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第二編 東京専門学校時代前期

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第十五章 学苑内外の活動(一)

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一 同攻会の成立

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 本学苑草創当時は、講師・学生を合せても百名を超えず、また学生の大半は寄宿舎生活をしていたから、師弟の仲は親子の関係もただならぬものがあった。日夜生活を共にし子弟朋友間にいささかも隔絶するところがなかったから、談論風発、時には口角泡を飛ばし、拳を振回すことさえあった。そのため論理が飛躍して、学問や知識の領域を逸脱する場合もある。そこでこの欠点を是正し、正常な知識を交換し、更に学術を攻究し、併せて相互の交誼を一層深めんとする声が学生間に起った。すなわち、明治十七年一月、これらの学生有志達は一つの会を起し、この目的を達成せんがために、学生はもとより講師.評議員にも呼びかけたので、忽ちにして六十余名の賛同を得た。そこで法律学科の上野喜永次、昆田文次郎ら数名が中心となり、仮規則を定め、会名を以文会と仮称し、一月二十日本校の講堂において発起会を開いた。原案は大体承認されたが、たまたま規則第四条の書籍購入の件で議論が沸騰し、諸説紛々として止まるところを知らなかったので、余儀なく先ず調査委員を選び、購入すべき書籍の種類を審査し、その後においてこの問題を決めることとした。この結果、選挙により調査委員を選んだところ、前記上野、昆田の外、法律学科から小泉清志、賀来佐太郎、政治経済学科から鈴木熊太郎、斎藤和太郎の六名が当選した。そこでこれらの委員は手分けして府下の書店に当り調査したところ、仮に創立資金を二百円とすれば、その四分の三を以て新刊書を、残りの四分の一を以て原書を購入することができるという結論に達した。よって一月二十九日第二発起会を開き、この調査結果を報告して承認を得、更に創立資金募集の方法を協議したすえ、賛成者二百名を募り、一人につき六十銭ずつを醵金せしめて総額百二十円を得、残額八十円を篤志家の寄附によって調達することにし、他に維持金として各会員から毎月十銭ずつを出資せしめることにした。こうして最も根本的な資金問題の見通しが立ったため、第三発起会を二月六日に開き、仮規則の残部と創業手続等を定め、更に創立に関する実行委員として、先に挙げた六名の調査委員の外に、法律学科の岸小三郎、黒川九馬、中山和吉、政治経済学科の岡田庄四郎の四名を加え、合計十名を選んだのである。創立委員は二月八日と九日の両日委員会を開いて仮規則の辞句を修正し、条文の配置を整え、次いで十三日には、右規則中で本校に関係ある条項の許可を得んがため委員連名でこの許可願を作り、規則案に発起人の名簿を添えて学校長に提出した(『同攻会雑誌』明治二十四年三月発行第一号「同攻会沿革」二九―三〇頁)。そこで大隈校長は二月十五日に役員会を開き、以文会設立許可願について諮問したところ、満場一致を以てこの計画に賛同の意を表し、直ちに右規則取調委員として、高田早苗山田喜之助田原栄の三名を挙げ、規則修正の作業に従事せしめた。かくて規則取調委員は同月二十四日創立委員を呼んで修正の個所を指摘し、且つその理由を説明して一応仮規則をこれに返付した。委員は会員を集めて討議に入ろうとしたが、たまたま定期試験の時期に際会したので余儀なく発起会の期日を延ばし、三月上旬に至って実質的な討議に取り掛かった。規則取調委員が修正を要すべき個条として指摘したのは、一、名称の変更。以文会という会名は他にも数多使われているからこれを改めること、二、会計事務について。原案によれば、会の会計事務は本校の会計係に委託することになっているが、これは原則として会の委員が掌るものとすること。ただし現金は本校の会計係に預託すること、三、書籍縦覧規則。仮規則に定めた如上の規則は、本校のそれに従うこと、四、効力の発生。本会の規則のうち本校に関係あるものは、これを本校に届出てその承認を得た後に効力が発生すること、の各項であった。

 右の学校当局が提示した修正案については異議を唱える者もあったが、ほぼこれを受け入れることにし、会名もまた「共同で学術を攻究する」という意味で同攻会と改称した。こうして三月中旬には規則も完備したので、これを本校の掲示板に公示した。不幸にしてこの原始規則は未だ発見されないが、上述の経過によって、その大綱はほぼ察知できるだろう。一般の例に従えば、㈠会名㈡目的㈢事業㈣役員㈤会員㈥会費等がそこに盛られていることは明らかで、その中でも会費の徴収と事業中の「書籍縦覧」が先ず最初に手をつけなければならないものであった。そこで委員は手分けして同攻会の趣旨の周知徹底方に全力を挙げ、会員獲得に奔走し、学生に対する入会勧誘ばかりではなく、評議員、講師から、更に本校に関係ある学者名士の門まで敲くほどの精力的な活動を展開した。この運動は日を逐って成果を挙げ、四月七日には予定した創立資金のおよそ三分の一の六十余円を集めることができたので、直ちに書籍の購入に着手し、同月十日創立委員は先に調査しておいた東京府下の各書店に当り、政治・法律に関する最も必要な書物二十七部百四冊を購入することができた。これより先、本会の趣旨に賛同した前田健次郎は、その蔵書中より書籍三十部五十八冊を寄附し、また会員の中からも寄贈者が出たので、予期以上の成績を挙げることができた。そこで取敢えず仮の会員証を作り、四月十五日から書籍の縦覧を始めた。

 事始めの成果に気を良くした創立委員は、更に勇を鼓して創立資金の募集に奔走したところ、いよいよ好成績を収め、五月十日には新書二十一部百九十八冊を追加することができた。かくして会を運営する準備が整ったので、発会式を挙行することにし、五月十五日に総会を開き、式次第や式当日に提出すべき原案についても議決した(『同攻会雑誌』明治二十四年四月発行第二号「同攻会沿革」二九―三〇頁)。『早稲田大学沿革略』第一の五月十五日の条には「校長同攻会ノ会則ヲ承認ス。」とあるから、この日学校当局から正式に会則が認められ、また発会式挙行の件も許されたのだろう。

 以上の如く発想よりおよそ半年を経過し、その間紆余曲折があったが、遂に六月二十二日その発会式を迎えることに成功した。当日来会する者、来賓、会員を合しておよそ三百名。主なる来賓は大隈重信、河野敏謙、前島密、北畠治房、鍋島直彬、小野梓矢野文雄島田三郎、肥塚竜、犬養毅、田口卯吉らで、田口、犬養、肥塚の三名は祝辞に代える演説をした。またこの時、創立委員会で練られた左の三条の原案も異議なく承認された。

第一 爾後本会は、唯書籍の縦覧のみに止めず、盛んに演説討論会を開きて会員の智識を研磨する事。

第二 本会は、毎月文章会を開きて各自の筆力を養ふ事。

第三 書籍借覧規則を設けて、広く同志者より書籍を借り受くる事。 (『同攻会雑誌』第二号「同攻会沿革」 三〇頁)

式後引続いてその場で祝賀会が開かれ、同攻会から一同に酒肴が配られ、歓談に時を過ごした。

 越えて同年九月委員会を開き、爾後毎月会合して本会の事務報告をなし、必要に応じて会則を修正し、また委員の改選を定め、翌十月には、この決議に基づき更に本会の主義を徹底せしめんがため、学術上の雑誌を発行するとともに、演説・討論・文章の会を起さんことを定めた。次いで翌十八年一月、会則の事業中に、公衆を集めて学術演説会を開くこと、各地に支会を設け主として学術研究のための講義をなすことという二条を追加した。これによって先に決定された学術雑誌発行の準備が整い、三月十日を期して機関誌『中央学術雑誌』第一号を発行した。

 同誌の巻頭の例言は、

一 同攻会ハ、東京専門学校講師得業生学生、其他東京専門学校ニ縁故アル法理文三学篤志ノ人々ノ会合ニシテ、本誌ハ以上諸氏研磨ノ論説及ビ記事等ヲ掲載スル者ナリ。

一 本誌二十部以上ヲ購求スル地方ニ於テ、研究会ヲ組織シ、本会々員ノ臨講ヲ請フ者アラバ、其請求ニ応ズベシ。

一 本誌掲載ノ論説ニ関シテハ、質問ヲ辞セザル可シ。

一 本誌ハ毎月二回之ヲ刊行シ、十日二十五日ヲ以テ発行ノ定日トナス。

と定め、販売価額は、「壱部金十銭。五部前金四十六銭。十部前金九十銭。廿部前金壱円七十銭。三十部前金弐円四十銭。」とし、代金払込み方法は、

遠国逓送ハ、此外ニ郵便税申受候。売捌所ヘハ別ニ割引致候。本誌ノ前金相切候節ハ、同業申合規則ニ因リ逓送ノ儀見合セ候儀モ之アルベク、万一滞金ニ相成リ御催促ニ及候共、御送金無之時ハ不得止郵便先払ヲ以テ御掛合可申候事。前金御送付ノ節、為換御取組被下候ハバ、内神田佐柄木町郵便局へ宛御振込奉願上候。若又為換等御不都合ノ御地ハ、郵便壱銭切手ニテ御送金被下候テモ宜敷御座候。 (『中央学術雑誌』明治十八年五月十日発行第五号 表紙の次)

とした。

 なお奥付によれば、持主兼印刷人天野為之、編輯人楢崎俊夫となっているが、発行所は東京専門学校内同攻会ではなくて、東京神田区雉子町三十二番地団々社支店となっており、他に大売捌人として東京叢書閣、大阪此村彦助、西京福井源次郎、横浜角田屋貞の名が挙げられている。このうち団々社は、明治初期の漫画新聞である『団々珍聞』の発行所で、この新聞が広く世間で愛読されたところから特に有名であった。従ってこの社をはじめ各地の有力な書店を売捌人に指定したのは、いわゆる市販として広く頒布せんがためこのような方式を採ったものであろう。因に第一号は四六判四十ページ足らずの小ぢんまりした冊子で、その内容を紹介すると次の通りである。

論説)

翻訳)

雑録 ∫ 記事)

 これと時期を同じくして、先に定められた決議に基づき、引続き演説講演会を開催した。先ず同年三月二十二日には、牛込筑土八幡境内の松風楼で大会を催し、小川寅六(法)が委員総代として十七年十月から十八年三月までの事業報告をなし、会長山田一郎は入会者を増加すべき案を提出してこれを討議し、次いで委員の半数が満期になっているので改選を行い、新たに講師山田喜之助天野為之、法律学科学生栗山宗享、宗方文三、松田正定が選ばれた。かくて演説に入り、山田一郎が「マルチン・ルーザー伝」を、天野為之は「鉄道ノ架設ハ人民ノ自由ニ任スベキ乎、政府之ニ干渉スベキ乎」について、また前橋孝義は「マキヤベリー伝」を述べた。この会合は予想以上の盛況を呈したから、これに力を得た委員は、更に本会の主要な目的である学術の普及を計らんものと公開演説会を企図し、同月二十八日には浅草の井生村楼で「中央学術演説会」を開いた。この時の講師ならびに演題は、「感応論」楢崎(山沢)俊夫、「処世ノ心得」宗方文三、「法学指鍼」岸小三郎、「羅馬字会ノ必要」高田早苗、「日本文明ノ性質ヲ論ズ」山田喜之助、「天帝在リヤ否ヤ」天野為之であった(『中央学術雑誌』明治十八年四月十日発行第三号三二―三三頁)。

 このように三月下旬に入り、連続二回の演説会を開いているが、学校暦によれば、三月十一日が学年後期の始めと定められているから、編入志願者を獲得するためにも、この期に宣伝する必要があったためであろう。従って次の四月はこれを行わず、五月に入って学校講堂で大演説会を開催している。この時の講師ならびに演題は、「東洋論」山田一郎、「英語ノ勢力ヲ論ズ」島田三郎、「万法唯心」島地黙雷、「生類之始源」市島謙吉で、我が学苑中有数の弁論家を迎えている(『中央学術雑誌』明治十八年五月二十五日発行第六号三一―三二頁)。次いで七月十九日には再び学苑の外に出て、「中央学術演説会」の名の下に神田神保園で公開演説会を開き、「英国陪審制度ヲ論ズ」岸小三郎、「刑罰ノ目的ヲ論ジ廃死刑論ヲ評ス」宗方文三、「英語ヲ以テ日本ノ邦語ト為スベシ」高田早苗、「競争論」楢崎俊夫、「重ネテ天帝在否ノ問題ヲ論ズ」天野為之、「男女同権ヲ論ジ時事新報記者ノ説ヲ評ス」岡山兼吉など得意の熱弁が揮われた(同誌明治十八年七月二十五日発行第一〇号二四頁)。

