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第七編 戦争と学苑

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第一章 苦悶する日本

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一 太平洋時代の出現

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 世界の、従って日本の現代史に対して持つ第一次世界大戦の影響は頗る大きい。第一次大戦が戦後世界にもたらした最大の結果は、太平洋時代の出現――それは、バラクラフ(Geoffrey Barraclough)が『現代史序説』で指摘しているように、既に今世紀初頭にシオドー・ローズヴェルトの予見するところであった――というものであろう。それまで、世界史の舞台は大西洋にあり、主役はイギリスをはじめとして、フランス、ドイツ、ロシアなど西欧資本主義諸国であった。第一次大戦は世界支配を求めての、これら主役国の角逐から生じた闘争であった。大戦はドイツの敗北に終ったものの、イギリスなど戦勝国も深く傷ついた。ロシアではボルシェヴィキの革命が起って、ツァーリズムが崩壊し、ソヴィエト国家の成立をみたのである。

 西欧諸国に代って、主役として登場したのがアメリカ合衆国であった。一九世紀末に起った電気・化学・内燃機関に関する一連の発明・発見とその工業化過程――それを第二次産業革命と呼ぶ者もある――をリードしたのはアメリカ合衆国であるが、第一次大戦はその巨大な工業力を経済的に最大限に利用する機会を同国に提供した。大戦が終った時、アメリカの国際収支の累積黒字は一九一三年から一九二四年に至る間で四十四億五千万ドル余、その金保有量は一九二五年において世界総額の約四五パーセント、三十九億八千万ドル余に達した(宮崎犀一・奥村茂次・森田桐郎編『近代国際経済要覧』一二六頁、一三二頁)。こうして、同国は文字通り世界最大の資本主義国となった。

 アメリカに次いで日本の躍進も著しかった。大正三年(一九一四)、二十億円に近い外債をかかえ、連年の貿易赤字に苦しんでいたのが嘘のようであった。日本は東アジア、東南アジアの市場の主人公となり、未曾有の輸出ブームに沸き返った。また、鉄鋼、機械、化学薬品などの輸入の困難に対処すべく、政府の強力な指導のもと、重化学工業化が著しく進んだ。尤も、アメリカと比べて底の浅い日本のブームは戦争の終結とともに急速に退潮し、以後、震災恐慌を含む相次ぐ経済的打撃を受け、せっかく蓄えた対外債権も蕩尽し、やがて世界恐慌の大渦に巻き込まれていく。それにも拘らず、この間、日本の経済力・工業力は総体としては確実に前進し、日本とアメリカ、この二つの太平洋国家が今や世界史の方向を決する国家として登場したことは、諸国が認めざるを得ないところとなったのである。

 太平洋時代の出現とは、見方を変えれば、アジアの時代の出現であった。この構図の中には、日本・アメリカの他に、中国とソヴィエト連邦とが加わる。革命の中から誕生したソ連は建国の大義から世界革命を目指し、その具体化がコミンテルンの組織であった。ヨーロッパの革命に失敗したソ連はコミンテルン活動の主方向を植民地化・半植民地化に苦しむアジアにおいた。もともとロシアは半アジア的な国家であったから、ソ連のアジア政策はアジア大国家主義に新しい共産主義の衣裳をまとわせるという性格が強かった。その意味で、ソ連の出現は太平洋時代をもたらす一つの重要な要素だったのである。日本、アメリカ、ソ連の三国が国家としてぶつかる場所は中国であった。勿論、中国の支配を狙ったのはこの三国だけではない。中国こそは一九二〇―三〇年代に、開発のため残された唯一の広大な地域であった。イギリス、フランスなど、西欧の老雄達もこの広い国土に熱い視線を注いでいた。中国は一九二〇―三〇年代の列強の対外政策の交叉点であり、そこでの角逐でリーダーシップを握った国が日本、アメリカ、ソ連であったと言うことができよう。

 世界最大の資本主義国アメリカと新興資本主義国日本とが相対するところ、資本主義国と共産主義ソ連とが鎬を削るところ、そして、世界列強が植民地支配を求めて対立と連合を繰り返すところ、そこが太平洋地域であり、アジアであった。この時代環境が当事国たる日本、アメリカなどに強烈な緊張感を与えたのは言うまでもない。日本の場合、ハーラー・ダービーに臨んだルーキー投手のように、その緊張感は一きわ強烈であった。経済の高度化にも拘らず、否、経済が高度化したが故に現れた大きな動揺。動揺の度に深刻さを増していった社会不安。社会不安の結果であり、原因ともなったボルシェヴィキ革命思想は、ソ連の強大化という現実と結びついて、体制の人々に言い知れぬ恐怖を与えた。この恐怖は満蒙を死守せねばならぬという軍部の戦略に現実性を付与した。

 既に日本は中国に大きな権益と市場を保有していた。満蒙が軍事的生命線ならば、中国は経済的生命線であり、その権益と市場は是が非でも守らねばならない。しかし、現実はこの日本の願望とは反対方向に進んでいた。アメリカ大統領ウィルソンに代表される民族自決と非侵略主義の思想と運動はヴェルサイユ体制により裏切られたとはいえ、世界の被抑圧民族の心に解放を求める火を燃え上がらせた。中でも、二十一箇条条約の押し付けという屈辱を味わわされた中国人民の日本支配の排除を願う気持から出た排日・排日貨の運動は、中国全土に拡がりつつあった。中国の開発を狙う欧米諸国が、燎原の火の如きこの民族運動の展開を、日本追い出しの絶好の機会と考えない筈はなかった。

 中国の情勢は日本の緊張感・危機感をいやが上にも募らせた。中国における日本の地位はおびただしい将兵の血を以て購ったものであるとのアピールは国民感情を激しく揺さぶった。それを何倍も上回る中国人の血が流されたことは思わず、日本人将兵の流した血を無視する中国や欧米諸国の行動を不当とする感情にとらわれがちであったのである。この感情は満蒙死守、中国における権益確保の態度をいよいよ頑なものにすることによって、中国との対立関係はもとより、アメリカやソ連との対立をもエスカレートさせた。この意味では、第一次大戦後の世界の捉え方としては、太平洋時代、アジアの時代に加えて、民族革命の時代と特徴づけることが必要であろう。

 本節に付言して、日米関係の推移についてなお若干述べておこう。第一次大戦の終る頃まで、日本はアメリカに大きな畏敬の念と熱い親愛の情を寄せていた。アメリカは自由と富の国であり、自己の運命を託するに足る天地であると思われた。アメリカ礼讃の紹介は多数に上り、移民としてハワイやカリフォルニアに渡る者も多かった。開国・開港の先導者ペリーやハリスをはじめ、アメリカの人々もまた、極東の小国日本に好意を持った。アメリカは生糸その他、日本の輸出品の最大の市場であったし、電気産業をはじめ、日本の重化学工業化に大きな貢献を果した。こうした友好的な両国の関係が第一次大戦後、何故に対立関係に変っていったのであるか。決定的原因として挙げ得る事柄を見出すのは困難であり、我々はアメリカの太平洋国家としての行動全体こそが、その原因であったと考える。アメリカは一八九七年のハワイ併合、翌九八年のフィリピン、グアム等の領有以来、太平洋国家として行動していった。一九〇五年(明治三十八)の桂・タフト覚書の交換もその証明の一つである。勿論、それは一本調子ではなく、ジグザグの道であった。第一次大戦後にも、同国は大統領ウィルソンの国際連盟政策を拒否し、孤立化へと逆戻りしたこともある。それが世界経済をギクシャクさせ、世界恐慌を惹き起す基礎因ともなったが、それにも拘らず、アメリカの太平洋国家としての動きは不変であった。ワシントン会議で、イギリスと並んで両国の海軍力を日本より著しく優位に置く体制を作ったのも、そうした動きの一環であるし、中国における門戸開放・機会均等を主張し、日本を制する運動のリーダーシップを取ったのも、そうである。

