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第七編 戦争と学苑

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第八章 日中戦争への対応

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一 戦争の拡大と学苑の戦時体制化

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 昭和十二年七月七日に勃発した蘆溝橋事件を契機にして、日本と中国との戦争は拡大の一途を辿り、以後我が国はあらゆる分野に亘り戦時体制を形成していく。戦時下学苑の諸様相については、それぞれ個別に詳述するが、ここでは、そうした戦時体制の学苑への浸透過程を文教政策の側面から考察し、その過程の中で、私立としての学苑が主体性を保ちつつどのようにこれらに対応し、特に学問研究の場として戦時国家の要請にいかに対処し、また、学生・教職員がどのような行動と生活を展開したかなどについて、概観することにしたい。

 満州事変後、国内の政情は軍部独裁への地均しが急速に進み、これと結びついた右翼の直接行動が頻発した。昭和七年二月九日の前蔵相井上準之助暗殺と三月五日の三井財閥の重鎮団琢磨暗殺(血盟団事件)に続き、五月十五日には海軍将校の一団が軍部政権樹立を図ろうとして白昼遂に首相犬養毅(東京専門学校時代の評議員)を官邸に襲って殺害するに至った(五・一五事件)。事件後、軍部は政党内閣の組閣を押え、他方政党の側も非立憲的な軍部の行動を阻止して議会政治を守ろうとする気力に欠け、後継内閣は退役海軍大将斎藤実が五月二十六日に組織した。以後、軍部およびこれに同調する官僚勢力が政党にとって代って政治を壟断する時代が到来した。次いで、予備役海軍大将岡田啓介を主班とする内閣が九年七月八日に成立したが、この両内閣はいわゆる重臣内閣で、比較的穏健な海軍勢力を背景にして過激な陸軍の行動を押え、国際協調路線を採り続けようとしたが、岡田内閣も十一年二月二十六日にファッショ的改革を推進しようとする陸軍青年将校等が起した重臣排斥のクーデター(二・二六事件)により崩壊させられた。事件後、文官で前外相の広田弘毅が三月九日に組閣したが、この内閣は挙国一致内閣の様相を帯びつつも、軍部に思うようにあやつられ、「庶政一新」「広義国防」をスローガンとし、五月十八日には陸海軍大臣・次官を現役とする軍部大臣現役制を復活させるとともに、八月七日には「帝国外交方針」と「国策の基準」を決定して、大陸・南方進出と国防整備を主軸とする政策を遂行した。更に、十一月二十五日にはドイツのヒトラー政府と日独防共協定を締結し、翌年十一月六日のイタリアの協定参加によるいわゆる三国枢軸の形成と四年後の十五年九月二十七日調印の日独伊三国同盟へ発展する端緒を開いたのである。この内閣も十ヵ月余で退陣し、代った林銑十郎軍部内閣も僅か四ヵ月で倒れ、十二年六月四日第一次近衛文麿内閣が誕生した。近衛内閣成立直後の七月七日、北京郊外の蘆溝橋で日中両国軍が衝突し、日中戦争の拡大は必至となった。

 蘆溝橋事件そのものは、偶発的な事件であったが、歴史的には満州事変後の我が国の大陸侵略に対する中国の抗日民族運動の昻まりの中で勃発したものであった。すなわち、満州事変後、中国の内戦は、各地の軍閥が抗日という共通目標の下に国民政府を中心にまとまる方向を示し、中国共産党も国民政府に譲歩する姿勢を執り全中国人に抗日を目指す統一と内戦回避を呼び掛け、いわゆる国共合作への機運が、この年二月頃にはでき上がりつつあったのである。そうした中で、事件はやがて華北一帯に拡がり、八月には上海に戦火が拡大し、対中国全面戦争の性格を濃くしていった。我が国は年末までには華北の要地を占領し、十二月十三日には南京を占領し、次いで翌年十月には広東・武漢三鎮にまで進出した。しかし、国共合作を成就した中国は米・英の援助を受けつつ、民族統一戦線による徹底抗戦を続けたため、軍部の予期した速戦速決の目論見は外れて持久戦に入っていった。両国は共に宣戦布告をしなかったため、この戦争は日本では「支那事変」と呼称され、以後、戦争遂行のために挙国一致を目指す国民統合路線が急速に進められることになったのである。

 戦時下の文教政策は、銃後国民をいかに養成するかが緊急且つ重要な課題となり、教育のあり方を抜本的に見直す必要に迫られた。事変勃発後間もない七月二十日、文部省は思想局を廃止して、これを継承・拡充させて教学局を設置し、戦時下の教育をはじめ広く文化全般に亘る思想行政の中軸機関たらしめた。そもそも大幅な学制改革は、大正六年に寺内内閣が臨時教育会議を設置して大改革に着手し、新学制が確立した(本書第二巻 一一六九頁以降参照)後は見られなかった。従って、この間の教育事情の変化に加えて、時局の進展が戦時に対応しうる学制の改革を強く要請するものとなったため、政府は積極的にこれに取り組むことになった。もとより、この間、満州事変後の十年十一月十八日に文部大臣の教育諮問機関として教学刷新評議会が、また、十二年五月二十六日に内閣に文教審議会が設置されて、それぞれ教育問題を審議してきたが、これらは主に教学刷新や国民精神作興に関する調査審議を行ったもので、大規模な学制改革を目指してはいなかった。そこで、ここに、「文物ノ進運及中外ノ情勢ニ鑑ミ国本ヲ無窮ニ培ハンガ為」(勅令第七百十一号「教育審議会官制」『近代日本教育制度史料』第一巻 四〇六頁)に、十二年十二月十日、内閣に教育審議会が設置され、戦時下の文教政策を審議する母体となったのである。以後審議会は、太平洋戦争勃発直前の昭和十六年十月までの四年間、各教育に関する諮問に答申し続けることになった。

 審議会がこの間答申したものは、(一)青年学校教育義務制実施ニ関スル件(第九回総会、十三年七月十五日)、(二)国民学校、師範学校及幼稚園ニ関スル件(第十回総会、同年十二月八日)、(三)中等教育ニ関スル件(第十一回総会、十四年九月十四日)、(四)高等教育ニ関スル件(第十二回総会、十五年九月十九日)、(五)社会教育ニ関スル件(第十三回総会、十六年六月十六日)、(六)各種学校其ノ他ノ事項二関スル件(同総会、同日)、(七)教育行政及財政ニ関スル件(第十四回総会、同年十月十三日)の七件であった。これらは、いずれも、審議会第一回総会(十二年十二月二十三日)で、近衛首相(実際は病気欠席のため、文部大臣木戸幸一が伝達)が、「国体ノ本義ヲ一層徹底セシムベキ必要……国民大衆ノ教育ノ拡充ヲ図ルベキ要求……国民体位ノ向上、科学及産業教育振興ノ必要」等の要請に応えるために、「今日大イニ教育ヲ刷新シテ国運竝ニ国民生活ノ発展ニ資セントスレバ、是等諸般ノ問題ニ付経済・産業・国防ヲ始メ、宗教・芸術等凡テノ文化活動ト不離ノ関係ニ立チ、更ニ国内ノ情況ト東洋乃至世界ノ情勢トニ稽へ、広汎ナル国策的見地ヨリ十分ナル調査審議」(同書 第一四巻 四五〇頁)をするようにとの基本方針を述べて諮問したことに対して答申されたものであった。しかし、これらの答申の中で実施に移されたのは、青年学校の義務制(勅令第二百五十四号「青年学校令」改正、昭和十四年四月二十六日公布・施行)と国民学校の発足(勅令第百四十八号「国民学校令」昭和十六年三月一日公布、同年四月一日施行)のみで、他の答申は戦時情況の進展の中で完全実施を見ることなく、答申に戦時体制の事情を勘案した修正改革にとどまった。この時期の学制に関する根本的な変改はこの審議会によってもたらされたが、事変の長期化の様相の中で執られた文教政策は、実は、夥しい訓令等を通じて遂行されたのである。それは、大別して、「国民精神総動員」と「国家総動員」関係に分けることができる。この動員運動の一環として教育の場が位置づけられ、学苑もまた戦時下の挙国一致体制に組み込まれていったのである。

 先ず、国民精神総動員は、事変勃発の翌八月二十四日の閣議決定「国民精神総動員実施要綱」により開始された。これは、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を運動の目標として、「日本精神ノ発揚ニヨル挙国一致」と「非常時財政経済ニ対スル挙国的協力」(同書 第一巻 七四―七五頁)の実践を目指す官民一体の国民運動を盛り上げようとするものであった。文部省は、この要綱に基づき、九月十日、公私立大学長、高等・専門各学校長に「国民精神総動員ニ関スル件」を発して、教育界がこの運動に邁進するよう要望した。九月二十五日には各地方長官に対し、十月十三日(戊申詔書渙発記念日)より十九日までを「国民精神総動員強調週間」として、この国民教化運動を実施するよう要請するとともに、十二月二十四日には、直轄学校長、公私立大学高等学校長、専門学校長および各宗教指導者、文部省関係諸団体代表者、地方長官に対し、来たる二月十一日(紀元節)より十七日まで「国民精神総動員第二回強調週間」として、「事変下ノ紀元節ヲ機トシ……国民精神総動員ノ中核タル国体観念ノ明徴、日本精神ノ昻揚ヲ強調シ、之ヲ社会万般ノ上ニ具現」(同書 同巻 八一頁)するよう通牒した。事変の長期化に伴い、この動員運動は、銃後国民育成のために一段と活発化し、十四年三月二十八日「国民精神総動員委員会官制」が公布されて、内閣総理大臣の下に国民精神総動員委員会が創設され、運動の企画推進母体とされた。委員会は、以後、多面に亘る運動施策を立案し、それらは閣議決定或いは次官会議決定を経て、教育団体をはじめ各方面に文部省より伝達指示されるという経路をたどり、実施に移されたのである。「時局認識徹底方策及物資活用竝消費節約ノ基本方策ニ関スル件」(昭和十四年五月十五日)、「公私生活ヲ刷新シ戦時態勢化スルノ基本方策竝勤労ノ増進体力ノ向上ニ関スル基本方策ニ関スル件」(同年八月一日)、「興亜奉公日設定ニ関スル件」(同年八月二十二日)、「銃後後援強化週間実施ニ関スル件」(同年九月二日)、「電力及瓦斯消費節約運動ニ関スル件」(同年十月二十三日)、「国民精神総動員実践機関設置ニ関スル件」(同年十一月一日)、「経済戦強調運動実施ニ関スル件」(同年十一月七日)、「百億貯蓄促進経済戦強調運動ニ関スル件」(同年十一月二十日)等々の指示が夥しく発せられた。十五年一月十九日には「昭和十五年国民精神総動員運動実施要領ニ関スル件」が出され、戦時認識の徹底と戦時生活の推進(興亜生活の建設)、戦時態勢の強化が図られた。総じて、この動員運動は皇国精神の養成、勤労奉仕、倹約貯蓄、生活改善を通して戦時国策に協力し得る銃後国民の形成を目指したもので、スローガン乱発の側面も否定できないが、右の指示はいずれも学苑にも伝達され、後述の如きさまざまな対応措置を余儀なくされたのである。

 昭和十三年四月一日に公布、五月五日より施行された「国家総動員法」(法律第五十五号)は、第一条に「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様入的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」(同書 同巻 一二〇頁)と規定され、総力戦体制推進の根幹となったもので、以後の国家による人的・物的両面に対する強力な管理関係の諸法規は、これに基づくものであった。総動員業務は第三条に九項目に大別して掲げられ、あらゆる部面に亘り戦時行政に大改革をもたらしたが、その中「五 国家総動員上必要ナル教育訓練ニ関スル業務、六 国家総動員上必要ナル試験研究ニ関スル業務、七 国家総動員上必要ナル情報又ハ啓発宣伝ニ関スル業務」(同書 同巻 一二一頁)は、特に教育に直接関係するものであった。以後の教育界は、前述の国民精神総動員とともに、この法律によるさまざまな行政措置の下に学校運営を行うよう強力に指導されるに至るのである。一般的なものでも、十四年七月八日公布(七月十五日施行)「国民徴用令」(勅令第四百五十一号)によって、国民を重要産業等に強制的に従事させて労働力の確保を目指す措置が講じられ、また同年八月三十日公布(九月五日施行)「総動員試験研究令」(勅令第六百三十三号)により、「総動員物資ノ生産若ハ修理ヲ業トスル者(以下事業主ト称ス)又ハ試験研究機関ノ管理者ニ対シ総動員物資ニ関スル事項其ノ他国家総動員上必要ナル事項ノ試験研究ヲ命ズル」(同書 同巻一三五頁)ことができるとされ、研究施設に対する動員強化が図られた。更に、十六年十一月二十二日公布(十二月一日施行)「国民勤労報国協力令」(勅令第九百九十五号)により、「帝国臣民ニシテ年齢十四年以上四十年未満ノ男子及年齢十四年以上二十五年未満ノ女子(妻及届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル女子ヲ除ク)」をすべて国民勤労報国隊に編入して、労力確保の動員体制を整えたのである。これに関しては、同年十二月一日公布・施行「国民勤労報国協力令施行規則」(厚生、文部省令第三号)が出され、諸学校における勤労報国隊に対する具体的指示も盛り込まれた。国家総動員法に準拠する各指令は学苑にもさまざまな対応を迫り、総動員体制下での学校経営を余儀なくされるに至ったのである。

 日中戦争の開始により、学苑は、学校経営の方針はもとより授業内容、学生生徒の日常生活に至るまで細部に亘って戦争遂行を支える国民を育成する場として政府の指導監督を受け、戦時国策への協力態勢を整えざるを得なくなった。以後、学苑の国策協力への著しい傾斜現象は、政府の強力な教育行政により余儀なくされたとはいえ、戦時下の異常な挙国一致体制の中で、時には単に受身としての協力のみに止まらず政府の文教政策を率先して支持するとともに、他の諸大学の模範的存在ともなり、積極的な対応措置をも講じた面があったのは事実であった。その意味では、この時期は、学苑百年の歴史中、最も苦渋に満ち、また痛恨の期間でもあった。これは、同時に、私学であるが故に却ってその積極性を一層発揮せざるを得ない場面に直面し続けたことを意味するものでもあった。

 戦争の拡大は学苑関係者の応召・出征をもたらし、それに伴い戦死或いは遭難という新事態を惹き起した。教職員・学生はきわめて身近な出来事の続出により、職場が、学窓が、戦争ともはや抜き差しならない状況下にあるのをひしひしと膚で感ずるに至った。十二年九月発行の『早稲田学報』(第五一一号)は、七月より八月にかけての通州事件や南苑、張家口付近に出征した校友の戦死や遭難を報ずるとともに、開戦による充員召集を受けた校友の名前を伝え、十月号(第五一二号)より「出征教職員」の欄を新設して、初めて二十名の応召者名を掲げた。以後同誌は、『早稲田大学新聞』とともに校友・教職員・学生の出征・戦死等を頻繁に報道している。こうした中で、十月二日在学出征者の中から開戦後最初の戦死者が出た。それは、文学部文学科二年生小森忠夫の山西省攻略戦における戦死であり、「突進刹那の一弾命中/壮絶!小森君の最後」「学窓から最初の勇士」(『早稲田大学新聞』昭和十二年十二月八日号)との見出しで報ぜられ、在学生に戦争に対する一層の切実感を与えた。また十月十八日には、「学生荒鷲」として従軍願を提出中の在学生二名が許可され、義勇兵として総長以下学苑幹部、学生に見送られて「北支」に向けて出発している。翌年十一月七日には、田中穂積総長も「午后専門部応召学生ノ為メ国旗二十八枚揮毫」と日記に記すほどの事態になった。この時期における学苑からの出征学生中一部分の手記は、十五年刊行の革新社編『日本出征学生の手紙』に収められている。一方、職員の戦死も現実のものとなり、学苑では、十二年九月二十五日北支で戦死した調査課員岡崎確の慰霊祭を十三年一月二十九日に総長以下教職員の参列の下に行った。

 この間、戦争の拡大に伴う教職員・学生・生徒の応召に対して具体的対応措置を講ずる必要に迫られた理事会は、十二年九月以降、応召者に関する取扱いを次々に決定した。すなわち、先ず教職員に対しては、九月九日に暫定措置として「昭和十二年支那事変応召者取扱内規」を定め、十六日には更にその一部を次の如く改正した。

昭和十二年支那事変応召者取扱内規

一、今次事変ニ応召シタル将校中佐官以上ノ者ハ教職員任免規程第六条第七号ノ規定ヲ適用シ無給休職トス。

二、尉官及準尉ハ教職員長期欠勤者及休職者支給規程第二条但書ヲ適用シ年俸月割額又ハ月俸ノ二分一ヲ支給ス。

三、下士官以下ノ応召者ハ教職員長期欠勤者及休職者支給規程第二条但書ヲ適用シ年俸月割額又ハ月俸全額ヲ支給ス。

但家族ノ係累ナキ者ハ其半額トス。

右取扱ハ当分ノ間之ヲ実施ス。

次いで、十月二十八日には「支那事変戦病者ニ対スル取扱内規」を作成、更に十二月六日にこれを増額改訂して、戦病死した際の祭祀料支出額を、年俸一千円以下の者には二百円、二千円以下の者には四百円、二千円以上の者には六百円と定めた。

 学生生徒に対しては、九月九日、応召中は休学扱いとするよう決定し、翌十三年九月十二日には、戦死に際しては校友に準じて記念品を贈ることを決定した。他方、応召学生・生徒の復学措置は、その取扱いが一様でなかったが、数例を挙げれば次の如くである。専門学校の松原要(法律科三年、十二年八月十八日応召、同年十二月一日復校)、藤巻司郎(商科一年、十二年十月十六日応召、同年十二月四日復校)、松下保平(商科三年、十二年十月十七日応召、十三年一月七日復校)、三名の場合、十三年二月三日付で応召中の学費が免除され、学年試験の受験の機会が与えられるとの特別措置が採られている。また、十四年四月には、前年度中に応召した学生生徒九名(高等師範部一年一名〈八月二十日より十二月二十四日まで応召〉、第二高等学院一年五名、同二年三名〈いずれも九月より応召中〉)が、新年度を迎えるに当り、応召の終った一名は「除隊後原級ニ復シ学年試験ニ応ジ合格シタルヲ以テ進級セシム」との理由で、また依然応召中の八名は「臨時試験成績及平常点ヲ参考トシ学年試験ヲ査定進級セシム」との理由で、いずれも一括して同月五日付で進級の取扱いにつき文部大臣に承認願が提出されており、同月十八日付で、この見込の取扱い措置が許可されている。

 このように、臨戦体制に対応して種々の措置を講ずる学苑にあって、十二年秋には大隈老侯生誕百年記念祭が予定されていたが、時局に鑑みて自発的に一時延期とし、また、恒例の校友秋季大会もこの年には中止された。尤も、大隈老侯生誕百年記念祭は、一年延期されはしたが、翌十三年十月二十五日に挙行されたのは、本編第四章に説述した如くである。

 また、十五年六月十一日には法学部教授野村平爾、翌年七月十五日には学徒錬成部講師滝口宏など、教員陣が相次いで応召し、太平洋戦争勃発直前の十六年十二月一日現在の応召者数は、教職員五十二名(教員九、教練教師その他十二、事務職員その他二十一、傭人十)、学生・生徒二百五十名(学部三十四、高等学院十三、専門部六十二、高等師範部五、専門学校百三十六)、計三百二名を数えるに至ったのである。

 日中戦争の拡大に伴い、学苑ではこの戦争にいかに対応すべきか種々の面で苦慮したが、この段階で学苑をはじめとして教育界を広く取り巻いていたものは、国民精神総動員運動として政府の強力な指導で進められていた銃後国民の戦時における覚悟という、きわめて精神的なものの涵養であった。

 先ず、十二年七月に日中戦争が開始すると、学苑では夏季休業明けの九月十四日より二十一日にかけて、田中総長が各部・科別八回に及び全学学生生徒に対して「非常時局に直面して学徒に告ぐ」と題して訓示を行い、未曾有の非常時局に直面して、中国・ソ連に対処するため、戦場の将兵に後顧の憂いを抱かせないよう、学生生徒に何ものをも犠牲として銃後の固めを強くし、最善の努力をなすべきことを要請した。更に田中総長は、十月二日に、キング・レコードに「非常時局ニ直面シテ」を吹き込み、また、十月十九日号の『ジャパン・アドヴァタイザー』に“Japan Stands for Justice(正義の日本)”との声明書を寄稿して、これを英文小冊子として欧米諸大学総長その他に送付し、事変における日本の対中国政策を非難する米国等の論調に対して、事変は東洋平和と世界平和の立場に立つものであると強調した。

 戦線の拡大に伴い、演劇博物館は十月一日より三十一日まで戦争演劇展覧会を開催し、更に日本軍が南京を占領するや、学苑では翌十二月十四日に南京陥落祝賀式を挙行した。式後、田中総長は靖国神社に参拝し、次いで陸海軍両大臣を訪問して祝辞を述べるとともに、南京の中支那方面軍司令官松井石根大将らに祝電を送り、学生代表も宮城、明治神宮、靖国神社に参拝し、「武運長久」を祈願した。また戦時下の我が国では諸献金運動、武運長久祈願、千人針が最も広汎に行われた銃後国民の覚悟表明の形態であったが、後述の如く、学苑でもしばしばこれらを行った。翌十三年に入ると日本軍は十月二十七日に武漢三鎮を占領し、学苑はその翌日に、漢口陥落祝賀式を教職員、学生生徒一万五千人の出席のもとに挙行した。このような祝賀式をはじめとする学苑の戦線拡大に伴う対応は、実は、事変直後の十二年七月十二日に出された文部省の指示「北支事変ニ関シ国民精神ノ振作方」や、同年九月九日に出された内閣訓令「国民精神総動員ニ関スル件」等によって開始された精神動員体制に従うものであった。田中総長が、十二年九月二十四日午後七時四十分より東京中央放送局で学界代表として「国民精神総動員について」を放送し、十一月三日に東京市主催の国民精神総動員明治節奉祝会で講演したのも、こうした一環をなすものであった。政府は臨戦体制強化の指示を洪水の如く矢継ぎ早に発するとともに、十三年三月二十二日に文部大臣官房文書課は学苑に対しても、従来各種の指示に基づいて実施した事変以来の学苑の対応措置の報告を命じてきている。これに対する学苑からの報告書は四月七日付で提出されているが、その内容は右に記したものをも含めて次の通りである。

第三十表 日中戦争と学苑の対応措置(昭和十二年九月―十三年四月)

右の表に見られる訓示、科外講義および映画等による時局認識、神社への参拝、慰問、恤兵金等を通じての戦意の昻揚と銃後生活における覚悟の要請は、太平洋戦争の終了まで不断に継続され、その実施と報告とはそのつど当局の照会や通牒に従って行われた。そうした夥しい文部省の指示と、これに対する学苑の実施状況に関しては、各年次の「文部省指示ニ関スル事項」の一覧表(その一部は『早稲田大学史記要』昭和五十五年五月発行 第一三巻、昭和五十六年七月発行 第一四巻に翻刻)が克明にその様態を伝えている。