 八月は夏季休暇のため、九月上旬は新学期開始のためそれぞれ休会したが、その月の二十七日には大会を牛込区神楽町寿亭に開き、書籍寄附者に対する特別貸与の件を定め、小会を三ヵ月ごとに開くことを決し、委員の定数を増加することを定めて散会した。越えて十月二日学苑第五講堂に恒例の演説会を開き、法律学科得業生黒川九馬が同攻会の由来を述べて、参会の学生に入会を勧め、講師俣野時中は私学教育の必要である所以を説き、高田早苗は「鰯の頭も信心から」という奇抜な演題を掲げて身心の関係について論じた(『中央学術雑誌』明治十八年十月十日発行第一五号三四頁)。

 かくして年も改まり十九年の春を迎えたが、陽光漸く水を温めるに至った三月十四日、学苑講堂に臨時大会を開き、会則の修正と支会規則を協議してこれを議決した。すなわち当日改正された会則は次の通りで、本会が結成されてから数度の改正を経て、ここにほぼ完全なものを決定することができた。

第一章 会名

第一条 本会ハ同攻会ト称ス。

第二章 目的

第二条 本会ハ、会員互ニ知識ヲ交換シ学術ヲ攻究シ、永ク友誼ヲ保持スルヲ以テ目的トス。

第三章 事業

第三条 本会ノ目的ヲ達センガ為、左ノ事業ヲ執ル。

一 内外書籍ノ閲覧 一 演説討論 一 雑誌発兌 一 会合 一 支会設置

第四章 位置

第四条 本会ハ、仮リニ東京専門学校内ニ設ケ、支会ハ便宜ニ従ヒ各地方ニ之ヲ置ク。

第五章 役員

第五条 本会ノ事務ヲ整理スル為、委員六名ヲ置テ左ノ事件ヲ嘱託ス。

一 書籍ニ関スル事務 一 演説討論ニ関スル事務 一 雑誌発兌ニ関スル事務 一 会合ニ関スル事務 一 支会ニ関スル事務 一 入会退会員許否 一 会誌編成 一 文書之往復 一 所有品ノ監護 一 会計事務

第六条 委員ハ、六箇月毎ニ一切ノ事務報告ヲナス可シ。

第七条 本規則ノ精神ニ抵触セザル限リハ、委員ハ便宜特別ノ規則ヲ定制スルコトヲ得。

第八条 委員ハ会員中ヨリ公選シ、其任期ハ六箇月トス。

但シ、三ケ月毎ニ其半数ヲ改選ス可シ。

第九条 委員補欠ノ為、予備員二名ヲ選挙シオク可シ。

第拾条 委員ハ再三ノ選ニ当ルヲ得。

第六章 会員

第十一条 本会々員ハ、東京専門学校学生及ビ同校ニ関係アル者ニ限ル。但、東京専門学校ニ関係ナキ者ト雖、本会ノ主趣ヲ賛成スル者ハ、支会会員トシテ入会スルヲ得。

第十二条 入会ヲ欲スル者ハ、入会金トシテ金三十銭ヲ納メ、会費トシテ四期毎ニ金二十銭ヲ納ムベシ。但シ、二年以上会費ヲ納メタル者ニシテ現ニ東京専門学校ニ在学セザル者ハ、別ニ会費ヲ徴収セズ。

第十三条 会員ハ、総テ本会々員タルノ証票ヲ所持スベシ。

第十四条 会員自己ノ証票ヲ紛失シタルトキハ、委員ニ届出テ更ニ其交付ヲ求ムベシ。但シ、一旦紛失シタル証票ハ無効タル可シ。

第十五条 本会々員ハ左ノ権利ヲ有スルモノトス。

一 書籍ヲ閲覧スルコト。 一 演説討論ニ従事シ、若クハ無料聴聞スルコト。 一 定価相当ノ割引ニテ雑誌ノ配付ヲ受ルコト。 一 本会一切ノ事件ヲ議スルコト。

第十六条 退会ヲ欲スル者ハ、其旨委員ニ通知シテ其証票ヲ返却ス可シ。

第十七条 会員中、其証票ヲ他人ニ貸与シテ使用セシメタル者ハ、一ケ月間会員タル権利ヲ停止ス可シ。

第十八条 会員中、毎期出金ヲ怠リタル者ハ、其償却ヲ終ル迄会員タルノ権利ヲ停止シ、若シ怠納二期以上ニ亘ルトキハ委員ノ意見ニテ退会ヲ命ズルコトアル可シ。

第十九条 会員中、本会ノ体面ヲ汚スベキ行為アリタルトキハ、委員ノ決議ニテ退会ヲ命ズベシ。

第二十条 自ラ退会シタル者ト退会ヲ命ゼラレタル者トヲ問ハズ、其既納ノ金額ハ一切返却スルコトナシ。

第七章 書籍

第廿一条 本会ハ政治、経済、法律等其他汎ク内外ノ書籍ヲ集攬ス。

第廿二条 書籍室ハ、仮リニ東京専門学校書籍室ヲ以テ之ニ充ツ。

第廿三条 書籍ノ保存ハ、当分ノ内東京専門学校ニ委託シ委員之ヲ監護スベシ。

第廿四条 書籍閲覧ニ関スル一切ノ規則ハ、当分ノ内東京専門学校書籍縦覧規則ニ依ル。

第廿五条 書籍ノ購入ハ、委員ノ意見ニ任ス。

第廿六条 本会ニ向テ書ヲ寄贈シタル者ハ、其寄贈書ノ書籍ニ限リ委員ノ許可ヲ得テ三ケ月以内持去ルコトヲ得可シ。

第廿七条 本会ニ書籍ヲ貸付セント欲スル者ヘハ、委員ヨリ借入証ヲ差出シ、鄭重ニ監護保存ス可シ。

第廿八条 第廿三条ノ規則アリト雖、委員必要ト認ルトキハ其決議ヲ以テ特別規則ヲ設ケ書籍ノ閲覧ヲ許スコトアル可シ。

第八章 演説討論

第廿九条 演説ヲ別テ公開演説、私開演説トス。

第三十条 公開演説ハ、中央学術演説会ト称シ、四季毎ニ便宜ヲ以テ東京府下ニ開会シ、汎ク公衆ノ傍聴ヲ許ス可シ。

第卅一条 私開演説ハ、隔月毎ニ東京専門学校ニ開会シ、満校学生ノ傍聴ヲ許スベシ。但シ、学校外ノ人々ト雖、会員ノ紹介ヲ得テ傍聴スルヲ得ベシ。

第卅二条 会員ハ、何人ヲ問ハズ公開、私開演説ヲナシ得ベシト雖、予メ演題ノ趣旨ヲ通知シテ委員ノ許認ヲ受ルヲ要ス。

第卅三条 公、私開ノ演説ヲ問ハズ会員外ノ者ト雖、世ニ声誉アル者ハ客員トシテ招聘スルコトアル可シ。

第卅四条 討論ニ就テハ別ニ一定ノ規則ヲ設ケズ、臨時其便宜ニ従ヒ、委員ノ意見ニ任ス可シ。

第九章 雑誌

第卅五条 本会ヨリ発行スル所ノ雑誌ハ、中央学術雑誌ト名ク。

第卅六条 雑誌掲載ノ事柄ハ、左ノ項目ニ限ル。

論説 批評 講義 翻訳 雑録 記事

第卅七条 雑誌ハ、当分ノ内毎月十日、廿五日ノ両度ヲ以テ発行定日トナス。

第卅八条 雑誌ノ事務ヲ整理スル為、相当員一名ヲ置キ、本会々員ニシテ東京専門学校講師ノ身分アル者ニ之ヲ嘱託ス。

第卅九条 雑誌担当員ハ、左ノ事務ヲ執ル可シ。

一 雑誌編纂 一 雑誌売捌 一 雑誌会計ノ整理

第四十条 委員ハ、常ニ雑誌担当員ヲ助ケ、雑誌ニ関スル一切ノ事柄ヲ議定シテ可成恰当精確ノ編纂ヲ遂ンコトニ尽力スベシ。

第四十一条 本会々員ハ、何人ヲ問ハズ雑誌原稿ヲ寄セテ其登録ヲ求ムルヲ得。但シ、其取捨ハ専ラ担当員ノ意見ニ任ス。

第拾章 会合

第四十二条 会合ニハ、規則ノ改正ヨリ委員ノ改選及ビ本会ノ利害ニ関スル要件ヲ議定シ、委員ヨリハ前期中施行シタル事務ノ報告ヲナシ、其他会員相互ノ好情ヲ結バンガ為、講談、説話ヲ旨トシ、雅遊、歓語自由タル可シ。

第四十三条 会合ハ、左ノ四期ニ於テ之ヲ開ク。

三月 六月 九月 十二月

会場、会日、及ビ会費等ハ、便宜、委員ノ決定ニ任セ全員ニ報道セシム。

第四十四条 本会ニ執テ必要アリト認ムルトキハ、委員ハ之ヲ全員ニ通知シテ臨時会合ヲ開クコトヲ得。

第拾一章 支会

第四十五条 本会ノ主旨ヲ賛成シ、相団結スル者廿名以上ナルトキハ、支会ノ設置ヲ許スベシ。

第四十六条 前条ノ旨ニ従ヒ、支会ノ設置ヲ欲スル者ハ、其規則書ヲ添テ本会委員ニ許可ヲ乞フベシ。

第四十七条 支会々員ハ、本会ニ対シ左ノ事柄ヲ要求シ得可シ。

一 相当ノ割引ヲ以テ雑誌ノ配付ヲ受ルコト。 一 本会々員ト同ク公開私開ノ演説ヲ聴聞スルコト。 一 雑誌掲載ノ事項、若ハ学問上ノ事件ニ付テ疑ヲ質スコト。 一 実費ノミニテ本会員ヲ招聘スルコト。

第四十八条 支会々員ハ其証票ヲ所持スベシ。

但シ、証票ハ各部支会ノ制定ニ任ス。

第四十九条 支会ニ於テ本会ノ体面ヲ瀆ス等ノ所為アルトキハ、委員ノ決議ニテ之ヲ禁止ス可シ。

第五十条 支会々則ノ本章ニ規定ナキモノハ、凡テ各部支会ノ規則ニ従フベシ。

第拾二章 規則変更

第五十一条 本会ノ規則ハ、会合出席員最多数ノ同意ヲ得レバ変更増減スルヲ得。

明治十九年三月十四日改定 (『中央学術雑誌』明治十九年三月二十五日発行第二五号 四七―五四頁)

 同攻会としては画期的な会則の改正整備を終え、二週間後の三月二十九日学苑講堂で演説会を開催し、「会計法」呉文聡、「自由論」高根虎松、「権利の説」片山清太郎、「洋行論」高田早苗など、本校学生四百名余を前にして、それぞれ得意の弁論により聴衆を魅了した(『中央学術雑誌』明治十九年四月十日発行第二六号四四頁)。しかるにその後、たまたま学費値上げに伴う学則の改正や学苑の機構改革等により諸事紛糾したため、新学期を迎えるまでこうした自主活動は停止するのやむなきに至ったが、九月十九日に至って定期大会を開催することができた。すなわち、この日筑土の松風楼に会員が集合し、新会員の募集に関して討議した。この時また委員の改選を行い、高田早苗天野為之横井時冬ら学苑の有力者をはじめ、法学部の首藤貞吉、政学部の中村常一郎ならびに前川槇造ら学生中の人望家を委員に選任して、会の強化を計った(同誌明治十九年九月二十五日発行第三七号五四頁)。かくて十月三十日には本校講堂に演説会を開き、天野為之矢野文雄とが長時間に亘って講演を行った(同誌明治十九年十一月十日発行第四〇号五七頁)。他方、地方においても支会を新設する機運が熟し、先ず長野県上田支会が誕生した。本会もこれに刺戟されたものか、本年掉尾の十二月十六日、木挽町の厚生館を借りて学術演説会を開き、八名の雄弁家を動員して各自得意の論陣を張り、聴衆に深い感銘を与えた。この時の講師演題は「善悪の標準」前川槇造、「学問の困難」中村常一郎、「社会学上より維新革命の原因を論ず」瀬川光行、「貴族論」高木守三郎、「文明の前途」黒川九馬、「物性の学豈要なからんや」田原栄、「英国国会の話」高田早苗、「美術論」坪内雄蔵であった。『中央学術雑誌』の記者はこの会合の状況を評して、「通常の政談演説会とは異なり、妄りに高声を発して喧騒する者もなく、唯だ議論の要点に至る毎に拍手喝采の声満堂を動かすあるのみなりし。」と、高くこれを評価した(同誌明治二十年一月十日発行第四四号五六ー五七頁)。

