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第三編 東京専門学校時代後期

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第九章 擬国会の由来

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一 その起源

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 擬国会は学苑の行事の華であった。明治三十二年に村松忠雄が上木した『早稲田学風』の資料としての性格については、第十五章に後述するが、その中には「早稲田議会史」と題する章が設けられ、その冒頭で次のように述べられている。

弁論の材能なくして、議院に入るものは、尚ほ武器を擲ち、赤手空拳以て戦場に赴くが如し。今や堂々たる帝国議会は全く暗黒の舞台にして権詐術数は攻防の具となり、亦弁難討議に重きを措かざるに至りぬ。是れ憲法政治の幼稚なる時代に於て、免かるべからざる現象と雖、抑も亦代議士たるものが自己の思想を吐露し得るの材能なきによる。ヂスレリーが咄嗟の弁を揮ふて、ピール内閣を顚覆したる如き、パルマルストーンが一夕の演説を以て、孤城落日の勢力を挽回せる如き、グラッドストンがFrom dusk to dawnの熱心を以て、自治案の演説をなせしが如き、是れ東京専門学生が理想せる所、否な東京専門学校が完全なる立憲国民を養成せんと云ふも、其標準を此辺に取れるものの如し。摸擬国会を催すも蓋し是れが為めならん。摸擬国会は、之を早稲田議会と称し、法律、財政、外交等の政治問題を、学理上より討論するものにして、議院の規則及び組織より万般の体裁は英国の庶民院に則れり。其開会の時は貴衆両議院の議員、大学教授及び当日議案に精通する各省の官吏等をも聘し、或は議員たらしめ、或は政府委員たらしめ、互に弁難攻撃して、学理上のみならず、実際上よりも、詳かに研究するものなり。学生は皆数日前より、或は図書館に入りて、或は専門の講師に就きて調査を遂げし結果、質問を放ち、修正案を提出し、反対演説をなし、或は緊急動議を以て日程を変更し、弾劾の上奏案を提出する等、其調査の精密なる、其議事に精通する、頗る見るべきものあり。而してピットを以て任じ、ボルクを以て任じ、パーネルを気取り、各議員徽章を帯びて、庶民院内に角逐する処、如何にも無邪気にして、又一種愛すべきの意気を見るべし。 (七四―七六頁)

 前編第十四章に掲げた明治二十一年六月課程表には、政治科第三年前期に「国会法」の講義が新設され、それと並んで同科第三年前・後期に隔週一回の「国会法演習」が置かれている。議会開設を二年後に控えたこの時期にあって、学苑がこれらの科目を設置したことは、高田の強い主張に基づくものと考えられるが、学苑の特色を遺憾なく発揮した、まさに特筆すべき新機軸であったに違いない。それ以前の学科配当にも、「会議討論」が見られた例がないわけではないが、それと「国会法演習」とを同一視することは、不適当であろう。この両科目の中「国会法」の方は、恐らく高田が担当したと推定されるにも拘らず、早くも翌二十二年の学科配当には、他科目中に吸収された結果であろうが、独立の科目としては姿を消しているけれども、「国会法演習」は、「国会演習」と名称を変更した(ただし二十三年のみは再び「国会法演習」と記されている)ものの、東京専門学校時代を通じて、また大学に昇格後もかなり長く、政治科において異彩を放つ科目として、衆目を集めたのであった。

 それならば、この「国会法演習」では、どのような内容の授業が行われたのであろうか。幸いに『専門学会雑誌』第二号(明治二十一年十一月発行)には、「国会法演習討論筆記」と題して、詳細に記録されているから、以下に転載しておこう。

東京専門学校の国会法演習第一回は、去十月三十一日同校第四講堂に於て開会せり。当日出席者は正員二十一名(政学部三年生)、外に客員として政学部一、二年生合計五十余名なりし。尤も当時同校の教課たる国会法は撰挙の手続を講授中なれば、未だ其議事の如きは完然に国会法によること能はざるを以て、仮りに簡単の手続により討論をなすこととなりたり。講師高田早苗君も出席せられ、午後一時十五分各員着席。第一議案提出者山口良三氏が其説明をなし、二、三の質問ありて議事に取掛れり。

第一議案 議員任期中財産上ノ資格ヲ失ヒタル時尚期限間勤続シ得ルヤ否ヤ 発論者 山口良三

発論者并に賛成論者の弁論要旨

本案を議するに先ち、第一に仮定せざる可からざるは、議員たるの資格に財産上の制限を置くの必用あるや否やは、今日の問題にあらざること是なり。既に財産上の制限は必要なるものと認定したる上にて、中途財産資格を失ふたるとき、猶ほ勤続し得るや否やの問題なり。故に若し反対論者にして、財産上の資格必要ならずと云ふ精神より此問題を討議することあらば、余輩は之れを題意を誤解したるものと云はざるべからず。扨て本案の第一疑問は、既得権なりや否やの問題なり。反対論者或は、一たび挙げられて議員となるときは、定まりたる任期間就職し得るは之れ則ち議員の既得権なり、如何なる事情あるも之れを犯すこと能はずと云ふ者あらん。然れども、議員就職の権利は、資格の制限ある場合条件付きの権利にして、既得権とは云ひ難かるべし。例之ば、横浜港に碇泊せる軍艦と特約を結び、同港に碇泊中は需用の薪炭を供すべしと云ふときは、若しも同船が同港を解纜するときは、同艦が有せし権利は自然に消滅すると均しく、此の場合に於ても、幾干の財産あればこそ、議員たるを得るなれ、則ち条件付きの権利なれば、之を失ひたると同時に、議員たるの権を失ふべきは明瞭なる事実なり。以上は法律上より論じたるなり。次に実際上の利害より論ずるも、元来財産上の制限を設けたる重なる理由は、財産を有するものは、其国会議場に於て、発論討議すること直接に自家の頭上に関係するを以て、自然議事に親切なるべしとのことに外ならじ。果して然らば、一朝財産上の資格を失ふときは、此理由を失ふ者故、直ちに改撰の必要あるなり。即ち本案にては、勤続し得るや否なりとするの論旨なり。(発論者及藤田達芳、中津海知幾の諸氏)

法律の制定と法律の解釈とは区別せざる可からず。法律の制定には人民の利害を標準とせざる可からざるは勿論なりと雖、法律の解釈には公平、正当、立法の精神に基く、との三条件を欠く可からず、云々。(越智修吉氏)

財産上の制限は代議士たるに必要なる要素なれば、この要素を欠くと同時に、代議士たるを得ざるは、尚水が酸素と水素より成れるものなれば、其要素の一を欠かば、必ず水の本質を保つ能はざるに均し、云々。(大久保栄作氏)

憲法上にて財産上の制限を定めたる以上は、其資格を失ふと同時に、勤続するの権利なきは無論のことなり。(木檜仙太郎、井上敬文の諸氏)

