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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十六章 大隈外交の出発

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一 長崎コンミューン

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 もし幕府倒潰後の長崎を、一八七一年の普仏戦争後の、城下の盟をしたパリのコンミューンに比したら、差異はあまりに多く、類似はきわめて少い故を以て、人はその無稽を非難するかもしれぬ。しかしどこやら一ふし、比較できる点がないでもない。

 パリが落城すると、ティエールの政府が知らぬ間にこっそりと抜け出して、ヴェルサイユに議会を移していたように、長崎でも幕府が倒潰したとの報が入ると、奉行河津伊豆守は一月十五日にひそかに逃亡し、下役がそれに気付いたのはその翌日だった。当然その後には非常な混乱が起りそうなものだが、長崎は昔から自治が行われ、たとえ天領でも、町の政治は町年寄が当って、その勢力は、幕府が代理として差し向けていた奉行以上だったから、大きな動揺は防ぎ止めて、持ち堪えた。あたかもパリ・コンミューンが立ち上がり、市庁に赤旗を掲げ、世界史上初めての労働者の政権を掌握する治政を布いて、世界の花の都の潰滅を一時的ながら食い止めたのと、どこやら似ている。

 ただパリ・コンミューンでは、その集まった者が主としてモンマルトルの熊公八公、サンジェルマンの張八王六の徒だったが、長崎では、各藩から派遣せられている外国貿易事務担当の諸藩士が言い合せて奉行所に乗り込んで、町年寄達を呼び集め、これからの後始末は、奉行の投げ出していった公私の残務、夷人に対する処置など、自分らですると申し渡した。外人折衝の任には多く大隈が当ったが、長崎警備を務めた佐賀藩士として尊敬もされたし、顔馴染も多く、みんなの信頼と親しみを博していて、大体異議なかった。こうして長崎に代表を送っていた十六藩が会議で事を決する臨時政治が行われることになったのである。

 この時最も勢力を振ったのが、薩摩の松方助左衛門と土佐の佐佐木三四郎(高行)だったのは、大藩の藩力の背景が物をいったからで、初めから長崎警備の役を仰せつかっていた筑前と佐賀の勢力がそれに続いた。この松方は後の正義で、明治政府においては大隈財政を止揚して遂にそのアンチテーゼとも言われる松方財政を確立し、また明治二十九年の松隈内閣では共に政権を執り、大正三年には久しく野にあった大隈に第二次内閣を組閣せしめる発言者は彼であったと言われる。佐佐木は明治天皇の君側に侍し、大正天皇皇太子時代の補導役であったが、いつも手厳しい大隈批判者で、大隈が明治天皇の少くとも特別に眷顧を蒙った寵臣でなかったのは、この佐佐木と侍講の元田永孚の反感を受けたからだという説もある。

 大仏次郎の『天皇の世紀』(第九巻二二九―二三〇頁)には、ちょうどこの長崎コンミューンの発足の場の記述に、『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』が引用されている。

佐佐木、松方、揚井などの外に、佐賀の大隈八太郎(重信)など、それぞれ以前から長崎に居た者が空となった奉行所に集って合議し、地役人の行政を指導する形となった。何も権限はなく、自然に集って自治的組織の仮政府となった。「外蛮の侮蔑を受けず、皇国の御武威を辱めざるの主意を以て一統会議し、是までの規則、条理あるはその儘閣き、不条理なるは臨機の処置を以て、天朝の御命令下せられ候までの間、公平赫々たる所を以て諸藩各粉骨尽力し、土地鎮静、各蛮に至るまで承諾におよび候。」列藩の代表者の間で、こう申合わせた。「揚井(謙蔵、長州)は至ってサッパリした正直の男であった。思う事を腹に収めて策を弄する様な陰険な者ではない。モウ遠慮会釈なくやる。自分(佐佐木)は欠勤したが、この日揚井が肥前藩の者に向って、尊藩は佐幕論で御座ると云うと、大隈(八太郎)が大立腹して『我が藩は藩祖以来尊王と云う事は一藩の主義となって居る』というと、揚井は『ハア左様で御座るか。が、斯様斯様の事は佐幕ではないか。これは勤王と云えるか』と佐幕の事実を挙げて攻撃した。大隈も閉口したが、徒に負けて居る者ではない。とうとう非常の大激論になった。その席に居会わせた者も何だか剣呑になって来たので、双方を慰藉して引分けたと、他の人が可笑しがって話した事であった。肥前(佐賀藩)は勿論日和見で、ツマル処は佐幕であるが大隈はそれを云い黒めようとしたので、揚井も常に面白くなく感じて居ったからだろうと思われる。」大体列藩は日和見の者が大方であった。突然の変革に際し、まだ痛しかゆしの立場に在る。その上に、ここは奉行が逃亡した後に急に寄合った俄世帯なので、意見の統一があるようで居て、お互いの感情がまだ分裂した状態で居る。

