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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十五章 致遠館 ――早稲田大学プレリュード――

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一 二十年前の学校設立経験

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 早稲田学苑創設までの大隈の生涯を、仮に前期と後期に二分し、その後期の太政官に出仕して明治政治に参画してからの事歴で、学苑ときわめてささやかながらも緊密に直結するものは、東京大学学生有志数輩が小野梓を奉じて組織した鷗渡会で、その前期の鍋島藩在住時代、遠くきわめて間接ながら、早稲田学苑発起の源流ともなるべきは、致遠館の設立である。致遠の語は古代の諸書に見え、『三国志』「蜀書」諸葛亮伝に「誡子書曰、非澹泊無以明志、非寧静無以致遠。」とあるのは最も広く人口に膾炙しているであろうが、これは遠きをきわめ、或いは遠大な任務に堪えるとの意味である。『後漢書』班固伝下に「上可継五鳳甘露致遠人之会」とあるは、遠方の民を招き来たらしめる意味という。この学館の命名は、或いは恐らくこれら両様の意味を含めているのかもしれぬ。設立が慶応元年(大隈二十七歳)であることは明確だが、月日に至っては諸記録が記述を欠いて分らない。

 当時、佐賀藩学の弘道館は守旧派が勢力を振って、洋学派は圧迫せられても、蘭学派は新思潮に触れようとして容易に屈しない。火術方のため建てられた蘭学寮は次第に陸軍の機関学校のようになって、三重津の海軍学寮と対立する。両面に敵を受ける形の蘭学寮生には、時勢の結果で英学への転向または兼修希望者が多い。その英学学習は、佐賀においてはどうしても不十分で、先に長崎に出てフルベッキに就いた小出・石丸・中牟田・馬渡・大隈らの諸先輩または同輩が、顕著な成績を挙げつつあるのが目につく。彼ら一味もまた、その習得しつつある新学問を、希望者に伝授し、或いは共に学習しようとの気持があるが、それは佐賀では施す術なく、どうしても開港場の長崎でなくてはならない。そこで大隈は、英学については先輩の小出千之助と図り、新たに英語学校を長崎に設け、佐賀の蘭学寮は予備校、この新英語学校は本校のような関係に置こうということを考えた。ただし、これには経費がいる。藩は賛成しても十分の経済援助をしてくれる望みはなく、殊に発起者が憎まれ者の大隈とあっては反対を受けるに決まっている。そこで平生、経済的相談にのって、藩に貿易の利益を得させている関係から、鍋島河内・中野数馬の徒に資金の相談をすると、それは妙案だと大いに話にのってくれた。

 ただし、大隈が自分から看板となって表面に顔を出したのでは反感も多いから、ここに、兵伍に落されて出征中の副島次郎をもってきて、学監に据えることは、前からの腹案であったのだ。彼なら、実兄枝吉神陽の時代から、みんなが仰ぐべき先輩として、師事することに馴れている。それに大隈より十年の年上で、既に人の上に立つべき年輩であり、彼自身、軍卒となって朽つるかと慨歎している。そこで大隈はこの案を以て副島に当り、「便宜の地に教場寄宿舎を併置し、一人の督学を置いて文武の習練を指導するには、大兄が最適任と考える。やってみる気はないか。そこにおれば自然に、大兄念願の英語を学ぶ機会も多い。」と勧めると、まさに窮地を救い出されるのだから、副島は「頼む」と言って二つ返事で承諾した。

 たまたまこれは、閑叟の耳に入った。彼は弘道館が守旧に偏して、その意に悖り、不満だったが、世を譲って隠居した以上、藩主の政治向きに口出しは差し控えていた。しかるに青年層においてその動きがあり、しかも人望・才腕共にある副島が学監を承諾したと聞いて、満悦ただならず、大いにその援助を約した。

 殊に佐賀の商人らは、長崎に出て貿易を開き、平生、大隈の経済的知識を借り、またその一味の通訳によって、巨利を博しているので、英語の分る者の養成には双手を挙げて賛成し、設立の費用を寄附してくれたので、初めは必ずしもはっきりと公開の学校とする気は決まっておらず、同好者を集める塾の形にする心算であったが、もっと規模を拡げても大丈夫との見通しがついてきた。

 幸い長崎五島町の諌早屋敷が空いていたので、これを賃借した。校長には、フルベッキが初めから大隈意中の人で、この人の高邁淵博の学徳を以てすれば、招かずして人は集まるとの自信を持っていた。幸いフルベッキも、奉行所の了解を得、その学校時間の半ばを割いて、来て教えてくれることになった。徳川光圀が明の亡命大儒朱舜水を迎え、「先生の如き人一人あればそこに一大都市興る」と言ったのに劣らぬ学徳を、フルベッキは持っていたのである。

 佐賀よりは相良弘庵、綾部よりは綾部新五郎、久保田よりは本野周蔵、武雄よりは山口繁蔵(尚芳)など、後年外交家として、実業家として名をなした英才が、招かざるに先ず噂を聞いただけで、入学を希望してきた。いよいよ第一次生募集を開始すると、蘭学寮から三、四名、海軍学寮から二名、弘道館からさえも、まとまった転学希望者が出てきた。こうして発足したのが致遠館である。それは副島を学監とし、フルベッキを校長に戴いたといっても、実際の衝に当って経営の手腕を揮ったのは大隈だった。彼は早稲田学苑の前ほぼ二十年、この致遠館によって学校設立の経験を持っているのだ。

