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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第十章 フルベッキ来朝

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一 信仰深きオランダ

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 西洋の百科全書的知識を最初に日本にもたらした西洋人は元禄時代に来たケンプェルで、その中興の功績者は、文政年間に来たシーボルトたること異論の余地もない。彼の前後にまた幾人かの同系の学者を数え得るとして、この系統の最後の人はフルベッキとすべきであろう。日本人のうち最も百科全書的頭脳の持ち主は、十目十指、大隈重信で、語って知らざるなく、質して答えざるはなかった。彼は、その道でただに政治家中にその比を見なかったばかりでなく、学者に伍しても断然卓出して、接するもの敵味方とも皆これを異とし、これに服せざるはなかった。これは大隈の生来の天性によるであろうし、幕末維新のような草創の時代によくこの種の万能型の人物が現れがちなものだが、また若くしてフルベッキに回り合い、その啓発を受けたことも、あずかってこの方面の才能を伸長するに力があったに違いない。青年大隈の恩顧の教師先輩、十指を屈して足らずとして、後年の東京専門学校設立に、直接間接、若干ずつの影響を及ぼしているのであるが、最も直線的な建学の基礎的感化を与えたのはフルベッキである。フルベッキがなかったら、早稲田大学なく、建っても、勿論、ひどく形式、精神の異ったものとなったであろう。彼のため一章を設ける所以はここにある。

 フルベッキの全き名はGuido Herman Fridolin Verbeck普通ならヴァベックと書くのが原音に近いが、元オランダ人でVerbeek(フェルベーク)と綴ったのを、アメリカに渡ってVerbeckに変えたので、自分で祖国流の発音癖が残り、それが日本人の耳にフルベッキと聞えて、そう書き留められることになったのである。ユトレヒト県内のザイストという人口六千ばかりの田舎町の素封家に、八人兄弟の六番目として、一八三〇年(文政十三)一月に生れた。ここは一体にモラヴィア派の信仰が深く根を下ろしている敬虔な地方である。少年時代の印象で、最も感銘を残しているのは、通学したモラヴィア派の小学校では、よく先生の更迭があり、それも県内の学校に移るのでなく、僻地のラブラドルとか、グリーンランドとか、或いは西インド諸島とかへ、「神の召命」によって突然転任してゆく。かと思うと老巧な宣教師が、聞いたこともない遠い伝道地から帰ってくる。時には他派の少年を一ダースぐらい連れてきて、暫くその学校に通わせ、その後で、今度はドイツに連れてゆく。こうして自分と同輩の少年が、信仰のためには早くから何年も親の許を離れて異郷に遊学するということが、フルベッキ兄弟たちに深い同情を誘い、多くの夢を培うた。中でも最も深い感銘と刺戟を受けたのは、ギュツラーフの来訪であった。一般から中国のギュツラーフと呼ばれているだけあって、彼の身の回りには、ちょうど聖者の肖像の背後に、円光がくっついているように、その身には遙けく幻怪な東洋の雰囲気がまつわりついていた。「少年たちよ。そこには神の恵みを知らざる多くの魂が彷徨している。」と言うギュツラーフの説教は、若きギドの心肝を揺すぶってやまなかった。

二 最初の日本訳聖書

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 ギュツラーフは一八〇三年(享和三)プロシアに生れ、早く東洋への宣教を志して、オランダの伝道会社に入った。二十三の年に教職の資格を得、翌年東洋に向って、東洋伝道では有名なメドハーストに回り合って、マライ語と中国語を学び、シンガポールを経てシャム(タイ)に入ってルカ伝とヨハネ伝とのシャム語訳を作った。オランダ伝道会社を離れてロンドン伝道会社に移り、一八三〇年代にはマカオに定住して、華南沿岸地方に伝道し、台湾から朝鮮・琉球にも渡航した。一八三二年(天保三)八月には日本漁船に近づいて漢訳聖書を頒与している。次第に漢文に熟達して、それまでにできていた漢訳新約聖書を改訂し、旧約聖書の漢訳を訂正し、自費を以て出版した。天保八年には、モリソン号に乗って、漂流民の送還旁々通商を開くため日本に接近したが、外国船打払令のため、砲撃を受けて空しく引き返した。高野長英や渡辺崋山が連座した蛮社の獄が、このモリソン号に関して起ったことは、我が開化史上あまりにも有名だから詳説する必要はない。天保六年マカオに護送されて来た三人の日本漂流漁民から彼は日本語を習い、彼らの乏しい知識と語学力の援護を得て、語学の天才であり、心力剛盛の彼は聖書の日本訳に掛かった。そしてできたのが『約翰福音之伝』で、つまり新約ヨハネ伝の頭初の数章である。「新嘉坡堅夏書院蔵版――善徳篇」とある。善徳とは彼の好んで用いた漢字の筆名で、他に愛漢善徳者などの号も用い、別にまたギュツラーフの音に近い郭実猟とも書いた。

