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第二編 東京専門学校時代前期

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第七章 片手に政党、片手に学校

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一 大隈全盛時代の終焉

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 十月十一日(明治十四年)、早朝五時というに鳳輦は提燈の火に前後を擁せられて埼玉県の幸手を発つ。秋日は短いから暗くなって東京に入るのを厭うたので、正午を過ぐること五十分、最後の休息場なる千住に到着、天皇には直ちに、用意のしてあった民家横尾儀六の邸宅を仮屋として入御になった。文武百官の出迎えたこと、詳記の要もない。しかしここで大隈弾劾の奏上をするという没常識且つ非礼極まる計画は変更され、前日幸手であらかじめ能久親王に奏聞を乞うて、この時は少憩の後、赤坂仮皇居に着御になり、旅中も携行の三種の神器(うち剣璽の二種)の奉安が終って、供奉、奉迎の諸臣に祝酒を賜い、翌十二日から半月の休暇を供奉者には賜与せられた。実に陸路五百二里余、航行三百十二海里、往還七十四日に亘る一代中の最大旅行の疲労を犒わせられたのである。

 だから天皇も同じく御疲労であったに違いないのに、反大隈で神経の狂うた留守組は、なお天皇の袖を掴むようにしてまさに強訴の形を執る。侍講元田永孚先ず奏して言うた。

今や国会開設の論盛なりと雖も、立憲の主義未だ一定せずして人心動揺す。是の時に方り重信、国会開設の事最も急速を要すと為し、同僚に謀らずして私論を内奏す。若し之れを嘉納あらせられんか、衆論沸騰し、危禍忽ち到らん。願はくば速かに之れを黜けたまはんことを。且重信の財政を執るや、不正の行為少からずとの世評あるは、聖明夙に聞知したまふところ、今日仮令其の私論を斥けたまはずとも、既に財務に関するの罪軽からず。謹みて聖鑑を垂れたまはんことを希ふ。

(『明治天皇紀』第五 五三九頁)

 しかし天皇はあっさり、柳に風と受け流された。蓋し、財界不正の噂を一々取り上げたら、山県は山城屋事件で陸軍予算の過半を相場の資金に貸して大損を招き、且つ西南戦争の密電で利益した事件もあり、井上は尾去沢事件その他四、五ならず不正の噂がある。大隈のは西南戦争の財政を一身に負担して、世評を立てられたのだが、長州のは私利私益に国家の公金を勝手に動かしたのである。一々洗えば、長州側の方に、より不利な埃が立つところである。天皇すなわち宣わく、

曩に左大臣、大隈の奏議に就きては弁ずべきことありとて、立憲政体に関する議に就き、参議の意見を徴せられたる時、諸参議は各々其の意見を提出したるに、大隈独り口頭を以て之れを奏せんとせしが、許されざるを以て、其の概略を記述して提出し、他の参議には之を秘せんことを請へり。然るに岩倉右大臣具視密かに之れを伊藤参議博文に示す。是れ紛議の因なり。然れば該事件はさまで憂るべき問題にあらずと奏せり。 (『明治天皇紀』第五 五三九―五四〇頁)

つまり、天皇は、岩倉が大隈に無断で伊藤に示したのが原因で、これは大したことではないように承知しているぞと、元田に返答せられたのである。

 元田からこれを伝え聞いた大隈排斥グループは、そんなことから、うやむやに葬られては一大事と、三条、有栖川、岩倉の三大臣を擁し、参議の山県、伊藤、黒田、西郷、井上、山田の九人は鳩首して密議し、かねて用意した奏議の取次を大臣に頼んだ。天皇が一読せらるると、大隈参議の馘首を請い、それが受け入れられなかったら「政府の一分が立たない」と、珍しく天皇を威嚇したと言うべきか、つまりそれに類した「オドシ」を掛けたわけである。それからの天皇とのいきさつは次のようである。宮中で行われた禁秘の問答だから、『明治天皇紀』第五による外ない。

