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第五編 「早稲田騒動」

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第九章 高田学長の文部大臣就任

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一 大隈内閣に対する学生の評判

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 順風満帆というのが大隈内閣滑り出しの状態である。早稲田大学の学生全般は、我らが総長の負う世界的名声に比しては、その内閣の挙げた成果に到底満足するものではなかった。しかし理想と現実とは違う。大隈満幅の策を施すには日本はあまりに舞台が小さく、そして政界情実の塵埃が溜りすぎているのだ。その半面に、また第一次大隈内閣の時のように味噌をつけなければいいがとの学生の心配は、これまでの功績でどうにか免れたのに安心した。あの時は日本で初めての政党内閣という名誉を担いながら、旧進歩党系と旧自由党系の内訌と抗争に明け暮れして、醜名の外に何一つ残さず、半年足らずの短命で脆くも崩壊せざるを得なかった。実は笹の根のように、いつの間にか政界にがんじがらめに張り巡らされていた頑強な官僚網に、さすがの大隈も縦横の馳駆を阻まれて手も足も出なかったのに気付かぬ世間は、太政官時代に大隈の示した財政・外交の八面六臂的手腕も記憶が遠くなって、大隈を単なる口舌の雄、俗に言えば法螺吹きという印象が固定し、実際に当っては何もできぬのではないかと思っている。伊藤は実際的で、大隈は空想的だ! これが世の定評となり、一代の公論たるの観をなしていた。学生達は、我らが総長首相がそれを裏付けるような不手際を演ずるなら、晩節に傷がつく危険の多い政界の泥沼などに、今更足を突っ込まない方がいいと懸念したのだ。しかし今や満一年の功績で、それらは杞憂として霧消しかかったに近い。

 臨時議会の昭憲皇太后大葬費の追加予算は、どの内閣でも通過させ得る件だとしても、躊躇せず世界大戦へ参加したのは、一面、これまではヨーロッパを中心とした世界史に、日本の歴史を初めて直結させたものとして意義を持つが、蘇秦・張儀流の外交駆引きから、この際イギリスをじらしにじらし、焦慮に焦慮を重ねる土壇場に近いところまで追い込んでから、ゆっくりと参戦の腰を上げた方が有利だったという議論も有力だった。しかし学生の手垢に汚れぬ心は、有名なグレイ外相に心酔して日本の外交官たるよりもより多くイギリス外交官と評された加藤外相の、明快に外交的方法にはまった参戦処置を諒とした。

 学生はもとより従来から野党の主張に共鳴して、軍備拡張を好まぬ傾向が強い。大隈内閣が清浦内閣を流産させた海軍拡張費を通し、更に西園寺内閣を潰した二箇師団増設費は、山県を雁首とする陸軍軍閥が大隈を担ぎ出す条件とした絶対不動の至上命令だったとはいえ、世界平和の提唱者、国内民力の休養の主張者である大隈内閣が、これを通さねばならぬ貧乏籤を引かされたのを、この老政治家の晩節のために惜しんだ。しかし韓国が併合されて国防版図が拡大し、更に現実に世界大戦が起ってみれば、海陸ともに拡張費を要求していたのには理由のあったことが納得できて、これが必ずしも大隈第二次内閣の汚点にならぬことに胸を安んじた。また大隈内閣の世界的評価をひどく失墜させたものに対華外交がある。殊に袁世凱に突きつけた二十一箇条は悪外交の標本とまで言われたが、加藤は日露戦争以来、日華問に蟠る諸懸案を解決することに全力を注いで、第三次桂内閣の大使としてロンドンに駐在した時から、グレイ外相とも相談して、つまり相当の準備をして掛かったのであった。ただ中国の事情を知らなかったため、外交技術としては成功したものでなく、内外の悪評を買う十分の理由があった。実は対華二十一箇条は、提出前に十分元老の了解を得たものであったに拘らず、往年の大学における高田・坪内・天野と同級の秀才で、我が大学の有力教授でもある有賀長雄が、この時は袁世凱の顧問で、急遽帰国して山県を説いたため、定見なき元老の朝令暮改の差出口があって、一層、大隈内閣の対華外交を不明朗な拙劣なものとした。加藤の手腕を十分に揮わしめたら、彼の文明的な施策は、必ず学生の理解に訴えて同感を惹くものであったろう。

 何れの内閣も好評を永く持続することはできず、悪評はヘドロの沈澱する如く次第に溜ってくるのだが、大浦兼武内相(組閣の時は農商務相であったが、解散に具えて内相に転ず)の議員買収事件を、政友会が敵本主義から告発してくるに及んで、遂に内閣の致命傷とならざるを得なかった。実は大隈内閣の閣員は、何れ劣らぬ一騎当千の近代的政治家であるが、独り大浦だけは変り種子で、つまり山県が自分の意向を伝え、行わしめるためのパイプであり、また大隈内閣諸閣僚の行動を監視するための目付役で、ナポレオン周辺に例をとればフーシェの如きスパイ的存在であり、殊に策を好まぬ一本調子の法相尾崎行雄とは全く反りが合わなかった。そこへこの事件が降って湧いた。早稲田学生は、大隈内閣にして、このような旧式な、官僚政治家の如き、陰険な手段を用いたことを意外とし、失望し、そしてひどく悲しんだ。勿論旧来の官僚内閣であったら、この程度のことは尋常茶飯事で、罪にはせず、また実際罪にならなかった。しかし今度の場合法相は尾崎である。法に照らして容赦しなかった。

