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第六編 大学令下の早稲田大学

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第六章 関東大震災

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一 大講堂の崩壊と応用化学実験室の焼失

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 大正十二年九月一日午前十一時五十八分、南関東一帯は突如激震に襲われ、誘発された大火災で東京は大部分焼野原となった。この大震火災により失われた人命は十万余、被害世帯は四十万戸以上に上った。横浜、鎌倉なども惨憺たるものであった。逃げ惑う人々は「人間の世は今日を以て終った」との実感を共通に抱いたのである。

 早稲田大学も人的・物的に大被害を受けたが、被害の程度は相対的には軽微とさえ言い得るのであった。人的被害が小さかった理由の一つは、夏期休暇中で大部分の学生が郷里に帰省中であったこと、更に二つには、早稲田大学は東京周辺のみならず地方との関係が深く、校友も地方在住者が多数を占めていたことである。建物の被害が比較的小に止まり得た理由は大学が地盤の良い山の手の奥、豊多摩郡の一角にあったという、いわゆる地の利であった。早稲田大学周辺一帯は地震そのものの衝撃も比較的軽く、火災からも殆ど免れることができた。「豊多摩郡震災状況」に掲げられた統計によると、郡内の家屋の被害は全潰四四四、半潰七〇八、全焼四四、半焼二、計一、一九八戸、人身の被害は死亡五九、負傷一八四、行方不明三、計二四六人であった。早稲田大学の位置する戸塚町について見ると、全潰家屋一七、半潰三四、負傷者三を数えるに止まった。火災による被害は零、死亡・行方不明者も零となっている(内務省社会局編『大正震災志』上 五五九―五六〇頁)。しかし、この統計数字は必ずしも正しくない。早稲田大学は、一部分ではあるが火災による被害を蒙っているからである。

 その日、九月一日、高田総長は坪内名誉教授、市島名誉理事、その他事務関係者と大隈会館で夏期休暇後の行事や記念事業などについて相談していた。一応の協議を終えて午餐の食卓に着き、スープの出るのを待っていた折、俄然大震動が起ったのである。会館全体が大波のように動き、テーブルや椅子が音を立ててひっくり返った。庭園に目をやれば、石燈籠は転び、石塀は倒潰している。しかも震動は上下左右にますます激しく、烈風は砂塵を捲いて天地暗く、その中に建築物の崩壊する大音響が聞えた。それは大講堂が崩れ落ちる響であった。高田総長達はこの天変地異に驚愕してばかりはいられなかった。学苑の一角に火災が発生したとの報に接し、まだ揺れ動く中をキャンパス内に駆けつけると、そこで見たのは、荒涼とした廃墟の状を呈している大講堂跡と、炎々天を焦す勢いで火を噴き上げている応用化学実験室(豊明館)であった。棚の上の化学薬品が落下の衝撃で発火し、忽ち辺りに燃え拡がったのである。応用化学科主任小林久平教授の「報告書」には、左の如く述べられている。

