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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十三章 研究室蹂躙事件

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一 大正十二年六月五日

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 大正十二年六月五日、正午を十分過ぎた頃、数台の自動車が学苑本部建物の前に横付けされた。降り立ったのは滝川検事、沼予審判事、裁判所書記、警視庁刑事の一行であった。彼らは本部応接室で難波幹事と会見し、「治安警察法」第二十八条「秘密ノ結社ヲ組織シ又ハ秘密ノ結社ニ加入シタル者ハ六月以上一年以下ノ軽禁錮ニ処ス」の嫌疑によって、佐野学猪俣津南雄両講師らの研究室を捜索すると告げた。翌日、難波は「官憲の手によつて研究室を捜索されるなどは頗る迷惑を感ずるが、昨日は司法官憲もなるべく学生やその他の者の目に立たないやうにするからと頼まれたから許したのであるが……」(『東京朝日新聞』大正十二年六月七日号)と新聞記者に話している。しかし、総長にも諮らず、独断でかかる重大な判断を事務的に行ったのは、厳しい批判に曝されざるを得なかった。

 滝川検事・沼予審判事の一行は恩賜館へ向い、両講師の研究室を捜査したが、当時、研究室は幾つかの机を並べた共同研究室とでも言うべきものであったから、両講師以外も調べられたような形になった。新聞が、「佐野、猪俣両講師の研究室内を詳細に点検し……佐野氏と同じ商科研究室の労働問題を講ずる北沢新次郎教授は元より資本主義商業経済の小林行昌教授に至るまで捜査の手は及び……大山郁夫、出井盛之両教授の席も同様詳に点検……」(『国民新聞』大正十二年六月六日号)と報じているのは、それ故であろう。捜査は二時四十分頃まで続けられ、風呂敷包一個と厚さ四、五寸、幅一尺位の紙包一個が証拠として押収された。一行が学苑を去ったのは午後三時であった。

 ところで、この事件はより大きな事件、すなわち第一次共産党事件の一端であった。前述の如く、日本共産党は前年七月、社会主義団体や個人を結集して秘密裏に結成された。治安当局は間もなくこの動きをキャッチし、着々と準備を進めていたが、準備なって六月五日の未明、警視庁を中心に警察の総力を挙げ、いわゆる「主義者」の寝込みを襲う全国一斉の大検挙となった。学苑研究室の捜索はこの一環として行われたのである。従って、翌六日の新聞紙面は二つの事件をセットにして、大活字を以てきわめてセンセーショナルに報じている。例えば、『東京朝日新聞』の第二面には「社会主義者大検挙/暗殺や赤化運動/軍隊や学生の間に主義宣伝の計画発覚/早大教授とも連絡か」、「判検事早大に臨検/恩賜館内の両教授研究室に/長時間隈なく捜査す」の見出し活字が踊っている。

 しかし、この時点で何故に大がかりな研究室の捜索を行ったのか、その理由は必ずしも明らかではない。一年近い内偵で、組織、メンバーなどの証拠を固め、全国的大検挙に出たその当日に、あらためて大学の研究室を調べるなどとは間が抜けていて、腑に落ちない。公判のために、少しでも証拠を増やす、第二次検挙のための手掛りをつかむなど、理由を挙げることはできるが、それにしても依然として右の疑問は残るのである。ここにおいて、我々は軍事研究団事件との関連を考えることが必要となる。共産党大検挙と研究室捜索を報じる六月六日の新聞記事の中には、二つの事件と「早大騒動」とを結びつけているものがかなりあった。例えば、『都新聞』は「暴露の動機は/例の早大騒動/主義者両派の軋轢に乗じ/先づ共産派の一掃に着手」との見出しのもとに、次のように報道している。

