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第三編 東京専門学校時代後期

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第四章 文学科講師陣と初期学生

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一 無視された哲学

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 文学科の創設は、機宜に適していた上、首脳者坪内のいわゆる「性に合った」仕事だったので、ド・ミュッセがフローベルを評した言葉を借りるのが不当でなければ、彼はまさに「ニグロのように」働いた。

 政府高官より珍重せられた文学士の称号と小説家としての盛名の両方から、坪内を利用しようと考える者は多く、そのうち神田辺りのあまり有名でない二、三の私立学校の掛持ち教師はどうしても断り切れず、出講していたが、早稲田の文学科開設とともに、立派な理由ができたのでこれらを一切断って、専心文学科の発展に打ち込んだ。当時の働きは八面六臂と言うか、大車輪のようだったと言うか、西村真次の筆によると、こうである。

二十五年一月には三十七時間を講義して居り、二十六年三月には七十四時間を講義してゐる。二十六年といへば第一年乃至第三年まであるから、三分すると各年平均二十五時間であり、更にそれを四分すると一週間平均六時間強づつを各年級に亘つて講義したわけである。参考の為めに其七十四時間を科目別で示すと、ハムレット六、英論文九、英文学史七、スケッチ・ブック六、訳読九、テムペスト七、文集六、オセロ七、フレデリック大王伝五、湖上の美人六、エマースン六といふことになる。

(『半世紀の早稲田』 一一六頁)

この外に創作し、新聞雑誌の折々の寄稿もしているのだから、超人的と驚くの外ない。後年、坪内は、往時を思い出し、どうしてそんなことができたかと自分であきれている。

 しかし坪内だけだったら、新誕生早稲田の文学科は、軟文学的に、平俗に言えば、どこか戯作者気質的な色彩を帯びたであろう。思いもかけず、たとえ求めてもめったに見つからぬ最高の協力者が現れ、しゃんと脊骨を入れて、文学科の軟骨的な全姿勢を正してくれた。彼の名は大西祝、号は操山。明治の哲学界、仰いで高しの風格のあるのは、後にも先にも、操山一人である。文学科創立時の開講予定科目中には哲学関係は論理学以外に見られない。と言って、早稲田では何人も哲学の重要性を認めていなかったとも思われないが、如何なる因縁により、或いは、何人の推挙によるにせよ、若き哲人操山は、実に群鶏に紛れ込む白鶴の如くに、まだ始まったばかりで未整備、乱雑を極めた早稲田田圃に舞い降りたのである。講義を始めた最初から博治の学識、高遠なる理想家的性格、そして精厳の哲理を説くに朗々たる弁を以て至微をも剖いて徹せずんば止まずとする態度に、学生は今まで早稲田にあったのとは全く違ったタイプの講師の出現に接する思いをした。

二 大西操山

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 「私が文科に在学してゐた頃には、父母の位地に起たれた両先生があつた。私が父として敬つたのは故大西先生、母としてなつかしく思つたのは坪内先生である。」(『早稲田文学』大正十五年五月発行第二四四号六六頁)と、長谷川誠也(天渓)は両者を表現しているが、これが、当時の文学科生の等しく抱いていた気持であった。大西は甲子禁門の変で知られる元治元年に、備前岡山藩士の家に生れた。旧姓を木全と言い、後に、母弟大西定道の家を継いで大西姓を名告った。十年九月郷里の小学校から京都の同志社英学校に入った時、寄宿舎に掛かった名札を見て、徳富蘇峰は中国人が入ってきたのかと思ったという。多分ボクゼンシュクとでも読んだのであろう。小柄で人目に立たぬ新入生であったので、豎子与し易しと見たが、一たび講堂に出ると学才抜群、実弟の蘆花に日本一の兄と言われた蘇峰も、さすがに一目置かざるを得なかった。

 十四年普通科から神学科に移ると、漸く人を教え統御してゆく才が現れ、新島襄はひそかに彼を自らの後継者として属目した。しかし彼は学問研究の志を絶たず、東京大学予備門の各学年の試験を経て、最高級である三年に編入された。当時他校から来て、一躍してこの最高級に入った者は大西を以て嚆矢とした。入学の折、口頭試問の試験官がミルトンの『失楽園』について質問すると、原文を暗記していて、滔々と読み上げ尽きるところがないので、もういいと言って英語の試験は満点をつけられたという話が伝わっている。

 予備門を半年で畢えた彼は大学文学部に進んだ。文学部が改まって文科大学となるに及び、その哲学科を修め、毎年特待生であった。哲学科始まって以来の前後を絶する最高点を得たのも大西である。卒業とともに大学院に推挙され、政府の給費を受けることとなった彼は、孜々として怠らず、大学院の卒業論文として完成したのが有名な「良心起原論」である。学内の者は等しく彼の留まって助手・助教授・教授たる階梯を当然のことと期待したが、故あってその卒業論文の提出を見合せ、去って東京専門学校に迎えられた。哲学科の第一回の卒業生井上哲次郎がドイツ留学から帰国し、独裁力を振って、その前から教えていた気に入らぬ者には遠慮なく退出を求め、大西には、キリスト教の信仰を捨てるのを条件に学内に残ることを認めると言ったので、潔よくこれを拒否し大学を去ったのである。

