれないことを心配し、極力穏便に事態を収める方法として、先方の要求を容れるように強要するので、薪水食料を与えると、更に追加的に狼藉を働き、その間この拿捕のためこちらでは泥縄式企画と小田原評定に騒ぎ立てているのを尻目にかけて、悠々と港外に退去し去った。この責任を負って、長崎奉行松平図書頭は五ヵ条の悲壮痛恨の遺書を残し、切腹を遂げたのである。

 長崎警備としては空前の大失態で、奉行の切腹は或いは当然であり、幕府三百年史にも特筆さるべき怠慢たるを免れない。警備責任者の鍋島斉直は、当時、江戸詰め中であったが、幕府から厳責の上逼塞を命ぜられ、長崎奉行の遺族に対しては永世扶持すべしとの申渡しがあった。このため、鍋島家でもまた家士七人が自殺して罪に伏するという惨劇が続いて起った。

三 率先躬行

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 たとえその誕生の七年前に発生したものにせよ、このような国際的大事変が襲封の遠因であったのを悟るならば、凡庸児といえども奮激の感なくては済むまい。況んや、後に天下五名君と呼ばれるに至る英邁の天資の所有者が、この時局に遭遇したのだから、これは最も痛烈なる慎戒の資糧であった。鍋島閑叟の一生、少くともその前半の生涯を決定した契機は、実にナポレオン戦争の日本まで打ち寄せたこの余波である。

 大名の座について二年を経て、初めての入国に当り、家臣が何事か逡巡躊躇するもののあるように見えたのは、準備の十分ならぬためであることと察せられたが、いよいよ発程するに当って、先ず身にしみて感じられたのは、西国三十五万七千石の大大名として、我ながら如何にもその装備儀容が貧弱で、各宿駅では、最も安上りの宿陣に滞泊せねばならぬ恥ずかしさであった。さて領国に臨んで実情を見ると、父斉直の奢修を極めた余弊で、経済の窮迫、それに伴う藩風の沈滞は、少年藩主の目にも余る。彼は大改革を企図した。その「節倹令」を見るに、

天の君を生ずるは、一世の民を〔治む〕るを責とす。 (『鍋島直正公伝』第二編 八四頁)

この筆記者の文体がなんとなく、後の福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」を連想させる。これがある時代の一つの表現形式だったのであろう。福沢のはアメリカの独立宣言の平等思想に接した後の発想だが、これは封建全盛で、階級に少しの疑念も抱かれぬ時代の藩主の考えなのだから、それはそれとして立派である。また、

故に人君は必ず力を尽して天下国家を治むる職分なり。我等不才ながら父祖の業を継ぐことは、誠に以て心痛至極の事に候。然れば励精出力して有る限り国家を中興致すこと我等が所存に候。 (『鍋島直正公伝』第二編 八四頁)

と、先ず藩政の合理化を図り、いたずらに職を擁する老臣を免じて少壮敏腕の士を抜擢し、治政の活発化を図った。

更に、

近年の凶作にて百姓ども甚だ難儀の由承及ぶ。古人も民は国の本といふ如く、民なくては国家一日も立行不申事は眼前に候。

(同書 八四―八五頁)

と言っている。先ず農業政策から始めて、その擁護方針を採ったのは、きわめて至当のことである。しかし長崎を目の前に控えている刺戟もあるから商工のことにも留意し、米や酒を外に輸出するのは奨励して、為替料を貸与し、領内に外から商品を輸入してくる商家には免許を与える代り、重い税を課した。

 名君の資格は、自分が衆に模範を示すため、率先躬行するにある。すなわち備前の新太郎少将池田光政、東北米沢の上杉鷹山を景仰して、衣服は大名着を作ったものの、絹布は避けてこれを着ず、何べん洗濯しても良いからと言って、日常木綿着ばかりを用いた。このことは、左の挙例から窺うことができる。

飲食の事我等幼少より奢美に致し候へども、此節より朝食は汁香の物、二品限り、昼食は平と香の物、二品限り、平無之節は皿魚、夜食は味噌塩にて宜し、右の趣は其方〔侍臣〕共より申兼ぬる義に付、我等より申聞かせ候。 (同書 八六頁)

こうして節倹と殖産に努めた結果、数年ならずして藩治は大いに改まり、倉庫は充実し、文武ならび興って、西陲名藩ありの報は幕府にも達して、特に将軍から鞍鐙の賞賜を受けるに至った。

