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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十二章 軍事研究団事件

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一 学校と軍隊

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 大正十二年五月十一日の全国の新聞は大見出しで、前日の早稲田大学大講堂における大荒れの軍事研究団発会式の模様を報じた。当初、同発会式は四月二十八日開催と予定されたが、大隈重信夫人綾子が危篤に陥ったこともあり無期延期され、綾子の葬儀の終った五月十日に開会と決まったのである。開催に至る右の事情からも分るように、全国の耳目を聳動させた社会的大事件は、半面において実に早稲田的な出来事でもあったのである。それでは、発会式はどのように展開したか。「軍閥を眼のかたきに/角帽連まつしぐら/学生のするどい弥次の重囲に/きのふ発団の早大軍事研究団」とのセンセーショナルな見出しを大活字で記した『東京日日新聞』の記事を、左に掲げよう。

角帽に学生服で等しく兵卒の間に伍し、馬糞を握り砂塵と汗にまみれて軍事を研究する目的で、青柳教授を団長とする早大軍事研究団の発会式は十日午後三時から同大学講堂の二階で挙行された。来賓には白川陸軍次官、中島近衛、石光第一の両師団長、古川陸軍省教育局長、広田軍令部参謀をはじめ団員の騎兵科教官騎兵第一聯隊の小島少佐、砲兵科教官木越少佐をはじめ、勲章を胸にかがやかした軍人連が二十余名参列した。会場には団員七十名の外、一般学生席を設けて、学生の入場を自由にしたので、二階からあふれ落つるまでぎつしりと入り込んだ定刻、副団長の茂木剛三郎氏が立つて「これから式をはじめます」とまでは何事もなかつたが、団長青柳教授が登壇し、団員総代の望月光徳氏がこれに面して宣誓文を読み上げ、「模範国民の造成はわが早稲田大学の中外に宣明する所」までくると、臨場の学生の中から「人殺しの仲間入りをする奴が何が模範だ」、「この宣誓文は学生の意志ではないぞ」、「学生は人殺しを学ぶべきものか」と弥次を飛ばすものが出て、それを制止するもの、またそれをののしりかへすもの続出、「馬鹿ッ」「だまれッ」と怒号嘲罵の声が各所に起り、はては手を打ち、床をふみならして騒擾の極をつくしたが、団員総代は朗読を進め「武技を修め、規律を練り、心身を鍛へ以て母校建学の趣旨に副はんことを誓ふ」と結んだ。青柳教授は更に訓示演壇に移り、壮重なる態度で「私は」と切りだすと、「軍国主義者であります」と弥次りだすものがあり、「青柳の馬鹿、はぢを知れ」とののしれば、他方から「はぢを知らぬから早稲田を軍閥に売るのだ」とどなるものもあつて、演説を進ませない。総長の塩沢博士の顔を見ると、眉をしかめ朝鮮ひげをうごめかしてキツト弥次学生の方をにらまへてゐるが、どうすることも出来ない。更に、軍人側はと見ると、中島近衛師団長は例の通りはげ頭を光らかし、ゑびすさんがたひをつり上げたやうな顔してござつたが、白川次官は口一文字にむすんで軍刀のつかを堅く握りしめ、時々顔面の筋肉をぴりぴりとうごめかしてヂツとこらえてゐた。ゐ並ぶその他の軍人連も軍閥々々とののしられて、長矩侯の切腹した時の赤穂浪人の様に、いづれも軍刀をにぎり歯をくひしばつてゐたが、「右向け」といへば何百人でも一斉に動く兵隊さんとは異なつて、自由な学生の事であるから何とも思はぬばかりか、「学生の学校に人を斬る剣をさげたものを誰が入れた」、「つまみ出せ」とどなり散らし、青柳教授は発団の趣旨を述べたらしかつたが、少しも聞き取れず、弥次り倒された形で引下がり、ついで塩沢博士登壇、「大隈侯が在世中、軍人後援会長として軍人のためにつくされたではないか」と切り出したので、弥次は稍下火になつたが、それでも「侯のこころざしを裏切るな」とか、「本末を誤るな」などとまだまだ盛んに弥次が飛ぶ中を、博士は世界歴史の上から自由をまもり、国民をまもるためにも軍隊の必要を説き、その軍隊を研究し、一方に文をおさめ一方に武を練るの得策を説いた。次ぎに高田博士登壇すると「明治十六年をわすれるな」、「軍閥の手先」と弥次つたが、博士は少しも動ぜず、「言論の自由は立憲国では認められなければならぬ。早大の学生は教授や総長の体面を重んじなければならぬ」と一本釘をさし、更に「軍閥々々といふが、かかる言葉はつつしまなければならぬ」といふや、「軍閥の連中が現実にそこにゐるではないか」とどなるのもあつた。博士は「意見の相一致するものが合して研究するのだから軍事研究もよろしい。軍備撤廃を望むものは別にその研究団を作れ」と弥次を一蹴した。白川次官が祝辞の原稿を手にして登壇に及ぶと、左肋にかがやく勲一等の勲章を見て、「貴様の勲章からわれわれ同胞の血がたれてゐるぞ」、「ああ一将功成つて万骨枯る」と詩を高声に吟ずるものもあり、果ては「都の西北早稲田の森に」と校歌の合唱を初めて、シベリアの野に一師団の兵を動かした次官の声も学生の前にはあらしの中に尺八を奏するやうなもので、何の権威もないばかりか、功績を語る勲一等の光も三文の価値もなかつた。……四時二十分閉式して来賓が退場すると、いままで学生席にゐた学生は色をかへてかはるがはる登壇し、学生にして軍閥の仲間入りするの愚を痛罵し、他の学生これに和して盛んに気勢をあげた。 (大正十二年五月十一日号)

発会式終了後、勢いの赴く形ででき上がった反対集会において、学生達は翌十一日午後一時から、学苑中庭で軍事研究団撲滅演説会の開催を決議した。

 発会式の擾乱を行ったのが文化同盟のメンバーであるのは、前に述べたところからも明らかであろう。しかし、発会式後の反対集会の頃から表面に出たのは雄弁会で、十一日の撲滅演説会も同会の主催となった。文化同盟が表に立つと、軍事研究団およびその支援グループとの間の対立・抗争が一層激化し、大騒動は殆ど必至と見られたからである。雄弁会は、撲滅演説会では反軍の立場を明らかにするとともに、発会式での低次な弥次は非礼として批判していくとの方針を打ち出すことで、両者の歩み寄りを策したが、その考えは甘かった。反文化同盟の学生達は雄弁会を中立とは見ず、文化同盟の擬装に過ぎないとした。従って、撲滅演説会が一大修羅場となるであろうと危懼する人々は多かったのである。

 それでは、軍事研究団とはどんな団体であったろうか。また何故にかくも激しく、その撲滅が叫ばれたのか。これらの疑問に答えるには、我々は大学と軍隊との関係についてやや長期的な説明から始めなくてはならない。

 学校に軍事教練を採り入れ、平素から軍事になじむとともに逞しい体力を作ることは、国民皆兵の原則の上からも、是非とも必要であるとの主張は、早くからあった。既に明治二十一年前後に、文部大臣森有礼はこの主張を盛んに行った。大正に入ると議論は一段と具体化し、江木千之は各学校に兵式体操を設けよとの建議を出しているし、貴族院では木場貞長が、完全なる国民教育は小学校教育に始まり軍隊教育に終らねばならぬとの立場から、陸軍幼年学校を不必要ならしめるくらい、一般の学校での軍事教育を盛大にせよと主張している。

 第一次世界大戦後には軍部自身がこの主張者に加わるが、その理由の第一は、戦後軍縮の進行による将校の過剰であり、理由の第二は学校、特に大学における反軍思想の蔓延である。すなわち、学校の軍事教練を制度化し、過剰将校に地位を与えるとともに、学生のいわゆる思想悪化を防遏しようとしたのである。前者から述べよう。

