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第二編 東京専門学校時代前期

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第三章 小野梓(上)

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一 小野家の系譜

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 小野梓は、土佐幡多郡宿毛村(現高知県宿毛市)に生る。実に嘉永五年(一八五二)で、明治天皇と生誕の年を同じうする。彼は二月二十日(新暦の三月十日)、天皇は九月二十二日(新暦の十一月三日)である。

 父の節吉は軽格の士族、南朝五忠臣の一と称せられた新田義貞の後裔であると言われる。当時の文墨の嗜ある士人が皆そうであったように、父も諱が義与(これは義貞に因んだのであろう)、字は比郷、号は金水または随荘と言った。性質は温厚な人だったが、気節の高いのを以て郷党の間に重きをなした。早くから勤王心の厚かったことは、先ず新田義貞に血を引くという家系から来ているのであろう。しかし後に小野梓が、明治著作としては屈指の大著『国憲汎論』の中巻序において、父は「嘗唱義於元治・慶応之間」と書しているのから推すと、今まで内伏させていた鬱屈の気を、この頃ある程度、外に現す行為があったのかと思われる。梓が、個人且つ年少にして、日本憲法の全企画を構築展開するに当って、よく英米の進歩思想を広汎に摂取しながら、常に天皇の地位を中心に置くことを忘れていないのは、これに出ずるのである。一部の『国憲汎論』は、天皇を中心に、八方に飛散した新時代に沿う憲政主義の放射線に外ならぬと言えよう。

 土佐藩主の山内家は、譜代ではないが、徳川家から特別の深い眷顧を受け、幕府との情縁が厚い。しかし当主山内容堂は、早く三百諸侯中の五名君と言われ、時勢を洞察するの明識があり、勤王・佐幕の間に、相剋は免れなかったとしても、これを最終的には分裂させないで、調和する方針を採った。このため協調的であり、微温的であるのは免れず、梓の生れた宿毛の時勢的雰囲気もそうであった。

 元来、宿毛は山内家の家老なる伊賀家の采邑に属し、八千石の城下町である。他に足し米千八百石を給され、一万石と称したが、諸侯ではなく、明治三十三年男爵を授けられた。おまけに位置が本藩の高知を離れて、伊予近くにあり、本藩の改革動揺に直接左右されることが少く、多少、気持の上のゆとりがあり、勤王論の方がやや濃く、佐幕論が薄くても、一味郷党の親しみが深くて争闘抗敵するに至らず、学問も盛んで、この僻遠のまことにささやかな城下町ながら、後にいわゆる宿毛十傑が出ている。すなわち、人選に種々あるが、岩村通俊、林有造、岩村高俊、小野義真、中村重遠、竹内綱、大江卓、伊賀陽太郎、坂本嘉治馬、それに小野梓である。両岩村は維新の頃から最も早く名を現し、大江卓は民権運動の名士、竹内綱は後に総理大臣になった吉田茂の実父で、岐阜遭難の時天下に喧伝した「板垣死すとも自由は死せず」の有名な言葉は、その病床に侍した竹内ら二、三側近策士の手細工であったのだ。なにしろ狭い宿毛だから、この十傑の家は互いに親戚であり、そうでなくても親戚以上の交際をして、小野の世に出るのも、それら周囲諸家の提斯援護によることが多い。

 小野の母は助野と言った。意外に早かった夫の死(慶応二年)の後を受けて、数人の男女遺孤を育て、殊に梓をして、あそこまでその天稟を発揮させたことを思えば、これまた一角ならぬ女性であったと言わねばならぬ。

 梓が数え三歳の時、土佐に大地震があり、その時頭を打って脳膜炎を起し、幼少時代は、何れかというと魯鈍に近い子であった。五歳の時から習字を始め、七、八歳の頃、『唐詩選』の最初にある「中原還逐鹿」の五言古詩を覚えるのに三ヵ月かかり、『大学』一巻の素読に二ヵ年を費やした。十一、二歳の頃、宿毛に初めて漢学塾ができて、士族の子は皆それに入って勉強することになったが、未だ大いに学才を発揮するには至らなかった。しかし十四歳、旧師酒井南領が望美楼という塾を開いたので、これに移って日ごとに『通鑑綱目』二巻ずつを読み、『古文真宝』『文章規範』の詩文各一編ずつを暗誦し、三日ごとに『論語』『孟子』の講習討論を課せられ始めてから、これは決して凡庸児ではないとして、教師達の評判になりだした。それがあたかも、眠れる獅子の鬣を振ってにわかに目覚めた如く、鋒鋩陸離急に等輩に抽んでて、第一の秀才の名を博したのは、藩学校の日新館に帰ってからである。これは城主伊賀氏が、先にあった漢学塾が衰微したのを新組織の下に復興したものだった。或いは新任の教師が良かったので、成績が改まったのかもしれぬ。試験の褒美には座席を進めて、騎馬格の家格の子弟よりも上席に据えられた。平民はもとより下士でも乗馬は禁ぜられていた封建時代、たとえ学校内の席次の移動とはいえ、騎馬格より上座の席に据えられるとは、まことに破格の優遇である。父は家門の光栄としてこれを喜び、互いに将来のことなどそろそろ語り合う時、繰り返して訓戒することがあった。男子の志望は実行第一だが、さまざまの事情に制せられて、事、志に添わぬ場合もある。その時は、筆を投じて戎軒を事とすを逆さに、戎軒を捨てて、よろしく筆を揮って天下にその志を伸べよと説いたのは、或いは早く梓が武人よりも著作家として、より適しているのを見抜いたためかもしれぬ。

 しかし、梓の数え十五歳の歳末には、父は宿痾の肺結核を以て惜しくも世を去った。梓の悲歎は言うばかりなく、忽然として胸宇に空洞の生じたような感じに打たれた。西洋では「男の子は、少年時代においては父ほど偉い者はないと思い、それを模範と仰ぐ。しかし青年時代に入ると、日一日と父の欠陥が目につき、それを批判し、それに叛こうとする傾向が現れてくる。壮年を越えて老年に近づくに及び、顧みて、いや父にもいいところがあったと思い返して、再び尊敬を感じるようになるものだ。」という言葉がある。

 梓の後年の文稿を見るのに、父を追慕すること痛切にして、批判がましいことは全く述べていないのは、もとより西洋と違い儒教の感化の然らしめたところだとしても、実は少年と青年との境目に死別したので、仰慕の念だけが一層深く、批判の目はまだ開けていなかったものと思われる。この十五という年は、孔子が「学に志す」と言って、人生行路に一大区画線を引いている年である。この「学」とは、純粋の学問と考えてもよいが、押し拡げて、世に出る出発点を決める年と解しても味わいが深い。今や頂天立地、「吾れ独り往く」の大勇猛心を奮い起さねばならぬ時に差し掛かって来たのだ。

二 北越の実戦経験

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 慶応三年、土佐でもその頃の進歩的な諸藩の先例に倣って、洋式調練にイギリス法を採用することになり、小野もその一員に加わった。当時のイギリス調練と言えば、大抵本場の軍人が来て、attention !(気をつけ)、salute !(敬礼)のような単純な号令から、斜めに右へ進めとか、騎兵に立ち討ちの構えとかいう複雑なことまで、みな原語で教えた。一定した訳語ができていなかったからだ。小野が異人に接触したかどうかはともかく、英語の片はしを習ったのはこれが初めてで、幾らか後の英語習得の基礎になったであろう。