 冒頭に「約翰福音伝」と既成漢訳を用いている外は、全文片仮名で、明治時代に「初めに道あり、道は神とともにあり」と訳されたのが、「ハジマリニカシコイモノゴザル。コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル」とあり、「道(ロゴス)」をカシコイモノ、神をゴクラクと訳しているなど、無学の漁民を指導者としての仕事としては、よくここまで意味を探り当てたものと、驚歎に堪えない。もっと先には、洗礼を受けることを垢離を取るとしたなど、的確動かすべからざる名訳もある。このギュツラーフのシンガポール訳聖書が、日本訳聖書として実に最初の訳本で、それまでに断片的な聖句の訳は、いわゆる切支丹版の耶蘇会刊行書のあちこちに散在するが、冊子となったのはこれが初めてで、まさに画期的な書物と言うべきである。

 ただ、大隈と関係のないギュツラーフのことに、何故言及するのかとの疑問が起ろうが、彼が一八三七年に日本文聖書を刊行し始めてから約十年を隔てて、久しぶりにヨーロッパに帰って、諸国を歴訪した際、オランダは往復の途中の道筋にも当り、またオランダ伝道会社に席を置いた因縁もあるので、ユトレヒトからザイストに立ち寄って、その講演によりフルベッキ少年を感動させたことは前にも述べた。彼が十二、三歳の、日本なら元服前の分別のつきかけた頃である。このフルベッキが大隈の生涯に、最も深大な感化を与えている人なのだから、間接にギュツラーフとの因縁も浅くない。

 いま一つ、見逃してはならないのは、ギュツラーフはマカオにいる時、ハリー・パークスといって、華南に流寓して来ているイギリスの少年孤児に中国語を教え込んだ。少年はその知識を以て阿片戦争に通訳官を務めたのを振り出しに、さまざまの官歴を経、広東代理領事、上海領事を経て、一八六五年(慶応元)、駐日全権公使として横浜に赴任して来た。三十七歳の働き盛りである。ヴィクトリア女王朝の、商工繁栄の絶頂のイギリスの勢力を背景に、忽ち列国外交官の最大権力者となって威を揮い、滞日十八年間、その間威嚇恫喝さまざまな手段を用いて、日本を震え上がらせたが、思いの外に正直者で、殊に早く日本本来の主権者は徳川幕府でなく天皇であることを諜知し、フランスと対抗しながら尊王派を支援して、王政の復古、明治政府の形成に貢献したことも多大である。公卿も薩長の要路者も、彼を苦手とし、畏怖して避ける時、独り互角に、或いはそれ以上に折衝し得たのは大隈重信で、論戦に火花を散らしたが、却ってそれが縁となり、借款その他で多大の便宜を供与された。極言すれば、大隈が新政府に認められた最初は、パークスとの論判だったのである。

一方が大英帝国の利害のための橋頭堡なら、他方は、信教の自由とキリスト教のための前進陣地であった。パークスとフルベッキの二人が、他の何人がどこの外国においてもなし得ざるほどの大貢献をなしたことは、日本人が明白に認めている。

(William E.Griffis, Verbeck ofJap an, p. 143)