反対論者の弁論要旨

発論者の所謂財産上の制限は必要なりや否やは、今日の問題にあらずと言へる論旨は、議論の根拠を誤りたるものなり。素と本案を議するには、財産上の制限を設けたる立法上の理由を発見し、之を根拠として、果して其資格を失ふたるときは、議員たるの資格なきものと見做すや否やと、演繹せざる可からず。然らば、即議員の資格に財産上の制限を設くるの理由は如何と言ふに、一般今日の学説にては、この制限は不必用なりと言ふを躕躇せざる可し。然れ共辛らうじて其理由とする点を見出さんには、議院に出る間は、自分の費用たる可しと言へる主旨に外ならざる可し。思ふに、今日の欧米諸国に於けるこの制限如何を調ぶるに、概して費用自弁と言へる裏面の制限は之あるも、正面の制限を立るの国なし。斯の如く財産上の制限を設るの理由は、議員たる問の費用自弁と言へる論旨より出でたりとせば、この議員たるに足る充分の財産なき人物は、到底議員に撰出せらるる能はず。従て議員に撰出せられたる上にても、中途其財産を失ひたるに際し、将来議員たる資格を継続するに足らずと信ずれば、自ら辞職するなる可し。故らに議員たるの資格を失ひたるものなりとて、之を辞職せしむるを要せざるなり、云々。(伊藤長夫氏)

発論者が第二の論拠とせる財産上の資格を失はば直ちに議事に不親切となり、議場を乱すが如き憂慮なし。苟も国会議員たる以上は、尋常普通人民より一層高尚なる教育を受け、優等なる智識を有するものなれば、かかる心配は毛頭之なきなり、云々。(酒井常次郎氏)

発論者の論旨は、尚金主義に出でたるものなり。政治は富者の為、財産家の為に行ふものにあらず。政府もし富者を望めば、何ぞ必ずしも区々たる手続によつて、国会議員を撰出するを要せん。貴族なり、豪族なりを召集して、以て満足すべきなり。然るに議員に財産上の制限を設けたるの理由は、全く其智識(教育、経験)の標準となすの所以に外ならず。況んや斯の如く、其資格を失ふ毎に改選を必要とすれば、其手続の煩雑に忍びざるに至る。故に実際之が為に不都合を生ずるの恐なき以上は、期限間は勤続せしめて可なり、云々。(野尻太三郎、並木覚太郎、早川寛次の諸氏)

財産制限論者の旨とする処は、之を以て(第一)租税の標準(第二)智識の標準となせるが如し。然るに忍苦平等の原則より、今日千円の収入あるものが、十円の地租を収むるも、百円の収入あるものが、一円の地租を収むるも、其負担の忍苦は寧ろ同等のものなり。否、却て後者の忍苦は、前者よりは割合に大なるが如し。故に論者の所謂財産を減ずれば、利害の関係を異にし、議事に不親切なりとは、取るに足らざる議論なり。又第二の妄なることは他論者已に之を云へり、云々。(野村楠六氏)

其他数氏の弁論ありしも、大抵前説と大同小異なれば、之を略す。議論略尽きたるを以て、議長より可否を起立に問ひしに、三名に対する十五名の多数を以て、反対論者、即継続するを得ると言へる議論、勝を制したり。右終て、高田講師が本案に就ての意見を述べられたり。其要旨は左の如し。

予は本問題に関しては、特に取調べたることなければ、詳細なる説明をなすを欲せざれども、兎に角議員たるの資格に財産の制限の不必要なるは、確信する処なり。然れども、こは論題外のことなれば、ここにて論ず可きは、これを必要なりとして既に制定したるものなりと仮定して議論せざる可からず。扨て之を実例に徴するに、殊に英国の例を引証せんに、議員が瘋癲となりたる等の場合に於ては、其事実充分判然たる迄は、議員の資格を失はざるが如し。然れども概して財産上の制限の外、他の場合に於ては、議員たる事実に於て不能力を生ずるを以て、止むを得ず其資格を失はざる可からざるが如き場合多し。これより推理するときは、財産上の制限の如きは、実際上議員たるの事実に於て不能力を生ずるや否やに関係なく、且は立法の精神も余り好ましからぬと言ふ点より推せば、即時資格を失はざるを適当なりと思考す。既に実際上の弊害もなく、加ふるに撰挙者の利益よりするも、一旦信用したる以上は、必ず勤続するを好むなる可し。且又議員に於ても、かく俄かに思想を変ずるの心配なければ、代表の実を失ふが如きことなかる可し。要するに、継続し得ること否なりとするの論者は、法律を殺すの議論なり。之を活用するものと言ふ能はざるなり、云々。

第二議案議員被選挙資格中ニ住居区域制限ヲ置クノ可否 発論者 伊藤長夫

本案発論者は、制限を置くの否なるを主張し、大久保、並木、中津海、越智、井上等の諸氏の賛成論あり。藤田、山口、田手、木檜、早川、鳥井、野村、渡辺等諸氏の反対論あり。甲論乙駁非常の激論ありて、一時は大に会場の沸騰を生じたりしが、最後に英国の決議法により、「アイ[aye]」「ノー[no]」の「ボイス[voice]」を以て可否を決せんとし、議長は発論者に賛成者の多数なるを認めたるも、反対論者の不服より、更に起立に問ひたりしに、十二名に対する十五名の多数を以て、発論者、即住居区域の制限を置くの否なる議論に決し、次に高田講師の演説ありて、閉会せしは午后五時頃なりし。其弁論筆記は余白なければ之を略す。 (『専門学会雑誌』第二号 三二―三五頁)

 以上煩を厭わず、記録の全文を掲載したのは、『早稲田学風』の著者が、この第一回演習を以て、「第一期早稲田議会」と記しているからである。このような命名が、この著者の恣意的なものであるか否かについては、にわかに決定を下し得ないが、もし然りとすれば、賛意を表するのに躊躇せざるを得ない。その内容は文字通り「国会法演習」であり、「擬国会」はおろか、「国会演習」の名にも値しないものであったからである。なお『早稲田大学沿革略』第一には、明治二十四年四月二十二日、二十九日の両日に「第一回国会演習ヲ行フ」と記載してあることを付記しておこう。

 尤も、野間五造(二十二年邦語法律科卒)は、卒業四十年後に、「早稲田議会はかくして起つた」と題する左のような一文を『早稲田学報』(昭和三年二月発行第三九六号)に寄せている。

吾東京専門学校が高田先生等の発意によりスペンサーや、バジヲツトやミル等の所謂"Organization for the parliamentalwork"なる者が如何なる者であるかを実地に演習して見ることになつたのが、慥か明治二十一年の十一月頃であつたと思ふ。其演習当日は講堂の入口に"Moot Parliament"と英語で大書した紙を張つけ、……本校の生徒は勿論五大法律学校からも見学として沢山傍聴に来ると言ふ始末で頗る盛会であつた。……この早稲田の"Moot Parliament"が動機となつて各学校がこぞつて擬国会を行ふやうになり、東京専門学校で経験ある人達に向て其の指導方を申込んで来たので、池田茂、酒巻勇助、木下尚江それに私等といふ連中が夫々手分をしてやり方を教へに行つたものである。後には……市内の各演説ホールで、五大法律学校が合同して大規模の擬国会を催し、これを公開して一般の人々に議会制度を知らしむるに力めた。それで勢ひ前に盛んであつた討論会は"Moot Parliament"にその株を奪はれて了つた。 (二七―二八頁)

 もし、「明治二十一年の十一月頃」というのが同年十月三十一日であるとし、野間の記憶が正確であるとすれば、それは「第一期早稲田議会」の名にふさわしいものであったに違いない。しかし、それにしては、前に引用した、その当時の記録とは、あまりにも差がありすぎるので、野間の記述の信憑性に対しては、いささか首を傾げざるを得ないのである。