 この年、後藤象次郎の打った大芝居が思いの外に成功して、徳川慶喜は大政を奉還し、翌慶応四年は正月早々から鳥羽.伏見の合戦を以て開け、土佐藩士は幕府との旧情縁によって京を見捨てて帰国したが、板垣退助が居残って藩主の命を奉ぜず、討幕戦に参加したため土佐は危うく賊軍の名を免れて、再び朝廷軍の徴に応ずることになった。宿毛の城主伊賀陽太郎は、若干、時勢の先が見える目を持ち、重役中村重遠(のち陸軍大佐にして死亡)の勧めもあって、機勢隊と名付くる一隊を発遣することになったので、小野も従軍を志願して許された。この時数え十七歳。

 七月、高知に出て、本藩の兵に合流し、越路の遠征に向った。土佐部隊は、越後村上口攻略の命を受けて、北上する途中、羽越国境を守った庄内藩の優勢なる兵力の抵抗に会い、攻防一ヵ月に及ぶ苦戦を重ねたが、戦い利あらず、一度退却して兵備を整理し、再度の攻撃をかけてまた失敗した。この退却の途中、小野梓は、戦友の一人が病気に罹って動けないので見捨てることもできず、共々に渓谷の洞穴に隠れて一夜を明かした。健康な自分は空腹に堪えないでいると、通り掛かった岩国の兵が餅をくれたので、辛うじてそれで飢えをしのいだ苦しさは、彼の生涯の思い出となった。とかくするうちに、さしも頑強な庄内兵が降ったので、この辺りの戡定は終了した。この戦線で一番有名な哀話は、米沢の豪傑で、熱烈な詩を詠むため、後に東洋のバイロンと言わるるに至る雲井竜雄が、羽越国境まで戦況視察に来て引き返す途中、山中で捨児を拾うて抱いて帰って育てた話である。「斯児不棄斯身飢」の有名な「棄児行」の詩は、この話を材料にしたのだが、しかし世に伝わるように雲井の自作でなく、総生寛の詩である。

 戦争で鉄火の下をくぐり、飢寒に懐える風餐雨虐の経験は、小野の面貌から子供らしさを払拭して、天晴れ一人前の男にした。十里風腥き新戦場を後にして、中仙道から京都を経て、どうにかこうにか無事土佐に帰りついたのは、その年も暮に押し迫った十二月であった。戦線に馳駆している間に、慶応四年は明治と改元せられていた。

三 士族をやめて平民となる

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 明治二年、親しき先輩の岩村通俊が上国を漫遊すると言うので、小野はその随行を乞うて同意を得、母からも許された。岩村は、日課として道中の見聞を日記に書くことを命じたところ、小野は毎日、旅宿について夕食を終えると、必ず克明に筆を動かして一日も違わない。試みに手にとって見ると、まことに立派な漢文なのである。早くから英才とは思って嘱目していたのだが、そのでき映えはまことに予想以上である。後に追懐して当時のことを記した文で、岩村は「東洋漢文記之、……其文清雅可喜。是時東洋、年纔十八歳矣。」と驚歎の意を漏らしている(永田新之允『小野梓』「追懐文」三頁)。東洋とはこの頃つけた小野の雅号で終生用いたが、藩の大先輩吉田東洋とは傾向も違う人物だから、知らずして同じ号をつけたまでであろう。彼のこの達者な漢文は、郷里の学塾でほぼ堂に入っていたのだ。またある日、岩村に示した漢詩に、「聖主中興復古初、又抛筆硯出茅盧。粛然行李君休笑、腹有便便千巻書。」(岩村八作編『貫堂存稿』下巻一一九頁)という一絶がある。承句は、小野が少年の日、一句の暗誦に二ヵ月もかかった『唐詩選』の魏徴の「述懐」中の「中原還逐鹿」の第二句「投筆事戎軒。」を模したものらしく、転句は同じ唐詩選の中の王翰の詩に「酔臥沙場君莫笑。」から出ているであろう。出所の跡は幾らかあらわに残っているとしても、詩として格をなしつつあるに近い。

 東京に出て暫く岩村と共に暮したが、すぐに岩村は函館府権判事に任ぜられて、北海道に赴くことになったので、小野は一人東京に留まって昌平学校に通学した。山内家では土佐出身の在京の書生のため特別に藩校を設けてあって、そこに入るように命令を受けたが、大学校、次いで大学と改称した昌平学校は、そもそも旧幕府直営の、天下の人材を集めた最高の学府だったから、汎く他藩の秀才達と交わって、世の大勢を知る便宜がある。土佐人ばかりが顔をつき合せていて、井底の痴蛙式人物の集合所たるに過ぎぬ藩校の比でないと言って、命に従わなかった。そのため、生意気だと言って藩邸の憎しみを受けたのは当然のことであろう。

 幾程もなく「藩公に御用があるからすぐ帰国致せ」との命に接し、取るものも取敢えず船で高知に着いてみると、「いや最早、御用は済んだから勝手に致せ」という素気ない応対である。つまり狭量なる藩役人は、小野のような書生を東京に置くのは宜しくないと考えて、トリックにかけて帰国させたのだ。小野は憤懣やる方なく、これも藩臣という桎梏があるからのことなので、潔く士籍を脱して平民になれば、こんな不愉快な目に遭わされなくても済むと、かねて折々考えの浮かんでいた藩士格放棄のことを、いよいよ決行する覚悟を決めた。

 それには他家へ養子に行くという口実で願いを出したが、城主伊賀氏は容易に聞き届けぬ。「この変化混乱の時代、平人が士格になる希望者が多い時に、その反対のことをするとは無鉄砲も極まる。その方、気でも狂ったか。」とたしなめたのである。母や親戚もこぞってその不穏当な振舞を抑えようとしても、小野は一徹に自己の考えを曲げない。幾曲折のいきさつの上、とうとう双刀を捨て、丸腰になる念願は叶って、今日からは自分の行くところ、どこにも青山があり、骨を埋めるに墳墓の地を期する必要はない身軽さとなったのだ。

 士族の商法に失敗した者の中には、落ちぶれて遂にその頃発明された人力車夫になった者も少くない。しかし彼らは士族の執着を捨てず、腰には両刀の代りに短い刀を差して、身分の標示とした者が多かった。それらに比すると、小野の行動は確かに異数でなかったとは言えない。しかし多くの伝記者が、これを特絶無二の賞揚すべき行動として、驚異し意義づけているのは肯けぬ。

 この士族籍離脱も一部の風潮で、同じ道を歩んだ者は他にもいろいろの例がある。一番有名なのは御三卿の旧一橋家の近習番頭取という名家に生れた土肥庄次郎が、大坪流の馬術から、槍術、剣術、砲術、水泳術みんな免許皆伝の天才ながら、身を落として吉原の幇間となり下り、松廼家露八の名を以て明治中期に没するまで、広く政界から文学美術社会まで聞え、吉川英治の名作で名高く、今日もよく芝居に掛かる。また西園寺公望は九清華の高き堂上公卿の身を以て平民を憧れて、望一郎と改名し、妻も京都郊外の差別を受けている女性の中から選んで迎えたいと駄々をこねて、左右を手こずらせたのもよく世に知られている。だからそれを小野一人の異例のように思い誤ってはならないが、しかし時代転換の場合、それだけの覚悟をした決意の程は認めねばならぬ行動ではあった。

