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第三編 東京専門学校時代後期

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第一章 帝国議会の開設

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一 帝国憲法と大隈

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 華族令が公布されたのは明治十七年七月七日のことであった。本令公布の詔勅によると、「華族勲冑」すなわち公卿貴族および勲功のある藩主はもとよりのこと、「文武諸臣中興ノ偉業ヲ翼賛シ国二大労アル者」もまた、栄誉を受けることになっていた。爵位は英国流の五爵の制度に三千年前の周時代の名称を冠して制定したもので、公家と、大名中、徳川・島津久光・同忠義・毛利のみが公爵に、また藩主に授爵することには大分異論もあったが、遂に侯・伯・子・男の四爵に分ってこれを授けることにし、この時維新の功労者大久保・木戸両人の嗣子は侯爵、伊藤・黒田を筆頭に、維新後の新政府の功臣十三名(嗣子一名を含む)が伯爵に叙せられた。昨日までの下士・足軽の息子が、実に大納言家と同列になったので、天下はこれに瞠目し、薩長に偏したその「お手盛案」を難じ、殊にかつて参議筆頭として明治政府草創期に大活躍をした大隈重信や、その他板垣退助、後藤象次郎が、何故かこの選から漏れていたのを怪訝とした。

 明治政府が太政官制を廃し、内閣制を採った明治十八年、その第一次内閣の首班として印綬を帯びたのが伊藤博文で、その年の暮もおし迫った十二月二十二日のことであった。伊藤は組閣前からくすぶり続けていた欧化政策、外交問題の再燃や、華族制度に対する厳しい世の批判を避け、激昂する民心を抑圧する手段として、先に授爵の選に漏れた後藤象次郎、板垣退助、勝安芳とともに大隈重信を推薦し、伯爵の栄誉を与えて、華族に列せしめた。二十年五月九日のことである。ところが板垣は平常の主張に反するとしてこれを拝辞し、自由党の連中も双手を挙げて同意したため、彼も我が意を得たりとして、三条内大臣、黒田清隆その他を訪問して陳弁した。世に辞爵問題と言われたものがこれであった。

 改進党員や東京専門学校側では、当然大隈もまた拝辞するものと予期していたが、大隈はあっさりこれを受けてしまった。植原悦二郎は「後藤、大隈、勝は喜んで其恩命を拝した。」(『日本民権発達史』第一巻一二二頁)と述べているが、果して大隈は喜んで受爵したものか、或いは心中他に何か期するものがあったからか、その真意は推測し難い。何れにしてもこの事実は、民権的気風の横溢した東京専門学校の学生をいたく失望せしめたことは確かであった。柳田泉の『日本革命の予言者木下尚江』には、これまでの事情がよく述べられている。すなわち、

改めて同窓の連中が何を理想として勉強しているかと気をつけてみた。ところが、同窓の人々は誰一人迷っているものはない。これは皆が皆大隈重信崇拝である。彼らの考えによると、伊藤博文は日本のビスマルクで、官権圧迫政治の張本、大隈は日本のグラッドストーンで、自由革新政治の元締である。今に二十三年(一八九〇)の議会政治が始まれば、日本のグラッドストーンは種々の改革案をひっさげてビスマルクの伊藤を相手に華々しく戦い、日本の改革をなしとげるにちがいないと信じきっている。その大隈の下にあって他日大いに活動するつもりで孜々と勉強している。尚江も、これをみて、やや安心した。大隈にそれほどの大志があり、大隈がそれほど日本の改革に熱心であれば、その下で国民のために働らくのも働らきがいがあろう。尚江も元気をもちなおして、ともかく学校にとどまる気になった。ところが、その大隈は、尚江のそういう決心を知るや知らずや、それから一年もたたぬ明治二十年五月、伯爵の位をうけて華族になった。尚江は、先きにクロムウェルを失ったと同様、今度はグラッドストーンを失ったのである。尚江は再びがっかりした。 (二八頁)

