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第二編 東京専門学校時代前期

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第二章 新勢力 ――学校出の登場――

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一 大隈の学校着目

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 十年一昔と言う。維新を以て始まり、西南戦争を以て一応の終止符を打ったこの一昔の期間のように、七百年の封建制度が土崩瓦解し、ヨーロッパの帝国主義の急激な侵攻に直面して、内核外殻共に合せて文化の激変した時代は類稀で、僅かにロシアのピョートル大帝の時代相が酷似していると言われる(トインビー)。この間において、壮年血気盛りの大隈重信の八面六臂の活躍が最も目覚しかったのは、敵味方共に刮目したところだが、前章に述べたことをもう一度繰り返せば、彼はこと教育に関しては、関与するところが全くない。前に郷国で致遠館を経営して、遠く他藩の学生まで吸収し、後に早稲田大学を発展させて、日本ばかりか世界屈指の有名大学に仕上げた大隈に、天成の教育家たる素質のあることは明らかである。文部省の「学制」発表は、まことに敬重すべき不朽の事績で、大隈が縦横の手腕を発揮するに、十分の働き甲斐ある晴れの舞台であった。さればこの学制にもし彼の手が直接に加わり、例えば硬貨を種々の異形から円形に統一し、守旧派の反対を押し切って汽車を開通し、太陰暦を廃して太陽暦に変えたほどの創案と決断が用いられたら、あの「学制」は、或いは更に百尺竿頭一歩を進めたものになっていたかもしれぬ。

 しかしそれらは今更顧みて悔いても詮なきことだが、その大隈が、如何なる機縁でその教育に再び関心を持つようになったのか。その教育回帰の動機は何であったか――これは等閑に付し得ぬことで、本来の早稲田学苑史は、ここから開展すると言ってもよい。一口に言えば、時勢の推移から、大隈が新しき知識、新しき手腕、つまりこれらを提供する人物の新しき貯蔵庫を必要とするようになって来たのが、その動機である。

 明治文化が、外国の知識・技術の輸入に負うところ甚大であるのは、ここに贅説を要せぬ。明治も十年になると、大隈、伊藤、井上その他の往年の洋学者・洋行帰りが蓄積して新政府に施した見聞・工夫も間に合わず、これを新たな帰国者に待たねばならなくなった。そこへ行くと薩長は、同藩人で早くから、今に引続き洋行した者が少くない。また他県人でも薩長の勢力を登竜門と目差して近づく者が多いので、新知識を摂取するに別段不足を感じなかった。これに反し、佐賀は、初めから洋行者も多からず、他藩出身者で追随して来る者も薩長に比すれば少い。維新の立ち遅れの不利がここにも感ぜられずにはいなかった。

 そこで大隈が今更に、ここに至って目をつけたのが学校である。洋行帰りの見聞は重んずべきだが、準備教養を持たぬ者が、語学もできず、公使館辺りの属僚から聞き取って、ノートしてきた新知識は、根底の浅いものでどうせ高が知れている。そこへゆくと学校教育を受けた者は、たとえ未だ実地を踏まないとしても、若干の基礎があり、不足の部分は、実際の執務と今後の知識の補給によって、伸長させてゆくに堪える。その学校と言えば、慶応義塾が十目十指、天下第一の名声を博している。それにその塾主福沢諭吉とは、既に友交の開けた仲である。他に中村敬宇の同人社や、尺振八の英学塾共立学舎など、その他、特異の人材を出すことで、慶応義塾によく雁行し得る私立学校もあったが、そちらに手を伸べなかったのは、政治家の大隈がその設立者に何の関係も持たず、教学界の事情に暗かったのも一因であったろう。当面慶応義塾だけで足るとした観がある。

 ここに不思議なのは、大隈が唯一の官立大学たる東京大学に一顧も払わなかったことである。まだその頃は、大隈は天下政権の中枢に座を占めている。直接の関係こそないにしても、いわば東京大学は自分らの政治勢力の内に張っている羽翼の下で経営せられている学校なのだ。今なら日の丸勘定の学問機関というところだ。

 しかし大隈がここに声を掛けなかった理由は明々白々である。東京大学は明治十年に発足したばかりで、そこに学んでいる者が、どの程度に役立つのか噂も立っていない。それに大学総理をはじめ、その他の有力者と、やはり交渉がなかった。ここにも、それまでの大隈が、維新後の教育行政に多く接触のなかったことが分る。

 しかし、この新しき学校卒業生の官途使用ということは、これまでの藩閥上りの役人が未だ何人も試みぬ、いわば処女地の開拓であった。どの参議も卿も、芋蔓式に出身の自藩の後輩を引き立てる。或いは他藩でも尾を振って阿付して来る者には地位を与えるという風であった。ただ上層にはバランスを保つ上で、卿に薩人を立てれば、その大輔には長人を配するというような顧慮はあった。しかし全然、別天地の学校出身者が、芋蔓的連絡なくして、官途に招かれるというような例は、絶無ではないかもしれないが、先ず稀有と言っていいことであった。