 なお、野間は別の機会に、明治二十一年秋、京橋厚生館で、「政府の命で議会制度取調の役目を終へて欧洲より帰朝したる一行六人と、其前年廃滅の運命に置かれてあつた元老院議官を中心として、夫れへ朝野の政客を加へたる大一座を以て、議会制度研究会、即ち公開の擬国会を開設した」際、末松謙澄の依頼により、「其当時早稲田常設擬国会の委員をして居た故米国文学士小倉〔松夫〕と謂ふ校友と、吾輩とが指図役として出張し、……小倉と吾輩とが……議長と書記官長の役目を勤め」たことがあると記している(「法科回顧録」『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻「創立五十周年記念論集」六八頁)が、明治二十一年には、小倉はアメリカ留学中であり、もし小倉が出席したとすれば、二十三年か二十四年でなければならない。また、法律科の野間や小倉が、政治科の正課の演習の委員をしていたというのも、理解に苦しむところであり、或いは政治科の正課としての演習とは別に、法律科の学生も委員をしていたような、学生によって自発的に組織された擬国会が学苑にあったのではないかとさえ考えさせられるが、これは全くの想像に過ぎない。

 さて『専門学会雑誌』の第三号以下には「国会法演習」の題名の下に高田早苗が議事手続について述べているのみで、演習の記録は見られない。第三号(明治二十一年十二月発行)同題の冒頭には、その理由として左の如く説明されており、これによって、第一回の演習の経験が高田を満足させるに至らなかったのを知ることができる。すなわち、

国会法の実地演習に先ち、国会の議事手続を知り、之によつて討論実習せざる可からず。左に掲載する処のものは、東京専門学校講師高田早苗君の同校生徒の国会法演習の際講述せられたる要略にして、以下毎号引続き本誌に掲載し、其終結に及で実地演習の筆記を掲ぐ可し。

国会の議事手続 東京専門学校講師高田早苗君 講述

国会法の手続に従ひ議事の実地演習をなすに当り、直接に適用し得べきものと、実際の国会にあらざれば適用す可からざるものとあり。故に茲には実習討論に的切なるもののみを講じ、直に之を応用するの便となさん。国会の議事手続は、(第一)動議法、(第二)討議法、(第三)決議法の三部に分ち、順次之を説明す可し。 (三二頁)

と記されているが、実際『専門学会雑誌』に掲載されたのは(第一)の動議法だけで、それも第六号で終結している。 我々が「国会演習」についての記事を再び目にするのは、『同攻会雑誌』第二号(明治二十四年四月発行)で、そこには、次のように記されている。

議会演習の準備 東京専門学校の政治科教課中に議会演習の一課あることは、他の諸専門学校にも比類なき特殊の事なるが、実際帝国議会の開設なき以前に在りては、演習を為すにも実地の見聞え乏しきを以て是迄其儘に為り居りしが、帝国議会も既に開会し、講師中代議士として実地を践みたる人も少からねば、愈々本校に於て正式を履みて議会演習を始むる事と為り。

(三三頁)

すなわち、二十二年および二十三年にあっては、学科配当中に記載されながら実施されることのなかった「国会演習」または「国会法演習」が、いよいよ二十四年から、帝国議会の実際を模した早稲田名物の「擬国会」として、発足する運びとなったのである。

二 擬国会の開始

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 明治二十三年七月一日、第一回衆議院議員選挙が行われ、既述の如く本校関係者から高田早苗天野為之をはじめとして、磯部四郎、関直彦、三崎亀之助らが初の議席を占めた。第一回帝国議会は同年十一月二十九日に開かれ、彼らは晴れの開院式に、盛装に威儀を正して参列した。政府も議員もあらかじめ知識を貯えていたというものの、最初の体験であっただけに、国会の運営や議事進行などの不手際は避けられなかったが、高田や天野らにとっては、この体験は貴重なもので、それを基盤として、第一議会閉会の翌月、二十四年四月に、擬国会開催に踏み切ったのである。その音頭を取ったのは、勿論高田早苗であったが、これこそ真の意味において第一回早稲田議会と名付け得べきものであった。

 『同攻会雑誌』第二号に記録されているところによると、二十四年四月八日、演習準備会が先ず新講堂で開かれた。会場には議長席、演壇、書記官長席、政府委員席および議員席が設けられ、議長席には高田早苗、書記官長席には斎藤和太郎、議員席には、邦語および英語政治科第二・第三年の学生一同が着席した。先ず高田は政治科の中に「国会演習」を一教課として設けた経緯を述べた。これに続いて、議長、副議長、全院委員長は議会通りに選出し、政府委員と特別委員とを合して単に立法委員を置くこととし、またやや変則であるが、書記官長および書記官をも公選によるものとし、それより投票に移った。その結果、

が選ばれ、それぞれ受任を承諾した。そこで四月二十二日午後一時からいよいよ第一回擬国会を開会することになり、今回は特に高田議長の発議によって、「衆議院議員選挙法改正案」を議することとし、立法委員は同日までにその改正案を提出するよう求められた。また栃内正六他四名の発議で、「賎業者公権停止建議案」をも併せて議することに定めて閉会した。

 こうして第一回の擬国会が開かれるまでの二週間は、「隙行く駒の足並み」のように、全く短い期間であったが、役員はもとより、学生議員の熱意と期待によって、怠りなく準備が進められ、予定の如く二十二日午後一時から開会されるに至った。当日大講堂がその会場に充てられ、列席議員は邦語・英語政治科第二・第三年生中からおよそ百名、その他傍聴者は各級の学生達で堂に満ち、稀に見る盛況を呈した。かくて高田議長は開会を宣し、先ず第一号議案すなわち「衆議院議員選挙法改正案」の第一読会を開くべき旨を告げ、立法委員中村石郎が説明に当った。その改正案の要点は、

第一 選挙区の拡張

第二 選挙権の拡張

第三 女子に選挙権を与えること

第四 宗教家に被選挙権を与えること

第五 官吏の被選挙権を除くこと

第六 文盲者に選挙権を与えないこと

などである。このうち第三の婦人参政権は、戦後占領軍司令官マッカーサーが幣原首相に対して口頭を以て要求し、昭和二十年十二月十七日「衆議院議員選挙法改正」が公布されてこれが認められたものであるが、それより実に五十五年前、我が学苑の擬国会がこれを取り上げたのは、まさに刮目に値するものと言わなければならない。それはさておき、この議案に対し、菊地虎太郎(反対)、須田栄次(賛成)、南英一(反対)、別宮音五郎(賛成)、中村徳三郎(反対)の代議員が交互に登壇し、口角泡を飛ばして大いに熱弁を揮った。その他にも賛否の発言通告者が少くなかったが、討論終結の動議が提出され、これに対して多数が賛成したので、議長は採決の旨を告げ、「書記官長点呼して黒白球を投ぜしめたるに、其結果は白球十一の多数にて」(『同攻会雑誌』明治二十四年五月発行第三号三二頁)、この議案を第二読会に移すことになった。

 これに続いて、栃内正六提出の第二号議案すなわち「賎業者公権停止建議案」を審議することになった。有賀副議長が高田に代って議長席に着き、「此の演習が永続するように」という意味の希望を述べたのは、擬国会とはいえ、学生に対する教師の立場を示したものと考えられる。

 提案者栃内は左の趣旨の提案理由を説明した。

公娼を認許するは、道徳を破壊し社会腐敗の原因にして、内は士気を挫折し外は国辱を招く。故に識者夙に之を患ひ、廃娼論を唱ふるも、事急激に失するの弊ありて成功せず。若し此等賎業者をして公権を停止せしめば、賎業者たるものは絶へ、従来賎業者たる者も其籍を退くに至らん。

