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第三編 東京専門学校時代後期

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第十一章 校外教育の開花

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一 巡回講話

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 『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』には、学苑の「付属事業」として、「正科の外に尚ほ教育事業の重もなるもの三あり、曰く科外講演、曰く巡回講話、曰く各科講義録の公刊是れなり。」(一六五頁)と記されている。科外講演については前章に説述したので、本章においては、巡回講話、ならびに前編で既にその創始の経緯を明らかにした講義録について、東京専門学校時代後期における学苑の活動を跡づけることにしよう。

 さて同書には、この両者について、次のように、学苑の教育体系における位置づけが行われている。

巡回講話と講義録の公刊とは主として欧米に所謂高等学術普及事業(ユニヴァーシテー、エキステンシヨン)と揆を一にしたる企図計劃に成れるものにして、共に本校建学の本旨たる模範国民養成の目的に寄与するが為めの手段方便なり。即ち巡回講話は該企図を口舌に依りて実行し、講義録の公刊は之を筆記印刷に依りて実行す。

巡回講話は時を定めずして行ひ、大抵毎年数回を例とす。少くも本校講師三、四名を一組として全国各地方を巡講するなり。学科は各種専門に渉ると雖も、何れも通俗を主とし、用語を平易にし、例証を卑近に取り、傍聴は無料たるを例とす。

講義録の公刊は本校出版部事業の一部にして、講義は政、法、文、史及び中等教育の各学科に渉り、主として遠僻の地に在りて学に志す者、若くは業務の為め昼間学に就くこと能はざる者の為めに余師を供せんとして、特に各講師に託し講述せしむるものなるが故に、其の用意一に解し易きに在り。而して之に依りて修学する者を校外生と名づく。 (一六五―一六六頁)

 初代校長の大隈英麿は留学生として多年アメリカで生活はしたが、その在米中には、アメリカのユニヴァーシティ・エクステンションの歴史は一八一六年、ラットガース大学(当時のクイーンス・カレッジ)に開始すると言われ、ハーヴァード大学その他、その前史に名を連ねる大学もないわけではないけれども、特に外国人の注目を惹くほどの活動は未だ見られず、従ってその口から学苑の首脳部にアメリカの校外教育の実状が語られたであろうとは到底想像できない。講義録に初めて手を染めた際に、高田が海外の例を知らなかったと語ったのは、五九八頁の引用文に見られる通りであるが、巡回講話についてもまた、アメリカの先例を高田が耳にしたのは、そう早いことではなかったであろう。確かに高田は、早くから教授の余暇を利用して、よく近県に出掛け演説をしているが、これはもとより政治活動でもなく、校外教育でもなく、ただ本校の宣伝と学生の獲得に従ったものと見てよかろう。

 それが学苑の外的活動として学苑史に浮かび上がってくるのは二十六年のことであるが、当局をして巡回講話の実施に踏み切らせた功績は、何と言っても、二十五年一、二月発行の『同攻会雑誌』第十、十一号に「英米に於ける教育上の一大現象」という題で一文を投じた、アメリカ帰りの講師Ph・D家永豊吉(二十三年就任)にあると言わなければならないだろう。そこでそのうちから必要な部分を摘出してみよう。

抑も大学教育普及とは何ぞ。他なし。其措辞の示すが如く高等教育をば一般人民に布くにあり。即ち其本旨たる学術進歩の徳沢を全社会に光被せしめ、以て一般人民の智識を進めんとするに外ならず。而して其所謂一般人民なるものは、種々錯雑なる原素を以て組織せる者にして、其種類自ら一様ならずと雖も、要するに其大多数を占むる者は彼労働者社会に外ならず。是を以て所謂大学教育普及運動の目的とする所の如きも、亦重に是等の人民にあり。……近来労働問題は社会の一大疑問となり、労働時間制限論は四方に反応し、労働者に多少の余暇を付与し、以て其心智を開発せしむるの工夫、漸く有識者の講究する所となれり。而して彼大学教育普及の運動は取りも直さず其余暇に乗じて彼等に高等教育を布及し、以て社会一般の進歩を計らんとするものにして、彼有名なる「ゴツシエン」が、倫敦に於ける大学教育普及会の標号として、「人は生計の手段として教育を要するのみならず、人生の手段として之を要する也。」との語を用ひたるが如き、能く此運動の真意を約言せるものなり。抑も教育なるものの目的に二種あり。一は智識を授け、一は智識上の趣味を感ぜしむるにあり。吾人が茲に陳述する教育法の主とする所は、其学生即ち労働者をして高等教育の趣味を感ずるの端を開かしむるにあり。……此運動の本領既に斯くの如し。而して之を実行するに当りては、大学教師自ら出でて一般人民に講義を授く。故に一英人は之を解して曰く、大学自ら進で人民の許に到るの運動なりと。然れども此教育法たる彼普通の学校教育とは、其趣固より一様ならず。業既に一般人民を以て目的とせるものなれば、其授くる所、大学内に於て学者輩が兀々研究に苦める最高等の学術に非ざるは勿論なり。又大学其他の学校に在りては其学生たる者多くは少壮者にして、専心一意攻学に従事せるものなれども、普及教育を受る者に至りては、多くは成年者にして、居常生活の業務に経営し、所謂多忙の人民なるが如き、実に其区別の大なるものなり。而して其教育の程度の如き、以上述たる如く固より最高等に非ざるべきも、其主意高等教育を普及するに在るを以て、決して卑低に非ざるは、彼「ケンブリツチ」「オツクスフオルド」の両大学が、此普及講義の課程を完了して予定の手続を経たる者は、大学内に於て已に一年の修学を了へたるものと同様の資格を以て入学を許すを見るも、其一斑を知るべきなり。茲に至り吾人は進で之を実行するの方法に就て其要領を約説せん。現今大学教育普及運動方法の特質とも称すべきもの、概して左の数者に分つ可し。

⑴地方巡回講義……大学を中心として普及講師の一隊を組織し、便宜に従ひ各地方に派出して講義を試む。而して其講義は、各専門学術に基き数回連続して之を完結し、決して一場の演説に止まらざるなり。且つ一地方より他地方に移転して同一の講義を反復す。是れ即ち巡回講義なる名称の起れる所以なりとす。 (『同攻会雑誌』第一〇号 九―一一頁)

 家永の一文が大きな波紋を投じてから一年半、二十六年七月十一日の学苑の評議員会では、八月中に地方巡回講話会を行うことを決議し、準備委員を挙げて、講師の選定、巡回先、その他の細目を定めた。この講話会は、本校にとっても、また我が国においても、最初の画期的な試みであったから、第二次『中央学術雑誌』第二巻第十号(明治二十六年九月発行)は「東京専門学校巡回学術講話之記(明治廿六年八月)」として、これについて、次の如く、細大漏らさず記載している。

東京専門学校に於ては、本年の夏期休業を機とし、予て計画せる所の巡回学術講話の挙を実行せり。是れ目今海外に於て盛行する所の(University Extention)に準拠する者にして、則ち同校が創立以来抱持する所の学問上の主義を天下に発表し、以て専門教育普及の目的を達せんと欲するに在り。蓋し我邦に於ても、従来之に彷彿たる者なきにあらざりしと雖ども、其一学校の運動とし、且純然たる巡回学術講話の実を具備する者は、未だ嘗てあらざりしなり。而して其之れあるは、実に同校今回の挙を以て嚆矢と為す。是より先き同校は今年の巡回地を静岡、岐阜、京都、大阪、神戸の五ケ所と定め、其地の校友に通牒し、準備の事を請求せり。即ち其要略に曰く、今回の挙は全く本校学問上の地位を世間に知らしめ、且本校の目的たる専門教育普及の実を挙げんとするに在るを以て、普通の学術演説会とは其例を異にし、純然たる巡回学術講話の手続を尽くす事。曰く、各講師の講題幷に其要領(Syllabus)を印刷し、傍聴券と共に聴講者に付与し、聴講の便に供する事。曰く、傍聴は無料とする事。其他二三の要件なり。而して各地の校友幷に本校の事業を賛成する有志は、此通牒を得て欣喜措く能はず、三伏爍金の炎熱をも意とせず、孜々として其準備に従事し、其協賛の力、遂に能く我邦教育の歴史上に特書すべき事実を成功するに至れり。而して今回巡回の講師及び其講題は左の如し。

