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第七編 戦争と学苑

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第三章 半世紀の早稲田

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一 故大隈総長十周年記念式

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 創立五十周年記念式典の行われた昭和七年は、また、巨星大隈重信が墜ちて十周年を迎える。大学では、この年の四月に故総長大隈侯爵十周年記念式を行い、十月には、大隈・高田の銅像除幕式を以てその第一日を飾る、早稲田半世紀の記念式典ならびに祝賀式、およびこれに続く諸々の記念行事が盛大に挙行された。

 先ず、大隈没後十周年の記念式典は、五十周年のそれとは別に挙行されている。大隈家では七年四月十日午前八時三十分、音羽の護国寺において、大隈夫妻逝去十周年墓前祭を大社教副管長千家尊弘司祭の下に虔修し、続いて午前十時には、大隈庭園の一角にある早稲田別邸の祠堂で、同じく千家尊弘司祭の下に霊前祭を執行し、更に午後二時から四時までの間、大隈会館内の旧大隈夫人応接室に夫妻の肖像を飾り、一般の礼拝に委せた。祭壇には天皇から下賜された祭粢料をはじめ、久邇宮家、徳川公爵家、鍋島侯爵家その他各方面から贈られた供物ならびに花輪等を飾り、犬養毅首相ほか朝野の名士およそ一千名が礼拝した。

 翌十一日午後六時半には、故大隈侯国民敬慕会主催の追悼祭が日比谷公会堂で催された。場内は立錐の余地がないほどの満員で、先ず肖像写真の除幕を行い、三十二団体からの献花があって山本達雄男爵が祭文を朗読した。次いで数百名の早大生と日本女子大学校生とが、西条八十作詩・平野主人作曲の新作敬慕歌を、早大音楽会ブラスバンドの伴奏により斉唱して祭典を終り、講演会に移って、若槻礼次郎、床次竹二郎鉄道相、徳富猪一郎が大隈追慕談をなし、最後に「大隈侯の一日」「国民葬」「日本南極探険」等の映画が上映された。なおこの日の講演の一部は「故大隈侯の夕」として東京中央放送局から全国に中継放送され、また子供の時間には市島謙吉の「幼時の大隈老侯」と題する放送があった。

 さて十周年記念式は、四月二十八日午後一時から大隈講堂で挙行された。永井清志庶務幹事の司会で式が始まり、前述の新作敬慕歌を早大音楽会ブラスバンドの伴奏で音楽会員が斉唱し、それより一同起立の上遺影に礼拝し、「大隈老侯を追懐して」と題する田中穂積総長の式辞と、「先考の十周年祭に際して」と題する大隈信常の挨拶があり、校歌を合唱して式を閉じた。式後直ちに講演会に移り、若槻礼次郎、枢密顧問官鎌田栄吉、校友代議士永井柳太郎の講演があった。若槻は「能く聴き能く断ぜられた大隈侯」と題し、国家の命運を左右する重大時機における明敏な大隈の判断力と、また、大隈内閣の大蔵大臣在任中、国内外の情勢に対処した自らの追懐を語り、鎌田は「明治元勲中の一異彩」と題し、大隈の人となり、その思想、その財政手腕などを語り、最後に、八十余歳にして大隈は没したが、早稲田大学ある限り大隈は永遠に生きていると結んだ。殿軍を受けた永井は「老侯は正宗の名剣」と題して、米国の若い女宣教師と大隈との出会いの逸話を冒頭に、大政奉還に際し活躍した若き日の大隈や、政治家として世界平和を希求する大隈の遠大な理想を語っている。この演説記録は『早稲田学報』第四四七号(昭和七年五月発行)に詳細に収録されているが、言々句々大隈の面目躍如たるものを窺わせている。中でも鎌田と永井が、図らずも大隈とナポレオンを比較しているのは興味深い。関係者および学生達は熱弁に魅せられて酔心地であったが、満員のため入場できなかった学生達には、小講堂に拡声機を置き、大講堂から伝えられる講演者の声を聴取させた。なお大隈没後十周年を記念して、渡辺幾治郎執筆の『文書より観たる大隈重信侯』が、故大隈侯国民敬慕会から出版された。

二 大隈・高田の銅像建設

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 我が学苑において画期的な創立半世紀を記念する出版物には西村真次著『半世紀の早稲田』があり、また記念式典関係の詳報は、『早稲田学報』昭和七年十一月発行第四五三号の全頁を「早稲田大学創立五十周年記念号」に充て、巻頭写真十葉本文九十六頁の小冊子にまとめられており、これを以てその全容を知ることができる。今回の式典は十月十七日大隈重信銅像と高田早苗銅像の除幕式に始まり、「華々しくその第一日の幕を切つて落した」(『早稲田学報』第四五三号 三五頁)。没後十周年を迎えた学苑創立者大隈は言うに及ばず、開校以来苦心経営に当った高田は、共に齢五十歳の早稲田を、それにふさわしい早稲田たらしめた恩人である。そこでこの両者の銅像を新たに建立し、その除幕式を以て創立五十周年記念式典の幕開けとしたことは、早稲田半世紀の足跡を永遠にシンボライズする意味においても、まことにふさわしい行事であったと言わねばならない。従来学苑には、明治四十年創立二十五周年記念として校友が醵出した財で建立された大礼服姿の大隈銅像が、中央校庭の一隅から静かに学苑を見守っていたが、この時を期して、ガウン姿の大隈像がこれに代り、影の形に添う如く、高田の像が同じ中央広場に建てられたのである。大隈講堂を前方に控えた本部キャンパスのこの場所は、当時も学苑の中心広場となっていたが、鉄筋校舎の立ち並んだ今日でも、「大隈銅像前」という合言葉で学生たちが集散する、大学のシンボル・ゾーンを形造っているのは周知のとおりである。

 昭和二年十月二十日開館した大隈記念講堂の北西に設けられたベランダともまごう広い幅の廊下、ここに立てば、足下の薔薇や菊の栽園に連なった芝生や、池や、小丘を具えた大隈会館の庭園が一望のうちに見渡せるのであるが、そこには、将来大礼服姿の大隈の銅像を移さんがため、壁面の凹みがあらかじめ造ってあった。大礼服姿の大隈は、その厳粛さを十分に現していたが、学苑の中央に置くのは、ややふさわしからぬものがあった。そこでこれを他に移して保存するとともに、これに代ってガウンを着用した総長姿の銅像を安置せんとする考えが、大隈講堂新築の時既に当局者の頭の中に浮かんでいたのである。さて銅像の新鋳については、昭和七年の理事会ならびに維持員会において校友から公募する案も出たが、越えて四月の両役員会では、その建設費を臨時予算として記念式典費用中に計上することを決議した。大学を象徴する銅像の資金を学苑自体で調達したことは、それなりに有意義であると言わなければならないだろう。かくてこの秋執行の創立五十周年記念式典までに竣成することを定め、大隈銅像製作の経験を持つ朝倉文夫にこれを依頼した。朝倉は、芝公園の束帯姿の大隈の銅像を製作しているが、実は日常茶飯の大隈自身のありのままの姿を表現したいと考えていたから、言下にこれを快諾し、時期を違えず完成した。彼の所感「年来の望を果し得て」によれば、