二 学校出の初人材=矢野文雄

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 この慶応義塾への着目交渉で、福沢から大隈に推薦してきた塾出身者の第一号が矢野文雄で、それが明治十一年のことであったのは、本書第一編で述べた通りである。

 これはただに大隈個人の、暫く眠っていた教育的関心を、目覚めさせる閃光となったばかりでなく、もっと広い社会的意味を、二重にも三重にも持つ。藩閥的な遺伝組織の上に立っている政治機構の中に、そういう尾骶骨を取り去った学校出という異質なものが初めて入ることになる。古き皮袋の中に新しい酒の酵母菌が投入されるのだと言い直してもよい。廃藩置県の影響が漸く目に見えぬ末梢にまで及んで行くので、これも中央集権の成立し行く途上の一事態である。遠からぬ将来において、我らの早稲田学苑の出現を予報する春一番でもある。もっと広く見れば、今では公務員(元の官公吏)にして、何らかの学校出身経歴を持たぬ者は皆無に近いが、そういう流風を築いてくるまでの這般の事情については、長広舌で大きく言えば天地万有に関し語らざるなき大隈が、珍しくこれに触れた詳しい談話を残していない。幸いにして、相手の矢野文雄の談片が残っているのを引用して、その交渉の面影を偲ぼう。

〔ある時、自分でうち落した雄鴨をみやげに持つて、福沢〕先生の宅に行くと、先生が「イヤ丁度いい所へ来た。実は今夜君に来て貰はうと思つて居た所だ」と云ふ。何事かと思ふと「実は大隈大蔵卿からの内話しがあつて、然るべき若手の人物が一人入用だから、将来有望な者を見立てて呉れとの事であるから、君がよからうと思ふて居るがドウか、一つ行かぬか」との話。我輩も行つてもいいと思ふたが、何がさて未だ其頃は、官界の苦労も知らねば、世態も知らぬ、齢漸く二十七歳、気宇四海を呑み、意気天下を席捲するの時代である。大隈が何だ大蔵卿が何だと、却々見幕だけは強い。奏任一等なら良し、然らずんば御免蒙ると云ふ鼻息だ。其頃奏任官は大書記官、権大書記官、少書記官、権少書記官、七等出仕の五級あつて、大概若手の振出しは、五等の七等出仕に定つて居た。それを一等の大書記官か然らずんば権大書記官、それ以下ならイヤだと云ふ訳。所が大隈さんは流石に「イヤならよせ」とも云はぬ。「マアマアさう云ふな、最初から一等なんか、それは無理だ。其内何とか考へるからマア中折れで、中間の三等(少書記官)で我慢しろ」と云ふ訳合。我輩は「そんなことはイヤだ」と頑張つたが、我輩の父は知事なんかをして居たので、官界の事情にも通じて居た。此父が「お前はさう単純に考へるが、官界のことはさうは行かぬ。皆鰻上りで、最初から三等になるなどは破格だから」と、家庭から大いに勧められて、愈々奏任三等で仕途に就くこととなつたが、此時初めて大隈さんと相知つたのである。……斯くして両三年を出でざるに、早く奏任の首級に累進したが、太政官内に統計院を置かるるに当り、我輩は其幹事となり、其処に大いに若手を三四名入れやうと云ふので、慶応義塾出の秀才から、予て目を付けて居た犬養毅、尾崎行雄、牛場卓蔵の三人を採用したのである。

(『大隈侯昔日譚』「補遺」 一七〇―一七二頁)

 ここで、もし矢野が凡庸であったら、せっかく道の開けた新卒業生の官途入りも、或いは中絶したかもしれないが、さすがに福沢第一推薦の選抜力は確かで、思いしに勝る働き者であった。藩閥出の小役人など到底、太刀打ちの相手になれるものではない。そこで大隈は続々と慶応出を採用したが、それを見ると政府の他の省でもこれに倣い、ために太政官の青年層役人の気風は一変するのではないかとまで思われたぐらいで、「慶応義塾出身の書生は、一躍して奏任官たるもの数十百人なり」(竹越与三郎『新日本史』上巻二〇六頁)と、天下を瞠目させた。しかもこの著者の竹越自身も塾出身者であるのに、これを驚異としているのである(尤も数十百人とは少し誇張に過ぎるようである)。

三 新三傑、大隈・伊藤・井上

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 我が憲政史学者は、その道の三恩人を数えて、板垣・大隈・伊藤とすることでは、大体一致して異論がない。前二者は政党の建設者であり、後一者も後には政友会を興したが、ここでは憲法の起草者たる業績によって数えられたのである。

 その中大隈は、青年時代、郷国にあって蘭文のオランダ史を読み、フルベッキにアメリヵ憲法を習った頃から、既にこの方面に若干の開眼は促されていた筈だが、中央政府に入ってからの言動には、憲法作成に特別の興味を持っていた痕跡があまりない。後には最大の民衆政治家と言われるようになった彼も、全く鋒鋩を収めていて、他の参議と異るところを見ぬ。

