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第三編 東京専門学校時代後期

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第五章 校勢の進展(上)

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一 第二次学部制の開幕

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 明治二十一年十一月に英語専門諸科を発足させることにより、大学への野心的布石を試みた学苑は、

二十二年二月帝国憲法発布セラレ、尋デ民法商法等ノ新典出ヅ。法律ノ課目漸ク改正二就ク。

(『明治二十九年度東京専門学校年報』 三頁)

と記載されているように、我が国における法典編纂がその実を挙げ始めたのに伴い、法律関係の学科配当に、また教授内容に、一応注目すべき変化を見せたのであるが、前編で触れたように、数年前廃止寸前にまで追い込まれた弱体の講師陣を擁する法律科は、如何せん未だこの時期には、五大法律学校中にあって、必ずしも十分な発言権を持ち、学界で指導的立場を維持するまでに強化されてはいなかった。二十三年にきわめて異色ある文学科を学苑が設置したのは、ある意味では、十分な特色を発揮するのをなかなか期待できない法律科に代って、政治科と並んで、早稲田の名声を高揚する上に一役演じさせようとの意図が、当局者の脳裡に潜んでいたのではないかとさえ思わせられる。何れにしても、学苑としては、各学科の教科内容を一層整備することにより、私学の雄として苟も鼎の軽重を問われるが如き虞れを払拭しなければならなかったのである。

鳩山校長は就任第一年度の卒業式の演説の中で、次のように述べている。

只今学校に関係のある所の人々……学校の為めに心配する所の人々、即ち評議員、講師等の間に一決しましたる所のことを報道致しまするが、之は各学科に於きまして、即ち政治・行政・司法其他の各分科に於きまして、最初此学校を設立する時の如くに、学校に充分力を入れて学校の為めに充分の力を尽し学校と与に自分の進退をすると云ふ位の人を各学科に置くと云ふことは、今日の必要であらふと云ふことに考へた。そこで学校創立の際には此学校の為めに一身を悉く委ねたと云ふ如き人が、今日は自身が非常に大きくなつて、社会の休戚迄も自分の肩に背負ふと云ふことになつてから、此頃は学校の為めに充分の力を費すことが出来なくなつたのであるが、夫等の人も出来る丈け学校に力を入れて貰ひ、且つ其不足を補ふ人を入れて、各分科を背負つて立て貰ふと云ふ人を三名、五名若くは大なる数の人を入れて、尚ほ各学科の間に競争する位が善からふと云ふので、経済も其一部分を別にすると云ふこと……即ち或る一科に於きまして教員が懶ける……仕方がわるいと云ふ所で生徒が減つて仕舞へば、其学科は益々貧乏になつて潰れると云ふ恐ろしさを担任者に感じさせる、而して其反対に此の如くに担任する所の人々の成績が善くなつた時には、其学科には多く人が這入て来て、盛んになつて来て、一つそれに報酬があると云ふ者……即ち懶ければ懶けた所の報酬があり、勉強すれば勉強の報酬があると、多少各学科に競争の姿があつて善からふと云ふので、夫が為めに経済の一部分は学科に依て区別すると云ふことに一決したのである。最早大略準備が整つて居りますから、来学年は此方法を実施することに一決したのである。 (『同攻会雑誌』明治二十四年八月発行第六号八―九頁)

そして、この発言は、「本年度ニ於テ、更ニ諸大学ノ制ニ則リ、一層規模ヲ拡張シ、組織ヲ斉整シ、全校ヲ政治・法律・文学ノ三学部ニ分チ、各部ノ教務及財務ヲ独立セシメ、且各部担当ノ講師中ヨリ専任委員数名ヲ挙ゲ其監督タラシム。思フニ将来一層ノ良結果ヲ挙ルヲ得ン。」と、学苑の公表した二十四年八月付の「東京専門学校規則要領」(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料31)によって裏書され、更に右の速記が掲載された号の『同攻会雑誌』の「東京専門学校の規模拡張」と題する同趣旨の記事には、「政治部にては高田早苗天野為之有賀長雄家永豊吉松崎蔵之助織田一、井上辰九郎等の諸氏、法学部にては鳩山和夫、奥田義人、平田譲衛其他諸氏、文学部にては坪内雄蔵田原栄高田早苗其他諸氏、既に委員となりて目下種々計画最中なりと。」(二八頁)と、委員の名が明らかにされている。

 さて、前掲の二十四年八月付の「東京専門学校規則要領」には、その前文に、二十四―二十五年度より学部制を布くと記載しながら、「教旨教則」には、設置されている学科として、邦語・英語政治科、邦語・英語第一法律科(司法科)、邦語・英語第二法律科(行政科)、文学科、専修英語科、兼修英語科を列挙し(予科は記載されていない)、「各科課程表」もまた同様であって、学部の名称は見られない。独立採算を一応の目標とする学部制への移行は、学苑としては大決断であることは間違いなく、その実行案の作成には若干の日子を必要とし、「要領」印刷の時点までには間に合わなかったのであろうが、新年度が、この「要領」なり学科配当表なりとは異る学部制で九月から発足したと推定することは、誤りではなかろう。そして、その第一年度の経験が、幾多の改善を決意せしめるに至ったことは、二十五年七月三十一日、大隈邸に開催された各学部委員および講師会における左の如き決定により明白である。

新学年ヨリ各学部課目ノ改正ヲナシ、必要課目ノ増加ヲナスコト及ビ参考課目ヲ設クルコト。

各学年学課目ノ順序ヲ改ムルコト。

各学課目ヲ系統的タラシムルコト。

研究科ヲ設クルコト。

図書特別閲覧ノ制ヲ設クルコト。

科外講義ノ制ヲ設クルコト。此講義ハ各科二学年以上ノモノニ聴講セシムルコト。

右ノ講師招聘ニ関シ各自尽力スルコト。 (『早稲田大学沿革略』第一)