大隈嫌いの佐佐木高行のいつもの調子で、この話は、殊に伝聞ではあるし、そのままに信用できぬかもしれぬが、佐賀が佐幕で日和見と嘲られ、日頃からそれを残念とする大隈が腹に収めかねて、いや勤王だと肩を聳やかして虚勢を張ったのは、真に情景見るが如くである。

二 『万国公法』役に立つ

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 しかし初めは松方・佐佐木の下風に立つを免れなかった大隈が、日ならずして頭角を現して諸藩の代表を圧する機会が来た。彼は致遠館を経営し、各藩の代表会議の中では最も外人との折衝に馴れ、英・蘭語もどうにか話すので外国方を担当したが、難問山積であった。長崎奉行が逃げ出す時、事務の資料が紛失したので、大隈はやむなく各国の領事に通告した。日本人に対する取引上その他の権利ある者は、二ヵ月以内に届出よ、届出がなければその権利は消滅するというのである。訴状は忽ち机上に山をなした。武器の代価が未払いである、贋造品をつかまされた、品物が見本と違う、等々々!大隈は持前の性質で、てきぱきそれを二ヵ月間で裁断した。従って間違いもあったろうと後で告白しているが、公平を旨としたので、その点は外国人も諒とした。もとより外国に不正な商人も多い。それらに対しては、大隈はボイコットの強硬手段を執ることを町人に命じ、売買を禁ずるは勿論、商人に食糧を売らせなかったから、領事裁判権の陰に隠れて、このどさくさまぎれに悪事を企もうとする外国奸商達も、遂に手を上げざるを得なかった。

 その間にあって最後までしつこく大隈を手こずらせたのはフランス領事である。フランスが尻押しした幕府が敗れ、イギリスの賭けた薩長が勝ったから、英仏勢力の交替は、観面に長崎の港の空気に現れてきた。そこでレック領事はやっきになって頽勢の挽回を焦った。そして持ち出してきた難問題は、従来の諸条約はすべて幕府と結び、取り決めは奉行と交渉したのだから、幕府も奉行もなくなった後は、それらは一切消滅して、無効だというのである。フランス領事の腹では、こうして天皇政府との新条約が結ばれるまで、関税を払うまいとする魂胆だった。しかしかねて漢訳『万国公法』を独習し、疑問はフルベッキに質している大隈は、この際こそそれが役立つと張り切って、一向に屈する風がなかった。

 国約は、議する事柄が問題なのであって、それを討議した人ではない。故にたとえ君主が代り、国法は変じても、国が存し自主の権があれば、条約は変ることはないという条項がある。すなわち『万国公法』の第一巻第二章第十一節の「易君変法」の条に、

国約者、専指所議之事而言、在其事、不在其人。雖易君主、変中国法、其約仍存而無碍焉。即有変易、其国猶存、其自主之権亦存。故其約亦応歴久不廃也。

とある。フランス領事はこの根拠ある拒否に会い、意外なことに寧ろ立腹して、もし我が言を聞かないなら、本国から大艦隊を派遣させて、責任を問うぞと威丈高に恫喝したが、大隈は「どうぞ御随意に」と、柳に風と受け流した。『万国公法』第三巻第一章第二十二節の「領事権利」の条に、