社会主義者大検挙の動機は例の早稲田の軍事研究団の騒動に端を発してゐることが明瞭となつたのである。その経過を聴くに、山川均氏の主宰する水曜会、堺利彦氏の無産社、近藤栄蔵氏の突破社、高津正道氏の暁民会、市川正一氏のたねまき社及び曩頃解散した早大の佐野学猪俣津南雄両講師等の文化同盟などの各主義者の団体が二つに分れ、所謂堺・山川・荒畑氏等の共産主義と大杉・岩佐〔作太郎〕・加藤氏等の無政府主義とが啀み合ひ、一方労働運動の方も総同盟と反総同盟との二つに分離し、総同盟は合同主義を採り、一方は聯合主義の下に何れも夫々相連絡し、無政府側に云はせると、相手を日本共産党と称し、一方はまた無政府側を日本無政府党と名づけて喧嘩が絶えなかつた虚に乗じ、警視庁では女探偵やら買収係を放つて盛んに彼等の挙動の探知に努めてゐた矢先き、共産党の勢ひが益々旺盛となつて知名の学者連までこれに共鳴するやうになつたので、警視庁の神経は弥が上にも尖り出し、折から例の早大の騒動が突発したのを切つかけに警視庁では軍事研究団の後援として起つた森伝及び警視庁巡査で同大学の柔道教師をやつてゐる結城源心らの縦横倶楽部員をして文化同盟の会員から凡ゆる証拠を蒐集して、計らずも五日の大活動となつたもので、今回は主に共産党側の主義者の一掃に努めるらしい。

 文化同盟員たる学生から集めた情報で大検挙劇が現出したとの記事は大いに眉唾物であるが、軍事研究団騒動が大検挙に踏み切るきっかけとなったのは間違いないと思われる。この関連については、次のような佐野学をめぐる話がもう一つある。荒畑寒村の勧奨で共産党員となった佐野学は、その地位と学識からすぐに党幹部となり、重要書類を保管する立場となった。安全な保管場所はと、あれこれ思案の末、佐野は研究室を選んだのだという。ところが、軍事研究団をめぐる騒動が大きくなり、文化同盟への治安当局の手入れの噂がささやかれ始めたので、佐野は名簿の保管場所を変える必要を感じた。第一次共産党事件の「予審決定書」によって、後を続けよう。

五月十日早稲田大学内の軍事研究団と文化同盟との衝突に際し、佐野学は主義者の検挙を見るべしと思慮し、曩に保存に最も安全且つ確実なりとして早稲田大学研究室内に隠匿しおきたる党の書類中、前記英国共産党暫定党規外二の書類を、同月十二、三日頃東京府北豊島郡巣鴨町字庚申塚六百十三番地元坑夫渋谷杢次郎に之が保管方を託したる所、同月二十四日頃同人宅に於いて革命歌を高唱したるため警察より捜査を受け、ために右書類を押収され事実発見するに至りた〔り〕……。

(菊川忠雄『学生社会運動史』 二一二―二一三頁)

 一説には、佐野の保管した党文書中に党員名簿があり、それが右の事情で官憲の手に渡ったのが大検挙につながったのだという。しかし「予審決定書」にもその事実は触れられていない。軍事研究団事件が第一次共産党事件を生んだとは俗説に過ぎないとすべきであろう。だが、両者には密接な関係がある。それは何か。官憲は、共産主義が遂に大学を捉えたとの判断を、軍事研究団事件を通して抱いた。現職の教員佐野・猪俣が共産党員となり、学生を動かして軍事研究団撲滅運動なる反体制運動を早稲田の学苑の中で展開したと、官憲は受け取ったのである。この判断は、前述の如く、反文化同盟の動きの中で執拗に提出されたものでもあった。かく判断した官憲はもはや事態を放置できないと決意したに相違ない。こうした意味で、軍事研究団事件は第一次共産党事件の引金となったのであり、従って、両者は密接な関係にある。こう考えてくれば、共産党大検挙と同じ日に、学苑の研究室が捜索された理由も明瞭となろう。その理由を一言にして言えば、日本の大学人全体に対する警告であり、見せしめであった。つまり、大学の教員といえども、社会主義や共産主義の運動に関与すれば、官憲の追及を免れるものではない。また、そのような教員を存在させている大学も官憲から自由ではあり得ない。政府は学苑の研究室をいけにえとして、天下にその意志を知らしめたのである。学問・研究の自由が深刻な問題として提起されていったのは当然であった。