以上諸講師の外、東京専門学校幹事小川為次郎、校友斎藤和太郎、田中唯一郎の三氏は亦其事務を帯びて同行せり。但此際遺憾とせるは、校長法学博士鳩山和夫氏も予て同行の筈なりしが、宿痾の為に其意を果すこと能はざりしに在り。今左に巡回各地の状況を掲載せん。

八月九日田中、斎藤の二氏は、準備の為め八月八日を以て先発静岡に到り、同地の校友鶴田勇次郎、青地雄太郎、其他有志諸氏と同地の準備に関する種々の協議を為し、以て一行の同地に至るを待つ。又高田早苗君は、先月来北陸漫遊中なりしが、兼約に爽はず本日午後三時、岐阜より到りて当静岡に来着す。東京よりの一行井上、太田、土子、天野、平田、小川の諸氏は同日午後六時着静す。……静岡民友新聞には十数日以来広告幷に雑報に於て講談開設の旨を掲載し、校友青地雄太郎、鶴田勇次郎、八木勤作等の諸氏は、時下燬くが如き暑熱を犯して、奔走尽力到らざる所なし。……

同十日午後一時より静岡市報土寺に於て講話会を開く。……定刻に至り、校友斎藤和太郎氏は開会の辞を述べ、今回巡回学術講話を開ける理由、及び欧米に於ける其例証を引き、本校創立者大隈伯爵並に之れが賛助諸氏の素旨、我邦の学問をして都ての勢力より独立せしむるに在りし事を説き、本校創立以来十数年間の経歴を詳述し、終に本校の現況将来の計画等に説き及せり。次に第一高田氏(国家主義と個人主義)の講話は、先づ個人主義及国家主義の沿革より説き起こし、個人主義、国家主義とを比較し、終りに両主義の応用を説けり。第二井上氏(信用制度)は、信用の性質、信用制度の種類、物上及び対人信用の制度、殊に農業銀行及び信用組合制度の要領、信用組合の効用及び性質、欧洲に於ける信用組合の沿革及び其現状を説き論局を結ぶ。……第三太田資時氏(登記法の話)は、今代取引に於ける登記法の必要及び目的、古代社会の登記法の沿革、登記を要する取引の範囲、登記を経ざる取引の効果、登記を経たる取引に対し悪意の反証を許すべきや否の問題に付き、傍引博証聴者をして麻姑痒を掻くの想あらしむ。第四土子氏(銀価問題)は、先づ銀価問題の起る原因、銀価下落乎金価騰貴乎、米国可銀論者の内幕、米国銀価維持法の効験、銀価維持の新法、銀価下落と我国の経済、我国の銀に対する所置如何、銀の将来等に付き尤も明瞭に尤も通俗に説明せられ、……第五平田氏(相続の話)は、相続法の変遷、相続の法理、相続法の前途、長子相続と均分相続の当否を論じ最も明晰を極む。第六天野氏(経済的教育)は、現今日本に於ける教育は、道徳教育盛にして経済教育の振はざる事を慨論し、経済教育の必要なる事を、進んで私家経済の教育、国家経済の教育、共に今日の急務たるを弁ぜられ、頗る来聴者をして感動せしめたり。閉会を告げしは六時半にて、此日暑熱酷烈なりしに拘はらず聴講者の来集する者殆んど八百名に達し、広濶なる寺院の本堂立錐の地だになきに至りしは、同地の人の以て稀有の盛事とする所なりき。後ち一行は旅館に帰り暫時涼を納れ、午後八時より同所の浮月楼に於て催せる懇親会に臨めり。……先づ校友青地氏は、立て開会の詞を告げ一行の労を謝す。幹事小川氏は、一行に代て謝辞を述べ、併せて本校が本学期より施する改正の点に関し詳述する所あり。其要に曰く、本校各部の課程は、昨年の改正に依り大に整備の実を顕したれど、猶実験上不備の点を本学期より改正増補あり。即ち第一に、邦語政治科に地理学の一科を増加し、学生に政治地理、商業地理の学識を与へ、歴史学と相待て政治学、経済学を講究するの基礎と為し、兼て学生を実際上の観念に富ましむる事。第二に、今般法律科及び行政科の法律科目の組織を全然改正したる事なり。是れ既成法典は已に法典調査会の設けありて、他日其面目を一変すべき事明白にして、従来の如く既成法典の順序に依り授業を為すは、法律の実用上将来に益する所少なし。是を以て今回法典改正に関する成説に準拠し、従来の課目分類を一変し新に課程を組成す。且其講義の如きも従来の方法を改め、各担当講師に於て其担当課目に関係ある民法商法の各部分に就き之を融合鎔化し、且参考として英国法を参へ、以て新に其担当課目の全部を組成する方法なり。故に法律の課目は、従来に比し独り其外形を改むるのみならず、其講義の実質も亦全然革新する所あるに至るべし。殊に法律科には商工実務の一科を増加し、又法律、行政両科に通じては、簿記の一科原理を増加す。即ち商工実務は、銀行、保険、倉庫、鉄道、其他商工業務の大要を授業し、右等の実際と律法との関係に通暁せしめ、簿記原理は学生をして計算法の原理に通じ、法律家として必要なる簿記計算の知見を養成せしむる事。第三に文学科歴史の課目に付き、従来の列国史を改め、新に上古史、中古史、近世史及び徳川史の諸課目を増補し、又教育学の一科を増加し、外に独乙語の一科を課す。是又学生に実用上の学識を有せしむるにある事。第四に専修英語科の課目に大改正を加へ、従来の英語、国文、漢文の課程を増補整備し、加ふるに地理学、数学、物理学、生理学、進化論大要等の諸課目を増加し、大に和漢英三文の解釈作文の学力を養成し、併せて普通必要の知識を与へ、三年の課程を以て十分なる学力を得るの仕組としたる事。以上今回実行したる学科改正の大略なり。而して此外に研究科新設の事あり。是は昨年来の計画なりしが、来る九月より実施し、差当り政治部を開設する筈とす。此他講師補講の事、参考課目、科外講義の事、時間割確定の事、学生出席調査の事、其外共昨年来の方針に拠り、益々其整頓を謀らんとすと云ふに在り。高田氏は、本校は其唯一の目的たる学問の独立を堅守するに拘はらず、世間本校を以て政党の機関の如く誤認する者あり。是れ其実を知らざるに在りとて、本校が創立以来世間風潮の表に巍然卓立し、学問の独立に尽力せし所以を述べ、更に其希望する所を陳ず。次に鈴木幸一郎氏(本校生徒)一場の演説を為し、夫れより賓主献酬に時を移して午後十一時過散会を告げたり。……