 二十年に入ると、冬季休暇が終っていくばくもたたない一月二十二日に本校講堂で臨時大会を開いたが、記録によると会は午後七時に始まり十一時に終ったという。未だ交通が完備していない当時であるから、通学生にとっては、このような夜半に及ぶ会合はさぞかし大変だったであろうと同情されるが、一方それだけに会に対する会員の熱意が偲ばれる。この時の議案は公開演説に関するもので、熱心な討論の結果次の如く議決された。

一 公開演説ハ、隔月毎ニ東京府下便宜ノ場処ニ於テ開会スベシ。

二 公開演説者ノ員数ハ、六名ヨリ多カルベカラズ。

三 公開演説者ヲ選択スルノ権ハ、本会委員ニシテ東京専門学校講師タルノ任ヲ帯ブル人ニ嘱託ス。

四 公開演説者ハ、通常左ノ資格ニ由ルベシ。

本会々員ニシテ東京専門学校講師タル者 二名

東京専門学校得業生 二名

其他ノ会員 二名

但シ、時宜ニ由リ会員外ノモノト雖ドモ、客員トシテ招聘スルコトアルベシ。

五 公開演説ノ期日ハ、前以テ会員ニ報告スルヲ以テ、演説ヲ為サントスルモノハ、其旨直チニ委員ニ申込ムベシ。

六 本会ヨリ会員ニ通知スル方法ハ、中央学術雑誌及ビ東京専門学校内ニ掲示スルヲ以テ定式トナス。

但シ、臨時至急ヲ要スル件ハ此限ニアラズ。

七 本会規則第十二条ノ但書ヲ左ノ如ク修正セリ。

但シ本会々員ニシテ現ニ東京専門学校ニ在学セザル得業生ハ、別ニ会費ヲ徴セズ。

八 規則第十条ニ下ノ如キ但書ヲ加フ。「引続キ再選スルヲ得ズ」

九 第四十条中、「一切ノ事柄ヲ議定シテ」ノ句ヲ刪除ス。

(『中央学術雑誌』明治二十年一月二十五日発行第四五号 五五―五七頁)

 この会があって三日後の二十五日には、学苑内の聴衆を対象として演説会を開いているが、これに関する記事は、きわめて簡単で、

当日の弁士は、中村常吉、高田早苗及び宇川盛三郎の三氏にて、宇川氏の仏蘭西事情は殊に面白く、喝采を博したり。

(同誌同号 五五頁)

という数行に止まっている。なお、ここに言う宇川盛三郎は、二十年九月に講師として就任し、行政学を担当した人、また中村常吉は常一郎の誤りで政学部の学生であった。

 その後機関雑誌は毎月刊行されたが、演説会は何故か六月に至るまで開催されず、その間二十年五月十日刊行の『中央学術雑誌』第五十号から、持主兼印刷人が天野為之から川田水穂(十九年政治学科卒)へ、編輯人が楢崎俊夫から利光孫太郎(十九年政治学科卒)に変更された。

 さて二十年六月五日、「私開演説会」が本校講堂において開催された。講師は末松謙澄、呉文聡、高田早苗の三名で、末松は「ケンブリツジ大学の現況」と題し興味ある紹介を行い、これに引続いて、大隈英麿高田早苗天野為之坪内雄蔵田原栄が主催者となって饗宴を催した(『中央学術雑誌』明治二十年六月十日発行第五二号四九頁)。また同月二十四日、筑土八幡松風楼に大会を開き、委員の末兼八百吉が事業報告をした後、委員の半数の改選を行い、小林定修が提出した「書籍貸与の件」について審議し、多少の修正を加えて左の如く決議した。

一 会員にして東京専門学校得業生たる者は、保証金として市価に相当する金額を預け置き、本会所蔵の書籍を二週間以内書籍室外に於いて借覧するを得。

但し、市場に於て求め難き書籍は此限にあらず。

一 若し二週間を過ぎて借用の書籍を返納せざる時は、保証金を没収すべし。

一 委員に於て必要なりと認むる時は貸与を許さざることあるべし。

(同誌明治二十年六月二十五日発行第五三号 四六-四七頁)

 ところが、同攻会集会は再び五ヵ月の沈黙の後、明治二十年十一月十二日、筑土松風楼に例会を開き、公開演説は「中央学術演説会」と称し、規則第三十条を「公開演説ハ、中央学術演説会ト称シ、臨時東京府下便宜ノ地ニ於テ開会シ」云々と改正した。この時の雑誌は「東京専門学校は、近来生徒の数頗る増加し、従来の講堂のみにては狭隘にして教授向きに不便を感じ、此頃寄宿舎の一部を修理して講堂に充てし程のことなれば、同会の会員も従ひて増加し、総員既に三百八拾五名に達したり。」(『中央学術雑誌』明治二十年十一月三十日発行第五九号五二頁)と記し、大いにその将来性があることを示唆している。ところがそれにも拘らず、規則を改正して公開演説会の定例開催を不定期にしたのは、一体どういう理由があったからだろうか。また同誌の「雑録」に、

稟告

一 本誌ハ従来毎月二回ノ発兌ナリシガ、爾後改メテ一回トナス。蓋シ学術ニ関スル雑誌ハ、新聞紙ノ如ク日常ノ出来事ヲ網羅スルノ目的ニアラザルガ故ニ、徒ラニ刊行ノ度数ヲ多クセンヨリハ、寧ロ緊要ナル学説ヲ精選スルヲ必要ナリト信ズレバナリ。

一 時々賞金ヲ懸ケテ広ク学術ニ関スル論文ヲ募リ、其優等ナルモノヲ択ビテ本誌ニ掲載スベシ。

一 本誌ハ、爾後会友ノ寄稿ノ外、更ニ左ノ諸目ヲ掲載スベシ。

一 東京専門学校ノ科外講義幷ニ同攻会ノ学術演説筆記

一 新著書ノ略評

一 懸賞優等論文

一 今般都合ニヨリ発行所ヲ麴町区三番町五拾三番地ニ移転ス。就ヒテハ爾後、本誌ニ関スル通信ハ、凡テ同所ニ宛テ発送セラレンコトヲ乞フ。

一 東京専門学校々外生ニシテ本誌ヲ購読サルル諸君ニハ、同校生徒ト同ジク一部金五銭五厘ノ割ニテ差上グベシ。

(五五―五六頁)

と、発行回数を減じながらも、内容の充実を計らんとした。しかもこの号を最後として一時休刊するのやむなきに至ったのは何故か。思うに、財政上の欠乏等による経営困難ということもあったろうが、他面この年七月以降条約改正問題が沸騰し、集会、出版等に対する政府の圧迫が激しくなった結果、不必要な摩擦を避けて穏便な処置を採ったものとも考えられる。既に持主兼印刷人や編集人を、学苑の有力者から校友に改めたことや、出版所を本校内から麴町三番町所在の東京専門学校出版局内に移した点から、如上の経過を窺知することができるであろう。何れにしても、『中央学術雑誌』は、『同攻会雑誌』発刊の明治二十四年三月までの三年三ヵ月間沈黙を保ち、その間僅かに『専門学会雑誌』、『日本理財雑誌』、『憲法雑誌』、『公友雑誌』が発行されて繫ぎ役を務めるに過ぎなかった。しかも演説会は、第三編で述べるように、同攻会の事業から学校の事業に移され、同会は図書の管理という地味な仕事のみに終始した。

二 校友会の沿革

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 我が学苑は明治十七年第一回の得業生十一名(五〇〇頁参照)を出し、翌十八年には一躍六倍強に達する六十七名の得業生を世に送り、総計およそ八十名となった。しかもこれらの卒業生は将来母校を支える有力な要素となることは必定であったから、今こそ学苑と卒業生との紐帯を堅くしておく必要があった。そこで明治十八年の初冬、本校議員島田三郎、講師高田早苗田原栄および得業生楢崎俊夫、田中松三郎、黒川九馬らが相計り、この両者の関係をより一層親密ならしめんがため校友会を設立せんとし、同年十二月十三日、東京麴町区富士見町の富士見軒に有志を集めて発会式を挙げた。この日参集する者五十余名、発起人代表高田早苗は発会の趣旨を述べ、次いで会則について審議して議定し、更に役員を選出した。この時選ばれた者は、会長に大隈英麿、幹事に田原栄、楢崎俊夫、田中松三郎、黒川九馬の四名であった。かくて議事が終り直ちに宴会に移ったが、田原栄前島密島田三郎岡山兼吉市島謙吉高田早苗その他得業生十数名が立ってテーブル・スピーチを行い、歓を尽して散会した。なおこの発会式で議定された会則は次の通りである。

校友会規約

第一条 本会ハ、東京専門学校及同校得業生間ノ関係ヲ密ニシ、併セテ会員相互ノ親睦ヲ目的トスルモノニシテ、名ケテ校友会ト云フ。

第二条 本会々員ハ、東京専門学校職員幷ニ得業生ヲ以テ組織ス。

第三条 第一条ノ目的ヲ達センガ為メ、三ケ月毎ニ会合ヲ開ク。

第四条 本会ハ、会長一名、幹事四名ヲ置キ、会長ハ校長ニ、幹事ハ講師中ヨリ壱名、得業生中ヨリ三名ヲ選挙ス。

但シ、幹事ノ任期ハ一ケ年トス。

第五条 幹事ハ左ノ事務ヲ執行ス可シ。

一 開会ノ報告

一 東京専門学校ノ近状及本会事務ノ報告

一 地方会員ヘノ通信

一 毎年秋季ニ会員名簿ヲ調製シテ全会員ニ頒ツ事

一 会計事務

一 会誌編成

第六条 会員中東京専門学校ニ対シ意見アル者ハ、之ヲ提出シテ衆員ニ質シ、若シ多数ノ賛成ヲ得ル時ハ、本会ノ名ヲ以テ東京専門学校ニ建議スルコトヲ得。

第七条 会員ハ、東京専門学校ニ対シ応分ノ力ヲ尽ス可シ。

第八条 会員中、本会ノ名誉ヲ毀損スルガ如キ所為アル者ハ、本会ノ決議ニ由テ退会セシム可シ。

第九条 会員転居等ノ節ハ、其旨幹事ニ通知ス可シ。

(『中央学術雑誌』明治十八年十二月二十五日発行第二〇号 三二頁)

 越えて十九年四月四日午後一時、雉子橋の大隈邸で校友会小会合が催された。当日の来会者は三十三名で、幹事総代として黒川九馬が事務報告を行い、次いで法律学科に関する建議案その他について審議したという(明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』)が、これに関する記録がないので、その詳細は不明である。しかし法律学科の存廃については、前々年岡山兼吉がその移転を提唱して以来、学苑の関係者にとり大問題となったが、十八年六月十八日の評議員会でも結論が得られず、校主大隈の裁断に委ねるの余儀なきに至ったことは既述の通りである。そしてこの校友会小会合が、その時から一年も出でない時点で開催されているから、当然、法律学科に関する校友の希望が、建議案の形で議決されたことと想像される。

 次いで同年十二月十二日午後三時、富士見軒で大会が開かれ、幹事楢崎俊夫が事務報告を行った後、黒川九馬が提出した「従来の得業生に特別監督制実施後の得業生と同等の資格を与えられんことを文部省に請願する件」を可決し、幹事の改選を従来の幹事に一任することに決して会議を終えた。そして恒例により宴会に移り、前島密岡山兼吉、関直彦、田原栄坪内雄蔵小川為次郎、黒川九馬、瀬川光行らが演説し、午後十時散会した。この日の来会者は五十余名で、本会規約および会員名簿が出席者に頒布された(明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』)。なお、この会員名簿は学苑の校友名簿としては最初のものであった。

 二十年に入ると、その六月二十六日に大会を富士見軒に開き、幹事楢崎俊夫の報告があって、岸小三郎提案の「一年三回の小会を廃し凡てを大会とするの件」について協議したが、小河滋次郎の修正動議「小会は全く廃して一年二回の大会を開く件」が容れられ、会期を一月および七月と定めた。この時修正された会則は次の通りであった。