まさに「将を射んと欲すれば馬を射る」類で、これまた半世紀前、我が校の健児が提唱したのである。これに対し、広瀬耕次(反対)、桑島某(賛成)、横沢源三郎(反対)、古川左馬次(賛成)、太田雪松(反対)の討論があり、更に副議長の有賀長文もまた異例の反対討論に加わった結果、採決において反対者が多数を占め、遂に廃案のやむなきに至った。その理由を要約すると、「選挙権のような公権を与えるのも与えないのも職業には関係がなく、身分によるものである。職業は数種を兼ねることができるから、たとえ公権を停止したとしても、表面上は他の職業に転じ、賎業の方を家族の名義に改めておいて、依然として実際には賎業の主人であるならば、何らの効果も期し難い。」というのである(『同攻会雑誌』第三号三二頁)。何れの社会にも抜け道があることを知悉している常識論者の意見である。

 以上第一回の擬国会の模様を詳しく述べたのは、その後の擬国会が殆どこの形式を踏んで行われたからである。

 第二回は一週間後の二十九日午後一時から、同じ大講堂で開会され、今回は高田議長が茨城県下を巡遊していたため、有賀副議長の下で行われている。議案は前回から引き継がれた「選挙法改正案」第二読会で、逐条審議と佐藤毅、牧内元太郎、横沢源三郎らが提出した各条修正案の審議に手間取り、第二号議案の審議に入ることなく閉会した。

 これに続く記録としては、『同攻会雑誌』第九号(明治二十四年十一月発行)に次のような記事が掲載されている。すなわち「国会演習」なる題名の下に、「当校政治科の課目中に国会演習なるものあり。前学年に於ても既に数回開きしことは嘗て本誌に掲載せしが、本学年に入りて其第一回を」云々(二九頁)とあるのがそれである。しかし、前学年の五月以降、予定の如く毎月二回開催されたのか否かは、明らかでない。これは後述する「大演説会」の記事が完全でないのと同様に、紙面の都合か、編集者による何らかの理由によってなされた不備と見てよかろう。このことはその後においても繰り返されているが、それはともかくとして記録に従えば、二十四―二十五年度における第一回の国会演習は、十一月六日午後五時から大講堂楼上で開かれた。出席議員は、邦語・英語政治科二・三年生で、先ず書記官長山沢俊夫が仮議長となり、議長以下の選挙を行った後、左の審議に入った。

一、「議事規則を設くる件」佐藤毅提出建議

否決。ただし、衆議院議事規則を応用することに決定。

二、「愛知岐阜震患救恤義捐金募集の件」栃内正六提出緊急動議

その精神には賛成なるも、本議会の性質上、学校全体に関する事件は審議できないから、別に有志者を発起人として、全校の学生諸君の義捐を仰ぐことに議決して閉会。

この学年の第二回国会演習は十一月二十日開催、議案としては、

一、高等中学校ヲ廃止スルノ可否

二、明治二十四年度予算ニ対スル政府覆牒ノ当否

三、鉄道買上ノ利害如何 (『同攻会雑誌』第九号 三〇頁)

の予告が掲載されているが、それが実施されたとする記録は発見できない。二十五年四月七日開催の国会演習に、右の第一議案が上程されているところから見ると、或いは何らかの事情で中止になったのかもしれぬが、何れにしても、記録上では三ヵ月余の空白を置いて、次回は春季休暇明けに実施されたのである。第二次『中央学術雑誌』第一号(明治二十五年五月発行)によれば、その模様は次の如くである。すなわち四月七日、二・三両年生が議員として出席し、織田一が議長席について議事が進められた。先ず、

一、高等中学校廃止ノ可否

賛成者 永井本六、米良芳毅、増子喜一郎天野為之

反対者 佐藤毅、田村三治、笠原養次郎、桑島蚕造、柏原文太郎

らが交々立って熱弁を揮ったが、結局第一読会を通過した。

二、「農会法案」政府提出

提案理由説明 政府委員井上辰九郎

右は特別委員に付託、委員は議長指名に決し、栃内正六、佐藤毅、柏原文太郎、笠原養次郎、増田義一等五名任命。

四月二十五日には特別委員会が開かれ、次いで、四月二十八日には次回の国会演習が開催された。

議長 天野為之

一、農会法案第一読会

同法修正案の説明 増田義一

改正の要点として政府案は保護干渉的に過ぎるから、これを奨励的に改めることとし、補助金を廃し、会長を置き、農会員の資格を、地価四百円以上を有する者から二百円に引下げ、委員の被選挙権も二十五歳から二十歳に引下げるものとする。これに対し政府委員佐藤毅は原案を支持するとして舌戦を交え、以下永井本六、柏原文太郎、増子喜一郎ら賛成者、笠原養次郎、日野光太郎ら反対者が登壇。論戦後議長採決して、これを第二読会に移すことを可決。

一、緊急動議「勅令第三十八号の取消を政府に求むる建議」増田義一提出

理由説明の大要は、海関税は手数料でなく租税であるから、これを定めた税関規則は法律である。ところが「勅令第三十八号」により、外国博覧会または共進会に出品する物品には輸出入税を課せずという一項を、関税規則中に追加している。これは税率を変更したのと同じ結果となり、政府は行政命令を以て法律を変更したことになって、明らかに違憲である。故に政府に対しそれを取消させ、帝国議会に提出して協賛を求めるよう要求すべきであるという。これに対し笠原養次郎は反対、永井本六は賛成し、いつもながら活発な論陣が展開されたが、結局緊急動議は否決されてしまった。 (五五頁)

 これに続く「国会演習」の記事は、きわめて寥々としていて、年一、二回散見するのが関の山である。すなわち、二十六年十一月一日、二十八年十一月二十九日、二十九年四月二十七日に、それぞれ開催されたという、比較的簡単な記事が残っているが、それ以外に開かれたことがなかったか否かを確言し難い。村松忠雄は二十八年十一月のそれを「第二期早稲田議会」、二十九年四月のそれを「第三期早稲田議会」と呼んでいるが、数え方に理解の困難な点が残るにしても、或いはこの時期になると、漸く擬国会が、学苑の年中行事(年一回か、せいぜい二回開催)として定着したのかもしれない。なお、この頃の記録が不完全なのには、先に述べた理由の他に、もう一つ見逃せない事実があった。すなわち学苑関係誌として、『同攻会雑誌』と『早稲田学報』との間に第二次『中央学術雑誌』や『中央時論』が刊行されたが、編集陣の変化は当然「国会演習」に対する評価の変化を生み、後者の二誌には必ずしも十分に報道されなかったのであろう。ところが『早稲田学報』では、「早稲田記事は、単に紙面の許す限り好意的に掲載する」という、大学と校友とを結ぶ紐帯としての機能強化の編集方針が採られ、従って、「国会演習」に関する記事もまた、後二誌に比較して、その量を増加しているのであった。

三 擬国会の発展

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 村松忠雄は、三十年二月の擬国会を「第四期早稲田議会」と名付けているが、

第一期より第三期まで、議会は頗る不整理にして、僅に政学部の討論場たりしと雖、第四期より以後は、其規模甚だ大にして、貨幣問題と云ひ、民法修正問題と云ひ、地租問題と云ひ、対外国是問題と云ひ、撰挙法改正問題と云ひ、何れも学者、官吏、議員、実業家のみならず、国民の凡てが之を解釈せんと苦み居りし問題なれば、社会の視線悉く集り、数千の都人士をして、車を早稲田の僻境に抂げしめたるは固より故あるなり。 (八二|八三頁)