二 致遠館の習学状景

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 当年を回顧して、大隈自ら語ったところを、もう一度引用しよう。

我輩は初から教育が大好きで、明治十四年に役人を罷めると同時に、早稲田に専門学校(今の早大の前身)を開いたが、其役人になつて中央に出る前迄は、矢張り長崎に致遠館を開いて、自ら教鞭をも執つたんだ。 (『早稲田清話』 二三〇頁)

片手に政治(役人)、片手に教育! これが大隈の生涯である。大隈が先輩として終生敬愛して変らなかったのは福沢諭吉である。また大隈が同輩として、いや初めは後輩として引き立てて、最も意気が合いながら、藩閥の背景で終生敵として対立すること多く、しかし稀に会えば談笑裏に打ち解け得た心置きのない友人は伊藤博文だった。福沢諭吉は慶応義塾の設立者として醇の醇なる教育家、一人にして一代を象徴する文明の大導師。伊藤は藩閥の代表者、明治天皇最大の寵臣として四度も組閣したいわば総理大臣業者。この福沢と伊藤を加えて二で割ったようなのが大隈である。致遠館においては、大隈の福沢的半面が顕現したのである。

 福沢塾が江戸の鉄砲洲に開かれたのは安政の昔であるとしても、義塾として固まったのは、名称の帯ぶる通り慶応である。致遠館は途中で廃校し、今日の早稲田大学に直結して考えることはできないが、間接の因縁は浅からず、この日本の二大私学が、同じく慶応年間に存在を明らかにしたこと、考えてみればこの年号三年間の非常に意義深いのは、ただに大政奉還、明治天皇の践祚があったためばかりではないのである。

 致遠館の始末は、前述の通り、今からではよく分らない。建物は二間に三間のがっしりした倉造りで、最初集まった学生は三十人ほどだったという。東京専門学校開校当時の学生が八十人ばかりと記録せられているのと比較して、それら二校の間に二十年の間隔を置いて見れば、寧ろ多数だったと言えよう。極盛時には百人を超えたというのは、驚異的なことである。まだ西洋の学校様式が入らず、教師が黒板に面して教壇に立つことなど知らぬから、学生は円座を作り、真ん中に教師が陣どって講義した。どんな書物を用いたのかも、今からでは究めようがない。教師はアメリカ帰りの小出千之助を筆頭に、石丸虎五郎、馬渡八郎、それから大隈自身が務めた。しかし小出は佐賀に呼び戻され、石丸と馬渡は表面を脱藩ということに偽装して、実は閑叟の命で秘密に洋行し、大隈一人が残ることになったから、中島永元、中野健明、堤嘉六、副島要作、中山信彬などが教師の補充として藩から送り込まれてきて、手不足なのを補った。

 フルベッキは週に三日出講したので、これは初歩の学生も受持ちはしたろうが、寧ろ主として教師仲間を教えた。この中で涙ぐましい努力をしたのは副島次郎で、学生らに和漢学を教える傍ら、思い立って英語の勉強を始めたのである。大隈への約束があり、また自分も英語習得の必要を感じており、それに致遠館が英語専修学校の態をなしているのに、ABCがどちらに向いているかも知らぬ者が学監たる面子もあって、大隈その他の友人から手ほどきを受けたが、何しろ最初歩から始めたのが三十七歳で、語学には晩学過ぎたと、大隈もほとほと同情している。しかし心力剛精の彼は、記憶力の減退したのも意とせず、石亀が岩にしがみついたように英語と取り組んだ熱心さで、次第に路が開け、そうなると本来が優れた学才の所有者だから進歩も目覚しく、遂には大隈と肩を並べてフルベッキから特別教授を受けるに堪えるまでになっている。

 二人の学習方法は全く対蹠的で、大隈は大綱を摑むに敏で、ややもすれば麁枝大葉に流れようとするのを、緻密精細、一字一句として苟もせざる副島の読書法にしばしば反省させられ、副島はまた早くから英学を学んだ大隈の敏速な読破力に誘導され、相互に扶助して目覚しく進歩するのに、フルベッキも教え甲斐を感じて熱心に鞭撻した。「あの頃(慶応元年から三年に至る)の三年間、フルベッキは大隈・副島さんらの専任教師と言ってもいいほどだった。」とは、大隈から英語を学び、当時の様子を見知っている牧由郎の談である。

三 致遠館の魅力

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 フルベッキが一八六八年(慶応四)アメリカの知人に送った手紙に、「私は一年以上前、有望な学生、副島・大隈の二人を教えましたが、彼らは私とともに、新約聖書の大部分と我が国の憲法の全文を研究しました。」とあり、twovery promising pupilsという文字を用いている。この手紙はグリフィスの『日本のフルベッキ』と題する好伝記書に引用してある(p. 174)が、なおこの書には、他にも数ヵ所に亘って、二人の素晴らしい学才およびそれが如何に維新政府に活用されたかを述べている。その伝記にはまたこういう一節もある。

一つの学校が〔佐賀藩によって〕建てられ、すぐに繁栄して、生徒は百人を超えるようになった。フルベッキは上級学生だけを教えた。一八六六年六月十日には、横井平四郎〔小楠〕の二甥の伊勢と沼川が、これらの学生の中からアメリカに向って留学した。その後フルベッキの斡旋でアメリカに渡った者は五百人を超え、あちらでさまざまな方法で改革派教会と伝道本部の世話になったが、その先頭をなしたのがこの二人である。サムライ学生はただに肥前〔佐賀藩〕や西南地方〔九州〕からばかりでなく、日本全国から長崎に集まって来た。その中には、……公卿岩倉〔具視〕の二子もいた。彼らサムライ達は、名声が既に天下を魅して広く伝わったフルベッキの監督下に入るために、集まって来たのである。