 この記述によれば尚江一人が大隈の受爵に失望したようにとれるが、実は彼の考え方は学生大半の意見を代表したものと見てよく、勿論学生の中にはこれを我が事のように喜んだ者もあったろうが、在野精神の洗礼を受け、これを以て勉学の澪標としていた一般学生にとっては、大きな期待はずれであったに相違なかったろう。ただこうした失望も僅か一年未満の憂鬱に終り、大隈が台閣に迎えられて外務大臣の要職に就いたことで、学生達の愁眉は開かれたのであった。時に二十一年二月一日。伊藤は、前年九月井上外相の辞任後、外相を兼摂していたが、早くから大隈の入閣を希望していたことは明らかである。というのは、「保安条例」公布により反政府の色彩濃厚な政客を帝都から放逐したものの、国会の開設の暁には、在野諸党からの強力な反発が予想されたから、今は立憲改進党首を辞退しているとはいいながら、隠然たる勢力を政客論客の間に占めている大隈を招致して、この反撃を抑止せんとするがためであった。既に前年八月、黒田清隆は伊藤の意を承けて、大隈に会見、入閣を慫慂した。初め大隈は、幾つかの条件を出して、帰趨を明らかにしなかったが、そのポストは外相であり、年来の主張である条約改正を敢行する絶好の機会であったから、漸くこの申入れを受諾することにした。大隈の入閣は立憲改進党の一部の人々を唖然たらしめ、大隈の真意を疑う者さえあった。しかし、事の如何に拘らず、専門学校の学生の大半はこの告示を朗報として喜んだのである。彼らは、我らの大隈がこれを踏台にして、いつかは総理の座を占めるであろうことを夢みたからであった。しかも大隈が台閣に連なっている間に憲法が発布された。憲法発布については、二十二年二月十一日付『官報』号外を以て「告文」「憲法発布勅語」「諭旨」の三つが出ているが、帝国議会の開会について記されているのは「諭旨」であるから、今これをここに記しておこう。

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ與ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ

 これを見ても明らかであるように、二十三年を期して帝国議会が召集されると明示されている。思えば明治十四年の政変によって、筆頭参議の職を賭してかち得た成果であるだけに、大隈の感慨ひとしお無量なるものがあったであろう。しかるに大隈は思わぬ受難のため、帝国議会開会という歴史的行事に参加できなかった。すなわち彼が明治新政府開設のその時から手塩に掛けて来た条約改正案がロンドン『タイムズ』(The Times)にスクープされ、それが日本にも伝わってきて輿論の厳しい批判を受け、遂に玄洋社旧社員来島恒喜により爆弾を見舞われたからであった。

 では大隈遭難の原因となった条約改正問題とは如何なるものであったのか。『大隈侯八十五年史』第二巻第五編第七章の冒頭には、「君の条約改正事業を中心として湧いた政界の大波瀾は、その事相が複雑で、明確にそれを伝えるのは容易でない。」と言い、賛成、反対各党派の中心人物の氏名を挙げ、「殊に政府の内部にゐて、君の立場衷情などをよく知りながら、君の大業を打壊さうとした長閥の一派中に、よくない手段を弄した形跡が多少見える。君の大業はかうして外からよりも、多く内から破れ始めたのである。」(一二八―一二九頁)と、這般の消息を適切に述べているのが真相を得たものと言えるであろう。

 条約改正問題は、既にして永い懸案であった。一言にして言えば、これまで列強から最低国並みに取り扱われて来た我が国の地位を、対等にまで引き上げようとする国策であった。治外法権の撤廃はその主たる骨格で、これが一挙に解決されるならば、これに越したことはない。しかし、政情が推移してから僅かに二十年、その間、国政の整備に日もなお足らずとした国情であって見れば、国威を海外に発揚する機会は全くなく、反って列強に依存する方が多い状態であった。例えば鉄道の開通にしても外債による他はなく、岩倉らの海外十三ヵ国巡遊にしても、先進国の文化の見学に過ぎず、その結果は驚愕を土産に帰国したようなものであった。たとえ破れたとはいえ、征韓論が台頭したことや、台湾征討の軍を起して清国から償金を得たことなども、それは国威を海外に知らしめたと言うよりは寧ろ日本は腕力の国、野蛮な国という印象を強めたのかもしれなかった。