 しかし早くから抱いていた固い信念があった。藩閥は打破せねばならぬということである。維新の功藩を薩長土肥と併称せられても、民衆の風評と内面の実状とは大違いで、薩長の勢力が飛び抜けて大きい。それに対し、自藩肥前の立ち遅れを残念とする大隈は、この薩長を分断し、隔離し、そして遂にこれを無力にすることに成功しなかったら、日本国運の前途が憂わしいと感じていた。これは江藤新平なども内心同じ考えを持っていたので、征韓論分裂で、朝を辞して郷国に帰るの前、大隈を誘うた時に、「薩は頑朴なれども与し易し。長は奸譎はかるべからず。先づこれを滅すが第一急務なり。」と言い残した(『江藤南白』下巻二八四頁)。

 これには大隈も全く同感であった。従って大隈は、藩勢力としては、先にいわば知恵が足らぬと見ていた薩摩と親しくなった。この裏面には、大久保に重く用いられ、黒田が鉄道敷設の時初めは激しく反対しながら、欧米漫遊後、全く前説を改め、恬淡に非を詫びた上、その後は大隈の有力な支持者となったことなども裏面に接近事情を作った。それに薩人は戦争には自信があるが、内政に関する知恵にかけては長州に引け目を感ずるので、大隈と親しくし、これを防壁にして対抗する傾きがあった。

 しかし他にも藩閥打破を必要とする考えの同志がいる。それはある意味で意外も意外、仮想敵の当の長州人の伊藤博文と井上馨だった。二人とも足軽出の程度で藩の家柄が高くなく、維新の功臣としても木戸孝允、大村益次郎、広沢兵輔、前原一誠などの先輩に比べたら、下者扱いで、その勢力は微々として言うに足らなかったが、幕末ロンドンに密航して、ヨーロッパ文明をじかに見て、区々たる自藩のことなどに係わっているべきでないという持論を、この二人は心ひそかに抱いていた。しかし維新三傑はじめ諸先輩が健在の間は、めったなことを口に漏らすと、我が身に危難が落ちてくるので、表面には忠実に長老・上司の命を奉じているかに見えた。

 しかし心おきなき置酒放談の時などには、つい本音が出て、大隈との意気投合もそれが有力な連絡管となっている。だから大隈は大局から藩としては薩摩により多く接近しても、個人としては、伊藤・井上ほど腹の打ち明けられる相手は他にいなかった。維新三傑が没して、必然、天下一変の気運なきを得ぬ場合に差し迫りながら、三人の友交の親密は破れることなく、福沢諭吉のような公平の第三者の目にも「膠漆も只ならず」と映って、現に手記の中にそう明記している。

四 憲法草案作成内諭

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 それに風潮の変化は、ただに藩閥の打破ばかりでなく、今一つ、三人の同志同信を緊密にする別な題目がふえて来た。議会の開設である。これについては、この三人組は、これまで決して、無縁無接触であったわけではない。

 伊藤・井上は早く文久三年に密航して、全盛期に入ろうとするヴィクトリア女王朝の燦爛たる商工文明、議会政治に、全幅の理解は持てぬながら、どうにか外殻だけは撫するを得た。西洋膝栗毛の弥次郎兵衛と喜多八が、イギリスに渡り、ロンドン橋の上に立って、「なんと見ねえ、この国では、子供までみんな、英語を話しとるぜ。」と心から感心すれば、「そのことよ。乞食まで洋服を着とる。大した国だなあ。」と、駭目して共に感歎おくところを知らなかったという話のように、伊藤・井上は、イギリス文明そのものに、魂消ゆるばかりの思いをした。この時のアングロフォビアが最初の出発点となり、伊藤・井上が主導者となってでき上がった明治の政治は、大体英米追随が基調をなし、殊に外交は英米恐怖が骨の髄まで染み込んで、昭和の日独伊枢軸への転換まで続いた。

 明治になって、伊藤が志を台閣に得、岩倉遣外使について米欧を回覧した時、シカゴでは人に教えられて、ハミルトンの名著『フェデラリスト』を小説の如く面白く読んで、いささかアメリカ議会政治成立の経過に通じ、更にヨーロッパに渡っては、プロシア憲法の概略を英語で平明に説いたパンフレットを得て、上司の大久保に訳して示したことがある。尤もここで停止してしまって、その後の進展は全くないようであった。大隈も、フルベッキに習った「アメリヵ独立宣言」と「憲法」全文は、在郷時代の何より貴重な収穫であったが、中央政府に召されるとともに、暫く忘却し去り、大体大久保の意に違うまいとして、放漫の性を抑え、よく努めた。伊藤は憲法について、大隈より保守的・漸進的な意見の持主であったが、それでも上記の言動を事実とすれば、幾らか自発的にイニシアティヴを取って、それに当っていると言える。しかしこの頃の大隈は、仕事の忙しさに憲法のことなど全く忘れ去った形であったところ、たまたま、元老院を設けて国会開設に備えよとの詔(明治八年)が出た翌年の九月六日には、元老院議長の有栖川宮が宮中御学問所に召され、左のような詔が下った。