 こうしたアメリカの行動は同じく太平洋国家として拡大中の日本を刺戟せずにはおかなかった。日米関係が友好から対立へと変化した原因を再言するならば、前記の如きさまざまの意義を以て太平洋が世界史の主舞台として出現したこと、これである。昭和初期に、かかる歴史の転換を自覚的に述べた幾つかの文書がある。その代表的なものの一つとして、石原莞爾が六年五月二十二日にまとめた「満蒙問題私見」の一部を引用しよう。

欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ形成セントシツツアル世界ハ更ニ進デ結局一ノ体系ニ帰スベク其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依リ決定セラルベシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルベキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナサザルベカラズ。……我国ハ北露国ノ侵入ニ対スルト共ニ南米英ノ海軍力ニ対セザルベカラズ。然ルニ呼倫貝爾、興安嶺ノ地帯ハ戦略上特ニ重要ナル価値ヲ有シ我国ニシテ完全ニ北満地方ヲ其勢力下ニ置クニ於テハ露国ノ東進ハ極メテ困難トナリ満蒙ノ力ノミヲ以テ之ヲ拒止スルコト困難ナラズ。即チ我国ハ此拠ニ初メテ北方ニ対スル負担ヨリ免レ其国策ノ命ズル所ニ依リ、或ハ支那本部ニ或ハ南洋ニ向ヒ勇敢ニ其発展ヲ企図スルヲ得ベシ。

(角田順編『石原莞爾資料――国防論策――』 七六―七七頁)

中国東北部(満州)を抑えてソ連の動きを封殺し、中国本土に勢力を張って、欧米諸国を抑え、以てアメリカと太平洋の覇権を争おうというのである。今日から顧みれば、太平洋時代という現実の展開が石原の口を藉りて自らを表現したとも言い得るので、日本の置かれた地位の自覚そのものは間違っていなかったとしても、この自覚を基礎に、何を考え、何をなすべきかの判断はあまりにも傲慢、且つ短絡的であったと言わなければならない。興奮の上に立った判断に身を委ねたところに、日本の誤りがあった。

 この石原の私見がまとめられてから僅か三ヵ月余の後に、軍部は柳条湖事件をたくらみ、尻尾が頭を動かすような形で満州事変という軍事的冒険に突入していく。それは、昭和二十年八月十五日の全面的敗北に至るまで続いた長い長い戦争の幕開けであった。

二 大衆社会とその限界

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 大正末期から昭和十年代初期までの日本は政治的には激動の時代であったが、半面、重化学工業の発展、電力の普及など経済の高度化の上に都市化が進み、風俗の西洋化を伴いつつ大衆社会的状況が現れた時代でもあった。大衆社会化・西洋化の推進力となった代表的商品はマス・コミュニケーション商品であった。映画・レコード・ラジオが急速に普及し、また新聞・雑誌が驚くほど発行部数を伸ばしていった。

 娯楽本位の活動写真は文明的な映画に脱皮し、民衆の生活に大きな影響を与えた。特に、洋画は都市中間層のものの考え方、態度・服装に強く作用した。彼らはそこに西洋を見出したと言っても過言ではない。また、レコードの大量生産はクラシック、ジャズ、シャンソンなど、さまざまなジャンルの西洋音楽を民衆の生活の中へ浸透させた。映画・レコードは相俟って、モボ・モガの闊歩する銀座・新宿などの都市風俗を作り出し、少くとも感性的には、一部の日本人を国際人にしたのである。

 しかし、当時最大の重要性を持ったのはラジオであった。東京放送局の芝浦仮送信所から初の試験放送電波が流れたのは大正十四年三月一日のことであるが、愛宕山放送局が完成し、同年七月十二日から本放送が始まるとラジオは忽ちにして民衆の心を捉え、受信器を手許に持てない人々は拡声器を備えた店頭に群集した。ラジオ放送は日頃文字に親しまない人々にもさまざまな情報を伝えた。いわゆるニュースは広く民衆に受け取られ、歌唱の放送は流行歌を氾濫させた。相撲や野球を熱狂的なスポーツにしたのもラジオが与って力があった。こうした中で、早慶野球戦は人気のクライマックスを迎えることになる。ラジオの流すこれらさまざまではあるが一定方向を持った情報に従って、それまでは考えられもしなかった数の日本人が動き、共通の関心・共通の話題が生み出された。ラジオは大衆社会出現の強力なメディアとなったのである。それだけに、ラジオは民心を操作する手段とも容易になり得た。まだ愛宕山から放送電波が流れる前に、早くもラジオが全体主義の手段となる危険を認識していた人々がいる。室伏高信が十四年七月発行の『改造』(第七巻第七号)誌上に寄せた「ラヂオ文明の原理」はこれを指摘して余すところがない。

有線は個人的である。無線は集団的である。前者は個人主義を代表し、後者はコレクチビズムを代表する。前者は相互的である。後者は命令的である。前者は自由である。後者は独裁である。有線の世界においては、人々は相互にその欲するところの言葉を交換するのである。従つてまたその欲せざるところの言葉を交換することを余儀なくされることはないのである。無線の世界においては事態はそれとは正反対である。人々はその欲するところを聴き、その欲せざるものに耳を蔽ふてゐるのではない。欲するも欲せざるもそこに声がある。その声は一方的である。凡ての命令者のそれのごとくに一方的である。……彼〔聴き手〕には撰択の一つの権利もなく、彼には抗弁の一つの機会もない。唯々諾々として、ラヂオの放つところの一日の声を神の声として、一々に耳を傾けなければならないのである。 (四二―四三頁)

同じことは、当時急速に全国紙化した大新聞についても言える。日本における新聞の発行は幕末、明治維新早々に始まるが、長く地方新聞・政治新聞の性格を保ち、一紙の発行部数は少かった。現在の『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』などが全国を制覇し、三大新聞となるのは昭和六、七年頃からである。大阪以西では『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』が早くから他紙を圧していたが、昭和七年版『出版年鑑』によれば、東京では名の通った新聞だけを数えても十九紙に上った。大正十二年八月の数字によると、発行部数は『報知新聞』三十四万、『国民新聞』と『時事新報』が三十万、『読売新聞』と『万朝報』は十万台、『東京朝日新聞』と『東京日日新聞』はともに二十四、五万程度であった。しかし、昭和に入ると、事態は急変する。資本力を有した朝日、毎日が駸々として拡大した。拡大の条件は社会欄、家庭欄および小説などに多くの紙面を割き、また、写真・グラビアを多く掲げるなど、印刷・写真技術を駆使しての記事の大衆化であった。この条件整備に遅れた新聞、整備する資力を欠いた新聞は没落しなければならなかった。『時事新報』が廃刊し、『東京日日新聞』に合併されたのは昭和十一年、『報知新聞』が『読売新聞』に合併されて、『読売報知新聞』となったのは昭和十七年であるが、廃刊のかなり前から、その影響力衰退は決定的であった。

 政治的・社会的に見て、全国紙出現に伴う最大の問題は政治的中立主義化である。全国紙となるためには都市と農村のさまざまな階層に属する人々をすべて読者としなければならないから、一定の方針に基づく断乎たる政治的主張は禁物となる。しかし政治的中立主義とは、抽象的な原則を述べて、その時々の権力、或いは勢力を直接的には批判・弾劾しないという主義に外ならない。かかる主義を以てしては政治をリードすることはできない。それは、存在する政府や支配的となった政治的主張に結局は追随することになる。新聞は全国的大新聞になるため、或いは全国的大新聞になったために、世論を形成して現実をリードするという新聞本来の使命を捨てたのである。大衆社会の中から生れた大新聞は、やがて政治状況の変化とともに、大衆社会の圧殺に手を貸した。いわゆる十五年戦争に向って、民衆の愛国心を動員する手段として、新聞は学校以上の効果を発揮することになるのである。

