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第五編 「早稲田騒動」

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第十九章 大正前期の学生研究会

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 大正七―八年度の「早稲田大学第卅六回報告(自大正七年九月一日至同八年八月卅一日)」(『早稲田学報』大正八年十一月発行第二九七号)には、当該年度における学生研究会の活動について、左の如く報告されている。

学生研究会 学生の正科以外の研究に資し、且師弟間の交誼を親密ならしむる為め、講師或は先輩名士を聘し各種の会合を開きたるが、今其の主なるものを挙ぐれば左の如し。

(二五頁)

 右の報告について、先ず注目されるのは、擬国会と訴訟演習とが、大学主催の行事ではなく、この年度からは学生研究会の中に数えられていることである。更に、「早稲田大学報告」に学生研究会の報告が存在する大正二―三年度、三―四年度、四―五年度、五―六年度、六―七年度のすべてを通じて同一会名が発見されるのは、右の三十一研究会の中で、政治学会、支那協会、英語会、音楽会の僅かに四つを数えるのみであることである。以下、これらの四研究会ならびに若干の注目すべき学生研究会について、大正初期における活動を概観してみよう。

一 政治学会・経済学会その他

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 政治学会も、学苑における各部・科単位の研究会の例に漏れず、明治年間におけるその歴史は断続的であったが、明治四十四年十一月以降になると、その活動には大きな断絶はなかったものと推定される。尤も、会合回数は、最初の二年間の年六回よりは次第に減少したのは事実であるが、大正八年四月二十六日に開催した講演会の如きは、一千以上の聴衆を集めている。この日、名誉学長高田は、「政治教育に就て」と題する講演を行ったが、

抑も政治学なるものを一の独立学科としたのは我が早稲田大学を以つて嚆矢とする。他の学校に於ては僅かに法律科又は文科の一部として其の内に包含されて居るに過ぎなかつたが、我が早稲田大学に於ては創立の当初から一の独立の学科とし、大学の中心学科として居つた。又政治学会は早稲田大学に於て最古い歴史を有する最大権威の会である、と博士が往年〔東京大学在学中〕晩成会を組織せし由来より、其晩成会が憲法の研究と同時に立憲改進党の組織及早稲田大学の創立に力を尽して事蹟を挙げ、今日の政治学会の前身なることを明かにせらる。 (『早稲田学報』大正八年九月発行第二九五号 一五頁)

と記録されている。この日は、これに続き、穂積重遠は「国際法の父祖」と題してグロティウス伝を、気賀勘重は「労働問題に就て」と題して労働問題解決に関する警告を、江木翼は「改造の意義」と題して第一次大戦後の世界の改造の必要を講演している。その他、年によって、特別研究報告とか、見学とか、その行事には、講演会や討論会一本槍ではなく、若干の変化も加えられている。

 一〇二三頁に記した如く、大正三年十一月にその「創立」が報ぜられている法学会に関しては、引続き、四年と五年とにはその記録が『早稲田学報』に見られるが、前頁のリストの年代になると姿を消している。

 文学会は、大正年間には二―三年度の「大学報告」に一度その名が見られるが、恐らく明治四十三年創立の英文学科の会で、文学科全体のものではなかったろう。哲学会は、大正四―五年度までは「大学報告」にその名を存しているが、次年度には見られず、大正七年二月に「早稲田哲学会創立」との記事が『早稲田学報』第二八〇号(大正七年六月発行)に載っている。それには、

本会の目的は広く哲学に関する自由討究と、並びにその普及を計るにある。軈ては本会をして、帝大哲学会にも劣らぬものとしたい。いや、早稲田大学の哲学科大学を世界的にするのも、本会の発展が与つて力あることと思ふ。 (一三頁)

と記されているが、恐らく実体は前編に記述した明治期の哲学会の「復興」であろう。史学会は、大正六―七年度まで、連年「大学報告」に名を列ねていて、研究発表以外に史蹟探究旅行を挙行している年もある。前記の大正七―八年度報告にその名が漏れているのは何かの手違いで、七年十月十九日に「鎌倉に関する史学大講演会」を鎌倉師範学校で開催したことが、『早稲田学報』第二八七号(大正八年一月発行)に記録されている。

 商科の学生を会員とする経済学会は、大正五年三月に創設された。『早稲田学報』第二五七号(大正五年七月発行)には、「経済学会設立」と題して左の如き記事が掲げられている。

大正五年三月半ば頃、商科学生有志の間に寄り寄り取り交はされたる談話の中、我早稲田大学商科には何等の学術的の統一したる自由研究機関の欠けたるに依り、何等か此種の制度を補はんとの議起り、乃ち商科中心の会を組織して、将来の指南車とも云ふべき必須経済学の自由討究を目的として、以て斯学のため貢献する所あらんと、三月十三日午後三時より十八名の期成同盟会委員集会、種々同会設立の基礎を定め、其趣意書竝びに規則書を発表せり。即ち左の如し。

早稲田大学経済学会創立趣意書

我早稲田大学商科設立以来、既に歳を閲する事玆に十有余、其間高遠なる理想の下諸教授の指導により今日の隆盛を来し、前途益々多望ならんとす。然れ共我国の学徒は単り早稲田のみと言はず、概ね攻学の誠意を欠く。何をか攻学と云ふ。即ち学術尊重・真理崇拝の念之れのみ。蓋し彼等の攻学は一にも受験のため、二にも応試のため、斯くの如きに過ぎざるなり。是れ現代の通弊にして夙に識者の憂ふる所、寔に学術界の大闕典・大恥辱と云ふべし。今や宇内の大勢は、個人の自由競争に伴ひて国家と国家との競争日に月に激甚を加へ、外は姑らく国際公法の形式に拠り平和を唱導せるの時と雖も、其実は何れの国も優勝劣敗・弱肉強食の数に漏るる事能はず。此の間に介在して国家の体面を全うし、其の進歩・発達を図らんと欲せば、実力の充実を除きて他に途あるべからず。此の秋に当り重大なる責務を有する我等商科学生に対する科学的智識の要求愈々切なるを感ぜずんばあらず。而して学理研鑽の要は実に自由討究に存す。由来学の独立、研学の自由は本大学の標榜する所、而も我が商科に於ては従来此目的に副ふべき何等の機関あるを聞かず。是れ吾人の常に遺憾とせし所なり。勿論漸を逐うて完成に努力しつつある、吾人も亦た諒とする所なれ共、徒に拱手して待つべきにあらず。玆に於て我等其の一半をも補はんため、科長始め諸教授の賛同を得て本会を設立したる所以なり。本会の趣旨に賛するの士は宜しく来り参ぜよ。