ここで決められた諸件の中、「研究科ヲ設クルコト」および「図書特別閲覧ノ制ヲ設クルコト」の二件については、第二次『中央学術雑誌』第五号(明治二十五年九月発行)「雑報」の記事を再録してみよう。

幹事小川為次郎氏は蔵書家の聞へ高かりしが、這般広く研究科学生研究の資に供せん為め和漢洋書にて千余巻を図書室に委託せられたり。又洋書中には氏がブールス〔株式取引所〕取調の為め洋行せられし折、彼地にて最も流行する新版有益のものを蒐集して持帰られし分なれば、多くの利益ある可し。

前号に明年より研究科を置くよし掲載せしが、〓は誤りにて、本学期より研究科を置き、得業生が一層高尚なる学理を研究せん為め入るを許す筈にて、未だ其方法等は明かならざれども、特に研究室なるものを設け図書閲覧の特別規則を設くる等ならんと云ふ。 (五五頁)

 今この原文を通読すると、研究科の設置と図書特別閲覧制の実施には相関性があり、寧ろ小川為次郎がその蔵書を図書室に貸与したのが動機となり、特別閲覧制を生み、更に研究科設置にまで発展したものであると言えよう。小川為次郎については第二編で触れるところがあった(三三〇頁)が、東京専門学校設立当時の副幹事であり、のち米商会社の理事に就任し、株式取引所問題が起るや渡米してこの調査に二ヵ年取り組んだという経歴の持主である。従って前掲文中の「彼地にて最も流行する新版有益のもの」を持ち帰ったのは、この渡米時代のことを指す。故に研究科の設置とまではいかなくとも、研究室の設置は彼の創案であると言っても強ち過言ではなかろう。これを更に証するものとして、前掲引用文中「前号に明年より研究科を置くよし掲載せしが」とあるが、これは必ずしも誤伝ではなく、『早稲田大学沿革略』第一の二十五年七月十五日の項には「新ニ研究科ヲ設クルコトヲ議定シ来年二月実施ト定ム」と明記され、二十六年八月、研究科(二学年制)の新設が公示されている。しかし、研究科については、詳述を後(六九八―七〇〇頁)に譲らなければならない。

 他方、各学部科目その他の改善については、二十五年十一月に刊行された『東京専門学校改正学課表・各部担当講師人名表・改正規則』の前文に、その決定事項が列挙されている。

本校ハ昨年九月従来ノ規模ヲ拡張シ、三学部独立ノ制ヲ定メシ以来、其成蹟顕著、果シテ所期ニ爽ハザルヲ得タリ。是ヲ以テ今回各学部ニ更ニ一層ノ改正ヲ施行シ、益々其大成ヲ期セントス。即チ其大要ヲ左ニ列ス。

学科改正ノ事 各部ノ学課ヲ改正シ、必要ナル学科ヲ増加シ、各年級ニ対スル課目ノ先後等序ヲ正シ、各課目講義ノ範囲分類ヲ定メ、而シテ各科全課目ノ関係ヲシテ全然系統的タラシム。

講師補講ノ事 講師補講ノ規約ヲ定メ、講師休講スルトキハ他日必ズ之ヲ補講シ、既定ノ課程ハ必ズ学生ニ履修セシム。参考課目新設ノ事 各科ニ参考課目ヲ新設シ、実際的・応用的ノ課目、及ビ未ダ正課トシテ授業スルヲ得ザル学科ノ大要ヲ講義シ、学生ヲシテ正課研究ノ補益ト為サシム。

授業時間確定ノ事 来ル九月ヨリハ政学部ノ授業時間ハ午前、法学部・文学部及ビ専修英語科ノ授業時間ハ午後ト定メ、孰レモ其時間内ハ引続キ授業ヲ為シ、学生ヲシテ時間ヲ徒費セシメズ、大ニ其修学ノ利便ヲ増サシム。

専修英語科ニ第一年級ヲ新設スル事 従前ハ授業上ノ都合ニ依リ専修英語科ニ第一年級ヲ置カザリシガ、今回同科ノ学課ヲ改正シ、之ヲ拡張スルト共ニ、其第一年級ヲ新設シ、英語初学者ノ入学ヲ許ス。且其授業法モ初学者ニ最モ適切ナル方法ヲ定メ、速ニ学力ヲ長成セシムルコトヲ謀ル。

学生ノ出席ヲ厳重ニシ、且本校ト保証人トノ関係ヲ密ニシ、学生ノ勤惰ヲ監督セシムル事学生ノ出席不規律ナルハ私立学校ノ通弊ナリ。而シテ其弊ヤ終ニ学問ヲシテ姑息弥縫ノ悪習ニ長ゼシム。本校此ニ見ル所アリ、今回学生ノ出席ヲ厳重ニスルノ手続ヲ定メ、以テ大ニ其弊源ヲ杜絶セントス。

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料33)

 この「改正」がどれだけ忠実に実施されて、どれだけの成果を挙げたかを正確に知ることは困難であるが、休講は必ず補講することなど、遂に今日に至るまで完全に履行されたことのないきわめて重要な決定であるし、今日の随意科目に相当する「参考課目」をしかも多数新設しようとの意欲は十二分の評価に値するし、時間割を合理化して学生の時間空費を是正しようとの試みは、例えば現在残存している二十年十月の時間割を見ると、法学部各学年とも、概ね午後一時以降に授業が行われているにも拘らず、第一年級の場合、月曜に八―九時、第二・三年級の場合、水曜に八―九時の授業が、何れも次の授業まで数時間飛び離れて置かれているなど(東京大学庶務部庶務課所蔵『明治十九年私立法律学校往復及雑書』参照)、交通不便で、しかも整備された図書館のない当時、いくら晴天ならば戸山が原など学苑周辺の美しい自然が無聊を十二分に慰めてくれたにせよ、感ぜられたに違いない想像を絶する不便を除去するものとして、大いに歓迎されたであろうし、また出席の監督強化は、放縦を以て私学学生の特徴と世間が看做していた当時としては、特筆すべき大改革と言わなければならないであろう。