 この兆候は大新聞成立の出発点、すなわち昭和六、七年頃において、早くも見られた。軍部革新派将校の動きは、六年、三月事件、十月事件という形をとって危険な姿を隠顕させた。陸軍中佐(当時)橋本欣五郎、同大尉(当時)長勇をリーダーとする急進派将校は軍事クーデターによって内閣を倒し、宇垣一成大将を主班とする軍人内閣を作り、彼らの考える一連の革新を行おうと謀議していたが、六年三月、露見した。これを三月事件という。しかし、橋本らは性懲りもなく同年再度、クーデターを計画する。この度は、三月事件の時よりも綿密・具体的で、荒木貞夫を首相兼陸相に据えるなど閣僚名簿が作成され、軍事力の行使の手筈も計画されていた。世にこれを十月事件という。僅か半年あまりもの間に二度までも大胆不敵な政府顚覆の陰謀が企てられた直接の原因は、三月事件を不問に付した政府の対処の誤りである。十月事件の際には政府もさすがに関係者を処分したが、その処分なるものは、橋本中佐は重謹慎二十五日、長少佐らは十日の重謹慎という、信じられないほど甘いものであった。こうした政府の弱腰が、政府与し易しとの感を革新派将校らに与え、一層過激な行動に走らせたのである。

 新聞の態度も問題であった。新聞は二つの事件が意味する深刻な危険性を世に知らしめ、厳しく弾劾して批判の世論を盛り上げるべきであった。しかし、新聞はその使命を果さなかった。革新派の人々は政府、重臣とともに、世論もまた与し易しと考えた。否、世論は自分達に同情的であると判断した。こうして、翌七年、世を震憾させた五・一五事件が起ったのである。

 五・一五事件は、拳銃を携えた海軍将校が陸軍士官学校生とともに首相官邸に押し入り、和服の着流しの犬養毅首相を射殺し、橘孝三郎配下の愛郷塾農民有志が東京周辺の変電所を襲うという、まさに革命的事件であった。このような事件が起ったからには、政府は先ず、それが日本にとり最も有害な行為であり、断じて許されないものであることを天下に宣言し、次いで関係者を峻烈に処罰するとともに、軍部に対して有効適切な制度上・人事配置上の大改革を行うべきであった。しかし、政府はそれらを行わなかった。裁判を開いて処罰はしたが、最も重い者でも禁錮十五年、直接には手を下さなかった民間人の橘孝三郎ひとりが無期懲役となった。この度も政府・軍幹部は問題の本質に触れることなく逃げたのである。大新聞もまた事件の本質糾明を避けた。『福岡日日新聞』など地方新聞が僅かに気を吐いたのみであった。同紙の昭和七年五月十七日号朝刊に載った編集局長菊竹淳(六鼓、明三六英語政治科)の社説「敢て国民の覚悟を促す」は、次の引用に見られる如く、事件の持つ危険性をズバリと突く名社説であるが、世論には殆ど影響し得なかった。菊竹は、本来、政治に中立であるべき軍部が政治に容喙し、自己の考えを押し通すために、反対と目する政府首脳を殺害して憚らぬという態度は、まさに亡国の兆しである、我々のとるべき唯一の道は、立憲代議政体の堅持・発達のための努力であって、他にはない、との主張を行間に込めて、左の如く論白した。

明治大帝が、軍人に対する勅諭において「兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はず政治に拘はらず」と戒められたるその大精神は、日本軍隊と軍人との間に徹底し、いやしくもそれに違背し奉るがごとき不逞の徒ありて、日本国軍の拠って立つ精神的基礎に斧鉞を加えんとするがごときことは、ありうべからずと思われたのみならず、上官の命は朕が命と思えと宣いたるその精神を一貫して、命令と服従との縦の関係においてのみ、日本国軍は厳粛にして尊貴なる存在であり、もし、軍隊と軍人の間に、政治を論じ、時事を語りて、あるいは少壮佐尉官、あるいは下士というがごとく、横の関係がいったん発生するにおいては、帝政末期、革命当時のロシアにおけるがごとく、ついにその風潮が一般兵士間に浸潤し、軍隊と軍人とは豺狼よりも嫌悪すべき存在となり、国軍まず自ら崩潰することは必然である。……何人といえども、今日の議会、今日の政治、今日の選挙、今日の政治家に満足するものはない。そこに多くの腐敗があり、欠陥があり、不備不足があることは事実である。にもかかわらず、ゆえにわれわれは、ただちに独裁政治に還えらねばならぬという理由はない。ファッショ運動に訴えねばならぬという理由はない。独裁政治が、今日以上の幸福を国民に与うべしと想像しうべき寸毫の根拠もない。ファッショ運動が、日本を救うべし、と信じうべきなんらの根拠もない。

(木村栄文編著『六鼓菊竹淳論説・手記・評伝』一九〇―一九二頁)

同紙は、この社説により、久留米第十二師団の軍人や在郷軍人会から威嚇されたのであった。

 社会の木鐸である新聞は、たとい政府が韜晦の姿勢を執っても、自らは事の本質・理非曲直を明らかにすべきであった。真相を知らない民衆は事件の血腥さを嫌いつつも愛国憂国の至情に同情と共感を寄せていったかに見える。

 それにしても、民衆は何故に、かかる激情と過激さに惹かれていったのであろうか。日本の大衆社会化の過程は同時に、それに反撃する感情や勢力を作り出す過程でもあったが、その理由の解明が必要であろう。

三 超ナショナリズムの展開

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 大正末期から昭和十年頃に至る間の最もドラマチックな局面は、大正デモクラシーの中から生れた大衆社会化の過程が、超ナショナリズムと言われる思想の雰囲気のもとに全体主義的・好戦的な社会化過程へと急速に転換していったことである。この転換を導いた基礎的歴史的要因は、大きく言って次の三つであった。第一は体制の人々が体制を守るために採った反動的諸政策、なかんずく、治安維持法の公布とその厳しい執行である。第二は大衆社会の進展それ自身が作り出した矛盾・衝突、具体的に言えば、都市と農村の対立である。第三はアジアの時代、民族革命の時代という時代相を伴いつつ現れた太平洋時代、それがもたらした緊張感・危機感である。これらは相互に作用し合いながら、当時を生きた人々の意識へ強いインパクトを与え、超ナショナリズムの積極的推進者と消極的な、しかし広汎な支持層とを作り出した。こうして、大衆社会化の過程は激情的な全体主義的社会化の過程へと転換していったのである。

 先ず治安維持法であるが、それは民衆の現状批判力の封殺によって大衆社会化を発展させた。昭和初頭から十年前後までを「昭和デモクラシー」と呼ぶ人もいる(安藤良雄『昭和史の開幕』一二七頁―一二八頁)。確かにそう捉え得る面もあるが、大正デモクラシーと昭和デモクラシーとは根本的なところで異る。大正デモクラシーの内容を普選運動、社会運動、都市化、大衆社会化とすると、昭和デモクラシーは前二者を欠いている。活力ある政治運動・社会運動は甚だしく衰弱して、都市化と大衆社会化のみが進んだ。こうした変化をもたらしたものこそ治安維持法であった。結果として、昭和デモクラシーには創造的活力が稀薄化し、代って、政治的アパシーと言われる現象が拡大した。かつて社会の発展に理想を見出した学生・都市中間層の多くは物質文明め享楽に耽り、エロ・グロ・ナンセンスと言われた都市的風俗に染まっていった。批判者の目に、それはブルジョア文化の頽廃と映ったのである。

