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第二編 東京専門学校時代前期

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第五章 鷗渡会

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一 東京大学の発足

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 鷗渡会とは恐らく、本大学関係者以外には全く知られていない、ささやかな学生団体だったに過ぎぬ。すなわち初期東京大学の学生の有志グループの作ったもので、卒業すると間もなく解散したから、実際に存在したのは二年に充たぬ。しかもそれが後の鬱然たる早稲田大学を創立し、発展させ、他に中央大学の創立から関西大学の創立発展にまで波及貢献して行くのだから、若き力の偉大さを讃えずには措けぬ。

 そこで先ず東京大学から説かねばならぬが、この大学の名は漢籍の『大学』によっており、同じく漢籍の『小学』の名とともに、苟も学問を志すほどの者だったら、これを知らぬはなく、加えて明治維新は半面復古であるから、古く王朝時代に唐制を模して大学と小学を設けた例のあるのに倣って、これを興す案に異論はなく、幕末に古賀茶渓の始めた洋学所が開成所となったのが、明治の大学の出発点とせられる。故柳田泉の最終講義(昭和四十年一月)が、世から全く忘れかけられた茶渓に関するもので、あの時新聞(『毎日新聞』昭和四十年一月二十七日号)までこの内容を特報したのは、大隈の学んだ佐賀弘道館を主宰した古賀精里の孫だから、甚だ有意義であったと言わねばならぬ。

 この開成所から、大学南校と東校に変貌し、明治五年の新学制令で全国を整然と八大学区に分ってはみたものの、当時の我が国力として、本当に新設できたのは僅かに小学校だけで、中学でさえ建てる余力が全くなかった。東京ではただ大学南校を格下げの形で第一番中学と称し、開成学校と改名し、最後に東京開成学校としたのが一校ある程度だ。そのため文部省直轄下の大学は一時全く姿を消し、却って文部省管轄外の工部省が伊藤(博文)卿の英断により、数等進歩した工部大学校を設立し、学問の水準では遙かに高く、文部省を瞠若たらしめた。しかし佐賀から招いたフルベッキと、文部省がわざわざ学制改革のためアメリカから雇聘したデイヴィド・マレーの尽力により、ここに東京大学が出現したのが、今日の日本の大学の出発点である。

明治十年四月十二日、東京開成学校と東京医学校(もとの大学東校)とを併せて東京大学と称し、前の予科を東京大学予備門とすることになつたのが、正式に大学の名称の起つた最初であり、それが尚実際上に旧のまま開成学校側と医学校側とに別れたのをば、十四年六月十五日、合同の事実を挙げるに定まり、前に法理文三学部綜理と医学部綜理とを置いたのを廃し、東京大学綜理一人を置き、法理医文四学部を管理することになつた。 (三宅雪嶺『大学今昔譚』 三一頁)

 こうして進水した新大学の第三回の入学生に高田早苗(高田は常に「たかた」と名告り、「たかだ」とは決して言わなかった)がいた。説明するまでもなく、長く早稲田大学の学長として令名があり、黄門と言えば水戸光圀の例の如く、学長と言えば高田、高田と言えば学長の観さえあった。高田家の祖先は紀州から江戸に出で、文化.文政の頃には豪商として重きをなし、殊に六代六郎左衛門与清は国学の大家として聞えた。だから高田は代々のこの名家の面影を残し、どこやら眉目清秀、いささか貴公子の風があるので、入学早々、同輩のみんなから、やや長者扱いで重んぜられるところがあった。学生中、最も英文を綴るに長じ、その道に潜心したら、英文記者として大成したろうとの評判が早くから高かった。ある夜本郷の夜店でウェイヴァリー・ノヴェルズの一冊が転がっているのに目を止め、ノヴェルは小説と思うだけの心得はあり、買い帰って一読したのは、義賊『ロブ・ロイ』で、これで初めて西洋にも馬琴の如き読み物があることを発見し、同級生坪内勇蔵(後の雄蔵・逍遙)に勧めて、共にこの類の読物をあさり読んだ。明治になって西洋小説の嗜読が盛んになったのは、この辺りが濫觴と言われる。