 戦後、暫くは事態は軍縮とは逆の方向、つまり軍拡の方向に進み、貴・衆両院の縦断に成功した原内閣は軍拡基調の積極財政を展開した。八八艦隊の完成、陸軍特科部隊の増設、兵器の改良などのために十数億円の新規・継続費が計上され、軍事費は未曾有の巨額に上った。大正八年度決算では、陸海軍費合せて六億五千万円余で、歳出総額の四八パーセント、翌九年には七億三千万円余、四九パーセントに達したのである。しかし、十年以降は、一転して軍縮風が吹きまくる。相次ぐ恐慌に見舞われ、経済界の疲弊激化も、その原因の一つであったが、何よりも軍縮は大きな歴史のうねりにも似た世界の動向となったのである。そのきっかけはワシントン軍縮会議の呼び掛けであった。第四十四帝国議会では尾崎行雄が「軍備制限決議案」を提出し、否決されたとはいえ大影響を与えた。尾崎は更に島田三郎、吉野作造らを語らい、「軍備縮小同志会」を結成して各地を遊説し、ワシントン軍縮会議に対応する国内的条件整備に努力した。十一月より開かれたワシントン軍縮会議の決議は、英・米・日・仏・伊各国の主力艦保有量の比を一〇―一〇―六―三・三―三・三とし、航空母艦の保有量もほぼこれと同率とする、そして戦艦は今後十年間建造を見合せるとの我が国にとりきわめてドラスティックなものであった。しかし、翌十一年半ば、高橋是清内閣を継承した加藤友三郎首相は自ら海相を兼ね、同条約の実施に当った。戦艦摂津、安芸など十五隻が廃棄または除籍され、建造中の戦艦・巡洋艦のうち加賀、赤城は航空母艦に改造され、他の四隻は建造中止、未起工の戦艦・巡洋艦八隻の建造計画は御破算とされた。これにより海軍費三億五千万円が節約された。海軍軍人で整理された者、将校、兵合せて七千五百名、海軍工廠の職工のうち整理された者一万四千余人に達したのである。

 これと併行して、山梨半造陸相も陸軍軍縮を進めた。兵員(将校・兵)五万六千人、馬一万三千頭の削減、在営期間の四十日短縮などが実施に移された。陸軍の場合、海軍とは異って、兵器の近代化が是非必要であったので、金額で見ると削減は僅かとなった。例えば、大正十二年の節約額は二千四百万円余にとどまった。陸軍軍費をもっと削るべきだとの声は高く、こうした情勢は十二年の第四十六議会における憲政、国民両党による「陸軍軍縮決議案」提出へと連なっていった。とはいえ、陸軍の受けた打撃は大きく、若くして予備役に編入された将校の処遇は焦眉の問題であった。軍から離れた将校達は陸に上がった河童同様で、明治初期の旧武士の生活難を再現させるように思われた。同僚の憐れな境遇は陸軍全体の士気に悪影響を及ぼさずにはおかない。学校教育に軍事教練が採り入れられるならば、これら失業軍人にとり大きな救済となるであろう。軍幹部がそれを求めたのは当然であった。

 しかし、反軍思想・反軍感情の拡大は、一層深刻な問題であった。軍事研究団発会式会場で白川将軍に浴びせられた弥次は当時の民衆の心情でもあった。維新以来、日本は相次ぐ戦争で、国際的地位を高めた。経済・社会のレヴェル・アップがあったのも事実である。だが、そのためには、多くの兵士の犠牲とそれに数倍する家族の不幸という代価を支払わねばならなかった。国家という立場を離れて、戦争のバランス・シートを作れば、民衆の犠牲のコストの上に、政治家や将軍やビジネス・リーダーの成功が成り立っているという関係が現れてくる。やがて、国家的栄光の酔いから醒めた民衆が、過去のコストの補償を求める気持になったのはやむを得ない。一将功成って万骨枯るの心情が個々の軍人に向けられたとしても、その行き過ぎを一概に責めるわけにいかなかった。それは軍の側に反映し、若い将校の中には軍服やサーベルを風呂敷に包み、ネクタイに背広という姿で自宅を出て、兵営に着いてから着替えをする者が増えていったと言われる。

 かかる事態を、国防の見地から危険きわまりないものとして憂慮する人々の数も、次第に増えていった。反軍の思想・感情は軍隊の非力化により国防を危うくするだけでなく、国防そのものの軽視により、より危険な状態を作り出すと論ぜられた。この議論が一部、現実に軍に加えられている批判・攻撃をそらすためになされたのは事実であるが、より純粋に、国防そのもののレヴェルでなされたところもある。国防の問題を軍事力の優劣で捉える立場に立てば、それは当然起る筈の議論であった。軍事力とは兵器とそれを使用する兵士との総合力である。どんなに優れた兵器があっても、気力・体力に欠けた兵士しかいなければ、軍事力は弱い。しかも、この人の問題は近代戦が進むにつれて、次第に拡大していったのである。日清・日露の戦争はまだ前線にある将校・兵の行う戦争であった。いわゆる銃後の範囲は、日露戦争時においても、せいぜい在郷軍人ぐらいまでであった。しかし、欧州の大戦は様相を一変させた。大消耗戦であるということ、飛行機の登場などもあって前線と銃後の差が非常に狭まったこと等々、国民皆兵は建前ではなく、現実的な戦う態勢となった。換言すれば、国防は軍人の仕事ではなく、文字通り国民全体の仕事となったのである。この体制を裏づけるためには、全国民が生命を賭するに値すると感じる国家・社会を作るのが何よりも必要である。これは抽象的・一般的には反論の余地はない。だが、あるべき日本の国家・社会が何であるかについての意見は容易に一致しない。自由民権期における国権論と民権論の対立は、大正後期・昭和初期にまで、解決されることなく続いた。否、対立の様相はより複雑・困難になったと言うべきであろう。

 国防論の立場から、この問題の解決を目指した議論の一つとして、「軍隊の民衆化」がある。今後の国防は民衆を軍隊化する方向ではなく、軍隊を民衆化する方向で計られねばならぬとするものである。例えば、山梨陸相は、議会で軍部の側からの要請という形で、この趣旨を素朴に、従ってあからさまに述べているが、これに言及して青野季吉(大四大文)は次のように論評している。

学校教育を生ぬるい文部の分掌にまかせておくわけにはゆかぬ。社会教育をぐづぐづの内務の勝手にさせておく可き時ではない。軍部の将帥が自ら肥馬に鞭つて、この文化思想戦線の陣頭に立たなければならない。軍事予備教育計画の旗幟の裏に、右の文字が鮮やかに記されてゐることは、四十六議会の陸軍予算委員会席上の、山梨陸相の説明で明らかである。「国防といふことを人民自らが進んでやらずに、これを嫌悪するやうになつて来たならば、これは私は、わが国の思想上の一大変化とし、国の安危に関する所ではないかとまで、実は思つてゐる。唯々私はこの思想を導いてゆくことは頗る重要で教育上、又社会の教育上どうしても是はやつて行かなければならぬことと思つてゐる。」山梨陸相はさう云つてゐるのである。陸軍の主脳がここに忽ち文教の主宰者に早変りしたわけである。……山梨陸相に聞かう。「学校に於ける是等教育は、陸軍が要求するのでなくして、学校そのものが要求する。斯ふ言ふ方針はなれぬといふと、其所に何か余計なことをするかの如き感を与へてはいけない。又団隊がやるに付いてもその通り、地方の長官がそれを主としてやる。斯う云ふことにならぬと、どうも貫徹しにくい。」是れである。つまり言ひ換へると、陸軍の要求としたのでは甘く行かぬから、学校や団隊そのものの要求としてやると言ふのである。そして陸軍は知つたことぢや無いと言つて、ノホホンで居て遂には物の見事に、大計画を「貫徹」しやうと言ふのである。 (『改造』大正十二年七月発行 第五巻第七号 八五―八七頁)

山梨の言うところは、反軍の立場を採る青野季吉などによれば、要するに軍隊の民衆化という外見を執りつつ、民衆の軍隊化を進める策謀に過ぎないと解される。しかし、軍隊の危機感を越える国防の危機感が山梨の脳裏に存在したことは確かである。