しかもこの二人に大隈は深い交渉を持ったのだから、その恩人のギュツラーフに、ここで一顧を払うのを惜しんではならない。

三 長崎の第一印象

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 フルベッキは小学校を卒業すると、ユトレヒトの工業学校に入れられた。宗教家、教育家を輩出せしめ、文芸音楽に特殊の才能を持つ一族としては、やや首をかしげねばならぬ選択だったが、実は彼の生れた年イギリスでは、新発明の汽車を実用にするため最初の鉄道の敷設を見て、文明は一挙に長躍し、実に十九世紀の花とも心臓とも言われて、鉄道は日に月に敷設マイル数が延長してゆく情勢だったから、工学を修めるのが将来有望だという考えに基づいたものと思われる。卒業して暫くはザイストへ帰って鋳物工場に勤め、青銅、真鍮、鉄などの器具製造に従事していた。

 その時、他の青年と同じように、フルベッキの耳目に入ったのが、アメリヵの噂だった。大西洋の向うの新大陸!そこは尽きせぬ富源と、無限の弾力とがあるthe New Promised Landだ。鉄道は、真夏に生い繁る蔓草の如く、大陸の四方八方に触手を伸ばしている。たまたま姉のセルマが牧師のジョージ・ヴァン・デュースと結婚して、一足先に渡来して、しきりに来い、来いと促す。

 招きに応じ、青雲の志を抱いて、新大陸の土を踏んだのは二十二の年だった。初めウィスコンシンの田舎町の鋳物工場に勤め、やがてアーカンソー州で土木技師となり、橋梁の製図や設計に明け暮れした。働けばそれに応じて降るように金の取れる楽土ではあったが、新大陸の風惨雨虐に荒んだ先輩同僚の技師の言行が、静かな宗教的雰囲気の中に少年時代を送ったフルベッキと、肌が合わなかった。いや、それよりもっと肝を冷やす思いをしたのは、黒人奴隷が牛馬以下に扱われている悲惨な、非人道的な境涯である。その頃ヘンリー・ビーチャの説教の評判が、あたかも天籟の如くに、近隣に響き渡った。『アンクル・トムズ・キャビン』を書いたストウ夫人の弟である。フルベッキは魂の渇きを医するため、二十マイルを遠しとせず、その演説を聞きに行き、感化を受けて自分も熱心な奴隷廃止論者となった。その頃州内にコレラが蔓延してきたのである。罹ったが最後、再起不能と考えられている難病で、多くの人人が将棋倒しにバタバタと相次いで死んだ。フルベッキも土木作業中から河川の汚水などによって、いつの間にか感染していたと見えて、激しい吐瀉と体の冷却が続いた。もういけない!と彼は観念の目をつぶり、死と直面して、最期の時を秒読みにしているうちに、奇蹟的にも次第に一命を取り止め、危ない峠を越して、回復の希望が持てるようになった。しかし重病だから、はかばかしくは元気づかず、天井と睨めっこをして毎日を暮しているうちに、生涯中前後にない反省と静思の時を持って、今度立ち上がれたら、もう元の職業には戻るまいと決心した。義兄の勧めによって一八五六年(二十六歳)九月、ニューヨークのオーバーン神学校に入学し、その成績の優秀はもとより、篤信と力行とによって、学内の期待を集め、卒業の後は、学校にたくさんいるドイツ系の学生のためドイツ語で説教する役を仰せつかっているうち、マリア・マニオンという若い女性と知りあって、後に結婚した。

 ちょうどその時は、閉じた貝殻のように、かたくなに開国を拒んだ日本が、遂に頑迷な国策を維持できず、ペリーの黒船が端を開いて、嘉永七年三八五四)にはアメリカが和親条約の締結に成功し、その年の中にイギリスとロシアがそれに続き、翌年はオランダがそれに倣うた。安政三年(一八五六)にハリスが最初の近代外交官として下田に赴任し、先の開国条約に更に一歩進めて修好通商条約締結に成功するとともに、これらの諸国にフランスが続き、長い鎖国気質の抜けぬ日本は、渋々とではあったが、これまで長崎出島の一区画をオランダ一国に許したのとは違い、下田と横浜と函館には、条約国人の入国を認めねばならぬことになった。この報に、外国伝道に熱心なアメリカ宗教界は、にわかに活気づいたのである。