私が作つた大隈老侯の銅像は、芝公園に建てられたあれが最初のものです。……芝公園の大隈老侯の銅像は、大正天皇御即位式に際し、内閣総理大臣として六千万の人民を代表して万歳を唱へられたその御大典を記念すると同時に、老侯のその束帯姿を記念すべく作つたのでありますが、……大隈老侯は元来武張つた感じの方でしたし、束帯は大宮人の感じですから、この二つを調和させる必要がありました。従つて芝公園の銅像は老侯が薄化粧をした姿を表現したものです。然し私が常々表現したく思つてをるのは大隈老侯を丸出しにした野に立つ姿と、も一つは私邸で角帯をしめ羽織を着てをられる姿でした。ところが今度早稲田大学から、ガウンを着た大隈老侯の銅像をといふ註文がありまして、姿こそ異なれ気持は同じですから、之で私の希望を果し得たわけです。そこで私は、松方〔正義〕は七十何人の子供を持つてをるが、我輩には一万の子供があると言つて、赤いガウンを着て、時々諧謔を口にされつつ得意になつてをられたあの姿を表現したのでした。

(同誌 同号 七八―七九頁)

 他方、高田早苗の銅像については、昭和六年六月二十三日に、総長の職を田中穂積に譲って引退した直後の校友会幹事連絡委員会の席上銅像建設の議が起り、満場一致これを決定した。更に七月二日の幹事会で、幹事一同を発起人に、その中から十七名を選んで実行委員とし、同月二十五日の第一回実行委員会では特に理工学部教授佐藤功一を顧問に委嘱し、製作者には斯界の大家藤井浩祐を挙げて依頼することにした。製作の依頼を受けた藤井は、先ず高田に会いその意見を徴した。高田は未だ病後の疲労が残っていたのでこのままではモデルにすることもできなかったし、高田もまた「この姿のまま銅像にして貰うのは欲しない。君の考え通りに、作つてもらいたい」と述べたので、藤井は自分のイメージに従って製作することにした。ただ銅像の地金については、顧問の佐藤が「日本の銅像は色が気に入らない、ぢきに黒く青く、しかも指を触れると指先が黒くなるような実に不愉快なものが多い」(同誌 同号 七九―八〇頁)と言った言葉に従い、地金の合成を研究した結果、思う通りのものが得られたので、これを利用したという。かくて十二月十日には発起人会を開き、建設資金調達について協議した結果、一般校友から公募と全会一致で決し、直ちに左のような募金広告を昭和七年一月発行の『早稲田学報』(第四四三号)に掲載した。

前総長高田先生記念銅像建設基金募集

前総長高田先生は母校創立当時より今日に至るまで約五十年の久しきに亘り、一意専心学園の為め献心的努力を致され学園今日の隆盛を培はれたのでありますが、先般高齢と病気の為めに引退せられ只管閑地に静養せらるることとなつたのは御承知の通りであります。ここに於て吾々門下生は先生御在任当時の英姿を偲び永へに先生の功績を記念すると共に、学園に集る青年学徒敬慕の的ともすべき銅像を建設する事を決議し、左の方法に依り同窓校友諸君一人も洩なく此挙に御賛同を請ひ、定額金二円づつの御醵出を願ひ以て事業の完成を期し度いと存じます。

建設計画

建設の場所 母校恩賜館正面内庭

銅像ポーズ 上図写真の様式にて等身大〔写真省略〕

銅像完成の時期 昭和七年十月二十日母校創立五十年祭当日除幕式挙行の予定

銅像製作者 藤井浩祐氏

一、経過〔略〕

一、予算

一、金二万五千円也

内訳

一 金 一万円也 藤井浩祐氏に対する謝礼

一 金 九千円也 銅像台石、中庭石張、背面改修費

一 金 一千六百円也 通信費

一 金 五百円也 印刷費

一 金 八百円也 集金手数料

一 金 五百五十円也 立体写真製作費

一 金 五百円也 人件費

一 金 二千五十円也 除幕式費其他

一、募集の方法〔略〕 以上

昭和七年一月 発起人 現任幹事一同

(三八―三九頁)

 七年四月十三日、正門の真正面に当る恩賜館前広場の中央に大隈の銅像を、その向って右に南面して高田の銅像を建設することに決定、桐山均一技師の指示で校庭の改造工事が始まり、植木の移植・増植などを行った。七月十五日には台石を決定、福島県原の町の郊外十数キロメートルの地から、桜御影の石材を切り出して東京に回送した。かくて九月末には旧大隈銅像の移転、十月には台石の据付け、更に除幕式直前の十五日両銅像の取付けが完了した。

 昨夜までの秋雨もどこへやら、学苑の盛典を寿ぐかのように、紺碧の空が澄み渡った秋晴れのこの日十七日は、鶴巻町、山吹町、矢来町から遠く神楽坂へ、また馬場下町から、戸塚、高田馬場へかけての早稲田一帯の町家は、軒に海老茶に白いWの校旗と幔幕と、それに奉祝の二文字を印した提燈を掲げて、祝賀気分が横溢した。定刻の午後一時までに維持員、評議員、教職員、校友会幹事、地方校友会代表、学生代表等およそ一千名が校庭式場に入場、やがて大隈、高田両家の関係者も奏楽のうちに所定の席に着くと、静かに除幕式が始まった。先ず金子馬治常務理事は大隈銅像建設次第を、磯部愉一郎校友会常任幹事は高田銅像建設の経過を、それぞれ詳細に報告した。これに続いて大隈信常の令孫純子が、また高田の令孫清雄が、盛大な拍手のうちに幕を除けば、巨匠力作の大隈の立像と高田の座像は、目もあやに会衆の前に姿を現した。田中総長は壇に登って式辞を述べると、これに対し大隈名誉総長と、病気欠席の高田に代って青柳篤恒が謝辞を読み上げて、式はめでたく終了した。かくて常に理想を口にしてやまなかった故大隈の風貌と、自敬自修を唱道した高田の温容とは、校庭の中央に起座して一偉観を添えたが、将来これに接する若い学徒達に、無言のうちにも早稲田精神を教え、且つ鼓吹する尊い存在になったのである。

三 創立五十周年記念式典

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 「人の世は短かく、芸術は長し」というが、大学の生命もまた無窮のように思われる。学苑が歩んできた五十年の足跡は、その歴史に照らして僅かな粟粒の類に過ぎないが、世紀の半ばを刻んだというだけでも、これを祝する価値は十分にあると思う。後進の諸輩が、先哲の業績を回顧し、新しく臍を固める機会は、半世紀を画する時期こそ、まことにふさわしいもので、創立五十周年記念式を挙行するのも、故なしとしないのである。

