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第三編 東京専門学校時代後期

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第三章 文学科の誕生

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一 嵐に咲く花

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 もし専門学校時代における「拡充」の最大なるものと言えば、文学科の創設に如くはない。しかもこれは修飾して言えば、まさに「嵐に咲く花」と呼ぶのがふさわしいであろう。明治二十三年五月三十日の臨時評議員会においてその議を決し、秋の九月から始まる新学期から文学科は開講した。そもそもこれは如何なる時代であったことか。去年(明治二十二年)は、天下待望の帝国憲法が紀元節に発布せられた年、森有礼は暴漢の兇刃に倒れて、我が憲政の首途を文字通り鮮血に染めた。彼は教育行政の最高長官・文部大臣であったのだ。越えて秋十月には、第一章に詳述した如く、条約改正に一身を挺した大隈重信が、発明されて実効の歴史の未だ乏しい爆弾に隻脚を吹き飛ばされた事件が、天下を衝撃した。文学科はその一年後に開講せられたのだ。そして翌二十四年は、後述するロシア皇太子遭難の湖南事件があり、その後の閣内の対立、更に民党が予算大削減を可決するに及んで、年末議会は解散せられ、蛮骨内相品川弥二郎の下に空前の選挙干渉が行われた選挙運動期間中の翌二十五年二月十日、第六章に詳述するように、天野為之は郷里佐賀にて反対党壮士の襲撃を受けて袋叩きに遭い、更にこれまた同じ章で説述するが、五月三十日、高田早苗は議会に向う途次、背後から暴漢に斬りつけられて深傷を負うた。この二人は坪内と並んで、後に三尊と言われた早稲田学苑の柱石ではないか。かかる時勢に開講した文学科に「嵐に咲く花」を連想するのは無理ではあるまい。

 更に微妙な興味を覚えるのは、文学科の開講と殆ど時を同じうして、と言うよりそれに先んじて、東京専門学校の校長が、先に述べたように前島密から鳩山和夫に更迭していることである。往く前島は暫く関係なしとして、新任者の鳩山は、前述の如く、東京大学開校前の留学生で、渡米してコロンビアとエール両大学に学び、五年留学の間に三つの学位を取って来たというので、世を驚かせた博学者である。しかし自分では、こうも述べている。

其頃から其後も幾度も勉めてみても、どうしてもいかぬことは詩です。テニソン、エマルソンと言ふ様な詩人の詩を見て、どうか詩の思想を発達せしめやうと思ふても、どうしても分らぬ、僕の頭には詩の考へがないと見える、判決例で頭を拵へたものであるから、論理のないことは分らぬ、興味がない。余程勉強して暇を費してテニソンなどを読んで見たが、面白いといふ考へがどうしても起らぬ。 (『太陽』明治三十二年六月十五日発行臨時増刊第五巻第一三号「明治十二傑」 一二五頁)

まことに正直な、そして珍しい強度の詩の不感症であるが、その新校長就任と同時に出発した文学科が、彼の在任中に隆々として予想外の発展をなし、在来、政治科が学苑の心臓をなした地位に取って代って、早稲田と言えば「文科」、「文科」と言えば早稲田が思い浮かべられるほどの情勢になってきた。東大に政治学科ができたのは日露戦争後であるから、これは比較のしようもないが、この文学科は東大をして、後進且つ私立の早稲田を顧慮し、早稲田に倣わしめた点さえある。現にシェイクスピア講座は東大になく、文科大学長井上哲次郎が坪内雄蔵に交渉してきたが、これを拒絶したという話で、ホートンが去って以来、夏目漱石が留学から帰国するまで、約二十年これを欠いたのである。また『帝国文学』が『早稲田文学』に倣って発行されたのだと言えば語弊もあろうが、それとの若干の対抗意識において刊行せられたのは否定できない。そうかと思えば、東大文科をして真に光彩あらしめたラフカディオ・ヘルンを、英文学ばかり講義して英語を講義せぬという理由で、東大が解雇したのを、早稲田は学生の発意によってこれを喜び迎えたという逆縁もある。内田魯庵が「三田の理財科と早稲田の文科は東大を凌ぐ」と嘆賞するまでに成長したのは、実に、詩に無縁を白状している鳩山校長の下であったのは、まことに奇中の奇ではないか。或いは、彼は特に文学科のことには一切口出しをせず、当事者(主として坪内)のなすがままに、自由に手腕を揮わしめたから、この好結果をもたらしたのだとも言えよう。