 二十四年十一月(『同攻会雑誌』明治二十四年九月発行第七号二七頁によれば、九月)東京専門学校の講師となり、その初め若干英詩文の講義を受け持ったらしいが、哲学教授に専心するに及んで学苑に新世紀の幕が開いた。地上匍匐に終始する学問から天上を闊歩する道が開かれ、形而下から形而上への連繋であった。それは従来の学苑に全くなかった学問の移植である。

 大西が一たび説くや謹厳周到、熱誠溢れ、学生は常に酔えるが如くであったとは後藤寅之助(宙外)の言葉であるが、暢達の弁を以てする彼の講義は、まさに満堂の学生を魅了した。彼は高遠の理想を弁ずるに至微を穿ち、抽象には具体を、分析には総合を、理論には例証を以て相表裏させ、理性に訴えると同時に、広く想像や感情に訴えることも忘れなかった。それは大西が、緻密な学究態度に加えて、文学・評論を理解する豊かな情操を具えていたからに外ならない。これは同志社時代の恩師山崎為徳の影響によるところが大きかった。すなわち大西には、透徹した理性の世界と、触れればそのままに生きた脈動が伝わってくるような感情の世界が、渾然一体となって存在していたからである。これが多くの学生に感銘を与えないわけがなかった。大西のこうした講義ぶりには、同僚である坪内も、多大の感化影響を受けた。坪内は教育を最も学びにくいアートだと表現しているが、その坪内にしても、学生を魅了した大西の講義ぶりに接し、その方法を学びたいと思ったのである。坪内はまた、大西によって足らざるを補い、深く自己反省させられたと再三に亘って述べている。坪内に付き纏った戯作者気質、幕末芸人気質の垢を洗い落したのは、学外にあっては二葉亭四迷、学内にあっては大西祝その人であった。

 大西が残した偉大なる諸業績は『大西博士全集』全七巻に集大成されているが、何れもその風格躍如たるものがあり、高度な学問研究の結晶である。このうちの「論理学」「倫理学」「西洋哲学史」は、学苑の需めに応じ講義録に掲げられたものである。なかんずく「西洋哲学史」は、全集中でも上下二巻に分けて収められてあり、大西の口述を綱島栄一郎(梁川)、五十嵐力の両人が綴り、更に大西が加筆訂正したものである。高山樗牛は、これを我が国初めての学術的大著作として敬重し、姉崎正治(嘲風)は特にそのカントの章を激賞した。解説の巧妙さもさることながら、その人格に裏づけられて重厚の気を帯びたところが及び難いと言っている。また、「西洋哲学史の本場ドイツに於て此のまま翻訳されても光を放つ可き名著」と言って讃歎しているのは小倉清三郎である(『思想の爆破』三九八頁)。

 一般的に言って大西の学問的風格は、ドイツ流の理想主義に性格が適合しており、自らの好みもそこにあったが、イギリス風の実証主義の堅実さも捨てず、できるだけこれを加えようと工夫した跡がある。伝記者達が進化的理想説と言っているのが蓋し当っているであろう。殊に美学は、逍遙・鷗外の没理想論争で我が批評界を風靡したハルトマンの学説を紹介して、十分に評価し、美学の全問題が殆どここに尽きると言いながら、逸速く英米の心理的美学にも心を傾け、解説し、早稲田は実に我が美学界に先鞭をつけて、ハルトマンを止揚し、ヨーロッパ学界の大勢を占めてくる心理的美学説と呼応した。論理学の分野においても、大西は明治期における大成者と言われている。殊に仏教論理の因明に早くから目をつけ、これを純粋論理学の立場から重視した。ここにも大西の非凡さがあるのである。

 三十一年二月、大西は選ばれて、文部省より哲学研究のためヨーロッパ留学を命ぜられ、同年七月、ヨーロッパ各国の文科大学の学課および組織の取調べを、京都帝国大学より委嘱せられた。京都に設立さるべき第二の帝国大学の文科大学長たる位置が、当時ほぼ確定していたのである。

 大西が東京専門学校を去ったのは、三十一年二月ヨーロッパ留学を命ぜられた時であったが、前々からその噂によって最も衝撃を受けたのが坪内である。営々と育て上げた文学科が、或いは半ば崩壊するかの如き危惧を覚えた坪内は、他校から迎えた人物は最後まで頼り得ぬことを覚り、自らの学苑の人材を育成することの必要を感じたので、三十三年九月、金子馬治(筑水)、三十五年三月、島村滝太郎(抱月)を留学させて、明日の大学への布石とした。

 大西はドイツをはじめとしてヨーロッパ各地の大学を歴訪し、時には足を留めて暫く講義を聞き、また時には参観して参考に資した。滞欧の一歩を先ずベルリンに印し、留まること三日でイェーナに移った。イェーナ大学ではオイケンやリープマンと親交を結んだが、殊に大西はオイケンの人となりに惹かれたようである。十年余を隔てて我が学界では、「晨にオイケン、夕にベルグソン」と言われた時代が来たのを思えば、いかに大西に先見の明があったかが分るのである。イェーナ大学にあること六ヵ月、三十一年十一月ライプチッヒ大学に転じ、ここで主として、ヴントおよびフォルケルトの講義を聞いた。フォルケルト教授は大西に向って「君は一見して学生のようであるが、君と語るに及んで、既に学生ではないことを知った。できるならば君の経歴を教えてほしい。」と語ったという。はしなくも大西の学殖がフォルケルトの好奇の念を動かしたのである。講学以外、彼は努めて音楽、演劇、美術の鑑賞に心を傾け、殊に、ローマ、フィレンツェの古蹟には心惹かれることが多かった。