領事官、不在使臣之列。……領事等官、不与分万国公法所定国使之権利也。

とあり、領事の職分からいって、また当時の情勢からして、フランスが東洋に艦隊を派遣して開戦に及ぶなどということは到底あり得ず、虚喝に過ぎぬことを見抜いていた。尾佐竹猛は、その国際法の研究において、「今日から見れば何でもないことであるが、維新当時これだけの見識を持っておった隈侯を偉とせざるを得ぬ。」と言っている。

 後年このフランス領事は、日本の滞在が長く日本通なるところから、外務省の雇になったが、大隈が外相に就任してきて、顔を会わせる。そのたびに肩を叩いて、「君はあの時とてつもないホラを吹いて、吾輩をおどかしたね。」と言うので、ひどく恐縮したとは、その当時しきりに新聞を賑わした有名なゴシップだった。

三 耶蘇教徒糾問

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 しかし対外交渉で、佐賀藩に大隈ありとの認識を内外に拡める動機となったのは、切支丹宗徒の処分問題に力量を示してからである。

 豊臣秀吉の時代、耶蘇会派開基の高僧フランシスコ・ザヴィエルが日本に上陸して、西教を布教して以来三百余年、教勢の盛衰浮沈の跡を辿って、その中でも特に有名な事件の一つは、浦上の切支丹宗徒処分の件で、諸外国は新旧教の別を問わず、我が政府に厳しく抗議して、事は国際問題と化したが、これを裁いて明快な決着をつけた者こそ、実に佐賀の田舎侍大隈八太郎であった。

 この事件は、日本開国とともに長崎港に出入りするフランス艦船乗組員の礼拝所として、郊外大浦山の地をトし、文久三年に会堂建設に着手し、元治二年二月に献堂式を行ったのに始まる。翌月十四、五人の男女が会堂前に集まったのが、宣教師の眼にただの見物人とも違うように映り、中から「四十余りの女」が進み出て語るところを聞くと、彼らは、天草一揆後の厳しい禁教以来、根だやしになったと思われていた信徒であった。来朝する宣教師が何か痕跡でも残っていないかと熱心に探した耶蘇会の信者の末裔が、祖先伝来の信教の聖火の消えようとするのを、秘密に細細と辛抱強く護り続けてきた、いわゆる「隠れ切支丹」だったのである。彼らは、寛永この方七代にしてローマから伴天連が来て、「よか世になるぞ」と言い伝えられてきたのを頼りに隠忍してきたのが、空でなく今日実証せられたのを狂喜して、互いに相抱き神の恩寵を感謝した。

 この報が一たび伝わると、長崎港外の島原、杵築、大村、佐賀、五島、平戸などに潜伏していた切支丹が舟を漕いで会堂に押し寄せ、この時長崎奉行所が江戸に送った報告によると、探索してゆくうちに隠れ切支丹は七百人見つかり、だんだんに二千に及ぶので、主犯のうち抵抗する男六十八人を召し捕えた。しかしこれは宣教師の有名なプチジャンからフランス公使と領事に訴え、長崎奉行にも江戸幕府にも強硬な抗議をしたので、当局はひどく手を焼き、入牢の信徒は釈放し、そのうち信仰の頑固と見える者はやむなく村預けとしていた。

 そこへ王政維新の大変動が起り、公卿の沢主水正(宣嘉)が九州鎮撫総督として、長州藩士の井上馨を参謀に従え、長崎に乗り込んできた。奉行を引き継いだ長崎自治体は、直ちに職務を総督に還したが、その時になると特に大隈の働きぶりが目立ち、直ちに副参謀という役を与えられ、これまで通り外交事務を担当することとなった。当然、切支丹の処分が直面した問題となる。

 沢主水正は、七卿落ちの一人で、攘夷家のコチコチであり、殊に維新政府は神道を国教とし、仏教さえ排斥して、間もなく排仏毀釈の暴挙を敢えてするに至る情勢だから、当然、切支丹を嫌悪すること甚だしく、これを圧迫して根だやしにせねばならぬ決心である。大隈の考えはこれに反する。佐賀藩自体が踏絵を行わず、一般にキリスト教に寛容の態度を続けてきた上、大隈はフルベッキについて久しく、バイブルを教えられ、新教の知識を持っている。なるほど怪談奇語を聞くような部分も絶無ではないが、「世人の目したるが如く、邪説魔法の分子を含むものにあらずして、等しく社会の人心に向つて道徳を保持するを目的とする」(『大隈伯昔日譚』一五八頁)宗教であることが分っている。勢い沢総督と同じ態度で切支丹に対することはできない。