 高田の同級に橘槐二郎という学生がおり、昵懇にしていたが、卒業の前年、「君、ひとつ僕の相談に乗ってくれんか」と言う。話を聞いてみると私塾を始めようというのである。それも丸きり根のないところへ作るのではない。暫く閉校していたのを再開するので、進文学社と言って、大分来歴がある。もとは四国高松藩と関係があり、明治初年にそれを藩士の橘機郎というのが譲り受けた。高田にこの話を持ち込んだ同級生槐二郎はその二男である。機郎は医者で漢学者であり、この私塾を設けて、大学東校(医学部)の受験を志願する者のため、外人教師を聘してドイツ語を教えていた。一時は大いに栄えて、幾人かの医界の名家を出している。しかし世の移り変りで、衰微して来たので、遂に閉校したが、今や英語志望者が急増してきたから、大学入学準備校として、今後は英語を中心として再出発したら有望と思えるので、助けてもらいたいとの話なのである。高田は快諾して、友人井原師義を誘い、槐二郎と三人で英語と数学を分担し、橘機郎老人は校長として漢学を受け持った。

 再開当時は、入学者僅かに五、六人であったが、教えるのが新進の大学生で、英語なども他の塾より遙かに正確なのが評判になり、日ましに塾生がふえてくるので、教師もそれに応じてふやさねばならぬ事情に迫られ、高田は坪内を誘った。その頃の大学生は皆貸費生で、贅沢はできなくても不足のないだけの費用は国家から提供せられていた。課外のこの出教授は今のいわゆるアルバイトで、若き大学生教師達の懐をうるおした。

 高田は、大学で聞いた西洋人教師の講義、例えばホートンのシェイクスピア、フェノロサの政治学その他を試みに日本語に訳して話してみると、学生達は海外の新説に目を輝かして聞き入る。高田はこれで、西洋の学問を日本語にして述べても、分らせることができるという確信を生じ、後に早稲田学苑の第一の信条となった「学問の独立」に、計らずも実験的基礎を得ることになった。また坪内は、ユニオンの第四読本を講ずるに、快弁滔々、説き去り説き来たって、倦ませることがない。ある時小犬が迷い込んで来たのを、足許にじゃらしつつ、しかも講義にいささかの渋滞のなかった手際には、学生達も恐れ入った。当時の学生の中で、後に尾崎紅葉の門に入って小説家を志し、更に転じて、インテリ向きの新講談師となった細川源太郎(風谷)は、坪内の英語講義からヒントを得て、将来の講談はかくあらねばならぬと思って、その改革を企画したという。

 進文学社の評判は次第に高くなり、しまいには学生が百五十人を超えるほどの盛況に達した。坪内などは、明治十五年に高田と一緒に卒業するところを、フェノロサの政治学で落第し、もう一年残らねばならなくなった。落第したら貸費の特典がなくなり、大学寄宿舎も追い出されるので、その費用を稼ぐため、非常に多くの時間を受け持って、その俸給で窮境をしのいだ。

 この眇たる書生仕事が、後に天下知名となった人士を多く出している。司法大臣の原嘉道、東京帝国大学文学部長三上参次、天下四大記者の一人と言われた朝日奈知泉(碌堂)、硯友社の小説家川上亮(眉山)、石橋助三郎(思案)など、縷指するに堪えないほどである。それは結局、高田、坪内その他の素人教育法が、その大学生時代の若い頃から優れていたということに外ならない。後に高田、坪内は、同学の天野為之とともに東京専門学校の看板教授三尊として名声が高く、明治四十年の早稲田大学創立二十五周年式典の時には、大隈家から特に感謝の金一封を贈って、永年の労をねぎらったのは、外部世間にも聞えて、いろいろ漫画にまでなって、讃えられている。