 なお、専修英語科に関する件は、二十三―二十四年の学年の間に、英語普通科が専修英語科と、英語兼修科が兼修英語科と改称され、更に後者は邦語各科の学科配当中に「兼修英語」として組み込まれるに至っているが、二十一年秋の大改正で新設された予科が必ずしも期待したような成績を挙げ得ず、結局二十四―二十五年度の専修英語科第一年級が、予科の役割を演ずることに落ち着いたものと見るべきであろう。

 さて右の『改正学課表』は、単に学科目のみならず、それぞれの科目の内容の大要まで記されている最初の学科配当表であるという点で、きわめて珍重すべきものと言ってよいから、次ページ以降に転載しておくが、新学科配当による新学年を前に施行された入学試験には、第一回(九月二日)、応募者百七十名、合格者英語各科・文学科五十名、邦語各科・専修科百名、第二回(同五日)、応募者数十名、合格者英語各科・文学科二名、邦語各科・専修科十名、第三回(同十一日)、応募者五十名、合格者英語各科・文学科十名、邦語各科三十名と記録されている(第二次『中央学術雑誌』第五号五五頁)。右の第一回には「頼朝秀吉孰れか優れる」との出題があり、優秀答案二編が登載されている。そのうち谷和一郎の文章の結尾の一節を左に掲げて、参考に供しよう。

……元来頼朝は小胆、而して度量なし。只小利巧の眼あるのみ。故に同胞を殺し忠臣を遠け、野心焚ゆるが如き老猾爺時政に任す。……秀吉は伊達を容れ、島津を容れ、我用となせるは、頼朝が夢にも見得る処にあらざるなり。……秀吉死して豊臣亡びたるは、秀吉が放介なるによると雖、必竟頭大漢の比す可きものにあらざるなり。 (五三頁)

第七表 明治二十五年九月課程表

(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料33)

 本『改正学課表』については、「法学部ニハ法律科(邦・英語)、行政科(邦・英語)」を設けると記されていて、司法科の名称が棄てられたことと、学科配当には既にこの年から、英語法律科および英語行政科が省かれていて、次年度からの廃止を暗示していることとが注目され、更に政学部にあっては、「論文演習」および「国会演習」(その起源については七七〇頁参照)が邦・英両科の二・三年に設置されているばかりでなく、英語政治科において、セミナーの先駆と推定される「研究会」が前年度に引続いて光彩を放っているのを見落すべきではないであろう。

 また本『改正学課表』の前文は、「六拾有余名ノ内外博士・学士、現実ニ各部ノ教授ヲ担任ス。」と誇っているが、『東京専門学校校友会名簿』によれば、「洋行中」の者を含め三十六名に過ぎなかった二十二年末の講師数は、文学科新設の二十三年末には一挙に六十五名に膨脹した。ところが、学生数減少のためか、二十四年末には四十二名に収縮してしまっていたのであった。さてこの二十五―二十六年度の『改正学課表』は、その下部に、各学部・科に分けて、受持講師六十五名の氏名を左の如く列挙している(「科外」とは「参考課」を指すものと考えられる)。

政学部)

(科外)

法学部)

(科外)

文学部)

(科外)

専修英語科)

 尤も、右の六十五名から「科外」のみの講師を除けば四十七名となり、しかも二十五年末の『校友会名簿』の講師数が三十九名に過ぎないのを見ると、講師の実数は前年度と大差ないと考えられ、この傾向は、学苑から東京府へ届け出た二十六年末の「教員姓名資格書」(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料39)の四十一名とも符合する。

 二十六―二十七年度には、「〔帝国〕大学に於ける大学院に髣髴たる」(第二次『中央学術雑誌』明治二十五年八月十五日発行第四号五六頁)研究科が新設されて、先ず政学部から発足したことと、前に一言したように、英語法律科と英語行政科とが全く姿を消したこととが、大きな変化であった。「研究科規則」は二十六年九月より実施されたが、その主要部分を掲げれば左の如くである。

第一条 研究科ハ、本校得業生ニシテ既修ノ学科ニ就キ尚深ク研究ヲ為サントスル者ノ為ニ之ヲ設ク。

第二条 研究科ハ、本校得業生ニシテ平生品行方正、学業優等、他日大成ノ見込アル者ヲ、本人ノ志願ニ依リ、其部委員ノ協議ヲ経テ入学ヲ許ス者トス。

第三条 本校ハ研究科学生ノ研究セント欲スル学科ニ関シ、其学部ノ講師中ヨリ其指導ヲ担当スベキ者ヲ指定スベシ。研究科学生ハ其指導ニ従ヒ研究ノ業二従事スル者トス。

第四条 研究科ノ期限ヲ二ケ年トス。

第五条 研究科学生ハ研究満期二際シ在学中専攻セシ科目ニ就キ論文ヲ作リ、指導講師ノ検閲ニ供スベシ。指導講師ハ之ニ意見ヲ附シテ本校ニ差出スベシ。

第六条 本校ハ研究科学生ノ論文ヲ其指導講師ノ意見ト共ニ其学部委員ノ審査ニ附シ、其報告ニ因テ本人ニ対シ研究科卒業ノ事ヲ証明ス。

第七条 研究科へ入学セントスルモノハ既修ノ学科中ヨリ其特ニ専攻セント欲スル科目ヲ撰定シ……入学願書ヲ差出スベシ。第八条 (略)

