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第三編 東京専門学校時代後期

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第十章 演習・討論・演説・科外講義

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一 擬律擬判と法学部討論会

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 学苑政治科の「国会演習」は、単に一学科の演習科目であるに止まらず、明治時代後半に学苑の存在を世上に認識せしめる上に大きな役割を演じた早稲田名物でもあったので、前章のすべてをその進展を跡付けるのに捧げたが、法律科にもまた、通常の講義の他に、討論や演習が学科配当の中に、設立の当初から置かれてないわけではなかった。尤も、前者に関しては、「討議」とか、「会議討論」とか名付けられたものが、明治二十年代には配当表から姿を消すに至るけれども、後者については、「訴訟演習」、「擬訟」、「擬律擬判」などの名称で、東京専門学校時代を通じて常に設置され、更にその後半期には、「論文演習」もまた併置されている。そこで、先ずこの「擬律擬判」の内容がどのようなものであったか、幸いに『専門学会雑誌』にかなり詳細な記録が掲げられているので、それを繙いてみよう。その第二号(明治二十一年十一月発行)には、松野貞一郎担当により実施された、刑事問題の討論が紹介されているが、その前文として、編者(野間五造筆記と記されているから、編者とは野間のことであろう)により次のような解説が加えられている。

法律は術にして学に非らず。法律家は術家にして学者にあらざるなり。故に其外形体載が如何程完美なるとはいへども、精神的活用の一点を欠くに於ては、以て善律良法とは言ふを得ざるべし。如何に理想哲義は深淵なればとて、之れを実施活用すること能はざれば、以て真正の法律家となすに足らざるべし。夫れ然り。苟も法律を学び又法律家たらんと欲するの輩は、須らく理想哲義の蘊奥を究むるに止らず、実施適用に敏ならんことを勉む可きなり。仏国法典の如き外貌秩序の完美なるにも係らず、法律として実地活用するに至りては、遙に英国法律の下位に立たざるを得ざるべし。之れ英法は重もに不文法より成立せるが故に、時其の時の判決例に拠り之れを運用し、之れを操作し、猥りに古法を墨守せず、篇章字句に拘泥せず、善く社会進化の風潮に伴ふを得て、頗る実地的活動の術に長進せるが故なり。然り法律は一の術なり。其術を運用する者は法律家なり。故に法律家たらんと欲する者は空想に迷はず、虚理に馳せず、実地の適用を試み、所謂術家たるの本旨に背かざるを要す。我が東京専門学校の如き是に見るありて、擬律擬判の一科を設け、特に松野講師に其任を嘱し、学生をして法律の真味を喫せしむると同時に、其の運用の術に熟練せしむ。吾人今其慶を私せず、之れを本誌に掲げて同好に頒つと云爾。 (三六頁)

尤も、この「擬律擬判」の行われた日時は明らかでなく、また「第一問 刑事」と記されているが、その日に「第二問」も討議されたのか否かも不明である。

 次いで同誌第四号(明治二十二年一月発行)には、「第二回 民事」が登載されているが、これも「第一問」とは別の日に行われたのか、それとも「第二回」とは、単に第二号の記事を「第一回」とするとの意味なのか、知ることができない。記録としてもっとはっきりしているのは、同誌第七号(明治二十二年四月発行)の「擬律擬判」であるから、その全文を次に掲げておこう。

去る五日午後第六時より東京専門学校第八教場に於て法学会例月会を開き、講師平田譲衛、中村忠雄、板屋確太郎の三氏出席あり。出席会員四十八名にして、左の問題に付討論を為せり。今其の弁論の要旨を掲げて読者の一覧に供す。

民事問題 (中村講師出題)

甲乙二人相接シタル土地ノ処有者タリ。而シテ乙ノ土地ハ甲地ノ岸下ニアリテ甲地ヲ保持セリ。然ルニ乙者ガ其土地ニ或ル工事ヲ営ムニ付キ、甲地ハ損害セラレンコトヲ慮リ、予メ甲ニ向テ損害ヲ償フ費用大凡五百円ト仮定シ、之ヲ甲ニ差出スベキ約束ヲ以テ工事ニ着手シタリ。然ルニ損害ハ意外ニ大ニシテ、甲ハ之ヲ償フニ千円ヲ費シタリ。依テ更ニ乙者ニ対シ五百円ノ要求ヲ為セリ。其ノ権利ノ有無如何。

(積極主論者弁論要旨)凡ソ土地ナル者ハ隣地ヲ支持スルモノナルガ故ニ、之ヲ鑿堀シタルガ為ニ比隣ノ地へ損害ヲ及ボシタル時ハ、相当ノ要償ヲナシ得ルハ論ヲ俟タズ。随テ本問題ノ場合ノ如キ、其損害ノ実額分明ナラザルニ、漠然ト五百円ヲ払フベシト契約ヲ結ビタルハ、縦ヒ其契約ハ不法ナリト云フベカラザルモ、錯誤ノ契約ナルガ故ニ、無効ノ契約ナリト云ハザルベカラズ。故ニ契約破壊ノ源因タルニ充分ナリ。被告ノ主張スル点ハ、五百円ト仮定シタル以上ハ最早ヤ禁反言ナルガ故ニ、其損害ノ実額ガ千円ハ愚カ仮設ヒ一万円ニ達スルトモ、如何トモスベカラズト云フニアル可シト雖、若シ損害ノ実額ガ厪カニ一円位ニテ止マラバ、被告ハ甘ジテ尚ホ五百円ヲ出スベキヤ。被告ハ必ズ甘諾セザル可シト信ズ。尚一歩ヲ進メテ論ズルトキハ、若シ初ヨリ一言ノ契約ナカリセバ如何。即チ悉皆ノ損害額ヲ負担セザル可カラザルニアラズヤ。果シテ然ラバ、単ニ五百円ノミニ限リテ其損害ヲ買ヒ得ベキモノニアラズ。去レバ五百円已上ハ、設ヒ如何ナル巨額ニ其損害ハ達スルモ、請求ヲ為サザルベシト契約セシナラバ、如何トモスベカラズト雖、契約書ヲ起草スル時ノ意思ハ如斯ナラザルコトハ、問題ノ事実ニ徴シテ推測スルコトヲ得ベシ。故ニ被告ハ原告ノ請求ニ応ジテ、尚ホ五百円ヲ支払ハザルベカラズ、云々。

(消極主論者弁論要旨)凡ソ此如キ契約ヲ為スニハ、其契約書ニ於テ単ニ金額ヲノミ定ム可カラズ。深サ何尺、広サ幾尺、長サ何程ト、綿密ナル約束アリシナルベシ。若シ如此ク詳記シアラバ、議論ノ生ズルコトモアラザルベシト雖、本文ノミニテハ漠然タルガ故ニ、疑問モ起リシナラン。顧フニ原被共ニ粗忽ナルヨリシテ、如此キ奇怪ナル結果ヲ生ジシニ相違ナカル可シ。「大凡五百円」ト記シタルヲ確固不動ノモノトセバ、「大凡」ナル文字ハ不用ナリ。又一方ヨリ云トキハ、初ヨリ動カスノ意アラバ五百円ト明記スルノ必要ナシ。五百円ト記シ乍ラ「大凡」ノ文字ヲ冠シタルハ理解シ難シ。一方ヨリ観察スルトキハ動シ得ベキガ如ク、亦一方ヨリ観察スルトキハ動カス可カラザルガ如シト雖、兎ニ角動カス意思アラバ五百円ト明言スルノ理由ハアラザルベク、「大凡」ノ二字ハ有リトモ無クトモ、干係ハ之無キモノト解釈セザル可カラズ。反対論者ハ巧ニ弁ヲ弄シテ契約ヲ無効ノモノト論ゼリト雖、契約ノ成立・不成立ハ契約ノ当時ニ論ズベキモノニシテ、一度成立シタル已上ハ解除無キ間ハ消滅スベキ謂レナシ。亦反対論者ハ若シ損害ノ実額ガ一円位ニ止ラバ被告ハ尚ホ予定ノ金額ヲ支払ヤ疑ハシト云フモ、一旦契約ノ成立シタル已上ハ、仮設ヒ其損害額ハ一円ハ愚カ一銭ニテモ、五百円ノ予定金額ハ之ヲ支払ハザル可カラズ。仮令バ相場ニ関シテ契約ヲ為シタルトキ、若シ其後ニ至リ乱高下アルモ、契約者ハ危キヲ犯シタルモノナレバ解除ノ原因アリト云フ能ハズ。果シテ然ラバ、本問題ノ場合ノ如キハ契約上ノ訴ヲ為スベキハ当然ナリ。即チ其金額ハ契約文面ニ従ヒ最初ノ五百円而已請求シ得ベキモノトス、云々。