 しかし、このように通牒や指令が夥しく出された中においても、それを白眼視したいわゆる「戦争非協力者」は、学苑学生中にも皆無ではなかった。例えば、十二年十一月十六日に専門部商科一年D組、次いで二十二日に同C組が「国旗弁当会」を行い、十八日には第二高等学院一年生有志六百余名が銃後学生団を結成し、二十七日、二十八日の第一高等学院の恒例の学芸会では戦時色がこぞって反映されて校庭に模造の戦車、毒瓦斯、駆逐艦が陳列され、或いは翌十三年六月十一日の第一高等学院の体育大会では創立以来の伝統であった学生踊りを取り止めるというように、積極的に事変下の状況に対応しようとした者が学苑学生・生徒中にもあった反面、一部では、いわゆる「サボ学生」と称された者も存在していたのである。当時、「サボ学生」は、「現下の非常時局を認識せず学業を放擲して不良の行為に耽る者」(『東京朝日新聞』昭和十三年二月十六日号)と目され、東京では殆どどの大学にも大なり小なり存在していた。警視庁では、十三年二月十五日、管内の全署長に指示して、盛り場の銀座、浅草、新宿、上野、神田等で、「不良」を続々検挙し、喫茶街を縮み上がらせ、六月初旬には、早稲田、戸塚両警察署により喫茶店・麻雀屋・撞球所から検挙された学苑生は相当数に上った。この一連のいわゆる学生狩りは、事変下における学生生活の在り方が社会から問題視されていたことを物語っている。警視庁は「時局の警告」をこめて検挙したと報道された(同紙同日号)が、早稲田警察署長藤田次郎、同署保安主任高際勝蔵も、インタヴューに答えて、「其根拠は現代の大学生が国家社会の客観的情勢に無関心なる態度がその行動にみられ、時局認識に対する関心を深く持つて貰ひ度いからである」(『早稲田大学新聞』昭和十三年六月十五日号)と述べ、時局における引き締めとして学生達を槍玉に挙げた意図を率直に漏らしている。こうした現象を見ると、学生達をはじめとして国民の中には、まだこの段階では、完全に戦争に包み込まれないで、私生活の楽しみを追求する側面が残存していたように思われる。

 続いて十三年度に入ると、文部省は一段と国民精神総動員の具体的施策を活発化させた。学苑にも、「国民精神総動員実施ニ関スル件」(四月二十一日照会、五月三日回答)、「経済強調週間実施ニ関スル件」(六月二十四日通牒)、「国民心身鍛錬運動ニ関スル件」(六月三十日通牒)、「『酒なし日』挙行ニ関スル件」(八月八日通牒)、「銃後後援強化週間実施ニ関スル件」(八月十日通牒)等々が発せられた。こうした動員体制の中から、九月十二日の理事会は国民精神総動員の趣旨に基づく国民貯蓄励行の国策に順応するため教職員強制貯蓄、いわゆる愛国貯金を決定して、各自月俸百分の一を貯蓄することにし、郵便貯金として十月より実施された。理事会は翌十四年九月七日にも、興亜奉公日行事の一環として、毎月一日十銭以上貯蓄して恤兵金として献金することを決定している。献金運動の殆どは新聞社が大々的に主催したが、学苑でも、右の理事会決定以前に、左の如くさまざまな形での献金が行われていた。

十二年九月二十三日 工手学校、九百二十円を東京朝日新聞社へ軍用機献納金として委託

十二年九月 教職員、学生、校友会、陸・海軍省へ恤兵金六千五十二円を献納

十二年十月八日 専門部学生、中止の運動会費を軍用機献納金として三百円を東京朝日新聞社へ委託

十二年十二月三日 体育会、右同様、三百五十四円を委託

十三年六月八日 教職員、学生生徒一同、恤兵金として陸軍省へ三千円、海軍省へ一千五百円献金

 十三年秋になると教職員の対応とともに、学生生徒自身の中から時局に対する認識とその覚悟の表明が大きく高まってきた。「学風振興運動」と呼ばれたこの学生生徒の精神運動は、九月二十八日に専門部商科で申し合された「学風振興に関する専門部商科学生申合」を皮切りに、高等師範部、専門部政治経済科、同法律科、専門学校、文学部、第二高等学院、商学部、法学部、理工学部、第一高等学院、政治経済学部の順に十二月十三日までにそれぞれ「申合」、「答申書」、「決議文」等の名で次々と出された。例えば、政治経済学部経済学科一年C組の「決議文」には次のような決意が披瀝されている。

決議文 政治経済学部経済〔学〕科一年C組

我々ハ最高学府ニ学ブ学生タルノ誇リト責任ノ益々重キヲ自覚シ皇軍将士ニ深甚ナル感謝ヲ捧ゲ銃後運動ニ奉仕シ以テ時勢ノ進運ニ資セン事ヲ期シ、模範国民タルベク日夜努力シ来リシモ戦局ハ今ヤ新段階ニ入リ、愈々重大性ヲ増シ長期建設ノ要望セラルルノ時ニ当リ今次事変ノ使命タル東亜新秩序ノ建設ハ懸ツテ我等ガ双肩ニアリ、此ノ秋ニ当リ益々銃後学生タルノ責務ヲ強化シ其ノ本分遂行ニ邁進セントス。

此処ニ左ノ三項ヲ決議シ此レガ実行ヲ期スルモノナリ。

一、国策ニ寄与スル研究会ノ開催

二、各種ノ視察見学ヲ行ヒ之ガ報告討論会ノ開催

三、体育ヲ練リ銃後学生タルノ心身ヲ練磨スル事 以上

 各学部・付属学校の学生・生徒の決意表明は、十月五―十一日の「銃後後援強化週間」、十一月七―十三日の「国民精神作興週間」と相俟って一段と盛り上がりを示した。その「申合」等の具体的な実行内容は、十四年五月十七日に文部省より教育振作の具体的方策と所見につき報告を求めてきた際に、学苑が、五月三十一日に回答した「教育振作ノ具体的方策ニ関スル」報告書中に左の如く一覧表として掲げられ、「本申合セハ爾後確実ニ実行シソノ成果見ルベキモノアリ、尚本学年度ニ入リ更ニ一段ノ自粛自戒ヲ要望シツツアル次第ナリ」と付記されている。

第三十一表 日中戦争下の学風振興に係わる学生申合せ一覧(昭和十四年五月)

 右報告書作成中の五月二十二日、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が下賜された。勅語は、「汝等青少年学徒ノ双肩」に「国家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任」が掛かっているので、「気節ヲ尚ビ」、「文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気風」を振励するよう諭し、それによって「負荷ノ大任ヲ全ク」せよ(『近代日本教育制度史料』第一巻 六一頁)と結んだ。この勅語は、戦争の長期化に伴い、国民精神総動員運動を一層推進し国体観念を徹底する意味からも、特に非常時下の国家を将来担う青少年に向けて出されたものであった。同日、文部省は「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語ノ聖旨奉体方」(文部省訓令第十五号)との訓令を発するとともに、七月七日、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語ニ関スル件」を発して、今後毎年五月二十二日にはこの勅語の奉読式を行い、神社参拝、武道演練、作業訓練(防空または非常変災訓練を含む)等をも実情に応じて実施するよう通達した。

 国民精神総動員運動は、やがてスローガンの遵守に止まらず、その忠実な実行のための強力な組織化が要請され、愛国婦人会、大日本国防婦人会或いは在郷軍人会、青年団そして町内会等の組織に加えて、各学校にも実践のための具体的な機関の設置を義務づけるに及んだ。すなわち、教育機関を戦時動員体系にそっくりそのまま包摂し、効率よい学校報国態勢を築かせることにより、時局と教育の接近を図り、緊張関係を倍加させようとしたのである。文部省は十四年十一月一日、官公私立大学・高等学校・専門学校に対して、銃後国民育成の強化徹底を図り、各学内の精神的団結を強固にして実践躬行に努めるべき全学的な具体的組織作りを命じ、「国民精神総動員実践機関」の設置を通牒した。早急にその対応に迫られた学苑では、七日に学部長会でその設立を協議し、次いで「国民精神総動員早稲田大学実行委員会規程」を左の如く定め、十日より施行した。

国民精神総動員早稲田大学実行委員会規程

第一条 国民精神総動員早稲田大学実行委員会ハ国民精神総動員ノ趣旨ヲ体シ時局ニ即応スル方策ヲ立テ早稲田大学全学園ノ教職員学生ヲシテ協力一致実践躬行セシムルコトヲ目的トス。

第二条 本会ニ委員長、委員及幹事ヲ置ク。

委員長ハ総長之ニ当リ事務ヲ統理ス。

委員ハ各学部長附属学校長之ニ当リ事務ニ参画ス。

幹事ハ本大学幹事、副幹事、教務課長及学生課長之ニ当リ事務ヲ実行ス。

第三条 各学部、附属学校ニ支部ヲ置ク。

第四条 各学部長附属学校長ハ支部長トシテ其部ノ事務ヲ統理ス。

第五条 支部ノ組織ハ各学部附属学校ニ於テ適宜之ヲ定メ本部委員長ノ承認ヲ経ルモノトス。

附則

本規程ハ昭和十四年十一月十日ヨリ之ヲ施行ス。

この規程に基づいて、各学部教授会、専門部科長会議は、十一月から十二月にかけてそれぞれ支部の設置を決定した。こうして学苑における戦争遂行態勢の整備は政府の強力な指導の下に加速していったのである。

 各学部や付属学校で国民精神総動員早稲田大学実行委員会の支部を設置し終えた頃の十四年十二月二十三日、第七十五回通常議会が召集された。この議会では、国民精神総動員運動が上意下達の官僚主導の下に展開されていることに対する危惧の念が表明された。この運動が未だに国民の間に徹底してないことを、翌十五年二月六日の貴族院本会議で、貴族院議員松井茂は、世間では「空疎ノ掛声ナンドニハ耳ヲ藉サナイ、……又観念的ナ演説ナンゾハ、又形式的ノ『パンフレット』ナンゾハ、真ッ平御免デアルト云フ気持ヲ農村民デ持ッテ居ル者ガ少クナイ……国民精神ノ作興ドコロノ騒ギヂヤナイ、反感ヲ有シテ居ル者モ少クナイ」(『帝国議会誌』第一期・第三七巻 三一三頁)と述べて、政府の施政を批判した。批判された米内光政内閣が半年で崩壊した後に登場した第二次近衛文麿内閣は、こうした課題に応えようとしたものであった。近衛はこの年六月二十四日に枢密院議長を辞任し、折からのヨーロッパ西部戦線におけるドイツの勝利を背景にして、軍部を抑えるためにももっと広く国民に基礎を置く、国民の総力を結集した一元的な政治体制を確立すべきことを決意し、七月二十二日内閣を組織した。近衛はこれを「新体制運動」と呼び、七月二十六日の閣議決定「基本国策要綱」に基づき全政党が解散し、日独伊三国同盟が調印された後の十月十二日、自ら総裁となって大政翼賛会を結成し、「万民翼賛」の政治運動を発足させた。日中戦争開始以来、ここに至って経済・勤労・国防を主軸とする総力戦体制が樹立されたのである。

 しかし、万民翼賛の推進は、帰するところは広汎な国民の在り方にかかっていた。総力戦遂行を目指す以上、国民は不可欠の人的資源と目されて、人的資源として活用され得る国民はすべて錬成の対象とされねばならなくなり、銃後国民の育成を課せられている教育の場に対して、この要請が一段と厳しくなった。近衛首相の「新体制運動」が叫ばれる中で、これに対応する学苑の姿勢は、いわゆる「学園新体制」の施策によって示されたと言えよう。これは、十五年の夏季休暇明けに具体的に構想され、順次実施されたものである。九月七日、田中総長は幹事以下諸課長等とともに学苑の新体制問題につき協議し、九日、その準備委員の幹事(庶務担当)永井清志、同(教務担当)岡村千曳、副幹事兼庶務課長大島正一、教務課長小沢恒一、学生課長中島太郎、調査課長兼第二早稲田高等学院教務主任杉山謙治と更に協議を重ね具体案を練った。これを承けて、理事会は十二日に学苑新体制に関して教職員一同に対し総長宣言を出すよう決定し、十四日に教職員を招集してその宣言は発表された。すなわち九〇一頁以下に詳述する如く、宣言は精神力鍛練の捷径として学生生徒の体位の向上を緊急の課題と断定し、学苑では智・徳・体の錬磨の中で、とりわけ時局に対応して体育に重点を置こうとするものであり、この構想は、学苑機構の中に学徒錬成部の創設として具体化された。

 九月二十七日、理事会は学徒錬成部の道場建設を決定し、十月七日の維持員会でその新設を決議し、具体的内容と人事を承認し、田中総長自ら部長に就任した。設置の目的は、「国体ノ本義ニ基キ皇運扶翼ノ確固不抜ナル精神ヲ体得シ、偉大ナル国民ノ先達タルベキ智徳体兼備ノ人材錬成ヲ目的トス」(早稲田大学『学徒錬成』五八頁)と表明され、国是即応、体力錬磨、集団訓練を綱領として掲げた。次いで十一月一日、総長は第一・第二高等学院、高等師範部、専門部の学生に学徒錬成部の発足につき訓示するとともに、『早稲田学報』(昭和十五年一月発行第五四九号)に「学徒錬成部の創設」を寄せて、「従来の教育方針を墨守し難きことを痛感し……学生錬成部と云はずして、学徒錬成部と名付けた所以のものは、教育のことたる云ふまでもなく、教職員と学生とが情意共に投合して同心協力……自から進んで部長の任に当ることに決した」(五―七頁)と、金学的な姿勢で取り組むよう強く訴えた。

 右の九月二十七日の理事会では、新体制宣言のパンフレットの学生への頒布と、十一月五日挙行の紀元二千六百年奉祝ならびに創立六十周年記念式に向けての忠魂記念碑の建設とが決定された。「殉国の犠牲」者記念碑の計画は十数年前よりあり、この年一月二十五日の理事会でも招魂碑建設が協議されたが、これが式典より後れて、年末報国碑として実現するに至る経緯は改めて後述(八四九―八五〇頁)する。なお、その碑銘は田中総長が揮毫し、費用には興亜奉公日醵金中より二千円が充てられた。

 戦時体制への学苑機構再編成の要請は、軍隊組織の形態を教育の現場に持ち込む結果をもたらした。十六年七月三十日、文部省は官公私立大学・専門学校の総長・学長・校長七十名を招集し、生産拡充、軍事、運輸交通、その他防空壕の築造等、あらゆる方面の労力欠乏を補うために、各学校に労力確保の場を求めた。しかも、要請は緊急を要し、至急に編隊組織を指示したのであった。すなわち、文部省が各学校に一定の期日までに一定の場所に一定の人数が集合して勤労奉仕に服するよう通牒した場合、それに即応できる機関の編成が命ぜられたのである。編隊統率責任者を八月一日までに決定し、組織内容の詳細を十日までに報告するように緊急指令されたから、学苑では、夏季休暇中にも拘らず四千八百数十名の在京学生を緊急招集し、八月一日、三千数百名登校の下にその経緯が発表された。文部省は、八月八日、「学校報国団体制確立方」(文部省訓令第二十七号)、「学校報国団ノ隊組織確立竝其ノ活動ニ関スル件」を発して、具体的な学校報国団編成の組織方法を指示した。その結果、学苑に、学部、専門部、高等師範部、両高等学院ごとに学年、組の編成を基礎とする一小隊五十名の上に、全十二部隊三十四大隊から成る早稲田大学報国隊が結成されたのである。専門学校、高等工学校、工手学校は、この時点では別に編成することにしたが、学苑の教職員と学生生徒の全員が隊員として編入される体制の結成式は十月三日に挙行された。

 こうした戦時機構移行期の学苑において、十五年九月、第一高等学院では、「学内所属団体の主催する興業類似の事業は一切これを許可せず」との掲示が出された。『早稲田大学新聞』は、「これに依つて今後一切学内外を問はず学生の主催する演劇、音楽等の公演、発表会は出来ぬわけである」(昭和十五年九月二十五日号)と報道している。また、十月には、第二高等学院でも、従来娯楽本位に走りがちであった学芸会に改革を加え、杉森孝次郎院長自ら「武道学芸大会」と命名して、質実剛健の気風を涵養する方針に改めている。そして十月十日には、田中総長と第一・第二両高等学院の幹部は学友会の改組につき協議した。その結果、翌十六年四月に、発展的解消の名のもとに両高等学院に特修科が新設され、修錬のための組織が具体化された。これらは、文部省の指導による学内諸団体の改組政策や全国高等学校における報国団の結成推進に見合うものであった。また新年度の同月から、学苑全体の学生に錬成および教錬時に胸章を佩用させ、専門部商科では胸に名標を着けるなどの「教室新体制」が実施されていった。更に六月三日の学部長・付属学校長会議では、学生の礼は挙手と決定されるまでに至った。こうして、学生生徒は「生活即錬成」という新事態に身を置く形で学苑生活を送ることになり、学徒錬成部の始動の頃には、団体組織の面でも、施設の面でも、学苑は国防体制機構の整備を完了したのである。

 ところで、建前としては、学苑学生が自らの生き方を時局と統一して捉え、「皇運扶翼ノ確固不抜ナル精神ヲ体得」するために鋭意錬成に励み続けていた十六年夏に、錬成を意識的に欠席する者が続出し、学苑の大きな問題となっている。田中総長は、六月十八日学徒錬成部副部長杉山謙治、次いで本部の幹事三入とこの件につき協議を重ね、翌日にも第二高等学院の教務主任赤松保羅、学生係主任佐藤慶二らと対策を講じている(『田中穂積日記』)。集団欠席に参加した一生徒小林孝輔(のち青山学院大学教授)は、後年回顧して、「私たち高等学院生は大学当局の集合命令を拒否して『総サボ』を敢行した。今日のことばでいえば、全学ストライキである。私の記憶では九〇%の学生はストに同調したと思う。このストは、戦前における早稲田学園最後の学生運動ではないだろうか」(「処女出版の頃――『社会科学としての憲法学』をめぐって」『創文』昭和五十四年十月発行 第一九〇号 七頁)と、錬成に励むべき生徒がこの行動に出たことをこの時期における「リベラルな空気」の残影としている。錬成に対する学生達の反応は、この時期に至っても複雑であったと見るべきであろう。

 国体思想の徹底はあらゆる分野で推し進められ、政府の国民教化政策は官僚中心の上意下達式の行政レベルから種種の外郭団体による尽忠報国の体制作りを含めて強力に組織化されていったが、こうした過程で問題となったのは、大学における自由な学問研究および思想の自由な表明と国体思想との牴触であった。学苑は、創立以来五十余年、自由の学風を樹立し、それを誇りとしてきたのであったが、そうした学風により生み出された一部の研究が国体思想に反し時局に副わないとの、科学的な姿勢とは甚だかけ離れた次元からの攻撃を、主として右翼から浴びせられるに至った。教員の学内外における自由な創作活動や思想の表明も攻撃に晒された。学問研究の府として「学問の独立」を教旨とする学苑は、こうした局面への対応に苦慮した。第十二章に後述する如く、この時期の筆禍事件として学苑と社会に大きな問題を巻き起したものにいわゆる津田左右吉教授事件があるが、実は、大事件に至ることなく、学苑当局の一部に知られるだけに止まった思想調査、筆禍事件がそれ以外にも惹起されていた。すなわち、十四年春より右翼の攻撃が開始された文学部教授津田左右吉の古代史研究著書に対する出版法違反事件に関連する、文部省からの学苑における日本歴史・国語担当教員とその著作に関する報告指令のほか、昭和九年十月の文学部講師帆足理一郎に対する右翼からの治安維持法・出版法違反告発問題、十一年四月の文部省からの学苑憲法担当教員とその講義内容に関する報告指令、十五年四月の文学部教授西村真次の三著書に対する文部省からの絶版勧告、十六年三月の文学部助教授兼第一早稲田高等学院教授京口元吉の自由主義的講義内容に対する警視庁の忠告、同年四月の文学部講師島田賢平の検挙(同年二月のいわゆる「俳句事件」)に伴う文部省からの学苑に対する報告指令、十八年九月の高等師範部兼第二早稲田高等学院教授竹野長次の著書削除処分(同年八月)に伴う文部省からの学苑に対する報告指令等が数えられる。これらに対し学苑はそのつど詳細な報告書の提出を余儀なくされ、津田と京口とは学苑に類を及ぼすことを配慮して遂に辞職するにまで至った。しかも、津田が裁判に付され、公判が終了した後の十七年三月三十日、学苑史上はなはだ異例にも、田中総長が教職員の指導監督不行届の故を以て橋田邦彦文相より戒告処分を受けているのである。

 こうした過程の中で、十五年十二月二十四日、文部省は帝国大学総長・官公私立大学長に対し、「大学教授ハ国体ノ本義ニ則リ教学一体ノ精神ニ徹シ学生ヲ薫化啓導シ指導的人材ヲ育成スベキ旨ノ訓令」(文部省訓令第二十九号)を発して、大学教授の在り方を規制している。更に文部省教学局は、十七年二月十三日付で、思想事件に関し刑の執行を受け、または起訴処分もしくは起訴猶予処分を受けた、いわゆる思想前歴者を教職員として採用しないように(思想転向確実の者はよい)、との通牒を発してきたり、同年三月二日付で、思想事件関係で退学した学生生徒の入学や再入学に対する措置についても細かく指示するなど、研究内容のみならず、個々の教職員人事や学生の入学資格基準等に至るまでの強い行政指導が、学苑に及ぶようになったのであった。

 長期的な戦時体制は、大学に対しても時局に副う形での研究とその施設の充実を要請した結果、戦争遂行のために不可欠と考えられた理工系部門の研究施設の拡充が必然化し、またそれと同時に主戦場もしくは戦域となると予想されるアジア各地に関する多面的研究の台頭を促した。官公立の大学を見ても、昭和八年に大阪帝国大学の理学部が授業を開始し、十四年には医学部、理工学部より成る名古屋帝国大学が創設され(理工学部の開設は翌年)、十七年には東京帝国大学に第二工学部が創設されて、従来の工学部は第一工学部と改称されている。また十四年より付属研究所も大量に設立され、十四年に、資源科学研究所(東京工大)、農学研究所(東北帝大)、人文科学研究所(京都帝大)、体質医学研究所(熊本医大)、産業科学研究所(大阪帝大)、精密科学研究所(東京工大)の六研究所が、十五年には、結核研究所(京都帝大)、選鉱製錬研究所(東北帝大)、低温科学研究所(北海道帝大)、東洋文化研究所(東京帝大)、工学研究所(京都帝大)、抗酸菌病研究所(東北帝大)の六研究所が、十七年には、流体工学研究所(九州帝大)、東亜経済研究所(東京商大)、東亜風土病研究所(長崎医大)の三研究所が、十八年には、科学計測研究所(東北帝大)、弾性工学研究所(九州帝大)、航空医学研究所(名古屋帝大)、超短波研究所(北海道帝大)、窯業研究所(東京工大)、触媒研究所(東京工大)、高速力学研究所(東北帝大)の七研究所が、十九年には、電気通信研究所(東北帝大)、非水溶液化学研究所(東北帝大)、音響科学研究所(大阪帝大)、南方自然科学研究所(東京帝大)、木材研究所(京都・九州両帝大――木製飛行機、船艇製造等の研究)の六研究所が置かれたのである。僅か五、六年の間に二十八研究所が設置され、そのうち、三研究所を除き、すべて理工系等の研究機関であった(『日本近代教育百年史』第五巻 一二八一―一二八二頁)。我が学苑もこれに呼応する形で研究施設を設立したが、これは、臨戦体制が強く学苑を支配するまでに切迫してきた現れに外ならなかった。理工系では、昭和十三年鋳物研究所が、同十五年理工学部研究所が発足し、十八年四月からは大学直属の付属研究所に改められるのであるが、それらに関しては次章で説述することとする。

 理工系重視は、研究所の新設とともに、第十一章に詳述するように、学制面の充実を生んだ。いずれも時代の要求としての工業日本の躍進への対応措置であった。満州事変以後太平洋戦争勃発までのほぼ十年間には、七年四月に工手学校に予科(課程十ヵ月、入学資格は尋常小学校の卒業)を設け、十年四月には理工学部各学科に工業経営分科を付設するとともに従来二年の高等工学校の課程の半年延長を実施し、十三年四月には理工学部に応用金属学科を増設し、十四年四月には専門部工科(課程三年、機械工学科・電気工学科・建築学科・土木工学科)を新設するとともに高等工学校の課程を更に半年延長して三年間とし、翌年四月には同学校に応用化学科を増設したのである。この間、十三年四月十五日に、教授内藤多仲と維持員早川徳次が田中総長を訪ねて、高等工学校以外に「工業専門学校」の新設を相談しているが(『田中穂積日記』)、翌年の専門部工科の設立はこの構想に基づいたものと思われる。専門部工科の初代科長に就任した内藤多仲は後に回想して、「時代の趨勢から工科にも他の文科系と同じく、専門部を設け一人でも多くの専門技術者を養成して、鮮満地方に進出させるべきだ、という意見が圧倒的であった」(『建築と人生』六四頁)と記しているが、戦時体制下の産業界の要望に即応する形で、専門技術者を多量に育成する場を学苑が用意したことを意味するものであった。当然ながら、卒業生の就職率はきわめて良好であった。