第九条 研究科ノ学費ハ各本科ノ学費ト同額トス。……

第十条 研究科学生ハ常ニ研究室ニ出席シテ其学業ニ従事スル者トス。而シテ参考書籍ハ、特ニ研究科学生ノ為メニ規定シタル図書室規則ニ従ヒ閲覧スルコトヲ得。

第十一条 研究科学生ハ本校ノ許可ヲ得テ本科ノ授業ヲ傍聴スルコトヲ得。

第十二条 都テ研究科学生ハ他学生ト同ジク一般ノ校則ヲ遵守スベシ。

(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料40)

研究科の創設が大学に向っての準備の一つであるのは説明の必要がなく、二年制の研究科は東京専門学校の最後まで継続設置されているが、必ずしも予期の成果を得られなかったことは、二十八―二十九年度の初め学苑当局(市島謙吉)が行った左の演説によっても、認めざるを得ない。

研究科はどうも何処の学校で試みても行はれると云ふことはない。……此の学校で規則だけは定めて置たが、実際行はれて居らぬ。甚だ悲しむべきことである。不完全だから幹事が責任を以て、若し熱心に研究生になつて或る科目を研究しやうと云ふならば、其の人の為めに指導講師を置て、其の間をつなぐ道具となつて諸君の御便宜を図からうと思ふ。即ち其の方法に至つては、若し例へば甲なら甲と云ふ科目を修める誰れとの講師に其のことを相談したいと云ふなれば、幹事は私の資格を以て極く親切に其の人に依頼して、或は一ケ月に一度とか二度とか若くは三度とか、其の人の差支のない時を見計らい研究生が参つても宜いかを注意する、或は又どうして相談する、誰れに相談するかと云ふ時には、親切なる関係を及ばずながら其の関係を付ける積りでござりますから、先づそんな精神上の点で研究するより外致し方がない、之れは序ながら一言して置く。

(『中央時論』明治二十八年十月発行第一七号 五六頁)

 他方、英語法律科と英語行政科との消滅は、少くとも独立採算の学部制という建前から言えば、やむを得ない措置であったに違いない。すなわち、英語法律科なり英語行政科なりは、英語政治科に比べて志望学生が少く、英語政治科の学生数は次第に増加の形勢を見せたのに反し、法学部の両英語専門科は寧ろ減少を示し、その卒業生も、二十四・二十五の両年度ともそれぞれ十名に達しなかったからである。しかし、法学部には、この打撃から立直るよすがとして役立っ朗報が間もなく訪れた。すなわち、二十六年十二月十四日付「司法省告示第九十一号」により、判検事登用試験規則第五条による指定学校に学苑が指定された(九〇八頁に後述)のに続いて、翌二十七年九月には、文部省令により徴兵令の特典である在学中の徴兵猶予と卒業後の一年志願の資格が法律科に与えられたのであった。

 『早稲田大学沿革略』第一の二十七年五月三日の項には微笑ましい記事が載せられている。すなわち、「校内ノ清潔ヲ保ツ為ニ始テ下足番ヲ置ク。」というのがそれである。従来寄宿舎は言うまでもないが、教室(これを講堂と言っていた)等校舎の出入りには、すべて下駄箱に履物を入れ上草履に履きかえる慣習があった。これが更に二十七年九月七日付の東京専門学校の「校則改正御認可願」(『東京専門学校校則・学科配当資料』資料40)の別紙「東京専門学校規則」の第十二章寄宿舎規則第四十六条では、「舎内ノ廊下ヲ草履・靴又ハ下駄ニテ往来スベカラズ。但上靴ト雖モ亦之ヲ禁ズ。」というように一段と厳しいものになっている。しかし何と言っても男子学生ばかりの世帯であり、中には相当の豪傑もいた上に、学生数も千名以上に盛り上がったのだから、遺憾ながら「校内ノ清潔」を自主的に保持するのは困難であった。そこで一策を案じ、下足番という特殊な雇員を置いたのである。今では全国の百貨店などへは履物を履いたままで出入りするようになったが、大正時代までは、三越、白木屋など、殆どすべてが履物を下足番に預けたものである。学校も多くは下足のままで入場するのを禁じ、本学苑でも大正の初期頃までは、今の正門側の通用門の辺りに下足小屋があった。

二 日清戦争戦中戦後

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 明治二十七年、日清戦争が始まった。外征としては大隈が資金調達で苦心した台湾征討があり(第一編参照)、甲申事変の出兵があり、奇しくも十年目ごとに海外に派兵をして来たが、今回の戦乱は古今未曾有とも言うべく、東アジアに覇を誇る清国を相手にする国を挙げての戦いであった。従って学生達は戦争の推移を静視しながら勉学にいそしんでいたものの、一朝事ある時の決意は十分であった。この学生の静観に代って皇軍慰問の行動を起したのが、我が校友会であった。八月一日、清国に対し宣戦布告が下されてから旬日もたたない同月七日には、幹事会の決議に基づき臨時校友大会を玉川亭に開き、昆田文次郎、宮川銕次郎、田中唯一郎、高田俊雄、永島富三郎を委員に選んで、外征軍隊慰問策を講ぜしめるとともに、地方在住の校友有力者の協力を乞うことを決議した。その結果早くも同月下旬には、第一弾として特製手拭五千五百本を陸海軍恤兵部に献納する手続を済ませたのである。越えて九月十三日、明治天皇が広島に予定された大本営に発輦されるに当り、本校の職員、学生および在京の校友一同が桜田門外に佇立して奉送した。この間戦線は次第に拡張し、更に大きな戦果を納め、翌年三月三十日、日清休戦条約が調印されたので、四月七日、学苑は挙げて江東に行進し、向島墨田園で「皇軍祝捷大運動会」を開催し、大いに士気を鼓舞した。

 この戦争中の二十七年八月、二十五年五月以降田原栄に代って幹事に就任していた小川為次郎の辞任により、事務総轄の責任者となった市島謙吉は、その任期第一年の終末に当り、戦争の学苑に対する影響について、次のように報告している。