同十一日此日高田氏は要務の為め東京に返らんとて、午前二時の夜行汽車にて発途す。但し来十四日岐阜市の講話会には必ず来会するの約なり。一行は正午十二時廿分発の汽車にて静岡を出発し、……焼津停車場にて下車し、藤枝町なる志太益津郡講法会の催しに関る講話会に臨む。本日の会場は田中なる源昌寺にして、……斎藤氏例に依り開会の辞を述べ、次に土子(銀行の職務)、太田(登記法の話)、天野(経済的教育)、諸氏順次講述する所あり。就中、本日土子氏の講題は、乾燥無味の問題なるにも拘はらず、比喩例証最も肯綮に中り、加ふるに時々諧謔を交へ聴講者の願を解かしめたり。此日、井上氏は時間の足らざるため出演せず。本日の聴衆は五百余名にして、講法会員の外、教育家、実業家、学生等なりき。……又同会員中本校校外生となりて講義録の購読を申込しもの頗る多しと云ふ。講話を終りし後ち、一行は校友及び有志者の案内にて、人力車を駆り藤枝町に至り当日の懇親会場たる柿伝楼に臨めり。……小川氏一行に代て挨拶を為し、且例に依て本校改正の事を説明す。井上氏は一場の演説を為して曰く、本校は、鳩山、高田、天野、平田、太田、小川等、乃ち山川田野に縁故ある者より成る。依て本校は之を大地面持に譬ふべし。然れども経済上の原則として、単に土地のみありて労力の之に加ふるなくんば、更に其有用を顕す所なし。故に来会者諸氏の力に依て之を耕耘し、始めて其本然の美を全くせんと、比喩的に演了し大に喝采を博せり。校友塚本熊次郎氏は、本校の東京に於ける地形を述べて曰く、早稲田は後に蓊鬱たる森林を控へ、前に千頃の田園を望み、車馬喧擾の地を去ること遠く、以て学生修学上の好位置たることを詳述し、学生父兄の為に其省慮すべきを説き、青地氏も亦一場の演説を為し、後ち酒宴を開き左献右酬主客応接に遑あらざりき。……一行は同所を辞するの後ち、更に里余を距る青島志多鉱泉なる潮生館に泊す。……

同十二日午前五時青島鉱泉を発し益枝停車場より乗車、浜松町花屋に投ず。……午後二時より同町子の日座に於て講筵を開く。斎藤氏例に従ひ開会の趣旨を述ぶ。井上(信用制度)、平田(保険の説)、天野(日本近時の進歩)、太田(登記法の話)、諸講師順次講話を為す。此日聴講者八百名余、炎暑堪へ難きにも関せず大凡七時間の長きを静聴せり。土子氏は前日来微恙の為め本日の講話に欠席せり。午後八時より同町鯛めし楼に於て懇親会を催す。……小川氏は一行に代て挨拶を為し、且例に依て本校の状況を説く。又加藤賢三氏の演説等あり。……

十三日午前九時浜松発車、舞坂停車場に至り、更に人力車にて半里余を行き、舞坂海水浴場なる茶店茗荷屋に投ず。同地は浜名湖口弁天島に在り、南方遠洲灘に面し、北方は鉄々の長橋を隔てて一帯浜名湖の風景を望み、矚目絶佳、一行海水に浴し数日の労を医せり。……午後五時廿分舞坂発汽車に乗ず。……一行は豊橋町に至り、更に同地の小島屋に泊す。……

同十四日午前七時、一行豊橋発の汽車にて岐阜に向て発す。同列車は夜前九時四十分新橋を発せる者にして、兼約の如く高田氏は既に東京より来りて車中に在り。一同之と車中に会し、同車名古屋停車場に到れば、……十数名の校友幷に有志の諸氏出迎ひ、……同市津の国屋に投ず。当日は墺国皇儲、岐阜に来らるるに会し、歓迎の為め満市球燈を輝し市街頗る賑へり。午後五時より校友諸氏同地の濃陽館に一行を招き、宴会を開き晩餐を饗す。酒問岐阜県下校友の意見として本校の教育上に関する談話あり。其要は当県下の事情より推せば、将来は学生をして第一に父の遺産を守るに必要なる教育を為し、其より進んで他の学識を養成するの方針を執らんことを望むと云ふに在り。其より献酬の間、互に往事を談じ将来を語り和気靄然、深更解散を告ぐ。……

同十五日正午より同市泉座に於て講話会を開く。本校評議員砂川雄峻氏大阪より、校友上遠野富之助氏名古屋より来会せり。岐阜の校友石井駒次郎開会の辞を述べ、次に太田(登記法の話)、井上(信用制度)、平田(相続の話)、土子(銀価問題)、砂川(証書及定款の話)、高田(政党内閣原理)の諸氏順次登壇講話せられたり。天野氏は已に薄暮に迫り時間なきを以て出演を見合せたり。此日来聴者凡そ千有余名、講話時間七時間の長きに亘り、加ふるに暑熱燬くが如くなるも、更に倦怠の色なく終始静聴せり。午後七時より同地万松館に於て懇親会を催し、一行を招待す。松原氏先づ開辞を告げ、小川氏一行に代り挨拶を為し、且例に依て学校の状況を詳述す。次に天野氏は、日本近時の進歩に付き我国と欧米との比較を為し、哲学上より個人に譬へ、我国は未だ少壮なり、欧米は既に成熟せり、少壮者は成熟の期あり、成熟者は老耄の時あるは当然なれば、我れの彼を凌駕する難きにあらずと説き、次に高田氏は実業と政治との関係を詳述し、土子氏は近来師弟の関係の衰へたる事を説き、当地に到り校友其他の諸氏の待遇に接し未だ全く然らざる所以を発見し欣喜に堪へず、則ち此の如き善例を拡充して、天下の師弟の関係の衰へたるを挽回せんとの主意を演ぜられ、孰れも喝采を博す。……

同十六日午前六時三十四分、……岐阜停車場を発す。……正午……京都七条に着、……直に車を聯ねて麩屋町俵屋に投ず。……此日は一日閑暇なるを以て、一行中京師の旧跡を探るものありき。

十七日午後七時より瓦町四条上共楽館に於て講話会を開く。先づ校友井上豹太郎氏開会の趣旨を述べ、次に平田(婦女に関する法律)、非上(産業保護論)、土子(銀価問題)、天野(経済的教育)、高田(憲法五十五条を講ず)の諸氏順次講席に登る。太田氏は時間の足らざるため休講す。閉場したるは十一時過なり。当日夕景より風雨を催し、開講中暴風雨と変ぜんにも拘はらず、来聴者無慮八百名に達し、閉会に至るまで謹聴したるは熱心を徴するに余りあり。

同十八日午前八時より同志社を参観す。……午後七時より河原町共楽館に於て懇親会を催し、一行を請待す。伊東誠太郎氏開詞を述べ、小川氏挨拶を為し、併せて本校の現況今後の計画等に付き詳述し、高田氏は学問の独立に関し一場の演説を為し、同志社講師市原氏は小崎校長に代り、専門学校今回の挙は、高等教育を普及し、実務に齷齪する者に高尚なる智識を与へ、社会の為めに大なる裨益ある所以を詳説せられ、医師島田弥一郎氏は、本校今回の巡回講話は一、二新聞の伝ふるが如く、表面の仮託にして其内実は政党の遊説ならんと予想したるに、今其講話を聴き各講師に接し、是迄の誤解を悟り甚だ赧然たり。世間幾多の我等と誤を同くするもの為めに愧死すべしと、頗る感激したる弁を振はれたり。本日の列席者七、八十名にして判事、弁護士、銀行家、教育家、府市会議員、郡町村吏、実業家、学生等なり。……

同十九日午前十一時五分、京都発汽車にて大阪に向ふ。……梅田停車場に着すれば諸氏出迎ひの為めに待受けたり。一同相伴ひて中ノ島花屋に投ず。有志者の来訪する者続々として踵を接す。午後五時より土佐堀青年会堂に於て講話を為す。評議員砂川雄峻氏開会の辞を述べ、本校の成立、現況、将来の計画、及び今回京阪以西地方の入学者に便ぜんが為め当大阪に於て入学試験を為す事等を詳述し、井上(産業保護論)、太田(登記法の話)、天野(経済的教育)、高田(憲法五十五条を講ず)、土子(銀価問題)の諸氏熱心に講了す。平田氏は時間不足の為めに見合はせられたり。此夜聴衆は二千名の上に達し、階上階下立錐の余地なき程にて、貿易商、学生、実業家、官吏等其多分を占む。講話は午後五時半に始まり、十一時過に至て終る。其間聴衆一人の退席したる者なきは、講師諸氏の講談に巧妙なるに由ると雖ども、抑亦当夜の聴衆が学問に熱心なるの致す所にあらざるなきを得んや。実に大阪に於て此の如きは未曾有の事実なりと称したり。