校友会規約

第一条 本会ハ、東京専門学校及同校得業生間ノ関係ヲ密ニシ、併セテ会員相互ノ親睦ヲ目的トスル者ニシテ、名ケテ校友会ト云フ。

第二条 本会々員ハ、東京専門学校職員幷ニ得業生ヲ以テ組織ス。

第三条 第一条ノ目的ヲ達センガ為メ、毎月東京専門学校ニ於テ演説会ヲ開キ、幷ニ一月、七月ノ両度ニ大会ヲ開ク。

第四条 本会ハ、会長一名及ビ幹事四名ヲ置ク。

第五条 会長ハ校長ニ嘱託シ、幹事ハ講師中ヨリ壱名、得業生ヨリ三名ヲ選挙ス。

但シ、幹事ノ任期ハ一ケ年トス。

第六条 幹事ハ左ノ事務ヲ執行ス。

一 会合ノ斡旋

一 東京専門学校ノ近状及ビ本会事務ノ報告ヲナス事

一 毎年秋季ニ会員名簿ヲ編成シテ全会員ニ頒ツ事

一 地方会員ヘノ通信

一 会計ノ事務

一 会誌ノ編成

第七条 会員中東京専門学校ニ対シ意見アル者ハ、之ヲ提出シテ会員ニ質シ、若シ多数ノ賛成ヲ得ル時ハ、本会ノ名ヲ以テ東京専門学校ニ建議スルヲ得。

第八条 会員ハ、東京専門学校ニ対シ応分ノ力ヲ尽スベシ。

第九条 会員中、本会ノ名誉ヲ毀損スルガ如キ所為アル者ハ、本会ノ決議ニ由テ退会セシム。

第十条 会員転居等ノ節ハ其旨幹事ニ通知スベシ。 (明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』)

因に発会式において決定された規約に対して、第四条を、副会長をも置くように改正することが十九年に考えられたが、結局この改正は中止されている。多分役員を多くし屋上屋を重ねることを避けたがためであろう。会議が終ると例により宴会に移り、天野為之、中村常一郎、上遠野富之助、高田早苗岡山兼吉、高山圭三、太神寿吉が相次いで演説を行った。この日は特に七月に卒業予定の政学部三年生および英学部四年生へも案内を出しておいたから、その中から十数人が出席し歓を共にした(同書)。

 二十一年一月二十八日、富士見軒で大会を開いた。先ず幹事楢崎俊夫が事業報告をなし、小川寅六提案の「毎月第二日曜日に学校において校友学術演説会を開き、その費用を学校から支給されるよう請願すること」について審議し、討論のすえ原案を議決し、また幹事の改選を行った。会後一同食卓につき、岡田庄四郎、高田早苗、黒川九馬、森谷三雄、伊藤悌次、平田卓爾が、それぞれ諧謔を交えて雄弁を揮った。この時議決された案件は、同年三月、幹事連名の上、「校友学術演説会開設」の建白書となって学校当局に提出され、直ちに許可を得た。そこで五月十三日、学校において発会式を挙げ、幹事首藤貞吉が開会の辞を述べた後を承けて、黒川九馬、平田卓爾、呉文聡が得意の弁を揮った。次いで七月二十二日は大会を開く日であったが、当日は朝から烈しい風雨に見舞われ、会場の江東中村楼に集まった者僅かに三十五名に過ぎなかった。それでも前島密、肥塚竜、高田早苗山田一郎、中村忠雄、田原栄、宇川盛三郎ら講師の首脳陣が来会し、会議後更に友交を温めた(明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』)。

 二十一年の新学年を迎えて間もない十月十五日、および翌十一月十一日と相次いで校友演説会が開かれ、前者では高田早苗、上遠野富之助、高木守三郎が、後者では川田水穂、降旗元太郎がそれぞれ一場の演説を試みた。ところで先に本校校長となった前島密は、二十一年十一月二十日、現職のままで逓信次官に任ぜられたので、会員多数が発起してこれを祝うことを決し、併せて同攻会と校友会とが主催者となって忘年親睦会を開くこととし、十二月十五日、先ず本校で演説会を開き、加藤松之助、鈴木茂雄、小川寅六、岡田庄四郎、三崎亀之助が講演し、終って席を浅草鷗遊館に移して祝賀の宴を張った。席上幹事山沢俊夫が本会開催の趣旨を述べて開会の辞に代えると、これを承けて前島密が答辞を行い、並木覚太郎、斎藤大見らが祝辞を述べた。献酬盛んになる頃、当館名物の鷗踊が披露された(明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』)が、あたかも本校の始まりが鷗渡会員の手によって行われたのを祝うが如く、時宜に適した余興として一同を喜ばせた。

 二十二年二月十一日は、我が国史の上で画期的な憲法発布の当日であった。国民こぞってこれを記念し祝賀したのは言うまでもない。本校校友もこれを祝って臨時校友会を上野松源楼に開いた。先ず上席に両陛下の写真を飾り、これに憲法を供えて拝礼した。この荘厳な式が終ると、席を改めて祝宴に入り、森谷三雄が発起人総代として本会の趣旨を述べ、これに続いて前川槇造、園田熊太郎、黒川九馬、坪内雄蔵岡山兼吉山田一郎らがそれぞれ立って祝辞を述べた。この日学校では祝賀運動会を催し、校友のこれに参加する者も多く、夜に入ってから続々来会したため、十二時近くになって漸く散会するという盛況であった。次いで、同年の例会は七月二十一日富士見軒で行われ、先ず宴会を以て始められた後、席を別室に移し、幹事の報告、一、二の相談など型の如く進められ、更に朝倉外茂鉄、辻寛、並木覚太郎、黒川九馬、坪内雄蔵矢野文雄前島密など百戦錬磨の士が相次いで所懐を述べ、団欒裏に閉会した(『明治二十二年十二月調『東京専門学校校友会名簿』)。

三 校外教育

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 既述(四四〇頁)の如く、明治十五年九月二十二日付の『郵便報知新聞』附録に掲載された東京専門学校開設広告の第二項には、「一、政治、経済、法律及ビ理学ノ教授ハ専ラ邦語講義ヲ以テシ、学生ヲシテ之ヲ筆受セシム。」と、我が学苑創設の意義の一つである「邦語講義」が強調され、「筆記すること」が特長として唱道されている。事実大隈、小野、高田ら学苑開設の原動力となった人達は「邦語による教育」を建学の理念とし、この時発表された学科配当表を見ても、英学科以外の政治経済、法律、理学の各学科では、外国語の教科書の使用を避けるよう努めている。つまり教員達は必要に応じて原書を読み、これを咀嚼して更に自説を加えて講義し、学生は一冊の教科書も手にせず、ただ教員の言うところに従って、これを聞き且つ筆記して自家のものとしたのである。ところが学生側から言えば、ノートでは聞き違いや誤記が起り易かったし、講師側からすれば、保存の必要という点からばかりでなく、その学殖を在学生以外にも頒ち得ることになるのであるから、ノートが活字本になることは好ましいに違いなかった。

 小野梓が明治十六年春に東洋館を創設したのは既述(四一三頁)したところであるが、この書肆は、永田新之允の記すところによれば、

約を竜動、巴里、伯林、新約克等の書肆に結び、多く泰西各土の奇書を舶載し、又た本邦負望の名家と与に議する所あり、頻りに政治、法律、哲学、史乗の新篇を発き、以て広く江湖に販売するを図れり。本館起てより、君の自著は言ふを須たず、有賀長雄氏の社会、宗教、族制及び政体、儀式、産業の各進化論六冊、高田早苗氏の貨幣新論、英国行政法、砂川雄峻氏の英米契約法、坪内雄蔵氏の該撒奇談、井上哲次郎・有賀長雄氏の合著哲学字彙、天野為之氏の徴兵論、経済原論、石幡貞氏の漢城遭難詩紀、山田一郎氏の政治原論、山田喜之助氏の麟氏英国会社法等にして、泰西新学問の華英続々出版の順序を立て、君は日毎該館の一室に到りて執務し、其将来に於ける抱負も甚だ大なりしが、人生意の如くならず、販路未だ拡張に至らずして早く既に資力の欠乏を来し、収支相償はざるの結果は、創立三年にして閉店するの已むを得ざる悲運に際会したりき。

(『小野梓』二二七―二二八頁)

すなわち、外国書の輸入と並んで、出版を営むものであったが、その短い歴史にあって刊行されまたは刊行を予定されていたもの(有賀の進化論の一部や、高田の『英国行政法』、天野の『経済原論』、山田の『政治原論』などは刊行予定に終ってしまったらしい)の中に、東京専門学校で行われた講義が含まれていたことは明らかである。そこで、きわめて広義に解するならば、学苑の校外教育は、小野によって礎石が置かれたと言えなくもないかもしれない。また『中央学術雑誌』は、読者の要望を容れて、第二十一号(十九年一月発行)から、天野為之口演・松井従郎筆記の「銀行原理」を「東京専門学校講義録」として連載している。しかし、いやしくも強弁の誘りを免れようとするならば、校外教育の祖としては、高田早苗を挙げるべきであろう。高田は『半峰昔ばなし』において、次のように回想している。

『中央学術雑誌』を出した数年後、それは何でも東京専門学校が出来て四、五年後の事、私は講義録発行といふ事を始めて計画した。其頃辻敬之といふ人があつて、確か師範学校出身と覚えるが、此人が今日でいふ通信教授の様な事を工夫して、其の執筆を私だの市島君なぞに依頼されたのであつた。……其の通信教授の方法は、翻訳だとか著述とかいふものを一纏めに出版せずに、読者の買ひ好い様に分冊出版した程度のものであつた。私はそこからヒントを得て、東京専門学校で我々が講義したものに筆を入れ、講義録の形にして毎月何度かに是を出版し、校外生を募集して其の雑誌を頒ち、質問を許して講義録の余白で答へる事にしたならば、学校の教育が学校外の学生にも及ぶ事になり、大変具合の好い事になりはすまいかと考へた。是は其の前後に西洋でも工夫した人があつて、所謂ユニヴァーシチー・エキステンションの一方法となつて居たのみならず、大分発達進歩した様である。現に先年米国に於ける諸大学の総長中、最も偉い人と言はれて、「名総長」といふ名前が遠近に轟いた、ハーヴァード大学のエリオット先生が我邦へ来た際、早稲田を訪はれ、我が早稲田大学に校外教育の仕組があると聞いて頗る驚かれ、米国に於ける同じ事の実際を話してくれられたのみならず、大学として校外教育を企てるのが其使命の一つであつて、早稲田大学に於て然ういふ計画が実行されて居るといふ事は、早稲田大学の進歩して居る一つの証拠であると賞めてくれられた。私が講義録を計画した当時、私は西洋に然ういふ方法があるといふ事を少しも知らなかつた。此の計画を最初胸に浮べた折り、埼玉県人横田敬太といふ人があつて、私が地方講演に行き此人と懇意になつた。此人が東京へ移住して書物屋をして見たいと言つて私の処を訪うたから、私は此の計画を語つた処、彼れは其の方面の仕事を担当さして呉れよと熱心に乞はれたのである。そこで私は学校の同僚とも相談の上、学校の名を貸して其人の勝手に経営させる事にし、『政学講義』と『法学講義』を先づ始めさせた処、一時は大分世間の評判も好く、どうか行き立ちさうであつたが、何か外の事に手を出して横田なる人は失敗し、講義録の継続も出来ぬ事となつた。そこで私は当時東京専門学校の幹事であつた田原栄君と相談し、是を学校に引取る事にし、学校直営として講義録を継続した。それは元来事が教育的であつて、たとひ校外生と雖も、学生に相違ないのであるから、中途で講義録を止すと申訳が立たぬと考へたからであつた。兎に角斯うしてしばらく学校直営として講義録を継続して居る中に、少しづつ失敗を取返す事も出来る様になつた。 (一九一―一九三頁)

 右の文中に見られる辻敬之(嘉永四―明治二五年)は熊本県士族で、東京師範学校を卒業後教育書籍出版に従事し、十八年開発社(神田区柳原河岸十四号地)を設けて『教育時論』を発刊、また同社内に通信講学会を創立して、十九年二月から通信教授を開始した。すなわち、同月には教育、心理、論理、数理、三月から経済、四月から政治、五月から法律、生物、更にその後、女子家政学、教授法、倫理学、礦物学、英語などが開講されるという計画であった。会費は一学科一ヵ月十銭、更に一学科を増すごとに八銭であり、三ヵ月以上前金で納入しなければならない。「其記述ノ体裁ハ最平易ニシテ且流暢ニ、唯会員諸君ノ了解シ易カランコトヲ専一トナシタルモノナレバ、……親ク講師ノ口述ヲ聞クノ思ピアルベシ。又講師ト会員トノ質疑ト答案トヲ載セタルガ如キハ、最裨益スル所アルベシ。」とは、その広告文の記すところである。この通信教授の著者の中に、学苑の関係者としては、政治学の高田早苗と教授法の有賀長雄、ならびに後年首脳部の一人となった経済学の平沼淑郎が発見されるが、高田の語っているように、市島も依頼されたのか否かは、明らかでない。なお、高田の政治学は、その第一回が十九年四月に刊行された後、最初は毎月一回配本されたが、次第に不規則となり、漸く二十二年六月に及んで第十一回が配布されたらしく、二十四年五月には、「別製合本」が『通信教授政治学』と題して定価一円で同会から刊行されている。