(William E. Griffis, verbeck of Japan, p. 124)

これで明らかな通り、この致遠館は佐賀の設立ではあったが、決して排他的でなく、希望者があれば、どこの国、どんな階層の子弟でも入れた。その学校の魅力の中心は言うまでもなく校長のフルベッキにあった。

 彼が単なる英語教師に止まらず、工学が専門で、特に土木建築に経験が深いと分ると、それはまさに開国日本、そして危うく戦国日本に化さんとしつつある特殊情勢の下では、最も緊切に求められている知識なので、城塞砲塁を構築させるために、各藩大名は競って彼を招聘しようとした。加賀・肥前・薩摩・土佐が特に熱心だったのである。しかしフルベッキは孤独な宣教師たること以外、そんなことで名声の上がるのを毛嫌いし、それらの要求には耳をふさいで、長崎を動こうとしなかった。しかしフルベッキの本拠は、長崎奉行所が江戸幕府に伺いを立てて作った、いわば公立の語学所教師でなくてはならない。彼はそこで千二百ドルの年俸で優待され、そのため高潔にもアメリカ本国の伝道本部の送金を断り、爾後自費宣教の許可を得ているのである。

 この奉行所の語学所は、設立一年後(元治元年)済美館と改称されて名が残り、やはり各藩の希望者に開放せられていたのだから、今のように官学全盛の時代なら、開設の一年遅い致遠館よりもそちらに学びそうなものである。ところが済美館の方は英語専門でなく、歴史・地理・数学・物理・経済も教え、英語だけでも教師が、外人はフルベッキ一人だが、日本人教師が十人以上もおり、他にプチジャン師がフランス語を教え、またドイツ語はフルベッキが担任するという状況で、広いが雑然としすぎている。

 そこへゆくと致遠館の方は、端的に語学は英語一本に絞る。それが切実な時代的要求だったのだ。そしてヵリキュラムとしては別に挙げてないけれど、フルベッキは質問に応じて自由に、政治(世界情勢)、科学、天文、機械学、築城から兵事まで、知っていることは、何でもこちらの質問に応じて気安く答えてくれた。彼にしてみればそれは宣教の一手段として用いたのだが、学生達にとっては、その未組織的に、規矩に捉われず、自由に得られる知識が魅力だったのである。

 それに奉行所の公立学校では、苟も「御政道向き」の言説は憚らねばならない。しかし急灘を下るような時勢の激動期に、若い者がいつまでも口を噤んでなどいられるものではなく、致遠館では学監の副島、教務主任とも言うべき大隈が、先に立って侃々諤々の論議を戦わし、殊に大隈の博弁宏辞は当時から鋭鋒を表したから、学生達は耳を傾け、血を湧かす。大隈は、当時自ら教鞭をとって英語を教えたことを、後になっても時々思い出して語っている。

先頃米国から帰つた高峯譲吉博士が、我輩を訪問して昔談をし、十二の頃に致遠館の生徒で、我輩の教授を受けたものだといつたので、ああ左様だつたと想ひ出した様な話だが、外にもまだポツポツ其時分の生徒が居るよ。加賀、長州、それから肥後辺の者が大分沢山来て居たからね。あの神風連の豪傑加屋藤太なども、矢張其頃の我輩の生徒であつたし、それから薩摩の前田正名なども在学した。此間、内ケ崎(作三郎〔早大教授〕)君が或る薩摩人に逢つたら、其男も致遠館で我輩から英語の初歩を教つたと言つて居た相だが、まだ外にも散らばつて居らうよ。 (『早稲田清話』 二三〇―二三一頁)

四 就学の人材

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 志士横井小楠の二甥、宮廷人岩倉具視の二児がはるばる遠国から来て学んだということは、この致遠館の歴史、フルベッキの名声に一つの記録として残ることだが、また大隈の教え児の中から高峰譲吉が巣立ったということは、彼の教歴に異彩を添える。高峰はタカジアスターゼの発明家として何人も知る工学博士にして薬学博士。明治になると工部大学校に入って、西南戦争のとき軽気球を試作し、後アメリカに留学し、ニューヨークに高峰化学研究所を設け、喘息患者の必備薬アドレナリンの発明で世界的貢献をした。それ以来、アメリカ実業家としても成功し、ニューヨークのリヴァーサイドに善美を尽した広壮な邸宅をもうけ、日米親善に努力して、日露戦争頃は、「無冠の大使」という渾名があった。当時アメリヵに著名な三日本人は高峰譲吉、野口英世、モルガンお雪と指折られたものである。理研(理化学研究所)も彼が日本に帰り、渋沢栄一を創立委員長として、自ら設立に率先した遺業の一つである。広い国際人で、着眼が多面なること、大隈と共通点があり、もし大隈が理化学者であったら、きっとこういう型の人物になったであろうと思われる。高峰も故国に帰還すると、往時を懐しんで早稲田邸を訪ね、致遠館の英語教育を回顧して歓談したことを、自ら雑誌に語り残している。