同二十日午後六時より中の島洗心館に於て懇親会を開く。前川氏開会の辞を述べ、且曰く、従来学問と実業とは離隔の姿なりしも、今回本校の挙は之をして一致協同せしむるの端緒を開き、即ち将来実業及び学問両者の上に就き、祝賀すべき大事実なりとて、詳に其理由を演説せられたり。次に小川氏は例に依り一行に代て挨拶を為し、併せて本年本校各学科の改正、将来の計画を述べ、又土子氏は、当方は実業の土地にして学問には冷淡ならんと予想したるに、昨夜聴衆者の多数にして其静聴したると、今日此宴会に出席者の夥しきとは、其予想に反する所にして、是近来学問と実業との接近せる証拠なれば、斯国の為め賀すべきなりと述べ、高田氏は本校創立の趣旨、今日迄の経歴等に付き詳述し、森作太郎(市会議長弁護士)、黒瀬佐太郎(私立東洋学館長)の両氏は大に今回本校の挙を賛成するの演説を為す。終りに広島県の校友森田卓爾(弁護士)氏の演説ありて退散したるは午後十時過なり。……

同二十一日午前九時より、一行前川氏の案内にて大阪城を縦覧し、天主閣の旧址及び同閣の傍らに目下新設中の水道貯水池を回覧し、高田、小川の両氏は本校評議員北畠治房氏を訪問せり。此日関西地方入学者便宜の為め、九月九日当市に於て入学試験執行の事を砂川氏と協議し、砂川氏〔の〕事務所を受験者申込所と為し、青年会堂を試験場に充て、其旨京阪、四国、中国、九州各地の新聞に広告するの手筈を定めたり。

同二十二日午前十時二十分大阪を発車し、神戸に赴く。……午後六時、楠公祠前大黒座に於て講話を開く。評議員砂川氏開会の辞を述べ、太田(登記法の話)、平田(相続の話)、天野(経済的教育)、土子(銀価問題)、高田(憲法五十五条を講ず)の諸氏順次講了せられたり。当夜の聴講者は二千名に近く、講話は午後五時半に始まり十一時半に終れり。而して同夜は天候穏かならず時々驟雨を催したれども、来聴者は之に関せず終始静粛に謹聴せり。

同二十三日午前舞子の浜に遊び、亀屋にて昼飯を喫す。懇親会に臨む為め午後四時帰神し、午後六時より神戸市兵庫音羽花壇に於て開設せる懇親会に臨む。宴席は同家庭園の芝生の上に天幕を張り、電燈を点じ卓椅を列し、立食の宴と為す。其清楚簡潔真に愛すべきなり。校友藤井友次郎氏開会の詞を述べ、小川氏挨拶を為し、高田氏、平田氏の演説あり。次に鹿島秀麿氏の演説ありて散会したるは十時過なり。……

同二十四日一行本日を以て、神戸を発足し帰京の途に就かんとす。然るに昨夜坪野氏より話しありて、両三日来暴風雨の為め岐阜大垣間の鉄道破壊し、今後一週間は不通なるべしとの事を聞けり。依て帰途は更に草津より関西鉄道を経て熱田に出るの路を取り、一行午前十一時五分を以て神戸を発靱す。但夏期の休業猶二旬を余すを以て、帰路は一行中処々に漫遊を試みる者あり。其一同の尽く東京に帰着せるは、蓋し八月の末日なりしならん。

以上今回巡回講話の略記なり。……本校今回の挙たるや、我邦に於て未だ前例なき所なり。時に時、三伏の候に属し、人々皆去て涼地を求めんとす。是を以て本校の当局者は、其初に当り実施の方法と其結果如何を顧慮し、頗る躊躇する所ありしが、一旦之を決行するに及んでは、其成績予想の外に出で、即ち講話会を開くこと東西七ケ所、来聴者の数、前後を通して壱万人に垂んとす。加之、一行の各地に至るや、歓迎優待到らざる所なく、為に懇親の宴に請せらる亦七回、二旬の間に七百有余名の紳士と献酬談笑するの栄を得たりと云ふ。是に由て之を見れば、此挙の如何に各地に賛揚せられ、如何に各地に優遇せられ、如何に各地に謹聴せられたる歟。蓋し問はずして知るべきなり。凡そ物、其功益なくんば、則ち人、之を尊重することなし。今巡回各地に於ける成果此の如きを察すれば、則ち此挙の其目的を誤らず、以て我邦の専門教育普及の上に於て、少補する所ありしや疑ふべからず。而して其之をして、能く此に至らしむる者は、抑々誰の力と為す。是れ各地校友推轂の力と、有志諸君が成美の徳とに由るのみ。 (二八―三七頁)

 煩を厭うことなく、甚だ長文の引用を以上行ったのは、我が国の高等教育機関による校外教育が、明治二十年代にあって、学苑以外においても、既述(六〇〇―六〇一頁)の英吉利法律学校をはじめとして、専修学校、明治法律学校、日本法律学校などで実施されたにも拘らず、巡回講話を制度的に確立したのは、独り学苑のみであったからである。『明治二十九年度東京専門学校年報』は、これが「爾来例トナ」ったとし、次の如く、聴講者に対するその周到な配慮を明記している。

此ノ講話会ノ計画ハ主ラ各地校友ノ斡旋ニ依ルモノニシテ、講話ノ方法ハ予ジメ講題幷ニ其ノ要領ヲ刷行シ、之レヲ聴講者ニ交附シ、高尚深遠ノ学理ヲ極メテ平易親切ニ講説シ、聴講者ノ種類ノ如何ニ拘ラズ、総テ会得セシムルヲ目的トス。而シテ之レニ要スル経費ノ如キハ、本校幷ニ地方校友之ヲ負担シ、毫モ聴講者ヲ煩ハスコトナシ。 (二六頁)

 この翌二十七および二十八年の巡回講話について、右の記録に匹敵するような長文のものが残っていないのは、単に学苑関係の記事が掲載される雑誌の編集者に変化が生じたからばかりではない。二十七年二月十五日、朝鮮全羅南道に勃発した郡主趙秉用に対する民衆の反乱に端を発した朝鮮各地の不穏な情勢が、日清両国の朝鮮出兵を導き、遂に八月一日、清国に対する宣戦布告となって、いわゆる日清戦争が開幕したことも影響しているのである。我が国としては先に朝鮮との間に壬午事変あり、甲申事変あり、ともに外地出兵を行ったが、大国を敵にして干支を交えるのは、明治になってこれが最初である。国を挙げての戦いであり、一国興亡を決する運命的悲戦でもあった。あたかもこの開戦の時期は本校得業式が行われる時であり、五千万円の軍事公債が発行され、国民の寄附が始まった頃は、たまたま本校が第二回巡回講話会を行う時期に相当していた。従って第一回のような長期に亘る大規模な講話会を行う由もなく、『中央時論』第二号(明治二十七年四月発行)には、次のような簡単な記事が見えているだけである。

一月四日、冬期休業を機として千葉県千葉町に巡回学術講話会を開けり。出席者は高田早苗(国家主義と超然主義)、土子金四郎(銀行談)、平田譲衛(養子の説)、斎藤和太郎(地租と地価の関係)の四氏にて、諄々学理を実際的に説明され、満場八百の聴衆は学術講演の有益なるを感じたり。終りて懇親会を開く。来会者六十名。席上小川、斎藤の両氏及西村千秋氏の演説あり。両会とも盛会なりき。 (四九|五〇頁)

 日清戦争は翌二十八年まで継続され、その年の二月および三月には、我が主力が清国の領土内に進出して遂に山東半島、牛荘、営口を占領し、戦いを有利に進めた結果、清国から我に和を求めるようになり、四月十七日、日清講和条約に調印したが、その直後三国干渉が行われ、我が方は涙を飲んで遼東半島の還付を承認した。かくしてこの問題は六月一杯でほぼ解決したから、七月の得業式は、多少の不満はあっても、戦勝祝賀気分を味わいながら無事終了した。しかしこの年の巡回講話会も長途遠征ではなく、八月(?)八日に、千葉町の梅松別荘で午後一時から開かれた。この記録も短文で詳しいことは不明であるが、それによって講師、演題、景況を記してみよう。

