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第三編 東京専門学校時代後期

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第六章 二識の受難

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一 高田の場合

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 高田は、『半峰昔ばなし』のうちで、

私は昔も今も政治といふ事には然う深い趣味を有たない性質で、どちらかといふと、むしろ学校に関係して居る方が自分の性格に合ふ様に思つて居た。従つて議会が開けるからと言つて衆議院議員にならうといふ考は、当初は余り持つて居なかつたのである。 (二〇一―二〇二頁)

と言っている。勿論東京専門学校創設の功労者として、またその草創当時の校務運営責任者の一人として、「学校に関係して居る方が自分の性格に合ふ様に思つて居た」ことは事実であろうが、当時の担当科目に、立憲政体論、憲法史、行政法、外交学、租税論など、我が国の政治のあり方に直接・間接関連するものが少くなく、しかもこれらの講義の中には、活字となって坊間に普及し、国民の政治教育に貢献したものも一、二に止まらず、殊に『通信教授政治学』が、実際に役立つことを主目的とするイギリス的政治学の書であったのを以てしても、高田の右の言は若干割引して受け取るべきであり、学問上は言うまでもなく、実際政治にもある程度の関心を懐いていたものと考えざるを得ない。否、寧ろ後世の政治活動を見れば大いに関心があったと言わなければならない。

 彼は二十三年七月一日の第一回総選挙に当り、埼玉県第二区から立候補し、中原の鹿を射止めた。江戸の辰巳深川に生れ、神田で勉学したいわば純粋の江戸ッ子の高田には、東京が立候補の地盤である筈である。ところが衆議院議員選挙法では、被選挙人に相当する資格(満三十歳以上の男子、選挙人名簿調製前満一年以上その府県内において直接国税十五円以上納入者)を具えてさえいれば、他府県からでも選挙に乗り出せた。ただしその地における知名度と有力な後援者とが、当落決定の重要な鍵であったのは言うまでもない。この二つについては、専門学校の講師で、政治学を講義・出版していることは好条件であった。もし彼の教え子が多数活躍している地方から推挙されるならば、まさに鬼に金棒と言うべきであろう。そこで試みに、『第七回報告校友会名簿』(明治二十五年十二月調)から、関東地方の校友の所在を調査してみると、埼玉県は有利な地盤とは言えない。すなわち東京在住の校友数は二八・一〇パーセントを占めるに対し、埼玉県のそれは僅かに二・四〇パーセントに過ぎず、寧ろ神奈川の方が三・一四パーセントで、やや上回っている。高田への推薦第一の申し出は神奈川県であったというのも、この数が確かに裏書きしている。それを敢えて埼玉県第二区に定めたのは、その中心である川越町に、中井尚珍、黒須広吉、綾部徳兵衛など、地方政治の中核をなす熱心な高田崇拝者達がいたからである。校務多端にも拘らず、高田はよく神奈川、千葉、埼玉など近県に巡回講演を行った。雄弁と博識と諧謔とは多くの青年の心を捉え、本校への入学希望者募集にも大きな成果があったが、それよりも更に高田信徒の増大に役立った。殊に埼玉県で、後年学苑の講義録発行に寄与した横田敬太を知ったのも、この巡回講演であった。しかし彼がこの地を選挙区に定めたのは、父祖代々水利問題に関係し、特にこの地の河川湖沼の開発に力を入れていたこともまた見逃せないだろう。更に、直接の動機は、高田が反対党と目する、かつての帝政党の首脳者であった福地源一郎(桜痴)を擁立せんとする動きを感じたからであるという(『半峰昔ばなし』二〇五頁)。何れにしても同第二区は全国第一の激戦区となり、定員二名に対し十二名の候補者が鎬を削って相争う結果になった。幸いにして高田は輸入候補であったにも拘らず、最高点で当選し、後援者の期待に応えることができたとともに、我が学苑の名声をも天下に知らしめることができた。

 さて高田は、二十五年五月三十日、暴漢によって切りつけられた。東京の各新聞は一せいに号外を発行して、取敢えずこの兇変を報道し、翌三十一日には詳細を記載した。今その要領を述べると、当日午前九時高田は議会へ出席するため、人力車に乗り牛込中町の自宅を出て二十メートルばかり進んだ時、近くの家の陰から躍り出た二名の兇漢が、左右から仕込み杖で切りつけたという。車夫の叫び声に驚いて加害者は逸速く行方をくらまし、高田は気丈にも自力で邸に駆け込み、直ちに掛りつけの前田医師を招いて応急手当を受け、更に東大病院外科主任の佐藤三吉博士の来診を乞い、その結果神田和泉橋の第二医院に入院して手術を受けた。初めに診察した前田秀村は本学苑に校医として招かれた最初の人で、「診断書」はこの人が書いている。