大正十二年九月一日小生は助教授山本研一氏と共に出校実験に従事、土曜日なりしを以て実験を中止し教員室に於て午餐を共にし居りたり。然るに突然激烈なる地震あり。驚きて教室の入口前空地に飛出し避難したり。同時に当日出勤し居りし斎藤、赤羽以下給仕山田に至る迄全部薬品室より飛出し、余と一団となりて形勢を観望し居りたり。連続的の強震に遇ひ薬品室棚上にありし薬品一時に落下し、落下と同時に発火するを認めたり。由つて一方直ちに消火に努め、一方室内重要書類及び器具を取出しに志したり。消火の方面は本部より駈付けられたる人々の手に由り「ホース」を接続せるも水来らず如何ともすること能はざりし。暫時にして下戸塚消防隊来りポンプを据付け機械科水力実験室所属第二高等学院前の貯水槽の水を取り防火に努めたり(最初ポンプに損処あり後ポンプ屋より人来り修理)。又一方は採鉱冶金科にある井戸より数十個の「バケツ」にて皆々必死となり水を運び消防に努め、幸にして隣接せる理工科木造大建物に延焼するを防止し得たり。午後一時にして大体鎮火したり。室内重要書類、貴重試験器具及び天秤類の取出しに従事せんとするも震動止まず、張煉瓦及びガラス窓のガラス片落下し来り、危険にて意の如く室内に入る能はず。僅かに天秤数個を取出したるに過ぎざりし。特に遺憾なりしは富井教授が独逸にて買入送荷せる書籍二梱、重量大なりしため取出し得ざりしこと、小生最近米国より取寄せたる供試フロリダアース四種幷びに米国テキサス州テレー産原油等の焼失したる点にあり。不幸中の幸なりしは小生室内の重要書類のみは部員の尽力に由り窓より机と共に取出されたるにあり。下戸塚消防隊(ポンプ)、本部教職員一同及び本大学学生の非常なる尽力ありしを謝す。特に助教授山本研一氏の勇敢なる動作に対しては最も多とすべし。斎藤、赤羽、山田、後藤の当科職員及び給仕も実に能く奮闘尽力したり。氏等は其居室薬局に隣りしを以て、避難防火のため出でたる儘、自室に入るを得ず、為に時計、上衣、帽子、等一切を取出す暇もなく実に気の毒に堪へず。 (『早稲田学報』大正十二年十月発行 第三四三・三四四号「大震災臨時号」 五頁)

 応用化学実験室に隣接して理工学部の建物、第二高等学院、政・法教室があった。学苑関係者は類焼の防止に大いに奮闘したが、火勢強く万事休すと見えた。然るに、急に風向きが変り、消火ポンプの力も加わり、消し止めることができた。これは学苑にとり不幸中の一大幸福であったと言わねばならない。高田総長は「もし祝融の災建築物の大半に及ぶが如きことあらば、国家の力を借る能はざる早稲田学園は結局再建築不可能に陥らざるとも限らず、之を思ふて老生の胸中に歓喜と感謝との念漲り申候」と、九月十三日付で教職員・維持員・評議員・校友会役員に出した「学園の震災概況報告」(同前 二頁)の中で、当時の喜びを記している。

 教職員中の罹災者は三十二名であったが、死傷者はなかった。しかし、家族の不幸に遇った教職員は若干いた。学生の罹災者は八百六名、うち五名が死亡した。また罹災校友は千二百九名、うち死亡二十二名、行方不明若干名であった。建築物の被害は全壊二ヵ所、半壊一ヵ所、破損一ヵ所、焼失一ヵ所であった。全壊の一つは大講堂、もう一つは大隈会館に付属した二棟の土蔵のうちの一棟。もう一棟は大破した。破損の一ヵ所は文学部講堂で、土台がゆるんで建物全体が傾斜した。焼失は前記した応用化学実験室であった。この他、キャンパスと大隈庭園を囲む塀がそれぞれ倒壊した。損害は金額にして約五十万円と見込まれた。これは学苑自体にとっては勿論大損害ではあったが、他と比較するならば、軽微の文字を以て表現してもよいであろう。しかし、右は直接の被害で、そのほかに間接の被害を加算すれば、学苑当局としては安閑としていることのできぬ額に達していたのである。すなわち、同年十月初旬に市島の記しているところによれば、