と、一つの画期をここに求めているのであって、『早稲田学報』の記事を見ても、かなり詳細を極めている。

 先ず三十年三月発行の『早稲田学報』第一号は、前月開催の「早稲田議会」について次のように報じている。

明治三十年二月二十八日午前九時於大講堂

議長 校友前川槇造(鳩山議長遅参の為め代理)

書記官長 田中唯一郎

政府委員 志田〓太郎(司法大臣)、井上辰九郎(大蔵大臣)

議員 政治科学生、(校友)堀越寛介、藤田達芳、小山愛治、並木覚太郎、水谷甚二、松山忠二郎、大谷順作、増田義一、岡田庄四郎、(講師)天野為之松崎蔵之助、(来賓)河島醇、野口褧、阪谷芳郎、桜田助作、町田忠治、松本君平

傍聴者 貴衆両院議員八十余名、一般学生

議案「現行貨幣制度改正建議案」天野為之提出

提案理由として金本位論が説かれたが、これに対する賛成者・反対者は次の通りであった。

賛成者 (金本位論)町田忠治、河島醇、阪谷芳郎

反対者 (銀本位論)桜田助作、小手川豊次郎

 この間、議長は前川から高田早苗市島謙吉と二度交替したが、藤田達芳の動議で読会省略、採決に入り、大多数で本案を可決した。特に注目すべきは、この日多くの国会議員が傍聴に来ていたことで、この時は同年三月二十九日の「貨幣法」公布(施行は同年十月一日)の直前であり、貨幣問題が特に注目されていたからであった。従来の貨幣制度は事実上銀を基礎としていた。しかし、銀の価格変動が激しいので制度維持が困難になったため、二十六年十月に貨幣制度調査会が設置され、同会は二十八年七月に幣制改革の必要を認めて金本位制を採用すべしとの多数意見を報告した。これに対して大蔵当局も大体賛成であり、幣制改革の急務なることを認めながらも、金本位の断行には巨額の金の準備を必要とするため着手には躊躇していたが、ちょうどその最中に日清戦争の結果清国より償金を受領するという好機が至り、漸くこの「貨幣法」によって金本位制を確立することができた。従って、こうした中で錚々たる経済学者を擁している我が学苑より何らかの知識を得んとし、また一般学生を通じて国民の関心度を確かめるための傍聴でもあったろう。

 第二の議案は同日午後二時から審議された。

議長 鳩山和夫

政府委員 穂積陳重(総理大臣)、寺尾亨(司法大臣)、有賀長雄(外務大臣)

議員 学生、(校友)斎藤浪太郎、小山愛治、山田三良

議案「民法第二条修正法律案(外国人は法律又は条約に依り特に認許したる場合に於て私権を享有す)」中井隼太提出

賛成者 斎藤浪太郎

反対者 穂積総理、寺尾司法、有賀外務、山田三良

採決の結果、大多数を以て否決された(一二七―一二八頁)。

 三十年十一月十四日に開かれた国会演習は、初めて「第五期」とはっきり記されているのが注目されるが、擬国会と称するにふさわしい雰囲気であったらしく、『早稲田学報』第九号(明治三十年十一月発行)の記事は、

第五期国会演習を催し、学理上より刻下緊切の増税問題を討議せり。此日校門には高く庶民院の標榜を掲げ、大講堂を議場に充て、議員、大臣、政府委員、書記官、傍聴人の諸席を設け、議員席を急進党、独立党、帝政党に区別し、其整頓せる様、宛然帝国議会に似たり。 (六七頁)

と告げている。当時は松隈内閣時代で、大隈重信は外務大臣の要職に就き、後に農商務大臣をも兼任する実力者であった。そしてその部下には、大隈がかつて総理であった立憲改進党より脱皮した進歩党党員の幹部級が抜擢されていた。ところがその年の十月二十二日の進歩党常議員会は、「内閣改造、経費節減、台湾統治方針変更等」の要求を松方首相に差し出し、拒絶された。そこで同月三十一日の進歩党代議士総会は、遂に松方内閣との提携断絶を決議し、これを首相に通告した。これに対し内閣は、政府と絶縁した進歩党会議に出席したことを理由に、同党出身官吏を矢継ぎ早に懲戒免官処分に付した。この厄に遭った者は、すなわち、外務省参事官尾崎行雄、農商務省商務局長箕浦勝人、同省山林局長志賀重昻、同省鉱山局長肥塚竜らで、農商務次官大石正巳、外務省通商局長高田早苗も辞表を提出したから、大隈の手足は全くもぎとられた形となった。その結果大隈もまた十一月六日、遂に挂冠して野に下った。東京専門学校すなわち大隈学校の学生達は、寧ろこのことを喝采して喜んだであろう。建学の祖は心の故郷に帰り、憧れの講師達が我が手に戻り、明日をも待たずして面晤を得、その謦咳に接することができるからである。内閣何ものぞ、国会いずくにか在る。ただ我らが手に在るのみとの興奮が、血の気の多い学生の中に、竜巻のように沸き起ったであろうことは想像に難くない。時まさによし。十二月二十一日を以て、第十一通常議会が召集されんとしている。これに先立って早稲田国会は、その典型を天下に公示せんとしたのである。既に世には自由党、進歩党、国民協会の三党が存在し、おのおの旗幟を明らかにしている。これに倣い早稲田国会にも、帝政、急進、独立の三党から国会に議員を送り込まなければならない。政党政治を理想とする大隈精神に培われた者の当然採るべき針路であった。

 こうして開催された「第五期早稲田国会」に上程された議案は、「地租改正法案」であった。今その状況を記事に従って要約してみよう。

議長 高田早苗 書記官長 田中唯一郎

帝政党総理 田口卯吉(大蔵大臣)

独立党総理 箕浦勝人

急進党総理 天野為之

参会者 議員、傍聴人とも約千余名

午前九時開会、直ちに書記官長議案朗読

議案「地租改正法案」

第一条 耕地地租は、地価の百分の一個半を以て一年の定率とす。

第二条 石代は、従来の法定価格の二倍とす。

第三条 市街宅地租は、地価の百分の一個半を以て一年の定率とす。

第四条 市街宅地地価は、賃貸価格の四割を引去り、残る六割を五分の利率にて還元したるものとす。

第五条 此法律の施行細則は、大蔵大臣之を定む。

理由 現在の国庫は以て財政の急需に応ずるに足らず。明三十一年度の予算において二千七百万円の歳入不足額を補填せんがためには、本案を提出する亦已むを得ざるなり。すなわち右不足額中一千二百万円は地租増徴額を以て之に充てんとす。

提案理由の説明は、田口大蔵大臣がこれに当って懇切丁寧に説き、更に独立党首藤陸三、急進党小松崎吉雄、同西川光二郎らの質問に対しても、田口蔵相、小山田淑助政務次官が弁明に努めた。しかし各党は矢継ぎ早にその代表を壇上に送っておのおの賛否両論を唱えた。その代表的なものを挙げれば、

賛成 佐藤幸三郎(帝政)その要旨、明治六年地租改正以来交通の便開けて地価騰貴し、穀価変動し、物価もまた外国貿易関係、貨幣制度の改革によって増大しているから増税可。

反対 小松崎吉雄(急進)その要旨、先の地租改正は、測量不完全、土地の等級不平等、石代算定法の不備なるにも拘らず、そのままで増税せんとするのは、租税の原則に反するものであるから不可。