右は但々双方論旨の梗概なれども、甲論乙駁各々得意の弁を奮ひ、虚々実々互に秘術を尽して敵の論鋒を摧かむと働ける有様は、当時施行の東京湾海軍大演習も斯くやあらめと想像せられたり。論旨稍や罄くるに及びて起立にトしたるに、積極論を可とするもの八名、消極論を可とするもの四十名にして、被告の勝に帰したり。

刑事問題 (同上)

昏睡中ノ人妻ヲ犯シタルトキハ其処為如何。

(無罪主論者弁論要旨)法律ハ権利ノ上ニ眠ムルモノヲ助ケズトハ原則ナリ。本問題ノ場合ノ如キ、昏睡シテ人ニ好セラルルヲ覚ラザルガ如キモノハ、甚ダシキ解怠ト云ハザル可カラズ。加栴犯奸罪ハ共犯ヨリ成立スルモノナレバ、一方ガ昏睡シテ姦意ナキ時ハ、其罪ノ成立スベキ謂レナシ。亦論者中ニハ強姦ヲ以テ論ズベシト云フモノアルベシト雖、本邦刑法ヲ見ルニ、其第三百四十八条ニ於テ、薬酒ヲ用ヒ人ヲ昏睡セシメ云々トノ法文アレドモ、未ダ本問題ノ如キモノヲ罪スルノ法文アルコトナシ。去レバ法理上ヨリ論ズルトキハ、或ハ強奸罪成立スルヤモ知ル可ラズト雖、刑法第二条ノ規定アルアラバ、罰スベキ様モ勿カルベシ。故ニ無罪ト断定セザルヲ得ズ、云々。

(姦通罪主論者弁論要旨)姦通罪ヲ組成スルニハ必シモ二人ノ合意アルヲ要セザルハ法理学者ノ既ニ認ムル処ナレバ、今更ラ喋々ノ弁ヲ費スヲ須ヒズ。即チ本問題ノ場合ノ如キハ其一ニシテ、殊ニ人ノ妻タルヲ知テ姦シタルモノナル已上ハ、有夫姦ヲ以テ論ズルモ妨ゲナシトス、云々。

(強姦主論者弁論要旨)強姦罪ヲ組成スルニハ其要素ニアリ。其一ハ任意ノ承諾ヲ得ザルコト、其一ハ不正ノ交合是ナリ。或ル論者ハ強奸罪ヲ組成スルニハ暴行強迫アルヲ要スト云フト雖、任意ノ承諾ナキ已上ハ暴行強迫アルヲ要セズ。又或ル論者ハ強迫ヲ防グノ能力ヲ奪ヒシ後ニアラザレバ強奸罪成立セズト云ト雖、昏睡中ニ強迫ヲ防グベシトハ道理上アルベカラザルコトナリ。本問題ノ事実ハ、昏睡中トアラバ即チ任意ノ承諾ナキヤ明ニシテ、又人妻トアル已上ハ不正ノ交合ト云ハザルヲ得ズ。故ニ充分強奸ノ要素ヲ充タスニ足ルベシ、云々。

議長は論者の尽くるを俟ち、之を起立にトせしに、無罪論者多数にて可決せり。……九時三十分閉会せり。

(三二―三五頁)

 「擬律擬判」についての学苑関係誌の報道は散発的であり、例えば『同攻会雑誌』第十号(明治二十五年一月発行)を見れば、二十四年十二月には毎週実施されていたことが分るが、三十三年頃になると、『早稲田学報』の記事から見て、毎月一回がせいぜいで、或いは年数回程度であったかもしれないと推定せざるを得なくなる。その代り初期に強かった討論会的傾向が薄れて、模擬裁判本来の色彩が明瞭に現れている。これは、この後で述べるように、法学部討論会が、擬律擬判とは別個に、かなり頻繁に開かれるようになったこととも関係しているのであるが、『早稲田学報』第六十八号(明治三十五年五月発行)から、三十五年に実施された「擬律擬判訴訟演習」の記録を引用してみよう。

法律学が漸く具体的究研に向はんとするの気運あるに際し、法律実習科を設け、学生をして単に法典条規の内容を研究せしむるのみならず、亦以て執法的修練を為さしむるは、法学教育の要を得たるものなるべし。訴訟演習は、五月十日午後二時より本校大講堂に於て、地方裁判所に於ける第一審民事訴訟演習を開催し、当日の問題は不当相続取消相続権回復請求事件にして、此より先き既に原・被告間に於ては準備書面の交換ありたり。斯くて例刻となるや、鳩山裁判長以下陪席判事・検事・書記・弁護士等入場、直ちに着席し、裁判長は開廷の旨を告げ、先づ原告訴訟代理人一定の申立を為し、被告訴訟代理人之に応じて抗弁し、夫より事実の審問に移り、原・被告各々事実上の関係を主張演述し、書証の提出、証人訊問等の証拠調を終り、裁判長は法律上の討論を命じ、原・被告訴訟代理人は孰れも平素蘊蓄せる学理と修練せる快弁とを以て互に弁難論争し、各自最も攻撃防禦に力め、終て、検事は起て本件に関する意見を述べ、裁判長は爰に口頭弁論の終結を告げ、来る十五日判決の言渡を為すべき旨を宣して閉廷せり。時に午後五時三十分。因に記す、今回本校に於ては、判検事書記及び弁護士の制服に擬し、訴訟演習用の被服を調製し、講師、学生等此れを着用せしを以て、此日は宛然真の法廷を見るが如き感ありき。当日の問題及び役割左の如し。

明治卅三年三月十日安藤正助家督相続人無くして死亡せり。大川一郎は家督相続人選定の為め早稲田区裁判所に親族会の招集を申請せしに、区裁判所は同月十三日大川一郎外二名を選定し、同十八日親族会を招集したり。而して親族会に於ては、全会一致を以て被相続人と親族及家族の関係なき大川一郎の次男大川次郎を家督相続人に選定したり。然るに此に安藤正助の甥安藤倉吉なるものありて現に分家の戸主たり。而も親族会は安藤倉吉に何等の通知を為さず、且家督相続人選定に付き裁判所の許可を受けざりき。於是安藤倉吉は安藤次郎(大川次郎)に対して不当相続取消相続権回復請求の訴を早稲田地方裁判所に提起せり。

裁判長 鳩山和夫(校長)

判事 田地隆元(法律三年)

判事 大橋誠一(行政二年)

検事 貞弘正興(法律三年)

書記 半松一蔵(法律二年)

原告訴訟代理人 和田純(行政三年)

同 木谷利吉(法律二年)

被告訴訟代理人 杉本幸芳(行政三年)

同 鈴木勇次郎(法律二年)

(「早稲田記事」 三九五―三九六頁)

