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第六編 大学令下の早稲田大学

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第十六章 「大山事件」

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一 普通選挙法と治安維持法

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 第一次世界大戦終了後、短時日のうちに急速な盛り上がりを見せた普通選挙の要求を結局政府は受け入れたが、それと引換えに治安立法の強化を行った。選挙権拡大と治安立法とを抱き合せで考えるのは、元老・政府の伝統的な態度であった。明治三十三年の選挙権拡大――資格を直接国税十五円以上納入から十円以上に改めた――は治安警察法の公布を伴った。大正八年、原敬内閣は選挙資格を十円以上から三円以上へと大幅に緩和したが、弾圧法の強化を求め、やがて過激社会運動取締法案の提出となる。尤も、これは公布には至らなかった。しかし大正十四年、護憲三派内閣の普選法成立に当っては、強力な治安立法の同時成立が求められた。治安維持法がこれである。

 同法は、国体変革および私有財産制度廃止を目指す政治運動を、謀議の段階においてさえ、重罪を以て罰するというものであった。従って、それは政治運動のみならず、学問、なかんずく社会科学研究をも、権力によって厳重に取り締ろうとするものであった。民衆の多年の悲願であった普選法は、かくして、思想・信条の自由を手放すことと引換えに、初めて手に入れられたわけである。理想主義者・人道主義者として出発した大山郁夫が現実政治におけるラディカリストに変貌していく原因は、こうしたパラドキシカルな政治過程にあったのである。

 大山を変貌させた要因は、もう一つある。それは、政治運動・労働運動の内部で繰り返された左・右の対立・抗争である。対立・抗争は、政府の攻撃を受けると、一段と激しくなった。そこに義俠心に富んだ、悪く言えば、人にかつがれやすい大山の人柄が加わる。無産政党の母胎となった政治研究会と関係を持った当初、大山自身も他の人々も彼が一大左翼政党の党首になるなどとは考えなかった。しかし、政治研究会内部の対立・抗争はいつの間にか大山を委員長に仕立て上げた。うまく立ち回る人々は火中の栗を拾う羽目に立つことを避けて去っていったが、大山はそれをしなかった。それどころか、去っていった人々の代りに、自ら責任を引き受けようとしたのである。

 昭和二年の初め、学苑にはいわゆる「大山事件」なるものが起ったが、この事件の原因の一つはそうした大山の人柄にあった。労働農民党委員長という地位と早稲田大学教授の地位が両立し難いことを知りながら、大山は、大山教授なき学苑では社会科学研究は生き延びることができないとの学生の訴えを聞くと、委員長と教授の両立の可能性――否、必然性――を主張し、高田総長と対立するに至るのである。

 第一次大戦後の普選運動の高まりは二つの径路をとった。一つは労働運動・社会主義運動という反元老・反政府の立場から出発する径路であり、他は、既成政党、特に野党――憲政会、国民党――の思惑から出発する径路である。

 大戦末期の世界情勢の大変化、わけてもロシア革命の成功は、戦後の反動恐慌と呼応して、広汎な人々の心に民主主義・社会主義への願望を持たせた。米騒動から衝撃を受けた政府は左翼労働戦線の活発な動きを見て、更に一段と不安を強めた。政友会内閣に過激社会運動取締法の立法化を促した原因はこれである。しかし、憲政の本義を説く旧護憲運動の人々は弾圧法案には反対で、普選の実現により民意を政治に吸収することこそ大切であると主張し、普選運動の先頭に立った。労働組合の大会に尾崎行雄や犬養毅らが加わる光景もしばしば見られた。しかし所詮、両者は同床異夢であったが、それほどに普選運動は国民的な拡がりを持ったと言えるのである。

 大正八年の選挙権大拡張も野党たる国民党により動き出した。同年一月二十八日、国民党は選挙法改正法案を議会に提出した。その眼目は、選挙資格を直接国税十円以上納入者から二円以上に改めるとともに、中等学校卒業以上の学力ある者に財産資格の有無に拘らず選挙権を与えるというものであった。これに対して、原敬内閣は三円以上、学歴は考慮しない、大選挙区制を小選挙区制に改めるなどの修正案を出し、結局、この政友会案が可決された。

 政友会が元老と組んで普選に反対であることがこれにより明確になったと世人は受け取り、普選運動は一挙に盛り上がっていった。同年二月十一日、友愛会大阪連合会は街頭に出て、普選の即時実施を訴え、以後、京都、神戸へと運動は拡がった。これより先、二月九日には、東京で普選期成大会が、名古屋では普選市民大会が開催された。運動は次第に横の連絡を作り出し、年末には各地に普選期成同盟が組織された。例えば、十二月十五日、賀川豊彦らの提唱で関西十四労働団体が普選期成関西労働連盟を結成している。明けて大正九年の二月十一日、東京で百十一団体、数万人の普選大示威行進が行われた。権力の弾圧も激しく、難波大助は当日警察官の暴力を目撃して、テロリスト的心情を芽ばえさせたといわれる。

 大正八年の選挙権拡張に当っての議論の焦点の一つは、中等学校卒業以上の学歴所有者に選挙権を与えるかどうかにあったが、もしそれが認められたならば、大学生のかなりな部分が選挙権を持ち、その意味で政治の主体の一つとなれる筈であった。当然のことながら、学生達はそれを求めた。観念的ではない、具体的な目標と結びつくことによって、彼らの普選運動に対する熱の入れ方は、非常なものとなった。

 大正七年十二月五日に結成された東京帝国大学の新人会も、やや遅れて創設された我が学苑の民人同盟会も、そこから分れた建設者同盟も、実践の第一着手として普選運動を取り上げた。翌年二月九日には学苑と東京帝大の学生を核とする青年普通選挙促進同盟会が結成され、運動方法について協議、十一日、日比谷で都下十七大学の学生による一大示威大会が催された。学苑からは最も多数の学生がそれに参加した。学生達は次のような宣言と決議を行った。

宣言

憲法が発布されて三十年、世界大勢の進展とともに帝国国運の隆昌もまた隔世の感がある。君民同治の美果もまたようやく成ろうとしている。けれども、われわれは日本の憲政にたいしてなお遺憾なきを得ない。ことに選挙法においてそうである。みよ、デモクラシーは世界の大勢である。民本主義は時代の潮流である。君民同治は実に徹底的でなければならない。何を苦しんでこの大勢に逆行し、不徹底な制限選挙を墨守するのか。世界は動揺しはじめた。時代はまさに回転しようとしている。われわれは決然立つて全国の青年を糾合し、普通選挙制度の実現につとめ、もつて帝国将来の国際的進歩を確立しようとしている。革新の曙光は東天に輝きはじめた。警鐘は乱打された。立て、天下の青年、立つてわれわれと行をともにしないか。ここに憲法発布三十年を祝賀するにあたり、われわれの趣旨を天下に宣し、あえて世人に訴える。

決議

われわれは本日の祝賀にあたり普通選挙の実施を期する。 (信夫清三郎『大正政治史』 八六八頁)

二 大山郁夫の現実政治への登場

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 大正八年十二月二十四日、神田の青年会館で友愛会主催の労働者連合演説会が開かれた。聴衆約二千人。一弁士は「労働者が法律を作る時代がこなければ駄目だ」と叫んで、演壇から引きずり下ろされたり、一鉱山労働者は過激な言葉で資本家をこきおろして、警官とつかみ合いになるなど、殺気立った雰囲気であったが、そんな中で、大山郁夫も普選の即時実施を高唱する演説を行っている。大正初期における大山はどちらかというと、学者が現実政治に係わることに批判的な、いわゆる書斎派に属した。北沢新次郎はこの当時の大山について、次のように述べている。

当時の先生は、進歩的であったが、思想的には無色だった。そして『新小説』や『太陽』などにしきりと投稿されていた。民人同盟会結成当時の先生は研究室に閉じこもり、私はすでに街頭に出ていた。当時、たまたま研究室の廊下で先生にお会いしたとき、「北沢君、きみは友愛会の運動などやっているが、学者というものは象牙の塔にたてこもるべきで、実践運動をやることは学究としては行きすぎだよ」と言われたことがある。私は、「労働問題、社会政策の専攻で、その理論を実践に移す時期が来てやっているのですが、いけないものでしょうか」と尋ねたところ、「ぼくならやらんねえ」と言われたことを記憶している。 (『歴史の歯車』 一三一頁)