 時の警視総監は聡明多智で聞えた伊沢多喜男である。これを闇に葬って内閣を安泰にしようとの考えから、善後策に奔走した時の思い出をこう語っている。

私の知つて居る所では、事件発生の原因が更に他の方にあつたやうである。それは内務省と司法省の喧嘩である。もつと詳しくいへば司法次官と警保局長の喧嘩の余波が、大浦事件をあれほどまでに深刻にしたのであつた。時の司法次官は鈴木喜三郎君で、警保局長は先達て鈴木内相の次官になつて死んだ安河内麻吉君である。所で司法大臣は憲政の神、尾崎行雄君で、司法事務などはどちらに向いて居るか少しも御存じのない大政治家。それまでも内務、司法両省は司法警察官問題ではいつも衝突して居たもので、司法省は司法警察官を検事の指揮下に置かうとするし、内務省はそれでは行政警察その他の関係上困るといふ訳で互に争つてゐたが、鈴木君は、大臣がああいふ人だから、この問題を一挙にして解決しようと、全国司法官会議の席上での首相の演説の中に、司法警察官の進退について司法省に容喙の権を持たせるやうにするといふことを挿入し、尾崎法相をおだてて大隈首相に談判させた。さうするとどちらもほんとの事務は少しもわからない政治家だけに「それは結構だ」といふので、大隈首相は例の調子で演説の草稿に書いてある以上のことまでしやべつてしまつた。さアかうなると多年両省の争ひが立派に司法省の勝ちに帰することになる。さういふ演説があつたと聞いた私は、これは大変なことになつたと驚き、早速内務省にかけつけて下岡に話すと「それは怪しからぬ。鈴木の小細工に違ひない。」そこで安河内を呼んで「どうしたことだ」といふと、安河内も青くなつて「何とかして仇を討たなければ済まされぬ」と憤慨する。然し内務省で幾ら相談してみても、内務大臣が首相の兼摂と来て居るから仕方がないと、首相の許にかけつけて「あんな演説をされては困るぢやありませんか」と詰問すると、大隈伯は何も知らない。「何、あれでいいんであるんである。」何んかといい気なものだ。そんな調子では話にならぬと安河内をして鈴木に詰問させたが、これは涼しい顔をしててんで取りあはぬ。やむを得ないから地方長官会議を招集したとき、大隈首相をして「司法警察官の進退に関しては断じて検事の容喙を許さぬ」と演説さした。大抵の首相ならそんな掌をかへすやうなことはいへないのだが、そこは大隈伯は重宝なもので、前いつたことなんかすつかり忘れて居てくれた。さうすると今度は司法省の方が承知せぬ。尾崎法相をおだてては盛んに兼摂内相に抗議を持ち込ましたが、もうこちらも警戒し、大隈首相をしてウカと鈴木の手には乗せないやうにした。かうなると警保局長は司法省にどんな用事があつて行つても向ふで相手にならぬ。後には下岡が出かけるやうになつたが、下岡まで鈴木と大喧嘩をするといふ調子で、内務・司法両省は完全な絶縁状態になつた。止むを得ないから私が内務次官、警保局長代理といふやうな格で専ら司法省との交渉をさせられた。

ところで鈴木は、この事あつて以来何か司法省の威力を見せ、併せて内務省に一撃を加へようと待ち構えて居た所に、大浦子の代議士買収事件といふのが起つた。そこで好機逸すべからず、この際子を葬つて内務省に一泡吹かせようと企らみ、幸ひ法相が大浦嫌ひな所へつけ込んで、色んなことを吹き込み、とうとう抜き差しならぬやうにして了つた。そこで私は一日法相に会つて「あなたは刑事政策といふものを御存じですか。議員を買収するやうなことがよくない位のことは誰でも知つて居ますが、歴代の内閣中議員の買収をしなかつたものがどれだけありますか。近い話が原(敬)前内相の如きも、明かに買収したといふ動きのとれない証拠を私は握つて居る。然しそんなこと位で、大政治家を葬ることは、国家のため損失だと思ふから、私は自分一人の胸のうちに蔵つて居るんです」と詰ると、「凡そ罪あるものを罰するのは当り前です。原の瀆職事件の証拠があるなら、一つ原を縛つて了ひますからこちらに出して下さい」といふ調子で、まるでお話にならぬ。こんなことで愚図愚図して居ては大変だと思つたから、大隈首相に談判した。「大浦子が私利私欲のためにやつたことでないのに、自分の内閣の手で縛るなんて一休何事です」といふと、首相は「何分にも尾崎がいふことをきかないから」と流石に弱つて居る。そこで「尾崎がいふことをきかぬとは何事です。尾崎がいふことをきかなければ、尾崎をくびきればよい。鈴木が頑張るなら、鈴木を罷めさせればいいぢやありませんか」といふと、さうも行きかねるとしぶつて居た。然し私はどうしてもこれを防止しなければならぬと、尾崎・鈴木馘首論を前後三回大隈首相に献策したけれども、微力にして狂瀾を既倒に回へす力なく、遂に大浦子としては死刑以上の極刑を課せられるのを座視して居なければならなかつた。