 後年の大審院長牧野菊之助は、明治三十年以後昭和二年に至るまで学苑に出講していたが、この時期について、次のような思い出を語っている。

或る年には民事・刑事の訴訟演習をやつたら宜いといふやうなことがあつて、尤も最初は或る刑事々件を予想しまして、その事件の審問判決をする、で学生が裁判長・陪席判事・裁判所書記・検事・被告人及び弁護人となつて、例の講堂でその事実関係を取調べる、或は証人も調べるといふやうなことをして、弁論判決までやらせたといふこともある、専らそれを学生にやらせて置いて、その後ろで我々が指導し、又は口添へをして、訴訟の実際の手続等を知らしめる、さういふことをやつたのも覚えて居ります。民事の訴訟などに付ては、訴状の提出から答弁書等も出させて、それ等の書類の送達等の手続もやつて、そして口頭弁論期日を指定し、その期日には矢張り弁論を講堂で開くといふことにし、結審の上、その民事々件の判決を書かせて之を掲示し、判決の雛形を学生一般に知らしむるといふやうなこともやつたやうに覚えて居ります。殊にその訴訟演習をやるに付ても、裁判所の通りやるのであるから、裁判官は矢張り法服を着なければならぬ、法冠を被らんければならぬといふので、それを間に合せる為に、一時裁判所の我々の同僚の中から空いて居るのを借りて来て着せた。又鈴木君や私が自分の着古した法服などを学校に持つて来て置いたやうに覚えて居りますが、それもどの位続いたか、どうも私ははつきり覚えて居りませぬ。

(「法科回顧録」『早稲田法学』昭和八年五月発行第一三巻「創立五十周年記念論集」 二五頁)

 右に引用した三十四―三十五年度の演習で判事席に坐った大橋誠一は、三十三年に入学し三十六年に卒業したのであるが、「訴訟演習は私の記憶する所では一回しかやつて居りませぬ」(同誌同巻三九頁)と述べているけれども、その在学中に、三十三年十二月一日と三十五年十二月十三日にも開催された記録があるから、「一回」というのは「毎年一回」の意味か、「出席回数一回」の意味の発言であったのかもしれない。

 ともかく、法律科の模擬法廷が政治科の擬国会のように、嘖々たる好評を博して世間の注目を惹くまでに至らなかったのは、第十三章に後述するように、当時の学苑は政治学校として世に聞えており、法律科の優秀性が未だ世人の十分に認めるところとなっていなかったからに外ならない。さて、東京における五大私立法律学校の一員として他校と連帯した学苑法律科校友・学生の弁論活動については、第十三章に説述を譲ることにするが、ここでは、法律科「学生の研究機関」としての「法学部討論会」に関して、次に一言しておきたい。『早稲田学風』は、それを左の如く紹介している。

早稲田議会と相対して、一は主に政学部の機関となり、一は重に法学部の機関となりて、早稲田の学生が、学理の研究と、弁論の練習とを為すものにして、毎月一回例会を開き、春秋二期に大会を開き、頗る壮観なるものなり。此会は明治二十年の頃より継続し来るものにして、種々の変遷を閲みしたるものな〔り〕。 (七〇頁)

 その著者村松忠雄は、「明治二十年の頃より」と記しているが、その頃の学苑関係誌を見ても、「法学部討論会」に関する記事は見られない。しかし、実質的にそれに近いものとして、『専門学会雑誌』第一号(明治二十一年十月発行)に次のような記載が発見される。

専門学校法学会同会は明治十八年九月に設立せられたる者にして、其会員は同校法学部全体より組織せられ、規則等は極て簡略にして、一ヶ月二回の開会と定め、専ら法律的智識の研究を目的とし、即本月五日は其当日にして、午后六時より同校講堂に於て開会せり。第一席に野間五造氏の「切符購求の乗客に対し汽船会社は乗船拒絶の権ありや否や」と言へる演題にて、凡三十分程の演説あり。次に左の刑事問題に就き討論をなせり。

甲者道路通行ノ際金八百円ヲ落シタリ。乙者之ヲ拾ヒ自己ノ金二百円ヲ加へ都合千円トシテ所轄警察署ニ届ケ出デタリ。甲者后チニ八百円遺失ノ旨ヲ届ケ出タレドモ、乙者ノ拾ヒ取リタル金額ト差違アルガ故ニ、返還セラレズシテ止ミ、乙者ハ其後該金ヲ規則ニヨリ下賜セラレ、后チ其詐偽手段ニ出デシ事発覚セリ。乙者ノ所分如何。

右の問題に就て、或は遺失物蔵匿罪なりと主唱する論者あり、或は罪質上窃盗なりと主張する人もありたれども、ツマリ詐偽取財なりとの論者多数にて、遂に本問題乙者は刑法第五節詐偽取財を以て論ずと一決して、同十時過ぎ閉会せり。

(四二―四三頁)

 尤も、このような会合が、その後どの程度開催されたかについては記録が欠けているし、他方、『明治二十九年度東京専門学校年報』には、「法学生ノ弁論ヲ練磨セシムル為メ、昨廿八年ヨリ毎月一回法学上ノ疑問ニ付討論会ヲ開ク。本会ニハ講師・校友・学生ノ外、特ニ七名ノ学士ヲ委員トシテ出席セシメ、討論ノ指導ヲナサシム。」(二七頁)と、その起源を二十八年と明記している。しかし、『中央時論』第十号(明治二十八年一月発行)には、

法学部大討論会十二月十二日大講堂に於て開会せり。講師平田譲衛氏出席す。 (五六頁)

との記事があり、既に二十七年には、その先駆的なものが開かれていたのが知り得られる。また、二十四―二十七年に在学した後年の政界における軍部批判の雄、斎藤隆夫(二十七年邦語行政科卒)は、

法律科で時々討論会や演説会があつたけれども大して盛んではなかつた。

(「法科回顧録」『早稲田法学』第一三巻 七七頁)

と記しているから、もしこれが学生時代の思い出であるとすれば、二十八年以前にも、「毎月一回」ではないにせよ、法学部討論会があったのかもしれない。牧野菊之助も、

法科の方には討論会といふものが毎月一回はあつたやうに思ひます。民事・刑事の問題を講師から出し、それを掲示して学生に知らせ、一定の期日に大講堂で討論会を開く、その際には……上原君〔鹿造、二十五年邦語行政科卒〕など始終来られた。今内務政務次官をやつて居られる斎藤隆夫君、それから弁護士の羽田智証君〔二十八年邦語法律科卒〕、若林成昭君〔二十六年邦語法律科卒〕、さういふ人が始終来られて、又杉田金之助先生なども能く来られました。私も時々出席して学生と一緒になつて討論をした覚えがあります。 (同誌同巻 二四―二五頁)

と語っているが、二十八年以前の卒業生が出席したのは、学生としてではなく、校友としてであったのに間違いない。その起源は何れにしても、法学部討論会なり、法学部大討論会なりが、二十八年十一月三十日、同十二月九日、二十九年五月二十三日、三十年五月一日、同十月二十三日、三十一年三月三十一日、同五月十四日、同十月十五日、同十一月二十六日、三十二年三月十一日、同五月?日、同十月二十八日、同十一月十八日、同十二月十七日、三十三年二月三日、同四月二十八日、同九月二十九日、同十二月十四日、三十四年二月二日、同二月九日、同四月六日、同十月十二日、同十一月三十日、三十五年二月一日に開催されたとの記録が学苑関係誌に発見されるが、右に*印を付して「大討論会」と記載されているのを示したものすべてが、春秋二期の大会に該当すると考えてよいか否かには、若干の疑問も残る。これらおのおのについての内容は、ここでは省略するが、三十四年二月の大会のみは、その記録を再録する価値があるであろう。