早稲田大学の損害は軽微の様だが、直接間接の損失を合はせると百万円以上である。……間接の損害は折角募つた大隈侯紀念事業の寄附金はまだ申込丈で実収に至らないものが百万以上もある内多額の寄附者は都で罹災者の内にあるから、当分取れる見込がない。地方に属する寄附申込と雖も、都下の災害の余波を受けて救済の寄附を課せらるるから、此方面と雖も収入は期し難い。此の損失は永久でないかも知れんが、差当り此の紀念事業は挫折し、五十万円位は少なくとも取立が出来ぬものと見ると、学生の減りで収入の減ずることや、修繕費や、学生の月謝免除などを合算すれば、無論百万を超える。此大損害を受けてこの先き何んとしても復旧を要するものは失つた応用化学の実験室をバラック式にでも建てねばならぬ。紀念講堂は到底予定の規模に出来ないことはワカリ切つてゐるが、大講堂を失つて見れば其代用として亦多くの寄附者に対し申訳にも或る規模の講堂を建てることも已むを得まい。図書館の建築は大講堂のそれよりも急で、之れも震災があつたからと云ふていつまでも延ばす訳にも行くまい。尚ほ震災修理に少くも五万円を要し、文部省へ大学令の関係で出さねばならぬ金が十二万五千円要る。これ等を合はせると約百万円の金がいる。其外に大隈家より邸宅の寄附を受けたにつき、学校より百万円の謝礼をなすこととなつて、大隈家へは二十五万円払つてあるが、残額七十五万円は迚も出し様がなくなつたのである。元来は四、五年間に全納の約束で、既に一ケ年経過してゐる。仕払を了する迄は五分の利子を納める約束であるけれども、三万七千円と云ふ利子すら今後支出が六つかしい様な窮境に陥つた。そこで学校の身代はどうかと云ふと、五ケ年に亘つてヤット百万円の金が収入さるる見込がある。それは寄附金の実収分や今後追々取立て得べき分、所有の土地が十五万円ばかりあるのをも一切籠めての事である。今後の施設を仮りに前述のごとく当座間に合はせとすれば、五年間にはドウニカ遣れる計算であるが、大隈家に対し仕払を要する分は何とも見当がつかぬ。尚ほ学校の経常経済はドウカと見ると、此震災で学生は減るか増すか今は見当がつかぬ。諸学校が多く焼亡したから学生は却つて多く集まるかも知れぬが、差当りは減るであらう。随つて収入が減るは云ふまでもない。また罹災学生の学費猶予の事を決したが、これも収入減となる。昨日の維持員会で当局者は経費節減の上から事務員三十名を解任したことを報告した。此三十人の解雇で給料の支出が一ケ年三万円減ることになる。これも今後の経済に已むを得ぬ節約であるが、コンナ事では一方の失ふ所を償ふにも至らず、当分確たる算が立かねる状況である。

(『小精廬雑載』九)

 大震災は多数の文化・教育施設を、幾多の文化財・図書文献とともに焼亡した。大学関係の被害を見ると、官立では東京商科大学、東京女子師範学校、東京高等学校、東京外国語学校が全焼した。東京帝国大学も医学部と正門、赤門を含む外廊が残っただけで、他は焼けた。私立の大学・専門学校では、明治、中央、日本、東京慈恵会医科、専修などの各大学、それに東京女子大学、明治薬学、東京歯科医学、日本歯科医学、東京女子医学などの専門学校が全焼した。建物とともに貴重な教育・文化関係の諸財が烏有に帰したが、最大の損失は東京帝大付属図書館所蔵の文献図書数十万冊の焼亡である。「マックス・ミュラー文庫」「西村茂樹文庫」、また『満文一切蔵経』『蒙文一切蔵経』『李朝実録』などが失われ、『評定所記録』『寺社奉行記録』『蔭凉軒日録』『鹿苑日録』などの原本、古浄瑠璃、仮名草子、黒本、黄表紙の類、伊能忠敬自筆の「大日本沿海輿地全図」なども焼け失せたのである。内田魯庵は「国史創まつて以来の書籍の最大厄」と言っている(「典籍の廃墟―失はれたる文献の追懐―」改造社編『大正大震火災誌』一五三頁)が、それは決して誇張ではなかった。この時、内務、大蔵、文部、農商務、逓信などの各省文庫も焼失し、所蔵の文献資料の多数が灰となった。特に惜しまれるのは大蔵省文庫で、烏有に帰したもの二十万巻を超え、その中には『大日本租税史』『旧幕府理財会要』『藩制録』『御仕置類例集』『金座銀座関係書類』『勘定所記録』『元禄郷帳』などが含まれていた。また、内務省文庫には『旧高旧領取調帳』『全国河川治水誌』などの太政官から引き継いだ多数の記録が蔵されていたが、これらも灰燼と化した。