 大隈の思い出話に出た前田正名も型破りの官僚で、一時は飛ぶ鳥を落すほどの盛名を博したが、日本的小成に安んずる凡人ではなかった。彼は大隈に英語を習うのをやめて暫く後、明治二年フランスに留学、同地公使館書記生を経て、内務省勧農局に出仕し、十一年パリの万国大博覧会事務官長として再び渡仏、水際だった手腕に人の目を驚かすとともに、また『日本美談』と題し忠臣蔵をフランスに紹介した文化人である。大蔵・農商務両省の大書記官となり名声よく卿(大臣)を凌いだが、新内閣制度に変る一年前に官を辞し、民間に下って一歩園を提唱して、興農に努めた。後、官に還って山梨県知事、農商務省の農務および工務局長を務め、貴族院議員に推されたが、精神家の風を帯び、薩摩生れながら藩閥への盲従に甘んぜず、あの才腕を負うて野に虎嘯したところ、大隈の小模型のようなところがある。奉行所の官学済美館がこれといって歴史に残る人物を出していないのに比し、致遠館はその教育効果が空しくなかったと誇れる。

五 時勢への焦燥

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 フルベッキは、致遠館の学生が最盛時に百人を超えたと書いている。そのまま受け取ってよいか否か疑問もあるが、三千丈の白髪、万里の長城式の誇大な数字ではあるまい。してみると、当時としては異例の多数生徒を収容したもので、その点では江戸の慶応義塾に拮抗して下らぬものであったろう。

 ただ慶応義塾の繁栄は、当時から福沢個人の人格と学問識見が学生を集めたのだが、致遠館は、もとより内面では大隈の才腕に侯つところが多大であったとしても、主としてフルベッキの人格学問が表看板である。これは明治になってもその原型を変えず、慶応義塾はどこを削っても福沢の地肌が出て、福沢の体臭を発するのに反し、早稲田は大隈の名声も、初めにおいて小野梓の貢献の大を掩いきれず、小野の易簀して後は、高田早苗天野為之坪内雄蔵の、いわゆる早稲田三尊の学苑たる観を免れない。

 しかし、何れを優っているとも断じ難く、慶応のように設立者個人の魅力声望で牽引していくのも、一つの往き方であり、早稲田のように助力者があって推進するのも、別な方法である。点数は、どちらがどれだけ教育的効果を多く挙げたかによって分れるのだが、早慶一長一短、大観してほぼ優劣なく、教育にはその二つの往き方、いやもっと多くの別な路もついていることであろう。

 しかし致遠館の、この有意義な育英の仕事も、プリズム的に多面な大隈の心を全く満足させるには足らなかった。福沢は二度目の洋行のヨーロツパから帰り、その見聞に基づく時勢の意見書を出しても無視されたので、先ず幕府の因循姑息に愛想をつかし、さればといって攘夷家の無知頑迷は度し難く、勤王家の乱暴狼藉は許し難い。そこでこの七百年の封建制度の土崩瓦解というSturm und Drangも頬被りをしてくぐりぬけて、後で開けてくることが予想される新時代のために、文明開化の青写真を作るに熱心であった。

 ところが大隈の方は、また京師に渦巻きだした啻ならぬ風雲に無関心であることはできない。一つは血の気の多少という気質の差もあるが、それよりも背景をなす藩が、福沢の属する中津の奥平家は十万石で九州とすれば小藩だから、それを背景には如何なる英雄とて何程のこともなし得るものでない。しかし佐賀鍋島家は三十五万七千石の大藩で、且つ天皇の信頼を蒙り、徳川将軍家とは姻戚であり、そして日本で泰西文明唯一の摂取口である長崎の警備の任を負うているのだから、もし此処に生れていたら、あの福沢とて時勢の潮流に超然たり能わなかったであろう。

 この間に、くすぶっていた幕府の長州再征伐の挙は、将軍後見職の徳川慶喜が強硬意見を抱き、孝明天皇から御剣を賜って決定を見た。しかしこれは全く開戦の理由のなきもので、一旦恭順した長州が、なにか背戻の行為があったわけでなく、ただ憎い、徹底的にやっつけて再び足腰の立たぬような痛い目に会わせおいてやりたいというだけでは、天下各藩が納得するわけがない。「余等堂に強忍の緒を截って奮起する所なきを得んや。」と大隈は『大隈伯昔日譚』で述べている。

「今は、国家累卵の危きに処す、再征長の師を起して内乱の端を啓くは、是磐石を扛げて之に臨む者なり、必ず推砕を免かれず。鳴呼、是ぞ国家存亡の秋にて危機一髪の間に迫る。苟も之を一転して天下の禍源なる幕府を掃滅し、諸藩をして王政一統の下に属せしむるにあらざれば、遂に之を拯ふなからん」と決意せり。 (『大隈伯昔日譚』 一一三頁)

こうして鳴りを静めていた大隈らは、また国事の奔走を始めたのである。それには先ず鍋島閑叟をして、幕府と長州の間に立って調停せしめ、それから天下の表に立って、自分らも徐うに大事の経営に参加したいと考えたのである。

 これは実現不可能のことではないので、その時老中となって重きをなした小笠原壱岐守(長行)は、同じ肥前の唐津の藩主で、その領土は佐賀領の中に交っており、彼自身、若い頃は佐賀の学校に留学していて、大隈らの同志にも、明山公子として彼と親しみ、彼を覚えている者が、たくさんある。また幕長の間に周旋奔走した永井玄蕃は、この時に幕府の大監察の重役に任じていたが、元は長崎の海軍伝習所にいて、佐賀の書生と知り合いが多い。そして「閑叟は正に天下の重んずる所と為り、其一言一行は殆んど行はれざるなきの地位に立」った(『大隈伯昔日譚』 一一四頁)とある。その時閑叟はどうしたろうか。その事情はやはり大隈自身の言葉をここに引用しておくのが一番有力である。