朕爰ニ我カ建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ酙酌シ以テ国憲ヲ定メントスソレ宜ク汝等之カ草案ヲ起創シ以テ聞セヨ朕将之ヲ撰ハントス〓(『法令全書』明治九年詔勅)

そして天皇自ら参考書としてトッドの『イギリス議会政治論』(Alpheus Todd, On Parliamentary Government in Eng-land, 1867―9)という二冊から成る大部の書を下げ渡された。なぜこの頃、こういう書が天皇の許にあったかと言えば、明治七年、宮内省に務めていた吉井友実が暫く官を退いて西遊した時、他日何かの役に立つと考えて、ロンドンでこれを購入し、帰国後に拝謁して献上したものと言われる。

 有栖川宮は元老院に帰って、柳原前光、福羽美静、中島信行、細川潤次郎の四議官を国憲取調委員に任命し、更に書記官から河津祐之、横山由清、安居修蔵を国憲調査係に任命して助力させ、他にアメリヵ人フルベッキとフランス人デュ・ブスケ(Albert Charles Du Bousquet)の二人を元老院雇として、外国憲法の翻訳などに従事させた。

 勅命があってから、僅か一ヵ月後の十月に早くも元老院の四取調委員は「日本国憲按」第一次草案を脱稿し、別に「日本国憲ヲ進ムル復命書」と「日本国憲案同準拠書目」を作成した。更に二ヵ年の日子をかけて、取捨削潤を加えてこれを完成し、先の「復命書」とともに有栖川宮元老院議長に第二次草案を提出したのが明治十一年六月である。有栖川宮は俊敏果断ではないが、事を苟くもせぬ注意深さを持つ性質があり、つぶさに検討してみて、その内容は我が建国の精神に合致せず、外国法典を採用するに我が国情に適合するかどうかの省察が不十分で、寄木細工の感が深いと批判した。殊に帝王継承の章に「即位ノ礼ヲ行フニ方テハ両院集会ノ前ニ於テ国権ヲ確守スルノ誓ヒヲ宣ブ」(伊藤博文編『憲法資料』下巻)という箇条は、これこそ西洋流の契約憲法の趣が深いとして、最も大なる不満の起るところであった。

 有栖川宮は、かねて右大臣岩倉との間に、成案上奏の前には内示する申合せがあり、岩倉の不満は遙かに宮以上に強硬で、殊に第一編皇室に関する章、第四編立法に関する章は、根本的に修正の要があるとした。そしてその修正にまた二年以上かかり、明治十三年十二月二十七日に加朱削潤を終った最後案に「国憲艸案ヲ進ムル報告書」と「国憲草〓引証」とを添えて、元老院議長の許に提出した。この時の議長は有栖川宮から大木喬任に代っており、藩士上りの大木は、国体観の適否も有栖川宮ほど厳しくは考えず、一応委員以外の各議官にも諮った上、翌二十八日に三条太政大臣を経て天皇に捧呈した。

 三条は岩倉の意見を徴すると、この修正でもまだ納得しない。かねてから岩倉は「国体に合わぬ点は、先ず各参議をして、各々意見を上陳せしめ、聖断によってこれを取捨し、我が国体に順応する憲法の欽定を仰がねばならぬ。」との強い主張を持っていたので、この元老院案は採択されず、暫く埋蔵せられたままになっていた。そのうち明治十四年三月二十三日、国憲取調局は閉鎖となり、上記の「国憲」の内容はもとより世に公にせられず、否そのような草案が作られたことがあるという事実すら、全く忘失せられ、空しく五十年を経過して、明治が過去の歴史と化し、それらの資料事情が発掘せられ学問として研究が進み始めて、やっと世の中に浮かび出たのである。

 このようなことは大学史の一部でないから、取り上げぬ方がよいかとも思われようが、実は大隈が憲法問題を考え出したのは、恐らくこの時点辺りからであり、しかも大隈が太政官を逐われた明治十四年の政変の前提として、以上の経過を心得ず、今まで世に伝わっている限りの材料で判断しては、あのクーデターは従来考えられている以上の暗黒怪奇の、中世紀的形相を帯びてくること必然である。従って、これは細い線ながら、間接には早稲田学苑の発足に結びつくのである。

