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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十四章 「大ぶろしき」準備時代

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一 ダイジェスト版のオートメーション

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 大隈は、藩老公の鍋島閑叟がひそかに内勅を蒙り上洛した時、我が半生の知嚢を傾け尽すに値する新事態が開けてくると、まさに男の生き甲斐を感ずるぐらいに期待を掛けたのだが、閑叟が何らなすところなく、いわば手ぶらの形で帰国したのに、蜃気楼の急に消滅したような戸惑いを感じずにはいられなかった。しかし落胆も失望もしなかった。どんな困厄に当面しても決してへこたれず、別に進路を開拓してゆくのは、大隈生来の著しい特性である。不倒翁のように、幾度突き飛ばされても、ぴょこりと起き直るのだ。主公閑叟の幾らかハムレット型なのに対し、ドン・キホーテ型と言えないこともない。

 この頃になると彼の英学はかなり進み、書物も読めるようになって、それが彼の心眼を開いた。いや、寧ろ、その英学を授業してくれるフルベッキに、彼の傾倒が日々に深くなってゆくのが、大隈は自分でも分る。それは心優しくて、温藉で、親切で、日本には見出せない型の人物である。しかし究極するところは東洋の君子と共通なところもあり、いわば洋服を着た儒者のようなのだ。

 教えてくれる英書は、いつまでも、何日たっても、新約聖書を離れない。論語が「子曰ク」の珠数繋ぎであるように、これは「我れまことに汝らに告げん(Verily I say unto you)」が、殆ど毎節に出てくる。初めは、マリアが処女で懐胎してキリストを産んだとか、豚の中に悪魔が入り込んだとか、荒唐妄誕な記述があるのに、その幼稚さを軽蔑したが、中にはまた「富める者の天国に入るは駱駝が針の穴をくぐるより難しい」とか「心の清き者は幸いなり」とか、一ヒ直ちに心の臓を刺し貫くような閃きもある。そのうちに、フルベッキの経歴も聞き、その稀有の人格を形成してきた背景が、実に聖書の吸収と実践に外ならぬことが分ってきて、この書に対する軽蔑は、いつの間にか尊敬に一変していた。

 それにまたフルベッキの百科全書的な博大な知識は、殆ど大隈を畏怖せしめるに足るものであった。問えば何でも答える。その書棚にはアメリカ本国から取り寄せた金の背文字の本がぎっしりと詰まっている。大隈は、これは何の本だと聞き、自分の興味を惹くのは抽き出して、中味はどんなことが書いてあるのだと重ねて尋ねる。そうするとフルベッキは、もともと語学の才ある人だから、この頃は滞在数年の熱心な習得で、日本語も自由自在と言ってもいいほど達者になっていて、その内容を語ってくれる。それが実に要領がよくて、分りがよい。

 大隈の語学力では、英書をそんなに早く多く読破することはできなかったが、横着な彼はフルベッキを、ダイジェスト版の自動製作機のように心得て、後から後から書架の本を抽き出しては内容の梗概を聞くのだったが、この聖者は面倒臭がりもせず、その要求を叶えてくれた。これで彼はどれだけの勉強をし、どんなに沢山の知識を獲得したか分らないと自分で述懐している。

 大隈の博識、いうところの「大ぶろしき」は、世界的に有名になったが、それは生来の知識欲の旺盛によること勿論として、確かにこのフルベッキとの出会いがその基礎を作り、その習慣を養ったこと、疑いを容れない。大隈の鬼耳と評判され、耳学問とはやされた。維新三傑が亡び、自分が最古参の筆頭参議として、いわば後の総理大臣のような地位に立った頃から、この傾向は著しく現れて、憲法の知識について矢野竜渓小野梓、尾崎行雄、犬養毅などから摂取し、更に早稲田学苑を設立してからはそこの諸教授の知識の供給を受けているが、考えてみるとそれは壮年の頃、長崎でフルベッキから覚えた便法の復活であり、再版であるに過ぎなかった。

二 西洋知識の輸入源

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 しかし、長崎で大隈が西洋知識を習得したのは、独りフルベッキからだけではない。少々意外なことながら漢籍から得たところも実は少くないのである。中国から来る西洋のことを書いた漢籍の特徴は、それが大部分、帰化した西洋人が書いたという点にある。