左右両大臣の久しく京外に在るに乗じ、薩長出身の参議相結合して大隈を斥けんとするにはあらずやとの叡感あらせられ、乃ち大隈の失策を証するに足るべきものを徴したまふ。大臣奉答して曰く、目下確証を精査せんこと容易ならず、但し其の証跡は既に慶応義塾長福沢諭吉の門生及び其の他より得たり、重信の陰謀は、啻に薩長出身の参議のみならず、平素正義を以て任ずる者も亦皆憤懣する所なり、若し薩長出身の参議に対して疑念あらせられなば内閣破裂の外なしと。天皇宣はく、事情已むを得ざるを以て之れを聴許せん、但し其の事由を明かにせずして辞官を強ふべきにあらず、人を以て免官の所以を重信に諭さしめ、而して後辞官の表を出さしむべしと。天皇又開拓使官有物の払下に就きて閣議の決する所を諮はせらる。大臣奉答して曰く、重信の免官にして行はれなば、彼の払下問題は仮令廃止せらるとも、開拓長官黒田清隆に於て決して異議を挾むことなしと。天皇宣はく、開拓使官有物払下と大隈の進退とは固より別箇の問題なり、然るに大隈辞官せば黒田異議なしとは、其の意を解する能はざるにあらずやと。大臣恐懼して其の失言なりしを謝したてまつり、更に、開拓使官有物払下の処分は一に聖断にあり、清隆決して異議なしと奉答す。又宣はく、卿等同心協力して帝室を輔佐し死を誓つて尽瘁せんと言ふ、然れども異日復意見の扞格することなきを保し難し、是の点慎重に考慮すべしと。大臣奉承の旨を奉答す。是に於て大臣・参議等、何人を以て重信に辞職を勧告するの任に当らしむべきかを議す。博文自ら其の使命を奉ぜんと請ふ。議遂に博文と従道とを同行せしむることに決し、裁可を得たり。是の夜三大臣の御前に候すること再度に及び、又特に博文・従道を召したまへり。十二時を過ぎて寝に就きたまふ。大臣以下午前一時に至りて退出す。博文・従道は、夜半重信の邸に到りて説くに辞官を以てす。重信直に其の旨を領承す。具視之れを熾仁親王に報ずるの書に曰く、唯今伊藤西郷等入来大隈面談之始末承候処誠に案外好都合に而異議なく辞表可差出旨に候此外当人尚為国家尽し可申との事迄も談有之候云々。(傍点新付) (五四三―五四五頁)

これは『明治天皇紀』に載せるところだから、世間は恐らく信を置くであろう。ただし今日では、まるきり皆空の虚偽報告であることが明証せられている。すなわち九鬼隆一の揑造したスパイ報告を基にして、岩倉が天皇に大隈を弾劾したのだ。「其の証跡は……福沢諭吉の門生云々」の一句がこれに当る。別言すれば天皇が「もしや薩長の参議が結合して大隈を排斥するのではないか」と疑念を表明せられたのに対し、無根拠のスパイ報告以外、何ら具体的証拠を出し得ず、嘘でごまかして天皇の承認を得たからくりを百世の下に書き留めているものである。後に大審院の現職にあった判事尾佐竹が、一歩も苛責せぬ秋官の筆を揮うて事件を解剖して次のように記したのを重ねて引用しておく。

あの常識を失したと思はれる程馬鹿々々しき騒ぎをなした政変の基は、福沢に関する限りに於ては事実無根のデマであることは明瞭となつたのである。結局は、薩長出身の参議が聯合して、大隈重信を排斥の辞柄として一場の喜劇を演じたことに帰するのであるが、あの騒ぎの最中には、薩長連と別に、この際に、薩長を押へねばならぬといふ宮廷内の一派の運動に付ては、従来余り知られなかつた。 (『明治政治史点描』 一四四―一四五頁)

 天皇から、大隈罷免の裁可がおりたとなると、席中、急に強がりを言い出す参議があり、「大隈、福沢ともに謀反人だ。よろしく縄をかけてふん縛るべし。」という無謀の強硬論を持ち出したが、大隈に好意ある有栖川宮が「それなら、先に私に縄をかけて、大隈を縛るのはそれからにせよ。」と申し出されて、気勢をそがれて沙汰やみになった。しかし天皇の、誰か大隈の許へ行って条理を尽して免官の旨を伝えよとの勅諚は重く、何人がその任につくかの詮議になると、イソップ物語の鼠の群が猫の首に鈴をつけに行く相談の如く、どの参議も暫く顔を見合わすばかりである。伊藤が自ら行くと言い出したのは、自分が責任者だからそうせざるを得なかった点もあり、他面また、第三者が行って大隈の口から、これまでのことを洗いざらいさらけ出されたら、自分が当惑せねばならぬ事情もたくさん内伏するので、それを警戒した点もあろう。西郷がそれに同行を申し出たのは、この頃から彼は、陰になり日向になり、火の粉は伊藤と一緒にかぶって、その責任と悪名、非難の半ばを薩摩で背負うてやり、藩閥の提携協和を破らぬという態度に出たからだ。伊藤と西郷が宮城を辞したのは夜一時である。長途の旅に疲労の陛下を擁して、首席参議除外の参議会議を強要し奉るとは、これこそ大好にして、彼らの絶えず口にする畏れ多いことではないか。