五 大蔵省掌握問題

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 大隈重信もこの頃になると、同じくトッドの『イギリス議会政治論』を手に入れていた。終生憲法の番人を以て任じた金子堅太郎の談によると、それは有栖川宮から下げ渡されたトッドの本だということである。有栖川宮は終始一貫して大隈を最も厚く信頼していた支持者だったから、恐らくこれは事実を外れまい。顧みれば、中央政府に召されて以来の大隈が藩閥の大なる後援なくして、よく薩長と肩を並べて、敢えて下らぬ地歩を占め得たのは、むろん個人としてその才幹を欠いては叶わぬことだったが、実は皇族と堂上に最も有力な支持者があってのことだった点も争われない。有栖川宮と岩倉具視である。この二人は、大隈の才幹を重しとするよりも先に、その立場から薩長藩閥を心ひそかに警戒した。その功績の偉大さを認めることに吝かではないとしても、勢いに任せてこのままに放っておくと、或いは薩長が第二幕府となるかもしれぬ薄影がさす。これを阻止するに足るだけの力量を具えた者は大隈以外には見当らない。そこで薩長の目にさわらず機嫌をそこなわぬ範囲で、それとなく大隈の背後を力添えの手で支えた。トッドの『イギリス議会政治論』を手渡して、その研究を進めておくように命じた有栖川宮の胸中には、恐らく、元老院では既に憲法の研究が進んで、試案までできている、大隈を全く聾棧敷に置いたのでは、彼が時代遅れとなって、他日自分らの頼りにならぬ事態が生ずる、と配慮した布石ではなかったろうか。

 俊敏なる大隈は、このトッドの書物の研究に、或いは将来の国運を左右する重大な鍵鑰のひそむことを、一目にして見抜いた。すなわち矢野文雄にその取扱法を託すると、矢野は一方では、出身校・慶応義塾同志の倶楽部なる交詢社を中心として、懇話の形で研究を進め、その成果は後に「私擬憲法案」として発表されて、帝国憲法発布以前に作られた幾つかの「ウール憲法」のうち最も早く世に出で、そして十四年の政変の爆源の一つとなった。他方では、後進中矢野が最も嘱望していた尾崎行雄(咢堂)が、新潟新聞記者としてあたら英才を田舎に埋めているのを惜しみ、東京に招いて統計院に迎え、職務の傍ら、このトッドの書物の翻訳に当らせた。『英国議院政治論』として刊行(明治十五―十六年)せられたのがこれである。

 事いささか余談に属するが、イギリスでは、最長期の議員生活を重ねた者を「議会の最長老」として尊敬する風習があり、グラッドストンが久しくその名誉を保持し、死後に及んでも、欧米各国共に、この記録を破る者はいなかった。しかし日本では尾崎行雄が終戦後まで、九十余年の長寿を保ち、従って議員生活も二、三年グラッドストンを超ゆるに至り、まさに「世界議会の最長老」たる実績を挙げ、国内では明治末期から「憲政の神」と尊称せられた。今や我が議事堂の外郭は尾崎記念公園、尾崎記念会館(憲政記念館と改称)、尾崎銅像で、そこに日本憲政史が象徴せられているが、その発足点となったのは、実にこの書なのである。明治天皇、有栖川宮、大隈、矢野、尾崎と渡ったトッドのこの書は、まことに、我が憲政史の片翼を成す重要性を持つ。

 当時の大隈の心事を考えるに、今筆頭参議として、政治上最高の地位にあり、背後に有栖川宮・岩倉という宮廷の二大有力者の支援を控え、横には参議として双竜とも言うべき伊藤・井上と盟交を結んで、地位が頗る安泰のようであるが、半面から見れば、維新功藩の立ち遅れ者が、幸運にも便乗に間にあって、今や友輩を凌ぎ、甚だ得意の地位にいるのが、癪にさわって堪らぬ者はもっと多く、或いは周辺みな然らざるなしと言ってもいいかもしれない。そこでこの弱点を補強糊塗する策を考えねばならないのは当然であり、大隈がそのくらいの野心を包蔵する人柄であったことは、何人も点頭するところで、これを否む者はあるまい。

 大隈の野心の鋒鋩は、明治十三年三月に、会計検査院を設置したことに現れている。勿論、明治政府ができると、早くからこれに類した役職は設けられ、その頃は大蔵省に監督司というのがあったが、それを検査寮から検査局とし、更にそれを独立させて、会計検査院の新設に、自ら当った魂胆は何であったのか。いわゆる「金が物を言う」からであり、金即実力に外ならないからである。