これに対し小山田政府委員が補足説明に立ち、財政の現況よりして地租増徴が適当であり、本案はリカード、ミルらの説に準拠するものであると陳弁した後、休憩となり、午後十二時半に再開された。

議長 鈴木喜三郎(副議長)

修正案提出ならびに説明箕浦勝人(独立党総理)

第一条 地租は地価の千分の八を以て一ヵ年の定率とす。

第二条 地価と称するは、土地の実価を地主より申告し、調査委員の決議を経て確定したるものをいう。

第三条 地価は四分の一以上の変動ありたるとき之を修正す。

賛成 田川大吉郎(帝政)その要旨、建国以来、農は国家の大本、国費の大半は農民の納税によるもの、従って農民は他の商工業者に対し誇りを持つ。しかも明治六年の改正は、徳川時代の曖昧な土地所有権を改め、国民の所有としたのだから、増徴に応ずる義務ありと。

反対 増田義一(急進)その要旨、地価の修正をしないで増税するのは不可。増税の必要があれば、砂糖、酒類などの奢侈物にせよ。平素は民力を休養し、有事の際の公債募集の準備をせよ。

賛成 長田瑛(帝政)その要旨、世界列強に伍して軍備拡張の必要あるならば、この際一挙に大拡張を行え。そのため今後五年間農民が増税に苦しむとも、その後に地租の大軽減をすれば、反って利益がある。

反対 西川光二郎(急進)その要旨、世が文明になるにつれ、地価のみならず諸物価が騰貴するのは通則であるのに、徴税が容易である故に、農民だけに負担を強いるのは不当であるとし、内閣不信任の用意があることをほのめかす。

 そこで伊藤正と小山田とが弁明に努めたが、遂に急進党総理天野為之に止めを刺され、更に学生議員水島安太郎(急進)に追討ちを掛けられて、あわや否決の憂き目を見る瀬戸際まで追込まれた。この時、鈴木議長は突如として議員に総起立を命じ、解散の命が下ったと宣告した。こうしてこの記事は、最後に「早稲田議会は茲に明治三十年十一月十四日午後三時半を以て解散せり。知らず来るべき日比野原の議会は之を以て其運命をトするを得べきや否。」という名文句で結んでいる(『早稲田学報』第九号六七―六九頁)。なおここで興味あるのは、後年内務大臣として敏腕を揮った「腕の喜三郎」が議長を務め、また本擬国会より三年半後、我が国最初の社会民主党設立に与った者の一人であった西川光二郎が反対意見を述べていることである。

 三十一―三十二年度の代表的な早稲田国会は、約三千名を集めた「近事の盛会」であった故であろうか、「早稲田記事」欄にではなく、見聞子の匿名を以て記された「庶民院見聞録」の題名を持つ一文に記録されている。その本文は、>対外国是、対外国是、嗚呼対外国是、是れ現時及び未来に対する我日東帝国の一大難問題なり。殊に近時に於ける欧洲勢力の東漸は、其の勢や澎湃として極東の天地に充満し来り、我が帝国をして此の国際競争の急激場裡に起たしめ、其の紛擾更らに一層の激切を加ふるに至りぬ。……夫れ東洋保安の方途は、一に斯の国民の一挙一動によりて定まる者。知らず、此の蒼々たる四千有余万の国民は、如何にして本問題を解釈せんと欲するか。……早稲田の里なる東京専門学校の学生諸君は、我が朝野の政事家が幾度か解釈せんとしてするを得ざりし対外方針を論定確立せんと欲して、庶民院を同校大講堂に開きぬ。早稲田の学生諸君は、由来卓属風変の弁論に富む。加ふるに天下の志士にして来り会する者ありと聞く。必ずや光彩燦爛、人目を新にするものあらんと、見聞子則ち筆を載せ車を駆りて赴く。 (『早稲田学報』明治三十一年十二月発行第二二号 六〇頁)

という序説に始まり、延々二十頁(菊判二段組)に及ぶ名文を連ね、或いは会場の状況を写し、或いは演者の風貌を描き、または議案を解明し、更にまた議事進行の次第を巧みに描写して余すところがない。次にその要点を摘記しよう。

明治三十一年十二月四日午前十一時於大講堂(門前に旭日旗を交叉し、講堂入口に庶民院の扁額を掲ぐ)

議長 鳩山和夫 書記官長 桑田豊蔵

政府委員 島田三郎(総理)、天野為之(大蔵)、浮田和民(文部兼外務)、武市彰一(海軍)、小川為次郎(陸軍)、前川槇造(内務)、浅香克孝(司法)、市島謙吉(農商務)、松平康国(逓信)

参会者 保守党島田総理以下、改進党肥塚竜総理、中野武営副総理以下、独立党河野広中総理、高木正年副総理以下、これに衆議院議員の中から三党に分かれて出席した者、他に特別出席者として山沢俊夫以下本校関係者等

諸報告 桑田書記官長

動議「軍事費削減のための特別調査委員会設置ならびに議事日程変更の件」中野武営提案理由説明

反対 島田三郎総理島田稚雄(保守党)

賛成 高木正年(独立党)

失明弁士の大雄弁の後、総理が政争は国家の大計を誤るものと強調するに及んで、討論終結の動議が出たが、提出者中野退席のため採決に至らず、そこで総理は内閣信任に外ならずと絶叫した。続いて書記官長は壇上に進み、肥塚竜提出、河野広中他百四十五人賛成の「対外国是に関する上奏案」を朗読。次いで提出者代表肥塚竜がこれを説明したが、その演説要旨は次の通りであった。

日清戦争は、台湾出兵を除けば、半ヵ年であるが、そのため二億二千万円の国帑を費し、海外に二十万の兵を送り、戦病死者三千を数える。こうして得た遼東半島は、三国干渉という四文字を怖れ、幻の軍艦兵士に怯えて、半島還付を敢えて行った。政府はこのため、軍事費の増徴を計っているが、その大半は建艦ならびに師団の増設に用い、その背景となるべき鉱山、通信、交通、港湾等の施設等には何らの見るべきものがない。国民の膏血を絞って道楽息子に入れ上げているような無能な内閣の命脈は、潔く此の際断つべきである。

続いて政務次官村松忠雄が政府擁護の弁を弄すれば、独立党の幹事望月小太郎が直ちに反論を加うるなど、議場はいよいよこの案件をめぐって熱気を呈して来た。外務大臣高田早苗が病気欠席のため、その雄弁は聞かれなかったが、兼摂外相となった浮田和民文相は、訥々として外交方針を語り出したその時、市島謙吉農商務相が突如発言を求め、皇太子が大隈邸から還啓されるので、三十分間議事中止の動議を提出した。勿論満場一致を以てこの動議を採決し、一同庶民院門前に整列して奉送した。奉送を終るや一同議場に帰り、鳩山和夫に代って河野広中議長席に着き、浮田外相に演説の続行を促す。そこで浮田和民は再び登壇し、本案反対の理由を陳弁したが、要するに外交の原理、国家の体面について国家百年の大計を樹てるには、一時の勝敗のみを眼中に置くのは大きな誤りであるとし、国家の目的は、国利民福が優先し、そのため外交政策に柔軟性が起るのもまたやむを得ないが、終極の目的は我が国威を永遠に拡張するところにあると論じ、更に一歩を進めて得意の教育論に及ぶ。すなわち、予算不成立が軍備拡張の一点であるならばやむを得ないが、そのため戦後の経営が不十分になっては一大事である。戦後の経営には軍備拡張の外に、実業の発達、教育の普及があり、就中教育の普及は焦眉の問題であるとし、先ず普通教育の実態から究明し始めている。すなわち現今の普通教育は、高等教育を受けるための準備教育で、義務教育と言いながらも貴賎貧富を差別した教育であるとし、戦後経営の根本的な事業は、国民教育の充実にあると喝破している。論旨は更に進み、実業教育の充足に及び、現行の尋常中学制度も実科中学と普通中学に分離すべきであり、大学の如きも、東京、京都以外の東北、九州等に増設すべきであると明言している。議員の多くが学生である限りでは、講義調になるのもやむを得ないが、諄々として説き起し、説き来たるあたりは、正しく浮田講師の面目躍如たるものがある。