 といって、彼ら信徒が国法を犯した者であることも事実なので、沢の部下の井上馨、町田民部、それから土佐代表の佐佐木高行などが、皆これをゆるがせにできぬと力説してやまず、一、二日を出でず、信徒を捕えてくること五、六百人に及んだ。大隈はこの糾問に当り、初めたいして難件とは思わず、彼らは朴直な人間だから、道理を説き、心得違いを諭し、殊に新政府の威厳を以てすれば、容易に心を翻すものと高をくくっていた。意外にも事実は全くこれに反し、信仰の一点に関しては桿でも動かぬ頑強の態度を示して、「私達は、いまだかつてお上の御命令にそむいたことはござりませぬ。租税もちゃんと納めておりまするし、罪を犯したこともござりませぬ。ただ耶蘇の道のみは上帝にかかわることなので、たとえ命を奪われましょうとも、変えることはできませぬ。」と言う。山路愛山の『現代日本教会史論』(『史論集』再録)には、この点がこう特筆されている。

大隈重信は曰へり。「官の威光を以て、区々たる二八の少女〔十六歳ほどの少女の意〕に臨み、厳然として其信仰を棄よと命ずるに何条違背することのあるべきぞと思ひしに、其弱々しげなるにも似ず、不思議にも毅然として更に動かず。『お上』を恐れざる不届物と怒つて、弥よ強迫すれば弥よ固し。此に於てか余〔大隈〕は宗教なるものは到底、政権を以つて動かし難きものなることを発見したり」と。二八の少女を以てして法廷の威厳を恐れず、官吏の叱咜を念とせず、寧ろ死するも其信ずる所を易へず。此の如きは此事件に依つて証明せられたる日本人の道徳的性格なりき。外国宣教師たるもの之を見て何ぞ感謝の念なきを得んや。〓(二八四頁)

独り宣教師ばかりではない。大隈自身も生涯に亘って忘れることのできない感動を受けたことを、後年に及んでも思い出に語っている。大隈は万能を恵まれたるに近かったが、欠くるところありとすれば宗教心であった。芸術心も乏しいが、しかし、庭園趣味など解したところを見ればその趣味は絶無とは言えない。そこへゆくと、神仏の前に全身を棄却して祈念をこらすというような謙虚さは、大隈のどこにもない。その彼がこれほど感動したのだから、これは有名な挿話となり、いささか「塚も動け我が泣く声は秋の風」(芭蕉)の如く、無心なること石に似た大隈も動かされずにはいられなかったのである。

 大隈の九州時代に摂取した諸教養で、直接間接に、後年の早稲田大学に反映しないのはないが、不思議にもキリスト教のみは、影響の痕跡だに留めておらぬ。明治末年の学生ならば、アメリヵのどこかの団体が日本の大学に財政援助を与える企画があり、早稲田大学がその選に当ったが、キリスト教科ないし宗教科を設置することが条件だったので、これを辞退したという話を、学内で聞いた記憶がある筈である。事の真相を詳らかにせぬが、大隈が宗教に全く感度を持たぬ体質であったことだけは明らかであろう。

四 新聞記事となる

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 維新政府が最も欠乏したのは財帑で、諸役人に供する昼の握り飯の代にも事を欠き、遂に越前から三岡八郎(由利公正)を起用し、不換紙幣の濫発で急場を凌いで、「俺は紙屑で天下を取った」と彼をして豪語せしめるに至るが、金にも劣らず困窮したのは人材の寡少である。勤王諸藩から俊英が雲の如く、中原を指して出てきたようだが、狭い一藩から見れば多人数のようでも、中央に出して日本全国の治政に当るのだとすると、真に寥々たるもので、それこそ猫の手も欲しい。殊に洋学の知識あるものは、前後して、元の幕臣の福沢諭吉にも、柳川春三にも、神田孝平にも口をかける。勝海舟や松本良順から、しまいには、北海道に共和国の設立を宣言し、投降後は斬罪の筈だった榎本武揚や、大鳥圭介まで起用せねばならなくなるに至る状態である。