斎藤和太郎 「戦後の海運業」〔本邦海運の発達を述べ、日清戦争の結果、更に海運の拡張を謀るべき理由につき詳述。〕

中郷七郎 「法理と哲学との本領」

田中唯一郎 「講話会に就て」〔本校講話会の由来、性質およびヨーロッパ諸国各大学の現状を説明。〕

井上密 「国法々理提要」〔政体の変遷、議会の性質および国法の種類について概論。〕

井上辰九郎 「農業銀行論」〔同銀行の性質、必要および組織の方法等をヨーロッパ各国の実情に照して詳述し、戦後の経済上信用制度が発達しなければならない理由を説述。〕

天野為之 「経済学一班」〔軍事公債の経済、社会に与えた影響、および清国からの日清戦争賠償金の使途について論説。〕

(『中央時論』明治二十八年九月発行第一六号 五四頁)

聴衆の主力は、師範学校、中学校、高等医学部各学生で、これに実業家らが加わり総数七百名。散会後梅松楼で懇親会が開かれ、講師を含め、学校から参加した教職員は、天野為之、非上辰九郎、非上密、田中唯一郎などであった。

 二十九年の「巡回講話会」については、予告記事が『中央時論』第二十六号(明治二十九年七月発行)に記載されているけれども、講演内容や当日の状況等の詳細は一切不明であって、『明治二十九年度東京専門学校年報』には、「二十九年九月ニハ、埼玉、新潟、長野ノ三県ニ、十数箇所開会ノ筈ナリシガ、新潟、長野ノ二県ハ出水ノ為メ開会スル能ハズ、埼玉県ニノミ開会セリ。」(二六頁)との記載が発見されるのみである。また、三十年には、巡回講話の行われた形跡はない。

 これに引換え、三十一年以降三十五年までの会の活動は、至極活発であった。すなわち三十一年の夏季東北巡回講話会は、時あたかも衆議院議員総選挙期日の発表に際会したため、政界に関係ある講師予定者が一行に加われなくなったが、それでも、天野、坪内、浮田などの錚々たる学究が講師陣の中核となり、七月二十二日、白河町における講演を皮切りに、宇都宮、郡山、福島、仙台、石巻、涌谷、盛岡等八ヵ所で講演会を開き、六百名から二千名に及ぶ聴衆を集めて盛況を誇った。各地の会合における出席者は多種多様で、校友、帰郷学生は勿論のこと、貴衆両院議員、県・郡・町・村会議員、市町村長、判事、弁護士、中小学校長ならびに教員、銀行頭取、実業家、農工商業者など、各層の名士を集め、さながら校外大学の様相を示したかの観があった。

 三十二年、恒例によって開催された夏季巡回講話会は、本学苑創立以来特に関係が深い信越地方に舞台を移し、講師にも天野、坪内、市島に校友増田義一斎藤隆夫らの精鋭をすぐってこれに当てた。講演個所は、高田、長岡、新津、新発田、村上、新潟、長野等で、八月一日より十三日まで、各講師ともその得意とするところを披露して好評を博したが、特に注意すべきは、同地方出身の市島が、到る所で「本校の過去、現在、将来」について詳述し、大いに学苑の宣伝を行っている点である。

 三十三年に入ると、その年の七月に、北海道在住校友、その他知名の士の懇望やみ難く、学苑を代表する大隈英麿鳩山和夫高田早苗の首脳陣三名が長駆渡道し、函館、札幌、小樽で彼らの熱望に応えている。実はこの北海道行は予定になかったもので、この年の計画は、八月に実施すべき北陸巡回講話会であった。すなわち、講師天野、浮田、中村(進午)の三名は、田中唯一郎幹事を伴い、八月五日新橋を発ち、福井、富山、金沢の北陸都市をはじめ、八幡、大津、岐阜、豊橋を巡遊した。なお、岐阜では、高田ならびに長田忠一が一行に加わっている。

 ところで『早稲田学報』も五十号を越すと、内容も豊富になり、編集の方法も上達し、学術雑誌としての体裁を具えながら、学苑と校友との紐帯を固めんとする意図が明確に現れてくるので、巡回講話会の記録も整備している。特に三十四年以降は、早稲田大学設立基金募集のこともあって、巡回講話会に対する意気込みも変って来たのが察知される。この年すなわち三十四年は主力を東北四県に絞り、準備、日程その他に万全を期している姿が、記録から十分に知り得られる。大隈英麿、天野、浮田、田中幹事の一行は、七月二十七日上野を発ち、仙台から弘前、大館、鷹巣、土崎、秋田、大曲、六郷、横手、盛岡、野辺地、八戸、花巻、遠野、盛、高田、気仙沼の各地を経て仙台に帰り、八月二十五日に帰京している。途中の九―十日には東北地方に強震があり、鉄道が不通になって困難し、八戸では講話会、宴会など中止というような思わぬ事故に遭遇しているが、主として天野と浮田とが演説した講話会の回数こそ、一ヵ月の旅行中十三回と少いものの、招宴は十七回に及び、大隈と田中の活躍により「基金募集」に対する地方校友の了解を取り付けるという主目的は一応達成できた。なお創立当時の功労者や、かつて講師を務めた人、初期の校友の多くが、有力者として活躍しているこれらの地方の募金を更に強化するため、同年末再び宮城・岩手県下において巡回講話会を開くことになった。尤も基金募集が主たる目的であったから、何れの地においても、在郷校友諸氏による懇親会という形がとられてはいるものの、派遣された講師の演説は、「私立大学設立の必要」、「欧米学風の一般」など、教育上の見地から大学設立に言及しているところに、講話会的要素を多分に兼備していることは否めない。ただしここで特に注意すべきは、同地方に最も関係が深い大隈英麿一人が、その講師を買って出て、これを補佐するに同地方出身の首藤陸三が当てられていることである。彼ら二人は十一月二十三日、福島町を皮切りに、仙台、登米、中津山村、鹿の又村、石巻、岩手県岩谷堂、水沢、盛岡での懇親会に臨み、教育問題について演説した後、基金募集の方法、集金の手配などに言及し、十四日間の日程を消化して帰京している。

 翌三十五年四月、鳩山、高田、天野、岡田朝太郎、長田忠一、林田亀太郎ら学苑の精鋭は、大挙して関西地方に出向した。表面の理由は「講話会と懇親会」の開催であったが、主たる目的は、本邦の経済界を事実上左右している関西財界人の援助を求めるにあった。従って講話会もさることながら、懇親会の成果に大きな期待を寄せていたことは言うまでもない。この日程は、十二日午前六時、一行の新橋駅発に始まり、翌十三日には名古屋の歌舞伎座において聴衆約二千名の大講話会を開催して大いに気勢を上げ、更に同夜の懇親会、大阪における校友会等で募金の勧募をした後、高田、長田、山沢俊夫らは、在阪要人と個別的に会談して援助を求めた。更に一行は京都に入り、在京の財界要人ならびに校友を招き、募金の件を依頼して、七日間の行事を終っている。

 ところで東京専門学校を早稲田大学に昇格させるべきこの年九月の新学期までには、何としても大学設立に必要な基金の目安をつけておかなければならないので、学苑当局は、例年の如く夏季休暇を利用して講話会を開くというような悠長なことは言っていられなかった。すなわち高田学監らは、関西から帰京して五日後の二十四日には早くも北陸巡遊の旅に出掛けた。基金募集専務委員水口鹿太郎を帯同しているのは、取りも直さず今度の旅行も「巡回講話を兼ねた」基金募集が本来の使命であったからである。二人は富山に直行し、地方の校友に面接して募金の応援を依頼した後、二十九日からのおよそ二十日間は、三日市、魚津、滑川、出町、高岡、石動、富山、金沢、七尾、武生、長浜を巡回し、計十六回の講話会と十九回の懇親会とを開催している。講話会の演題は「世界の大勢」、「我国現今教育上の通弊」、「教育上の二大方針」、「国民教育の方針」等で、およそ教育に関するものが多く、懇親会の場合は言うまでもなく、「大学設置と基金募集」に限られていた。