 明治三年、小野は宿毛を出て大阪に着き、そこに居を構える小野義真の家を訪うて、今や自分は平民の届を出して、士族としての何の繫縛もなき身であり、今後の行動は一切自由なのだと報告すると、この先輩だけはその処置を諸手を挙げて賛成し、「安心せよ、今後の君の世話は一切僕が引き受ける。」と言ってくれた。小野義真の家は、梓と同姓ではあっても士族でなく、大庄屋である。しかしこの大庄屋という役は直接農民に接触し、つまり生産部面の元締なので、全国どこの藩に行ってみても、大抵、郡内一の大分限者で、その裕福で豪奢な生活は、往々にして家老重臣を凌駕した。そこでその財の幾分を割いて、英才梓を海外留学させたらというのが、郷にある時から義真が梓の上にかけた嘱望であったので、先ずその下準備に、一度上海を見て来てはどうだと勧めた。

 上海!それは開国当時の日本が西洋文明摂取のため、アジア大陸の一角に持つ唯一の橋頭堡であった。幕府時代は久しく長崎の務めた西洋文明摂取の役目が、維新の前後から日本海を越えて前進したので、文久二年幕府が新購入の千歳丸(英商リチャードソンの持船で元の名はアーミスチス)を上海に貿易瀬踏みのため初航海させるに際し、早くも策を用いて、これに高杉晋作(長)、中牟田倉之助(肥)、五代友厚(薩)の三人が密乗したのが先鞭をなして、その志ある者の上海行きの道が開けたのだ。この時はちょうど梅雨に差し掛かって荒天のため海は狂濤を揚げ、三百五十八トンの小船は木の葉のように揺れて、上等室を占めている幕府役人は皆激しい船酔に苦しんだが、下等室のこの曲者三人は平気で上等室の幕臣の無気力を罵って、気炎を上げた。この前の成臨丸の太平洋初横断の時でも、将来を注目すべき人物は下等室にあり、後日に至って福沢諭吉が日本開化の大導師として台頭したが、この上海航海も下等室の三人男が日本史に名を留めた。高杉は長州の生んだ最高の天才児、奇兵隊長として後の徴兵制度による挙国皆兵の先鞭をつけた。中牟田は日本最初の海軍軍令部長、五代は豪商として関西の実業界を指導するに至る。由来いつの程にか、傑物は三等室に潜伏す、船は三等客に注目せよとの言葉が行わるるに至った。

四 文化の太源と新世界

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 東島興児。これはあり得べくもない名ながら、幾分それを名告る人の風貌を偲ばすに足るだろう。小野梓が海外への初旅に上るに当って自ら選んだ変名である。明治三年七月(会計検査院蔵「履歴」には明治二年三月と記され、「救民論」の著作年「己巳」と一致するが、ここでは暫く通説に従っておく)、神戸から上海通いのアメリカ船三等客となる。

 いわゆるtreaty portの代表的なものとして、租界の構築は既に形をなし、上海はその西欧化せる文明の程度において、もとより開港後数年にしかならぬ横浜の比ではない。梓はただその一瞥見だけで、早くも他日、欧米本土に航してつぶさに実地を見聞討究するところがなくてはならぬと、深く心に期した。それとともに東洋の太源、いな世界最古の文明の巨大なミイラとも言うべき中国大陸を踏査する必要があるとして、内地に深く入り込んだ。今までの旅には綿密な日記をつけていることもある小野梓が、これについては何の記録も残さず、詩文の遺稿も発見せられていないので、どの辺りを、どう跋渉したのか全く不明であるが、それによって何らかの感慨を催さなかったとは考えられない。

 そしてここに非常に珍しいのは、この間に「救民論」の一編、約七百字の漢文を草していることである。「救民」と言えば、上海の公園にぶらついている貧窮の苦力の群でも見てたてた救済論かと速断されそうだが、実はもっと規模の雄大なもので、要は世界連邦、世界共同体を作らなければ、万民の平和安寧は得られないとの思想を述べたのである。大切だから左に全文を引用し、更に読み下し文を付しておこう。

救民論 明治己巳之夏、在上海作之。

救民論、是天下之公論、而非一人之私言也。為其義也、亘於天地、極於古今、可謂微而顕也。然而古聖賢之言、無及於此、則不知之也。唯世運未闢、時機未至也。今也人文方開、舟車之用極其妙、加之、電気・通信、於瞬息天下無不可至之地、而無不可通之信。以是視之、則雖謂天下已小而可也。且往有万国公法。各国依之以交際、隠然為一致之形、而其実未有耳。故今論救民之術、必以六合一致為首、観者諒焉。必勿徴往時而論可矣。於是乎序。

天之愛育生民、宇内同一、非有各土彼此之別也。既命之以相養相生之道、与之以自主自由之権、而使因之以保生命受福禄矣。呼嗟盛矣哉、天之徳也。是所以古今仰之不已矣。往古人々無相凌辱、互保護以仰天徳。迄人類日滋、風俗月移、而始生強凌弱大辱小之弊、至生民為之殆不能保生命焉。於是賢哲之士、始建政府、懲強済弱、而上下同一得全相生相養之道、伸自主自由之権。故人々戸給家足、各安其所矣。如此、可謂不背為政府也。惜哉、後世姦雄之徒、以政府為己肆欲之具、生殺与奪専其権、而不出公議、生民之窮困、日甚於一日、唯畏政府之暴威、而左視右顧、知避其忿怒耳。適雖有称良政府者、然画於一隅、猶未免有凌辱弱小之弊。宇内之乱、従而無止、生民之窮困何時救乎。今為宇内生民之計、莫如建一大合衆政府、推宇内負望之賢哲、使之総理宇内焉。置大議事院、挙各土之秀才、確定公法、議宇内之事務、而善其政者勧之、不善其政者懲之、大起生民教育之道、始可謂挙宇内之民、而使得全相生相養之道、伸自主自由之権而已。豈不人間之一大楽事乎。然而首唱之、成就之者、各土政府任也。願各土之政府体天意、去己私、従事於此焉。苟以其民既安、而不従事於此、則背天意、而不知生民無彼此之別也。若他日有強暴政府、自外凌辱之、則其民之安、亦不可保也。嗚呼有真豪傑之士、起必知唱就之、以救斯民於禍乱之中、宇内同一得全天愛育生民之意矣。此救民論之所以因而起也。

(「東洋詩文」『小野梓全集』下巻 一三九―一四〇頁)

救民論 明治己巳の夏、上海に在て之れを作す。

救民論、是れ天下の公論にして一人の私言に非ざるなり。其の義たるや、天地に亘り古今に極まり、微にして顕と謂うべきなり。然り而して古聖賢の言は、此こに及ぶことなければ則ち之れを知らざるなり。唯だ世運未だ闢けず、時機未だ至らざればなり。今や人文方に開け、舟車の用は其の妙を極め、加之、電気・通信は瞬息に天下至るべからざるの地なく、通ずべからざるの信なし。是れを以て之れを視れば、則ち天下已小と謂うと雖も可なり。且つ往に万国公法有り。各国之れに依って以て交際し、隠然として一致の形をなすも、其の実は未だ有らざるのみ。故に、今救民の術を論ずるに、必ず六合一致を以て首となせば、観る者は諒とせん。必ずしも往時に徴して論ぜざること可ならん。是こに於てか序さん。