大正五年三月 発起人一同

早稲田大学経済学会々則

第一条 本会は早稲田大学経済学会と称す。

第二条 本会は経済学並に商業学に関する自由討究をなすを以て目的とす。

第三条 本会は毎月一回以上例会を開催し、会員各自の研究報告、討論並に諸教授及先輩名士の講演等を行ひ、大会を春秋二回に開催す。

第四条 本会は左の組織に拠る。

一、賛助員 本大学教授・講師並に校友を推薦す。

一、会員 商科学生を以て組織す。但し他科学生有志は会員の紹介を以て入会する事を得。

第五条 本会は左の役員を設く。

一、会長 商科々長を推戴し、会務を総理す。

一、幹事、若干名 会員中より挙げ、其中五名を選び、常任幹事とす。

第六条 幹事の任期を一ケ年とし、再選するを妨げず。

第七条 本会は入会金として各会員より金十銭を徴収し、会費として毎学年の始めに於て金十銭を醵出せしむ。

第八条 重大なる事項は出席会員の三分の二以上同意を以て決議す。 (二一―二二頁)

 その発会式は、四月十五日に挙行せられ、天野学長の、

昔時「早稲田経済会」なる名の下に一度び同様の企ありしが、約十年許の後、絶えて今日まで未だ斯かる会を組織する者なかりしが、今回諸氏の尽力により此の企あるを聞き、寔に同慶に堪えず。就ては益々奮励、本会をして永遠の生命あらしめん事を望むと同時に、多年自分が宿案として抱き居りたる外国貿易調査の事業を研究課中の主目として周到なる研究を遂げられ、世界貿易の事は細大洩さず調査を遂げられん事を望む。 (同誌同号 二二頁)

との訓諭に続いて、田中穂積出題の「在外正貨処分策」を課題とする研究報告が行われ、最後の弁士には、最上級生の高橋亀吉が登壇している。経済学会は、六年三月十七日、七年二月九日、八年二月十五日と、毎年一回ずつ大会を開いているが、六年には上田貞次郎・山崎覚次郎・福田徳三、七年には気賀勘重・左右田喜一郎・河津暹・小野英二郎、八年には内藤章・阿部秀助・矢作栄蔵と、常に学外よりそれぞれの分野の第一人者を招いて、学生に学界の大勢を知らしめるように努めている。

二 早苗会

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 理工科では、全学生を主体とする研究会の設立はなかったものと思われるが、電気工学科の電気工学会や、機械工学科の機友会は、何れも、大正四年から七年にかけて、「大学報告」の学生研究会のリストに掲載されている。また、それぞれの学科内に更に小さなサークルがあったことも、大正六年に大学部電気工学科に進学した学生のうち十四名が、残る一年間の学生生活を有意義に過ごそうとして、大正八年に究電会を組織したのが例外とは考えられない。究電会の発起人が述べているように、「殊に、工科生活は兎角、外の科に比べて、華やかさも無ければ色彩も薄い、其れ故彼等青年は常に変化と刺戟を求めてゐる、平面的生活に換へるに、何物かを求めてゐる」(『早稲田学報』大正八年七月発行第二九三号一五頁)風潮が強いばかりか、その研究内容の性質上、他科の学生は気楽に入会できないという、他の部・科の学生の組織する研究会とはかなり異った特質を持っていたと考えられるが、これらの中からここでは早苗会を取り上げて、その活動を見てみよう。

 早苗会は、高田早苗学長の名前を借用して、建築学科設置後間もなく大正初期に創立された親睦兼研究会で、その中核は建築学科の教師、卒業生、および在校生であった。発足当時の会則は残されていないが、大正九年十月の第八回総会において若干改正された会則は左の通りで、その活動内容を垣間見ることができる。

早苗会々則

第一条 本会ハ早苗会ト称ス。

第二条 本会ハ事務所ヲ早稲田大学理工学部建築学科教室内ニ置ク。

第三条 本会ノ目的ハ会員相互ノ親睦ヲ計リ、且ツ絵画其他建築等ニ関スル学術・技芸等ヲ研究スルニアリ。

第四条 本会ハ早稲田大学建築学科教員、在学生、及卒業生ヲ以テ組織ス。

第五条 高等予科生及高等学院学生ニシテ将来建築学科学生タルベキモノハ、本会会員タル事ヲ得。

第六条 本会ニ於テ相当ト認メタルモノハ特別会員ニ推薦ス。

第七条 本会ハ委員若干名ヲ置ク。

但シ委員ハ教員中ヨリ一名、各学年卒業生ヨリ一名、各学年在学生ヨリ二名宛ト定ム。

第八条 本会ハ本会ノ目的ヲ達スルタメ、一年三回各学期毎ニ通常会ヲ催ス。

但シ時期ニ依リ開会セザルコトアルベシ。

総会ハ毎年十月ニ於テ開キ、総会ニ於ケル議事ハ出席者ノ半数以上ノ賛成ヲ得タル場合、之ヲ決議トス。

第九条本会員ハ会費トシテ毎月金三十銭ヲ納付スル義務アルモノトス。

第十条 本会ノ基本金及会費ハ適当ノ方法ヲ以テ保管スルモノトス。

第十一条 本会ハ会員ノ消息及第三条ノ目的ヲ達スル為、会誌ノ発行及プレートノ出版ヲナス。

(『早苗会々誌』大正十年五月発行第七号 八四頁)

 大正四年十一月当時の会員は、『早苗会々誌』第二号(大正四年十一月発行九二―九五頁)の住所録によって計算すると、在学生九十名、卒業生五十一名、教員その他十三名、合計百五十四名を数え、ほぼ毎月一回開かれる例会にはその半数が常時出席していた。その例会では、会員の建築・美術に関する講話や、外部から招聘した講師の講演が行われるだけでなく、新入生歓迎会や卒業生予餞会も適宜開かれ、例会がすむと茶菓が出されるのであった。年一回開催される総会では、その年度の会計報告や委員改選などが行われ、研究発表が終了した後、絵画展覧会を催して賞が競われる。大正六年十月六日午後一時より始まる第六回総会をのぞいてみよう。総会会場は第七教室、絵画展覧会会場は図書館閲覧室である。先ず各学年委員の「開会の辞」と「挨拶」に続いて、