二 都鳥

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 この進文学社を教えている中に、高田・坪内は小川為次郎という人と知り合った。橘槐二郎の兄、顕三の懇意にしていた友人だったところから、二人と年は大分違ったがいつの間にか友交が深くなった。正規な学問はしていなかったけれど、独学で各方面の素養を積み、和文に造詣が深いので、坪内などは処女出版の『春風情話』(スコットのTheBride of Lammermoorの訳)を添削してもらった上、序文まで乞うて載せている。小川にはまたそうした文学趣味とは似ても似つかぬ実務的才能もあり、統計学を好んで、日本におけるその学の開祖杉亨二について教授を受け、それを以て統計院の官吏となったが、その友人であったのが年若き小野梓である。小川は彼に心服し、その為人の高尚なこと、欧米で修めたその学殖の淵博なること、その論議主張の卓抜なることなど、嘖々として高田・坪内に説いてやまなかった。

 小川はまた小野梓に向って、できて間のない東京大学は、日本の最高学府と自負するだけあって、各藩からさすがに優良な学生を送っている、一般の私塾学生などの比でないと話すと、小野は急に興味を動かし、「ひとつ会ってみたい。君、連れて来てくれんか。」と言ったので、役所を下って高田にこれを報ずると、こちらも大いにそれを望んだ。その初訪問を高田は「明治十四年の二月であつたと思ふ。」(『半峰昔ばなし』六八頁)と言っているが、小野の『留客斎日記』三月八日の条に「寒。大雪、震。朝、帰途入衆館、与小為話。」とあるのが、「どうも小野と小川とが大学にゐる新人物を捉し来つて、新たに一つの会合を作らうといふ相談であつたらしい。」ということである(西村真次小野梓伝』一一八頁)。この時代は新暦は僅かに官庁や新聞雑誌の日付のみで行われ、一般にはまだ旧暦の方が常識として慣用せられ、高田は旧暦で記憶し、小野の日記はみな新暦によっている差異かもしれない。

私が小野さんに初めて面会したのは明治十四年の二月であつたと思ふ。当時小野さんは三十を越えた位の年配であつて、私は二十二歳の青年であり、大学文科の一学生であつた。私は初めて小野さんに会つて大いに啓発される処があつた。私は此時迄外山さんとか浜尾さんとかいふ学校の先生以外に余り先輩に面会した事はないし、且つ其人々は大体に於て教育界の人であつた。処が、此時私は初めて所謂政治家的風采を備へた人物に面会したのであるから、先づ以て頗る珍しいといふ感じがした。小野さんは身長も高くないし体軀も痩せて居て、所謂堂々たる風采を備へて居る方の人ではなく、又美男といふ柄でもなかつたけれども、何処となしに威厳のある人で、疎髯を蓄へ、余り大きくはないが、光りのある眼を有つて居る人であつた。其弁舌には可なり土佐なまりがあり、極めて雄弁であつた。其談ずる処は天下の大勢であり、又当時に於ける政治界の消息を洩してくれられたのは、私に取つて生れて初めて聞いた事であつた。小野さんは大隈、伊藤の両先輩を評して、才幹に於ては相伯仲すると言つてよいが、胆勇に於ては大隈氏遙かに勝り、而して大隈氏の長所は財政と外交、伊藤氏の長所は寧ろ立法であるといふ様な事を私の耳に入れた。そんな話は無経験な私に取り、頗る珍しかつたのみならず、其の態度、言ひ廻しは、今迄大学で教授を受けて居た先生達とは頗る趣が異つてゐた処から、忽ちにして小野さんに対する憧憬の念が私の胸中に充満するやうになつた。……そこで私は大に喜んで大学の寄宿舎へ帰り、段々物色して六人の学友に其話をした処が、何れもそれは面白いといふ事になり、此人々を連れて再び小野さんを訪問し、種々相談の末鷗渡会といふ会を開き、毎週一度橋場の突当り、真崎といふ処の小野さんの家に会合する事になつた。 (『半峰昔ばなし』 六八―七〇頁)