 東亜関係施設の創設は、理工系が「技術」を用意したのに対して、「理念」を用意したものと言えよう。そうした現れは、日中戦争の拡大と軌を一にする形で整えられていった。東亜関係は、カリキュラムの中にも急速に採り入れられ、十三年四月二十七日には、「来るべき日満支三国共存共栄の新事態に対処し、東亜の文化開発に雄飛すべき青年学徒を養成」し、「必要ナル実際的教育ヲ施ス」(『早稲田学報』昭和十三年二月発行 第五一六号 七頁)ことを目的にして、特設東亜専攻科を開講した。これには、学苑の在学生の他に、広く大学・専門学校卒業者および東亜留学生をも受け入れて、夜間の前期・後期の課程の中で、東亜の政治経済および文化一般の実際的教育を行った。加えて学苑は、この年九月二十七日の理事会で北・中支視察団の派遣を決定した。「聖戦目的達成の為め今後大陸経営上益々多くの人材を要するに鑑み」(同誌昭和十四年一月発行 第五二七号 一四頁)て計画されたこの視察は、十二月より一月にかけて行われ、各部科代表十二名の教員がそれぞれ現地に赴いている。

 こうした対応の中で、学苑は東亜関係のまとまった資料施設と研究の場を次々に備えていくことになった。この年十月に商学部の新校舎の一室に新設された東亜経済資料室もその一つで、「一般学生ニ広ク東亜各地ノ実際経済事情ノ認識ヲ与フルト共ニ更ニ之ガ研究資料ヲ提供」することを目的としたものであった。ここでは、特に古典的研究の立場では古いものほど尊ばれるが、現実の実際的研究においては新しいものほど価値多いとして、最新の、「即ちモースト・アツプ・ツー・デートの所謂生きた資料」(「『東亜経済資料室』の新設に就いて」『早稲田学報』第五二七号 三〇頁)としての各種事業の実際に関する統計、記録、研究および調査報告等の蒐集が目指されたのであった。いわゆる東亜新秩序体制への寄与という姿勢は、やがて東アジア広域に亘る経済圏の確立に関する学術的研究への全学的機運を生み出すようになった。初めは商学部内の経済学、商業学の教員の研究機関であった興亜経済研究所が政、法、商の三学部の教員を包含するまでに拡大し、政治・経済・法律の研究部と資料部、編集部から成る本格的な研究機関としての組織を整えて個人的にも共同研究としても充実した施設として発展し、十五年十一月一日に新たな装いで発会式を挙げるに至るのであるが、これらの活動については次章に譲らなければならない。

 ところで、右の如き戦時体制下の学苑再編成の中で、学苑の学生生徒数はどの程度の変化を見せたであったろうか。太平洋戦争開始前の十六年四月十四日の専門部・高等師範部入学式において田中総長は、

官立の高等学校と云ふものは日本に二十五校ある。其二十五校の官立学校の入学志望者の総数がどの位であつたかと云ふに、本年は昨年より余程増加して文科理科を合せて約五万でありました。此の五万と云ふ数字は略々我早稲田学園の入学志望者の総数と伯仲の間にあるのであります。数日前愈々各部悉く入学を締切りましたが、我学園の入学志望者の総数は四万六千六百三十二名即ち殆んど五万に近いのであります。而して官立の高等学校に於ける入学志望者と収容人員との割合を見るに、理科は八名の志望者に対して一名、文科は九名に対して一名と云ふ割合であります。翻つて我早稲田大学の実際はどうかと云ふに、専門部四科の入学志望者の総数は約一万五千名でありまして、此の一万五千人の中から二千百人余りの諸君に入学許可を与へたのであります。即ち七人半に対して一人の割合であつて、官立の高等学校理科が八人に対して一人、文科が九人に対して一人でありますから、略々伯仲の間にあるのみならず、専門部政治経済科の如きは、十人に対して一人しか這入れなかつたのであります。之は争うことの出来ない数字が証明して居る。 (同誌昭和十六年五月発行 第五五五号 一二頁)

と訓示している。すなわち、この戦時下において、学苑が全国の生徒にとり、勉学の場としてますます大きな憧憬の的となり、入学志望者が五万人に達する勢いを示したのは、半世紀前に比較して隔世の感を抱かせるものであった。この年十月現在で、学部五、五六三名、専門部六、六三五名、高等師範部三九三名、専門学校三、四八〇名、第一高等学院二、三八〇名、第二高等学院一、九三四名の計二〇、三八五名が在学していたのであり(早稲田大学新聞社編『早稲田大学案内』昭和十七年版 二四三頁)、これに更に高等工学校、工手学校の生徒が加わっていた。こうした多数の学生生徒を擁して、臨戦体制下で経営を進めなければならなかった学苑の苦心は、やがて、太平洋戦争の勃発を機に一段と深刻化していくことになったのである。

二 紀元二千六百年奉祝創立六十周年記念式典

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 皇紀二千六百年奉祝を兼ねた創立六十周年記念式典は、十五年十一月五日挙行された。この式典の日取は本来学則によって十六年十月二十日の筈であるが、年では一年早く、月日において半月のずれがある。しかし、従来の慣例からして、記念行事の日付のずれは必ずしも異例とは考えられない。日曜日を避けたとか、記念建築物の竣工に合せたとか、多少のずれのある過去の例を挙げることができるが、最も注目すべきものとしては、明治天皇の崩御により三十周年記念式典を一年遅らせた先例があり、この六十周年も、まさにそうした国家情勢により一年早められたものであると容易に推測し得られる。この年の十一月十日から四日間、国は挙げて紀元二千六百年の奉祝行事を行うこととなり、この日に付かず離れず、大学の諸状況を勘案した上で、大学の式日も設定されたのであろう。

 ここで、少しく傍道に入る嫌いがあるが、大学創立記念日が公式文書で決定された経緯を述べておこう。六十周年記念式典からちょうど一年後の十六年十一月十五日付で、文部大臣橋田邦彦宛学則の一部変更の認可を申請し、許可を受けた記録がある。すなわち、その申請書から摘記すると、

早稲田大学附属早稲田専門学校学則第三章第三条ヲ左ノ通改ム。

第三条 日曜日、大祭日、祝日及早稲田大学創立記念日(十月二十一日)ハ休業トス。

とあり、その「理由」として、

本大学創立記念日ハ従来十月二十日ト定メタルモ調査ノ結果十月二十一日ガ正確ナルニツキ之ヲ改正スルコトトセリ。

を挙げている。ここでは単に「調査ノ結果」と記すに止まっているが、大学所蔵のあらゆる文書や、関係者の著述などを検討した上かく断定したもので、昭和十七年三月二日付で右の「学則変更ノ件」が許可され、以後明治十五年十月二十一日が創立年月日と定められるようになった。

 さて十月二十一日が学苑の創立日であるのは、東京専門学校開校式が、本書第一巻四五八頁記載の如く、明治十五年十月二十一日に行われたことに照らして明白である。そして、往時の記録によれば、東京専門学校時代は学則に特に創立記念日を休業とする条項を明記していないが、十月二十一日近くには、運動会、或いは記念演説会等を催している。その日取については、例えば創立五周年記念大運動会は明治十九年十月二十日、創立九周年記念演説会は二十四年十月二十日、創立十周年記念祝典は二十五年十月二十および二十一日に挙行されている。なお、大隈が学苑で初めて公式の演説を行った創立十五周年記念日は三十年七月二十日であり、『早稲田学報』第五号(明治三十年七月発行)には、「第十四回得業証書授与式を行ひ、兼ねて創立第十五週年の祝典を挙ぐ」と記され、特に三月も日を早めて行ったのを明らかにしている(一〇一頁)。更に、早稲田大学開校東京専門学校創立二十周年記念式典は明治三十五年十月十九日の日曜日を選んで行われ、その理由として、「東京専門学校創立二十週年の紀念日は実際十月二十一日なりしも、来賓臨席の便宜を計り殊に十九日の日曜に繰上げたり」(『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』七頁)と明記されている。従って、早稲田大学と名乗った時点では、十月二十一日が創立記念日と考えられていたと推定されるが、三十八年までは依然として、学則中に創立記念日を休日にする条項は見られなかった。

 ところが明治四十年に至り、十月二十日を創立記念日とし、この日を休日とすることが学則で明文化されている。ただし三十九年の学則が現存してないから、或いは三十九年から明文化されたのかもしれないが、この点の解明は難しい。『早稲田大学沿革略』の明治三十八年八月四日の条に「学則変更願ヲ文部省ニ提出ス」と記されているが、これが学則のいずれの部分をどのように変更したのであるかについては、東京都公文書館所蔵の早稲田大学関係資料も、大学学籍課所蔵の『自明治二十七年至大正四年九月東京府関係書類』も、『早稲田学報』の記事も、これに関する記録を逸している。のみならず、大学の重要案件を決議した「維持員会決議録」の明治四十年以前のものは保管されていない。従ってこの件の究明は難しいのが現状である。

 さて、明治四十年以降は、学則により十月二十日が創立記念日とされ、この日が休日と定められたが、三十五年の時点で十月二十一日と明記されている創立記念日を何故一日早めて二十日としたのか、これは何とも理解し難い。しかし、いずれにしても、四十年以降は十月二十日の意識が定着し、昭和十六年までは、関係諸行事もこの日を基準として行われ、職員に対する慰労会や学苑功労者の招魂祭が催されてきたのである。

 ところが、学苑創立後六十年、昭和十六年に及んで、俄然創立記念日に疑義が懐かれるに至った。その経緯については現在これを解明する資料を発見し得ないが、その結果過去の諸文献を再調査し、歴史的に明らかな原点に立ち戻って、十六年十一月、学則一部変更のための認可申請が行われ、十七年からは正式に十月二十一日が大学の創立記念日と決定され、現在に及んでいるのである。

 さて、紀元二千六百年奉祝創立六十周年記念式典の挙行された十五年は、九月二十三日に日本軍が北部「仏印」に進駐、同月二十七日に日独伊三国同盟の調印がベルリンで行われ、国内では十月十二日大政翼賛会が発会式を挙げるなど、昭和十二年に日中戦争に突入して以来、ここにまた、戦争へ向っての新しい一面が展開されようとしていた。国家的行事として華々しく行われた皇紀二千六百年祝典は、まさにその新局面への布石として、国家総動員態勢へ国民を駆り立てるための一大烽火としての意義を持っていた。すなわち、この時は、翌年十月に東条英機陸相が現役のまま首相となり、十二月八日遂に日本が米英両国に対して宣戦を布告するに至るその前夜であったのである。こうした国家態勢の中に、早稲田を率い、大学自らの生きる道を求めた総長田中穂積の胸中には、計り知れない巨大な苦悩が潜んでいたに違いない。それはともあれ、大学は紀元二千六百年を機に、創立六十周年記念式典を挙行した。学の独立を標榜した学苑の理念が、皇国史観を柱として止まるところを知らず軍政への道をひた走った国家態勢の中で、大きな矛盾を含みながら、いかにその巨濤に抗し生きてきたか、その歴史は本書の随所において触れているので、敢えて述べる必要はあるまい。紀元二千六百年の奉祝を兼ねた創立六十周年記念式典の中にも、そうした早稲田の生き方が反映されていたのであった。

 さて式典に先立って、田中総長は紀元二千六百年奉祝のため学苑ならびに校友会を代表して、十月二十五日大島副幹事を帯同して東京を発ち、伊勢神宮、橿原神宮、畝傍山陵、桃山御陵、平安神宮、熱田神宮を参拝し、二十九日帰京、次いで翌三十日には明治神宮、三十一日には多摩御陵を参拝し、それぞれ皇国の隆昌を祈念した。

 いよいよ十一月五日午前七時、田中総長は、大島副幹事を伴い、学苑ならびに校友会を代表して大隈元総長ならびに高田前総長の塋域を訪れ、墓参報告をすませた後、午前九時より戸塚球場に、関係者、校友代表、教職員ならびに学徒を集め、いとも厳粛裡に紀元二千六百年奉祝創立六十周年記念式を挙行した。その式次第は、開式の辞に続いて「君が代」斉唱、宮城遙拝の後「海行かば」の奏楽裡に戦歿将士および皇軍の武運長久祈願の黙禱が行われ、次いで田中総長は紀元二千六百年紀元節に当り渙発された詔書捧読後、次のような式辞を述べた。

今日此処に二千六百年の奉祝式と共に、我学園の創立六十周年記念式を挙げ、世界に向つて金甌無欠の帝国の歴史を誇り得ることは、諸君と共に感激に堪へざる所であります。……抑も 神武天皇が都を橿原に定め給ひ天皇の御位に即かせ給う……てより、……悠久二千六百年、皇統一系窮りなきことは、之を世界の広きに求めて全く他に比類はないのでありますが、特に我我が感激に堪へざる所のものは、此神聖なる万世一系の皇統と同時に、天皇は仁愛正義の権化として、国民を統治し給ふ精神的伝統こそ、全く絶倫と申さなければならないのでありまして、他国に於ても偶々聡明なる君主によつて善政が布かれたと云ふことは必しも稀ではないのであります……我々は今現に東亜の新秩序を建設し、一部白人の為めに虐げられたる民族を解放し、世界の平和と文化の向上に貢献すべき重大なる使命を荷うて一路邁進して居るのでありますが、此重大なる使命の達成は主として、現に学園に学びつつある前途春秋に富む諸君の双肩に繋つてゐるのであります。学園は此輝しき二千六百年を奉祝すると同時に、創立六十周年を記念するが為めに、諸般の設備を充実する計画を立てたのでありますが、偶々支那事変に遭遇し、国策の遂行上強力なる経済統制の為め、予定の計画を進め難きに至つたのは洵に已むを得ないのであります……。専ら力を内容の充実に致し、学園六十年の歴史に於て、曾て無き劃時代的の革新に向つて努力しつつあることは、諸君が御承知の如くであります。而して内容充実の第一は、学生指導の任にある我々教職員が教育報国の為めに相携へ、相激励し挙校一体となつて倍旧の努力を致すと同時に、第二には学生諸君の猛省自覚であります。苟くも時局に対して正確なる認識がある以上、遊惰安逸は許されないのでありまして、次代の日本を荷うて起つのは諸君を措て外にはない。……此紀元二千六百年学園の創立六十周年を回転期として、刮目すべき飛躍を致したいと切に切に希望するのであります。

(『早稲田学報』昭和十五年十一月十日発行 第五四九号 二―四頁)

これに続いて聖寿の万歳を三唱し、最後に校歌と、今回新たに制定された、八四八―八四九頁に後述する「若き学徒の歌」(伊藤寛之作詞・池安延作曲)を声高らかに合唱してめでたく式を閉じた。

 次いで十時三十分、大隈会館庭園内招魂殿で招魂祭を執行し、田中総長が左の如き祭文を朗読し、大隈信常名誉総長はじめ前総長高田夫人、物故教職員の遺族、教職員等が参拝した。

祭文

本日ノ佳辰ヲトシ皇紀二千六百年ノ奉祝ト共ニ我学園ノ創立六十周年記念式ヲ挙グルニ当リ、玆ニ芳筵ヲ開キ牲酒ヲ薦メテ大隈老侯高田先生ヲ初メ学園ノ進運ニ貢献セラレタル殊勲者並ニ関係者在天ノ英霊ニ告グ。

回顧スレバ我学園ガ新日本ノ黎明期ニ当リ学ノ独立ヲ呼号シテ創立セラレテ以来春秋正サニ六十回ヲ重ネ幾多ノ難関ニ遭遇シタリト雖モ、常ニ克ク之ヲ突破シテ年ト共ニ興隆ノ一路ヲ邁進シ既ニ業ニ私学ノ覇タル域ヲ超越シテ、今ヤ先進官学ト比肩スル隆運ヲ迎へ得タル所以ノモノ偏ニ在天英霊ノ加護ニ依ルモノニシテ我等同人ノ感激措カザル所ナリ、即チ日進月歩一日ト雖モ停止セザル校運ハ国運ノ隆昌ト歩調ヲ一ニシテ敢テ遜色ナキニ庶幾シ。

思フニ今現ニ我邦ノ直面セル時局ハ有史以来未曾有ノ国難ニシテ興廃ノ岐路ニ立テリト雖モ、国家ノ総力ヲ挙ゲテ奮闘スルニ於テハ時艱ノ克服決シテ難カラザルヲ確信スルモノニシテ、我等同人ハ協心戮力以テ先人ノ名ヲ辱メザルヲ誓フ。

即チ当面ノ時局ハ多難ナリト雖モ、之ヲ踏破スルノ暁偉大ナル運命ガ国ノ前途ニ待ツハ明カニシテ、先人ガ高キ理想トシテ我等ニ誨ヘタル学ノ独立ヲ実現シ進ンデ世界ノ平和ト文化ノ向上ニ寄与スルノ日必シモ遠キニアラズ。

即チ時艱ニ即応シテ模範国民ノ造就ニ遺憾ナキヲ期シ学園ハ今ヤ劃期的ノ教育革新ヲ断行シテ、新タニ学徒錬成部ナルモノヲ創設シ不肖自カラ部長ノ職ヲ兼摂シ国家棟梁ノ材ヲ輩出シ以テ無窮ノ皇運扶翼ニ貢献スルガ為メ天下ニ率先シテ革新ノ烽火ヲ揚グ、素ヨリ菲才不徳自カラ力ノ足ラザルヲ患フルト雖モ、烈々タル胸中ノ赤誠ニ至リテハ敢テ人後ニ堕チズ。在天ノ英霊庶幾クハ微衷ヲ哀ミ優渥ナル加護ヲ垂レンコトヲ謹ミテ申ス。

昭和十五年十一月五日 早稲田大学総長 田中穂積

(同誌 同号 一九―二一頁)

越えて十一月十二日、田中総長は紀元二千六百年奉祝のため参内し左の賀表を奉呈した。

賀表

早稲田大学総長臣田中穂積等謹ミテ言ス、伏シテ以フニ大日本ノ国タル 皇祖基ヲ肇メ 神孫統ヲ承ケ万世一系天地ト窮リナク、今玆辛酉実ニ 神武天皇紀元二千六百年ニ当ル 皇運ノ隆盛ニシテ国祚ノ悠久ナル、世界孰レノ国力能ク追随スルコトヲ得ムヤ。蓋シ寰宇ノ間建国ノ極メテ旧キモノモ亦少カラズト雖モ、臣等ヲ以テ之ヲ観ルニ或ハ山河故ノ如クナレドモ、民族已ニ兦ビ或ハ民族猶ホ存スレドモ、疆土他ノ有ニ帰シ今ニ至ルマデ能ク其社禝ヲ保ツモノ未ダ曾テ之レアラズ。况ヤ又二千六百年ノ久シキヲ歴テ金甌愈々固ク民族愈々栄エ生機活撥旧邦惟レ新ニシテ其勢日ノ升ルガ如クナルニ於テヲヤ、亦以テ我ガ国体ノ万邦ニ卓絶スル所以ヲ見ルベキナリ、臣等誠懽誠喜頓首頓首恭シク惟フニ……陛下躬ラ 皇祖創業ノ艱難ヲ体シタマヒテ乾健息マズ、世界人類ノ為ニ荊棘ヲ披キ妖邪ヲ掃ヒ聖武ヲ布昭シ天業ヲ恢弘シ盛徳大業必ズ 皇祖ニ配シタマフベキコトヲ曩ニハ大詔炳渙国体ノ精萃ヲ闡発シ、聖訓殷勤国民ノ元気ヲ振作シタマヘリ、億兆ノ臣民誰力覆燾ノ恩ニ感ジ奉公ノ誠ヲ致シ心ヲ一ニシ力ヲ協ハセ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼シ奉ラザルモノアラムヤ、臣等職教育ニ在誓ヒテ将ニ国体ヲ奉シ世運ニ応ジ知徳倶ニ秀デ心身両ツナガラ完キ有為ノ人材ヲ造就シテ諸国家ニ貢献シテ聊ヵ涓埃ノ報ヲ効サムトス。幸ニ昭代ニ生レ今日ノ盛儀ヲ拝ス抃舞踊躍懇款ノ至リニ任フルナシ、謹ミテ表ヲ上リ奉賀ス。 臣田中穂積等誠懽誠喜頓首頓首

(同誌 同号 一八―一九頁)

 さて大学は、こうした記念行事を挙行するたびに、内容充実、校地拡張等の記念事業を起してきた。この時も、十二年五月発行の『早稲田学報』(第五〇七号 六―七頁)において、大学関係者、校友等に対し募金のための檄が飛ばされている。その内容は、募集金額百万円、応募金額は三十円以上、最長五ヵ年賦以内とし、隣接地域に敷地の拡張を図るというものである。「皇紀二千六百年奉祝創立六十周年記念事業」と銘打ったこの事業に対し、右の『早稲田学報』に見える第一回発表によれば、早くも十一万七千百三円の申込みがなされている。相馬愛蔵、同りやう子の二万円を筆頭に、増田義一、早稲田大学出版部の各一万円、崎山刀太郎の七千円、名取夏司の五千円と続き、教職員、校友の名前が四頁に亘って記されている。

 さてこの事業も、日中戦争に突入の結果、募金第一年度における二十八万六千円の申込みに対し、翌年は僅かに四万六千円と激減した。その結果募金の前途に暗雲を感じたが、十四年度から十七年度までに大口の寄附申込みがあり、十五年十二月末の累計では百万円を突破するに至っている。しかるに戦争の悪化と、更に太平洋戦争への突入の結果、払込み成績はきわめて悪く、十八年以後は自然消滅の形となった。この寄附の状況を、『早稲田学報』に発表された「寄附申込芳名」を追って探ってみよう。寄附の種類は、記念事業に寄せたものと特殊寄附との二本立になっている。そして、特殊寄附には理工学部および商学部出身校友、その他が記され、寄附の累計は、記念事業と特殊寄附を合せた額で示されている。主として大口はこの後者の方に多く、十五年から十六年にかけての目につくものには、古河電気五万円、日立製作所十万円、東京芝浦電気五万円、日本郵船二万円、杤木商事社長杤木嘉郎五万円、東京電灯社長新井章治十万円、日産社長山田敬亮五万円、そして各務良幸の三十万円等がある。なおこの寄附申込みの発表は、十九年一月十五日発行の『早稲田学報』(第五八一号)の第七十一回(十八年十二月三十一日現在)発表を以て以下途切れた形となっている。これ以後の募金事業はさしたる成果が挙がらなくなってきたからであろう。それにしても、第七十一回報告における寄附申込み金額の累計は、百六十九万六百四十二円九十二銭に達している。

 ところで右事業の総決算については、戦後、二十二年一月二十三日の理事会でその概要が左の如く報告されている。それによると寄附申込み総額は百三十万円余で、前記第七十一回報告の累計額には及ばない。第七十一回以降の記念事業の寄附を加算してもなお、特殊寄附を除いたためこうした結果を生んだものと考えられるが、それにしても、あの緊迫した太平洋戦争期に百万円を突破する成績を挙げたのは一驚に値すると言い得よう。