 この大山の態度を変化させた契機は『大阪朝日新聞』の論説記者となったことであろう。大正六年九月、「早稲田騒動」の収拾方法に抗議して学苑を辞めた大山は、翌月大阪朝日新聞社に迎えられ、長谷川如是閑、櫛田民蔵らと親交を結んだ。彼は長谷川から言論人の態度を学び、櫛田からマルクス主義を学んだ。大山は「白虹事件」により、一年たらずで翌七年大阪朝日を辞めるが、黎明会の有力メンバーになるなど、以後、実際的な啓蒙活動・政治活動に進出していく。大正八年二月、学苑に創設された民人同盟会にも、大山は学苑外にありながら深い関係を持った。

 大正九年秋、大山は高田名誉学長らの懇ろな招きに応じて教授に復帰するが、実践面の活動はますます多彩となり、学苑の学生に強い影響を与え、社会科学研究の興隆をもたらした。大山自身はいつしか社会科学研究の守護神のような地位に昇らされたのである。学生のいう社会科学とはマルクス主義研究であったから、その守護神の大山は当然マルクス主義者と見られたが、彼自身は遂にマルクス主義者になり得なかったと思われる。彼の論文には階級とか階級闘争とかの言葉が頻繁に登場し始めるが、思考様式の全体はシカゴ大学でウォード教授から学んだ社会学的な政治学プラス理想主義であり、この点で、猪俣津南雄佐野学とは決定的に異っていた。しかし、大山がマルクス主義的になっていったのは事実である。彼をそう仕向けたのは滔々たるマルクス主義の流行と現実政治の動向であった。

 大正十一年の年初には学苑の祖大隈重信が逝き、続いて元老中の元老山県有朋が逝った。二人の死はそれぞれに時代の転換を告げるものであり、普選運動の火の手は一段と大きく揚がった。前年、原敬が刺客の手にかかって横死した後を継いだ高橋是清は意欲・力量ともに劣り、ために政友会政府は弱体化した。弱体であるだけに普選運動の高まりにおびえ、背後にロシア・ボルシェヴィキの魔手を感じた。この恐怖心は弾圧の強化を促した。その現れが、十一年二月の過激社会運動取締法案の提出である。この法案の第一条には「無政府主義・共産主義その他に関し朝憲を紊乱する事項を宣伝し、または宣伝しようとしたものは、七年以下の懲役または禁錮に処する」とある如く、アナーキズム、コミュニズムは思想それ自体としても認めないとするものであった。更に、朝憲――この概念は後の治安維持法において登場する「国体」なる概念の先駆形態である――を紊乱する者も同一の刑罰を受けるとある。しかし、朝憲とは何であり、それを紊乱するとは何であるかは定義されることなく、従って、それは裁判官の自由裁量に委ねられざるを得ず、国家権力が自己にとって好ましくない思想・学問をすべて否定することができることを意味した。特に、社会科学研究の自由、ひいては大学の自由・独立は、根底から脅かされたと言わねばならない。

 大山はこれに対して激しい憤りと強い不安とを感じた。彼を政治に駆り立てるものは今や、普選運動よりも、社会科学研究を窒息させようとする者への怒りであったと言ってもよかろう。三月一日、神田の青年会館で開催された同法案への反対演説会の席上、国民党代議士星島二郎の開会の辞を承けて登壇した大山は、「政府は過激思想の普及と階級闘争をおそれているが、この法案の実施はかえって、この懸念を激成させるとともに、ヨリ以上の階級意識を高潮する結果となる。文化は自由思想のながれの如何によって程度がわかる……」と喝破した後、論旨を進めて、「今日政府は新進の思想を否認するが、否認するを得ない制度に改造したらどうか?たとえ民衆の口をふさぎうるとも、そのときは石も草もいっせいに叫ぶであろう」(『大正政治史』九三二頁)と断じた。彼は後、大正十二年六月二十六日にも、官憲による学苑の研究室蹂躙を糾弾する演説会の大学擁護演説において、学問研究の自由・独立こそ至高の価値であると説き、満場を興奮と涙のるつぼに投げ込んだが、これについては既に三四八―三四九頁に述べたので繰り返さない。普選運動を機に現実政治との接触を深めた大山は、普選運動と常に表裏をなす反体制的な思想・信条の存立を許すまいとする治安立法に不安と怒りとを感じ、それによって現実政治に一層深入りすることとなった。この意味で、大山が学苑の社会科学研究の守護神と自他ともに認める存在になっていった必然性も了解される。それはまた大山がマルクス主義的になっていく必然性でもあった。

 社会科学はマルクス主義と同義ではないが、繰り返し述べてきた如く、マルクス主義は大正末・昭和初期の日本で最も社会科学の名にふさわしいと考えられた。社会科学=マルクス主義と考え、そう主張する者も少くなかった。従って、権力が圧迫の対象としたのも社会主義思想・理論一般というよりも、ボルシェヴィキ共産主義のそれであり、当時においては、それがマルクス主義であった。弾圧は当然に抵抗を呼び、政府の弾圧が強まれば強まるほど、マルクス主義は社会主義の代表であり、社会科学研究の中核であるとの主観的・客観的情況が作り出されていった。前に指摘した如く、大山郁夫はもともとマルクス主義者ではなかったが、こうした現実に規定されて、次第にマルクス主義的になっていった。否、なっていかざるを得なかった。学問(社会科学研究)の自由を擁護しようとすれば、右のような弾圧の鋒先のあり方との関係で、マルクス主義研究の擁護に向わざるを得なかったからである。

 大山が『現代日本の政治過程』(大正十四年)の中で、次のように言う時、彼の立場は著しくマルクス主義的なそれに近づいている。

社会思想だけのものとして止まりうる間は、それは空想的でもあり得たし、浪漫的でも、概念的でも、思弁的でもあり得た。それは要するに、我々にある程度の智的満足を与へることだけで、――もしくはある程度に我々の智的矜持に媚びるだけで、――ことが足りたのであつた。ところが、社会思想がそこからさらに一歩を進めて、実際の社会運動に溶け込まなければならないやうになると、それは必然的に、社会科学に育くまれて来なければならなくなるのである。少くともそれは、社会科学の基礎の上に立脚せしめられて来なければならなくなるのである。でなければ、社会思想は、社会運動がそれから必然的に要求すべく運命づけられてゐるところのものを、十分に供給することが出来ない、といふことになるのである。

(『大山郁夫全集』第二巻 一五頁)

 大正十一年頃から、マルクス主義研究団体としての社研(社会科学研究会)は各大学、高等学校に続々と結成されていった。そして、十三年九月十四日には学生社会科学連合会(S・F・S・S=Student Federation of Social Science)が結成された。これは十一年に組織された学生連合会(F・S)の後進ではあるが、F・Sが各大学の文化・思想団体の統合体として比較的緩やかな組織であったのに対し、S・F・S・Sは各大学・高校の社研の上部団体としてマルクス主義的、且つ政治党派的性格が強かった。それは翌十四年、日本学生社会科学連合会となるが、一貫して普選運動・反治安維持法運動の有力な一翼として活動した。

 大正十一年から十三年の僅か三年間に、首相は高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾、そして加藤高明と五度変った。これを見ても、この三年間がいかに激動と不安の三年間であったかが分るであろう。政局の不安と混迷は十三年に至って、逆に清浦内閣という古色蒼然とした超然内閣を出現させるまでに深まったのである。

 首相の清浦も貴族院から選ばれた閣僚も皆老齢で、頭の固い連中ばかりであった。ここに至って政党の幹部達も事の重大さに衝撃を受け、清浦内閣打倒に向けて一致した行動をとるようになった。世に第二次護憲運動という。運動の推進者は政友会・憲政会・革新倶楽部であった。これを護憲三派と呼んだ。政友会は割れて、一部は政友本党となって、清浦内閣の準与党となった。護憲三派は運動のための重要な手段として、普選即時実行を謳わないわけにはいかなかった。とりわけ、三派の中心であった憲政会の加藤高明は、かねてから熱心な普選論者であった。三派の攻撃に耐えかねて清浦内閣は五ヵ月余で脆くも崩壊し、憲政会総裁の加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。加藤の最初の施政方針演説は普選実施についての抱負を語るというものであった。貴族院、なかんずく枢密院との虚々実々のかけひきは困難を極めたが、それでも翌大正十四年三月二十九日には普通選挙法が貴衆両院を通過した。明治以来の国民の悲願であった普選はここに漸く実現したのである。