 大西は不幸にして病を得、研究・視察を半ばにして帰国。三十三年三月京都に居を定めて、先ず既設の理工科大学において教育学を開講する予定であったが、遂にこれを果すことができなかった。この年の七月、博士会の上申によって文学博士の学位を受けたが、同年十一月二日、大西は全学界痛惜のうちに郷里岡山において三十六年三ヵ月の生涯を閉じた。大西が京都帝国大学のため作成した調書は、『京都帝国大学文学部三十年史』に「大西博士手記」として収録されている。規模の雄大、学科配当の整然たること、遙かに時流に抽んでたものであった。しかしこの計画も実施の緒にさえつかぬうちに大西は病没した。京都帝国大学の初代総長木下広次は、文科大学の創設に一挫折を来たしたとの歎を発したという。

 訃報を聞いて岡山に急行したのは、島村滝太郎、中桐確太郎らの旧東京専門学校の学生達で、遺影を擁し帰って各方面の関係者を招き、丁重な追悼会を開いたのも東京専門学校であった。

 大西の筆になった数多くの時事評論は、全日本の批評界を提斯して余りあるものがあった。しかし学者としては未完の大器として斯界に惜しまれている。姉崎正治は「天をして数カ月の健康を君に与へしめしならんには、此の新日本の哲学者の学系は世に組織発表せられ、思想界に一大明星を現出せしならん。」(『哲学雑誌』明治三十四年五月発行第一六巻第一七一号四二三頁)と言い、坪内は大西の遺した業績を称して、「雲間に閃く竜の金鱗」と表現している。

 大西の学風は、ある点では坪内よりも深く学生を薫染し、第一期卒業の金子馬治、第二期島村滝太郎、第三期朝河貫一綱島栄一郎など皆大西なくしては生れず、育たなかった学生である。また大西の来校は、年を隔てて、同志社と連絡する端緒となった。浮田和民安部磯雄、岸本能武太らが逐次迎えられ、早稲田にキリスト教的教養を加え、新しい「同志社的学風の輸血」と言われているが、その先駆者は彼である。大西を先例として、京都帝国大学は、早稲田もしくは早稲田出の目ぼしい学者をその傘下に聘すること数次に及んだ。宗教哲学の波多野精一、倫理学の藤井健治郎、日本経済史の内田銀蔵などがそれであるが、これらの人々は洛北の学苑に独特の学問を樹立し展開した。早稲田は慶応義塾の弟であり、東京大学の分家であり、同志社大学とは乳兄弟であり、更に京都大学とは親類筋であるとの評言は別として、大西が図らずも、早稲田と同志社および京都大学との架橋になったことは忘れられるべきではない。

三 講師としての漱石・樗牛

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 大西は今で言う東京専門学校の専任講師(本当は今なら柱石をなす重要教授であっても、当時は教授という制度も名称もなかった)であった。彼の他に変り種として語り草になる講師は、夏目漱石が帝国大学三年生の時、大西の推薦で、初め英語科に迎えられ、文学科ができるとそこにも教えたが、暫くして松山に去って、実際に教えたのは約二カ年であった。その思い出を漱石は、「丁度大学の三年の時だつたか、今の早稲田大学、昔の東京専門学校へ英語の教師に行つて、ミルトンのアレオパジチカという六ケ敷い本を教へさされて、大変困つたことがあつた。」(『漱石全集』第一六巻五六四頁)と述べている。その頃の早稲田学生はなるべく難しい教科書を用いることを好み、難問と言うより無茶苦茶な質問を発して、教師を苦しめるのを快とする風があったので、後に漱石が早稲田に好意を持たなかったのは、それが原因しているとも伝えられている。英語科ではゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』を教え、秀才綱島栄一郎がその学殖に深く傾倒して「可なりの講師と評すべし」(『梁川全集』第八巻一八七頁)と日記に書き残しているところを見ると、やはりその頃から凡庸の教師ではなかったのだ。しかし漱石はまた、「大学へ進むやうになつてからは、特に文部省から貸費を受けることとなり、一方では又東京専門学校の講師を勤めつつ、それ程、苦しみもなく大学を卒へた。」(『漱石全集』第一六巻六四一頁)とも言っている。自分の授業がすむと、学生達に交じって、坪内のシェイクスピアの講義を聞いた。それで坪内とは、学苑を去った後も声息を通じ合い、後年生田弘治(長江)が帝大の学生時代、教授に不満を抱き、坪内を訪ねて煩悶を述べると、「そういうことには私は十分の相手になってあげる資格がない。幸い近頃いい人が洋行から帰ってきたから、紹介してあげよう。」と言って漱石のもとへ添書をつけた。かくて生田は漱石帰国後の最初の門下生になったのであるが、実は坪内が仲介の労を執ったのだ。「吾輩は猫である」が出始めると、「夏目漱石は日本の産んだ最初のユーモリストだ」と意義付けして、真っ先にほめあげたのも坪内で、その急死を聞くと逸速く枕頭に駆けつけて死顔に対面している。