 軍隊の民衆化について体系的に論を展開した者の中に学苑の教授青柳篤恒がいる。本節冒頭の引用にも見られる如く、青柳は軍事研究団の団長となった人であり、事件後、雑誌『改造』が第五巻第七号(大正十二年七月発行)で行った特集「軍事予備教育批判」に一文を寄せて、自己の思想・信条を語っている。青柳は先ず、軍事研究必要の一般的理由として、「規律性を基調としての自由、そこに正しい意味に於けるリベラリズムがある。規律ある国民の造就、そこに軍事教育の必要を認める。現代日本国民の国家的観念に就いて見る、そこにも軍事教育の必要を認める」(九一頁)と言う。すなわち、彼は規律を中心として自由を考え、国際政治の現実を中心として国家を考える立場を執るが故に、軍事教育の必要性の認識に行き着いたようである。青柳の考え方の基礎には、当時の反軍思想・平和主義思想を非現実的な空論か、さもなければ為にする手段的議論と見る考え方が存したようである。当時、世界を風靡したインターナショナリズムは、左右を問わず欧米諸国の建前論に過ぎないのであって、それら諸国の本音は国家(本位)主義なのだ、と青柳は考えていたらしい。だから、「僕は言ひたい、現実の国家主義は現実の国際主義と必ずしも矛盾するものではないといふことを」(九一頁)と、青柳は書く。かかる立場から軍事教育の必要性を主張する青柳は、現にある軍隊を是認したわけではない。彼においてあるべき軍隊とは何か。この点についての彼の意見は、次のようなところにあったとしてもほぼ間違いあるまい。すなわち、民衆化された軍隊への再編、具体的に言えば志願兵制度の創設、これである。かかる再編成へ向けて諸問題を検討するために、軍事研究が必要との認識が彼に生れたのである。

日本が、今のまま徴兵制度でいつまでも押し通さうとするならば、軍事予備教育を一般的に広く行ふべき必要を認めない。我日本の軍隊制度が改造されて、亜米利加の如く傭兵制度となつたならば、軍事予備教育は、之を一般に行はねばならぬ。それは挙国皆兵といふ見地から、軍備は縮小すべし而かも国防は充実せざるべからずとの見地から、今までの軍隊的国防にあらずして国民的国防の基礎を築き上げなければならぬといふ見地から。……吾人は、日本の軍事予備教育は、どうしてもその先決問題として、その中に現行軍隊制度の解剖分析を目的とする学理的研究を包含しなければならぬことを提唱する。

(九一―九二頁)

 帝国軍隊を志願兵制度に切り替える、その制度的保障として民兵制度を採り入れる、この目的のために軍事のあり方を研究するとの考え方は、反軍思想に優に対抗し得る一箇の見識と言わねばならない。しかし、当時の情勢には、かかる青柳の考え方を受け入れる余裕はなかった。軍部勢力とその攻撃者との対立・抗争はあまりにも切迫していたので、彼の如き考え方は軍部の政策(民衆の軍隊化)を支援する以外の何ものでもないと受け取られたのである。

二 軍事研究団の結成事情

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 軍事研究団の母胎の乗馬学生団がいつごろ創設されたのかは明白でない。それは軍隊の馬を借りて乗馬の練習をする体育系の学生組織で、研究的・思想的な性格はなかったようだ。しかし、乗馬学生団が軍事研究団に発展する条件は揃っていた。先ず、学生の軍事研究は、奇妙にも、軍縮の進行と併進した世界的な傾向であった。次に、乗馬学生団は青柳と親しい関係にあった。中国語の権威者青柳は、語学授業を通して参謀本部の幹部達と親しかったので、彼を指導者と仰ぐのは乗馬学生団にとり何かと好都合であったろう。青柳は前節で紹介したような考え方の持主だから、学生による軍事研究の流行という世界的傾向は、青柳を通じて急速に乗馬学生団の中に具体化していった。学生の軍事研究に協力する態勢は陸軍の側にも十二分に存した。学生の求めに陸軍が応じるという理想のパターンだからである。

 軍事研究団結成への動きは大正十二年四月に入ると本格的となり、次のような設立趣旨と趣意書が作られた。これらは印刷されて、学生達に配布されたらしい。前者の一部と後者の全文を左に掲げておく。

早稲田大学々生軍事研究団設立趣旨

人類文明の極頂を示せる有らん限りの精神及び物質両方面の力を尽して相争つた欧洲戦争が、如何に悲惨なる結果を惹き起したかは吾人の等しく痛嘆する処であるが、然も此大戦が狂暴飽くなき誤れる軍国主義を原因として起り来つた事を切実に感じた世界は、思想上前紀より漸くその萌芽を表はして来た、一世界一社会の主張を強めてここに新しく力強く其内容を充実した国際主義が高調されるに至つた。……

去り乍ら現世界がかかる人としての神国の実現であると信じ、速かに全軍備を撤廃し国民的武装を解除せんとするならば、それは余りに現実を忘却し去つた空理空想であらねばならない。吾人は人類発達を目のあたりに指示する文化史に徴して漸進を確信するものであり、徒らなる理想に走つて現実を忘却し去るの不聡明を敢てせざらんとするものである。今時に於て軍備の撤廃を急ぎ国防施設の解除を敢てせんとするが如きは、理想の実現に急にして理想への漸進とその基礎とを無視した暴論たるを失はない。……試みに見よ、国際協力主義を。世界に大声叱呼する列強が如何に国民的軍備に汲々たるかを。……

然るに眼を転じて我国朝野の現状は如何。世を挙げて物質主義に走り、国民の精神的毅魄は日に頽廃に趨き、邦家の将来を荷ふべき青年は浅薄なる現実主義に走つて安逸を之れ事とし、永久平和の空想を夢みて国防施設の今日の如く急なるを覚らず。或は西欧文物に追従するを以て足れりとし、何等自覚ある国民文化の世界価実の要を顧みず。軍国主義を非難する余り国防をも混同して之を拒否しようとするが如きは吾人が長大息して痛嘆せざらんとするも得ざる処である。玆に於て、吾人は是非共吾人のこの企図が徒らなる軍国主義と本質的に相違すると云ふ事と学生の学修を妨げる事への杞憂とに対して一言を挟まざるを得ない。

既に説いた如く恒久平和は吾人の理想であつて、それに到達せんが為めには吾人は確実なる道程を辿る事を期する。此の意味に於て吾人は自国の利益をのみ知つて他国の存在を拒否した侵略主義帝国主義の唾棄すべく排撃すべきを高唱すると同時に、武力なき即ち国防不完全若くは国防観念なき国民が過去に於てありし如く現在に於ても近き将来に於ても国際政局に立ちて受くべき屈辱と悲哀とを深く考慮するものであつて、吾人の国防観念は徒らなる帝国主義及び軍国主義とは本質的に背反し、吾人の軍備縮小は軍備無用の結論に到達するものでない。

吾人の企図は国民的国防の実現、実質的軍備縮小の第一踏歩であつて決して軍国主義的企図でない事を予め世人に大声表言し、正しき理解と内心の共鳴とを以て普く天下の声援を希ふものである。更に吾人は学生である事を夢にだに忘れない。学生の本分は勿論学事に励む一事である。然しながら吾人は此の企図が学習を妨害する事ありとは信じない。何となれば今日の学生のあるものは学事の美名の陰に漫然時間を空費し、甚しきに至つては肉体的享楽に捉はれ翻訳文明を鵜呑にし舞踏に歌劇に将又厭ふべき自由恋愛の主張を性の研究と称し、架空的国際関係を眼前に設定して恒久平和となし、学事を抛棄して朝に夕に巷街を漫歩し子女に戯るる態の者さへ多いのであつて、之等を深く顧たならば学習の余暇を利用して規律ある厳正なる訓練を味ひ、一般常識として国防の何たるかを了知する此企図の意義は多言を要しないのである。之前説欧米諸国の学生の軍事に対する真面目なる態度を思つたならば最早一言も費す必要はないであらう。