 大隈は、自分の出所進退に関しては一々弁解し、何ら免黜の理由なきを明証できたのだが、自ら大勢の赴くところに抵抗するの愚なるを達観したかの如く、一言を聞いただけで了承した。

何でも夜中の一時頃であつたと思ふ。参議の伊藤と西郷(従道)とが、我輩の所へ遣つて来て、唯単純な言葉で「容易ならざることだから」とだけで、ドウか辞表を出してくれと云ふ。此方は多くを聞かずとも、其間の消息は大概分つて居る。〔旅中、小野梓、福沢諭吉その他から飛檄で詳しい情報を得ていた。〕「ヨシ明日我輩が内閣に出る。辞表は陛下に拝謁してから出す」と云つたら、これには両人、一寸当惑したらしいが、直ぐに是を止める訳にも行かぬ。 (『大隈侯昔日譚』 二五七頁)

そこで、二人は帰った、と大隈はその時の思い出を語っている。しかし二使者は「諸君、大隈を辞職させたぞ。」と威勢よく報告したので、その吉左右如何にと待っていた参議達は漸く安堵の胸を撫でおろし、拒んだ場合を予想して、それならこちらから攻撃をかけて行くべき手筈の東京鎮台および警備巡査は、一せいに鬨の声を揚げ、宮門外にたく篝火を囲んで、冷酒に鯣を裂いて痛飲して、意気軒昂たるものがあった。時の鎮台司令は、後に明治随一の猛将と聞えた野津道貫少将、副官は後の軍神乃木希典であり、警視総監は黄海戦に軍令部長の身を以て西京丸というぼろ船に乗って参加して勇名を天下に轟かした樺山資紀だったことを思うと、興がさめるが、みんな未だ若かったのだ。――大隈の話はこう続く。その翌日、

我輩が宮中に行つた時は、モウ門衛が厳重に遮つて入れさせぬ。有栖川宮、北白川宮とは御巡幸中同行でもあつたが、有栖川宮様に行けば、矢張りここにも門衛を置いて固く門を鎖し、我輩の入るを拒絶すると云ふ始末。昨日まで供奉申し上げた陛下にも、御同行申し上げた宮様にも、今日は固めの門衛から拒絶されて御会ひすることすら出来ないと云ふ、急転して体のいい罪人扱ひとなつて了つたんである。御免の辞令は司法卿の山田(顕義)が友人として持つて来て渡して呉れた。

(同書 二五七―二五八頁)

山田はナポレオン気取りの木ッ葉天狗。参議中、大隈に一番反感を持っていたのは彼である。それが「友人として」と特に断って、辞令伝達の使者に立つというところに、意味深長の含みが読み取れる。なお、十二日付で形式的に大隈の差し出した辞職願には、「私儀近来僂麻質斯再発不堪政務ニ候条何卒当職被免度」とあった。

 大隈の免官とともに、その党与は悉く、殊に慶応の逸才、中上川彦次郎の如きは井上馨の下に外務省に出仕しているのに罷免になったが、先に言った九鬼隆一一人が福沢門下というのに居残って重用され、薩長でもない一藩士の身を以て後に男爵を授けられているのは、奇異として注目を惹く。この人、諂佞にして官界の遊泳或いは世渡りには長じていたようだが、根は卑劣の小人で、遂にその夫人は人爵の魅力より、生来の天才的風貌に魅力を感じ、岡倉天心の胸に奔って、器量を下げたのは、天の配剤であろうか。

 明治十四年の政変とは、大凡かくの如き輪郭である。大山鳴動して、しかしながらその結果が「鼠一匹」に終らず、還幸の翌十月十二日、遂に国会開設の詔勅が下った。

朕祖宗二千五百有余年ノ鴻緒ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ総攬シ、又夙ニ立憲ノ政体ヲ建テ、後世子孫継クヘキノ業ヲ為サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ元老院ヲ設ケ、十一年ニ府県会ヲ開カシム。此レ皆漸次基ラ創メ序ニ循テ歩ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆亦朕カ心ヲ諒トセン。顧ミルニ立国ノ体国各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業実ニ軽挙ニ便ナラス。我祖我宗照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ洪模ヲ弘メ、古今ヲ変通シ断シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。将ニ明治二十三年ヲ期シ議員ヲ召シ国会ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、仮スニ時日ヲ以テシ経画ノ責ニ当ラシム。其組織権限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ裁シ時ニ及テ公布スル所アラントス。朕惟フニ人心進ムニ偏シテ時会速ナルヲ競フ。浮言相動カシ竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ争ヒ事変ヲ煽シ、国安ヲ害スル者アラバ処スルニ国典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ、爾有衆ニ諭ス。