(「大浦事件を語る」 東京朝日新聞政治部編『その頃を語る』 三二六―三三〇頁)

およそ歴代の内閣中、同僚でその内閣の心棒として重きをなす内務大臣を縛るのも意に介しなかった例が、かつて一度でもあったろうか。この時尾崎法相の下にいた司法次官は、後には腕の喜三郎と言われ、退隠後の大隈には反対の立場に立った鈴木喜三郎だが、彼はこう語っている。

僕は司法次官であり、又大隈首相とは早稲田大学の関係から古くより懇意であつたので、しばしば私邸に呼びつけられて、事件の経過および内容に対し、忌憚なき説明をしてゐた。 (「大浦事件の真相」同書三三三頁)

鈴木は専門学校時代以来の法学科の有力教員で、現任の教授且つ維持員であった。従ってこの事件は、早稲田の学生一般には官界内弊の解毒剤として痛快でたまらなかった。先の第一次大隈内閣瓦解の直接原因は尾崎の共和演説であったが、今度もまた彼が前より一層難しい、しかし晴れの役割を演じた。当の大浦は政界引退を声明し、無論閣僚を退き子爵も拝辞して、ひたすらに謹慎の意を表した。大隈内閣も、当然、闕下に総辞職の辞表を呈した。

二 内閣改造

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 内閣の産婆というより取上げ婆とも言うべき元老は、天皇諮問を承けて協議した。もとより、万年野党から拾い上げた大隈から一日も早く内閣を藩閥の手に取り戻したい。しかし桂の死後長州にも人材が尽き、寺内ではまだ羽翼が調っておらず、田中義一に至っては黄口の乳臭児の域を出でぬありさまである。それに大隈は、国家にとっても、そして閥族のためにはなおさら、まだ大いに利用価値がある。

 そこで大隈の留任を奏請し、天皇からは辞表が却下せられて内閣再組織の優諚が下った。しかるに外相加藤高明と蔵相若槻礼次郎は、公明政治の建前から連帯責任論を唱えて留任を辞し、海相八代六郎もこれに同じた。これは大隈内閣から主力を抜き去るものである。加藤高明は後に、藩閥や元勲以外の新しき帝国大学卒業の学士として最初の総理大臣の印綬を帯び、若槻また東大出の優秀大蔵官僚として浜口雄幸と並び称せられ、第二次大隈内閣以後、新たに二度以上総理大臣となったものは終戦までは近衛文麿と若槻だけである。公家出身の近衛は別格として、若槻のみはその異例なのを見ても、凡庸官僚でなかったことが分る。八代六郎は大隈内閣で最善の人選として内外の好評を博したものの、もともと大隈とは全く関係なく、名古屋の英語学校で加藤高明・坪内逍遙と同窓であった縁で海相に就任して、難しい海軍粛清の任に当ったので、多くの先輩を予備役に送り込んで恨みも買っているため、加藤とともに去るのを引き留める方法がなかった。これら有力者の辞任は、当然、内閣の弱体化、殊に加藤・若槻のマイナスは、桂の遺産の同志会との絶縁を意味しないかと心配せられたが、二人とも閣外に去っても協力を惜しまなかったので、その点では内閣は安泰だった。

 加藤・若槻・八代それに大隈内閣動揺の爆源たる大浦が去り、外相は大隈の兼任で、他の三相は補充され、それとともに椅子の異動があり、そして文部大臣には、ある意味で政界が意外とし、他の意味で内部事情を知る者が当然とした高田早苗が起用せられた。実に政界を去って十一年半、早稲田大学に専心しだしてから十六年半である。

 高田は、日清戦争頃までの議会においては、犬養・尾崎・島田などと同列の、政界きっての憲政嗅の学者であり、且つ名士であった。しかし政界を去って日久しく、稀に「高田を文相にしたら」との話が起り、そのたびに「大隈内閣でも誕生すれば」と一笑に葬られたのは、どちらもその望みは全くないとの意味であった。しかも今や不可能事が実現した如く大隈内閣が出現したのだから、高田が文相となるのは、ぼんやりした世間常識からすれば不思議はない。

三 天野新学長の出現

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 しかし考えてみれば、興味のあるのは、第二次大隈内閣と高田との因縁である。