 治安警察法違反の嫌疑を受けた佐野学は、事件発生の前日、学苑の同僚・学生の前から姿を消し、以後二ヵ年に亘ってその消息は杳として知れなかった。彼は軍人に変装して日本を脱出し、天津、北京、上海を転々とした後、シベリア鉄道でモスクワに赴き、亡命生活に入った。その間に国内の情勢は目まぐるしく変り、日本共産党も解党に追い込まれた。そんな事情もあってか、彼は大正十四年七月二十九日に帰国し、そのまま警視庁に自首した。一方、猪俣は身辺を捜査されながらも、暫くは行動の自由を維持し得た。猪俣は社会主義理論についての深い造詣の故に、日本の社会主義者に広汎な影響を与え、共産党の結成にも一役買ったものの、彼自身は入党しなかった。一時、彼についての疑いは晴れたと報道されたくらいである。しかし、官憲の疑いは根深く、事件から一ヵ月余を隔てた七月十四日になって、自宅から拘引され、長く未決監につながれることになった。

 前述の如く、五月半ば頃から、社会主義教員の解職を求める声は一部の学生・校友から上がっていた。その声は研究室捜索事件以後一段と強まり、高田総長に直談判に押しかけるグループも少くなかった。総長以下学苑当局はこうした声に踊らされることは全くなかった。この事実は強調されるべきである。研究室捜索があった当日、高田は新聞記者に見解を表明しているが、その中で佐野・猪俣問題にふれて、「学校は飽まで研究・教育の場所であつて実行する所ではないのだ。これを破つたものは校規によつて処断する。それも協議の結果によらねばならぬ」(『東京朝日新聞』大正十二年六月六日号)と述べた。研究の領域に属する限り、二教員がどのような思想・理論にコミットしようが、それは問うところではない、しかし、二教員が政治運動に従事し、その運動が国法に触れる場合には、責任を執ってもらわねばならない、だが、この場合も、総長の独断ではなく、協議の結果によるべきである。以上三点が二教員問題に対する、高田の基本方針であった。佐野の嫌疑が濃厚となった段階においても、学苑当局は慎重であった。六月十一日の定時維持員会は「本大学ノ一講師ガ其筋ノ嫌疑ヲ蒙リタルハ遺憾ナルモ未ダ以テ事件ノ真相ヲ確知スル能ハズ。仍テ此際篤ト事実ヲ究メ適当ノ処置ヲ執ルベシ」と決議している。学苑当局を目がけて押し寄せていた有形・無形の圧迫を推測する時、この態度は十二分に評価されるべきである。

 学苑が佐野・猪俣の解任を決定したのは十月八日の定時維持員会においてであった。佐野は六月五日以来行方が知れず、猪俣は収監後三ヵ月を経過していた。この段階でのこの処置はやむを得ぬものであったろう。「本大学講師の嘱任解き候間、此段及御通知候也」との辞令は十月十四日付で発令された。

二 学問・研究の自由の侵害

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 研究室蹂躙事件といわれる研究室捜索事件は、事件それ自体は大したものではなかったが、それが持つ意味は巨大且つ深刻であった。大学における学問・研究の自由・独立は具体的には研究室の不可侵であり、研究室に官憲が踏み込んだのは学問・研究の自由・独立が侵されたことになるからである。

 この問題に最初の反応を見せたのは新聞であった。『東京朝日新聞』は翌日の朝刊第一面「今日の問題」欄で、

社会主義者の大陰謀事件が発覚し大検挙が始まつた。そして検挙の手は早稲田大学にまでのび、その恩賜館研究室は捜索をうけた。この一点は却々軽々に看過が出来ない。官憲は只法の命ずるままに行動してゐるので、それが大学でも、講師教授の私宅でも、一向構はぬのであらうが、大学側から見れば、これ大学の独立、学間の自由を失つたことになる。天下の大問題である。

