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第四編 早稲田大学開校

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第一章 専門学校令下の「大学」

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一 高田の「昔噺」

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 大正九年四月、高田早苗は学苑の中央校庭で、「早稲田昔噺」と題する科外講演を行い、過去四十年間の学苑の発達の跡を回顧したが、その中で、本巻第四編ならびに第五編の内容を形成する時代について、次のように指摘している。

今日迄の早稲田大学には……三大時期がある。第一時期は此東京専門学校を早稲田大学としたといふ時期、是が即ち明治三十五年、即ち創立二十年祝典の時に表はれた。次は理工科を建設するといふこと、是が大正二年、即ち三十年祝典の時に完成した。次は表面上又法令上早稲田大学が到頭他の帝国大学と少しも其間に差別がないと認められたといふ時期である。即ち来年は創立四十年になるから・定めて当局者は其事を発表して大学自ら之を祝し、世間も亦祝せられるであらうと思ふが、即ち是が早稲田大学の三大時期である。明治十五年の十月二十日といふ時から玆に四十年間経つて、初め七、八十人の学生を抱いて、今の文科の教室の半ばで始めたものが今日の如き盛大なる学園になつたのは、諸君と共に慶賀しなければならぬ。所で、早稲田大学は今日はどう云ふ地位に居るか、即ち今日の所では早稲田大学なる者は始めて地平線に立つたと言つて宜しい。過去四十年、殊に創立当時は、早稲田大学なるものは穴倉の中にあつた。穴居同様の有様であつた。是は確かな事実である。世の中では之を抑へ付けよう抑へ付けようとばかりして居つて、少しも之を助けるものがなかつた。全く穴倉の中に学校が出来た様なものである。それが今日は漸く地の上に出た。地平線上に立つことが出来た。斯う云ふ訳である。

(『高田早苗博士大講演集』 一五二頁)

 さて、東京専門学校が脱皮して早稲田大学が生誕する経緯は、既に前巻第三編第十六章に説述したところであるが、煩を厭わず、同じ講演から高田の言を引用してみよう。

〔東京専門〕学校は段々発達して二十年を経過した。……恰度明治三十一年頃、其頃私は半ば学校に教へて居たが、半ば政治に関係して居た。第一期以来衆議院議員となつて多少尽してゐたが、日清戦争以来、世の中の形勢も段々変つて、政治の方は左程力を尽す可き必要がなくなつたのであるし、飜つて我学校を見ると、何時迄も同じやうな有様で、生徒の数が多少殖えるばかりで余り向上し発達しない。どうも日本に於て私立大学のないといふことは文明的恥辱である、此学校を一つ私立大学にして見たいと自から揣らざる考を私が起した。そこで大隈侯にも申し上げ、同僚にも謀り、自らすすめて、校長は鳩山先生であつたから、学監と云ふものになつて、東京専門学校を大学にする仕事を自ら引受けて、先づ明治三十五年、東京専門学校を改めて早稲田大学と称することを天下に宣言し、東京専門学校創立二十年・早稲田大学開校の祝典を挙げ、爾来五年間諸方を奔走して、金がなければ出来ないから金を貰ひ集めた。恰度三十万円ばかり大方の篤志者が金を寄附せられた。玆に於て始めて此私立大学、自から名乗つて私立大学と称するものが出来上つた訳である。 (同書 一四五―一四六頁)

 それならば、この「自から名乗つて私立大学と称」した時期の学苑は、百年の歴史の中で、いかなる軌跡を残したであろうか。それを明らかにすることが、本巻の目的であるが、高田自身は、それについて、次のように述懐しているのである。

其内容は政治、法律、文学、後に商科が加はつたのであるが、幸にして世間の望に適つた訳か、俄に生徒が殖え、千の学生が二千となり三千となり四千となり五千となり、終には其時分の中学・実業の両校を合せると一万を以て数へ得ると云ふ位になつたのである。所で、所謂隴を得て蜀を望むは、是れ人情の然らしむる所である。綜合大学の如きものが出来上つたけれども、内容を見れば皆大した設備の要るものではない。図書館一つあれば、跡は扇一本で講釈して事の済むものである。西洋あたりの大学には余りさういふのは無い。帝国大学とても又そんなものではないから、是ではどうも幅が利かない。何としても之は実学を起し、設備の要るものを一つ置かなければ、我は私立大学なりといつて大きな顔も出来ない訳だと考へて、今迄五年の間諸方を煩して、非常に迷惑を掛けた人間が再び出掛けて金を集めると云ふも変なものであるし、頗る厚顔な次第であるが、併し悪い事をするのではないからと決心して、恰度明治四十年、即ち〔大学開校後〕五年経つて四十年の時に其志を発表した。四十年に創立二十五年祭を行つて、此の大隈侯の銅像も其時に出来たやうな訳で、其時に始めて第二期計画を続けてやると云ふことを申し出して、此理工科を造ることの経営に任じたのである。さうして四十一年、二年、三年、四年、五年、此間に凡そ百万円の金を世間の篤志なる方々から出して貰つた。其結果として早稲田大学理工科と云ふものが出来た。此理工科の出来たのはただ此学園に其学科が加はつたと云ふばかりではない。斯の如き費用を要する学科を私立大学が造り得たと云ふことの為めに、而も他に率先して造り得たといふことの為めに、此学校の基礎が確実になり、信用が大に増大したといふこと、是れは確かなる事実である。