この六人の仲間の中に、最も親友だった坪内雄蔵(この頃は勇を雄に変えていた)が加わっていないのを見ても、親疎を標準にして人選をしたのでないことが分る。

 その頃大学では、気の合う同志が数人ずつ寄り合っては、小さなグループを作り、会名または社名を付して、親睦し、対峙した。折から三田台上に新機運が興り、従来日本語では西洋流のspeechはできないというのが定論だったのを覆し、福沢諭吉はこれに「演説」の訳語を付して、自ら試演してみると、先ず明六社がこれに応じ、共存同衆がいよいよこれを洗練し、前後して自由民権運動の武器となって、都鄙を通じて演説の聞かれぬ所なく、その速かな伝播は、同じ時期の石油ランプの流布を凌いだ。大学では、演説と言えば、初め英語でするのが通例だったが、忽ちこれが学内に流行し、各グループ自ら弁者となり、また自ら聴衆に代りあって、互いに競争した。

 高田がそれらの中から物色したのは、岡山兼吉市島謙吉山田一郎砂川雄峻山田喜之助天野為之で、岡山、市島、山田(一郎)は共話会、砂川、山田(喜)は戊寅社、天野と高田自身は晩成会に属していた。みな後年、天下有為の人物となったのは、蓋し選択がその当を得ていたからであろう。

私が当時、自分の会である晩成会の人の中からのみ見付け出さないで、戊寅社、共話会などの他の方面からも人を誘つたのは、私の幼稚な頭にでも、人物選択といふ事の必要を感じた為であるので、我ながら感心であつたと窃かに思ふのである。

(『半峰昔ばなし』 七〇頁)

と言うのは、決して自讃に失するものではない。当時高田は二十一だから、大学生は大体その前後であり、小野は三十歳の壮年期に入る直前であったが、彼ら学生の中に、何か新しく頼もしい力の動いているのを見逃さなかった。

 更に小野の発議により、「君達は大学に於て、政治経済といふ様な当世必要の学問をして居るのであり、自分は又実際政界に身を置いて君達の知らぬ事を多少知つて居るから、……一週一度会合し、互に智識の交換をしよう。」(同書六九―七〇頁)ということが決まった。鷗渡会がこれである。名だけははなはだ風流で、江戸の芸事を稽古するのか、発句の宗匠を囲む会とでも思い違いをせられそうだが、実は小野の住居が橋場の「鷗の渡し」の傍にあったので、それから思いついたのに過ぎぬ。また当時は政治的な秘密会に政府の目が漸く厳しくなり始め、若い者の集合となると、どんな疑いの目を以て見られるかも分らない点を顧慮して、特にこの名を選んだとも思える。その鷗の渡しの名は、世によく知られた在原業平の、

名にし負わばいざ言問わん都鳥

わが思う人はありやなしやと

に由来すること今更説くまでもない。或いは浪曲まがいの書生節の、

沖とぶ鷗もここに来りや

名を改めて都鳥

というのが、学生間にもよく吟じられたから、乱暴者の大学生も、「ここに来りや」小野を囲んで一かどの国士気取りだという心意気を、鷗渡会の名称に暗に含めたのかもしれぬ。

三 Second bestかAll or nothingか

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 昼間は、小野には政府に出仕しての仕事があり、学生にはまた大学の課業があるから、毎週一度の会合は、いつも夕方からである。一ッ橋にある大学から、隅田川の橋場までは相当の道のりがあり、勿論唯一の文明の利器の人力車に乗るには懐が空しくて、いつも歩くのだが、この日の来るのが待ち遠しく、足の疲れなどはちっとも感じなかった。しかし談論に花が咲いて、しばしば夜更けに及び、門限の時間に遅れ、こっそり裏の塀を乗り越えるような反則を犯すのは毎度のことであった。何をそんなに毎週、熱心に話し合ったのか、記録がないから詳細なことは分らぬが、岡山兼吉の伝記に見られる左の如き記事により、その一端が知られよう。