吾人は文化理想及び平和の熱愛心に於て人後に落ちるものでないと同時に漸進を信じて現実の鞏固なる踏歩を主義とする。此の意味に於て朝野の先覚に先立ち国民的国防の実現及び兵役年限の短縮等に深く思ひ深く期する処あつて、玆に早稲田大学々生軍事研究団の企図を起した。然も此第一踏歩に於て吾人邦家を愛するの赤誠は幸にも陸海軍当局の賛成と学長の同意を得、各方面に多大の便宜を賜り即刻其の実現の緒に就くを得た事を感佩する。

天下の同志学園の有志来りて此の意義多き企図に賛し、吾人の画策を達成せしめられん事を希ふ。

大正十二年四月 (早稲田大学学生軍事研究団『我等も国防へ』 一―八頁)

早稲田大学々生軍事研究団趣意書

祖国日本がその興隆の方向に猛進し且東西文化の融合大成てふその文化理想を実現するや否やは懸りて当代国民精神の振否如何に帰すべし。然るに一度眼を宇内の形勢に放てば外に列強の威圧日に加はり、殊に隣邦支那混乱の状態に乗じて各自軍備を背景とし其野心充足を事とするあり。内に社会不安経済逼迫あり。之れを打開して新気運を助成すべき自主的精神は萎靡して振はず、殊に将来国家の柱石たるべき青年の意気消磨し吾人の遺憾とする点極めて多し。吾人深く此現状を心痛し学生の本分たる人格の陶冶、学事の研鑽に勉むる傍ら、剛健なる精神質実なる気魄を涵養振起し、且治にありて乱を忘れず、平和を理想としつつ之に対する攪乱者の膺懲を期すべく、衆に率先して軍事一般の考究を敢てせんとす。これにより吾人は国体精神の宣明、国民精神の充実を促進し国家を利済し、国民的国防の実を挙げ以て祖国の安泰を計らん事を期す。

(同書 九―一〇頁)

 右二者と同時に、発会式で読み上げる宣誓文も作成されたと思われる。冒頭に引用した中に、「団長青柳教授が登壇し、団員総代の望月光徳氏がこれに面して宣誓文を読み上げ」たとある宣誓文は、左の如くであった。

模範国民の造就は我が早稲田大学の中外に宣明する所、民衆を挙げて国防に当り、以て国体の精華を発揚し、国民の使命を達成するは則ち、延いて世界の平和に貢献し、人類の文化に寄与する所以なりと信ず。生等勇躍本団に加はり儕輩相頼り同志相扶け、学業の余暇を以て武技を修め、規律を錬り心身を鍛へ、以て母校建学の趣旨に副はんことを誓ふ。 (同書 巻頭)

 冒頭の「模範国民の造就云々」は言うまでもなく、大正二年十月の創立三十周年記念式典において宣せられた学苑の教旨「早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を效し、模範国民を造就する」の一部であるが、宣誓文の以下に続くところが模範国民の造就に当るかどうかは意見の大いに岐れるところである。軍事研究団のメンバー達はそう主張し、文化同盟のメンバー達は、それこそ非模範国民の造就だと考えたのである。創出時に自明であった文言・文章が、時勢の変遷に従って、違う意味を持つようになったり、複数の意味を持つようになったりするのは一般である。我が学苑「教旨」もこの一般的あり方から免れなかったのであるが、それはさておき、この一事からも、軍事研究団の結成が学苑内に大きな対立を作り出す契機とならざるを得なかった事情が察知されるであろう。

 軍事研究団のメンバー達は右に掲げた文書の作成とともに、軍事研究のスケジュールを立案した。前掲『我等も国防へ』によると、この案が決まったのは三月二十四日であった。案の骨子を述べれば、メンバーを野砲兵科、騎兵科、歩兵科の三科に分ち、三宿の野砲兵第一連隊、上目黒の騎兵第一連隊、歩兵第三連隊において、それぞれの将校・下士官から実地指導を受ける、というものであった。野砲兵と騎兵の二科について学生を募集したところ、申込み数は予定人員(野砲兵四〇人、騎兵三〇人)の数倍に達したと言われる。野砲兵科の演習開始は五月十九日、騎兵科のそれは五月五日とされ、この通り実施された(歩兵科の整備は一年遅れ、翌年四月に射撃会として発足し、演習開始は五月十八日であった)。この日程は当初の発会式開催日、四月二十八日に合せたものであるが、大隈夫人綾子の逝去で発会式が五月十日に変更されたので、騎兵科の演習が先行することになってしまった。

 五月九日付の『国民新聞』は、「角帽に軍服の異装で/早大騎兵科の練兵始/五日から騎兵第一聯隊の営庭で/発会式は十日と決定」との大見出しで、軍事研究団発会式の日取り変更の事情と十日の発会式における来賓の顔触れなどを詳しく記した後、「兵隊さんと/共同練兵/吉野中尉が教官」の小見出しで、次のように報じている。

去る五日六日の最初の騎兵科教練は学校側からは故綾子刀自の葬儀の跡始末なので、正副団長が差支があつたので、研究団の委員蓑輪一誠(大政三年)大曾根兼仲(大商一年)の二氏が団員二十九名を引率して、五日午後一時から上目黒の騎兵第一聯隊の営庭で、正帽だけは角帽、あとは聯隊から借用した軍服に長靴姿で整列して聯隊長植田大佐各将校列席入隊式を行つてから、吉野中尉が教官、雨宮・稲田両曹長が助教となつて、馬体の名称から鞍の著け方などの騎兵としての初歩から教はつて午後四時退散した。翌六日は午前九時から調馬から馬の手入れなどを教はつて、今後毎土・日の両日に教練して、追つては本物の兵隊と一緒に演習することになる。

 軍事研究団結成の動きを、軍国主義勢力の反撃の一環として警戒していた文化同盟のメンバーはやがて、その「撲滅」を決意するに至った。前述のF・S総会における松尾茂樹の闘争宣言はその決意の現れであった。騎兵第一連隊での研究団員の行動は、趣旨書の偉そうな文言とは裏腹に、彼らは結局軍閥の手先でしかないのを天下に暴露したものであると、文化同盟に拠る学生達は考え、いよいよその決意を強めた。五月十日の発会式が無事にすむ筈はなかったのである。冒頭引用の新聞記事の如く、発会式が反対派の攪乱に委ねられたのは、軍事研究団側の無策によるところが大きかった。しかし、それによって事態を覚った研究団側は急速に支持層を集め、反撃の態勢を固めた。「軍事研究団撲滅大会」が、発会式と同様、うまく運ぶ見通しは皆無となった。撲滅大会が雨のため一日延びて五月十二日となったことが、対決の構図を一段と強固なものとした。五月十二日の『東京日日新聞』の朝刊は次のような多分に煽動的な記事を掲げて、大会へ向けての緊迫感を更に煽ったのである。

腕か思想か/けふ軍事研究会反対の叫び

十日生れ出た早大の軍事研究団に対し同大学々生の一部に反対者のあることは既報の通りで、創立以来官僚軍閥とたたかつて来た早稲田精神擁護のため十二日正午同大学校庭において「軍閥反対学生大会」を開催する旨十一日大学校内掲示場に檄文を貼付したが、一方同大学柔道・撃剣・相撲部等の学生は承知せず学生の各個研究の自由主義によつて擁護すると軍事研究団に同情し、結束して起つたので、文化協会側の思想団体が勝つか腕の団体が負けるか、この勝負は国技館以上の見物である。

三 大正十二年五月十二日

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 当日の模様はすべての新聞が大きなスペースを割いて詳しく報道している。それにより日本全国の人々が五月十二日午後の我が学苑中央校庭のドラマを想像を通して眺めたのである。五十余年を隔てた現在の我々も、同じ眼鏡を通して眺めることにしたい。眼鏡として用いるのは大正十二年五月十六日発行の『早稲田大学新聞』である。