四 死罪を免る

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 これというのも往年のフェートン号事件に不覚を取った汚辱をそそごうとの一念発起からであったが、その中でも彼の特に意を注いだことが二つある。長崎防備の懈怠を償うのは武備特に海防の強化だが、それは人材の豊富が背景とならねばならぬ。人材の豊富は、人命の尊重と、教育の振興が土台となる。このようにして全国諸藩のうち、士を愛してみだりに罰せず、いざという時に役立てたのは、鍋島閑叟を以て第一とする。

 入国の初め、嘉瀬という所で、死刑に処さねばならぬ重罪を犯した者が現れた。法は曲げることはできない。しかし愁然として近臣を顧みて「藩中の民は皆我が子である。その者重罪を犯すといえども、憐れむべく、余は明日は魚肉を食べるのをやめる。そもそもこんな罪人の生ずるということが、実に藩の恥である。」と言った。ローマのネロも、皇帝となって初めて死刑の宣告書に署名せねばならなかった時、「ああ、こんなことをせねばならぬなら、字を習わなければよかった。」と言って、鉄筆を投じたと言われるが、後に世界一の暴帝となったネロでさえこうなのだから、寛厚仁恕に生れついた閑叟の、この時の心の衝撃は一層であったろう。爾来、彼は極力死罪を避け、寛容放免を方針とした。

 たまたま佐賀の支藩、蓮池五万石の青年某が長崎に出て、居留地の形勢を視察中、外人と紛糾を起して、幕吏に捕えられ、その結果この些細なことのために、苛酷にも死罪となったから、蓮池の有志はこれがために憤慨し、我が国威のため、その外人に復讐せざるべからずとして、しかもこれが藩主閑叟の意に出でたもののように言いふらし、ひそかに武器・弾薬を集めて、居留地の一角を焼却する目的を以て、先鋒隊は既に出発し、後続隊も行動を起そうとしたところで、事が発覚し、藩主の全く関知せぬことが明らかとなった。『大隈伯昔日譚』は、この始末を叙して、

之れを藩律に照せば其主唱者煽動者は死を免かれず、寛なるも流刑若しくは追放に処せらるべきなり。藩吏等は固り彼等を厳刑に処せんと欲したり。独閑叟の寛容なる、復之れを拒みて「是少壮者血気の常のみ、深く咎むるに足らず。彼等漸く経験を積み、事理に明かなるに至らば、必ず其非を覚りて戒慎し、竟に有為の材たることを得ん。但し典刑は寛弛に失すべからず、若し彼等の放縦を再びするあらば寸毫も仮すべからず、今回は姑らく寛恕すべし」といひしにより、事なくして止むを得たり。

(五八頁)

と言っている。青年の不覊奔放によって犯す罪は、たとえ死に当ってもこれを寛典に処して助命したのは、閑叟の書生に対して加える刑罰の一つの型をなしたと言ってもよい。一筋縄でゆかぬ大隈が、法網に掛からぬことがあり得ようか。彼は自分ら一味のことについては、こう語っているが、藩主寛典の趣旨は前の場合と軌を一にする。

ひどく叱られたのは前後二回で、一度は切腹という際どい所まで行ったが、公は、「それには及ばぬ。まだ書生のことじゃから、寛大な処置をとって説諭位に止めておけ。」といわれ、間もなく牢から出され、謹慎をおおせつかり、禄も取りあげられずに済んだ。ところが再犯――またぞ、ろ怒りにふれることをやったので、藩の司直は怒るまいことか、憤然と怒って、わが輩らに腹を切らそうとした。ところが公はそれと知って、「彼の所為は悪意があったのではなく、むしろ藩のためを思ってしたことである。今は非常の時、挙国動乱しようとしている。この時に当って、たとい一人たりとも処罰すれば、藩をあげて人心が動揺し、かえって良からぬ結果を見よう。」といって、わが輩らを再び許された。この時共に藩法を犯した著名な面々は、副島〔種臣〕・大木〔喬任〕・江藤〔新平〕・わが輩などで、江藤はたしか三犯、わが輩は再犯であった。しかも皆許されて身を全うすることの出来たのは、一に公が時勢をみるの明と、寛大な政治とによるとして、わが輩らは当時涙を流さんばかりに敬服感謝した。 (『大隈重信は語る』 二五七―二五八頁)