 創立記念日は、学苑開校の十月二十一日が歴史的に正しい。しかるに、この五十周年記念式典の催された時点においては、学則により十月二十日が創立記念日とされている。これについての考察は八四〇―八四二頁に譲る。創立記念日に関連し諸行事の行われた日は、過去の例によると、日曜日を避けたり、他の行事と併行して、十七日、十九日、二十日、二十七日等を選んで挙行した例があり、今回の祝典も昭和七年十月十八日を期して行われた。

 さて祝典挙行の約一ヵ月前に思いがけずも秩父宮差遣の御沙汰に接し、更に三日前には、教育奨励の意味で金一万円下賜の報に接したので、田中総長は十月十五日午前十一時宮内省に出頭し、宮相一木喜徳郎から御沙汰書ならびに御下賜金を拝受して退出し、その帰途金子常務理事、大島正一副幹事とともに明治神宮に参拝し、重ねての恩寵に感謝した。かくて当日記念式場に定められた大隈講堂前には、「奉迎」の文字を記した大緑門が設けられ、また秩父宮の休憩室に充てられた大隈会館と式場の間には、紅白の幔幕を以て飾られた廻廊をしつらえ、来賓、総長以下各理事、教職員ならびに学生・生徒が堵列する中を、秩父宮は陸軍大尉の通常礼装を着用し、午後一時半大隈会館に到着した。田中総長は、西村真次著『半世紀の早稲田』三部、渡辺幾治郎著『文書より観たる大隈重信侯』三部、それに加えて坪内逍遙が畢・生の事業として完成した『沙翁全集』全四十巻を献じ、次いで来賓および各理事が拝謁した。総長は更に大書院に陳列した図書館所蔵の貴重な典籍・文書を御覧にいれ説明したが、この中には国宝に認定された『礼記子本疏義』巻第五十九、『玉篇』巻第九残巻があり、その他南蛮文書関係五冊、和蘭陀関係二十二冊、露西亜関係五冊、英吉利関係四冊、仏蘭西関係三冊や、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝原稿」二冊、坪内逍遙の「沙翁訳稿」二帙、またフォーチュン座模型、歌舞伎舞台模型、人形浄瑠璃劇に使用される人形二体、狂言装束二点をも併せて展覧した。祝典は予定より三十分遅れ、金子馬治司式の下に開始されたが、その順序は次の通りであった。

一、一同着席

一、君ケ代奏楽 (一同起立)

一、宮殿下臨場 (一同最敬礼)

一、開式 常務理事 金子馬治

一、式辞 総長 田中穂積

一、祝辞 内閣総理大臣

子爵 斎藤実

文部大臣 鳩山一郎

米国大使 ジョセフ・シー・グルー

慶応義塾大学塾長 林毅陸

早稲田大学校友総代

伯爵 松平頼寿

一、欧米諸大学祝辞祝電披露

一、校歌

一、天皇皇后両陛下万歳三唱 名誉総長

侯爵 大隈信常

一、閉式 常務理事 金子馬治

一、宮殿下退場 (一同最敬礼)

一、君ケ代奏楽 (一同起立)

(『早稲田学報』昭和七年十一月発行 第四五三号 二二頁)

 この式辞で、田中総長は先ず初めに沙汰書を朗読し、更に簡潔な言葉で創立五十周年の意義を語ったが、特に私学尊重の点について、次のように強調した。

私共が此度此五十周年の式典を挙げる所以のものは、徒に過去を追懐し過去に陶酔するが為めではないのであります。輪廓漸く備はれる我学園が、更に将来の一大飛躍を期するが為めの準備であります。申す迄もなく教育は国民的の大事業であつて、上下官民力を合するに非ざれば、到底十分なる成果は期し得られないのであります。現に我国今日六万七千の大学学徒、之を人口の割合から申しますれば、亜米利加と比較致しては雲泥の相違であり、又仏蘭西、独逸と比較致しましても及ばざること遙かに遠く、而して又英吉利よりも劣り、僅かに伊太利の上に位置して居るに過ぎないのであります。而かも此六万七千の大学学徒の中、其約六割を占むるものは即ち私学の学徒であります。従つて若し私立大学の学生を除外致しましたならば、日本は世界文化の水準から顚落せざるを得ないのであります。此明白なる事実が、如何に私学が日本文化の発展の為めに貢献を致して居り、而して又教育が官民上下の協力に依るにあらざれば、其成果を収むることが出来ないかと云ふことを如実に立証致して居るのであります。併しながら日本現下の情勢に於きまして、私学の経営と申すことは仲々容易ならざる事業であります。殊に経済の困難なるが為めに設備其他教職員の待遇の不十分といふことは、我々が最も苦痛を感じて居る事柄であります。併しながら此の如き欠点あるに拘はらず、私学にあつては教職員は勿論学生も父兄も出身者も打つて一団となつて、新たなる教育を創造しやうとして努力を致す所に、私学の特色があると私は確信致すのであります。 (同誌 同号 三頁)

 これに続いて、斎藤実総理、鳩山一郎文相、グルー米大使、林毅陸慶応義塾長、松平維持員会長の祝辞が朗読されたが、いずれも学苑の盛儀を寿ぎ、創設者大隈重信の偉業を讃え、荘重な修辞で飾られていた。なお、来賓として参列した人々は、秩父宮を筆頭に、斎藤首相、小山松吉法相、鳩山文相、永井柳太郎拓相の各閣僚、林慶応義塾長、外国使賓としてはアメリカ大使グルー、スエーデン公使フルトマンらで、他に代表者を送ってきた諸大学は、ハーヴァード、エール、コロンビア、カリフォルニア、スタンフォード、ミネソタ、プリンストン、ワシントン、ミシガン、ウィスコンシン、ニューヨーク、オレゴン、イリノイ、南カリフォルニア、パリで、祝辞を寄せてきたのは、ロンドン、ケンブリッジ、オックスフォード、グラスゴー、リヴァプール、フランクフルト、ボン、ライプチッヒ、ハイデルベルグ、リヨン、リエージュ、イェーナ、ミュンヘン、フリードリッヒ連合、フライブルク、マルブルク、エルランゲン、ライデン、アムステルダム、コペンハーゲン、ストックホルム、ベルン、チューリッヒ、バーゼル、ノースウェスタン、ハワイの各総合大学、およびミュンヘン商工、ドレスデン商工、リード・カレッジである。なおその他ドイツ大使フォレッチ、満州国駐日公署代表鮑観澄も祝辞を寄せたが、殆ど世界各国の有名大学を網羅し、今更ながら故大隈の知名度の高さと学苑の名声の広さが偲ばれて床しいものがあった。