暴漢の闖入もあり/大混乱大乱闘の学生大会/此の責めは誰れが負ふ/蹂躙された言論の自由

別項の如く大紛擾大混乱を醸した軍事研究団発団式の十日は過ぎて十一日となるや、「早稲田の学園をして軍閥の蹂躙に委せしむる勿れ」、「大隈総長の遺志を忘るな」、「血を吐いてまで自由を叫んだ小野東洋先生を憶へ」等の檄文は、昨日の弥次連の母体文化同盟の手により早朝より学園の内外に貼られ、早稲田一万の学徒に向つて反軍国主義熱を煽り、更に今日正午より雄弁会の主催にて学生大会を開催せんとしたが、折から雨降り来りし故、大会は十二日に延期することにし、其の日は午後一時より雄弁会代表安達・浅沼の二君は望月〔嘉三郎、学生課主事〕同伴、出版部階上に軍事研究団長青柳教授と会見し、種々意見交換の結果、同団が決して軍閥の走狗に非ざる旨は了解したが、尚同団の成立が早稲田をして軍国主義化した如く誤解さるる恐れあるので、同団の主旨を良く社会に徹底させると共に、反軍国主義の学生あることも天下に知らしむべく、此の意味にて明十二日学生大会を開くべしと述べ、互に其の意を了とし円満裡に会見を終つた。

これより先、十日の発団式当日、式場にて低級なる弥次をとばして会場を混乱に陥らしめた文化同盟一派の遣方に憤慨して反感を抱ける相撲部、柔道部等の一部有志は軍事研究団応援団なるものを組織して、十二日早朝より学生大会の檄に対応して「国家の基礎を危くする徒輩を膺懲せよ」等のビラを各所に貼り、文化同盟に反対の声を上げ、定刻前に相撲部道場付近に勢揃ひし、開会と共に雪崩を打つて会場に殺到した。

これより先に、大会開始前なる午前十一時、雄弁会の代表者浅沼・稲村の二君は学生大会開催に就て、応援団本部なる相撲部道場に松尾・仙波の二君を訪ひ、円満妥協を提議したが、松尾君は応援団組織の理由を話し、且つ本日の大会開催の中止を勧告したが、雄弁会側は「己に準備を了した上であるから中止出来ぬ」と述べたれば、応援団本部の方に於ても「然らば飽くまで勧告しても聴き入れなければ止むを得ず」と妥協不成立のまま立ち別れた。この時、故意か偶然か、稲村君が鉄棒を隠し持ちたるを相撲部の諸氏が発見し、非常に激して其の無礼を詰問し、我々に対して斯く挑戦的に出るならば、こちらにも覚悟ありと、彼等は両者を乱打して形勢は益々不穏の度を加へた。

我々を欺くか/弥次は飛んで/大会漸々喧騒

斯く形勢険悪の裡に時間は過ぎ、校庭に集まれる学生の数は四千を越え、「司会者は何をして居る」、「早くやれツ」などの声盛に起る。正午十分前、先満場拍手の中に雄弁会幹事安達君、故総長銅像前に立つて開会を宣し、「早稲田大学が軍国主義化せんとするは吾人の黙視する能はざる所」と述べ、続いて同会幹事浅沼君又「断末魔の苦しみにもがく軍閥が吾が早大にも其の勢力維持の為めに侵入して来た」と述べ、且つ吾国のミリタリズムの侵略的罪悪史を詳説し、軍閥を散々攻撃して後、宣言並に左記の決議文を朗読した。

決議文

吾等は軍国主義に反対し、早稲田大学をして軍閥宣伝の具たらしむることに反対す。

なお、この新聞には掲げられていないが、宣言文は次の如きであった。

宣言

大学は文化の殿堂、真理を追求する所、決して軍閥官僚に利用されるべきものではない。早稲田大学は、創立以来四十有六年、学問の独立と研究の自由のために官僚及び軍閥と戦ひたる光栄ある歴史を有する。然るに此度の軍事研究団の出現は、一部軍閥に利用宣伝せられて、世人にわが学園をして軍国主義の牙城たるが如き感を抱かしめた。これ我等のひとしく遺憾とする所である。依って我等は左のことを決議し、広く社会に宣明し、あはせて学校当局及び軍事研究団の反省を促す。

(『大山郁夫伝』 一〇五頁)

同日付『早稲田大学新聞』は更に次の如く報じている。

而して弁士は多数学生の賛同を求め、直に実行委員をして安達・稲村・戸叶の三君を挙げ、具体的の運動に着手する事を声明して拍手裡に降壇すれば、之の時突如「異議あり」と叫んで群集中に立ち上つた。望月「学生課主事)は、討論の会場を混乱せしむる恐れあるを以て急遽司会者に解散を命じたので、安達君は再び壇上に登り「今日は是にて閉会す」と散会を宣すれば、学生連承知せず、「始めと意味が違ふぞ、続けろ」と叫んで全く喧騒に陥り、会場は愈混乱せんとした。玆に於て安達君又壇上に現はれ「今日は学校当局が続行を許さざれば、此の軍研団問題に就き聞き度き人は午後二時よりの雄弁大会へ来られ度し」と述べし為め、群衆等は尚反感を起し、中には「雄弁会ッ学生大会と偽つて人を集め、雄弁大会の広告か」と弥次る者があつて騒然としたので、安達君結局「賛成者のみに演説を許可する」と云へば、「何が許可だ、我々学生の意志を無視するな」と弥次られ、会場はゴツタ返した。この混乱の中より、排酒同盟の一員は壇上に現はれ、学校当局が軍研団にのみ厚いことを叫んだが、弥次のために葬られ去つた。

乱闘の幕は落され/鉄拳飛び複棒舞ふ大修羅場現出す/乱入せる縦横倶楽部員

かくて怒号罵声は騒然として渦巻いて居る中を文化同盟の戸叶君は突然立つて壇上に現はれ、「私は軍事研究に反対する」と叫ぶや、銅像右側より飛び出したる一学生は矢庭に彼を突き飛ばして壇下の相撲部の猛者某々等と共に袋叩きにし、戸叶は遂に赤に染つて倒れた。かくと見た雄弁会側の浅沼君等是れを救はんとして突進し、玆に両者の大格闘を演出し、面部其他を乱打された浅沼君は遂に群集の中に呑まれつつ姿を消し、壇上は全く柔道部・相撲部等の一部有志のものに占領され、彼等は又口々に「早く暴力者を出せ」と叫号した。この時、森崎君憤慨し、他人の制止をも聞かず壇上に飛び出し、「暴力を用ふるとは何事ぞ」と叫ぶや、折柄構内に突入せる下戸塚の縦横倶楽部員柏木〔三十二〕・佐々城〔貢〕等の一団が現はれ、「夫れ社会主義者だ。殴れ」と怒号しつつ森崎君を引づり落し、其処に居合す沖田・仙波十数名の応援団連中と共に散々殴打した。かくてステツキ・下駄は其処彼処に飛んで殴る蹴るの一大修羅場を現出し、神聖なる故総長銅像の前も兇暴なる腕力の為めに汚されて、乱闘は数回繰返され、学生課事務員、本会幹事等総出の仲裁制止も何等効なく只成り行きに任すの外なくなつた。かくて此の暴漢等が蹂躙を逞うせる中、「早稲田学園の為に」「言論自由のために」等と云つて、中立者壇上に起つて演説せんとするも、激し切つた荒武者や暴漢等はもう誰彼れの区別なく殴り散らし、散々狂暴の限りをつくし、群集の学生口々に「腕力は横暴だ」、「暴漢を殴り返せ」と憤慨して悲痛なる叫びを挙ぐれば、壇上の佐々城某棍棒を振りかざし「何を生意気な」、「文句があれば腕で来い」と暴言を吐きつつ聴衆の中に突進し、逃ぐるを追ひて乱打する。その中学生課員等は壇上に在る学生を全部引き下ろし、聴衆に向つて解散解散と連呼して注意を与へたが、其の時雄弁会幹事林君突如壇上に起ち、「今日の会合は吾学園をして軍閥の手先になさしめないために開いたものである」と云ふて、種々理由を述べんとしたが、例の佐々城某又現れて、「然らば此の前の発団式に何故弥次つた、対決せよ」と叫びつつ迫る。折柄突然銅像の裏に隠れゐたる一怪漢は頭から黒マントを冠つて飛び出し、後に廻つて矢庭に林君の左顔を下駄にて殴打し、飛び降りて尚も群衆中を暴れ、当るを幸、殴りつけつつ恩賜館方面へ突進せば、学生連は「暴漢を捕へよ」、「学生を殴つた彼れを殴れ」と後を追ふた。此の暴漢は矢張り縦横倶楽部の一員なる結城某であつた。