があった後、茶菓に移り、その合い間に、

の講話が行われる。この年の絵画展出品作品は七十二点に及び、その中から次の入選作品に早苗会賞牌が贈呈された。

最後に懸賞設計図案募集の発表があって、午後五時に散会した(『早稲田学報』大正六年十一月発行第二七三号一〇頁)。

 この早苗会そのものは建築学科全体の会合であるが、その下部組織として各学年の同級会や各回卒業生の会合があり、それぞれの消息は『早苗会々誌』に掲載されている。表紙の図案を会員から募集する『早苗会々誌』は、会員の消息を伝えたり、研究を発表したりする場だけでなく、随筆なり詩なり小説なり、或いは戯曲まで載っていて、なかなか多彩である。思うに、建築学科の結束が固く師弟の情愛が深かったのは、早苗会の演じた役割が頗る大きかったためであろう。このように、比較的こじんまりした学生研究会が学生の勉学生活に潤いをもたらした例は、枚挙にいとまがない。

三 支那協会

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 前編五三一頁に記した如く、清韓協会は明治四十五年に支那協会と名称を改めたが、副会長青柳篤恒が、大正二年二月から七月にかけて五ヵ月間、中華民国国務院法制局顧問の有賀長雄の襄助員として聘せられたのに続いて、青柳の個人的事情により、三年九月まで活動を中止するの余儀なきに至った。

 しかし活動を再開するや、毎週金曜日に青柳の「支那を中心とせる列国の外交」、火曜日に幹事長渡俊治の「支那地誌」の研究会、第二および第四日曜日に青柳邸での「支那時事問題」研究会、更に学生の研究発表等を含む月一回の例会など、本来の精力的な活動を回復した。しかも、同時にきわめて広範囲に亘る中国通の著名人を招いて講演会を開き、且つ活発な討論を展開している。例えば、学者では岡田朝太郎(前中華民国法典編纂委員)や永井柳太郎、ジャーナリストでは東則正(校友、東方時論社社長)や中野正剛(本会出身、同記者)や神田正雄(本会出身、朝日新聞社北京特派員)、軍人では陸軍中佐多賀某や陸軍歩兵大佐寺西秀武、政治家では安達謙蔵(憲政会総務)などである。

 さて、第二次大隈内閣が大正四年に対華二十一箇条要求を提出して以来、日中関係は新たな局面を迎え、中国をめぐって日本とアメリカの競合が更に深化した。青柳はその打開策の一つとして、大正六年五月発行の『大陸』(第四六号)に発表した「日米対支政策比較観」に、五年八月の鄭家屯事件以後アメリカが「事業に於て種々なる成功を支那に収めて居る」理由は、中国人に対し、我が国のように傲慢ではなく、きめこまやかに接するからであると説き、我が国がアメリカの如く効果を上げるためには、中国が「如何に貧弱と雖も、苟くも独立国たる以上、其の国民の感情を指導することを図る事が最も肝要」である(一〇―一二頁)と論じたが、その実践への第一歩を支那協会に働きかけた。

 すなわち、支那協会は、大正五年、青柳邸が千葉県東葛飾郡葛飾村(現船橋市)に新築されたのを機会に、「茶話会を月に二回と定め、一を青柳会長宅にて青年団と合併して京葛青年談話会となし、他一回を学校の附近にて開催」する(『早稲田学報』大正五年四月発行第二五四号二一頁)ことを決議した。この京葛青年談話会には、五年の一月例会を見れば、「会員来会者六十余名の外、志を同うせる高等師範学校学生三十六名及び早稲田実業学校学生八名、加ふるに葛飾村長井上六郎氏を筆頭に同村山野区々長平野一氏以下同村小学校長・教員・名誉役員及び青年会員等七十有余名の出席」(同誌大正五年二月発行第二五二号一九頁)があり、早稲田の支那協会会員とともに、青柳が出講している東京高等師範学校の学生や、渡幹事が出講している早稲田実業学校の生徒や、地元の葛飾村青年団などが参加している。この談話会の話題は人生論ないし修養論的なものが大半を占めていた模様であるが、「村の青年の純朴剛健の気と東都学生の熱烈真摯の概とは合して万丈の気焰となり、憂国の慷慨」(同誌大正七年三月発行第二七七号一六頁)となって、意気投合、交流は成功した。

 この談話会で、中国での活躍を期す早稲田の支那協会会員が、青年実務家を志す早実生、中等教員を志望する高師生、新農民像を描く青年団と、専ら中国問題ではなく修養論を主題として、年齢・環境・立場の差異を超えて交際している光景は、青柳が「日米対支政策比較観」で提言した、中国人の立場を慮る交際法と軌を一にするものであろう。青柳がこの時期に京葛青年談話会を考え出したのは、行き詰った日中関係を打開するための、ささやかではあるが遠大な試みと受け取れるのである。

四 雄弁会

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 大正前期の雄弁会の姿は、後年政界に活躍した西岡竹次郎の回想「壇下の雄弁」(『五十周年記念出版早稲田大学雄弁会』)に最もよく描かれている。

 西岡は、この時期は「自由主義盛んなりし時代であつた。また、大学も活気に満ちておつた。潑剌とした、希望に燃え、理想と大きな夢を抱いた学生が、憧れて、集つていたのが、早稲田大学であつた。大学も非常に自由で、早稲田の校歌そのものを地でいくという感じであつた。従つて、学生も大いに天下国家を論じ、憂国の議論を闘わしたものだ。雄弁会の論題もまた、そういつたような論調が強く、いわゆる抽象論というよりも、現実を語るものが多かつた」(一〇頁)と回顧している。観念論よりも現実論を好む意識構造は、大正四年の第二次大隈内閣の総選挙に際し、大隈伯後援会の実戦部隊となる「遊説部」の主翼を雄弁会が担ったことに現れている。これは、本会出身の山森利一(明四四大商、衆議院議員)の発議により発足し、丁未俱楽部(都下各大学雄弁会出身の青年団体)がこれに合流して組織され、学苑の雄弁会関係者がその七割を占めた。この遊説部員の一員として活躍した専門部政治経済科一年生丹尾磯之助は、翌五年六月発行の『雄弁』(第七巻第五号)に、「弁舌の力の斯くの如き偉大な功績を表はすに与つて力あつた事は、是れ実に吾が国憲政史上に特筆すべき事実である」(一七九頁)と、青年らしく誇らしげに報告している。しかし、丹尾の同級生の森下国雄(後の衆議院議員)が、「私は一年生で最年少者であつた。夫れをごまかすために苦心して、鼻の下にチヨビひげを生し、老成振りを見せたもので、殊に先輩石川半山先生の山高帽をかぶつて廻つたが、時々借用の帽子を忘れ歩き、最後には夫れを失つてしまつた。後で半山先生にあやまりに行つたら『あれはねパリーから買つて来たものだよ』に、平身低頭して帰つたこともある」(「大隈伯後援会と雄弁会」『五十周年記念出版早稲田大学雄弁会』一六頁)と語っているような喜劇が演じられていたことも事実である。