 高田は大正三年四月十二日、外遊の途につくべく横浜を解纜した。しかもその翌十三日大隈に大命降下があり、既述の如く、高田はそれを下関に入った電報で知ったのである。いかなる感懐を以てこれを迎えたろうか。日本を発つ前、元老会議で大隈が後継内閣の組織者として有力候補に上っていることは新聞報道で知っていた。そして、大隈内閣の成立には内心賛意を表しなかったと伝えられている。それは、大隈内閣の実現の如きは万々あり得ないことと、高を括っていたためであろう。もし実現を予想していたら、その外遊は、中止せられないまでも、出発の日を延期し、大隈内閣が完全に進水式を完了し、差し障りなく航行していく日を見届けるまで、待ったのではないか。如何せん出発一日後の急速な大命降下であったため、彼が大隈を案じての勧告も、希望も、注意も、進言するの機を永久に逸した。海外から郵便を以て意見を書き送るが如きは長鞭馬腹に及ばざるもので、彼のそうした政見類似の通信は一通も発見せられていない。寧ろ、その外遊の記録を見ると、大隈内閣の如きは殆ど念頭にない。

 外遊は七ヵ月、帰国は大正三年十一月六日であった。この時の彼は、自分が手塩にかけて三十年育てあげた早稲田大学の改革案を立てて、満幅の経綸に胸をふくらませている一方、健康が衰え、欧山米水も十分の保養にはならず、却って連日の遊行と人との応対に疲労困憊し、意気銷沈して、彼を出迎えた者はその瘦せているのに驚いた。帰国後、何より急を要したのは、ひたすらなる休養である。従って議会の解散中も、逐鹿戦場裡に馳騁することはなるべく避け、校友会が有志を糾合して大隈伯後援会を組織して狂奔するのが学苑に波及することを警戒し、校友大会では現実政治と教育とは分離すべきを説き、また学生にも訓示して政戦に超然たるべきを求めた。この頃ほど高田が消極的になっていることは、前後にない。

 しかし大正四年五月、貴族院議員に勅選せられたことは、彼自ら政治への旧縁を復するきっかけとなった。帝国大学総長・教授は貴族院議員に勅選せられる者が多いのに、私立大学にはその先例が全くないのを不当として、塩沢昌貞などが大隈に進言したのが容れられたのだという。しかし大隈は、早稲田のみ贔屓するとの非難が起ることを配慮し、加藤高明が同志会総理でありながら議席を持たぬのは不便であるとして、同年この二人を奏請し、共に容れられた。世評も、男爵で外相の職にあった加藤は勿論、高田についても何の異論も唱えず、寧ろその遅すぎたのを意外とする観さえあった。貴族院議員となっても、早稲田の学長たることは旧の如くである。しかし日夕高田に接して、その気持と意向を熟知する塩沢には、この勅選を以て彼を久しぶりに政界へ戻す存念は微塵もなく、寧ろその反対に、或いは高田を閑地に就かせて、現在以上に休養させる花道を作ろうとする下心があったのではないかとも思われる節が多い。

 外国へ出発する以前から、高田はときどき懇意な仲間との打ちとけ話の席で洩らしたことがある。その仲間とは、三十余年前の大学の同級で、卒業後も早稲田学苑の盛り立てに生涯の心血を捧げてきたとも言うべき坪内逍遙市島春城(謙吉)だ。それは『半峰・春城・逍遙三翁漫談』(薄田斬雲筆記)の著作があるのでも分り、その中に次の一節がある。

夫れにしても三翁の交誼の如きは、一寸類の無い間柄であらう。三人共に略ぼ同年齢で、同期の大学生で、在校中から、殊の外親しい仲であつたのが、卒業後にも、同じ早稲田の専門学校から今日の早稲田大学迄、五十年近い間、嘗て此の三人は分離した事がない。生前、それ丈けの知己を得た例は珍しいのである。政治家でも実業家でも、軍人外交家でも、一流の地位にあつて、二人三人と一生、相提携して終始交りを渝へなかつたといふ例は甚だ乏しいやうに思ふ。 (六九頁)

こういう仲だから、思慮の熟さぬ思いつきでまだ十分に他の人には語れないことも、遠慮なく語り合えたのである。

 この道一筋に生きてきて、早稲田大学も自分らの力でできる頂点まで達した、そこでこの辺で隠退して後進に道を譲って、今後の大成はそれに待つ方がいいと思えると、高田が打ち明けると、春城・逍遙ともに同意で、それでは機を見て三人とも引退しようという話が出て、みんなそれに同意だった。しかしここに一つの難問がある。そうすると学長の後継者を誰にするかだ。世間常識では、天野為之というのが動かない期待であろう。彼は他の三翁と大学時代の同年で、且つ共に早稲田学苑の創業から参画し、その功を共にしたもので、学問の方では高田・天野・坪内が三尊と呼ばれるのにふさわしく、専ら甘んじて実務を執った市島をこれに加えて、早稲田創業の四尊と称する者もあるのだから、当然、後継学長は天野以外にあるべき筈がないと、余所目には考えられる。

