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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十一章 大正デモクラシー運動

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一 大正デモクラシー運動の発展と変質

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 日露戦後からほぼ大正三年にかけて展開された政府批判のクライマックスは、元老・軍部勢力を正面から攻撃し、元老の寵児にして陸軍の総帥であった桂太郎を首相の座から引きずりおろし、遂にこれを窮死させるに至った、いわゆる第一次護憲運動であった。それは明治という時代の終りを告げる出来事であったと言ってよい。かかる歴史の大転換をもたらした原因を個々に指摘すれば多くの事柄が挙げられるが、要約すれば、この頃漸く本格化した日本の資本主義化・近代化である。日本は明治三十年代に産業革命の課題を達成し、内にさまざまな問題を抱えながらも、明治末年に至って資本主義社会として確立した。労働者数は著増し、ホワイト・カラー中間層の本格的な形成をも見た。都市化現象がそれに併行した。学生数が飛躍的に増えたのも、この頃である。彼らは当然のことながら、近代文明の果実を享受したいと望み、更には文化に触れたいと願った。この願望は先ず生活水準向上の願望として現れたが、勿論それだけではなかった。人間関係の改善もまた、民衆の大きな願望対象であった。人間関係の改善は社会のあり方の改善に他ならず、結局のところ、政治のあり方の改善を求める大衆的行動とならざるを得ない。要するに、日本は資本主義的近代を造り出したが故に、国民大衆の物的・非物的な向上願望のエネルギーを湧き立たせ、明治的体制の改造を求める思想と運動に直面することとなったのである。

 明治的体制とは、藩閥勢力の体現者としての元老、およびその拠点としての軍部を軸とする体制、つまり元老・軍部体制であった。従って、明治的体制への攻撃は元老・軍部への攻撃となったし、ならざるを得なかった。議会レヴェルでのこの攻撃は明治二十三年の国会開設以来のものであり、三十年代に入ると一段と激しさを増した。「立憲政治とは政党政治である」との強い信念の抱懐者大隈重信は常にその先頭にあり、民衆はそれに鼓舞され、それにさまざまな思いを託した。政党と民衆を結びつける役割は新聞であったが、その新聞は早稲田人の担うところであった。第一次護憲運動は、こうした政党と民衆の連携運動のクライマックスであったのである。

 日露戦争は日本に膨大な人的犠牲を強いたが、同時に過重な経済的負担を課した。総計十八億円を超える戦費――当時の予算規模は二ないし三億円であった――の大半は内・外からの借金で賄われた。戦後、それらは逐次償還されなければならない。そこに更に陸・海軍備の充実という課題が加わった。戦争は終っても、国民の租税負担は増しこそすれ、軽減はされなかったのである。財政の膨脹はブルジョワジーにも迷惑至極であった。陸・海軍費の多くは外国からの兵器輸入に向けられたので、財政膨脹は国内の資本、商品両市場を圧迫し、経済の拡大を阻害する作用を持つに至ったからである。今や、民力休養の要求は全国民的となり、それを抑えるのは不可能な情勢となっていた。

 民力休養を致す最大の策は軍事費の削減であった。これが行われれば、財政規模の縮小と内・外債の償還とを併行して進めることも可能であった。しかし、前述のように、戦後にも軍事費は一向に縮小しなかった。戦勝により伸びた防衛線に沿って十分な兵力を展開しなければならないとの名分のもとに、陸軍も海軍も予算の増大を求め続けた。しかし、明治末年に至ると、政府としてもかかる軍の一方的要求を呑むわけにはいかなくなった。当時政権を担当していたのは西園寺公望の率いる政友会であった。西園寺は首相の立場上、財政緊縮について陸・海軍大臣との真摯な交渉に入った。困難な交渉の結果、海軍は国民経済の深刻な状況を理解して、二億円余に達する船艦建造計画の大部分を断念した。これに対して、陸軍は当初の予算案の金額に固執して譲らず、最終的譲歩として西園寺に示したのは、削減分を二個師団増設の費用に充てるとの案であった。初め二個師団増設は予算とは別枠で計画されていたのであるから、予算の枠内での二個師団増設ということにすれば、実質的には陸軍軍費の大幅削減になる筈だというのが、陸軍側の言い分であった。勿論、西園寺はかかる手前勝手な言い分に応じるわけにはいかなかった。海軍はじめ各省が予算の大幅削減やむなしと認めているのに、陸軍ひとり右のように強弁するのは、陸軍あって国家あるを知らざる不当・不遜な態度であると、西園寺や政友会の領袖達は憤りを隠せなかった。自分達の主張が政府内で孤立したのを知った陸相上原勇作は首相西園寺に一言も計らず、参内して天皇に直接辞表を提出したので、西園寺は内閣を投げ出した。上原を通じて見せた陸軍の態度は統帥権の独立(惟幄上奏権)を武器として、選挙により選ばれた内閣を打倒しても差支えないというものであり、それは国民の総意を蔑視し、踏みにじるのは当り前だとの態度に他ならないと思われた。国民は、かかる非立憲的・国民蔑視的陸軍を存立させているそもそもの根源こそ、山県有朋を頂点とする元老体制であると感じた。この判断は桂太郎が後継首相として登場するに及んで、完全に裏付けられたのである。

 桂は日露戦後の混乱の責任を執って首相の座を降り、内大臣として天皇側近となった人である。その経緯を考えれば、混迷した政局を収拾するには最も不適当な人物である。桂は登場すべきではなかったと言ってよい。登場すべからざる桂を元老達が敢えて推し、桂自身敢えてそれを受けた理由の一つは人物難であり、もう一つは客観情勢認識能力の不足であった。それらは元老・軍部を軸とする明治体制の衰弱を告げるものであった。ここにおいて果然、第一次護憲運動の幕が切っておとされた。桂への大命降下が大正元年十二月十七日。十九日には第一回憲政擁護大会が大群衆を集めて開催されている。二十四日に召集された第三十帝国議会は劈頭から大荒れであった。事態を甘く見ていた桂や元老達も次第に事の重大性・深刻性に気づいていった。桂は大正二年一月二十一日に議会を十五日間休会とし、与党となる新党結成計画などの対抗策を講じたが、もはや手遅れであった。十五日の休会期間中に閥族打倒・憲政擁護を叫ぶ声はますます高く、運動も盛り上がった。そして、再開議会の初日である二月五日には桂内閣不信任案が出され、「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか」との有名な尾崎行雄の弾劾演説が行われることとなる。それを聞き顔面蒼白となった桂は、十一日内閣総辞職の余儀なきに至った。元老・軍部は桂を見殺しにしたのである。否、見殺しにせざるを得ないほどに追い詰められていたと言うべきであろう。

 尤も、第一次護憲運動も、デモクラシーを推し進める上では、決して成功した運動とは言えない。デモクラシーを求める民衆の願望は現実政治によってリードされ、利用される位置にあったからである。現実政治の担い手であった政党人・ブルジョワジーは元老・軍部体制の手直しを求めていたのであり、それを根底から覆すことを求めていたわけではなかった。政党人やブルジョワジーも対外認識やそれへの対処の仕方については、元老・軍部と殆ど同一であったのである。要するに彼らも、日本は帝国主義的な勝者となるべきであり、そのために軍備の強化は絶対に必要と考えていたのである。元老・軍部と政党・ブルジョワジーの対立は、こうした基本認識に立ちつつ、いかに現実の政策を進めるかという方法とタイミングをめぐる対立であった。元老・軍部は他の条件を無視して、この目標に向って突進したが、政党・ブルジョワジーは他の条件を十分に考慮に入れつつ、寧ろ他の条件を助長する形の方法とタイミングが求められるべきだとしたのである。以上のことは元老・軍部批判勢力、およびそれによる運動、つまり護憲運動の中に分裂の契機を潜ませていたことを示す。その契機は元老・軍部が政党・ブルジョワジーに譲歩することによって、また、政党・ブルジョワジーが軍拡的財政膨脹を有利と考える条件の出現によって、現実化したであろう。その結果生じる状況は、元老・軍部、政党・ブルジョワジーと民衆との対立であろう。政党の方向転換は民衆の方向転換と大きな部分において重なり合うから、右の民衆とは正確には民衆の一部とすべきであろう。この場合、対立はもはや護憲をめぐるものではなく、軍事力の強化と対外進出を目指す路線とそれを全面的に拒否する路線との対抗ということになろう。民衆の運動は反体制運動の性格を持つことになるし、持たされることになる。これは、第一次世界大戦半ばにして現実化し、戦後に至って全面化するのである。