 日本の蘭学者は、前野蘭化、杉田玄白の『解体新書』以来、渡辺崋山、高野長英から宇田川、箕作を経て福沢に至るまで、皆自分の手で泰西学問を摂取し、消化し、紹介し、翻訳している。中国はそれに反し、明の末期マテオ・リッチ(利瑪竇)が北京に入って『天主実義』や『幾何学原本』などを著作して以来の伝統で、西洋人が長年中国に住んで、漢文に習熟し、西洋文物の紹介を始めた。殊に一八二〇年頃から、アメリカとの通交が開け、広東に宣教師や商人が来住するようになって、とみに著作熱が起り、香港や上海にも飛火して、外人の漢文著作が続々と刊行せらるるようになり、ペリーの黒船来航以来、日本で急速にその方面の知識を要求するようになったので、それらの書籍は相次いで舶載せられて、幕末維新志士の見識を養った。それは外面に漢文の着物を着ている。しかし書いたのは西洋人で、中に盛られた内容は西洋のことだから、いわば漢才洋魂の産物である。日本のは高野長英の『三兵答古知幾』でも、福沢諭吉の「アメリヵ独立宣言」でも、その他、西洋の本を日本人の頭と心臓で消化し、摂取した翻訳だ。だから和魂洋才である。

 見方によって、どちらにでも優劣がつけられるが、幕末には漢才洋魂の書物が入ってきた方が、より近く西洋に接触し得ることで、便宜であったろう。大隈らは、それらの書物をかなり数多く読んだことと思われるが、多くは散逸し、忘失された中に、若干は書名が記憶され、維新の文化開発にも貢献した。久米邦武の講演に、次のような一節がある。

其頃支那人の某と云ふものが瀛環志略といふものを著して其書物が日本に渡つて来た。又文久元年に上海で亜米利加の宣教師が政教史略といふものを著はした。此書物の中に亜米利加の政体とか憲法などを搔い摘んで挙げて居る。そこで始めて亜米利加の政治には憲法といふものはあるということが分つた。そうして欧羅巴各国には皆議事院といふものが有て、行政官と二つで政治が成立て居るといふことも是等の書に依て分つた。是等の書物を見て、深く考へる人がどうも日本でも議事院を建てなくては治りが付くまいといふことを考へ出して、闇み探りに探して探り当てたといふやうな訳である。(喝采)是等の書物は漢文で書いてあつたから、学者の内でも此書物の分かる人が少い。諸大名の家来の内に漢学に通じた特志の人が多少あつたから是等の書を見て非常な心配をして、どうしても日本の幕府を廃して全国の議論を集めて、それで総て事を解決する政治に移らなければならぬ、文学でも技芸でも今迄通りではいかぬといふことを自覚したのでありますが、一般の人はまだ攘夷開国の議論に夢中になつて居た。(喝采) (『憲法紀念早稲田講演』 一二二―一二三頁)

 久米は大隈より一歳年下の秀才で、弘道館では大隈が首席、久米が次席となったこともある。常に大隈に兄事し、右に挙げた『瀛環志略』も逸速く大隈が手に入れて、良書だから君も読んでみうと勧められたことを自ら語っている。この書は道光二十八年(一八四八)徐継畭なる者の輯著にかかり、日本では文久元年、阿波藩が校訂出版しているから、大隈の入手したのは日本版だったかもしれない。これはいわば世界政治略誌で「北亜墨利加米利堅合衆国」の部には「議事堂・議事所」などの語が用いられている。

総統領所居京城合衆国設有公会。各選賢士二人。居於公会。参決太政。如会盟戦守通商税餉之類。以六年為秩満。

この総統領は大統領、京城は首府、公会は議会、賢士二人は上下院議長である。大隈はこの書を何年に読んだか明らかでないが、文久元年に阿波で発行されるとすぐに手に入れたとしても、この年はオランダ語から英語に転向した年で、既に蘭書でこのくらいなことは心得ていたとも思えるが、現在の学生が原書の習得に、日本訳書や先輩学者の解説を参酌対照して、理解の助けとするように、横の文字で読んだのより、縦の文字の方が、心に落ち着き易く、納得を深めたようなことがあったであろう。また雑誌も既に読んでいたので、こう語っている。