 しかし内面に入ってみると、全く別で、天野は他の三人のグループと関係連絡がなかったばかりか、特異の性格で殆ど周囲に友人がなく、いつも孤立すること、例えば群鶴に対する孤鷹のようであった。それが何を思ったか、往年東京大学在学時代、高田らの晩成会が結成せられた時、突然、仲間に加えてくれと言い出し、高田らは意外に思ったが、その参加を喜びこそすれ拒むべき理由はなかった。しかし持ち前の孤立癖は終生抜けず、早稲田学苑大成の同功者のようでありながら、実は自分の一区画だけを守って、他との交渉は大してなかった。殊に経営・統御の才が乏しく、自分が校長となってその独裁下にあると言ってもいい早稲田実業学校も、毎年、部下の反抗騒擾が絶えたことなく、最も騒ぎが大きくなった時には、大学の方から収拾の援助に乗り出したことも一再でない。殊に人を見るの明に欠け、最も信任した部下に裏切られて、煮え湯を飲まされるような経験を幾度か繰り返す。また一旦親愛した部下が彼の膝下を去ってゆくと、当然、面倒をみてやる義務のある者をも冷淡に見捨てて、唾もひっかけず、そのため怨みを買っているような例が二、三ならずある。

 それでは、実業学校より遙かに規模が大きく、人間も何十倍というほど多数を包容している大学の学長は、到底勤まらぬと見ることで、この時期においては三者の意見は一致していた。そこで、後任学長としては内外に徳望の高い浮田和民か学名遍き塩沢昌貞をぼんやりとながら意中に置き、自分ら三人の引退とともに天野を一緒に巻き添えにして、大学学長の椅子が彼の手の届かないことにしてはというような案も、内々で三人の間には出ている。しかし、その具体案は何も熟さぬうちに大隈内閣の改造となり、迅雷耳を掩う暇もなく文部大臣の印綬は高田早苗の上に落ちてきた。この人事に接した時の高田の心事の詳細は、自ら語るところがないので一切分らない。しかし全く二の足を踏んだのではなかったらしい。もし大隈内閣の成立早々の時招きを受けたのだったら、彼は応諾しなかったかもしれない。大隈が政界に返り咲くことに不安を感じ、寧ろ出廬せぬ方がいいと望んでいたと伝えられているからである。

 しかし組織一年の成績は、満点をつけるには遠いとしても、まあまあである。人によって、また敵味方によって、九十点をつける者もあろうし、八十点に止める者もあろうが、どんなに辛く採点しても少くとも七十五点以下ではない。第一次大隈内閣の不様な最期に勝ること万々なばかりか、近来の西園寺、桂、山本三代内閣の不手際に比しても遙かに勝れている。これなら文部大臣を引き受けてもよかろうという気を起したのは、やはり、かつて政戦場裡に馳駆した時の、昔とった杵柄のためである。

 大学の維持員会や教授会がこれを何と考えたかも分っていないが、高田自身政学分離を強く主張したばかりだったので、馬鹿喜びすることなく、冷静に、しかし好意をこめて、大臣への門出を見送った。後任学長としては、咄嗟の場合なので、天野が就く以外の道がなかった。浮田という考えは十分にあったのだが、事情を知らぬ世間が、それではあまりに作為を弄しすぎる、物の順序を踏んでいないと評価するであろうことを警戒したため、この場合は天野以外には後任はあり得ないと決めたのであった。こうした裏面の経緯を、市島は日記『雙魚堂日載』巻四十に次の如く記している。

六月中高田病の故を以つて元老四人総隠退の事を企だて、大隈総長の賛成をも得たるに、時恰かも天野病あり、此の決定を行ふ能はず。而して高田学長は終に入閣するに至りたり。入閣後同一筆法を以つて天野を説くは非なり。又高田が入閣の折柄天野を蹴落すは、世間の思惑天野に同情起るは必然なり。天野は実業学校に大失態を演ぜしも、知る人は知り知らぬものは知らず。これは表向き人に言はれぬ事にて、評議員中に誤解など生じては随分面倒なり。高田学長の一身既に政治界に投じたる今日、内輪に紛議を万一生じては累を内閣にも及ぼす虞なきにあらず。旁々不本意ながら穏便を主とする事となりたり。天野が去月以来病に罹りたるは寧ろ同人の幸とも云ふべし。而して学校の将来の為めには未だ遽かに幸と謂ふ能はざるものあり。

 高田が学長を去ると同時に坪内も学苑を去る宣明をしたのは、学生が等しく意外とし、遺憾とした。坪内教授は学校の大看板である。高田学長の去りゆくのとともに、それを失うのは、大学の大きなマイナスである。この際は、高田退去の後を承けて、いよいよ坪内が陣頭に立ってくれるのを望んだのだ。