幕府は閑叟に向つて数々助力を求め、更に佐賀の事情を知るものをして彼を動かさしめんことを図るに至りし。余等は之を見て奇貨居くべしと為し、説て曰く「我藩は宜しく最後の決心を為して此間に処する所ある可し。征長の挙は固より以て拒むべし。幕府幸に聴ならば、之を助くべし。若し聴かざるならば、全力を挙げて長州を助くべし。但し我藩の勢威を以て幕府に臨むならば閣老小笠原の如き、必ず他を説きて共に之に聴従するに至るべし。万一、彼之を拒むが如きことあらば、其領土は我佐賀領土の間に介立せるもの、兵力を以て其四境を圧して之を強ゆるも易々たる事のみ。何れにもせよ、此際に閑叟一呼して起つあらば天下必らず靡然として随ひ、我佐賀藩は労せずして較著なる地位を占むるを得ん。否な、此の内乱の危機を転じて全国の一致結合を図り以て改革の偉業を大成するを得ん。鳴呼、時運は我藩に幸を与へんとせり、天の与ふるを取らざれば却て其禍を受く、我藩の君民は、如何んぞ坐して好機を失ふべけんや」と。今にして之を料るも、余等が此言説は識者の是認する所なり。其当時は、実に佐賀藩の天下に雄飛すべき最後の好時機にてありしなり。然るに此機も空過して又為すべきなく、閑叟に対するの望は殆んど玆に尽果て、佐賀藩が維新の改革に対して薩長と光栄を競ふ能はざるの運命は全く此に決したり。鳴呼、余等は已みなんか。時勢の変遷と耿々たる忠愛の人心とは、余等をして已む能はざらしむ。男児は斃れて而して後ち已まんのみ。曩に江藤が脱藩して京師有志の間に奔走画策したる所も徒労となりて空しく帰りたり。

(『大隈伯昔日譚』 一一四―一一五頁)

 この回顧談は、日清戦争の折においてなされ、あたかもその赫々たる戦勝によって薩長藩閥得意の絶頂の時であったから、豪傑大隈も自らの悲境を顧みて、彼らに対する羨望いささか度に過ぎたるを覚えるが、しかし大体はこの通りであった。多年の確執を解いて連合のなった薩長とともに、いや寧ろそれに先んじて指導する立場に立って王事に尽し、土佐が成し遂げた大政奉還の進言も、佐賀藩によって成さしめようと計ったので、当時においては、これが大隈ら同志の念願であり、衷情だったことは、疑う余地がない。

 この間に幕府の長州再征は強行されて、諸軍が国境に迫ったが、高杉晋作の編成した奇兵隊が疾風の如く起って奇功を挙げたのに刺戟され、長州軍は各戦線に奮い立って、幕軍を敗走させ、節刀を賜わった慶喜は、周章狼狽おくところを知らず、慌てて停戦を上奏して、その無定見と無気力に、孝明天皇は宸怒を発せられた。時局は青年将軍家茂の双肩に重すぎ、辞職を奏上して天皇から慰諭せられたものの、心身疲労の極、遂に慶応二年七月二十日大坂城において死去した。行年二十。

 いよいよ、どうでも新将軍の就任は免れぬこととなり、それとともに、この動揺の際だから、天下に大いなる変化改革の起るは必然である。大隈はじっとしておれぬ。

六 後藤象次郎との交渉

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 大隈の焦燥していることは、藩の上下でも認め、中には同情者もある。しかしその念願を許して、自由の行動をとらせれば、虎を千里の野に放つも同じく、如何なる不穏を企み、如何なる乱を構え、江藤の如く無謀突拍子もないことをしでかして、藩に不利を招くはおろか、危殆に落し込む恐れさえある。といってこのままにおけば脱藩もしかねない。そうなると藩への不満反感から、そのすることは一層矯激乱暴になるかもしれぬと、藩でも、いささか彼一人を持て余していた矢先、真によい処理場が見つかった。

 それはヨーロッパで、フランス革命の作った伝統を無視し、時代逆行にも共和制を廃して帝位に昇ったナポレオン三世は、伯父一世の事業盛名を再び回復しようとして人気取り政策のため、来たる一八六七年パリに万国大博覧会を開くことを計画し、その規模を前人未発の壮大にするため、新開国の日本にも、初めて参加の呼び掛けがあり、幕府は時局多端の折から、気は進まぬながら、応諾するの外なく、道連れに佐賀藩にも誘いをかけてきた。長崎を同じ国内に控えて、もともと貿易には早くから心を傾けていた鍋島家では、出品をなすに決め、委員を派遣することにした。かねてオランダに注文しておいた軍艦も竣工したので、それを受け取る者もこれに同行させる便宜がある。

 この博覧会係の主任には、後に日本赤十字社設立の功労者たる佐野常民が選ばれ、藩では持て余した大隈を、これに同行させようとしたのである。それは彼をこのまま、いわゆる「志士」と称して、実質は無頼の暴徒(と周辺の目には映った)と交わるままにしておけば、どんな危険なことをしでかすかも分らぬから、この際海外に追いやって、頭を冷やさせようという便宜主義からであった。また洋学に身を入れる大隈は、実地に西洋を見聞することを喜び、二つ返事で快諾すると思ったためもある。ところが、意外にも大隈はこれを、にべもなく断った。

