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第七編 戦争と学苑

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第二章 経営の健全化

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一 田中総長の登場

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 創立五十周年を明年に控えた昭和六年(一九三一)に、学苑では総長が交替した。創立以来常に学苑の中枢にあって、学苑の大を成すに貢献した高田早苗の引退は、惜しんでも余りあるものではあったが、半世紀を閲した学苑が、更に大飛躍を試みようとするこの時点で、新総長を迎えたのは、それなりに大きな意義があったと言えよう。

 ところで昭和六年は日本史上重要な意味を持つ年であった。この年九月十八日奉天郊外柳条湖に起った満鉄線路爆破事件に発した満州事変により、日本はいわゆる十五年戦争の泥沼に足を踏みいれた。昭和三―四年に大量検挙された日本共産党員の統一公判はこの年六月二十五日に始まり、左翼運動への弾圧激化の中で、労働組合の組織率は七・九パーセントに達し、労働争議数九百九十八件(参加者約六万五千人)とともに、戦前最高を示した。これは四年に成立した浜口雄幸内閣の財政緊縮、産業合理化、金解禁を柱とするデフレーション政策により慢性化した不況が更に世界大恐慌の影響を受け、大幅な操業短縮と労働者の馘首が強行された状況に対応している。当時大学を出ても就職できないとの嘆きが随処に見られ、たとい職はあっても、賃金の切下げや給料の遅配に泣く者が稀ではなかったが、不況の最大の犠牲者は都市の零細商工業者や、日雇労働者、農村の零細農民であった。特に農村の荒廃は目を覆わしめるものがあって、昭和六年における約三千四百件に上る小作争議(参加者約八万一千人)の続発はそれを数的に示すものである(安藤良雄編『近代日本経済史要覧』一二九頁)が、欠食児童は年々増加し、娘の身売りや一家離散が相次いだ。例えば、『東京朝日新聞』(昭和七年六月十七日号)によれば、山形県最上郡西小国村では十五歳以上二十四歳未満の女性四百六十七名中十名が売られ、更に女中や酌婦として村を離れた者が百五十名あった。

 こうした悲惨な状況を打開できない政治家の無能や腐敗を憤る声は当然強かったが、ロンドン軍縮会議をめぐり五年に起った統帥権干犯問題とも絡んで、一部軍人や右翼の蠢動も漸く激しく、六年には橋本欣五郎らによる軍部内閣樹立を目的としたクーデター計画(三月事件、十月事件)と前年末に佐郷屋留雄の浜口首相暗殺未遂事件とがあり、また内田良平を総裁とする大日本生産党(黒竜会を中心とする一部右翼団体の結合)の結成等が相次いだ。満州事変は、このような政治的・経済的危機を満州(中国東北三省)の侵略により乗り切ろうとする軍部(特に関東軍)中堅将校の策謀により引き起され、やがて国の上下各層を否応なくその渦に巻き込みながら、止めどもなく拡大していったのである。

 このような激動日本を背景として行われた総長の交替ではあるが、日本の政情や社会経済状況の推移と直接には何の関係もなかった。しかし早稲田大学の進路は、好むと好まざるとに拘らず、右に述べたような日本の動きに規制されざるを得なかった。新総長が学苑の独自性を保ち、その発展を図るには、困難な道を歩まねばならなかったのである。

 昭和六年六月二十日付の『東京朝日新聞』朝刊の第十一面に、三段抜きで「高田早大総長/突如辞表を提出」というスクープ記事が掲載された。これによると、高田早苗総長は病気を理由として同月十七日正午頃辞表を提出したとある。二十一日付夕刊『東京日日新聞』第二面の記事では十六日に提出されたとあるが、日付の異同は、早稲田大学当局がこの事実を絶対秘密扱いとしており、『東京朝日新聞』の記者の質問に答えた金子馬治常務理事の談話でも辞表の提出の有無について明言を避けているほどであったから、そのために生じたのであろう。今日大学に残っている辞表の日付は、十四日である。高田総長の辞任申出の理由は、総長自身執筆した「辞職理由」および「声明」により、一応明確にされている。「辞職理由」と「声明」とは字句の相違はあるが、同一趣旨であるから、先に執筆されたと見られる「辞職理由」を、維持員会報告に基づき、左に掲げておく。

辞職理由

私は古稀に達する前に是非総長をやめたいと考へて、昭和二年創立満四十五年式典の前其決心をしたのであるが、種々の事情の為に其希望を貫徹する事が出来ないで今日に至つた。然るに昨年十月台湾に於ける校友の希望により渡台して暑熱の間に奔走した為に頗る疲労した折柄、野球切符問題に端を発した学園の騒擾及其以後約半歳に亘る種々雑多の事件の為に心身を労した為か、宿痾たる白内障は眼科医の予言以上に大に進み、其上積年の持病である神経衰弱は昨今甚しく増進して就眠も意の如くならず、今は如何なる事情あるも到底総長たる重責を果す事が出来ない健康状態となつた。今や早稲田学園は必しも内外無事とはいひ得ないかも知れないが、諸種の問題は略ぼ一段落を告げたのであるから、この機会に辞職して一箇の自由人として静に余生を送りたい希望である。これが私の辞職理由の全部であって、学園に対し毛頭不満などあるべき筈なく心から其健全なる発達を祈つて止まないものである。 高田早苗