と論じ、大学の独立、学問の自由を侵した官憲を批判するとともに、それを簡単に許した学苑当局を論難した。

 しかし、高田総長以下学苑運営の責任者にとり、問題は深刻・複雑であった。当日折衝した難波幹事らをかばう配慮も必要であったが、政府筋の神経を逆なでするのは避けねばならなかった。当時の官憲の強大な権力や、社会主義思想を国家に対する反逆とする一般的風潮を考えれば、当局の立場はまことに苦しいものであり、今日の視点で、超越的な裁断を下すのは慎まなければならない。学苑当局は大学の独立、学問の自由につき、置かれた立場の限界内で最大限の考慮を払ったのである。六月発行の『早稲田学報』(第三四〇号)に寄せた高田総長の談話に、我々はそれを見ることができる。高田は佐野らの嫌疑に触れた後、大学の独立について次のように述べている。

また、予審判事が研究室を臨検したといふ一事は、学園として頗る重大なる問題である。臨検の際予審判事諸君は、礼を厚うして許可を求めたが故に、これを許したに相違ないが、しかし、これを許さないとすれば国家の権力を以て臨むべき性質のものであるから、今日の日本の法律では、国家の権力を以て臨まるる以上、如何なる学園も、臨検を拒む訳に行かぬのは、瞭かである。しかし、問題は、それで尽きてゐるとは思はぬ。即ち、問題は、単に法律問題でなく、国家の権力に対する学園の威厳、研究の自由といふ事を含んだ問題であると考へる。乍併、この問題は法律を超越した問題であるから、臨検を求められた当時に、これを拒んだとて解決し難いのである。自分の観る所では、学校の威厳は勿論傷けられたが、しかしながら、今後の裁判の成行によつて事件が極めて重大であるといふ事が証明さるるか、或はまた、その臨検の結果によつて、的確にして重大なる証拠が挙げられたとすれば兎に角であるが、若し然らずして、或は大山鳴動して鼠一匹も出ないといふ事になり、または、学園の研究室に入つて、神聖なる研究の自由を侵してまでも、何等証拠を得る所がないといふことになると、これは、学問の神聖、研究の自由を軽率に毀損したといふ問題になつて極めて容易ならざる事件を後に残すものと思考する。また、そうなれば、問題は独り早稲田大学の問題のみならず、総べての大学に関係する大問題であつて、大学対司法権の最も重要なる問題を後に残すものと考へられるのである。 (一九頁)

 そこに高田が含意させているのは、こうである。すなわち、大学の研究室を楯として、不法な実際行動がなされている証拠が研究室にあると、司法当局が慎重考慮の末に判断したのなら、捜索もやむを得ない。しかし、その辺が曖昧のまま、安易な態度で研究室に立ち入るならば、それは容認できない。司法当局もそのようなことは絶対に避けてもらいたい。司法捜査上やむにやまれぬ行為という一線を越えれば、権力による大学の独立、学問の自由の侵害になる。一方、教員の側も、大学の独立、学問の自由という名分を隠れ蓑として、不法な実際運動をすることがあってはならない。かかる行為は官憲を引き入れて、大学の独立、学問の自由を奪う行為に他ならない。

 大学の独立、学問の自由は存在するものではなく、存在せしめるものであるとの立場で論じた一人に、吉野作造がいる。彼は先ず、司法官憲が研究室を捜索する行為自体は何ら責められるべきものではない、「若し学園の自由といふ見地から責められるべき者がありとすれば、そは早稲田大学の当局者でなければならぬ」(「学園の自由と臨検捜査」『中央公論』大正十二年七月発行 第三八年七月号 八五頁)として、次のように言う。官憲に要求されたからといって直ちに応じる必要はない。例えば、一時研究室を封印して、その上で嫌疑をかけられた教授当人を呼んで、「堂々と其筋の質問に答へしめる」というような処置がとられるべきではないか。