 高山樗牛も来て、美学を教える傍ら、バイロンの『チャイルド・ハロルド』その他の英詩を講読した。樗牛を迎えることは、島村滝太郎が推薦したのだと言われる。彼は謙遜して「島村君自身がやればいい」と言ったが、しかしこの講師への招請は、彼の名誉とも喜びともしたところで、遂に承諾した。その時、早稲田の学生は条件を出し、「うちの学校ではドイツ語が正科にないのだから、絶対にドイツ語は使わぬこと」と決め、しかしひそかに語学の才ある数名が街のドイツ語私塾に通ってこれを修め、それからしきりにドイツ語で質問を発するので、樗牛もつい釣り出されてドイツ語で答える。それはこちらの思う壷の罠に引っ掛かったので、他の学生が「先生、それは約束が違います」と詰ると、樗牛も「だって諸君の方でドイツ語を使うじゃないか」と言って、はては大笑いになったこともあった。敵対感情を持ちながら、若き講師と元気のいい学生との間は、そのように活気横溢、和気藹々であった。しかし樗牛も正宗忠夫(白鳥)の学力にはひそかに舌を巻き、博文館の編集局に帰ると「早稲田にはえらくできる学生がいる」とよく一つ話にしたので、田山花袋などは、正宗が自然主義作家として世に出る前から、その名を知っていたという。後で正宗は「いや、樗牛はキリスト教のことをあまり知らない。僕は岡山でキリスト教の塾で育ったから、それで、教科書に新旧約聖書と関係あることが出てくるたびに、それをつっつくので、樗牛が僕を買いかぶったのだ。」と言っていた。樗牛も自分の授業がすむと、学生の間に交じって、坪内のシェイクスピアの講義に耳を傾けた。

 なお維新後の新実業家の高島嘉右衛門や作家の徳富蘆花など学苑外の人も、こっそりとシェイクスピア傍聴に潜入したことがある。また後になると、高等師範学校の英語科の学生が、毎年卒業前になると、岡倉由三郎教授に引率せられて、一日だけこの講義を聞きに来ることが恒例になっていた。これは坪内の講義があまりにも有名になり、絶代の名優市川団十郎張りの声で、歌舞伎よりも面白いという評判が立っていたので、地方中学教師に赴任した時にする東京の土産話として好評を博したためらしい。

四 増田藤之助

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 もし世間に早稲田教授の三尊を高田・天野・坪内とする如く、仮に文学科のみの三尊を数えれば、坪内雄蔵大西祝、そして増田藤之助となるであろう。漱石の去った後には、その推薦で藤代禎輔(素人)が来たが、ドイツ文学の第一人者となるべき将来を持った彼も、専門違いの英語を教えては、学生達の猛攻に手も足も出ず、散々な体たらくで去った後は、適当な後任が見つからず、久しく空席になっていたが、いつまでもそのままにはすまされない。たまたま日本英学院に学んだ学生達がその塾主増田藤之助を推薦した。島村滝太郎も実はそこに学んで早稲田の文学科に入学したので、その篤学を知っていて、それに賛し、ここに彼を迎えることが決まった。

 しかしいよいよ壇上に立つと、矮軀痩身の見映えのせぬ小男である。彼如き何する者ぞと、いわゆる猛者連はこぞって難問を提げて肉迫したが、意外にも彼はそれに応酬してびくともせず、明快なる解釈を加えて、まさに溜飲の下がる観があり、その学殖の淵博計り難いものがあるのに猛者達も矛を収めておとなしくなり、満足し、尊敬して、爾来、早稲田英文科の柱石として信頼を博し、坪内が早稲田尋常中学校の教頭となって、倫理研究に没頭し、全力を文学科に傾け難くなり、且つ自校出の秀才は金子・島村ともに、大学昇格に備えて海外に去った、いわゆる「文科の留守時代」は、増田一人でこれを支えたと言ってもよく、その余力は、脈々として大正から昭和の太平洋戦争勃発の頃まで、つまり老いて倒れるまで文学科の中軸をなした。

 彼は、官途にある神田乃武と井上十吉を除き、国民英学会主の磯辺弥一郎、正則英語学校主の斎藤秀三郎と並んで、民間の三大英語学者と併称せられていた。これはきわめて妥当である。しかし彼を除く四家は英語学者でいいが、増田藤之助は、それ以外にはみ出て、それ以上のものである。明治前半期には英学者という言葉があり、高橋五郎、栗野健次郎とともに、増田藤之助が挙げられた。これは英語を学んでも語学に終始せず、英語を用いて英米のヒューマニスティックな思想を深く体得した人の謂で、三人ともその称の方がより多く適合する。しかし若年、キリスト教界のために聖書訳述に当り、井上哲次郎の宗教と国体の衝突論に最も激しく論戦をなし、この官学の大御所に遂に和を乞わしめた経歴があるにしては、高橋の晩年は蕭条としてあまりに淋しく、栗野は仙台の国立大学に迎えられて至宝の如き待遇と尊崇を受けたが、地が北に僻して世多くこれを知らず、これらに反して増田藤之助は、早稲田学苑がいよいよ大をなすとともに、その輝かしい名声を持続した。