 治安維持法がもたらしたもう一つの結果は、国体の尊厳という観念の肥大化である。国体とは、天皇をめぐる歴史的かつ情緒的な観念である。明治以来、体制側に立つ人々はこの観念を民衆教化の手段として全面的に用いてきた。天皇はあらゆる権力の源泉であり、すべては天皇の御心により行われるのであるとされた。しかし、体制側の人々自身はそうは考えていなかった。権力は時々の内閣が、天皇の名において行使すべきものであった。天皇は国家の最高機関の長であり、天皇といえども国家に従属しなければならない、朕が国家であるべきではない、それが彼らの通念であった。それは、立憲君主政体である以上、当然であった。民衆教化のレヴェルにおける天皇を天皇制の顕教といえば、これは密教であった。政治の実際は顕教の教義のもと、密教の儀式に従って行われたのであると言うことができる。

 治安維持法は天皇制のかかる微妙な運用に狂いを生じさせた。国体を批判するだけでも罪とした同法は法律の名において天皇を絶対化することにより、政府自身もそれに縛られることになったからである。本来、歴史的・情緒的な国体観念は法律的に定義できないもの、定義してもその解釈は多様にならざるを得ないものである。この点で、それはせいぜい道徳のレヴェルにとどまるべきであった。従って、国体を法律の対象とするのは法律を道徳化することに外ならない。法律を道徳化することは法律を主観的、限定困難なものたらしめる。法律的に合法な行為でも、道徳のレヴェルで不当と考えられるならば、結局、法律的にも不法とされることがあり得る。逆の場合も同様である。

 治安維持法は両刃の剣であった。政府は同法で共産党とそのシンパを鎮圧することができたが、同時に国体観念の肥大化により、政府がよって立つ政治的・制度的ブルジョア・デモクラシーそのものを窒息させる危険性を作り出したのである。前節では、五・一五事件に際しての政府の韜晦の姿勢を指摘した。政府を逃げ腰にした理由は今や明らかであろう。国体をふりかざして左翼を切った政府は、国体をふりかざす超国家主義的変革者達に追い詰められたのである。左翼に不忠・不義の言葉を浴びせた政府は、今度は逆に、不忠・不義のレッテルを貼られようとしていたのだ。体制の価値を用いて体制の批判・打倒を決意した変革者達に、政府は沈黙せざるを得なかったのである。このように、治安維持法は、大衆社会を腐朽させることによって変革者を作り出すとともに、変革の武器となる強力な手段(変革の価値)を彼らに与えたのである。

 それでは、変革者はどこから現れたのか。その一部は農村から現れた。大衆社会化の波は全国を洗い、農村も例外ではなかった。しかし、この過程は半面において、都市と農村の対立を顕在化させる過程でもあった。依然として、家と村を核心とする共同体的枠内にいた農民達は大衆社会的現象に惹かれるよりも、寧ろ反発を覚えていたが、その感情は次第に高まっていった。理由の一は頽廃的な都市末梢文明の進行、理由の二は農村の疲弊である。

 第一次大戦後、相次いで襲来した恐慌の中で最も大きな皺寄せを受けたのは農村であった。農村の繁栄の大黒柱であった養蚕・製糸業は激しく上下した。朝鮮・台湾からの植民地米の流入もあって、米価は長期的に低迷した。そこに世界恐慌が襲いかかった。一九二九年(昭和四)十月二十四日のニューヨーク株式大暴落に端を発する恐慌は忽ち世界に拡がり、日本経済も甚大な被害を受けたが、中でも農業のそれはひどかった。世界恐慌の最も苛烈な局面は農業恐慌として現れたからである。砂糖、コーヒー、ココアなどの価格は軒並に大暴落し、世界の農業は呻き苦しんだ。日本も例外ではなかった。日本最大の輸出品であった生糸価格は忽ち三分の一に暴落した。生糸価格の暴落はたちどころに養蚕農家を破滅の淵に追い込んだ。桑は抜き捨てられ、繭は野積みにされた。更に、昭和六年から八年にかけて、東北地方を中心に凶作が続いた。農民達は雑草や松の皮などで飢えを凌ぎ、売れるものは何でも金に換えた。娘は最大の売りものであった。女衒の手によって何万という農村の娘達が全国の人肉市場へ売られていった。家と村は、従って共同体という農村の人的結合は、今や音をたてて崩れようとしていた。

 飢えと崩壊感に苦しむ農民達の目に、都市の大衆社会的状況が頽廃と映ったのはやむを得ないであろう。彼らはこう考えた。農村は再建されなければならない、そのためには、西洋化と軽薄化の色の濃い都市のブルジョア文化をよき日本の伝統によって否定しなければならない、と。こうした農民の感情を変革の思想にまで高めた人々に、橘孝三郎、権藤成卿、井上日召などがいる。橘孝三郎が愛郷会を設け、次いで、大地主義・兄弟主義・勤労主義を掲げて、愛郷塾に農村青年を集め始めるのは六年のことであった。「共に諸共に、よきことより更によき事を自他一切のために願い求めつつ真心を捧げ合つて全く一たる集団生活の農本的なものに生活せしめる」(水戸三郎「愛郷塾」『文芸春秋』昭和七年七月発行 第一〇年第七号 二三八頁)との愛郷塾の方針は、都市の大衆社会化に対する戦闘宣言とも受け取られる。事実、彼らの下に拠った農村の青年の一部は現状否定の過激な行動に出た。ある者は五・一五事件に参加し、ある者は個人テロを企てた。こうして、井上準之助、団琢磨が倒れた。

 変革者のもう一つの部分は軍部から現れた。彼ら変革派軍人もまた、都市を中心とする大衆社会的状況に強い反感を抱き、農村の疲弊を痛嘆した。彼らの多くは農村出身であり、その社会的帰属関係において農民だったのである。しかし、彼らの場合、超ナショナリズムの思想と行動に駆り立てられる別箇の条件があった。既述の太平洋時代の出現がそれである。新しく展開した国際的諸関係は彼らに強烈な危機感と使命感とを与え、対外的進出と国内変革のエネルギーを湧きたたせた。満州事変を序幕とする長期の戦争へと日本を強引に引っ張っていった人物と、五・一五事件を企て、更に二・二六事件というクーデターを演出した人物とは異るが、その心情は同一としてよい。

 なお、国内の頽廃的状況への怒りと対外的危機感とが与えた戦慄は北一輝、大川周明という変革の理論家を生んだ。北の『日本改造法案大綱』は排日の嵐が吹きすさぶ上海で書かれたのである。

 軍部の変革派将校と農村の変革者達は手を結び、ブルジョア・デモクラシーと大衆社会を激烈に撃った。考え方の細部には彼らの間でかなりの相違があったが、現状を変革せねばならぬとの認識と、変革を通じて実現されるべき社会は輝かしい国体の回復される社会であるとの理念とは、共通していた。この点、彼らを導いた思想家達、橘、権藤、北、大川らについても、同じことが言える。立憲制度を守れ、それは明治大帝の御意志でもあるとの、前掲『福岡日日新聞』の論説でも強調された説得に、彼らは耳を貸そうとはしなかった。彼らは考えた。日本の立憲制度は、今や元老・政治家・高級官僚・高級軍人・ブルジョアジーの私利私欲の実現という、明治大帝の御意志とは正反対の目的達成の手段と化している。故に、議会制度を護れとの一見尤もらしい主張は、事実においてば、私利私欲により支配される醜悪な日本を守れとの主張に外ならない。従って、日本を世界に冠たる正しい国にするためには立憲制・議会制の否定以外にない。それは形の上では明治大帝の御意志に叛く行為ではあるが、本質的には大帝に最も忠誠な行為なのである、と。五・一五事件の実行に当り海軍中尉三上卓が記したと言われる一文「日本国民に檄す」は、この忠誠と反逆の一体性、順逆不二の思想・論理を素朴な形で、しかし、それ故に生々と示している。

日本国民に檄す

日本国民よ!