其の要求に遇ふや直に一も二もなく之に応ずるは、啻に教師其人に対する非礼であるのみならず、又自ら侮るの甚しきものではなからうか。狼狽か、意気地のないのか。早稲田大学当局の措置は余りに醜態を極めて居る様に見へる。昨今伝ふる所に依れば、高田総長は急に維持員会とかを召集して、学園の権威の為に場合に依ては当局を糺弾すべきの決議をしたとやら。彼等は一体何を戸惑して居るのであらう。学園の権威の為に鎗玉に上げらるべきは、唯一つ学校当局者であつて、断じて司法官憲ではない。世人はこの点を見誤つてはならぬ。……要するに学園の自由は学園自ら守るべきものだ。学園自ら擁護の道を誤つて、ひとり徒らに他を責むるは、飛んでもない見当違ひだ。司法当局に対しては学園の要求あらば相当穏便の処置に出でられんことを希望するが、何の要求もなかつたのなら、普通一般の方法でドンドン捜索の手を進めて少しも不都合はないのである。

(八五―八六頁)

更に、吉野は大学教授の態度にも言及し、教授が研究室を運動の根拠地にして、その根拠地を守るために大学の独立、学問の自由を叫ぶとすれば、それはとんでもない誤りだと手厳しく指摘している。すなわち、

教師が学術の研鑽以外実際運動に干与するの是非は別に論ずるの余地あるが、仮りに実際運動に与るとして、研究室を其の策動の一根拠地とするは、学園の期待を無視するの甚しきものである。研究室を設備する学校の目的はもと決して無条件ではない。換言すれば提供を受けた教師は研究室を何に使つてもいいといふのではない。だからこそ、研究室は神聖なりとせらるるのだ。研究室といふ名に神聖なる性質があるとして、玆処を丁度いい安全なる策源地とするは、卑怯でもあり又憎むべき学界の冒瀆でもある。事実の如何を今僕は知らないが、若し少しでも学術以外の証拠品が多量にここに見出されたとすれば、僕は当該教師の不謹慎を極度に責めざるを得ない。 (八七頁)

結局、吉野の立場は、学者は自己を研究の領域に限定することによって、所与の法秩序の下に大学の独立、学問の自由を守るべきであるとの立場である。だから、彼は言う。「尋ねらるれば意見は述ぶる。時としては進んで助言もする。が、どんなに心やすい人のやる事でも、実際運動には容易に没入せぬことに用心して居る。之が学者としての当然の態度だと信ずるからである」(八八頁)と。

 しかし、原則的に吉野の立場に立つとしても、結果的にそれを越えねばならぬこともある。自己の意見・批判を徹底して押し出せば、実際運動の性格を帯びてくるからである。吉野的立場を厳格に守ろうとすれば、当局の忌憚に触れないような消極的な意見・批判を述べるにとどまらなければならないであろう。吉野は大山郁夫を評して、「大山郁夫君の如き、随分あぶない様に世間からは見られて居るが、あれで実際界には一歩も足を踏み入れて居ない様だ。だからこそあれ程思ひ切つた評論を下し得るのであらう」(八八頁)と言っているが、研究室蹂躙事件に大学の独立、学問の自由の危機を実感した大山は、職を抛っても、現在の危険な傾向を押しとどめねばならぬと深く決意した。その決意の実行が「大学擁護演説会」での講演であり、大山は実際運動へと一歩踏み込んでいくことになった。この講演会は学苑の雄弁会が中心となって計画されたもので、官憲の妨害を排して、六月二十六日、東京神田のキリスト教青年会館で開催された。講演者は三宅雪嶺、福田徳三、大山郁夫の三人であったが、各方面の注意は当然、大山に集まった。大山は研究室の捜索を受けた当の学苑の教授であり、文化同盟顧問として、軍事研究団事件以来一貫してその態度を鮮明にしてきた人物であったからである。大山もこの講演会への出席については深く覚悟するところがあったらしく、「高田先生にだけは一応通達」したと言われる。

 定刻六時の遙か前にキリスト教青年会館は聴衆で満員となり、入れない人々が門前に群れ立った。三宅の後を承けて演壇に立った大山は「大学の使命とその社会的意義」と題して、次のような思い切った講演を行った。