我輩の育つ時代には無論新聞や雑誌の内地に有らう筈は無かつたが、長崎へは六合叢談、中外雑誌といふ者が来て、それによつて、略ぼ宇内の形勢に通ずる事が出来た。是は皆香港の英華書院から出版するもので、此英華書院は、英国が香港を占領するや否や、間も無く設立した所のもの、支那の学者を雇うて初に聖書の翻訳をし、耶蘇教宣伝の用に供したんであつたが、其後次第に理学書をも出し、又斯ういふ雑誌をも出すに至つたんである。 (『早稲田清話』 四四四―四四五頁)

 『六合叢談』は咸豊七年(一八五七・安政四)イギリス人アレキサンダー・ワイリーが上海で発行した漢字新聞、香港とあるのは話し違いか、筆記の誤りである。第一号にその前年終結のクリミア戦争の記事を掲げている。『中外雑誌』は同治元年(一八六二・文久二)にイギリス人ジョン・マガウアンが編輯し、その第三号には、当時としては最も詳しくイギリスの議会制度を紹介している。上院を公侯院とし、下院を紳士院としている。

紳士院約五百五十人、皆庶民選挙、以七年為期、至期選新者瓜代之。

これで思うのは明治十四年政変の前、天皇から憲法政治の意見書を徴され、伊藤博文は大名士族から成る一院制度しか考えていないが、大隈の所見は遙かにそれを超え、上下二院制度でしかも早くも庶民から成る下院を主体としているのは、基づくところ遠くこの長崎時代の新聞知識にあるようで、由来が深いとせねばならぬ。

 まだその他にも、多くの同類の書を読み、殊に有名な『聯邦志略』は、この前にアメリヵの政治の組織・歴史をこのように詳細に伝えたものなく、中に「独立宣言」の訳文を含むので有名で、当時の志士でこれを読まぬはなかったと言われるくらいだから、大隈の眼を逃れている筈はないと思われるが、しかしその談話に残っている限りでは、この書への言及が見当らぬ。もとは道光二十四年(一八四四・弘化元)刊行になる魏源の『海国図志』のアメリヵ人ブリッジマン(裨治文)の著作から訳したアメリカの部だけを独立させたので、日本では元治元年に箕作阮甫が訓点を施したのが江戸老皂館から出ているのである。

三 外交と早稲田大学

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 しかし、大隈に維新新政治への登竜門を開き、明治外交の初頭を国際的基礎の確固たる論法によって陸離たる開幕をなさしめたのは、一巻の『万国公法』である。大隈の生涯においてもこれほど大きな役割を果した書物はないと言えるし、日本の外交史にも不滅の足跡を残した書物だ。

 坂本竜馬には、大隈は会っていないが、もし邂逅の機があったとして、その"imaginary conversation"を組み立ててみると、きっとこの二人は一見十年の旧知の如く意気投合するか、その反対に喧嘩犬の如く本能的に反発するかだ。その坂本竜馬には、こういう逸話がある。

 彼、ある日稀代の名刀を入手して、喜びのあまり言った。「以て讐敵を倒すに足る。」と。暫くして彼はピストルを手に入れて、今度はこう言った。「刀は鋭利なりといえども、一敵を屠るに過ぎず。この短筒は一時に十人の敵に立ち向うを得。」と。また時を置いて彼は『万国公法』を手に入れて、珍重して言った。「短筒は文明の利器なれど、十人の敵を倒すに過ぎず。『万国公法』一巻の世界に当るに如かず。」と。

 この坂本竜馬の果し得なかった世界に当る宿願を実現したのが大隈重信で、換言すれば大隈ほど『万国公法』を活用し得た者は、後にも先にも例を見ないかもしれない。これはヘンリー・ホイートンのElements of InternationalLaw (1836)を丁韙良(William Martin)が漢訳して、『万国公法』と題したものである(同治三年・一八六四出版)。