本社員の制止で/漸々解散

かくて混乱の状態は持続したが、主催者側は全く姿を見せざるに至つたが、群衆はワイワイ騒いで何時迄も解散せざるので、学生課員を助けて争乱の制止に努めつつあつた我が早稲田大学新聞の平賀俊継君は学生課員とも相談の上、局外者として壇上に起ち、聴衆に解散を励まし、群衆又各其れを諒し、口々に暴漢の乱暴を鳴らしながら三々五々漸々退散した。時に一時三十分。尚当日午後三時より大講堂に於て催さる新入生歓迎の雄弁大会は学生大会の紛擾に依つて万一の事あるを恐れ、遂に無期延期となつた。

 十二日午後の学苑に吹き荒れた暴力の嵐は多くの人々に、激しい怒りとともに深い悲しみを与えた。一方が軍国主義化を力づくでも阻止しようとすれば、他方は力には力を以て酬いよとばかりに、鉄拳や棍棒による露骨な暴力を用いて反対を叩きつぶそうとする。いずれの側に、力の行使を正当化する大義が存するかを問題とする人々のほかに、力の行使そのものに疑問を感じ、暴力の悪循環を悲しむ者もいた。その一人酒枝義旗は政治経済学部一年の学生として、その日の光景を目撃し、次のように書いている。

こうした光景を見ていると、何とも言えぬ気持になって、最早そこに立っていられない気持になった。先の日には、軍事研究団発会式に見られたような口舌を以ってする暴力の横行、勿論それは、機会さえあれば肉体的暴力に転化するたぐいのものである。今はまた、文字通り腕力による暴力が、傍若無人に振舞っているのである。しかし、いま腕力者の暴力に圧倒されている人々も、外部の多数の応援者の腕力による暴力をたのみとしていたのではないか。その応援の暴力が、警官の暴力によって喰い止められたために、今は運動部の一部の学生による暴力がものを言っているのである。大学とは、いやしくも理性的に考慮するかぎり、何人と雖も認めざるを得ない客観的真理を、冷静に、且つ真理への情熱を傾けて探求する筈のところだと考え、高等学院での学生々活では碌々勉強しなかったから、大学に進んだら、一所懸命に勉強する気だった私としては、この暴力と暴力の激突の場面をみて、実にたまらない気持だった。ことに堪らなかったのは、暴力の傍若無人な有様に憤る大勢の学生がいながら、司会者たちを袋叩きにした運動部の暴力者達が、何をッと叫んで突進してくると、忽ち逃げ散ってゆく光景であった。それらの学生は、みな善良な学生達なのである。しかも数においては圧倒的に多いのである。それでいて、暴力が襲いかかってくると、この善良で且つ多数である学生達が、何と惨めにも弱いことであろう。

(『早稲田の森』 一二一―一二三頁)

このような感想を持った学生もまた、数においてはきわめて多かったのではあるまいか。

四 軍事研究団の解散

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 五月十―十二日の事件は学苑にとり甚だショッキングな出来事だっただけに、それへの反応は種々な形で現れた。反応の方向は基本的には勿論二つ、反軍事研究団の方向、従って十二日の大会破壊の腕の暴力批判の方向と、反文化同盟の方向、従って十日の発会式での言葉の暴力批判の方向とであった。前者の動きから述べよう。

 文化同盟の顧問役の位置にあった大山郁夫佐野学の両人は、日頃意見を同じくする研究室内の片上伸内ヶ崎作三郎・帆足理一郎・安部磯雄横山有策・遊佐慶夫その他十八名の諸教授に呼び掛け、十四日午後三時から恩賜館三階会議室に会合し、十日来の出来事の対策を協議した。しかし、議論百出でなかなか結論に達することができなかったらしく、取敢えず次の二項目を声明するにとどまった。

一、今次の軍事研究団を純粋の学術的意義に於ける研究団体と認めることの出来ぬこと。

二、我々は軍国思想の宣伝に利用せらるるが如き懸念の存する団体の存在を希望しないこと。

(『東京朝日新聞』大正十二年五月十五日号)

会議の内容は明らかでないが、推測するに、大山・佐野が抗争の一方の当事者である文化同盟の顧問の地位にあったのが、高いレヴェルでの議論の一致を困難にしたであろう。文化同盟の主張と行動を抽象的には正しいと認めても、同盟と研究団との間に生々しい抗争が行われている今では、全面的に同盟の言い分を支持しては党派的行動との非難を免れ難い。まして、支持者の中心人物が当の文化同盟の顧問である場合においてをや、である。

 校友の中にも、事態を憂慮する人々がいた。小川未明秋田雨雀らは五月十五日に会合を持ち、次の如き趣旨書を学苑当局に提出している。

今回中央校庭に開催されたる軍国主義反対の学生大会に於て、はしなくも計画されたる暴力団の活動となり、流血の惨事を現出せしめたるは「言論の自由」と「学問の独立」を誇る早稲田大学空前の不祥事であり、未曾有の恥辱である。学校当局・官憲・暴力団三者の黙契によつて、かかる事件を生ぜしめたるが如き感を社会に抱かしめるは、明かに学校当局の失態にして、我等校友の甚だ遺憾とするところである。故に我等は早稲田大学存在の理由たる自由と独立を擁護するが為めに、学校当局が該事件の真相並びに之に対する具体的態度を発表せんことを要求す。 (『中央新聞』大正十二年五月十五日号)

この要望を大学当局が無視するが如き態度に出るならば、その時には徹底的に糺弾するとの覚悟を、秋田は新聞記者に語っている。

 しかし、問題は右の如く簡単明瞭ではなかった。研究・言論の自由の問題にしても、それを侵したのが軍事研究団の側で、その擁護者が文化同盟の側だとの合意は、基本的には文化同盟側に立つ者の間にも存在したわけではない。そういう構図を絶対的なものとして、押し付けること自体が研究・言論の自由に反するとの空気もまた強かった。例えば、政治経済学部の三年生有志は十六日夜、大隈会館に集合して、十日・十二日の事件に関する態度を議したが、議論は紛糾してなかなか決しなかったという。結局、いずれかを是として、問題を裁断するのは誤りとの合意に落ち着いたらしい。そのことは、次の如き両者をともに批判する形の宣言・決議の採択によっても裏付けられる。

宣言

一、吾人は此際に於て早大の建学指針たる学問の独立、言論の自由を確保すべき事を普く宣言す。

二、吾人は大講堂に於ける言論の圧迫者と校庭に於ける暴力の行使者を併せて問責す。

決議

第一、学校当局は速かに軍事研究団発団式当日に於ける言論の圧迫者及暴行者を厳重に淘汰し、適当の処分を為さん事を望む。

第二、吾人は学校当局の軽挙が今回の如き不祥事を惹起し、社会の誤解を招きたる事を深く遺憾とす。

(『東京朝日新聞』大正十二年五月十八日号)

