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第四編 早稲田大学開校

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第七章 ロマンティック早稲田

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一 イーリー経済学

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 二十世紀の申し子である早稲田大学の進水は、また明治ロマンティシズムの最も有力な一翼を形作った。これより先、与謝野寛(鉄幹)と晶子を盟主として、明治三十三年に創刊せられた雑誌『明星』は、翌年二十世紀の初年に入ると、俄然、新派和歌の唱導から、我が国古来の詩歌の中心題目なる雪月花を排除して、新しく星と菫に転置したが、半ば嘲笑を含めて用いらるる星菫党とは、新興ロマンティックの代名詞と見てよい。その『明星』の有力な少壮メンバーたる相馬昌治(校歌の作詞者)、窪田通治(空穂、明三七文学部、歌人・後に教授)、吉井勇(専政中退)、水野盈太郎(葉舟、明三八大政)などは相率いて、大学新設の風を臨んで、早稲田に来たり投じ、それぞれに文学なり政治経済学なりを学んだ。この『明星』に対抗して、『文庫』は我が学苑を中退した河井又平(酔茗)が早くから編集に当り、『明星』が和歌を主として新体詩を副とする観があったのに対し、これは新体詩を大いに鼓吹し、その投書家の北原隆吉(白秋、予科中退)、若山繁(牧水、明四一大文)、美土路昌一(春泥、大文中退、後に朝日新聞・全日空社長)などが、新大学の旗幟を掲げた早稲田を望んで、初期の高等予科生であった。この『明星』『文庫』以外に、もう一つ、『中学世界』を見落してはならぬ。中学の整備とともに、雑誌王国の博文館から生れた新雑誌で、全国中学の民間的連絡機関誌であり、上級学校への案内と消息にも骨を折り、ここの投書家からは、後に数人の大臣、数多くの博士、大学教授、文壇・新聞界の名士が輩出しているが、ちょうどこの頃、誌友の親睦旅行を近県各地に試み、高等予科の政治経済学科第一回生永井柳太郎が指導者の格で参加している。彼は次第に社会主義化して、鉱毒問題で日本最初の公害の狼火をあげた、谷中村の視察に参加するようになる。

 高等予科は明治三十四年の四月に開講し、ほぼ一ヵ月を経た翌五月、迅雷耳を掩うような衝撃的ニュースが全学生の噂を沸騰させた。社会民主党という日本最初の社会主義政党が誕生し、届け出ると直ちに解散を命ぜられ、その宣言を載せた『労働世界』『毎日新聞』『万朝報』『報知新聞』『新総房』『東海新聞』の諸紙は、発売禁止になったばかりか、掲載紙没収という厳酷な手段が採られた。その設立者は安部磯雄、片山潜、幸徳伝次郎(秋水)、木下尚江、河上清、西川光二郎の六人。そのうち安部は早稲田の現講師、片山は元講師、木下と西川は共に東京専門学校の卒業生、すなわち三分の二は早稲田関係者で、まさに早稲田の学外事業の観を呈するが、予科生の若い心が驚駭おく所を知らなかったのは、自分の日夕接する「安部先生」がその主動者であることだった。

 彼は一言一行、謹厳いやしくもしない代表的紳士である。殊に時間にやかましく、自分はいつも始業ベルの鳴る二分前には、ちゃんと教室に来て扉の外で待っている。訳読の輪講は、英語のアクセントを正しく読むと、その努力を認めて、日本訳の方は免除してくれるというほど、思いやりがある。その謹厚の長者が由比正雪の蜂起(日本にはまだ社会主義鎮圧の歴史がないから、彼らの連想はここに飛ぶ)にも似た不逞を企んでおろうとは?!そしてその宣言綱領は安部の筆になったとは、聞けば聞くほど、彼らの多くには意外であった。

 ここにその経緯の一端を漏らすと、それは確かに安部磯雄の筆になったので、自ら語るところによれば、宣言の主旨はイーリーの『社会主義と社会改良主義』(Richard T. Ely, Socialism : an Examination of its Nature, its Strength andits Weakness, with Suggestions for Social Reform, 1894――略称Socialism and Social Reform)によることが多いので、殊にその巻末につけてある「ドイツ社会民主党」「フェビアン協会」「イギリス社会民主主義同盟」「アメリカ社会労働党」の主張や「フランスにおける社会主義」の動向など十種の文献を彼此比較し、按配した痕は掩うべくもない。しかし、よく日本の実状に鑑みてそれに応ずるだけの工夫配慮が細心に施されており、決して焼き直しではない。「其文章の雄大なる、其説明の周到なる、政党の宣言として稀に見る所」(石川三四郎「日本社会主義史」日刊『平民新聞』明治四十年三月二十日号)、「一匕直ちに資本主義の牙城を覆へさんとする慨を示してゐた」(高畠素之「日本社会運動史」『解放』大正十年十月発行第三巻第一〇号中篇一八頁)などの批評が早くからあり、元来、きわめて理解し易いが淡々として熱気に欠くるを難とする安部の文章としては、前後に例なく光彩万丈、気炎縦横で、恐らくマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』とともに、東西の二大宣言書と併称さるべき価値を持つ。

 この事件は、学苑講師がその主動者であったという以外、直接ここに関係ないが、敢えてそれに言及したのは、イーリーと早稲田経済学との関係に、特に注意を促したいためである。

 本学苑の産んだ最大の学者の一人、塩沢昌貞は、早く明治二十四年英語政治科を卒業し、二十七年、既に家永豊吉との共訳による『威氏租税論』(R. T. Ely and J. H. Finley, Taxation in American States and Cities, 1888)を公にしたが、後アメリカに留学すると、親しくイーリーに就いて経済学を修め、彼の一世に聞えた淵博なる学識の根底を作ったのは、イーリー学説に外ならない。あの碩学にして一冊の著書も残さなかった塩沢博士は、「アメリカ留学中の青年学徒時代にすでにイリーの『経済原論』の著作の助手をされた」(時子山常三郎『早稲田生活半世紀』四六頁)のである。また、大日本文明協会の編集になる『社会政策二論』に収録された安部磯雄訳『社会主義と社会改良主義』に塩沢自身が寄せた「イリー先生の著書に序す」に言う。