 しかし高田の文相は、この内閣が成立の初め、八代海相を捉えて以来の好人事として評判がよかった。尤も中には「この際あらずもがなは高田博士の文相就任、惜しみても余りあるは坪内博士の引退」と評するが如き大新聞はあった。この頃、大隈に対し最高潮の反感を持っていた徳富蘇峰は「隈臭紛々たる早稲田内閣たらしめたり」(『大正政局史論』三七三頁)と評した。どの総理大臣でも、なるべく自分に縁故の深い、都合のいい閣僚を選ばぬ者はないから、隈臭紛々たりと言うのは当り前だが、早稲田大学の総長が内閣総理大臣であり、学長が出でて文相となったのでは、早稲田内閣と称するのも、また当っているであろう。

 ただ学生たちの僅かな救いは、坪内教授は引退を声明しても科外講義として「マクベス」を講じた。ちょうど『沙翁全集』の自分の訳稿を終った時であった。既に森鷗外の訳も出ている。かつての没理想戦の論敵鷗外が、礼をつくして、これは君の専門だから一閲を願いたしと求めてきて、逍遙は一々、自分の腑に落ちぬ訳文には付箋を貼り、「この所、諸註何れも十分ならず、この貴註は御雅見に候や、それとも何かの註に見え候や、これはこのままに頂戴いたしおき候」などと、細かに意見を付して返した。鷗外の雅量はよくそれを容れ、大抵逍遙の指摘通りに訂正している。しかしそれでも逍遙と鷗外とは性格的に違うので、さすがの鷗外訳も全くは逍遙を納得させ得ず、そこで、自訳の草稿と鷗外訳とを原文に照らして一々対比し、批評しながら講義した。逍遙の早稲田にシェイクスピアを講ずること三十年、これはその中でも最も出色の講義だったろうと、後から批評せられている。また最上級生に向っては、「諸君はほどなく卒業するのだし、私も大学を去るから、一つ諸君の望むものを講義してやろう」と言い、衆口一致「ハムレット」を望んだ。

 かくして高田と坪内が去り、天野新学長の下に早稲田史上未曾有の沈滞期が到来した。

四 文相としての業績

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 高田は一面において引退・静養を望みながら、他面においては大学の改革案を持っていたのである。中でも一年半の高等予科を二年に延長するのが、既述の如く、その骨子の一つであった。

 大学に昇格して十余年、その成績を見れば、思いの外に着々として上がっている。東京帝国大学がエリート学生の厳選主義を執るのとは真反対に、中学卒業生およびこれに準ずる者には無差別開放したところ、その教育結果を見れば、総体としてもとより東大に劣る。しかし優秀者を見れば殆ど優劣はない。官界においてこそ差別待遇を受けるものの、実力社会においては優に長所を発揮して、新聞社・出版社では遜色なきを示し、最も早く名をなし易い文学方面においては東大と両々相対して下らぬ。例えば漱石門から批評家として生田長江・阿部次郎・安倍能成などが轡を並べて出現したのに対し、片上天弦杉森孝次郎石橋湛山と対比して勝るとも劣るところなく、創作面では、小山内薫・森田草平・鈴木三重吉などに対し、東京専門学校時代の卒業生ではあるが、大学になってからの早稲田を背景として台頭した正宗白鳥・近松秋江、更に早稲田大学卒業生の小川未明・中村星湖と続いて、これまた遜色はない。この調子だと、大成に年月を要する他の文化諸部面でも、拮抗して下らぬ成績を示す可能性が見えてきた。ただ最大の欠陥は語学力が劣ることで、これは主として、官学が三年制の高等学校を準備期間とするのに対し、早稲田の高等予科が一年半で、半分の期間しかないことによる。中学を出てきたばかりの学生に、あらゆる基礎学を、日本語の講義によらず、いきなり原書を持たせる非常速成の手段で教えてみたが、語学ばかりは帝王といえども近道はなく、顕著な効果は上らぬ。高等予科の一年半という制度を二年に延長するのには、文部省に異論はあるまい。これだけでも語学の劣勢を補うに有力である。ただし、官学では四月に中学を卒業してから九月に新学期の始まるまでを休暇とするのを、早稲田ではその間に授業して一年半の予科制度としているのであるが、これを二年に延長すると、学校暦をどうしたらよいか。先ず難問はここから始まる。これを切り抜ける苦肉の策も考えられないではなかったが、自分らが引退すれば、こうした学制改革の諸案を後継者に引き継ぐというのが腹案であった。それが熟さぬうちに、せっかくまとまりかけたこの案を一時棚上げして、政界に出ることになったのだから、高田としては多大の執着を残した。