なお、政治経済学部一年生のクラスでの討議の模様を回想している酒枝義旗の文章は、大隈会館での三年生集会の議論のあり方を示唆するものである。

政経一年の我々のクラスの中にも、こうした騒然たる対立が持ちこまれた。言うまでもなく、堂々と雄弁を振って立つのは、軍事研究団反対派の諸君であった。たまに軍事研究そのものは、一種の研究ではないか、それが何らか非難さるべき行動を採った場合にこそ攻撃さるべきである、研究の団体として発足したそのことを非難・攻撃するのは、研究の自由に干渉するものではないかと言うような議論をする学生も立ったが、今どき何を馬鹿げた寝言を言うのか、研究は研究でも、人殺しの研究なんだぞッ、人殺しや泥棒の研究も研究の自由の名において認めると言うことは、殺人・強盗を是認することに他ならないではないかと言うような、鋭い猛烈な弥次や反駁によって、葬り去られるのであった。もはや反対論が、政経一年のクラスの決議を制するのは明白なことのように思われた。……遂に、一人の学生が壇上に立って、こうした多くの学生の気持を代表する発言をした。このように、激しい対立が現に我々の前に展開されている場合、軽々しくその何れかに加担することは避くべきである。我々はこうした対立の醸し出す雰囲気の中に巻きこまれることなく、今こそ、心を静かに本来の使命である政治・経済の勉強に努め、自分自身の見識に立って、いま我々の前に展開されている対立する二つの主張の何れに与すべきかを決し得る、しっかりとした土台をきずくべきである。多くの諸君は、壇上に立って発言こそしないが、内心では反対論者の議論に対し、疑問を抱き、いな反駁を感じている人々も尠くないと思う。この百数十名を擁するクラスの態度を、今までに発言した少数の諸君の意見によって――少数ではないぞッと言う烈しい弥次があった――拘束することは、人格の自由と独立の尊重を精神とする政経一年の採るべき態度ではないと思う。すくなくとも、諸君がどんな決議をしようと、僕一個人は、その決議に服しないで、この対立に対する中立の態度を貫く決心だ、と言う趣旨だったと記憶する。……〔結局のところ〕大政一年としては、この対立に介入せず、はっきりと中立を守る、勿論、各自が自分自身の責任において、その何れかに加担するのは、各自の自由であると言うことに決定したのであった。 (『早稲田の森』 一一五―一一八頁)

 ところで、十二日の騒動以来、青柳教授と軍事研究団幹部は同団の今後についていろいろと頭を悩ましていたが、結局、責任を執って学内団体としては解散すべきである、ということになった。そこで、十五日午後四時、団長の青柳は大学当局に次のような解散届を提出した。

本団の発団式に方り用意周到ならざりしため、図らずも誤解、疑惑を招きたるに鑑み、母校に累を及ぼさんことを恐れ、本大学以外に於て研究を継続するを以て同志の便益なりと信じ、玆に本団を解散致し候間、此段御届申上候也。

(『東京朝日新聞』大正十二年五月十六日号)

 同団の潔い態度は――それが戦術であったのかどうかを確かめる術もないが――各方面に好感を以て迎えられたらしい。十六日の政経学部三年生集会の議論のあり方にも、これが反映していたのかもしれない。

五 文化同盟の解散

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 文化同盟への攻撃は軍事研究団解散の十五日を皮切りに、急速に激化した。攻撃の基調は文化同盟を社会主義勢力の手先とし、社会主義を認められない以上、同盟の存在を容認できない、というものであった。先ず、十二日の中央校庭の集会で猛威をふるった縦横倶楽部を主体とする校友有志団は、十五日夜の集会で次の「決議」を行った。

一、本団は母校の思想を妨害する非愛校的学生の善導を期す。

一、本団は母校に於る学生に対し非愛国的思想の宣伝をなす教授及学生を膺懲せんことを期す。

一、本団は我国体の基礎を危くし、国家の健全なる発達を阻害するが如き思想宣伝者の撲滅を期す。

一、本団は国家の為め、一度解散したる軍事研究団の再興を期し、尚軍事思想の普及を期す。

(『やまと新聞』大正十二年五月十六日号)

 翌々十七日には早稲田中央倶楽部と名乗る学生の組織が一連の強硬な決議を行っている。一委員の語るところによると、同倶楽部は騒動を憂いて急遽結成されたものであるようだ。すなわち、次のように語ったと報じられている。

軍事研究団の解散は自発的に解散した様に発表されて居るが、其実は学校当局が紛糾を倶れて解散させたもので、此儘徒らに解散せしむるに至つては、さなきだに早稲田に不穏な思想を帯べる学生多々ある如く伝へられて居る今日、学校の信用は失墜し、隈侯記念事業後援会を初め、其他の事業は甚大な影響を蒙り、殊に不穏分子の取調べの為め、最近当局の出張もあるやに聞いて居るが、そんな事があつては、学校の面目にかかはるから、自分等が自治的精神を以て廓清を計るべく、奮然立つたので、又軍事研究団解散後、彼等文化同盟も解散さして欲しい。我々は飽迄遣り通す決心です。

(『東京朝日新聞』大正十二年五月十八日号)

 佐野・猪俣両講師の研究室の捜索、いわゆる「研究室蹂躙事件」が発生したのは、これから半月後の六月五日である。文中の「最近当局の出張もあるやに聞いて居る」は、「文化同盟」捜索の噂があるとのことなのであろうが、後述するように、この噂と「研究室蹂躙事件」とは大いに関連があったのである。

 中央倶楽部に拠った学生達は十七日夜、「一、社会主義を宣伝し、之が誘導をなす猪俣・佐野・北沢・大山四教授の解職を要求す」、「一、軍事研究団の解散したる今日、文化同盟其他一切の社会主義的色彩を帯べる団体をして解散せしむる事」(同紙大正十二年五月十八日号)の二項目を決議し、夜の九時という時間に、委員十数名が三台の自動車に分乗して高田総長・塩沢前総長・田中理事を訪問し、決議文を渡すとともに、明十八日正午までに回答するよう強く要求をした。またその十八日には、体育会有志が午後一時から柔道部道場に会合している。協議の結果、柔道・剣道・相撲・野球・庭球・弓道・水泳その他体育会すべての賛成を得て、早稲田大学中堅会が組織された。同会を代表して、柔道部の川石酒造之助・鷹崎正見、相撲部の松尾吉郎の三名が翌十九日午前八時高田総長宅を訪問して、左の如き勧告書を提出している。

過般組織されたる軍事研究団は、その趣旨及び形式に於て軍閥の走狗なりとの誤解を招きたるを以て、去る十五日断然解散を宣言せり。然るに最初より、この軍事研究団に敵対的行動をとり進みてこの誤解を究明せんとせず、敢て善良なる多数学生を混乱の渦中に投ぜしめし文化会の行為は明かに彼等がとれる思想宣伝に外ならず。伝ふる処に依れば、文化会はその幹部を思想赤化運動の急先鋒たる暁民会と同じくし、共に合して文化同盟なるものを組織せり。去る大正十年、本大学内に学術的研究を表明して文化会が建設されて以来、広く有識者の誤解疑惑を招きたるに、今回明かに赤化宣伝の行為現れたり。惟ふに軍事研究団は単なる誤解疑惑に依つてさへ解散を宣言したるに、自らが主義宣伝の為、斯の如き騒擾を来したるを学校当局は如何の故を以て存続せしむるや。仄聞する処に依れば、同会に対する官憲の干渉は愈々具体化して、我自由の大学内に顕現せんとす。暴言暴行者の処分の如きは枝葉に過ぎず。ここに吾人は学校当局に迫りて本大学内に於ける文化会を解散し、本大学の自由の学風を保持すると共に、学園内和平攪乱の禍根を断たんことを期す。 (同紙大正十二年五月十九日号)

この勧告を大学当局が容れない時には、体育会を母胎として新たに軍制研究会を興し、文化学会の如き己れを知らざる者の撲滅を謀るとともに、学苑の健全な発展のために努力したいと宣言している。なお、右の文中においても、官憲の干渉を云々していることに留意する必要があろう。

 十五日以来、日ごとに強まる攻撃にさらされた文化同盟は百余名の会員の意見をまとめた上で、二十日午前九時幹事会を開き、「母校の平和のために」解散と決したが、同盟顧問大山郁夫教授は次のような談話を発表している。