 変化の萌しは先ず、元老・軍部の政党への譲歩という形で現れた。桂に代って登場した山本権兵衛は海軍と薩州閥を背景とし、従来の元老・軍部を基盤とする政府ではあったが、陸・海軍大臣以外の閣僚のすべてが政友会幹部であった事実によっても知られる如く、政党内閣の性格をも持っていた。従って、山本は軍備の充実に絶えず固執しながらも、軍部大臣現役制を廃止し、また行政整理を断行し、以て軍部・官僚に一定度の打撃を与えた。山本内閣の下において、デモクラシーは蝸牛の歩みながら、その一歩を進めたのであった。

 翌大正三年一月、軍事費支出にからむ国際的汚職事件(シーメンス、ヴィッカース事件)が起り、憲政擁護・内閣打倒の囂々たる声の中に山本が退陣すると、政局は再び混迷に向った。元老はあれこれと迷った末に清浦奎吾を指名したが、清浦は組閣できなかった。ここに至って元老達は、明治体制の獅子身中の虫とまで考えていた大隈重信に頼らざるを得なくなった。第二次大隈内閣誕生をめぐる学苑内外の動きについては第二巻に詳述されているが、大正デモクラシーとの関連において一言するならば、大隈は政党勢力の伸長とデモクラシー的状況の展開についての多年の抱負を実現すべく期するところがあったけれども、種々な制約により事は志と違ってしまった。その制約の第一は、衰えたりとはいえ依然巨大な発言権を持っていた元老、なかんずく山県の存在である。第二は政党の分裂と対立である。当時の最大の政党政友会は従来から反大隈であったので、大隈としては桂が手がけた立憲同志会を与党とせざるを得なかった。このことは大隈の元老依存を強める条件ともなった。第三は第一次世界大戦の勃発である。これこそ当時の政局を決定する最大の条件であった。

 大隈内閣成立四ヵ月後に発生したヨーロッパの紛争は忽ちにして列強を巻き込み、世界大戦となった。しかし、大戦は日本にとっては絶好の機会と考えられた。極東に勢力を伸ばし鎬を削っていた欧米列強は目前の戦争に全力投球しなければならなくなり、極東は日本のひとり舞台となった。かつて考えられもしなかったこの絶好の機会を最大限に利用すべしとは元老・軍部、政党・ブルジョワジーのすべての意見であった。二十世紀初頭という最も露骨な帝国主義的世界環境を前提とすれば、この考え方をあながち非難はできない。大隈もその一人であった。与党の立憲同志会総裁加藤高明は最も急進的な機会利用論者だったので、それに引きずられて大隈はその考え方を強めたのである。悪名高い対華二十一箇条要求を大隈内閣が提出した事情はこれである。デモクラシーの進展こそが日本の進展であるとの固い信念を有していた大隈にとり、国内的にデモクラシーを伸長させるべしとの立場と二十一箇条要求をすべしとの立場は基本的に矛盾するものではなかったのである。尤も、大隈の中にある対内的方針と対外的方針とのバランスは、世界大戦という一大突発事によって後者の方に大きく傾き、その限りで、元老・軍部を勇気づけたのは否定できない。だが、このことは政党・ブルジョワジーのすべてに、より強い程度で、当てはまるのである。

 政党・ブルジョワジーの態度の変化をもたらした諸条件は、大隈について指摘したところとほぼ同じであるが、もう少し具体的に述べれば、次の如くである。先ず、欧米列強のアジアからの撤退の結果を最大限に利用しようとの思惑は経済的に強力な支えを得た。大戦一年が過ぎると日本の輸出は文字通り鰻上りに上昇した。欧米商品の来ないアジア市場は日本商品を求めたし、欧米諸国も日本からの輸入によりすさまじい消耗戦を戦った。明治三十年以来、入超につぐ入超にあえいでいた日本の貿易は一転して巨大な出超を記録するに至ったのである。連年の入超に対応して累積した借入れ外資は日本経済の息の根を止めるかと思われたが、巨額の貿易黒字は日本を逆に大債権国とした。当然のことながら、国内の諸産業は未曾有の好景気に湧いた。財政が経済発展を阻害すると数年前まで騒いでいたことなど嘘のようであった。今や、軍事費を中心とする財政の膨脹はブルジョワジーの歓迎するところとなった。欧米諸国はそれぞれの兵站線を維持するのが漸くで、日本に兵器や原材料を送る余裕はなかった。軍事費の支出は従って国内に向けて行われた。また、重化学工業育成のためのさまざまな補助金が支出された。欧米諸国からの輸入の杜絶は忽ちにして鉄鋼、化学薬品、染料などの払底をもたらした。それらを欠けば、兵器の生産はもとより、国民経済全般に深刻な影響を与える。故に、それらの国内での生産が計られねばならない。また、世界大戦は新式兵器の陳列場でもあった。戦車・自動車・飛行機を日本の観戦武官達は驚きの眼を以て眺め、我々もまたそれらを持たねばならぬと感じた。ここからも重化学工業化への強い圧力がかかったのである。大正四年から七年にかけて、一連の重化学産業育成法が公布された。すなわち、「染料医薬品製造奨励法」「製鉄業奨励法」「軍用自動車補助法」「軍需工業動員法」など。これらの法の保護を受ける企業はさまざまな特権と補助金を得て、急速に拡大した。三井、三菱など、諸財閥の重化学工業への進出が進み、また新興財閥となる諸企業が創設された。かくて、ブルジョワジーは政府の財政・経済政策を支持する側に廻る。それは政党の行動をも決定したのである。

 元老・軍部は相対的に力を弱めたとはいえ、依然として超然内閣を夢みていた。政党の保守化と内部対立の激化に足をすくわれた大隈が内閣を投げ出すと、元老・軍部は寺内内閣によりその夢を実現させた。大正五年十月九日のことである。寺内正毅は権力的な政治のやり方から、民衆からはひどく嫌われたが、二年に亘り首相の座を維持した。その理由は言うまでもなく、政党・ブルジョワジーから寄せられた支持であった。護憲運動の急先鋒として、憲政の神様とも言われた犬養毅の行動は、以上の変化を象徴している。彼は六年頃から著しく態度を変え、寺内に全面的に協力するようになった。従って、彼は「裏切り者」、「変節漢」といった最大級の罵声を浴びせられることとなる。勿論、この非難はひとり犬養のみが浴びるべきものではない。原敬もまた然りである。事実、寺内の行ったところは原によっても行われたのであった。

 政局の一大変化をもたらしたもう一つの、きわめて重要な条件として、世界大戦末期から興った内外における反資本主義の運動を挙げなければならない。先ず、国内的には、大正四年以降の急激な資本主義の拡大と高度化は物価水準を引き上げた。物価につれて賃金を上昇させ得た階層は一定の利益のおこぼれを手にできたが、零細な仕事場の未組織労働者や農民や漁民の下層部分はもろに物価騰貴の皺寄せを受けた。拡大する所得格差は彼らの被害意識をあおった。富山の漁村の女房一揆に端を発し、またたく間に全国に拡がった米騒動は、社会に蓄積された不満のエネルギーの巨大さを示すものであった。事態の深刻さに驚愕した寺内は新聞記事の差し止めなど厳重な報道管制を布いたが、これがまた非立憲的弾圧との非難の種となり、民生の安定、言論の自由などの民主的諸原則の擁護を叫ぶ騒然たる情勢の中で、寺内は内閣を投げ出した。しかし、寺内が受けた衝撃は元老・軍部、政党・ブルジョワジーすべてのものであった。原敬を首相とする後継内閣は形の上では日本に初めて成立した真の政党内閣であったが、その内閣の施政は元老・軍部と提携しながら、民衆の護憲運動を圧伏するものとなったのである。