 これによると、総長辞任の理由は、老齢になったので後進に道を譲りたいこと、台湾出張および早慶野球戦切符事件とその後の諸事件処理で健康状態が悪化(神経衰弱と白内障の昻進)したこと、今後一個の自由人として静かに余生を送りたいこと、これら三点にあったようである。高田が後に『実業之日本』第三四巻第一六号(昭和六年八月発行)に寄稿した「早稲田大学生活/五十年間の思ひ出」に、

私は長い間早稲田に暮した。……断然意を決して今度総長の職を辞したのである。尤も私が辞意を洩したのは今日に始まらない。今迄に三、四度も辞職しやうと思つて其事を申出ると、学校の人々が止めるのみでなく、坪内、市島などと云ふ老友があつて、闇くもに留めるものだから、元来意志の弱い私は止むを得ず踏止まつたが、今度といふ今度は、命には換へられないと考へて、断然辞職することになり、坪内、市島の両君も止むを得ないと云ふことで賛成をして呉れたので、やつと目的を達したやうな次第である。 (四―五頁)

とあり、これまでも数回辞意を表明したことがあったが、漸く今度目的を達成できたと言っているが、市島も、

総長の神経衰弱に罹られたのは十数年前からで、決して昨今の事でない。……爾後一進一退はあるが、決して平癒されたことがなく、劇務に当らるると、いつも其症が発する。総長がそれを顧慮して辞任を思ひ立れたことは一再ならずある。……学園を顧慮する上から、いつも私情を棄てて、辞任の申出のある毎に、常に坪内博士等と共に留役をつとめた。……今度辞任の内意を聞いて、誰れよりも先きに自分が賛成したのは、総長の病患の決して軽くないことを、人より善く知つてゐるからである。……総長の開校以来の勤労に対しても、学園一同は総長の双肩を軽くして、その健康の回復を祈るべきではあるまいか。

(『早稲田学報』昭和六年七月発行 第四三七号 一〇―一一頁)

と述べており、総長辞任の理由は、何人も認めざるを得ないものだったようである。

 しかし、前掲の「辞職理由」に「学園に対し毛頭不満などあるべき筈なく」と記され、またその後の「声明」にも「学園に対し何等不平なぞあるべき筈はないが」云々と述べられているのは、高田の辞任があまりに突然のことなので、その理由について世間からあらぬ疑いを受けぬよう、言葉を副えたのであったろうが、反ってそのために裏面に何かあったのではないかと憶測されたふしがある。例えば、六月二十四日付『東京日日新聞』朝刊の「大学総長物語(二)」に、「かつては早大を/背負つた人も/今はすでに一ロボツト」という見出しで、高田が「冷ややかな内省の眼を自分自身に向けた時、博士は完全に一個のロボツトとして総長の椅子に載つてゐるに過ぎない自分を発見しないではゐられなかつた。……総長の実権はすでに他の人に移つてゐるのではないか」という記事を掲載されたのは、その一例である。

 しかし市島謙吉が「二、三年前総長の任期の満ちた時などは、飽まで辞任を固執されたので、なだめ兼ねて、日常の劇務は理事に託して、総長の地位だけは、もうしばらく保つて欲しいと強て懇請した」(『早稲田学報』第四三七号一〇頁)と述べているように、実務を理事に託すのは留任の条件だったのであるから、高田が今更これを不満とする理由はない。しかも後述するように、後任人事もほぼ高田の希望通り実現するのであるから、高田が不平を抱くような状況は、当時の学苑行政にはなかったと見られる。従って「辞職理由」や「声明」での高田の申分は素直に受け取ってよいのであろう。尤も、高田の辞意は前々から何度も表明されており、その健康状態も決して良好ではなかったのに、実際には辞任の実現がこれまで引き延ばされてきたのには、大学内部に複雑な事情があったのを推測させるものがあり、今回も高田の辞意表明を承けて、秘密裏に大学当局が善後措置を練ったのも、それを裏書しているように思われる。

 高田総長の辞表は、六月二十三日に開かれた臨時維持員会で、大隈信常会長以下二十七名の出席を得て承認された。当時の記録には次のようにある。

維持員会ハ高田総長ノ辞表提出ニ対シ衷心遺憾ノ情ニ堪ヘズ、吾等ハ総長ノ留任ヲ熱望シテ止マズト雖、総長ノ辞意ハ総長最近ノ病状ニ徴シ到底飜ス能ハザルモノアルヲ知ツテ、尚留任ヲ懇請シ徒ラニ時日ヲ遷延セシムルハ、却テ総長ノ病苦ヲ加フル所以ナルニ鑑ミ、爰ニ総長ガ本大学ノ創立以来殆ンド五十年間其心血ヲ濺ガレタル御功労ニ満腔ノ謝意ヲ表明スルト同時二、総長ノ御希望ヲ容レ其辞任ヲ承認スルコトニ決シタリ。