 三重県生れで、その地の師範学校の付属小学校に学び、少年時代『頴才新誌』投書家として、東京のやはり小学生の尾崎徳太郎(紅葉)、山田武太郎(美妙)、地方の堺利彦(枯川)らと文名を競い、自由民権運動に憧れて東京に出たが、実情に失望したので学問に転じようとしたけれども、病弱と学費不足のため、入手した東京大学のカリキュラムにより英語を独修するの余儀なきに至った。どのくらいの学力がついたのか自分では見当がつかず、たまたま国民英学会の教師募集に応じて、主席で採用せられた。その頃学んだ生徒に杉村広太郎(楚人冠)がおり、「増田先生の訳は一字一句、否ピリオド一つもゆるがせにしない厳格さで、しかもたちどころに名文となっていた」と思い出を述べている。博言博士のイーストレーキが来日すると、すぐ認められて、彼から「スエズ以東第一の英学者」の折紙をつけられた。スエズ運河の開発とともに時々こういう讃辞が用いられたが、そのスエズ以東の第一号は、実に増田藤之助であった。イーストレーキを奉じて、日本英学院と、雑誌『日本英学新誌』を興し、共に斯界に貢献するところ大きかった。この雑誌には『方丈記』や『徒然草』のような日本古典の英訳から、現代文学の『舞姫』(森鷗外)の英訳などまで載せている。極力、「哀れなる鵞鳥は殺されし」とか「事ほど左様に早く走りし」とかいう、当時生じた独特の直訳的英語教育法を排撃して、雅醇の訳の必要を主張し、実施し、『早稲田文学』の坪内逍遙の心からなる賛同を得た。

 早稲田に来ると、特に名訳を施して学生を指導し、大学部文学科第四回の服部嘉香の語り残したところによると、"it may be urged that"は「或いは論じて言わん」で、また"star by star"は「星また星」と訳した。"Eddy byeddy"という句が出た時、学生が師に倣って「渦また渦」という訳をつけたら、「いかん、渦は動いているものだから『渦は渦を追うて』と訳すべきだ。」というような細かいところまで注意したという。

 坪内のシェイクスピア講読に「ここのところはよく分らないので、増田さんに聞いたら、こういう意味でした。」と言ったことがあり、学生の尊信はとみに高まったものである。一生のうちにウェブスターの大辞典を七たび使い潰したという評判だった。引いて、引いて、引きまくって勉強したのだ。彼が老衰して引退すると、入れ替りに、その養子の増田綱(旧姓松川、大正二年英文学科卒)が、これは英作文の権威として養父の跡を汚さぬ令名を博した。増田家は父子二代に亘って、早稲田の英語学の隆盛に貢献した殊勲者だ。

五 島村抱月による思い出

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 発足当時の早稲田文学科の空気は、往年の秀才、抱月島村滝太郎が次のように述べているのが、実況を最もよく伝えているとして、夙に人々の記憶に残っている。

私は二十七年早稲田の文科を出たが、其頃の級仲間や先生方に就て話して見ませう。同じ級仲間の中で、文壇に関係すべく予期せられて居たものの中で特色のあつたのは、第一、学校を出た翌年、ピストルで自殺を遂げた藤野古白といふ人である。その人は故正岡子規子の親類で、虚子君などとも矢張四国の人で一緒に俳句をやつて居た。級中での最も飄逸な、天才的な人で、その人の自殺したのは、北村透谷が自殺した後であつたから、自然両者相並べていろいろ研究された。今の元良勇次郎氏などもそれに注意して、その死因を聞きたいと言つて寄越され、当時からして既に青年の自殺といふことを心理的に研究して居られたのは敬服の至りだ。今から考へて見ると、後年藤村操などの厭世自殺の煩悶と相連なつて、その先駆をなして居たのだ。此人は我々仲間の一番詩人肌の秀才で、今まで生きて居たなら随分面白いものが書けたのだらうと思ふ。総てものを考へず、無意識に拵へて了ふといふ傾向があつて、卒業論文を書くにしても、二三日教場で逢はないと思つて居ると、その後で二百枚もある草稿を持つて来て見せる。哲学上、心理学上、堂々たる議論をして居るけれど、さういふ風な人であるから論理が徹底して居ない処もある。それでそんなところを指摘してやると、さうかなアと言つて首を傾けて帰る。そして二三日すると、また百五十枚もあるものを書いて来て見せる、と言つた風で、少からず我々を驚かした。語学なども上手い方で、殊に会話など、ちよつと稽古したばかりで不思議なほどよく出来る。それが考へてやるのでなくて、無意識的に出て来るやうであつた。その調子だから、いつも湧き出るやうな想を持つて居る人で、創作なども奇想天外的のものをやつた。卒業後『築島由来』といふ脚本を書いて其頃の早稲田文学に載せたが、今から考へて見ると、落想、形式、其他不思議に北村透谷と似た点が多かつた。