 文学科を置くこと、必ずしも早稲田に始まらない。唯一の官立東京大学は、創立の初めから文学部を置いたが、理学部や法学部に対して政治・経済・外交など国政に関する諸学科を主としたもので、和漢文学科の創設によって国文学と漢文学との復興は実現したが、シェイクスピア、ミルトンその他の英文学の授業があることはあっても、一般教養の一部であったに過ぎない。明治二十七年の高等学校令による高等学校は、第一部を法科・文科として、英・独・仏の諸法、和・漢・洋の文学、哲学、歴史、言語学などの専攻志望者一切を、第二部の理科・工科・農科および第三部の医科の志望者と区別して包容したが、第一部は東京大学時代の文・法学部の遺産的分類に依ったのだと言える。 我が東京専門学校に開設された文学科は、このような広義の文科ではなく、「文芸科」を主眼とし、教えるということよりも、創作・批評・研究などの学生の自己欲求に根ざしたものである。春城市島謙吉が次のように語っているのは、この点を最も明確にした一文である。

我国に於ける純粋の文科はこれが嚆矢である。東京大学の其頃の文学科は政治、経済、史学、哲学を主としたのであつたからである。全体一学科を開くことは決して容易の業で無い。経費其他の上から見て、当時まだ我校に余裕などの無つた頃に此一科を開き得たのは、意外の大発展と云はねばならぬ。此学科の創唱者は言ふまでもなく坪内博士である。君は早稲田に此学科をひらく使命を帯びて来り投じたとも言ふべき人ではあるが、此科を開くまでは普通の講師であつた。当時政治科にも法律科にもいくらか文学趣味の教課書を採用してをり、坪内君も英文訳読の師として其幾分を受持つてゐたが、其中の最高尚な教課書であつた「マクベス」を担当してゐたのは高田博士であつた。乃ち早稲田の教場で最も早くセークスピヤを教へた人は高田君であつた。坪内君は学校の創立の翌年に来り投ぜられた人で、訳読以外の受持は西洋史、英国憲法史、社会進化論等で、就中西洋史には尤も念が入つた。西洋の歴史は何人が講じても学生の倦怠を生ずるのが常であるのに、坪内君独特の講義振は宛がら講談を聞くやうに興味があつたので、学生は皆喜んで之れを聴いた。或学期間はスヰントンやフイツシヤの西洋史をテキストにして英文訳読兼帯に講授したこともあつたらしい。それが最も君の長所を発揮したものであつたといふ。バヂオツトの英国憲法論の訳講は取りわけ得意らしかつた。 (『随筆早稲田』 三五―三六頁)

 これに雁行するかのようにして、文学科を設置する機運が都下諸方の学校に生じた。『早稲田文学』は報じている。

文学を教授する学校尠からざる中に、明治廿三年間に起これるもの四、曰はく慶応義塾文学部、曰はく東京文学院、曰はく東京専門学校文学科、曰はく国学院これなり。……慶応義塾文学部は英語を本とし、独乙語に羅甸、希臘の古語を加へ、助くるに文学に関係ある諸科学、幷に和漢の文学を以てし、文学院は和漢英の文学を教ふる事割合に少なく、寧ろ哲学、政治学等に傾ける、宛然帝国大学が東京大学と称せし頃の文学部にも似たり。専門学校は和漢洋三文学の精神的調和を図り、国学院は国史、国文を基として、傍これが研究応用に欠くべからざる支那、西洋の学問をも合はせ授く。これ上の四校に於ける教課の大要なり。 (『早稲田文学』明治二十六年二月発行第三四号「文界現象」 七七頁)