 高田の辞任は辞表提出後九日を経て実現したが、同じ日に新理事に鈴木寅彦が選任された。鈴木は明治二十九年に邦語政治科を卒業した後、代議士として活躍し(当選四回)、また東京瓦斯、狩野川電力、東京回漕、日清生命の重役を務めた人物で、田中穂積と同学年であり、古くからの友人であった。従って鈴木の理事選任は、田中総長実現の一つの布石であったと言えよう。このあと直ちに総長選出のための理事会が開かれて、田中が互選され、次いでその結果が臨時維持員会に報告され承認を受けている。これらの経緯を見ると、この九日間に田中新総長実現のため周到な準備が進められていたものと思われる。尤もこの間に、高田留任工作も一部では行われていたらしい。例えば維持員会長大隈信常は、人を介し、また自ら動坂の高田邸を訪ねて、留任の希望を伝え、二十三日の臨時維持員会でもその意見を述べたと言っている(『早稲田学報』第四三七号 二四頁)。しかし高田の辞意は固く、それらの留任運動は結局形式的なものに終ってしまった。

 それでは田中新総長実現のためにはどのような動きがあったか。六月二十日付の『東京朝日新聞』朝刊の記事によると、「後任選定に暗影」とあり、「田中博士が有望視されてゐるが、理事中にも田中博士に好感を持たぬ者もあるので、意外な紛糾をまき起すものと見られ、全学生間にも田中博士の学校行政に非常な反対意向が強いので反田中派の暗躍と相俟つて往年の騒ぎを起すのではないかと学校関係者は成行を非常に憂慮してゐる」と記されている。二十一日付同紙夕刊には田中の他に理事松平頼寿の名を挙げて、大勢は寧ろ松平有利としている。また校友・学生の内には安部磯雄を推す者があることを報じている。他方二十二日付『東京日日新聞』朝刊は、二十一日早朝から「田中〔常務〕理事を中心に同氏を支持する同校維持員は秘密裡に会合を重ね、四囲の情勢を緩和すべくつとめてゐるが、反田中派もこれと対抗して同夜は深更まで種々画策した」と報じ、更に「早大幹部間では既報の通り田中理事を後任総長に推すことは殆んど確定的であるが形式上の問題として、一まず松平頼寿伯を総長に推薦し、同伯が就任辞退するを待つて正式に田中理事の総長就任を見る模様で」あると報じている。これらの新聞情報がどこまで正確であったか確かめる術もないが、主要新聞がこれだけ連日に亘り報道をしているところから見て、後任総長問題に何の動きもなかったとは言えまいし、また世間一般が相当の関心をこの問題に向けていたのもまさに事実であったのである。

 それは一つには、次期総長の呼び声の高い田中に対し学生の反対が相当強かったからである。二十一日付『東京朝日新聞』朝刊は、「早くも学生側ではこの総長辞職を重大視し二十日夜某所で秘密裡に会合し理事会、維持員会で田中穂積博士又は松平頼寿伯を総長として推す場合は断固としてはねつけ高田総長留任の方針で行動する模様で、二十二日(月曜日)には授業開始前に各クラス大会を開き学生側の態度を決定し理事会、維持員会に通告する模様である」と報じ、二十二日付同紙朝刊、二十三日付同紙夕刊には、各学部のクラスの動きを載せ、更に二十四日付同紙朝刊には、二十三日総長選出の維持員会、理事会の開かれていたとき、「政経学部一・二・三年は一時から三時半にわたつて二十二番教室で合同大会を開き、一、高田総長の辞任承認、二、田中、松平氏等の総長就任反対、三、学生の利益を尊重する総長擁立、を一気に可決し十七名の代表委員は三時半過ぎ理事会に決議文を手交したところ、理事会では二十五日に回答を約した。なほ専政二年、専法、専商等でも反対運動を始めた」とある。なおこの決議文に対し、大学では二十五日午後一時から恩賜記念館で田中総長就任後初の理事会を開いて協議したが、「学生の要求は正当な手続を経ない非合法的なものであり、決議の内容が実行し得ざるものであるから回答の必要はない」と決定し、午後三時半岡村千曳教務幹事から政治経済学部委員にその旨を告げたことが、『東京日日新聞』二十六日付朝刊に掲載されている。他方、学生の運動は、二十四日に至り更に激化したらしく、二十五日付『東京朝日新聞』夕刊は「新総長反対の/運動悪化/早大にまた一騒動か」との見出しを掲げて次の如く報じている。

前日田中新総長の就任決定を見た早大では二十四日早くも「田中新総長を放逐しろ」「即時全聯〔全聯合学生委員会〕を開催しろ」等というアジビラを各所に配布し午前九時には理工科、専法、高師等の各クラス学生が一致して田中新総長反対の気勢を挙げこれと同時に「授業料三割値下」「大隈講堂を無料貸与せよ」等を申合せ田中総長反対の動きをきつかけに再び早大学園を騒動のうづへまき込まうといふ気勢が見えて来た。

 この情勢は二十五日付同紙朝刊に更に具体的に、二十四日正午から二十番教室で開かれた政経大会で、田中総長就任絶対反対、全聯公認、授業料三割値下、会計公開、大隈講堂無料貸与等を満場一致で決議したと報じている。次いで二十六日は大学擁護記念日、すなわち大正十二年の研究室蹂躙事件に際し、これに抗議して大学擁護演説会が決行された記念日に当っていたが、この日政経、文両学部と専門部法科、第一高等学院の委員代表等約五百名が参加して、最初の連合学生大会を開き、今後も合法的運動で進みたいとする政経学部の意見は斥けられて、あくまで非合法運動で闘争を展開すべしと決議されたと二十七日付『東京朝日新聞』朝刊に報ぜられている。この記事には闘争方法と、当局に対する要求条項が詳報され、