 記念すべき祝典は荘厳かつ厳粛のうちに終了した。秩父宮の送迎には全学苑の教職員ならびに学生が奉仕したことは言うまでもない。ただし馬場下から式場までの間に一万七千の全員が堵列することは不可能であったから、これを二分し、先に来場の時には、政経学部・文学部・理工学部・専門部・第二高等学院の学生がこれを迎え、退場の時には、法学部・商学部・高等師範部・第一高等学院・専門学校・高等工学校・工手学校の各学生ならびに生徒達が見送って礼を尽した。この日の参列者は無慮三千名と言われ、特に選ばれて招待された内外の貴顕名士をはじめ、外国諸大学の代表、維持員、評議員、校友会幹事、教職員、地方校友代表、学生代表等が、式後直ちに大隈会館庭園内に設けられた大天幕下の饗宴場に席を移した。故大隈はいつの場合でも、会あるごとに参列者を私邸の庭園に招いて会食し歓談するのを常としたから、この日もまたその例に洩れず、主客共に膝を交えて、かつ語り、かつ飲み、談笑のうちに時が過ぎるのを忘れた。特に鳩山は、先の祝典では形式的な言葉を述べるのに止まったが、特に発言して、「嘗て早稲田大学創立二十周年記念式典の折、私の先考はこの学園の校長としてその式典に携つたが、今日又私が身を文教の府に置くといふことから、計らずもこの盛典に参列する光栄を得たことは、寔に感慨無量である」(『早稲田学報』第四五三号 二四頁)と述懐し、裃抜きで喜んでいた。

 一方、田中総長は文字通りの立役者で、瘦軀を提げて八面六臂の活躍をしたが、夜に至っては東京中央放送局のマイクの前に立ち、「私学の興隆に就て」と題して、十九、二十世紀にかけての欧州泰斗の教育論から始まって、本邦の教育界の現状を述べ、物心両面における私学興隆の必要性に言及し、全国数百万聴取者の耳に訴えた。

 越えて翌十九日には校友、学生、教職員挙げての祝賀式が挙行された。大隈大講堂を以てしても八百数十名の教職員と約一万六千名の全学生とを一堂に会することは到底不可能であると考えられたから、戸塚球場を会場に当て、野天集会を行った。挙式の順序は左の通りで、招聘された永井柳太郎も、この日は拓務大臣としてではなく、旧教職員総代の資格で祝辞を述べた。

一、開式

一、君ケ代合唱 (一同起立) 奏楽

一、式辞 総長 法学博士 田中穂積

一、祝辞 名誉総長 侯爵 大隈信常

教職員総代 理事 法学博士 塩沢昌貞

旧教職員総代 維持員 拓務大臣 永井柳太郎

校友総代 評議員会長 斎藤和太郎

在学生総代 角野俊一

一、校歌合唱 (一同起立) 奏楽

一、天皇皇后両陛下万歳三唱

一、早稲田大学万歳三唱

一、閉式 (同誌 同号 二五頁)

 田中総長の式辞の主旨は、前日のものと大同小異であったが、やや具体的にこれを述べ、更に次の如く学生の奮起を促した点が注目された。

我々の期する所は将来の一大飛躍を試むるが為めの準備であります。即ち陣容漸く整つた一大軍隊が歩武堂々進軍喇叭と共に世界文化の平和的競争に出陣しやうといふ勢揃ひの式典であります。我日本は明治以来西洋と対立するが為めに何事も制度・組織を整へることに忙殺されまして、一時急造の文化を建設したのであります。随つて其内容・実質に至りましては未だ必らずしも十分なりとは申せないのであります。大学教育又矢張り然かりであります。官私大学を通じて依然たる注入主義、記憶主義の教育が今尚ほ行はれて居るのであります。玆に於て先年東京帝国大学の講師であつたベルリナーが帰国に先立つて日本の教育を批評して、日本の教育は小学教育に於ては世界の最も優秀なるものたることを失はないが、中学以上の教育になれば段々と悪くなつて、大学教育の如きは恐らく世界の最も劣等なるものであらうと云ふが如き深刻なる批評すら受けたのであります。我早稲田学園が此五十周年を記念するが為めに少からざる経費の増加を忍んで今春四月以来学制の根本的改革を断行した所以のものは、従来の旧殻を破つて教育革新の先駆をなさうといふ一大抱負に出たものであります。今正に教授諸君は此教育革新の為に非常な熱誠を以て事に当つて居つて下さるのであります。併ながら如何に教授諸君が熱誠溢るるとも学生諸君が之に呼応して起つに非ざれば、十分の成果を収むることは困難であります。希はくは大学の趣旨のある所を学生諸君は十分に体して真理の探究の為めに全力を傾注されんことを此機会に於て私は切に諸君に希望を致すのであります。今や日本の国歩は頗る艱難であつて、人材の輩出を俟つ大早の雲霓を望むが如くであります。実力ある青年学徒の進む所自から門戸は開かれるのであります。頗る諸君の前途は益々多望であります。日本が世界の広居に立つて唯其独立を維持して居ると云ふ丈けであつては存在の意義は薄弱であります。更に進んで世界の文化に貢献してこそ始めて日本存在の価値は発揮されるのであります。……故大隈老侯の所謂日本独得の文化を建設して世界の文化に貢献する重大なる使命は掛つて満場の諸君の双肩にあるのであります。 (同誌 同号 二六―二七頁)

 大隈信常は当然のことながら、先考重信を回顧して学苑五十年の歩みを述べたが、大学史の五分の三の年月を、これとともに歩み続けてきた塩沢昌貞が、教職員総代としての祝辞の中で訥々語を継いで述べた、私学の意義についての見解は、傾聴に値する。すなわち彼は言う。

早稲田大学は平生私学の雄として社会より認められて居ります。官学及び私学といふ言葉がよく用ひられて居ります。併し私は翻つて考へて見て其区別の意義が判らないのであります。早稲田大学を私学と云ふ。然らば早稲田大学は何か私の利益といふことを考慮に置いて居るかと云ふと、我々は何等私の利益といふことは考へて居ないのであります。故老侯始め一意専心国家社会の為めに又進んで世界人類の為めといふことを目標として進み来つたのであります。又国内に於て見ましても何等一部の人々の利害は眼中にはないのであります。専ら国家国民の為めと云ふより外に何物もないのでありまして、詰り我大学は私の大学ではない、国家国民を背景として国民の福利を進めると云ふ外には何等考はないのであります。此意味に於て我早稲田大学は国民的大学であると云ふことを確信して居るのでありまして、此精神に依つて将来の発展を計りたいと期待して居るのであります。 (同誌 同号 三一頁)

 斎藤内閣の閣僚で、当世一代の寵児として華やかな脚光を浴びた永井柳太郎は、その風手が長身隻脚、唇をへの字に結んだところは大隈重信さながらであり、雄弁を以て名声をほしいままにしている点から見ても、まさに代表的早稲田マンであった。さすがに政治家だけあって、説くところもまた核心をついている。祝辞の後段に当るその名演説を摘記してみよう。