法学部大討論会二月九日午後一時より本校大講堂に於て開く。此日は目下法曹社会に於ける一大問題たる刑法改正可否を議題とせしかば来会者非常に多く、殊に法典調査会員として刑法改正に尽瘁せられたる古賀〔廉造〕、岡田〔朝太郎〕の両学士及び目下反対者の一人として名声隆々たる磯部〔四郎〕学士の来場ありたれば、当日の盛会察するに余りあるべし。さて開会を告ぐるや、古賀学士先づ演壇に顕れ、刑法の改正すべき理由を滔々二時間余も反覆弁論し、次に磯部学士は代て演じて曰く、本校は刑法改正に賛成にて、行て弁ずるも徒労たらんとの忠言ありしも、余は之を信ぜず。何となれば、本校々長鳩山氏及其他本校出身の有力なる弁護士諸氏は余輩と共に反対の歩調を取ればなり。然しながら諸君にして若し私情の為め、即ち自己の師事する古賀、岡田の両先生に対する好誼上より賛成するが如き卑劣なる精神あらば知らず、公平の意見を以て判断せらるるとすれば、反対せらるるの至当なりと信ず、との言を前置として、一々古賀氏の論拠を撃破し、時に悪罵を以て自説を強めしやの感ありき。次に岡田学士は起てり。氏は改正刑法の要点に就ては、古賀氏演じ尽したるが故に別に謂ふべき事なく、且つ学理上慎重の議論を要すべき問題に対し、人身攻撃的冷語を用ゆるに当りては、決して学術に忠なる所以に非ず。然れども最早斯る勢となりし以上は、唯だ責任を尽す為め今反対論者の挙げ足を取らんと欲すとて、非改正派の分類及沿革を説明し、第一期予断時代、第二期矛盾時代、第三期政策時代、第四期混屯時代に分ち、又之を立論の方面より、第一挙足説、第二無責任説、第三人身攻撃説、第四卑劣説の四ケに分類し、詳細論じ尽し、次に、校友斎藤氏は賛成意見を述べ、且つ重要なる問題なれば決議し置かんことを求め、乃ち満場一致を以て左の決議を為せり。

東京専門学校法学部大討論会は大多数を以て刑法改正賛成の決議を為したり。依て我校々長・評議員・講師・校友諸氏は此目的を以て尽瘁せられんことを望む。

尚ほ当日出席者の重なるものは、岡田・古賀・磯部・牧野諸学士及校友斎藤隆夫、小山愛治、降旗熊次郎、羽田智証、大西孝次郎の弁護士及校友判事早川早治等諸氏なりき。

(『早稲田学報』明治三十四年三月発行第五一号「早稲田記事」 一六二―一六三頁)

しかし、この決議についても、その解説は九一四―九一五頁に譲ることにしたい。

二 東京専門学校大演説討論会

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 曩に明治十七年に創立された同攻会が、翌十八年、会則中に、学術演説会の開催と、地方における支会の設置とを追加したことは前編第十五章に説述したが、それに伴い同年三月二十二日を第一回として、しばしば演説会を開催したのも既述したところである。そして支会との関係の有無に拘らず、学苑当局者がたびたび各地に赴いて、演説会に出席していることは、当時の交通事情を考え合せると、まことに感歎に堪えない。次章に説述する巡回講演会のレールは、学苑創設後間もない頃から敷設され始めていたのである。更に、それらとは別に、「校友会規約」には月例演説会の開催が定められていることも、前述したのでここには繰り返さない。また十八年八月三十一日に「東京専門学校学術演説会」(弁士、十八年法律学科卒黒川実司〔九馬〕「成典編纂論」、十八年政治学科卒鈴木熊太郎「経済学研究法」、講師田原栄「圧力之説」、同市島謙吉「監獄学一斑」、同天野為之「婦人教育論」)が、二十年十月二十日に「〔創立第六年期〕紀念演説会」(弁士、講師中村忠雄「所感」、和田垣謙三「講壇社会党」、穂積陳重「権利ノ説」)が、何れも学苑で開催されたことが、学苑関係誌上に報ぜられているが、右の二つは恐らく、当局主催のものであったと推定せられる。このような、同攻会による学術演説会、学苑当局や校友会による演説会の他に、二十三年秋に設立されたのが、「東京専門学校大演説討論会」である。『明治二十九年度東京専門学校年報』に、「演説会」として、「先年来本校自ラ斡旋ノ労ヲ取リ、学生ノ為メ時々名家ノ出席ヲ請フテ演説会ヲ開キ来リシガ、近年学生ノ自為ニ任シテ、毎月一回必ズ開会シ、益々盛大ナリ。」(二七頁)と記載されているのがこれである。その創立の経緯を記した記録は見当らないが、二十四年十月に見られる次の記事により、最初からこの会が学生の自治に委ねられていたことが知り得られる。

東京専門学校大演説討論会 同会にては事務委員の改選、規則の修正等を為す為め、昨十四日午後七時より本校内に於て各級代表委員会(一級より三名づつ)を開きたり。出席委員三十七名、先づ事務委員増田義一氏は既往の事務を報告し、併せて規則の改正を要すべき旨を述べ、次に議場整理の為め議長の指命を嘱托されんことを求めしに、一同異議なく之を諾せしかば、氏は直に柏原文太郎氏を推して議長となし、自分は説明委員となり、其れより規則の修正に着手せり。討論審議数刻に亘りて全く議定し終り、次に増田氏の建議にて毎回学生に演説せしむること、及び朝野の名士を招待することの二件を可決し終つて、事務委員を選挙せしに、左の五名当選せり。

増田義一、有村高義〔中村高義?〕、柏原文太郎〔二十六年英語政治科卒〕、有賀啓太郎〔二十五年邦語法律科卒〕、竹本正業〔二十五年邦語行政科卒〕 (『同攻会雑誌』明治二十四年十月発行第八号 三二頁)

 「東京専門学校大演説討論会」と題する記事が初めて現れたのは、『同攻会雑誌』第一号(明治二十四年三月発行)である。今それを整理し、更に同誌第三号掲載の第五回の分も含めて、題名、演者等をまとめてみると次の通りである。

一、目的 学術を研究し、弁論を練磨するを以て目的とし、併せて講師と学生との関係を親密ならしめんが為に設く。

一、設立 明治二十三年十月。

一、開催予定 毎月一回ずつ。

一、創立当時の事務委員 細野繁荘(二十四年邦語法律科卒)、沼鋼次郎(二十四年邦語行政科卒)、堀音吉(二十四年邦語政治科卒)、小泉仲三郎(二十四年邦語法律科卒)、増田義一(二十六年邦語政治科卒)――当時何れも学生。

第一回 二十三年十一月十六日午後一時於新講堂楼上 来会者約五百名

討論議題

「男女混合教育ノ可否」

「天皇ガ違憲ノ法律ヲ制定シタル場合二於テ裁判官ハ之レヲ適用スルノ義務アリヤ否ヤ」

演説者 宇川盛三郎、鳩山和夫、有賀長文、中橋徳五郎、元講師山田一郎、卒業生岡田庄四郎(各演題不詳)

第二回 二十三年十二月十九日午後一時半於新講堂楼上 来会者多数

討論議題

「甲選挙人第三者ノ賄賂ヲ享ケテ乙者ヲ投票セリ然ル時ハ其投票ハ無効ナルヤ」――無効に決す。

「日本憲法ハ天皇ノ権ヲ制限シタルヤ否ヤ」制限したるものなりとの説、勝を占む。

演説者 黒川九馬、竹中信以、朝倉外茂鉄(各演題不詳)

