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第三編 東京専門学校時代後期

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第二章 校長の更迭

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一 前島の退職

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 『明治二十九年度東京専門学校年報』によれば、前島密が東京専門学校の校長を辞任したのは明治二十三年七月である。前島が退陣した真相は、『鴻爪痕』(市島謙吉編)、『前島密郵便創業談』(佐々木元勝編)、「前島密年譜」(『逓信協会雑誌』昭和四十四年三月発行第六九五号)にも載っていない。思うに、それ以前の二十一年十一月二十日に、専門学校校長の職にありながら逓信次官に任ぜられたから、多忙を極めたに相違ない。彼は逓信次官として解決すべき幾多の要務を抱えていた上、議会開設が目睫の間に控えていたのである。

 彼が校長に就いた時は、既に十九年八月二十五日に通達された既述(五四二―五四三頁)の「私立法律学校特別監督条規」が施行されていた。従って彼は、本校が帝国大学総長の監督の下に置かれることは、万々承知の上での校長受諾であった筈である。それが次官という立場に置かれてみると、いわゆる副大臣格なるものが、文部大臣所管下の帝国大学総長の指揮監督を受けることになる。それもまたやむを得ないとしても、前島が立憲改進党の創立者の一人であったのは、紛れもない事実である。更に、二十二年十二月二十日付「文部省令第十二号」を以て、教員が政党に関係することの禁令が公布された。

小学校及其他普通学校ノ教員ニシテ集会条例ニ依リ罰金ノ処分ヲ受ケタル者又ハ政党ニ関係スル者ハ其情状ニ依リ府県知事ヨリ文部大臣ニ稟申シ該府県内ニ於テ教員タルコトヲ差止ムヘシ

これがたとえ前島までには及ばないとしても、専門学校に対する風当りは相当強かったであろうと思う。実はこの年の春に、前島を次官に懇望した、時の逓信大臣榎本武揚が文部大臣に転任した(三月二十二日付)後、榎本の後釜として大臣に納まった後藤象次郎と前島とは至極仲が悪かったので、一度は次官の辞職さえ思い立った。しかし前島は、自己の手によって官営電話事業を実現させるよう熱望したので挂冠は思いとどまり、二足の草鞋を穿き続けたが、第一回通常議会の開会を前にして次第にそれが困難になり、遂に校長の辞任を申し出るに至った。

 なおこれと前後して、高田早苗の『半峰昔ばなし』の中に前島校長の更迭を記した興味ある一文がある。それによると、ある日突然大隈家の方から鳩山を校長とする意向がもたらされた事実のあったことを伝えている。高田の回顧によれば、校長交替の経緯は次の通りである。

鳩山博士は法律の学に造詣深く、且おつとりした性格で世間の評判もよかつた。其後政治に関係して大学を退き、弁護士となつたが、大隈伯が外務大臣の時、取調局長であつたといふ様な事から、両者の間に深い関係が出来た事も一原因で、遂に改進党員となり、議会へも改進党の一代議士として出られ、一時は衆議院議長となつた。議長としては最も評判の好い一人であつた。然ういふ様な関係から鳩山博士も専門学校の評議員となり、やがて前島翁に代つて校長となられたのである。然るに此に一つの插話があつて、是は如何に当時の私共が無遠慮で且血の気が多かつたかといふ事を証拠立てる種となるから、序ながらお話をする。それは鳩山博士が校長となつたといふ事は、私共が少しも知らなかつたのであつた。前以て何の相談も打合せもなかつたものであるから、私は頗る不満に考へ、私の家へ坪内、天野、市島、田原の諸君を会し、段々相談の結果、私の提議として「元来我が東京専門学校は大隈家で創立されたのではあるが、併し中途で其補助を辞して今日迄自営主義で通し、其間粉骨砕身の苦を嘗めたのである。然るに我々に一言の相談もなく鳩山君を校長にするのはいかにも腑に落ちない。依て之から諸君と共に鳩山君を訪問して、鳩山君が能く学校の性質を理解し且つ従来の如く名誉校長として何等干渉せぬならば、其儘で宜しいが、若し其事が行はれぬならば一同袖を連ねて辞職してはいかが」といふ提議をした所が、何れもそれで宜しいと賛成した。そこで私共〔平田譲衛の記憶では、鳩山邸をこの際訪れたのは、高田と平田の両名であるという。〕は鳩山博士を其の江戸川の邸に訪問し、遠慮なく右の旨を申述べ、「若し此点を理解して下されば、我々は東京大学に於て教を受けた先生の事であるから喜んで其傘下に立ちませう」といふと、元来大まかで且聡明なる博士は其事を喜んで承諾してくれた。それで何事もなく此事件は順調に運んで行つたのである。学校は右の如く校長は名誉職で何事も幹事が処理するといふ事になり、幹事の相談相手は即ち私であるといふ仕組みで、長い間経過したのである。又鳩山博士は弁護士を本業とし、長い間議員生活を送つて居られ、政界の常として其間に多少の浮沈はあつたが、相当の名望を保つて居られた。其後或事情の為め改進党の後身たる進歩党から政友会に転ぜられた前後、早稲田との関係も断ゆることになつた。 (一九九―二〇一頁)