 著者のホイートン(一七八五―一八四八年)はアメリヵの法律家で外交家である。大学を出るとフランスに渡って民法を研究し、帰国して共和党の機関紙『ナショナル・アドヴォケート』の主筆となり、最高裁判所記者もした。一八二七年デンマークの代理公使となり、前任者ジョン・クィンシー・アダムズによる、ナポレオン戦争中に拿捕・抑留されたアメリカ船の損害賠償に関するデンマークとの折衝を、アメリカに有利な条件で終結した。これは後にフランスやナポリと同様の条約を結ぶ範例となった。ベルリンの代理公使に転じ、その手腕に信頼したプロシアの要求で大使に昇格し、その間の著作がこの『万国公法』の原本だが、発行後忽ち世界的名声を博した。しかし外交家としてしきりに彼が才腕を発揮するのに着目し、一八四七年ポーク大統領の要請によって故国に帰った。別に、やはり駐独中の著作の『欧米国法史』が大著として知られる。この『万国公法』を漢訳したマーティン(一八二七―一九一六年)はプレズビテリアンの牧師で生涯を中国の伝道と教育に捧げ、八十九歳までの長寿を保って、実に大正五年、北京で死んだ。漢名の韙良はウィリアムへの宛て字、丁はマーティンのティンへの宛て字であろう。

 日本人がこういう法の存在するところを知ったのは、もとより諸外国との和親条約を結んでからで、幕府役人は、二言目には「それは万国公法の容すところでない」とかまた「同法の認めぬところである」とかいうような拒絶恫喝にしばしば会い、よほど重要なものだと畏怖し、その実体を知ろうとした。ハリスの江戸初登城の時も幕府の外交担当役人は、その宿舎を尋ねて、『万国公法』に関する諸質問を放っている。その待望の書がいつ初めて日本に舶載せられたかは明らかでないが、明治工学界の先覚宇都宮三郎の談にこうある。

其頃〔元治元年〕万国公法が始めて来て、まだ大阪に一冊しか無い。ソレは漢文であツた。ソレを持ツて往ツて田中〔紀州奥祐筆、田中善蔵〕に見せた。……先方は漢学者、此方は無学だから、聞きに往く。万国公法などは自分には解らぬが、ドンな事が書いて有るかと申した。さうすると田中が、彼れは実に大著述だ、驚き入ツたものだ、日本などは恥入ツたことだ、……

(『宇都宮氏経歴談』 一〇四頁)

 これで見ると、長州勢が暴虎憑河の勢いで皇居に銃砲を放ちかけたので有名な甲子禁門の変の年には、既に長崎を経て、大坂までこの『万国公法』の書物は入って来ていたことが分る。そして翌慶応元年(一八六五)には早くも江戸と京都で覆刻版ができ、更に坂本竜馬は土佐でもこの覆刻版を作ろうとして、金策に苦心している手紙が残っている。出版や覆刻が今のように雑作なくできる時代と違い、一字一字を木版に彫る手数をかけた時代の出版は、容易なことでなかったのに、かくの如く東西両京で上梓され、その他にも企画のあったということは、この書が如何に熱烈に時代に要求されていたかを物語るものである。

 大隈は、彼の機敏を以てして、日本版の覆刻を待たず、恐らく上海からの舶載本を読んだであろう。副島は枝吉神陽の実弟で、且つ大隈より十歳の年上だから、漢学知識が豊かで、『万国公法』を読むことも精到綿密を極め、大隈は持前の麁枝大葉で、逸速く大綱を摑んだのみと書かれているところを見ると、訓点の施してない原本で読んだもののようである。しかし、そんなことで、複雑な国際法が分ったのだろうか。程度はともかくとして、彼らは彼らなりに、そしてその時代相応に、納得し得た満足を持っていたのに違いない。それは既得せる中国古典からの知識の上に、国際法の観念を熔接し、融解して、摂取したのだ。異国知識の習得の初段階はそれ以外にはないので、初期の我が国キリスト教徒は、論語を踏まえて聖書を解釈し、反対にトルストイは老子その他東洋の古聖典を解するに聖書を踏台にしている。

 幕末諸志士で、丁韙良の『万国公法』を耽読した者は、坂本竜馬や橋本左内や横井小楠や、僂指するに暇のないほど多く、将軍家に献上せられているのを見ても、影響と流布の広さは推測がつくが、彼らの解し方は、尾佐竹猛の言う次のような点から入っていると思われる。