私は学校の当局者が何故に十月十八日に祝典の第一日を選まれたか理由は聞きませぬ。併し十月十八日こそは我々早稲田大学の学徒に取りては終生忘るる能はざる日であります。即ち今より四十三年前即ち明治二十二年十月十八日こそは我早稲田大学の創立者である大隈老侯が我国の地位を外国と対等たらしめんとする一念よりして条約改正を企て、其事国民の誤解を受け、霞ケ関に於て爆弾を投ぜられ、隻脚を失ひたる忘れ難き日でございます。殊に本校の創立者たる大隈老侯は我国の地位を外国と対等たらしめ我国の文化を列国と対抗し得るものとなすことを終生の目的とし其為めに身命を賭して奮闘されたのであります。大隈侯を助けて早稲田大学の創立に努力せられた小野梓先生は明治十九年一月に歿したのでありますが、彼は其歿する前年の明治十八年の五月に老侯と同じ目的を以て条約改正論を著はし、之を天下に公けにせんとして図らずも官憲に圧迫せられ、其著述を公けにすることが出来なかつた。之に憤慨された小野梓先生は其原稿を携へて此早稲田の校舎に来つて、当時僅に三百に過ぎなかつた学生を前にして、梓の心血を注いだ条約改正論は官憲の圧迫する所となつて世に問ふ能はざるも、梓の精神は此方四間の講堂に集まれる三百の学生に訴ふ、諸君が我志を体して奮闘すれば梓の望み足ると言つたのであります。而して彼は情激し、血沸き、家に帰つて、遂に血を吐き、其後肺を病んで又起つ能はず、翌年一月空しく歿したのでありまして、我早稲田大学の創立者は大隈老侯といひ小野梓先生といひ、日本の地位を外国と対等たらしめ、日本の文化を外国の文化に拮抗せしめて、踏みにじられたるアジアの名誉を恢復せんが為めに心血を注いで闘つたのでありまして、我早稲田大学は此の二大先輩の尊き屍の上に建てられ、此の二大先輩の鮮血に彩られたる殿堂であることを忘るる者は、名は早稲田の学徒なりと云ふとも其心実に早稲田の学徒にあらずといはなければならないのであります。我々は此の如き先輩の精神を継承し、其先輩を助けて学校を経営して居られる教職員諸君の御努力に依つて五十年の今日、其存在が日本の文化史上不可分の関係を有するものとして天下に認められたることを衷心より感謝致しますると共に、我々早稲田に育てられたる後輩は此研学の精神を没することなく此創立者の理想を忘れることなく、我々自から又身命を賭して早稲田の精神を天下に行ふ為めに奮闘しなければならないのであります。 (同誌 同号 三二―三三頁)

 かくて斎藤和太郎評議員会長、角野俊一在学生総代の祝辞も終り、滞りなく祝賀式を終了した。なおこの日の午後、東京では総長、理事、幹事、副幹事が、地方では各地の校友会代表が、それぞれ故大隈重信をはじめ小野梓前島密鳩山和夫ら学苑に功労があった物故者に対する展墓を行い、創立五十周年祝典について報告した。因にこれを記念して、宮内省から東遊舞人装束・東遊歌方装束・舞楽左方管方装束・舞楽右方管方装束・納曾利舞装束を一組ずつ寄贈されたほか、前川道平より一筆斎文調筆版画百三十点を、式典費として校友会より一万円、日清生命保険株式会社より五千円、日清印刷株式会社より二千五百円を、記念事業費として校賓坂本嘉治馬より一万円を、そして校賓木谷吉次郎から二百円を、寄附されている。

 この日また校友会でも祝賀秋季校友大会と銘打った創立五十周年記念祝賀会を午後六時から丸ノ内東京会館に催した。当夜の主賓は、過般行われた貴族院議員選挙の当選者五名と、ロサンゼルス開催第十回オリンピック大会で活躍した本大学の選手達三十五名で、出席者は実に六百名を超えるという盛況であった。定刻になると先ず余興の幕が開き、山本東次郎一座の素襖落、墨塗の二番を観賞し、次いで席を宴会場に移して会食に入った。やがて時よしと見た田中穂積会長は、一場の挨拶を述べ、これに対して貴族院議員当選者を代表して板谷宮吉、オリンピック選手ならびに役員を代表して山本忠興、地方校友を代表して砂川雄峻の謝辞があり、小山松寿も一言感想を述べて喝采を博した。最後に大隈名誉総長の発声で早稲田大学の万歳を三唱し、十分に歓を尽して散会した。なお地方の校友会支部は、つとめて代表者を送って祝典に参加させたが、それが果せなかった支部では、それぞれ適当な日を選んで祝賀会を開き、遙かに敬意を表した。

 翌二十日は学生を中心とした三つの行事が午後から夜にかけて行われた。手始めは早大自動車協会が行った都内一周の自動車大行進であった。喜多壮一郎会長が総指揮を執り、中村万吉応援部長、池内真次監督とともに指揮車に乗り、五班編成各車両の先頭に立つ。午後二時、戸山ヶ原射撃場前の改正道路に集合した各班は、市内を一周して大隈講堂前に到着し、万歳を三唱して解散した。

 第二は恒例の提燈行列で、今回はいつもとは逆に、日比谷公園を出発して戸塚球場に至る道順をとった。午後五時半、早大音楽会ブラスバンドの奏楽に従い、「君ケ代」ならびに校歌斉唱の後、田中総長の発声で天皇皇后両陛下の万歳を三唱した。次いでおよそ二万に及ぶ提燈が一斉に点燈され、漆黒の天空が赤く染め出されると見るや、行列の先頭は静かに動き始め、火の流れは尾を引いて、後から後へと揺ぎ出した。教職員・校友有志に続いて、政治経済学部を第一班とする各班は、以下十五班まで、各班名を印した高張提燈を高々と掲げ、先のブラスバンドはトラックに分乗して校歌を奏しつつこれに続き、光の波はこれに呼応して、高く低く揺れ動きながら後に従う。行列は二重橋前から学苑まで行進し、最後に穴八幡坂を経て球場に入り、声高らかに早稲田大学の万歳を三唱して解散した。

 第三は、当夜八時から同じ戸塚球場で行われた応援部主催の早稲田おけさ踊大会であった。早稲田おけさと言うのは、先に佐渡おけさにならって、全学生から歌詞を募集し、教授西条八十が選者となって二十作を選出したもので、球場の中央に設けられた二間四方の櫓に紅白の幔幕を巡らし、笛、太鼓、鉦、三味線の囃子方が櫓上に陣取り、のど自慢の連中が拡声器を通じておけさ節を聞かせると、これを取り巻く数千の踊子が、時を忘れて踊り抜くという趣向であった。因に当日歌われた早稲田おけさの秀逸作を拾ってみると、