各学部共表面的運動はこれで打切り細胞組織の拡大強化に全力を傾注する事、その実際的方法として各学部の委員会の連絡を密にしクラス運動の徹底を期する事になり、その結果を七月上旬暑休前に各部委員が持ちより統制機関を設けて暑休中準備を進め九月来学期から改めて当局と抗争する事となつた。当局に対する要求条項は大体文学部主張の、田中総長就任反対、全聯公認、大隈講堂の無料貸与、言論・出版・結社の自由、授業料三割値下の五項目とし抗争の手段として月謝不納同盟、全学生の退学届提出、切崩防止と結束を決議。

したとある。このあと約百名の学生が校内をデモ行進したことも記されている。

 しかし学生の闘争方針が非合法的なものに変ったためと、夏季休暇を控え帰省した学生が多かったために、新総長就任式が九月挙行の予定を繰り上げて七月三日に行われたときは出席者は約二千名、七月四日付『東京朝日新聞』夕刊に「総長就任式/案外平静」という見出しで、「場内に多少のざわめきがあつたが事なく」終了したと報ぜられている。七月四日付の『東京日日新聞』夕刊によればこの日学校当局は万一を慮って厳重に警戒し、また戸塚署から官服警官も出動したとあるが、学生の反対運動が結局竜頭蛇尾に終った最大の理由は、六月二十七日付同紙朝刊に「田中新総長就任を機会に策動してゐた早大の一部学生は、二十六日の大学擁護記念日を期して大衆運動を行ふべく計画したが、一般学生が無関心であつたのと学校当局の警戒のため何事もなく……散会した」と報ぜられている如く、一般学生の無関心にあったと思われる。前掲の二十六日付同紙朝刊には、学校側は今週一杯で学生の反対運動が静まるものと楽観している旨記されているが、理事会のこのような態度も、一般学生に動揺がないのを見抜いた結果であろう。

 田中新総長の就任反対を錦の御旗に立ち上がった学生の動きも、実はこれを機会に全連合学生委員会の承認、言論・出版・結社の自由等を獲得することを狙ったいわば一種の民主化運動であったし、強引に非合法運動に持ち込んだことで示されているように、当時にあっては「一部学生」と称された「左翼学生」主導の活動だったのである。しかしいわゆる三・一五事件(昭和三年)以来、弾圧強化の中で、少数の熱烈な共産主義信奉者は地下に潜ってでもますます熱狂的活動を続けようとしたが、一般大衆の心は左翼運動から離れ始めた。そのときにこのような活動を学苑で推進するのは困難だった筈で、一般学生が同調しなかったのは、当時の趨勢としては寧ろ当然だったと思われる。この後太平洋戦争の敗戦まで、学苑内にこの種の「騒動」が起らなかったのがそれを証している。

 しかし、左翼学生中心にある程度の盛り上がりを持った学生運動がこの時点で起ったのは、学苑当局には一大衝撃であった。この年七月付で、「父兄学生各位」宛に早稲田大学名で左のような書状を郵送したのはその現れであった。

拝啓向暑の砌愈々御清勝賀上候。陳者本学園も幸に平静に健全なる発達を致居り、学生亦専心研学に勤しみ居候事、誠に御同慶の至りに存候。

近時我国に於ける学生生徒の状況を通観致候に、極めて一部とは申ながら、少数学生中には、動もすれば驕激に流れ、その結果本務たる学業の修得を怠り、或は放擲して、一身を誤り、甚しきは遂に国法に問はれ、刑辟に触るるものも尠からず、これ独り此等学生生徒の一大不幸、家庭の不祥事たるのみならず、実に国家社会の損失大なる次第に有之、我々任に教育に在るものは、固より深く寒心に堪へざる所にして、常に最善の注意を以て、その事なからしめ候様、日夜苦心焦慮致居候も、多数学生生徒の一部分は懐疑の念に富み、年少気鋭に任せて反省熟慮を欠き、軽挙を敢てする憾あるを免れず、而も近時の驕激なる運動者は、洗練せる戦術を用ひて巧妙なる宣伝、実行、煽動、教唆、誘惑を為し、甚しきは脅迫強制の手段に訴へてまで、学生生徒の間に徒党を作りて闘争的気分を鼓吹し、依て以て階級闘争の実習を行ひ、更に一般父兄に向つてさへ宣伝誘惑の途を採らんとし、かくして学内に於て学校当局に対し教育の府として、到底容認する能はざる要求条項を羅列し、所謂学内闘争の手段に依り、闘争の為めの闘争を敢行して、学校を攪乱することを目的とする者、最近益々増加し、現在全国官私各学校に於ける、所謂学校騒擾なるものの真相は、概ね此類のものに有之候。此の如くにして此中より、将来極端左傾の第一線に立つべき闘士を養成することが、最近極左団体の主要なる策戦と相成り居り候。随て学生生徒にして一ト度此方向に傾かんか。父兄の訓諭も教師の忠言も、全く馬耳東風、却て兎角反抗心を激成する実情に有之候のみならず、本人幸に反省悔悟して正道に皈らんと欲することある場合にも、彼等は裏切者、卑怯者又はダラ幹等と悪罵誹謗を逞うして、巧に青年の弱点を捉へ、又或は脅迫威喝を以て脱退せざらしむる等、誠に痛恨の至りに存じ候、就ては別紙最近全国各学校に於ける学生生徒にして、此問題に関して検束又は検挙せられたる者、所謂学校騒擾の件数、並に彼等が如何に不合理、驕激なる主義主張を為しつつあるか、各学校に共通せるものの梗概等を高覧に供し候間、為御参考是非御一読被成下度此段得貴意候。 敬具