 それだけに早稲田大学の損害が小であったこと、特に図書館が全く無疵で残ったことは、日本の学術・文化のために慶賀すべきであった。高田総長は十月十一日の学生に対する訓告の中で、「此図書館の中にある数十万の書物、是は帝国大学の図書館が全滅した今日に於きましては学校の持つて居る図書館では確に東京第一の内容であります」(『早稲田学報』大正十二年十一月発行 第三四五号 四頁)と自負の念をこめて語ったが、震災を免れた早稲田大学図書館の価値は世間的にも広く認められるところであった。学苑はこれをひとり占めすることなく、それまでスペースの狭隘の理由で採っていた学外者閲覧の禁を解いて、公共の用に供したのである。

二 対応措置と救護団の活動

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 震災後、早稲田大学は当分の間休講の告示を出し、その間に変事に対する社会的義務を果すべく、各種の措置を執った。第一に罹災者の収容・援助である。火に追われた人々は公園や学校などに難を逃れた。学苑では関係の有無を問わず、教室、大隈会館、運動場等を開放し、避難民を収容し、能う限りの便宜を計った。学苑に難を避けた人々の数は約三百人、神田、下谷、芝あたりから、遠く本所、深川あたりの人々もいたという。

 対応措置の第二は法律相談部・建築相談部の開設である。学苑関係者は収容した罹災者達から種々な相談を持ち込まれたが、特に多かったのは相続などに関する民事的法律問題と家屋の新築に関する問題であった。これらの問題で悩んでいる人々が東京中に多数存在するであろうことは容易に察せられた。二つの相談部の開設は市民の悩みに応えようとの配慮であり、そこに学苑関係者の温かい心持が感じられる。法律相談部は副島義一寺尾元彦、遊佐慶夫、中村万吉、中村宗雄、大浜信泉、井上周三、中村弥三次の諸教授・講師をメンバーとして、恩賜館三階の法学研究室に置かれた。また建築相談部は建築学科教室の諸教授をメンバーとして、製図教室三階に開かれたのである。

 第三の対応措置は前述した図書館の一般公開である。第四、第五の措置は学苑内部に関するもので、一つは消防設備の強化。すなわち「早稲田大学消防規則」を制定して、各事務所より消防員七十名を選抜して消防組を組織し、変事に備えた。もう一つは罹災学生の学費免除措置である。学苑は大正十二年十月十七日、新聞に次の広告を出した。

本大学罹災学生にして学費納付に差支ふる諸君は本月末日迄に事由を具して父兄及び保証人連署の上申出でられたし。

大正十二年十月 早稲田大学

(『東京朝日新聞』大正十二年十月十七日号)

締切りまでに申し出た学生は三百五十六名で、審査の上、百九十三名に第二学期分学費全額免除、六十九名に同期間学費半額免除、九十四名に大正十三年一月末日まで納付猶予の措置が執られた。

 早稲田大学学生震災救護団の結成とその活動は大学の事業ではなく、学生の自発的な行動ではあったが、広い意味では、これも学苑の震災への対応の一つに数えるべきであろう。震災直後から在京の有志学生は学苑に集まって来て、避難民に対する給食を手伝ったり、肉親・親戚・知己の安否を気遣う避難民の相談に乗ったりしながら、学友・校友の消息の調査、および罹災した学友・校友に対する援助や慰問の方法などについて相談を進めていたが、気運熟して九月十六日、早稲田大学学生震災救護団の結成となった。幹事学生は稲富稜人、森豊太、遠藤信吉、吉本芳太郎、後藤左門の五名で、顧問として阿部賢一、出井盛之の両教授を戴いた。救護団は大学当局の諒解と後援のもとに、取敢えず罹災者の救護と、誤解された朝鮮「留学生」の保護に当ることになった。その後、短時日の間に救護団に加わる学生の数は増し、百名を超えるに至った。救護団は事業対象を、