此原書たるホイートンの国際法は、当時の法学界の雰囲気たる自然法の影響を受けて居ることが多いのであります。のみならず国際法其のものも、今更私が此処で説明する迄もなく今日程法律的に分化して居りませぬ。或る意味に於ては、道徳的規格もあれば、歴史的規範も這入つて居るのであります。此自然法と云ふものは、吾々法律家に於ては当り前の言葉でありますが此頃から明治初期のボアソナード時代に至る迄、性法と訳して居りますが、此本にも其字を使つて居ります。是は欧羅巴思想で申せば、法律の中の自然思想であつて、其字を用ひて東洋に訳しますと東洋の思想とぴつたり合ふのであります。「天の命之を性と曰ひ、性に従ふ之を道と曰ふ」是即ち天道の思想であつて、日本に於ける天道の思想は、支那思想の影響を受けて居るのでありまして、宇宙に通ずる純理、形而上の哲学的規範是が東洋の基礎を成して居るのであります。是が自然法に依つて東洋化し、更に万国公法の思想が万国に通ずる純理であるが如き意味を以て日本に這入つて参りましたから、日本人の頭にぴつたりと来たのであります。必ずしもそれが法律であるか、道徳であるか、慣習であるか、規範であるか、其処迄ははつきりしないにしましても、成程宇宙に通ずる純理と云ふのは「万国公法」であると云ふので、外交上の必要、政治上の必要以外に、思想上に於て、日本人の頭にぴつたりと這入つたのであります。 (『維新史叢説』 三一―三二頁)

尾佐竹猛の別の著書『国際法より観たる幕末外交物語』(九頁)には、次のような引用文が見える。

伯大隈は、嘗て我輩と語りて当時の事に及びしとき、「吾輩とても国際法の一通りは心得て居た」と言へり。然れども彼の金科玉条とせしは事実に於て漢訳国際法の一巻ありしのみ。彼は此一書を縦横無尽に揮り廻はしたるならずんばあらず。其余が彼が国際法の智嚢は唯一のフエルベツクあり云々。 (『劇的見地より見たる明治政府』 十幕第一)

この漢訳国際法とは、勿論正確に言えば丁韙良の『万国公法』のことである。一方、長崎市小学校職員会が編纂した郷土史には、次の一節が見える。

フルベッキ深く日本の文化を啓発せんとするの意あり。副島〔種臣〕、大隈、中野〔健明〕等に万国公法を授く。是れ実に我が国に於て万国公法を伝ふるの始なり。 (『長崎郷土誌』 八七頁)

これで察するに副島、大隈は漢書『万国公法』を読んで、更に英原書につき、疑義をただし、研究を深めたものと見える。グリフィスのフルベッキ伝にこれについての言及は見えぬが、或いは事として録するの価値がなかったからであろう。

 副島、大隈がこの国際法の知識によって、実際に如何に華々しく活躍したかは、明治史の明記するところであり、大隈の功績は後で本書でも言及するが、それ以外にもここで注意を促しておかねばならぬのは、外交と早稲田大学の関係である。思うに私立にして、我が早稲田は、外交と非常に密接の関係がある。

 明治陸軍は、日清・日露の両大戦後に戦時国際法の顧問としては、我が早稲田学苑の教授有賀長雄に委嘱したが、殊に旅順の水師営の乃木・ステッセル会見に有賀が参加したのは、最も有名で、その日露戦争について発表したフランス語の国際法論文(La guerre russo-japonaise au point de vue continental et le droit international, 1908)は、世界学界に反響を呼んだ。

 また明治政府が、外交には高度の専門知識と技術を要し、到底従来の腹の外交、カンの外交、駆引きの外交、器用の外交だけで、むずかしい国際間に処することの不可能なのを知り、専門の外交官養成を必要として、外交官試験制度を実際に施行したのは、日清戦争が始まって、未曾有の国難に突入してからである。初め一回に少き時は二名、多い時は四名の合格者があり、みな帝国大学或いは官立専門学校の卒業者でなくては、この関門は突破できなかったが、明治三十年第六回の試験に四人の合格者があったうち、第二位を占めた信夫淳平は、政府が潰そうとまで敵視した東京専門学校の卒業生で、つまり私学出で外交官試験の難関を突破したのは特筆すべきことである。しかしやはり官界は性に合わず、母校に迎えられて教鞭をとったが、外交史学を設けて、これを専門の学問にしたのは高田早苗から有賀長雄、そして信夫淳平に系統をひいて、早稲田が根源地なのである。これは大隈と直接の因縁はないとしても、フルベッキについて副島や彼が国際公法を学んだのが、その授業の始めであったというのと、間接の関係はないと言えず、何れにしても対比して視野に入れるべきであろう。