 普通選挙法は満二十五歳以上の殆どすべての男子に選挙権を与える画期的なものであった。満一ヵ年同一地域に居住するのを選挙資格としたから、鉱山労働者など、移動労働者の多くの選挙資格を否定した点、婦人は初めから問題外とした点、なかんずく年齢を二十五歳以上としたので、最も革新的な政治感覚の鋭い十八歳から二十四歳までの学生や若手労働者が選挙権から除外された点など、不十分さを探せば勿論多々あるが、しかし、これらにより普選法の意義まで疑問視するのは、当時の現実の諸条件を無視した超越的・独善的批判と言わなければならない。

 しかし、これらを考慮してもなお、そこにはなお大きな限界があった。それは、普選が近代民主主義の意義の認識に発するというよりは、政治的不満分子・反抗者の懐柔策として行われたからである。従って、懐柔の対象とならない、換言すれば懐柔しようとしてもできない層、つまり過激思想の持主に対しては仮借ない弾圧を加えるべきであるとの考え方が、対をなして存在していたのである。明治初期以来の数ある治安法の中で最も広汎且つ厳重な治安維持法案は普通選挙法案とほぼ同時に議会に上程され、三月七日に衆議院を通過し、普選法案に先立って早くも四月二十二日に公布となり、五月十二日から施行された。選挙法の完成が治安法の完成と完全に表裏をなしたという事実は、戦前期における政治の体質を見事に表現していると言わざるを得ない。治安維持法は以後の日本の政治・社会・文化の全面に対して巨大な影響を及ぼし、やがては議会制度そのものをも無意味にして行ったのである。

 治安維持法の第一条と第二条は次の如くである。

第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

国体の変革が罪に問われるならば、事実上、革新的な政治運動は不可能となる。また私有財産制度の否認とは一体何か。私有財産に触れるのは一切悪なのか、それとも公共のための変更はよいのか。これらは結局、解釈に委ねられる。とすると、過激社会運動取締法案に関して指摘した如く、合法か非合法かは挙げて裁判官の胸のうちにあることになる。政治や経済のあり方を考える者はいつひっくくられるか分らない。特に第二条は問題である。その目的たる事項の実行に関して協議すること、つまり言論の段階でも罪になるのであるから、私有財産制度が歴史の産物なのを学生に講義しただけでも、或いは、公共のために私有財産の制限が必要であると学生に説明しただけでも、もしその学生が政治運動で罪に問われると、教授はその学生と協議したとして罪に問われる恐れがある。従って、治安維持法の下では、学問研究の自由はもとより、講義の自由すら存在しないと言わなければならない。これを危懼して、二月十九日の衆議院治安維持法案第一読会で、星島二郎は次のような質問を行っている。

本案の第二条は、学問の研究を非常に障害することにはならないか、凡そ大学の教授は、学問の研究をするのが国家に命ぜられたる所の使命であります。国家に関する学問をする為に極端に自由を許さなければならぬ、其為には進んで新しい社会組織を研究しなければならぬ。其組織を研究しますることは、若し本法に触れるやうな心配は無きや、先般我が全国高等学校の最も純真なる青年達が社会〔科〕学研究会を開きまして、中には一、二少し脱線したのがあつたかも知れませぬけれども、真に今日の社会現象を見て純真なる青年が研究したいと云ふのは是は慶ぶべき事であります。(「のうのう」)然るに文部大臣は其当局を通じまして之を解散せしめ、福岡の高等学校では、二名以上の学生が一緒になつて社会学を研究したら、厳罰に処する、放校に処すると云ふ。佐賀の高等学校では書物を焼いてしまはした。鹿児島の高等学校では或る学生を放校にした。熱心に純真な心を持ちまして研究せんとする是等が、若し之を圧迫しますれば、却て秘密の結社を作り、さうして純真に研究する者は之に触れる心配はないか。是に於て日本の大学の教授は、新聞紙上其他に於て相当犠牲を払つて居る。私は第二条は殊にさう云ふ所謂学問の自由、研究の自由を阻碍する虞はなきや、…… (『大日本帝国議会誌』第一五巻 一一四二頁)

これに対し、内務大臣若槻礼次郎は、「実行を協議した者が、本法案の第二条に依つて制裁を受けるのであります。学者が研究をした所が、其事の実行を目的として世の中にさう云ふ事を実現せしめんとして相談するのでない限りは、決して本法案に依つて妨げられるものでないのでありますから、……」(同書 同巻 一一四三頁)と答弁しているが、上述の如く、実行の協議と実行する内容の協議とは微妙に結びついて、截然とは切り離し難い。そこに権力が介入する恐れは十二分にあったのである。

 果して、治安維持法が公布・施行されると、学生の社会科学研究に対する攻撃が真っ先にやって来た。大正十四年九月二十五日には第一高等学校の社研が解散させられ、十月七日には第三高等学校の社研が同じ運命に遭った。翌十五年一月十五日には、いわゆる京都学連事件が起った。すなわち、京都府警察部特高課は京都帝国大学、同志社大学などの寄宿舎や社研会員の自宅や下宿などを一斉に家宅捜索し、以後四ヵ月に亘り多数を逮捕した。この結果、起訴された学生と労働者は三十八人に上り、最初の本格的な治安維持法の適用事件となった。

 実践運動突入後の大山の目標は普選の実現、反軍・平和主義の実現、学問研究の自由の確立など多数であったが、最高の価値を置き、最大の努力を注いだのは、学問研究の自由の確立であった。この条件の上に、議会の機能も果され、反軍・平和主義も定着するのだと、彼は考えていた。この意味で、大山が求めたのは欧米社会が実現した「近代」デモクラシーであった。故に治安維持法は彼にとって一刻たりとも我慢のならない悪法であった。大山は同法成立阻止の活動をせずにはいられなかった。例えば、十四年二月十六日、東京芝の協調会館で五団体主催の治安維持法案批判講演会が開かれたが、大山は学苑の同僚安部磯雄、および三輪寿壮、清瀬一郎らとともに演壇に上がり、熱弁を揮っている。

 治安維持法成立後においては、大山は一日も早くこの法律を廃止に持ち込まねばならぬと決意した。多くの学校で社研は解散させられ、反対する学生は退学を命じられていた。その状況を見ると、大山の右の思いはいよいよ募ったと想像される。大山は若き日より考えて来た西欧的近代化が幻想であるのを知った。デモクラシーは治安維持法と引換えにして初めて手に入れることができるのが、日本の現実であった。しかし、それは形だけの民主化であり、実態は寧ろ民主化の逆行と言わねばならない。大山は何よりも先ず学究であったから、学問研究の自由を喪失して得る政治の民主化などは全くナンセンスと思われたのである。そこで、大山は治安維持法を無にするためにこそ、今や政治的実践が必要であると決意するに至った。それは自らをマルクス主義的な道に押し出す決意を固めることでもあった。政府が治安維持法を制定したのは、共産党、或いは共産党的な社会主義党派の撲滅を期してのことであったからである。大山が学問研究の自由を目指して治安維持法――正確には同法を成立させた政治勢力――の排撃に進めば進むほど、その立場は共産主義的になった。当時はマルキシズム――正確にはボルシェヴィキ的マルキシズム――がアナーキズムを圧倒して、一世を風靡しつつある時であった。既に何度も指摘した如く、そのマルクス主義は国民的文化論として、政治的党派を越えて、日本の学生・インテリ層に強力にアピールしていた。従って、大体において、社会科学研究会といえばマルクス主義研究会であった。ここにも、大山をマルクス主義的にした理由がある。