 雄弁会の例会は、毎週金曜日の夜に開かれる大講堂での演説の練習会であった。西岡が、「聴衆は学生ばかりでなく、町の人々も、早稲田の書生さんの元気のいいところを聞かして貰いにといつて、たくさん来た。遠慮のない、元気な時事問題が、聞けたからであろう」(同書一一頁)と叙述している如く、学外から、それも「町の人々」が、学内の講堂に足を運び、まさに「開かれた大学」の様相を呈していた。尤も、聴衆の主体は学生であり、聴くためというより弥次るために集まるのである。

学生のやじが非常に盛であつた。演説を聞きにというよりも、やじるために来たという感じであつた。徹底的に、叩き伏せるように、やじる。大がいの者はやじり倒される。われわれはこのやじを「壇下の雄弁」と称した。誰も、その「壇下の雄弁」に恐れをなしたものである。丁度、撃剣を習うとき、初歩の時代、お面、お小手、お胴と、鍛われると同じように。それは、それは、物凄いものであつた。 (同書 一一頁)

とは西岡の記すところであるが、弥次り倒すことのみが目的としか思えないような猛者が、早稲田の名物であった。そこで、「早大で揉まれた弁士なら何処に突撃しても大丈夫だ」という風聞を生み、「甚だしい弥次になると、半畳を入れる事数分、どつちが弁士だか判らなくなる」(芳賀栄造「都下各大学及専門学校弁論発達史」『雄弁』大正八年一月発行第一〇巻第一号二四三頁)ほどであった。

 雄弁会はまた、時局に関する認識を鋭敏ならしめるために、時局問題大会や討論会を開いたが、その活動は、学内のみに止まるものでなく、前編で触れた巡回演説会の実施、「都下各大学連合演説会」や「全国学生大演説会」の開催やそれへの参加と、学外へも活動範囲を拡げた。

 この他流試合により厳しい状況に陥ったのは、朝鮮人留学生張徳秀(大五大政)である。張は第一高等学校の雄弁大会で、「諸君、僕は朝鮮人である。日本は朝鮮を合併した。如何に巧みな形容詞を以つてこれを蔽はんと欲するも、合併は事実である。私の国が日本の為めに合併されたのは事実であります」等々と、三十分の規定を二時間も気魄を込めて演説した結果、東京学生弁論界で勇名を馳せるに至ったが、「官憲は彼を危険人物と見做して、絶えず刑事を尾行せしめるやうになつた。」張はその圧迫にも屈せず、「真実に多数の朝鮮人が覚醒し、独立を計るやうな時期が来た時は、頼まれりや僕だつて遣る」(星川暁嶺「学生界奇人列伝」『雄弁』大正四年九月発行第六巻第九号二二八―二二九頁)との信念を貫き通して、朝鮮独立運動の最中に死亡した。

 雄弁会に対し、内と外から後援する団体が二つ結成された。一つは東洋会であり、雄弁会ならびに大隈伯後援会遊説部関係者が、四年十月三十一日、「早稲田大学雄弁会を後援し、国家有用の人材を養成すると共に、新文明の気運を促進するを以て目的」(『早稲田学報』大正四年十一月発行第二四九号四四頁)として結成したものである。東洋会なる名称は、小野梓の号東洋から採り、名誉会長には高田早苗が、会長兼基金部長には田中穂積が推された。もう一つは、東洋会の創設から約二十日後の十一月二十二日、寄宿舎生が寄宿舎内に、「弁舌を練磨し以て国家有用の人材を養成すると共に、会員相互の交情を厚うし、他日相提携し新文明の気運を促進するを目的」(同誌大正五年二月発行第二五二号一八頁)として結成した寄宿舎梓会である。この梓会なる名称も小野梓から採り、舎長矢沢千太郎を会長、永井柳太郎を顧問、先の西岡を幹事として発足した。梓会は、週に一度寄宿舎生のみの例会を、月に一度学苑教師を招いての大会を、年に一度都下官私立各大学連合雄弁大会を寄宿舎の大広間等で催し、その都度「記念写真は必らず梓先生の油絵の肖像を中にして撮るのが慣例となっていた」(河井常三郎「寄宿舎のころの話」『伝記西岡竹次郎』上巻二九二頁)。そして各大学主催の連合大会には、雄弁会とともに、梓会代表の弁士を派遣している。

 右のような、他の学生研究会には見られない先輩校友・会員・非会員の協力体制が、当時の雄弁会から、前述の西岡、山森、森下をはじめとして、中村三之丞(大七大政、衆議院議員)、高橋円三郎(大九大政、衆議院議員)、浅沼稲次郎(大一二政経、日本社会党委員長)などの政治家や、本編第十四章に前述した作家の尾崎士郎や、同じく既述の朝鮮独立運動の志士張徳秀など、多彩な人材を輩出したことと無関係ではなかろう。なお、西岡は、在学中の経験を踏まえて、卒業直後の五年十月に、先行する『雄弁』よりも親しみ易い雑誌『青年雄弁』を創刊し、大学、専門学校、中学校、師範学校、地方青年団などの弁論機関誌として、九年頃に及んだ。