高田は右の事柄を、当時の自分達が無遠慮で且つ血の気の多かった例証を示す一插話として紹介しているのであるが、高田は当時評議員兼講師として首脳陣の一人であり、坪内、天野、市島、田原らの首脳とともに連袂辞職すら覚悟したのであるから、これはまた大きな事件であった。

 尤も、鳩山の校長決定が高田その他にとって全くの寝耳に水であったか否かは若干疑問で、例えば関係新聞の『朝野新聞』は、一月十日号に左の記事を掲載しているのである。

外務省取調局長たりし鳩山和夫氏は、旧臘十六日を以て辞表を差し出したるも、一昨々日に至りて外務大臣より願の趣承り届けがたき旨の沙汰ありて、一昨日更に非職を命ぜられしが、氏は専門学校に入りて教頭となる由なり。

ここに言う非職とは、十七年一月四日付「太政官第三号」によって公布された「非職条例」に従い、官吏の位置はそのままだが職務だけは免ずるという処置である。鳩山は、学苑創立時には議員(後の評議員)として名を列ねていたが、講師として国際公法を法学部で講じたのは、二十二年が最初であった。

二 鳩山の登場

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 鳩山が校長として校務を執ったのは、明治二十三年の七月からであったと考えられるが、本校創設者大隈重信と鳩山との出会いはこの時が最初であったわけではなく、事はそれより以前であった。

 それを述べる前に、先ず鳩山和夫の略歴を記しておこう。鳩山は安政三年(一八五六)四月三日、江戸虎の門勝山藩(美作)邸内に生れ、海保塾を経て明治三年大学南校の貢進生となった。八年七月文部省から法学修業のため米国留学を命ぜられ、十年五月コロンビア大学でバチェラー・オヴ・ローの学位を受け、十一年六月には更にエール大学からマスター・オヴ・ローを、また十三年七月同校からドクター・オヴ・シヴィル・ローの学位を授けられた。十三年八月帰国するや直ちに東京大学法学部講師に嘱任され、翌年代言人(弁護士)試験に合格し、十五年一月その事務を開業した。ついでながら最初に代言人制が認められたのは、明治五年八月に公布された「司法職務定制」第四十三条第一項によってであり、法学士が卒業証書の写しを添えて出願すれば、無審査で直ちに代言人免許状を与えられるようになったのは、十二年五月のことである(石井研堂『明治事物起原』上巻新版『明治文化全集』別巻所収二〇二|二〇三頁)から、鳩山はこの方では初祖に近い。しかも東京府会が初めて開かれたのが十二年三月二十日で、十五年その補欠選挙に当選しているから、地方自治体の議員になった閲歴も非常に古い。鳩山が官界に入ったのは十八年四月で、外務省権大書記官に任ぜられ、五月取調局長、また十二月翻訳局長心得を兼任した。鳩山は井上馨外務卿から懇望されて官僚になったにも拘らず、彼に対する批判は厳しかった。「鳩山和夫伝」においては、後に外相となり彼の上司となった大隈と井上とを比較して、次のように言っている。

井上さんの主義と云ふは、外国人の御機嫌を取ると云ふ主義である。ドウも面白くない。大隈さんは各々見る所があるであらうが、兎も角正理と云ふものを以て向へば通ると云ふアノ人の主義である。僕等も同じ意見で、日本の様な小い国であつて、外交に権謀術数を用ふると云ふ生意気な事では迚もいかぬ。正理を以て外交社会に訴ふると云ふ主義である。

(『太陽』明治三十二年六月十五日発行臨時増刊第五巻第一三号「明治十二傑」 一三四頁)

この文章からでも分るように、自ら語ったところを記者がまとめたもので、寧ろ自伝と言うべきが適当であろう。それ故に引用句もそのまま鳩山の井上観と見てよい。

 井上の事大主義的な、鹿鳴館を中心とする阿諛外交は、特に条約改正問題に際して、なすべき手を打つことができなかった。すなわちこれまで二十五回に亘って開かれた条約改正会議は、二十年四月二十二日の第二十六回会議で、裁判管轄に関する英独案を修正の上、