 その矢先に、広東にあったサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズからアメリカの三大伝道団に対し、日本への宣教師派遣を勧めてきたのである。ウィリアムズはアメリカの代表的東洋学者。米清関係が開けると、先駆者となって一八三三年(天保四)広東に渡り、『チャイニーズ・レポジトリー』(『支那叢報』)を主宰すること前後二十年、これはただにアメリカに向ってばかりでなく、世界に中国知識を拡げ、その意味では今日も価値を失わぬ史材の宝庫である(現に丸善では、戦争中その覆刊に着手し、終戦後に完了した)。日本語を学び、日本の文物を紹介したのも、アメリヵ人としては彼が最初で、例のモリソン号に同乗して日本近海まで来て、砲撃を受けて上陸を果さなかった。しかしペリーの日本遠征艦隊には通訳官として同乗して来ており、当時の最大の知日家で、広東領事館に勤務していた。

 ウィリアムズの呼び掛けに、先ず敏感な反応を示したのはアメリカにあるダッチ・リフォームド・チャーチ(オランダ改革派教会)である。彼らは栄光の歴史を持つネーデルランド新教の正系を以て任ずる。そこで特別会合を開いて声明した。

日本はオランダに対しては久しい友好国である。そして今はアメリヵに親しみを寄せてきた。アメリヵの改革派教会は、そのオランダ・アメリヵ両方を代表するのだから、他のどの教会にもまして、その三千万国民の魂に福音宣伝を努力せねばならぬ。

(Verbeck of Japan, p. 62)

そして先ず二人の宣教師と一人の医者の三人を派遣することに定まり、この中の一人はオランダ生れのアメリカ人でなければならぬとの条件がつけられた。

 真っ先に選抜せられたのがサミュエル・ロビンズ・ブラウンである。宣教の不滅の功は勿論、日本訳聖書完成に彼は最大の貢献をすることになる。オランダ生れのアメリカ人という条件に最も適合するのはフルベッキでなくてはならない。ブラウンはその人物考査のため面接してみて、フルベッキの性情の高潔と、信仰の堅固と、学問の淵博にすっかり感歎し、一見して十年の知己のように意気投合した。残る一人はデュエイン・B・シモンズが選ばれた。

 三人は一八五九年(安政六、大獄の年、桜田事変の一年前)五月にニューヨークから乗船した。その前フルベッキはアメリヵ帰化の手続が済んでいないので、その届け出をしたが、オランダからの国籍の移転が間に合わず、その点をはっきりさせないで日本へ来たので、そのまま遂に永遠の無国籍者になってしまうことになる。

 当時の喜望峰を回ってくる長航海の間に、船中で日本語を独習して二百四十五語を覚えた。語学はオランダ人で英・独・仏ができ、興味も持っていたし、才能もあった。船は香港を経由して上海に着き、ブラウンとシモンズは横浜めがけて直行したが、フルベッキは上海に留まった。彼のみは出島にあるオランダ勢力に接触し、利用するため長崎に行くのを便としたのである。事情を聞くため、東洋の事情に詳しいウィリアムズに会い、その忠告で、同行してきた夫人は暫く上海に留め、身元が落ち着いてから、呼んだ方がよかろうということで、単身長崎に渡り着いたのがその年の十一月七日である。彼の筆になる長崎の第一印象はこうである。

着いた初日、私の前にひらけた朝明けの美しさは筆紙に絶するものであった。前に、ヨーロッパやアメリヵではこんな絶景には接したことがない。鏡よりなめらかな港の中で、船の甲板に立って見渡すと、あちこち、十六隻の小舟が散らばっている。眼前には有名な出島が横たわり、その周囲および向うに、大きな市がひろがって、多くの美しい白い屋根や壁の家が並んでおり、そしてこの市のまわりは、多様な変化のある青くて高い木立で掩われた高丘で囲まれ、所々に神社仏閣が点在している。朝日がこの景色を輝かせ、霧が幕をひくように霽れると、周囲の一層高い山々の深くきざんだ渓谷が目立ってくる。

(Verbeck of Japan, p. 80)

四 伝道開始

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 フルベッキは先ず長崎のアメリヵ領事館を訪ね、事情を話してアメリヵ帰化人としての保護を願うた。出島に住むなら、オランダ人たる彼は何の手数もいらなかったのだが、それでは伝道にならないので、市内の民家を借りて、その住居が定まると、上海に待っている妻を呼び寄せた。