早稲田が志した文学と他学校のそれとの間に径庭のあったこと、これを見ただけでも明らかであろう。

二 坪内逍遙

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 新設文学科の中心は坪内雄蔵である。彼の文勲については、世間広くこれを知り、そのシェイクスピア研究家としての名声は遠く欧米にまで伝わっているが、彼の広汎な仕事の半ばは早稲田学苑と直接関係がないため、克明に一々詳記することは控える。概説して、彼より勝れた作家・批評家はある。しかし文学教育家、文壇開導者としての彼の巨大なる遺業に対しては、その半ばにだに及ぶ者はない。しかし、振返って思えば、彼の晩年の文化的巨像を夙に予想した者が一人でもあったろうか。往年の大学における同級生は、多く皆早く物故したが、もし草葉の陰にこの結果を聞いたら、「あの坪内がそんなド偉い者になったのか?!」と事の意外に驚いたであろう。

 愛知英語学校から東京大学に入った彼は、最も異彩に乏しい学生で、「いつも酔ったようにのらくらしていたので」(自談)仲間中からunprincipledと酷評され、小柄でどこかに稚気を残しているので、高田早苗より一歳年上でありながら、いつも「坪さん」と親狎され、弟視されて甘んじていた。特長は、一度物に凝り出すと、スッポンが食いついたように、いつまでも取りついてやめぬことで、英語学校時代は名古屋にあった大惣という全国的知名の貸本屋の倉庫の蔵書を根気よく全部読んで、江戸時代の戯作草双紙に通ずることは東京大学へ来ても学内第一、馬琴の『八犬伝』は六十二回通読したという評判だったが、学生としては冴えず、小野梓邸に集まる鷗渡会の同志からは除かれている。英語力が劣り、ホートン教授の試験問題に課された王妃ガートルード(ハムレットの母)のcharacterの語義が人物の「性格」であるのを道徳上の「品性」と間違えて悪い点をつけられ、フェノロサの政治学は半分ぐらいしか聞きとれず、ために落第した。

 同級生がこぞって、小野に率いられて、大隈の下に改進党員となり、東京専門学校の設立に参画しているのに、彼は原級に留まって仲間より卒業が一年遅れた。さすがに官僚の走狗となるには甘んぜず、「野に在つて民権にても張らんとの志ある人は、唯坪内雄蔵氏一名なりと聞く。」と『郵便報知新聞』(明治十六年九月一日号)が報じている。或いは他の官庁が彼のみは劣等生として指目しなかったのではないかと、受け取れないこともない。

 そして高田に迎えられて東京専門学校講師となったが、別に学問識見の他に勝れたものがあるでなく、ただ講義の仕方が面白くて、バジョットの『憲法論』も立板に水の流るる如く、弁じ来たり、弁じ去り、西洋史は殊に得意で軍談を聞くが如く人を飽かしめず、無味乾燥なる論理学もLewis Carroll, The Game of Logic,1887なる有名な童話作家の著書を教科書に用いて、軽妙の諧謔、意想外の比喩に、全教室の頤を解かせるので、人気はあった。しかし決して尊敬される教師ではなかった。

 その頃は高田早苗の誘導に待つこと多く、時々、名論卓説を吐いて、満座の学生を感心させることがあっても、後で「ありゃあ、おおかた高田から教えられてきたんだよ。」と陰口をきいたものだったとは、当時の学生だった木下尚江の直話である。そのくらいだから、晩年の高田早苗市島謙吉を除けば、坪内に関する思い出を語っている鷗渡会員は、絶無ではないとしてもきわめて稀である。