第三回 二十四年二月一日午後一時於新講堂楼上 来会者約四百名

議長 斎藤和太郎

討論議題

「華士族平民ノ区別ヲ廃スルノ可否」――消極論勝つ。

「議会ガ予算権ヨリ官制ニ議及スルハ天皇ノ大権ヲ侵害スルモノナルヤ否ヤ」――侵害せざることに決す。

演説 「予算論」 高田早苗

「法治国」 織田一

第四回 二十四年三月二十日午後一時於新講堂楼上 来会者数不明

議長 斎藤和太郎

討論議題

「憲法第六十七条政府ノ同意ヲ求ムルハ両院議決ノ後ニ於テスベキカ将タ衆議院議決ノ前ナルヤ」

議決前とする者 沼鋼次郎、有村高義、有賀長文

議決後とする者 増田義一、伊沢種次郎、鈴木音次

両院孰れより求むるも可とする者 菊地虎太郎、別宮音五郎

採決を見合わすとの説多数にて決を採らず。

「死刑存続ノ可否」

廃止を可とする者 小泉仲三郎、牧内元太郎

存続を可とする者 白非芳三郎、鈴木音次、堀安二郎

採決により多数を以て存続を可と決定。

演説 「義人論を読む」 信夫恕軒 (同誌第一号 三一―三二頁)

第五回 二十四年五月七日零時二十分於大講堂 来会者約五百名

演説 「予算議定権」 高田早苗

「日本鉄道の前途」 黒川九馬

「米国の学校及び生徒の有様」 家永豊吉

討論議題

「現今我国ニ於ケル貿易ノ政策ハ自由、保護孰レヲ可トスル乎」(家永豊吉出題)

自由貿易を可とする者 増田義一、斎藤順三

保護貿易を可とする者 竹本正業、塩沢昌貞

折衷主義 沼鋼次郎

演説 「条約改正問題」 鳩山和夫 (『同攻会雑誌』明治二十四年五月発行第三号 二八―二九頁)

 さて由来早稲田は、どんなことにも大をつけるのが好きであったようである。例えば大運動会、大園遊会、大演説会、大講堂など。そう言えば、この会の名称も「大演説討論会」となっているし、第四回まで新講堂と記されていたものが第五回からは大講堂に代っている。『史記』の陳渉世家に「燕雀安知鴻鵠之志哉」という如く、都の西北茗荷畑の土の匂いがしみ込んだ早稲田書生でも、いつか中央に進出し、大鵬の如く力強くという意気を、大の文字に表象したものであろう。尤もこれまで新講堂と言われたものは、既述の如く、大隈が私費二万円を投じて造った二階建煉瓦造りの建物で、二十二年五月竣工、周囲の木造校舎を睥睨して一大偉観を示したものであった。それが既に二年の歳月を経過しているのであるから、もう新講堂ではあるまいし、また当時は教室を講堂と呼んでいたから、それに対して大講堂という方がふさわしかった。

 次に討論や演説で、憲法問題や国会論、予算論、選挙問題に触れているのは、時あたかも第一回通常議会が召集され、議会の予算修正権が問題となったことなどが反映して、討議の対象となったことは分るが、第一回の「男女混合教育ノ可否」など、今でいう共学問題が上程されているのを見ると、全くその先見の明に驚かざるを得ない。貝原益軒の『女大学』は、婦人を隷属的立場に置いて、男性にとってはまことに都合がいいものであったが、明治維新後、西洋文明が滔々として我が国に流れ込み、「丁髷頭を叩いてみれば頑迷固陋の音がする」「散切頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と歌にまで囃されて、猫も杓子も欧化していった時代には、女性も漸くミッション教育によって目覚めて来た。そして『女大学』に対する批判が、図らずも男子側から台頭し、その第一声とも見るべきものが、明治九年に出版された土居光華の『文明論女大学』である。その論の詳述は避けるが、幼くして漢学を学び、これに国学仏典の教養を身につけた彼が、ミルの自由論にキリスト教的女性観を加えたものであるだけに、論理は整然、批判は明快、まさに珠玉の名編であった。

 これと同じく教育的内容を盛った演説としては、第五回の家永豊吉の「米国の学校及び生徒の有様」がある。その要点は次の如くである。

米国の大学には公立、私立の二種類があり、また後者は、宗教学校、無宗教学校に分けることが出来る。学校の管理方式は、公立学校は日本と同様であるが、私立学校には「ボールド・ヲブ・ツロスチース(Board of Trustees〕 」が設けられ、財政・教育両面を管理する。組織としては専門別に各科が置かれ、これに参考図書を具えた研究室を設け、学生の研究に便を与えている。「教師と生徒との関係は甚だ親密で、……書生の学校に行くのは、学校で教師と色々相談をするとか、薫陶を受けるとか、教師の議論を聴くとか、互に親密にしていつて色々の知識を得るのでありませう。」と言い、更に学生の在り方について言及している。即ち米国の学生は、常に衣食住を念頭に置き、その為め金を得ることを考えている。従って独立自治の精神を貴ぶ。学費は親に頼ることをしないから、「自分の働」(今日でいうアルバイト)によって金を得ると言う。その結果、勉強とアルバイトをするために、体力の強くなることが要求され、従って運動と食物と睡眠とを大切にするようになる。

(『同攻会雑誌』明治二十四年六月発行第四号 七―一二頁参照)

 「大演説討論会」の第六回が開催されたのは、八ヵ月の後、新学年が開始してからであったが、その間に二つの演説会が、これとは別に記録されている。その第一は、左の如く、明らかに学苑自身の主催したものであった。

授業始め演説会

二十四年九月十一日午後一時於大講堂楼上 参加者多数

開会の辞 「本校の規模拡張の理由」 高田早苗

演説 「信任投票に就て」 高田早苗

「我校の養成すべき人材」 家永豊吉

「哲理の大要」 大西祝

閉会の辞 「本校の規模拡張の目的」 鳩山和夫 (『同攻会雑誌』明治二十四年九月発行第七号 二七頁)

 その第二は、学苑当局と同攻会との主催による、次のような会合であった。

創立第九年紀念会及同攻会大演説会

二十四年十月二十日午後一時於大講堂 参会者数不明

演説 「本校創立紀念会」 田原栄

「鉄道問題」 黒川九馬

「法人論」 有賀長雄

「文学世界の恐慌」 肥塚竜

「徳川氏財政一斑」 三上参次

「貧困予防策」 井上辰九郎

「地租論」 天野為之

生徒主催創立第九年祝賀講演会

二十四年十月二十日午後八時於大講堂

講演 「書生修学の弊害及其救済方法」 添田寿一 (同誌明治二十四年十一月発行第九号 二五―二六頁)

 この文字通りの大演説会は、演説会が午後一時に始まって七時に終了し、続いて講演会が午後八時に始まり十一時に閉会している。恐らく、前者は学苑と同攻会との共同主催、後者は同攻会の単独主催ではなかったかと想像されるけれども、両者合せて延々十時間に及び、講師は合計八名、他に平田譲衛が「法理学と法律哲学との関係」について講演する予定であったが、時間がないので取りやめたという。参加学生数は不明であるが、全学生に近い多数が聴講したものと思われ、そのおよそ半数ぐらいは里余の道を歩いて、真夜中に帰宅したことであろう。匿名の投書であるが、「紀念演説会略評」と題する一文が、妄評居士の筆名で『同攻会雑誌』第九号に載せられているので、その全文を次に記しておく。

田原栄氏 本校創立の目的より今日迄の来歴を述べらるる間は、流石材料に富まるる丈けありて音調如何にも爽快なりしが、時間の経過と共に言ひ廻はし困難なるが為か、将た疲労されたるにや、進んで学生に頂門の一針を加へられし頃には、熱心と懇切は溢るる計りなるも、只惜むらくは口調折々断絶するの嫌ひありて、為めに乗らんとする聴衆の気合を弛めたるは遺憾と謂ふの外なし。