文明協会は其叢書の一編として米国リチャード・セオドル・イリー先生の著書Socialism and Social Reformを邦訳して、将に之を世間に頒たんとするに当り、余が先生と師弟の関係あるの故を以て、特に予に徴するに一言の序辞を以てせり。余曾て数年ウヰスコンシン大学に於て、親しく先生の指導を受けて研学に従事し、先生に就きては少しく知る所なきにあらざるを以て、敢て不敏を顧みず、玆に先生の経歴及び学想に関する梗概を述べて聊か参考の資に供せんとす。 (一頁)

言うところは謙遜を極めているが、その学説と人を知るにおいて日本の第一人者を以てする自信は凜々として言外に響いている。塩沢は、経済における人間の主体性に重きを置き、従って「経済現象ハ常ニ倫理的目的ヲ包含スルモノナリト言フヲ得ベク、経済ト倫理トノ関係ハ部分関係ニ非ズシテ全部関係ナリト言フ可キナリ」(塩沢昌貞「経済ト倫理トノ関係ニ就テ」『国民経済雑誌』大正二年二月発行第一四巻第二号一二頁)として、経済学に神経を通じ、温い血の温みを感じさせたことで、日本の経済学史に新生面を開いたが、それはイーリー学説の継承である。しかも、塩沢がイーリー学説に沿うて社会主義の実施を「無謀の挙」として穏健説を採っているのに対し、イーリー学説を奉じて社会主義を主張したのは安部磯雄で、ここに奇しくも早稲田においては、イーリーの幹から左右の枝が伸び出たことになる。

 初期における安部学説に、イーリーの影響の濃厚なことは塩沢に劣るものでなく、年々その『経済原論』を教科書として講述したので、学界には、「早稲田にはイーリー経済学を丸暗記するまでになった先生がいる」と、冷嘲気味に噂した者もある。特に有名な揷話は、書中にcross transportation(交錯輸送)という言葉が出てきて、明治三十年代初頭の幼稚な日本の実状から推しては理解し難く、安部は学生に懸賞問題として、「最もいい解釈をつけた人には賞品を上げます」と言った。しかし、教師の難しとするところは、弟子にはなおさら分らず、期日がきても名答がないので、安部は原著者のイーリーに直接手紙を出して疑問を質したところ、それはもし日本に例をとれば水戸産のタバコ原料が薩摩に輸送されて、精製されて紙巻となり、また東京へ逆送されて売り捌かれる、反対に薩摩のタバコの葉が東京に輸送されて、紙巻に作られて、また九州に逆送される、つまり自由競争の資本主義から生ずるwasteを説くのに用いた言葉である旨の説明があり、文章の不備・曖昧を詫び、改版の際は書き改めると約束してきた。

 早稲田の学生は、政治経済学科長の塩沢昌貞が留学時代に著作を手伝い、また安部磯雄の質問によって一部の文章を変更したとの揷話の伝わっている、その著書を用いて講義を聞くのだから、特に親近感を感じたに違いない。東京専門学校時代、天野為之によってミルの経済学が講ぜられ、一つの早稲田的学問となっていたが、二十世紀の大学としての出発当初には、早稲田経済学の基軸をなしたのは、実にイーリーの経済学であったと言ってよかろう。

二 藤村操の死

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 明治三十六年五月と言えば、第二回の入学生が、当時称した高等予科第三期に入って、その九月に晴れて大学一年生になる日を望みながら、最後の仕上げの段階に進んでいた時である。新聞は突如として二十二日の藤村操の自殺を報じた。十八歳とは類例の珍しい若年である上、華巌の滝に飛び込むという異常の方法を採った。しかも第一高等学校の一年生である。これに、膝許の一高学生よりも恐らくはより多くの衝撃を、早稲田予科生は受けたかもしれない。帝国大学を相手に考えるには年齢・学力未だ足らず、日夕、砥礪の対象となったのは、一高だったからである。

 このニュースを報ずるには『万朝報』が最も力を尽した。当時『朝日新聞』は未だ独自の特色がなく、『日本』は政客新聞、『読売新聞』は家庭新聞、『都新聞』は芸者新聞の評があったのに対し、『万朝報』は学生新聞と言われて、清新味横溢、全都青年の人気を集めていた。それには、「少年哲学者を弔す」と題して次の如き一文が載った。

藤村操、年十八にして宇宙の疑問解けざることを恨み、日光山奥の華巌の滝に投じて死す。事は咋日の朝報に在り。死に臨み、巌頭に立ちて、樹を白げ、書して曰く、

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今。五尺の小軀を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリテーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にて悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安ある無し。始めて知る大なる悲観は大なる楽観と一致するを。

我国に哲学者無し、此の少年に於て初めて哲学者を見る。否、哲学者無きに非ず、哲学の為に抵死する者無きなり。

(明治三十六年五月二十七日号)

後世「巌頭之感」として知らるる有名な文章を天下に広く伝えた媒介は、『万朝報』の、この黒岩涙香の筆に俟つこと多い。

 早稲田の学生は、これから二様の感銘を受けた。一つは哲学死という点で、これは必ずしも何ぞ藤村操に始まらない。先例として、明治二十七年の北村門太郎(透谷)、続いてその翌年の藤野潔(古白)の自殺がある。それは近松心中物の如き情痴でもなく、福沢諭吉のいわゆる「楠公権助論」におけるが如き、主人の金を失って、褌で首をくくった権助の義理死でもなく、二千年の日本歴史に前例のない思想死と目されたから、これは透谷・古白の亜流と言うことができる。

 しかし、藤村操は透谷や古白の如く既に文壇に一家をなす年齢には達せぬ少年である。十八歳と言えば、予科生の自分らとほぼ同年である。自分らにはこの巌頭の感の如き名文が書けるか。その点では、後に文壇に確固たる地歩を占めた吉江喬松、高須芳次郎など錚々たる士が第一期生の中にいたから、必ずしも遜色は感じなかったかもしれぬ。しかしこの思想的苦悶が自分らにあるかどうかは、等しく顧みて胸に問うたところであった。