 戦後頻発した大規模なストライキを伴う労働争議は、右の傾向を更に強めた。世界大戦の終息とともに、日本経済は深刻な不況に打ちのめされた。輸出市場の急激な縮小と欧米重化学工業製品の流入とのダブル・パンチを受けて、戦争中急造され拡大した諸企業はバタバタと倒れ、残ったところも人員の縮小、賃金の引下げを余儀なくされた。当然、労働者は激しい不満を持ち、大正八年の東京砲兵工廠の大争議、翌九年の八幡製鉄所の大争議、神戸の造船労働者の大争議などが、次々と勃発した。原内閣は「治安警察法」を最大限に解釈し、仮借ない弾圧を行った。争議の中心人物は検挙された揚句、解雇されて街頭に放り出された。その背後にちらつく社会主義の影に脅えた元老・軍部、政党・ブルジョワジーは、断乎封殺しなければならぬとの共通認識のもとに、共同戦線を作り上げたのである。

 尤も、当時の国際情勢は社会主義を巨大な実態に作り上げるものであった。すなわち、ロシア革命、中国革命が進行し、世界の人々の耳目を聳動させた。特に、ロシアの二月革命が労農ソヴィエトの成立という十月革命に進んでいった事実は、世界に一大パニックを引き起した。それは日本において、特に激烈であった。体制の人々の驚愕と不安の強さは、体制に反対する人々の驚愕と希望の大きさと表裏していた。半ば実態であり、半ば幻想であるロシア革命観の影響、これを抜きにして、大正デモクラシーの第二段階を語ることはできないように思われる。実態と幻想は相互に促進し合って、大正後期・昭和初期の政治的対立の構図を作り出していったのである。

 右のようなロシア革命の影響が日本で本格化するのは一九一九年の第三インターナショナル(コミンテルン)結成以降、そしてそれがクライマックスに達するのは一九二二年のモスクワの極東民族大会以降である。ソヴィエト政府はモスクワで第三インターの創立大会を開き、世界各国の共産党結成計画が宣言された。これに呼応して、日本でも社会主義者の組織化の動きが活発となる。翌大正九年七月頃ともなると、社会主義諸党派の大同団結を目指す講演会が東京市内の諸所で開かれ、十二月九日には官憲の裏をかいて「日本社会主義同盟」結成の宣言が発せられた。同盟結成に対しコミンテルンからの援助があったのか否か定かではないが、同盟結成という事実の持つ意義は著大であった。吉野作造も「『日本社会主義同盟』を新しい意味の学生社会運動の出発点として記憶する必要がある」(「日本学生運動史」『岩波講座教育科学』第一五冊 三四頁)と述べている。そして、同十一年七月には日本共産党の結成を見るに至るが、この場合は、コミンテルンの指導と援助は明らかであった。その年の一月から二月にかけて、コミンテルンはアジア諸国に呼びかけて、モスクワで極東勤労者大会、いわゆる極東民族大会を開催した。日本、中国、朝鮮、モンゴル、ジャワおよびロシア少数民族の代表がそれに参加した。日本代表としては、在米社会主義者団から片山潜、鈴木茂三郎ら七名、国内からは水曜会(日本社会主義同盟の解散後、山川均を中心に集まったグループ)の徳田球一、暁民会(大正九年五月、高津正道を中心に結成された社会主義者グループ)の高瀬清、アナーキストの吉田一ら六名、モスクワで加わった大庭柯公ら合計十六名が出席したらしい。同会議での議論の中心は、各国労働者階級はいかにして権力の中枢部分を攻撃するかの戦術・戦略であった。日本の場合、権力の中枢は元老・軍部体制であるから、これを突き崩せば日本帝国主義の大伽藍は倒壊するであろう。日本の労働者階級の任務はこの権力中枢の攻撃であり、共産党はこの任務に向って労働者階級を組織・指導しなければならないとされた。

 極東勤労者大会から帰国した徳田と高瀬は国内のボルシェヴィキを糾合して、直ちに共産党を結成してコミンテルン第四回大会の承認を受けるべきだと主張した。これに対し、堺利彦、山川均らは、共産党は上から作るものではなく、労働運動の拡大を計りながら、下から作り上げていくべきだと反論したが、徳田らの主張に引きずられた。こうして同年七月、共産党が秘密裏に結成された。執行委員は堺、山川、荒畑寒村、高津らで、堺が委員長に就任した。このようにあわただしく結成された日本共産党は水曜会、暁民会、総同盟左派などの寄合い所帯であったが、十一月の第四回コミンテルン大会において、コミンテルン日本支部として正式に承認された。共産党の勢力は客観的には決して大きなものではなかった。しかしその象徴的な意味は大きかった。従って、政府の方でも、それに対してヒステリックなほどに神経過敏であった。明治中期以来、体制の人々は社会主義者に対し激しい恐怖と憎しみを抱いていた。明治三十三年の治安警察法も基本的にはその反映である。社会主義なり社会主義者なりへの恐れは社会という文字そのものの忌避にまで達していた。恐怖と憎悪の深さは大逆事件という不公正な惨事を生んだのである。かかる歴史的背景を考える時、ロシア革命成功の事実と日本共産党結成に至る諸事実が元老・軍部、政党・ブルジョワジーに与えた衝撃の激甚さを想像することができる。特に元老・軍部の衝撃は大であった。右に述べた如く、日本共産党の最大の使命は軍部とその奥の院である絶対主義的な元老体制の攻撃であったからである。かつて、元老・軍部を批判し攻撃していた政党・ブルジョワジーも、既に種々な事情から元老・軍部と提携するようになっていた。この結果として現れたのは、反軍国主義・反政府運動の荷担者はすべて社会主義的運動の荷担者であり、元老・軍部、政党・ブルジョワジーの敵対者であるという構図である。反軍国主義・反政府の運動を行う人々、すなわち、学生や労働組合員のすべてが社会主義者であったわけではない。その大部分は初め、民主的な開かれた社会を求め、そのための選挙権の拡大や労働条件の改善を求めていたのである。しかし、右の構図の中では、普選運動や労働運動に関与する人々はすべて社会主義者と見なされてしまったのである。反軍国主義運動は最も危険なものと思われた。

 しかし、反軍国主義・平和主義は国内外の広汎な人々の願望であった。国際的には、ウィルソン体制と言われるものがそれである。平和主義・民族自決主義を唱導するウィルソンの世界政策は母国アメリカでは不評判であったが、多くの国々の多くの人々の共感を得た。大正デモクラシー運動によって目覚め、民衆の日常の生活的価値の尊さを認識した人々にとっては、帝国の栄光よりも、その歪み、冷酷さ、野蛮さがより強く映ったのである。そうした人々の中心に学生達がいたのは当然と言わねばならない。学生達は社会主義者となったが故に、反戦・反軍国主義に関与したのではない。彼らはより広い文化的・社会的な立場において、反戦・反軍国主義になったのである。学生を反政府に駆り立てたものの一つに学問研究や言論・出版の自由の抑圧がある。これは社会主義的思想や運動の拡大阻止の手段として行われたが、それが却って学生達を社会主義的にしたのである。政府の抑圧政策は法律の拡大解釈と右翼の行動との二つのルートで行われた。政府や政党は反社会主義の私兵集団(右翼)を蓄え、非公式に裏からさまざまな妨害行動を執らせた。右翼集団の主なものを挙げれば、大正七年に作られた政友会の院外団「大正赤心団」、翌年に生れた「大日本国粋会」、また十一年の「赤化防止団」、「神州義団」などがある。この動きは大学にも見られた。東京帝国大学の「興国同志会」、早稲田大学の「縦横倶楽部」がそれである。「興国同志会」は森戸辰男助教授の論文の非を鳴らし、東京帝国大学経済学部を攻撃し、いわゆる「森戸事件」を造り出した。また、八年結成の「縦横倶楽部」は我が学苑において、軍事研究団事件の血なまぐさい第二幕を演出した。