昭和六年七月 早稲田大学

父兄

学生

各位

 舞台裏では多少の紆余曲折があったにしても、田中穂積の総長就任は、前述のように六月二十三日の理事会ならびに臨時維持員会で何の波瀾もなく決定した。田中は大正十二年に高田の総長就任と同時に常務理事に選ばれ、以来総長の片腕として学校行政に辣腕を振ってきたのであるから、その経営手腕には夙に定評があり、特に高田の路線を継承し、更に発展させるためには最適の人物であった。高田も、田中に跡を譲る意志が強かったと思われる。しかし他面田中については、誠意に欠ける、抱擁力や勇気に乏しいとの悪評も囁かれていたらしい(鈴木寅彦「同窓の一人として」『早稲田学報』第四三七号 三七頁)。それは誤解や偉人高田との比較から生れたものであったろうが、坪内雄蔵が、「総長に要する資格は事務家としての技倆よりも第一に徳望であり、第二に学問に対する深い造詣と熱愛であると。……私も此説に賛成する……〔しかし〕少くも此過渡期だけは、傑出した実務家であつたはうが学園の為有利であると思ふ」との意見を述べて、田中は「今の場合に於て総長として最も適任者である」と言っている(同誌 同号 二六頁)ように、田中に批判的な人々でも、その「傑出した実務家」としての才能を認めざるを得なかった。こうして田中は経済的・思想的に多事多難な昭和初期の学校運営に必要な、その優れた経営者的手腕に期待されて、総長に推されたのであり、後述するように田中は十分にその期待に応えたのである。

 総長就任式は七月三日午前十時から約二千の学生を大隈講堂に集めて執行された。国歌斉唱に次ぎ、前総長の告辞が、病気のため出席できなかった高田に代って、金子馬治常務理事により代読された。その趣旨は、総長辞任を認められて大変うれしい、新総長は経歴といい、学苑に対する功労といい決して他に譲る人でなく、従って学苑内外こぞって心から新総長を推し、一致団結毅然として学苑の権威を外に発揚する覚悟を固めることを切望する、また新しい理事会は人を得ており、学苑の中枢は従来に比して、少しも軽重はない、というものであるが、新総長を助けて、学苑の関係者、特に学生が一致団結して学苑の権威を高めるべきことを強調しているところに、学苑前途に対する前総長の若干の危惧が表されているように見える。なおこの告辞の中で、高田が、「母校其ものも亦早稲田人をして統率せしむ可きであると信ずる」と述べ、これが「私の宿論である」(同誌 同号 四頁)と言い切っているのは、田中新総長の立場を擁護する点からも、注目すべき発言のように思う。

 高田は辞表提出の際、維持員会に宛てて、「覚」を出している。それは三条から成り、次のようなものであ。た。

一 自分病気ノ為総長ノ職務ヲ完スル能ハズ。且コノ際時代ノ推移ニ鑑ミ新進者ニ職ヲ譲ルコト学園ノ利益ナリト思考シ、断然辞職ノ決心ヲ為シ既ニ辞表ヲ提出セリ。

一 理事並ニ維持員諸君ハコノ際学園内外ノ形勢ヲ察シ適任者ヲ総長ニ挙ゲラレン事ヲ希望ス。自分ニ於テハ何等意見ナク、又自分協議ニ預ルハ事態ヲ紛糾セシムルニ過ギズ。

一 新総長推薦後ノ理事会ハ諸般ノ改革殊ニ学制改革ヲ標榜シ実行サレン事ヲ切望ス。 以上

(同誌 同号 一七頁)

右のうち第一、第二項は「告辞」に述べられているように既に実現していたが、第三項は新総長・新理事会への宿題となった。「辞職理由」において敢えてこの点に触れなかったのは、あくまで「一箇の自由人」として、今後学苑行政には容喙しないとの立場を守るためであったろう。