今年や豊年穂に穂が咲いてヨ/みのる早稲田の五十年

稲は稲でも早稲田の稲は/自治と自由の味がする

小田の蛙の鳴く声きけば/遠い早稲田がしのばれる

栄えますぞえ瑞穂の国はヨ/ぬしが故郷の早稲田から

鐘が鳴る鳴る早稲田の天で/響け世界の果までも

早稲田五十年記念のまつり/みんな揃ふて佐渡おけさ

 この他十九日以後二十三日に至る五日間、各種の多彩な行事が相次いで繰り広げられた。図書館は「早稲田大学五十年史展覧会」と称し、四部門に分けて関連資料を陳列した。すなわち第一部、創立以来の学苑平面図など、第二部、大隈をはじめ物故者七十一名の写真、その他関係記念品等、第三部、創立以来五十年間の教職員三百六十六名の著書八百余冊の陳列、第四部、田中光顕伯爵寄贈の維新志士遺墨ほか、およそ百五十点。演劇博物館は「雅楽及能楽に関する展覧会」と称し、今回宮内省から寄贈された雅楽装束の他、貸与された舞楽装束四組、同舞楽面八点、楽器二十点の特別公開品を陳列した。理工学部は五学科に分れ、更に幾つかの室または係を設けて、展覧会を開催し、独自の趣向を凝らし競い合った。以上三展覧会は、学苑独特の催しものであったが、特に注目すべきは、これと併行して挙行された学術講演会である。学苑創立後、日ならずして開始せられた校外教育は、地方文化の開発・向上のため、機会あるごとに講師を派遣して各地で講演会を開いてきたが、今回は創立五十周年記念として、東京と横浜で左の如き大講演会を開催した。

十月十九日午後六時 大隈講堂

教育の本質を論じて私学の使命に及ぶ 教授 稲毛金七

智識の創造 教授 勝俣銓吉郎

流行現象に就て 教授 今和次郎

為替相場と物価 教授 商学博士 小林行昌

新陳五十年 教授 法学博士 平沼淑郎

十月二十一日午後六時 朝日講堂

我建築界の近況 教授 工学博士 吉田享二

本邦陸運の経営と其改善策 教授 島田孝一

財界非常時に於ける経済立法 教授 中村宗雄

満州新国家論 教授 青柳篤恒

哲学の必要 教授 杉森孝次郎

十月二十一日午後六時 横浜記念会館

判例に現れたる親子問題 教授 外岡茂十郎

インフレーション財政の行方 教授 経済学博士 阿部賢一

更生日本の経済原則 教授 商学博士 北沢新次郎

電気の驚異 教授 工学博士 山本忠興

十月二十二日午後六時 大隈講堂

国民性の一考察 第一高等学院教授 吉川秀雄

イラークの独立と英国 教授 定金右源二

法律文化に就て 教授 法学博士 遊佐慶夫

浮世絵と英国芸術(幻燈使用) 教授 本間久雄

円の動揺と其の影響 教授 経済学博士 服部文四郎

十月二十二日午後六時 帝国教育会館

日本教育の改修 教授 原田実

半世紀間に於ける機械力の進歩 教授 渡部寅次郎

ファシズムの政治的動向 教授 政治学博士 五来欣造

有限責任会社社員の責任に就て 教授 寺尾元彦

国語教育論 教授 文学博士 五十嵐力

 この他国劇向上会は、創立五十周年祝賀余興として、演劇上演の寄附を申し出で、校友水谷竹紫主宰の芸術座ならびに校友古川利隆もまた賛助出演を快諾したので、二十日から二十三日まで四日間、大隈講堂で公演会を開いた。

 かくて一週間に亘り、連日興奮の坩堝に巻き込まれて終始した祝賀行事も滞りなく終り、学苑は再びもとの静寂な環境を取り戻したのであった。なお、本学苑は以上の催しを記録に留める目的で、「早稲田大学創立五十周年記念式典」(当編集所所蔵)と題する映画を制作している。

四 創立五十周年記念事業

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 記念祝賀行事は既述の如く華やかに行われたが、これに先立ち、式典に続く五十周年記念事業をいかなる形で行うかが大きな課題として浮かび上がっていた。学苑当局は、欧米の大学教育制度を調査して帰国した教員達に嘱して研究立案させていたが、各学部の教員中にもそれぞれ意見を持つものがあった。中でも理工学部の教授黒川兼三郎は、「五十年紀念事業は斯くあるべきか」(『早稲田学報』昭和七年三月発行第四四五号)で言う如く、同学部付属科学研究所の設立を提唱し、また欧米諸大学の研究調査に従事した各学部の教授達の共通した意見は、教室の増設にあった。このような意見の具申を受けた当局は、これらの意見を総合し、増設すべき教室の数、そのうち特殊なものの規模、ならびに建築費等につき具体的に立案して、その資金調達の方途を講ずる必要に迫られた。田中総長は、常務理事時代から校地の拡張、校舎の増築に携わってきたのであるから、建造物の画期的な改築を考えていたに相違なかった。しかし田中は、既記の如く、祝典の式辞の中で、刻下の経済状態は最も困難なところに置かれていることを述べ、今直ちに施設の新規建設等を執り行うのをためらっているかの如く見受けられた。と言うのも、世界経済を左右するアメリカの繁栄が昭和四年秋ごろから下降の一途を辿り始め、アメリカやヨーロッパとの貿易に依存していた我が国経済も、深刻な不況に悩まされていたからである。

 しかし田中総長は、五十周年記念式が行われた翌日の、戸塚球場における祝賀式において、校友・学生・学苑関係者を前にして、この際広く記念事業を起し、困難な時代に拘らずこれを遂行する決意を披瀝している。

此五十周年祝賀式は時偶々我邦の経済界が未曾有の不況に沈淪致して居りまして、広く天下の同情に訴へて寄附金を募集して積極的に記念事業を起すといふには頗る相応はしからざる状勢であります。併ながら困難なれば困難なる程、愈々益々勇猛心を奮ひ起して此難関を突破するといふのが、我早稲田大学の伝統的精神であります。私は教職員各位と共に手を携へて五十周年を記念すべき事業の達成に全力を傾注致す覚悟であります。徒に過去を語る者には未来なし、興隆の気運の漲れる学園の目指す所は唯前途の躍進であります。諸君と共に提携して一大躍進を為してこそ玆に五十周年祝賀式を挙げた意義が始めて明かになると、私は確信を致すのであります。 (同誌昭和七年十一月発行 第四五三号 二七頁)

 記念事業の胎動は、この時その第一動を始めたと言える。これに呼応した如く、この年の十一月、大学教職員を対象として、「早稲田大学創立五十周年祝賀教職員記念事業」の実行委員により、一人当り二円以上の寄附金を集め、奨学資金設置のための呼び掛けが行われた。右は同年末を以て締切と定められてあったが、翌年三月二十四日までの申込者は五百九十六名、総計三千四百一円に達している。