鷗渡会の面々は固とより情実的に団結せるに非ずして、主義の同じき処より一味となれるものなり。今ま其の要を摘んで之を云はんに、小野氏は英国留学中よりして「ベンタム」氏の実利主義を好み、世上の進歩は感情上に之を押通すべきに非ず、必らずや着実の手段と善良の方便とを以て之に処せざる可らずと云ふの説なり。高田、市島、天野諸氏は其の学窓に得たる所の第二最善主義(セコンド・ベスト・プリンシプル)を執り、社会の改良には夫れぞれ秩序の追ふべきものあれば、常に第一最善の意見を貫かんとするも、及ぶ可らず、止むを得ずんば第二最善主義に由りて其の次なるものに満足するの必要ありと唱道し、而して君が平生より保持し来れる所の漸進主義、即ち寸を得れば寸を守り、尺を得れば尺を固め、決して急進せず、決して停滞せず、着々運動して怠ることある可らずとの意見は、正さに諸氏の説と異趣同工たるに由り、茲に自然の主義上結合を成就せるものなり。 (『梧堂言行録』 九二―九三頁)

 小野がイギリスで蘊蓄した功利主義学説を述べたのは、さもあろう。しかしSecond best principleに至っては、自らも説き、伝記家の中にはもともと小野本来の主張であったように説いているのもあるが、実は鷗渡会で東京大学生から得た知識であること、前文の引用その他によって否定すべくもない。が、いささか疑問の残る言葉で、Secondbestというのは「第二位、次善」などの訳語がある語句で、用例は古くシェイクスピアの作品にも見え、英和辞書にも載っているが、Second best principleとなると、さすがのOEDでも検索できない。或いは大学のアメリカ教師が使った当座の新造語であったかもしれぬ。多分日本の現状では、何をするにしても、政党の結成も学校の設立も、思うようにはできないのを見越して、手持ちの材料で作るには、セカンド・ベストに依る外ないから、小野は将来を見越し、喜んでこの語を借用したのであろう。しかし如何に便宜でも、建学の大方針、或いは憲法の論稿には、低調平俗過ぎるので、小野は、開校式で示した学問の独立その他を高唱する方針にも、大著『国憲汎論』にも、この語を用いておらぬ。特に青年を率いるには、よろしくクラークのBoys, be ambitious!でなくてはならぬ。だから後年我が大学の校歌においては、「現世を忘れぬ久遠の理想」と言い、自然主義の全盛時代に作られた面影を前八の句に留めても、後八においては最高の目標としては久遠の理想を掲げるのを忘れていない。この頃早稲田文学科はイプセンを拡める急先鋒となり、彼の『ブラント』中に唱えられたAll or nothingまたはGanz oder nicht(一切か皆無か)は、当時の学生の心から愛誦した言葉だから、たとえセカンド・ベストで出発しても、そのプリンシプルはここで踏みにじられたであろう。ただし進水の前夜、こうした着実な顧慮があったことは、勿論甚だ有意義と考えてよい。

四 大隈は慶応、小野は東大

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 その外にどんな相談をしたかさぐりようはないが、小野の持っていたアメリヵ政治論の知識は、鷗渡会の大学生を仲介として得たものではなかったかと考えらるる節が多い。小野がイギリス功利説に通暁し、また摂取したことは、諸研究家の公論であり、遺著がこれを有力に立証するが、少くとも帰国後最初の著(すなわち鷗渡会以前)なる『羅瑪律要』を見ると、ベンサムを縦横に引いて、その方面の知識の並々ならぬことを思わせる以外、アメリヵ関係書の引用・言及は全く見られない。しかるに最終の大著『国憲汎論』においては、イギリス功利説を主軸として自己の意見を展開しながら、しばしばリーバー、ウルジーなど、アメリヵ諸学者の説を自在に解説し、引用し、ベンサムその他の説を補い、或いは弁駁しているのは、帰国後の修養になるものと思われる。もとより小野も一年近くアメリヵに在学したのだから、リーバーの名前と著書ぐらいは耳に入っていたであろう。しかし法律を専門に独修したし、また当時の諸学力から推して、そんなに広汎に多読できたとは思えないから、鷗渡会を通じて、フェノロサが政治学の講義中に紹介した諸学説の内容を知り、自分も勉強したのではないかと考えられる根拠は強い。同時に小野は『羅瑪律要』には見られぬモンテスキューやルソーその他の学説をも『国憲汎論』の中には掲げているが、これはイギリス功利説の諸書にはしばしば現れる名前だから、ロンドンの下宿に攻学しつつある時から、心に留めていたに違いなく、鷗渡会員からの示教を待つまでもなかったであろう。