奉勅 太政大臣 三条実美

明治十四年十月十二日 (『法令全書』 明治十四年)

 これは史家が夙に「苟我大八州の人民たるものは応に永く此日を記憶し」なければならない(『明治政史』上篇旧版『明治文化全集』第二巻所収三七三頁)と特筆して聖恩に感泣し、或いは抃舞雀躍するのだが、俗に言えば、伊藤が天皇から剝ぎ取ったも同じであった。すなわち北海道開拓使官有物払下げは一旦勅裁を下されたので、綸言まさに汗に等しく、一たび許可されたらまた翻すべからざるものである。それに払下げを受けた五代友厚は識見宏達、維新に早くから進取的立場に立って、今民間に商社を経営すると言っても、明治元勲とは対等の付き合いで、弁難においては容易な相手ではない。また大隈に至っては筆頭参議で、しかも官有物払下げに反対し、今度国憲も彼の奏上にかかるというので、世間と新聞の人気の絶頂にある。それを或いはあきらめさせ、或いは罷免したのでは、動揺した民論はただでは収まらない。そこで、国会開設を今から何年後と確約をなされなければ、民衆は到底承服して収まるまいと「おどし」、三条、有栖川、岩倉の輔弼の三大臣を納得させたのである。廟堂は皆、国会はいつかは必要なるも、時機尚早と言って成案を持たぬ時、大隈の奏議は一石を投じて万波を生じたが、今やその油揚げを伊藤がさらったのである。尾佐竹猛は、伊藤が大隈とは到底一緒にやって行けぬと駄々をこねたが、二人の意見はほぼ一致しており、ただ実施の時を大隈は明治十六年と言い、伊藤は二十三年と言って扞格があるも、こんなことは、話合いでどうにもなることだと、寧ろ伊藤の油揚げさらい的行為を非としている。

 『福沢諭吉伝』第三巻所載の諸種の文書は、非は伊藤・非上の側にある消息を痛烈に明らかにするもので、明治十四年の政変攻究のための基礎資料である。福沢自身は「明治辛巳紀事」でこう記述している。

福沢縁故の者の挙動を見て大に怒り、又我社中にて作りたる私擬憲法などを見て大造なるものと思ひ、是れも福沢の密策なり、其れも福沢の陰謀なりと、甚しく疑念を生じたる処に、井上、伊藤が之に乗じて其憤怒疑念を増進せしめたるもの歟、然るときは井上、伊藤は発起人に非ず、唯巧に立廻りて鹿児島人と合併したる者のみ、他日を待て分明なる可き事なり。

【一説に此度の変動は全く薩人の発起なりと申す其次第は、当春来大隈、伊藤、井上の三氏が国会の事を企たれども、其実は内閣に於て少しも相談の整ふたるに非ず(此説に拠れば春来大隈、井上等が薩人へ説くと云ひ又説得したりと云ふが如きは誠に漠然たりし事と見ゆ)。然るに薩人は之を認めて恰も謀反人の観を為し大に起て三氏を共に倒さんとするの勢なるに、伊藤、井上も狼狽恐縮して為す所を知らず、乃ち心ならずも其罪を大隈一人に帰して自分等は薩門に降伏謝罪と決定し、其謝罪の土産に福沢の事なども様々に取持へて作説を持参したるものならんと云ふ。又この際井上の大に働きたるは、大隈を除けば其会計の相続は自分に帰す可しと思ひ、変動の幸便に任せて所得あらんことを僥倖し、事成るの今日に至ては却て失望ならんと云ふ。十月十一月の際少々づつ其証跡あるが如し。十一月四日記】 (六〇頁)

 大隈一人を売り、福沢をも道連れにして、伊藤・井上は、薩摩を恐怖するあまり「薩門に降伏謝罪」とは言い得て的確を極めている。もう一つ例を引けば、三宅雪嶺の『同時代史』第二巻に左の記述がある。