 「早稲田騒動」では雄弁会は天野派に加担して、一敗地に塗れたが、八年四月十九日の送別会では、新幹事が認めた「宣言書」の一節に、「大正六年初秋の候に起りし開校以来未曾有の大紛擾は、早稲田王国を震憾し、余波は遠く我が雄弁会にも及び、其の影響する処頗る多く、雄弁会その後の活躍も甚だ緩慢なる状なしとせず。去りながら、吾人は徒に光輝燦爛たる黄金時代を回想して、其の光彩に幻惑さるるものに非ず。時代は変転す。願くば過去をば過去として葬り去らしめよ。限りなき将来は双手を挙げて吾人の活躍を待つに非ずや」(『早稲田学報』大正八年七月発行第二九三号一二頁)とあるように、新たなる航海に旅立たんとする気魄を揚言するに至ったばかりでなく、前年末公布の大学令の学苑への適用を目前にして、「思ふに学校当局者は大学令の恩典に浴せんとして東奔西走、日も之れ足らざるの観あり。然るに八千の学徒は又何等為すなく、早稲田精神は永久に滅せんとす。私学の権威は地に墜ちて、官学の亜流たるの観なきにしもあらず。柔弱なる風は澎湃として早稲田の校庭に押し寄せ来らんとす。鳴呼悲しむべきの現象ならずや」(同前)と、学苑が形式的な大学に堕する懸念を表明しているのである。

五 英語会

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 大正前半期における英語会の晴れの舞台は、大正二年十月の創立三十周年記念祝典に組まれた催物の一つ「英語会音楽会紀念大会」であろう。この時のプログラムは左の如くである。

(『早稲田学報』大正二年十一月発行第二五五号 五四頁)

この公演は、

十月十九日(日曜)二十一日(火曜)の両日午後六時より大講堂に於いて開催せられたるが、各日共開会同時に満員といふ未曾有の盛況にて、入場を謝絶されたる人多数なりしを以て、二十二日更に三日目をも開催したり。英語会、音楽会共に此度の紀念すべき祝典に異彩を放たんが為め会員全力的に練習を重ねし結果、非常の好評を博したり。

高杉教授の開会の辞は例の流暢なる、特に此時は感激ある英語を以て述べられたるが、そは祝典に際して早稲田大学に対する感想、大隈総長、高田学長の経営苦心、その活動に対する頌辞等なりき。英語会員の「女権拡張論者」「偽医者」は西洋人が聞かばいざ知らず、吾々の聞きたる所にては上出来、音楽会員の合奏、合唱共にアマチュアとしては美事なる手際といふべく、音楽堂としての設備なきあの講堂にて、あれだけに聞かせたるはその練習も一通りならざりしと思はれたり。尚「浦のあけくれ」の伴奏にベニンホフ教授が出奏されたるも聴衆の眼を惹き、又音楽会々友松永安衛、楊井二郎、水野三治、南寿の四氏が出奏援助せられし結果、音楽会は一段の出来栄えを示したり。 (同前)

と、合格点以上が与えられている。しかし、『英語青年』(大正二年十一月発行第三〇巻第三号)に掲げられた花園生執筆の「早稲田英語会の悪口」では、

私は今年の春の早稲田大学の英語会へ行つて、その批評を本誌に書いて大いに賞めておいた。一昨年の時も、……私は、その年の英語会の中では早稲田が一番であると書いておいた。若し慣例といふことを重んずるならば、今度の早稲田大学創立三十年紀念の祝典の催しの一なる十月二十一日の夜の英語会も大いに賞めなくてはならん筈だけれど、今年ほど失望したことはない。私の印象はただ奥行のない舞台で、まづい発音と、gestureのない動作と、まとまりのない、統一をかいたperformanceが眼に残つてゐるのみである。発音は誰れもだめである。……今夕のfeatureはMolièreの"Mock Doctor"だといふので、期待してゐた。医者になつたMr. Sen Okamotoだけは物になつてゐた。彼れはたしかにうまかつた。ベニンホフ君も「ほんとに彼の発音もやり方もnaturalですね」といつて、小生に相槌を打つた。其の他は感心出来なかつた。此次の時には充分に骨を折つて貰ひたい。――たしかに此の英語会はいろいろあるから、英語会もそのお飾りの一つだといつたやうな調子である。英語会は斯くの如き不成功であつた。けれども人気は大したもので、火曜日の日などは、定時刻前既に玄関前は押すな押すなのさわぎであつた。Waseda! Waseda! Waseda! Waseda! Waseda! Waseda!の叫びがにわかにmob式にかはりて、投げられた石は会場のwindow-paneを破つた。丁度其時舞台では"Suffragettes"が演ぜられてゐた。外では巡査が来るといふさわぎだ。また次の日に、更にもう一度会を開くことを宣して、やうやく群集を取鎮めた。兎にも角にもWASEDABANZAI!!! (九四頁)

と、全く正反対な評価が下されていることを付記しておこう。

 大正五年以後は、毎月一回月次例会、年一回十一月に中会、年一回春に大会を開くというように行事が定められた。この中で最も盛大なのは大講堂で開かれる大会で、若き婦人や西洋人も見物に来たのであり、その際演ぜられる英語劇は、「実に高商、慶応のそれと共に東都の三大名物の一つ」(『雄弁』大正八年三月発行第四巻第三号一五三頁)と称せられた。しかし、「早稲田騒動」の影響は英語会にも及んでいたのであり、「大正七年は学校と共に英語会にも過渡期であつた。春期の大会は秋になつて、九月やうやう事務の引き継ぎを了した」(『早稲田学報』大正八年四月発行第二九〇号一九―二〇頁)と報告されている。このような沈滞を脱却する一助として、英語会では、「先輩と後輩をつなぐリンクとして望まれて居た」会誌発行を翌八年に実行して、「学生会員には実費で頒ち、特別会員諸氏には全部贈呈する」(同誌大正八年十一月発行第二九七号一一頁)ことにしたのである。

六 音楽会

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 明治後期に基礎を固めた早稲田音楽会は、大正四年、更なる展開を図るべく、「在来大学の儀式が余り芸術味を帯びて居ないと云ふ事実」を理由に挙げて、次のような意図ないし決意を表明した。

将来大学の公式の儀式の際にも音楽を以て式を堅めて行くと云ふ本式のやり方を採つて貰ふ様に請願すると同時に、それだけ大学当局から尊重されるだけの徳操と技術とを磨く必要があると感じ、過日相談会を開いた結果、会員各自益々体面を重んじ、早稲田大学生たるの名誉を宣揚すると同時に、在来のデリケートな音楽のみならず、男性的な分子をも加味して、似非ハイカラ的・似非情緒的な気風を一掃する事となつた。 (『早稲田学報』大正四年四月発行第二四二号二二頁)