応募人員 二千七百四十六名

右寄附申込総額 金百三十六万三千五百円也

同上 納入額 金百十九万二千百円也

差引未納額 金十七万一千四百円也

土地購入及収支決算概要

前記寄附実収ヲ以テ購入シタル土地及建物ハ次ノ如クデアル。

土地 淀橋区戸塚町一丁目三七一(甘泉園隣接地) 六二三三坪

建物 同地建物一二棟

金三十七万円也

土地 淀橋区戸塚町二丁目二六ノ一(峰島家地所) 一三二一坪 金十一万四千四円也

土地 久留米錬成道場敷地 一四七八三坪 金五万八千六百三十九円也

合計金五十四万二千六百四十四円也

各年度別ノ収支決算ハ添付別表ノ通リデアルガ〔別表略〕ソノ概況ハ次ノ如クデアル

収入 金百十九万二千百十五円也

支出 金五十七万三百六十円也

内訳金五十四万二千円也 土地購入費

金二万七千七百十六円也 諸経費

差引 金六十二万千七百五十五円也

右残額ハ一時寄附金仮受金トシテアルモ、土地購入ノ為ノ積立金トシテ処理スル。

 募金以外の記念事業としては、記念出版と記念歌の選定とがあった。記念出版は教授伊地知純正執筆のThe Life of Marquis Shigenobu Okuma: A Maker of New Japanと、薄田貞敬著『高田半峰片影』の二冊である。また記念歌「若き学徒の歌」は、その歌詞を学内から募集し、応募歌稿約二百篇を、文学部教授の五十嵐力窪田空穂日高只一西条八十日夏耿之介の五審査員の手により審査した結果、伊藤寛之(政治経済学部三年)の作品が選定され、これに早稲田音楽協会所属の池安延(政治経済学部三年)が作曲した。その歌詞は左の如くであった。

一、都の森の奥ふかく

探る真理の花染めて

くれなゐ射すや新曙光

若き学徒の胸を打ち

二、聖恩の下 うれひなく

励む研鑽 幾歳ぞ

祖国の急に身を殉じ

叡智の鎧輝やかに

三、七つの海に照り映えて

東亜に興る新秩序

鉄鎖の民を解放し

愛の文化の建設に

四、嵐に花は散らんとも

往け 一瞬に永遠を

生きて光栄あるわが生命

八紘為宇の旗の下

鳴るよ歴史の暁の鐘使命果さん秋いたる若き生命を拋たん勇む学徒に光あれ

(『早稲田大学新聞』昭和十五年十月二日号)

伊藤は賞金として学苑から与えられた金二百円を、所属する同人誌『火冠』に寄贈したが、同誌同人はそれを忠魂碑建設資金の一部にと学苑当局に差し出している。

 最後に祝典行事の締めくくりとして、報国碑の建設に触れよう。報国碑は初め、今回の戦争に従軍し散華した学苑の出身者および学徒の英霊を慰めんがため、忠魂碑として構内に建設しようとしたもので、既述(八三三頁)の如く、早くも十五年一月二十五日の理事会で「招魂碑建設ノ件」が協議決定され、その準備がなされていた。田中穂積は『田中穂積日記』に「忠魂碑」と記しているが、招魂碑としたものがほどなく忠魂碑と改められたもようで、九月二十七日の臨時理事会の席上で「忠魂記念碑建設ノコト」として決議された。ところが、建設にかかろうとすると、忠魂碑の建設は市町村一基主義に牴触するとして、警視庁から中止命令が学苑当局に伝達された。総長田中は、十一月二日、司法省、警視庁、内務省、文部省を訪問、同六日には再び文部省を訪問するなど、懸命に各方面の了解を取るよう苦心したが、あらかじめ紀元二千六百年奉祝創立六十周年記念式典の十一月五日に予定されていた忠魂碑の除幕のこの日の挙行は遂に中止せざるを得なくなった。田中はなお、十一月七日安倍源基警視総監を訪問、更に十六、十八の両日警視庁保安課長を訪問し碑銘の件につき面談を重ね、結局忠魂碑を報国碑とすることで、解決を見るに至った。学生課長中島太郎はこれに対する所信「大学と忠魂碑」を披瀝し、激しい口調で左の如く反論を表明した。

凡そ我国の学園に於て問題とされる忠魂碑或はそれと同趣旨の記念碑類は、彼の忠霊顕彰会によつて着手されてゐる忠霊塔建設の問題とはその趣きを異にするものであることは言を俟たない。言ふまでもなく、忠霊塔の方は第一に墓碑的性質の物であり第二には一般国民的な而して宗教的な性質を有することが、その特徴として認められる。……然るに学園は、一般社会或は地理的行政区画より離れて一ツの目的使命の下に存在を許されたる教学の府である。循つてその目的使命の立場から、自己の包容する学徒教養の方法として、種々の工夫苦心が払はれるのは当然である。そこで、国家将来の先達たるべき模範国民を造就する目的と使命を自覚する凡べての学園が、君国のために護国の華と散つた、或は今後も散るであらう母校出身者達の忠魂を讃へて、永遠に記念する碑を校庭に建立し、一は以て校友の英霊を慰め或は従軍者を激励し、他は以て永遠に続く在学生をして、尽忠報国の忠誠をその若き心に誓はせる感激を与へんとするが如き企は誠に崇高なる教育的意義あるものと言はねばならぬ。……須らく大学は、堂々たる「忠魂碑」を作り、その碑の表面には、何人が見ても判るやうに、創立以来国難に殉じた忠魂を記念する意味を刻して校庭の適所に建立し、毎年記念祭を執行し以て学府の名誉を祝すべきである。

(『早稲田大学新聞』昭和十五年十一月二十七日号)

 漸く恩賜記念館前に建てることになったこの報国碑は、横七尺五寸、高さ三尺五寸の柩棺型の御影石で、岡山県児島から取り寄せたものであった。十二月二十一日午後一時から除幕式が行われ、田中総長以下全教職員および学生代表の出席の下に総長自ら報国碑の除幕を行い、式辞を朗読した。

三 軍事教練の強化

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 元来「教練」とは兵式体操の一部を指す名称で、大正二年の「学校体操教授要目」で使用されたのが公式には最初であった。従って小学校や高等女学校にもこの意味での教練が実施されていたが、一般には、配属将校の指導により行われる中等学校以上の男子校における軍事教育を指すのが普通である。「陸軍現役将校学校配属令」(大正十四年四月十三日公布、勅令第百三十五号)と「同施行規程」(同日公布、文部省・陸軍省令)とにより実施された現役陸軍将校の学校配属は同十四年に開始された。それまでにも、学徒の徴兵免除に代る措置として(明治二十二年まで)、或いは予備将校養成を目的とする一年志願兵制度実施のため(明治末年まで)、また動員能力向上のため(大正末年まで)等の目的で、体操の科目中に「兵式体操」或いは「教練」として軍事教育が実施されてきたが、ややもすれば、いたずらに形式に流れて本来の趣旨を失うようになり、しかも第一次世界大戦以来欧米諸国では国民訓練または軍事予備教育が著しく発達し、日本の現況は諸外国に一籌を輸するものになったので、陸軍現役将校を学校に配属し、従来予・後備の将校、下士官により指導されてきた教授能率を増大し、その実施を一層適切有効ならしめようとするのが、その目的であると文部省は同年四月十三日に発した訓令第五号で説明している。

 学校での軍事教育実施の可否については早くから議論があり、特に高等学校以下に実施されていた「兵式体操」強化の可否および大学生にも軍事教育を行うべきや否やの二点が問題になっていたが、大正六年に至り臨時教育会議で兵式教練が議題に上程されて、決議が同年十一月二十六日全会一致で採択され、十二月十五日内閣総理大臣に「学校ニ於ケル兵式教練ヲ振作シ以テ大ニ其ノ徳育ヲ稗補シ、併セテ体育ニ資スルハ帝国教育ノ現状ニ鑑ミ誠ニ緊急ノ要務ナリト信ズ。速ニ適当ノ措置ヲ取ラレムコトヲ望ム」(『明治以降教育制度発達史』第八巻 五六五頁)と建議された。この建議に添えられた理由書の要点は、(一)諸徳目の躬行実践は誠心によらざるを得ないが、誠心は勇敢の気から生ずるものであり、その勇敢の気は兵式教練によって長ずること少からざるものである、(二)兵式教練は規律服従に関する良習を馴致する上に効果がある、(三)兵式教練により他日軍務に服する素養を得しむることができるの三点である。この会議で、東京帝国大学総長等を歴任し、大学教育の権威と言われた貴族院議員山川健次郎は、徳育の一面をなすものとして小学校より大学まで一貫して兵式教練を施すべしとの意見を、委員として述べたという。はじめは決議に反対した京都帝国大学総長沢柳政太郎や貴族院議員阪谷芳郎も、現在小・中・高校で兵式教練を課しており、無方針に漫然と実施しているわけでもあるまいから、重ねて建議する要なしと主張しただけで、兵式教練そのものに反対ではなく、結局最後は決議に賛成した。時あたかも第一次世界大戦の末期に当り、ロシア革命勃発、ソヴィエト政権成立という一種の危機感をあおる国際環境にあったため、こうした決議が採決されたのであろう。

 雑誌『大学及大学生』は翌七年一月発行の第三号に特集「大学と軍事教練」を組み、この採決に加わった人々や識者の意見を掲載した。これには法学博士市村光恵、衆議院議員大津淳一郎、法学博士福田徳三、騎兵少尉吉田淳、文部省督学官野田義夫、文学博士三宅雪嶺、同沢柳政太郎、貴族院議員江木千之(教育会議での兵式体操振興に関する主査委員長)がアンケートに答えているが、大学での軍事教育に反対なのは福田、野田、三宅の三名だけで、他は決議理由書に述べられているような理由で賛成している。特に賛成者に共通なのは、兵式教練に徳育的効果を期待し、これにより「武士道」を学徒に教え込めるとの意見であった。しかし決議理由書にも、賛成意見を述べた人々の言にも、明確にされていないが、第一次世界大戦後反軍思想が学徒間に蔓延し、その思想の「悪化」を防ぐのが兵式教練の隠された目的であり、この点にいわゆる「徳育的効果」が期待されていたと考えられるのである。

 これに対して福田、三宅の反対論は後年の弊害を見透していたとも思われるもので、福田は、軍事教練が完全に行われれば行われるほど軍国主義に陥る危険があると指摘し、学校はあくまで学校であらねばならぬと説き、三宅は、学校での教練は実戦に役立たぬ上、研究時間を教練に割くのは本末顚倒であると主張した。また文部省督学官の野田も、世の大学生に対する軍事教練を可とする根拠は、徳育的効果と、外国で大学生に課していることと、従来の小学・中学・高等学校で行う兵式教練では不足という三点であるが、外国では大学以前には教練を課していないから大学生に課するので、これに倣う必要はなく、また学校での教練が軍隊のそれと差があるのは当然だから、時間数の不足を論ずるのはおかしいと指摘して、大学生に軍事教練を課する必要はないとしている。このように有力な反対論があり、文部省の督学官すら支持しなかった上に、全国数百の学校への現役将校の配属は当時としては困難であったためか、臨時教育会議の建議は実現を見ずに終った。

 しかし右の建議に見られる如く、学校での軍事教練実施を望む声があり、しかも次第に高まった上に、第一次世界大戦後在営年限短縮の要望が強く、入営前の素養を高められれば多少の短縮は可能との陸軍当局の意向もあり、この面から軍事教練の必要性を説く者も出てきた。その上大正十二年の山梨半造陸相による第一次陸軍軍縮(兵員五万六千人、馬匹一万三千頭の削減)、同十四年の陸相宇垣一成による第二次軍縮(四箇師団廃止)の実施と引換えに、軍備の近代化と総力戦体制(現役軍人だけでなく、在郷軍人、中・上級学校の学徒、その他の青年を打って一丸とした国防)の実現企図を陸軍、特に宇垣陸相が抱いたので、同十三年六月、加藤高明内閣成立後岡田良平文相と宇垣陸相は配属将校による学校軍事教練の実施を熱心に推進した。しかも軍縮で予備役編入を余儀なくされた多数の現役将校の存在は、かつて学校教練実施を不可能にした人員不足という原因を除去したのみならず、失業軍人の救済となり、戦時に備えた現役将校の温存にも役立つから、陸軍がその実現に力を入れたのは当然だったのである。

 こうした事情を背景として、現役将校の配属による学校教練振作について文部、陸軍両省の間に協議が重ねられ、合意を得た上で、同十三年十二月十日加藤首相は文政審議会に対し、「学校ニ於ケル教練ヲ振作セムカ為中等程度以上ノ学校ニ現役将校ヲ配属セシメ学校長ノ指導監督ノ下ニ之カ教授ニ当ラシメムトス」(『明治以降教育制度発達史』第八巻 五六七頁)という諮詢第四号を発した。これには、体操科教授時数中に適当に教練の時数を按排すること、学校経済の許す範囲内で毎年数日の野外教練を行うべきこと、銃器装具等を整えるためには軍部が便宜を与えること等の「説明」が付せられているが、特に、「之ヵ実施ノ結果トシテ其ノ学校ノ卒業者ニハ学校ノ種類ニ従ヒ相当ニ在営年限短縮ノ特典ヲ附与セムトス」(同前)とあるのは注目される。

 この諮詢につき、文政審議会総会が同十四年一月十日に開かれ、午後一時半から五時まで討論を行ったが、慶応義塾長林毅陸委員の質問に答えて岡田文相は、「一、配属将校に明白なる欠点のない限り最初から校長が拒否することは許さない。二、他の学科時間を侵略するやうなことはない」(『大阪朝日新聞』大正十四年一月十一日号)と説明し、また早稲田大学総長高田早苗委員の質問には、専門学校以上にも教練を強制する考えを表明した。高田は専門学校以上は任意にすべきであるとの意見だったのである。結局、江木千之特別委員長から報告された、軍事予備教育についての特別委員会の決議が、一、二字句の訂正を受けた後承認された。それは、二、三の付帯条件をつけてはあるが、文部大臣の諮詢に答えて賛成の意を表した左の如きものである。

学校における教練を振作せんがため中等程度以上の学校に現役将校を配属せしめ学校長の指揮監督の下にこれが教練に当らしむることは、徳育、体育に資益し国防の能力を裨補するの趣旨においてこれを行ふべきものと認む。而してこれが実施上自然の結果として其学校の卒業者には学校の種類に随ひ、常例の在営年限を相当に短縮するの途を開くこと亦可然と思惟す。尚実施上につき希望する所の要件左の如し。

一 配属将校の監督に関し文部、陸軍両省の系統を明かにせられたきこと。

一 体操科に主任を置く場合には他の学科主任と同じく学校長の適当と認むるものを以てこれに充つること。

一 中等学校に在学せざる一般の青年に対しても成るべく速に本案に准じ教練を実施せられたきこと。 (同紙 同号)

 学校教練の目的は「徳育、体育に資益し国防の能力を稗補する」というのが建前であり、また陸軍歩兵大佐杉山元(のち元帥)が「青少年軍事訓練に就て」なる一文を大正十四年二月発行『太陽』(第三一巻第二号)に寄せて、

従来諸学校制度の科目にある兵式教練を統制あり組織ある方法に於て実施し、一層効果あるものたらしめ、これに依つて青年の規律、節制、協同、団結等の諸徳の向上に資し、併せて一般的に国防能力を増進し、延ては在営年限をも短縮し度いと期してゐるのである。……固より陸軍が文教に干渉したり、これに依つて国民の徳育を引受ける等の大それた考を抱いている訳でないことは、識者の諒とする処であらう。 (九四頁)

と述べているのは、陸軍の公式見解とは言えないまでも、杉山が当時陸軍省軍務局軍事課長という要職にあったことを考えると、単なる個人の意見というよりは、準公式的なものであったと思われる。この建前に対しても、沢柳政太郎の如く、普通教育における兵式訓練の目的はすべての方面に貢献し得る一般的寄与であるから、

今回当局の提案された軍事教育案なるものが、前述の様な理解の上に成り立つて居つて、其の意味で現役将校を動かさうとするならば、吾々は賛成である。然し乍ら、巷間伝ふるが如く、軍事教育を文字通り軍事の教育としやうとし、これによつて在営年限の短縮といふ交換条件に附すといつた様なものであつたならば、吾々は断じてこれに反対しなければならぬ。

(「軍事教育案と師範改善案を評す」同誌 同号 三頁)

と反対意見を述べている者もあったが、大勢は、後に学校教練開始に当り林毅陸が、「『学生生徒の心身を鍛練し、団体的観念を涵養し、以て国民の中堅たるべき者の資質を向上し、併せて国防能力を増進する』と云ふは、其趣旨に於て間然する所なく、且之に依つて在営兵役期間を短縮し得るは、誠に結構である」(「教練実施に就て」『三田評論』大正十四年十二月発行 第三四〇号 一頁)と述べたように、賛成に傾いていた。

 しかし一部の学者や学生は、この建前論には満足せず、学校教練推進の岡田文相らには、それを利用して、当時大学・高専に拡まりつつあった反軍思想や社会思想を抑圧しようとの企みが隠されているのは明白であり、畢竟思想や研究の自由の圧迫であると考えて、その実現の阻止に努力した。すなわち、既述(四一八頁)の如く、大正十三年には早くも早大、東京帝大、立大の三大学新聞が「軍事教練反対」の共同声明を出し、十一月には「軍事教育批判講演会」を開催した。そして、学校教練実施の文部当局の方針が明らかになった十四年一月になると、都下大学生有志の間に反対表明の示威行進計画が生れ、二十四日九段牛ヶ淵に集合して小川町―芝公園間を行進することになったが、警視庁の禁止にあった。学生達は集合場所を神田の専修大学校庭に変え、あくまでデモを強行しようとしたが、連絡が取れず遂に実現できなかったばかりでなく、この件により数名の学生が検挙された(『大阪朝日新聞』大正十四年一月二十四日号夕刊)。その後も学校教練反対の動きはあったが、政府はそれを無視し、前記の如く十四年「陸軍現役将校学校配属令」を定め四月十三日実施となったため、ますます反対の空気が濃くなったとき、既記(四一八―四二〇頁)の如く、同年十月小樽高商事件が突発し、全国諸大学の非難は昻まり、学苑でも全早稲田軍事教育反対同盟を組織し、活発な反対運動が起った。しかし、十二月一日の京都府警察部特高課による学連関係学生三十三名の検挙、家宅捜査、また十五年一月十五日以降四ヵ月に亘る社会科学運動関係学生の一斉検挙と弾圧が続くと、軍事教練を受けた学生に対する在営期間短縮の好餌により、反対運動は次第に勢いを失い、学校教練は定着していったのである。

 総長高田早苗が文政審議会の一員として賛成した配属将校による学校教練は、「陸軍現役将校学校配属令」に、大学学部と私立の学校については、

第二条 私立ノ中学校、実業学校、高等学校、大学予科若ハ専門学校又ハ徴兵令第十三条第一項第二号ノ規定ニ依ル認定ヲ受ケタル私立学校ニ於ケル男生徒ノ教練ヲ掌ラシムル為当該学校ノ申請ニ因リ陸軍現役将校ヲ之ニ配属スルコトヲ得……大学学部ノ申出アルトキハ前二項ノ規定ニ準シテ陸軍現役将校ヲ之ニ配属スルコトヲ得

(『明治以降教育制度発達史』第八巻 五六八―五六九頁)

と規定され、学部はともかく、専門学校以下については官公立の場合と異る扱いになっていたにも拘らず、逸速く学苑では全学的に受け入れられることになった。十四年五月八日と七月六日の維持員会において、高等学院と学部の生徒・学生の教練に関する陸軍現役将校配属申請書が順次提出されたことが報告されており、また九月十五日の維持員会では、その申請に基づき左の四名が着任したことが報告されている。

大学部 陸軍砲兵大佐 滝原三郎 大学部 陸軍歩兵大尉 野津敏

第一高等学院 陸軍歩兵少佐 堀又幸 第二高等学院 陸軍歩兵少佐 山口芳雄

 学苑の対応が何故このように早かったか、また総長以下幹部が学校教練をどう考えていたかを明確にする資料は、見当らない。しかし慶応義塾長林毅陸は前記のように「建前」に賛成で、(一)学校に配属された将校は細心の注意を払わねばならない、(二)青年学生に至りても、思想の自由は尊ぶのであるから、国民精神の指導などとはみだりに口にすべきではない、(三)強制的の教練の為に運動(スポーツ)流行に障碍を与うべきではないというような条件付ではあるが、「強健なる身体と剛健敢為の精神とは、共に男子に於て最も尊むべき者である。又規律節制を守り、協同一致を重んじ、且忍ぶべきを忍び、服従すべきに服従するは、何れも独立自尊の士の美徳とする所である。若し教練振作の力に依つて、一層有効に是等鍛練の実績を挙ぐるを得るとせば、実に非常に喜ぶべき事である」(『三田評論』第三四〇号 三―四頁)と教練に期待するところがあるように述べている。林は文末に教育的観点から教練の実施方法については「多少議すべきものを有しないではない」とちらりと本音らしいものを漏らしているから、右の意見は、塾長という立場から、学生間の教練反対の空気を鎮め、他大学に見られた逮捕者まで出すような学生運動の盛上り防遏の意図を含んだものではないかと思われるが、もし我が学苑の幹部が教練実施について声明を出すとすれば、やはり同じようなことを言ったのではないかと思う。

 学苑の対応は右の通り学部と学院に関しては素早かったが、専門部と高等師範部の受入は約二年遅れた。すなわち昭和二年六月に至り、初めて専門部に陸軍騎兵中佐宮地久衛、高等師範部に陸軍歩兵少佐宮原正雄が着任したのである。昭和二年六月発行『早稲田学報』(第三八八号)にはこの件について「多数学生の希望により、専門部、高等師範部にも教練を実施することになり、予てより文部省、陸軍省に申請」(一九頁)した結果と記され、また昭和二年六月九日付『早稲田大学新聞』には「専門部は軍事教練志望者を募集中のところ去る三日の申込締切りまでに六百七十名応募者があり、愈々来週より宮地騎兵中佐主任となつて教練開始」とある。しかし学部・学院と、専門部・高等師範部とで何故扱い方が相違していたのか、その原因を明らかにする資料は欠けている。

 こうして教練は、夜間の専門学校と工手学校および高等工学校を除き、学苑全体で実施されるに至った。しかし、『学科配当表』に教練が明記されるのは意外に遅く、学部に関しては昭和八年に漸く全学部各学年の随意科目として姿を現し、十四年以降必修科目に変っている。高等学院・専門部・高等師範部の場合は、昭和十六年に各学年の必修科目中に記載されるまでは、全く見られない。恐らく必修科目中の体操に含まれていたのであろう。また、『早稲田大学学則』の中に記されている「学科配当」では、十六年四月改正分から第一・第二両高等学院各学年の、また十八年十月改正分から全学部各学年の必修科目に加えられるまで、全く記載がない。これは後述の昭和十六年十一月二十七日付文部省訓令第三十号「学校教練教授要目改正」による教練必修の強制があるまで、大学学部と私立学校の場合は建前として任意性が認められていたためであろう。

 しかし一旦学苑に現役将校による軍事教練が定着すると、陸軍は本腰を入れてその強化に努め、昭和五年に学部と専門部に各一名の配属将校が増員され、同八年には学部に二名、更に同九年には専門部と両学院にそれぞれ一名の増員があった。彼らが、学苑が体操教師として嘱任した予・後備の将校とともに、軍事教練を担当したのであるが、我が学苑に配属された配属将校の氏名は左の如くである。

第三十二表 配属将校着任一覧(大正十四年九月―昭和二十年八月)

 右表からも明らかな如く、学部の配属将校の任期は正木中佐五年、北村大佐四年、滝原大佐三年を除き二年以下で、一年に満たない者もあった。これは陸軍で彼らが有用の材であったのを示すと思われ、陸軍が特に学部配属将校の人選に慎重だったのが窺われる。なお学苑を去ってからの動向の分る者についてはいずれも左の如く栄転している。