 折から坪内は早稲田中学校の校長として、実践倫理の研究に没頭していた真最中であり、特に五年生の組の倫理に「諸子、藤村操の友人にて、その死の決意を事前に知りしとならば、如何なる書翰を送るや」という題を課して集めたリポートを総合参考して、精思密考のあまり、いわゆる「自殺論」(「自殺の分類及び其の是非」)を構成し、まさに高等予科を終了せんとする学生に講じたが、熱誠あふれて、二時間に亘る長講であった。それが活字となって公表されると、東大の大御所井上哲次郎の論と並んで、一世を沸騰させた紛々たる自殺是非論の中で、二雄編と言われた。新進社会評論家として台頭しかけの長谷川如是閑は、新聞『日本』(明治三十六年七月十四日号-八月十二日号)等で、井上博士の自殺全的否定論は学者にもあるまじき常識一辺倒で、取り上ぐるに足らずとし、坪内博士の論の、自殺は概ね非なるも、例えば先の日清戦争の丁汝昌の場合の如く、自分指揮下の将兵の全的助命を念じ、祖国の名誉を保とうとしたような例は認めてよき自殺で、その他ゲーテのヴェルテルの場合の如き、ロマンティック自殺は一概に否定できず、十分に同情して考察すべきであると、青年の気持を重んじたのには、大いに賛意を表するが、惜しむらくは社会的背景の考慮がないと言って、その欠陥を指摘した。学生達は、自分らの聞いた「自殺論」が論壇を吹きまくる台風の目となっているのを見て、自分達の学習も天下の輿論に相通ずるところがあるのを現実に知り、「よき学校に入り、よき教育を受けている」ことの満足と誇りと、胸の鼓動とを覚えた。まことに藤村操の死は、ことライヴァル校の一高の出来事ではあっても、門出の早稲田予科生に大いなる同感と反省を呼び起し、自校の価値を自ら認識するチャンスとなったことで、実に早稲田の精神的歴史の一断片をなす。

三 平民社と早稲田の教授・学生

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 日本で初めて私立大学の名称を帯した早稲田は、果して海の物となるか山の物となるか、期待、好奇心、羨望、反感、冷嘲など、人によってさまざまの態度でその成長を眺められていたが、早くも帝国大学とは著しく変った面貌を露呈してくる日が来た。すなわち日露戦争の切迫だ。

 三国干渉以来、その不吉な足音は陰にこもって徐々に近づいていたが、高等予科第一回生が大学二年に進む明治三十六年に入ると、いよいよ「死」の靴音は戛々として耳朶に近く直接響き始めた。

 六月二十三日の御前会議で、対露交渉の方針三ヵ条を決め、ロシアがこれを容れなければ、腹を決めて一戦を交える外のないことを桂首相は奏上した。事は厳秘であったが、この緊張した不穏の空気の中では何となくある方面からこの秘密も漏れ、翌二十四日、東京帝国大学などの七教授が桂首相の許に提出した(十日)長文の意見書なるものが、『東京朝日新聞』に公表された。結論は「今日の時機に於て、最後の決心を以て此大問題を解決せよ」という強硬なもので、由来、象牙の塔に籠って、みだりに街頭に現れぬのを以て自ら高しとしていた官学教授に、この挙あること前代未聞である。名を列ねたのは、富井政章、戸水寛人、寺尾亨高橋作衛中村進午、金井延、小野塚喜平次の七博士であった。それから時局の動きに応じ、硬軟さまざまの態度を採りつつも、戦争の促進に努めたので、「日露戦争の七博士」として新聞に騒がれ、歴史的にも有名である。官学学生はまた「アムール河の鉄血や」(穂積重遠の一高時代の作と伝わる)をはじめ、多くの軍歌を作って気勢を挙げた。

 これに対して早稲田はどうであったか。高等予科第三回の入学生中村星湖はその思い出を「食客時代」でこう語っている。

三十六年の暮には最早日露開戦の噂が高かつた。ケンダルと言ふアメリヵ人の会話教師なぞは……「何故日本は戦はない?時は今だ、時は今だ、此所で戦はなければ日本国は亡びて了ふ」と絶叫した。其頃の予科の科長は安部磯雄さんで、此人は世に知られた非戦論者だから、ハマアトンの『幸福論』の講義をしながら「人道の為には日本一国の興亡なぞは何でもない!」と卓を叩かんばかりの激語を発した。 (『文章世界』明治四十二年十月発行第四巻第一三号 九四―九五頁)

 この安部磯雄は、先の社会民主党の届出に対して解散が命ぜられると、片山潜とともに別の党の届出をして、同じく許されず、実際運動は望みがないのであきらめて、暫く鳴りをひそめていたところ、あたかもよし、幸徳と堺利彦(枯川)が、共に非戦論を唱道して『万朝報』を去り、諸方同情者の喜捨を集めて週刊『平民新聞』を始めたのが、明治三十六年十一月である。

十五日、週刊平民新聞第一号が発行された。幸ひにしてそれは大歓迎を博した。五千部刷つたのが足りないで、直ぐ三千部再版した。……平民社は斯くて、幸徳、堺二人の創立であつたが、間もなく西川光二郎〔明三二英語政治科〕、石川三四郎の二君が入社し、それから以後は、四人の合議で経営され、そして協力者もしくは援助者として安部〔磯雄〕、片山〔潜〕、木下〔尚江〕の諸君を初め多数の先輩と同志があり、日本社会主義運動は、初めてこの時全社会に対して威力を持つ所の一大城廓を得たのであつた。 (堺利彦「非戦論の平民社時代」 東京朝日新聞政治部編『その頃を語る』 二一二―二一三頁)