 大隈は中央政府に出仕の翌明治二年、その頃日本第一の経済手腕家として太政官内に重きをなした由利公正と意見を異にし、とうとうこれを退けて、会計官副知事に就任した。維新に不換紙幣政策で政府の苦しい財政を遣り繰りするのに成功し、「俺は紙屑で天下を取った」と豪語した由利も、贋金処分問題で外国人がねじ込んで来たのは、これまで応対したことのない相手だからさばき切れず、後を大隈が、長崎以来経験を積んでいる外国談判で片づけたので、天下は、漸く時潮が変って、武士は食わねど高楊枝では通用せず、財政の手腕は、薩・長・土の武勲にもおさおさ劣るところなきを悟った。明治二年大蔵省が置かれると、大蔵卿には越前の松平慶永が就任し、ほどなく宇和島の伊達宗城に代った。その下に大隈は大蔵大輔に抜擢せられた。当時、卿には公卿か大名以外には就けぬ不文律があり、大輔が実質上の大臣なので、にわかに佐賀出の新参者の権勢が盛んとなり、風雲の気を負う所在の新人は、伊藤・井上をはじめ、皆その傘下或いは周囲に集まって、いわゆる築地の梁山泊が隆昌を極めたのである。明治三年、大隈は、参議に推薦され、副島種臣、大久保利通、広沢真臣、佐佐木高行、斎藤利行、木戸孝允と並んで、国政の最高担当者となり、更に翌年、板垣退助とともに、木戸、西郷隆盛に伍して、再び参議に就任した。数え三十四歳の、いわば廟堂内では小僧っ子に過ぎぬ大隈が、西郷・木戸・板垣の維新最長老と肩を並べるというのは、まさにいわゆる少年にして高架に登るものとせねばならぬ。そして三条太政大臣の下に四参議が控えて、政機を決し、各省の卿はこれを受けて行政を担当するという制になったのである。

 だから明らかに参議より一段下の役と思われる卿に、この時大久保は自ら甘んじて落ちたのだが、占めた椅子はどこかと言えば、実に大蔵卿である。現政府中、実力第一で、今度の制度改革も自分が中心であり、好きなように組み立てのできる地位にある大久保が、このような、よそ目には控え目とも見える行動をとったそもそもの魂胆は何であったか。彼は、「地球を回転させている者はアトラス(ギリシア神話中の天柱を支える巨人)にあらずして、女だ。」と言ったローマの賢者ペトロニウスの如く、政治力を回転させる原動力は、役柄の上下にあらずして金であり、それを掌握する大蔵省であることを、維新四年の行政経過で、骨身に徹して知り抜いていた。その後如何なる制度の変革があっても、大久保は絶えず大蔵の実力を把握し、たとえ椅子は内務に転ずることがあっても、ここに実力を残し、十分の睨みを大蔵にきかせることに変りはなかった。そして常に大久保の股肱となってこれを助けた者は大隈と伊藤で、親しみと信愛は伊藤の上に若干濃かったが、才腕は遙かに大隈の方に多く認めていた。

 大隈が三傑なき後、第一段階として望んだのは、大久保ほどの権勢を振い得る力を持つことであったが、今や未だ全くそれを充たしたとは言えぬにしても、筆頭参議たる点は、いささか目標に向って橋頭堡を築いたに近い。しかし如何に大蔵が有力だと言っても、所詮は一省に過ぎない。そこで今のような参議と各卿の兼任制度を全廃して、これを分離し、参議はそれぞれ専任を決めて、各省を監督するという新案が浮かび出た。こうなると各省の実権が、卿にあらずしてその上の参議に移ることになる。仮に参議が二省を分担すれば二省を支配し得、三省を分担するなら三省分に実権を振い得る。――この参議と卿の分離案、つまり太政官(内閣)と各省の分離案を、他日その史筆において、辛辣に肺腑をえぐっているのは、竹越三叉の『新日本史』である。これはマルクス主義史学の勃興以前、最も進歩的な立場を以て描かれた最初の明治史として、その道の青年学徒が、皆争うて読んだものである。正鵠を失している点も多いが、その代り、言に抑制なく一匕直ちに核心を衝いている点も少くない。左に引く一節の如きは、当事者の心事を抉摘して、酷辣に過ぐるの弊もなしとしないが、真相に触れて一言の遁辞もなからしめぬ痛烈味もある。

彼れ〔大隈〕参議を以て大蔵卿を兼ぬると雖も、僅かに入つては参議となりて閣議に参し、出でては長官となりて一省を治むるに過ぎず、是れ彼が不満足に思ふ所にして、太政大臣となりて一政府の大権を掌握するにあらずんば、足れりとせざる也。

然れどもその声望、党与、未だ太政大臣たるべからず。已むなくんば此に一策あり、内閣と各省を分離せしめ、内閣中に各分科を置きて、各省の事務を監督せしめ、而して自ら二三枢要の分科を支配せん、是れ名は参議にして、その実一時に二三省の長官を兼ぬる也と。是れ三条、岩倉なほ存し、平民士族を以て太政大臣たる能はざるの当時に於て、政府の大権を握らんとするには、是より他の策なかりし也。此に於てか十三年二月遂に参議の諸省卿を兼ぬるを罷むるの議を提出せり。大隈が此の如き考案を有すると共に伊藤もまた同一の野心を有したれば、この領分切取の策は両人の間に黙諾せられて容易く通過し、外務卿井上馨〔条約改正をひかえ他事を顧みる暇がなかったから〕を除くの外、各省長官皆な専任参議となり、……変革を為せり。

……是れ各省次官の進んで卿となるに似て、実は然らず、各省の権を内閣に運びたりしのみ。而して他の専任参議は左の分科を受けもちて、各省を監督支配せり。

(上巻 二〇六―二〇八頁)