黒川九馬氏 氏は論を述ぶるに先立ち、学校の隆盛を祝すると同時に、苟も学校たる以上は、鶩の如く卵を生み放しにては不可なりとて、美髯を捻りつつ臂鉄砲を喰はしたるは頗る味ひあり。鉄道買上の事に関し是迄世上に囂々せる賛成反対双方の論旨十一、二を指摘して壇を下りしが、氏の雄弁なる充分聴衆を感動せしむるに足ると雖も、議論の性質壮快ならざりしは氏の不幸なり。去れば「かるがゆへに」の接続詞多かりしも、亦是非なき次第ならん。

有賀長雄氏 学者らしき風采にて壇上に現はれ、法人の性質、沿革等より説き起して之を本邦の法典に対照し、凡そ一時間余に亘りて精密に述べられ、其議論斬新奇抜の点少なからず。且つ思想の深遠なる、注目の非凡なる、実に充分の価値あれども、其体裁講堂に出でて生徒に講義すると少しも異なる所なく、演説としては頗る聴き苦るし。去れば理論の精密なる割合に喝采を得ず、而も弁舌の沈み枯れて活気なきは甚だ遺憾なりき。

肥塚竜氏 氏は、文人の腐敗を歎じ、之れが救済の緊切なるを述ぶ。近来一種異様の勢力の為めに脳髄の販売を為す者あり。而かも社会の耳目を以て任ずるものにして之を為す。腐敗も亦極れりと結論せしは、大に聴衆の意を動かしたり。議論非凡と云ふにはあらざれども、満場皆粛然耳を傾けしは、流石老練の功と見受けたり。語尾の長くして説教風あるは氏の欠点なるが、語気態度に傲慢の弊ありとの譏は頗る脱したるが如し。氏亦弁論家中の一名士たるを失はず。

三上参次氏 氏は、徳川時代の財政が主として節倹に在ることを説く。引証精覈真に誤りなし。而して近時奢靡に傾く弊あるの際、此説を吐く、亦一段の価ひあり。氏の弁舌無邪気にして愛すべきの点あれども、乾燥無味に失するは其欠点と謂ふべし。時間なき為め簡単を主とせられしは、「演説は長きと評されんよりは寧ろ短かしと惜まれよ」との格言に倣ふもの歟。

井上辰九郎氏 氏の議論頗る可なり。強ち実行し難きの空論にあらず。貧民の増加は、実に邦家の為め憂ふべきことにして、之が予防の大切なる、居士亦氏と感を同ふす。然れども演説として批評を下せば、往々朗読体の嫌ひあり。且つ多少狼狽の風なきにあらず。畢竟熟練せざるに因る。氏は、音声快活にして年尚ほ少壮なり。前途多望なる弁士と云ふべし。

天野為之氏 言ひ易きに似て説き難きものは地租論なり。之れが軽減の可否は、学者、政治家夙に喃々して未だ決せざるが如し。氏は、本邦地租の沿革・性質より他税に比して其偏重なる所以を精密に論述されしが、引証精覈、議論明晰、非軽減論者をして殆んど顔色なからしむ。元来弁に雄あるにあらざれども、人に過ぐるの熱心を以て諄々説き去り、説き来り、一時間余に亘りて毫も倦める体なく、聴衆亦喧騒の風なし。而して其価値あるに至ては、本日の演説中有賀氏と好一対にて、先づ首位に置くべき歟。只だ演説と云はんよりは寧ろ講義体に流れたるは、其欠点と謂ふべし。

添田寿一氏 氏は学生発起の紀念演説会に臨み、不生産的修学てふ題にて二時間余得意の雄弁を揮はれたり。其言壮、其気豪、而して戒言痛切、殆んど無気力男児をして肌粟を生ぜしめ、驕傲軽薄の柔弱書生をして漸汗淋漓たらしむ。真に寸鉄人を殺すの味ひあり。然れども氏平素講義の活潑なるに似合はず、熱心の余り却て沈痛に失して遂に語勢を欠きしは遺憾なりし。 (二二―二四頁)

 さて第六回以下の「大演説討論会」は次の通り開かれている。

第六回 二十四年十一月二十一日午後一時於大講堂楼上 来会者約五百名

演説 「義務の効力を論じて直接履行の訴権に及ぶ」 寺尾亨

「西洋学術の伝来」 関根正直

「経済上の実地問題」 加藤政之助

討論議題

「行政裁判所の権利に属せざる事件は悉く司法裁判所に於て審判することを得べきものなるや否や」

積極論 「審判可能」 鳩山和夫、小山愛治

消極論 「審判不可能」 平田譲衛寺尾亨

第七回 二十四年十二月十三日午後一時於大講堂楼上 来会者約六百名

特別出席者 島田三郎、佐藤里治、八巻九万、関野善次郎、神野良、魚住逸治、佐藤文兵衛、色川三郎兵衛、高津仲次郎、高田早苗の各代議士、ならびに諸地方より上京中の県会議員、鉄道委員、有志等

演説 「周家の政略」 斎藤木

討論議題

「鉄道は公有、私有孰れが国家に利ありや」

議長 鳩山和夫

公有論 松崎蔵之助家永豊吉、井上辰九郎

私有論 黒川九馬、天野為之、佐分利一嗣

両者口角泡を飛ばして容易に決せずして閉会 (『同攻会雑誌』明治二十五年一月発行第一〇号 四四―四五頁)

第八回 二十五年四月二日午後一時於大講堂楼上 参会者約六百名

演説 「〔濃尾〕震災臨時支出金に付憲法上の問題」 高田早苗

「法典論」 植村俊平

討論議題

「上官の違法命令に対して下官は必ず服従の義務あるや否や」

議長 鳩山和夫

積極論 織田一、植村俊平、竹本正業、唐川定

中庸論 鳩山和夫

消極論 井上辰九郎、平田譲衛、谷口麓

「輸出税全廃の可否」 (第二次『中央学術雑誌』明治二十五年五月発行第一号 五四―五五頁)

第八回の植村俊平の演説について、第二次『中央学術雑誌』は、

現今喧しき延期・実施・修正の三説を比較・対照、明確に各説の利を説き、害を摘し、結局断然実施すべしと論じて壇を下れり。流石は有名なる能弁家、渋滞なき音吐、恰かも円球の滑盤を走るが如し。第三席鳩山和夫君は同じく法典に付て講演ある筈なりしが、時間の都合により直ちに討論に移りたるは頗る遺憾なりし。 (五四頁)

と報じているが、第十三章に後述する法典論争は、「大演説討論会」において、華々しく展開される機会を遂に逸したのであった。

 第九回については記録を欠いている。第十回は、同誌第七号(明治二十五年十一月発行)に、「専門学校三科合併の大演説討論会」(五三頁)と記されているものがそれであったのかもしれない。もしその推定が正しいとすれば、二十五年十一月十日に大講堂に立錐の地もない大聴衆を集めて開催され、井上辰九郎(「狩猟手数料の性質を論ず」)、砂川雄峻(「証書成立の方式」)、尾崎行雄(「気節」)の三演説が行われたが、「狩猟規則は違憲なりや否や」についての討論は、時間の関係で中止となっている。尾崎の演説は、

学生は気節・品格を養成するを主とし、智識の養育を第二とす可きを説き、英国学生の事情を例とし、大学風の教授は無節操・卑劣の学生を作るに過ぎずと論じたるは、如何にも気慨に富む学堂〔後の男堂〕居士の特色を発露せり。 (五四頁)