 政治経済学科や法律学科の教師としては常凡の域を出でぬ坪内講師も、何らかの取柄はないでなく、学校を離れて、小野梓経営の書肆東洋館の嘱によって完成したシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の訳は、時勢に応じて政治的色彩を濃くし、読者の理解に資するため浄瑠璃体のト書きを縦横に入れ、『自由太刀余波鋭鋒一名該撒奇談』というその時勢相応の題で刊行された(明治十七年)ので、誰しも勝手気ままに舞文曲筆されたいわゆる「豪傑訳」と思うだろう。しかし科白に当る原文は一字一句の増減もなく、正確適切な精密訳で、語を換えて言えば、日本文壇はこれによって初めてシェイクスピアの訳書を持ったと言えるのだ。後年島崎藤村が『文学界』に初めて発表した三編の戯曲習作は、これを模倣した跡が歴然としている。また新作小説『一読三歎当世書生気質』とその理論なる『小説神髄』は同時に明治十八―十九年世に出でて、まさに明治新文学の暁の鐘をついた、いわゆる隻手に一代の風潮を一転せしめたものだが、しかしその影響を受けて台頭した硯友社は、山田美妙、尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華、別派の正岡子規など悉く、東京大学の中途退学者でなくば、内田不知庵(後の魯庵)、徳富蘆花などキリスト教会の出入者で、膝下の東京専門学校では、この文壇の新現象の影響は、友人高田早苗が批評した以外、学内に殆ど認められなかったのは、特に注目しておかねばならぬ。とはいえ、文芸教育の淵源たる文学科設置の機運が、この作が一世を騒がせてから三、五年の後、やはり早稲田に起ったのは、当然と言えば当然である。

 尤も、坪内の講義ぶりがどんなに魅力のあるものであったにせよ、所詮政治科や法律科は文学科の苗圃にはなり得なかった。もし強いて苗圃を学内に求めるとすれば、英学科が脳裡に浮かんでくる。これまで縷説したように、英学科は政・法両学科生徒の兼修を目的として創設され、やがて「普通学」の教授を目的とする専修英学科が派生し、英学本科を経て、二十一年の大改正に際して、英語普通科と改称してはっきりと「英語専門科」の予備門と規定されるのであるが、兼修英学科は勿論のこと、専修科・本科・普通科のいずれにあっても、「専門の学科を修むる時に力になる」ことが本来の目的であり、制度的には、後の教育学部や文学部がこれを基盤として誕生したとは言い得ない。ただ、鶯の巣から杜鵑が孵い出したに比較していいか悪いか、英学科、特に英語普通科の生徒が、恐らく学校当局者には夢想もした者のあるまい日本最初の文芸的、或いは芸術的文学科創設と切っても切れない関係を持ったのを、無視するわけにはいかないのである。

三 私宅で教えた「沙翁連」

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 坪内雄蔵の明治二十三年一月十八日の『日記』(『坪内逍遙研究資料』昭和四十六年十二月発行第三集)に、

専門学校行。二時間をしへ帰る。午後前田〔林外〕、桂〔湖村〕、紀〔淑雄〕、金子〔馬治〕の四生来る。いろいろ文学の話をし、ハムレツトを講ず。主にハンタルとロルフの註釈に因りて。 (七三頁)

とある。また、同年三月十五日の条に言う。

午後、沙翁連来る。大にhuman destinyの義を講じ、文学者の目的に及ぶ。 (同誌同集 九〇頁)

この「沙翁連」については、後日の回想に更に詳しく語っている。

金子、紀の両君は、英語科の生徒か何かであつたので〔正しくは英語普通科〕、其以前〔二十三年文学科創設以前〕から、私がまだ真砂町〔本郷区〕にゐた比にさへ、一、二度訪ねて来られたことがあつたやうに憶ふ。文科が出来てからは〔前引の日記に見てもこれは「文科が出来る前から」と訂正せられなければならない〕宅で、金子、紀二君の外、前記の人々〔常連としては詩人の前田林外、漢学で聞えた桂湖村、江戸文学の水谷不倒、鈴木幾次郎、奥泰資〕のために、日を定めて、座談式に文学を講じ、同時にシェークスピヤの講義をした。私がシェークスピヤの講義をしたのは、此時が初めである。註釈書はハンターとロルフしか手許になかつた。『ハムレット』が最初のテキストであつた筈だ。 (『柿の蔕』 一六三頁)