二 民人同盟会の結成と分裂

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 犬正七、八年頃から、多くの大学で社会科学・思想研究の学生組織が結成されていく。その政治的背景は前節で述べたので、ここでは補足の意味もかねて、社会的・経済的理由のあらましを記しておこう。

 先ず、高等教育の普及が指摘されなければならない。本編第一章に説述した如く、大正七年十二月六日には大学令が公布され、それまで帝国大学にのみ認められていた大学の資格が私立の学校にも与えられた。この時期に大学制度の拡張が行われた理由はさまざまであるが、最も重要なものは日本の社会によるその要求である。資本主義経済の高度化・複雑化は広汎な分野にテクノクラートを必要とした。明治時代、西欧の機械・技術が採り入れられたが、専門家の需要は絶対的には小さく、経営の分野では、丁稚・手代といった江戸時代以来の伝統的な人材養成方法で十分であった。帝国大学卒業生の大部分は国家機関に入り、ビジネスとの関係は殆どなかった。我が学苑の卒業生も、その多くは郷里に帰り、地方社会の政治的リーダーとなった。しかし事情は次第に変化していった。ビジネスは新式で高度な専門知識を持った人材を学校に求めるようになったのである。そうした社会的需要の出現・拡大は供給の側である高等教育機関にはねかえり、制度の中での上昇運動を作り出した。我々はそこに学歴社会の出現を認めることができる。それだけに、大学令により新たに大学となった学校は施設・教授陣の充実に努め、学生達もエリート意識を持ち、その意識を裏付けるに足りるだけの思想や知識を身に着けようと志向した。日本の政治・経済に対して学生側から積極的に発言したいとの気運の高まりも、この志向の一つの現れである。

 学校を取り巻く環境も右の気運を盛り上げた。ジャーナリズムもこの頃から急速に発展した。新聞紙(一月四回以上発行のもの)および雑誌(一月三回以下のもの)の統計を見ると、新聞は大正四年六〇〇種であったのが大正七年には七九八種、大正九年には八四〇種となり、雑誌は大正四年一、〇四〇種が大正七年には一、四四二種、大正九年には一、八六二種となっている。思想や労働問題を論じた単行本の出版は大正六年の二一種が、大正八年には一九〇種、大正九年には二二〇種となった(日本近代史料研究会編『大正後期警保局刊行社会運動史料』二〇五頁)。ジャーナリズムの繁栄は言論人の活躍を要求するが、当時、その数は多くなかったので、大学教授や著名な新聞記者が頻繁に論壇に引き出された。かかる事態が学生の研究心をそそり、団体結成に向わせたのは容易に想像できよう。この意味で、東京帝国大学の新人会は吉野作造らの活動の所産であり、我が学苑の民人同盟会・建設者同盟は大山郁夫北沢新次郎杉森孝次郎安部磯雄内ヶ崎作三郎猪俣津南雄佐野学らの活動の所産であると言うことができる。

 後述の如く、学生組織は啓蒙的・研究的なものとして出発しながら、急速に政治的な運動の組織となる。この理由もまた大学を取り巻く環境にあった。前述した如く、大戦中、大正デモクラシー第一段階の勢力配置は大きく変化し、かつて元老・軍部を攻撃した多くがその擁護者となった。体制を批判・攻撃する側は今や数的にも質的にも著しく劣勢となった。それだけに、知識人(インテリゲンチャ)の比重が高まったのである。当時、学生は知識人の有力な一翼を形成していたから、否応なしに政治の分野へ引き込まれていった。しかも、右に指摘した如く、学生はレッキとした大学生として制度的にも公認され、またジャーナリズム活動が旺盛化する中で、知的にも大きな刺戟を受けていた。学生達は、大学を取り巻く現実が呼び掛ければ、それに応じる態勢にあったわけである。

 それでは、学生の社会科学・思想研究グループはどのような学問・思想を追求し、どのような思想・態度を以て政治の現実に入っていったか。結論的に言えば、それは社会主義的、なかんずくマルクス主義的なものであった。この理由は、一つには、前節で述べた如き、反軍国主義イコール社会主義とさせる政治状況にあった。しかし、そこにはもう一つ、日本における知識人・学生の社会主義、なかんずくマルクス主義に対する独特な心情――敢えて言えば、社会主義こそ日本社会の前近代性を除去し、日本社会を真の意味での近代社会に押し上げる道であるとの心情――があったのである。この心情に最もよく適合するのがマルクス主義であった。アナ・ボル論争に見られるように、運動のレヴェルではボルシェヴィキという形でのマルクス主義とアナーキズムという社会主義が激しく対立し、争っていたが、知識人・学生の大部分はマルキシズムに理想的近代を見出したので、ボルシェヴィキの側に、積極的或いは消極的に、荷担していった。

 日本の近代化・資本主義化は、最後進資本主義であった点とアジア地域での資本主義化であった点とで、きわめて特殊である。前者のあり方の故に、資本主義的近代的セクターと在来的なセクターとが明治・大正の産業・経済を濃厚に染め分けた。最新式のドイツ製機械装置を備えた製鉄所と江戸時代以来の人力を主とする零細農業というコントラストを思い浮かべるならば、それは明瞭であろう。また、後者のあり方の故に、西欧合理主義的な思考・行動様式と日本固有の伝統的なそれとの二重性・競合という事態が現れた。これは価値観において、特に深刻な対立を生んだ。日本は資本主義化を目指す以上、西欧的な機能合理主義的価値観を受け入れざるを得なかった。しかし、資本主義は一国的に、つまり国民経済という形で実現するのであるから、世界の中での日本という強い自己認識が要請される。換言すれば、資本主義化過程は一般的にナショナリズムの昻揚期でもあるが、この関係が日本では伝統的価値の再生を求めたのである。天皇中心の資本主義体制は相対立する価値観、そこから現れる二つの思考・行動様式を妥協・融合させる形式であった。それだけに、この形式は矛盾・対立を絶えず再生産することにもなった。日本資本主義のかかる構造こそがマルクス主義を広汎なアピールを持つ思想・学問に仕立て上げたのである。何故か。

 知識人・学生の多くは、日本資本主義の二重構造の伝統的・在来的部分に、西欧からの遅れ・歪みを感じていた。日本が近代資本主義社会として本格化するには、その遅れ・歪みをなくさなければならないと考えていた。この心情はマルクス主義によって明確な認識にまで高まり、具体的な解決の方途を見出したように思われたのである。西ヨーロッパの後進国ドイッは、後進性の意識とそれからの脱却の願望を歴史学派経済学により表現したが、日本のマルキシズムはその歴史的意義において、ドイツの歴史学派経済学に似ていると言ってもよい。大正後期・昭和初期の知識人・学生は日本を本物の近代社会・資本主義社会とするためにマルクス主義に引きつけられたのであり、その意味で、マルクス主義はナショナリズムの一形態であったと言ってもあながち奇矯の言を弄するものではない。

 ところで、マルクス主義を基調とする社会科学の展開は、経済学の発達という線で捉えることもできる。経済学の発達の背景には資本主義社会の展開という事実がある。従って、大正後期・昭和初期におけるマルクス主義の流行は、我が国経済高度化の所産であったわけである。経済学は文明開化の波に乗って渡来したが、人々の心を捉えるところは誠に少かった。田口卯吉の自由放任論はイギリス経済の現実の巨大な姿とダブって一定度のアピールを持ったが、他の経済諸学説は大学の講壇から語られただけであった。しかも、大学における経済学の位置そのものが低かった。東京帝国大学では、経済学は久しい間法科大学の一部で講じられたに過ぎなかった。経済学教育は高等商業学校に委ねられた観を呈していたが、高等商業学校は職業教育の場と看做され、大学と同列には考えられなかった。ところが我が学苑は、政治経済学科という構想といい、明治三十七年の商科開設といい、時代の趨勢を先取りした高い識見を示している。因に、東京帝国大学で経済学部が創設されたのは漸く大正八年四月のことであった。社会主義の諸学説が幸徳秋水、堺利彦らによって我が国に紹介されたのは明治中期で、マルクスの「共産党宣言」も『平民新聞』に訳出されている。しかし、紹介が政治運動の一環として行われ、しかも運動そのものが激しい政府の弾圧に曝されたので、社会主義理論の伝播はごく狭い範囲に止まらざるを得なかった。ところが、経済学が大学の重要な教育・研究対象となると、マルクス主義や社会主義の諸理論は経済学の一部として公然と取り上げられるようになり、著書や雑誌論文でも論じられるようになった。それらの研究の気運が学生間に強まっていったのは当然であった。