 次に田中新総長は次のような就任の辞を述べた。

大学の使命を考へて見ますると前途は頗る遼遠であります。老侯が常に仰しやられた日本特得の文化を建設して東西文明の融合を計ると云ふ、此遠大なる理想に対しましては、所謂日暮れて道遠き歎なきを得ないのであります。人類六千年の過去の歴史を顧みますれば、何れの国と雖も自力のみに依つて立派な文化の華を咲かせたと云ふ類例はないのであります。皆な他国の文化を取入れて之を織なして、さうして燦爛たる文化の華が咲いたのである。従つて我国が過去に於て支那印度の文化を取入れ、又近くは西洋の文物制度を取入れたと云ふことは是は当然の事柄であります。併ながら国を開いて以来七十余年間、過去の日本を顧みますると、唯一意専心西洋文化の摸倣輸入のみに是れ努めて今日に至つたと云ふことは残念至極のことであつて、斯の如くにして日本文化の建設は、百年河清を待つの類であると言はなければならないのであります。即ち老侯の常に仰せられた日本特得の文化の建設事業は、掛つて現代教育者の双肩にあると申さなければならないのであります。此の如き理想の上から日本現代の教育を見ますれば、遺憾なる点が必らずしも尠くないのであります。現代の学生或は生徒は下は小学より上は大学に至るまで、唯学ぶこと記憶することのみに全力を注いで、自から考へること自から思ふことは忽せにされて居ると云ふ実情は、現代教育界の通弊であつて、教育の真髄は何としてもインフヲーメーシヨンを与へると云ふことも固より大切ではあるが、併ながら是れよりも大切なことはインスピレーシヨンを学徒に対して鼓吹すると云ふことでなければならない。従つて私は親愛なる学生諸君を統率し、若くはコントロールしやうと云ふ考はないのであります。諸君の前途は多望であります。将来幾多の俊傑が必ず此中から輩出するに相違ないのであります。併ながら何分にも学生諸君は未だ年少気鋭であつて、経験の深さが足りないと申さなければならないのである。従つて私は敬愛する諸君に対して常にガイダンス即ち指導の態度を以て将来とも諸君に臨みたいと考へて居るのであります。

大哲カントは斯う申して居る、人間を造るの秘訣は教育に依るより外に途はない。而して此秘訣には何等の魔術はない。唯教へる者と教へられる者とが愛と信頼で一致合体する所に、教育の秘訣があるとカントは言ふて居るのであります。が之は千古万古に亘る真理であると私は確信致します。而して此機会に学生諸君に私は希望を致したいことが二つあるのであります。第一には純真なる学徒の態度としては、何としても真理を愛さなければならないのであります。正しき道理の前には柔順に頭を垂れて服従すると云ふ立派な心掛がなくてはならないと信ずるのであります。第二に諸君に希望を致しますことは自然科学と社会科学とは自から其研究の態度が異ならなければならないと云ふことであります。自然科学にありてはそれが真理であるか、或は真理でないかと云ふことは、「ラボラトリー」に於ける実験に依つて明白に之を証明することが出来るのであります。併ながら社会科学にあつては此便宜が全くないのであります。従て若し万一未熟なる自説や仮説を直ちに行動の上に現はします結果は、制度組織の変革となるのであります。即ち社会の安寧秩序の紊乱となるのみならず、学徒の厳粛なる一生を誤まるやうな危険がないとも限らないのであります。玆に於て私はどうか在学時代に諸君は社会科学の研究は勿論結構である。何処迄も研究を致さなければならないのでありますが、之を行動化すると云ふことは絶対に慎んで戴きたいと云ふことを此機会に於て切に諸君に御頼みを致します。

独逸の文豪ゲーテは独逸の将来は二十五歳以下の青年の双肩に荷はれて居ると申したのでありますが、日本の社会のネキスト、ジエネレーシヨンは即ち諸君の双肩にあるのであります。どうか諸君が此学園に居られる間は何処迄も自重加餐せられまして、将来の大成を期せられることを就任式の機会に於て、私は衷心より諸君に切望致して止まないのであります。之を以て就任の御挨拶と致します。 (同誌 同号 五―七頁)

つまり新総長の学生に臨む基本的態度としてはガイダンスを重んずることを宣言し、また学生に対しては、真理を愛して、正しい道理の前には柔順に頭を垂れて服従する心構えと、社会科学の研究はせねばならぬが、行動化することは慎まねばならぬこととを求めたのである。新総長がガイダンスを重んずる発言をしているのは、高田前総長の「学制改革」の要望に応えるものだったように思えるが、学生に対する要望には、当時の学苑を取り巻く思想的問題の困難さが反映していると言えよう。

 新総長は一日置いて七月五日に丸ノ内東京会館で開催した教職員招待会においても次のような挨拶をした。

実は衷心悲壮の決心を致して此重任を御受けを致した次第であります。其悲壮の決心を致した理由の第一は私の短才微力果して其任に堪ゆるや否やと云ふことであります。第二には今日の教育界の時局の多難と云ふことであります。即ち思想国難と云ふ言葉は屢々新聞雑誌等に於て見るのでありますが……共産党を公認せざるのみならず、三千年来金甌無欠の国体を誇りとして居る我邦に於て、此学生運動なるものが何時終熄するやも測り難いと云ふことは、誠に悲むべき事柄であります。〔しかも〕教育制度の行詰りであります。……教育制度の改革は正さに爛頭焦眉の急務であると申さなければならないのであります。〔更に〕私学にあつては経営の困難と云ふことがあります。……斯の如く幾多の難関を前に控へて居るのでありますから短才微力の私が重任に膺るに臨んで何としても悲壮の決心を為さざるを得ないのであります。 (同誌 同号 一九―二〇頁)