黒田は一時極度に大隈の態度を怒れるものの、暫くして意に介せず、之に対して旧の如し。長派は払下問題にて少しも損せず、実に取消しを望みしなるも、制度の変改を以て自身の本領とし、大隈の不意打ちに国会開設を企つるを聞き、我が領分を侵さるるを怒り、止まるを知らず。伊藤は他の事にこそ同情あり、諒解あり、人に功を譲れ、不磨の大典を制定するに於て一大隈に功を奪はるるは、如何にしても堪へざる所なり。長派の位置は嘗て大久保の下に大隈が働きし時と同じからず。事実上に伊藤が首脳となり、長派の計画するが儘に行はれ、大隈が勢力を争ふが如き、身の程を知らざる次第なりとす。(一四五頁)

要するに大隈は長州藩閥の力に押し切られたという結論になる。一対一では到底大隈の敵でなく、井上を加えて二対一で辛うじて対抗し得てなお幾分劣勢にあり、久しく弟視され、門下視され、時には翻弄せられてきた鬱憤をいつかは晴らす日の来るのを持ち受けていたのだが、いわば自分らも久しく仇敵とした藩閥の力を藉りて、漸く勢力逆転に成功し得た。

 これまで大隈中心に回転してきた廟堂はこの期から伊藤中心に変り、それとともに藩閥打破、そして自由民権への願望は永久に失われて、遠く終戦前の軍部内の皇道派・統制派の相剋にまで尾を引くに至る。

二 「立憲改進党」を提げて

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 しかしそれにしては失脚した大隈の態度はまことにさばさばしたものであった。彼には遠祖菅公の流謫のような、世を恨み、時運をはかなみ、涙もろい詩を作るような情懐は全くなく、放り投げられてもすぐ立ち直ってけろりとしている不倒翁のような、滑脱のたくましさがある。

 一つは恐らく、敵に回すのが伊藤なら、与し易しとする気楽さが、心の底にあったのだろう。相手にとって伊藤を手強いなどとは、大隈は終生思ったことがない。後の話だが十九世紀の最終年、伊藤が政党反対の従来の主張を捨て政友会を作った時、大隈の関羽.張飛の一人なる尾崎は招かれてその総務になったが、大隈は何の興味も示さなかった。「政党は自分がやってさえうまく行かないのに、伊藤ではどうにもなるまい」と見越していたとは、晩年の尾崎の直話である。

 国会開設の詔勅が出た以上、伊藤が憲法起草の欽命を受け、自ら政府の中心になるだろう。面白い! それならば政党を作ってそれで伊藤に対抗してやろうと、大隈は内心、決するところがあったものと思える。大隈は、憲法政治が施行せられる以上、それは当然、政党政治でなくてはならないとは、先ほど提出した憲法意見書でも述べたところである。それが伊藤相手で、藩閥と抗争することになれば、一層やり甲斐がある。ただし実は大隈は、初めは政党を興す積りはなく、野に嘯く積りでいたという説もある。太政官への告別の辞に、出所進退を正しくし、勅任官下野の模範たるを期すと宣言した彼は、政界に志を得ぬ不平の輩が先の下野の三参議とともにかつぎ上げて新たに事を計ろうとしても、それには乗らなかった。そこへ尋ねて来たのが沼間守一で、彼は国会の詔勅が下ったのを見て興った自由党に直ちに参加したのだが、寄り集まったのは主として土佐派と九州派の燕趙悲歌士まがいの壮士ばかり、そして逸速く九州派は分裂脱退したので、自分も意に満たずして去ったが、それが推子橋を訪うて、今や「下野した大隈氏こそ一呼して新政党を興すべきだ」と勧説する。実は大隈も政党には意が動くが、今のところ板垣の下風につくことはできず、さればと言って、隆々たる潮に乗っている板垣の自由党の向うを張る政党もすぐにはできそうにないと言って一旦断った。しかし沼間に押し強く、「何を申されるか、自由党の旗下に集まったのは多く矯激不穏の志操定まらぬ壮士輩である。貴下が新政党を作らるれば、温和にして進歩的な有識階級が翕然として傘下に集まるだろう。」と説かれ、なるほどと感じて、意外に早く結党を思い立ったという一説もある(伊藤痴遊『隠れたる事実明治裏面史続編』一八三―一八四頁)。多く聞かぬ話だが、なるほど、そういう事情が伏在したのかもしれない。

 ともあれ、大隈の下野は、虎を千里の野に放つが如しとして、第二の江藤・西郷ここに生れるかと危惧する者もあった中に、新たに政党を組織するとの噂が拡がって、政府諸人は驚愕おくところを知らぬ一方、言論界では双手を挙げて賛成する者あり、声を大にして反対する者あり、世間に一大センセーションを巻き起した。