 高田が校外教育に多大の努力と時間とを傾注するようになったそもそもの発端は、高田自身認めているように、辻の通信講学会の講師を依嘱されたことであったが、その背景として見落してならないのは、高田はその当時には「少しも知らなかつた」と言っているけれども、十九世紀第四四半期が欧米における大学の校外教育興隆期であったことである。今ここで、西洋の大学の校外教育、すなわちユニヴァーシティ・エクステンションの前史にまで溯る必要はないと考えるが、その先進国イギリスにおいては、スコットランド生れのジェームズ・ステュアート(James Stuart)の、或いは女子の高等教育に、或いは労働者教育に注いだ絶大の熱意がケンブリッジ大学の認めるところとなり、地方都市への講師派遣を同大学で正式に決定した一八七三年を以てその起源と看做すのが通説である。そして、イギリスの大学による校外教育が誇るべき点は、講義その他による人的接触を通じて、大学教育を大学の壁外の一般公衆に提供することであり、特に今世紀に入り、第一次大戦後に顕著に窺えるようになった、クラスの定員を少数に限定し、校外教育にあっても質の低下阻止に配慮して理想を貫こうとする姿勢であろう。これに対し、アメリカの大学の校外教育は、イギリス型の模倣が州立大学を中心として行われはしたが、それよりも寧ろ大きな成果を挙げたのは、イギリスに学びながらイギリスを凌駕した通信教育による方法であり、既に一八八三年、ニューヨーク州イサカに通信大学が設立されたけれども、一八九一年に創立されたシカゴ大学の総長ハーパー(William Rainer Harper)が、翌一八九二年、大学内に通信教育部を創設したのが、アメリカの校外教育大躍進の開始を告げる画期的な事件であったと考えてよいであろう。さて高田は、前にも一言したように、イギリスの政治学に傾倒し、学苑がイギリス流政治学の中心であることを生涯誇りとしたが、高等教育機関としての学苑は、当時のイギリスのように選ばれた少数の青年のみを対象とするのに満足するものではなく、寧ろ範を採るならば、史家ターナー(Frederick Jackson Turner)の言うところの、「大学をすべての人々の要求に適合せしめるように、民主主義が大学にたえず圧力をかけた」アメリカの制度ではなかったかと察せられる。従って、高田が校外教育の中でも、後年アメリヵで多くの大学で実施されるようになる通信教育に先ず手を染めようと決意したのは、たとえ偶然の一致であったとしても不思議ではなく、同時にまた、それがシカゴ大学に先んずるものであったのを知る時、高田の慧眼には敬服せざるを得ないのである。

 尤も、講義録を用いての校外教育は、我が国にあって既に英吉利法律学校が先鞭をつけていた。『中央大学七十年史』には、左の如く説述されている。

明治十八年八月一日発行の明法志林は、英吉利法律学校講義録と題して「……英吉利法律学校ハ……日々講義ノ教課ヲ筆記シ、遠隔ノ地ニ在リ又ハ他業ノ為メニ登校シテ聴講スル能ハザルモノへ頒布シ、入校生ト同ジ試験ヲ受ケ卒業証書ヲ得セシムルノ便法ヲ設ケラルルト云フ」との記事を掲げている。この制度を設けた目的は……、要するに校内生に対する教材の不足を補充する意味での講義筆記を利用して、広く法律学の普及を図ったもので、いわゆる大学拡張の義にほかならなかった。

(二五―二六頁)

 また、英吉利法律学校の講義録以前に、明治義塾によって講義録が発行されていたらしい形跡もあるが、それが正確にいつからなのかは明らかでない。しかし、何れにしても、通信教授を手段とする校外教育に寄せる高田の熱意は、他校を絶するものがあった。高田は早くから教授の余暇をみて、東京近郊の諸県に遊説に出かけたが、最も多く出張したのが埼玉県であったもののようで、のち彼が担ぎ上げられて埼玉第二区から衆議院議員選挙候補者〓として名告りを挙げ、代議士に当選している点から見ても、川越を中心として、埼玉県内に相当有力な後援者がいたのである。彼が埼玉県内に巡回講演を試みた時、はしなくも同県下北葛飾郡宝珠花村(現庄和町)に住む横田敬太に出会ったが、談たまたま講義録発行のことに及ぶと、横田はそれに一方ならぬ関心を示し、東京に居を移し書店を開くから、是非自分にやらせてもらいたいと申し出た。時あたかも我が学苑は経営上の危機に遭遇し、授業料値上げ問題に関して甲論乙駁の時であったから、教職員間で協議の上、高田の企画に従い、その経営を横田敬太に委ねて講義録を発行することになった。勿論その利益を処理するに当って、利益分配にするか印税にするか、何れは両者の間に契約書を取り交したものと思われるが、残念ながらこれに関する記録は残っていない。とにかく横田は東京に出て麴町区三番町五十三番地に居を構え、政学講義会なるものを興して、明治十九年五月十五日には政治科、経済科、法律科、歴史科の四冊より成る講義録を発行した(第三回よりは『政学会講義録』として四科が合冊されている)。これに先立ち四月には、設立の趣旨を印刷に付し江湖に配布しているが、幸い『中央学術雑誌』第二十七号(明治十九年四月二十五日発行)には、規則とともにそれが掲載されているから、ここに転載しておこう。

政学講義会設立の趣旨

教ゆるにも亦た術多かり。之に教誨するを屑しとせざる者にも亦た之を教誨するのみとは、古人が人に教ゆるに汲々たるの意を示せる者なり。古人の人に教ゆるの深切、甚しと云ふべし。夫れ今の人、教ゆるに汲々たらざるにあらず。去れど、常に人の学ばざるを憂ふるものは何故ぞ。抑も其学ばざるは誰が罪なるそや。豈教ゆる者の深切、古人に若かざる者あるに由らざらんや。蓋し教ゆるの法、只に生徒を学堂に会し、師弟相対して業を授くるのみに止まらんや。意ふに、業務繁劇親ら校堂に昇るの余〓に欠く者、若しくは遠く隔地に在りて遊学の資に乏しき者の如きは、決して学校に入り学を修むるを要せざるべし。宜しく独学自修以て業を全ふすべきなり。是敢て吾人が言を待たざる処なれども、此事実際に行はれず、独学者の学力常に学校に入りたる者の学力に劣るものあるは何の故なるや。吾人は、之を規程ある順序を履むで学業を修めざると、善良なる課書を選ばざるとの二原因に帰せんとするなり。抑々大学其他専門学校の教師は、常に典籍に就て学ぶを得ざる新説のみを教ゆるにあらず。其用ゆる処の課書は、稀世の珍書のみにあらず。而して彼の学生は好く深邃確実なる学を修め、此独学者は常に之に及ばざるものあり。これ蓋し、彼の学生は規程ある学科を修むるを以て、敢て思想に錯乱を生ぜず、且其人用ゆる所の課書は選択其宜きを得、無用の書を繙くの不利なきに由らずんばあらず。故に、苟くも其法を得ば、独学自修と雖ども、豈に学業を得るに相違を生ずることあらんや。吾人斯に見るあり。本会を設立して、親ら学校に昇る能はざる人士の為に坐ながら規程ある学業を修め、独修以て高尚確実の学問を得せしむるの便を開かんとす。然れども、学術の科目も亦た多し。万種の課目を具へて尽く之れが自修独学の法を謀る、実行し難きの恐なきにあらず。且つ理科に関する諸学術の如き、徒らに之れを紙筆に託するも、能く其理を詳悉し、学者をして了解せしむること能はざるなり。玆を以て、此等学術自修の法を設くるは、須らく之れを他の篤志者の謀る処に任し、本会は、只管政治、経済、歴史、哲学、法律等、政治に関する諸般の科目に限り之れを設けんとするなり。蓋し、凡百の学術に優劣の差別なしと雖ども、意ふに国会を開設し、代議為政の天地と成るも近きにあり、其治下に立つ国民たる者は、充分の政治思想なくして可成んや。況して身自ら代議の重任を負ふて国会院に入らんとする者の如き、充分なる政想を要するのみならず、真確なる政治の学問を修むるにあらざれば、其任を全ふす可らず。且つ又、近来官吏を選叙するが如き、学術の試験を経て登庸することとなりぬ。明治の天下は政学研究の時となりたりといふも、敢て誣言ならざる可し。嗚呼、古人は教ゆるを屑しとせざる者にも尚ほ之れを教ゆるに汲々たり。学事熱心にして、而かも学校に入ることを得ざる不幸の人士に向て、吾人何ぞ之れに教ゆるの法を設けずして可ならんや。是本会設立の已を得ざる所以なり。若し夫れ教授の法の如きは、規則に詳かなりと雖も、本会の主とする所は、苟も学者の便を計りて徒らに講師の技倆を售るを欲せず。故に、世に良籍課書なきものに限りては本会講義録を上梓するも、既に良書の備はりあるものは之れを掲示し、且著者に請ふに質問に答ふる事の労を以てせり。又た本会は、実行を主として永続を旨とするが故に、課書出版の如き、予め修業の時日を計り、葉数を定めて必ならず学期の末に終るを期す。蓋し本会の起るや、新奇を喜び時流に倣ふにあらざればなり。学事に熱心なるの士、若し本会の微衷を好しとせば、冀くは賛同せよ。

政学講義会規則

第一条 本会ハ、専門ノ学校ニ入学スル余暇ナキ者ノ為ニ政治、経済、歴史、法律等ノ処世須要ノ学課ヲ教授スルヲ目的トス。

第二条 本会ハ、帝国大学、東京専門学校等ノ教則ヲ斟酌シ、併テ官吏登用法ヲ折衷シ、予メ修学順序ヲ定メ以テ教授スルヲ期ス。

第三条 本会ニ於テ定メタル教則ハ、左ノ如シ。

第一期

政治原理 経済原理 歴史太古 論理学 法律原理 租税論

第二期

憲法論 経済原理 歴史中古 刑法 貨幣学 銀行論 法律原理

第三期

行政論 貿易論 歴史近代 治罪法 英国憲法

第四期

政理学 万国公法 財政学 法理学 哲学史

第四条 本会ハ、一学期ヲ六ケ月トナシ、右ノ順序ニ随ヒ講義録ヲ発兌シ、之ヲ会員ニ頒布シ自修セシムルニ在リ。

第五条 本会ニ於テ発兌スル講義録ハ、教則ノ順序ニ随ヒ各課目トモ毎月二回之ヲ発行ス。

但、各課目トモ一回三十「ページ」乃至三十五「ページ」トス。

第六条 本会ハ講義録ヲ発兌スルト雖ドモ、既ニ上梓セル適当ノ書籍アル教科ハ其書籍ヲ採用シ、敢テ更ニ講義録ヲ発行セズ。

第七条 本会ニ於テ教科ニ採用シタル書籍ハ、其著者出版人ト協義シ、会員之ヲ講読スルノ便利ヲ計ル可シ。

第八条 会員ハ、本会ヨリ発行シタル講義録及ビ本会ノ採用シタル書籍ニ就キ質問ヲ為スコトヲ得可シ。

第九条 本会ノ発行シタル講義録及ビ採用シタル書籍中、特ニ講師、著者ノ必要ト認ムル要点ハ、更ニ細説ヲ下シ質問応答ト共ニ附録ト為スコトアルベシ。

第十条 会員ハ、本会ノ教則ニ随ヒ自修スルヲ要スト雖ドモ、亦課目中己ノ好ム学課ヲ選ンデ専修スルヲ得ベシ。

第十一条 本会ハ、本会ノ教則ニ随ヒ自修スル者及ビ其中一二ヲ選ンデ専修シタル者ノ望ニ応ジ卒業試験ヲ施シ、合格ノ者ニ講師署名ノ証書ヲ与フ可シ。

第十二条 本会ノ卒業試験ヲ望ム者ハ、此旨ヲ通知シ、回答ヲ俟テ後上京スベシ。或ハ本会ニ縁故アル学士ニ委託シ、便宜ナル地方ニ於テ試験ヲ施スコトアル可シ。

第十三条 本会員タラント欲スル者ハ、左ノ割合ヲ以テ会費ヲ出スベシ。

一 四学科ノ講義録ヲ受クル者 一ケ月金七拾銭

一 一学科ヲ専修スル者ハ 一ケ月金弐拾銭

但シ、一学科ヲ増ス毎ニ金弐拾銭ヲ増ス。

第十四条 前条ノ会費ハ前納タルベシ。前金尽クル時ハ、講義録ノ頒布ヲ止ム。

第十五条 本会ノ講義録ハ、第二第四ノ土曜日ヲ以テ之ヲ発行ス。

東京麴町区三番町五十三番地靖国神社脇 政学講義会仮事務所

(三九―四五頁)