 従って条約改正問題にしても、列強の我が国に対する理解度、関心度がどの程度に進んでいるかを見極めた上でなければ、所期の効果はもとより望むべくもなかった。すなわち、容易なものから一つ一つ片づけ、最後に大詰めの段階に至るという漸進主義で交渉に当るのが、最良の策と言わなければならないだろう。明治史に関する出版物は、すべてと言っていいほどこの問題を取り上げているが、ただ、この問題についてそれぞれの研究者が、それぞれの立場から、それぞれの判断を下すことは自由であるとしても、大隈が理解度の深い先進国の個々に当り、国内の情勢を勘案しながら、主張すべきは主張し、譲るべきものはこれを譲ったその忍耐強い外交家としての態度は、大きく評価しなければならないであろう。それには、仮に贔屓の引倒しがあるにしても、側近者の観察も大いに参考になると考えるので、「条約改正の大紛擾」という矢野文雄(竜渓)の一文を次に転載しておく。

大隈さんは先づ米国と交渉し、次で英国と云ふ具合に各別々に談判したが、米国は我れに好意を表した。元来米国は我国との最初の条約国であるが、其時は日本は未だ極めて幼稚な国で何も分らない、いい加減にすればどんなにでもなつたのに、ああ云ふ民主国で侵略等と云ふことは余り無かつたと見え、種々指導誘掖して呉れたのである。英国にしても矢張り好意は示したのである。然し英米が如何に治外法権を撤廃して対等の条約を結ばうとしても、其対手国たる我国の訴訟法だの民法だの刑法だのと云ふものも、完全に備はつては居ない。それを運用すべき機関も制度も無い、……それで種々折衝した結果、大隈さんの改正案は井上さんの案に比すると、多少有利であつた。殊に税権の回収に就いては、井上さんの案に稍々優つて居たが、外人に内地雑居の権を与へ、土地所有権を許し(何年か年限を限つてあつたと思ふが)旧居留地に於て領事裁判権を存続し、且つ大審院に外国人の裁判官を傭ふと云ふことがあつたので、又一部保守派の連中から頗る攻撃を受けた。殊に内地雑居の権を与へ、土地所有権を許すと云ふ項目は、保守派の最も非難したる所で、そんなことになつたら日本の国権は傷つけられ、外人が次第次第に日本の土地を所有して遂に日本の国土は外人の有となつて了ふと云ふ杞憂である。……大隈さんは実際其局面に当つて居る人として、かう考へたのである。一度に無理を押しては却つて一も二も取らずになるから、漸次に進まうとせられたのである。又外人に内地雑居を許し、土地所有権を与へてもさう国権を傷ける程のことでも無く、又世界は到る処に未だ肥沃の土地が沢山ある。日本のやうな小さい所を、何を好んで大々的に所有しやうとする者があるか、偶々それがあつても、それは小さい、別荘か何かに使ふ位のもので、日本の国土が全然外国の有となるやうな憂ひはありはしないと、大隈さんは無雑作にかう考へられたに違ひない。所が之がため非常な攻撃が起つて朝野騒然と云ふ大騒となつた。

(『大隈侯昔日譚』「補」 一二九―一三二頁)

 この引用文の最後に近い個所で、日本国土の危殆に関し、述者矢野は「大隈さんは無雑作にかう考へられたに違ひない。」と述べているが、これは寧ろ矢野が「無雑作」にそう推意したに違いない。古今東西の文明を研究し、特に東アジアの地理に詳しく、現状を洞察していた大隈のことであるから、この大海の粟粒にも等しい我が国を各国が蚕食しようとすることはないとの確信を懐いたのである。ところが、狭小固陋な人々はこの大隈の真意を知らずして、喧々囂々大隈の試案を非難し、挑戦して来た。今これについて攻撃の最前線に立った『日本』新聞が表示した新聞雑誌による言論の分野を見ると、次のようになっている。なお、△印は東京専門学校関係雑誌である。

(指原安三編『明治政史』下篇 旧版『明治文化全集』第三巻所収 八三頁)