一、罹災学生の調査並に慰問及び救恤

二、留学生に関する調査及び慰問保護

三、社会的活動

1. 一般罹災者の救護 2. 通信事務の手伝 3. 失業問題の解決 4. 其の他臨期に方法手段を採る。

(『早稲田学報』第三四三・三四四号 二二頁)

と決め、より精力的に活動を展開したのである。先ず、罹災区域居住学生の調査を最重点事業として、約百名の団員を各地域に派遣した。また、地方帰省中の学生と連絡を取って、上京の際、種々の防寒具類を持参するよう依頼したり、学苑近辺の書籍組合に罹災学生への値引きを交渉したりした。

 尤も、救護活動は救護団のみが行ったのではなく、他の団体、例えば新聞学会、雄弁会などもそれぞれ救護活動を行った。多くの学生をして救護活動に挺身させたものは勿論、直接的には惨憺たる被害に苦しむ人々の存在であったが、より大きく見れば、社会に貢献したいとの欲求と責任感であったろう。従って、学生達に民人同盟会や建設者同盟を結成させ、社会科学研究に赴かせたものと同根であったと言うこともできるのである。こうした関係は独り早稲田大学のみにあったのではない。東京帝大でも社会科学研究への志向の強い学生達により学生救護団が結成され、活発な救護活動を展開した。やがて、その中からセツルメント運動などが現れてきたのである。

 早稲田大学学生震災救護団の内にも社会全体への関心が高まっていたのは、社会部の設置により示唆される。救護団は社会部、調査部、配給部の三部に分れ、調査部が罹災学生の調査を続け、詳細な統計表の作成を仕事とし、配給部の仕事が教職員・学生・校友よりの拠出品を罹災者に配給することであったのに対して、社会部のそれは東京市役所社会局を応援し、音楽会・活動写真会を開いて罹災者などを慰安・激励することであり、その資金獲得のために活動写真大会を各地で興行する計画が立てられたりした。しかし、この頃から救護団は次第に行き詰まり、「早大救護会」として再組織されるに至った。『早稲田学報』(大正十二年十二月発行 第三四六号)は十一月十日に早大救護会が結成されたと報じている。記事によると、会長は平沼淑郎で、賛助員として出井盛之、片上伸、永井一孝、中島半次郎阿部賢一難波理一郎、山下忠夫、杉山重義が名を連ねている。事務所は大隈会館内に置かれ、主なる事業は罹災学生への物品の配給と学費の補助であった。同会は温交会、出版部、日清印刷、日清生命など、学内団体と学苑に近い関係の会社から寄附を募り、その額は七、七九四円五三銭に達した。うち四、六二七円二七銭が配給部費用となり、残る三、一六七円二六銭が学費補助として支出されている(一九頁)。

三 授業再開

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 震災による混乱が漸く収拾に向った十月五日、学苑は十一日からの授業開始と当日午前十時中央校庭での高田総長の訓示とを新聞に広告した。夏期休暇以来久し振りに再会した学生達は互いの無事を喜び、震災時の経験などを語り合った。それら学生を前にした高田総長の訓告は大震災に遭遇した際の模様に始まり、大震災後の我らの覚悟に及ぶ長いものであった。学苑の被害状況、校友会・学生団の活躍、学苑関係者の罹災およびその後の消息など、開校の運びに至るまでの事情を詳しく話した総長は、次いで、学苑の復興・整備について抱負を次のように述べた。