 この時を以て、従来、安部磯雄・片山潜を中心として動いて来た日本の社会主義は、幸徳・堺枢軸に転移した。平民社には幾人かの無料奉仕者がつめかけて、新聞の帯封書きをはじめ雑用を手伝い、中に永井柳太郎、山田道兄、白柳秀湖、松岡悟(荒村)、安成貞雄などの数人の学生が交じっていたと、堺は特に名を挙げて語っている(『日本社会主義運動史』一五三頁)。この五人とも早稲田の学生である。また堺は、『平民新聞』のした仕事の一つとして、八月七日(三十七年)第三九号の全紙面を「トルストイの日露戦争論」の訳を以て埋めた、とも書いている(同書一四四頁)。これは、トルストイが六月二十七日のロンドン『タイムズ』に寄稿した、日露両国の殺し合いを厳しく糾弾した長論で、後にグローヴ叢書に収められて七十余頁を占めている。

 幸徳・堺の二人がこれを分担して訳し、週刊紙の全紙面をそれで埋め、安部磯雄が毎号英文欄を担当していたので、次号に"The Influence of Tolstoi in Japan"の一文を載せ、左の手紙を付してトルストイに送った。これは久しくいかなる原文であったか知られぬままに過ぎたが、ロシア革命後、トルストイの末娘アレクサンドラが日本に亡命して来て、初めて公にされた。

尊敬するトルストイ様。私が貴方を様と呼んで爵位を附せぬのを、不快に思はれることはないと思ひます。何となれば、爵位をもつて人を区別するのは、頗る子供らしく思はれるからであります。私がこの手紙を書きますのは、『ロンドン・タイムス』紙上に掲載されました、貴方の貴重な日露戦争論が、日本文に翻訳され、我が国の『平民新聞』に発表されたことを、お知らせしたいためであります。私は大なる喜びを以て、同紙二部を貴方にお送りします。一部には日本文に訳された貴方の論文が載つて居り、今一部には貴方御自身に関する短い英文が載つて居ります。我々は社会主義者であると共に、戦争反対論者であります。戦争の罪証を示すことは、我々にとつて相当困難でありますが、我々は多くの迫害を犯して、出来得る限りのことをして居ります。貴方が長く健康を保持せられ、戦争反対の闘争を続けられんことを祈ります。 敬具。

一九〇四年九月四日 安部磯雄

(アレクサンドラ・トルスタヤ著、八杉貞利・深見尚行訳『トルストイの思ひ出』 二四六頁)

 元来、戦時中の敵国人との書信往復は、敵国通謀として厳禁され、場合によっては銃殺である。およそ道徳に反することは警視庁のスパイにさえ決して噓をつかぬので有名であった安部がこの厳しい国禁を破り、しかもその郵便物が、戦時に我が横浜に設けられた外国郵便の検閲所でも、同じくロシアが設けているそれでも目こぼしになってトルストイの手に入ったのだから、珍中の珍である。その到着までには恐らく一ヵ月半を要している。それに対しトルストイの返事がともかく無事に安部の手に届いた。この頃『平民新聞』は、禁止また禁止、弾圧また弾圧で、遂に印刷所も没収されそうになったから、最終号(明治三十八年一月二十九日発行第六四号)をマルクスの『ノイエ・ライニッシェ・ツァイツング』に倣い、全紙真紅な色刷の終刊号を出して、自爆するに至った。そこで、白柳秀湖(明四〇大文)と原真一郎(霞外、政治科中退)らの出していた『直言』が後継機関誌の役を果しつつあり、訳文はそれに載せた(同誌明治三十八年八月二十七日発行第二巻第三〇号)。

 この英語原文は、安部の無頓着により久しく失われていた。しかしロマン・ローランの有名な『トルストイ伝』にも引用・言及されて、世界的文献となったので、その紛失が痛惜されていたが、安部磯雄生誕百年記念祭の折、彼が生前部長をしていた関係から、野球部が久しく所蔵した古新聞・雑誌が、当大学史編集所(当時の校史資料室)に寄贈され、それを点閲していたら、この千金にも換え難い至宝が、いささかの損傷もなく、真新しいかと思う鮮色を帯びたまま発見せられ、各大新聞がこぞってその記事と写真とを掲げたほどの大ニュースとなった。読者には、訳文より英原文の方が興味が深いと思うから、綴りの明白な誤りのみを正したものを次頁に掲げよう。このトルストイ返翰は、当局の没収を警戒して、発表までは、極秘というほどではなくても内密にされていたのである。

 この手紙がまた失われたら取返しのつかぬ損失となるので、当編集所では、原物とそっくりそのままの複製三百部を作って保存用にするとともに、同好者に頒布した。その後世界で初めて、ロシアにある七つのトルストイ博物館に所蔵されている重要物を国外に持ち出して、大規模な展覧会が東京で開かれ、日本にある豊富なトルストイ関係書とともにこの手紙も展示されたが、先方の監督シーモノフが安部宛トルストイ書翰を垂涎懇望してやまないので、令息安部民雄(名誉教授)は、「物は最もあるにふさわしい所にあるのが一番いい。父が生きていたら、きっとこれをソ連に返すだろう。幸いに精巧な複製もできているのだから、原物を留めおく必要がない」と言って、あっさり譲ったから、彼らは最大の土産として喜色満面で持ち帰った。

安部宛トルストイ書翰

23/5 October 1904.

Toula, Yasnaya Poliana.

Dear friend Iso Abe,

It was a great pleasure for me to receive your letter and your paper, withthe English article. I thank you heartily for both.

Though I never doubted that there are in Japan a greatmany reasonable, moral and religious men, who are opposed to the horrible crime of war,which is now perpetrated by both betrayed and stupefied nations,―I wasvery glad to get the proof of it.

It is a great joy for me to know that I have friends and co-workers inJapan, with which I can be in friendly intercourse.

Wishing to be quite sincere with you, as I wish to be with every esteemed friend, I must tell you, that I do not approve of socialism and amsorry to know that the most spiritually advanced part of your―so clever andenergetic―people has taken from Europe the very feeble, illusory and fallacious theory of socialism, which in Europe is beginning to be abandoned.

Socialism has for its aimthe satisfaction of the meanest part of humannature:his material well-being, and by the means it proposes, can neverattain them.