二 大隈の遭難

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 明治二十二年十月十八日夜、東京の各新聞社は、何れも号外を発行して「大隈外相の遭難」を報じた。この報道は各新聞とも、翌十九日から一せいに詳報を載せたが、当時の新聞は多少なりとも各政派の御用新聞か、機関紙であったため、記事の取扱い方に親疎があったことは否めない。よってここでは、『大隈侯八十五年史』第二巻第五編の、同事件の記事から抜粋して、その真相を伝えてみよう。

 事件の起ったのは、前述の如く十月十八日。当日は閣議があったのでこれに列席し、午後四時五分頃、首相官邸を出て馬車を利して霞ヶ関の外務省へ向った。馬車が外務省の門を過ぎようとした頃、フロックコートを着た三十歳ぐらいの男が足早やに車に近づいて来たので、怪しと見た馭者は馬に一鞭をあて、車を反転して門前の下水橋に差し掛かった。ちょうどこの時一・五メートルぐらいの距離に迫った件の男は、手に持った包みを馬車の真上に投げつけた。途端に一大爆音が地上を震動させ、馬車の一部はかなりの損傷を受けたが、からくも難を逃れて門内深く姿を消した。この爆音を聞きつけた護衛の警部は、直ちに馬車から飛び降りてその男を追ったが、彼はこと成れりと考えたものか、矢庭に懐中から白刃を取り出し、咽喉に突き立て、朱に染まって路上に倒れた。

 一方大隈もまた血に染まりながら、玄関側の広い一室にかつぎ込まれた。偶然この時外務省門前を通り掛かった高木兼寛海軍軍医総監は、変事と見て省内に駆け込み、大隈の遭難を目の当りに見ることができた。一方兇変に接した関係者達は、直ちに佐藤進医師、帝国大学のベルツ博士、その他伊東、岩佐、池田三侍医を招き診察した結果、右足の膝関節以下が砕け、その上部辺りから切断しなければならなかった。手術は午後七時五十五分に始まり、八時三十七分に終ったというが、時間にして約四十分間、これほどの大手術を短時間で完了できたのは、さすがに当時一流の国手達の手腕によるものと敬服せざるを得ない。なお、切断された足は現在でも日赤に保存されている。

 被爆の時、唯一声「馬鹿っ」と大喝した大隈は、顔色も変えずに自ら車から降りようとして叶わず、漸く広間に運ばれたが、逸速く駆けつけた加藤高明秘書官の手を握った時、加藤はその握力の強いのに驚いたという。日頃、生死を国家に託した大隈は、これぐらいのことでは微動だにしなかった。その政治家としての信念の偉大さを改めて感じさせられるではないか。

 この事故は、天皇、皇后両陛下が大変御心配になり、各閣僚を驚愕せしめ、各国公使も皆心を痛めて、慰問の名士は深更にまで及んだという。殊にかつては政見の齟齬によって確執を来たしたことがあった黒田清隆総理は、大隈の枕頭に立って、「貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったよりも残念じゃ。今が一番政治上大切な場合じゃからな。どうか一日も早く快癒して、再び以前の通り、外交のことを見て下さい。」と、その回復を祈ったという。伊藤博文は当時小田原の別邸で静養中であったから、大隈を慰問したのは一両日後であった。この時、両人の間には暫く無言の状態が続いたが、その際綾子夫人はこれを執り成すかのように、「伊藤さん、あなたも御用心なさいませんと順番が回ってくるでしょう。」と冗談ともつかぬ注意を与えたという。それからちょうど二十年後の四十二年十月二十六日、伊藤はロシア蔵相との会談のため到着したハルビン駅頭で韓国人安重根の狙撃に遭い、多彩な生涯に終止符を打っているが、果してこれが夫人の予感と全く無関係であったと断じてよいものだろうか。大隈夫人が夫君の遭難に直面し敢えて動ずることなく、伊藤元勲に対しこれだけのことを言い切れるのは、政治家の妻としての覚悟が常に身に具わっていたからであろう。

 東京始審裁判所の渥美上席検事、山川予審判事、安藤検事は報を受けるや直ちに現場に急行したが、加害者は既に息を引き取っていた。検視後屍体は裁判所に移されたが、間もなく加害者の氏名は来島恒喜であることが分った。来島の戸籍については、十月二十六日号の『時事新報』が、ある程度詳細に調査しているから、その要領を摘記してみる。