 佐野の人物・思想に釈然たらぬためもあったが、今や日本がどう転ぶかもしれぬ大切な時に悠々便々と外国になど行っておられるかというのが真底の本音であった。長州再征伐は完敗し、かつて第十四代将軍の地位を争って負けた徳川慶喜が、今や一門からも元の支持者の進歩的各藩からも見放されながら、擁せられて第十五代将軍の位に就く。前途や知るべきのみである。この後始末、すなわち日本の将来が大切だ。

 しかるに藩の風潮、殊に老公閑叟のすることを見ていると、娘を熊本藩の細川家に嫁がせしめる。熊本は水戸に次いで政争の激しい藩で、横井小楠らの実学党は放逐せられて福井に迎えられ、藩内は極右の佐幕主義の勢力下にある。そこと婚姻を結ぶのは、取りも直さず佐幕の一大勢力と合同することである。かつて水戸を先輩と仰ぎ、薩摩と善く、彦根と親しかった青壮年時代の閑叟は、天下に魁首となる意気込みがあったが、今や勇心銷磨し尽くして、隣藩熊本と組めば、天下がどう変ろうと、当分は安泰であり、その先のことは、その場になって考えたらいいという退嬰安全の保身主義に外ならない。かつての閑叟の視界には、日本の将来が入っていたが、今や自藩のことしか考えなくなったのだ。「彼は春嶽等の失敗の跡を見て、到底自己の力を以て今日の難局を処する能はざるを知りしものならん。」(『大隈伯昔日譚』一三六頁)と言っているのは、蓋し旧主の心事を付度して正鵠を外れておらぬと思われる。とともに「余等が、閑叟を起して天下の難事に当らしめんとの希望は全く尽き果てたり。」(同上)との絶望も大隈の実感であったろう。尤もこれより先、彼は他の力に動かされるのではなく、幕府自らをして大政を奉還せしめようという破天荒の計画を思いついていた。自分で入京して、親しく将軍への面謁を乞い、これを進言しようというのである。彼は同志、といううちにも副島と二人、最も熱心にその機会を狙っていた。

 たまたま土佐の後藤象次郎が商用で長崎へ来ていた。彼は豪宕磊落、麁枝大葉、小事に拘泥せずして英雄のような一面があり、時勢に敏感だが、往々にして実行に慎密を欠き、ドン・キホーテらしき愛嬌味を帯び来たるところ、大隈と共通点のある人物タイプである。この頃長崎を商港として重視し、最も盛んに貿易を行っていたのは、地元の佐賀を除いては土佐が第一で、樟脳、半紙、鰹節、砂糖などを送って、ある者は西洋相手、ある者は清国相手、ある者は他藩相手に売り捌いて、その所得で主として汽船や機械を購っていた。後藤はその衝に当っていたので、代品方のため通訳を務めている大隈と仕事も似ていた。大隈は後藤を訪ね、土佐藩が長崎まで往復している船に便乗させて、大坂まで送り届けてもらえまいかと相談した。「幸い近く出る船がある。しかし上方まで何しに行くのだ。」と尋ねられ、大隈は平生から土佐藩とは懇意にしており、別に隠す必要もないので、実は京都まで上り、時態がここまで切迫してきた以上、幕府は到底もう持ちこたえられぬから、国家百年の大計のため、大政を朝廷に奉還すべきである、新将軍は幸いに上洛するということだから、何とかして伝手を得て、謁を求め、直接にそれを進言する積りだと、何の警戒も用いず、考えているままに、喋ってしまった。何食わぬ顔でそれを聞いていた後藤は、わしもその船で一緒に帰るからと言って、同乗は快く承知してくれた。

 そして紅葉丸というのに同乗させてもらったのだが、この間のいきさつについては若干の異説がある。大したことではないが、大隈が大政奉還の進言の策を後藤象次郎に話したのは、紅葉丸に乗る前ではなく、解纜してそれが沖に出てからのことだったという。或いはその方が確かかもしれず、少くとも合理的と思える。何故ならば長崎は開港場として各藩の商社が設けられ、多くの船が出入りし、従ってスパイ網が縦横に張り巡らされているから、洩れた話はすぐに奉行所その他の目付役に通ずる心配があり、如何に麁枝大葉の大隈も、それに対する用心ぐらいは必ずして、そうした漏洩の心配のなくなった沖に出てから、初めて上洛の目的を打ち明けたという方が可能性が多いとも考えられる。大政奉還を眼の当り十五代将軍徳川慶喜に進言したのは、歴史に明らかな通り、後藤象次郎であること寸毫の疑いを容れる余地もない。しかし後藤がその役を自ら演出したのは、この紅葉丸同乗の時の大隈の話から暗示を得たものだという説は、明治・大正の政論家または伝記作家の間にあり、また駁してそれは無稽も甚だしい、後藤の功を奪って大隈の歴史をいやが上にも飾ろうとするものだと言う論者と二派に分れる。

 ところがここに大町桂月の『伯爵後藤象二郎』の著がある。これは三菱の岩崎弥之助が委嘱し、半ば土佐旧藩の仕事として著されたので個人の仕事以上のものである。それに「大政返上だけの案ならば、必ずしも奇想天外より来る底のものに非ず。……佐賀の副島種臣、大隈重信の如きも、之を幕府の原市之進に説きしことありき。これ実に当時の識者の共鳴する大問題也。伯は茲に著眼して、之を提げて土佐の藩論となし」た(一九五頁)とある。大政返上論は、幕閣でも夙に大久保一翁がこれを説いて坂本竜馬を感服せしめ、広島にも早くからこの論があって、その実現において土佐に後れを取ったことを最後の大名として大正まで生きた浅野長勲が歎惜しており、佐賀でもこの論は坂下門事変に連座して牢死した中野万蔵が大木民平・江藤新平に宛てた遺書に痛論しているぐらいで、同じ仲間の大隈もその影響を受けていたのである。