所で創立三十年の祝典を明治大帝御崩御の為めに一年延期して大正二年に挙げた。其時分には大分世界的にやつて、兎に角世界の凡そ三十ばかりの重なる大学から代表者を此処へ出してもらひ、或は祝文を寄せてもらつて、向ふの運動場で殆ど三万人ばかりの人が集まつて、前後に無い盛んな祝典が挙げられた。ここで先づ真の意味の綜合大学が出来た。此時に早稲田大学の教育の趣旨と云ふものを尚一層完備することになつて、大隈総長の口から世間に発表された訳である。夫はどういふ事かといふと、学問の独立、是を第一の主義とする。次いでは学問の活用、是れが第二の主義、模範国民の造就、是れが第三の主義、此三つを以て早稲田大学の教旨と定むることになつた。……世間大学多しと雖も、日本に大学多しと雖も、明瞭に斯の如く其教旨を定め、之を天下に発表した所のもの幾干ありや。是は諸君の他に向つて誇りとせらる可き適当な材料であると思ふ。学校と云ふものは設備の完全も必要であるが、それよりもより大切なるは、健全なる然も進歩的の教旨を備へ、其教旨に副はんが為に努力するといふことである。……

そこで先づ綜合大学は出来た。而して研究機関は恩賜の金を以て恩賜館を造り之に充てたが、私は其当時早稲田大学から派遣されて欧米を漫遊し、世界の大学を見て帰つて来ると、益々此研究機関の必要を悟つた。恰度其頃私は内閣に入つた為めに、学長の職を退いたが、後継者が色々努められ、恰かも御大典に際した所から、御大典記念事業として又第三期基金を募集し、図書館を拡張し、是に添うて尚ほ閲覧室を弘め、研究室を拡大すると云ふことになつた。……

其の中に世間は段々進歩をして来て学制改革と云ふ問題が起つた。どうも政府者と云ふものは兎角世間の進歩に後れるものである。現に此間まで私立・公立では大学は出来ぬものと思つて居つた。又出来さぬ方針を取つて居た。大学ばかりではない、高等学校も出来ないものと思つて又出来さぬ方針を取つて居つた。ところが世の中はなかなかそんな事では承知しない。そんな時勢ではないといふことで、議論がやかましくなり、学制改革と云ふ声が喧しくなつた。其時私は今は亡くなられた先輩の菊池大麓先生と提携して、教育調査会の委員として学制改革の案を造り之が実行を計つた。其時の委員の大多数は皆我々の説に賛成をして呉れた。其中に私は大隈内閣に入閣することになつたが、其入閣した一の重大な意味は其学制改革を実行する使命を果さなければならぬといふ事であつたが、在職僅かに一年其事緒に着かざる中に大隈内閣は総辞職といふことになつて、寺内内閣是れに代つた。併し一旦進歩した時勢は却々容易に後戻りはしないもので、遂に曲りなりにも学制改革が出来上つた。不完全ではあるが、出来上つて、予て我々が数十年来唱へた官・公・私立平等と云ふことが少くとも実行されることになつた。是は日本の教育の上に於て特筆大書すべき一大時期であると斯様に言はなければならぬ。元来早稲田大学なるものは綜合大学たる実を挙げて居るのに、政府者は之を認めない。社会は之を認めても政府は之を認めないが、到頭此法令の為に政府者も又之を認めざるを得ないことになり、此に於て他の帝国大学の如き者と早稲田大学とは、事実は既に同じやうになつて居るのであるが、今や法文上に於ても、何等其間に差別なく、其間に懸隔なく、平等の地位に立つことになつたのは学問の進歩の為に、大学の発展の為に、諸君と共に深く喜ばなければならぬ事である。斯くなつたのは何の為めかと云ふに、是は苟くも斯うなつた訳ではない。是には色々な原因があつて、社会の進歩といふこともあらう。官僚主義の衰頽といふこともあらう。官僚主義の衰頽、社会の進歩、色々の原因があらうが、最も有力なる原因は、論より証拠といふ事である。