この人が先づ級中唯一の詩人。それから後藤宙外君なども大に特色があつた。体のあの通り小さい人であつたが、何となく精悍な趣があつて、教場に出る時、いつも手織の着物の上に角帯のよごれたのをチヨツコリと締め、羽織も着ず、袴も穿かず出て来た。何となく奴姿を連想させたものだ。エナージイの強い勉強家で、真面目な人であつた。いま一人、伴無得といふ人が居た。此人は非常の俊才で、且容貌風采の秀麗な美男子。山口県の人で、何処か国木田君(独歩)と似た面ざしであつたかと思ふがもつと美しかつた。文章の立派なことは級中の第一であつたが、惜しいことには国へ帰つて肺病で死んだ。その外に、今、天津の師範学堂に居る中島半次郎君、此人は非常な勉強家で、温厚な君子人として皆からなづまれる質の人であつた。其頃から教育学方面に熱心で、中島力造氏の知を得て勉強して居た。級中第一の教育学者であつた。その人の袴と私のとが、級中で一番穢かつたので、蔽袴先生といふ綽名を得た。先づさういふ人が私の最も親しくした人で、後藤の精悍、藤野の飄逸、伴の俊敏、中島の温厚、それらがよく級中に目立つて居た。其外今第四尋中の教諭の大久保常正君が級中で英訳の名人。亡くなつた奥泰資君と言つて、坪内先生の玄関に居た人が、今日でいふ文士劇の先達、同じ玄関に居た畠山慎吾君が今台湾に居るが、国学院大学長畠山健氏の令弟で、餅は餅屋だけに国学の大家であつた。そして学校を出てからも、皆それぞれにその特色を発揮して居る。当時の文科は、開けて漸く第二期の、所謂草創の際であつたから、万事が甚だロマンチツクで、活気があつて、随分乱暴者も居て、教師などを何とも思はず、ストライキを喰はせたり、悪戯をやつたりしたものである。其頃の英文学の講師には、磯野徳三郎氏といふ理学士があつた。理学士で英文学に精通して居るといふのだから、なかなか変つたところがある。今、京都に居る藤代禎輔氏なども学校の出たてでもあつたか、独逸文学科の出であるけれども、矢張り英文学を教へて居た。それからロイド氏も来た。夏目氏も来た。井上十吉氏も来た。坪内氏のセークスピアが当時から評判ものであつたのは言ふまでも無い。国文学の方では、関根正直氏が、三上参次氏の『日本文学史』を教科書に持たして置いて、その材料の出所を指摘したり、欠点を罵倒したりして、変つた講義をやつて居た。それから畠山健氏の万葉集講義、饗庭篁村氏の近松講義、三島中洲翁の漢文学講義など何れも振つたもので、要するに、講義を聴く方もやる方も一種自由奔放の気に充ちて、乱世の天下は切り取り勝手といふ趣が溢れて居た。夢のやうなロマンチツクな時代であつた。

(『文章世界』明治四十一年十月発行第三巻第一三号 九四―九六頁)

 島村はここで自分のことは語っていないが、ボザンケの『美学史』を入手すると、反復熟読、遂にこの大冊を暗記するに近くなり、自らの語学もこれによって長足の進歩をしたと語り伝えられている。卒業論文を不注意からランプの失火で焼き失い、提出日は数日のうちに迫ったので、徹夜して一気呵成に再成した。しかもそれは頗る優秀で指導教授の大西も口をきわめてほめ、講師として来ていた三上参次が、東大に帰って「専門学校の卒業生でも、あんな立派な論文を書く。諸君はうかうかしていると、私立学校生に追い越されるぞ。」と、激励したという話も残っている。「審美的意識の性質を論ず」がこれで、第一回の金子馬治の「詩才論」や、同期次席の後藤寅之助の「美妙、紅葉、露伴の三作家を評す」に少し遅れて、『早稲田文学』に掲げられた。今読んでも一顧の価値がある。今日の卒業生には、これだけに努めた卒業論文はなかなかできないかもしれぬ。

六 没理想論戦

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 東京専門学校に新設された文学科と、一年遅れて刊行を見た雑誌『早稲田文学』とは、分離し難い双生児である。『早稲田文学』の伴奏なくとも、文学科は十分な発達を遂げ得たに違いない。しかしそれは学問の一分科たるに留まって、天下の「早稲田文科」たるには何倍かの長日月を要したであろう。

 学科の片側に文学会なるものが傍生して、諸講師を招いては、講演を聴き、懇親を結んでいたが、この間から機関誌を作ろうとの機運が自ずから醞醸してきた。文学講義録の発刊に対しては反対論が強く、それに代るものとして創刊されたという裏面の事情から、初期の『早稲田文学』は多分に講義録の色彩を帯びている。しかし、巻末に「時文評論」の欄を設けて文壇の活気に接触し、当時坪内が愛読した『エディンバラ・レヴュー』や『ウェストミンスター・レヴュー』に倣うところあろうとした。しかしイギリスにステッドの『レヴュー・オヴ・レヴューズ』誌が新たに興り、世上雑多の評論を捉えて簡単に紹介し、それらに対して穏健中正の批評を加えているのを見るに及び、「時#waseda_tblimg(1_0730)

文評論」は今度はその様式の取入れを志した。第一号の内容は『同攻会雑誌』(明治二十四年十月発行第八号)に右の如く広告せられている。

 当時既に、我が国にも雑誌の刊行されるものは十指を屈して余ったが、大きく明治文壇に寄与したものとしては二、三を僂指し得るに過ぎぬ。第一は徳富蘇峰の『国民之友』で、その夏期文芸附録に登場する作家は文壇の地位を確立できるほどの権威を持ち、「大家号授与所」の称があった。山田美妙の『都の花』は華麗な出発はしたが、小説雑誌で、評論を度外視している。森鷗外の『しがらみ草紙』は、批評壇の確立に最大の貢献をした立派な雑誌ではあっても、多年ドイツ留学で蘊蓄してきた力量の揮い場に困り、相手を捜している状態で、たまたま文壇大御所の観あった坪内逍遙に好敵手を見出し、これに挑戦してきた。