 しかし、それらのいろいろの事実はここに眼中に置かず、土佐の旧藩の力でまとめた著書とも言うべき桂月の後藤象次郎伝に、副島、大隈の名のみ特に挙げているのは、船上の大隈・後藤の談論の意義をどの程度にか、他よりも重く見たのではないか。或いは桂月がその著作中、『大隈伯昔日譚』に述べられたところに特に目を留めて、言及したのかもしれない。後年、大隈が死去して伝記編纂の際、その時の同行者がまだ健在で、その談を徴したのが、『大隈侯八十五年史』に載っている。『大隈伯昔日謂』に大隈自らきわめて抽象的に語っていることを、生き生きと裏書してあますところがない。

七 長崎崩壊

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 これを語ったのは巨智部忠承という後年の工学博士である。その父が副島・大隈に招かれて棋の相手をしていたような親しい関係があって、その子の十四歳になるのが同行し、彼の記憶に、この船旅の模様が明瞭に留められていたのである。>船は日向、大隅沖で颶風の厄に逢ひ、狂浪のため、舟は木の葉同様に翻弄された。私等は皆一等室にゐたが、横ざまに寄せてくだける怒濤のために水浸しとなり、船室内は辛くも下駄で歩くといふ有様だつた。この間、船体の動揺殊に甚だしく一掀一翻せられて、誰れも生きた心地がない。一等室は食堂を中央にして左右舷四房に分れ、右舷の軸に近い一房には大隈、副島の二公が居り、その艫に近い二房には土佐の後藤氏がゐた。そして左舷の舳にちかい一房には私と私の叔父伊藤栄信がをり、他の一房には阪神辺の一商人がゐて、声高く無事を祈つて念仏する。叔父も大の敬神家で声高く祝詞を唱へる。かうして左舷部の各室が騒がしいのに引きかへ、右舷部の各室は静かで一語の外に洩れるものが無つたのは奇な対照であつた。時に後藤氏は藩命を帯びて外に使し、復命の用があるとかで、力めて船を土佐領に寄せやうとしたが、風向がよくないため、やむなく、十四日、漸く長岬の彼方、阿波宍喰浦に投錨した。茲で泊つて尚ほ風浪の静まるのを待ち、数日を費した。この間私は二公に連れられて、付近の村落を逍遙した。かうして風が静まつた日、十八日夜発錨、間もなく、目をさますと、船は既に大阪に着いてゐた。これから西横堀の中筋屋藤吉方へ二公を案内して投宿した。大隈、副島の二公はこの時、屹度後藤氏と共に国事を談論されたにちがいないであらう。 (『大隈侯八十五年史』第一巻 一四一頁)

 大隈は副島とともに、直ちに大坂から京都に向けて北行して、宿をとった。前の巨智部が、少し遅れて上洛して、その宿を訪ねた記憶によって「場所は三条かと思ふ。堺町の真中程、寺町通りから北寄である。旅館でなく下宿であつた。」と語っている。この大隈の上洛は、彼の生涯中、いわば大沢に長蛇を逸した痛恨事であるのに、事情が明細を欠き、甚だ朦朧としていて、信をおかぬ者さえあるが、この談片によって、大いに具体性を帯びてくる。

 大隈は、江戸に赴いて、将軍慶喜に面謁の機を得、大政返上を説く抱負であったが、その準備行動として、慶喜の信頼を一身に集め、京に滞在して縦横に画策し、辣腕を揮いつつある原市之進に面会を許される伝手を得た。しかし幕府は、京に跳梁する勤王浪士を弾圧し、逮捕・監禁の方針を採っている矢先だったので、原はいい加減に大隈・副島の二人をあしらい、佐賀の京都留守居役にいわばこの両不良藩士を、早々帰国せしめるよう密命を伝えた。

 藩役人は驚いて、その手続を執る。その時大隈は、将軍が江戸にいるものと信じていたが、実際は大坂城に滞留していたので、それと知ったらまた別な動き方をしたかもしれぬとしても、藩吏の目が光っていては、このうえ京坂をうろついていても収穫するところはないと断念せねばならなかったであろう。長恨を抱いて空しく佐賀に帰りついたのは五月(慶応三年)である。藩法によれば切腹であったが、例の閑叟の寛大主義により一ヵ月の謹慎で済んだ。大隈自ら、副島と自分も、二度危うい目を逃れたと言っている。一度はすなわちこの時である。

 天下の情勢はいよいよ急を告げ、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城は京都会議に参集して、王城の入口の兵庫港の開港が外国の督促によってのっぴきならぬ段階に迫った解決と、再度の征討が不首尾に終った長州の後始末をどうつけるかを、将軍の諮問に応じて討議した。しかし五名公として併称され、その筆頭として仰望されていた鍋島閑叟は、これに洩れたのである。佐賀(肥)が維新の功藩として薩・長・土に後れを取ったと、他日大隈の嗟歎してやまぬ因由は、この時に発したこと、最も多大であったかもしれぬ。