 もう一つ、大山をマルクス主義的にした理由がある。それは無産政党内部の目まぐるしい左・右の対立・分裂である。マルクス主義的左翼――端的に言えば共産党――が勢力を拡大するにつれて、これを快く思わない人々も多くなった。マルクス主義者(共産党)は無産政党内部に対立者(右派)を作り出し、両者はことごとにいがみ合うようになっていった。それは客観的には、権力の思う壼にはまったわけであるが、その際、学究派で純真であった大山は左派に与した。普通選挙に向けて無産政党が具体的な行動に入ると、大山はあたかも大波に持ち上げられるような形で、共産党がコントロールしていた左派(労働農民党∥労農党)の委員長に祭り上げられていったのである。

 右の事情は政治研究会の推移を見るとよく分る。大正十二年も押し詰った十二月十八日、牛込神楽坂のカフェー尾沢に島中雄三、青野季吉、鈴木文治、高橋亀吉、福田徳三ら各方面――労働総同盟、関東機械工組合、出版従業員組合、農民組合、社会思想社、種蒔き社、農民運動社、文化学会――の人々が集まって、無産政党の結成について意見交換を行った。その年の九月二日、関東大震災の余燼の中から成立した第二次山本権兵衛内閣は普選の即時実施を声明したが、この声明が右の会合の気運を作ったのだと言われている。意見交換の結果、すぐに無産政党を作るのは時期尚早なので、取敢えずは政治研究会を組織し、意見交換を続けるのがよいということになった。翌大正十三年四月二十六日、政治研究会に集まった人々は、それまでの討議を踏まえて、新政党の結成に向け一段と具体的に話し合おうということで合意した。大山も新党創立委員二十五名の一人に選ばれた。

 六月二十八日、芝の協調会館で政治研究会の創立大会が開かれた。賀川豊彦が開会の挨拶を行い、布施辰治が座長となり、島中雄三の経過報告があって、十六ヵ条の規約を決定し、次のような宣言と決議が朗読された。

宣言

わが国歴代の政府と政党とは、私利に駆られ、私欲に没頭し、国民を売つて財閥の走狗たること多年、そのために内治に外交に弊政百出、国民生活は今や破滅の淵に逐いやられつつある。物価騰貴と政費負担の不公平とによる民衆の生活難は、その一である。おどろくべき失業者の激増は、その二である。底止するところなき農村の衰微は、その三である。生得の権利を奪われた労働者・小作人の窮乏は、その四である。内、国民をして自暴自棄に陥らしめ、外、国家をして国際的孤立に瀕せしめようとする、その五である。しからば、これを解決する道如何。われわれは信ずる、財閥中心の政治をして民衆中心の政治たらしめることは、すくなくともその先決条件である、と。この故をもつて、われわれは本大会において左の事項を決議する。

決議

われわれは、無産階級の利害に立脚する政党の樹立を期する。 (『大正政治史』 一一五〇―一一五一頁)

しかし、各団体代表者の祝辞演説に移るや、総同盟とアナーキストの間に弥次の応酬から、なぐり合いになるなど、早くもその前途は多難なることを思わせた。

 大山は同会の調査委員として、北沢新次郎、藤井悌、川原次吉郎、丸岡重尭、沢田謙、平林初之輔、市川房枝、高橋亀吉、青野季吉、新居格等々の諸氏と活躍した。九月からは、機関誌『政治研究』が発刊され、会は急速に発展の道に乗って、大正十四年四月に第二回大会を開く頃には、一道三府三十九県に五十三支部が設けられるまでになった。尤も、会員の三分の一は学生で、地方支部の三分の一は学生社研であった。学生社会科学連合会(S・F・S・S)は政治研究会の基幹の一つであり、その影響力は強大であった。前述した如く、学生社研はマルクス主義の研究団体の観があり、政治的党派としては共産党に最も近かった。故に、政治研究会に対する学生社研の影響力が強まったというのは、同会がマルクス主義的団体、端的に言えば共産党的な団体になったことを意味し、従って、当然ながら、政治研究会内部の左・右の対立を激化させる結果となったのである。

 この対立は第二回大会で顕在化した。前述の如く、この年初めに護憲三派内閣は普通選挙法を成立させた。来たるべき総選挙においては、無産政党として選挙戦に臨まねばならない。しかし、政府は治安維持法を抱き合せにした。右派は治安維持法の発動を避けつつ、無産政党として伸びて行く方向を選んだ。左派は治安維持法を廃止させる激しい闘争を組む方向を主張した。しかも、この選択はもはや論議の段階ではなく、実行の段階にあった。対立はいずれかの方向に決着されねばならなかった。結果として、第二回政治研究会大会の後は左右対立が表面化した。かねて、労働総同盟内部の対立から、左翼組合の関東地方評議会所属の七労働組合が総同盟から除名されており、除名された人達は五月二十五日、日本労働組合評議会を結成した。こうした左右分裂の事態は、政治研究会の活動に大影響を与えることになった。八月十五日、政治研究会は綱領委員会を開いたが、左派の巻き返しにあって紛糾し、右派の島中雄三、高橋亀吉、中沢弁次郎らが中央委員を辞した。十月七日、政治研究会は臨時全国大会を招集し、新たに中央委員を選んだ。大山は布施辰治、黒田寿男らとともに、中央委員に選出された。大山は先に調査委員として、いろいろと思案をめぐらす中で、「全国単一無産政党」の構想を固めつつあった。今や、その構想を実現しうる立場に立ったのであるが、労働総同盟と日本労働組合評議会とへの労働戦線の分裂を前提として考えるならば、その構想を現実に移す可能性は殆どなかった。しかし、大山はその夢を捨て切れなかったのである。

 大正十四年十二月一日、総同盟を中核とする農民労働党が結成されたが、政府は直ちに結党禁止命令を出した。

 普選の実施が近づくにつれて、対立はいよいよ深まり、局面は全体として混沌たるものとなった。十五年一月、無産政党準備懇談会が大阪中之島公会堂で開催された。出席したのは総同盟、日農などの右派ないしは中間派であった。そこでは、評議会、政治研究会などの左派勢力をどう扱うか――排除するか、入る余地を残すか――で激論となり、原則的には左派勢力も入れるべきだとの結論にはなったが、全体的には右派のペースで進んだ。

 いよいよ三月五日、労働農民党(労農党)が結成された。しかし、この段階になっても、左派の扱い方をめぐってゴタゴタが続いた。すなわち、共産党を除くという点では合意を見たが、共産党以外の左翼勢力をどうするかの意見統一ができなかったのである。そして、十月二十四日に至り、労農党は大きく旋回した。同日の第四回中央委員会において、遂に総同盟などの右派は脱党を宣言し、安部磯雄、三輪寿壮、賀川豊彦らが中央委員たることを辞した。ここに至って、労農党は事実上崩壊したが、大山らは労農党を抛り出す気にはならなかった。彼を社会科学研究の守護神と仰ぐS・F・S・Sに拠る学生達も、大山に労農党の存続を託した。同年五月十三日には岡田文相が「生徒の左傾思想取締に関する内訓」を発し、同月二十九日には学生の社会科学研究絶対禁止を通達している。

 この状況に対応して無産政党の戦線は大きく変化していった。十二月五日には社会民衆党(社民党)が結成され、安部磯雄が委員長になった。また同月九日には日本労農党(日労党)が結成されて、三輪寿壮が書記長となった。労農党としても拱手傍観は許されなかった。十二月十二日、同党は再建中央委員会を開催した。そして、翌十三日、大山は再建労農党の中央執行委員長に選出された。時に大山は四十六歳。

 十二月二十五日、大正天皇が崩じ、摂政裕仁親王が践祚し、昭和と改元された。昭和元年は七日足らずで終り、昭和二年となる。

三 大山教授辞任問題

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 大正十五年十二月十六日の『早稲田大学新聞』は、「稲門の屋台から/送り出さるる/無産党の闘士/安部大山両教授を筆頭に/早稲田王国が出現」との見出しのもとに、多分に慶祝的な記事を掲げている。その気持は教職員・学生・校友の胸に等しく抱かれたものであったろう。創立以来、政治の早稲田として、大隈重信を筆頭に名政治家が続続と輩出、政党政治の中での一大牙城を築いていた。普選の実現により、政治はより国民的なものとなった。それを担うものは無産大衆的な政党である。その二つの大政党の委員長を学苑の教授で占めたのであるから、それは全早稲田人にとり全く喜ばしい出来事であった。加えて、これより少し前、日本農民党が結成されるや、北沢新次郎がその顧問となっており、無産政党と学苑の結び付きはきわめて大きかった。