ここに掲出した規則のうち、第三条に出版順序が定められているが、『中央学術雑誌』の記者はこれに注を加え、「第一期は五月第二土曜日を以て開板し、政治原理は市島氏、歴史は坪内氏、法律原理は三宅氏、租税論は高田氏受持にて、経済原理には天野氏著経済原論を用ひ、論理学教科には坪井氏論理学講義を採用したる由なり。」(四五頁)と記している。すなわち、第一期計画中、経済原理および論理学に関しては、規則第六条を適用し、それぞれ同年および十六年に他所から刊行されている書籍を講義録に代用したのであった。そして、同誌第二十九号(同年五月二十五日発行)には、「講義録の体裁も優美にして印刷等も鮮明なれば、頗る世間の好尚に適したりと見へ、毎日の入会者平均二、三十名に上る盛況なりと。」(六〇頁)と報ぜられている。

 こうして、学苑の校外教育の実を具えたものが、形式的には、政学講義会という横田の個人的事業として、十九年五月に発足したのであった。高田は、一方に辻の通信講学会のために政治学の執筆を続けながら、他方において、自身が保護者の立場に立っている政学講義会のために租税論の筆を走らせなければならなかった。租税論講義は十一月に完了し、その合本が一円二十銭の定価で政学講義会より発売されたが、更に二十一年七月には『租税論』と題する単行本として、同じく麴町三番町の横田書屋(発行者横田四郎)より刊行されている。また、『中央学術雑誌』第四十二号(明治十九年十二月十日発行)には、「今度憲法学に熱心なる高田早苗君に請ひ、彼有名なる英国々会の書記官メイ[Sir Thomas May]氏及米国著名の憲法家クツシング[Luther Stearns Cushing]氏等の著述を始め、欧米の国会法を参酌して『科外講義録』を発行し、廿三年の未だ来らざる間に於て議院政治の調練を為さんと欲する人々の用に供せんとす。」(六三頁)と、高田の『国会法』が政学講義会により広告された。この書の広告は何回となく繰り返し掲載され、時宜に適した計画であったことが窺われるけれども、毎月一回発売、十二冊で完了の予定が、二十年三月ならびに同八月と、刊行は二回で終ったものの如くである。そのほか、二十年五月二十九日には、横田主催の「臨時講談会」が木挽町厚生館に開催され、高田をはじめ、天野と片山清太郎とが千余人の聴衆を前にして雄弁を揮うなど、創立後一年間余りの政学講義会は、表面には学苑の名を出していないとはいえ、実質的には学苑と不離の関係にあったと言い得るのである。

 政学講義会は、第二期として、政治原理(市島謙吉)、法律原理(片山清太郎)、ミル代議政体論(高田早苗注釈)、銀行論(天野為之)、羅馬史(坪内雄蔵校閲、前橋孝義)、国会法(高田早苗)の開講を二十年二月に広告しているが、前述の国会法を別として、果して第二期計画が実施されたか否かは明らかでない。そして同年秋には、政学講義会は東京専門学校出版局と名称を改め、学苑の校外教育の責任者であることをきわめて明瞭に示すようになる。尤も、名称変更にも拘らず、経営面では、二十四年一月までは、依然として横田が実権を握っているという過渡的な状態ではあったが、講義録の予約者を学苑の校外生と称するとともに、校外生を学苑の制度の一つとして公認した結果、このような改称が断行されたのであろうとは、容易に想像できるところである。二十年九月の校外生規則は左の如くである。

東京専門学校々外生規則

第一条 本校ハ、校外ニアツテ本校ノ科目ヲ講習セント欲スル者ヲ校外生トナシ、講義筆記ヲ印刷シテ之レヲ頒ツ。

第二条 講義録ハ第壱年級ヨリ始メテ満三年ニシテ卒ルモノトス。

第三条 講義録ヲ分ツテ二種トナシ、政学部校外生ノ為メニ発兌スルモノヲ政学部講義ト称シ、法学部校外生ノ為メニ発兌スルモノヲ法学部講義ト称ス。

第四条 講義録ハ毎週之ヲ発兌ス。政学部ハ水曜日ヲ定日トナシ、法学部ハ土曜日ヲ定日トス。

第五条 講義録ノ紙数ハ十四行三十五字詰ニテ六十「ページ」以上トス。

第六条 校外生タラント欲スル者ハ何時ニテモ随意ニ入ルコトヲ得ベシ。

但シ麴町区三番町五十三番地東京専門学校出版局へ申込ム可シ。

第七条 校外生ニシテ其卒業証書ヲ受ケント欲スルモノハ試験ノ上之レヲ与フ可シ。

第八条 校外生タラント欲スルモノハ入学金五拾銭ヲ納ム可シ。

第九条 校外生ハ毎月講義録印刷ノ月費トシテ壱学部三拾六銭ヲ納ム可シ。

但府外ハ郵税金五銭ヲ要ス。

第十条 毎月々費ハ其月三日迄ニ納ム可シ。

但シ此規則ニ違フ者ヘハ講義録ノ配附ヲ停止スベシ。

第十一条 既ニ受領シタル月費ハ、仮令都合ニョリ退学スルトモ、之レヲ返附セズ。

第十二条 月費金不納ノ為メ満壱ケ月配附ヲ停止シタル者ハ退学者ト見做シ、更ニ送致ヲ望ムトキハ新ニ入学ノ手続ヲナス可シ。

第十三条 入学金幷ニ月費ハ都テ麴町区三番町五十三番地東京専門学校出版局へ宛テ送附ス可シ。

但シ為替ニテ送致スル者ハ同所事務員横田敬太へ宛麴町郵便局へ振込ム可シ。

第十四条 入学金幷ニ月費ハ都テ郵便切手ヲ以テ送附ス可ラズ。

第十五条 講義ニ疑問アルトキハ通信ヲ以テ質問スルヲ得。

第十六条 質問及ビ答案ハ講義録ノ紙尾ニ登録スルコトアルベシ。

第十七条 質問ノ文意明瞭ナラザルカ若クハ不必要ノ質問ト認ムルトキハ、答案ヲ与ヘザルコトアル可シ。

(『東京専門学校校則・学科配当資料』 資料21)

 三十年の長きに亘って早稲田大学出版部で活躍した種村宗八(二十六年文学科卒)の私記『早稲田大学出版部の沿革と早稲田大学との関係』には、この時期に関して、次のような記載が発見される。

横田氏が講義録を発行した当時の記録は残つてをらぬし、講義録も今では揃つてをらぬ為め、精しい事は分らぬが、現在残つてゐる明治二十年十月から発行された講義録によつて見るに、表紙には政学部講義と題してあるから、他の学部の講義録をも発行する予定であつた事が分る。此講義録は菊判六十頁前後の週刊印刷物であつた。活字は高雅なる清朝風五号活字で一頁十三行、一行三十四字詰である。一冊の中に数科目の講義が載せてあつて、完結の後に解体して一課目毎に一冊の書籍になし得るやうになつてゐる事は、今の講義録に異ならぬ。発行所は東京専門学校出版局、発行人は田原栄(当時の幹事)としてある。事実の経営者たる横田氏は単に印刷人として署名してあるに過ぎぬ。明治二十一年十月以後発行の講義録は、第一年級、第二年級、第三年級に分たれ、各級とも第一号から起つて一ケ年完結であつたから、当時の講義録は毎週一冊発行三ケ年完了の組織であつた事が明かである。又明治二十一年十月からは司法科講義、行政科講義の両講義が発行された。同月以後の講義録は何れも明朝五号活字を使用し、一頁十四行、一行三十五字詰となつたが、一冊凡そ六十頁、毎週一回発行、三ケ年完了の組織であつた。 (二頁)

 東京専門学校出版局の名で、校外生のテキストとして二十年十月以降配本された講義録は、種村が右に記した『政学部講義』のほかに『法学部講義』があり、それぞれ毎号数種の講義を一冊の中に分載するという『政学会講義録』の方法を踏襲している。その学科ならびに受持講師は次のように予告されている。

学科及受持講師)

政学部一年課程

同 二年課程

同 三年課程

法学部一年課程

同 二年課程

同 三年課程

 今この配当科目を見ると、五四四-五四五頁に掲げた二十年九月の東京専門学校の配当表から、代数学、体操、卒業論文の三科目を省いたものにほぼ等しく、担当講師も恐らく同一であったと推定される。すなわち、後年の学苑の講義録と比較して、遙かに教室における講義の実際に近く、少くとも講義内容に関する限り、校内生と校外生との差があまり大きくはなかったと察せられる。そこで、前章に説述したように、二十一年に学科配当の大改正が行われた以上、講義録の内容にも当然変化が現れなければならない。種村が二十一年十月以後の変更として記述しているのは、校内生の学科配当の変化に対応するものであるが、そこに反映しているのは邦語専門諸科の配当であって、英語専門諸科の配当でないことも、敢えて説明の必要がないところであろう。そして、『中央時論』(明治二十七年十一月発行第八号)によれば、

廿一年九月は、前年の初年級は二年級の第一号を発兌し、更に一年級各科壱号を発行し、翌廿二年九月には、第一期のものは三年級の一号を発行し、二期のものは二年級の一号、更に各科の一年級一号を発兌し、廿三年の九月には、第四期の一年級一号幷に二年・三年の一号を発行し、此年初めて校外生の卒業試験を施行せり。 (五一頁)

 さて二十一年六月に改定された「東京専門学校規則」(『東京専門学校校則.学科配当資料』資料23)には、その第十四章として、「校外生規則」が編入され、学苑が通信教育を重要視している事実が内外に宣明された。その内容は、前掲の二十年九月の校外生規則と大体において同一であるけれども、第三条が、「講義録ヲ分チテ三種トナシ、政治科校外生ノ為メニ発兌スルモノヲ政治科講義ト称シ、法律科校外生ノ為メニ発兌スルモノヲ法律科講義ト称シ、又行政科校外生ノ為メニ発兌スルモノヲ行政科講義ト称ス。」と、また旧第四条に相当する第九条の後段が、「而シテ其ノ定日ハ、政治科ハ火曜日トシ、法律科ハ木曜日トシ、又行政科ハ土曜日トス。」と、それぞれ改められ、新しく、「校外生ニシテ本校ニ入学セントスルトキハ、学力ニ応ジ特ニ第一年級ヨリ第三年級マデニ編入スベシ。」とする規定が第五条として挿入されている。このような新規則に則った講義録は、『東京専門学校講義録』と名付けられて政治科、司法科、行政科の三種類が刊行されたが、二十一年十月以降その計画が順調に実施され続けたことは、二十二年二月刊行の『憲法雑誌』第一号および第二号の東京専門学校出版局の広告によって知り得られる。殊にその後者には受持講師の姓名が列挙されているが、それを二十-二十一年度に予定発表されたものと比較すると、板屋確太郎(会社法、組合法)、戸水寛人(動産法)、高橋昌(農業経済論)、添田寿一(応用経済学)、呉文聡(統計原論、統計実習)、松崎蔵之助(貨幣論、租税論)、有賀長雄(国家学、行政学)、木内重四郎(考証経済学)、三崎亀之助(国際公法、国際私法)、宮岡恒次郎(親族法)、平田譲衛(契約法、判決例、不動産法)、関直彦(法理学、訴訟法)の十二名が新任されたのに対して、退任したのは片山清太郎と高橋捨六の二名に過ぎない。また学科目を見れば、これまたその数を増大し、帝国憲法、国家学、法理学、経済研究法、応用経済学、統計原論、衡平法、刑法各論、国際私法、心理学、その他新設科目は枚挙に遑ないが、中には農業経済論や地役法の如く、校内教育の学科配当中に発見できないものさえあり、殊に後者の場合など、校外生のための特別講義であったのではなかろうかと首を捻らざるを得ない。