 この二つの演説に見られるように、田中は総長就任に当り学制の改革と、思想的に揺れ動いている学生の統制と、私学経営の健全化との三つの課題に取り組む決意を示したが、これは寺尾元彦法学部長が教職員を代表して述べた謝辞の中で数え挙げた学制改革、校舎の改築、待遇改善、財政的基盤の確立、学風の刷新、建学の精神の作興、思想問題対策等の「学園に於て為す可き急務」(同誌 同号 二一頁)とほぼ一致するもので、田中新総長に対し、教職員の期待するところでもあった。新総長を取り巻く情勢は容易なものでなかったが、教職員招待会の挨拶で、友人であり新理事である鈴木寅彦が前日の評議員招待会の席上、新総長は勇気が足らないと評したのに反論する形で、田中は「『自から反て縮ければ千万人と雖も吾れ往かん』と云う気力は少々は持合せて居る積りであります」(同誌 同号 二〇頁)と軒昂たる意気を示し、前途の暗雲を切り開く決意と自信とを表明したのである。

二 首脳部の異動

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 新総長決定の後、七月十日に臨時維持員会が開かれ、高田前総長の名誉総長推薦が満場一致で承認されたが、高田は固辞してこれを受けなかった。その理由を七月十四日付田中総長宛の書簡に「今後は絶対に静寂自由なる生活を送り度、随て名誉総長といふが如き厳めしき称号を拝受いたし候は心身の上に一種の負担を感ずること尠なからず存ぜられ候間、御推薦の光栄は深く感激致候へども、この場合断然辞退仕度」と述べている。しかし名誉総長には権限もない代りに責任も伴わないのであるから、この辞退理由はあまりに形式的である。しかも同じ書簡の末尾の方で「校規に『大隈老侯の相続人を代々名誉総長とす』といふ規定あるも、彼と是とは何等抵触す可き道理無く、随て維持員会の決議を不法なりとして御受け致さざる次第にては万々無之」と付言しているのを読むと、自身に名誉総長の推薦を受ける資格のあることを、暗に自認していたとも受け取れる。しかし元来「校規」(大正十二年制定の寄附行為)に名誉総長制を規定したのは、大隈重信の学苑に尽した功績に報いるためであり、また家督相続人であった大隈信常の当時における微妙な立場に応じた措置だった(寄附行為の規定は「大隈重信ノ家督相続人」とあり、「大隈老侯の相続人を代々」という高田の記憶は誤りである)のは高田本人が最も熟知していたことだから、規定に抵触しないと言いつつも、口実を設けて受諾しなかったのであろう。これに対し大学側が熱心に就任を懇請したような形跡はなく、意外にあっさり引き下がってしまった。それは、高田を名誉総長に推すのは寄附行為の規定上無理があることと、右に述べたような事情があるのを、大学側でも知っていたためであろう。すなわち、高田の名誉総長推薦の件は、一応こうした手順を踏んだことに意義があったとも言えるのであろう。

 名誉総長問題が一段落した後に、維持員・理事の交替があった。先ず維持員について見ると、十月八日の定時維持員会で、大隈信常(会長)、市島謙吉高田早苗坪内雄蔵、渋沢栄一の各維持員から申し出があった辞任願が承認されている。五人のうちで渋沢はこのとき既に九十一歳で、漸く衰えを見せていたから、高齢による辞任であったことは明らかである(渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第四五巻 三九四―三九六頁)。因に渋沢はこの年の十一月十一日に逝去した。他の四人の場合は、辞任の理由につきそれぞれ声明を出しているが、その内容は次のようなものであった。先ず大隈信常は、

今回の辞任に対する自分の心事は光風霽月である。一点の雲翳をも止めない。単に素志の実現をなしたに過ぎないのであつて、何等他意あるものではない。早稲田学園が先考の一大遺業であることは、天下公知の事実であるから、其遺志を継承する自分の立場としては、云ふ迄もなく鋭意専心之れが隆昌を期し、飽くまで其発展を図らなければならぬ重大なる責任があるのである。此事は自分の離るべからざる義務であると同時に、又当然の権利であると確信する次第である。……併しながら学園の行政機関たる維持員の地位は自分として永久に之れを兼ねるの必要はないのであつて……適当の時機に於て、之れを譲つて後賢に委ねたいものと庶幾して居つた次第である。……然るに最近学園の首脳部に於て大異動が行はれ……此際を以て、自分が素志を遂行するには、絶好の機会であると考へた次第である。 (『早稲田学報』昭和六年十一月発行 第四四一号 八頁)