先づ第一に応用化学と云ふ大切な学科の復興を計らなければならぬ。第二には大講堂、前に計画したやうな記念大講堂は到底出来ないとしても、せめて中講堂位は造らなければならぬ。……又次には御承知の通り此図書館の有様だ。是れでは大学の学生が研究が出来ないことは明かである。故に総長就任式の当時にも私は何より先きに是に手を着ける、此図書館・研究室の問題を解決すると諸君に申したが、依然として此問題は残つて居る。……図書館は大切である、大学の生命は図書館であると言つて宜い。私は此大学経営の始めに於て先づ図書館を造る、図書館を充実させる、是れさへあれば大学はあるのだと云ふ方針を採つたのでありますが、それは蓋し当を得たことであらうと思ふ。 (『早稲田学報』第三四五号 四頁)

ここには、図書館を中心として進めてきた学苑の整備方針の正しさの再確認と、その図書館が火災から免れた喜びと、今後この方針を更に一層推し進めて行こうとの決意とが、渾然として一体になっていると感じられるのである。高田はこの訓告の中でも、「〔もし火災が多くの建物に及んだとしても〕丸で潰れも致しますまい。十が一か、二十が一かのものは出来て、名ばかりは存するかも知れませぬが、一万有余の学徒を包容して居る此大学は、実はあの時に滅びんとした訳であります。所が、幸にして天の恵を受けた」と率直な感慨を吐露したが、恐らくこの際高田の脳裏を往来したものは、震災の被害を免れた旧図書館の姿であったろう。

 右に続けて、高田総長は学生の自治的な協力を要請し、終りに次のような見解を表明した。

〔大震災は大変な事件には相違ないが〕之を戦争の惨禍、殊に負戦の惨禍に、又革命の害毒に之を較べて見ると云ふと誠に小なる禍である。……又もう一つは危険思想と云ふものに人心が動かされて、其結果として革命が起る。近くは露西亜にレーニンの徒が革命を起した。其以前にはルーソーの学説に動かされて仏蘭西に革命が起つた。此革命の及ぼす惨害と云ふものは仲々此地震所のものではない。其深さに於ても長さに於ても惨害の程度に於ても、同一のものではないと云ふことは諸君も略々御気付きになるだらうと私は思ふ。……君を敬ひ国を愛し、中正中庸の道をたどり、国家の為めに君国の為めに、今後は我れ人共に一層尽さねばならぬ。而して国家は即ち我である。我は即ち国家である。我れは我の為に此国家に尽さなければならぬ。

(同誌 同号 五頁)

 高田は大隈老侯や小野梓を盟主として、日本に英国流の立憲君主制を作り出そうと努めた人である。その目的は、万国対峙という国際状勢の中で、日本の独立と発展を計ることであった。学苑の学長・総長となってからは、学苑の自立と発展に全力を傾倒した。この場合もまた、それが日本の学問のレヴェルを上げ、日本の独立と発展に貢献すると信じていたのである。こうした高田の思想・信条に照らす時、第一次世界大戦中の異常な好景気が生んだ成金意識も、その反動としての社会主義的な思想・運動の高まりも、ともに抑えるべき対象と見なされた。当時多くの人々が抱いていた震災を以て日本の社会の逸脱に対する天譴とする考え方の当否は別として、それが日本全体に関する考え方に現れた深い亀裂を表現していることは確かである。右の訓告で示された高田総長の信条も、大にしては日本の、また当面の問題としては学苑における理想・理念の多様化と対抗の深刻さとを語るものに他ならない。

 ところで、再開後の学苑に起った新しい動きとして注目されるべきことは二つ。一つは夜間専門学校の開設、もう一つは学生委員会の設置である。右の中で夜間専門学校の開設については次章に譲り、ここでは学生委員会について述べておこう。