 社会主義理論、なかんずくマルクス主義理論は、前段で指摘した如き知識人・学生の心情と結びついて、こうした雰囲気の中で急速に拡まり、政治学やその他の社会諸科学、更には文芸理論にまで著大な影響を及ぼすに至った。その拠点が新設経済学部を持つ東京帝国大学であり、創立以来政治経済学科を持つ我が早稲田大学であったのは、必然的であったとさえ言い得る。従って、政府の攻撃もこの二大学に集中した。抑圧は反発を呼び、両大学の学生団体をますます社会主義・マルクス主義の側に押しやった。こうして、森戸事件、軍事研究団事件、研究室蹂躙事件など、一連の出来事はすべて東京帝国大学と早稲田大学とを舞台として、起ることになったのである。

 勿論、両大学とも、この運動に関与し、街頭に出ていった学生の数はさして多くない。しかし、社会主義、なかんずくマルクス主義に、日本の民主化・近代化の思いを託していた学生の数は多かったから、少数の学生の運動により大きな動きが起って来る条件は存したのである。この関係を強めた原因として、大戦後の日本経済を襲った恐慌がある。大正七年十一月、休戦となると、軍需景気に湧いた日本経済に直ちに反動が起り、染料、薬品、金属などの軍需物資の価格は低落し、成金を輩出させた造船・海運業界は大打撃を受けた。この不況はヨーロッパの復興需要の高まりもあって早期に一時的立直りを見せたものの、同九年になると、激しい反動恐慌として爆発した。俗に「ガラ」と言われるように、諸物価が一斉に崩落したのである。中でも生糸や綿製品価格の激落は社会に深刻な影響を及ぼした。前者は養蚕業への打撃を通して夥しい数の農家を苦しめたし、後者は数十万の労働者を生活不安に陥れたからである。大戦中、急速に太くなった大学とビジネスを結ぶパイプはいたる所で亀裂が生じ、そこから職のない大学卒業生が溢れ出た。戦時中の繁栄がドラマティックであっただけに、戦後の挫折もまたドラマティックであった。人々は日本資本主義の没落を観念的にではなく、目の当りの事実により知らされる思いがした。マルクス主義に触れていた学生達にとって、それは観念と事実の一致であった。マルクス主義を近代ナショナリズムとして受け入れていた大部分の学生も、右の意味において、肯定的にか否定的にかはともかくとして、今やそれを革命的理論と考え始めていたのである。

 大正八年二月二十一日、学苑の大講堂で民人同盟会の発会式兼記念講演会が盛大に催された。これよりさき、同七年の末頃から、黎明会の結成、東京帝大における新人会の結成の刺戟を受けて、我が学苑でも社会科学・思想を研究し啓蒙する学生組織を作ろうとの動きが活発化していた。その中心となった学生は和田巌、高津正道、稲村隆一、浅沼稲次郎、佐々木修一郎、渥美鉄三、山口彦四郎の面々であった。彼らは政治経済学部講師の高橋清吾、商学部教授の北沢新次郎、それに当時はまだ学外にあった大山郁夫に相談し、そのアドヴァイスのもとに着々準備し、発会式を迎えることとなったのである。同会が何を目指したかは創立宣言に示されている。

吾人の社会や国家は過去四ヵ年有余の試煉を経て動揺より安定への道程において、光明と希望とを迎えんとしている。かくして新時代の主潮の方向は国民意識の敏感と階級意識の協調とを伴い不可抗の力を以て一切のデモクラチゼーションへと進んでいる。世界各国は此新旧両文明の過渡期に際して世界の改造をもとめている。吾等は三千年の歴史と伝統とを持つ国家と国民とを愛護せんがため、国際生活上の協調を保ち進んでは世界文明に大なる寄与をなさざる可からざる使命と覚悟とを要する。しかして此等世界的大使命遂行の必然的前提として吾等は自由に解放せられたる各階級の協力を求めなければならぬと同時に、彼の頑迷者流の時代錯誤の思想を撲滅し、デモクラシーの普及および徹底によって新時代の陣頭に起たねばならぬ。最早噴火山上に舞踏を演ずる愚を学ぶ時ではない。吾等はあくまでも此主張の下に一切の犠牲を払って邁進せんとするものである。そこに人類の前途の希望が輝いているからである。 (大山郁夫記念事業会編『大山郁夫伝』 九三―九四頁)

 いかにも気負った文章であるが、当時の学生の使命感の強さと自信のほどを知ることができる。大正デモクラシーの理想はまだ若く、瑞々しく息づいていた。しかし、いざ具体化してみると、間もなく一体性にひびが入った。ボルシェヴィキ的マルクス主義に関与する人々と、労働運動を主眼とするという意味でブルジョワ・デモクラシーの枠内で社会主義的方向を進もうとする人々との間に、意見の対立が起ったからである。前者のリーダーは高津正道、後者のリーダーは和田巌であった。仏門から学苑に入った高津は理想主義的・観念的であり、ボルシェヴィキの過激性に魅せられ、夙に堺利彦や山川均らに接近した。一方、岐阜県の農村から学苑に進んだ和田は気骨稜々たる国士的デモクラットで、労働運動に投じ、友愛会の下部団体として組織された労学会の幹部となった。それ故、和田は鈴木文治や北沢新次郎と親しかった。二人に代表される両派の対立はさまざまなレヴェルで起ったらしい。

 一つは言うまでもなく、路線をめぐる対立である。高津らは学外の社会主義者のグループと提携して、その学内組織となるよう主張したらしい。それに対して、和田らは先ず地道に社会主義の諸理論を勉強し、必要に応じて労働運動を援助するのがよいとしたらしい。もう一つの相違は、人間的な親疎感である。北沢と親しい和田は北沢を民人同盟会の顧問とするのを強く望んでいた。当時、同盟会の正式顧問は高橋清吾で、顧問を二人とするには問題があった。高津もそれには消極的であった。同床異夢のメンバーからなる同盟会の存続は無理であった。分裂は同盟会結成の半年後に、和田らが新たに建設者同盟を作るという形で現実化した。北沢は自伝『歴史の歯車』の中で、「民人同盟会のなかは二派に分かれていた。一方は山川均君、堺利彦さんに教えをこいに行く人たち、他方は高橋先生や大山先生および私のところへ来る人たちがあった。ついに、思想傾向の相違から和田巌、浅沼稲次郎、稲村隆一、三宅正一、田所輝明、中村高一、安達正太郎、三和一男の諸君は民人同盟会から脱会して、大正八年十一月『建設者同盟』なるものを組織し、その綱領として『本同盟ハ最モ合理的ナ新社会ノ建設ヲ期ス』を標榜して、研究および実行運動をなすこととし、私にその指導を頼んできた」(一一六―一一七頁)と述べている。

 歴史的な出来事の時期を確定することは難しい。特に、大勢が関係する組織の誕生時の確定は困難である。誰かが言い出した時、組織化の動きが高まった時、正式の開会式が催された時、また規約等が作成された時、これらはいずれも組織の誕生にとって重要な時である。この議論を押し進めると、組織誕生の時は年を確定するにとどめ、月日は必要ないということになろう。しかし、建設者同盟結成の時は民人同盟会がいかにあやふやな組織であったかを知るために重要なので、以下に若干記しておこう。