本学年即ち明治二十七年九月より二十八年七月に至る十一ケ月間は、日清両国の間に戦闘起りました時で、之れが為め本校の如きも幾分の影響を蒙りました。即ち前期入学試験の節の如きは未だ形勢の定まらざりし時節なりし為め、入学生は前学年の前期に比して四十人計り減じましたが、これは唯だ前期丈に、後期試験には影響を受けざるのみならず、諸科共に漸次増加したる中に就き政治科の如きは著しき増加を見ましたは、単に本校の為めに喜ぶのみならず、学問の為めに賀すべき事と信じます。 (『中央時論』明治二十八年八月発行第一五号附録「東京専門学校第十二回得業式報告」 一〇頁)

 他方この時期には校友会の活動がきわめて活発であり、二十六年七月三十日、玉川亭に開かれた幹事会で、校外生卒業者を準校友として、校友会名簿に登載するという画期的な決議が採択されたのをはじめとして、二十八年一月二十七日の錦輝館における校友大会では、寄宿舎長、図書室長、事務書記長、会計係長、講義録係長らの要職は校友会員である本校職員に限ると決議した。また七月十六日の玉川亭における幹事会では、爾今毎年行わるべき卒業式には校友総代が祝詞を述べることにし、本年度は山沢俊夫がその総代に選ばれた。これを愛校心の発露と見、学苑当局は快く受け入れているが、漸くその萌芽を示すに至ったいわゆる「早稲田民族主義」に対し、賢明に対処することによって、ともすれば私学に発生しがちの内紛を未然に防止したことは、当局の英知の然らしめるところであったろう。 さて、二十五年の「改正」が必ずしも実効を伴わないものでなかったことは、小川幹事が在任中最後の報告で、

此本学年の授業の成蹟といふものを一寸御話して置きます。夫れは即ち此学校が如何なる授業をして居るかといふ事に付て大変関係のある事である。其割合を一寸極く大体に申しますると、何処の学校にも此極めた時間が何時でも本統に往かぬ。百時間一年に極めてあれば百時間は即ち充たさぬ。之はどうしても止むを得ない話だ。只其割合の多少を以て、本統に授業をした時間の多いと寡いとを以て、其学校の善悪といふものをトするのである。本統の授業をして居るか如何といふ事をトするのである。政学部、法学部、文学部、此三学部を平均して……一組毎に一々其比例を取てあるが、併乍ら之を通してさうして申しますると、百に付て教へた時間が七分八厘、即ち七十八、夫れから休んだ時間が二十二、即ち七十八を教へて二十二休んで居る、平均になつて居る。即ち之を以て見れば、決して此我々当任者は社会に向て此学校が義務を充たさぬといふ事はないと、先づ比較的に申して宜からうと思ふ。 (『中央時論』明治二十七年九月発行第六号 一二―一三頁)

と自讃しているところであるが、同時にまた校規の遵守が厳しくなったことも事実で、これまで入学・休学・退学・再入学等が自由に行われていたものを、二十八年四月十二日の学部協議委員会は、「一旦退校シタルモノハ、六ケ月ヲ経ザレバ再ビ入学ヲ許サザルコト」(『早稲田大学沿革略』第一)を決議し、これを直ちに実行に移した。しかし学苑内における校規励行をこのように厳格にしたとはいえ、自ら「学問の独立」を標榜する学苑は、広く向学の青少年に門戸を開放すべきであったから、同月更に協議を重ね、次の二項目を定めることにした。

是〔四〕月 府県立中学校卒業者、又ハ此ト同等以上ノ学校ヲ卒業シタルモノハ、専修英語科第三学年後期ニ傍聴生トシテ無試験入学ヲ許可シ、学年末ニ至リ試験ニ合格シタルモノニハ修業証明書ヲ与ヘテ各英語本科へ入学セシムルコト。

四月三十日 校外生卒業者ニシテ校内生三年級ニ編入スルモノノ試験規定ヲ設クルコト。 (『早稲田大学沿革略』第一)

 また翌五月十一日には、各本科三年級卒業試験不合格者に再試験をする規定を設け、学力不足である学生の救済を図る等の措置が採られたが、これは教育者自身が教育効果に対する責任を痛感していたことの表れであろう。この他、二十八年九月に文学科に選科を置き、「二課目以上四課目以下」の随意勉学の途を開き、更に特別科の制を定め、各科学生をして定められた特定の課目に限り、他学科の授業の傍聴を許容するようにし、学生の視野を拡めることに努めた。それと同時に、兼修英語科の修業年限が一年延長されて四年となり、再び政・法両学部の学科配当から独立するという変化が見られたが、それについては、市島幹事による理由の説明を聴こう。

従来の経験に由て見ると、一体兼修の科を起しました其の当時は、大分兼修のことを勉めて実績が挙つたのでござりますが、それから以後兼修の方は衰へてまいつた。兎角どうも之と共に英語の力が衰へる。此の四、五年の成績から見ると明かに分つて居るのであつて、而して其の結果どうであるかと云へば、極めて不幸なる結果が起つて居ると考へる。如何にも、前に学校を立つるには邦語が主となつて立つた学校であるが、世の中は英語に限らず凡て外国語が必要になつて居るのである。それであるから、相当の学力を備へて居る人は、一方に於ては多少英語なり其の他の外国語に通じて居る必要がある。それであるから、申すまでもないが、今日は尚ほ其の上に必要であると思ふのは、得業した人は大変立派な考へを以て居りますが、どうも訳書若くは邦語で書た書物でなければいかない故に、原書を読み分けることが出来ない。兎角世の中に後れる傾きがある。若し邦語で研究した側ら外国語に通じて、自分〔で〕原書を読む力があつて、此の学校を出でて独習の力で以て大に其の学問を進めて往く便宜がある、又大学あたりの人と交るに付き原書の上で力を戦はすことが出来るのであるが、兎角兼修が疎になつて居る為めに、只邦語の方ばかり相当の力はあるにしても、それより以上に進むことが出来ぬ。極めて不体裁である上に悲しむべきことである。従来学校が紊りになつた次第は、恰も科外の講釈を聞くが如き考へを為して大変悪ひ結果を来しました故に、殊更に一年を進めて、其の兼修に入ることを学校から御勧めしたいと思ふ。聞くものも斯業な御心得、正科に意を注ぐが如く大切であると云ふ御考へを願ひたい。 (『中央時論』明治二十八年十月発行第一七号 五五頁)