 坪内は、これらの「沙翁連」に、ダウデンやモートンの説を引いて、主観批評から離れた客観的、解釈的、帰納的な新批評法を叩き込み、特にシェイクスピアに対してダウデンの用いた様式を真似ながら、しかしまだシェイクスピアを批評するところまでは行かぬので、試みに近松に適用させてみた。まだ近松の新版本の刊行せられておらぬ初期のこととて、元版の浄瑠璃本を、饗庭与三郎(篁村)から借り出して来て、写させたり研究させたりする熱心さであった。彼らは腕の鳴る思いをし、『葛の葉』と題する肉筆雑誌を興して、批評、感想、伝記、雑録、新体詩など思い思いに稿を寄せた。水谷弓彦(不倒)は八文字屋めいた小説を書いたが、思うに早稲田の学生で小説を書いたのは、記録に残っている限りでは、これが最初であろう。桂五十郎(湖村)は入学の前から漢学の大家だったが、この時は畑違いの雅文を寄せ、さすがに堂に入ったもので、和学の素養も並々ならぬのに同輩は皆舌を巻いた。なお『葛の葉』(或いはその頃の酒落気分から葛に屑をきかせたのであるかもしれぬ)は第七号から『延葛集』と改題した。この方は坪内の幼時から頭に染み込んでいた『詩経』に出でた言葉で、通計して十五号まで続き、二十四年に創刊の『早稲田文学』がこれを拡大継承することになる。

 思えば後年の鬱然たる早稲田の大文科も、源流を訪ねれば、坪内私宅に英語普通科生中の数名が寄って、膝下に親しく文学談を聞いたのに始まり、明治の文運開発指導に最大の役割を演じた『早稲田文学』も、同人がひそかに手習草紙をした肉筆雑誌に始まるのだ。

四 和・漢・洋三文学の調和

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 先に坪内雄蔵は、八宗兼学式に何でもそつなく講義して、結構面白く聞かせるユーティリティ・レクチュアラーではあっても、どこか軽浮の風があって、学生から軽んぜられていたと記したが、明治二十年を越えると、彼も依然たる呉下の阿蒙ではない。

 『当世書生気質』の作者、『小説神髄』の著者として、今や盛名一世を被う文壇最高の大家で、もう戯作者式な春廼舎朧から次第に脱却して、坪内逍遙に生れ代り、時に同音の小羊の雅号も併用した。盛名のもと、依田学海、饗庭篁村の如き大先輩の碩儒大家とも往訪すれば、二葉亭四迷、嵯峨の屋お室、山田美妙の如き新進の文学志望者も門を叩き、殊に彼が読売新聞の社員に聘せられ『壱円紙幣物語』以下の名作を続々と載せて、ただに文学者ばかりでなく、一般の大衆読者や婦女幼童に至るまで、人気が湧いてくると、私宅に来る僅か数人の学生にその座談もしくは講義を独占させておくのは勿体ない、多少危険ではあるが、いっそ文学科を新設してみたらと、学校当局が考え出したのは当然であろう。

 しかし商家が店輔を拡げて、新しい品物を扱うのとは異る。苟も一学府が新学科を増設するには、それにふさわしい主張がなくてはならない。東京専門学校の興る時の標語は「学問の独立」で、これは堂々としてまことに申し分ない。文学科は一学科だから規模においては小さくても、少くともそれに相呼応して、劣るところのない目標がいる。新しき文学科は、何を理想とし、何を旗幟として掲げるのか。