 さて、既にこの時代において、学苑の名を冠した講義録が好学の士の注目を惹いていることは、明治二十二年六月刊行の『官立私立諸学校規則総覧』に、「麴町区三番町五十三番地東京専門学校出版局」印刷の「講義筆記」の頒布を受けられる校外生についての一項が、学苑に関する記事の最後に掲げられていることによっても明白であった。しかし、

講義録の発行は大に世の好評を博し、漸次好況を見るに至りしが、横田氏は元と出版の経験ありし者にあらず。且つ稍々勢に乗じたる傾ありしを以て、事業上種々の齟齬を生じ、萎蘼不振の状を呈し、漸く発達し来らんとしたる講義録も、将さに廃刊の厄に遇はんとするに至れり。是れ実に明治二十三年末の事とす。当時に於ける本校の幹事は田原栄氏なりしが、深く講義録の廃刊せられんとするを惜み、鋭意之が計画を為し、二十四年一月より学校自から出版発売の衝に当ることとなせり。是れ実に本校が一事業として出版に従事せし初なりとす。 (二三七頁)

とは『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』の記載であるが、学苑の校外教育が、学外者への委託によってではなく、学苑自身の手によって実施せられるようになってからの発達の跡を辿ることは、次編第十一章に譲らなければならない。

四 学苑と時局

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 征韓論をめぐっての激しい論争以後、我が国の対朝鮮問題は大して進展せず、依然膠着状態にあったが、一八七五年に至り、江華島事件を誘発するとともに、懸案の修好問題を解決する糸口とした。すなわち、遂に一八七六年(明治九)二月二十六日、我が国の特命全権弁理大臣黒田清隆と大朝鮮国大官判中枢府事申〓との間に、江華条約が締結されるに至った。これは朝鮮が外国との間に締結した最初の近代的な国際条約であり、諸外国がこれまで望んで未だ達せられなかった朝鮮の開国に、日本が先鞭をつけたことになった。こうして朝鮮では、国王李太王(煕)と閔妃一族とが、日本の援助により近代的な改革を進めていたが、一八八二年(明治十五)七月二十三日、京城における旧軍兵士は、日本将校により近代的訓練を受けている新軍隊との差別待遇に不満を抱き、給与遅配を口実に暴動を起した。世にこれを壬午の変という。

 この事件は朝鮮兵に一般市民も加わった暴動で、しかも我が日本公使館を焼打したという報は、いたく我が国民を刺戟し、征韓軍を興すべしとの強硬論が閣内からも出るほどであった。そこで政府は八月、軍艦を彼の地に派遣するとともに、弁理公使花房義質は直接朝鮮国王に会い事件の収拾を計った。花房は、国王以外の有力者たる大院君はじめ各高官に接触し、精力的な活動を続けたが、八月九日に至って清国公使から、朝鮮国内乱については清国が派兵して鎮定に当り、日本公使館の保護に当る旨を通報してきた。これに対してその介入を断ったのは勿論、更に清国公使から清韓両国の宗属関係により、当然朝鮮の保護に当るべきであるとする申し出に対しても、日朝間の条約により事変を処理するよう回答し、あくまで自主的態度を堅持して譲らなかった。かくして漸くその手掛りを見出し、明治十五年八月三十日、済物浦において、弁理公使花房と朝鮮全権大臣李裕元との間に済物浦条約が調印されて、この難問題を解決することができた。

 日朝間の確執は、壬午の変を契機として一応収拾されたかの感があったが、国内における政治家.学者達のこれに対する批判は容易に収まらなかった。特にこの修好条規の実施については、更に基本的な問題に関して識者の論議を呼び、我が小野梓もまた、逸速く同年十月十四日、東京明治会堂において、「外交を論ず」という演題で次のような講演を行い、これに対する国民の関心を高めた。

其東洋に対する政略を言はんに、一言の以て之を蔽ふあり。曰く、支那に与ふるに疑を解くの便を以てせよ、朝鮮に与ふるに怨を散ずるの便を以てせよ、西洋諸国をして東洋の外交に干渉せしむる勿れと、是れなり。諸君試に世界の地図を披き、仔細にこれを見よ。紅海以東独立国の体面を全うするもの、蓋し若干国ある乎。印度は既に英国の有に帰し、安南又た疲れて仏に入り、漠々たる亜細亜大陸の間、能く其独立の体面を全うし、自国の旗章を建つるもの、唯だ僅に我邦と支那とあるのみにあらずや。而して東洋の間に在て文明の率先と為り、夫の改進の治理に従ふものは、実に我邦にあらざる乎。我邦の位地甚だ重しと謂つべし。然るに従来、日清の間動々もすれば互に相軽んじ、日韓の間又た未だ憤怨の解けざるあり。今にして之を解き、今にして之を散ずるの謀を為さずんば、歳月の久しき疑は愈々凝て争を為し、怨みは愈々積んで戦を為すに至らむ。惟ふに是れ東洋の大局に利便なる乎、蓋し然らざるべし。今や我東洋は西洋諸国と交際を開き、強国は壌を接して涎を垂るるあり、富国海城を浮べて眼を注ぐあり。その勢の切迫する、決して百年以前の東洋に非ざるなり。惟ふに此の間に当て、東洋人の処する所最も易からず。而して我邦は実に東洋文明の先導者たり。その此の間に処する、又一層の難きを覚ゆ。然れども我邦自から奮つて此位地に立てり。此際焉んぞ其難きを避け、以て東洋の大局を誤まるを得んや。而して我邦の此際に処する、唯だ宜しく支那の疑を解き、韓人の怨を散ずべきのみ。顧ふに政府はこの東洋の大勢を観察して、此際に処せしものある乎。宍戸〔〓〕君北京を去て以来、公使清国に赴かず。近日に及んで始めて榎本〔武揚〕君を派遣せしは、果して是れ日清の交誼を厚うするに利益ある乎。将た米韓の支那に依て条約を結び、本邦は嘗て与り知らざりしは、果して日韓の関係を鞏くせしものと謂ふべき乎。朝鮮の暴徒我が公使館を襲ひ、公使万死を出でて一葉の陋舟を浮べ、僅に英国の艦舟に扶けられて本邦に帰りたるが如き、是れ韓人の怨み未だ解けざるの証に非ざる乎。馬建忠、丁汝昌、兵卒を率て漢陽府に入り、将に日韓の談判に干渉せんとせしが如き、是れ清人の疑ひ未だ散ぜざるの証に非ざる乎。余は政府の深く玆に注意して、東洋の大局を誤ることなからんを冀へり。今や幸にして、我天皇の威徳と我国民の勢力とに依て朝鮮の局を結びしと雖も(世人は韓事終局の功を以て花房氏に帰すと雖も、余は之を我天皇の威徳と我国民の勢力とに帰せざるを得ず。顧ふに天皇の威徳と国民の勢力あるにあらざれば、千の花房氏あるも終に其局を結ぶ能はざるべければ也)、事の玆に至りしは決して東洋大局の利益に非ざるなり。而してその後を善くするの責は、本邦実に之に任ずべきが如し。顧ふに我日本人は、五十万の償金を貧弱なる朝鮮に課し、自から快しとする乎。余は勢ひ之を愉快なりと揚言する能はざるなり。況んや未だ其戦端を開かずして之が極を結びたれば、五十万の償金を課する或は説なしと謂ふべからず。然れども今や既に業に之を収むるを約せり。余今敢て其得失を追論するを欲せず。但だ夫の償金を使用するの方法に至りては、余は多少の冀望なきを得ず、余は切に望む、我政府は此償金の使用を公明正大にし、之を韓人の怨を解き、清人の疑を去るに足るべきものに用ゐ、以て禍を転じて福と為さんことを。惟ふに是れ他なし、唯だ宜しく此五十万の金円を費し、之を朝鮮の開化を進むるに足るべき事業に用ゆべきのみ。諸君の了知するが如く、朝鮮未だ郵便の設あらず、朝鮮未だ電信の設けあらず、燈台の築くべきもの、港湾の凌ふべきもの、蓋し許多ならむ。是を以て余は此五十万金を収めて之を我が国庫に入れず、直ちに之を朝鮮政府に与へ、之を以て夫の数者を築造せしめ、以て朝鮮の進歩を助けんことを望めり。顧ふに若し我が政府にして能く之を行ふをせば、其名正しくして、韓人稍々旧怨を散じ、清人も亦た従て其無益の疑を解くに至らむ。是れ所謂一挙三得の事にして、其東洋の大局に利便ある、余信じてこれを疑はず。若し然らずして償金を収めて自から快とし、我れ韓人を威服せり、我が武是れ揚ると謂ふに至らば、韓人は愈々怨み、清人は愈々疑ひ、其極や東洋の大局を誤るに至らむ。是れ豈吾人の賀すべき事ならんや。且つ朝鮮は果して独立国なる乎、将た清国の所属なる乎は、近時の一問たり。惟ふに当局者は如何か之を処せんとする。論ずる者間々或は西洋の各国を招同して其関係を正さんことを冀ひ、現に英国の如きは之に干渉せんと欲するの情あり。惟ふに是れ東洋の利便なる乎。蓋し然らず。既に論ずるが如く、紅海以東独立の体面を全うするものは、唯だ僅に我と清とあるのみ。而して各国共同の干渉を受け、遂に其大勢を誤りしは土児格の既に経験せし所ならずや。然るを今各国を招同して、東洋諸国の自決すべき事問に干渉せしめ、夫の僅に残れる東洋の独立国をして既に覆へりたる土児格の弊轍に陥らしめんとす。蓋し又た歎ずべきなり。今余を以て之を見れば、日清韓は共同して其関係を正し、朝鮮を以て独立国と為すも、之を以て半独立国と為すも、一に皆な東洋の大局に利便あるの要に於て之を決すべし。又た必ずしも小節に拘泥して、東洋の大局を誤るべからざるなり。惟ふに東洋の大局を誤らずして亜細亜の盛なるは、独り東洋の幸福なるに止まらず、又洋外交際諸国の共に其利を受くべきものなれば、夫の諸国と雖も亦た必ず此挙を賛成するならむ。之を要するに、外交の事は一国利害の係る所にして、一旦之を誤れば其禍一時に止まらず、永く延万世子孫に及ぶべきものなれば、其之を処する、決して一時投機の小智を以てすべからず。必ずや其大勢の赴く所を察し、所謂大智謀を以て之を処すべきのみ。知らず、今の当局者は、能く大智謀を以て夫の外交を処するある乎。余は諸君と共に之を観察するあらんと欲するなり。 (『小野梓全集』上巻 四七八-四八一頁)

 小野がこの講演を行った十五年十月十四日といえば、我が東京専門学校の名誉ある開校式を一週間後に控えた時である。彼は学苑の当の責任者として、学内の整備に寧日がなかった筈であったが、その間よく時局を洞察し、東洋を欧米の桎梏から解き放って、独立の体面を保たしめんと冀求する念やみ難く、敢えて講壇に立ち獅子吼したのであった。ところでこの演説中特に注意すべきは、朝鮮に課した五十万円の償金を彼に返し、その施設を改造する費用に充当せしめんと乞うた点であった。明治新政成って僅かに十五年、我もまた決して豊かではなかったのであるが、「顧ふに我日本人は、五十万の償金を貧弱なる朝鮮に課し、自から快しとする乎。」と反省し、窮乏を共にせんと計り、日朝共存の実を挙げて東洋の独立を冀求したのは、まことに立派な意見であったと言えよう。尤も小野のこの意見は、既に我が学苑の良友とも称すべき慶応義塾の創設者福沢諭吉など一部の識者の間にも唱えられていたものであった。そしてこれら識者の意見が当路者に通じたものか、この間二ヵ年の歳月を閲しはしたが、漸く十七年十一月二日に至って、償金五十万円中四十万円を朝鮮に返すことが決定した。

 既にして朝鮮では、親日派の青年官僚金玉均らを中心とした政治グループが独立党と自称し、清国の勢力に依存しながら封建的支配を一層強化しようとする事大党(閔妃一派)に対抗し、国王を説得しながら政治改革を推し進めようとしていた。時あたかもよし、事大党の後楯となっていた清国が、対仏戦争の敗北によって内外に面目を失していたから、日本の有力な後援を頼みにした独立党は、一八八四年(明治十七)十二月四日、突如として京城にクーデターを断行し、駐韓弁理公使竹添進一郎の率いる日本駐留軍とともに王城を占領した。世にこれを甲申の変という。金玉均らは、クーデターを起した翌五日に閔妃一派の守旧派の重臣達を殺し、その翌日には開化派政権による新政綱を発表した。それは門閥の廃止、軍制の改革、警察制度の改革、大院君の帰国実現等を掲げたが、清国の出兵によりこの政変も瞬時にして失敗に終り、金玉均らは十二月十一日、日本に亡命した。