刻下の祖国日本を直視せよ。政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。

政権党利に盲ひたる政党と之に結託して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧制日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と……

日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に既に死なんとしてゐる。

革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。

国民よ! 武器を執つて立て、今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何物もない、国民諸君よ!

天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!

国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!

横暴極まる官憲を膺懲せよ!

奸賊、特権階級を抹殺せよ!

農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ!

而して、

陛下聖明の下、建国の精神に皈り国民自治の大精神に徹して人材を登用し朗らかな維新日本を建設せよ。

民衆よ!

この建設を念願しつつ先づ破壊だ!

凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!

偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す。

吾等は日本の現状を哭して赤手世に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの。

素より現存する左傾、右傾何れの団体にも属せぬ。日本の興亡は吾等「国民前衛隊」決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る。起て! 起つて真の日本を建設せよ!

昭和七年五月 海軍青年将校

(『現代史資料』(4)「国家主義運動(一)」 四九四頁)

これら変革者達の行動はすべて広い意味でのテロに終り、体制の変革には失敗したが、ブルジョア・デモクラシーと大衆社会を激しく揺さぶって、超ナショナリズムと全体主義的・好戦的社会へと方向づけた。彼らの思想と行動は国体明徴運動として引き継がれ、より日常的な形で拡大・浸透していったからである。

 国体明徴運動は日本の文教政策に大きな影響を与え、特に初等・中等教育機関を通して、国民意識をジンゴイズムへと導いた。また議会では天皇機関説批判という形で現れ、結局、議会そのものを否定する基礎を作った。批判に応えて、昭和十年二月二十五日、美濃部達吉が貴族院で行った答弁は、きわめて説得力あるものであったが、美濃部の擁護者はなく、彼は貴族院議員の辞任に追い込まれたばかりでなく、不敬罪で告発された。「天皇の大権を干犯する」危険思想であるとの告発の前に、すべては頭を垂れざるを得なかったのである。法律的に正当でも、道徳のレヴェルで不当と考えられれば、結局、法律的にも不法となるという、前段で指摘した国体のロジックが強力に貫徹していった事実を、そこに見る。しかし、天皇機関説、すなわち天皇の権能を内閣や議会のそれと同列・相互関連的なものと捉えるのが不当不法であるならば、議会の存在理由そのものがないことになる。従って、美濃部を追放し、検事局の召喚を許したその時点で、大日本帝国議会は実質的には死んだと言わねばならない。

 国体明徴運動はまた、軍部における統帥権独立の主張に大きな力を与えた。統帥権とは戦時の用兵権なのか、陸海軍の規模・編成から作戦に至るまでの広い範囲に亘る権利なのかは、多年、争われてきたところである。陸海軍関係者は当然、それを最大限に広く解釈しようとした。天皇の大権を不可侵とする国体明徴運動は、陸海軍にとり百万の味方のようなものであった。統帥権こそ天皇の大権中の大権である。これに内閣・議会が干渉するなど、不忠・不義の至りであるとして、すべては統帥権の名の下に正当化された。既に満州事変が、関東軍の統帥権に名を藉りた武力の発動により惹起された戦争であった。統帥権が陸海軍の広汎な権利として確立する過程は、その実際の行使権が現地将校の手に握られていく過程であり、十五年戦争がそのクライマックスへと駆け上っていく過程でもあった。

 ところで、我々にはまだ検討しなければならない重大な問題が残されている。我々は本節の冒頭で、超ナショナリズムの積極的推進者と消極的な、しかし広汎な支持層との存在を指摘した。これまで記してきたのは前者、すなわち積極的推進者に関してであり、消極的な、しかし広汎な支持層については未だ触れていない。

 消極的な、しかし広汎な支持層とは、国民、或いは国民の一部に外ならない。そう考えることは、超ナショナリズム的国民意識をすべて作為・教化の産物とは考えないのを意味している。勿論、それが作為・教化の結果でもあるのを否定はしない。国体明徴運動の影響の下、学校やマス・コミュニケーションによる超ナショナリズム的国民意識の拡大への貢献は、我々の熟知するところである。それにも拘らず、我々は、作為・教化から相対的に独立した、従って自覚的な国民意識が上からの超ナショナリズムを受け止め、支える面があったのを指摘したいのである。

 素朴な意識の持主ならばともかく、高度な学術や技術を理解し、複雑な資本主義的近代を運営し発展させた人々が、神話的天皇像・天皇観を持ち国体の尊厳の独自性を信じるであろうか。しかし、複雑な自意識を持つ人々の多くが、積極、消極の差はあっても、民族の独自性、それ故に国体の尊厳の意識を持ったのである。では、かかる意識を持たせたのは一体何であったろうか。我々は日本人という歴史的個体の自己確認=自己正当化であったように思う。

 日本近代の出発時の思想は攘夷開国、攘夷のための近代化であったと言ってよい。進歩的思想のうちにも西欧の大国を敵と見る意識があった。敵と肩を並べ、更にはそれを凌駕するには、敵に学び、敵に倣わなければならない。攘夷のための西欧化、近代化というきわめてパラドキシカルな過程こそ、日本の近代化・資本主義化の過程であったのである。こうしたあり方は次第に潜在化していったが、自己確認=自己正当化の衝動は繰り返し起った。

 資本主義世界は周知のように、国民経済=一国資本主義の集合体として展開された。資本の集積と商品の流通は当初から世界的規模で行われた。イギリス経済の変化は直ちに世界経済の変化となったのである。しかし、或いはそれ故に、資本主義は国家をますます強固な枠として造り出していった。本来インターナショナルな経済のメカニズムが歴史的には優れてナショナルな枠を設定していったのは、一個の矛盾であると言わなければならない。ナショナルな枠の設定という課題は、寧ろ政治の問題である。否、それ以上に思想、意識の問題である。故に、いずれのところにおいても、資本主義というシンフォニーにはナショナリズムが通奏低音として流れている。

 資本主義とナショナリズムとの関係は日本では特に問題であった。日本が経験した歴史・文化は抽象的には西欧と共通するものを多く持ってはいたが、具体的にはかなり異る。それ故に、日本の資本主義化は西欧化とならねばならなかった。いわゆる文明開化がそれである。しかし、日本の歴史・伝統を捨てて西欧化するのは難しい。また、それでは、日本の資本主義化・近代化が不可能となる。前述したように、国家・国民という主体の形成なしに国民経済形成はあり得ず、それがなければ、日本の資本主義化もまたないからである。求められるべきは歴史・伝統(日本的価値)と西欧化を合一・止揚して新日本の文化価値を創造することであったが、それはまことに困難な課題であった。日本人の魂は歴史・伝統(日本的価値)と西欧的普遍価値との間を彷徨・懊悩した。現実の過程は、西欧化の時期と国家主義・国民主義という伝統への復帰の時期とが交互に現れるという形をとった。明治初期の欧化主義・自由民権論の盛行はやがて国粋主義・国権論により巻き返された。大正デモクラシー、昭和デモクラシーは何回目かの欧化主義・民権論の時期であった。この度は経済の高度化と大衆社会化の進行の結果、以前の欧化主義・民権論よりも遙かに大規模であった。しかし、逆の面からこの過程を見れば、日本人としての自己認識の急速な稀薄化過程でもあった。更に別の角度から見れば、稀薄化した自己認識に苛立ち、それを回復しようとするエネルギーの蓄積過程でもあったのである。しかも国際的な政治上、経済上の困難はそのポテンシャリティを急速に上昇させていた。