都の西北早稲田の一隅に於て、横から見ても縦から見ても遜色のない私立大学が事実に於て出来た。又三田の高台に於て、早稲田大学と相対して是亦遜色のない慶応大学が出来た。事実に於て、是が出来たと云ふ事が論より証拠、輿論を動かし、頑迷なる当局を動かして、遂にここに此官・公・私立平等と云ふ事を実現した。是は決して過言でないと信ずる。是に就いては、早稲田なり、慶応なり、其関係者数十年に渉つての労を多としなければならぬ。 (同書 一四六―一五一頁)

 すなわち、高田は二十世紀最初の二つの十年期を、学苑の大発展の時期と位置づけているのであるが、高田の言が単なる自画自讃に過ぎないものであるか否かは、以下本編ならびに次編において検討を加える主題である。しかし最初に先ず、我が国の教育史において、二十世紀第一ならびに第二の十年期の学苑が占めた位置を概観しておこう。

二 「大学」自称の先駆

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 明治三十五年九月、「文部省告示第百四十九号」を以て学苑が「私立早稲田大学」と改称したことは、第一巻九七七頁に既述した通りであるが、夙に「大学部」を開設した慶応義塾に続いて、学苑が校名そのものに「大学」を打ち出したのにより、他の私立専門学校が「大学」を名告る風潮の口火が切られたのであった。尤も、学苑の大学開校について、文部当局は、

専門学校令が公布になると、間もなく先づ早稲田がやつて来て、専門学校令によつて組織を変更するから、大学と称する事を許可しろと言ふのであつた。菊池文相は内心不賛成であつたが、遂に之を許す事とし、其の代り本科三年だけでは困る、其れに予科一年半をつけなければいけないと言ふので、早稲田では中学校卒業者を入学せしむる処の予科一年半を置いて早稲田大学と称する事となつた。……其の他の各私立法律学校が、続々大学の名称を要求して来たので、既に先例がある以上は、許可せぬ訳にも行かぬので、明治、中央を初めとし皆許可した。

(岡田良平「中学校令並に専門学校令」 国民教育奨励会編『教育五十年史』 二一三―二一四頁)

と回想しているが、大学呼称と専門学校令公布との時期の前後は事実に反するけれども、何れにしても、「それは単に大学の名称の問題であつて、官・私立大学の平等の待遇とまでは、まだ進んで来て居なかつた」と見ている(松浦鎮次郎「最後の学制改革」同書二九六頁)。すなわち、「大学は帝国大学以外に存在しないので、専門学校は大学と制度上明確に区別〔され、私立専門学校は〕大学とは称しても専門学校令に基いたものであるから、制度上帝国大学と同程度のものと見ることはできない」と考えられていたのである(文部省『学制八十年史』一九三―一九四頁)。

 また西村真次は、別の角度から、当時私立大学に対して下された低評価を左の如く説明している。

東京専門学校が早稲田大学となり、早稲田大学が大学令に準拠した時、一廉の識者さへも其存在の理由を疑ひ、其功率の寡少を憂へた。かうした人々が私立大学を真の大学と見ることに躊躇したのは、完全なる大学教育は国家の力に俟たなければ到底達成し得らるるものではないといふ僻見に基づいてゐたのであるが、さうした僻見は一に最近学術の著しき進歩をなした独逸に一つの私立大学も存在せざる事実を目撃し、独逸の成功は一に官立大学の賚なりと軽断し、国家の重きに任ずる英才は国家自ら之を教育しなければならぬといふ誤断に基づいてゐた。 (『半世紀の早稲田』 八頁)

 さて、学苑が「大学」と改称した翌明治三十六年、五九―六〇頁に後掲する専門学校令が公布され、専門学校を官・公・私立に三分し、修業年限三年以上と定めたが、この勅令により認可された私立専門学校を、明治三十七年度の『日本帝国文部省第三十二年報自明治三十七年至明治三十八年』に従い、内容によって区分すれば、(一)医学・薬学(東京慈恵医院医学専門学校、熊本医学専門学校)、(二)政治学・法律学・経済学(早稲田大学、慶応義塾大学部、東京法学院大学、明治大学、法政大学、日本大学、専修学校、京都法政大学、関西大学)、(三)文学(早稲田大学、慶応義塾大学部、台湾協会専門学校、哲学館大学、国学院、青山学院高等科、明治学院高等学部、日本女子大学校、青山女学院英文専門科、女子英学塾、同志社専門学校)、(四)宗教(曹洞宗大学、天台宗大学、真宗大学、日蓮宗大学林、同高等科第一部教場、浄土宗大学、同専門科(分校)、東京三一神学校、青山学院神学部、明治学院神学部、仏教大学、古義真言宗聯合高等中学、同志社神学校、大阪三一神学校、東北学院専門科、真宗勧学院高等科)のようになる(一四九―一五〇頁)。すなわち、学苑が慶応義塾とともに(二)と(三)の双方に分類されていて、既に学科複合化の片鱗が閃いていることが注目されなければならない。