The true well-being of humanity is spiritual i.e. moral and includesthe material well-being. And this higher goal can be attained only by religious i.e. moral perfection of all the units, which compose nations andhumanity.

By religion I understand the reasonable belief in a (general for allhumanity)law of God, which practically is exposed in the precept of lovingevery man and doing to every body what one wishes to be done to you.

Iknow that this method seems to be less expedient than socialism andother frail theories, but it is the sole true one. And all the efforts we makein trying to realise false―and not reaching their aims―theories only hinderus to employ the sole true means to attain the degree of happiness of mankind and of every individual which is proper to our times.

Excuse me for the liberty I take to discuss your creed, and for my badEnglish and believe me to be your true friend.

Leo Tolstoy.

Iwill be always glad to have news from you.

四 社会主義から都市独占事業攻撃へ

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 安部磯雄は平民社の解散後、社会主義戦列を離れて安全地帯に逃避したのであり、この頃の去就は臆病で卑怯だと、後の史家からは言われている(例えば荒畑寒村の『寒村自伝』)。元来、日本の社会主義は、キリスト教から入ってきた者が開拓し、自由民権運動に系統を引く者がこれを継承して来た形だが、平民社の解散後、当然ながら二派に分裂した。キリスト教派には安部・木下・片山の外、石川三四郎、西川光二郎らがあって、テロリスト的運動を極力排斥し、例えば昔の隠れ切支丹のように、潜みながらもこれを持ちこたえたに反し、自由民権派の幸徳・堺――殊に幸徳――は、師中江兆民よりも遙かに過激に当局に抵抗し、遂に「大逆事件」の巻き添えになるに至る。

 この時危うく命拾いをした者は、この頃の事を語るに、昔の同志を罵ってやまぬ傾向があるが、しかし安部はこの期間、決して彼らの言う如く、手を束ねて無為に終始したのではない。彼がこの時期に企画し着手した仕事に『資本論』の翻訳がある。これは後々まで世に埋もれたままに過ぎ、昭和に入って高畠素之が新潮社から全訳『資本論』の再訂版を出す時、漸く広く読書界に知られるに至った。

 更に、後に大原社会問題研究所の権田保之助がその詳細を明らかにしたところによると、権田が早稲田中学五年の時、非戦論を唱えて放校になった際、その教師であった安部が善後処置についていろいろと配慮したので、彼はその縁から安部家に出入りするようになり、その時の見聞をこう語っている。

〔先生は、戦争で〕世相がこのやうに悪化して、弾圧の手がこんなにひどくなつて来ると、実際手も足も出ないことになるといふことを、大変憤慨してゐられました。そこで自分は、それが何時出版されるやうになるか解らないが、或は永久にその出版は許されないかも知れないとも思はれるが、今、社会主義の聖書とも云ふべきものの翻訳に没頭してゐる。それはマルクスの『資本論』だ。このやうな大著で、しかも読解するのに極めて困難で、翻訳には随分骨の折れるもの、けれども是非ともわが国がその翻訳を持つてゐなくてはならないものは、平常の社会主義運動が自由に行はれ得て、従つてその為めの活躍に、日も亦、足らない時期には、とてもその翻訳といふやうな仕事に従事してゐるわけには行かない。ところが今は、幸にも(?)それ等の実際運動が全然封じられてしまつてゐるので、この時期を利用して、自分はこの仕事に着手した次第だ。これは前にも云つたやうに、仮令翻訳が完成したとしても、或は出版は永久に許されないかも知れないが、有志の人達の為めにこの翻訳を残して置かうと思つてゐる。唯だ自分が最も残念に思ふことは、自分はドイツ語の力が弱いので、ドイツの原書から翻訳することが出来ず、英訳書から重訳しなくてはならないことだ、と言はれて、立つて書斎から、已に出来上つた部分の原稿を持つて来られて、私達の前に置かれました。それは大きな型の和紙の原稿用紙に、毛筆を以て正確な楷書で、勿体ないほど綺麗に書かれたものでして、已に相当の分量がありました。先生の説明によりますと、それは先生の御親父が先生の訳された下書きを丁寧に浄写されたもので、これが御親父の日課となつてゐられるとの事でした。

(権田保之助解説「安部先生と私」 安部磯雄『地上之理想国瑞西』 一八七―一八八頁)

 『資本論』はこの頃から漸く労働者階級の聖書とも言うべき貴重大著だということだけは認識に入り、みんな一読したいものだとは望んでいたが、なにぶんにも難解の大著で、山路愛山などは早くから、日本の社会主義者中これを読んで分った者は恐らく安部一人であろうと言っている。

 ただしこの翻訳も一部は日の目を見たのであった。すなわち片山潜の編集していた週刊『社会新聞』に明治四十二年から三年にかけ、六回に分って分載せられて(第五五号―五九号、六三号)、「価値の形式即ち交換価値」の途中にまで及んでいる。自分らのグループの手がけた事以外は無視し、軽蔑する癖のある学者も、この業績に全く目をつぶっているわけには行かなかったとみえて、こう評している。

訳文は、商品を貨物と訳すなどの誤訳または不適訳があちこちにないわけではないが、概して平明正確のようであり、最初の『資本論』邦訳としてはむしろ出色の出来栄えであるといってよいようである。……考えてみれば、これは六十年も昔のはなしであり……それにしても日本における『資本論』の歴史の第一ページを彩る一つの事実として、この安部氏の訳業は逸することのできぬ意味をもつものといってよい。『資本論』百年も間近にせまった今日、とくにその感が深い。

(鈴木鴻一郎「『資本論』邦訳の源流」 『中央公論』昭和四十一年十月発行第八一年第一〇号 二八四頁)