 日本の西欧化過程それ自体に絶えずつきまとった悩みは、偉大な西欧文化に対する讃嘆の念と帝国主義国としての西欧に対する恐怖・憎悪の念との共存であった。後者は、世界が西欧文化の教える理性により支配されているのではなく、力により支配されていることを悟らせ、日本は先ず強国にならねばならぬと決意させた。また、それは、かつて豊臣秀吉がキリシタン文化に対して持ったところの、西欧文化は所詮侵略の武器の一つではないか、西欧文化に心酔することは西欧に侵略されていることではないのかとの考え方をも抱かせるものであった。

 前節で縷述した如く、太平洋時代の主役の一人となったとの意識はそれだけ強い危機感を生んだ。危機感は孤立感を伴った。危機感・孤立感は西欧なり西欧文化なりに対する疑惑を増大させた。これらは相合して、意識ある日本人すべてに強い自己認識の欲求を持たせずにはおかなかった。前編第十一章でも指摘した如く、マルキシズムは日本の学生・知識層の自己認識の論理であった。その歴史主義と国際主義は西欧なり西欧文化なりを相対化・段階化することにより、彼らに新しい自己確認を可能ならしめるかに見えたが、外側から加えられた政治的弾圧と内部的な文化理論の貧弱性の故に、やがてその可能性は消滅した。かかる状況において、日本の歴史・伝統は生の形で復活し、強力な自己認識の論理として拡大していった。世界大恐慌をクライマックスとする経済的不安・動揺、それに引き続く世界的な経済ナショナリズムの展開がこれを促進したのである。すなわち、我々は国体の観念が政治的作為であることを十分に認めるが、同時にそれに似たものが国民の意識として要請された面のあること、そしてそれ故に、上からの天皇制イデオロギーが強固なものとして定着していったことを指摘したいのである。

 昭和初期から十年前後にかけての日本人の屈折した意識を示す例証として、我々は佐野学、鍋山貞親が八年六月に出した転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を掲げて、本節を終えることにしたい。

日本民族が古代より現代に至るまで、人類社会の発達段階を順当に充実的に且つ外敵による中断なしに経過してきたことは、我々の民族の異常に強い内的発展力を証明してゐる。また日本民族が一度たりとも他民族の奴隷たりし経験なく、終始、独立不覊の生活をしてきたことの意義は甚だ大きいのである。之によつて培はれた異常に強固な民族的親和統一と国家秩序的生活の経験とは、内面的に相聯関して、日本の歴史上に生起した数次の階級勢力交替の過程を、他の、異民族的支配と経済的搾取と政治的圧伏とが錯綜せる国々に見られる如き、階級闘争の原始的な、絶望的な、惨烈的な過程とは著しく異らしめて居る。……民族的範疇の無視を以て階級に忠実なる条件と空想するのは小ブルジヨア的思考である。日本民族の強固な統一性が日本における社会主義を優秀づける最大条件の一つであるのを把握できないものは革命家でない。民族とは多数者即ち勤労者に外ならない。……日本共産党はコミンターンの指示に従つて君主制廃止のスローガンをかかげた。前記テーゼの主想の一は、更に一歩を進め、反君主闘争が現下の階級闘争の主要任務であるなどのバカげた規定をしたことにある。コミンターンは日本の君主制を完全にロシアのツアーリズムと同視し、それに対して行つた闘争をそのまま日本支部に課して居る。……我々は日本共産党がコミンターンの指示に従ひ、外観だけ革命的にして実質上有害な君主制廃止のスローガンをかかげたのは根本的な誤謬であつたことをみとめる。それは君主を防身の楯とするブルジヨア及び地主を喜ばせた代りに、大衆をどしどし党から引離した。日本の皇室の連綿たる歴史的存続は、日本民族の過去における独立不覊の順当的発展――世界に類例少きそれを事物的に表現するものであつて、皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある。

(『文芸春秋』昭和八年七月発行 第一一年第七号 二七二―二七三頁)

四 大学・学問に対する政治的圧力

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 学問研究への権力の干渉・圧迫は前編第十一・十二章にやや詳しく述べた如く、大正末期に開始した。我が学苑でも、佐野学猪俣津南雄の両講師が辞職のやむなきに至っている。昭和三年四月には三・一五共産党員大検挙に関連して京都帝大では教授河上肇が、東京帝大では助教授大森義太郎が辞職させられた。九州帝大でも向坂逸郎、石浜知行、佐佐弘雄の三教授が辞任に追い込まれている。しかし、これらはいずれも共産党との政治的関係が理由であり、時には教授会の派閥的思惑がからんでおり、辞任に至る手続も教授会の承認という形をとっている。共産党シンパ事件で五年七月に東京帝大を辞任した山田盛太郎、平野義太郎両助教授の場合も同様であった。

 しかし、昭和八年四月より起った京都帝大法学部教授滝川幸辰の解任事件(滝川事件)は、これらとは全く異る。解任の理由は同教授の『刑法講義』『刑法読本』に不穏当な個所があるとのことであったが、その不穏当な個所とは、政治犯についての一定の理解を示しているとか、姦通罪が女性に過酷であるとしているとかであり、ブルジョア自由主義国では当然の議論であった。要するに、文部大臣がこれらを日本の醇風美俗に反する、故に共産主義的言辞であると一方的に極めつけたのであり、客観的には全くの難くせであった。京大関係者のすべてがこれには承服しかね、総長小西重直も文相鳩山一郎に強く抗議したが、鳩山は文官分限令により五月二十六日滝川を休職処分に付した。既に長きに亘って、人事や講座編成に関する教授会自治が行われており、文部大臣は教授会の決定を受けて大学総長が稟請したところを自動的に承認するのが慣行であった。従って、文部省が大学自治を無視して行政的に行った教授休職処分は、それまでの政治的理由による一連の教授辞任とは問題の性質を異にしていた。当然のことながら、京大法学部教員は結束して反対し、滝川休職が発令されると、教授一同は辞表を提出した。しかし、文部省側の切り崩しに遭い、大部分は辞表を撤回した。辞表が受理され、大学を去っていったのは滝川を含む教授八名、助教授五名、講師二名、助手四名、副手二名であった(『京都大学七十年史』一〇〇―一〇四頁)。

 滝川事件の真相は今もって明らかではない。自由主義的ではあるが、マルキシズム、まして共産党とは何の関係もない滝川のいわば片言隻句を捉えて、大学を辞めさせねばならぬと鳩山個人が判断したとは到底考えられない。そこに狂信的な国体明徴論者蓑田胸喜なる人物が黒幕として登場する。そのアジテーションに煽動された単純な国粋派代議士、更には急進的な軍人がこれに連なっていたとも言われる。これらの一団が政府を動かし、鳩山を動かしたのであろう。国体とか家族主義的同胞国家とかの言葉を押し出されると、抵抗できない状況があったのを、そこに想像することができる。恐らく、鳩山は超ナショナリズム的言辞の呪縛にあってかかる暴挙を敢えて行ったのであろう。

 滝川事件が全国の大学に与えた影響は甚大であった。治安維持法をふりかざす政治的弾圧の嵐が吹きすさぶ中においても、大学の自治、研究の自由を唱えて昻然としていた大学当局者・教授の多くは、この事件を契機としてとみに自信を失い、卑屈な姿勢を執るようになった。特に、大学運営の責任を持つ総長や理事の職にある人達の気遣いは大変なものとなった。実体はよく見えないが、強大な実力を持つある少数者に目をつけられたが最後、法律も慣行も頼りにならないのを身に沁みて感じさせられたからである。そのような雰囲気の中で、文部省の姿が威圧的なものとして大学関係者の上にのしかかっていった。しかし、大学の学問に対する政府・文部省の干渉・統制は案外緩やかであったようにも見える。勿論、マルキシズム思想は厳しい取締りの対象であったが、それとても政治運動との結び付きで問題とされたのであり、純粋な学問研究のレヴェルでは一定度の研究の自由があった。尤も、十八年以降になると状況は大きく変化する。その頃になると、自然科学以外の学問は急速に萎縮せしめられる。しかし、社会・人文科学に対するこの政府の方針は、思想的根拠に基づくのではなく、要、不要という一種の実用的判断から出た。要するに、社会・人文科学は決戦体制にあっては不要な閑文字とされたのである。