二 講義録出版

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 中央大学図書館に所蔵されている『特別認可東京専門学校々外生規則』は、年月が明記されていないけれども、その課程表ならびに講師表から見て、明治二十二―二十三年頃のものと推定される。そして、東京専門学校出版局の所在地の麹町三番町が抹消されて、「神田区美土代町四丁目五番地」と刻まれた出版局の印が押捺されているところから、横田の手を離れる直前の姿と考えて差支えないであろう。それに掲載されている校外生規則を、二十一年六月のものと比較すると、正科の規則の改正(五四七―五五二頁参照)に則して、第三条が、「講義録を分ちて三種となし、政治科校外生の為めに発兌する者を政治科講義録と称し、第一法律科校外生の為めに発兌するものを司法科講義録と称し、又第二法律科校外生の為めに発兌するものを行政科講義録と称す」と改められた外、「追加」として、「第一請求に依つて校外生には本校の印章ある証票を附与すべし。第二校外生は本校教場を参観するを得べし。但し、参観せんと欲する者は、証票を本校事務員に示し、其指揮に随ふべし。第三校外生は本校内に於て開会する演説及臨時講義等を傍聴するを得べし。但し、傍聴せんと欲する者は、同前の手続を為すを要す。」の三項が添えられている。講師数は二十八名と、二十二年二月の数よりも三名増加しているが、新顔は鳩山和夫(国際公法)、伊国法律大博士パテルノ、ストロー(憲法論)、穂積陳重(法理学)、米国法律学士チィソン(国際私法)、内田定槌(売買法)、小出鉚太郎(流通証書法)、有賀長文(考証経済学)、朝倉外茂鉄(日本訴訟手続、擬律擬判、証拠法、商船法、破産法、代理法)、下山寛一郎(憲法史)、平山銓太郎(衡平法)の十名で、退任したのは戸水寛人、高橋昌、中橋徳五郎、中村忠雄、松野貞一郎、木内重四郎、三崎亀之助の七名であった。

 さて、講義録の学苑直営への移管については、『同攻会雑誌』第一号(明治二十四年三月発行)に、次のように報ぜられている。

東京専門学校講義録の改良従来東京専門学校より発せし政治科・司法科・行政科の講義録は、其出版頒布を校外の営業者に委託し置きたる処、監督上其意に任せざる場合多く、為めに許多の弊害を醸成し、購読者の便宜を欠きたること鮮からざりしが、本校茲に見る所ありて、去二月一日より、右出版・頒布の事務とも総べて之を本校に移し、百事周到の監督を為し、勤めて読者の便宜を謀り、各科の講師には夫々適任の人を撰み、編輯に於ても、政治科は斎藤和太郎氏専ら管理の責を負ひ、司法科は小山愛治氏之に任じ、行政科は両氏併せて之に当り、百事整備を告げたるが故にや、去二月以来校外生の申込も続々増加し、日に隆盛を添ゆるの勢あり。 (三一頁)

 そして、同じ号に掲載されている校外生規則の第十七条には、「束脩幷ニ月費ハ都テ東京牛込早稲田東京専門学校幹事田原栄へ宛テ納ムベシ。但シ入学其他ニ関シ東京市内ハ通知次第本校ヨリ係員ヲ派出スベシ。」と規定され、東京専門学校出版局の名称は見られなくなったのである。

 当時学苑の事務員であり、直営になってからは専ら講義録出版を掌っていた川越の名家出の小久江成一(東京専門学校中退)が、後年左の如く追懐しているのは、恐らく、事実を伝えているものと見て、誤りないであろう。

慥か明治二十四年であつたと思ふ。講義録の出版が不況に陥つて、従来出版販売共に引受けて居つた横田敬太と云ふ人が迚も行り切れぬといふ事で投げ出す。加之、当時恰も稍々入学生の不振を見たる学校内部に於いても、「講義録を講読し居れば、態々上京して入学するにも及ばぬ道理である。入学生の不振は、講義録の出版、幾分か之れが因を為すにはあらずや」などとの沙上偶語的の反対もあり、幹部中にも之れに同ずる人があつて、講義録出版の存廃問題が持ち上り、出版部は一大危機に遭遇した事があつた。時恰も学校の幹事であられた田原先生は、当時学校の直轄事業であつた講義録出版の事にも直接監督の任に当り居られたのであるが、此の時先生は敢然として、「東京専門学校建学の補助機関として発行し来りたる講義録を、少し位ゐの不況を見ればとて、之を廃刊するは如何にも残念である。而して講義録の発刊が学校建学の趣旨を天下に拡布するの機関とこそなれ、学生入学の不振を来す原因となるなどと云ふ事は断じてこれ無き事と確信するが故に、従来の行り方に一大刷新を加へ、多少の損失覚悟で、今一年是非行つて見ようではないかと云ふ事で」、此の決意を当時の学校幹部に齎されたる所、幹部の人々も先生の熱心決意の奪ふ可らざるものあるを看取了会せられたのであらう、議は幸に幹部の容るる所となり、講義録は引続き発刊の事となつたと云ふことである。で、先生は勿論部員一同茲に大責任を感じ、講義録の編輯は勿論庶務其他一切の事にベストを尽して行つたが、丁度時機も好かつたのであらう、奮励努力の甲斐あつて、行つて見た一年の成績は頗る良好で、発刊部数は予期以上に増加し、従つて従来の損失なども大部分補填し得たといふ有様であつた。一年の試みに此の良成績を挙げ得たので、是れならばと、発刊継続の事が確定せられ、爾後時運の進歩、学校の発展拡張と共に講義録の出版も愈々益々拡張せられて、早稲田大学出版部の今日あるを致したといふ次第である。 (『田原栄君紀念録』 一二二―一二四頁)

 後掲の第二十一表(一〇二九―一〇三〇頁)によって明らかなように、二十四、二十五年には校外生数が激減しているが、これは第十七表(一〇二三―一〇二四頁)に示されている校内生の減少(二十五年四月二日の『東京朝日新聞』は、「近来府下五大法律学校生徒の日を追ふて減少すること非常にして、講師も講義に張合なき程なりと。右は一時東京に法学書生の過多なりし反動なるべ〔し〕。」と報じている)と時期を同じくするものであった。しかも二十四年には、東京法学院(旧英吉利法律学校)の他に、和仏、専修、日本、明治、哲学館と、講義録は供給過剰の様相を呈し始めている。この時期に、敢えて直営に踏み切ったのは、一つの冒険であったには違いないが、そこに若い高田の、そしてまた田原の、学苑の教育の現在と将来とに対する並々ならぬ自信が汲み取られるのである。

 直営移管後、講義録購読者の数が増加したとする記事は、前に引用したもののみに止まらないが、たとえその信憑性については若干の疑問があるにせよ、著増とは言えなくとも、恐らく漸増はあったと見るべきであろう。他方、編集の面では着々と改良の実が挙がったものと考えられる。第二次『中央学術雑誌』の中から、それを報じた記事を、次に二つ拾ってみよう。