一、条約批准後二年以内に日本内地を外国人に開放すること。

二、西洋主義による法典編纂。

三、外国人判・検事の任用。

などを議定した(『日本外交文書』第二〇巻「条約改正関係ニ関スル件」)。これは勿論国内の自由民権論者のみならず閣内から厳しく批判され、内閣法律顧問ボアソナードさえ激しく反対して、井上外相・山田法相に意見書を提出したが、遂に取り上げられなかった。現職閣僚の中でもこれに反対する者があり、その急先鋒となったのは谷干城農商務相で、七月三日、政府弾劾の意見書を伊藤首相に敲きつけ、二十六日に谷が辞職するまで相剋を続けた。伊藤・井上の不人気に引換え、谷は自由民権を守る国民的英雄と仰がれ、「谷君名誉表彰運動会」なるものが靖国神社境内で開かれたというほど、学生や壮士達にかつぎ上げられた。このことがあってから、伊藤はひそかに黒田清隆をして大隈の外相就任の話を進め、他方井上の辞任を求め、九月十七日には、首相が外相を兼任するという了解の下に、井上の退陣、大隈の入閣待ちという形で閣内を収拾することができた。そして翌二十一年二月一日、いよいよ伯爵大隈重信が外務大臣として登場し、鳩山がその傘下に入ることになった。大隈外相の下で彼が鞅掌した事件には、神戸桟橋事件、神戸雑居地問題、海関税換算法改正問題、最恵国条約改正問題等があった。

 条約改正問題については、大隈は「国別談判」、すなわち、与し易いものから交渉を始め、個別撃破を行いながら、最後の堅塁であるイギリスを陥落させんとする作戦を採った。従って二十一年十一月二十六日にドイツ公使に、十二月十八日アメリカに、同二十九日イギリス、フランスに、三十日ロシア、オーストリア、イタリア各公使に新条約改正案を手交した。その結果、翌年二月には早くもアメリカとの間に新通商航海条約が調印されて、最恵国条約改正の道が開かれ、六月にはドイツと、八月にはロシアとの間に、それぞれ新通商航海条約の調印を見た。大隈は既にして慶応四年には、開港開市の延期、長崎切支丹問題等で、イギリス公使パークスと渡り合い、一歩も譲らなかった外交的手腕の持主である。当時彼は三十歳で、維新の功労者と目された薩長両派の人々の年齢に比べると寧ろ年長者であり、それまでに既に外交上の駆引きを会得した、いわば外交のヴェテランであった。そして今回の事件を処理した時の彼は、齢まさに五十一歳、自ら知るの境地に達していた。世人は言う「大隈は八方美人だ」と。確かに社交家であり、如才がなかった。世界の有名人が訪日すれば、殆どすべてが早稲田詣でをするのも、大隈の如才なさが物を言ったからである。しかし社交と外交とは本質的に大きな隔たりがあり、またそうあるべきである。世人は、彼が経済に精通した類稀な経世家であることは知らなくとも、外交的手腕の持主であることを認めていた。その融通無擬に見える他国との折衝は、実は綿密な計算の上で行われたのである。若かりし日の向う意気の強い一本槍外交は、年輪が重なるにつれて柔軟さを増していったが、それでも強靱な一本の筋はその骨髄を貫いていた。それは、伊藤・井上ら政府の要路者は皆洋行の経歴があり、一種の欧米恐怖症に罹っていたが、大隈は一度も海外に歩を伸ばさず、従って実地に西洋文明に接していなかったから、盲蛇に怖じずの観もあり、フォビアの持合せなど毫もなく、真正面から正論を以て迫っていけたからである。それが従来の藩閥外交と大隈外交との大きな相違点であった。こうした面目と柔軟とが一本に絡み合って、爾後の外交はステップ・バイ・ステップの方策を採るようになったのである。矢野竜渓は松枝保二編『大隈侯昔日譚』に寄せた「補」で、

英米始め諸外国の我れに対する態度は、恰も、今日、列強が支那に対するやうな態度であつた。ヒトり此方が頑強に出れば改正のことは全然出来ない。漸次改正して行けば五年目にどれだけ進み、十年目に目的を達し得ることも、一度に我意を通さうとすれば一も二も取れないこととなつて、十年で目的を達し得ることも却つて二十年三十年もかかることがある。大隈さんは実際其局面に当つて居る人として、かう考へたのである。一度に無理を押しては却つて一も二も取らずになるから、漸次に進まうとせられたのである。 (一三一―一三二頁)

と述べている。矢野は大隈のかつての部下であり、編者松枝保二は大隈を創立者と仰ぐ早稲田人である。依怙贔屓と見られる要素が多分にあることは否定できないだろう。しかし早くから政党内閣を現出し、自ら改進党を創設してその党首となった大隈であるからには、政敵あり、非同調者があることは当然で、客観的資料を得ることは不可能に近い。ただ、大隈がもう少し長く外相の位置に留まり、世間もまた内外情勢の推移を静観することができたなら、彼に対する非難攻撃も幾分緩和されたであろうが、惜しむらくは被弾の厄に遇い、こうした一縷の望も水泡に帰した。しかしこのことは、既述の如く、鳩山非職の因となり、更に彼は前島の校長退陣の後を承けて東京専門学校長の要職に抜擢され、いよいよ大隈の信頼を厚うし、その期待に応えなければならなくなったのである。