 一方甲申政変の報が我が国に伝わると、壬午の変の時には非干渉を主張した民権派も開戦論を唱え始め、改進党の役員の中でも、藤田茂吉、箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄ら七名は、朝鮮政略に関する意見書を参議伊藤博文に提出し、清国との開戦を敢えて辞せずとする強硬意見を開陳した。自由党を代表する新聞の中でも『自由新聞』は、壬午の変以来中立を標榜していたが、この甲申の変を知るとにわかに態度を一変して強硬論を主張し、京城を占領して開化派を助け、清国に対して懲罰の賠償金を要求し、事の次第では出兵せよとさえ唱えた。その他、板垣退助、片岡健吉らは高知にあって清国との即時開戦を叫び、義勇兵を組織した。我が学苑においても、先に朝鮮を助けて独立国たらしめんとした小野が、清国軍の介入に業を煮やし、中国膺懲を是とする意見さえ示した。『留客斎日記』十七年十二月十五日の条には、次のような考えを述べている。

此の際我が政府は、宜しく先ず我が威を示して之れを善処すべし。朝鮮は一たび文明の風を蒙つてより、国歩漸く難し。今日の勢を以て之れを言えば、則ち或は未だ其の文明の基を定めるに及ぼずして、早既仆去せんことを恐る。若し此の事有らんか、是れ我が利に非ず。故に此の際に当つて、我が政府は宜しく間接に朝鮮の開化党を援け、之れをして其文明の基を定むるの便を得せしむべきなり。是れ我が政府先ず威力を示すべき所以なり。而るに蓋し之れを以て清国政府の自大の気風を挫き、併せて恃清党の気力を奪い、以て其の便を与うべし。況んや此の回の事は、清国の兵士に交渉すれば、補償を清国に求むべきの情有り。我政府は宜しく先ず其の威を示して、速かに其局を結ぶの謀をなすべきなり。(原文は漢文)

 ところでこれに対し、政府は一体どのように対処したであろうか。甲申の変について竹添公使からの第一報は、事変発生後九日を経た十三日に外務省に到達した。時に外務卿井上馨が不在だったので、外務大輔吉田清成は外交を管掌していた参議伊藤博文にこれを報告したから、伊藤は直ちに登庁し、首脳を集めてその善後策を協議した。当時政府部内では、竹添公使が独断で兵を率い、王城に侵入した越権行為を非難する声が高く、彼を以てしては到底事局を収拾することが不可能であるとし、より有力な政治家を派遣して、その局に当らしむべしとする意見が大勢を支配していた。そして十九日、天皇は大臣参議を召集して廟議を開き、井上馨を特派全権大使に任じ、便宜行事の全権を委ねることになった。

 井上大使は小倉連隊から派遣された二個大隊の護衛兵を従え、二十八日に下関を出港して渡韓した。対鮮交渉は、翌十八年一月七日から彼の全権大臣左議政金宏集との会談に始まって、紆余曲折の結果、一月九日漢城条約調印の運びとなり、比較的速かにこの問題に終止符を打つことができた。これはもとより、事を穏便に解決しようとした政府当局の態度に基因したのであるが、時局を洞察する政治家も等しく平和解決を考えていた。例えば改進党前党首大隈重信は、その党役員の中から開戦論者が出たにも拘らず、穏和なる解決を期待していた。すなわち、一月十七、八日頃、彼は全権大使井上馨の対韓条約の成功を聞いて大いに喜び、次の如く評したと伝えられている。

此度ノ事ヲ処スル、須ラク平和ノ主義ヲ執ルベシ。而シテ此主義ヲ把持シテ確然動カザルハ、伊藤・井上二君ノ外ニハ内閣ニ於テモ数人ヲ得ザルベシ。且ツ又二君ノ平生ニ由リテ之ヲ推スニ、此平和ヲ必要トスル主義ヲ結構スルニ三大主要ヲ観察シタルニ由ルナルベシ。何ヲカ三大主要ヲ観察スト謂フ。曰ク、政治ノ方向、曰ク、財政ノ整否、曰ク内治ノ安否是レナリ。今ヤ旗鼓ヲ整へ、三軍ヲ発シ、大ニ外征ヲ試ミンカ。吾邦廃藩置県日未ダ久シカラズ、人心猶ホ封建制度ヲ羨ムノ痕跡除カズ、政権モ尚ホ平均ナリト謂フコト能ハザル時ニ際シ、大ニ武威ヲ張ルハ国家ノ為ニ甚ダ宜シカラザル訳アリ(此処大ニ意味アルガ如クニ聴キ取レリ)。又財政ヲ謂ハンカ。維新日浅ク会計纔カニ緒ニ着クヤ、十年西南ノ役アリ、為ニ大ニ紊レ、上下之ニ苦シム。其後七年ヲ経ルモ、創痍未ダ全ク癒エズ。此時ニ当テ一タビ戦端ヲ開カバ、瓦崩、潰裂、復タ整理ノ途無キニ至ルハ智者ヲ待タズシテ知ルベキナリ。又タ内治ヲ顧ミンカ。常禄ニ離レシ不平士族ハ暖衣飽食ノ旧ヲ慕ヒ、政論ニ鼓動サレシ疎暴論者ハ我レ取ツテ代ルベシト気込ミ、内訌ト外患トヲ問ハズ、苟クモ釁ノ以テ乗ズベキアラバ、機ニ臨ミ以テ我意ヲ逞マシウセント欲スル者甚ダ多シ。加之ニ、近来金融恐慌ノ際、窮乏ニシテ無事ニ困シムノ徒、動モスレバ席旗、竹槍ヲ掲ゲテ乱暴ヲ演ゼントス。是時ニ於テ力ヲ外征ニ用ヰバ内鎮自ラ軽シ、無謀ノ徒一タビ手ニ唾セバ、内海ノ安固復タ保シ難シ。是レ其日韓葛藤ニ付テハ、飽マデモ平和ノ主義ヲ執ルノ止ムベカラザル所以ナリ。(『秘書類纂』朝鮮交渉資料中巻 四七―四八頁)

 しかしそのお膝元である東京専門学校からは、前述した小野梓の開戦論が現れ、我が学苑の生徒の中には、参議伊藤に対して、強硬交渉を所期する上申書すら提出した者もいたのであった。この上申書は、伊藤博文編『秘書類纂』外交篇中巻に載せられているから、今ここにその全文を掲げておこう。

草莽布衣之某等謹デ一書ヲ伊藤公閣下ニ呈ス。這回韓地ノ事変相起リ候ハ、我ガ日本帝国ノ一大事ニシテ、其結局ノ如何ニヨリ我ガ帝国ノ体面ニ関係アル少々ナラザル事ト奉存候。若シ今日果断ノ御処分無之ニ於テハ我ガ帝国ノ威権ヲ損シ、国家ヲシテ容易ナラザル地位ニ立至ラシムル儀ト存候。抑モ清軍及ビ朝鮮暴民ノ我ガ帝国ニ対シテ無礼ナル事ハ今更ラ某等一同ノ陳述致スマデモ無之次第ナルガ、彼等ガ我ガ公使ヲ襲撃シ、剰へ日本人ト認ムルトキハ之ヲ殺害スベシトナド揚言致シタルガ如キハ言語同断ノ事ニシテ、我ガ帝国臣民ガ悉ク切歯扼腕致ス所ニ御座候。右ニ就キ大政府ニ於テモ既ニ特派大臣ヲ御差遣相成リタルハ充分ノ御談判有之儀トハ奉存候得共、草莽布衣ノ臣民ハ尚ホ杞憂ヲ抱キ、剣ヲ撫シ慷慨罷在申候。実ニ彼等ガ無辜ノ人民ヲ屠戮シ、我ガ商估ノ財産ヲ焚掠シ、我ガ公使館ヲ一炬ニ付セルガ如キハ、我ガ帝国ノ名誉ト威権ヲ毀損スル極メテ甚シキモノニシテ建国以来二千五百有余年ノ久シキ、未ダ嘗テ之レアラザル所ナリ。若シ此ノ時ニ際シ断然手強キ御処分ナクンバ、斯カル大恥辱ヲ洗フ事能ハザル儀ト奉存候。此レガ為メ某等ノ思考仕ル所ニテハ、左ニ列叙スル如キ佃条ノ要求ヲ為シ、彼レ若シ之ヲ承諾セザルニ於テハ直チニ同問罪ノ師ヲ起シ、正々堂々ノ陣ヲ張リ彼レヲシテ懾服致サセ候ハデハ、到底我ガ帝国ノ体面ヲ全フシ我ガ帝国ノ威厳ヲ輝ス事ニハ至リ兼ル儀ト奉存候。

第一 清国ニ向テ朝鮮国在留ノ支那兵ヲ撤去シ爾後其干渉ヲ絶ツ事。

第二 清韓両国ニ向テ這回ノ首唱者ヲ死刑ニ処セン事ヲ要求スル事。

第三 清韓両国ニ向テ実際損害ノ外充分ノ要償ヲナサシムル事。

右ニ陳述致候ハ帝国臣民ノ挙テ切望スルノ要点ニシテ、其他今回ノ死者ハ礼ヲ厚クシテ葬ラシムル事、及ビ死者ノ遺族へ相当ノ手当ヲナサシムル等ノ如キニ至リテハ外交上ノ慣例アル事ト存ジ候得バ、敢テ某等ノ上申スル迄モ無之義ト奉存候。唯ダ某等ノ切望シテ止マザル所ハ、第一清国ヲシテ朝鮮ニ干渉セシメズ、又日本臣民ガ満足スル所ノ多額ノ償金ヲ要求スルニ在ルナリ。外交上ノ枢機固ヨリ草莽布衣ノ能ク知ル所ニアラザル儀トハ存ジ候得共、若シ万一右等ノ要求ヲシテ満足セシムル能ハザルガ如キアラバ、我ガ帝国ニ取リ此ノ上モナキ恥辱ナレバ、苟モ我ガ臣民タルモノハ粉骨砕身以テ国威ヲ輝カサザル可ラザル儀ト決心罷在候。某等神迫リ情急ニシテ充分ノ衷心ヲ吐露スル能ハズ。仰ギ願クハ唯ダ一片報国ノ丹心ヲ御酌量有之、閣下海容ノ至仁ヲ垂レ、某等一同憂国ノ微衷ヲ貫徹セシメ賜ババ、啻ニ某等ノ幸ノミナラズ、実ニ帝国臣民ノ満足仕ル儀ト奉存候。

右愚衷ヲ陳述仕リ度尊厳ヲ憚ラズ敢テ之ヲ左右ニ呈ス。某等恐惶恐懼頓首再拝

明治十七年十二月廿五日

伊藤博文殿 閣下

東京専門学校寄寓愛知県士族 山田英太郎印

〔以下一一八名連署連判略〕

(一七二―一八二頁)

上申書の前文は、我が国民の中に強硬論を唱える者をそのまま代表したと言うべきであるが、要は後文に盛られた三ヵ条に集約することができ、漢城条約においてはこの要求がほぼ達成された。

 ところで、この上申書に名を連ねている者は、愛知県士族山田英太郎をはじめ合計百十九名に達している。当時の本校生徒数は百八十-百九十名と推察されるから、これに加盟していないのは六十―七十名ということになるが、上申書の末尾に、東京専門学校寄寓とあるところからみると、多分、寄宿舎生のみが相計ってこれを起草したものと考えられる。その証拠に、連名の肩にそれぞれの出身地が記されており、これが東京と数県を除く地方の出身者であった。統制上から言えば、この方が都合がよかったからで、東京出身者の中にも強硬論者がなかったわけではなかろう。更に寄宿舎を中心としたと考えられるのは、吉田復平治や門馬尚経のような寄宿舎に関係ある職員達までが、その名を連ねているからである。しかし一応これらの考証は差し置くとしても、我が学苑に籍を置く生徒の大半が、こうした日本の朝鮮半島支配の狙いを核心に包み込んだ朝鮮への政治介入について関心を払い、時を移さず蹶起して、台閣の責任者にその解決を迫っている事実は、まさに日本の東アジア侵略政策を支え、のみならずこれを加速するものであったと言わなければならない。