 二十八年の学苑の活動について、なお忘れることのできないものに、「早稲田叢書」の刊行がある。翌二十九年の『東京専門学校年報』には、次の如く報ぜられている。

本校学生ノ参考ニ資スルノ傍ラ校外研究者ノ便ニ供セン為メ、本校講師自カラ欧米最新ノ名著ヲ翻訳シ、本校出版部ニ於テ、去二十八年十月ヨリ、早稲田叢書ノ刊行ヲ創ム。既刊ノ叢書ニハ、高田早苗氏訳ノウツドロオ・ウイルソン著ノ政治汎論[Woodrow Wilson, The state; Elements ofHistorical and Practical Politios; a sketch of Institutional History andAdministration, 1889]アリ、井上辰九郎氏訳ノアルフレツド・マーシヤル著ノ経済原論[Alfred Marshall, Elements ofEconomics of Industry, 1879]アリ。孰レモ三版ヲ出スニ至ル。近日又高田氏訳ノトレール著ノ英国々会史〔題名は異るけれども当時広く読まれたHenry Duff Traill, central Government, 1881を考えていたのではないかと忖度されるが、実際に刊行されたのはBritiffe Constable Skottowe, A Short History of Parliament, 1892の訳書であった〕、天野為之氏訳ノキ工ーンス著ノ経済学研究法[John Neville Keynes, Scope and Method of Political Economy,

1891]、土子金四郎氏ノシヂュウイック著経済政策、バステーブル著外国貿易論〔いずれも土子金四郎・田島錦治共訳で合冊して刊行、前者の原著はHenry SidgwickPrinciples of Political Economy1883 中の Book III. The Art of Political Economy後者の原著はCharles Francis BastableTheory of InternationalTrade; with Some of its Applications to Economic Policy1883〕、[[中村進午>早稲田大学文化資源データベース:{"subDB_id":"16""id":"730"}&lang=jp]]氏著ノ条約新論〔本書は訳書ではなく、早稲田叢書号外として、『新条約論』の書名で、前三書と同じく明治三十年に刊行された〕等ヲ出版セントス。此他講師ノ執筆中ナル法律文学ノ著述翻訳甚ダ多シ。此等ハ皆ナ来年中ニ公刊スルコトヲ得ベシ。 (二六―二七頁)

すなわち、学苑のuniversity extension活動は、従来の講義録の発行と地方巡回講演とに、今回更に名著翻訳刊行が付加せられることになったのである。本叢書刊行の経緯は八五ニ|八五三頁の引用文に詳説されているが、本叢書は、専門学校時代を通じて継続せられ、学界に貢献するところ少しとしなかったのであり、「趣意」に次の如く記されているように、翻訳については学苑自身が責任を持つというような旺盛な意気込みで始められたのであった。

泰西の諸著述を翻訳するは固より新奇の事業にあらず。然れども従来の翻訳書中、其の或者は既に陳腐にして参考と為すに足らず、或者は翻訳杜撰にして解読し難きものあり。本校ここに観る所あるが故に、原書を撰択するに当り、其著述の価値を精査せるは勿論、又成る可く新著述を択べり。翻訳は正確ならんことを勉め、且つ平易明瞭を旨とせり。其当否に就ては署名の翻訳者責を負ふのみならず、本校も亦責に任ぜんとす。

 さて、同じ二十九年の『東京専門学校年報』には、

二十九年九月、政・法・文三学科ヲ分割シ、政治科ヲ政学部ト為シ、法律科ヲ法学部ト為シ、文学科ヲ文学部ト為シ、又専修英語科ヲ英語学部ト改メテ文学部ノ外ニ立テ、以テ諸教科ヲ分統シ、各部ニ主任講師ヲ定メ、以テ各部ノ教務ヲ統べシム。英学ハ従来専門科ノ楷梯タルノ用意ニ止マリシガ、此ニ至リ、全ク独立シテ一分科ヲ為シ、英文。英語ノ運用ヲ自在ニスルノ士ヲ養成スルヲ目的トス。 (五頁)

と記されているが、既述の如く、学部の独立は二十四―二十五年度に発足したのであり、学科配当表を見ても、爾来二十八|二十九年度に至るまで、政学部・法学部・文学部の名称は連年維持されている。しかし、これまでのところは学部の名称は維持しながらも、その独立は有名無実であったと解すべきであろうか。何れにしても、英語学部の創設ならびに学部主任講師制の樹立を別とすれば、改正の眼目がどの点に存したのか、明確な記録の裏付がない。なお、初代主任講師は、政学部天野為之、法学部平田譲衛、文学部坪内雄蔵、英語学部片山潜であった。

 英語学部の独立が、一応特筆すべき事件であったのは間違いない。二十五年七月の『中央学術雑誌』(第三号)の「東京専門学校記事」中には、

二十二年の春英学科を廃し、予科・英語科を置き、其後予科を廃し、専修科を置きたるが、這般英学科に大改良を加へ、差当り三年級までを置き、明年よりは五年級までとし、教師には各担任の専門博士・学士を雇入れ、以て本科学生の程度を高尚にするの計画ありて、略ぼ成れり。 (五六頁)