 北沢の記憶では、建設者同盟結成は大正八年の十一月であるが、公式には十月十八日となっている。『近代日本総合年表』にもその日付が採用されている。その根拠は内務省警保局調査の『思想団体視察人報告』で、河村只雄編『思想問題年表』などに受け継がれて、流布した。しかし、大正十一年刊の『日本労働年鑑』第三輯には「大正八年九月に創立した」とあり、また雑誌『デモクラシー』第八号には、大正八年十月十日に扶信会、民人同盟会、一新会、新人会に建設者同盟も加わって、牛込矢来倶楽部で青年文化同盟を結成、越えて二十五日には本郷の基督教青年会館で右同盟の創立演説会を開き、建設者同盟からは島田義文が代表として出て、「粛然たる天下の秋」と題してスピーチを行ったとある(神田文人「解題」法政大学大原社会問題研究所編『建設者(全)』六二八頁)。これらの点から考えると、その設立は遅くも九月とするのが無理のないところである。尤も、前述したところの何を以て設立時とするかが考慮されなければならない。「建設者同盟懐旧懇談会」(昭和三十七年二月二十五日)には、「民人同盟会をおん出て建設者同盟を作った。始めは名前はなかったけど、別のものを作るにはお互に知っている学生を誘おうじゃないか」という工合で始まったとの発言もある(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』昭和四十五年七月発行 第一六三号 四五頁)。当時の事態を想像してみると、和田や何かがワイワイガヤガヤやって、段々と形を整えていったのであろう。従って、十月十八日という日付も十一月頃との記憶も何らかの意味で正しいのであろう。しかし、その具体化はかなり早く、九月頃には、後に建設者同盟と名乗る組織が事実上存在していたということなのであろう。いずれにしても、民人同盟会は成立後間もなく分裂していったとするのが真相である。建設者同盟については次にやや詳しく取り上げるので、ここでは、分裂後の民人同盟会について述べる。

 和田らの退会後、同盟会は高津を中心に中名生幸力、三徳岩雄らを新たに加えて運営されたが、急速度でボルシェヴィキへの傾斜を強めた。それだけに学苑内での研究・啓蒙活動は殆ど行われず、専ら政治活動に力を注いだ。大正九年という年は前節でも述べた如く、反動恐慌と第三インターの影響のもと社会主義者の大同団結計画が進んでいた年である。高津らは、その年の五月(七月とも八月とも言われる)に暁民会なる学外の団体を作り、この計画推進の一翼を形成した。暁民会は、「我等は一切の旧勢力を排し以て新秩序の創造を期す」(社会文庫編『大正期思想団体視察人報告』九頁)ことを目的とするとの綱領からも窺える如く、政治性の強い団体であった。中心メンバーとしては、高津の他に、高野実、高瀬清、浦田武雄、原沢武之助、荒井邦之助、川合義虎らがいた。民人同盟会は有名無実なものとして存続したに過ぎなくなった。

 日本社会主義同盟結成へのボルテージが高まるにつれて、暁民会の活動にも一段と熱が入り、十年十一月、いわゆる「暁民共産党事件」を起すに至る。事件そのものは反軍ビラを撒布したという程度のものであるが、コミンテルンの動きに神経を尖らせていた治安当局はこれを仰々しい事件に仕立て上げたから、学苑もやむなく十二月二日、高津、中名生、本多季麿を退学処分に付した。中心勢力を失った民人同盟会はここに形式的にも消滅することとなった。

 メンバーのその後の動きは二つに分れた。一つはプロの政治活動家となる方向で、高津、高瀬らがこの方向を歩んだ。彼らは山川均主宰の水曜会に加わり、大正十一年の年初にモスクワに開催された極東勤労者大会へは同会を代表して高瀬が参加している。もう一つは学苑内に民人同盟会を再建しようとの方向で、それは高野実、荒井邦之助、および新たに加わった戸叶武、松尾茂樹、伊藤丑之助らにより進められた。こうして、大正十年六月(四月とも言われる)に早大文化会が誕生することとなった。その宣言の一部を左に掲げておく。

吾々は最早自由の学園といふ美名の下に桃源の夢を貪つてゐる時ではない。机上の空論を止めて、現実の真只中に進み蔽ひかくされたる事実の暴露に努めなければならない。幻想の花に酔ふを止めて永い間圧迫と搾取との拷問にかかつてゐる人類の本源を探究しなければならない。メッテルニッヒの神聖同盟を打破つた当時のドイツ大学生、近くは革命当時のロシヤ大学生――彼等の精力と純粋な熱情と不断の努力とを以て如何に雄々しく戦つて青年の意気を示したか、吾々は是等の歴史を学んで悲惨極まる現状を直視する時私かに我々の使命の尊きを覚ゆるものである。

(内務省警保局「要注意団体ノ状況」大正一一年一月調 社会文庫編『大正期思想団体視察人報告』 一〇五頁)

気負いの調子は同じながら、語られている内容は民人同盟会宣言と著しく相違しているのが知られよう。両者の相違が、大学を取り巻く客観情勢とそれに対する学生の意識・心情の相違の反映であることは言うまでもない。文化会の指導に当ったのは前年の秋に学苑に復帰した大山郁夫であるが、佐野学も密接な関係を持っていたと言われる。

三 建設者同盟の活動

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新人会は、マルクス主義を基盤に、「人民の中に」というスローガンを持ったが、民人同盟から分かれた建設者同盟の思想的背景は、共産主義でもサンディカリズムでもなく、具体的には労働組合や農民組合を中心に――とは言っても必ずしも労働組合主義ではなかった――無産階級の団結によって、新社会を建設してゆくというものであった。私が建設者同盟の指導をひきうけるにあたって、彼らに要望したことは二つあった。一つは、盟友の思想の共通点を養うために、集団生活をし、日常生活を共にすること。第二は、在学中は思想的バックを身につけるために勉強すること、であった。……当時、私が住んでいた池袋の家の隣りに幸い貸家があったのでそれを借り、私の家とのあいだの垣根をとりはずして自由に出入りができるようにして、同盟の諸君のほかに、その後会員になった平野力三君その他の者が合宿して自炊生活を始めた。最初は人数も少なかったので、彼らは私の家で食事をしていたが、浅沼君が「われわれが三度三度食事をしていたのでは北沢先生の家が破産してしまうから、自炊をやろう。」と提案し、田所君も「先生の給料は十三円五十銭だ、それを食いつぶすと奥さんに気の毒だから自炊しよう。」と同意し、それ以来自炊生活を始めた。浅沼君は学生時代から苦労人であったので、そういうところに気のつく人であり、田所君はたいへん頭脳のするどい人であった。 (北沢新次郎『歴史の歯車』 一一七―一一八頁)

右の北沢新次郎の記述は建設者同盟初期の模様をヴィヴィドに示しているので、いささか長文に亘るが敢えて引用した。北沢は同盟の顧問になるとともに、同盟会員の生活まで面倒を見た。だから、同盟本部の所在地は北沢の家の隣り、東京市外(東京府北豊島郡西巣鴨町大字)池袋九百三十番地であった。

 ところで、同盟は、発足に当り、綱領や規約を作ったのであろうか。北沢は当初にそれらが作られたと述べているが、「本同盟ハ最モ合理的ナル新社会之建設ヲ期ス」なる綱領が活字により公表されたのは、大正十一年十一月の機関誌『建設者』第一巻第二号であり(同誌の創刊はその前月)、綱領とともに規約概要が載っている。すなわち、