同人が郷国の戸籍面には常記とあるも、本人は平常自ら勝手に恒喜と称し居たるよし。又同人の父明氏は旧福岡藩主黒田侯に仕へ、馬廻組を勤め禄百五十石を食みたる趣。実母は来島が三歳の時死去し、今の所謂母なるものは継母にして、弟の金次郎と呼べるは……北海道に移住し、妹一人は既に嫁して家に在らずとなり。

恒喜は明治維新後、郷里の十一学舎に学んだ。この舎生の多くは西南の役に参加したが、恒喜は加わらず、有志とともに海ノ中道にあった向浜塾に入塾した。この塾の閉鎖後、向陽義塾が興り、向陽社と改名したが、彼もこれに転じ、更に社名を玄洋社と改名するに及び、遂に玄洋社員になった。尤も、犯行の当時、各新聞は彼を玄洋社員であるとしているが、この時彼は正しくは玄洋社員でなかった。向陽社が玄洋社と改称した際、社長は平岡浩太郎に譲られたが、のち向陽社初代社長箱田六輔が平岡の後を襲っている。その後頭山満がその首領となった。これら北九州一流の国粋派の闘士の門に集まった人には、旧士族の青年や既に相当の学識を具えた会員もたくさんいた。

 玄洋社憲則は僅かに三条に過ぎず、「第一条皇室を敬戴すべし。第二条本国を愛重すべし。第三条人民の権利を固守すべし。」というにあり、徹底した国家主義を説いていたが、政治活動には深く立ち入らなかった。そのため積極的な活動を志した人達はこれに飽き足らず、分派運動がしきりに行われ、もと九州改進党に属した代言人を中心とする一派は政談社を組織し、これがまた変じて大同倶楽部になり、玄洋社とは相容れない存在となった。来島は十六年上京して旧社員と相会し画策するところがあったが、大阪疑獄が起るに及びこの一派も余儀なく解体し、来島は一時小笠原に逃避した。その後帰京し、二十一年福岡に帰ったが、既に箱田は逝き、岡喬のみが孤塁を守っていたので、同志糾合の望みは断たれ、やむなく単身立って「売国の姦臣を仆すべく」意を決したという。的野半介監修の『来島恒喜』には、彼が目的完遂のため再び上京した際、郷里の知己に贈った最後の手紙が掲載されている。彼がこの時勢を如何に感じ、何故敢えて非常手段を採らざるを得なかったかが察知できるので、その一部を載せておく。

何となれば、条約改正は国民的の問題なり、決して党派問題にあらざるなり。苟も眼中党派心あらざるものよりの外は、斯る団体は為すこと能はざるべし。左れば、社は急進党もあり、保守主義もあり、敬神党もあり。彼れ等が之を目してぬゑ党となすも亦宜なり。而して此のぬゑ党社は、却て愛国の士なるべし。又天下に大事を為すべし。是れ丈は我党を除くの外保証せず、或はやし五団体に皷もつねーと云ふ人も、あるべし。是れ全く改進党より優れりとする迄なり。其のくせ小生は五団体には一人も交際せず、去りとて改進党とは尚更なり。只つた一度関西九州人士の咄し会の傍聴に参りました。其他一二の貴顕の所には参り咄を聞きましたが、尚該件に付ては十分の根本を尋ね諸君の驥尾に付して我が信ずる所をなし、生が是までの不都合不忠不孝を諸君に謝し、併て天下に謝せんと欲す。諸君幸に是迄の多罪を恕し賜へ。 (二一六頁)

 この報は勿論学苑の内外に大きな驚愕を与えた。講師、校友は踵をついで見舞に訪れ、学生もまた三々五々大隈邸を訪れて慰問するとともに、この無謀な犯人に対しやるせない憤りを感じた。しかし大隈は来島の葬儀に側近を会葬させて香奠を供え、また追悼法要ごとに金一封を贈るとともに、自ら霊前に臨んで追悼演説をしたという。一片の私情を挾むことなく、ただ国事を思って生命を断った志士に対する礼であろうが、真に美談と言うべきではなかろうか。