その本質上進取的なものである科学は、本質上保守的なものである支配階級と衝突する必然性をもっている。科学の本質を尊重する精神によって動かされている我々が、しばしば支配階級と対峙する運命に陥るのは、決して偶然だとはいえないのである。殊に社会科学の方面に於ける学徒である我々は、上にのべた理由によって、一層直接に支配階級の中に在って漸次圧倒的勢力を得ようとしている資本家階級からの圧迫と戦わなければならなくなっているばかりではなく、旧来の支配階級として、なおある程度に過去からの残勢を維持している官僚軍閥からの圧迫とも戦わなければならない地位におかれているのである。……

大学の主要構成分子は、教師と学生とから成りたっている。しかるに、わが国においては、学生の学術研究団体中の、少くともある種類のものが、ある方面の手厳しい圧迫を受けているのである。しかも、更に遺憾なことは、一般世人がこれをさして重大視していないことである。私の直接経験からいえば、社会主義とか、無政府主義とかその他ある種類の社会学説の研究を目的としている学生の大学内における研究団体の多くが、ある方面から、常に深刻なる猜疑と嫉視とを投げかけられていて、或は危険性を帯びたものとして強き圧迫の下におかれ、或はしばしば様々の奸手段によって、危険性を帯びたものとして宣伝せられているのである。こういう種類の研究が、社会生活の研究のために必要なものであることは、問題にならない程それ程当然である。しかるに、それに従事して、陰惨なる空気のなかで、彼らの面部に張られた幾多の網や、彼らの足もとにもうけられた幾多のおとし穴の間を、右に左にくぐりくぐり、その研究を遂行するといったような悲惨な運命と戦っているのである。こういうことは、ツァーの治下の旧ロシヤ帝国においてならば格別、現今の文明国と呼ばれている他の国々において、どこにその類例があるか?…… (『大山郁夫伝』 一一八―一一九頁)

 このように論じてきた大山は感に耐えず、流涕し、声を震わせた。聴衆また感動し、演壇の前にいた学生達は皆狂気のように突っ立って帽子を振り腕を揮って、大山とともに泣いた。大山の講演には会場の雰囲気から来る多少の誇張があるように思われるが、全体には的を射たものであった。前述の如く研究室捜索は捜査上やむにやまれぬものではなく、大学への社会主義思想の拡大を叩くための見せしめであった。事実、これ以降、高等教育機関での社会科学研究の弾圧は文教という行政レヴェルで行われていくのである。吉野の議論は事態への対策としては賢明な論と言うべきであるが、問題の洞察には著しく欠けるところがあった。大山には、吉野流の議論は事態に従属的に対応する逃げの議論であると考え、耐えられなかったのであろう。大山は官憲の思惑を真正面から批判し、それを変更させようとした。従って、意見表明そのものが実際運動の性格を帯びた。少くとも官憲はそのように受け取った。また、大山にとっても、それは政治の実際運動への出発点となったし、ならざるを得なかったのである。

三 関東大震災時の大山の受難

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 第一次大戦後の社会主義運動の本格化は反軍国主義運動の本格化でもあった。それだけに、軍部、なかんずく陸軍将校は、社会主義者と目する者に対して強い怒りと深い恨みを抱いた。満座の中で陸軍次官や師団長を嘲笑した軍事研究団事件を、彼らは勿論忘れなかった。蓄積された怒りと恨みのエネルギーは、関東大震災による危機感で増幅されつつ、彼らを駆って社会主義者に対する報復の挙に出させた。大杉栄・伊藤野枝夫妻は、甘粕正彦東京憲兵隊渋谷分隊長兼麴町分隊長とその部下により、幼い甥とともに大手町の東京憲兵隊内で扼殺された。麻布三連隊の営所に裸で引き出され、拳銃で射殺されたともいう。また、労働運動の闘士河合義虎、平沢計七らは亀戸警察署の庭でむごたらしく虐殺された。直接手を下したのが軍人であったか警察官であったかは不明であるが、殺害を指示したのは軍部といわれる。軍事研究団事件の演出者の一人と目され、また大学擁護演説会では激しく革命熱を煽った中心人物の一人とマークされていた大山も、陸軍テロの対象として挙げられていた。大山襲撃計画は大正十二年九月七日に実行された。当時、明治大学の学生で、大山の身辺にいた田部井健次の回想『大山郁夫』によって、その模様を見よう。