 しかし、この慶祝気分は、翌昭和二年となるに及んで一転し、学苑は沈鬱・深刻な気分に支配されることとなった。労農党の輝ける委員長となった大山は学苑の教授であったから、その身の振り方が問題となった。社会民衆党の委員長となった安部磯雄は本学苑教授を辞して講師となることを十五年十二月申し出で、翌年一月十五日付で発令されている(安部が講師とも両立し難いと自ら認めて学苑を去ったのは昭和三年三月である)。高田総長以下大学理事は当然、大山もこの例に倣うであろうと期待した。しかし、大山はそうしなかった。彼は委員長と教授は両立しうるし、また両立すべきものであると主張したのである。総長・理事はその言い分を了承するわけにはいかなかった。高田は何度か大山と会い、講師として学苑にとどまるよう勧めた。高田がそう要請した理由は安部に倣えというのではなく、それが高田の考える筋であったからである。

 高田の考え方を「大山教授の辞職に就て」(『早稲田学報』昭和二年二月発行第三八四号)により要約すれば、こうである。高田は、責任の大きい激職である政党の党首という地位が教授としての責任を果すのを無理ならしめるという、その事を問題にしているのであり、大学教授の政治活動の自由を制限しようなどとは毫も思っていない、と言う。大山が労農党の党員となり、その代議士になるというだけならば、自分は大山に干渉がましいことは一切言わなかったろう。しかし委員長と教授の両立を認めるのは、教授の地位をそれだけ軽く取り扱うこととなり、多年自分が抱懐し、主張している「教授全力主義」に反するのだ、と高田は訴えている。

早稲田大学の教授なるものは全力を挙げてその職務に尽さなければならぬ。早稲田大学はその昔は一人の教授もなかつた。講師のみであつた。而して講師は大多数時間給であつた。その当時から四十有余年の辛苦経営の結果、今日では多数の教授を置くことが出来、それに対して不満足ながら年俸を支給することが出来るやうになつた。それであるのに教授がその職務以外、無暗に内職をしても差支へないと云ふことになると、学校は一日も行立たないばかりでなく、多数学生が甚しく迷惑を蒙ると云ふことになる。これが即ち私が教授全力主義を高唱する所以である。然しながら実際に於ては、琴に膠するやうなことはしたくない。教授と云ふ本務を害せざる範囲に於ては、多少他の仕事に関係することは、従来公許し又は黙許し来つたのである。それと同時に本務を害すると見た以上は他の仕事を止めて貰ふべき権利が早稲田大学にあることは勿論である。但し教授の本務以外に関係する仕事は、私の目から見れば一視同仁である。その事が政治に関係があらうが無からうが同一に見るのである。教授が代議士となり政党員を兼ねることも、又弁護士を兼ねることも、新聞又は雑誌記者を兼ねることも、私としては一切無差別である。 (九―一〇頁)

 労農党委員長を受諾した時、大山は当然、学苑に対して今後自分の執るべき立場を考えた。当初は、教授は辞めなければならんだろうなと考え、夫人や側近にもそう語ったといわれる(田部井健次『大山郁夫』七六頁)。昭和二年一月十三日には、大山は総長室を訪ねて高田と懇談している。後に二月十日の学生に対する告別演説の中で、大山はそのことに触れ、大山は総長から、委員長の間は講師として講義を続けるようにと言われたが、教授会にも出席できない、ただの雇われ人となるのでは、「私が折角今日まで助力を捧げて来た学生たちが、今後彼等の正当な運動の上に於て如何なる弾圧や迫害を加へられてゐるのを私の眼前に見てゐようとも、私はそれを拱手座視してゐなければならないであらう。だが、それは、私には堪へられないこと」(「早稲田の学徒に与ふ」『改造』昭和二年三月発行 第九巻第三号 二七頁)だと述べて、総長の要請を断った、と言っている。つまり、学生の身の上を痛切に思いながらも、自分は委員長に専心する以外にないと考えたのである。

 しかし、やがて大山のこの態度は変っていった。変化の原因の最大のものは学生の動向である。大山辞職の噂が流れると、社会科学研究会の学生を中心として、留任運動が盛り上がった。大山がいなくなれば、学苑の社会科学研究の火は消えるであろうとの学生の訴えに、大山の心は激しく動揺した。しかし、大山の執った態度は瞹昧であった。学生の訴えに応えると決意したのなら、大山の執るべき道はただ一つ、委員長と教授の両立を飽くまで主張する以外にない。だが、この時期に彼がこの主張を行った形跡はない。それを行えば総長と全面的に対決することになる。しかし、総長から受けた多年の恩顧を思うと、敢えてやる気にはならなかったと、後日大山は語っている。それなら、教授辞任のやむを得ないことを説いて、学生を納得させる努力をしたかというと、そうでもない。大山の執った態度は、辞任はするが、辞任する理由を納得しているわけではない、否、納得しないどころか、甚だしく不当に思っているというものであった。それは、客観的には、大学により無理矢理やめさせられるのだということになる。事実、告別演説の中では、「追放された一教授」という言葉が使われている。こうした大山の態度が学生の運動と結びつく時、大学当局の方針は学問研究の自由、政治行動の自由の否認であり、大山はその犠牲者であるとの状況が作り出される。

 昭和二年一月二十四日、学苑キャンパスは騒然たる空気に包まれた。この日、大山教授の辞任問題を議する政治経済学部教授会が招集されており、これを察した学生達が大山留任を教授会に訴えようと、学生大会を開いたのである。一月二十七日付の『早稲田大学新聞』は、「『都の西北』の合唱裡に/第一回学生大会開かる/教授会の公開を求め/薄暮に到るも去り止まず」との見出しの記事を掲げている。中央校庭に集まる学生の数約三千。

一、早大学生大会は教授の政党加入自由の原則を確立し、大山教授の留任を期す。

二、理事会の専横なる決定は絶対に反対す。

との決議文が作られた。また、「今日の教授会は学生に特別関係があり、かつ重大なるものなれば、学生に解放されたし」という、教授会の公開を求める動議も出されたのである。

 大会に集まらない学生達もそれぞれに心を痛めていた。しかし、この問題に対する学生の姿勢・意見はまちまちで、すべてが大山の委員長と教授の両立一本槍でまとまっていたわけではない。例えば、同日会合した政治経済学部学生委員会が、委員一同の名で大山に出した「哀願書」は、高田総長の見解と基本的には一致するものであった。

現下の状況を鑑み、将来を顧慮し、吾人は脳漿を絞って、右の二解決案を呈上し、何れか之を採用せられんことを玆に伏して哀願す。

解決案

一、本大学教授として留任し、他方労農党は中央執行委員、若しくは顧問となること。

二、本大学講師として留任し、他方労農党は現状維持とすること。

(付) 教授の政治運動参加可能の両立原則は高田総長の言明通り確立せり。

大山郁夫先生 政治経済学部学生委員一同

(『早稲田大学新聞』昭和二年一月二十七日号)

 これより二日前の一月二十二日、総長高田は理事会を招集し、大山教授の処遇について諮った。勿論、大山の教授辞任はやむを得ないというのが高田の提案であった。理事会は全員一致でそれを了承し、「理事会ハ大山君ニ関スル問題ニ就テノ総長ノ意思ヲ是認シ、大山君ノ辞職ハ不得已ト認ム。但シ其方針ヲ枉ゲザル範囲ニ於テ執ルベキ情誼上ノ手段アラバ、総長ニ於テ適宜採ラレンコトヲ希望ス」(『早稲田学報』第三八四号一一頁)との決議を行った。この理事会招集・決議は時間の推移から考えるといささか唐突、且つ強引の感じがする。教授会に対する理事会の権限がまだ相対的に強かった当時の事情を考慮に入れてもなお、教授の人事に関する方針を、教授会に先立って理事会で決定するのは行き過ぎと言わねばなるまい。それはともかく、大山教授の処遇を一刻も早く決したいとの高田総長の意志と感情とが、そうした異例なやり方を通して、現在の我々に伝わってくる。高田が事を急いだ理由は、直接的には学生による留任運動の高まりであろう。また、その高まりが大山の心情に響いて、どんな行動に出るかを危懼したところもあったようだ。更に、前引の『早稲田学報』の記事「大山教授の辞職について」を読むと、大山は委員長と教授が実際上両立し難いという分り切った理屈を知りながら、学生に担がれると、学生の口吻をそのまま自分の主張として、自分を辞職させようとしている大学当局のやり方は政治活動の自由の侵害であり、学問研究の自由の弾圧であるなどと見当外れなことを述べたてている、という高田の感情が行間から窺える。高田の次の言葉は、かかる気持を抱きながら、暗に大山教授批判を行ったものと見られよう。