大所高所から見降ろす態度をとって何とかケチをつけたいという意欲の明らかな文章でありながら、遂にこれだけの価値は認めざるを得なかったのだ。

 大逆事件後においては、政府の加える弾圧は一層厳しくなり、学校で社会主義を教えることは厳禁された。しかし安部は社会政策を受け持った関係上、どうしても社会主義の輪郭だけは説かねばならない。禁断の学科と言えば、余計に興味と好奇心を持つ学生は、もっと詳細に亘るその講義を要求してやまぬ。「よしそれなら、希望者だけ何人か、グループを作りなさい。大学に迷惑が掛かってはいけないから、場所をよそに移して、学外講義にしましょう。」そしてこのエキストラ講義を聞いた組の中から、後年の小汀利得(大四大政)や、日本で最初の労働専門記者となった村島帰之(大三大政)や、雑誌『改造』の初代編集長の横関愛造(大二専政)など、やや異色の人物が出た。

 ここに倉敷の進歩的産業家、大原孫三郎との関係も見逃してはならない。彼は明治三十二年、東京専門学校に入学し、間もなく中途退学したが、再び上京して、足尾鉱毒の視察に先鞭をつけた後、再入学し、また再中退した。この頃安部磯雄の名著『社会問題解釈法』(明治三十四年)が世に出で、識者はひそかに、調査の詳密・確実にして眼界の広範囲に及び、我が現状を顧みたる等の諸点において欧米にも類を見ざる名著となした。河上肇の出世作、千山万水楼主人の名を以てした「社会主義評論」(『読売新聞』明治三十八年十月―十二月連載、翌年刊行)も多くの知識をこれから得、「『社会問題解釈法』一冊は、氏〔安部〕の造詣の浅からざるを示して余りあり、官学者流果して此の一冊に対し誇るべき多くの著書を有する歟」(『社会主義評論』一〇二頁)と、東京・京都両帝国大学教授の、西洋名著を翻訳して口述する内状を摘発して比較し、痛烈を極めている。大原は、郷里倉敷に在る日、岡山孤児院を介して安部の存在を知り、ひそかにそれを慕うて上京した者、もとよりこの著を見逃す筈がない。明治天皇の治世が終って、世は大正と替った初め、大原は早稲田大学に費用を贈って労働調査を依頼した。安部がその衝に当り、研究の一部は『社会問題概論』の中に纏められている。これ、今日では社会問題のクラシックの称ある歴史的名著である。「大原社会問題研究所」の生れたのは、この時の安部の調査がその構案の暗示をなした(安部磯雄直話)。

 この前後、安部の最も力を致したことに都市問題がある。学究に偏するのみでは満足せぬ彼は、街頭に乗り出して、しきりに都市独占企業発生の惧れに警告を与えた。

創立の際より公有私有の問題にて喧かりし東京市の電車事業は、殆んど毎年、市有運動と値上問題にて市民を騒がせつつあり。新設瓦斯会社が挑戦的態度を採りし以来、既設瓦斯会社はをさをさ応戦の準備に怠りなく、市民は近き将来に於て惨憺たる瓦斯戦を見るに至るべし。一方電気事業の方面を見れば、形勢の更に不穏なるものあり。既設の二会社に加ふるに亦新電燈会社の設立を見んとするの風説あり。斯くの如くにして我国の都市独占事業問題は混沌たる情態に陥れり。本書の目的はこれに対して一条の活路を開くに外ならず。 (序)

と叙した彼の『都市独占事業論』は明治四十四年に出た。安部の筆鋒から致命的打撃を受けた東京市電や東京市ガスは、学長高田早苗に手を伸ばして、もしこのまま彼を教職に置くなら爾後早稲田の卒業生は一切採用しないと、学校を威嚇してきたという話が残っている。その頃広く坊間に流れた噂によると、高田学長は安部を呼び、「都市独占事業の攻撃をやめるか、でなければ学校を去るか」と意向を聞いたら、安部教授は「自分の生涯の理想は、東京市長になるか、青年の教育に携わるかの二つである。しかし今日の情勢では、自分の東京市長になれる望みは全くないので、このまま早稲田に留まらしてもらいたい」と答えて、遂に攻撃の筆を収めたということになっている。

 ただし、これは全く無稽の空談で、高田学長がそういう話を自分にしたこともなく、また自分はそれによって攻撃の筆鋒をゆるめた事実もないと、後年安部は壇上から公衆に向って声明したことがある。畢竟は彼の筆鋒の社会的影響の大きさから、こういう噂もまことしやかに流されたものであろう。彼が寸分も筆鋒をゆるめなかったばかりか、いよいよ攻撃峻烈を極め、しかも十年の永きに亘って倦まなかったのは、今日も残る『太陽』その他の雑誌に寄稿した彼の諸論文が何よりの証拠である。

 安部磯雄が都市公共事業の独占の弊を論じだしたのは、二十世紀になると早々の頃だが、その頃はその弊害を一般問題として取り扱っていたのに、俄然、日露戦争後になると、先ず「街鉄会社の罪悪」(『太陽』第一二巻第一一号)として、的を特定の現実焦点に絞り、東京市の街鉄会社を槍玉に挙げた。それからは、電燈会社、瓦斯会社、水道、魚市場、小学校の統合と、取っ換え、引き換え、その不合理や暴利を痛撃して剰さなかった。殊に「瓦斯事業と電燈事業」なる論文(同誌第一三巻第八号)においては、世界大都市のガス代を比較し、東京市は、欧米先進国のどの都市よりも格段に高く、僅かにニューヨーク一市と同額で、ガス一千立方尺二円五十銭(ロンドンは一円四十銭、ベルリンは一円九十二銭)であると指摘して、更に、横浜は二円にしてもなお一割五分の利益を占めているのに、それより五十銭高く取ってなお足らず、値上げせんとするは何事ぞと、数字を挙げ、表を示し、平易に痛論したので、何人の耳にもよく合点ができた。後年、安部が東京市長たらんとする野望があるとの噂が飛んだのは、こういう点からであろう。大正三年の「電燈事業市有論」(『新日本』第四巻第二号)で筆を留めているが、最初に狼火をあげてから十年、この問題と戦って少しも倦怠の色を見せなかったのである。