講義録も学課其他の改良に連れ、来る十月よりは大に改良を施こすと云ふ。其一、二を挙ぐれば、……各科共毎月三回〔政治科は三の日、法律科は六の日、行政科は八の日〕とし、一冊の紙数を八十頁とす(四冊発行せしとき一冊六十頁なれば紙数には差なし)。月謝は在来三十八銭又は四十二銭なりしを改めて四十銭とし(但六ケ月以上払込む者は三十八銭の割)、司法科講義録を法律科講義録と改称し、又掲載課目は各科共正課目の外有名なる博士・学士の科外講義を載せ、又此分は一回限り読切りと為す等なり。政治科講義録は山沢俊夫氏田中唯一郎氏と共に之に任じ、法律科及行政科講義録は小山愛治氏細野繁荘氏と共に之に任じ、又別に速記者数名を雇入れ、参考課目の講演を速記せしむると云へば、講義録も従前に比して一層完全するなる可し。 (明治二十五年九月発行第五号 五五頁)

講義録の改良は目今最も盛んにして……編輯上事務上共に着々整頓し、専任の編輯員は日々編輯室に在りて編纂に従事し、一方には高田俊雄、吉田巳之助、芳賀芳輔、前川九万人、白髭武三次、中村音吉外数氏は、拮据として日々欧州大家の学説を翻訳し、毎号附す可き参考課の材料を供給せり。又掲載課目は授業と成丈け異な〔ら〕しむるの方針を採り、且是迄編輯人の名を列載し筆記誤謬の責任を負はしめしも、講師が校閲する上は講師自ら責任を有す可きは当然なれば、編輯人の名を除〔けり。〕……而して本月以来校外生の入学追加逓増し、府下各種講義録中将に一頭角を顕はさんとす。

(明治二十五年十月発行第六号 六四頁)

 すなわち、学苑で行われた講義の単なる活字化に満足するところなく、講義録の独自性を発揮しようとの新方針がここに樹立されたのであるが、その具体的内容を明らかにした広告が、学苑の名で翌年同じ雑誌に掲載されている。

東京専門学校講義録

正科課目

正科課目ハ本校各講師ガ本学年校内ニ於テ授業スル所ノ講義及各科専攻ノ博士・学士自身執筆ノ任ニ当ル所ニシテ、学理ノ蘊奥ヲ闢キ、兼テ実際上ノ知見ヲ養成セシム。殊ニ其文章ハ明晰通暢毫モ難解ノ虞ナキヲ期ス。

翻訳課目

今回新ニ翻訳課目ヲ設ケ、欧米諸国ニ於テ名声嘖々タル新著ヲ撰択シ、担当講師自ラ執筆シテ之ヲ翻訳掲載シ、講修者ヲシテ不知不識ノ間完全無比ノ参考書ヲ得セシム。

参考課目

参考課目ハ内外ノ博士・学士ガ本校科外講筵ニ於テ講述シタル最モ有益ナル学理的若クハ実際的ノ講義ヲ掲ゲ、又政治・経済・法律学二関シ欧米ノ学問社会ニ現ハルル最新ノ学説ヲ訳載ス。

法律課目

既成法典ハ現ニ法典調査会ノ設アリテ将ニ改正セラレントス。改正法典ノ今日ニ於ケル、恰モ既成法典ノ発布前ニ於ケルガ如ク、法学ニ志ス者ノ皆之ニ通ゼント熱望スル所ナリ。本校講師ニハ調査会ノ主査及査定委員タル者多キヲ以テ、本校今学生ノ課程ハ此等ノ成説ニ準拠シ、組成スル所又講義録ニ掲載スル所モ全ク旧套ヲ脱シ、純然改正ノ真理ヲ発揮シ、講修者ヲシテ他日改正法典ノ原則ニ通暁セシム。…… (明治二十六年十月発行第二巻第一三号 広告)

 右にあって、特に「法律課目」につき多言が費やされているのは、法律関係の講義録に競争が厳しいからでもあるが、日本の法学の進歩に対する講義録の貢献が大きかったのを反映している点も、見落すべきではなかろう。『中央時論』(明治二十九年六月発行第二五号)は、それに関して、「法律学と講義録」と題する短文で、左の如き見解を述べている。

我国法学の進歩に著大の功績を致したるは実に講義録の発行なりとす。……就中彼の英国法の研究の如きは、講義録の効に帰すべし。蓋し仏国法に付ては、政府が夙に仏法摸倣の挙ありし為め、巨多の国費を支出して、明治の初め民法提要、民法覆義其他の法律書を翻訳し、之を広く販売したれば、全国の各裁判所は勿論、学生の悉く此等を読習してよく仏法に通ずるを得たるも、英米法に至ては、固より法典なく律文なし、只各科に付て学者の著書若くは判決例の書あるに過ぎざるのみならず、政府の之を翻訳したるものなかりしければ、原書を読み得るものの外、英法を研究するの途を得ず。茲に於て乎、英法を教へたる東京専門学校及び英吉利法律学校(法学院)、専修学校の三校、同じく講義録を発行して英法の各科目を掲載し、三年を以て公法・私法の全部を終るの仕組を立て、少くも数千部、多きは数万部を出版したれば、英法律書天下に治ねきに至りたり。英法の各校講義録を発兌するに傚い、仏法の学校亦之を発兌したれ共、其必要の度は遠く英法に及ばざりしと云ふ。然るに明治廿三年法典の発布有、今は又修正民法の発布あり、従て前に英法を登載したる各講義録も其方針を一変して、新法典の講義録を発行するに至りければ、茲に英・仏法の区別も消滅するに至りたれ共、凡そ法を解釈する、同じ条文同じ法典も之を英法に解釈すると仏法にすると差異なき能はず。加ふるに商法の発達は英国法に起りたれば、従て商法は英国法の解釈を宜しとするが故に、今も各講義録自ら英・仏の区別あり。専門学校・法学院・専修学校のは英米派に属し、明治法律・和仏法律・日本法律のは仏派に属す。而して右の中、当下其発兌部数も多く益々盛況なる者は、実に専門学校の法律科・行政科講義録、東京法学院の講義録及び明治法律学校講法会の講義録なり。其講法会のは重に法典の註釈を為すに過ぎざるも、前の二種は講義に加ふるに法律規定の可否を以てするが故に、学者の参考として尤も益を与ふと称せり。 (二八―二九頁)

 講義録が学苑の直轄に移されてから三年、二十七年になると、政治科校外生は二十三年の数を回復し、法律科はそれを遙かに上回り、行政科は未だそれに達しないにしても、三科校外生の総数は二、〇五七名と、二十三年の一、九九二名を凌駕するに至った。しかも、漸く講義録の成功が客観的に立証されたのに力を得た高田は、この年八月から「実際に講義録の発行に関する事務を監督すること」(『中央時論』明治二十七年十一月発行第八号五一頁)に乗り出した。或いは、高田の耳には、トゥーサン(Charles Toussaint)とランゲンシャイト(Gustav Langenscheidt)とがベルリンで語学の通信教授を創始した一八五六年より未だ半世紀も経過しない一八九二年(明治二十五)、シカゴ大学では遂に通信教育部の設置に踏み切ったとの報が、どこかから入ってきて、日本のハーパーたらんとひそかに期するものがあったのかもしれない。

 高田が先ず決断したのは、文学科講義の刊行であった。坪内を中心として文学科が創立されてから既に四年の日子を閲し、その異色ある教育は学苑の特色の一つとなっていたのであるから、遅すぎたとさえ言えないことはなかろうが、実はこれには経緯があったのである。それは、河竹繁俊柳田泉著『坪内逍遙』から引用すると、次のようなものであった。

元来、東京専門学校は、率先して講義録を出版して、学問の普及を計つたのだから、前年文学科の新設に際しても、文学講義録を発刊する予定であつた。ところがその計画を洩れ聞いた文学科の学生が反対したので、延期になつてゐたのだ。その反対の理由は、文学科の講師は何れかと言へば筆の人が多い。講義録が発行されれば、学校へ来る必要はなくなるであらうと頑張つたのである。当時は教員資格等に何の関係もなかつた時代であるから、かうした反対にも相当の理由があつた。

(二三七頁)