と記載されたが、結局実現を見ず、翌二十六年になると、学生募集の広告の中に、専修英語科は、文学科と並んで文学部の一科を構成するような形式を見せるに至った(『早稲田文学』では六月付、『中央学術雑誌』では九月付広告が、その最初である)。ところが、日清戦争の勝利を機として、通訳者、貿易業者、会社・官衙・新聞社等で働く者のために、実用語学を教授することを第一目的とした英語学部(ただし七三六頁に後述する如く、英語専門科への予備門的性格を全く脱却したわけではなかった)の設置が構想され、先ず第三年までが二十九年九月から授業を開始したのである。二十九年六月の『中央時論』(第二六号)には、左の如き記事が発見される。

東京専門学校は唯だに旧施設の改善を以て満足せず、更らに時勢の推移に鑑み、戦勝後大いに膨脹せる国家の必須に応ぜんには、外国語の知識、就中……英国語学を教へざる可らずとて、特に英語学部を新設し、専ら英語の活用を主とし、善く英語を語り、善く英文を作り、善く和訳し、善く英訳するの器を養成せんとて、多年外国の諸大学に遊んで、「マスター・オブ・アーツ」「バチエラー・オブ・デギニテー」の学位を得て曩に帰朝せられたる片山潜氏を主任講師となし、数名の外国教師と提携して教授に当らしめ、従来我邦英語学者の面目を刷新せんとするの挙あり。而して修学年限四年を経過し卒業したる者には、他の専門科の得業生と同一の資格を有せしむる筈にて、其得業生は尠なくとも能弁能文の通訳者翻訳者たるを得べく、又外国語と関係する諸般の事業、例へば諸製造所、諸会社、諸官衙、諸新聞、諸学校等の役員、若くは教師たるに尤も適当すと云ふ。因に記す。同校に於ては本月二十六日、来九月五日の両度に入学試験を執行すと云へば、応募者定めて多からん。而して其公布せし主旨書は左の如し。外国語の智識は刻下の必要なり。就中実業上の世界語、東洋諸港の普通語と称せらるる英国語学の智識は、戦勝後国家拡大し、内外の交通頻繁の度を加へ、内地雑居の期目前に迫り、弥々進んで諸外国と接触せざる可からざる今日に於ては、百般の事業上に必須たること弁を俟たず。然るに方今都鄙の諸学校にて行はるる英語学教授法は、往々訓読と訳解とに重きを置きて英語の活用を主とせざる故に、善く解読することを教ふるも、善く英語を語り、善く英文を綴るの器を養成するに適せず。其の教科用書の如きも、徒らに古雅高尚に流れて実用に遠く、所謂変則風の英学者を陶冶するに適するのみ。今回本校に新設する英語学部は、専ら此の欠点を補ふを以て目的とし、真に善く英語を活用するの士を養成せんとす。すなはち、教授課目、教授法、教課用書等すべて此の旨に副はんことを専一とし、悉く従来の制度を一洗せり。今般改正の要旨を摘記すれば左の如し。

(一) 修学期は四ケ年とし、悉く四年の業を卒へ得業論文(英文)に及第したる者には得業証書を与へ、他の本科生にひとしき資格を有せしむる者とす。

(二) 専心本学部の為に尽瘁する教師一名を置き、之れを東京専門学校英語学部主任と称す。

(三) 外国人及び外国大学卒業のバチエラー及びマスター幷びに本邦の諸学士をして主任教師と提携して専ら教授に従はしむ。

(四) 本学部は学生をして善く英語を語り英文を作るに至らしめんを第一の目的とし、善く和訳し、善く英訳するの能あらしめんを第二の目的とし、広く読み深く窮むるに至らんを第三の目的とす。

(五) 本学部の卒業生は尠くとも能弁能文の通訳者、翻訳者たるを得べく、又外国と関係する諸種の事業、例へば諸製造所、諸会社、諸官衙、諸新聞社、諸学校等の役員若しくは教師たるに適すべし。

(六) 国文及び漢文は……最も簡便に且最も有効に、英語を教ふると同時に併せ教へ、彼の外国語にのみ精通して国語国文に疎きが如き弊なからしむ。

(七) 教科用書を精選し、英語学攻修に便にすると同時に、普通知識及び内外の事情及び形勢に関する智識を与ふるを期す。

(八) 教授法はすべて活用を主とし、会話、暗記、筆記、作文等を教ふるかたはら、熟語俗語の研究及び原語講説の速記をなさしむ。

(九) 又数々英語談話会、演説会等を開き、教員生徒の親睦を厚ふし、兼ねて英語の活用に練熟せしむ。

(十) 教授科目は発音……朗読……雄弁法……英語討論……訓読……会話……作文……筆記……時事文研究……熟語及び俗語の研究……暗誦……文法……翻訳……原語講説……和漢文……英語得業論文等を主なるものとす。 (三八―三九頁)

 しかし、後にこそソ連に渡ってはレーニンの師賓として迎えられ、ポリトビュローの東洋部長として世界に名の轟いた革命家片山潜も、教育家としては著しく不適格で、坪内雄蔵の意に充たず三ヵ月で解職となり、後は同志社出の岸本能武太が襲うた。しかも、そうした実用向きの英語学部は早稲田の肌に合わず、明治三十一年に六名、翌年に九名の卒業者を出しただけで廃止となった。その第一期の首席は二木千年、次席は正宗忠夫であった。二木は今こそ人人の記憶から消えたが、正宗が前後彼の如き素晴らしき卓越した頭脳に接したことなしと舌を巻いた秀才、更に政治科を卒業後早稲田としては珍しく内務官僚となって出世街道を進み、傍らを瞠目させたが、滋賀県の内務部長の時、寺内内閣の選挙干渉の悪辣さに憤慨して、辞表を叩きつけ、まことに早稲田人たるを辱しめぬ硬骨漢であった。