 事は大正の初頭だが、山本権兵衛内閣を倒したシーメンス事件に火をつけたのも、安部磯雄である。詳細は次編(七九〇―七九一頁)において述べるであろう。

五 浮田和民の捕虜留学論

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 安部磯雄ほど明確な社会主義的態度を採り、非戦論を主張しはしなかったが、浮田和民もまた、日露戦争に対しては同志社学風を継承するきわめて興味ある態度を採り続けた。その最も天下を衝動した――と言うより、軍部を怒らせ、世間常識を逆撫でにした――のは、日露戦争の時、三十七年九月十八日に東京市教育会で演説した「日露戦争と教育」である。これが『太陽』(第一〇巻第一四号、第一一巻第二号)に紹介され、井上哲次郎や加藤弘之の論難を受けた、いわゆる「捕虜留学論」である。

 明治三十七年四月、軍隊輸送中の金州丸が元山沖で撃沈され、続いて六月、対馬沖で我が運送船常陸丸・和泉丸が撃沈され、更に佐渡丸も大破された。これは、連戦連勝で有頂天になっている日本人の頭に三斗の冷水をぶっかけたように、全国民をしゅんとさせる事件であったが、一面そのために自重と士気昂揚にも役立った。乗組全員、船と運命を共にしたものと信じられ、船上で連隊旗を焼き捨て、割腹する壮烈さが絵となり、芝居となり、のぞき眼鏡となり、琵琶歌になって流布し、

降れと敵はすすむれど

我には建つべき白旗なし

という小学唱歌が作られて、少年教育に資せられた。ところが、暫く経って外電の報ずるところによると、自殺戦死したという悲壮な話は誤聞または希望的観測の作り出した幻影で、実際はモスクワの郊外メドヴェヂ(熊という意味)村の捕虜収容所で、結構のうのうと楽しく暮しているということが明らかになって、国民の中には内実それでよかったと胸を撫でおろした者もあったが、軍や一部の識者が憤慨し、国民の恥さらしだと言い、今からでも遅くない、速かに自裁させるべきだという議論が盛んだった。浮田はこれを反駁し、それはとんでもない短見である、捕虜になった人は敵国に留学したも同じだから、その国の現状を視察する絶好機会だという見解を述べた。その頃、留学というのは最高栄誉として国民の憧憬仰視していたことなので、この思いがけぬ論は一世に異常な刺戟を与えた。

 これに対し、日清戦争の時、鬼将軍の勇名を馳せた佐藤正は、隻脚を失って軍職を退きながら、一種の社会的名士として重きをなし、当時愛国婦人会の事務総長をしていたが、浮田の論を反駁し、じかに対決して公開の討論会を開こうと激しい勢いで申し入れ、それがまた世間の関心に一層多くの火炎を上げさせた。

 これに対して、当時早稲田の学生であった杉森孝次郎は、

先生の、世にも有名なりし「佐藤鬼将軍?」を相手としての捕虜弁護の雄大なる理想的気魄に満ちたる大論陣は、当時私もその雑誌上で読み、その道徳的勇気を敬嘆措く克はざりしものである。先生はクリスト教の学校の閲歴者であられたが、その烈烈たる理想主義的なる、善き点をばもたれ、いささかも非科学的なる、不聡明なる、卑屈なる教権主義の如きものをば決してもつてゐられなかつたと私は信ずる。 (『浮田和民先生追懐録』 一二三頁)

と述べ、また一世の木鐸で、熊本バンド以来の浮田の耐久朋なる徳富蘇峰は、

日露戦争時分に、当時の日本では、日本人が捕虜になるなどは、怪しからぬと云ふ時代に、捕虜遊学論を唱へた。即ち向ふ方の仕着せ賄で、向ふで勉強するから、寧ろ国家に取ては好都合であると云ふ意味である。此の為めに、日清戦争の役には、豊橋聯隊長として、鬼佐藤と呼ばれたる――当時は予備陸軍少将であつたと思ふが――その佐藤氏から抗議を申込まれ、立会演説を求められた事があつたが、それも兎も角片付いたやうだ。 (同書 三七一頁)

と追懐している。繰り返して言うが、日露戦争時における安部・浮田両人から吐かれたのは、確かに早稲田の自由の校風の中から生れた議論であり、七博士の戦争促進論は東京帝国大学の官学的気風から起った運動である。この対比ほど両大学の差異を明白に対照したものはあるまい。

六 『太陽』の主筆

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 浮田和民は、明治四十二年迎えられて雑誌『太陽』の主筆となり、大正八年まで続いた。これはスエズ以東第一の総合雑誌と言われた有力言論機関で、かつて論壇の「飛将軍」高山樗牛、続いて、本学出で人物評論の領域を開拓した鳥谷部銑太郎(春汀、明三三英語普通科)が椽大の筆を振うたところ、二人とも物故して、後任には浮田和民に白羽の矢を立てたのである。世はその意外に驚いた。とともにまたその最適任の人選なるに深く納得した。熱烈火の如き樗牛の後に沈静水の如き浮田の対比に興味を持つ者もあった。しかし、この「帝王より高き」地位はこの人以外になしとは、世をあげての公論であった。この天下最高の言論機関を掌握したことが、早稲田大学の認識をいかに天下に広くしたかは、測り知られない。早稲田は学校の軌道一本筋で成長し、発展した大学ではない。付帯事業を伴い種々のアトリビューツを添加し、あたかも星雲の運行するが如くにして大をなして行った学苑である。

 されば浮田は、その相談を受けると、仲介の使者に立った校友、坪谷善四郎(水哉)に対し、左の如き返書を送っている。これで見ると、『太陽』主筆に聘せられることも、世のジャーナリズムとはいささか差異があって、広き「国民教育」の一端と考えるので、「早稲田大学と協議の上、編輯員の席末に列するも不苦」と言って承諾している。つまり『太陽』の執筆も、早稲田大学と一心同体の表裏をなすことと考えている。長いがその返答の全文を掲げて、当時の早稲田大学教員の懐抱した高遠の理想を窺うこととする。

拝啓。先日は御来訪被下又た本日は書面を以て御申越の儀篤と勘考致し御確答申上度と奉存候。実は高田君の帰京を待ち協議の上に致度存候処、同君は来る九日過ならでは帰宅なきやと存候間、左に小生だけの意見を開陳仕候。