滝原大佐 少将に昇進し対馬要塞司令官となる。

堀少佐 参謀本部付となり英国に留学。

宮地中佐 大佐に昇進し第一連隊長就任。

平野大佐 少将に昇進し豊後海峡要塞司令官となる。

今井中佐 大佐に昇進し東京農業大学に転属。

粟飯原大佐 少将に昇進し基隆要塞司令官となる。

北村大佐 少将に昇進しメレヨン島守備隊長(独立混成第五十旅団長)となる。復員後は長野県世話部長。

なお北村少将は、恐らく敗戦と、多数の部下を失った責任を痛感したためであろう、昭和二十二年八月十五日長野市で割腹自殺を遂げた。ただし少将の名誉のため一言しておきたいことがある。雑誌『世界』第二号(昭和二十一年二月発行)に、当時文部大臣であった安倍能成が「メレオン島の悲劇……一遺族の手紙」なる一文を寄せ、事実関係未確認と断りつつも、同島における戦病死者(餓死者)続出の惨状を遺族の手紙を通じて示し、それが隊長以下幹部の利己的な行為によるかの如く非難して、大反響を呼んだことがあったが、たとい断り書があっても、現職の文部大臣であり、哲学者としても著名な安倍がこのような文章を掲載すれば、忽ち当事者が非難の渦に巻き込まれるのは予想できた筈で、安倍としてはやや軽率だったと思われる。実際は陸軍部隊三千二百五名中二千四百十九名を失うという悲惨な状況にも拘らず、接収に当った米軍が敬服したほど敗戦後まで軍紀は厳正に保たれ、また部隊長や幹部の指揮能力や人格には何ら非難さるべきものがないことが、後に復員局法務調査部の調査で明らかにされている(朝日新聞社編『メレヨン島生と死の記録』)。責めらるべきは無責任な戦略配備をした大本営であり、現地で食料不足に悩まされながら軍紀の維持に努力し、戦後は軍人らしく責任を執って自ら生命を絶った少将の古武士的人格は、賞讃されこそすれ、非難されるべきものではなかったのであって、安倍も後に非公式ではあるが、その非を認めた由である。

 概して言えば、配属将校は学苑において謙虚に行動するよう努めていたと見られるが、中には、学苑の教育改革を以て自己に課せられた使命と錯覚し、軍の威光を笠に着て、総長その他の学苑当局者に、自己の発言の実行を迫る者もなかったわけではない。その代表的な一人として、昭和九年三月の初め学部に配属された平野助九郎大佐を挙げることができる。平野は他大学に配属将校として勤務した体験から、現在の大学教育が日本国体を明徴にすること、忠良なる臣民を造ること等に関して大きな欠陥があると考えていたところ、早稲田大学教旨を読むに至って感激し、次のような「昭和九年度早稲田大学々部教練企画」を作成した。

第一 教練方針

教職員及学生一致団結シ早稲田大学教旨ニ徹底シテ皇教(天皇教)ヲ信仰スル模範国民ノ実ヲ挙ゲ、進デ之ヲ全国学校ニ及ボシテ教育国難ヲ打開シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼センコトヲ期ス。

第二 教練実施要領

一、昭和九年度学部ノ教練ハ早稲田大学教旨ノ顕現ニ徹底的重点ヲ傾注ス、之ガ為教練教授要目ノ如キハ毫モ之ニ拘泥スルコトナク重点形成ニ之ヲ活用ス。

〔中略〕

三、早稲田大学教旨ノ極致ハ模範国民ノ造就ニ在リ模範国民タルノ要ハ皇教ヲ信仰シ皇運扶翼ノ大道ニ邁進スルニ在リ。

〔以下略〕 (『早稲田大学学生運動年報』昭和九年 三三二―三三三頁)

次いで六月には大隈講堂における政治経済・法両学部合班の教練で、「早稲田に御真影も奉戴せず、勅語も捧読せざるは教育上看過すべからざることであつて、学校当局の怠慢もさることながら、之を黙過して怪しまざる学生も非国民的態度である」(同書 三三四―三三五頁)と所見を述べ、更に教職員宛に作成した「早稲田大学教育改善之願」というパンフレットを学生に頒布し、また田中総長以下当局者にも、御真影の奉戴と四大節拝賀式の挙行の二点を迫ったようである。学苑当局も、配属将校からの申し出である以上、時節柄全く黙殺することもできかねて、翌十年五月七日の臨時理事会、同月十六日の定時理事会と連続して、四大節拝賀式挙行の件を議題とし、考慮することに決し、また十一年九月十七日の定時理事会で、御真影の奉戴を決議している。

 さて、学校における教練の実施に関しての「教練教授要目」は、大正十四年四月十三日公布の文部省訓令第六号として各学校に通達された。これは(一)教材、(二)教材の配当、(三)毎週教授時数ならびに毎年野外演習日数の三部から成り、毎週定時に行われる教練とともに野外演習が志望学生に課せられたのが分る。すなわち、学校教練は、教練と野外演習と、同年六月十九日公布の陸軍省令第二十四号「陸軍現役将校配属学校教練査閲規程」により定められた査閲を加えた三本の柱から成っていたと言うべきである。

 ところで文部省訓令第六号に定める教材は、「各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、旗信号、距離測量、測図、軍事講話、戦史、其ノ他」(『明治以降教育制度発達史』第八巻 五七四頁)であり、学校の種類に応じて配当されている。高等学校、大学予科、専門学校、高等師範学校およびその他の教員養成所については、各個・部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、軍事講話の多教材を適宜配当して実施すべしとし、更に備考として、部隊教練においては簡易なる大隊教練を行うことができること、射撃においては毎年二回以上狭窄射撃を行い、設備の許す場合は一回以上の実包射撃を行うこと、軍事講話では外国軍制の要綱ならびに諸兵連合部隊運用の初歩をも教授すること、専門学校においてはその種類に依り当該学科に適応する事項を以て、前掲の教材の一部に代えられること、軍事に関する諸設備、各種演習の見学は適宜行うことなどを付け加えている。

 大学学部については、高等学校、大学予科等で課した事項を適宜配当して実施する外、戦史の概要を授けることとし、戦史では内外国戦史の一般を会得させること、軍事に関する諸設備、各種演習の見学は適宜行うこととしている。ただし実際には文部・陸軍両省の協定により、大学では講話のみに止め、いわゆる術科は課さなかった(同書同巻五八五頁)と言われているが、本学苑では学部でも術科を全く行わないということはなかったようである。それは学部学生が昭和八年七月に初めて野外演習を行ったのを報じた『早稲田学報』第四六二号(昭和八年八月発行)に、「従来大学各部に於ては実科に比し学科に重きを置いて来たが、今年より実科にも重きを置くこととなり……各学部三学年の野外教練を施行した」(七頁)と説明されていることから明らかである。しかもこの記事にもあるように、この年から術科にも重きが置かれるようになったのは、昭和九年二月八日の理事会で教練費年額学部三円五十銭、専門部・高等師範部五円を徴することを決めたことにも現れている。その後十二年になると更に術科に力が入れられるようになったらしく、理事会は十二月六日専門部・高等師範部学生の教練服を定めた。そして翌十三年六月二日、学苑嘱任の体操教員が教練を行う場合、従来の大学所定の制服に代えて軍服を着用することとした。これらは教練術科教育の本格化と教練の純軍事教育化への傾斜を示すものであった。更に十四年三月三十日、「大学教練振作ニ関スル件」が各大学に通牒され、従来希望者のみに実施された大学学部軍事教練が十四年度より在籍学生全員の必修科目となった。

 ところで学苑で実際に教練がどのように行われていたか、どのような教材が選ばれていたか等については、毎年実施された査閲における課目を見ればほぼ推測できるので、昭和十一年度以降につき年度別に学部学生の受閲課目を左に表示する(昭和十年度以前ならびに学部以外の資料は残っていない)。

第三十三表 教練査閲課目(昭和十一―十七年度)

査閲の結果は概ね良好だったようで、各年度「状況報告」によれば、十二年度は「イ、敬虔ノ念ノ足ラザルモノアルコト。ロ、地物利用射撃動作、白兵ノ使用ノ未熟練。ハ、指揮官ノ指揮掌握ノ不十分」が、また十五年度は「イ、各個教練ニ於テ射撃姿勢ノ稍堅確ヲ欠ク者アリ(戦闘間ノ射撃動作ハ良好)。ロ、剣術〔ハ〕大体ニ於テ向上シアルモノト認ムルモ射撃ニ比較シテ尚一層訓練ノ要アリ。真銃ノ刺突ハ不十分ナリ。ハ、戦闘教練ニ於テ将来地形地物ノ利用、戦機ノ看破、戦術的着眼等指揮法ニ就テ一段ト修練ヲ望ム」が、注意された主な点であった。

 以上のように時とともに教材の種類が増加し、行軍のような実戦的訓練が採用されるようになったが、特に太平洋戦争開戦直前に昭和十六年十一月二十七日文部省訓令第三十号「学校教練教授要目改正」の発令により、教練の学校教育において占める地位が一段と重くなり、内容も軍事の基礎的能力を体得させるような方向に強化された。すなわち、「教練ハ学生生徒ニ軍事的基礎訓練ヲ施シ至誠尽忠ノ精神培養ヲ根本トシテ心身一体ノ実践鍛錬ヲ行ヒ以テ其ノ資質ヲ向上シ国防能力ノ増進ニ資スルヲ以テ目的トス」(『近代日本教育制度史料』第六巻 三一三頁)と明記され、かつて教練実施に当り強調された体育の促進や徳育の稗補といった面は影を潜め、教練に対する陸軍の援助を強化し、高校・専門学校以上の学校では、事情の許す限り機関銃、歩兵砲、野山砲、機甲、航空等の特別訓練を受け得る等、実戦的指導の強化を求めている。更に、教練は全員必修として、この成績は他の必修科目同様及第の判定に及ぼすよう定められたのである。

 従来多くの学生は、内心軍事教練に反発しつつも、在営期間短縮或いは幹部候補生試験合格のため、教練に出席し、また査閲にも参加してきた。もし査閲で「教練ノ成果ヲ挙グル見込ナシ」と判定されれば、配属将校の引揚げとなり、その資格を失うからである。すなわち昭和二年四月一日公布の「兵役法」(法律第四十七号)の第三条に基づいて定められた同年十一月三十日公布の「陸軍補充令」(勅令第三百三十一号)第五十三条の規定により、各兵科幹部候補生の資格を具えるためには、年齢十七歳以上二十八歳未満で、予・後備兵士官たるには陸軍大臣の定める身体検査に合格し且つ配属将校を付した学校で教練を修了しその検定に合格して卒業した者でなければならず、これらを満たさなければ、幹部候補生出願資格を失うからである。しかし、これまでは教練への参加不参加は自主的に決定できたが、「要目改正」の発令により、その選択の自由は全く失われてしまったのである。

 この「要目改正」の発令は、野外教練の強化にも繋がった。学部の野外教練は『早稲田学報』の関連記事によれば、昭和八―十五年は各学部三日間ずつで、十六年は初参加の一年が四日(他は三日)であったが、十七年になると、全学年五日ずつに延長され、内容も内務班教育も含めて、厳しく、盛り沢山になった。十七年六月千葉県津田沼町鷺宮廠舎で実施された第三学年の野外教練のため作成された「第三学年野営演習計画」によると、その指導方針は、

本野営ハ軍事講習トス。

之ガ為教練以外内務教育ヲ重視シ軍隊内務書ニ準拠シテ軍隊内務ノ一部ヲ訓練ス、訓練要目左ノ如シ。

(イ) 起居容儀ニ関スル軍隊的鍛練

日朝点呼時 遙拝及勅諭奉読 日タ点呼時 反省ノ実行 時間厳守 清潔整頓

(ロ) 敬礼ノ厳粛端正

(ハ) 兵器手入ノ励行ト検査

とあり、軍事講習計画の概要は左の通りであった。

また日課時限の主なものは、

起床 午前五時三十分 日朝点呼 五時五十分 朝食 六時三十分 午前教練開始 七時三十分 昼食 正午

午後教練開始 午後一時 教練終了 四時 夕食 五時 衛兵整列 五時三十分 夜間教練開始 六時三十分

日夕点呼 九時 消灯 九時三十分

で、衛兵勤務と不寝審は毎夜行い、全員が振り当てられることになっていた。

 ここで一つの挿話を語ろう。昭和十七年六月、青山学院大学学生であった山本七平は徴兵検査を受けたが、山本はこの時の思い出を次のように語っている。

学生の方から「申し上げたいことがあります。自分は早稲田の野砲班の一員でありますので、砲兵隊に配属されたく希望します」という声があがり、「ヨロシイ」と徴兵官が満足気にうなずいて、書類に何やらを書き入れた。「ヤホーハン、一体何だろう」私は堂々と自分の方から軍隊への希望をのべたこの学生の背中と、満足気にうなずいた徴兵官の顔を見て、ぼんやりと考えていた。これが早稲田大学の野砲班であり、学生が自ら進んで兵営に行って砲の操作を学びかつ訓練していたのだということは、このときは、私は知らなかった。 (『一下級将校の見た帝国陸軍』 一二頁)

昭和十七年当時学苑には、野砲班と呼ばれるものはいくつか存在した。例えば、学徒錬成部統轄下の特修体錬中に国防訓練部野砲班があった。また、学生サークルたる国防研究会の中にも野砲班なるものが存在した。或いは、軍事教練にも当然野砲の訓練を行うものがあったであろう。従って、山本の回想中の野砲班がこれらの内のどれであるかは、必ずしも明確ではない。しかしいずれにせよ、この頃の学苑に山本が見たような学生が存在したことは確かであり、こうした学生は特修体錬においても野砲班に入り、また国防研究会の活動にも参加していたのではないかと想像されるのである。例えば、昭和十八年に法学部を卒業した福田正敬は、次の「証明書」が示す如く、第一高等学院と学部の在学中非常にしばしば陸軍の野砲教練に参加し、山本が見たような学生のリーダーとして活動していたのである。

証明書

本籍地 東京市渋谷区代々木西原町九四三 福田正敬

右者自昭和十二年四月至昭和十七年十一月ノ間早稲田大学在学間左記ノ通リ野砲兵ノ観測、通信、操砲、射撃、馭法等ノ教練ヲ受ケタルコトヲ証ス

一、東部第十三部隊ニ於テ 二三八日 内宿営 一二二日

一、東部第十二部隊ニ於テ 六六日

一、陸軍野…戦砲兵学校教導聯隊ニ於テ兵技教育 六三日

一、陸軍野戦砲兵学校幹候隊ニ於テ軍事教練 二二日

一、右ノ間

一、昭和十四年十月文部省主催学徒聯合演習(静岡、山梨県下)ノ際学生野砲兵第一中隊観測小隊長

一、昭和十五年十一月文部省主催学徒連合演習(千葉県下)ノ際学生野砲兵第一中隊中隊長

一、昭和十六年三月近衛師団演習参加ノ際学生野砲兵第一中隊長

一、昭和十六年十月文部省主催学徒連合演習(千葉県下)ノ際学生野砲兵第一中隊長

一、昭和十七年十月文部省主催学徒連合演習(大阪府下、京都)ノ際学生野砲兵中隊長

右証明ス

昭和十七年十二月三日 陸軍省兵務局兵務課長 児玉久蔵〓

 さて昭和十八年の夏にも学部の軽井沢における野外教練は実施されたが、この年の十月「在学徴集延期臨時特例」が公布され、いわゆる学徒出陣以後になると、軍事教練の受講者数も当然大幅に減少し、十九年七月十一日の臨時理事会は軍事教練用銃器の兵器補給所への売渡しを決めている。昭和十六年の査閲に当り十一月七日付で作成された北村大佐の「状況報告」には「銃器ノ不足」に触れているが、その原因は、昭和十四年一月十四日維持員会決議に、

一、時局ニ鑑ミ陸軍ノ方策ニ協力センガ為、本大学保管ニ係ル、左記銃器幷附属品献納ノコト

三八式歩兵銃 七四五 三十年式銃剣 六六一 負革及銃口蓋 各七四五

とあり、多数の兵器を軍へ献納したためであったけれども、それでも昭和十六年当時には右「状況報告」によると、三八式歩兵銃七百十五、押収銃百八十、九六式軽機十五、擲弾筒十八を保有し、更に三八式射撃用銃十、九六式軽機十を注文中であった。学徒出陣により不要となったこれらの兵器が陸軍における銃器不足を補うために軍へ売り渡されたのであるが、思えば十七年から十八年夏の間が、学校教練の最盛期であったのである。

 学校教練に対する学生の心情については先にも触れたが、大正十四年に現役将校を迎え、軍事教練実施が決定したとき、浮田和民は、その担当の政治経済学部一学年「政治学原理」の講義時間を割いて、この問題につき学生に討論をさせた。そのときの思い出を当時の学生小松芳喬(のち教授)は左のように記している。

軍事教練が初めて大学に実施せられるやうになつたのはこの年であつたが、先生は講義の時間を割いて、それについての討論を学生に行はさせられた。二時間たつぷり、何人かの学生が賛否両論を開陳した。反対論の多くは徒らに公式論的で当時の実情の把握が十分でなかつたし、賛成論は概ね軍事教練によつて得られる在営期間の短縮にのみ眼を奪はれてゐて、あさましかつた。結局のところ、感情的にのみ趨つて収穫に乏しく、先生の面上にも満足の色は見られなかつたが、後年、軍事教練が学生の出席の最も良好な時間になつたやうな時代に、この討論会の情景を私は幾度か思ひ出して、ひそかに微笑したものである。

(『浮田和民先生追懐録』 二七八頁)

 軍事教練実施直後において、受講を希望した学生がどの程度存在し、また出席状況は如何であったかについては、資料が欠けているので確言できないが、実施第十年度以後に関して、次に若干の資料を掲げておこう。第三十四表に示すのは、昭和十三年一月二十七日付照会の文部省専門学務局長「学校教練ニ関スル件」に対し一月三十一日付で答

第三十四表 学部・付属学校別教練出席者比率(昭和9―12年度)

第三十五表 学部教練別出席者比率(昭和13年度)

えた出席者比率である(実際の表示は実数であるが、ここには百分比に換算して表示する)。両学院と高等師範部が一〇〇パーセントに近いのに比べ、専門部と学部の熱意が薄いのが示されているが、総体的に年度が降るほど出席者が増加しているのは、いわゆる非常時意識の影響かと思われる。しかし、十三年の査閲に当り小倉大佐が作成した学部学生の「教練出席状況調査表」の一部である第三十五表に見るように、十三年度にはまた学部の出席者比率が低下している。この表は各学年の状況を示す点に興味があるが、新入生である第一学年が、高等学院以来の習性もあってか、出席状態が良好だったことが分る。また術科に比べ学科の出席率が良いのは、学生が教練の成績を学科によって上げようとする風潮の現れと見られよう。ともかく当時の学部学生は未だ教練に対し比較的呑気に対処し、好みに従って受講する余裕を持っていたことが示されている。第三十六表は十六年の査閲に当り北村大佐が作成した「教練実施時間ノ統計」から一部を引用したものである。野営以外の出席率は、学部別に言えば、政経・法・商・理工各学部は七〇パーセントを超しているが、文学部はずっと低い。野営教練の場合は、各学部とも平素に比し出席率が概ね向上しているが、それでも文学部は低い。これは、当時文学部には自由奔放な気質を持つ学生が多かったためではなかろうか。多数の学生が、卒業すれば軍に徴せられた当時の情勢では、教練に好成績を収めることは有利というより寧ろ必要と言ってよかったのであるから、教練をサボるには一種の勇気がなければならなかった筈である。それにも拘らず、各学部に教練を欠席する学生がおり、特に文学部に多数いたことは、非常時が呼号され、太平洋戦争を間近かに控えたこの時期にあっても、未だ上から押しつけられた軍事教練に反発し、敢えて出席しない自由な気風が文学部を中心として学苑の中に残っていたのを示している。

第三十六表 学部・学年別教練出席者比率(昭和16年度)

 学苑は私学の一方の雄であり、またかつての軍事研究団事件に見られるように、反軍的とは言わないまでも、軍に批判的な学生の多い学校として注目されていたから、教練の査閲に当って有力な軍人が見学に来ている。昭和五年一月二十八日の専門部の査閲に陸軍中将真崎甚三郎第一師団長(のち教育総監、皇道派中心人物)、陸軍少将杉山元軍務局長等が、また九年の十一月二十九日学部の査閲には陸軍中将柳川平助第一師団長(のち杭州湾上陸軍司令官)等が臨場した。また昭和三年二月一日には第二高等学院査閲の見学のために東久邇宮が、更に十五年十二月十七日第一学院査閲官として賀陽宮が来臨されたのも、特筆すべきであった。

 更に学校教練の歴史の中で最も華やかであったと思えるのは、昭和十四年五月二十二日に宮城前広場で挙行された親閲式である。海外領土をも含めて全国から集まった三万五千人の学徒は、天皇の前に分列行進を行ったが、このとき学部・学院の代表五百九十名は第一、第二集団に属して参加している。この親閲式は配属将校令制定十五周年を記念して行われたのであるが、式後天皇は荒木貞夫文相を通じて「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を下賜した。

 のちに配属将校は、昭和十九年六月十四日公布の「陸軍現役将校学校配属令中改正」(勅令第四百二号)により「陸軍軍事教官」と改称されていたが、学苑に配属されていた陸軍軍事教官は全員、敗戦直後の二十年八月二十三日付で退任となった。これは、八月二十四日付の学徒動員局長からの、「陸軍現役将校学校配属令」等の廃止が決定された旨の通知によるものであった。なお配属令そのものは、同年十一月五日公布の勅令に基づいて「帝国在郷軍人会令」と同時に廃止された。かくして学校における軍事教練は、制度の上でも完全に終止符を打ったのである。

四 戦時体制下の学生生活

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 満州事変勃発以来の目覚しい戦果の拡大の前に、国民の間では国際世論に対する反応も、国際的孤立に対する不安感も、次第に麻痺していったかのように見える。事変発生翌年の満州国建国と、その後の表向き順調な発展ぶりとは、東亜の一角に王道楽土という日本人のための新天地が開け、そこを中心として日満華三国の提携による、アジアの安定勢力、ひいては日本の強力な勢力範囲が築かれたとの錯覚を懐いた者は少数にとどまらなかった。昭和八年五月末には塘沽停戦協定も成立し、二年越しの戦火も一応終息した。その二ヵ月前の三月、日本は国際世論に抵抗して国際連盟を脱退した。国民の一部に日本の国際的孤立を憂うる声はあった。しかしこの年の初め、ドイツにおいてナチスを率いるヒトラーが政権を獲得していたが、当時においては、日本がこの西欧の新興勢力と手を結び、共に亡国の道を歩む運命を辿ると予想した者が果して何人あったろうか。

 昭和八年は関東大震災以来十年目に当り、東京が震災の痛手から立ち直り、見事にその復興を成し遂げたとして帝都復興祭が行われた年である。そのために作詞・作曲された「東京音頭」は春頃から流行をきわめ、夏に入ると、東京はもとより地方の村々に至るまで、国民はこの歌曲に合せて踊り狂い、夜の更けるのを知らぬ有様であった。しかも、皮肉にも日本の経済は事変勃発以後活況を呈し、輸出入総額はこの年四十億円に迫って、事変勃発年度を十四億余円も上回り、以後も年度ごとに十億円を超す好調ぶりであった。それが次の本格的戦争に備える経済的措置から生じたものであり、常に輸入超過を伴うものではあったが、少くとも国民の多くは、昭和初頭以来の深刻な不況から脱し、しかもそれが新天地満蒙を背景として永遠に持続されるかのような錯覚の中に生きていたのである。この幻想的解放感は国民の享楽化と頽廃化とをもたらし、それは学生においても例外ではなく、

当時のカフエーやバーは、強い刺戟と享楽を求めてやまない大衆の欲心をかりたて、風紀上または社会的に大きな弊害をもたらしていた。しかも業者の中には、学生や未成年者を誘引するカフエーやバーがあらわれ、学生らもまたこれらの店に出入する者が次第に多くなった。とくに学校などの付近のカフエーやバーには、学生服のまま出入し、学業をよそに終日入り浸り、女給のサービスにおぼれ、あるいは酒色にふける者が少くなかった。このため、未成年者であり、修学の途上にある学生が、自己の本分を忘れて不良の徒輩と交遊し、かつ、頽廃的な雰囲気に溺れて無節操な悪弊に染まり、ついには、世論のひんしゅくを買う幾多の事例をひきおこしたので、前途ある彼らの将来を考え、さらに社会風教上黙過し得ない実情となった。