 折から明治の新文学は勃然と興隆の機運に差し掛かっている。坪内逍遙は隻手にその風雲を呼び起した指導者である。「何と云つても坪内氏中心の観が有る。全く氏の功績を其筆頭に置かねばならぬことは、苟も当時を朧気にも知つてゐる者の異論の無いところで有らう。」(『早稲田文学』大正十四年六月発行第二三二号四頁)とは、後に幸田露伴も回顧談で言っているところだ。

 従って新興日本文学創成のためとか、或いはそれに類するハイ・サウンディングの目標を掲げるのなら分る。ところが、それが「三文学の調和」というに至っては、今日からしてやや意外の観なきを得ない。今『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』を見ると、次の記事がある。

明治二十二年帝国憲法の発布あり。尋いで又た民法、商法等の新法典成りぬ。是に於いて帝国の法制は、稍々完備せんとするの運に向へり。此の際東京専門学校は、各学部殊に法律科の課目に刷新を加へ、以て時運に副はんことを力めたり。是れより先き講師坪内雄蔵氏時文の紛乱を慨し、之を医するの道は和、漢、洋三文学の形式と精神とを兼修せしめて、調和に媒するより善きはなしと思惟したりしが、此の年〔明治二十三年〕九月他の校員と図つて文学部を創設し、其の所期を試むるの端を開けり。 (一三九頁)

 憲法が発布され、民法・商法の改正に伴って政治科・法律科に刷新の必要があったというのは分る。しかし文体が混乱甚だしいから、和・漢・洋の文学の調和を計るため、新たに文学科を創設する必要があると言っても、それがどこかの青年の心境に訴える魅力があるであろうか。今日、文部省が何十年の問国語審議会を設けて討論しても、日本語の混乱が救えないからと言って、そのために、一学科を新設するというのに似ている。

 具体的に分類すれば当時の日本文の文体は、『佳人之奇遇』式の漢文直訳体、落合直文の興した和文体、民友社が得意とした洋文脈体の三大派に分れ、人によって細別されて、逍遙調、思軒調、蘇峰調、鷗外調、紅葉調、二葉亭調、露伴調などとも呼ばれていたのを、統合した新文体を求めよう、新文学にはそれが基礎になるという考えなのだ。

 こんなことが新たに文学科を開設する目標になったのかと疑問に思って質すと、晩年の坪内は「今の若い人には想像もつくまいが、我々の若い時は生活苦、貧苦――それに続くものが文体苦だった」と繰り返すのを常とした。爾後、『早稲田文学』に発表せられた「文体の紛乱」という長論文などを見ると、維新の思想大混乱に伴って、文体も収拾のつかない紛雑の状態に陥っている所以を、大所高所から述べて、言うところ一々肯綮に値しなくはないが、何れにしても、今日から考えてみれば、こんな目標でよく学生が集まって来たものだと、いささか不思議なくらいである。 その学生募集広告は、他の政治科・法律科と一緒に先ず二十三年六月十八日の『読売新聞』に現れた。

東京専門学校広告

本校今般新二英語文学科ヲ増設シ、来ル九月ヨリ始業セントス。又法律科ニテハ同月ヨリ主トシテ民法、商法等ノ法典ヲ教授スベシ。来ル七月一日午前九時ヨリ入校試験ヲ執行ス。志願者ハ前日迄ニ申込アルベシ。募集諸科級名左ノ如シ。