天の生民を愛育するは、宇内同一にして各土彼此の別有るに非ざるなり。既に之れに命ずるに相養相生の道を以てし、之れに与うるに自主自由の権を以てし、之れに因て以て生命を保ち福禄を受けしむ。吁嗟、盛んなるかな天の徳や。是れ古今之れを仰いで已まざる所以なり。往古、人々は相凌辱せず、互いに保護して以て天徳を仰ぐ。人類日ごとに滋く、風俗月ごとに移るに迄りて、始めて強の弱を凌ぎ、大の小を辱しむるの弊を生じ、生民は之れがために殆ど生命を保つ能わざるに至る。是こに於て賢哲の士は始めて政府を建て、強を懲し弱を済けて上下同一に相生相養の道を全くし、自主自由の権を伸ばすを得たり。故に、人々は戸ごとに給し家ごとに足り、各々其の所に安んず。此くの如きは、政府を為りたるに背かざると謂うべきなり。惜しいかな、後世姦雄の徒、政府を以て己が肆欲の具となし、生殺与奪其の権を専まにして公議に出さず、生民は之れが窮困日ごとに一日を甚だしくし、唯だ政府の暴威を畏れて左視右顧もて其の忿怒を避けることを知るのみ。適ま良政府と称される者有ると雖も、然れども一隅に画してなお未だ弱小を凌辱するの弊有るを免れず。宇内の乱は、従りて止まず、生民の窮困は何れの時に救われんや。今宇内生民の計をなすに、一大合衆政府を建て、宇内負望の賢哲を推して之れをして宇内を総理せしむるに如くはなし。大議事院を置いて各土の秀才を挙げ、公法を確定して宇内の事務を議せしめ、而して其の政を善くする者は之れを勧め、其の政を善くせざる者は之れを懲して、大いに生民教育の道を起せば、始めて宇内の民を挙げて相生相養の道を全くし、自主自由の権を伸ばすを得しむと謂うべきのみ。豈に人間の一大楽事ならざらんや。然り而して之れを首唱し、之れを成就する者は、各土政府の任なり。願わくは、各土の政府の天意を体して己私を去って此れに従事せんことを。苟し其の民既に安きを以て此れに従事せざれば、則ち天意に背いて生民に彼此の別なきを知らざるなり。若し他日強暴の政府有って外より之れを凌辱すれば、則ち其の民の安きも亦た保つべからざるなり。嗚呼、真に豪傑の士有って、起って必ず之れを唱就し、以て斯民を禍乱の中より救うべきことを知れば、宇内は同一に天の生民を愛育するの意を全くするを得ん。此れ救民論の因て起つ所以なり。

未だ十台の黄口乳臭の少年が六合一致、宇内同一、そして更に一大合衆政府の建設、大議事院の創立を論じて、まことに気宇広闊、人を瞠目せしめるものがある。

 どこからこの雄大の思想を発見し、継承して来たのであろうか。もとより日本には古来こうした考えはなく、「八紘一宇」からは、到底、この論旨を展開して来ることは不可能である。中国では、孔子が論語の中で「四海之内、皆兄弟也。」と言い、陶淵明がその詩に「落地為兄弟。」と謳っているのが、これにやや近似する。といっても、この「救民論」は、それらの付帯せぬ西洋的雰囲気が強い。されば、読売新聞記者時代の永田新之允(岳淵)の著書『小野梓』(明治三十年刊)が、初めてこの遺稿を紹介して以来、多くの識者・研究家が、珍とし、異とし、疑問として来たところである。

 或いは思うに、これは太平天国の残した影響の反映ではあるまいか。阿片戦争の後、満清政府の秕政に、南清地方では、民の乱を思うこと、大旱に雲霓を望むが如くであった。この期を見て蹶起したのが広東の落第秀才、洪秀全である。もとアメリカの宣教師についてキリスト教の大意を習得し、それを変形して、新たに一宗派を開いた。自らエホバ上帝の子にして、キリストの弟と称し、真言宝話の書を作って、新旧約聖書に擬し、この教えに入る者は一切、兄弟姉妹を以て呼び、万人平等、財産共有、満清政府打倒の旗幟を掲げて、兵を挙げたのが一八五一年、洪秀全三十七歳の時である。その徒は皆辮髪を解いて風に吹かせたから、長髪賊の名が起った。南京を攻略し、数年ならずして城を陥落せしめること六百、勢いの及ぶところ十六省に及んだ。朝廷を立てて国号を太平天国と称し、自ら天王と号した。ゴードン将軍が、清朝政府の依託を受け、これを討平するまで、実に十四年の長きに亘って、その政権を維持し得た。

 上海に激戦が起ったのは一八六二年(文久二)で、小野梓がその地に遊ぶより七、八年前のことに過ぎぬから、噂話は所在に語られ、宣伝文その他は巷に満ちていた。小野の「救民論」は、太平天国の宣伝趣旨に似通うところが大いにあると思うが、たとえゴードン派の声明から学んだとしても、彼は敬虔篤実のキリスト教信者で、桂冠詩人テニソンがThis earth hath borne no simpler, nobler man(彼より純朴にして高貴なる人間がこの世に生れしことなし)と詠嘆した人格である。徳富健次郎(蘆花)と有島武郎が共に眷恋として、その伝記を書いているのを見ても、ゴードンの大よその人柄が分る。小野梓の「救民論」はそのどちらから影響を受けたとしても、とにかくキリスト教の投影が認められるのは、否定できぬ。

 「救民論」が起草せられて、今やまさに一世紀余を経過し、識者は折にふれ時に応じ、これに注目を払って、さまざまな意義づけをしたが、我が大学の二人の総長が相前後して、しかし互いに連絡はなく、これに新しき照明を当てたのを、ここに見逃すわけにはいかぬ。一人は前総長時子山常三郎で、オーストリアの思想家クーデンホーフ・カレルギ伯の来日が、その機会となったのである。夙に「汎ヨーロッパ」(Paneuropa)運動を起して、その指導者であり、EECの思想実行両方面の父と言われる彼の功績に報いるため、鹿島守之助財団の設けた世界平和賞の第一回受賞者として、彼が選ばれて来日し、天皇一家をはじめ、朝野こぞっての歓迎を受け、新聞も放送も、その報道で、日もこれ足らぬ有様であった時、その来日に呼応して、時子山が『朝日新聞』および『世界平和』誌上などに、クーデンホーフの仕事の意義を解説するのと関連して、酷似性ある小野梓の「救民論」の宇内国家論を紹介したのは、治博な知識に裏付けられた、まことに好論文であった。小野梓、地下に霊あらば莞薾として首肯したであろう。また、植木枝盛が「無上政法論」で訴えた万国共議政府論に「救民論」と等軌の発想が認められるのに興味を惹かれるが、それはともかくとして、昭和四十七年覆刻せられた永田新之允の『小野梓』の巻末に村井資長総長がこの点につき、

古聖賢の言にさえ一言半句ももられていなかった十九歳の青年の先人未発の提案とは実に、最近二十世紀後半に入ってようやく全地球的実験プログラムに入りはじめた「南北問題」を眼底にすえての、世界連邦(先生はこれを宇内合衆政府という)樹立の急務たることを説いたものでした。 (「永田新之允著『小野梓』復刻にあたって」)