 問題となったのは「マクベス評註」である。当時シェイクスピアの名は既に広く知れ渡っていたけれど、厳密に訳と称すべきものは一冊も出ていない時、坪内がこれの詳密な評注を試みたのだから、世は触れることだに憚かった聖殿の扉に手を掛ける者の出たのを見る如き、一種のセンセーションを以てこれを望み見、多くの讃歎の声が上がった。坪内が日本一のシェイクスピア研究家だという評判の立つ基礎となったのは、この評注である。夏目漱石でさえ初めて『ハムレット』を購求して、何のことやらさっぱり分らなかったと言っている如く、シェイクスピアは素手で取り掛かったって大抵の人には読めない。それを日本の演劇と比較しながらact, sceneの説明から掛かって懇切丁寧を極め、語句の注釈はクラレンドンとロルフしかなかった時、よくもここまでできたと思われるほど周到で、後にデイトン版が現れると、坪内のシェイクスピア研究は更に進歩して全集の訳にはそれを大幅に取り入れ、大正に及んで東大で珍重されたヴェリティ注も逸速く取捨して参考にしている。

明治二十四年『早稲田文学』の創刊紙上に坪内博士の「マクベス」の翻訳が評註とともに現はれたことは、破天荒の企てとして吾々学徒の刮目を惹いた。これ実に日本に於ける英文学の作品の評註附き翻訳の嚆矢で、筆者の如きは、特に多大の興味を感じて、毎号その出るを待ちかねて、学友と共に之を原文と対照しつつ研究し合つたほどであつた。(その翌年筆者が英語英文学研究の一雑誌を創刊の際、学友村田祐治氏の「ハムレット」の訳註を掲げたのも、之れに刺戟せられたからであつた。)

(『沙翁復興』昭和十年二月発行第一七号 二頁)

言う人は増田藤之助で、まだ早稲田に聘せられてくる前の話だが、既にイーストレーキから「スエズ以東第一の英学者」と折紙をつけられていた時で、その目に「破天荒」と映ったのだから、世間に呼んだ反響の程が知られよう。その反響中の最大のものが、森鷗外の駁撃である。坪内は、この評注に「没理想」という新造語を鋳出して、シェイクスピアの偉大さを説明する標語とした。それは造化が衆理想を容れて余りあり、その面影は表面には少しも顕さず、ただ哲学者によっていろいろに解される如くに、シェイクスピアの作も、衆理想を呑み尽し、埋没して、容易に見せないが、ただ有識の士がいろいろと理想の色眼鏡をかけて、その色に合ったように解説する。しかしそのような小主観の批評は避けて、作者の「没理想」の態度に歩調を合せなくては、その偉大さ、その妙味は分らぬとした。今で言えば客観的、現実的批評態度のことである。

 これに対して鷗外は、その頃ヨーロッパに流行のハルトマンの美学にかぶれていたが、これはヘーゲル流の、宇宙を一大理想の顕現とする立脚地により、美はその理想の随時随所的現れで、シェイクスピアの傑作もそれに他ならぬから、よろしく理想的立場をとって、これを究明すべきだとして食ってかかった。

 文学青年田山花袋が執筆した「明治名作解題」に次の如き記事がある。

文学其折々 坪内逍遙 春の屋主人が明治文壇の曙鐘を春いたことは既に前に記した。小説神髄といふ書が、文学評論の書として最も最初のものである許りでなく、それが新らしい一種の影響を与へたことは、言はずとものことだ。其後春の屋主人は早稲田に入つて、一方育英の事業に従事すると共に、わが国の幼稚なる演劇界の為めに尽すこと、一通でなかつた。明治二十四年頃、早稲田文学を起して、大に文壇の新声を鼓吹した。かれは沙翁の忠実なる研究者で客観主義と記実主義とを以て其の旗幟とした。鷗外漁史は此時柵草紙に拠つてハルトマンの美学を講じて居つたが、ゆくりなく衝突して此処に花々しい論戦は開かれた。当時の両雑誌、それが毎号七八分通りは二家の議論を以て満たされてあつたので、其偉観、実に明治文壇に再び見るべからざる者であつた。其早稲田文学に載せられたものを蒐めたのが、即ちこの『文学其折々』で、これを読めば、逍遙博士がいかに文壇に忠実であつたかが解る。又併せて当時両大家が奮戦した勇ましい姿をも偲ぶことが出来る。

(『文章世界』明治四十年四月発行第二巻第四号第一臨時増刊「文と詩」 四一―四二頁)

 明治の文壇に批評が確立し、その新用語の創造定着を見たのも、主としてこの論戦からで、『早稲田文学』と言うと、この没理想で記憶され、『しがらみ草紙』と言うとハルトマンの美学を思い起すのが、常識のようになっているほど有名である。

 この論戦を勝負として見る者は、坪内も五分の戦いはできなかったと言って、多くの批評家はその劣勢を認め、またある意味ではそれで間違いない。数年ドイツで思いのままに蘊蓄した鷗外に対し、洋書の輸入も限られていた早い頃、葦の髄から天をのぞくようにして集めた坪内の知識とでは、程度の差が大きい。それに坪内がその性癖から鷗外の言い分に十分の理解を以て当ろうとしているのに対し、鷗外は坪内の言説を自分流に矯め直して議論し、駁論し易いように歪めて、素直に相手の言に耳を傾けていない。その上、鷗外の論拠としたハルトマンをも、勝手な読み方をして誤読曲解が多いのが今日では指摘せられている。更に哲学的見地に立てば、壮麗なへーゲル哲学が根底から崩解した今日、その末流とも言うべきハルトマンの名は、新しい哲学書には全く載せられていないほど、無視せられるようになっている。そこへいくと、坪内のイギリス的実証主義を背景とするリアリズムないし記実主義は、広壮なる哲学的大建築を構成するには不足としても、根拠の総崩れになる危険がない。そこで往日の評価は逆転しかかり、今日では坪内の再検討の方が勢力を占めている。