 いや、小野梓が鷗渡会同人から感じたのは、一、二の学説より寧ろ、新しく発生しつつある「学生」という若きジェネレーションの頼もしさである。その新ジェネレーションの中でも特に、東京大学である。そしてその外の「学生」は一切顧みなかった。日本第一の慶応義塾さえも。大隈は、小野と同じく学校ならびに学生に着眼しながら、福沢に相談して、慶応出身の俊才の大群のみを自家陣営に誘致し、官立の、更に言えば自分の統率下にあるとも言うべき太政官文部省直轄の東京大学は無視した。

 蓋し、小野は東京大学が、さすがに英米人の指導の下に、他に類のないほど整備され、よく順序立って、ダーウィンやスペンサーなど、イギリスの産業革命の蒸気の力と鉄槌の響きの中から生れ出た世界最新思潮と呼応する学問を教授しているのを尊重した。大隈はまたこれに反し、慶応義塾が幼少年から大学級に至るまで、雑然として包容する幅と庶民性を重んじ、この雰囲気の中から、新しい日本が巣立つことを期待したのだ。

 この二系統の、言わば人工的と、自然発生的のパターンは、共に東京専門学校ひいては早稲田大学の性格を作るに、払拭し難い痕跡を残した。官学一点張りと、私学一辺倒がここに総合せられたわけである。早稲田学苑は、東大の分家、慶応の弟分たる血族的関係にあると言ってよいのである。しかし大体において、鷗渡会以下の東大派がより多く東京専門学校の出発に、そして矢野を先頭者とする慶応派(犬養、尾崎、箕浦勝人その他)が政党の結成に重きを置いたことは争われない。

五 一政党とは何か

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 何しろ、この鷗渡会結成の年は明治初期政治史中、最大事件であった、いわゆる十四年の政変と同じ年だが、その政変の直接の発端は、この三月に大隈重信が上奏した立憲政体に関する意見書である。この事情に関しては研究家によって諸説紛々、それを一々詮議するのは筆墨の濫費だと信ずるため、ここには宮内省編修の『明治天皇紀』第五の記述を、一応の典拠として掲げておく。

初め明治十二年十二月参議山県有朋立憲政体に関して建言す。天皇各参議に命じ、立憲政体につき各々其の意見を上らしめたまふ。黒田清隆・山田顕義・井上馨・伊藤博文等相次いで之れを上り、寺島宗則・西郷従道は意見なしとして之を拝辞す。是こに於て、御前会議を開き、有朋等の建言を討議することとなりしが、之れに先立ち、各参議をして予め協議を為し、各自意志の疎通を図らしむべしとの議あり。而して重信、首席参議たるの故を以て今年〔明治十四年〕一月以来専ら其の事に当れり。然るに重信未だ自己の意見を上らざるを以て、左大臣熾仁親王に勅して之れを促さしめたまふ。重信答へて曰く、御前会議を開かせらるるの時に於て親しく上陳せんと欲す。書は啻に意を尽さざるのみならず、或は外に漏泄するの虞ありと。天皇聴したまはず。是に於て是の月重信、親王に由りて意見書を上り、且請ひて曰く、是の書、奏覧を経ざる前、参議は勿論太政大臣.右大臣にも示さるることなかれと或は謂ふ、太政大臣・右大臣以外に示さるることなかれと。親王これを諾す。 (三〇八―三〇九頁)

大体は世間に伝わっている通りであるが、さすがに宮廷内の禁秘の材料を用いているだけにニュアンスにおいて違いがあり、殊に「或は謂ふ」で、太政大臣(三条実美)、右大臣(岩倉具視)には示してもいいということを婉曲に匂わせていることを付記したのは、他書に見えぬところだが、或いはこれが真相を得ているとも思える。