 「過去に於て単なる個人的会合であつた」早稲田音楽会は、ここに「大学の後援」を得て、「汎く我学園を代表すべきものとなり」、名称も「早稲田大学音楽会」と改めるとともに、役員が改選されて、名誉会長に大隈信常、会長に安部磯雄、評議員に辻井真・楊井二郎・伊藤貞雄・南寿・坂本隆二、名誉幹事に橘静二・松永安衛、幹事に前坂重太郎(主任)・赤壁徳三郎・中原信一・今西莞爾・大森益徳・金丸親太郎が就任した(同誌大正四年九月発行第二四七号一八頁)。

 この大幅な改革は、『早稲田学報』で見る限りでは、音楽会の発意により遂行されたように思われるが、『音楽界』(大正四年四月発行第一五年第一六二号)は、「今回学長高田博士欧米漫遊中、彼地大学の実況を視察したる結果、大学附属のバンドの必要を認め、学長秘書橘氏の尽力と、音楽会幹事前坂氏其他部員諸氏の熱心なる希望と」(七二―七三頁)により実現されたと、大学当局の意志が先行した如くに報じている。大学当局者の中でこの改革に最も熱意を持ったのは、橘静二であろう。当時の音楽会会員中原信一(大五大商)は、橘が「学生音楽に理解深く、楽団発展のため常に激励慰労せられ、特に学校当局の楽団に対する理解開発に大いに尽力」せられた(桜井哲雄編『早稲田大学交響楽団史』一頁)と回想しているし、橘自身も、「広瀬〔武夫〕中佐の葬式以来、僕はモーツアルトの一曲が奏せらるる葬式には必ず参列するか、道をその行列とともに歩くか、何れにしても、この音楽によつて、自分の心の汚れを拭ひ、誠の足らぬを鞭韃ずることを怠つたことはありません」(「早稲田を去る」『大学及大学生』大正六年十二月発行第一号特別附録九頁)と、音楽への姿勢を述べている。学生側は音楽会を発展させる手段として、大学側は大学の品格向上の手段として、儀式用管弦楽団の創設を意図したと見て、恐らく誤りないであろう。

 新編成の管弦楽団は十五人程度で発足したものと思われるが、この程度の編成でも、当時においては他校学生の羨望の的であった。因に当時の音楽会会員は、管弦楽部二十一名、器楽部三十四名、声楽部十二名であった(『音楽界』大正五年一月発行第一六年第一七一号八二頁)。最初の演奏が行われたのは、大正四年七月三十日、中央夏期講習会終了式の際であった。今日までに定期演奏会の数は通算百回を超え、ヨーロッパにもその足を伸ばすほど成長した早稲田大学交響楽団は、実にこの日を以てその第一歩を踏み出したのである。次いで同年九月二十四日には、学苑が招聘したシカゴ大学野球部と早稲田大学野球部との第一回戦に、「我国最初の催として、管絃楽部鼓隊は両軍選手をグラウンドに送り、場内を一周せしが、拍手鳴を止め」ることなく、大好評を博した(『早稲田学報』大正四年十一月発行第二四九号四八頁)。また高田が文相在任中、文相官邸で開かれた賓客歓迎パーティーに早稲田大学音楽会管弦楽団が出演し、饗宴を盛り上げるのに一役買っている。この企画が橘秘書の発案であることは、説明の必要もないであろう。

 音楽会は管弦楽部創設に当り大学当局の支援を受けはしたが、会員から毎月会費を徴集して日常の諸費用に充てるとともに、「同大学内に於ける演奏は一回十円、同大学の関係ある集会にて学校以外に出演する者は十五円以上の報酬を得」て、これを楽器の購入・修理等に充て、「毫も本校の輔助を仰がずして其経営を行はるるに至れり」と、経済的に大学当局から自立していたことを『音楽界』(第一六年第一七一号)は報じている(八二頁)。

 音楽会は、卒業式その他の大学の行事における演奏や、他の学生研究会への賛助出演をはじめとして、春秋の定期演奏大会、特別演奏会のほか、「修楽旅行」と自称する全国各地への演奏旅行を実施している。試みに、大正八年十一月十五日に神田基督教青年会館で開催された第十三回秋期演奏大会について一言すれば、約三千名の聴衆を集める盛会であって、五百六十三円余の純益を上げているが、そのプログラムを一瞥すると、会員または特別会員自身による演奏は第一部のみで、第二部ならびに第三部は、海軍管弦軍楽隊、外山国彦、窪兼雅、小倉末子、榊原トリオ、花島秀子、ウェルクマイステル等、学外の知名音楽家により編成されており、成功の一半はこれらの人々の支援に負うものであるのを認めざるを得ない。

 音楽会の活動が中央および地方において好評を博したことは、会員に学苑の校外教育の一翼を実践するかの如き自負心を扶植した。また校歌の全国への普及に貢献するところも多大であり、地方の校友からは校歌の正しい歌い方を示してほしいという要望が寄せられたので、大学当局の許諾を得た上で、五年十二月十日、管弦楽部により東京蓄音機株式会社において校歌がレコードに吹き込まれた。これを報じた『音楽界』(大正六年一月発行第一七年第一八三号)は、「一校の精神たる校歌を此器に伝えて広く社会に発表する事は頗る適切なる企といはねばならぬ」(七六頁)と、高く評価したのであった。

七 広告研究会

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 学問研究を目的としたサークル活動の分野では、商科の学生が活発な動きを見せている。

 大正三年には広告研究会が設立された。広告は、学問的には勿論のこと、社会的活動としても、当時未だ目新しいものであった。大正前期は、我が国の広告業が発展のスタート・ラインに立ったところだった。例えば全国新聞広告総行数を見ると、大正元年の約三千四百万が、大正八年には一億を突破している。この数字からも分るように、大正期に広告業は単なる広告取次業からスペース・セラー、スペース・バイヤーへと急速に成長していったのであるが、早稲田大学の広告研究会はこの趨勢を先取りするかの如く設立されたのであり、当時の商科学生が持っていた鋭敏な社会感覚が感じられる。学苑の広告研究会は大学における広告研究組織としては日本で最も早く、その後の同種の研究会を先導したのであって、その設立は広告学史上記念すべき出来事であったと言ってよかろう。

 さて、広告研究会の設立準備を行ったのは、創立三十周年祝典の際に催された広告展覧会に参加した学生・教員で、約三ヵ月間の準備期間を経て、大正三年一月十七日、正式に発足した。この日、大講堂に発会式が挙行され、会長には商科長田中穂積が、副会長には伊藤重治郎が、また顧問には平沼淑郎小林行昌らが、それぞれ推輓された。広告研究会の目的は、「広告界を正しく指導し、その赴く道を教へ又一面に於て斯界に活躍すべき人材を養成する」(早稲田大学広告研究会編『創立二十週年記念講演と沿革』一一三頁)ことにあった。この目的に沿う広告研究会の活動は、三本の柱から成っていたようである。