と言及したのは、まことに寸心千古、今後も機あるごとに、人の記憶に甦ってくるべき不朽の達見と言わねばならぬ。 たまたま小野義真が公用を帯びて上海に来たので、梓も一緒に日本に帰ったのは、明治三年の十一月(前掲「履歴」では明治二年九月)で、彼地の滞在期間は数ヵ月を出でなかった。しかし海外の地を踏んだことは、それだけ青年の大志に暢達の刺戟を与えること多く、今度は煙波遠く太平洋の彼方を望んで、アメリヵ渡航を夢想するに至った。

 上海からの帰国後、彼は暫く大阪の小野義真の家に同居していたが、この恩人の上京に伴うて一緒に東京に出て間もなく、自分一人は横浜に移って英語の勉強に取り掛かったと伝えられる。それには二つの方法しかなかった。一つはヘボン夫人が私塾を開いて、有志を集めて教授していた。高橋是清などは身持ちの悪い不良青年ではあったが、ここに学んで渡米準備をした。その外には外国商館のボーイに住み込んで、聞き覚え、見覚える方法で、渡米はしなかったが、東京専門学校二回目の入学生の北村透谷などはその方法を採っている。そのどちらの道を選んだかが分ると、小野梓の初期の外国語勉強がどのようなものであったか推測がつくのだが、それが判然としない。ともかく横浜滞在は三ヵ月そこそこに過ぎなかったようだから、大して収穫があったとは思えぬ。早く切り上げたのは、大関某という富裕者が、小野の人物に見込みをつけ、自分が渡米するから、助手の格で一緒に行かぬか、在学の費も給してやると、まるで棚からぼた餅のような約束をしてくれたからだという。その頃の渡米はかなり異数なことだから、本人の手記か、近親の人の思い出話か、相互に交換した書簡かが残っていなくてはならぬ筈だと思うのに、何一つなく、ここに用いる資料は永田新之允の伝記による外なかった。この外、中村重遠が外国行きを勧めた発頭人の一人であったことは、中村の死を弔った時の小野の日記に見える。

 小野梓が渡米のため日本を発ったのは明治四年(前掲「履歴」では明治三年)の二月で、航海日数は二十五日を要したとあるから、月初めの出発ならその月のうち、月末でも三月にはサンフランシスコに着いていなければならない。するとこれはかなりに早い米国留学生で、これより前、日本人で純粋に学問修業を目的としてアメリヵに渡った者が何人あったかということが、一応問題になってくる。

 ペリーの黒船来航以前にジョン万次郎とジョゼフ彦が、共にアメリカの学校に入り、初等教育を受けているが、もともと漂流民がたまたまアメリヵ船に救われてそうなったので、学問修得を目的意識として持っていたわけではない。元治甲子の変の年(一八六四)は新島襄が密航に成功し、アメリカに着くまで船夫として働いたとしても、これは明瞭に学問をしようとの目的を持っている。多分アメリカ留学生の第一号としてよいであろう。福沢諭吉が第二回の渡米をして、アメリカから初歩の読本や、専門的ながら解説の平明な教科書を多数買い入れて帰った慶応二年には、勝海舟が長男の小鹿を、また横井小楠が甥の伊藤平太と佐平を送っている。これは水夫助手のアルバイトもせず、正当に船賃を払っているのだから、完全に留学生と見ていい。勝海舟は咸臨丸艦長として実地のアメリカを見ており、小楠はその海舟から、アメリカ政体は最高統治者が四年を以て交代、最初の大統領ワシントンは二期務めて、後進に道を譲って山に退隠したと聞かされて感歎おく能わず、これまことに、ワシントンは現代の堯舜、堯舜は古代のワシントンと称して、ワシントンの詩を作り、その肖像画を日本人として初めて入手し、その極、二甥をアメリヵに送って、技術を学ばせるとともに、共和国の基軸精神を探らせようとした。彼は心からの恭敬なる天皇崇拝者ながら、一面共和に憧憬の詩を作り、遂にそのため暗殺せられるに至る。勝小鹿ほど明確にアメリヵ政体の実体を探るのを目的として送られた留学生は、全く空前である。

 それから元号が変って、明治二年、ドイツの武器商スネルが会津から三十余人の士農工を連れて渡米し、カリフォルニアに若松コロニーを開拓したが、この中には、学問を志した者はいない。しかしその二世の中の女性から大学に入って、日本で初めての女博士が生れたと伝えられているから、全く学問と無関係ではない。その翌三年九月大学南校は最初の留学生四名をアメリカに派遣したが、更に森有礼は少弁務使としてアメリカに在外公館創設の命を受け、その年十二月三日に横浜を発った。その際西園寺公望、山脇玄その他三十八名の留学生を帯同し、その中八人がアメリカに留まった。この中で後に学界に名を残したのは英語教育家の神田乃武が第一で、木村熊二は晩年信州に小諸義塾を開き、島崎藤村を教師に招いて、彼が詩人から小説家になり代る時機を援護したので知られる。なおこの時、弁務少書記として外山正一、外務文書大令使として矢田部良吉を伴うたが、到着して執務に掛かってから二人の希望として、留学生に変更した。外山は帰国後東京大学教師となり、高田早苗天野為之以下、本学苑創設当時の功績者、いわゆる鷗渡会同人を、俗に言う「手塩」にかけるように育て上げながら、皆小野梓を介して大隈陣営に走らせてしまっては、雌鳥が温めて孵い出した中に、あひるの卵が交っていて、水の上に泳ぎ出したようなものである。

 さて、その小野梓は、通説によれば、明治四年の春に故国を発ってアメリヵ留学の途についている。明治時代になって、森有礼のような官命によらず、自費により留学した者、小野梓を以て最初とし、第一とする。明治四年、岩倉が特命全権大使として、条約改正の下踏みに締盟諸国を巡回するに当り、アメリヵ公使デ・ロングが任満ちて帰国するに伴われて、太平洋を東航する時、随行百人に達する大名旅行で、うち北海道開拓使の女子留学生(津田梅子と、のち大山元帥夫人となった山川捨松の名、最も顕わる)は振袖姿で乗船して、内外人を驚かした。この中には男子留学生も多く交っていたが、これは小野梓の留学より後のことである。

 しかるに、その藩にも政府にも頼らず、個人留学の先鞭をつけた彼のことが、従来の記録では一向に取り上げられていない。『日本文化交渉史』(第四巻「学芸風俗篇」、第五巻「移住篇」)は、文部省外郭団体の開国百年文化事業団で計画せられた準官撰著作で、あらゆる手を尽し、現に前者は本学苑出身の木村毅が当り、後者は殆どアメリカ外交で一生を終った元大使永井松三の編纂でありながら、小野梓の名前が挙げてなく、アメリヵ側ではブラッドフォード・スミス(Bradford Smith)のAmericans from Japanが最も詳細を極めていながら、その記事を欠いている。永住しなかった加減もあろうが共に惜しまれる。後にアメリカ学界とは広汎にして密接な関係を持つ本学苑の、その発端をなすとも言うべき小野の渡米のことが、これほど我が学界から閑却せられているのについては、今後枢軸的修正がなされねばならず、戦後に至って、各大学に旺然としてその研究機運が高まり、小野に関しても幾多の論文が続出していることは、余事ながらここに特筆して挿入せねばならぬと考える。