(警視庁史編さん委員会編『警視庁史 昭和前編』 八二七頁)

そこで昭和九年八月二十三日、警視庁は都下の専門学校以上の校長・学長に対し、次のような書状を送付した。

近時都下風紀取締ノ実情ニ徴スレバ、学生生徒ニシテ特殊飲食店(カフエー、バー、喫茶店ノ類ニシテ女給ガ客席ニ侍シテ接待ヲ為スモノ)或ハ舞踏場へ出入スルモノ極メテ多ク其結果動モスレバ、学生生徒ノ本分ヲ閑却シテ不良徒輩ト交遊ヲ結ブニ至リ、或ハ放縦淫逸ニ流レ頽廃無節操ノ弊風ニ感染シ、為ニ往々ニシテ顰蹙スベキ幾多ノ事例ヲ惹起セルハ国家風教上寔ニ深憂ニ堪ヘザル所ニ御座候。如斯黙過シ難キ現況ニ就イテ当庁ニ於テ斯種営業者ニ対シ未成年諸学生生徒ノ出入ヲ禁止命令致度所存ニ有之候へ共、本件ニ関シテハ第一義的ニハ学校当局ニ於テ指導監督相成ル可キ事ト被認候ニ付、之ガ取締ノ徹底ヲ期セラレ指導粛正ノ実ヲ挙ゲラルルニ於テハ敢ヘテ当庁ニ於テ積極的取締ヲ為スノ必要無之様思料セラレ候へ共、不取敢貴意ヲ得度此段及照会候。 (同書 八二七―八二八頁)

この照会に対し、各学校はその趣旨に賛成し、警視庁と協力して学生生徒の指導監督に当りたいと回答したし、また世論もこれを支持したので、警視庁は、昭和九年十月六日、庁令第十六号で「特殊飲食店営業取締規則」の一部を改正し、「営業所ニ学生生徒又ハ未成年者ヲ出入セシメザルコト」の一項を加え、同年十月十日から実施した。そのため以後は各特殊飲食店の入口に、「学生さんは御遠慮下さい」の張紙が出された。

 しかし、その底辺には更に広範な享楽と頽廃があった。学生生徒が特殊飲食店から締め出された同じ年十月頃の『断腸亭日乗』には次のような記事が散見する。例えば、十月十二日の条には「昏暮銀座風月堂に飯し喫茶店キユペルに休む。夜十二時頃サロンハルの女給鈴、澄、ゆたか、里の四人来りしかば諸子……と共に佃茂に往きて飲む」。十月十三日の条には「銀座食堂にて夕飯を食し……喫茶店キユペルに憩ふ。安藤、高橋、葛本、酒泉の諸子来ること毎夜の如し。帰途サロンハルの女給昨夜の四人なりに出逢ひまた佃茂に至りて笑語す。杉野、鈴木二子おくれて来る」。十月十四日の条には「昏刻銀座に飯して黒沢を訪ふ。帰途キユペルに憩ふ。酒泉氏タイガの女給三人を伴ひ佃茂に往く。諸子と同じく余等も亦佃茂に至れば、今宵もサロンハルの女四人既に来りて在り。快飲暁の二時に至る」。十月十五日の条には「銀座に出でキユペルに憩ふ。清潭子来る。タイガの駒子亦来る。一同相携へて佃茂に至る」(『荷風全集』第二一巻 二四七―二四八頁)。永井荷風は文学者であるから、その日常を以て一般市民のそれとすることは勿論できない。しかし荷風を中心に連夜、深更に至るまでの快飲歓笑の生活は当時の風潮の一端を示すものであろう。

 満州事変の勃発により一時緊張した国民の気風と、にわかに現出した戦時色とは、前述のような内外の情勢を反映し、次第に平穏無事の時代に入っていった。それは、その中間に二・二六事件のような、今日から見れば日本の運命を左右する未曾有の大事件を体験しても変ることなく、昭和十二年の日中戦争の開始を迎えるのである。この間に、国民一般の気風や生活態度にはさしたる変化を認めることはできない。しかし一見平穏無事の日常において、享楽に流れているかに見える国民一般の心の底に、暗い影を落している時代の潮流を感じざるを得ない。その潮流は言うまでもなく、今や時代の寵児となり、次第に政治的発言力を強めてきた軍部が、国民の解放感とは別に、着々準備を進めつつある次の侵略計画と、そのために必要な思想の統制とによって作り出されたものである。そのためであろう、この時期の流行歌は頽廃よりも哀調の色が濃かった。いわゆる古賀メロディーが漸く愛唱されるようになるのもこの頃(「サーカスの唄」「ほんとにそうなら」「旅がらす」等がその例で、いずれも昭和八年)であった。

昭和八年には斎藤実首相が、非常時の覚悟を国民に説いたが、笛吹けど国民は躍らず、センチな享楽的な歌に溺れていた。翌昭和九年八月遂に内務省はレコードの検閲を開始し、軽佻浮薄な歌を排斥し、「ネー小唄」など官能的歌唱が禁止され、発売禁止になったものも出てきたので、レコード会社も自粛することになった。昭和十年には非常時のかけ声と共に……レコードも「音盤」と呼称されるようになり、米英語が排斥されるに至った。

(古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』 九〇頁)

 国民が垣間見た深淵の底を流れる黒い潮流とはどのようなものであったか。八年二月二十日、築地署に検挙された小林多喜二が留置場内で死んだ。その死が特高の手による虐殺であることを知り、共産主義や国体に反する思想行動に対する仮借ない官憲のテロ行為の実体を感得した者の数は決して少くない。同年五月のいわゆる滝川事件については前述したが、大学自治の危機が世間の視聴を集めていた頃、翌六月には大阪でゴーストップ事件なるものが発生している。事は、帰営時間に遅れそうになった一兵士が信号を無視して道路を横断しようとしたのを、交番の巡査が制止し、両者のなぐり合いとなったというに過ぎないが、第四師団からは軍の威信に係わる問題として大阪府警察部へ抗議した。事件は次第にエスカレートし、遂に陸軍大臣荒木貞夫と内務大臣山本達雄との対立にまでなった。結局十一月に至り妥協は成立したが、軍部の横暴だけが国民の印象に残った。十二月、陸・海軍省は共同声明の形で、最近の軍部批判は軍民離間の行為で黙視できぬと主張したが、これに対する政党の非難と世論の反撃とのために、軍部の強硬姿勢も腰砕けとなった。まだ軍部と政府・政党との間には微妙な勢力のバランスが保たれ、比重は寧ろ後者にかかっていた。しかし翌九年八月、陸軍省が発表した在満機関改組原案は、後に在満機構改革問題として紛糾を呼ぶのであるが、関東庁職員全員の辞職の決議を掲げる反対を以てしても阻止することができず、結果的には、関東州を含む大陸における日本権益の管轄権が外務省や拓務省の手を離れ、首相直轄の名の下に、一元的に陸軍の手中に収められることとなったのである。この陸軍勢力上昇の機運に乗ずるかのように、同年十月一日、陸軍省新聞班はパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』を発行し、広範囲に亘り配布した。「たたかひは創造の父、文化の母である」との同パンフレットの冒頭の言葉は世人のよく知るところであるが、それは更に、「『国防』は国家生成発展の基本的活力の作用である。従つて国家の全活力を最大限度に発揚せしむる如く、国家及社会を組織し、運営する事が、国防国策の眼目でなければならぬ」と言い、「国家の全活力を綜合統制する」や「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を芟除」「統制ある戦時経済の運用に移」る(『現代史資料』⑸「国家主義運動㈡」二六六―二八二頁)等々の言葉が続く。これは従来軍部が重臣・政党・財閥・官僚に鉾先を向けて呼号してきた現状打開のスローガンを、具体的に示した計画案とも言うべきものであったが、それはまた、二・二六事件の失敗を以て終るクーデター等の実力行動による国家の改造を推進している陸軍内の一派閥(皇道派)に対抗して、合法的手段による国家の改造を目指す新しい陸軍内派閥(統制派)の計画案でもあった。

 陸軍省を背景としたこのような強硬な発言に対し、政界・財界はもとより知識人も衝撃を受け、軍部の政治的発言に非難と批判とが集中した。しかしその反面、軍部の力による資本主義の矛盾の除去、ひいては疲弊した農村の救済の実現を期待するとともに、それは内政・外交における政府の無力を批判する勢力とも呼応してこれを強力に支持する勢力を生み、同パンフレットに対する賛否両論はジャーナリズムを賑わした。結果的には同パンフレットの内容が、高度国防国家建設の旗の下に、国策の上に具体化され、いわゆる臨戦体制は整備され、やがて我が国は日中戦争を発火点とする新しい長期の戦争に突入していった。昭和九年の末、政府はワシントン海軍軍縮条約廃棄を関係列国に通告したが、国際連盟脱退以後の国際的孤立の深化に対する国民の危機感は、来たるべき無条約時代の危機を呼号し軍事力の強化の必要性を絶叫する軍部のかけ声により打ち消されていった感が深い。

 明けて昭和十年二月、貴族院における菊池武夫の質問により、天皇機関説問題は火の手を揚げ、やがて軍部やそれに連なる在郷軍人会等の全面的支持の下に美濃部達吉の議員辞任、政府による天皇機関説の否定および再度に亘る国体明徴声明となる。それは前記パンフレットの主張の具体化に外ならなかったが、国民一般がその重大性を果してどの程度認識していたろうか。ましてや機関説問題に対し軍部と同一歩調を取り、政府を窮地に追い込み、倒閣の機会を期待した野党政治家中に、議会制民主主義の基盤を自ら破壊しつつあるのを反省し得た者があったろうか。

 翌十一年二月の二・二六事件はこれを事前に予知していた者があり、政府部内でも非常の場合に備え首相官邸の防備の措置を講じていたことは今日周知の事実である。しかし国民の多くには全く寝耳に水で、終日鳴りをひそめていたラジオが夕刻のニュースで、事件の概要を報ずる陸軍省の発表を流すことにより、初めて事件の勃発を知ったのである。当時学苑では折から学年末試験の最中であったが、登校した学生は、突然の臨時休講の掲示をいぶかしみながら、交通機関の全く杜絶した積雪の街路を歩いて帰ったという。また、中には散歩がてら九段下まで歩み、歩哨線の前で通行を制止され、いわゆる剣付鉄砲を構えた兵士の緊張した顔つきに異常事態の発生を感じたという。翌朝の新聞は叛乱軍将士により襲殺された蔵相高橋是清や内府斎藤実や教育総監渡辺錠太郎、および一時死亡を報ぜられた首相岡田啓介の遺影を掲載し、国民の多くは一様に哀悼の意を表し、軍の横暴に怒りを示す者もあつた。叛乱軍により射殺された首相官邸警備の巡査に対する同情も厚く、その葬儀には多くの一般市民が焼香した。その年五月の校友斎藤隆夫の衆議院におけるいわゆる粛軍演説は、このような事態を惹起した軍を鋭く批判したものであった。その勇気ある斎藤に識者が拍手を惜しまなかったのは事実であるが、やがて昭和十五年の事変処理に関する質問演説が舌禍を招き、既述(五七九―五八〇頁)の如く、斎藤は議会自らの手により除名されたのである。

 二・二六事件の失敗は、その中心であった皇道派の敗退をもたらし、それに代ったのは前記陸軍省パンフレットにその所信と計画とを宣明していた新しい一派閥であった。今やその新派閥は、岡田内閣に代って組閣した広田弘毅内閣において中枢的地位を占め、政府を睥睨し、政党を使嗾して、新たな大陸侵略のために臨戦体制の整備を急いだのである。この年十二月、中国では、いわゆる西安事件が勃発した。監禁された蔣介石と中国共産党との間に何が話合われたかは日本国民の知るところではなかったが、再度の国共合作により強固な抗日救国の戦線が結成されていったのは、後の事態の進展から見て明らかである。このような日中両国それぞれにおける新しい情勢の展開は、近い将来における両国の衝突を予想させるものがあった。

 日中戦争勃発四ヵ月前の昭和十二年三月、後年の『昭和文壇側面史』の著者浅見淵(大一五文)は卒業後十数年ぶりで、学苑に近い諏訪町に移転してきた。彼は十数年間に変貌した学苑周辺にあって、先ず道路が立派になったのに驚き、道路の完備のために学生の集まる所がかつての神楽坂から新宿に移り、学苑周辺の賑わいもまた鶴巻町から高田馬場に移ったと感じ、「いまや早稲田のメイン・ストリートは大学から高田ノ馬場にいたる戸塚の大通りにかは」っていると記している。そして、かつての下宿生活が尺八の音で悩まされたのに対し、今やポータブル(蓄音器)の奏でるジャズと流行歌の騒音がそれに代ったと言い、「深夜の街を酔つ払つて徘徊してゐる学生の影を見受ることもすくなくなつた。また、古本屋では、此頃の学生さんはじつに本を買はぬやうになつたといつてこぼしてゐる。その癖、だいぶぶんの学生たちは表面的な享楽を追及してゐるやうであるが、低迷した時代相を反映してゐるのであらうか」と、感慨をもらしている(『早稲田大学新聞』昭和十二年六月三十日号)。

 さて、学苑専門部各科には、昭和十年から三年生の学生委員による週番委員制が設けられ、教室内での喫煙禁止、変りズボンや変り靴(コンビネーション)の禁止等を掲げて、学内の風紀と衛生の維持に当っていた。十二年度からは同制度を強化し、学生委員四十名に、一クラス四名ずつ十六クラス六十四名を加えた、百四名より成る大きな組織とした。そして同年六月十八日の週番委員総会では新入生全員の断髪が提案されている。しかし、「主旨は諒とするもその即時断行は結局名を得て実を失ふもの」(同紙 同年六月二十三日号)との意見が大勢を占め、断髪案は流産した。

 また学苑には既述(三七一―三七二頁)の如く健康相談所が設けられていたが、体格検査は第一、第二の両高等学院生にだけ実施されていた。それが同年五月から学部、専門部、高等師範部でも実施されることになり、学生には健康票が交付された。七月七日現在で約一万人が受診し、その結果は「果然優秀な成績/罹病率○・二三%」と報ぜられている。罹病すなわち結核であったのは言うまでもない。同じ年五月、健康相談所内に初めてレントゲン設備が新設され、学生の利用者が多かった。レントゲンによる透視診察料金は一般医院では二円であったが、相談所では五十銭で、学生間において好評であった。

 日中戦争勃発直前の学苑の雰囲気の一端は右によっても窺うことができよう。いよいよ日中両軍衝突の七月七日は『早稲田大学新聞』の第一学期の最終発行日であるから、同紙がこれについて触れていないのは言うまでもない。開戦後夏期休暇明けの九月十五日付同紙は、第二面には「空への関心」を特集し、我が軍による爆撃や爆撃機の写真が二葉掲げられている。第三面に、総長田中穂積の軽井沢での時局談を掲げているが、それには、「一時の興奮によつてただ騒ぎ立ててもそれがよい結果を齎すといふことにはならない。非常時局であればある程後続の人材が必要である。学徒としての本分は常にこの後続の人材を目指すべきであり、我が学園の学生は須く斯かる大理想を以て凡ての行動を選ばねばならぬと痛感する」と語っている。その同じ面に、学生課長中島太郎が「時局と学生」と題する論説を寄せているが、それも「銃後に残されたる学徒としては、冷静に時局を認識して原則的に学徒たるの部署に勉励すべきは論を俟たない」と結んでいる。また第七面は「防空演習を機会に/特設防護団編成/学園挙げて非常時対策」の見出しのトップ記事で飾られているが、同組織は職員のもので、学生とは関係がない。運動欄は飛田穂洲が「事変とリーグ戦/技倆よりも精神で/学生野球の真髄を/独自の使命を」の見出しで学生を戒めているが、その他は、「未曾有の白熱戦裡に/早大陣の優勝か」という日本学生水上選手権大会や、「意気の対抗を期待」という早慶庭球戦の下馬評等で埋められていて、戦争勃発に対する学生自身の反応を見ることはできない。

 しかし田中総長は時局の重大性に鑑み、休暇明けの九月十四、十五、二十、二十一日の四日、八回に亘り、「非常時局に直面して学徒に告ぐ」の題目の下に、学苑全学徒に訴えるところがあった。田中は前年の西安事件以来の中国の変化に触れ、「此の如く世界平和の攪乱を使命とする物騒なものと手を携へて、排日侮日の手段を講ずるに至つては、此妨害者に徹底的の打撃を加へて彼等の迷夢を醒ますか、然らざればこれを排除する以外に、東洋平和の安全を計る手段はないのでありまして、……事玆に至つては、力を以て此の難局を打開するより外に執るべき方法はなくなつたのであります。是が此の度の事変の由つて来る所以であります」(『早稲田学報』昭和十二年十月発行第五一二号三頁)と戦争の原因を述べ、第一次大戦におけるヨーロッパ各国の戦時下の生活を説明し、特にイギリスの例を引き、>世界大戦の始め、英吉利に於て国民に警告するために沢山のポスターが到る所に貼出された。其数多きポスターの中最も能く英国人の気質を現はしたポスターに何と書いてあつたかと云ふに"Business as usual"即ち「国民は平常の通り、職務に励め」といふのであつたが、私は此の顰に倣つて諸君に警告する。"Study as usual"即ち、諸君は自己の使命に向つて平常の通り邁進して戴きたい、否な更に一層緊張した気分で勉強して、一朝召集令の下つた場合には勇躍して戦線に立つ覚悟がなければ、彼等白哲人に対して何の面目あるか。 (九―一〇頁)

と警告し、具体的には、「最近理事会は金学園に亘つて恤兵金を募集して、これを陸海軍に贈る計画を立てたのでありますが、ドウカ諸君は一人も漏れなくこれに参加して貰ひたい」と要請し、また、「勤倹力行出来る丈け此機会に無駄な費用を省て質実剛健の気象を養ふと云ふこと」の重要性を説いた。そして、「諸君は来るべき日本の次の時代を継承すべき重大なる使命を荷ふて居るのみならず、更らに進んで国民大衆の儀表となり先駆となるべき責任を荷ふのでありますから、非常時局に直面して、正確にこれを認識すると同時に、諸君の双肩にかかる責任の重大なるを思うて飽く迄自重加餐せられることを祈つて已まざるものであります」(一〇―一三頁)とその訓辞を結んだ。田中はこの訓辞の中で、「一朝召集令の下つた場合には」と学生の覚悟を促しているが、田中自身、この段階で、六年後の「学徒出陣」を予想していたとは思われない。訓辞は一貫して銃後における学生の「自重加餐」を要望しているように思える。

 日中戦争の開始とともに国民精神総動員の呼び声が次第に高まり、政府は八月二十四日の閣議で「国民精神総動員実施要綱」を決定した。同運動が内閣の外郭団体として、海軍大将有馬良橘を会長に国民精神総動員中央連盟を設置し、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」の三目標に向って実際運動に乗り出すのは、昭和十二年十月十二日以降であるが、それに対応しようとの学苑内の動きはその前からあった。同年九月二十二日付の『早稲田大学新聞』は「国民精神総動員に/協力具体案明示」の見出しで、学苑の教職員、学生、学会、運動競技、刊行物に対する基本的態度を、>一、教職員、学生は自粛自戒以てその本分を忘れず研鑽に労め平素の鍛練を怠るべからず

二、娯楽、慰安等を中心とする集会は排す

三、弁論、刊行物等に此際特に注意して国民の本分に悖らざるやう戒心すること

四、運動競技及びこれに対する応援は軽佻浮華に陥る事を慎むこと

五、支那留学生に関しては目下詳細調査中である。帰国した者も相当あるらしいが依然滞在する者に対しては大国民の襟度を持し何等従前と変らざる態度を以て接すべきこと

の五点に決定したことを報じ、「応召学生に対しては種々就学上便宜を便る筈」であると付け加えている。

 このような学苑の態度を反映して、一部専門部学生は、国難打開明治神宮祈願大行進を行い、また出征皇軍慰問金や軍用機献納資金の募集を始め、十一月二日には時局講演会を開き、翌三日には傷病兵の慰問を行っている(『早稲田学報』昭和十二年十二月発行 第五一四号 五〇頁)。また第二高等学院一年生有志約三百名は銃後学生団の結成を呼び掛け、十一月十八日には団員六百余名を集めてその結団式を挙行し(『早稲田大学新聞』昭和十二年十一月二十四日号)、十二月十四日、中支那方面軍最高指揮官松井石根大将宛、南京陥落の祝電を発している。十一月二十七日から二十八日にかけて、学苑では各学部学生の手による恒例の学芸会が開かれているが、「挙て戦時色反映」「銃後の赤誠示す諸計画」(同紙昭和十二年十一月十七日号)が実現されたという。『早稲田大学新聞』が報ずる当日の模様は「軍事科学への関心/校庭に戦争と毒瓦斯/プールに駆逐艦」という有様で、理工学部科学部の学生の手になる、長さ一・七メートル高さ九〇センチメートルの戦車と、長さ二・二七メートル幅四〇センチメートルの駆逐艦が、それぞれ無線操縦により校庭とプール内を秒速一メートルの速さで走り、観衆の喝采を博したという。

 さて七月七日蘆溝橋付近に揚がった華北の戦火は翌八月には上海に飛火し、暫くは日中両軍が対峙する状態が続いたが、十一月初旬、我が軍の一部隊が杭州湾に上陸し、上海を中心とする中国軍を挟撃することにより、戦局は次第に我が軍に有利に展開し、十二月十三日には南京が陥落した。学苑では翌十四日午後一時から、戸塚球場で南京陥落祝賀式が行われた。国歌斉唱と宮城遙拝の後、田中総長は大略次のような式辞を述べた。

難攻不落を誇つた上海を攻略して、更に進んで僅に一ケ月たらざるに懸軍長駆、支那の首府である南京を陥落して我国開闢以来空前の壮図を完行し、国運の前途に雄大なる一の新時代を画したと云ふことは諸君と共に慶祝に堪へざる所であります。……昔から百里の道は九十里にして半ばすと申す如く、時局の前途は尚頗る遼遠であります。若し支那が現代国家の実質を備へて居りますならば、経済上の中心地たる上海の護を失ひ、更に政治上の中心地たる南京が陥落した今日は、恰も人間の身体に於て身首所を異にし心臓の鼓動が止まつたと均しく、正さに致命の打撃であることは疑ひないのでありますが、併ながら幸か不幸か支那は近代国家の実質を備へて居らないのであります。随つて此の如き致命の打撃を蒙つて、尚且彼等の感ずる苦痛は我々の想像する如き深刻なものではないのであつて、今や南京政府の残党は支那の奥地に散在して、僅に余喘を保ちながら尚且長期抗戦を豪語して居るのであつて、早晩彼等の頭上に降るべき運命はこれを予見し得るのでありますが、凡そ国家の大事に処して油断は絶対に禁物であつて、我々は所期の目的を達する迄は益々勝つて兜の緒を締める細心の用意を以て一路邁進しなければならないのであります。 (『早稲田学報』昭和十三年一月発行 第五一五号 一一頁)

 東京市民による陥落祝賀の行事は、翌十五日に行われた。その祝賀の提燈行列は諸所に赤い火の海を現出した。弁護士正木ひろしは当夜所用で新橋発の黄バスに乗っていた。バスの外を提燈行列の人の波が通り過ぎて行く。正木は感激してバスの窓を開け、中から手を振って行列の歓声に応えたが、

そのバスには余り人が乗っていなかった。皆がゆっくり腰を降す程度だった。反対側は全部早稲田の学生であった。しかし彼等は窓を開けようともしない。彼等は嬉しくないのであろうか。または子供らしくっていやなのであろうか。新聞を見ると支那の軍隊には学生が大分混っている。日本とても敵が自国内に入れば学生はおろか、婦女子に至るまで銃をとって闘うであろうけれど、最近の学生は時局に対し、一般に少しく冷淡ではなかろうか。 (『近きより』第一巻 一九五頁)