所謂学生大会等に於て、教授と政党員とは絶対に両立すべきもので、教授の政党加入は原則として確立す可きものだといふやうな、叫を挙げたやうだが、前にも述べた通り、私の方針はそふいふ問題には、何等関係を持たないのは明かであると同時に、早稲田大学教旨の第一たる学問の独立といふことなぞには、毫も関係はないのである。此為に学問の独立が害せられたなどといふのは、全く見当違ひの見方であると私は思ふ。 (同誌 同号 一三頁)

高田のうちには苦々しさとでも言うべき感情があり、それが高田の行動にある種の過激さを与え、結果として行き過ぎとなり、学生間にある程度の不信と反発をもたらしたのは、学苑全体にとり、不幸なことであったと言わなければならない。

 二十四日の政治経済学部教授会には、総長自身が理事会決議を以て臨み、出席の教授諸氏に同意するように求めた。しかし、教授会は直ちにはこれに同意しなかった。結果は、大筋においては理事会決議を了承するが、方法としてはあくまでも情誼上の勧告としたい、ついては、十日間の猶予を与えられたい、というものであった。理事会で辞任を決め、教授会に持ち込んでくるのは、順序が逆ではないかとの批判・不満を教授の多くは持ったのであろう。この教授会の結論は妥当と言うべきである。しかし高田は不満であった。総長室に戻った高田は塩沢昌貞政治経済学部長を呼んで、翌々二十六日に再度教授会を開くよう要請した。総長の熱意に負け、塩沢は翌二十五日自ら招集状を起草して、事務主事西義顕に発送を命じた。その日、午前十時から、中央校庭において第二回の学生大会が開催され、大山教授の留任、理事会・学部当局の弾劾などのアピールが行われた。学部長から教授会の招集状を受け取った事務主事は騒然たる校庭の光景を眺めて発送を躊躇し、発送の可否を高橋清吾政治学科教務主任に諮った。高橋も発送は不適当と判断した。二人は夜九時頃、タクシーで高田総長宅を訪ね、不適当の理由を述べ、総長に自重を促したが、逆に総長の激怒をかった。その間の事情は高橋の声明書に詳しい。その全文を掲げる。

声明書

私は昨日(二十五日)は午前十時半から午後四時半まで留守でありましたが、七時頃に学部の西事務主任が来訪されて、大至急教授会を開くことになつた、その日時は二十六日午前十時であると語られた。西君は慣例により一応高橋教務主任の耳に入れてから召集状を発送するのが目下の形勢上適当だと思つたので、只今手許に召集状を全部持つている、どうしたものかと相談せられた。私は事の意外に驚き、塩沢学部長の許にかけつけんとしたが、考へて見るに、これは高田総長の下に参上して御意見を伺つた上、自分の意見を定めるのが適当だと思つたので、直ちに自動車を飛ばして総長邸にかけつけた。私は総長に自分の意見を述べやうとして、その前提として西君の取つた処置をお話したところが、総長は非常な御激昻で手がつけられず、召集状は総長自らお出しになると言はれるので、これを了承した。しかし、私はかくの如き突然なる教授会召集は同意致し兼ねるので、大要左の如き教務主任の辞表を総長並びに学部長の許に呈出して帰宅した。(二十五日午後十一頃、総長宅に於て塩沢部長に提出)

辞表

明日(二十六日)教授会開催の件は昨日の教授会の決議に戻り、且つ現下の状勢に絶対に不可なりと信ぜられたにつき、同意致しかねて候。依つて学部長補佐の責任をつくしかねたにつき、玆には教務主任の職を辞し申候。 拝具

昭和二年一月二十五日 政経学部政治学科教務主任 高橋清吾

高田総長殿

塩沢学部長殿 (『早稲田大学新聞』昭和二年一月二十七日号)

 この間の事情について、高田総長は次のように述べている。

ここに於て勢ひ私は激怒せざるを得ないのであつた。よつて其席に於て、西主事に対し、何が為に学部長の命令に反き、教授会の招集状を出さざりしやを詰問した所が、西主事は、事態重大と自分は思考した為に其発送を遷延せしめたといひ、又高橋教務主任が其事にあづからざるにより発送を見合はせたと私に答へたのである。一事務員が事態重大といふ理由の下に、学部長の命令に反き、又高橋教務主任が其事に預らざるを理由として発送を見合はせるといふことは実に不都合千万である。事務員が事態の重大と否とをみだりに独断して招集状を発送しないといふことが元来越権極まることであるのみならず、教務主任は学部長の補助たるに過ぎぬのに、其人が預らぬからといつて学部長の直接の命令に背き、召集状の発送を遷延するなぞといふことは言語同断な事であると私は思つた。 (『早稲田学報』第三八四号 一二頁)

 手続的には確かに高田の言う通りかもしれないが、当の総長自身十日後に再開するとの教授会の結論を独断でくつがえしている。それが教授会を硬化させるだけでなく、学生の運動に油を注ぐ結果となる惧れは多分に存在したに違いない。高田の独断を危ぶんだ高橋教務主任や西事務主事の判断を、権限問題をふりかざして裁断する高田の態度は、妥当性を欠くとの批判もあり得よう。いずれにせよ、当時の学苑には緊迫した空気がみなぎっていて、総長としては、自分のやり方の強引さを意識しつつも、やむにやまれぬものがあったのであろう。

 一月二十六日午前十時から開催された教授会は、さしたる混乱もなく、というよりも寧ろあっけなく終った。大山問題は出席者十六人の投票により決せられることになったが、十四人が理事会決議に同意したのである。この教授会の模様を、後年に至り、阿部賢一は左の如く追懐している。

教授会は大山教授を除き全教授の出席をみたが、三十名足らずだったと思う。陽光が窓から射して室は明るい。前面中央に高田総長がいつもの通り和服で厳然と椅子に腰をかけて構えられ、傍に塩沢学部長がおられる。何ともいいようのない重くるしい空気が室内を領していた。時刻がくると塩沢先生が立って緊急教授会の招集は大山教授の進退にかかわる問題だから十分考慮の上、決定してもらいたいと述べて開会となった。誰も黙しているし、高田総長が何かいわれるのかと思ったが、腕を組んだままで口を開かれない。塩沢先生も提案の説明をされない。といって、それも十数秒間のことだろうか、まったく沈鬱そのものを感じた。こんな教授会は私としても初めてで、発言する気持はむろんなかった。だが、高田総長が教授会を重視され、自ら出席して監視するような威圧感の下に早稲田の教授会が開かれることは好ましくないと直観した。それで腰を上げて高田先生に向かって発言した。「この教授会は大山教授の進退問題を教授会として議決するのですが、はなはだ失礼なことですが、高田先生のご臨席は教授にとって威圧感を感じさせているようです。お願いですが、この席をはずして頂けませんでしょうか」といった。今になっても発言の大要を覚えている。目を厳しく私に向け、じーッと聞いておられた高田先生は考慮数秒「そうかー」と一言洩らされ、やおら立たれて静かに退場された。誰もお止めしなかった。去られるその後ろ姿を見ながら、先生、相済みません、といいたい気持であった。高田先生が去られた後、出席教授はどんな気持だったか、私には分からなかったし、後でも塩沢先生から小言も聞かなかった。教授会は塩沢学部長によって、大山教授に退職を求めるかどうかを議題として、投票の形で議決することになり、各教授一票を投票箱に投じた。開票の結果、反対一票、残り全部が賛成と発表された。反対は私一人で、後で棄権が一人あったと噂されたがその真相は知らない。ともかくこの議決によって大山さんは早稲田を去られたのである。大学としても惜しいことであった。 (『新聞と大学の間』 一〇一―一〇二頁)