次いで野間五造(改進)が、外相に質問を求め、小川為次郎(陸相)代って答弁、島田総理は頽勢挽回のため再び本案反対の理由を述べ、小山谷蔵(独立)、円城寺清(改進)の質問演説、望月小太郎の緊急動議など、政府、野党の攻防戦が繰り広げられて議場騒然となる。そこで遂に議長採決を宣し、その結果、大多数を以て上奏案が可決された。しかしこの時、河野議長の手に「擬勅語」が渡され、議長は厳然として「憲法第七条により庶民院の解散を命ず」と朗読し、遂に議会は解散された。

 見聞子はこの見聞録の結句として、「嗚呼庶民院は茲に解散の不平に遭遇せり。我が四千万の同胞国民は次の議会に果して如何なる選良を出さんとするか。吾人刮眼して其の結果を待んのみ。」と記している(『早稲田学報』第二二号六〇―七九頁)。第九号の「早稲田記事」欄の「国会演習」の結句とほぼ同様な文章であるところから察すると、記者は同一人ではあるまいかとも思われる。

四 その消長

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 「第六期及び第七期の議会の如きは、議場整頓して、党派の運動より、議事の体裁亦観るべきものありき。」とは『早稲田学風』の記すところ(八三頁)であるにも拘らず、村松が「第七期」と記し、『早稲田学報』が「第六回」と記している三十二年二月十一日の擬国会については、『早稲田学報』第二十四号(明治三十二年二月発行)の記事は、僅かに八行に過ぎず、「三千余名」という参会者の数字に驚かされるのみで、約束された議事録は次号以下にも発見できない。そこで『早稲田学風』から引用しておこう。

明治三十二年二月十一日、例により之を大講堂に開く。門頭には旭旗を交叉して、庶民院の標札を掲げ、議席は保守党を右にし、改進党を左にし、中立党を中にして、正午各議員其席に就く。鳩山和夫氏議長たり、桑田豊蔵氏書記官長たり。総理大臣には楠本正隆氏、外務大臣には大石正巳氏、内務大臣には高田早苗氏、大蔵大臣には武富時敏氏、海軍大臣には島田三郎氏、陸軍大臣には犬養毅氏、文部大臣には尾崎行雄氏、司法大臣には河野広中氏、逓信大臣には降旗元太郎氏、農商務大臣には田中正造氏、政府委員としては円城寺清増田義一、野間五造、望月小太郎の諸氏あり。肥塚竜氏は保守党を率ひ、高木正年氏は中立党を率ゆ。而して改進党の首領は高田早苗氏にして、楠本内閣の内務大臣たり。此日政府提出案は左の如し。

衆議院議員選挙法中改正法律案

第一条 衆議院議員は各選挙区に於て之を選挙す各府県及各市を一選挙区とす其選挙すべき議員の員数は別表を以て之を定む

第廿八条 選挙は投票に依り之を行ふ投票は一人一票に限る

右提出候也

内閣総理大臣 男爵 楠本正隆

内務大臣 高田早苗

高田早苗氏一時間余の長広舌を揮ひ、例を欧米の各国に引き、我国政治界の進運に照し、単記説及び市郡独立の理を論じて、極めて詳細なる演説をなしたる後、肥塚竜氏全力を濺ぎて之を駁し、或は政府委員と議員間の押問答となり、内務大臣の答弁となり、甚しきは罵詈暴言を吐きて反対議員の演説を妨げんとするに至りしが、第二読会に移りて散会せり。

選挙法の改正は当時の大問題なりしかば、貴衆両院の議員、実業家、府下各学校の学生の傍聴を乞ふもの五百余人、全国各市よりの市郡独立運動上京委員には、特に案内状を出せしかば、皆先きを争ふて来り、校門の内外は腕車を以て埋められたり。

(八一―八二頁)

 『早稲田学報』には、「鉄道国有問題」もこの日の議題の一つであったように記されているが、『早稲田学風』にはこれに関する記載は見られない。ともかく、衆議院議員選挙法改正案は、この年二月八日、第十三議会に提出され、貴衆両院の修正案が対立して不成立の運命を辿る全国民注視の的の議案であったから、前年の隈板内閣の旧進歩党系閣僚をはじめ、前衆議院議長楠本正隆や足尾鉱毒事件の英雄田中正造などまで出席して開催された学苑の擬国会が、空前の盛会であったことは想像に難くない。これこそ擬国会史上に聳える最高峰であったとも言い得よう。

 次いで『早稲田学報』(明治三十二年十二月発行第三四号)が「第八期早稲田議会」と記すところの国会演習が、三十二年末に開かれている。同誌の記事を要約すれば、左の如くである。

明治三十二年十二月十日午前九時於大講堂 定刻既に満場の標を掲ぐ

議長 鳩山和夫(午後は市島謙吉に交替)書記官長 権藤四郎介

議案「軍備緊縮建議案」高田早苗提出

東邦多事の今日に当りて平和を維持し、国運を伸長せむと欲せば、国防素より弛め難し。然れども国家常務の行政は、之を忽にすることを得ず。殊に財政の如きは、国家消長の繋るところ、国防軍備亦因て以て隆替するを常とす。欧洲列国は境土相接し、已むを得ざる事情より互に軍備を競ひて未だ息まずと雖も、大抵其費は歳出総額の三分一以下に過ぎず。而かも、猶且つ諸般文物の進歩を阻格せむことを恐る。吾邦の国防は完整を計画する、既に茲に年あり。今戦後の経営と称して過大の軍備拡張をなし、国家歳入の大半を以て之に投じ、教育、殖産、交通等、凡そ諸般の行政は反て僅々其余を以て存立するの観あり。是豈に平和を維持し国運を伸張する所以の道ならむや。夫れ国防は漸を以て完整を期すべきもの。其自衛戒厳に必要なる設備は今日之を為す難からず。但だ顧慮すべきは、文武の政其均衡を失ふにあり。然るに政府は其地形を異にし、国勢を同ふせざるをも顧みず、欧洲大陸に倣はんとす。之が為めに国帑足らずして巨額の国債を起し、更に地租及び必需品たる醤油にまで増税し、幾んど文明の利器たる郵便電信の負担を重くす。是に於て軍隊独り善美を飾るも、民力は疲弊し、国家将来の財源は枯渇せむとす。故に今日の急務は軍備を緊縮するに在り。軍備緊縮せば財政自ら整理すべく、財政整理せば国民の負担減ぜられて、国富せば漸次増進するを得む。是時に於て軍備も亦漸次拡張せば、力を労せずして完整するを得べし。依て政府は速に軍備緊縮を計画せむことを望む。

提案理由説明 高田早苗

賛成者 肥塚竜(急進党)、加藤政之助(独立党)、新井市太郎(急進党)

反対者 紫安清厳(保守党)、田川大吉郎(保守党)、田中穂積(保守党)、菊地武徳(保守党)、島田三郎(総理大臣)、武富時敏(陸軍大臣)、工藤行幹(海軍大臣)