 これは一見、何の変哲もないものに思える。が、よくよく睨んでいると、どうしてどうして、この中からそこに名前の並んでいる諸人物が、肉身を具えて、各人それぞれの心事を語る観があるばかりか、当時の明治史の一部を赤裸裸に展開してくれるような気がするのである。

六 隈藤両雄共通の野望

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 ここに不思議なのは、四部局の専任参議は三人ずつで、二部局だけが二人ずつになっている不平等だが、しかしこの理由は大学史の進行に関係がないから、ここに閑却しても不都合なかろう。

 それより先ず我々の目を惹くのは、大隈が会計と外交を手中に収めていることで、大蔵に次いでは外交が、条約改正で遠からず全政府を動かす急所なのを見抜いたからである。これに次いで伊藤は会計部の他に、大隈の反対に出て内務を占めた。大久保の下で内務行政を担当してきた伊藤は、今後日本は平和になり行くに従い、内務が重きをなすべきを心得て、これに執着することが異常に強かったので、それを見逃しては、後に説く十四年の政変の時、職を賭し、親友大隈を裏切り、発狂に近いほど興奮したのが、分らないであろう。

 それとともに是非ここで頭に叩き込んでおかねばならぬことは、薩長の藩の性格の違いである。遠く関ガ原合戦に両藩とも敗戦したが、毛利の方は中国十州に君臨して、織田信長に拮抗して降らなかった大領土を大半削られて、防長二州に追いつめられ、それからは貧乏世帯の遣り繰りに終始した苦労が骨身に染み込んで、内治を何より重んじ、それに巧みな藩風を築き上げた。その代表的だったのが木戸で、伊藤はそれを継承し、軍人の山県も戦いは拙劣なことで有名で、筋違いの内務に業績を残している。島津家は同じく関ガ原に敗けても、日・薩・隅三州は寸土も削られず、それに幕府から琉球経略を依託せられて、海外経綸の気象を養ってきた。そこで外征と言えば、何を置いても先ず飛び出して行く気象があり、「化外の蝦夷」(蕃民の地)の開拓使には黒田が進んで当り、征韓論には大西郷が全力を賭し、台湾征討は小西郷が殊勲を現した。後のことになるが、日清戦争の連合艦隊司令長官も、陸の第一軍第二軍の軍司令官もみな薩摩隼人であり、日露戦争の時も、海陸合せて十人の最高指揮官のうち、七人までを薩摩で占めている。外征の薩摩、内治の長州という大まかな色分けができる。

 それなのに内務を掌握した伊藤が、同僚に黒田・西郷という薩摩人を選んだのは何故か。それはこの頃の黒田は二世西郷と言われて、権勢おさおさ伊藤を圧せんとしたので、これを無視できなかったからではないか。そしてその扱いにくい黒田の抑え役として小西郷をもってきたように思える。

 西南戦争後は、薩長互いに角突き合いながら、また不思議に遠慮して融和した点もあり、殊に小西郷は、これから一番伸してゆくのは伊藤だと目星をつけて、陰に陽に伊藤を助け、伊藤が窮地に立ち、悪評判を立てられそうな困難にぶつかるたびに、ご一緒に参りましょうと言って同伴役を買って出て、伊藤に降りかかる非難の火の粉を一緒に自分もかぶってやり、その犠牲の半分を背負ってやっている。明治十一年初めて文部卿になった時、自らの無学を嘲って「文盲卿」と言った彼は、その後日露戦争前に死ぬまで、殆どの内閣に大臣として加わっている。そうしなければ何人も内閣が組織できないほど、融和に重要な人物であった。陸軍中将から突然、海軍中将に代えられても平気な彼は、時には文部や農商務のような、全くお門違いの伴食を割り当てられても、酒々落々としてその椅子につき、そして西郷の坐る椅子が、いつでも各省で最も重きをなし、予算でもひとりでに一番豊かに分取った。兄に遠慮して、首相だけは引き受けなかったが、しかし総理大臣以上の大臣だった。これを知っている伊藤はよく左右に向って、「君らには小西郷の価値は分るまい。兄貴の南洲以上の大人物だ。」と言っていた。

 大隈はまた大隈で「小西郷と来たら貧乏徳利のような男だ。酒を入れても、酢を入れても、油を入れても、醬油を入れても、ちゃんとおさまって行くのが摩詞不思議だ。」と、兄の大西郷には必ずしも感心しなかった彼が、弟の小西郷には腹から敬服していた。青年客気の尾崎行雄があらゆる官僚大臣に舌鋒を向けながら、西郷に対してだけは、風当りがおとなしく、柔かだったが、その理由を説明して言った。「あの、とぼけたような返答をして、のらりくらりとしているようでも、実は彼に限って、腹の中ではちゃんと、何もかも分っているのだ」と。