 そこへゆくと、佐賀の鍋島藩はフェートン号の失敗に懲りて以来、人材を養い、俊英を育てていることで評判がある。水戸も、長州も、薩摩も、土佐も、藩内で勤王・佐幕が両派に分れ、激しく抗争して、あたら傑物を殺し合いで失っているのに、鍋島閑叟は、当然死罪に処すべき脱奔者も、若い者にはありがちのことと大目に見逃して、助命した若木が、今や皆矗々と天を摩する良材に成長したことは、逸速く中外に目立ったのである。

 尾佐竹猛の「隈侯いろいろ」という文章に、大隈重信の名ほど、新聞に多く載ったのはない、ただに日本国内ばかりでなく、外国の新聞にも日本の代表的人物として常に宣伝せられたが、この人の名の新聞紙上へのそもそもの現れ始めが、慶応四年六月二日発行の『横浜新報もしほ草』の第十四編に次の如く出ているのを発見したと言って、紹介している。

ある人の説に、ながさき港は、商法まことによくととのひて土商、客商ともによろこびあへり。参謀大熊氏は鍋島の人なり、博識英才にて、時勢をさつし急務をあげ、邪正を糺し、仁慈をほどこせり。支那はいにしへより、日本と和親の国なれば、別段によきとりあつかひをなせり、これによりて唐商ども朝廷のおぼしめしを感戴し、旧弊のあらたまりたるをよろこびけるとそ。

当時郵便電信の設けもなく、噂の届くのは遅い。新聞も木版に刻り、和紙に刷るので、多くの手数が掛かり、また不定期刊行であった。それにこの発行人はヴァン・リードというアメリカ帰化のオランダ人である。彼がこのニュースを入手するまでには随分の時間が掛かったであろう。それから推して、この「大熊」なる人物の噂が横浜より近い京都に聞えたのは、勿論、この新聞記事より少し早かったであろう。

 果然三月、中央政府から、徴士参与外国事務局判事に任ず、大急ぎ出仕して、外交を担当せよとの命令が届いた。参与とは、天皇の親政の初め、従来の繁雑な職制なる摂政・関白以下を廃し、神武肇国の昔の簡朴に還って、総裁・議定・参与の三職だけに定めた時に発した職制である。総裁は有栖川宮熾仁親王一人、議定は皇族、三条・岩倉などの公卿、勤王の諸大名十人、参与は西園寺公望・大原重徳などの公卿、藩士は薩・長・土・越・芸から抜擢せられた者が任ぜられた。維新三傑などこれに属する。藩士から中央政府に簡抜される者を徴士といい、藩士出の参与はすなわち徴士であったのだ。新政に際して立ち遅れた佐賀藩では、これまで参与の就任者はなかったが、慶応四年一月、制度が改められ、七科、次いで八局の制が立てられ、参与が各部局に配属せられることになって、ここに初めて大隈がその職に挙げられたのだ。

 しかし長崎は、外国人との交渉、切支丹宗徒の処分など、難件山積し、ここで大隈が欠けては困るので、沢総督も井上参謀も手離したがらぬ。殊に井上の大隈評価は絶大で、「佐賀からは大した人物が出たものだ」と、嘖々しておかなかった。他日、井上と、ある時は同じ釜の飯をつつく莫逆となり、別な時は無二の怨敵となり、離合常ならざる因縁を結ぶ発端はここに開ける。第二次大隈内閣は、「ここはあれにやらしてみたら」と井上からも有力な発言があって、山県が渋々と承知して誕生したと伝えられている。しかし再度の召命があり、重大なる要件だから、何事をも棄ておき大隈を上京せしむべしと、岩倉具視から沢総督宛の直き書が来たので、もう躊躇することは許されず、四月京都に達した。