小生事業は教育を本位と致し居候間、矢張り国民教育の一端として将来太陽の新発展を期せらるるや否や明白ならずしては入社の名義成立不仕と愚考仕候。因て左に小生平素の持論を列挙仕候間、若し将来之を太陽の主義方針となし、又た博文館主及び館員御一同の賛助により之を実際に実現するの希望御座候はば、何とか早稲田大学と協議の上、編輯員の席末に列するも不苦と存申候。尤も小生は文筆不如意の方に御座候間、主筆の名は辞し申度、唯だ編輯顧問若くは太陽編輯長の名義を以て毎月一回編輯会議に臨み、翌月の材料編輯につき協議致し、自ら時々論文を起草し、又は意見を主筆記者に開陳して太陽に発表可仕候。

兎も角別紙記載の件々何程実現の御見込御座候哉。其の件々の中、太陽紙上に論議主張するのみならず、実地運動を要するもの少からず候間、館主大橋〔新太郎〕君並に館員御一同御協議の上、何分の御回答を待申上候。

一、憲法政治の完成、選挙制度の刷新を期する事。欧米諸国殊に英国に於ける選挙制度を調査し改正の方案を輿論に訴へ、又た議会に提出する事。

二、日本には輿論の範囲甚だ狭少なり、殊に東京市民自から輿論を造るの一要素たる能はざるの状態なり、且つ社会一般徳育風教の機関欠乏せり。之を匡正する為めに、東京市民の教育の為め又た全国に健全なる輿論を喚起する為めに、東京に一大中央会堂を建設し、天下の名士・名僧又学者を招聘して毎週土曜・日曜両日講演をなす事。会堂は円形にして一万人以上の聴衆を入るるに足り、下駄・靴の儘出入を自在にする事。毎年欧米諸国より学者・名僧を招聘し、我が邦人をして此講堂により世界の輿論に傾聴せしむる事。博文館此運動を開始するの勇気ありや否や。

三、現今国家の教育機関不備の為め、多数の青年は方向に迷ひ、前途に煩悶少からず、此際大いに私立学校の勃興を歓迎し、成るべく官民協力して其の学校を経営すべき事。就中実業教育の機関を完備せしむる事。

四、実業道徳甚だ劣等なるを以て、速かに之が改善を期し、太陽及び博文館の全力を挙げて、今後十年間に日本国民の経済的信用を世界に発揚せんことを期する事。

特に資本家及び労働者の関係を調和する為めに、工業条例並に労働者保険の方法を設け、社会主義の勃興を未然に予防する事。

五、従来女子の位置甚だ低く、之が為めに社会の風教を害する事甚だし。自今女子教育を興し、又た婦人会を奨励し、男女間の道徳を一変し、欧米に於けるが如き女権拡張の極端なる現象を未発に制止し、男女両性補充協和の基を開かんことを期する事。

六、従来日本人は一国文化の上より言へば種々の天才を生じ、国運を発展したれども、未だ世界の文明に寄与貢献したるものあるなし。方今世界文明の一要素として認識せらるるは唯だ美術の一点なりとす。故に今後日本の美術を保護し、特に其の新発展を奨励するは、日本が世界の文明に寄与貢献する所以の一大天職なり。此の目的を成就せんが為めに、左の三項を実行すべき事。

イ、火災・盗難の患なき大美術館を安全・適当の地に建設し、全国の寺社及び私人の手に貯蔵せられて、天下に埋もれ、且つ往々紛失又は焼失の患ある国宝的美術品を収用保管し、若くは之を買取り、且つ一般公衆の展覧に供せしむる事。此は固より国家の力を要する事故、独り個人に対してのみ望むべき事にあらず。

ロ、日本の風景は日本美術の一大淵源にして、今日と雖ども世界的勝景の地少からず。然るに実業発達の結果年々歳々破壊せられつつあるなり。今にして之が防禦の策を講ぜずんば、全国を挙げて一大荒廃に属せしむることあらん。故に風景を破壊するの行為(山林濫伐、岩石破砕、広告濫設等)を禁止するの輿論を喚起し、議会及び政府をして条例を制定せしむる事。

ハ、美術の天才ある人を発見し、之を公共の資本にて教育する事。天才は教育にて造らるるものに非ず、唯だ之を発見するの外なし、而して天才発見せられたる上は国家及び公衆の保護奨励を与へざる可からず。教育なしには其の天才を発揮するに至らずして撲滅するの恐れあり。

七、仏教の感化により地方には禽獣を愛するの美風あれども、都会及び都会付近の地、動物虐待の状見るに忍びざるものあり。宜しく欧米諸国の実例を調査し、輿論及び警察の力を藉りて、動物を虐用する者に制裁を加へんことを期する事。

博文館は一方に於て動物虐待禁止会に応援しては如何。

八、都会の地貧民輻輳し、中には乞食を以て営業となす者あり。吾人は是等の徒を排斥すると同時に、真正の乞食に向つては多大の同情を注がざる可からず。特に不具・片輪・癈疾の者は之を救貧院又は特殊の病院に収容し、路傍に曝らさしめざらんことを期する事。

以上の諸件中或は世間にて既に着手せるものあり、博文館は唯だ之に応援するのみにて差支なきもあり、動物虐待禁止会の如き即ち是なり。然れども既設のもの何程の効力あるや疑はしければ、将来特殊の運動を要することあるべし。又風景保存の件は三越の日比翁助氏既に其の志あり。必ず率先して輿論喚起に勉めらるべしと愚考仕候。尤も小生が大橋館主其他館員一同に希望する事は、東京に相応したる大演説堂及び之に相応せる世界の名士・名僧招聘の方法を講ずる事に御座候。

以上の理想多少博文館によりて実現せらるるの希望なくては小生入社の理由なかるべしと愚考仕候。

余は拝眉の上更に開陳可仕候也。

一月六日 (『浮田和民先生追懐録』 二四―二八頁)

その殆ど全部が取って以て我が大学の方針としても立派であり、いな、実地に実践施行を期しているところであった。