記録によれば反対票一票、白票一票である。十日間の猶予の申合せを無視された教授会の大部分が、それを無視した総長の提案を支持したのは、不思議と言えば不思議である。その理由は学苑を支配していた緊張感であろう。もし、総長の提案、すなわち理事会案を政治経済学部教授会が否決したらば、どうなるか。それを思うと、たじろがざるを得なかった。多くの教授は、大山が早稲田大学教授と労農党委員長とを兼ねることが実際問題としては困難であると当然考えたであろう。学苑の教育を学苑の専任教授が行う態勢を整えるために、総長がいかに苦労したか、現に苦労しているか、教授達は知っていた。それだけに、教授の政治活動の自由という一般的原則を楯にして、実際には実行困難な教授と委員長の兼任を主張する大山に対する高田の憤りも理解できたのである。満票に近い形で総長案が支持された背景には、こうした判断・感情が渦巻いていたと想像される。

 勿論、大山の教授留任を運動していた学生達は、この決定に激昻した。同日、十二時半から中央校庭で開催された第三回の緊急学生大会に集まった学生達は、「我々は教授・学生を欺瞞して突如教授会を開きたる学校当局を糾弾し、其初志の貫徹を期す」(『早稲田大学新聞』昭和二年一月二十七日号)との決議を行った。しかし、大学側はそれを顧慮することなく、翌一月二十七日維持員会を開催して、高田総長より大山の辞職問題の経過を報告し、満場一致で辞職が承認された。大山の解職は、一月二十六日付で発令された。

四 告別演説会

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 運動していた学生は悲憤慷慨したが、形式的にはもはやどうすることもできなかった。学生の一部は当局批判の激烈な宣伝ビラを配布するなどして煽ったが、学生大会を開くまでには盛り上がらなかった。

 そこで、学生有志は、この上はせめて大山から最後の話を聞く機会を作りたいと、「大山教授告別演説会」の開催を大学当局に申し出た。当日は演説以外は一切行わないと確約させた上で、理事会はそれを認めた。二月十日、演説会場となった二十番教室には学生達が続々集まった。それらの学生を前にして、大山は「早稲田の学徒に与ふ」との演題の下に、文字通り最後の熱弁を揮った。そのすべては後に『改造』に掲載された。大山の告別演説は単に学苑の学生に対してのみならず、日本全国の学生に影響するところ少くなかったのである。

 大山は先ず「早稲田精神」は今まさに亡びようとしていると絶叫した。

一般社会に於ける政治的デモクラシーの勃興時代に於ては、早稲田精神は、尚ほ全線的にそれに追随することが出来た。けれども舞台がそこから更らに急転直下して、一般社会に於て階級対立関係が現実に尖鋭化するやうになつてからは、初めから学問の独立、研究の自由及び学問の活用を目標とする学風の上に立脚せしめられてゐた早稲田精神は、その尖鋭化された階級対立の分界線に沿うて、徐々に―しかしその結末に於て確実に―左右両翼に分裂されて行つた。そしてその右翼は依然として対官僚閥族抗争時代そのままの自由主義の主張の形骸を固執しつつ、それから先きの自己発展を拒否する態度に終始しつつ今日に及んでゐる。が、それに反して、その左翼は、飽くまで理論と実践との統一の原則の指導の下に、不断の進転をつづけてゆく現実社会が問題とするものを問題としようと努力したところから、段々と無産階級的闘争原理の方向へ突入して行つて、学問の独立及び研究の自由の名に於ての社会科学研究自由のための戦ひの趨勢を急速度に展開せしめて行つたのである。

(『改造』昭和二年三月発行 第九巻第三号 一六―一七頁)

大山はあからさまには言っていないが、学苑当局は前者、すなわち膠柱的右翼に属すると考えている。そして、それは反動化してはいないが、無力化していると断じる。

ただ現在の早稲田学園に於ては、純粋の反動主義的、もしくは国粋主義的勢力が殆んど絶無の姿にみえてゐる。若しくは縦し幾分さうしたものがあつても、それは殆んど眼につく程の活動力を持つてゐないのである。……けれども、実際上に於ては、彼等がその独立を擁護し、その活用を保全しようとする学問や、彼等がその自由を確保しようとする研究やは、今日では最早、支配階級が単に認容してゐるといふだけでなく、更らに積極的に歓迎もしくは支持してゐるものでさへある。それ故に、彼等が今尚ほ依然として繰り返してゐる学問の独立、研究の自由の主張は、最早著るしく内容の空虚な、そして唱へ甲斐のない題目となつて来てゐるものである。 (同誌 同号 一八頁)

大山がここで「早稲田精神」といっているものが「早稲田大学教旨」に盛られた精神であることは言うまでもない。教旨の精神は東京専門学校創設以来脈々と受け継がれてきたが、教旨として闡明されたのは、既述の如く、大正二年十月十七日の創立三十周年の記念式典においてであり、「早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を效し、模範国民を造就する」との文言を主文とするところのものである。

 では、この教旨の精神は何であったか。それは「学問の独立を全う」するとの文言の解釈にかかるであろう。大山は政治権力に対する独立、その前提としての政府批判と解し、今や教旨の精神は少数左翼の担うところとなったと断じる。しかし、大山のこの解釈の他に、もう一つの解釈があった。それは欧米の学問からの独立、日本文化に根差した真に自立的な学問の早稲田大学における創出である。大隈重信小野梓に発し、高田総長達に引き継がれた精神はこれであった。既述(第一巻 七三〇―七三一頁参照)の如く、十五周年記念式典における大隈の演説はこれを確実に裏付けている。大隈は東京専門学校の開校式での小野梓の主張を敷衍して、こう述べている。

御維新になつて種々の学校といふものが出来た。出来たが皆重もに西洋の学問をさせた。即ち維新後凡て此制度文物悉く西洋の尤も進んだものを日本に持つて来て、西洋の学問は必要だ、凡ての学問は西洋でなければならぬといふ。……そこで私が倩倩考へるに、是れでは日本の学問の根底がない、此日本といふ大国に少しも学問の根底がない、教育といふものは実に大切なものである。一国の国民の性質から凡て其土台を組立てる所の大切なる教育に根底がない。そう云ふ外国の法に依つて日本人を教育されるといふは実に畏るべきことだ。是では往けない。……それ故に、どうかして此日本語を以て十分高尚の学科を教へる所の学校を拵へることが必要である。……私は決して今日の如何なる高尚の学問も日本の文字と言葉で言直すことが出来ぬ道理はないと思ふ。それ故に十分に学者達がそこに力を致したならば、必らず日本の学問はアラユル教科書、皆日本の文字で而して日本語で講義をすることが出来る。それから進んで著述をし、或は又た無いと云ふものは翻訳をすれば、必らず出来ることと考へたから、乃ち私は学問の独立といふことを大胆にも唱へたのである。

(『早稲田学報』明治三十年七月発行 第五号 三―六頁)

 これら二つの解釈は対立の関係にあるのではなく、表裏の関係にあると言うべきであろう。内容の伴わない研究の自由の主張は空虚な政治主義に堕する危険がある。また、独自な思想・学問を展開しようとすれば、政治的レヴェルでの研究の自由の保証は不可欠である。「学問の独立」という教旨、すなわち早稲田精神は本来的には、学問それ自体の文化的レヴェルでの独立と、政治権力の干渉からの自由というレヴェルでの独立との二つを含むものであった。否、そうある必然性を持っていた。社会的環境、それと相互規定的関係にある研究者の自己認識のあり方が、これまでは学問の独立の文化的なサイドを重視させていた。しかし、大正末・昭和初期における一連の大変化は政治的レヴェルでの学問の独立の意義を際立たせたのである。早稲田精神は歴史的・伝統的精神であるとともに一個の時代精神でもある。この二つの解釈が対立し、相剋し、融合していくところに、早稲田精神の永遠性の保証が存する。