と述べており、他の三人は連名で次のように心境を記している。

吾々三人が相携へて維持員を辞したことに就ては、率直に云へば三人共老いたから骸骨を乞ふたに過ぎぬ。考へて見れば随分長い間此の職を汚した。言を換へて云へば、久しい間後賢の路を塞いだものだ。然しながらいつまでも立はだかつて人の進路を塞いで居るべきでない。実は吾々が老いたと共に、吾々に代はるべき人も追々老境に入らんとしてゐる。現に今維持員である人々は、其の教授たり校友たるに論なく、概ね四、五十格好の人であり、今後吾々に代つて員に加はる人も矢張り、その様な年輩の人であらうと思はれる。それに想到すると吾々は後賢の為め路を塞いでゐることの非を痛感せざるを得ない。但し五十年輩の人は吾々から見ればまだ若い人である。年が若いばかりではない。頭の若い人である。思慮が熟し世故に長じた働き盛りの人である。大学の重要機関に備はる人は、どうしても如斯き人でなければならぬ。大学の将来の為めに斯様な人を迎へる必要がある。吾々老物が一席を塞いで居れば、一席だけ斯様な人物を失ふ訳である。新陳代謝は如何なる場合に於ても必要だが、吾大学も五十年に垂んとしてゐるから今は代謝の必要を尤も痛感する。過般吾大学が生んだ田中博士が起つて総長に任ぜられたのも、至当の成行で、大学の将来の繁栄を企図するには此の更迭が大切である。既に代謝が総長にまで及んでゐるからには、維持員会にも新進有為の人物を引入れて新総長の規画に参せしむることが最も必要と信ずる。乃ち吾々が引退の機会を此場合に選んだのは、偶然でない。最も時機を得て居ると信ずるからだ。勿論吾々の引退は寧ろ一片愛校の情に動かされての事であるから、縦令引退しても大学に対して旧日と毫も変りがない。至誠を以つて大学の繁栄を祈ることに於ては、敢て人後に落ない心得である。終りに臨み吾々が内心慶びに堪へないのは、学園に済々たる多士があつて些しも人物の払底を感じないことである。吾等が辞任に方り心強く思ふのは専ら此点にある。

昭和六年十月 高田早苗 坪内雄蔵 市島謙吉

(同誌 同号 八―九頁)

 市島、高田、坪内の三維持員はいずれも古稀を過ぎており、「新進有為の人物を引入れて新総長の規画に参せしむる」ため引退するとの辞意表明はまことに自然な感がある。しかし大隈は当時六十歳で、当然維持員を罷むべきであるというほどの年齢とは思われない。またその声明文にも権利を主張するなど未練らしいものも感ぜられる。或いは市島らに誘われ、意に満たぬままに引退させられたのかもしれない。もしそうだとすれば、将来何かと噂の種になることのないよう、この時機に第一線から退いてもらおうとの意図が高田らにあったからであろう。それはともかく、十月八日の維持員会は渋沢栄一に対し、感謝の意を表するために、「多年学園ノ為深厚ナル御高援ニ対シ維持員会満場一致ノ決議ヲ以テ謹テ感謝ノ誠意ヲ表明致候」と決議し、記念品を贈呈することとして、その選定を理事会に一任した。渋沢が官界、実業界、金融界などで活躍し、特に近代企業の確立に大きな役割を果したことや、晩年社会教育事業に尽力したことなどは周知のところで、今更喋々するまでもないが、大隈重信とは明治二年渋沢の大蔵省出仕以来の交わりで、東京専門学校創立以後は常に学苑の後援者として発展に尽し、基金管理委員長、校規改定調査委員会長、故総長大隈侯爵記念事業後援会長等の要職を歴任している。維持員会が右のように感謝決議したのは当然だったのである。

 次に大隈、市島、高田、坪内についても、永年の功労に対し、維持員会は満場一致を以て感謝の決議をした。また大隈の辞任で維持員会長が欠けたので、理事松平頼寿を互選し、その就任を見た。更に十月十五日の臨時維持員会と同月三十一日の臨時評議員会において、校規に基づき維持員の補欠推薦ならびに補欠選挙が行われ、推薦により徳永重康、渡辺亨、上原鹿造、山本忠興増田義一、鈴木寅彦が、選挙により服部文四郎、荻野元太郎、吉江喬松、黒田善太郎、牧野謙次郎小山松寿、小林久平が、それぞれ補充された。

 なお十月八日の定時維持員会では、庶務幹事難波理一郎の辞任を認め、一万円を退職手当として贈ることを定め、後任には会計課主事永井清志を充てた。そのほか「常務理事ハ之ヲ二名トシ」とあった「早稲田大学事務通則」を「常務理事ハ之ヲ二名以内トシ」と改め、幹事を補佐するため副幹事を置くことができるよう改めている。

 次に理事の交替であるが、十月十五日の臨時維持員会に、松平頼寿の維持員会長就任による理事辞任の件が報告、承認されたのち、理事一名の補欠互選が行われて、増田義一が当選した。これで新総長の下における理事は、常務理事に金子馬治、理事に塩沢昌貞平沼淑郎山本忠興、鈴木寅彦、増田という顔触れになった。塩沢によると、

早稲田大学の組織も昔と今日では大分変つてをつて、東京専門学校時代から早稲田大学と改称する迄の長らくの間は、殆んど学長と幹事とで仕事を処理してをつた。……ところが今日では大いに組織が複雑になつて来て、殊に学部といふものが独立し、教務のことは夫々各学部で極め、教授会も権限を認められ、制度組織が進んで来た。従つて制度組織と人物と双方相俟つて全般の発展を期待されるといふ時代になつてゐる。 (『早稲田学報』第四三七号 三〇頁)

のであるから、理事の識見・手腕が学苑の運営上相当大きなウェートを占めることになる。それで新理事の選定には苦心があったと思われるが、学内の四ヴェテラン教授に学外の実力者鈴木・増田を配したのは、一応の成功であろう。特に鈴木・増田の起用は、新総長に課せられた校舎の改築等に要する資金募集が眼前に迫っていたことを考えると、財界との有力なパイプであった渋沢の引退によって生じた穴を塞ぐ意味で最もふさわしい人選であったと言えよう。