と評した。尤も、正木も時局に冷淡な学生を一方的に非難したことに気が引けたのであろうか、その文章の最後を、>日本の警視庁では、早稲田大学の周囲三百米以内には、喫茶店も飲食店も設けさせない方針になったそうだし、それも午後の三時からでなくては開業させないとか、これでは学生を敵にして闘っているようなものである。必要のあるところ必ず発明がある。昼間デパートへ行って見るがいい。必ず数名の学生が女店員に戯れている。銀座の××という「しるこ屋」は、砂糖の甘さばかりで繁昌するのではなく、女学生が出入するからだという。一箇の家庭でも、余り厳し過ぎると不良児が出来る。ともすると官僚や軍人が図に乗りたがる時代である。陛下の赤子に対し、一層の慎重を要す。 (同書 同巻 一九六頁)

という批判で結んでいる。

 正木の眼に映じた、時局に冷淡な学生の心の底にあったのは何であろうか。この年八月二十三日、『中央公論』九月号に掲載された矢内原忠雄の「国家の理想」は全文削除され、矢内原の言論活動に対する非難の声が東京帝国大学経済学部の一部教授の間に起り、十二月一日矢内原は辞表を提出して大学を去った。その月十五日には、いわゆる第一次人民戦線事件で、山川均、加藤勘十、大森義太郎ら労農派に属する学者・政治家が四百余名も検挙され、日本無産党や日本労働組合全国評議会は解散を命ぜられた。正木が後段で指摘したような日常生活における鬱積や、次第に強化される思想統制による精神的鬱屈が、戦争の別の一面として当時の学生を抑圧し、素直に戦勝を祝えないものがあったのであろう。

 年を越えて昭和十三年一月十六日、時の第一次近衛文麿内閣は、

帝国政府ハ南京攻略後尚ホ支那国民政府ノ反省ニ最後ノ機会ヲ与フルタメ今日ニ及ヘリ。然ルニ国民政府ハ帝国政府ノ真意ヲ解セス漫リニ抗戦ヲ策シ、内民人塗炭ノ苦ミヲ察セス、外東亜全局ノ和平ヲ顧ミル所ナシ。仍テ帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセス、帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、是ト両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス。 (外務省編『日本外交年表竝主要文書』下 三八六頁)

との政府声明を発表した。この対中国政策が根本的誤りであったのは後の歴史の示すところであるが、政府はこうした対外姿勢を国内体制の引締め強化により補強しようとし、翌二月には国民精神総動員強調週間を設定した。

 二月十四日、こうした政府の姿勢に応え、田中総長は再び大隈講堂の演壇に立ち、「長期交戦と学徒の態度」と題して学生に訴えた。総長は十七世紀以降ヨーロッパにおける列国興亡の歴史から説き起して第一次大戦に及び、次いで、

二十年以前の世界大戦と比較すれば、昨年七月起つた支那事変なるものは、……漸く序幕に入つたに過ぎないのであつて、我我日本民族の実力を発揮する本舞台は、寧ろ将来にあると云はなければならないのであつて、幸に我々日本国民が真に世界の偉大なる国民たる矜持と確信があるならば、公明正大俯仰天地に恥ぢざる正義の軍を起して仮令列国の感情がどうあらうとも形勢の推移によつて徒らに一喜一憂する必要は毫末もないのであります。……此の試煉に耐へた暁日本の前途には大きな運命が待つてゐる。……而して此の大なる試煉の先達たり、リーダーたるべき使命を荷ふてゐるものは、謂ふまでもなく模範国民の造就を建学の本旨とする、我が学園の健児であつて、諸君は断じて此重大なる使命に辜負してはならないのであります。

(『早稲田学報』昭和十三年三月発行 第五一七号 四頁)

と述べ、学生の自粛自戒を切望した。

 国民精神総動員のかけ声は高かったが、それに対する学生の批判や反発も強かったようで、二月九日付の『早稲田大学新聞』は、加藤悦郎の手になる「書店風景」という漫画を掲載している。角帽をかぶった二人の学生が立っており、「おい、雑誌買ふ金があつたらお茶でものもうぜ!」の言葉が記されている。しかも書店の店頭には、上部は隠れて見えないが、数片の広告が天井から下がっている。それには「不自由」「――地方放論」「――一本評論」「――買損」「―文芸心中」の文字が読み取れる。また三月二日付の同紙には、同じ筆者の「総動員せぬ総動員」と題するものが載せられている。画は中央に「国民精神総動員中央聯盟」の幟を立て、「七十四団体」という人間が乗り、中の一人がメガホンで何か叫んでいる大きなオープン・カーを置き、「帝国芸術院」「文芸家協会」「ペン倶楽部」「出版協会」「大日本映画協会」の面々が後方に立って、それを見送っている。そして「日本文化中央聯盟以外の学芸諸団体をことごとく無視したのは何故だらう。総動員はあくまで総動員たらしめよ!」との文字が記されている。政府主導の精神運動の御都合主義と、それによってもたらされた荒涼たる文化の状況に対する、学生の怒りがよく分るのである。

 それでも、多年慣れ親しんだ学窓から巣立って卒業ともなれば、その感懐はひとしおであったらしく、文学部学生だった、後の芥川賞候補作家八木義徳(昭一三文)は次のように記している。

もう学校を出ることになつた。感慨はやはり深い。朝夕袖を通す学校の制服に、この頃では一種の肉体的な郷愁さへ感ずる。……さて脱ぐ時にはなにか自分の皮膚を一枚剝ぐやうな気がするのだ。五年間したいだけのことをした。いいことも沢山したし、わるいことも沢山した。悔ゆるところは一つもない。愛憎の最も濃密な季節であつた。自分の感情をグングン外へ出して行けた。友人たちもさうであつた。ぼくらには先生たちもそのやうな扱ひ方をしてくれた。……だからみんないい思ひ出である。 (『早稲田大学新聞』昭和十三年三月二日号)

その八木もいざ就職となり、江東区のある工業会社で面接を受けると、「きみはこの非常時に五年間も軟文学をやつちまつたのだね」とか、「きみがもし商科か、せめて法科の生徒だつたらいいのだが、どうも文科出の人間は我が強いのでねえ……」と言われ、不合格になる。八木は、「『可能性』の夢はもう見ることが出来ない。卒業の寂しさは、この夢の消えた寂しさである」と結んでいる。それより少し前の新聞は、「長期戦下の人材要求/果然九〇%に躍進!」と就職状況の好調を報じている(同紙昭和十三年二月十六日号)が、文学部出にはその門は依然として狭かったようである。

 この年二月中旬、警視庁は全管轄下の不良少年の一斉取締りを実施し、初日の十五日に二千余名、三日間で七千三百七十三名を検束した。その中には専門学校以上の学生二千六百十七名が数えられ、学苑関係者も含まれていた。ところが春から六月にかけて取締りは戸塚、早稲田両警察署により学苑中心に行われ、警察のトラックが学苑周辺に来て、喫茶店や遊戯場にいる学生を無差別に検束するというやり方で、連日学苑生数十名が両署に連行された。事態を憂慮した学苑当局は、六月七日の学部長会議でその対策を協議したが、学生側の反応も急であつた。十日には政治経済学部三年生の学生大会が行われ、(一)学生の自粛、自治的統制、(二)学生倶楽部設立促進または学生ホール改善、(三)警察当局への不法行為に対する質疑等を決議したが、十三日には同学部の二年生が同じく学生大会を開き、(一)学生自身の自粛自戒、(二)大学当局の無方策を反省せしむる、(三)今次検挙における警察の人権蹂躙的態度に対し問責すること、等を決議した。学生代表は早稲田署長藤田次郎らと会見し、取締りの真意を問うたが、同署長らは、「学生が本当に不良性を帯びる温床は喫茶店、麻雀、撞球屋等からである事はその実例が多々ある。之等不良行為に対する予防的立場から取締つてゐるのであつて警察権の発動からではない」と言い、「朝食中検束されたり、白昼公然と大学生をトラックに詰めたり、誓約書を書かせて拇印を捺させたりする行為は横暴と思ふか?」と問う学生の抗議に対しては、「そんな事は絶対に無い、先日は午前九時を期して行つたが朝から麻雀屋、撞球屋に入浸つてゐるのはよくないが、朝食中の学生は検束しなかつた、連行するにも歩かせて居り、誓約書に拇印を捺させた覚は無い」と答え、「二ケ月間の中には三百米内の浄化を完了して健全なる飲食店許りにする予定である」とも付け加えている(同紙昭和十三年六月十五日号)。越えて十六日午後六時から政経・文・法・商・理工の五学部の学生代表十九名が高田牧舎に会合して協議の末、次の声明書を発表した。

声明書

吾等早稲田大学々生は建学の本旨たる学の独立、活用の精神に基き以て国家社会に貢献せん事を期す。現下の社会情勢に照応するもこの絶対方針は聊も弛緩する事を許さず。尚吾等は之を強化し大学々生たる本分を完ふし以て国家に裨益せん事を期するものなり。然るに二月以降所謂「学生狩り」なる名称の下に屢々警察当局の採れる行動は如何に社会認識を綜合するも、又現行法の如何なる解釈に依るも吾等は何等の妥当性を認むる能はざる処なり。殊に該検挙の無統制無秩序は徒らに学生の反抗心を助長せしめたるのみならず、大学生々活に対する社会一般の曲解を招来せしめたり。国民精神総動員の強調せらるる今日斯かる事態を惹起したる警察当局は何を以て国民に応へんとするか。勿論吾等は唯責任の全般を当局に問はんとするに非ず。時局の重大性に鑑み大学の伝統と権威を誇る吾等は内一万八千の学徒に一層学生々活の強化を図ると共に外関係当局に徹底的反省を促すものなり。

右声明す。

六月十六日 早稲田大学々生代表

(同紙 昭和十三年六月十八日号号外)

 右の学生の声明の中にもあるように、警察当局の取締り方針やその具体的な方法に対しては賛否両論があり、事件は当時のジャーナリズムを賑わせたが、世論の大半は学生の非を認める方に傾いていた。そのためであろうか、警察当局の不法に抗議した学生代表も、翌十七日午前十一時から、学苑学生課員を交えて、学生ホールにおいて再協議した結果、左の「全早大学生諸君に告ぐ!」を発表し、全学生の自粛自戒を要望した。

各学部代表委員会は昨十六日夜別掲の如き声明書を発表し、社会にその主旨を闡明すると共に吾等学生の採るべき態度を決定せり。惟ふに今回警察当局のとれる行動の目的の奈辺にありやは明確ならざれども、近年社会情勢の急激なる変化は大学の本質を失はしめ、従つて学生自身その進むべき方向に迷ひ、ややもすれば徒らなる享楽化への風潮を招来し而して時局の重大性はかかる無自覚なる生活態度を許容せざるに至らしめたる事に起因するものと信ず。もとより全般的見地よりすれば吾等早稲田大学々生はその建学の本旨に基き模範国民たるべき真理の探究、人格の完成を期し常にその真摯なる態度と熱意ある意欲とを堅持しつつあり。然れども多数学生中には当局の指摘せる如き学生絶無とせず、実に数回に亘る当局の無法なる検挙にも拘らず、社会一般は学生に対し寧ろ冷視するのみならず、大学々生々活を曲解するに至りたるは之等少数者の無自覚なる私的行動によるものなり。吾等は声明せし如く当局にその非妥当性の反省を促すとは云へ、学生々活の本質に背馳せる如き少数者に対してはその猛省自粛を要求し、而して誤れる社会の批判に対しては全早大学生たるの責任に於てその生活強化を以て之に応へんとするものなり。右全学生諸君に要望す。

六月十七日 早稲田大学々生委員一同

(同紙 同号号外)

 十八日には全学生委員が田中総長に会見し、声明発表に至る経緯を説明するとともに、学生のための諸施設の改善を要望して、総長の了承を得た。そして二十日には学生代表が警視庁に大坪保雄刑事、野村儀平保安の両部長を訪ねて懇談し、大坪刑事部長からは、「こちらの指導精神は不良青少年の取締りであつて決して『学生狩』ではなく、たまたまその中に不良学生が多かつたに過ぎない。……勿論善良なる学生に迄迷惑を掛けたとすれば一国民として大変遺憾に思ふ」との回答を得、また野村保安部長からは、「学園附近の浄化は考へてゐる処であり、改善しないで悪の温床に出入りする者許りを取締つてゐるわけではない」(同紙昭和十三年六月二十二日号)との回答を得た。また十八日の総長との会談により、左の如き学生ホールの改善が早急に実現されることが約束された。

一、営業時間を午前九時より午後四時迄に改良

二、階上の大会場を休憩室として無料公開

三、階上小室は師弟聯絡機関として使用せしむる

四、今後学生課の監督下に置く事

五、並びに大隈庭園は老侯の遺影を害さない程度に開放して木製のベンチを増設する (同紙 同号)

 なお、右に引用した『早稲田大学新聞』には、「超満員の図書館風景」も報ぜられていることを付記しておこう。

学園の誇りとする図書館は「善良なる学生の温床」として毎日真摯なる学生の研究室となり一日平均二〇〇〇人を呑吐してゐる。階上の第一閲覧室はギツチリ詰めて三五〇人、第二閲覧室が一〇〇人計四五〇人の収容人員だが、昨二十一日館内を一巡してみても完全に満員の盛況。卒業論文に、独自の研究に熱心な学生の姿は「サボ学生狩り」は何処吹く風かと疑はしめる位――早稲田大学の学生は九十九%までが「善良なる多数」として勉強してゐる事を良く認識して貰ひ度いデス。

(同紙 同号)

 また六月二十五日、大講堂で参謀本部員高島辰彦中佐の科外講演「国家総力戦と知識階級の使命」が行われた。講演終了後「軍当局に対し不審を持つ学生」が同中佐との懇談を希望し、五、六十名の学生が小講堂に席を移し、学生の「現時局の発生に何か入為的な無理な所はなかつたか」との疑問を中心に、更に数時間に亘り質疑応答が行われたという。その詳細は知り得ないが、同中佐は「総じて学生の質問が抽象的な空論から放れて実際的であり、且つ終始真剣に質問を出し、大いに愉快だつた」(同紙昭和十三年六月二十九日号)との感想をもらしている。ここにも早稲田の善良真摯な学生がいたのである。

 台風一過、「学生狩り」に振り回された学苑もやがて静かに夏季休業に入ったが、休暇が明けると、学苑当局も学生自粛問題に取り組み、学生側も自発的に各学部学生委員会を中心に協議した。九月二十八日付『早稲田大学新聞』は「時局学園の動向/校風刷新へ機運濃厚/各部に亘つて慎重協議」の見出しで、その状況を報じている。すなわち、二十日には政治経済学部学生委員会が塩沢学部長以下の出席を得て、「非常時局下学生は如何に処すべきか」を協議し、理工、商、法各学部がこれに続き、文学部学生も二十八日には同問題を協議している。その結果、学風振興に係わる「学生申合大綱」が作成され、当局に提出された。その内容は、明治神宮参拝、宮城遙拝の励行、傷病・出征将士およびその家族の慰問と慰問品の送付、原書教材の学生の手によるプリント、時局講演会の開催、廃品回収、禁煙デーの設定、健康徒歩行進、ラジオ体操週一回、教室内の禁煙、国防献金、記念植樹、麻雀・撞球場立入禁止、徒歩励行、容姿服装の端正化等、きわめて多彩であった。その後、学部ごとにその幾つかが逐次実行に移されたのを報じる記事が『早稲田大学新聞』に散見される。しかし、いわば外見的に過ぎないこうした行動が学生生活の本質に何をもたらすかに、疑問を抱く学生もあった。T・S生と名乗る一学生は同年十一月九日号の同紙に次のように投書している。>学生は何よりも学問するが故に学生である。……現代日本の当面してゐる重大問題をより深く認識し、国策徹底の為に知的協力をなすことが最も有効であり、且我々の為さねばならぬことである。……土運びや草むしりを半日か一日形式的に行ふことで学生勤労奉仕の能事終れりとお茶を濁らすやうなことは我が学園の名誉の為にもとらない。

 少しく学苑外に眼を転じてみよう。この年七月十一日にはソ満国境に張鼓峰事件が勃発した。かつて田中総長が日中戦争勃発直後、九月十四日の訓辞中に「前門の狼後門の虎」の諺を引用し、「後門の虎は何れにあるかと云へば、それは言ふ迄もなくソビエツト・ロシアであります。此の後門の虎は正さに嵎を負うて虎視眈々、苟くも釁𨻶の乗ずべきあれば其多年磨きに磨いた爪牙を以て日本に飛掛らうとして居るのであります」(『早稲田学報』第五一二号 四頁)と警告したのが実際となったもので、翌年五月のノモンハン事件に連なるが、同事件は一ヵ月後停戦協定が成立し、軍当局はその真相を公表しなかったので、必ずしも十分には国民の視聴を集めなかった。

 各種日用品の「代用品」が巷に溢れ出したのもこの頃で、靴に代って下駄履きが流行し、学苑も「下駄履登校許可」の掲示を出し、十月五日付の『早稲田大学新聞』は学苑の新風景の下駄履き学生を、写真入りで報じている。

 河合栄治郎の『第二学生生活』『フアシズム批判』をはじめとする四著書が発禁となり、同教授が起訴された。また有沢広巳、脇村義太郎、大内兵衛ら、東京帝国大学の教授・助教授が、かねてから人民戦線に連なる学者グループとして検挙されていたが、この年十月それぞれ休職処分となった。岩波書店から赤い表紙の「岩波新書」が発行されたのもこの年の秋で、第一回発売の、デューガルド・クリスティーの『奉天三十年』、斎藤茂吉の『万葉秀歌』、津田左右吉の『支那思想と日本』は世評も高く、学生の間でもよく読まれた。しかし津田のこの著作が、後年の津田事件の呼び水になろうとは誰も予想していなかった。マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』や、エーヴ・キュリーの『キュリー夫人伝』がベスト・セラーズになったのもこの年である。「日の丸行進曲」のメロディーとは別に、渡辺はま子の歌う「支那の夜」や、淡谷のり子の「別れのブルース」が愛唱され、ディアナ・ダービン主演の「オーケストラの少女」が空前の観客を集めたのもこの年で、当時の国民一般から学生に至るまでが、緊張を強いられ、時代の暗さを身に感じながらも、なお捨てきれぬ夢を抱き続けていたのを象徴するものであった。

 十月二十七日、漢口が陥落し、いわゆる武漢三鎮が日本軍の手中に帰した。学苑は翌二十八日午後一時から戸塚球場において「漢口陥落祝賀式」を挙行し、田中総長が大要次のような式辞を述べた。

恐らく大なる激戦は玆に一段落を告げまして、蔣介石政権は一地方政権に没落したものであると確信を致します。併ながら……彼〔蔣介石〕は毫も降伏する意思はない、又た下野する考へもないと豪語して居るのでありまして、愈々長期抗戦はこれから始まるものと我々は覚悟しなければならないのであります。……私は諸君と共に満腔の祝意を表すると同時に、愈々腹帯を引締めて他日国民の模範となるべき早稲田の健児は、百折不撓、国民の先駆となつて此の聖業の大成の為めに益々自重せらるることを望んで私の式辞と致します。 (『早稲田学報』昭和十三年十二月発行 第五二六号 二五―二六頁)

 さてこの年の学生の就職は時局の進展とともに好況に転じ、十月末には満州中央銀行八名、満州国高等文官試験合格二名、東洋拓殖五名の大陸での就職の決定を、『早稲田大学新聞』(昭和十三年十一月九日号)は「゛長期建設”こそ早稲田/雄心大陸に飛ぶ/巣立つ春を待つ十五君」との見出しで報じた。更に年を越えると、「事変下の生産拡充の波に乗つて産業界の活撥な動きを反映して十三年度の学生就職率は非常に好く、嘗ての『就職難』は昔の語り草とまでなつてゐるが、昨年末に於る学園就職状況は予想を遙かに越ゆる好成績で、内定決定を含めて千二百名は既に決定を見た模様である」(同紙昭和十四年一月一日号)と、十三年度卒業予定者約千五百名全員決定も近いことを報じている。なお、一月二十八日には卒業後大陸に就職する者約百名の壮行会が、人事課と支那語研究会との主催で、学生ホール二階で開催され、田中総長も出席した。

 ここで学生の読書傾向について触れておく。事変勃発後の七月から九月にかけては前年同期よりも図書館への入館者は減少し、かつ事変前は人民戦線対国民戦線の問題や、ファシズム関係の書物とか、ヒトラーやムッソリーニの伝記などがよく読まれたが、事変後は統制経済関係、殊に小島精一のそれに関する著書が最も多く読まれた。「学生狩り」の前後にも、図書館の利用が活況を呈したのは既に記したが、その読書傾向は「相変らず文学書」が主流で、利用者数の多い順に列挙すると、火野葦平『麦と兵隊』、同『土と兵隊』、林芙美子『戦線』、阿部知二『幸福』、坪田譲治『子供の四季』となり、政治経済関係では深井英伍『通貨調節論』、本多熊太郎『日支事変外交観』、ジイドーリスト『経済学説史』、荒木光太郎『インフレーション』、シュパン『全体主義の原理』等であった(同紙昭和十四年二月十五日号)。なお学苑周辺の書店におけるベスト・セラーズは、小川正子『小島の春』、阿部知二『街』、林悟堂『生活の発見』、谷崎潤一郎『源氏物語』、火野葦平『麦と兵隊』、同『土と兵隊』、創元社『アジア問題講座』等であったという(同紙昭和十四年五月三日号)。

 昭和十四年五月二十二日は「陸軍現役将校学校配属令」制定十五周年に当るので、この日全国学生代表三万五千名(学苑からは両高等学院生以上、代表五百九十名参加)が宮城前広場において閲兵分列式を行い、天皇の御親閲を受けた。同日午後天皇は次の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を下賜された。

国本ニ培ヒ国力ヲ養ヒ国家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ而シテ其ノ任実ニ繫リテ汝等青少年学徒ノ双肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史実ニ稽へ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ格守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ気風ヲ振励シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ (『近代日本教育制度史料』第一巻 六一頁)

田中総長は同日「勅語を拝読して」の謹話を発表するとともに、五月三十日午後一時三十分から戸塚球場で同勅語の奉読式を挙行し、教職員学生一万七千余名が参列した。総長は勅語奉読後、全学生に対し、「模範国民を造就するを以て建学の本旨とする学園の健児はこの聖慮の深厚なるに恐懼感激して一層国家に活動すべき人格を陶冶し、全国青少年学徒に魁て国家隆昌の気運を永久に維持せんとする模範国民たるべきを期すべきである」(『早稲田大学新聞』昭和十四年五月三十一日号)と力説した。

 この頃になると学生も少しずつ変貌し始め、学苑の周辺にもそれが反映した。かつて問題になった喫茶店も鶴巻町だけで四軒廃業し、サービス・ガールはすべて十五歳以下になった。麻雀屋の客足は減少し、三十軒の撞球場では自粛して午後から開店したが客は減少し、代ってピンポン屋が繁昌した。周辺の楽器店でも、バイオリンと尺八の売行きが止まり、アコーディオンも下火となり、製造の禁止されたハーモニカに買手がつき、ギターは一日平均一個二、三十円程度のものが売れたという。交番の巡査も「夜の大学街の森閑さは気味が悪い位で」と言っている(同紙 昭和十四年五月三日号)。前年十一月、政経、理工の両学部について行われた学生実態調査によれば、娯楽の中心は映画で、それも全線座(現、日産サニー京王販売早稲田営業所)に集中しており、同座が時々催す名画祭では、「平原児」「望郷」「アベマリア」「未完成交響楽」「モロツコ」等に人気が集まった。当時、学生は自宅通学四四パーセント、下宿二四・八パーセント、アパート八パーセント、その他は知人宅もしくは借家であったというが、下宿料金が前年度に比べ二、三割方上昇したにも拘らず、多くの下宿屋が満室であった。学生は武蔵野線(現、西武池袋線)、東上線、西武線沿線に最も多く、小田急線と京王線沿線がこれに続き、高田馬場駅の平均降者数は一日約九千名であった。服装について言えば、角帽が五円止まり、制服がスフ入りで二十五円から五十円、靴は代用皮革で十六、七円、大体が服装には無関心であるが、約四割はそれでも純毛、牛皮といった上等品を志向したという。靴下が三日で穴があくとの嘆きも多かったようである(同紙昭和十四年六月二十六日号)。それも秋に入ると衣料品の値段は高騰し、『早稲田大学新聞』(昭和十四年十一月二十九日号)は「金のかかる冬支度/外套、冬服の大幅騰貴」を報じている。それによると、衣料品は昨年に比べて二―五割の値上げで、外套が普通で七十―百円、スフ入りで五十―七十円であった。