 爾後大正七年の大学令発布に至るまで、専門学校令に基づいて設立された専門学校は多数に上ったが、その中で大学を称したものは二十数校を数えた。しかし、慶応と早稲田とを別にすれば、経営の主体は専門部であって、予科も有名無実に過ぎず、社会的威信を示す虚飾として大学部が添えられているに過ぎないような私立大学が少くなかったことは事実である。

 第三章に後述する早稲田大学開校式において、加藤弘之は祝辞の中に、

大学と云ふものは、東京帝国大学只一つしかなかつた。それから漸く両三年前に京都帝国大学が立ちましたが、それもまだ完備しない準備最中である。それから慶応義塾の大学部と云ふものが、両三年前から立ちました。そこで此度此早稲田大学が開設されたので、是で以て日本に四大学と云ふものが出来た。 (『早稲田大学開校東京専門学校創立廿年紀念録』 三九頁)

と述べているが、私立高等教育機関に対して下された一般の低評価の中でも、学苑に対しては、慶応義塾と並んで、別扱いが行われたのは、創立当初より、単なる法律学校を以て満足せず、東京大学文学部政治学及理財学科のカリキュラムに範を採った政治科に主力を注ぎ、また一度は挫折したものの理科を置き、更には夙に独特の文科をも開設して、総合的高等教育機関を目標とした実績の然らしめるところに他ならない。しかも、自称「大学」期には、後述するように商科と理工科の設置に華々しい成功を収め、大学としての実を着々として具備したのであった。

 明治十五年十月二十一日、学苑の開校式に際して、小野梓が、「顧フニ、独逸ノ学其邃ヲ極メザルニアラズ、仏蘭西ノ教其汎ヲ尽サザルニアラズ。然レドモ人民自治ノ精神ヲ涵養シ其活潑ノ気象ヲ発揚スルモノニ至テハ、勢ヒ英国人種ノ気風ヲ推サザルヲ得ズ」と、英学教育の意義を鮮明していることは、第一巻第二編に既述したところであるが、小野を中核とする鷗渡会の「イギリス主義の特色は、たんなるイギリス賛美や模倣ではなく、君主国という日本の現実と、世界の諸民族の特性を検討した上で、政府のドイツ主義に対立し、日本の目標として主体的にえらびとられた」方向を鮮明にするものであった(本山幸彦『近代日本の政治と教育』二二四頁)。イギリス的な個人主義・自由主義に基盤を置く東京専門学校の在野精神は、高田をして、

〔東京専門学校時代二十年〕間の政府の圧迫と云ふものは夫は実に酷いもので、非常な圧迫であつた。即ち政府は此学校を以て昔の西郷隆盛が鹿児島に設けた私学校の如く、あれは尚武的の学校これは文治的であるけれども、物騒の差は同じ程度のものであると斯う見た。其故に出来得る限り色々苛めたのである。 (『高田早苗博士大講演集』 一四三頁)

と語らせているようなインパクトをもたらしたが、これがまた学苑の急速な発展の生みの親でもあった。ところが、明治時代後期になると、国家権力との緊張関係は次第に稀薄化した。そして、在野精神は「模範国民の造就」へと一大転換することになる。そして、第一次世界大戦により得た教訓として、学苑のイギリス主義が政府のドイツ主義に反省を促し、私立大学に対する差別の撤廃を実現せしめるに至ったのであるとは、西村真次の説くところなのである。

〔第一次世界大戦に〕最後の勝利を贏ち得た聯合国の中堅たる英国に於いては一つの官立大学もなく、又米国に於いて第一流の大学はいづれも皆私立であるといふ事実から、内では我学園が駸々として進歩し、其卒業者が社会に出でて着々と地歩を占め、我邦文化の発展に寄与することの少くないといふ事実から、……頑冥者流も覚醒せざるを得ざるに至り、遂に新大学令の発布となり、我学園も官立大学と同等の存在を認められるに至つたのである。 (『半世紀の早稲田』 八頁)