十月十二日の政変以後、政党組織の談は大に進捗した。十一月三日には小野は、早稲田の別邸に侯を訪ひ、政党組織のことを談じた。これより彼は屡々侯を訪うて、政党組織のことを談じてゐたが、翌十五年に入つては、議愈々進み、一月三十一日早稲田の邸に、河野敏鎌、前島密以下の同志が集まり、政党組織のことを議したが、彼は推されて政党の諸規約を起草することになつた。熱心な彼は帰宅すると直にその稿に着手したが、相変らず慎重で、二月二日には規約及び政策綱領を起草した。その間にも侯を訪うて相談してゐる。二月五日にはまた侯を訪ひ、要義、宣言、規約の草案を以て、侯の意見を質してゐる。翌日これを浄書し、七日に、また侯に示して、その意見を質してゐる。……かくのごとくして出来上つたのが、かの立憲改進党の宣言書並に主義政綱等である。 (渡辺幾治郎『文書より見たる大隈重信侯』 四五六頁)

 準備成って明治十五年四月十六日、京橋区木挽町明治会堂に、立憲改進党は結成式を行った。総理は大隈重信。来たり集まって主軸をなしたのは、河野敏鎌、前島密、北畠治房、牟田口元学の一派、矢野文雄の率いる東洋議政会の藤田茂吉、犬養毅、尾崎行雄、箕浦勝人の慶応派、小野梓の率いる鷗渡会の高田早苗岡山兼吉山田一郎天野為之市島謙吉山田喜之助砂川雄峻の東京大学派、沼間守一を中心とする島田三郎、大岡育造、肥塚竜、角田真平、青木匡、波多野伝三郎、丸山名政の嚶鳴社派。その他言論界に華々しく活躍する名士が、綺羅星の如く並ぶ盛観を呈し、さすがは大隈の勢力だとの歓声が高かった。ただしこれは二年にして事実上解党した。その後、進歩党となり、自由党くずれと合同して憲政党として明治三十一年には最初の政党内閣なる隈板内閣を作り、不幸、半年足らずの短命で倒れて、一部は伊藤博文の創めた立憲政友会に吸収され、一部はのち桂太郎の興した立憲同志会に流れ込み、その桂の遺産を承けて第二次大隈内閣の生れる経緯については、第二巻に譲り、ここでは多く触れることを避ける。ただ、政党絶対反対だった伊藤と桂が、遂に政党を創らざるを得ない窮境に立ったのは、大隈が先見の明を誇って、頤を撫でて勝利感を禁じ得なかったところであろうし、あくまで政党反対を頑張り続けた山県が、第一議会で、元の自由党土佐派を懐柔して漸く予算を通し、議員買収の先例を開いたのは、苦々しさとともに、それ見たことかの痛快さに、大隈は内心自ら微笑したであろう。

三 早稲田学苑の芽生え

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 改進党結成(明治十五年四月十六日)が、早稲田学苑と双生児の如き密接の関係にあるのは、自他共に天下の広く認識しているところであるが、ここにもう一度高田早苗の「早稲田昔噺」という講演(大正九年四月二十八日)を引用することを許されたい。高田には『半峰昔ばなし』の名著以下、この経過を明らかにした文章談話まことに多く、その他にも学苑の長老市島謙吉以下の言論もまた少しとせず、本稿にもそれらを参照し、引用し、要約したところが多いので重複の恐れもあるが、再読が無駄にはならない。