 広告研究会は実際的な活動を重視していたが、その基礎には学問的広告学研究が据えられねばならない。この広告学の攻究が研究会活動の第一の柱であった。具体的には、商科の教授等を招いて毎週三時間程度の講義が行われた。その科目は、大正三年を例に取ると、広告学原理、広告通論、広告史、広告心理学、原書講義であった。講義の他には、会員の研究成果を公にする場として、随時研究発表会が開催された。第二の柱は、広告学研究を基礎とした最新の広告学説・広告法等を社会に普及することであった。ここに、会の活動を学問研究にのみ限定せず、研究成果の応用を重視する広告研究会の性格を看取することができよう。ここで重要なのは展覧会と講演会であった。その代表的なものは、大正六年八月十二日から十六日までの五日間に亘って開催された小樽での展覧会である。この展覧会において一般の縦覧に供されたのは、東京・大阪の電車広告、イギリスの募兵・募債広告、東京各商店の包装紙・スタンプ・レッテル類、商品機関紙等々であったという。これらは非常に好評で、入場者は八千名に上ったと伝えられている。第三の柱は、将来広告業界において活躍すべき人材の養成であった。ここでの実際の活動内容は、現実に広告業に従事している人々との懇談会、新聞社・印刷会社等の見学、更にデパート等での実地勤務であった。

 要するに、広告研究会の活動は、学理的な広告学研究を伴いつつも、強い実践志向に貫かれていたと言ってよいであろう。大正十二年三月、かつて広告研究会に所属していた校友らが早稲田広告学会を設立し、その際彼らは誇らしげに「現在に至るまでの間に卒業生を出すこと将に五百に垂んとして居る。是等の先輩諸氏は広告研究会に於て嘗て実際的に鍛へた手腕、即ち現今の商戦場裡に於ける有力なる武器たる広告を以て、此の活社会に奮闘しつつあるのである」(『早稲田学報』大正一二年四月発行第三三八号一七頁)と語っているが、これは、広告研究会の特色がいかなるものであったかを端的に示していると言えよう。この特色は商科らしさの現れであると同時に、日露戦争後本格的に登場してきた広告という産業が要求するものでもあったと考えられる。

 なお、商科学生を主体としては、前述の早稲田大学経済学会のほか、大正六年三月十九日には、正規の学科課程における会計学セミナリーを補い、会計学の研究を一層推進するという趣意で、早稲田会計学会が発足していることを付記しておく。また、大正三年にアメリカ留学から帰国し、大正四年から商科講師となった労働問題に関する新進学徒北沢新次郎を中心として、多数ではないが熱心な学生達により組織された読書会が、後の民人同盟会、建設者同盟の萌芽を形成したことも、見逃すべきではなかろう。

八 早稲田道の会

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 精神修養を目指す宗教的サークルには仏教教友会、基督教青年会などが明治期から存在していたが、既存の会によっては自己の要求を満たし得ないと感じた学生により、新たなサークルが大正期に創設された。すなわち、早稲田道の会、真宗会、静坐会などがそれであり、その中で最も活躍したのは早稲田道の会である。

 早稲田道の会は、明治・大正期のキリスト教界の先覚者松村介石により明治三十六年に創設された(宮武外骨稿・西田長寿補「新聞雑誌関係者略伝(80)」『日本古書通信』昭和四十九年十二月発行第三九巻第一二号一二頁)道徳修養団体である道の会の早稲田大学支部とも言い得るものであり、「第一、己が身を修め、第二、己が業を励み、第三、人と国との為に尽す」(『道』大正五年十二月発行第一〇四号七二頁)というのが、道の会の目標であった。早稲田道の会は、大学支部としては慶応義塾に次ぎ、大正元年十一月十七日、教授杉山重義を顧問とし、雄弁会の松枝徳麿を中心に、十余名の学生を発起人として創成され、発会式を兼ねた大講演会が早稲田大学大講堂において開催された。その講演者と演題は、野口復堂「磔茂左衛門」、小池素康「現今の宗教」、西川光二郎「鶏口牛後」、石川半山「所感」、松村介石「To be」、村井知至「無名の宗教」と、当時の宗教界・精神界の錚々たる顔触れが並び、来会者は二百余名を数え、盛会のうちに幕を閉じた(同誌大正元年十二月発行第五六号七八頁)。引続いて翌月七日に、早稲田鶴巻町の小池素康宅に七名が集まり、第一回例会が持たれた。以後、例会・講演会が開かれて、塩沢昌貞安部磯雄平沼淑郎、前田多蔵らの早稲田関係者や前記の松村、村井らの道の会関係者が演壇に立った。会を続行していくうちに他大学との交流を発企し、四年初頭より、彼らを含めた「青年会」が結成され、毎月第二土曜日に各自の研究成果を発表することになった。更に同年五月十六日には、各大学卒業生をも加えた会へと発展し、名称も「中央青年会」と改めたものの如く、その発会式を巣鴨宮下の寄宿舎で行っている。しかし、東京での活躍のみならず遠く岐阜支部にまで赴き、宗教、道徳、政治等に亘って多彩な講演を行い、縦横無尽に行動していた発足以来のリーダー松枝徳麿が五年三月、大学部政治経済学科在籍中に死亡すると、この会の学苑内での活動は中断せられたが、松村介石は、道の会の青年部の慶応と並ぶ双璧である早稲田が活動を停止しているのを嘆き、再建を呼びかけた。学生はこれに呼応して、七年四月二十日、講堂で復興大講演会を開催し、平沼淑郎の「名実論」、大川周明の「日本帝国と宗教」、野口復堂の「亡国の宗教」、松村介石の「革命時代」が聴衆に感動を与えた(『早稲田学報』大正七年七月発行第二八一号二四頁)。

 また、松村介石は大隈重信と親交を結んでいたので、大隈は機関紙『道』に寄稿し、また、松村が会員の早稲田学生を随伴して講演を依頼すると喜んで受諾し、七年十一月、講堂で「道は邇きに在り」と題して雄弁を揮った。