今回の解散は別に当局の圧迫があつた訳でもなく、又外部からの圧迫でもない。学校当局も又、其の筋からも圧迫は全然無かつた。もし外部の圧迫が加はれば加はる程、存続する理由とこそなれ、解散の理由にはならぬ。けれ共、此の事件の為に学校を騒擾化すると大変と気遣つた。……元々文化同盟は社会学説の研究団体だから、その目的より外の目的を以ていかなる分子にも利用されたくない。しかも、研究は解散しても続け得られる。そこで実際、センチメンタリズムを離れて、此際解散を賢明と信じたが故に解散し、且つ顧問たる吾々四名も之に賛成したのである。 (同紙 大正十二年五月二十一日号)

それまで沈黙を守っていた高田総長も求められて、次のように記者に語った。

本来軍事研究団に対して文化同盟が存在して居るわけのものではないが、偶々今回の問題を中心にして両者が思想的に対峙する形を示すやうなことになつたと思はれる。そこで軍事研究団が形式の上で手落ちのあつたことを悟り、自発的に解散したとはいひ条、問題は容易に夫だけでは収まらぬ模様で、其後も学園内にはいろいろと動静が伝へられ……私としては〔文化同盟が〕愛校精神からして自発的に解散するといふのならば格別、学校から之を強ふることは遺憾乍ら容易に為し得ざる重大問題であつた。所へ二十日に文化同盟の方から自発的に解散するといふ事を申し込んで来た。即ち玆に両者の誤解は解けて、我学園は平和に帰つた次第である。世の中に非常な心配をかけ、学校の一失態ともなつたことに就て、私は世間に対して重々お詫びをする。 (同紙 同日号)

 この間の経緯について、市島日記には左の如き感想が記されている。

早稲田の学生騒動は新総長が恰かも維持員会で決定の前日に勃発したので、われわれ迄神経を疾まして成行如何と気遣つた。そもそも軍事研究が学生間に計画さるるに付許否如何を維持員会に問はれた時、自分のごとき或は誤解を招く事なきやと気遣ひ、学長に注意を与へた位であつたのに、終に誤解の種となつたのは、当日多数の将校が学校に入り来たつたことやら、厳しい宣誓などを学生にやらせたことなどは、何んと考へても不用意極まつたと思ふ。過ぎたるは及ばずとして、研究団も解散し、之れに対抗の文化団も亦解散してここに一段落を告げた。案外穏かに局を結んだが、実は背後に何物かが潜んでゐて、新総長に対し先年の繰り返しを策してゐぬかと思はせた。勿論警視庁を通じて事を大袈裟にせんと策したものがあつたには相違ないが、……軍閥の前に学校の主脳が学生に罵倒を受けた醜は奈何ともしがたい失態と云はざるを得ぬ。新総長就任の際に此事あり、此事幸に新総長の薬料となるを得ば、或は却つて前途の仕合とならん歟。 (『小精廬雑載』五)

 しかし、学苑には容易に平和は訪れなかった。軍事研究団対文化同盟という対立の構図に代って、国粋主義対社会主義というより広い、より深刻な対立の構図が顕在化した。この過程は少数者による狭い運動への転化過程でもあった。その意味では、対立は学苑内から政治の分野へ移行したと言うことができる。学苑の学生達は舞台から降りて観客席に坐り、政治的な対立・抗争という怪物が外部から学苑に襲いかかるのを眺めることになった。さまざまな思いを各自の胸に秘めながら。前述の如く、マルクス主義は日本のナショナリズム思想の一つとして知識人・学生の精神に広汎で強力な影響を与えた。それは伝統主義というナショナリズムを呼び出し、対決せざるを得ない歴史的宿命を持つ。従って、右の過程は学生の精神の中で、二つのナショナリズムが対立し、争う過程でもあったのである。

六 文化同盟と縦横倶楽部

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 五月二十六日深夜、縦横倶楽部の一部メンバーが旧文化同盟の学生に暴行をふるった。四月以来の対立もさることながら、根本的な原因は両者の間にあった思想・信条の決定的な相違、そこから来たる憎悪の感情であった。この感情は縦横倶楽部員の場合、特に強かったのである。

 ところで、同じ二十六日、浅沼・稲村・森崎源吉の三名は弁護士布施辰治・徳田球一らを代理人として、十二日の集会での暴行の中心人物、縦横倶楽部会長森伝、相撲部員仙波忠一、柔道部員堤秀雄ほか十一名を、傷害・不法監禁・脅迫罪に当るとして東京地方裁判所検事局に告訴した。同日夜の暴行はこれがきっかけとなったに相違ない。この夜、暴行をうけた松尾茂樹ら五名は六月十九日に告訴した。暴行と告訴の悪循環である。当時の状況を知る上に大いに参考になると思われるので、この時提出された告訴状により二十六日夜の模様を再現してみよう。

一、被告等縦横倶楽部の一団は五月二十六日午後八時頃、告訴人等の住居たる市外戸塚町下戸塚五七八番地、旧文化同盟本部松尾方を突然襲ひ来り、先づ被告人中の宮田は玄関に入り、「皆ナ縦横倶楽部に来イ」と威猛高に怒号したるも、告訴人松尾は「今日は困るから入つてくれるな」と断りて、数次押問答の末、二階に逃げ上りたるに、屋外に待合せたる被告等中の柏木・結城・粟谷・佐々城等と共に突如として乱入し来り、其儘二階に馳け上り、告訴人等の拒否するにも拘らず、被告等の意に従はざれば身体生命に危険を加ふべき威嚇を以て、縦横倶楽部に同行するの止むなきに至らしめたり。

二、告訴人中の伊藤は縦横倶楽部に同行の上、被告人等のために危害を加へられるのを予知したるより、同行途中の隙を窺ひて逃走したるも、直ちに被告柏木のために追捕せられ、散々に殴打せられたるより、附近の床屋に駈け込み、身を以て遁れたるも、遂に引出され、現場より一丁余を隔てたる下戸塚交番に拉致せられ、交番の中に於て被告粟谷に二時間余の訊問的脅迫を受け、「社会主義の研究を止めて国家主義の研究をなすこと」なる誓約書を書かしめられたり。加之ならず、「今後社会主義を研究宣伝したり、以前の友達と交際して改心せねば殺して仕舞ふ」と威嚇せられたり。此間巡査は何等の制止をさへなさず。

三、一方縦横倶楽部に同行せられたる松尾・宮井・田中・中島・伊東・山本等は直に同倶楽部の二階に拘禁せられ、約三十分の後(午後十一時頃)松尾・田中・伊東・宮井・中島・山本の順次に一人づつ倶楽部より約一丁半を隔てたる下戸塚(番地不詳)森伝旧宅に連れ行かれ、結城、粟谷の両名〔に〕訊問的に脅迫を受け、右の内、答へが気に喰はぬとて、伊東は右眼上を殴打せられ、右肩胛部を蹴られ、宮井は顔面及頭部を四五回殴打され左胸部及顔面を二回蹴られ、粟谷の為に「シヤモジ」にて顔面を殴られたる結果、出血甚だしく、其苦痛に堪へざるに乗じ、他の者と同じく誓約書に署名捺印を強制して義務なき行為を行はしめたり。

四、斯くして最後の〔証人〕山本が縦横倶楽部に連れ返されたるは午前三時頃なり。告訴人等は同倶楽部に於て再び誓約書を作り、公に新聞紙を通じて謝罪広告をなすべき旨強要せられ、若しこれに応ぜざれば再び危害を加ふべき事を以て威嚇せられたるに依り、告訴人等は止むなく社会主義の宣伝をなし、国家を否認したる如き思想を抱きたるが、五月二十六日夜、縦横倶楽部に於て、校友と共に語り、思想の誤れることを悟り、社会主義の宣伝を止すことは勿論、国家的に活動する旨の誓約書を提出せしめられ、辛じて伊東・宮井・田中は午前四時に帰宅する事を得、次いで松尾・中島も止むなく同誓約書を差入れて数十分の後帰宅することを得たるもの也。 (『国民新聞』大正十二年六月二十日号)

 軍事研究団にからむ出来事は、これらのみにとどまらなかった。軍研事件は、この年後半の学苑において、社会的にはもっと大きな事件と直接・間接に結びつくこととなった。事件の余波は、早くも一ヵ月後に起ったのである。