私が早稲田の昔噺を致すに就て第一に述べなければならぬ事は、早稲田大学と云ふもの、昔は東京専門学校と言つたのだが、是は何故に明治十五年十月廿日に出来たのであるか、何の必要あつて世に生れたのであるか、どう云ふ理由があつて出来上つたのかと云ふことである。是に就ては事実上の原因が一つ、主義上の原因が一つ、斯う二つある。先づ事実的の原因から述べて見ようが、是れは、小野梓と云ふ人と、高田早苗と云ふ人と懇意になつたといふことから始まる。大隈侯爵は固より是れは別物である。兎に角此二人の一人は其時分の壮年政治家、一人は大学にまだ在学して居た青二才、此の二人が交を結ぶことになつたといふことから原因した。明治十二年、十三年、十四年と云ふ頃の日本の天地は、大隈、伊藤の人々が支配して居つた天地である。即ち西南の戦争に次いで、傷ましくも大久保内務卿は兇刃に掛つて仆れてしまつた。其跡の内閣の中軸は大隈重信、伊藤博文、山県有朋と云ふ様な人々である。然して他は皆薩長藩閥だが大隈重信なるものは藩閥以外の人である。それが原因で黒田清隆、此人が傍若無人を極めて開拓使払下事件と云ふ問題が茲に起つた。夫れが動機となつて大隈侯は藩閥の横暴を押へるには議会を開かなければならぬと考へて議会速開を進言された。其結果藩閥連が、寄つてたかつて大隈侯爵を内閣から追出した。維新の始から、表面は木戸、西郷、大久保であるけれども、事実は大隈侯、伊藤公の如き敏腕な壮年政治家が政治を執つてゐたのだ。内閣になくてはならぬ人であるけれども、其為に大隈侯は野に下ることになつた。其野に下る少し前から、矢張り政府部内の人であつて、大隈侯を輔けてゐた人才に小野梓と云ふ人があつた。此人は、土佐の宿毛と云ふ所から出た青年で、弱冠にして英国に学んで法律経済の知識を獲得し、帰つて大隈侯に見出されて、其時分一等検査官といつて、今の局長所であるが、それよりも大いに権威のあつた地位に置かれて、兎に角三十になるかならぬと云ふ年で顕要の地位を充たして居つた。此壮年政治家に当年〔数え〕廿二ばかりの、何も分らない、東京大学の政治科の学生の高田早苗といふ者が知遇を受けて、君達の仲間を連れて来い、さうして君達は学校で習つた事を俺に話せ、俺は又世間の話をしてやるといふので、玆に一つの会合が出来た。それは小野梓氏の橋場の別荘で出来た。其別荘は鷗の渡と云ふ所にあつて、此会合を鷗渡会と名付けた。そこへ私が友人を連れて行つて始終話を聞いたりしたりしてゐた。其の間に前に述べた大隈侯の辞職といふことが起つた。茲に世の中は一変して、其前から自由党と云ふものが出来てゐたが、続いて、秩序ある進歩即漸進といふことを標榜して改進党と云ふものを、小野梓其他の人々が大隈侯爵を助けて組織することになつた。其中に我々が大学を卒業したが政府の人となる事を好まぬと云ふことになつた時に、恰度現在文科の教室、此教室の半ばだけの建物が前から出来て居た。どうして出来て居たかといふと、大隈侯爵の養子に大隈英麿といふ人があつて、天文学を修めて西洋から帰つて来られた。大隈侯爵と云ふ人は昔から教育に熱心な人で、佐賀に居られる時でも長崎に居られる時でも学校の世話を焼き、自ら教へられた事もある位の人で、息子が帰つて来たら一つ学校でも始めようといふので、何となく今の文科の建物の半ばを造つて置かれた所が、妙な関係から恰度六七人の大学を卒業したばかりの人間がそこに居て、大隈侯、小野梓先生の下に立つて仕事をしたい、働きたいと云ふことになつた。然もそれが政治学、経済学、法律学を修めた人だといふ所から、大隈侯は大いに喜ばれて、君等がさういふ考ならあすこに建物があるから、あすこで学校をやれ、俺が助けてやる。小野君が総て世話を焼くといふことから遂に此学校が出来た。斯う云ふ訳である。是が即ち今日の早稲田大学なるものの出来た事実的原因で、極めて簡単なものである。

(『高田早苗博士大講演集』 一三一―一三四頁)

 学校設立の希望は、漠然としては前々から、小野と鷗渡会、大隈と小野との間に交されたこと、言うを要しない。幸い学校創設の中心人物なる小野梓が『留客斎日記』と題して、珍しくこの数年の記録を残している。前半生、日記を書く習慣のなかったと思われる彼としては珍しいことだが、この数年、断続はありながら、克明に日記をつけているのは、今が自分にとっても、また日本の歴史としても最も重要であることを、虫の知らせに感じたのであろうか。

 下野の翌明治十五年の四月十六日に「陰、午後晴。此日執行我立憲改進党之結党式。」と書いてから、数月を経過して、七月に入ると、俄然鷗渡会の連中の往訪が繁くなって、何か新しいことが起りかけている慌しさを感ずるが、その七日、すなわち七夕の日、こういう記事がある。

七日 陰、終雨。市島来訪、談其身上之事。投書加藤・馬場。接万里末女之訃、及大内之書。午後到事務所、処党事。野村・岡山・砂川等到事務所。晩間訪雉橋老、議早稲田学校之事。初更衝雨而還。筆汎論、課書生。