 昭和十四年度の夏期休暇を前に、田中総長は「夏休を前に青年学徒に与ふ」の談話を発表し、大学教育における長期休暇の意義を説き、決して長きに失するものではないと強調したが、同時に「夏期休暇の総てを読書に捧ぐべきでないことは、論を俟たざる所であつて、此期間こそ学窓を離れて大いに体力の増進に力を致すべき絶好の機会であるが、更らに進んでこの非常時下にあつては、高き教養を積める青年学徒の当然の義務として身を挺して銃後の守りに協力す」るよう(同紙昭和十四年七月五日号)要望した。しかし右の総長談話を掲げた同日の紙面には、再び加藤悦郎が筆を執り、「新風俗図絵」という漫画を載せている。ロング・ドレスのウェイトレスがにこやかにお盆を持って立っている喫茶店の、角帽を膝の上に置いて椅子に腰掛けている制服姿の学生は、丸坊主である。曰く、「このアタマの写真を親爺に送つてやつたら、その心がけならワシも安心ぢやと、来月から送金を増額して呉れる事になつたよ、フツフフ」。

 それはともかく、この夏には政府や軍をはじめ、都下学生国防研究会連盟やアジア研究会などが主催して、多くの学生が満蒙、華北、華中に実情視察・調査や勤労体験を目的として派遣された。八月三十日に無事帰国した学苑の学生六四名が参加した興亜青年勤労報国隊学生班を迎えて、『早稲田大学新聞』(昭和十四年九月十三日号)は「尊い汗に得た意識/大陸に鍛へて帰る」の見出しで、「聖戦三年目の夏は鍛練の夏、勤労の夏であつた――動く学生は消極的な態度を捨て、積極的に興亜の聖業に参画し、新しい東亜の秩序の中に自らの理想を織込まうとしてゐる」と報じたが、田中総長も学生記者とのインタビューの中で、「早稲田の学生が模範的であつたのは喜ばしい。天津の学生部隊指揮官から文部省に報告した写しを送って来て、早稲田の学生は早稲田独特の精神を以て非常に良くやつたと激賞して来てゐる。この様な仕事は決して強制すべき事ではないが、学生にとつては非常に良い体験をする。……学生もやる時はやると云ふ事を眼の辺りに見せたわけだが、体験は自信力を生む、その意味で非常に有意義であつた」(同紙昭和十四年九月二十日号)と語っている。帰国した学生隊員の報告会は学部・学院ごとに開催され、またその大陸での体験は座談会の形式で九月二十日の『早稲田大学新聞』の紙面を飾った。参加者の理工学部学生村松林太郎(のち教授)は、「日本軍が行くと日本軍万歳、支那軍が行くと支那軍万歳、何方附かずの人間が良民らしい顔をして相当ゐる……さう云つた性質を有つた支那人を今後日本人が指導して新東亜建設をやると言ふことは相当な困難があるのではないかと思ふ」と語っている。

 十一月十六日、かねて『麦と兵隊』その他のいわゆる兵隊三部作で文名を謳われていた芥川賞作家、火野葦平こと玉井勝則軍曹(大一五文入学、中退)が無事凱旋して、母校大隈講堂の演壇に立ち、「戦線より帰りて」と題してその体験を語った。開場時間の午後三時前から多数の学生が集まり、大講堂内は立錐の余地もなかった。火野は彼が従軍した中国における戦闘後の宣撫工作の困難さを終始真剣な調子で語り、特に学生に向って、

現在の使命遂行の為に最も必要なものはインテリ、このインテリと言ふ言葉は厭ですが、知識階級の力がなければどうしても新しい使命遂行と云ふことは出来ない。どうしてもインテリがさう云ふ新しい建設の為には首脳部になつて行かなければならない……インテリの兵隊は弱い、駄目だと云ふことは言はれた、併し私はそれと反対の考へを持つて居ります。……肉体的な耐久力が非常に必要な時は成程弱いこともあります。ひよろひよろして却つて一緒に行為もして行くことが出来ないといふ風に見えますが、ところが非常に烈しい行軍をしたり、戦闘をしたりしてやつてゐるといふことがあります。……結局本当の力になるものはインテリゲンチヤぢやないか、私は兵隊としてさう云ふ風に感じたのであります。

(同紙 昭和十四年十二月六日号)

と知識人の重要性を訴えた。学生が校歌の合唱で火野を送った時、火野は火焼けした顔を涙でくしゃくしゃにした。

 右の火野の講演内容を掲載した『早稲田大学新聞』には、文学部当局の学生に対する左の掲示も載せられている。日付は明らかでないが、十一月末日と思われる。

目下未曾有ノ非常時局ニ直面シ、最モ緊張シ、最モ撥刺トシテ研学ニ教練ニ奮励努力スベキ時ニ方リ、近来我ガ文学部ハ他学部ニ比シ大イニ緊張味ヲ欠ク憾ミアリ、ネガハクバ諸君今後一層自戒自粛学徒ノ本分ヲ尽スコトニ更ニ更ニ勇往邁進シ、ソノ指標トモ見ルベキ出席率ノ如キモ一層向上スルヤウ努力セラレタシ、就イテハ本学部ハ十二月一日興亜奉公日ヲ以テ右ノ励行ニ着手スベシ。

 事変下の制約にも拘らず、学生のスポーツにかける情熱は衰えを見せなかったが、早慶野球戦をはじめとする学生スポーツに対しても、文部省は制約を加えてきた。すなわち文部省は、七年三月二十八日の「野球ノ統制竝施行ニ関スル件」の趣旨を徹底させるため、一一二七―一一二八頁に後述する如く、十四年春季リーグ戦終了後、野球戦を一回戦に限定することを要望し、八月十六日には、「従来六大学野球リーグ戦等に際して、荒天その他やむを得ざる場合、……土曜日午後、日曜日、祭日以外の日でも試合の挙行を承認してゐたが、今後これを承認せぬ方針」(『東京日日新聞』昭和十四年八月十七日号)を執ると言明するに至った。野球戦の一本勝負説はその賛否をめぐり当時のマスコミを賑わしたが、「聯盟として急に制度を変更してまでも一回戦を行ふことは種々無理な状態に置かれてゐたのでこの試合方法を採ることは不可能であつた」(『早稲田大学新聞』昭和十四年九月二十日号)との野球部長・六大学野球連盟理事長山本忠興の談話にもあるように、この年のリーグ戦では一本勝負方式は採用されなかった。野球リーグ戦が一回戦制を採ったのは、翌十五年秋からである。

 昭和十四年十二月二十日号の『早稲田大学新聞』に、窪田空穂は「この大き生みの悩みを息つめて悩み敢へむに年改まる」他四首のいかにも苦渋に満ちた歌を掲げている。そして昭和十五年を迎えた。

 冬休み明けの一月十一日、狂信的右翼の攻撃を受けた津田左右吉は学苑教授を辞任するの余儀なきに至ったが、その経緯については本編第十二章に譲る。次いで議会で斎藤隆夫の戦争政策批判演説が問題化し、衆議院は三月七日除名を可決した。昭和十五年は紀元二千六百年奉祝の年として、国民は華やいだ空気を期待しないわけでもなかったが、前年既に開催を予定されていた東京オリンピック大会の取消しが政府により公表されたのをはじめとして、漸く暗雲の立籠め始めたのを感ぜざるを得なかった。

 第二高等学院は、一月二十四日、「学生の風姿に関しては従来も屢屢注意し来れるが、非常時局に際会し青年学徒たるもの益益質実剛健の気風を涵養するを要す。本学院は玆に鑑みる所あり、来る昭和十五年四月一日より全学生に対し長髪を許可せざることに決す」(同紙昭和十五年一月三十一日号)と掲示して、四月一日以降、学生の長髪を禁止した。なお第一高等学院では一律禁止を行わず、「教室で教授が断髪を慫慂」することに決定した(同紙昭和十五年二月二十一日号)。

 「早稲田の表情」も変っていった。変りズボンを着用する者が全体の一パーセント、靴は黒一色となり、油を塗ったテカテカの角帽も影をひそめた。学生自身もその変化を、「三、三年前の早稲田を知つてゐる人は一驚するだらう、この自粛は果して何処から来るものであらう、……学生は寧ろ『学生論』の颱風眼の中にゐて、新しい時代の夢をみてゐるのかもしれない」(同紙昭和十五年六月五日号)と言っている。物価も高騰を続けた。制服が五十七円、それ以上は五円八十銭が課税された。靴もゴム底もしくは豚皮で十五円から二十円、底が牛皮となると二十五円から三十円した。下宿代はアパート四畳半で十五円、六畳で二十円、下宿屋は二食つき六畳で三十六円、四畳半で同じく三十円(同紙 昭和十五年五月一日号)。

 夏季休業を前にして総長は『早稲田大学新聞』(昭和十五年七月三日号)紙上で、「諸君の友人にして、ペンを棄てて銃を執り、大陸の第一戦に櫛風沐雨の辛酸を嘗めつつある人々の上を思へば、諸君は休暇なりとて晏如たることは、如何にしても出来得ない筈であつて、諸君は軍隊に応召した覚悟を以て、来るべき夏期休暇を善用することを切望する」と全学生に訓辞した。この年も文部省の手で興亜青年勤労報国隊が大陸各地に派遣されることとなり、学苑からは満州派遣隊鉱工班に理工学部から五名、土木班にも同じく五名、北支派遣隊には法学部以下十名の学生、また中支派遣隊にも五名、これに指導教員が付き添い、計三十三名が参加することになり、その壮行会は六月二十五日、大隈会館において行われた。

 政局も絶えず動揺を続け、十四年八月には、平沼騏一郎内閣が独ソ不可侵条約の成立を以て「欧州情勢は複雑怪奇」の声明を残して去り、阿部信行内閣が成立したが、その成立の翌々日第二次世界大戦が勃発した。政府は逸速くヨーロッパ戦争への不介入を声明したが、国民一般はドイツの電撃戦や破竹のような進撃の成果に眼を奪われ、やがて軍部を中心に、次第に日独接近の方向を採るようになった。十五年一月、阿部内閣が陸海軍の支持を失って倒れ、それに続く米内光政内閣が陸相畑俊六の単独辞職により七月に崩壊したのも、原因は主として陸軍が指向する強硬な日独の軍事的提携論にあった。七月二十二日、第二次近衛内閣が成立し、近衛はかねてから抱懐していた新体制運動を政治日程に載せることになった。膠着状態を示す日中戦争の推移やヨーロッパにおける新事態の発生により、苛立ちを覚え始めていた国民は、近衛の主張する新体制により社会の様相が一変し、活力に溢れる社会が急速に出現するかの如き幻想を抱き、その年の夏は新体制の騒音の中に過ぎていった。

 休暇明けの九月十四日、田中総長は教職員を大隈講堂に集め、新事態に即応して学苑の教育方針を一新する必要があるとして、「私が今日玆に諸君に愬へるのは必らずしも近頃新聞に伝へられる所謂新体制に呼応するためではない、……私はそれとは別個に内外状勢の激動に顧みて我々教育を使命としてゐる者の立場から、この儘では行かれないといふことを痛感して、玆に諸君に愬へる次第である」(同紙 昭和十五年九月十八日号)と前置きして、従来、教育の三つの柱であった知育・徳育・体育のうち、前二者は列国のそれと比較して遜色がないが、体育は著しい遜色を見ると指摘し、最近のドイツ、イタリアにおける体育重視の傾向を説明し、「かかる事実から考へて見ても体位の向上は必ずしも至難の業ではないのであつて、成らざるにあらず、為さざるなりと私は信ずるのである」と体育重視の新教育方針を明らかにし、「要するに私が体位の向上を力説する所以のものは単なる肉体の鍛錬を申すのではない、肉体固より大切であるが肉体の鍛錬を通して精神力の向上発展を企図すると云ふに外ならないのであつて、……そこでどうしても今日我が早稲田大学の教育も根底から改革してこの時難に対応しなければならない必要が迫つてゐるのではないかと思ふのである」と述べ、その実現方策を研究中なので、具体案ができた段階では「諸君に諮つて手を携へてこの学園の教育の革新のために邁進して戴きたい」と結んだ。九月十八日付『早稲田大学新聞』は、

目まぐるしき世界の状態は二ケ月の休暇の内に国を挙げて新体制への樹立運動に変転させてしまつた。学園伝統の自由主義的学風にも再検討を要する時期の到達したことは余りにも当然である。……我が国大学教育が兎角知育偏重に堕し、為めに青年学徒の体位低下は国力減退に導く懼れなしとはせず、高度国防国家樹立のためにはかかる傾向の教育方針は最も排斥すべきである。

と総長の訓辞に全面的な賛意を表し、第二高等学院教授杉山謙治の「教育の新体制」と題する論説を掲げている。

私は新体制下の教育は教育に政治性を与へるにあるといふことを主張する。……凡そ現実の世界の動きを無視し時局認識を欠いた教育位無益なものはない。正しき意味における政治は正しき意味における教育であり、又同時に正しき意味における教育は正しき意味の政治であることを銘記すべきだ。その意味に於て教師は正しき意味における政治家でなくてはならない。……ナチス政権樹立以来僅かに満七年にして全国民一人一人に対してその世界観を徹底し得たことは、又それは実にその政治教育の力であり、更にそれはその政治教育担当者たる指導者鍛成教育の成功にあつたことを吾人は見逃してはならない。

 九月二十七日には、同十四日に表明された総長の所信の具体策を練っていた学苑が、八三二頁に前述した如く、学内における所要手続を経て学徒錬成部の創設という形でこれを決定し、十一月一日からいよいよ同部による学徒の錬成が開始されることになったのであるが、学徒錬成部については詳述を本編第十章に譲ることにする。

 政府主催の紀元二千六百年奉祝行事は十一月十日から十四日まで行われた。東京都内には花電車が走り、多くの観衆を集めた。政府は奉祝の赤飯用に餅米を特配した。この年四月二十四日から、米、味噌、醬油、マッチ、木炭、砂糖等生活必需品の十品目が切符制になっていたから、それは束の間ではあったが国民を喜ばせた。

 これに先立ち学苑では、既述(八四三頁)の如く、創立六十周年記念を兼ねて紀元二千六百年記念式典が十一月五日に戸塚球場で行われ、奉祝期間中の五日間を臨時休業とした。久し振りに故郷に帰省した一学生は、「国挙げて肇国祝ふ秋日和田には稲刈る人のありけり」の一首をものしている。仰々しい二千六百年祝典の虚しさと、国の内外に高まる危険な徴候に対する、青年らしい反応とを見るべきであろう。

 大政翼賛会の正式発足はこの年十月十二日であるが、十二月十三日に至り各大学内に同会の支部とも言うべき学生推進班を設置するとの方針を発表した。文部省は、これは政治を大学内に持ち込むものとして反対し、翼賛会と対立した。田中総長は翌十六年一月十五日付の『早稲田大学新聞』に「学生と政治運動」と題して、「軽躁なる一部世論が如何に青年学徒を煽動しても、私は愛する我学園の学生諸君の前途のために、これに加担することは出来ない」との所信を掲げて翼賛会の方針反対を表明し、翼賛会の学生推進班案は結局実現を見なかった。尤も、学苑内では以前から翼賛会の意を承けた動きがあり、また学苑学生の趣味団体の統合問題なども議せられていたようであるが、斡旋役の演劇博物館長河竹繁俊は、岡村幹事と相談の結果、慎重を期して、統合問題を来春に持ち越すと表明することで一時を糊塗するに終った。

 昭和十六年一月八日、陸軍大臣東条英機の名で「戦陣訓」が公布された。学生の中には近き将来の入営を見越して、これを書店から購入し、「軍人勅諭」とともに、暗記する者もあった。総じて暗い新しい年の幕開けであったが、学苑内に一つだけ微笑ましいニュースがあった。それは一月二十七日、現役の横綱男女ノ川登三(坂田供二郎)が専門学校聴講生として入学し、制服制帽の巨体を学苑内に現し、多数学生の好奇の眼を集めたことである。男女ノ川の早大入学は、当時の専門学校長上坂酉三の回想によれば、国家社会主義者頭山満の依頼を受けた田中総長から上坂に相談があったので、大隈会館で当人に会ってみると、既に校外生として政治経済科講義録で勉強しているばかりでなく、入学の希望もきわめて強いので、学校長裁量で講義の傍聴を許可した。「本人はまったく真剣で、……これには先生がたも感心し、同じ教室の学生も大いに敬意をはらったものである」(『早稲田学報』昭和四十六年三月発行 第八〇九号 八頁)という話である。

 さて、六月初旬の各学部掲示場には「自今学生の敬礼は制服制帽の場合は挙手を行ふを常例とす」(『早稲田大学新聞』昭和十六年六月十一日号)との掲示が出された。これは同月三日の学部長会議の決定によるものであったが、その当座学生の挙手の礼に戸惑ったり、明らかに苦々しそうに顔をそむけたりする教職員の姿も皆無とは言えなかった。しかし敬礼法式の軍隊化は、学苑を取り巻く内外の情勢の急激な変化を反映していたのである。四月十三日の日ソ中立条約の成立により後顧の憂いを解消し得たと信じてか、陸軍部隊はかねての方針に従い七月二十三日南部仏印に進駐した。その翌々日、アメリカは在米日本資産の凍結を以てこれに報復し、次いで八月一日、対日石油輸出を全面的に禁止した。その八月一日、学苑は総長名を以て、夏期休業中にも拘らず、在京学生七千名に大隈講堂に集合を命ずるという未曾有の措置に出た。既に八三三頁に一瞥した如く、その前々日、七月三十日に、文部省が、八月十日を期限として、官公私立の大学・高等専門学校内に報国隊を編成すべきことを命じたからである。これについては更に第十一章で触れることとする。

 一触即発の危機をはらんだ夏期休暇が終り、九月初め再び学苑に集まった学生は、誰もが開戦の不可避であることを痛感していた。永井荷風はその日記の九月三日の条に、「日米開戦の噂しきりなり。新聞紙上の雑説殊に陸軍情報局とやらの暴論の如き馬鹿馬鹿しくて読むに堪えず」と記し、同じく六日の項には、「志士軍人輩も今日までの成功を以て意外の僥倖なりしと反省し、この辺にて慎しむがその身の為なるべし。米国と砲火を交へたとへ桑港や巴奈馬あたりを占領して見たりとて長き歳月の間には何の得るところもあらざるべし」(『荷風全集』第二三巻 二〇五頁、二〇六頁)とも記している。学生の多くは、荷風のような戦争の将来に対する見通しは持っていなかったかもしれない。ただ学生は学生として、その身辺にひたひたと忍びよる戦争の危機をひしひしと感じていたのである。十月十八日、第三次近衛内閣に代って東条英機内閣が成立したが、それに先立つ十六日に公布された勅令に基づき、十六年度については、大学学部等の学生の在学・修業期間が三ヵ月短縮され、翌年三月卒業予定者は同年十二月卒業となり、徴兵検査が十二月中に行われると定められた。昼休みの第一高等学院の教室の黒板に、誰によってか、チョークで大きく「嫌だ嫌だよ、兵隊さんは嫌だよ」と書きなぐってあったのも、この卒業繰上げ決定の直後であった。

 海軍航空部隊の真珠湾攻撃により太平洋戦争の火蓋が切って落された昭和十六年十二月八日は、よく晴れて寒い月曜日であった。臨時ニュースで開戦の事実を知った学生はそれぞれの想いを抱いて登校したが、本部玄関車寄せの出窓には理工学部学生の手でスピーカーが特設され、次々と緒戦における我が軍の輝やかしい戦果を伝えたから、本部前に蝟集して動こうとしない学生も少くなかった。本部から離れている第一高等学院でも、各クラスの委員が事務所と教室との連絡に当り、事務所にだけあるラジオが報ずるニュースをその時々に教室に伝えていた。午前十一時四十分、宜戦の詔勅が渙発されて、学生に大きな衝撃を与えた。十二月十日発行の『早稲田大学新聞』は「断乎・米英に膺懲の鉄槌/ラヂオに湧く日本の声/報道、一億の心を刻む/世紀の黎明に払ふ涙」の大きな見出しで開戦を報ずるとともに、当日の様子を次のように伝えている。

ある時間に限つて許されてゐた学園附近の喫茶店のレコードはジヤズ、タンゴ、流行歌の甘いメロディが渦巻いてゐたが、今日は全然影をひそめて、レコード・ボツクスから流れて来るのは軍歌、行進曲の力強い旋律の流れである。一杯の珈琲をすすり乍ら二度、三度同じ号外を喰ひ入るやうに読み返す学生、紅茶の冷えるのも忘れて卓を叩いて英米の暴政を論ずる者……だれもが戦ってゐるのだ、ホノルルの猛爆が報じられ、米艦撃沈の報が飛ぶにつれて喫茶店の表情は刻一刻、戦時色に変つてゆくのは見逃せない。……薄暮、早稲田の杜に聳へ立つ高層の窓々の明りが一枚一枚抜き取られて行く。学園当局から発令された警戒管制が見事整へられて、やがて星空にどつしりと高原が屹立しコンクリートの上を急ぐ夜学生も黙つて建物の中へすひ込まれて行く。何時もなら真赤に丸く輝く時計もクワンクワンクワンと六つ打つて後は又元のしじまに返つて了ふ。

事実、この日夕刻から厳重な燈火管制がしかれ、戸塚の街も、そして高田馬場の駅もホームも薄暗いものとなった。そしてそれは敗戦の日まで続く、長く暗い夜の始まりであった。

 昭和十五年に卒業した北条誠はその回想「思ひ出の日日」の中で、友人柴田忠男の、

僕は思ふ、あなたの春を

願ひかなつて初めて潜つた大学の門を

鉄の扉と赤煉瓦と銅像と

銀杏の並樹の陰から聞えてきた

香り高い数々の声、あなたの叡智

大学レエンの下は輝きあふれて

桜、れうらん

花のトンネルを潜つていつた僕の春

僕は思ふ、さらに思ふ

学徒の日の残り少い冬の日を

僕が僕の若い友等と同じやうに

重大の時に呼ばれて飛び立つた日を

いつせいに、季節はづれのあなたと訣別、

六年前に潜つて入つた大学レエンの

花のトンネルすでになく

そのあたり 冬ざれの色は厳しかつたが

かなしい生の掟にいましめられた瞳は

幾百も、幾千も、累りあひ列を組んで

歌を唄ひながらあなたの門を去つていつた (『早稲田学報』昭和二十六年六月発行 第六一二号 一八頁)

という詩を掲げ、そして、「柴田君の詩に描かれた僕らの学生時代が、ただはるかに甘くなつかしく思はれるのは……これはあながち僕の感傷の故ばかりではあるまい。思へば平和の最後の一瞬から、かなしいあの戦争の混乱に入る……ちやうどその境目に僕たちの学生時代があつたからだらうか……僕たちの青春は、つねにおびえ、つねになやみ……しかしいまにして思へば、若い感激にみちてゐたやうだ」(同誌 同号 一八―一九頁)と記している。戦時体制下の学生は常に怯え、常に悩み、そして若い感激に満ちていたのである。