 初め鳩山は十四年政変の際谷干城らの中正党に参加して反大隈派の立場に立ったが、寛大な大隈はこれを意に介せず彼を起用した。この点両者の出会いは偶発的なものがあったとも言えるが、慧眼にして寛大な大隈と、俊才にして聡明な鳩山との関係は、我が学苑の伝統の中に点睛を加えたとも言えよう。

 鳩山は官界にあっては外交の要職に携わり、野に下っては、四度選ばれて代言人組合長におさまり、国民の立場から国法を守り闘っている。当時本校講師のうちにも、本業として代言業を開いている者が多く、例えば、ドイツ法学博士岸小三郎、法学士平田譲衛、同原嘉道など、皆然りで、鳩山和夫自身は、京橋区山城町三番地に法律事務所を開き、松岡十次郎、浦部章三などの代言人を同居せしめ、「事件ノ大小ニ拘ラズ綿密ト迅速ヲ主トシ、民刑訴訟其他法律事務一切ノ依頼ニ応ズ」ることを立看板に活躍していた。

 鳩山は、二十五年二月十五日の第二回衆議院議員総選挙に東京府第九区から立候補してこれに当選し、議員集会所に所属したから、ますます多忙にならざるを得なかった。二十五年七月発行の第二次『中央学術雑誌』第三号に、「鳩山校長の如きは其代言事務の繁忙なるにも拘はらず次学年よりは講義に従事せられ」る筈(五六頁)と報じているのは、反ってそれまで講義を休んでいたことを示唆するものと考えられ、事実翌二十六年一月二十八日には「講師鳩山和夫ノ任ヲ解ク」と、『早稲田大学沿革略』第一にあり、講義の責を免ぜられている。この時の解任理由は、一見代言業が多忙になったことにあるようだが、実はそれよりも更に大きな事件に彼が真っ向から取り組んで行ったからではなかったろうか。すなわちその事件とは、世に「千島艦沈没事件」と称せられるものである。事件の概要を述べると、二十五年十一月三十日、フランスに発注して竣工した我が国の水雷砲艦千島号(七百五十トン)が神戸への回航の途中、愛媛県和気郡堀江沖(松山市北方約八キロの地点)で、イギリス貨物船ラヴェンナ号に衝突され沈没した。乗組員九十名、そのうち救助されたのは僅かに十六名であった。このことは直ちに覆船取調委員会で審問され、軍法会議に付されたが、艦長鏑木誠は翌年一月二十五日無過失の宣告を受けた。従って当然ラヴェンナ号の所有者P・O会社に対して損害賠償の要求を起したが、これに対し彼は逆に天皇を被告に擬し十万ドルを請求して来た。この間六ヵ月。『郵便報知』『時事新報』『国民新聞』等は、この問題につき多大の関心を持ち、特に『国民新聞』は内閣の責任を追及するほどの強硬な態度を執った。

 鳩山は法律学者として、代言人組合長として、また国会議員として、これを等閑に付することができなかった。遅遅として進まない事件の推移に業を煮やした鳩山らは、二十六年十一月九日、神田錦輝館で「千島艦事件の演説会」を開いた。

この記事は同日号の『郵便報知』が伝えるものである。弁士は本校教員三名、中二名は国会議員を兼ね、他の三名はすべて校友。全く東京専門学校政談会の観があった。一方鳩山は議会でこの問題を取り上げること前後六回。その中一回は上奏文の提案者として壇上に獅子吼している(『大日本帝国議会誌』第二巻、第三巻)。しかし弱体外交は、彼がなすがままに委ねた観があり、延々五年の歳月を費やし、我が方の一方損で解決した。すなわち八十万円損害請求に対する訴訟を取り下げ、僅か十万円の支払いで示談にしたのであるから、国民は怒りのやりどころもなく、ただ唖然とするばかりであった。

 このように鳩山の活動は、国家の体面保持に対しては大きな推進の役割を果したことになり、間接的には東京専門学校の存在を江湖に知らしめる役目を果したが、直接的には経営・授業にあまり貢献するところがなかったと言える。

しかし、校長が単に「名誉職」的存在に過ぎなかったにも拘らず、精力的な活動を厭わぬ高田その他の有能な補佐役に恵まれて、東京専門学校は学生数から見ても二倍以上に増大する大躍進を、鳩山の校長就任以後の十二年間に成就するのである。鳩山時代の開幕を飾る学苑の大偉業は、既にその就任前に決定が下されていた文学科の誕生であるが、それについては章を改めて説述することにしよう。