と記されている。

 第十一回は左記の如くであるが、開場は大講堂と推定され、地方より上京中の鉄道委員その他の傍聴者多数が出席したと記録されている。本会が「大演説討論会」と記されたのは、第十一回が最後であって、第十二回以後は「大演説会」となっている。名称は「大演説討論会」でありながら、討論が行われないのが例となってきたので、名称からも遂に「討論」を省いたものであろう。尤も、二十八年四月および二十九年三月の二回に亘り、「大演説討論会委員」(この両度とも、高田早苗市島謙吉とが委員の中に名を列しているのが注目される)が選出されているところを見ると、正式の名称としては、まだ「討論」が抹消されていなかったらしい。何れにしても、この頃には、擬国会や法学部討論会も漸く軌道に乗り始める形勢を見せたから、討論は別の機会に譲り(「本校大討論会」が「台湾法官は憲法上の保障ありや否や」を議題として、三十年九月三十日に開催された記録もある)、演説を主とするよう方針を改めたとしても不思議ではないのである。

第十一回 二十五年十二月二十四日

演説 (演題不明) 木檜三四郎、高橋豊三郎

「山本勘介有無論」 小倉秀実

「鉄道問題」 佐分利一嗣

「減租案の否決」 天野為之

「日本銀行課税法案」 天野為之 (同誌明治二十六年一月発行第二巻第一号 四六頁)

第十二回 二十六年一月二十八日午後一時於大講堂 参会者七百余名

演説 (演題不明) 高橋豊三郎、寺内頴

「サー・ウオルター・スコット」 高田早苗

「美術の沿革」 岡倉覚三

「外国貿易に就いて、綿花輸入税廃止に就いて」 家永豊吉

(第二次『中央学術雑誌』明治二十六年二月発行第二巻第二号 四七頁)

第十三回 二十六年三月十八日午後一時於大講堂 参会者数不明

演説 (演題不明) 日野光太郎、名和田一平

「大臣責任論」 本野一郎

「殺人論」 尾崎行雄 (同誌明治二十六年五月発行第二巻第五号 四三頁)

 尾崎の「殺人論」は、『中央学術雑誌』第二巻第四号(明治二十六年四月発行)に「自殺論」として掲載されているものがそれで、先ず古来自殺が禁忌されていた事実を史実によって証明し、更に、二十年(一八八七)度における日本および欧米の自殺者数の統計上からその原因を追求し、殊に日・英・米の事情を比較して、彼らには廉恥を重んじ体面を全うせんがために、敢えて自らの生命を断つ者が多いのに対し、我には他人に刀を擬しても自分を守ることに専念している者が多いと慨歎している。これは一国の道徳の程度を考えるよき秤であるとし、

之を要するに大丈夫世に立つや、須らく先づ名誉を重じ、節義を尚ぶことを勉めざるべからず。従て之を以て其本領と為すときは、進退谷れる場合に於て、一死潔く義に就くの覚悟なかる可らざる也。然れども勇は怯と隣す。漫に区々の窮困を以て剣に伏するが如きは、是れ愚者のみ、是れ庸者のみ。若し真に絶体絶命の地に立て、天下後世の評論家をして其免るべからざるを知らしめ、然る後一死義に就くに至りて、始めて自殺を談ずべきのみ。然らずんば、則ち是れ婦人の死のみ、怯者の死のみ。豈に倶に道徳節義を語るに足らんや。 (二六頁)

と結んでいる。

第十四回 二十六年五月十五日午後一時於大講堂 参会者数不明

演説 (演題不明) 増子喜一郎、吉田銀次

「国立銀行論」 土子金四郎

「南洋の大勢」 稲垣満次郎 (第二次『中央学術雑誌』第二巻第五号 四三頁)

 回数が明記された「大演説会」は十四回が最後で、十五回と推定されるものは、その僅か五日後に「同攻会〔創立十二年〕紀念会を兼ね〔た〕例会の大演説会」として、次のように開かれている。

二十六年五月二十日午後一時於大講堂 参会者数不明

演説 「処世論」 並木覚太郎

「内地雑居論」 上遠野富之助

「朝鮮見聞談」 中井喜太郎

「朝鮮の談」 犬養毅

「地方自治科議」 織田万

「春夏秋冬」 坪内雄蔵 (同誌明治二十六年六月発行第二巻第六号 四四頁)

 これ以後、「大演説会」の記事は、学苑関係誌の興亡・盛衰をも反映して、三十年に『早稲田学報』が発刊されるまでは、散発的に見られるのみで、遺漏の惧れが少くないが、記録されているものについて、その日時ならびに講師・演題を列挙すれば次の通りである。

二十七年五月二十六日 町田忠治 「世界に於ける日本帝国の品位」

二十八年三月二十三日 村田保 (演題不明)、中村進午 「清国媾和実例」

二十八年四月二十七日 市島謙吉 「懐往談」、山田一郎 「日本国民は神仏か禽獣か」

二十八年六月一日 高田早苗 「戦争と外交」、肥塚竜 「露国の強弱」

二十八年十一月九日 長田荘 (演題不明)、依田正三 (演題不明)、大江乙亥門 (演題不明)、

山岸与四郎 (演題不明)、尾崎行雄 「学術研究の材料」、大石正巳 「新事業の範囲」

二十九年三月十五日 犬養毅 「国勢と学生」、山田一郎 「東京専門学校の去来今」

 なお、ついでに一言すると、二十六年三月二十四日に「政治科聯合演説会」が大講堂で開かれたとの記事が第二次『中央学術雑誌』第二巻第五号に見られる(四三頁)が、その性格は審らかでない。

三 科外講義

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 小野梓の『国憲汎論』が、学苑の科外講義として学生に講述されたことは四七二頁に説述したところである。すなわち、創立当初の学科配当には、特に科外講義が記載されてはいないけれども、知識の切売を以て足れりとせず、人格教育を念願とする学苑の首脳部が、学科配当に記載されている学科以外の講義に、機会があれば学生に接しさせようとしたであろうとは、容易に想像できるのである。しかし、それがはっきりと制度として記録に残されている最初は、創立後十年を経た二十五年であり、七月の各学部委員および講師会で決定された事項の中に、「科外講義ノ制ヲ設クルコト。此講義ハ各科二学年以上ノモノニ聴講セシムルコト。」があるのは、六八五頁に既述した通りである。そして、これは実施の段階において、「参考課目」という名称を付し、「実際的・応用的ノ課目、及ビ未ダ正課トシテ授業スルヲ得ザル学科ノ大要ヲ講義シ、学生ヲシテ正課研究ノ補益トナサシム。」と発表せられたことも、六八七頁に記したところである。恐らく、この「参考課目」(二十五年九月の学科配当に始まり、二十七年九月の学科配当まで続けられている)は、今日の随意科目の如く、ある程度の期間連続して講述するものを最初考えたのではあるまいかと考えられるが、やがて、寧ろ、一回ないし二、三回のものが歓迎されるように変化した模様である。そして、それが初めて学苑関係誌に、「専門学校科外講義及演説」と題して報ぜられたのは、『中央時論』第三号(明治二十七年六月発行)の左の記事であった。

先月中、大学教授・仏国博士ミツシエル・ル〓ン氏を聘ず。氏は「日本人と仏文学との関係」てう演題にて文学上に関する講話をなし、又本月本校講師・英人・雅芸博士ロイド氏の「吾人は先づ如何なる事を読むべきか」てふ愉快なる演説あり。又、農科大学助教授・林学士・ドクトル・エコノミー・プブリーク本多静六氏を聘し、五月十九日より引続き毎土曜日午後一時より科外講義を開く。演題は「帝国林政革新私議」にて、大に我国森林制度の不可なるを痛憤し、其革新の方法を論ぜられ、頗る有価の講話なり。 (四九頁)