建設者同盟綱領

一、本同盟ハ最モ合理的ナル新社会之建設ヲ期ス。

規約概要

一、本同盟ハ建設者同盟ト称ス。

一、本同盟ハ綱領ニ基キ適当ナル研究及実行運動ヲ為ス。

一、本同盟之綱領ニ賛同スル者ハ何人モ随時ニ入会シ会員タル事ヲ得。

一、本同盟ニ入会セントスル者ハ入会金一円ヲ納ムベキモノトス。

一、本同盟会員ハ会費トシテ毎月金一円ヲ納ムベキモノトス(但此ノ負担ニ堪ヘザル者ニハ特別会費減免之制度アリ)。

一、本同盟本部ヲ東京市外池袋九三〇番地ニ置ク。

一、本同盟校内事務所ヲ本大学雄弁会事務所内ニ置ク。

一、本同盟ノ主旨ニ違反シタルト認メタル場合ハ除名スル事アルベシ。 以上

地方会員規約

一、地方在住者ニシテ、建設者同盟ノ綱領ニ賛同セラルルノ士ハ、本部ノ承認ヲ俟ツテ、会員タルヲ得。

一、地方会員タラントスルノ士ハ、入会金五十銭ヲ納入スベシ。

一、地方会員ハ、会費年四円ヲ納ムベシ。但シ分納スルモ差支ナシ。

一、地方会員五名以上ヲ得タル地方ハ支部ヲ設置シ得。

一、地方会員ニハ、機関紙「建設者」ヲ毎月無料ニテ配布ス。

一、地方会員ニハ、本同盟ニテ発刊スル図書類ヲ無料若クハ原価ニテ頒ツ。

一、地方支部ニテ、講演会、講習会等ヲ開ク時ハ講師ソノ他ノ件ニツキ便誼ヲ図ル。

一、本部ニテ開催スル講習会、講演会ニ出席セラルル地方会員ニハ、可及的ノ便誼ヲ与フ。

一、各種図書類特ニ洋書ヲ御希望ニヨリ取次グ。 以上

(『建設者』大正十一年十一月発行 第一巻第二号 五五頁)

 綱領・規約の作成時期には、二通りの考え方があり得る。一つは、綱領と規約概要が創設時に作られ、大正十一年秋に地方会員規約が追加されたとするものであり、もう一つは、すべて十一年秋に作られたとするものである。機関誌の創刊は十一年十月であり、研究会や講演会ないし講習会の開催も後述の如く九年ないし十年からであるので、地方会員規約が創設時に作られることはあり得ない。従って我々は後者を採用したい。北沢の回想にもあるように、創設時の建設者同盟はいかにも学生の組織らしく、謙虚で素朴な非組織的な組織であった。

 当初、同盟のメンバー達は社会主義諸理論の研究に励み、実践活動は殆どやらなかったらしい。皆でマクドナルド、スノーデン、クラインズ、コールなどギルド社会主義の著作を読み、個人的にはラスキ、ヴェブレンの著作を読んでいた、と北沢は記している。浅沼稲次郎がR・H・トーニーの著書を読み、難しさのあまり「こいつ(トーニー)はあんまり頭が良くないですね」と八つ当りして、抛ってしまったなど、ほほえましいエピソードもある。

 こうした準備の後に、同盟は次第に実践活動に乗り出していったが、その重点の一つは公開研究会および講演会の開催であった。先ず、大正九年五月から毎週二回の研究会が開かれた。テーマと担当講師は次の如くである。

思想問題 片上伸 サンジカリズム 植田好太郎

無政府主義 山川均 婦人問題 山川菊栄

ギルド・ソシアリズム 北沢新次郎 ソビエト研究 木村久一

エスペラント語研究 某ロシア人

(神田文人「解題」法政大学大原社会問題研究所編『建設者(全)』 六二九―六三〇頁)

 翌十年春には、研究会が再編され、次のような内容で出発した。

フォイエルバッハの哲学思想(月二回) 伊達保美 民衆文化に就て(月二回) 大山郁夫

露国社会思潮に就て(月一回) 片上伸 仏語並にサンヂカリズム(週一回) 植田好太郎

アナーキズム(月一回) 山川均 婦人問題(月一回) 山川菊栄

被告学(月二回)………………………………… 布施辰治 農村問題(週一回) 佐野学

ギルド・ソシアリズム(週一回) 北沢新次郎 (同書 六三〇頁)

 また同年の五月十四日には、神田三崎町の三崎会館で堺利彦・植田好太郎・九津見房子・石川三四郎・加藤一夫・麻生久を講師として文化講演会が開かれた。これを聞きに来た明治大学の学生渡部義通は建設者同盟のあり方に感激して、入会を申し込んだと言われる(同書 六三一頁。以下の建設者同盟の事業の記述は同書による)。

 好評に気をよくした同盟のメンバー達は大規模な夏期講習会を計画し、学苑の大講堂を用いて、二回の公開講演会を開いた。第一回目は八月一日―八日、第二回目は八月十日―十八日、一回の聴講料は三円、一・二回共通では五円であったが、四百余人が集まって盛況であった。演題と講師は次の如くであった。

第一回

政治と芸術 長谷川如是閑 新国家学概論 大山郁夫

貧民心理の研究 賀川豊彦 革命後の露西亜思想一般 片上伸

現代文化批判 土田杏村 日本階級争闘史 佐野学

イブセンと両性問題 島村民蔵 民法改造の基調 末弘厳太郎

第二回

代議制度の新研究 今中次麿 農業問題特に小作問題に就て 橋本伝左衛門

現代婦人問題 本間久雄 新実用主義の哲学概論 帆足理一郎

戦後に於ける仏蘭西文芸の思潮 吉江孤雁 対社会の性問題 矢口達

ギルド社会主義概論 北沢新次郎 ソビエト露西亜の教育及文芸 平林初之輔

(同書 六三一頁)

 講演会に出席した東京帝大の高津渡が、これを機に入会した。高津は群馬県立藤岡中学校の出身で、彼を縁に同窓の慶応義塾大学の川村恒一、東京高等蚕糸学校の小林(後、菊池)邦作、桐生高等工業学校の田中(後、秋山)長三郎、関根悦郎などが入会することとなる。それは学内組織としての建設者同盟が次第に社会的な存在になる過程であると同時に、同盟内の群馬県勢力が大となる過程でもあった。

 同盟の社会化はもう一つの径路、学外の政治運動への参加を通して起ったが、それは同盟の性格そのものを変化させる結果を伴った。結論的に言うと、同盟はかつて否定した高津正道らの路線、すなわちボルシェヴィキ的マルクス主義に傾斜していったのである。大正九年の八月頃から、社会主義同盟結成への動きが活発化すると、建設者同盟に対しても参加が呼び掛けられた。同盟内部で、それについてどのような議論が行われたかは明らかでないが、事実上の会長であった和田巌が代表として、社会主義同盟結成計画に参加したのである。友愛会や正進会といった労働組合組織も参加しているので、恐らくこの線から、同盟の参加決定がなされたのであろう。十二月十日の日本社会主義同盟創立大会は、参加者と官憲の衝突により大混乱に陥った。八十余人が検束され、警視庁に拘引されたが、その中には建設者同盟の田所輝明や武内五郎も交じっていた。監房内での態度が悪いこともあって、田所は三ヵ月の懲役を科された。マルクス主義に深くコミットした田所は出獄後同盟に戻ることなく、プロ革命家への道に飛び込んでいった。田所の思想と行動が同盟のメンバー達に強い影響を与えたろうことは容易に想像できる。

 九年から十年初頭にかけての時期は前述の如く恐慌の嵐が吹きまくった時期で、ストライキが頻発し、一時下火になっていた普選運動の街頭デモが大きな盛り上がりを見せた。従って、官憲の取締りもエスカレートしていった。こうした状況が同盟のメンバー達の思想や心情の変化を導くマクロな条件であった。建設者同盟は外部的にも内部的にも転換を迫られたのである。転換は十二年の一月に起った。学内団体としての建設者同盟は解散し、文化会メンバーとともに新たに文化同盟を組織する。その代り、一つの学外団体を作り、建設者同盟の名称を冠することにしたのである。転換に当って発表した建設者同盟結盟宣言には次の如き言葉が連ねられている。

建設者同盟は、従来、学生の団体として、ブルジヨアの大学のうちに、その翼に守られて育つた。だが、今ここに解体し、学生団体としては、更めて文化同盟と称して生れ、新しき建設者同盟は、全国に於ける志を同じうする士の結盟として生るるに至つた。新建設者同盟は無産階級運動に従ふ者の○○的結合により、無産階級による政権の獲得、経済的搾取の廃止、並に無産階級の絶対的解放を実現せんとする戦闘機関にして、兼ねて、思想的教化宣伝の機関である。全国の同志諸君!来りて之に投ぜられんことを!