 大隈は遂に隻脚を失ったが、十分な加療と摂生により、およそ半歳を経て回復し、二十三年四月十五日関係者一同を上野公園桜雲台に招いて全癒祝いをするとともに、五月十三日参内して両陛下に御礼を言上した。

三 帝国議会と学苑

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 さて民選議院すなわち国会設立を推進したものは、言うまでもなく大隈を盟主とする立憲改進党であり、板垣を総理とする自由党であったが、後者は十七年に一度解党し、その後二十年に至り再興の話が起ったが、これまた内紛のため分裂し、その一部は他の政社を集めて大同団結をなした。しかしその掲げる旗印は、「我輩ハ政治上意見ノ小異ヲ捨テ大同ヲ取リ、以テ倶楽部ヲ組織シ之ヲ大同倶楽部ト名ク。」と至極尤もらしくはあったが、その実体は小党派の糾合にあったから、間もなくこれも乖離崩壊し、幾つかの小政党の出現を見るに至った。この間の事情については、六三五頁の「大同団結一覧」を参照されたい。

 自由党内にこのような紛糾があった時、改進党にあっても諸派が拮抗したが、大隈は離党するまでよくこれをまとめて盟主の地位を確保していた。二十三年二月十八日号の『日本』新聞は、同党員を四派に区別し、

右翼(毎日派)、左翼(専門学校派)、中軍(報知派)、遊軍(朝野派)とせり。所謂左翼の専門学校派は前島密、北畠治房、天野為之山田一郎の諸氏にして、中軍の報知派は矢野文雄、牟田口元学、藤田茂吉、加藤政之助、箕浦勝人の諸氏、右翼毎日派は島田三郎中野武営、肥塚竜、青木匡、波多野伝三郎、角田虞平の諸氏にて、尾崎行雄、犬養毅、吉田嘉六、久松義典の諸氏は遊軍たり。

と記している。こうした基盤に立って帝国議会の開設が進められたのであったが、特にいわゆる左翼専門学校派の推進力には刮目すべきものがあった。それは鷗渡会の人々が学校創設に功績を残したとともに、彼らは既に帝国議会開設にも多大の期待を寄せていたからであった。例を天野為之にとれば、彼は四十二年二月、憲法記念祭における講演「憲法と早稲田大学」の中で、次のように述べている。

平つたく私共の精神を茲に白状して見れば、国会が開かれたならば、一躍して大臣となつて国政を料理するといふ考があつたのである。(拍手)それ故に苦節を守つて政府にも何処にも出ずに居つた。即ち政府の役人に出る積りならば、何時でも採用するから出ないかといふ勧告を度々受けましたけれども、少しもそれに向つて耳を傾けなかつた。さうして十年苦節を守つて、国会が開けたならば大政に参与しやうといふ精神を持つて働いて居つた訳である。 (『憲法紀念早稲田講演』二〇頁)

ここに言う採用の勧告云々ということが事実であるならば、これは全く高田早苗の言うところと符節する。すなわち彼は、

当時大学卒業生といふものは極めて少数で、世間でもちやほやしたのみならず、大学に於ても元より是を政党に加入させたくないので、外山〔正一〕先生其他を介して卒業前に我々に仕官を勧め、私には文部省の官吏になれといふ勧めもあり、其月給も大枚五十円といふので、当時として頗る優遇であつた。併し我々同志は既にのぼせ返つて居るので、之をお断りした。

(『半峰昔ばなし』 七八頁)

と言っているのである。高田が言う「同志」とは勿論鷗渡会員であり、東京大学卒業の同期生のことである。外山の勧告を下回る初任給三十円、それもいつ昇給するか分らない安月給で東京専門学校の講師になったのは、もとより大隈や小野の信頼に応えたためであり、政治学校創設の希望に燃えていたからであったろうが、他面、国政参与の機会を大いに期待していたことを看過することはできないだろう。

大同団結一覧)

(指原安三編『明治政史』下篇七一頁)