 すなわち藩公が寛厚人にまさる鍋島閑叟でなかったら、大隈も江藤も副島も大木も首が飛んでいたかも分らない。幕末から、各藩が進歩と保守、尊王と佐幕、攘夷と開国で、両党に分立して、互いに血を血で洗う惨劇を演じ、上司はにきびを潰すよりもたやすく死罪を命じた。大藩ほどその弊が甚だしく、薩摩、水戸、長州、土佐、みな血で藩史を汚したのに、独り佐賀がこの災厄を免れたのは、確かに閑叟の寛厚の徳のいたすところであった。これがなかったならば、維新の功業に参加しなかった佐賀が、後ればせに駆けつけて、薩長土肥の四大功藩と併称されることはなかったであろう。

 この士を愛し、人命を重んずるのとともに、もう一つ鍋島閑叟に際立つ特長は、人物を薫陶し、養成するために、学問を奨励したことで、藩学の弘道館を刷新し、およそ藩士の子弟が数え六、七歳になると、皆就学させた。いわば士族の義務教育である。十六、七歳になると中学に入れしめ、この課程を経ぬ者は禄十分の八を削った。なお弘道館で教える朱子学に飽き足らぬ学生のためには蘭学寮を設置し、時勢の推移を測っては蘭学から英学への転移を認めるなど、いわば自由討究を許すの風があった。大隈重信撰の『開国大勢史』の第二十一章「ナポレオン戦争の影響」の中に、「後年肥前鍋島侯〔閑叟〕が海防に熱心したることは、蓋、此に胚胎せり。」とあり、この海防の基礎をなす二本柱が、士の命を愛惜することと、学問の自由討究を許したことであった。このために奔馬の大隈も一命を助かり、彼によって早稲田大学の建設せられた因縁を思えば、遠く源流に溯って、ナポレオン戦争と我が大学とは、微かな間接の縁ありと言える。

五 大隈の閑叟評価

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 ところで、この眷顧の下に育った大隈重信は、その藩主をどう見ていただろうか。古来我が仏尊しとも言い、また如何なる英雄豪傑も奴婢の目には常人と異らずと言い、大隈の学んだ聖書には、予言者は故郷に尊ばれずとあり、他の例をとれば、西園寺公望は、幼い時からお相手をしていたので明治天皇をお偉い人とは思わぬと言っている。親近距離の者ほど、正当の判断が下しにくい。大隈の鍋島閑叟に対する関係は、ややこれに似ておろうか。

 しかし彼は、幕末日本の五名侯と言われた閑叟を、大体過不足なく公平に、いや強いていえば公正よりいささか低目の嫌いがなしとしないが、誤りなきに近く評価している。その大隈の、閑叟評価の陰影或いは推移変化は、この君臣の間の年齢の差と時勢の変化を度外視して考慮することはできない。

 大隈の生れた天保九年(一八三八)は、閑叟時に数え二十五歳、当時の大名としては働き盛りの段階に入った年齢である。大隈がいわば小学一年生として藩校外生寮に入った時、閑叟三十一歳、すなわちいわゆる「三十而立」の年を去ること遠からず、大隈が中学の内生寮に入り、翌年、義祭同盟に加わって、漸く青年的独立自覚心の目覚めかかった十七歳に、閑叟はまさに四十一歳、不惑を過ぎ、男としていよいよ円熟大成の頂点に達していた。安政二年、江戸に大地震が起り、もし幕末に全日本をすぐっての人材内閣を造れば、当然総理大臣となってその左右に、外相佐久間象山、内相山田方谷、陸相西郷隆盛、蔵相横井小楠、その他高杉晋作、坂本竜馬など欣然として麾下に集まったであろうと言われる親分肌の藤田東湖が圧死して、これまで天下の大指導者の如く仰がれた徳川斉昭の金箔が急に剥げ、日本は一大転回を見せようとした年である。続いて安政五年、薩摩の英主島津斉彬急死の報が届き、彼には心から兄事して相許す仲だっただけに、閑叟には厳しく心身にこたえ、その心労の消えぬうちに、チフスの重患に罹って一命の瀬戸際を危うく乗り越えたが、その回復は容易ならず、壮心ここに漸く衰え、世子直大の元服するを待って、文久元年十二月隠居した。その前、大隈重信は蘭学寮、弘道館の教授に任ぜられ、学いささか成ったかの観がある年である。数え二十四歳。