 さすがに佐賀藩中でも、この後れに気付く者があり、六月になってからのこと、執政の鍋島河内、参政の中野数馬が、突如として謹慎を許されたばかりの大隈を呼び出し、藩の方針を如何にすべきかを聞いた。大隈はいわば致遠館をあずかる書生頭の大なるものに過ぎず、藩政に参ずる資格のない者だが、この時京坂の事情、天下の形勢に通ずる者、この帰国したばかりの大隈以上の者がなかったので、藩首脳部もこの下問に及ぶの外、他に全く執るべき術を欠いた。

 大隈はこの際、藩内のことに拘泥せず、寧ろ外交を主とし、有為の人材を派遣して、列藩有志と連絡されるべきだが、それよりも焦眉の急を要するのは、閑叟が自分で上京し、朝命を帯びて天下のために周旋することだ。これを急げば、後れたりといえども、佐賀藩の地位声望を回復すること、難事でないと進言した。これが確かに決断の刺戟をなしたに違いなく、閑叟は病後の身を奮い起して、六月二十七日京都に着いた。

 しかし忽ち暑気に当てられて静養すること半月、その怠るを待って上洛中の慶喜の懇望により七月十九日に対面して、時局の施策に答え、二十三日には参内して天皇に拝謁した。しかし健康が勝れず、意気の上がらぬため、帰国を思いたち、その途中、再び大坂城の慶喜の引見を受けて密談するところがあった。その内容は分らぬが、しかし出発の前、藩重役を介して徴した大隈の意見と、恐らく多少の関係があったであろう。何れにしても今度の出入りは、初めは脱兎の如く、終りは処女の如くで、閑叟のこの上洛は、意気込んだほどには、いや全く、収穫がなかったとも言える。

 大隈は当時健康が勝れず、医者の注意によって静養に努めはしたが、壮心なおやまず、鹿島藩主鍋島直彬が、連枝で勤王心の厚いのを通して、大政返上の主動力となって慶喜を説得することを閑叟に上申したものの、やはり閑叟はそれに感動せざること石の如くである。そこで大隈は再び中原の風雲を望み、京都を経由して、江戸に赴く計画を立て、代品方から若干の資を借り、折から激しいリューマチに罹って、階段の昇降にも困難を感ずるのを押して、イギリス汽船に乗った。

 この船は初め神戸に寄る予定を変更したので、大隈はそこで降りて、かねての約束で京都に待つ同志に会い、情報を詳らかにする機を失し、心ならずも横浜に直行して、江戸に入った。天下の輿望を担う人傑勝麟太郎(海舟)その他に会って、胸中の磊塊を披瀝しようとしたのも、時既に遅く、京都では土佐藩主が藩論として大政返上の策を定め、遂に慶喜を説得して、これを実現せしめ、十月十五日その勅許があったとの報は、旬日ならずして江戸にも届いた。殊に、面謁して、使者に立って慶喜を説得し、この晴れの役を演じたのは、あの悠容たる態度と、博弁宏辞の舌才にたけた後藤象次郎であるのを知っては、大隈の感懐いかがであったろう。してやられたと残念がったに違いない。

 天下の形勢がかく急転しては、江戸に留まることは意義がない。大隈は直ちに船便をかりて西行し京都に入って、そこに待つ同志山口尚芳と、互いに東西の首都に探り得た情報を交換し、大隈は直ちに帰って藩論を動かすことが必要だと感じた。諸強藩が続々と兵を率いて上洛し、おのおの国議に与っているのだから、佐賀も後れを取ってはならないと、彼は焦慮したのである。

 しかし帰藩とともに、ああ天下の大事、我が藩を去ると痛哭せざるを得なかった。この天下の気運の大転回の際に処する構えが、佐賀には全く何もできていなかった。実は新帝治政の初めの京都朝廷における有名な小御所会議に先立つこと八日(十二月一日付)で、鍋島家にも雄藩並みに、来年(慶応四)正月から三月までの京都詰警衛のため上京仰せつけられる旨の勅命が、伝奏から佐賀へ達している。大隈は脱奔の罪囚ながら、その咎めを蒙らず閑叟の引接を受けて、所見を求められたので、憚らず、即時上京すべきことを進言した。

 しかし長崎警備を使命とする佐賀藩に対し、それを解任するとの示達はない。それなのに主兵を京都に動かした留守にまたフェートン号事件の二の舞があっては大変である。それに閑叟は病気もはっきりせぬ状態だったので、遂にこれを辞退した。もしたとえ病軀でも押して上洛していたら、翌年(慶応四)正月三日から起った鳥羽・伏見戦に参加し得て、功を薩長と共にし得たであろう。大隈が他日、最も痛恨してやまなかったのは、この点である。

 大隈は長崎にいて、リューマチを療養しつつ、フルベッキとの旧交を温め、致遠館の執務に還っていると、やっとその正月の十二日になって京洛の激変の模様が初めて伝えられた(鳥羽・伏見戦の始まったのは一月三日、徳川慶喜が大坂城を脱し、開陽丸に乗って江戸へ帰航の旅についたのはその八日である)。長崎は忽ち上を下への大動揺、大混乱に陥った。谷口藍田(大隈の友人)の日記に、「聞き得たる所によれば、本月三日より、五、六日に至り薩芸禁闕を護るの兵、大坂にある徳川氏と戦ひ、互に勝敗あり、この夜薩邸自ら火くの訛言あり、人心恟々、終夜家具を移す。」という。この薩邸とは、長崎にあるのを指したのであろう。この港でも騒動が伝播してくると危惧し、市民が道具を移転して戦を避けようとした混乱の状が察せられる。