 学苑に中学校を設置したいとの考えは既に二十五年に見られたが、評議員会の可決を得るに至らなかったところ、たまたま二十八年十一月、坪内、市島、金子が坪内邸に相会した時、理想的中学校創立の件が協議され、具体的な運営方法まで話合われた結果、一案がまとめられ、これを大隈および英麿、高田、今井鉄太郎などに示し、その賛同を得て実行に乗り出した。『早稲田中学校創立六十周年記念録』によれば、東京府知事より設立が認可されたのが翌二十九年三月十二日であり、四月五日に開校式が挙行され、翌六日から学苑の講堂を使用して授業を開始した。東京府下には既に十数校の私立中学校があるにも拘らず、新しく同種の中学を創設せんとした意図は何れにあったのか。先ずその「創立之趣旨」から要点を抜粋して見よう。

普通教育ハ、国家人文ノ基礎ナリ。就中、中等教育ハ人物ノ養成、気習ノ薫陶二最モ切要ナル関係ヲ有ス。維新以降我ガ邦ノ教育制度日ヲ逐ウテ発達シ、都鄙二中学ノ競立セラルル、職トシテ此ノ理ニ因ル也。若シ夫レ中央ノ首都ハ我ガ人文ノ淵叢也。……倩ラ近時ノ学風ヲ観ルニ、都鄙何レヲ問ハズ校規及ビ教授規律ハ頗ル整理セルノ観アレドモ、憾ムラクハ其ノ教導ノ法動モスレバ機械的ノ一辺ニ偏シ、間々年少ノ子弟ヲシテ自主特行、有為豁達ノ資ヲ消耗セシム。就中、最モ肝要ナル倫理的教育ノ如キモ、概シテ只機械的ニノミ行ハルルガ故ニ、其ノ感化ノ実効ニ於テハ却テ旧幕期ノ教育ニダニ劣ルモノアリ。詢ニ慨スベキノ失弊ナリ。我ガ校ココニ見ル所アリ。最モ倫理ノ教育二重キヲ置キ、併セテ時勢ノ必要ニ鑑ミ大ニ外国語ノ教授ニ工風シ、力メテ良教師ヲ択ビ特別監督ノ法ヲ厳施シ、専念留意子弟ヲ善導シ、智識ノ発達ヲ図ルト同時ニ忠君愛国ノ美徳ト堅忍不抜ノ気象トヲ養成セントス。 (『早稲田尋常中学校規則摘要』 一―四頁)

 この趣旨を通読すると、彼らが言う教育の理想は「倫理ノ教育」に重点を置き、「忠君愛国ノ美徳」と「堅忍不抜ノ気象」を養成するところにあり、これを以てして善良なる国民を養成する目的は達成できる自信を持っていた。しかし一歩譲って観ずる時、大隈、高田らが数年来懸案としていた点、すなわち弊衣破帽、豪傑風の書生を養成するのではなく、将来制服金ボタンの学生を育成せんことを希望していたから、これは強ち単独の中学校設立を意図していたものではなく、恐らくは東京専門学校に直属する予備門の設置と見ることができるのである。

二十九年四月、本校員発企斡旋シ、大隈伯爵ノ庇蔭、校友及ビ有志者ノ賛助ヲ得テ、本校ノ附近ニ早稲田尋常中学校ヲ創立ス。蓋シ広ク都鄙ノ為ニ普通教育ノ新路ヲ開ケルナリ。然レドモ本校亦別ニ期スル所アリ。該中学ヲ以テ傍ラ本校ニ入ルノ門トナシ、未来ノ専門学生ヲシテ普通学ヲ講習スルノ第一門タラシムルコト是レナリ。而シテ明治三十二年四月第一回ノ卒業生ヲ出シ、其成績良好ニシテ、当東京専門学校其他高等ノ学校ニ入リタルモノ多シ。

(『早稲田学報』明治三十四年七月発行臨時増刊第五五号「東京専門学校規則一覧」 二六―二七頁)

とは、学苑側の記録であるが、「此校ノ成立及ビ課程ハ〔東京専門学校トハ〕全ク別異ノモノ」(『明治二十九年度東京専門学校年報』五頁)であったことを付記するのは必ずしも蛇足ではなかろう。

 この年第二次松方正義内閣が成立するや創立者大隈は外相に返り咲いて、その手腕を発揮することになり、これを記念するかの如く、十一月にはその庭園を一般学生に開放して、菊花を観賞せしめた。大隈が花卉造りに興味を持ち出したのがいつ頃からであったか不明であるが、外客万来する早稲田邸庭園には絶えず植木屋が入っていた。池を掘り、老樹に配するに奇石を以て景観の美を整える風は、政治家、財界人、富豪等に共通した趣味であるが、芸術には理解が乏しいと口癖のように言っていた大隈の花卉栽培は、或いは三井子刀自を慰めるためか、外賓接待の卓上を飾るためか、はたまた聡明な綾子夫人の進言に基づくものか、その何れかによるものであろうが、薔薇、菊等の栽培を始め、やがて庭内に大温室を設け、熱帯樹を移して育成し、特に力を入れたメロンは我が国でも珍しく、その味は殊の外甘美で、大隈自慢の一つであったと言われている。第二次松方内閣の外相になった時、大隈自ら選んだ秘書に越中前田家の前田利男がいるが、この人は園芸家出身で、特に菊造りの名人であったという。大臣秘書に政治嫌いの花造りを選び、身の回りの世話をさせたなど、さすがに大隈らしい。それはとにかくとしても、学生達に庭園を開放したところにも、大隈が学生を我が子として常にいつくしみ育てたその愛情の程が偲ばれ、これこそ学苑の今日を在らしめた一つの礎であったことも忘れてはならない。大隈は政界多忙の身でありながら、努めて学生の訪問を受けて、必ず蕎麦をふるまった。穴八幡下の三朝庵(前身は平野庵)が、明治三十九年に「大隈家御用達」の看板を受けたのもこの蕎麦が取り持つ縁で、老先輩達の多くがこの味を今もなお覚えているという。大隈が偉大な教育者であったことを裏付ける佳話である。