五 外人のいわゆる維新「憲法」

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 しかし当時、使者が京都・長崎間を再度に亘って往復するには相当の時日を要する。その間に大隈の着手した重大なことがある。これは日本側に基本資料が見当らず、従って多くの大隈伝がその記述を欠くのだが、実はグリフィスのフルベッキ伝に、次の記事が発見される。これは一八六八年(慶応四)彼がアメリカに送った手紙で、説明にearlyとあり、発信日を明確にし難いが、三月と推定して間違いない。

私は一年以上前、有望な学生、副島・大隈の二人を教えましたが、彼らは私とともに、新約聖書の大部分と我が国の憲法の全部を研究しました。前者は、この帝国の旧時の国法を改訂するために、このほどミヤコに設けられた会議の委員になりました。後者は九州総督の顧問ですが、これもやはり憲法constitutionの改訂に関連して、首都に数日のうちに出発しようとしております。先週土曜、私は、その顧問会議の主要人物の特別集会に招かれました。この国の基本法の改訂に関する諮問に与るためです。そして明日も同じ集会があるとのことです。上記の我が学友達は、キリスト教に対する古くからの禁令を撤廃するばかりか、でき得れば、この国における全面的な信仰の自由のために、尽力してくれるだろうと、十分の期待がかけられます。この諮問会はまことに興味があったので、その日のこと、および明日の模様の概略を、近々お知らせできると思います。面白いのは彼ら自身の議論がどうあったかで、あちこち、ちょっと暗示を与えましたところ、なんとこれらの人達の出した結論は、彼らの祖国と、我が国やイギリスのような国との間には、根底に国家宗教或いは神学上の差異が横たわっているというところまで来ました。彼らの一人の、いささか英語を話すのが、そういう表現を用いたのです。

(verbeck of Japorn, pp. 174-175)

このいささか英語を話す学生というのが、大隈であることは、誰しも推察するところであろう。

 なお、この報告書翰で見ると、副島は大隈に先んじて、新政府の徴用を受けて上洛している。いま『副島種臣伯』について按ずるに、鍋島閑叟は、王政復古の大号令の発布を、長崎から帰った大隈より聞き、以後直ちに藩士の自由行動を許し、当藩主の鍋島直大を上洛させて天機を奉伺させた。遅かったとはいえ、新時局への便乗に辛うじて間にあった形で、新制度の太政官から、幕府特許の松平姓は以後用いず、鍋島姓のみを使用すること、貢士二名を太政官に差し出すべきこと、この貢士は即日朝臣となり、旧藩との関係は絶つことなど仰せつけられ、副島種臣と大木喬任(民平)と二人、その選に当って、即時上洛した。大隈も同時に、長崎鎮撫総督からの徴士推薦を受けたが、切支丹問題処置のため、沢総督に引き止められて上洛が遅れ、従って憲法について、現前の生きた問題としてフルベッキから直接の教示に与ること多きを得たのは、この宣教師がアメリカに送った上引の手紙にある通りである。

 副島が実兄枝吉神陽から継承した家学の皇漢学知識の淵博は、直ちに三条、岩倉その他維新政府の認めるところとなり、「五箇条之御誓文」の斧正に参加したとの説(『副島種臣伯』)もあるが、これは今日その元の草稿が残っており、それから判ずるとにわかに賛同し難い。しかし閏四月二十一日に発布せられた新官制は、新たに上京した大隈と協力して、フルベッキの教訓を大いに生かしたものと言われている。長崎で同志と開いたささやかな研究会に、フルベッキを指導者として招いて討議したことが、空談には終らず、新たに進水した維新日本の基本法として実を結ぶに至るのである。