五 希望の新大陸

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十二月六日晴

此暁ハ、咫尺モ弁ヘヌ程ノ深霧ニテ、甲板ノ上ハ津滴ヲナスニ至ル。故ニ洋中ニシバシ船ヲ止メ、黎明ヲ待シニ、天明ニ霧モ彷彿ニ消レバ、前ニ加利福尼ノ諸山顕レタリ。頓テ旭日昇リ、船徐々トシテ進ミ行クニ、正東ニ当リ、両峰中断ヘテ門関ノ状ヲナシ、其裏面ニマタ海水ヲタタへ、蒸気船ノ烟ヲ噴キ往来スルヲ見ル。景色ウルハシシ。是ヲ名ニヲフ金門(英語ニテ「ゴールデンゲート」)ト云処ナリ。二十二日ノ間、洋中ヲ渡リ来テ、扶桑ノ東ニ始テ見ル山水ナレバ、眺望スル楽サ謂ンカタナシ。金門ノ形勢ハ、直西ハ大洋天ヲ涵シ、両門ノ地ハ、海岸山脈ノ諸峰ソビユ。金門ノ北岬ハ「ラメルハス」山高サ二千六百尺起リ、南ト北トニ脈ヲ走ラセ、其北脈ハ次第ニ低下シテ富士ノ大麓ヲ見ルガ如ク、海岸ニ迫リテ、岬トナル。其南脈ハ其嶺高カラザレドモ、黒キ岩石崩レシ様ニソバダチ、二三ノ岩礁ヲ顕ハシテ、荒磯トナリ、金門ノ北口ヲ扼ス。此ニ燈明台ヲ立タリ。又金門ノ南岬ニハ、峻峰ナシ。前ニ白沙ノ岡阜アリ。坡〓トシテ海浜ニ接シ、背ニハ遠嶂重畳シテ緑ヲ浮ベタリ。此朝ハ霧ノ晴レシ際ニ、初テ白沙ノ山ヲミシトキハ、断霧ノ山麓ニ掛リシカト疑ヘリ。此岡ハ北ニ走リテ小巒ヲ起シ、其頂ニ細草ヲ生ジ、二谷ヲ抱キテ金門ノ南岸トナリ、其砲台ハ崕角ニ起リテ屹然タリ。両門ノ峰々皆緑樹ナシ。北門ノ山ハ、軟草青々トシテ焼痕ニ似タリ。此朝ハ海風寒ク波ハ黄色ニ渾リ、声琅々タリ。正ニ隆冬十二月ノ初メ、百草凋枯ノ候ナルニ、山々ノ草ミナ緑ヲコラシタレバ、怪ミテ其故ヲ問フニ、此海浜ニハ霜ヲ落サズ、冬季ニ雨沢一タビ潤ヘバ、山野ノ草皆一斉ニ芽ヲ出シ、乍ニ緑ヲシクトナン。異邦風土ノチガヘルコト是ニ類スルコト多シト。 (『特命全権大使米欧回覧実記』第一編 四一―四二頁)

これはその当時のサンフランシスコの金門湾に対する第一印象である。ただし小野梓が書き留めたのではない。それよりもずっと後に日本を発った岩倉大使の報告書の中に見えるもので、その編修者は、大隈の畏友で、後年、本学苑教授となった久米邦武である。小野はこういうことでは甚だしく筆不精で、地理的・観光的記録は決して残さない。しかし外地の初印象は大切だから、この書の記事を以て小野が目に見たサンフランシスコの叙述に代えるのである。

 小野梓が、前以てどんな希望をアメリカに託していたのかは不明だが、その頃既に日本人が多く集まっていたサンフランシスコに目もくれず、一八六九年(明治二)に開通した大陸横断鉄道に乗じて、一路ニューヨークに向ったのは、西部が勉学の地として不適当なるを感じたからであろう。ニューヨークに着くと、ブルックリンに宿をとった。後に明治から大正にかけ、或いは昭和の今日になっても、ここに勉学する者は甚だ多い。本学苑出身者では坪内士行がその一人である。

 再び岩倉大使の報告を引用すれば、

新約克府ハ、ホッソン河口ヲ挾ミ、前岸長島ノ、ブロックリン府ト相対シ、共ニ新約克州ノ、貿易都府ナリ。新約克府ハ、合衆国第一ノ都会ニテ、ブロックリン府ハ第三ノ都会ナリ、之ヲ併セテ海口ノ繁華ヲナセリ。……人口九十四万二千二百九十二人、対岸ノブロックリンヲ合スレバ百三十四万口ニ及ブ。其他対岸ノ各都市ト旅客トヲ幷スレバ二百万口ノ都会ト称セラルル所ナリ。此府ノ貿易ハ、其隆盛ナルコト、英国倫敦ヲ除クノ外ハ、比類スル都府ナシ。

(同書同編 三五五―三五七頁)

 名誉教授斎藤一寛が先年発見した小野の書簡数通(義真の孫小野鶴太郎氏所蔵)の中に、在米中の明治五年四月四日、小野桃斎(義真)に宛てて発信したものが一通ある。その前半は送金の相談であるが、後半に、「米洲も無別事、唯殺人之新聞日ニ二ツ三ツ有り、其風俗ノ悪しき可知。先日父を傷ケシ賊子アリ、政府唯十五弗ノ償金を出サシメタリ、米洲之法律も役ニ不立、余ハ御推論致祈。欧洲も平易ナリ。伊国ノ共和ハ近々敗ルベシ、墺ノ博覧会ハ盛ナルベシ」云々と、当時のアメリカおよびヨーロッパの形勢に触れており、差出人は、"A. Ono / 96, State Street / Brooklyn, L.I. / U. S. A."と、宿所が明記されてある。なお、小野は晩年、自己の伝記を著す志を持ち、その稿本の残欠に次の記事が発見せられる。

余は自費にて海外に留遊することなれば、他の官費の書生の如く優々歳月を徒費すること能はず。故に学校に入ることをせず、師を宅に延き日夜之を勉強せり。又た法律を講習するに就ても一種の考を思ひ出し、米国の成法を講習したりとて直に我邦に有用なりとも思はれざれば、専ら法理を講習するにしかずとて勉めて其方を心掛け、旁ら米国の憲法、行政法を取調ぶる事と為したり。当時或る人は余の法律を講習する方法は不規則なりと譏りたる人ありたれども、余は自家の考を変ぜず学びたりき。帰朝の後之を考ふれば、此の講習の方法は却て余を益したること多かりしと思ふ。 (永田新之允『小野梓』 三五頁)

これにも補考を要すること多く、「自費にて」と言っても、支藩の軽格の下士、しかも父を失った境遇では、渡米の旅費を才覚することもむずかしく、恐らくは大庄屋小野義真の支弁なるべく、或いは前記の大関某の給費だったので、長期の留学は初めから自分で期待していなかったものだと解せざるを得ぬ。法律を講習するに、米国の成法を講習しても日本の役に立たぬから、自分で「一種の考」に依り「専ら法理」を研鑽したとあるのが、大いに注目を要する。

 小野梓より四、五年遅れ、政府が大学新設のため、貢進生の最上級の好成績を収めて有望な者を、東京大学最初の留学生として幾人か海外に派遣したが、その中の筆頭秀才に鳩山和夫がいた。彼は後に早稲田学苑に校長となって来る運命にあるが、小野に比べて万事が裏腹に真反対であるから、ここに対比してみると面白い。小野が私費留学生で学資が乏しいのに対し、鳩山は潤沢な(私費生に比べれば)官費留学生である。小野が短期間に最大効果の挙がる勉強をしなければならないのに対し、鳩山は五年という長期の修学期間を与えられて、悠長に構えてよい。小野が不完全な変則の教育で英語もろくろくできないのに、鳩山は大学南校を経て開成学校を卒業して準備があるから、正式にコロンビア大学に入っても、教わる授業は日本であらかた聞いて知っていることばかりであった。そこで鳩山の始めた勉強は、これまたおよそ小野とは対聴的なものであった。