四 北門警備

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 『万国公法』の一冊が京坂に入ってきた元治元年(一八六四)は、実は佐賀・長崎の間に跼蹐しているに過ぎなかった大隈らも、多少、天下大動乱の兆の響きを感ずる機会がないことはなかった。

 この元治元年は、一年で改元になっているのを見ても察せられる通り、幕末中、一番の多事多端の年で、七月長州勢が御所に大挙襲撃して敗退した報復として、翌八月幕府は長州征伐を布告した。その上に英・仏・米・蘭の連合艦隊も襲来するとの報があり、遂に長州は海陸両面から強敵を受けるに至った。木戸準一郎(孝允)がひそかに佐賀に来て、大木民平に会い、援助を求めると、大木は年少客気に任せ、これを独断で承諾した。大隈もそれには賛成で、幕府が長州を撃ったら、その勢いに乗じていつかは佐賀も滅ぼされる目に遭うのは明白だと論じたてたが、気持の退嬰的になっている閑叟であるし、藩の重役がそんな書生臭い進言に耳を傾ける筈もなく、勿論採用せられなかった。

 しかし別方面から、蝦夷問題が各地の興味を惹き、佐賀にまで飛火したのである。島義勇などは既に早くから実地に探険に赴いていた。蝦夷は北門の鎖鑰だが、殆ど無人にして全く無防備だから、久しくロシアから狙われている。今に及んでは蝦夷を開拓して、こちらからシベリアを侵略するぐらいの意気込みがなくてはならないという積極的暴論さえも起った。

 長州援助の建策を鎮圧され、年少の客気やり場のない大隈ら一味は、この論に飛びつき、佐賀は小局地だから、よろしく広大の北地に雄飛を策すべしと気焔をあげた。閑叟もこれには意を動かし、「もし南部藩が承知するなら、この佐賀と換地してもよい」と洩らしたと伝えられる。蓋し一遍に蝦夷の経略はむずかしいので、近い南部藩に拠点を置き、徐うに経略の策を練ろうとの抱負だったのである。

 尤も閑叟のこの言は真偽疑わしい。しかし明治十四年に、北海道開拓使払下げ事件が起ると、大隈が天下の輿論を指導して、いわばその渦中に飛び込んだのは、確かにその旺盛な関心の源頭がこの時にある。これが明治十四年の政変に繋がり、そして下野して早稲田学苑の設立となるのだから、その北海道との間接な繋がりを忘れてはならない。

 長州征伐は、征討副総督となった西郷吉之助が、総督に尾張大納言の徳川慶勝を奉じ、長州側を巧みに説き伏せ、最少限の損害で、幕府の権威を落さず、長州も面目丸潰れにならぬように、最も平和に近く局を収めた。後の江戸城無血授受の予行演習のような面影がある。ところが幕府側のタカ派は、これに大不満である。長州は皇居襲撃の大逆をはじめ、浪士を煽動して暴挙の数知れず、不俱戴天の憎い敵だから、窮追して再起不能にする必要がある。それを御三家筆頭の尾張慶勝が征討総督の重命を拝しながら、一戦にも及ばず和議を結んだのは、腰ぬけで人が好すぎて、薩摩の芋酒に酔わされた(西郷に丸められたの意味。将軍後見職の徳川慶喜の手紙にそういう表現がある)からだと、再び大掛りに長州再征伐を計画した。