 ところで既に帝国憲法は発布された。こうなると、先に政党解体により殆ど自滅の形になった政党運動も、総選挙と議会開設、条約改正と地租軽減、それに言論の自由獲得の三大懸案解決のため、にわかに活気を呈し、群小党派が名告りを挙げ、各地に演説会を開いて大いに気勢を示した。そのうちでも改進党は、十七年暮に大隈総理、河野副総理の表面上の脱党に遭い、また幾多の闘士の死去、離脱に遭遇したが、しかもなお大隈はひそかに資金を送り、これを援護したから、有力な結社としてよく命脈を保ち、全国各所に転戦して党勢の拡張に努めた。しかし立候補者にその人を得なければ、記念すべき第一回議会の権威を傷つけることになる。識者の関心もまさにこの点にあった。この点本校の講師であるとともに『読売新聞』の主幹を兼務していた高田早苗は、二十年一月二十日号の『読売新聞』の「読売雑譚」中に、いみじくも「国会」について論じ、

此の国の人民たる者、憲法を制定し国会を開設するの労は設令政府に委任するも、英雄と豪傑と学者と人才とを国会に出すことは、明治廿年の今日頃日より心掛るこそ極はめて必要なる可し。

と喝破している。かくしていよいよ総選挙が行われ、二十三年七月一日より三日間に亘って執行された結果、第一回衆議院議員に当選した者の数、定員三百の所属政党派は次のようであったという。

中立派六九名 大同倶楽部五五名 立憲改進党四六名 愛国公党三五名 保守党二二名 九州進歩党二一名 自由党一六名 自治党一七名 官吏一八名 不明二 合計三〇〇名 (『日本民権発達史』第一巻 一四四頁)

しかし合計数が実際は三百名を超しているのによっても知られるように、この時の統計は不正確で、一人で二選挙区で当選した者もあり、また吏党・民党の勢力分野は必ずしもこの数字の通りではなく、例えば政府に関係ある『東京新報』は政府与党を過大に算え、立憲改進党に属する『報知新聞』はこの逆をとり、各々己れに有利な数を算定した。中立を標榜する『時事新報』は民党優勢と報じ、輿論も大体これを支持したようであったが、民党間の大同団結は必ずしも期し難いものがあった。しかし何れにしても、国民の審判によってこのように政党の色分けができた。

 総選挙までに学苑と密接な関係があり、この栄誉ある第一回総選挙に当選し、議政壇上で活躍することになった者は、左の十名であった(役職名は明治二十三年十二月調『第五回報告校友会名簿』による)。

藤田茂吉(東京四区 改進党 評議員)

島田三郎(神奈川一区 改進党 評議員)

高田早苗(埼玉二区 改進党 評議員、幹事、講師)

堀越寛介(埼玉四区 自由党 二十二年邦語政治科卒)

岡山兼吉(静岡三区 改進党 元講師)

磯部四郎(富山一区 自由党 講師)

犬養毅(岡山三区 中立派 評議員)

三崎亀之助(香川四区 自由党 元講師)

天野為之(佐賀二区 改進党 評議員、講師)

関直彦(和歌山三区 自治党 講師)

この中、堀越寛介は卒業の翌年に当選したのだから、本校出身代議士の第一号である。堀越は安政六年の生れで、同じく当選した高田や天野よりは一、二歳年長で、この時満三十一歳であった。摂提子編『帝国議会議員候補者列伝』によると、北埼玉郡の代々の農家に生れ、自由党員として民権運動に活躍した。二十五歳の時、埼玉県会議員となったが、のち東京専門学校に入学し政治学を学んだという(六九二―六九四頁)。

 なお衆議院議員選挙に前後して、六月十日に貴族院多額納税議員が各府県より一名ずつ互選され、七月十日には貴族院伯子男爵議員互選があり、更に九月三十日に貴族院勅選議員が誕生した。この中、貴族院伯子男爵議員には堀越と同級の舟橋遂賢(二十二年邦語政治科卒)が子爵として当選した。

 だが、第一回総選挙に立候補しながらこの選に漏れた本校関係者は、渋沢栄一、辰巳小次郎、肥塚竜、首藤陸三、宇川盛三郎、平沼専蔵、鳩山和夫砂川雄峻、波多野伝三郎、小鷹狩元凱、市島謙吉、加藤政之助の十二名にも上った。