〔コロンビア大学は〕亜米利加の法律学校の中で一番生徒の多い学校で、一年級と二年級とを合せて五百人ばかりの生徒であつた。凡そ英吉利法律を学ぶには判決例を取調ぶるが必要で英吉利法律は不文法で、習慣々々と云ふから、先例が余程大事である。素人は判決例とか先例とか云ふは、旧幕時代の日本の先例と同じ様なもので、斯ういふ仕来りと云ふだけの研究かと思ふが、英吉利法律の判決例はさうでない。一の判決例には一の理由がある。其の理由だけを先例とする。事の同じことはさう起るものでない。判決の骨子は何処にあると云ふ骨子を研究するので、私はコロンビヤの大学の学科は極く楽であるから、書籍室で判決例の研究をした。これはやれば宜し、やらぬでも試験だけは済む。それから帰るまで判決例の研究にかかつた。日本人で英吉利法律を取調べた中では、私ほど判決例を読んだ者はあるまいと思ふ。菊池〔武夫〕でも岡村〔輝彦〕でも、菊池は法理学をやる方であるから、取調べはせぬ。私がコロンビヤに居る時は、コロンビヤの書籍室に這入つて坐つて居て、ドの本はドの棚に在ると云ふことは知つて居るほどになつた。其後エールの学校へ行くと、古い判決例から新しい判決例から、マサチユツセツツ、メイン諸州の判決例がある。其処でも亜米利加の判決例を綴つた書はドの棚に在ると云ふ事を記憶するだけになつた。さういふ癖があるから、日本に帰つて大学にも多少判決例の本はあるけれども、私の手の着かぬは殆んどない。僕の法律学は法理と云ふ方でない。さういふ風に判決例を沢山調べたから、学問は応用的に独得した積りである。

(『太陽』明治三十二年六月十五日発行臨時増刊第五巻第一三号「明治十二傑」 一二四頁)

 これで察すると、アメリカでは先進イギリスの学風を模し、判決例を重んずるのが学問の主流をなして、法理は従位の傾向があるのに、小野は悠々と際限のない判決例など渉猟している余裕がないので、法理一点ばりに勉強したものと見える。教師はジョンソンという博士であったと言うが、どの程度の学殖のあった者か分らず、また小野のその頃の語学力でどこまで理解できたか覚束ない。しかし他日イギリスに渡っては、官命の主要調査の余暇、ローマ法の学習に心を傾け、帰国してからの最初の著作が『羅瑪律要』の翻訳疏注であるのは、その淵源がここにある。またその自記に法律講習の傍ら「米国の憲法、行政法」を取り調べることとしたという点も重要である。

六 大統領は二流以下人物

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 従来の小野梓伝には、小野はアメリカ滞在中勉強が過ぎて、さらでだに繊弱な身体にこたえ、特に胃病に罹ったので、どこか転地した方がいいと医者から勧められたぐらいなことしか書いてない。

 しかし輓近は、小野梓の研究が飛躍的に拡がり進み、殊に畢生の大著『国憲汎論』にアメリヵ学説の影響の深大なことに新たな照明が当てられてきている。その点で最も顕著な発表をしたのは国学院大学の山下重一教授の「小野梓と西洋政治思想――リーバー、ウルジーとの関連――」(『早稲田大学史記要』昭和四十五年三月発行第三巻所載)という論文である。山下教授は、主権論、自由権論、交通と動行と安心の自由、財産所有の自由、請願の自由、結社の自由、政治の公開、法律の無上、課税、兵役、権力分立論、選挙制度、国会論、制可・特赦・訂約・開戦の権、依愛登用法の批判、司法権の独立、地方自治、結びの諸項に分解し、つぶさに引用、または摂取、批判した諸学説を比較検討して言っている。

小野は主権論についてウルジーに、また自由権論についてリーバーに負うことが多く、また、立法、行政、司法の全体にわたる制度論についてもこの二人の影響を少なからず受けていたと言うことができる。筆者は、別稿において小野に対するベンサムとミル父子の影響が大きかったことを実証したが、リーバー、ウルジーの影響もこれに劣らず顕著なものであった。

(六九頁)

 小野をベンサム主義者としてその殻の中に押し込んでしまうのは、却って彼を小さくし、その比較批判能力を局限する恐れがあるから、十分に慎まなければならないことである。ベンサムからミル父子と三代に亘る功利主義を、主翼とするに異議ないとしても、リーバーならびにウルジーのアメリカ学説を副翼として、何ら遮るもののない明治十年代の憲法学界の大空を翺翔したのが小野の『国憲汎論』であったと言えよう。

 ここで問題が起るのは、小野が在米時代、リーバーの学説に若干でも接していたかどうかということである。明確な記録を求めるなら、『留客斎日記』の明治十四年九月二十八日に、「此日購宇為児爾政治学、及李抜自治論。」(『小野梓全集』下巻三六四頁)とあり、それから連日のように、「自治論」を読むことに没頭している。この特に「購い」と書いているところを見ると、この時初めて読んだように思えるが、しかし熟読の暇はなかったとしても、アメリカ在留中に、リーバーの名を知るぐらいな機縁はできていたろうとも考えられる。リーバーは当時アメリカでは評判の政治書であり、明治十年代には早くも日本に入ってきて、その紹介も翻訳もできているぐらいだから、小野がこの時までにそれを全く知らずにいたとは思われない。

 殊に彼が実際政治の動きにも無関心でなかったことは、『国憲汎論』の中に左の記述があるだけでも明らかである。学問書ながら往々にして小野の内外に経験した個人的感慨を述べていて、彼の伝記を補う場合があるので、この書はその心して読まなくてはならないであろう。

余嘗テ米洲聯邦ニ在リ。時宛モ大統領ノ選挙ニ遇フ。当時頗ル感ズル所アリ、偶然二句ヲ得タリ。可憐華聖東城主、不必米洲第一人ト。蓋シ選挙ノ際両党互ニ第二流ノ人ヲ立テ、之ガ候補ト為シ、以テ投票ノ多数ナランコトヲ冀ヒ、肯テ第一流ノ人物ヲ立テザルヲ諷スルナリ。噫々人孰レカ其正当ノ人ヲ得ルヲ冀ハザラン。然レドモ其多数ヲ得ザレバ全然投票ノ権ヲ虚フス。故ニ寧ロ忍ンデ第二流ノ人ヲ択ビ、ソノ投票ヲシテ有効ノ者タラシメント欲スルナリ。 (中巻 三八九頁)

 一体共和制が君主制に勝る点として、第一に、そして最も常識的に考えられることは、共和国ならその国最高の政治家でなければ国民の信任を受けて選挙されるに至らないのに対し、君主制だと暗愚な王でも血統による継承権で統治者の地位に就く権利があるということである。それが裏切られて、策略のため不適任な人でもthe second bestとして選ばれるとしたら、共和制或いは広く選挙によるいいところは甚だしく欠けることになる。この選挙に抱く小野の夢と期待は、アメリヵで微塵に砕かれてしまったのが、上記の記事である。それは、小野がアメリヵに着いた数十ヵ月後の一八七二年(明治五)十一月五日に、グラントとグリーリーによって争われた選挙である。グラントは十八代の前大統領で二期の当選を狙い、グリーリーは新候補だった。両者の間の優劣はどうか。