 これに最も早く気付いて、指摘したのはアーネスト・サトウで、その著『日本における一外交官』には、こういう記事が見出される。

この年〔慶応四〕の初めこの方、いくつか法令の制定があって、次々と公布された。このころ私は六月の日付のある最新版の法令集の翻訳に従事していた。それはアメリカの政治理論の痕跡の濃厚なもので、フルベッキ博士の弟子である大隈とその同僚藩士副島が、その制定に重要な役割を果したこと、疑いの余地がなかった。「太政官(すなわち政府)の権力を分って立法・行法・司法の三権とす。」というような言葉が、ある条には使用せられている。別な条には「諸官四年を以て交代す。公選入札の法を用ゆべし。ただし今後初度交代の時、其一部の半を残し、二年を延して交代す。断続宜しきを得せしむるなり。」などとあるのが、さながら「猟官制(spoils system)」の反響を聞く心地がする。大隈の説明によると、行法部は大統領とその顧問達からなっているアメリカ憲法のexecutive departmentに当るものなのである。ただし実際にはそれが神祇、会計、軍務、外国諸官の首部をなすのである、ということであった。(Ernest Satow, A Diplomat in Japan, pp. 376-377)

 ここに「六月の日付のある最新版の法令集」とは、閏四月二十七日(新暦の六月十七日に当る。言うまでもなくサトウはじめ外人は皆新暦を用いて記述している)に公布を見た「政体書」(政治組織法)のことなのは明白である。これは「五箇条之御誓文」の付属注釈書とも、増補書とも、演繹書とも見るべきもので、発表当時は、御誓文の本文より、この方が重要視せられたものだったとは、当時に際会した遺老たちの語り伝えたところである。

 これは先ず冒頭に「五箇条之御誓文」を置いて、あと十余項からなる。

一天下ノ権力総テ之ヲ太政官二帰ス則チ政令二途二出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行法司法ノ三権トス則偏重ノ患無カラシムルナリ

一立法官ハ行法官ヲ兼ヌルヲ得ス行法官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス……

それから五項飛び越えてこうある。

一諸官四年ヲ以テ交代ス公選入札ノ法ヲ用フヘシ但今後初度交代ノ時其一部ノ半ヲ残シ二年ヲ延シテ交代ス断続宜シキヲ得セシムルナリ若其人衆望ノ所属アツテ難去者ハ猶数年ヲ延ササルヲ得ス

 サトウの記述している要点と完全に符合するのを見る。そしてサトウが、「大隈の説明によると……」云々と記しているのは、恐らく大隈に会見して、じかに聞いた言葉と解される。そしてこの著書に引かれている大隈の言葉と同じことを、後年大隈自身がこう語ったと伝えられている。

当時は封建より一転し来りし時とて、第十八世紀仏国革命前後に起れるモンテスキユー等の行政立法司法三権鼎立の理想を其の儘に現はしたるなり、是れ安政以来西洋政治知識の啓発に資する聯邦史略、瀛環史略及び西洋事情などの翻訳書が多く米国人の原書より著はされこれより三権鼎立の知識を摂取したるに由る、封建の際に当りて能く諸藩を統一し以て公議輿論に決すべきを主張したりしは、元此の精神より出でたるものにして、当時之を官制と称せずして政体と名づけたるは、畢竟フアンダメンタル、ローに外ならず蓋し一部の憲法となしたるものなり。 (『副島種臣伯』 一〇一―一〇二頁)

 ただし横井小楠が米田虎之助に与えた手紙に、「福岡、添島者和漢西洋之制度に委敷此節の御政体も全く両人調出候事」とあるのに信を置けば、大隈は参加していないと判断されるが、副島を添島と誤記しているほどの伝聞だから、証拠になるまい。たとえこの小楠の書信の通りだとしても、副島をフルベッキの弟子に誘い込み、徴命に会うまで一緒にその講義を聞いたのは大隈の誘引があったからのことなので、直接間接は問わず、大隈が係わりを持っていることは否定できない。なおこの福岡とは、「五箇条之御誓文」作成に参加した孝弟のことである。

 そして明治元年においてこれだけの憲法に関する素養を持つ大隈だったから、明治十四年の政変前、明治天皇から憲法意見を徴さるるに及び、大隈の提出書が詳細明確で、断然群を抜き、伊藤博文の意見がその方面の幼稚不完全さを暴露しているのとは、到底同日の談でない。しかもこの差異が、莫逆の大隈・伊藤の提携の不和・決裂の因となり、大隈排撃のクーデターとなり、そして早稲田大学の創立を見るのだから、如是因如是果、由来するところ真に深く、我が国運の消長と相纏綿しているのを感ずる。