 従来、大学教授から文部大臣になった者に外山正一がいる。第三次伊藤内閣に、任期は短かったが思いの外の鋭鋒を発揮し、文部の必ずしも伴食ならざるを認識せしめた。その次には、菊池大麓が東京帝国大学総長から第一次桂内閣の文部大臣になった例がある。必ずしも政治的に有能とは言えなかったが、さすがに数学者・科学者として、他の真似し難き事績を残した。高田は大学教授大臣の三人目(尤も官僚が本職で私立大学の掛持ちをしていた教授なら他にもあるが)だが、いかなる足跡を残したであろう。就任後いくばくもなく、後述(一一六六―一一六七頁)の如く「大学令要項」を作成して、私立大学への学位授与の特権賦与や女子大学の設立認可など、進歩的な改革を提唱したが、未だ時を得ることなく、枢密院・貴族院をはじめとして、帝国大学を中心とする保守的勢力の執拗な反対に遭遇して、挫折のやむなきに至り、功績として特に挙ぐべきものとしては、僅かに大阪府立高等医学校を親しく視察して、大正四年十月、府立大阪医科大学への昇格を承認することにより、単科大学設立の途を開いたのを指摘し得るのに止まるのである。自らも後に、全日本に亘る教育の改革について抱負はあっても何もできず、早稲田の改革案もそれとともに流れたと痛嘆している。かつての民党出色の代議士も、大臣の雛壇に上っては勝手が違ったし、十二年近くも政界と絶縁していたためもあって、手も足も出なかった格好である。『高田早苗伝』(京口元吉著)は『大日本帝国議会誌』に依拠して、その事跡を左の如く記している。

(大正四年)十二月十六日に「帝国大学特別会計改正法律案」を衆議院に提出し、説明と答弁にあたった。

(二二八―二二九頁)

しかし帝国大学のことは自分の関知範囲以外に近いから、文部官僚の用意した答弁を鸚鵡の如く繰り返すこと、他の大臣の多くと同じであったろう。

二十七日には貴族院でも説明と質疑応答につとめて通過させている。同日、「伝染病研究所を内務省から文部省へ移管する件」について、貴族院で水野錬太郎の質問に答えて納得せしめた。 (二二九頁)

 また大正五年一月二十一日には、「国語国字改良問題」について、貴族院で石黒忠篤に答えてその蒙を開いた。ただし、国語は高田の文相たる以前から燻っている長い歴史があり、今に至るも方針に断然たる決定を見ず、一進一退している問題であるところを見るも、専門外のことではあり、高田に何ほどの卓論があったとも思えぬ。次いで二月十二日には「美術行政」について貴族院で馬屋原彰に答えたが、これは得意の領域だったので答弁に精彩があった。また目賀田種太郎から「道徳および道義の維持」について峻烈なる質問があり、陳弁大いに努めたというが、このようなことは、貴族院で、将棋の千日手の如く、これまで幾度繰り返されたか分らず、またその後に繰り返されたことも無数度に及ぶ。大事のことのようだが、決め手のない空論の応酬である。以上の如きがほぼすべての議会活動だから、天下の大早稲田の学長がわざわざ出向いてなった文部大臣の答弁としては、あまりにも淋しいものと言わざるを得ない。

五 退陣の花道=即位大典

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 改造内閣は必ず失敗に終る。これは独り日本の議会ばかりでなく、先進国イギリスでも例外なき鉄則のようになっている。大隈内閣も、改造後はまことに足どりの蹣跚たる有様だったが、その間にあっていささか有終の美を発揮したのは、大正四年十一月十日挙行の大正天皇即位の大典であった。

 即位の大典は、勿論、歴代天皇に必ず行われねばならず、また行われてきたのであり、現に明治天皇の大典は明治元年陰暦八月二十七日を以て行われているから、決して大正天皇に始まるものではない。しかしその時は、皇室式微にして、明治天皇には、経済的逼迫のため、立親王宣下式は行われても、立太子式は行われていないから、実質はともかくとして規制上の皇太子殿下であられたことなく、つまり親王にして践祚し、且つ即位礼が行われた。しかも明治元年は議定・参与に供する昼飯の結びの米代の調達にも困窮した時代で、謀士玉松操の案により、膨大な費用を要する中世以来慣行の唐制を一変し、英断を以て神武創業の簡素な式にして、費用の掛からぬ算段をした。条約国も十余に過ぎず、極東の弱国に過ぎなかった日本はそれで事足りた。大隈はそれに参列した経験を持つ僅かな遺老である。

 しかし今度は半世紀の間に事情が一変している。日本は日清・日露戦争を経て世界の一等国の列伍に入り、日英同盟に基づき世界大戦に参加している一大帝国である。しかも戦争の開始とともに世界貿易が停止し、一時極端に窮迫した反動で、大隈内閣の後半は、注文が洪水の如く氾濫し、殺到し、空前の好景気を招来して、日英交渉の歴史あって以来初めての、イギリスに対し余剰のドルを貸すという、まさに冠履顚倒の時代が到来した。その他の経済的繁栄は推して知るべしである。