 大学に対する政治的干渉・圧迫と学問に対するある意味での不干渉という政府の姿勢は、超ナショナリズムの思想を担った国体明徴運動の思想性の薄弱さに由来したように思われる。それは国体の尊厳、日本国家の独自性を高唱して政治的には絶大な威力を示したが、その内容はいわばスローガンの羅列であり、従って、その威力なるものはスローガンが日本人の心理に与える独特の雰囲気から生じたのである。この証明として、我々は昭和十二年五月、文部省が発行した『国体の本義』を挙げることができる。

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国体の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。 (『近代日本教育制度史料』第七巻 三六〇―三六一頁)

という書出しで始まる肇国の項は、『古事記』『日本書紀』の神話をそのまま引き写して記述している。以下、日本が天皇を中心とする一大家族同胞国家として発展してきたことを強調するのであるが、その大部分は歴史的事実の一面的・感傷的評価であって、思想というものにはなっていない。そして、きわめて異質な「結語」がくるのである。「結語」の内容は、全体の調子と比較してみると、驚くべきものである。何故ならば、そこでは西欧文化を高く評価し、西洋文化について問題なのは、その個人主義的・自由主義的価値観だけなのだと述べているからである。

西洋文化の摂取醇化に当つては、先づ西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、国体の明徴は現実を離れた抽象的のものとなるであらう。西洋近代文化の顕著なる特色は、実証性を基とする自然科学及びその結果たる物質文化の華かな発達にある。更に精神科学の方面に於ても、その精密性と論理的組織性とが見られ、特色ある文化を形成してゐる。我が国は益々これらの諸学を輸入して、文化の向上、国家の発展を期せねばならぬ。併しながらこれらの学的体系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より来る西洋独自の人生観・世界観によつて裏附けられてゐる。それ故に、我が国にこれを輸入するに際しては、十分この点に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。……

かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主義・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまま輸入して、その思想・企画を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。

今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

(同書 同巻 四二二―四二三頁、四二五―四二六頁)

 以上、『国体の本義』の何と奇妙な構成であることよ。日本の国体の万邦無比な所以を記紀神話によって強調する「思想」と西欧文化は依然として不可欠であるとの思想が、空虚なスローガンを別とすれば、無媒介に結合しているのである。日本の自己認識が結局は感慨・情緒以上のものでないこと、従って、国体明徴運動の思想性の薄弱なことを、それは示していると言わねばならない。こういう思想が学問を内在的に支配し得る筈はない。

五 警鐘むなしく

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 いわゆる日本ファシズムの展開過程において、それに対するさまざまなレヴェルでの批判・抵抗が存在したことは言うまでもない。その一端は前編第十一章にやや詳しく述べたところである。ここでは、昭和五、六年以降の我が学苑関係者の言論に限って紹介しておくことにする。それも紙面の関係から、ごく少数の人についてのみ行わざるを得ない。すなわち、大山郁夫津田左右吉および斎藤隆夫の三名についてである。

 大山は昭和六年六月発行の『中央公論』(第四六年第六号)誌上の小特集「日本ファシズムへの展望」に「ファッショ化的傾向とその将来」を寄せ、当時の危険な情勢を大胆率直に批判した(以下、『中央公論』には伏字があるため、これを起した『大山郁夫全集』第五巻所収を引用する)。先ず大山はファシズムの本質を「大工業のおよび金融資本の独裁以外の何物でもない」(二七四頁)と断じ、急進派将校の反乱と農民や小市民のそれへの支持はファシズムの現象形態に過ぎないと見る。すなわち、大工業および金融資本は膨大な国家資本と結合しながら、その自由な活動を行いたいと望む。この欲求に対し、自由主義的議会は邪魔物となるから、議会制の廃止がその独裁を可能とする最も直截な方法である。それがファシズムである。しかし、同じく国家資本と大工業・金融資本の結合が進んでも、ファシズムにならない国もある。イギリス、アメリカ、フランスなどがそうである。その理由は何か。

それは様々の社会的考慮から来てゐるものである。いかにも、単に労働者農民の階級的組織の破壊とか、革命的運動の鎮圧とかいふやうな点だけから見れば、立憲政治の形骸を純粋のファシズム独裁の支配形態に置き替へることは極めて合目的である。だが支配形態の変更といふが如きことは、ただ単にさうした観点ばかりから決定され得るものではない。ブルジョア・イデオロギーが伝統的に深き根をおろしてゐる今日の普通の資本主義国家に於ては、少くとも常軌的な状態の下に於て急激に立憲政治の形骸を廃棄することは、他の或る方面からの危険に晒らされてゐる。何よりも、殊にそれは社会の各層の上に――ブルジョアジーの各層の上にさへも――様々の見解や態度の相異を喚びさまし、延いて安定第一主義のブルジョアジーが最も厭悪する革命的状勢を多かれ少かれ惹き起さないには限らないのだ。さういふ懸念が実在する場合にはブルジョアジーは、「神聖」なる議会の讃美歌を唱つたり、空虚な政治的自由の説教をしたり、必要の場合には、或ひは公認反動団体を動員したり、或ひは社会民主主義政党に空虚な煽動をさせたりなどして、威嚇や懐柔や欺瞞を交互に民衆の上に加へることを以て、むしろ賢明な行き方だと考へるであらう。 (二八〇―二八一頁)

つまり、自由主義や議会制民主主義の伝統の強い国々では、それらを存続しながら大工業や金融資本の独裁を創り出す努力をするが、日本はこれらの国々には属さず、ファッショ化の道をとる可能性が大であると大山は論じる。

近年の日本に於て労働者農民の解放運動が進捗するにつれて、我々は国内の社会状勢が次第に息づまるやうに緊張し出したことを感じて来た。我々は三・一五事件や四・一六事件の渦中をも経て来た。旧労働農民党外三団体の解散にも逢つて来た。白色テロルの嵐が我々の同志を奪ひ去つたことをも見て来た。時と共に益々加重する支配階級の弾圧。社会民主主義政党の反階級的態度、行動。等々々。我々は治安維持法以下の様々の反動法令を持つてゐる。我々は全国を蔽うてゐる精密極まる特高網の下におかれてゐる。大学や専門学校には社会科学の研究が圧迫され、軍事教練が優遇されてゐる。全国の都市に農村に、青年訓練所が能率を発揮してゐる。等々々。……

若し将来わが国にもフアシスト独裁の新支配形態が樹立される日が早晩到来するものとすれば、その時期は何時であらうか?この問ひに対する答としては、我々はただ漠然と、「それはわが国の支配階級が様々の社会的考慮からそれへの転換を必要乃至賢明と見た時であらう」と言ひ得るのみで、それ以上進んで的確にその時間を予言することは出来ないのだ。無論、大衆の限りなき抗争と支配階級の益々加重する弾圧、さうした原因によつて刻々促進されるであらうところの国内に於ける革命的状勢の深化、帝国主義戦争の危機の刻々の増大、隣邦中国に於けるプロレタリアート革命の漸層的進捗、――かうした諸原因は、その効果を阻止する反対原因が擡頭しない限りは、その時期を促進するに与つて力あるものとなるであらう。

(二八一―二八二頁、二八四頁)