九 沙翁記念祭

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 最後に、如上の学生研究会と全く同日には論ぜられないが、文学科学生主催の行事として、大正五年四月二十二―二十四日に沙翁記念祭が学苑で挙行されたことについて触れておきたい。学生主催とはいえ、学校側よりも多数の教職員が委員として参加し、『早稲田学報』は同年五月発行の第二五五号を「沙翁紀念祭号」として特輯しているほどであるから、百年史がそれに対して全く目を閉じるのは不当であろう。そこで、僅かに一回限りのものではあるが、少くとも形式的には学生の発起により成功を収めたきわめて注目すべき企画として、ここに一言することにした次第である。

 『早稲田学報』は、

文豪シェークスピア逝いて玆に三百年、本年四月二十三日は恰も其の紀念日に相当するを以て、本土英国は目下国運を賭して戦ひつつあるに拘はらず、例に依り紀念祭挙行の企てありと聞き、米国亦盛んに之を挙行すると云ふ。此時に当り、極東帝国内沙翁研究に於いて一日の長ありと目指せられつつある我が早稲田大学亦何等か文豪紀念の挙なかる可らず。乃ち大学部文学科学生の主催を以て沙翁紀念祭を挙ぐることとな〔れ〕り。 (四頁)

とその趣意を明らかにしているが、記念祭の内容は、記念晩餐会、記念展覧会、記念講演会、記念学生劇より成るものであった。

 記念晩餐会は、二十二日午後五時、第二十教室で、塩沢、田中(穂)、田中(唯)、金子(馬)、中島(半)をはじめとして、教授・講師ならびに学生二百余名出席、塩沢および金子の挨拶の後、「シエークスピーア紀念料理」の晩餐に移った。「シエークスピーア紀念料理」とは、宮井安吉の解説によれば、左の如き献立を指すものであった。

(1) プーア・ジョン(魚) と名付けたるは沙翁作『テンペスト』の中に現はれて居る魚の名を取りたる者であるが、尚ほ沙翁の父がジョンであつて、それが晩年に至りプーア(貧乏)になつたが為めに、沙翁がロンドンに上つて、生活の道を求めなければならぬ様になつた事実に因んだのである。

(2) クェッチョンド・ベーコン(塩豚の肉) 先年シエークスピーヤ其人の存在を疑ひ、沙翁の名を哲学者ベーコンの号であつたと論じた者があつて、それが為めに文学界に一大問題が起つた事がある。所謂ベーコン・クェッチョンである。それに因んで、塩豚の肉即ちベーコンをクェッチョンド・ベーコン(問題のベーコン)と名付けたのである。

(3) キャピタル・カーフ(犢の肉) 沙翁の劇曲『ハムレット』の中にブルータスがシィーザーを殺したのを評して「こんな立派な犢(キャピタル・カーフ)を殺すなどと畜生めいた業をしたものだ」とあるに因んで、立派な犢即ちキャピタル・カーフと名付けたのである。

(4) グリーン・サラッド(サラッド) グリーンは人名であつて、千五百九十五年頃に演劇及び文学に関して、『グローツウァース・オヴ・ウィット』と云ふ書を著はして、嫉妬心から沙翁の事を悪し様に言ひ罵つた人である。してグリーンは青物であるから、サラッドには似つかはしい名であると思つて、斯くは名付けたのである。

(5) リチャード二世(パン) これは沙翁の劇『リチャード二世』の中に「余も御身等と同様にパンで生きて居る」と云ふ語のあるに因んだのである。

(6) ベッドフォード・ビール(麦酒) ベッドフォードと云ふは沙翁の誕生地から程遠からぬ処にある小都会で、エール即ち麦酒を以て名高い地である。沙翁がベッドフォードの若者から酒戦を挑まれた時に之に応じて豪飲したが、みんごと敗北して帰途路傍に酔潰れて、翌朝まで寝て居つたと云ふ話があるから、沙翁には因縁の深い土地だと云ふので斯くは命名したのである。

(7) シッキス・ペーアズ(菓子) 此の菓子の中には梨即ちペーアが六個づつ這入つて居るから、シッキス・ペーアズと洒落れたのである。

(8) タイバーサイド・フルート(水菓子) シィーザーが遺言状の中に「タイバー(羅馬府を流るる河)河畔に新しく拓いた果樹園を羅馬市民に贈る」と書いて置いたのを死後に発見したので、沙翁の劇曲『シィーザー』のアントニーの演説中に其の事が現はれて居る。タイバーサイド・フルートと名付けたのはこれに因んだのである。

(9) テンペスト・ティー(茶) 沙翁作の中で、最後の劇曲は『テンペスト(Tempest)』である。而してテンペストと云ふ字はtで終つて居る。今夕御馳走の最後の品も同じくTea(茶)であるから、之れをテンペスト・ティーと洒落れたのである。

(五頁)

なお、食卓は、シェイクスピアが特に愛好したバラ、水仙およびスミレにより飾られてあった。

 記念展覧会は、二十二日より二十四日まで図書館二階に、シェイクスピアに関する「飜訳及飜案」四十五部、「解説、註釈、物語」二十三部、「研究、評論、雑」十一部、「原書」五百四十七部を中心として、「坪内博士指導の下に、長谷川天渓氏其他委員諸氏の奔走・尽力と、校友の有志、東京帝国大学其他各個人士の賛助と」を得、「湯浅吉郎氏の如き殊に多大なる勢援を与へられ」て(五頁)、シェイクスピア関係図書および絵画、塑像、玩具等約九百点が展示された。

 記念講演会は、二十三日午後一時講堂に開催、金子馬治が「沙翁紀念祭趣旨」、坪内士行が「沙翁劇と其舞台」、長谷川誠也が「沙翁と欧洲文壇」、横山有策が「沙翁の英国」、五十嵐力が「近松と沙翁」を講演して、五時二十分に及んだ。この講演会においては、横山以外のすべての講演者がシェイクスピアと近松との連想に関説しているが、本記念祭では、逍遙自身表面に姿を現していないにも拘らず、その影響が深甚であることを示している証左とも見られよう。

 記念学生劇は、二十二日午後六時からは、英文二年有志により、「邦語シィーザー」三幕四場が、二十三日午後六時からは、英語会有志により、英語劇A Midsummer Night's Dream三場ならびにJulius Caesar三場が、何れも講堂に急造した舞台で演ぜられ、両夜とも満員の観客を十一時まで喜ばせたというが、前者は坪内士行、後者はケート夫人および北島夫人の「補導」の下に「約一週間の急稽古」による上演であったと記されている。