 いわゆる明治十四年の政変は、アラビアン・ナイトの漁夫が壺の蓋をあけたら、中から雲の形に乗って大悪魔が飛び出したように、我が政界の空を掩うのだが、その説明は次章に譲るとして、世の自由民権論に迫られて、立憲政体問題は天皇の座前まで迫って来ているのである。これを念頭に置いて、小野の『留客斎日記』を読んでゆくと、それから五ヵ月余過ぎた八月の二十日の条に左の記事を発見する。

此日小為・高早等来話、決樹立一政党之議。

この「一政党」の文字こそ、意味深長である。この時はまだ日本最初の政党と言われる「自由党」の結成(明治十四年十月十八日)以前だから、その対立党である改進党とは関係があるのか、ないのか。

 仮に改進党はまだイメージもできていなかったとすると、政党の字が生じた語源から、歴史的に究めてかかる必要がある。明治天皇が天皇学の第一歩として加藤弘之に講ぜしめられたブルンチュリーの『国法汎論』(講義は明治四年末から始まり、出版は明治八年完了)の一節に、

文明開化国ニテハ、政治方法ノ議論ニ就テ、衆民中ニ数党派分シ、各其是トシ可ト思フ所ヲ主張シテ、相競ヒ、以テ遂ニ政令ノ方向ヲ変ゼシムルノ勢力アリ。之ヲ政論党派トイフ。(圏点新付) (巻八下 一五頁)

という訳注を、進講者の加藤弘之がつけている。これを縮めて政党の語ができたのである(尾佐竹猛『明治政治史点描』六八頁)。そして土佐の「愛国公党」(明治七年)、同じく土佐の「立志社」(同年)、この有力者達が大阪に出て作った「愛国社」(明治八年)、「国会期成同盟」(愛国社が明治十三年四月、大阪の大会で、同盟二十七社、二府二十二県、八万七千余人の総代百四十名が集まり、愛国社を改めてこうした)、「大日本国会期成有志公会」(明治十三年十一月、前記の同盟を東京に移し、政府が請願を受けつけないのでその善後策を議し、初志の貫徹を期した)を、尾佐竹は自由党誕生以前の「ウール政党」として挙げている。小野が鷗渡会同志と議して設立を期したのは、この式の「ウール政党」に留まるものだったであろうか。

 しかし大隈が天皇に奉った意見書には、既に立憲政治は政党の対立なくしては行われ難いことを力説している。小野がその起草者でないことは明瞭だが、その成稿を示されていたのは一点の疑問もないし、第一、その文は主として矢野文雄の筆になったが、小野も参加し、若干としても刪潤を加えたに違いないとは、今日多くの人々により想定せられているところである。この大隈参議が敗れて、改進党の誕生となることを思えば、或いは小野の日記の一政党というのは、改進党の胚芽の一つとして認める方が正しいかもしれぬ。改進党は消滅して、一世紀に垂んとするが、早稲田学苑とは双生児の兄弟であった。

六 陰謀熟す

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 これより半月前(七月三十日)、明治天皇は東北巡幸の途に上り、埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、岩手、青森、小樽、札幌、室蘭、函館を経て、弘前、秋田から山形に出て、十月十一日に還御があった。盛夏酷暑の時期から、楓葉霜に嫁して紅を帯ぶ全二ヵ月半、陸路の旅としては、こんなに月日を費やされた例はない。

 出立ちから疑問を含む計画で、実は天皇はこれまでにほぼ日本全国に巡幸せられたが、未だ山形県民は天顔を拝する機を得ていないので、そちらに回るのが主目的だということで、現にこれは「山形行幸」という名称がつけられているのである。それだったら、東山道を通り、わざわざ北海道までも旅程を伸ばしてから山形に出らるること、無用の迂回ではないか。当時の時勢はそんな時間的余裕があるほど、平穏ではなかった筈である。