 そもそも学苑で学生委員が当局から正式に任命された記録は、「学風の向上を期し且つ学生間の意思疏通を図らんが為め」制定せられた大学部商科委員規程に基づき、商科各組において選ばれた三名、計三十名に大正三年十一月二十八日に辞令が交付せられたことを以て嚆矢とする。その後大学部商科においては毎年委員が任命されているが、その中には、高橋亀吉、小林新、島田孝一、沖中恒幸、立花盛枝、長谷川安兵衛、臼井荘一などの名が発見される。更にその後間もなく、高等予科や大学部他科にも学生委員が存在したのではないかと推察され、更に大正七年以降には、高等予科、高等師範部、大学部、専門部に学生委員が任命された記録が散見するが、大学部および専門部については各科全部に及ぶか否かは明らかでない。次いで大正九年高等学院が新設されると、学生委員が正式に置かれている。また、大隈の葬儀その他に関して、学生委員が召集された記録がある。しかし、大学部、高等師範部、専門部、すべてに亘る「学生委員会規則」(高等学院については別個の規則が存在したものと推定される)が制定されたのは、大正十一年であった。

 十月十一日の訓告の中で、総長は学生の自治的協力を要請した。その趣旨は、大学事務の合理化・簡素化を進めるためには、学生が大学の配慮に依存するだけでなく、事に応じて、自らの問題を自ら処理しようとの心構えが必要だというものであった。つまり、従来事務所が処理していたことの一部を学生自身で行えというのであったが、勿論、大学運営に対する学生の発言権の要求という数年に亘る動きをある程度考慮するところがあったにちがいない。制定された委員会規則は次の如くである。

早稲田大学学生委員会規則

第一条 早稲田大学各学部各学科、高等師範部各科、専門部各科ニ学生委員ヲ置ク。

第二条 学生委員ハ各学級(一学級数組に分ルルモノハ各組)一名トシ、一学級又ハ一組ノ学生五十名ヲ越ユルモノハ二名、同百名ヲ越ユルモノハ三名トス。

第三条 学生委員ノ任期ハ一学年トシ、毎年四月、各学級又ハ各組ニ於テ選挙シ、総長之ヲ任命ス。但第一学年ニ限リ選挙ヲ省略スルコトアルベシ。

第四条 学生委員ニ欠員ヲ生ジタルトキハ前条ノ規定ニ従ヒ之ヲ補充ス。

第五条 各学部長、高等師範部長及教務主任ハ其学部及部科ノ学生委員ヲ指導ス。

第六条 各学部及部科ノ全体ニ関スル事項ニ付キテハ、代表委員三名ヲ互選シテ之ニ当ラシムベシ。

第七条 各学部科ノ委員会ハ毎月一回開会シ、当該学部長又ハ教務主任議事ヲ整理ス。

第八条 学生委員ハ常ニ所定ノ委員章ヲ佩用スベキモノトス。

附則

本規則施行以前ニ任命セラレタル学生委員ハ其期間中在任スルモノトス。

本規則ハ大正十二年十一月一日ヨリ之ヲ施行ス。 (『早稲田学報』第三四六号 一九頁)

見られる如く、この規則には委員会の任務についての規定がない。学生委員というものを取敢えず設け、その行うべき事柄は学部当局と逐次相談して決めて行こうとしたのであろう。更に言えば、学生に対する学部事務について、学部長・教務主任の諮問に応じ、その実行の一端を受け持つことが期待されていたのである。しかし、学生としては、委員会の権限について明確化したいとの欲求を当然持ったであろう。この欲求は次第に表面化していった。

 尤も、当初においては、この辺のところは殆ど問題にならず、規則に従って、各学部・各科で委員の選挙が行われた。その終るのを待って十二月十五日午後一時から、大隈会館において第一回の学生委員総会が開催された。高田総長、平沼商学部長、安部政治経済学部長、それに出井教授らが参列し、議事終了後、和気藹々のうちに一同晩餐のテーブルを囲んだ。なお、翌十三年四月十九日に開校した前述の早稲田専門学校の学生委員会は六月一日より発足した。