 しかしこの噂が拡まると、世評は忽ち非難百出である。第一、降伏を一たび許しておきながら、理由もないのに、矢継ぎ早に征兵を向ける名分がたたない。それに今や諸外国が隙間あらば狙おうとし、現に、馬関に、鹿児島に攻撃をかけて、その兵器武術の精鋭は予想を遙かに超えるから、日本は内に相せめいでいる場合でない。そこで御三家筆頭の尾張は言うまでもなく、親藩筆頭の越前松平家、親縁の阿波の蜂須賀家、因幡の池田家、こぞって再征には気が進まず、土佐や筑前は両派に分裂して、血で血を洗う争いを演じている。第一、元治甲子禁門の変では、頽勢の会津守護職の兵を助けて、長州を惨敗せしめ、辛うじて幕府勝利の面目を保つに重大な役割を果した薩摩が、次第に昨日までは共に天を戴かずと憎みあった敵意を棄てて、いつの間にか長州に親しみを生じ、今や互いに連繋してひそかに反幕の連合まででき掛かっているのを、幕府は正確に諜知していなかった。

 この長州再征の議が発しもせず、収まりもせず、もやもやして、長州が幕府から縁切りになっている姿は、あたかもナポレオン戦争の時、イギリスが大陸封鎖をくったのと似ている。その時交戦国外に超然たるアメリカが自由に貿易手腕を揮って、濡れ手に粟の巨利を博したのと同じく、幕府・長州両方から頼りにせられている佐賀は、物品の周旋流通に有利の地位を占め、その方に才能ある大隈は多々ますます弁じて、藩の財政を豊かにするのにも資するところ大いにあったが、自分の懐も書生の身としては有り余るまでに温まった。幕末・明治初期の長崎商界に大きな足跡を残し、オペラの「マダム・バタフライ」のモデル女性のパトロンと言われる有名なイギリス商人グラバーと交渉のあったのはこの頃である。大隈はそのため長崎と兵庫・神戸の間を往来した。あたかも外交問題の中心は、イギリス公使パークスが約束の期日より遅れることなく兵庫を開港するよう促し、朝廷も幕府も京都の門戸とも言うべき海港に、外国船艦の入り来る予想に震駭している景況を予想して、長崎とはまた別個な海外的空気に触れ、攘夷の不可能どころか無稽の妄説たるに近いのを、改めて痛感した。

五 卒伍に落ちた副島

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 ある時、その摂津から商務を済ませての帰り、大隈は馬関や小倉を視察して筑前に来ると、木尾瀬に佐賀の軍隊が駐屯していることを聞いた。幕府の要請で、申し訳の長州征伐の兵を出したが、ここまで来ると停戦と聞き、暫くその後の形勢を観望して、まだここを動かずにいるところであった。

 見るとその兵隊の一人として、副島次郎(種臣)が交っている。組役として、藩の非職の若者は皆動員せられ、中でも副島は虎口前と言うべき兵伍に加えられていた。明治陸軍で、少尉・中尉は「一番だま」と言われた。戦闘の際、先頭に立って指揮する危険を言ったのだが、恐らく、その地位に類するだろう。大隈の方から「どうしたんだ」と聞くと、兵仗に縋り憮然として言う。「万巻の書を読みながら、一兵卒として倒るならんか」と。

 新藩主鍋島直大の周囲は、先主閑叟が幾らか進歩的侍臣を挙げ用いた当然の反動で、保守派が要所を占め、殊に弘道館の学風は、もと以上に頑固一遍の融通の利かぬ朱子学一本槍に変った。兄枝吉神陽の学風を受けて、特に神陽がコレラで急没してからは、その残した門弟の崇敬を一身に集めていた副島は、楠公義祭同盟系統の尊王論を説き、その論旨は峻烈痛切を極めていたが、水戸では天狗党、長州では高杉一派など急進の尊王攘夷は内争によって惨敗し、その逼迫蟄伏の状態が遙かに佐賀にも影響の尾をひいて、副島は弘道館から放逐せられ、家居を命ぜられていて、長州征伐出動とともに、この憂き目に遭ったのだという。

 「そりゃあ気の毒だ。時に君、英学は虫が好かんか。」と大隈が水を向けると「いや、そんなことはない。これからの時勢に処するには、英学を知らんじゃダメだ。」と応じ、「君自身、英学を始めてみる気はないか。」と重ねて聞くと、「君と違い年をくっとるが、遅くさえなければ、やってみたい。」「よし、それなら策がある。吾輩に任しとけ。」と言って、その場は別れた。