 しかし開国はしても、切支丹禁制の高札は至る所に立っているのだから、伝道を開始する余地は全くない。立ち寄るのは、日本家屋の構造を珍しがって、見に来るイギリス軍艦乗組の海軍将校ぐらいなものであった。その間に、ゆくゆくの説教に用いるため、午前十時から夕方の五時まで毎日みっちり七時間ずつ、全努力を日本語の習得に注いだ。翌年になって初めて、キリスト教について承りたいという二人の青年の入門があって、フルベッキを驚喜させ、それが肥前鍋島家の家老の村田若狭の実弟の綾部と、家来の本野周蔵であることは前に書いた。そして細々とながら、伝道が開始の緒についた。

 どんな教え方をしたのか。それについてフルベッキ自身が書き残している。

私は、聖書の理解に役立つような教案を英語で作った。それを毎週次から次へと与えた。二人は決められたレッスン用に、それを持ってくる。難解な点にさしかかると、私は英語と、オランダ語と、日本語で、分りよく説明する。二人は別々に英語教授を受ける。しかし、毎安息日には一緒に、聖書教案を復習する。この教案は、二人が聖書それ自身を読む手引きのつもりだったが、だんだんに彼らが自分でそれを読みたい気持ちになっていってくれることを希望したのだ。この私の日本における最初のバイブル・クラスは、彼ら学生の発意で生れたものである点がおもしろい。その一人は、他の点では大変立派な人だが、聖書を学びたいという希望を持っているとは、私は思いもしなかった。時に私は、漢訳聖書の小冊子をみんなに分与すると、去年の終りの三ヵ月は、もらいに来る人もかなりあったが、今年の初め以来、それがひどく減少した。一つの理由は、私の周囲の知り合いの間には既にゆきわたってしまったからであろう。注文しておいた小冊子が刊行されてきたら、今よりたくさんの人を集める手段となるであろう。現在でも時々、古い寧波版や上海版の冊子をもらいに来る者があるが、どちらも舶載せられぬこと一年以上に及ぶ。多くの人の間に、聖書とは何が書かれた書か知りたいという要求が生じてきていて、小冊子は断片的な形でしかそれを充たさない。それでも、本物の聖書や宗教的書物を読む踏み石にはなる。

(Verbeck of Japan, pp. 103-104)

これで見ると、英語もオランダ語も読めぬ者には、寧波や上海で刊行せられた漢文のキリスト教関係小冊子を頒与して、人を引き寄せようとしていたことが分る。

 オランダ語の長崎は、その総雪崩的に英語に変る機運に差し掛かっていたので、それを習いたさに、恐る恐る近づいてくる者もあった。またフルベッキが工学校出で、機械、橋梁、土木、築城などの専門家であることも、幾らかずつ、知られてきた。それはその時代がまさに熱切に要求するもので、ちょうどシーボルトや、後に来たヘボンの医学のように、諸青年に魅力があり、その方面の知識を得ようとして接近してくる者は宗教志望者より多かったが、手始めに必要なのは語学なので、彼らもやはり英語から習った。

 このフルベッキ塾が開かれて、最初の入門者があって間もなく、大隈の顔もそこに現れたものと思われる。何故なら、フルベッキのいわゆる「バイブル・スチューデント二人」を送りつけてきた鍋島家の家老村田若狭に大隈が知遇を得て、恐らくその勧めでフルベッキを訪ねるようになったに違いないことは前に書いた。正確な年月は分らぬが、最初の二人の弟子が入って暫くたってからと推定すれば、万延元年(一八六〇)のうちで、大隈数え二十三歳の時にこの出会いが始まったものということになる。

 大隈は、蘭学の方は既にナポレオン伝まで独力で読め、幾らかは話も通ずるまでに進み、英語も初歩は修得していたので、フルベッキとの応対も初めから多少は要領を得るところがあり、それに呑み込みは早い性質で、僅かでも基礎があれば、それを用いて多々弁じまくる方だから、フルベッキの伝記に、副島と大隈は弟子中の二英才で、最も多く、そして最も長期に亘って教えたと明記されているところを見ると、蓋しこの期間に蘊蓄するところ少々でなかったであろう。