 大山のこのファシズム論はマルキシズムの論法に拠るものであるが、情勢分析としては正しく、何よりも、時局に対するやむにやまれぬ大山の勇気を賞讃しなければならない。しかし、このことのために大山への当局の風当りは更に強まり、翌七年、彼は敗北の影をひきながら、夫人とともに、アメリカに赴くことになったのである。

 津田左右吉は国民意識の動向の側面について、同様に強い危懼を抱いていた。昭和九年五月の『思想』第一四四号に寄せた「日本精神について」は、前段で述べた日本人の自己認識のやり方の非妥当性をついて余すところがない。

「日本精神」といふ語が何時から世に現はれたのか、確かには知らぬが、それがひどく流行したのは最近のことのやうであり、いはゆる「非常時」の声に伴つて急激に弘まつたものらしく思はれる。断えず高い調子で叫ばれ、何となく物々しいところがあるのみならず、いひやうにより聞きやうによつては一種の重苦しい抑圧的のひびきさへも感ぜられるのは、この故であらう。

(『津田左右吉全集』第二一巻 一七三頁)

と、津田は暗に、日本精神なるものが時局に応じて何者かにより意図的に造られたものであるのを示し、次のように論じる。日本人の気質なり習性なりを日本精神というのなら、それは必ずしもよい、美しいもののみではない。また、もし日本人のより美しい一面のみを取り出して、日本精神というなら、それは我々がそうあらねばならないゾッレンである。ゾッレンをザインのようにいい、そう錯覚すれば、重大な偏向が生じる。日本精神には善悪二面あるのが事実であり、また外国の精神と対立するものでも、独自なものでもない、と。こう論じて、津田は次のように言う。

国家としての日本が世界もしくは世界の列国、特に欧米の諸国に対立するものであるといふことから、日本精神を世界的もしくはいはゆる欧米的な文化に対立するものとして考へるやうになり、従つて現代の日本は欧米文化・西洋文化に圧倒せられて日本の文化とそれに伴ふ日本固有の精神とが衰へたとし、そこから日本精神は欧米文化・西洋文化の入らない前の日本に求めねばならぬとしたのであらう。ここに既に一つの錯覚がある。……現代の日本の文化は、そのうちに古くから伝へられた分子と、欧米に源を発して世界化した分子との二つがあつて、それがいろいろの形で結びつき絡みあつてはゐるが、二つのうちの後の方のが無くては、日本の民族生活は全く失はれてしまふ。……新しい日本の文化とそれによつて新しく展開せられて来た生活とを、日本精神に対立するものとするのは、本来、何の意味も無いことであり、現代日本の民族生活そのものを直視しないところから生じた考へかたの混乱である。……民族としての生活が現代において重要なるものである限り、民族生活もしくは民族精神に或る誇りを有つこと、従つてそれを美化して観ることに、少なからざる意味はある。かくして美化せられたものを遠い過去にまで反映させ、民族史はかかる誇るべき生活と精神とを以て貫通する如くに思ひなすことさへも、必ずしも無意味では無い。けれども、それは寧ろ詩的な芸術的な気分からである。それをそのまま現実の問題にあてはめたり、またそれを歴史的事実と見なしたり、或はまた強ひてそれを合理化しようとして恣意な解釈を加へたりするやうなことがあるならば、それは恐らくは「日本精神」を正しく導いてゆく所以ではあるまい。 (同書 同巻 一八七―一八九頁、一九三頁)

 この津田の批判は、隠微な形ではあるが、『国体の本義』にさえ反映している。恐らく、多くの官僚、政治家も津田の批判はズッシリと胸にこたえるものであったであろう。しかし、事態は次第次第にこのような意見さえも表明し得ない方向に進んでいった。そして、昭和十五年になると、津田自身も学苑を辞して、沈黙したのである。

 その頃、中国との戦争はますます泥沼の様相を濃くし、加えて、アメリカとの国交も険悪の度を加えた。冷静に事態を考えれば、日本は千仞の谷が口を開いている崖っぷちに爪先立っている状態であった。民衆は本能的にそれを感じ、逆に苛立ち、千仞の谷へ跳躍するという無謀を敢えて行おうとしていた。権力を担う人々はたとい身の危険を冒しても、その無謀な所以を民衆に説明し、狂瀾を既倒に廻らすよう全力を尽すべきであった。しかし、暴走する軍部と興奮し熱狂する民衆を恐れて、敢えて危険を冒そうとする者は稀少であった。我が学苑の校友で民政党代議士斎藤隆夫(明二七邦語行政科)はその稀少な存在、或いは唯一の存在として、歴史に名を留めることとなった。

 昭和十五年二月二日、斎藤は第七十五議会の衆議院本会議場で、総理大臣米内光政などに、対中国戦争の処理を中心として一時間半に及ぶ質問演説を行い、閣僚、議員のすべてに激烈なショックを与えた。驚愕した議長小山松寿は斎藤に諮ることなく演説の三分の二を速記録から削除したから、新聞には大量削除された残余のみしか報道されなかった(政府の記事差し止め通達が遅れたため、地方版には辛うじて全文が報道された)。しかし、国民の殆どが知らされなかった削除部分は秘密出版され、斎藤自身も演説内容に関して手記を残している。

 斎藤によると、質問は次の五点よりなるものであった。第一は近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したものであるかどうか、第二はいわゆる東亜新秩序建設の内容とはどのようなものであるのか、第三は世界における戦争の歴史に徴して、東洋の平和、ひいては世界の平和は得られるべきものであるや否や、第四は近くできようとしている中国の新政権についての幾つかの疑問、第五は事変以来政府のとってきた責任は必ずしも万全でないことを論じて、現内閣に警告することである(斎藤隆夫『回顧七十年』一一三頁、川見禎一編『斎藤隆夫政治論集』四―六頁、一九―四一頁)。これらはすべて、国民に対して責任を持つ政治家ならば必ず問い質すべきところである。政府はまたそれらに誠実に答えるべきで、そうしてこそ、民衆は事態の真実を知り、正しく判断することが可能となる。しかし、対中国戦争の開始以来政治家は誰一人としてこの当然の責任を果さなかったから、民衆には事態の持つ真の意味が殆ど分らなかった。政治家の責任上、もはや放置は絶対に許されないとの信念のもと、決然立った斎藤の勇気と誠実さとは真に賞讃されなければならない。斎藤の勇気ある発言に周章狼狽し、発言の大部分を闇に葬った衆議院議長・政党幹部の不見識・不誠実は責められねばならない。それは議員が自分自身の手で議会を葬る行為であった。

 しかも、議会・政党は政府・軍部への顧慮から、速記録削除では足らず、議員辞職を斎藤に迫った。勿論、斎藤はそのいわれのない要求を一蹴したから、懲罰除名決議に持ち込まれた。さすがに多くの議員はこれに反対した。特に、斎藤の属する民政党の秘密代議士会は大荒れに荒れ、容易に結論が出なかった。こうして揉みに揉んだ末、三月七日に至り、漸く斎藤の除名が衆議院で決議された。この時、実質的には全議員が除名されたのである。

 果せるかな、その半月後の三月二十五日には衆議院有志議員により聖戦貫徹議員連盟が結成され、連盟議員は各政党に解党を説いて回った。そして、同年十月十二日には大政翼賛会が成立し、大日本帝国議会はここに名実ともにその幕を閉じたのである。それは日本が破局に向け暴走を開始するスタートでもあった。翌十六年十二月八日、日本は対米英宣戦布告という自殺行為に出た。これを転機として、それまで微かではあったが存在した日常的・自由主義的雰囲気は消滅し、日本国内は臨戦体制一色に塗り潰されていく。大学は存在しても、その中味は急速に失われていった。それが我が学苑ではいかがであったか。その具体的な記述は第八章以下に譲ることにしよう。