此際に於て、意外なる僥倖は、大隈内閣に振り掛れり。そは世界的大戦争の結果、貿易の順調を来したること是れ也。蓋し大正四年の貿易は、十二億三千八百余万円にして、輸出七億六百万円、輸入五億三千二百余万円、出超実に一億七千三百九十余万円に上る。其の他軍需品の代価、六千万円、移民の輸送金等二千万円を合計すれば、二億五千余万円を踰ゆ。是れ開港以来未曾有の事たり。而して現在正貨の額、実に五億余万円。之を前年に比すれば、殆んど一億八千万円内外の増加也。加ふるに軍需品註文陸続到来し、工業界も生気を帯び来り、米国市場の好況に従ひ、生糸貿易亦た活潑に赴き、戦争の影響として、自然増収を見る能はざるのみならず、却て自然の減収を見、国庫の上には、幾許の迷惑を免かれざるも、世上一般の模様は、之を戦争開始の際に此すれば、雲泥の差ありと云はざるを得ず。而して其の慶に浴する者の第一は、誰よりも先づ大隈内閣たる也。 (徳富蘇峰『大正政局史論』 三八四―三八五頁)

 ローマ極盛の頃の貴族の宴会の席には贅沢栄耀のあまり孔雀の舌の吸物が作られたと伝えられるが、この時は市井の料理にも本当に鶯の吸物が出て、価の高きを競うたのである。その成金時代に即位の大典が簡素・質実に終るを得ようか。実はこの大典の施行は、各政治家が垂涎して狙うた懸賞品の如きものであった。藩閥、殊に山県系官僚は、自派の手においてなすことを何よりも望んだ。明治天皇の大葬の時もそうであったが、これは天皇幼時の遊び相手の西園寺内閣によって行われて、長州藩閥は鳶に油揚をさらわれた無念を感じていた矢先、今度の即位の大典については、また山県が目の上の瘤とした山本権兵衛内閣の成立後、大正二年二月には逸速く十二条および付則から成る最初の大礼使官制を公布し、また大礼使総裁、大礼使長官、大礼使御用係などに及ぶ官職の人名も公表した。しかし不慮のことからこの内閣は意外に早く倒潰し、棚から牡丹餅が落ちてきたように、大隈がこの万人羨望の晴れの大役を務めることとなったのである。

此の如くして大隈内閣は、駸々乎として、御大礼に向て進み来りし也。世上或は大隈が、其の片脚を以て、紫宸殿の階段を上下するに、難かる可きを説き、或は斯る老人の不具者を、斯る御大礼に引き廻すは、万一失態を生ずるの虞あり抔、種々の議論もあり、評説もありしも、強情、我慢の大隈は、敢然として其の式に列し、衣冠束帯、以て其の臣下としての重なる役目を勤め、紫宸殿の南階に立つて、日華、月華の門外に迄も徹する許りの大音声にて、寿詞を朗読し、次ぎに天皇陛下の万歳を三唱し、玆に二十有余年、早稲田に竜蟠虎踞したる欝抑の気を、吐くを得たるは、彼に取りては、亦た是れ無上の光栄と云はざるを得ず。 (同書 三八五―三八六頁)

 即位の大典についてはこれ以上記す必要を見ぬ。天皇が即位のため京都に出発せらるるに当り、勿論、首相大隈重信、文相高田早苗も供奉する。すなわち本学の総長および名誉学長の晴れの門出を、我が大学の有志教職員・学生は宮城前広場で見送った。そして大典の日、新学長天野為之は参内して賀表を捧呈し、即日、勲三等に叙せられ旭日中綬章を受けている。しかし即位大典は、大隈改造内閣の傾斜を告ぐる夕映えの輝きであった。

貴族院に拠っていた官僚組の後藤新平、仲小路廉、田健治郎等は、大正四年十一月、御大典で京都に集った時から倒閣の陰謀を廻らし初めた。後任には山県系の寺内正毅に持って来ようという計画であった。その倒閣の材料となったものが対華外交に関するものであった。後藤新平がそれを怪文書にして頒布した。その怪文書の内容は、大正六年六月三十日の第三十九特別議会に於て、尾崎行雄が、寺内内閣に対する不信任案の賛成演説で、これを暴露したから、今でも議会の速記録に残っている。

(『岩淵辰雄選集』第一巻 四〇一頁)

 官僚と違って政党の方面には、このことが次の如く伝わっている。

〔十一月六日〕数日前より御大礼後には大隈伯を辞せしめて内閣更迭の企官僚系に於て着手し、京都に於て内議もあるべし、山県を総理として挙国一致内閣を組織し、松方を山県の後任として枢密院議長となす積なりなどとの説もあり。

(『原敬日記』第四巻 一四二頁)

 なお、この即位大典が早稲田大学に及ぼした影響については章を改めて記すが、この結果大正五年七月十四日、大隈は昇爵して伯爵から侯爵に進み、大勲位に叙せられ菊花大綬章を授けられ、名誉学長高田早苗は勲一等に叙せられ瑞宝章を授けられ金三千円を受けた。往年、大隈が伯爵を受けた時、木下尚江など一部の学生がこれを惜しんで落胆した如く、今度も、「大隈伯」で広く世界に通っているのだから、今更の昇爵は受けない方がよかったと言う学生も少からずあった。