一、右肩胛間部ヨリ斜ニ第六脊椎ニ達スル、長サ十九仙迷、深サ五・三迷ナル剣傷一ケ所。

一、左小指凡ソ一・五ナル擦過傷一ケ所。

右今午前九時五十五分同氏方ニ於テ診断シ、直ニ手術相施候間、此段及御届候也。

高田早苗『明治廿五年五月三十日 遭難事件諸用留』)

 この時、高田以外に襲撃の目標となった者は、当時の花形議員島田三郎、犬養毅、尾崎行雄ら、いわゆる議員集会所に属する代議士連であったが、何れもことなきを得、独り高田のみが遭難したのであった。元来この集会所は、進歩主義を執っていた大隈を党首とする立憲改進党所属議員が、二十三年八月議案調査のため組織したものであるが、これに対する攻撃は殊に厳しく、特に先に大隈を狙撃した来島恒喜がかつて所属していた玄洋社の社員の反対運動は強烈を極めた。そこで治安当局も議会開会中のことでもあったから、兇変のあった夜急遽「保安条例」を適用し、麹町警察署の警官数十名を玄洋社員集会所に派遣し、本署に連行して調査の上、条例第四条により福岡県人玄洋社派の者三十七名を皇居を中心とする三里以外の地に退去せしめた。高田は加害者の数を四名と確認していたが、その後裁判所に自首して出たのは佐久間秀吉、山崎和一郎という、ともに十九歳の福岡市民二名のみで、元兇と目される他の二名の行方は全く不明であった。ただ彼らが麹町下二番丁の某福岡県人宅に寄宿していたと自白しており、この所在地は玄洋社の集会所の町名と全く同じであるところから、やはりその一味であったことは確かであろう。それにも拘らず証拠不十分で無罪を宣告され、その後検事控訴により殴打創傷の罪で多少の刑罰を受けた。これについて市島春城が、「当時の刑法では刀で斬つてもそれを殴打というた。刀で斬ると棒で打つとは自ら異る処があるのに、全然区別が無かつた。」と不思議な感想を漏らしたことが、『半峰昔ばなし』(二六七頁)に引かれている。

 高田の負傷の経過は良く、被害後三十日目に退院し、転地療養の結果五十日目に全快し、その後も政界に出て十分に活躍した。

二 天野の場合

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 天野為之は唐津藩医天野松庵の子であったが、生れは江戸唐津藩下屋敷であった。前に述べた通り、選挙法は他地方からの立候補を認めていたから、天野は第一、第二回の総選挙には佐賀県から立候補し、立憲改進党に属している。当時の被選挙資格は満三十歳を最低限度としていたが、第一回の総選挙の時に未だその年齢に達しない彼は、唐津に帰り、工作をした。浅川栄次郎・西田長寿共著の『天野為之』によれば、「その備忘録によると、明治二二年の頃に『帰郷、衆議院議員被選資格ヲツクル』とあるのは、出生年月日が間ちがつていたという理由で、選挙当時、満三〇歳に達するように戸籍訂正を行つたのであろうと思う。」(一四四頁)と述べているが、天野の戸籍には、明治二十二年五月十五日願出により、出生年を万延元年から安政六年に訂正した旨が記載されている。

 ところで彼の選挙区は東松浦・西松浦の二郡に跨る地で、在郷名士河村藤四郎を向うに回して戦う天野は、東都では新進気鋭の知識人であったとはいえ、故郷では面識の少い人であったから、自然苦戦は免れなかったが、それでも幸いにして当選し、第一回帝国議会に出席する栄誉をかち取った。しかもこの時、予算委員として特に官公立諸学校の一部を廃止し、経費の節約を主張した。初め委員会でこの説明をした時の天野の態度は非常に強硬に見えた。すなわち、「天野は明治二十四年一月三一日の全院委員会で、予算委員会が文部省関係予算中、第一―五高等中学校、女子高等師範学校、音楽学校を廃止してその経費を節約すべく査定した理由を説明し、予算委員会としては、『今日ノ教育上ノ有様カラ見タ時ニ、必ズシモ国費ヲ以テ高等中学校ヲ維持スルノ必要ハ最ウ既ニ絶ヘテ居ル。……国立ノ高等中学校ガ倒レタト云フコトニナツテモ、社会ニ必要ガアリ需要ガアツタ時ニハ私立ノ学校ガ起ル。若シ私立ノモノガナケレバ、或ハ地方ノ設立シタ高等中学ガ起ツテ来ルデアラウ。中央政府ノ国庫ノ費用ヲ以テ維持シナケレバナラヌト云フノ必要ハ最ウ絶ヘテ居ル。』と決議し、音楽学校に就ても同趣旨の決議がなされた旨を報告し、天野個人としては異見を有することも、付言した。こえて、同年二月一四日の本会議に於て、前述の査定案に対する天野の修正意見を説明した。天野は、是等の諸学校に就ては『相当ノ減額ヲ加ヘテ是等ノ学校ヲ維持ス』可しと主張、その理由として『要スルニ是等教育ノ事業ハ、全国ノ教育事業ニ聯関シテ居ルカラ、全国ノ上カラ改革ヲ施サヌト云フト、あとデ又色々……小刀細工ヲシテ、却ツテソレガ為ニ損毛ヲ来タスト云フコトモアル。私ハ決シテ高等中学ヲ維持スルトモ言ハズ、又音楽学校ガ民間ニ成立ツトモ言ハナイ。女子高等師範学校モ教育上必要ナコトデアルトモ言ハナイ。ケレドモ僅ナ間ニ綿密ナ密雑ナル事業ニ対シテ、批評ヲ下シ判決ヲ下シテ、直グニ銭ヲ減ラサナイデ、ソレニあとデ以テ十分調査ノ上ニシテ貰ヒタイ。即二十四年度ニハ此ノ儘継続シテ、其ノ間ニ十分調べテ二十五年度ノ予算ノ時ニ改革スルトカ、十分調べタ上二彼此ノ処分ヲ願ヒタイト云フ。』のであると説明した。天野は教育事業の調査資料は僅々四五十日前に渡されただけで、それまでは信ずべき資料がなかつたのであるから、軽々に廃止を決定すべきでなく、明治二四年度においては、各費目について、節減を加えて存続すべしと云うにあつた。」(『天野為之』一四五―一四六頁)のである。後「相当ノ減額ヲ加ヘテ是等ノ学校ヲ維持ス」というところまで譲歩し、この修正案は本会議で成立したが、その裏面には、天野と同僚であり私学経営を共にした高田代議士の応援も見逃してはならない。