 そこで、講義録に代るものとして、講義録的内容の『早稲田文学』が二十四年に創刊されたのであったが、次第に『早稲田文学』からは講義録的色彩が払拭されたとはいえ、二十八年一月に文学科講義録の刊行が実施されたのは、高田の英断であったに違いない。『中央時論』(明治二十八年一月第一〇号)には、二十八年一月の日付による『校外邦語文学講義』の広告が掲載されている。

本校曩に「ユニヴルシチーエキステンシヨン」の制に傚ひ、僻陬の篤志者又業務ありて良師に就き得ざる者の為に、政・法諸学科の講義録を発刊せり。独り文学科諸講説は、重に原著を用ふ故に今日まで遷延せり。今や国威異域に震ふ。之に伴ひて文学思想発展の必要弥切なるを覚ゆ。於之今回邦語文学講義を編輯し、校外篤志者の講習に資せんとす。蓋文学講修の道稍具れるに似たれど、普通の文学講義は概ね訓詁註釈、否らざれば大抵尋常中学程度のもの、高義に謂ふ文学の講義に非ず。又史学、哲学、心理学等の著訳も乏しからずと雖も、或は高尚初学に適せず、或は訳語艱渋多少原語に通ぜざれば殆ど解し難きもの比比是也。我講義録は此等欠点を補はん為に発刊す。故に講義は凡て最新学説に拠り、広く先哲の所論を参酌し、杜撰独断の弊を避け、簡にして悉、文章はた平易明晰、初学者能く解すべし。若夫和・漢・英三文の註釈は普通の煩瑣なる評訳を棄て、一種創新の法を用ひ、一読三文学の精髄に会せしむ。所詮三文学の大綱を領せしめんとする、是れ本講義録発刊の主旨也。

(六二頁)

学科としては、一年級に、哲学、論理学、美辞学、史学、日本文学史、英文学史、和漢英文評釈、二年級に、哲学史、心理学、美学史、日本文学史、支那文学史、英文学史、和漢英文評釈、三年級に、哲学史、倫理学、社会学、支那文学史、独文学史、仏文学史、英文評釈、言語学、戯曲史が挙げられ、講師としては、今井鉄太郎、池ヶ谷一孝、畠山健大西祝金子馬治、立花銑三郎、坪内雄蔵上田万年、藤田藤之助、藤代禎輔、小屋保治、後藤寅之助、斎藤木、斎藤阿具、阪田典治、島村滝太郎関根正直が名を列ねている。果せるかな、文学科講義録は江湖の歓迎するところとなり、第一年度にして申込み者の数は既設の三科の何れをも凌駕し、第三年度以降は一千名を遙かに超すに至った。

 講義録を学苑の直営に移した際の「東京専門学校講義録係」が、「東京専門学校出版部」と称するようになったのは、正確にいつからであるかについては、現在のところ記録を欠いている。しかし、恐らく、二十八―二十九年の交であったのではあるまいかと推定される。そして、出版部の名称が確立したのが、学苑の講義録の重要性が内外に認識された時期であり、同時にまた、講義録以外の出版を開始する時期でもあったのである。講義録ならびに出版部のその後の発展については、以下に『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』から引用しておこう。

三十三年十月講義録の三年制度を改めて現今の如く二年制度となし、是より結果大に挙がるに至れり。三十四年……十月史学科講義を発行して、文学科講義を文学教育科講義と改め、三十五年五月中等教育を発行して益々盛況を添へ、以て今日に至る。……抑々講義録の発行は、日常登校して親しく業を受くる能はざる者に独修の便を与へ、之が為めに学術の普及に資する所極めて大なりと雖も、講義録は自から紙数に限りあり、学科亦た局する所あるを以て、普ねく内外諸大家の名編大作を網羅せんことは到底望み得べくもあらず。而して名編大作を繙くことの切要なるは、啻に校内生たると校外生たるとを問はざるのみならず、又た学者たると実業者たるとを問はざるのみならず、何人の為めにも等しく必要の事たり。幸に外国語に通ぜる者は直ちに原著に就て其の新説を窺ふことを得べきも、其の他の者にありては、訳書の発行を待つの外なかるべし。然るに方今発行の翻訳書は僅かに初学者に資すべきものに止まり、遍ねく名篇大作に及ばず。偶々名篇大作の訳なきにあらざるも、概して杜撰にして信憑するに足らず。然り而して本校は元と外国語に依らずして高尚なる学術を授けんとの趣旨を以て起り、其の教授の方法の如きも二十年の経験上殆んど完成の域に達したりと雖も、単に邦語のみに依りて専門学を修めしめたる者は、校門を出づると共に新智識を得るの道殆んど杜絶するの有様なるを以て、独り是等の者のみに対する見地よりするも、泰西輓近の名著を翻訳発行することは実に刻下の急務なりと謂ふべし。然るに出版の業たる其の性質上危険の分子を含めるものなるを以て、一時に巨費を投じて多数の出版に従事することは我が校の宜しく執るべき所にあらず。故に試みに数部の書を発行して徐うに其の結果を確めんことを企図し、我が校は明治二十八年早稲田叢書〔七〇四―七〇五頁参照〕第一篇として、高田氏翻訳の政治汎論を発行し、尋で井上辰九郎氏翻訳の経済原論を発行したりしに、此の二書とも幸に世の歓迎を博し、出版費を償うて尚ほ余あるに至りたりしかば、之より意を決して幾多の名著大作を出さんことを企て、早稲田小篇、歴史叢書、文学叢書、経済学叢書、法律叢書等の名の下に英・米・独・露・仏及び本邦の名編大作を発行し、何れも好評を以て迎へられ、忽ちにして数版を重ねたるもの尠なからず。此等出版の挙が本邦の文運を進むるに与つて力あるは吾人の竊に悦ぶ所なり。

(二三八|二四〇頁)

 学苑の校外教育の中で、「大学をすべての人々の要求に適合せしめる」上で、最も大きな成果を挙げたのは、講義録であった。講義録は、或いは家庭の事情により、或いは健康の障害により、或いは経済上の理由によって、正科を受講できない多数の同胞に、学苑の教育に触れることを可能にした。しかも、校外生より校内生への編入の途が開けていたから、前記の事情が好転した場合、短年月で正科を卒業することを可能にした。例えば、元総長田中穂積が本講義録によって勉学し、のち我が学苑邦語政治科に入って明治二十九年卒業し、いくばくもなくして大学に迎えられ、要職を経て昭和六年総長に就任したが如き、また「津田史学」を以て一世を風靡した津田左右吉が、本講義録によって学習して第二年級に編入し、明治二十四年邦語政治科を首席で卒業したが如きは、この制度の功績を示す好例であろう。また、卒業試験に及第した校外生が、二十六年以降、校友会規則に「東京専門学校校外生ニシテ校外生試験ニ及第シタル者ヲ以テ準校友トス。但シ校友会ノ是認シタル試験法ニ依リ受験及第シタル者ニ限ル。」との付則の追加により、決議に加わったり、役員に選出されたりすることはできないとの条件付ながら、準校友として、校友会員に加えられたことが、いわゆる「早稲田精神」の普及に貢献するところ甚大であったのは、説明の必要がないであろう。

 経済的に必ずしも十分な見通しがあって出発したとは言えない学苑の出版事業は、或いは高田の、或いは田原の経営宜しきを得て、収支償ったばかりでなく、既に東京専門学校時代にあって巨額の黒字を出し、『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』の筆者によって、左の如き讃辞を呈せられるまでに至ったのは、特筆に値しよう。

本校の出版部は、元と射利の目的を以て起りたるものにあらず。其の方法も亦た商業的ならず。然れども発行の書籍幸に予想外の喝采を博し、之が為めに多少の利を収むるを得たり。本校が従来海外に留学生を派遣し、又た大学創設の計画を立て基本金の募集に着手せし以来多額の募集費を要し、且今回の開校式に際して未曾有の盛典を挙げ、為めに数千金を費せるにも拘はらず、毫も其の資を基本金に仰がず克く之を支弁し得たるものは、出版部実に与つて力ありといふべし。 (二四六頁)