 更にその供奉の者を見ると、二品北白川宮能久親王と有栖川宮左大臣の筆頭はいいとして、その次が参議大隈重信と同大木喬任と、二人とも佐賀出身者が選ばれたのは、いぶかしい。常識的に当時の時勢では、勢力の微妙な傾斜を防ぐ均衡上、ここには薩長の参議一人が選ばれねばならないところである。この二人が出て行った留守に、佐賀には耳に入れては悪いような相談でもなされるのではあるまいかとの疑問が起る。

 更に目を見張るべきは、参議黒田清隆、内務卿松方正義両薩摩人が供奉に選ばれながら、一行と同行せず一足先に出発して待つことになっている点である。黒田は北海道開拓使長官であり、また北海道の開拓には薩摩が主力をなしている故、この人選は当然であり、更にこれが平時なら大隈は黒田といささか親善であり、松方はいわば大隈の後輩として大隈の引き立てを蒙っているので、不思議をさしはさむ余地はない。しかしその北海道開拓使は、政府が十年の歳月をかけ、一千四百万円を投じた北海道十一州の官有物を、薩摩の一政商五代友厚らの関西貿易商会に僅々三十八万七千余円で払下げることとし、これを太政官に諮ってもどの参議も反対せず、僅かに大隈一人が異議を唱え、有栖川宮も同意をしなかった。その黒田と大隈が北海道で顔を合せねばならぬ順序となるが、一体、こういう予定を組んだ内意はどういうことか。二世西郷の称ある黒田は、薩摩の軍力を背景とし、「おハンごつ、薩摩鍛冶の切味を御賞味にお入れ申そか」と口癖のように言えば、長州派もこれを憚って反対態度に出るを得ず、慴伏せざるを得ぬ。しかも黒田は兇暴激情で、理性を逸脱することが珍しくなく、後のことだが、乱酔のあまり日本刀を振って、夫人を斬り倒す事態を引き起し、政府が闇に葬って社会の前にはもみ消したというのは、噂ではなく、今日では誰もこれを疑う者はない。大隈がいかに弁舌の才に勝れていても、その彼との対決をどう収めるか。

此時政界は、征韓論以来の大政変といはるる風雲将さに起らんとし、その直接原因たる北海道開拓使官有物払下事件の物議が、醸成しかかつたときで、その当局者たる黒田と、その反対の首領と目されたる大隈とが、何気なく共に供奉して居るのも一奇観である。 (尾佐竹猛『明治の行幸』 二四八頁)

 こうして薩州閥から狙われている大隈は、また長州閥からも恨みを抱かれているのである。これより先三月に提出した大隈の意見書は、ひそかに伊藤の知るところとなって、怒りを心頭に発した。岩倉がなだめて、伊藤も一応は釈然として事情を了解したようではあったが、今や彼は長州派の冠冕だから、彼を囲む閥力が承知せず、是が非でも二人を激突させ、目ざわりの大隈とその同類を根絶やしにしようとの魂胆が隠されている。

 大隈はそれらのことを知るや知らずや、もとより聡明な彼であるから、全くこれらのことに無知なるほど鈍感でなく、といってそれに対して水も漏らさぬ策を講ずるほど緻密でもなく、伊藤は兵庫県知事に過ぎなかったのを、自分が中央政府に呼んでやった後輩、黒田が激した時の狂暴は手に余るが、根はまことに好人物で御し易いと、生れつきの呑気さから、この事態の重大さを量るに大きな誤算があったのは免れない。

 二ヵ月半の留守中に陰謀は全く熟し、天皇の千住還幸を機に、巨人の嘔吐の如く、噴火山のラヴァの如く、或いは原子爆弾の茸雲の如く、一瀉千里の勢いで、吐き出されたのがいわゆる明治十四年の政変である。大久保横死後、実質的に大隈内閣になってから四年間に凝滞したものが一掃され、そのストレスから発生したものが、国家的には明治二十三年を期しての国会開設詔勅であり、大隈をめぐっては改進党の結成であり、また東京専門学校の開設である。明治十四年の政変に検討を加えないでは、早稲田学苑の誕生の経緯は到底分らないから、その経過を尋ねよう。