右の「雉橋老」とは大隈のことである。この書きぶりで見ると、前々から話題更に議題になっていた学校のことが、かなり具体的の形をとったことが分る。それから九日には小川為次郎高田早苗来訪、十二日大隈の書に接し、翌日午後訪問。十五日砂川雄峻来訪、午後大隈と会食。十七日山田一郎来訪。そして二十一日より、左の記事がある。

念一日 陰、午后雨。仂車訪雉橋老於早稲田之別墅。河野・島田・高早等数人来会、議戸塚学黌之事、併及党事。日暮去之。到事務所、処党事。還家餐後筆汎論。

念四日 熱。以当釈堅心童子七七忌日、展墓薫香。安藤来訪。呈書雉橋老、老答酬曰、明朝午前十時相見。此日校戸塚学校規則。夜筆汎論。

念七日 甚熱如炙、験温器昇於九十四度。移榻於樹蔭下、僅免祝融酷刑。午餐後帯微醺。校学校規則。日脚西傾、風伯来訪、乃飛車訪雉橋老話事。帰路訪療医緒方。晩餐後、納凉於濹湄。

これで見ると校則は小野が作ったことが明らかである。翌八月二十七日に左の記事がある。

念七日 冷如秋。筆汎論。酒井・許斐・岡野・小為相踵而来訪。投書秀島、議東京専門学校之事。夜筆汎論、終第廿八章。

今まで、早稲田学校、戸塚学黌などと、いろいろに呼んでいた創設予定の学校名が、ここに至って東京専門学校と一定したことが分る。九月に入ると――

九日 陰。筆汎論、終第卅一章。阿南来話、託東京専門学校規則。致之於総理、併告党事。夜筆汎論。

十七日 陰。前島来訪、閑話移漏。大隈秀来訪、議東京学校之事而去。接稠兄本月八日之書、直答之。夜話政治学要。

十九日 雨。衝之到早稲田、与雉橋老等処東京専門学校之事。帰途到改進党事務所、終還家。

廿日 晴。訪雉橋老話事、及夜還家。

廿一日 陰。歩到上野公園。駕鉄軌馬車、而到万世橋、遂入改進党事務所。高田等十数人来訪余於事務所、話事而去。

晩間訪雉橋老、話党事、処校事。前島・矢野来会。夜還家。

廿二日 陰遂雨。在家。岡山・山田・砂川来訪。此日公告東京専門学校開設之事。或人来話曰、改進党為百年之計乎。余曰、然。豈啻為百年之計、将為万年之遠図也。夜開演。此日丸善書舗之主、遣使来、促国憲汎論上梓之事。乃諾之、期日結約。筆汎論。

この「豈に啻に百年の計をなさんや、まさに万年の遠図をなさんとするなり。」というのは同人間に有名な言葉で、改進党のことに掛かった抱負に受け取れるが、勿論その背後に学校の将来を含めての発言であるのは、言うを要しない。

〔十月〕十一日 風雨。午後入事務所、処事。千葉人安田某来訪。訪雉橋老話事。還家筆外交論。此日試東京専門学校入学生之学業。及第者無慮七十余人云。

これは当学苑一世紀の行程の最初の入学試験の日の記事として、特に注目されなければならない。

十四日 快晴。赴明治会堂。宇部某来訪。午後演外交論。聴者無慮二千余人、又近日之盛会也。接間宮之書。筆教育論。

蓋欲充廿一日東京専門学校開校之演説之料也。

いよいよ学校を開く前景気の意味もかけていると言うべきか。

念日 校学問論。訪雉橋老於早稲田之別墅、共為明日開校之準備。帰途入事務所。投書青木。接申田之書。

念一日 晴。早起、飛車到早稲田。与雉橋老共為東京専門学校開校之準備。午後第一時、式場準備成。撃柝一声、賓主学生等皆集講堂。坐定、楽人奏陸軍楽。楽止、黌長先読開校之詞。次講師天野演一題。議員成島朗読祝文。余亦踵而登壇、演一題祝開校。演説将畢、楽人又奏楽、終式。式畢請来賓於雉橋老之別墅饗応。又奏楽数番、賓主共尽歓、及晩止之。此日会者無慮五百人云。帰途入事務所処事。訪小川話書肆之事。

念二日 晴。入事務所処事。接鳩山・肥塚之書。訪河野話事。去而訪総理議事。再入事務所。飛書矢野、促其宇都宮行。晩間再訪総理、河野在焉、共議党事。既而朝吹来会。初更還家、校祝詞。

かくして我が早稲田学苑は、その進水式にまで漕ぎつけたのである。その詳細の事情やそれからの発展は、第九章からの記述に俟たねばならない。