 以上の諸家の各評を総合して、小西郷の人物がほぼ分っていないと、十四年の政変に、伊藤に西郷が同伴を申し出て、大隈に辞職の勧告に来た理由が納得ゆくまい。

 話は本筋に帰って、前記参議と卿の分離を行い、そして六部局を分けてから二日を置いて(明治十三年三月五日)、太政官内に会計検査院が置かれたのである。竹越三叉の『新日本史』的筆鋒を揮えば、大隈がこの機に乗じてその野心を遂げるため歩一歩を踏み出したのだということになる。

 会計検査院は、今日の考えからすれば一個の小役所に過ぎず、その振い得る権力もきわめて小範囲のものであるのに反し、この時は、それと似もつかない厖大な権力を持つ機構であった。と言うのは、十四年四月二十八日「太政官達第三十五号」の「会計検査院職制章程」において会計主任官吏のことを規定して「国庫及ヒ各庁収支ノ決算ヲ審査判定シ当該会計吏ニ向テ決算ノ状ヲ宣告ス」(『法令全書』明治十四年達)とあるのは、まさに役人の首根っ子を押えるようなものである。古今変らぬ役人根性で、多少ともいずれ脛に傷持つ連中だから、いつどんなことから縄つきにならないとも限らぬと、戦々兢々たる身の上である。その上、明治十四年政変前の会計検査院は、予算審査権や決算調製権まで有するほど広大な権限を持っていたから、内閣全般の様子が分る。皆百獣の王たる獅子の前に跪く群獣のように謹慎畏服して、会計検査院の威光を仰ぐ形になり、大隈の「野望」(?)の太政大臣たる実質を収めかかったに、いささか近い。五摂家でなくてはこの役職には就けないので、維新後久しくその地位にある三条実美といえども、九清華の出なるが故に、昔だったら、多少その資格を問われねばならなかった太政大臣だから、陪臣の大隈は、先ずこのくらいで満足して、それ以上の高望みはしない方が安全だったであろう。

 会計検査院が十分の機能を発揮するには、藩閥の芋蔓を使うのは警戒せねばならぬ。旧情縁を頼って、頼み込まれたり、泣きつかれたりすると、つい鋒先が鈍って、思うままに改革の利刃が揮えなくなる。芋蔓でない者を求むれば、学校出以外になく、学校と言えば当時慶応義塾以外は言うに足らない。大隈に次のような談話がある。

小野梓は其時入つたので、梓に命じて条例文を起草させた。それまでは大蔵省の中に検査局はあつたが、これを独立させて大きくし、単に大蔵省のみならず、各省の出入を検査することにした。小野は当時の自由民権家であつたが、大喜びで腕をさすつて起草に着手した。これに先だつて、三田の福沢君とも親しく交はり、其門人連とも接近するやうになり、其門下生を我輩に頼まれたので、此際矢野文雄、中上川彦次郎、小泉信吉を始めとし、漸次に慶応義塾出の秀才が十幾人入つたんである。其内の一番年少が犬養、尾崎であつた。小泉、中上川と云ふ二人は、福沢門下の最も俊才であつた。小泉は少し酒でも飲むと愉快な人だが、どちらかと云ふと学者肌で、学問には忠実で、学力は中上川より勝れて居たやうである。中上川は福沢の甥で、何れかと云へば才幹な方で、井上が三井にも入れて、三井の改革をもやらせたが、不幸にして早世した。福沢門下では経営の才では図抜けて居た。我輩は大分人を知つて居るが、前後を通じて此二人が一番勝れて居たやうである。慶応の優等生で、福沢も最も此二人を愛して居たやうで、英国に留学させ、帰つてから我輩の所へ委ぬるからと云ふので、役人になつたんで、後中上川は外務省にも入つて、書記官位にもなつたんである。小泉は租税局に入つた。後正金銀行の副頭取にもなり、又大分永らく慶応義塾の教頭をして居つたと記憶する。此両人は犬養、尾崎程英雄的でないから、話しも此両人程面白くもない。尾崎、犬養も其頃役人になつたが、矢張り其時から大分手こずらせて居た。これ等の福沢門下の秀才中、唯一人役人にならなかつたのは藤田茂吉であつた。藤田は新聞を行て居たから、それをやらせたらいいと云ふことで、其儘報知新聞に居た。

(『大隈侯昔日譚』 二四五―二四七頁)

まことに慶応出身者が、旧藩時代の古い因襲をたくさん持ち込んで、凝滞沈澱している官界に、若き鮫の子の群のように、生き生きピチピチと泳ぎ込んで、清新溌刺の気を注ぎ入れた景況が想像される。

 そしてこの時、これら若鮫と一緒に泳ぎ込んで、同じような若い力を存分に振撒きながら、別種の尾鰭と色彩を持つので、いわば城楼の棟端から天下を睥睨する鯱にも譬うべき一異材が、大隈もこの思い出話の第一に名を挙げている小野梓である。彼の出現によって、この大学史も漸く核心に迫って来るのである。早稲田学苑の図を引いたのは大隈重信であるが、実際に構築に当ったのは小野梓に外ならない。暫く史筆の流れを中断して、小野像を描き出さねばならぬ。