七 「水底の没人」

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 没理想論戦は雑誌界の壮観ではあったものの、そのため『早稲田文学』は、講義録の性質を失い、坪内の雑誌の観を呈してきて、学校当局の不満もあり、遂に坪内の個人経営に移った。それ以来「雑誌はいよいよよくなれり」と大町桂月は言っている。鷗外との論争の矛を収めると、坪内は劇の刷新に専らになり、議論ばかりでなく、自らも先ず『桐一葉』の創作によって、多分に古い歌舞伎劇にシェイクスピアからの輸血を試みて相応の成功を収めた。我が国では前例なく人の性格を明確に描こうとした配慮、結構の雄大なること、ただに明治ばかりでなく歌舞伎劇としては空前絶後の大掛りなものである。中心人物が性格の強烈なheroでない点、五段曲の悲劇の体裁に悖れる点など、ドラマツルギーの上から来た形式的悲劇にわざと反対して、坪内はシェイクスピアを楯に、史劇に関する根本的疑いを開陳し、その終局はカタストロフィとせず、幕切れを嫋々たる余韻を引く抒情で終ったところに、自分の創意があったのだと言っている。

 続いて『沓手鳥孤城落月』や『牧の方』と続々史劇が発表されたが、殊に『牧の方』完成の時に、坪内に文学博士が贈られたのは、いささか世の意外とするところであった。高田早苗天野為之の学的功績に先んじて、落第生が真っ先にこの栄誉を獲得したからだ。しかし局外の内田魯庵などは、文化的功績から言って当然に思えたと、当時を回想している。

 没理想論争から劇へと看板を転じた『早稲田文学』は、新卒業生を執筆者に登用するに及んで、美学と新思想紹介を任とする様相を帯びてきた。先頭を切ったのは、第一回卒業の首席金子馬治の登用で、折から新しく入ってきたボザンケの『美学史』により「ギリシア美学」を紹介すると、清新な泰西新詩想の紹介批評を任として、語学に自信を持った『文学界』の同人も、ボザンケを入手して猫に小判の形であったが、金子の紹介によって、美学書はこう読むものであるかと教えられた、と言っている。筑水と号した金子はトルストイ、イプセン、ホイットマンなども矢継ぎ早に紹介し、不倒・抱月・宙外・梁川と英俊の新進がこれに続いた。日清戦争とともに森鷗外の『しがらみ草紙』が廃刊し、論敵を失った『早稲田文学』は、戦争の大勝とともに『帝国文学』の興るに当り、ここに期せずして官私の大学の文学的対立が始まって、本誌も第三期の活躍時代に入るが、折から坪内は聘せられて早稲田尋常中学の教頭となり、何事もかりそめにせぬ彼は、その職責上、中学生の徳育のため実践倫理の研究に没頭して、漸く文学との縁が切れる。そのため後釜に文学科統督の適任教授として彼が着目したのが、やや意外だが、同志社の浮田和民である。浮田は、瀬戸内海を航行の汽船で東京専門学校の学生数輩が語り合っているのを傍で聞き、我が国にもそのような自由独立を重んずる学校があるのかと興味を感じていた際なので、意動いてその聘に応じ、ここに大西祝に次ぐ同志社学風の輸血が起って、自由民権とともに勃興した政治的早稲田に、信仰の自由を標榜する精神的早稲田の色彩が加わる。

 これを背景に、逍遙は手塩に掛けて育ててきた『早稲田文学』に突然、廃刊を宣言した。これが明治三十一年十月八日発行の第七年号外で、明治二十四年十月以来、七巻百五十六冊を以て休刊することになったのである。敵も味方もこれを痛惜し、本誌を以てそれまでの明治文壇第一の功績者とすることでは衆口一致した。

 廃刊の理由としては、逍遙自らその開巻劈頭赤紙頁の「廃刊の辞」で、

本誌が文壇の途に就きてより既に七年、顧れば往時転々感に堪へざるものあり。而して今や明治文学の一波は其の頂に達して更に他の一波を翻展し来らんとす。吾人は情として当に前途の行色を壮にすべきなり。而も他の面より見れば、今や社会の事日に非にして頽波滔々たり。文運の開拓を以て任ずるものの覚悟またおのづから異ならざるを得んや。切に言へば、社会の根抵に一道の生命を点ぜざる限りは、之れが表現たる文学や美術や、また言ふに足らざらんとす。吾人は此に見る所ありて且らく文壇を退き、社会、教育の方面に全精力を移さんとす。波面の濁を去らんとしてしばらく水底の没人となる。情に於いて忍ぶべからざるものありといへども、吾人の覚悟はつひに枉ぐべからざるなり。 早稲田文学記者

と記している。しかし平俗に言ってしまえば、早稲田尋常中学教頭の仕事は、多くの精力を要する、といって今までも持ち過ぎている観のあった専門学校文学科の授業を減らすわけにはいかない。『早稲田文学』には、筑水・抱月・梁川その他の有力な助手がそれぞれ一家をなして四散していくのを埋めるほどの英才が、まだ育ってこない。そこでやむなく、一番処置し易い『早稲田文学』を切り捨てたとも取れる。この廃刊から、明治三十九年一月の島村抱月による『早稲田文学』再刊までの七年、白鳥・天渓などが巣立ってはいるものの、早稲田文科が弛怠期に入ったのは、否み難い。