 第二議会は二十四年十一月二十一日に召集されたが、松方正義を首班とする第一次松方内閣が提出した政府予算案に対し、野党側は七百九十四万円に上る大型削減を主張して譲らなかったため、開会およそ一ヵ月後の十二月二十五日に解散の運命に直面した。これによって第二回臨時総選挙は二十五年二月十五日施行と定められたので、各代議士達は相次いでその選挙区に向って飛び立った。天野もまた佐賀県第二区から立つ積りであったから、一月十四日頃離京した。

 ところがこの選挙では空前絶後と言われたほどの大干渉が行われ、政府はあらゆる手段を弄して反対派の切り崩しに掛かった。すなわち時の内務大臣は、官軍東征の時御楯隊を率いて東北地方にまで進撃した周知の驍雄、師たる吉田松陰の風貌を最もよく伝えていると言われながらも新政治に暗い品川弥二郎、内務次官は白根専一で、後に言う官僚的色彩の濃厚な、酷吏に類するとさえ言われた人物であったから、選挙干渉には適任者であると言えよう。果せるかな、反対党の拠点である大隈の佐賀、板垣の高知は言うに及ばず、大隈・板垣連名で石川県下発行の『北陸新報』に松田吉三郎、河瀬貫一郎他二名の推薦広告を出したという理由で、「集会及政社法」第二十八条および第三十四条に違反する者として告発するのみか、警官、憲兵を派遣して弾圧をさえ加えるに至った。その他反対党員の多い近畿以西に対する官憲の圧迫は言語に絶し、これによる死亡者や負傷者は多数に上った。主なる地方を挙げてみても、#waseda_tblimg(1_0771)

等で、総計では死亡者数二十五名、負傷者数三百八十八名の多きに達した(植原悦次郎『日本民権発達史』第一巻一六五頁)。佐賀県を例にとって見ると、二月十六日号の『東京日日新聞』は、「佐賀県知事より熊本第六師団への請求に依り、同師団は当地(福岡)の分営第二十四聯隊に本日一中隊を同県に差向くべき旨訓令ありしにより、直ちに同地に向け一中隊を出発せしめたり。」と伝えているほどである。

 かかる最中に天野は帰省し、二月十日早朝、二、三の応援弁士とともに唐津から伊万里の演説会場に向ったが、その途上七、八十名の壮漢に襲われ、天野は袋叩きにされ、同行の記者賀来某も全治三週間の打撲傷を受けた。しかし天野の傷は案外心配するほどのことはなく、その上加療が十分行き届いたこともあって、回復は速かった。

 天野はこの選挙での落選を機会に政界から身を退いた。もし天野が首尾よく当選し、爾後何回も代議士に立って政治家として活躍したならば、後世、本校に商科を興し、またそれに先んじて早稲田実業学校を発足せしめた原動力とはならなかったかもしれない。

 高田といい、天野といい、大隈傘下の俊英が政界に進出したことは、東京専門学校学生達の名誉であり、誇りでもあった。将来政治家たらんと志す彼らに大きな希望さえもたらした。そしてこの偶発的な先学二者の不運な遭難は、彼らの憤りを招きはしても、決して意気の挫折には繋がらなかった。否寧ろ彼らの若き血をいやが上にも燃やし、一段と闘志をかき立てる興奮剤になったのであった。