 翌八年三月、記念事業一般について校友および関係者に対する檄が飛ばされた。その趣意書の一節に言う。

今や五十年の星霜を重ねて、輪廓始めて備はり、内容漸く充実し、将来の飛躍を試みんとするの秋に当り、時偶々我邦の経済界は未曾有の悲境に沈淪し、積極的計画を樹つる頗る至難の憾あり、然れども二十五年の昔背水の陣を布き、私学の最も難しとする理工学部の創立を断行して以来、其声価幸に年と共に高く、今や中央研究所の建設に依て組織的に研究の成果を統一するの必要は、焦眉の急に迫りたると同時に、他の政、法、文、商各学部の木造校舎、又幸に往年大震火災の被害を免れたるも、年処久しきに亙りて漸く腐朽し、過去十数年以来徒らに多額の修繕費を要し、而かも其維持既に困難となり、改築の急務一日の閑却を容さざるに至れり、即ち如上の計画は経済界の不況に鑑み、忍び難きを忍び既に久しく遷延したるものにして、今日に至りては万難を排除し、江湖篤志家の同情に愬へ、其高援に俟つてこれを断行するの外なきものとして、窮余の策として計画を五ケ年の継続事業と為し、其最も急を要するものより、先づこれに着手し、漸を追ふて事業の完成を期するの已むなきに至れり。 (同誌 昭和八年三月発行 第四五七号 一一頁)

と。すなわち、理工学部の中央研究所設立と、老朽校舎の改築が、現下の不況に拘らず必緊の事項であることを述べ、左の如く予算概要が示されている。

記念事業計画予算概要

一、金五十万円 木造校舎改築費(総延坪約四千坪)

一、金五十万円 理工学部中央研究所新築及設備費

内訳

一 金二十五万円 建物新築費(総延坪一千五百坪)

一 金二十五万円 機械器具設備費

合計金一百万円

右事業を五ケ年継続にて完成の予定 (同誌 同号 一一頁)

 募金事業はなかなか困難であった。しかし校舎の改築に緊急を要したので、募金進捗の如何に拘らず、既に着手していた本部校舎(現三号館)をはじめとする建物の建造は着々進められていった。

 早稲田半世紀の記念事業は以上によって知られるとおり、二つの大きな柱から成り立っている。理工学部中央研究所の設立は、前述の如く、黒川兼三郎が逸速くその必要性と必緊の由縁を強調したところである。また大学キャンパスの、鉄筋不燃建築による近代化は、大正末から昭和初年にかけて漸次進められてきたとはいえ、未だに明治期の老朽化した建物が残存しており、しかもそれが、学生の勉学の場たる主要校舎の大部分を占めていたのである。趣意書の中に言う「幸に往年大震火災の被害を免れたるも」とは、かつての関東大震災における木造校舎の弱体と危険性を指しており、それは、田中総長が身を以て味わった過去の経験からの切実な心情の吐露と言える。

 かくて出発した記念事業は、困難な時局を背景にしながら、着実な進行を見せたのである。本事業の成果については本編第五章三に詳記するのでここでは省略するが、決して平坦な道ではなく、前に挙げたように時代の影響を蒙りながら、加えて一応の事業が完成に近づく昭和十二年には、日中戦争という不幸な事態も勃発したのであるから、この記念事業は実に驚異に値する足どりを示したと言ってよい。

 すなわち、篤志寄附による鋳物研究所の設立、商学部関係者有志の寄金による同学部校舎の建設、これらに増改築の建物を加えると、昭和十三年までには実に九件の大建築が出現し、本部キャンパスはこれにより様相を一変するに至った。ただし理工学部中央研究所のみは、記念事業中の最後を飾るものとなり、時期も日中戦争勃発後の十五年に、最初の計画を大幅に改めた上で一応の結末を見る。この件についても、本編第九章二で詳述する。この記念事業の成果は、今なお本部キャンパスの主要部分を形造り、戦災にも堪えて生き残っているが、あの関東大震災の教訓が、来たるべき戦火から学苑の被害を最小限に食い止める結果になろうとは、誰が予測したであろう。

 前述のように昭和八年、募金事業の檄が飛ばされたが、同年中に、原田積善会の十万円、三井、岩崎両家、ならびに望月軍四郎よりのそれぞれ五千円をはじめとして、十八万五千円の申込みがあり、十二年四月に「皇紀二千六百年奉祝創立六十周年記念事業」のための募金が開始されて、実質的には五十周年記念事業募金が一段落するまでに、総計四十三万一千円という好成績を挙げることができた。

五 恩賜記念賞と教職員賞

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 学苑は創立五十周年に際し耐久校舎建設を中心とする記念事業のほかに、恩賜記念賞という学術奨励を目的とする制度を設けた。この制度は、昭和七年十月十五日に「創立五十年記念ニ際シ教育御奨励ノ思召ヲ以テ」(『早稲田学報』昭和八年十一月発行 第四五三号 二〇頁)学苑に下賜された恩賜金一万円を基金として制定されたのであり、この意味で創立五十周年記念事業と同様の意義を有するのである。当局者は、恩賜金下賜の「御沙汰」があって以来、その使途につき協議を重ねたが、昭和七年十一月九日の臨時維持員会で、「学術奨励ノ目的ヲ以テ恩賜賞ノ制度ヲ設クルコト」が決議され、翌八年一月十四日の臨時維持員会の席上、左の如き「恩賜記念賞規程」ならびに「恩賜記念賞審査委員会規程」が制定された。

恩賜記念賞規程

第一条 早稲田大学創立五十周年記念御下賜金ヲ以テ基金ヲ設定シ、之ヨリ生ズル収入ヲ学生ノ学術奨励ノ目的ニ使用ス。

第二条 前条ノ目的ヲ達成スル為メ本規程ノ定ムル所ニ依リ賞ヲ授ク。

第三条 賞ヲ恩賜記念賞ト称ス。

第四条 賞ハ特定ノ論文、著作其他特殊ノ研究ニシテ其成績卓絶ナルモノニ之ヲ授ク。

第五条 授賞ハ恩賜記念賞審査委員長ノ申請ニヨリ理事会ニ於テ之ヲ決定ス。

附則

本規程ハ昭和八年四月一日ヨリ之ヲ施行ス。

恩賜記念賞審査委員会規程

第一条 恩賜記念賞審査委員会ハ文科ト理科トニ分チ各所属審査委員ヲ以テ之ヲ組織ス。

文科審査委員ハ理工学部以外ノ学部科教授中ヨリ、理科審査委員ハ理工学部教授中ヨリ総長之ヲ嘱任ス。

第二条 審査委員ハ各科二十名以内トシ其任期ヲ三年トス。

補欠委員ノ任期ハ前任者ノ残任期間トス。

第三条 各科審査委員ハ其互選ニ依リ各委員長ヲ定ムベシ。

第四条 授賞ノ推薦ハ学部、専門部、高等師範部ニアリテハ所属教授三名以上、専門学校ニアリテハ所属教員三名以上ノ連署ヲ以テ毎年十月末日マデニ当該科審査委員長ニ提出スベシ。