政治科 邦語政治科 英語政治科 第一年前期

第一法律科 邦語司法科 英語司法科 第一年前期

第二法律科 邦語行政科 英語行政科 第一年前期

英語文学科 第一年前期

英語普通科 第一、第二、第三年前期

予科 前期

追テ特別認可生タルベキ資格ヲ有スル者モ同時ニ入校ヲ許ス。

規則書希望ノ者ハ二銭郵券送付アルベシ。

東京牛込早稲田 私立東京専門学校

 なお同文の広告が六月二十日、二十一日、二十三日の『官報』にも掲載せられているところを見ると、当初は文科でも文学科でもなく、「英語文学科」として、世に現れたことが分る。すなわち、英語政治科、英語法律科と同列のいわゆる「英語専門科」の一つとして設置されたのであって、文学科には「邦語専門科」を置くことは考えられなかったものと思われる。和・漢・洋三文学の調和と言っても、和学は自国語だし、漢学は都鄙を通じて十分以上に叩き込まれて来るのに反し、英語の素養は甚だしく幼稚不完全だったから、坪内には、英語を主軸にして、過半の時間をこれに当てようとの腹が初めからあったのであろう。

 入学試験は七月一日に行われた。この日は奇しくも、国民多年願望の衆議院議員の第一回総選挙の日に当っている。果然、日本の新文学教育機関の誕生は、議会政治発足と、その日を同じうするのだ。

 なお八月三十一日の再募集および十月に入ってからの編入試験の広告には単に「文学科」となっているが、「英語文学科」という名称も、創設後二年間ほどは依然として「文学科」とともに学苑当局によって使用されている。最初に入学したのが幾名いたかは明確な記録がないとしても、明治二十六年に第一回卒業生として記録せられている者が二十八名いるから、中途退学者を三分の一か二分の一と見積れば、四十人から五十人前後だったと推定できる。金子、紀、水谷の「沙翁連」を含む英語普通科から入学して来た者が三分の一近くを占めるのを見ても、この英語普通科が実質的には文学科の開設に重要な役割を担ったことは明らかである。九月開講の際の第一年級の講義科目と、担当講師とは次の如くであると、十月五日号の『郵便報知新聞』に広告されている。

何れも当時、盛名の一世を掩うた老儒新進の諸大家で、坪内の眼識に、三文学調和の衝に当るべき最適任者と映ったのである。後世から見ても、この人選は大体当を得ている。

五 初講義の盛況

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 開講の日は、他の政治科・法律科の学生の間でも大評判であった。伝えられるところによると、この二十年代初頭の坪内逍遙は、今で言う一世のスターで、神楽坂を散歩すると、街の両側に並ぶ花柳街では各戸、二階の窓を開いて、歌妓達が「あれが小説家の春のや先生よ」と言って、のぞき見たものだというから、学内の評判もこれに応じ、一体バジョットの『憲法論』などの講義者が、今度文学科を作るというが、どんなことを教えるのだろうという興味で、殊に政治科の学生が大挙して押しかけ、空いた腰掛けはみな塞がり、後の窓際まで犇々と詰めて、立錐の余地もなかったと、誇張だろうが言い残されている。

 坪内は、担当の「英文学史」を講ずるに当って、先ずアングロ・サクソン民族の歴史を略述し、詩祖チョーサーの出現に中心点を置いて、イギリスに新文学・新言語が発生し、そして新しき国民意識が芽生えてきた経過を説明した。学生時代、進文学社を教えた頃から、流暢多趣味だった彼の快弁滔々の講義は、漸くここに円熟して、その説き去り説き来たるや、満堂の学生酔えるが如く、ここに確かに、今まで早稲田にあったものとは別な新しい学問の扉が開けてくるのを感じた。

 当時、各科共同の学生控室に、誰となく、半紙を雑記帳のように綴じたのを備え、各科の学生、思い思いに感想を書き留めるのを例としたが、政治科生が特に感銘を受けること深く、「早稲田の魅力の中心、新しき文学科に移らんとす。カントルベリ・テールズにおさおさ劣るまじき大傑作、文科学生より出でん。」と羨望の気を洩らしているのが後々まで残っており、中桐確太郎により久しく護持せられて、大正二年の創立三十年祭に開いた展覧会に出陳され、大いに珍しがられたことがある。かくて文学科はまさに順風満帆の勢いを以て、前途洋々たる船出をした。