修正案「兵役年限二ケ年に短縮並に陸海軍内部の整理による経費の節減」市島謙吉(内相辞任、中立党)提出

賛成者 円城寺清(急進党)、波多野伝三郎(独立党)

修正案「軍備整備」増田義一(中立党)提出

この賛否両論中、当日の白眉と目されるものは、急進党の闘将円城寺、および独立党の驍将波多野の説で、前者は、政府が年々公債を発行し増税を行い国民の負担を重くしているにも拘らず、軍備拡充のためまたまた増税を行うのは帝国の財政の前途を危うくするものであると痛撃を与え、寧ろ地租・醤油税・郵税を旧に戻すべきであると主張する。これに対し後者は、島田総理を伊藤博文に、田川大吉郎を伊東巳代治に擬して冷評し、兵役二ヵ年短縮説に賛成して、大いに議場を沸かせた。賛否両論の代表演説者の顔触れを見ても、既にその帰趨は明らかで、政府吏党の憂色は覆うべくもなかったから、午後四時の時鶏を聞くや否や、議長は突如解散を宣告し、七時間に及ぶ大熱戦も呆気なく閉幕となった(「早稲田記事」五七―五八頁)。

 三十三―三十四年度の国会演習は、三十四年三月に開催されている。日清戦争後の三国干渉以来欧州列強の東アジア進出、特にロシアの南下政策に、抑え難い憤りを抱いていた我が国民は、たまたま前年五月に起きた義和団事件に、関係八ヵ国が出兵したいわゆる北清事変の結末に深い関心を寄せざるを得なかった。領土権益の保全は軍備拡充に連なり、それは増税を生むという悪循環を承知しながらも、露独の野望を認めるわけにはいかなかった。そこで早稲田国会もまた当然この問題を取り上げることになり、「第九早稲田議会」が「清国問題」を最大の議題として開かれたのである。

 「早稲田記事」の国会演習欄には、その冒頭にこれまで見かけなかった「政学部学生の弁舌及び議事法練磨の為」これを開くと謳っているのを反映して、多分に雄弁会的要素が加味された点、注目すべきであろう。更に議員の党派が三党に属していることは従前通りであるが、名称は国民党、政府党、中立党と、実に旗幟鮮やかなる点もその一つである。それに演説に立った学生議員の数が圧倒的に多いことで、「弁舌練磨」のためであることが十分裏書されている。ただ惜しむらくは、その所論の一片だに掲載されていないのみか、三党の所属も明確にされていない。こうした難点はあるとしても、大体の状況は理解できるから、その顚末を略述しよう。

明治三十四年三月二十三日午後一時於大講堂

議長 市島謙吉(欠席のため副議長田中唯一郎が議長席に着く)書記官長下山逸男

政府委員 高田早苗(総理兼外務大臣)、坪内雄蔵(文部大臣)、浮田和民(逓信大臣)

参会者 傍聴人共約二千

議案「清国問題ニ関スル建議案」安田与四郎提出

安田与四郎は提案理由の説明として、三国干渉以後ロシアが満州へ進出し、更に朝鮮へも勢力を扶植せんとして我が国の利権を犯さんとするものがある、政府は断乎たる決意を以てこれに対処すべしと結論した。終って直ちに賛成、反対の演説に入ったが、登壇議員の氏名は、(学生)神田正雄、坂田熊三、松田知三、江藤杢輔、篠原熊雄、内藤三介、永谷武右衛門、(来賓)佐藤虎次郎、(校友)田中穂積、肥塚竜らで、それぞれ熱弁を揮い、形勢やや政府党に有利になった。そこで国民党院内総理吉田巳之助は、緊急動議を起して日程変更を求め、次の内閣不信任の「上奏案」を提出した。

衆議院議長臣某、誠惶誠恐、謹而奏す。今や露国は東亜侵略の宿志を実現し来り、先づ満州を取り、次で朝鮮を侵し、遂に我国に及ぼさんとするの跡歴然たり。是に於て国論直ちに露に向て最後の手段を取り、其野心を永遠に杜絶せんとするに当り、廟臣不明にして之を察せず、外交常に其機宜を誤り、遂に三千年来金甌無欠の帝国をして、不測の危難に陥らしめんとす。臣等身参政の職に在り、坐視するに忍びず。乃ち国論の在る所を伏奏して聖断を仰ぐ。昧死謹言。

 提案理由説明には吉田が当り、頽勢挽回に力戦すると、高田総理も登壇し、内外の情勢を説いて上奏案に反対した。しかし気負い立った国民党は一気に押し切らんものと、政府に肉薄する形勢を見せたが、突如五日間停会の命が下って、散会となった(『早稲田学報』明治三十四年四月発行第五二号「早稲田記事」一六八―一六九頁)。

 東京専門学校時代最後の年度である三十四―三十五年の国会演習も、三十五年三月末に行われた。以下にその模様を追ってみよう。

明治三十五年三月三十日正午於大講堂

議長 高田早苗(事故のため、開会時には副議長田中唯一郎が議長席に着く) 書記官長 桑田豊蔵

政府委員 大石正巳(総理兼外務)、武富時敏(内務)、天野為之(大蔵)、加藤政之助(海軍)、肥塚竜(逓信)、戸水寛人(陸軍)、中村進午(司法)、浮田和民(文部)、箕浦勝人(農商務)、大西林五郎、安井正太郎、坂田熊三

右党 河野広中(党首)、内藤三介、林加茂平、坂田熊三、曾根長(院内幹事)

左党 高田早苗(党首)、片谷伝造、永谷武右衛門、土井権太、森岡正唯(院内幹事)

参会者 学生議員、来賓、本校及び他校の学生等傍聴人を併せて凡そ二千名

議案「海軍拡張建議案」安井正太郎提出

右党議員安非正太郎は提出者を代表して登壇し提案理由を説明したが、これに続いて両党の議員が交互に壇上に立ち、賛成・反対の両説に分れて口角泡を飛ばす激論となった。政府派の右党がこれに反対する筈はなく、その論旨は世界の大勢より見てやむを得ないとし、国力も十分これに耐え得るという点で一致していた。これに対し野党の左党議員は、主として経費問題に重点を置いて政府および与党を攻撃した。賛否両論を色別し、その演説者の氏名を列挙すると、

反対者 (左党)土井権太、山本、長谷、石井、佐藤

賛成者 (右党)林加茂平、坂田熊三、鈴木、外山、大橋

の学生議員であった。こうして一般演説が終ると、加藤海相が登壇して、海軍力の効果を礼讃し、匹田鋭吉は数字上から列国海軍の実力を比較して反論、遂に大石総理が海相の支援演説に立つという一幕もあり、議場の大勢は容易に逆賭し難い様相を呈した。左党は更に追討ちをかけるかの如く片谷伝造を演壇に送って、大石首相に対する質問責めの挙に出づれば、増田義一が賛成演説に熱汗をふり絞って応戦する。この時、途中入場して議長席に着いていた左党の高田早苗は議長席を田中副議長に譲り、自ら陣頭に立って政府を無能者と論断し、内閣不信任案の緊急動議を提出せんとしたが、一瞬田中副議長は全員に起立を命じ、「帝国憲法第七条に依り来る四月十五日迄早稲田議会の停会を命ず」との一項を朗読して、演習を終了した(『早稲田学報』明治三十五年四月発行第六七号「早稲田記事」三七七―三八〇頁)。