 グラントは奴隷解放の南北戦争に、リンカーンの抜擢を受けて、世界に聞えた名将リーの率いる南軍を降して、国民的人気の絶頂にあること、ワーテルローでナポレオンを捕虜にしたウェリントン、或いは我が例をとれば、日露戦争に旅順を陥落せしめた乃木将軍の如くであった時、前回の一八六八年(明治元)の選挙に、大統領の候補としてかつがれたのである。ウェリントンは保守派の代表でも、政治的見識と才能が幾らかあったようだが、グラントが政治家として不適任なことは、乃木将軍よりもっとひどかった。彼は多年、何の政党意識もなく民主党に投票していたのに、今度は共和党から推されても、少しも違和感を感じなかったほど、およそ政党というものについて何も知らなかったのだ。

 彼が当選して第十八代の大統領になると、諸方からの贈物は洪水の如く、白堊館に流れ込んだ。ある実業家の一団からは、六万五千ドルもする図書庫が贈られた。雌雄の名馬、立派な邸宅、大統領夫人にはカシミヤのショール、子供達には精巧な玩具。またある相場師はヨットに招いて豪華な御馳走をし、最上の葉巻を贈呈した。グラントはウェスト・ポイント卒業の将校だったが、才能に自分で見切りをつけて早く田舎に引退し、久しく貧乏生活をしていたので、大喜びでそれらを受けた。乃木将軍なら大統領候補となることも辞退したろうし、贈物などは峻拒したに違いない。しかしグラントは無類に正直無邪気な男で、それらの代償として後にどんな醜悪、強欲な要求がなされてくるかは一切考えず、ただ、全米国民が自分の大統領選での戦勝の名誉に払ってくれる貢物として、当り前のことだと思っていた。

 果して四年間の任期はスキャンダルの連続であり、不正が多くの人々に栄達の道を開き、きわめて僅かながら薄運の人々を牢獄へ送った。株式市場の投機師で幾つかの鉄道会社社長のジェイ・グールドは大仕掛な金の買占めと、小麦輸送を掌握して鉄道でしこたま儲けようとの野望を企て、大統領の義弟コービンを一味に引き入れ、そして彼の姉なる大統領夫人から義兄の大統領まで、その名を利用した。それをグラント夫妻は久しく夢にも気付かなかったのだ。

 さすがにこれが発覚した日には、グラント夫妻もひどく狼狽し且つ憤慨した。全国民はこんな山師の出入りを黙っていた大統領のルースさを痛撃してやまなかった。グラントという男は、根が正直単純であるだけに、好譎な利己的人間にあやつられるとどこまで危ないことをやり出すか分らないというのが、国民の間に固まってきた定評だった。東洋には「迅」という字がある。卑俗な流説によると、あれは風が馬に乗った格好なのだ。遅鈍極まる風も馬の鬣にくっついたら、千里の遠路も一日にして走る。馬鹿正直者のグラントが、悪党の陰謀に乗せられる姿がそれだった。

 当然、改革の気運が起らずには済まぬ。それも自党内からその声が上がったのだ。革命に失敗して亡命帰化したドイツ人が、急速にその勢いをあおった。従って今度の一八七二年の選挙には、グラントは必敗して再選ならずとは、一般の公論だった。

 反対候補に推されたのは、『ニューヨーク・トリビューン』紙の発行者として聞えたホラス・グリーリーであった。その頃は新聞の力が今ほどでなくて、彼もアメリヵ第一流の人と言うのには遠い。しかし誠実な、才能のある人物で、有力な奴隷反対主張者でもあったから、この際はまるで救世主の出現のように歓迎され、勝利必至と見えた。しかし十一月五日に選挙が行われて、いざ蓋をあけてみると、全く予想を裏切って、グラントが大勝しているのであった。小野が『国憲汎論』の中に特筆して論じ、それはまた彼の論稿中のきわめて興味深い一節をなすと言われるのは、実にこの選挙のことだったのである。小野は、書物以外で、自分が身を以て見取った西洋民主政治の一面として、これから深い印象を受けずにはおられなかった。

 これより少し前、小野の熱誠堅実な勉強ぶりに目をとどめた人物がいて、この際大蔵省の留学生となって、イギリスに渡り、ロンドンで「銀行の事、及び理財の事」の調査に当ってみてはどうだと勧めてくれた。ここでも、もしこの棚からぼた餅のような幸運が落ちて来なかったら、小野のいわゆる「私費留学」は数年に及ぶことを許されなかったかもしれないし、アルバイトの労働をしながら大学に通うと言っても、彼には、後に本学苑の講師となった片山潜や、卒業して後アメリヵに渡って特に学生時代秀でた野球選手の経験を生かして、農業や伐木の傍ら、その競技の科学的研究を積み、日本野球記事を根本的に一新した橋戸信(頑鉄)のような体力がないから、それには堪えられない。としたら恐らく、せっかくのアメリヵ留学も目覚しい収穫はなくて終ったかもしれぬ。

 思いがけない新しい運命の道が開けて、「造幣課英国留学生徒」(七年一月十七日付)としての一年余の刻苦勉励が、アメリカで素地の固まった小野の学問に上積みされて大成の基礎を作ることになる。しかし、そのチャンスを作ってくれた人の名は、残念なことに吉田某氏とのみ伝わっていて、掴みどころがない。しかし吉田清成と考えてはどうであろうか。後にアメリヵ公使として聞えた彼は、早く元治元年にイギリスに渡り、滞在七年、機械の運転と測量を主として学んだが、傍ら政治家の説に聞いて行政経済の学を兼修し、その間しばしばアメリカにも往来した。殊にニューヨークおよびハートフォードには暫く滞在して、銀行と保険事業を実地に学んだ。明治三年冬帰国し、翌年二月、大蔵省御用係に任ぜられ、大蔵卿大久保利通、同大輔大隈重信、同少輔井上馨の信任を受くること頗る厚く、明治五年、国債を募るため英米に出張し、六年まで滞在した。

 としてみれば、小野梓にイギリス銀行のこと、理財のことの調査を依嘱できる地位の人としてぴったり合うし、滞在期もまた合致する。吉田は自分のような覊旅の腰かけ仕事では、末梢にまで行き渡った勉強ができないので、それを小野を見込んで託したと考えるのが、一番無理のない推測のようである。吉田は翌明治七年、駐米特命全権公使となっているぐらいだから、適当の青年を物色して、自分の一存で勉強させるなり、本省に推薦するなりの権限を持っていたこと、疑う余地がない。

 アメリカを後にしたのは冬の最中、ニューヨーク埠頭に立てば、ホイットマンの詩にあるように鴻雁が寂しい泣き声を発してくの字になり、への字になり、蒼天を渡る季節である。「発新約克赴龍動。」の一詩あり。

壮志未酬常自奮、故園難忘夢頻驚。只今猶有游不足、又駕輪船指大英。

(「東洋詩文」『小野梓全集』下巻 一二八頁)

ここに輪船とは、当時の汽船は両側に輪がついて水をかくようになっていたので、それを動かす機械の格好から日本では天秤船と言った。