 創立者大隈重信が、早稲田の別邸を本邸として、雉子橋の旧本邸からこれに移った明治十七年の頃以来、偉大なる外交家大隈の名は世界的に知られていたから、「世界の道は早稲田に通ず」と言われたほど、ここ早稲田の僻地に大隈を訪れるもの門前市をなすという盛況を呈した。内外人を問わず、政治家あり、実業家あり、軍人あり、新聞記者あり、学生あり、職業も人種も多岐に亘ったが、大隈は快くこれを迎え、庭園を開放し、宴を設けて接待した。そのうちのある者は、大隈の学校参観を所望したろうし、また中には大隈が如才なく講演を依頼した者もあったかもしれなかった。『早稲田大学沿革略』第一の二十四年三月十日の条には、「独乙公使フォン・ホルレーベン氏、書記官ワイベルト博士ヲ随へ来校ス。」と記しているが、これが外人来校最初の記録である。この時公使は全校学生の前で一場の演説をしたかもしれないし、その後も幾多の演説が珍客によりなされたかもしれないが、正式に「専門学校科外講義」と銘を打って演説した外国人は、右のミシェル・ルヴォンが最初で、二十七年五月のことであった。本多静六とルヴォンとどちらが先であったのかは知る由もないが、ともかく、科外講義が回数を重ねるとともに、それを更に整備・拡張しようとする方針が打ち出された。『中央時論』第十五号(明治二十八年八月発行)の附録「東京専門学校第十二回得業式報告」には、「次学年改正要領」の一項として「科外講義拡張之件」が載せられている。

一、従来正科を補翼するの目的を以て朝野の名家に実際的応用問題の講演を請ひ来りし処、次学年よりは更らに一層拡張し毎月二回必らず之れを行ふこととせり。

一、講師は毎月二回二名の出講を乞ひ、両三回にて結了すべき予定にて授業すること。

一、授業時間は一週間四時間位となし、隔週第一、第三の土曜日午後を以て之を開く。

但、科外講師の都合に依り日曜日に開くことあるべし。 (一二頁)

 これについて、二十八年九月、市島は次のように学生に対して演説している。

科外講義、之れは従来やつて居ることで、新に置たのでござりませぬ。従来学校が余り勉めなかつた、従つて遣つて呉れる人も、五回、六回、甚しきは七、八回の話しで永いものである。それで聴く人も聞き飽きて、遂に甘く往かぬのであつたが、之れも是非二回若くは三回で、一と纏めに入る簡単なる問題を選び、特に時勢に必要あるやうなものを諸君に御聞かせる仕組にした。併し乍ら学校が如何に勉めても、諸君が之を聞くに甚だ不熱心である。それで学校は人を頼んで来ることが出来ぬ。折角遠い所から足を運ぶも嫌やになる。漸く催した科外講義を完全に終らしめたい。又た諸君を倦ませない仕組を立てます。諸君も正課を聞く考へを以て、是非毎回出席あらんことを望む。〔科外講師予定者は〕只今現に三十人ばかりありますが、追々加へる筈である。場合に由りては、諸君が御望の人を嘱托する便宜を開く積りである。近頃仏朗西から帰つた友人の話を聞くと、仏朗西の第一の学校あたりでは、大学以上の学校であると、其の学校の仕組のやうなものであつて、専ら科外講義をする。其の科外講義に内閣大臣も出席する。当世第一流の人を集めてする。畢竟学校の名声ある所以であつて、此の学校の科外講義も能く仕組を立てたならば、或は正科以上の力を持つ。斯様な考へで、実に学校で非常に本年は奮発する積りであるから、どうか其の積りで科外講義を、熱心なる諸君の来聴を望むのである。

(『中央時論』明治二十八年十月発行第一七号 五五―五六頁)

 科外講義についても、『早稲田学報』発刊までは、その実施が学苑関係誌に常に記録されているわけではないが、『明治二十九年度東京専門学校年報』(明治二十九年十二月発行)には、それまでに実施された科外講義の講師と題目とが掲げられている。配列の順序は必ずしも実施日時によるものとのみは言い得ないようであるが、小野梓をはじめ、前記のルヴォン、ロイド、本多静六を除けば、そこに挙げられているのは、左の通りである。

(一九―二一頁)

 なお、『中央時論』第十号(五六頁)には、二十七年までに実施された科外講義が列挙されており、そこに記されている題目には、『明治二十九年度東京専門学校年報』よりも一層具体的なものもあるので、それらは、転載に当って〔……〕で補ったり、改めたりしておいた。また、今泉定介(「神武天皇建国の大要」)と藤代禎輔(「独逸近世文学」)とが、右に包含されていないのは不可解である。

 『早稲田学報』創刊以後に実施された科外講義は、まず漏れなく同誌に記録されていると思われるので、三十年以降については、第十一表に表示しておこう。そして、一度講述すれば、科外講師としてその名を毎年、正科の受持講師の名と並んで記載されたほど重要視され、正科に準ずるとも言い得べき科外講義と、実質的には必ずしも大差があるとは言い得ない「大演説会」の演説や、同人会や早稲田学会の演説も大講堂で行われたから、それらをも表に加えることにより、学苑の学生が、正科の狭い殻に閉じこもることなく、広い視野を持つことを誇り得た原由を明らかにする一助にしたい。また「大演説会」が専ら学生の自治によって運営されたことは既述したところであるが、同人会や早稲田学会も、学苑ときわめて密接な関係を持っていたとはいえ、その計画した演説は、学苑自ら実施した科外講義とは、形式的には、同一ではなかったことを、蛇足ではあるが付言しておこう。

 すなわち、「同人会」は、「外交の事を研究し以て刻下の須要に資せん」ため、東京専門学校校友および学生の有志が相計って起したもので、講師は参加していないし、研究が主であり講演が従とされている。初めは会員数も十数名で、稲垣満次郎、大石正巳を中心として設けられたものであるから、研究会の会場も手狭なところで間に合っていた。第一回の発会式が三十年三月七日、東邦協会楼上に開かれ、その後は牛込の料亭吉熊や赤城神社境内の清風亭、牛込求友亭等で催されたのも、皆そのためであった。ただ講演会は会場の都合から、そういうわけにはいかず、「大演説会」と称して本校の大講堂を使い、学生を対象に、一般にも公開している。

 これに対し、「早稲田学会」は「同人会」と同時に発足したが、第十三章に詳述する如く、その設立の趣意書には「我が東京専門学校に関係ある諸氏及び天下の同志と共に政治、法律、経済及び文学上の問題を学術的に講究するを目的とし、此目的を達する為めに早稲田学報」を発行することを主たる事業と謳っている。すなわち、その「規約」には、「一、東京専門学校講師校友学生 二、同準校友 三、同校外生 四、其他本校に関係ある者」(第二条)を以て組織すると定められていて、「同人会」より遙かに規模が広大であり、先行機関誌『中央学術雑誌』、『専門学会雑誌』、『公友雑誌』、『同攻会雑誌』、『中央時論』の更生復刊とも見られる月刊雑誌『早稲田学報』発行を必須条件としている。そのため一度は単独に講演会を開いたこともあったが、専ら、「内外の碩学名家を聘して東京専門学校に定期開設する課外講義、大演説会、国会演習及法学部討論会」(規約第十五条)の筆記を機関誌に掲載するのが、その方針であった。初代の編集委員として講師側から選出された者が、高田早苗天野為之大西祝志田鉀太郎の錚々たる学内外の実力者達であったから、最大の便宜を図ったことは言うまでもなかろう。

 なお、科外講義は、必ずしも全学的なものばかりではなく、例えば三十三年に史学及英文学科のために坪井正五郎が「人種論」について連続科外講義を行ったような例もあり、また、大講堂で開かれた演説会は、次表に表示したもの以外にも、三十四年二月二日の「法学部大演説会」(「帝国主義を論ず」高田早苗、「北清事件に就て」戸水寛人)をはじめ、経済学会、その他学生の会主催のものなど、決して少くなく、演説好きの学生ならば、かなり応接に暇がなかったものと推察されるのである。

第十一表 講演会・演説会一覧

注○印は、その速記録が『早稲田学報』に掲載されたものを示す。

(『早稲田学報』第一号|第六九号の「早稲田記事」による)