五 長崎洋学所

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 しかしフルベッキの長崎滞在も三年目に入ると、世情なんとなく騒然として動揺の様相を呈してきた。原因は種々ある中にも、生麦事件による薩英の紛糾は危機の口火となって、いまや幕府政治は噴火山上に坐する不安定である。文久三年(一八六三)になると、歴代京都の土など踏んだことのない将軍が、天皇に呼びつけられて入洛せねばならぬほど権威が落ちた。江戸の御殿山に幕府が巨費を投じて建てたイギリス公使館は暴徒に焼かれ、薩摩とイギリス、長州と幕府との間は、いつ焔を吹かぬとも限らぬ過熱状態で、長崎に滞在する外人も皆殺しにされるという不穏な噂も流れる。たまたま鍋島の藩家老村田若狭から急使を派して、フルベッキに妻子を連れて長崎を去り、暫く難を避けた方がよいと知らせてきたので、彼はそれに従い、四月に上海に向けて引き揚げた。

 果然、その翌五月には馬関に外艦砲撃が起り、七月には鹿児島で薩英戦争があり、八月には大和に天忠組の変が生じて、共に天下を震駭した。しかし長崎は別に騒擾はおろか、動揺の影だにないので、上海逃避は半年で、十月にはまた戻ってきた。ペテロが身辺の危険を告げられてローマの信者たちを見捨てて去り、カンパニアの平原で"QuoVadis ?"のまぼろし問答をして引き返したのに似た心境も若干なかったとは言えないであろう。

 喜んだのは綾部・本野の最初の二門下生で、師の無事帰還の祝いに、黒い子豚二頭を贈った。外人は肉食すると聞いていたからである。長崎奉行は、これを耳にして興味と満足を覚え、江戸に行って幕府にこのフルベッキに関する報告をして、この際よろしく泰西語学と科学を教うべき学校を設けることを進言し、フルベッキの人柄と経歴とを語って、その校長たり得べき者この人を措いて他にないと力説した。

 そこで今まで、英語伝習所、英語所などと言い、唐通詞が学頭であった不完全な組織を改め、洋学所と改名してフルベッキを迎えることになった。アメリカ領事館が交渉して年俸千二百ドルと定まった。そこでニューヨークの伝道本部にこの事を知らせて了解を求めると、キリスト教の将来と、日本の幸福のため、結構この上ないことだと賛成し、短日月の間に有望青年の発見指導まで漕ぎつけた伝道成果を高く評価してくれた。フルベッキはここで、本部からの仕送り一切を断り、奉行所から受ける年俸を以て伝道費にも充て、生活資金も賄うことにした。

 一週五日出勤、一日二時間ずつの講義で、初歩は日本人が受け持ち、フルベッキは主として上級を教えた。ここに学んだ学生は、大隈重信、副島種臣、石橋重朝、丹羽竜之助、中島永元、江副廉造、中野健明などが出色であった。横井小楠の二甥、岩倉具視の二児もここに学んだと書いた書物が多いが、フルベッキ伝に、それは後に大隈が主動者になって建てた致遠館においてだったと書いているから、暫くそれに従い、ここの就学者としては省いておく。

 しかし彼の名声は次第に拡がり、各藩は競って子弟を送ってきた。近い九州は言うに及ばず、本州や四国からも来学する者があって、一時は学生の数が百を超える盛況であった。一つは、シーボルトが医学で人士を惹きつけたように、フルベッキはその工学や土木の知識経験を持つという点が魅力とせられ、加賀・肥前・薩摩・土佐などでは、藩として彼を招きたいと交渉してきた。しかし彼は幾ら礼を厚くされても、その誘いには乗らなかった。奉行所に対する義理というより、それらの藩の望むのは架橋や築城である。英語の授業と違い、それらのことに手をかけると、没頭して、本筋のキリスト教の伝道をする時間がなくなるからだ。

 後に慶応時代になって、この洋学所は、改組せられて済美館となり、仏・独語も教えるようになって、フルベッキはドイツ語を担当したこともある。