 先ずこの辺りまでが大隈の閑叟を欽仰した時代で、大隈は、「余は深く閑叟の人となりを喜び、殊にその温厚の雅量は君子の風あるを欣せり」と言い、「閑叟は単に人物として論ずる時は薩長土の三藩主を圧するに足る」と言う。いささか溢美の嫌いがあり、薩の島津斉彬に及ばぬというのが天下の定評だったが、土の山内容堂とは、旗鼓相当るに足り、長の毛利敬親には遙かに優ると評価せられていた。

更に閑叟の人と為りを評せしめよ。前にも言ふ如く彼は封建時代の末路にて第一流の人物たりしは疑ひなし。容貌魁偉にして、資性英明、実に古君子の風あり。少壮時代に在りては、英風換発して、意気斗牛を衝き、激進主義を執りて藩政を改革し、勇断果決は人を驚かしたるの事あり。中年時代に及んで、其改革の急激に過ぎて、往々、失敗に陥りたる経験よりして、稍々漸進主義の人と為り。晩年、重病に悩まされてより、志気痛く変化し、保守主義に変じ、老衰して別人の如き性行と為りしと雖も、要するに一代の名君として天下の嘱望を失はざりき。是其の教育必ずしも異なりたるにあらず、殆ど其天禀に得たるものと謂べし。 (『大隈伯昔日譚』 六三頁)

 ところが、大隈の目に映じた閑叟は、聡明英知、寛厚温容は申し分ないが、勇往果断の猪突心に乏しい欠陥があった。雛壇の鍾馗、観兵式の大将というほど怯惰無能ではないが、難局に臨み、撥乱解紛的な一刀両断の決心がない。しかるにその時代はどういう情勢であったか。鎌倉以来、七百年続いて世界の驚異的長期の連続をした封建制度は、まさに縷の絶えなんとする如く、これに伴い三百年、不動を誇った徳川の幕府制度は、根底から土崩瓦解しようとする。大政は久方振りに天皇に奉還される機運にあり、鎖国は打破されて、諸外国との修交は必至である。こんなに諸方多面の改革、共に時を同じうして輻湊し、春風春水一時に至る激動時代は、他にめったにあるものではない。とすれば大隈は、人としての閑叟を高く評価しながら、この時代の児としては、端的に言えば、落第点をつけているに等しい。

 鍋島閑叟が、大隈に優柔不断と見えて、著しく食い足りない思いをさせたのは、聡明にして前後の成行きが見えすぎたからである。それに徳川家から夫人華子を迎えている姻戚関係から幕府の頼りとせられていたにも拘らず、軽々しくその味方につかぬ慎慮があったのは、情勢と大義の上から幕府の支え難い見通しをつけたからだが、さればといって、薩長と歩調を等しくし、急激に、無慈悲に幕府を倒してしまうには、徳川家への情縁が断ち切れない。元来がハムレット的性格があるところへ、そういう背景があり、おまけに大患後で勇心も銷磨している時が、ちょうど時勢の急変と佐賀藩の有志青年が大いに活躍を開始しようという矢先にぶつかったのだから、大隈が藩主に対する採点は最も辛辣となったのである。

余は敢て告白す、藩主閑叟は単に人物として論ずるときは、薩長土の三藩主を圧するに足るべきも、機勢大変遷の際に於ける藩主として、其藩士に自由を与へ、其俊秀を登庸するの点に於ては、他の三藩主に較劣れるものありしと。又た敢て告白す、当時の佐賀藩は実に薩長土の三藩に譲らざる勢望を有し、又中野の如く、枝吉の如く、江藤、副島、大木等の如き、其手腕に於ても、気胆に於ても、共に薩長土三藩の人士に譲らざりしに拘はらず、其の中原に駆馳する上に於て、其維新の改革を大成する上に於て、外国に対する動力反動力に依りて馴致せられたる明治の文明に先鞭を着る上に於ても、共に一歩を薩長土の三藩に輸せざるを得ざるに至りしは、一は運命の然らしむる所なるべしといふも、抑亦、閑叟が無事を目的と為し、単独の判定を好みしの結果ならずんばあらずと。 (『大隈伯昔日譚』 六七―六八頁)

 それでは大隈は、具体的に言えば、この藩主の下において、この時勢に何を志し、実際にそれをどういう行動として実現したのか。