第五条 審査委員長授賞ノ推薦ヲ受ケタルトキハ所属審査委員会ニ諮リ其互選ニ依リ主査委員三名ヲ定メ審査ノ任ニ当ラシム。

但シ必要ノ場合ニ限リ所属審査委員以外ノ本大学教員中ヨリ主査委員ヲ選出スルコトヲ得。

第六条 審査委員長主査委員ノ報告ヲ受ケタルトキハ所属審査委員会ヲ開キ、無記名投票ニ依リ授賞ノ可否ヲ決定スベシ。

第七条 前条ノ委員会ノ開会ハ所属審査委員三分ノ二以上ノ出席ヲ要シ、可否ノ決定ハ出席委員三分ノ二以上ノ得票ヲ要ス。

第八条 擬賞者決定シタルトキハ審査委員長ハ主査委員ノ報告ニ本人ノ性行ニ関スル調査書ヲ添へ、之ヲ総長ニ申請スベシ。

前項ノ申請期間ハ毎年十二月末日マデトス。

第九条 総長ハ審査委員長ノ申請セル擬賞者ヲ理事会ニ諮リテ之ヲ決定ス。

第十条 授賞ニ関スル細目ハ理事会ニ於テ之ヲ決定ス。

 田中総長は右の両規程について次のように説明し、学生の奮励努力を促している。

申すも畏きことながら当時の御下賜金は御沙汰書にもある通り、学術御奨励の御思召に出でたものであるから、如何にこれを善用すれば有り難き聖慮に副ひ奉ることが出来るかと云ふことに就て、極めて慎重に熟慮審議を遂げたのであるが、御下賜金を基金としてこれから得る所の収入を以て恩賜記念賞の制度を確定し、学生の論文、著作若くは特殊の研究にして、其成績の卓越優秀なるものに授賞すると云ふことにしたならば、直接に全学園の学徒に有り難き聖恩を均霑せしめ、而かも永遠無窮に学術御奨励の聖慮に副ひ奉ることが出来ると考へ、此度び恩賜記念賞審査委員会規程なるものを制定し、審査委員会を文科と理科とに分ち、各二十名以内の委員を教授中から嘱任して各科に委員長を互選し、授賞の推薦は教授三名以上の連署によつてこれを審査委員長に提出した場合に、審査委員会は三名以上の主査委員を定めて其報告を徴したる後、無記名投票に依つて授賞の可否を決定し、斯くて愈々授賞候補者が決定すれば、審査委員長は主査委員の報告に本人の性行に関する調査書を添へて総長に提出し、総長は更らに理事会に諮りてこれを決定することにしたのであつて、規程の詳細は別にこれを公表するが、此の如き慎重審議を経て恩賜記念賞を受くると云ふことは、学生其人自身にとつて一代の光栄であることは勿論、授賞に値する論文、著作、特殊研究の出づると云ふことは又実に学園の面目を発揮するこれより大なるものは無いのであつて、私は衷心より将来此授賞者の相次で輩出せんことを禱つて已まざるものである。

(『早稲田学報』昭和八年二月発行 第四五六号 四―五頁)

 恩賜記念賞審査委員には、文科では服部文四郎五十嵐力林癸未夫ら二十名が、理科では小林久平、伊原貞敏、徳永重康ら十二名が嘱任され、それぞれ服部と小林が審査委員長に互選された。文科・理科両審査委員会は、審査委員会規程に従って、十月末日まで各学部・専門部などからの授賞推薦を受け付けた。理科には推薦がなかった模様で、文科審査委員会だけが十一月から活動を開始し、昭和九年一月二十七日第一回の恩賜記念賞擬賞者二名として、今井卓爾(昭八文、のち文学部教授)と原田鋼(政治経済学部一年、のち中央大学学長)の二人が選抜された。

 この決定は三月一日の定時理事会で正式に承認され、四月三日の第五十一回卒業式で右両名に恩賜記念賞が授与された。因に、恩賜記念賞の正賞は金百円、副賞は記念章であった。また、原田の論文は同年九月『欧米における主権概念の歴史及構成』(有斐閣)と題して出版され、十月二十四日天皇ならびに秩父宮に献上された。

 なお、恩賜記念賞審査委員会規程は昭和九年十一月一日の定時理事会において次の二点について改正されている。

(一) 推薦教授三名とあるを一名以上とす。

(二) 学生の提出時期を十月十五日、審査委員長の申請時期を翌年一月末日とす。

(『早稲田学報』昭和十年四月発行 第四八二号 一四頁)

 こうして発足した恩賜記念賞は、昭和十六年十二月二十五日の第五十九回卒業式に至るまで、殆ど毎年卒業式ごとに一名ないし四名の者に授与されたが、「学園に学ぶわれ等にとっての学術研究の最高峰」(『早稲田大学新聞』昭和十一年五月二十七日号)と言われた本賞の受賞者は、左の十九名であった。

第十九表 恩賜記念賞論文授賞一覧

 恩賜記念賞は、その性格上、厳選の上にも厳選されなければならず、授賞論文は学生の一般的研究水準を著しく凌駕するものでなければならなかった。しかし、その候補論文中には、右の規準には達していないが、差はきわめて僅少と認められるものもあり得るので、それらの表彰方法として、教職員賞が制定されることとなった。すなわち、昭和十四年六月二十四日付で学苑から文部省に提出された「青少年学徒ニ賜ハリタル 勅語ノ聖旨ニ副ヒ奉ルベキ実践的具体案ニ関スル件」に、「創立五十周記念式典ニ際シ賜リタル優渥ナル 皇室ノ御恩寵ニ対シ、学園関係者一同深ク感謝シ之ヲ記念スル為メ応分ノ醵金ヲ為シ教職員賞ノ制ヲ設ケ恩賜記念賞論文ニ亜グ優秀ナル論文ニ対シ授賞シ」とあることからも分るように、教職員賞は恩賜記念賞と一体の、それに次ぐものと考えられたのである。また、昭和十六年度の恩賜記念賞の審査過程で、山崎清がかつて警察の検束を受けたことが問題化したことがあったが、この時理事会が「若シ恩賜記念賞ニ不適当トアラバ教職員賞モ亦与ヘザルコトトス」としていることからも、両賞の関係を窺うことができよう。なお、山崎は、前掲の恩賜記念賞論文授賞一覧にある通り、結局恩賜記念賞の受賞者となっている。

 教職員賞は昭和十年二月七日の次の如き定時理事会決議を以て制定せられた。

学生ノ論文、著作其他特殊ノ研究中、成績優良ナルモノトシテ恩賜記念賞審査委員長ヨリ申告アリタルモノニ対シテハ、理事会ノ決議ヲ経テ、別ニ之ヲ表彰ス。右賞ハ教職員基金ノ利子ヲ以テ之ニ充テル。

これを受けて恩賜記念賞審査委員会は、最初の教職員賞の銓衡作業に入ったが、候補にのぼった五つの論文中、専門部政治経済科三年井上勇「公開市場政策研究」と同宮出秀雄「Co-operative Societyの研究」に教職員賞が与えられることとなり、同年四月三日の第五十二回卒業式で表彰され、インク・スタンド一組を受けた。

 教職員賞の授与は昭和十八年まで殆ど毎年卒業式ごとに行われ、受賞者は全部で左の十六名であった。

第二十表 教職員賞論文授賞一覧