一九二三・三・一 建設者同盟

(『建設者』大正十二年三月十八日発行 号外)

そこから、我々は建設者同盟のメンバー達が短時日に経験した激しい思想的変化を推察することができる。

 同盟の性格の転換の原因として、もう一つ挙げなければならないのは、創設期メンバーの卒業という事情である。和田は十一年、浅沼、稲村、三宅らは十二年の卒業である。卒業後も労働運動・社会運動に従事することを望んでいた彼らが結局実際に落ち着いたのは農民運動であった。この辺の事情を、北沢は次のように述べている。

建設者同盟の学生たちは、いよいよ学校を卒業ということになったが、学校の成績はあまり良好ではなかった。そのうえ、建設者同盟担当の田辺刑事が四六時中見張っているので、どこの会社も雇ってくれないし、「どうしようか」ということになった。徹夜で討論した結果、彼らは、「就職もできないので、社会運動をやりたい」と私のところに相談にきた。そこで、私は言った。「労働組合運動のほうは、すでに東大や京大の連中が根を張り、友愛会などにも多くの人たちがはいっている。しかし、農民組合の分野は関東地方ではまだ未開拓になっている。関西のほうでは賀川豊彦や杉山元治郎らの力で、すでに農民組合ができている。しかし、賀川君らの農民組合は、キリスト教的な人道主義にもとづいた救貧的な運動になりかねない。われわれは、未開拓の関東を中心に、真の農民組合をつくってゆくことにしようではないか」と。

(『歴史の歯車』 一二〇―一二一頁)

 こうして、三宅正一・稲村隆一・武内五郎は新潟県へ、森崎源吉は岐阜県へ、川俣清音は北関東へ、平野力三は山梨県へ、伊東光次は佐賀県へ入っていった。長い苦闘の末、彼らはそれぞれの地域の農民運動のリーダーとして現れていくのであるが、これは後日談である。当面の問題に戻れば、卒業を前にした彼らは建設者同盟を全国的な運動の拠点にしたいと考えていたに相違ない。機関誌『建設者』の刊行に思い至ったのも、その第一巻第二号に地方会員規約を含む綱領・規約を掲げたのも、こうした配慮からであろう。一方、彼らの卒業後をあずかる新人メンバー達は大学を取り巻く状況に押されて、ボルシェヴィキ・マルクス主義的になっていった。外からの働きかけがあれば、学外組織としての新建設者同盟と学内組織としての新しい団体への、二つに分れていく情勢にあったのである。

 なお、建設者同盟の創設者和田巌について一言すれば、彼は、文化同盟の出現、同盟の改編という騒然たる中に、二十六歳の若さで逝った。大正十一年に学苑を卒業後、日本農民組合関東同盟の幹部として大活躍をしていた和田は翌十二年一月、関東同盟を代表して、岡山県の藤田農場の争議の応援に赴き、悪戦苦闘を続けたが、退去命令を受け、その二十六日に帰京した。その時、彼は悪性のチフスにかかり、火のように熱い体をしていたという。帰京後直ちに、学苑近くの岡崎病院に入院したが、遂に立ち上がれなかった。『建設者』第二巻第二号には、いずれもその人柄を偲ばせる沢山の和田追悼文が掲げられているが、左に浅沼稲次郎(岳城)の記した一部を掲げておく。

私が和田と知つたのは、大正六年早稲田大革命のあつた九月だ。それ以来彼と共に種々の仕事をして来た。彼は情熱の士だ。彼の社会主義に対するそれは宗教化して居た。私は人生に取つて、情熱と勇気と行動が大切と思ふ。……俺は彼が死んだ様な気がしない。俺はまだ彼と話したかつた。彼が死んだ時其時は俺達同志が或場所に会合して、其門出を記念すべく写真を取つて居た時だつた。其時刻彼は此の世を去つたのだ。何だか因縁づけられた様な気がする。然し、彼は死んだのだ。俺達は尚一層結束を固くして進まねばならぬ。彼がなし得なかつた事を遂行せねばならぬ。

(『建設者』大正十二年四月発行 第二巻第二号 四九頁)

浅沼の運命を知っている我々は、これを読む時、二重の意味で感慨無量となる。

四 文化同盟の成立事情

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 大正十一年の中頃から、大学内の学生組織を統一すべしとの議論が高まった。一大学一団体なる主張の根拠は、学生運動は先ず大学内部に強固な基盤を持つべきで、そのためには学生組織相互の対立は解消されねばならないというものであった。この議論の発源地がどこであるかは必ずしも明白でないが、同年七月非合法に結成された日本共産党であるとしてほぼ間違いあるまい。共産党結成に先立ち、同年一月、山川均、田所輝明、西雅雄らは雑誌『前衛』を創刊したが、同誌上に田所の学生戦線の統一を要請するメッセージが載せられている。彼らはいずれも共産党結成の有力メンバーであるから、この議論が同党内に持ち込まれたことは十分に考えられるのである。

 議論が熱するにつれて、東京帝国大学、早稲田大学、明治大学、日本大学、第一・第三・第五・第七高等学校等、諸大学・高等学校の学生組織の連合体を作る計画が立てられ、十一月七日、ロシア革命五周年記念日の夜を期して、東京帝大の第二学生控所において学生連合会(F・S=Federation of Students)の結成が実現に移された。当然のことながら、F・Sは諸大学・高等学校の学生組織に対し強力に統一を呼び掛けた。学苑における文化同盟の結成は、この呼び掛けに応えたものであった。文化同盟なる名称の由来は「文化会」の文化と「建設者同盟」の同盟にあるように思われる。結成に当っての建設者同盟側のメッセージは前掲の通りであるが、文化会の側のそれは知り得ない。いずれがイニシアティヴを取ったのかも不明であるが、名称などから推すと、文化会であったと推測される。

 文化同盟の綱領・規約は、現在のところ発見できない。我々が持っているのは、大正十二年五月五日付『早稲田大学新聞』に載った、次のような紹介記事だけである。

文化同盟

一、本同盟は魔術的ブルヂヨア思想に反抗して虚偽と矛盾に満ちた現代ブルヂヨア社会を科学的に検討し、新しき社会の建設を志しての研究と訓練をなすを目的とす。

二、講演、五月一日より四日迄、唯物史観の社会学的考察(大山郁夫)、六月上旬、マルクス経済学(北沢新次郎)、五月中旬、近世社会思想史(平林初之輔)、以上連続講演にして、右の外、小泉鉄、高橋亀吉鈴木茂三郎、市川正一、小牧近江、佐野学(ブハーリン著共産主義入門)、猪俣津南雄(ポストゲート著ボルシェヴィズム)、諸講師毎週一回宛講演せらる。毎月一回宛公開講演会を開く。

三、金五十銭、入会金不用。

四、会長大山郁夫、顧問佐野学北沢新次郎猪俣津南雄

しかし、ここに示された講演会開催計画は殆ど実行されずに終った。文化同盟は、ほぼ同じ頃に結成された学生組織軍事研究団の活動阻止に全力を挙げることを決めた。両者の対抗は五月十日に激しい形で現れ、学苑の殆どすべての学生を巻き込んでエスカレートしていった。いわゆる軍事研究団事件である。その結果、五月二十日、文化同盟は喧嘩両成敗的に解散に追い込まれたからである。

 五月五日の夜、東京帝大第一学生控所で開かれたF・S総会の席上、文化同盟の松尾茂樹は「今に早稲田を挙げての思ひ切つた戦ひの火蓋を切るのだ」と宣言し、総会を緊張させたという(菊川忠雄『学生社会運動史』一九八頁)。この事実によっても、軍事研究団事件が同盟の深い決意のもとに起ったものであることが了解されるであろう。