 田部井の訪れたその日の朝、避暑先の千葉の海岸から既に帰っていた大山は、柳子夫人、一人息子の聡とともに遅い朝食をとっている最中に、大勢の兵士達が剣付鉄砲を持って押し寄せて来た。田部井がドアの鍵を開けると若い中尉が泥靴のまま上がりこもうとした。田部井はその無礼を咎め、新聞紙を敷くからその上を伝って部屋に行くようにと言い、承知させた。

僕は、なほ、その若い将校と問答をしてゐる間に、玄関の前にずらりと並んでゐた兵隊たちの様子をも、いろいろと観察しました。玄関のそとにゐたのは約二十人ほどでしたが、なほ、垣根のところにも、二間に一人くらゐの割合で兵隊が配置されてゐるのがちらりと見えました。多分、家の周囲全体をぐるりと取りかこんでゐるのでせう。全部では、約五十人くらゐの兵隊が動員されて来てゐるらしいのです。また僕は、その兵隊たちの全部が、各自の銃にギラギラした剣を着けてゐるばかりでなく、彼等が、ことごとく、その銃に安全装置をかけてゐるのを見て取りました。僕自身かつて軍隊生活をした経験がありますので、それを見た瞬間に、「ははあ、奴さん達実弾を込めてゐるな!」といふことを直ぐに悟りました。 (一四頁)

大山は隊列の中に押し込まれるような形で何処へともなく連れ出された。田部井も無理やりに同行した。

やがて私たちは、約一時間ほど歩いて、落合の憲兵隊屯所へ着きました。そこは、普通の住宅を臨時に憲兵隊屯所にあてたものでしたが、相当に広い家で、その家の庭には多数の兵隊が、あちらこちらに屯してゐました。大山先生と私とが通されたのは、その家の八畳ほどの広さの板敷の応接室でした。時間は、十一時少し前だつたと思ひます。私は、その部屋へ入れられるや否やとつさに窓のところへ行つて外の様子を見ましたが、その窓の直ぐ下には、十数人の兵隊が屯してゐるので、いざとなつても、そこから逃げ出す可能性は全く無ささうです。また、この応接室の入口のドアの外にも、たしかに数人の兵隊が頑張つてゐるやうです。で、私は、先生の方を向き、小声で、「先生!」と言ひながら、あごで、窓とドアとをさし、「あつちも、こつちも駄目さうです」と言ひました。その時先生は、ソファに腰をかけてゐましたが、しみじみとした調子で、「田部井君、玆でむざむざと殺されたのでは、どうも犬死の様な気がする。もし僕が殺されたら同志と協力して大いに葬ひ合戦をやつて下さい」と言ふのです。 (一七―一八頁)

 しかし、大山は何等の危害を加えられることもなく、夜の八時頃に帰宅を許された。これは結果的にそうなったまでで、連行の目的は大山暗殺であったという。震災から数年後、元憲兵隊参謀であった四国の一町長が労農党の数人に次のような話をしたと伝えられている。

諸君は何も知らないだらうが、君たちの党首の大山さんは、大震災の時に危く殺されかかつたんだよ。陸軍の或る秘密本部の方針で、大山さんを、あのどさくさまぎれに暗殺することになり、憲兵隊が、大山さんを自宅から落合の屯所へ引つぱつたのだが、その引つぱり方が余り大げさだつた為に、附近の民衆が騒ぎ出し、それをまた新聞社が嗅ぎつけ、四方八方へ電話をかけて大山さんの行方を探したものだから、憲兵隊でも、たうとう大山さんを殺すわけには行かなくなつて了つたのさ……。

(二八―二九頁)

この話はあくまでも伝聞として引用する。しかし、大杉らの運命を思う時、反軍闘争の頭目と看做された大山について、右は十分にあり得たこととしてよいであろう。