 学問の独立の文化的サイドを重視したのは高田総長らであった。それが誰であるにせよ、教授の地位を確保したまま、政治舞台を奔走すれば、教授という地位は空虚化して、独立させるべき学問自身がなくなってしまう、と高田らは考えた。一方、大山は学問の独立の政治的サイドを重視した。これを軽視して、学問の独立を叫んでも、その学問は結局、体制に許容される学問、従って、体制に追随する学問でしかあり得ない。そんな学問は独立の名に値しないと考えたのである。すなわち、大山事件を客観的に評するならば、それは起るべくして起った事件であり、また、それが起ったという事実そのもののうちに早稲田精神が看取され、早稲田大学の偉大さが認められる。

 ところで、大山は右のように早稲田精神を語り、その擁護を訴えた後に、自分が早稲田大学教授と労農党委員長は両立されるべきものと考えた根拠について述べる。根拠の第一は、政治は無給で自発的に働く政治家によって行われるべきだということである。政治を職業とするところ、あからさまに言えば、政治で金儲けをしている職業政治家を駆逐すべきである。故に、政党の党首たる者は普通無給であるし、無給であるべきだと大山は言う。とすれば、

無産政党の立場からは、その役員が生活費の源泉としての然るべき職業を持つことを理論的に承認することは当然のことだといわなければならないのである。 (『改造』第九巻第三号 二三頁)

第二の根拠は、教授たる者は現実社会と係わりを持つべきだということである。

頭の頂上から足の爪先まで所謂プロフエツサー型で固まつてゐて他の何物でもないやうに見えるやうな教授たちは、却つてその教授としての能率をも十分に挙げることが出来ない、といつたやうな、甚だ矛盾に見える事情が屢々実在してゐることを知つてゐる筈である。……大学で政治学を講ずる教授が、入つては講堂で政治理論を講じ、出でてはその理論を政治的実践の上に活かし、更らにその実践から得られた各種の経験を参酌することによつて、その理論を補修したり、訂正したりする機会を以て恵まれるやうなことは、それが事実問題として可能である限りは、非常に望ましき境地だといはなければならないのである。 (同誌 同号 二四―二五頁)

 もう一つ、教授会メンバーでありたいとの理由が加わる。これは前二者が表向きの理由、すなわち根拠であるのに対して、大山の個人的心情に近い。前述の如く、大山は高田から、安部磯雄と同じように講師としてとどまるよう勧められていたのであるが、それでは教授会にも出席できず、学生のために何事もなし得ない無責任な立場に身を置くことになると考えた。三九四頁に既述の如く、「学生たちが、今後彼等の正当な運動の上に於て如何なる弾圧や迫害を加へられ……ようとも、……拱手座視してゐなければならない……〔の〕は、私には堪へられない」との心情こそ、大山が教授の地位に固執した最大の理由で、前記二つの根拠もこの心情の主張を正当化するために考え出されたような観がなくもない。こうして、大山は教授の地位にとどまることを強く望み、それが拒否されると、学苑を去る決意をしたのである。

 学苑当局は二月十日の大山の告別演説会の開催を許可するに当り、絶対に政治活動の機会にしないとの約束を学生達に行わせた。しかし、約束は守られなかった。政治経済学部三年の大賀駿三・佐野楠弘、同二年の長島又男・矢部猛夫・伊藤栄ら社会科学研究会の中心メンバーは告別演説会を学生自治同盟結成の場にしようと計画していたから、大山の話が終ると、佐野が演壇に駆け上がり、当局弾劾の演説を行った。他のメンバーは学生達の間に宣伝ビラを配った。佐野はこの会を同盟発会式としたいと提案、大賀が司会の席について、「学生自治同盟規約草案」全十五条の逐条審議に移った。出席した学生は規約を了承し、次いで、左の如き「綱領」を決めた。

一、学内陰謀政治の徹底的排除

二、教授・学生の政党加入の自由

三、学級委員規約の改正(権限の拡張)

四、学生自治機関の確立

1 学生消費組合の設置

2 各学部出版物の押し売り廃止

3 過重なる寄附金の廃止

4 学生ホールの学生管理

5 学生共済部の設置

6 完全なるユニット・システム(課目単位制度)の施行

7 各学部事務所の官僚主義排除 (稲岡進・絲屋寿雄『日本の学生運動』 一二三―一二四頁)

 大学当局はこの行動に厳重な態度で臨むことを決め、自治同盟の結成を無効・禁止とするとともに、社会科学研究会の主要メンバーの処分を協議した。第一次処分は一週間後の二月十八日に発表され、政治経済学部三年生二名、二年生三名、法学部一年生、文学部一年生各一名、専門部政治経済科三年生二名の計九名が退学となった。五日後の二十三日には第二次処分が発表された。第一・第二高等学院生六名が退学、その他無期停学二名、一ヵ月停学四名、一週間停学二名、譴責十四名であった。大山事件により処分された学生数は計三十七名。大学当局は二月二十五日、処分の理由書を田中穂積理事の名で発表した。これまでの説明と重複するが、要点を左に引用しておく。

早稲田大学が今回学生若干名を処分したことは十分の理由があり、学則に照して万已むを得ず決行したのであるが、固より不本意至極であることはいふまでもない。その理由は必ずしも公表するを要しないが、万一の誤解を避くる為めその最近の事例一、二を摘記すれば、これ等学生は曩日大山教授辞任問題の起つた時、大学当局が屋外集会を厳禁し屢々注意したに拘らず、これを無視し三日に亘り校庭に学生大会と僭称するものを強いて開催し、且つ学園幹部を公然激烈に中傷讒誣し、或はその宣伝ビラを十数回に亘り撒布して多数学生の勉学を妨げ、或は大山教授告別演説会後の如きも、予め告別演説以外の事に渉らざることをその会の会長並に大学当局より厳重に命令し、これを肯諾し置きながら、急遽何等当局の承認を経ざる自治同盟なるものの発会式を敢行し、且つ虚構の誣説を高調して学園幹部の排斥を決議し、学園の存立と相容れざる宣伝ビラを撒布した等、其思想の如何は暫らく措き、擅に学園の規律を蹂躙し毫も節度に服せず監督者指導者を蔑視し、自ら他の多数学生に多大の迷惑を与へたるは苟も教育の府として断じて黙過するを許さず、学園は少数者の為めに一万有余の学生の修学を妨害せらるるに忍びざるを以て、慎重審議の結果遺憾ながら成規の手続を経て処分を断行した次第で、高等学院学生の処分も大体これと同じである。 (『早稲田学報』昭和二年三月発行 第三八五号 一一―一二頁)

 処分の対象となったのは学生だけではなかった。一月二十六日の教授会の招集を遅延させた政治経済学部事務所の西主事も解職された。「西主事は当然懲戒的に解職すべき……」とされたが、形式は依願解職であった。西主事の行動が学内不穏を危懼してのものであることは明らかであったが、職務不履行の責任は免れなかったのである。

 軍研事件で活躍した戸叶武、西岡竹次郎、吉田実などの一部校友は学生処分の不当を鳴らし、「校友緊急大会」を大隈会館で開催しようとしたが、大学当局に拒否された。しかし、彼らは会場を高田牧舎に移して開催を強行した。会する者四十余名、終了後、実行委員となった人々は高田総長の許に処分撤回の決議文を持参した。高田総長は勿論、その受取りを拒んだ。そこで、二月二十八日、彼らは早稲田劇場に演説会を催し、会後、市中にデモ行進を行い、田中穂積理事の私宅へ押しかけようとした。警官は解散命令を出し、揉み合いの末、校友五名が検束された。

 学問活動と政治活動との両立は、大山が講師就任を承諾しさえすれば実現され得たので、事件も起らず、処分もなかった筈である。大山が教授の地位の確保を学問と政治の両立の条件であるとしたのは、今日から見ればやや独善的であったと思われる。犠牲の大きさを考慮すれば、この感は更に深くなる。しかし、こうした言い方は、当時の社会情勢とそれに寄せる人々の思いを汲み取らない、客観的・超越的な評言であるとの批判を免れないであろう。なお学苑では、一六〇―一六二頁に既述の如く、昭和二年六月八日に「教職員任免規程」の制定を見たが、従来必ずしも明確でなかった点がこの規程により明文化されたことは、本事件をその遠因とするものであったと見て差支えないであろう。