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第四編 早稲田大学開校

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第二章 学問の自由解放

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一 中学卒業生の氾濫

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 早稲田大学は、言い得べくんば、まさに新しく開けた第二十世紀の申し子である。開設は明治三十五年の新涼九月。これは一九〇二年で世紀の替り目から一年を経過しているが、ここでこういう揷話があるのが思い出されねばならぬ。

 ある西洋人が、日本の習慣では、年齢はいわゆる数え年で、生れた瞬間から一つとするが、これは無を計算に入れるのに等しい不稽であり、非合理であると言った。これを聞いた某士人が、「然らばお尋ね申すが、生れるまで十ヵ月母の胎内にいたのは如何。あれは無であり、空でござるか」と反問したら、相手の西洋人は二の句が継げなかったという。

 これに準ずれば、なるほど大学としての開講は二十世紀の第二年に入ってからだが、しかし大学は無準備のままの学生の寄せ集めではない。それまでに一年半の高等予科を設けて、これが「早稲田大学に入る唯一の階梯」(高田早苗)をなすのである。大学予備門としての高等予科が初めて開講せられたのは、その前年の明治三十四年すなわち一九〇一年のまさに陽春四月であった。これまで世紀の考え方に馴れなかった日本でも、欧米のこれを機会に巻き興った文化の刷新気運に同じて、さまざまな新規事業が行われ、殊に教育界では新たに中学、実業学校の開かれたものが少くない。東京専門学校の早稲田大学への脱皮には勿論昇格以外に創立二十周年を記念する意があったに違いないが、世紀の交替を目指した世界的風潮を絶好のチャンスとして捉えたのである。それを先ず銘記してこの大学史は繰り拡げられねばならぬ。

 この際、ヨーロッパでは逝ける世紀の精算が行われ、今更のように十九世紀が歴史上、無類特絶の百年であったことに、我ながら驚いた形であった。早い話が汽車・汽船は四通八達し、電信・電話は相交錯し、「世界は広し、万国は」と歌われた距離が、あたかも半分に縮まったと言われ、八十日間の世界一周も、小説家の空想でなく、現実は更に遙かにこれを短縮した。政治家・軍人としてはナポレオン、グラッドストン、ディズレーリ、ビスマルク、ガンベッタ、カヴール、リンカーン、またネルソン、ウェリントン、モルトケ、リー、グラントと、まさに綺羅星の如く連なる盛観である。学者はヘーゲル、スペンサー、ダーウィン。芸術家はゲーテ、ユゴー、ベートーヴェン、……その他各界に巨人雲の如く、林の如く輩出し、一々は僂指に堪えない。この時は一部にしか問題になっていないが、今なら当然マルクスを抜かすわけにゆかぬ。されば来たるべき二十世紀はこれらに劣らぬ文化的功業を挙ぐる必要があると覚悟させられたというよりも、こうした文化向上の趨向は十九世紀百年を以て足れりとせず、新世紀に奔注し継続せられねばならぬ勢いにある。上田敏が十九世紀の文芸を大観して作った序論は、頗る肯綮に当る。

基督暦十九世紀は必らずしも最大の世紀に非らず、而も最も興味ある世紀なるは疑ふ可からざる也。万邦尽く通じ史潮ここに合し、人類の進化始て広濶なる域に上れり。されば最近百年の文芸は、十八世紀末葉の革新を享けて、益々旨趣複雑の姿を具へ来り、自由奔放の気、精緻深邃の相、いたく前代の文献と風を異にす。今人は凡てを感じ、凡てを議し、思索到り、情緒尽さずむば止まず、人間内部生命の狂瀾は澎湃として百代が崇めたる古来の桎梏を数とせざる観あり。而してこの盛なる思潮の奔流は百年の歳月を足れりとせず、来世紀をかけて吾等の帰趣は形作られむとす。

(『太陽』明治三十三年六月十五日発行臨時増刊第六巻第八号「十九世紀」 一七八頁)

 これは独り文学のみでなく、人間生活万般に亘って広く言われることである。そしてここに最も新たなる意義と期待をかけて見直されたのが教育である。実は百世に卓出する人傑を産み出すは、決して教育に俟たない。寧ろ教育は凡俗の大衆を作って人智を平凡化させるという見方もある。尤もこれは詰込主義が極端にまで達した昨今の弊で、明治の頃は、教育施設も未だ大いに幼稚で不備不足であったから、これに対する翹望と憧憬が異常に大きかった。教育は一般化して民衆の開発向上を第一主眼とすべきなのに、それが逆で、少数の偉人傑士の養成が目標たるかの観を呈し、それを支える山麓或いは基盤として一般教育の枢要性は霞んだ観さえある。

 思うにこの時ほど、カーライルの『英雄崇拝論』とエマーソンの『代表的偉人論』が英語学修者必読の書として、汎く都鄙に亘って広く講ぜられたことなく、「天才論」は一時、ジャーナリズムの飛将軍高山樗牛を中心として、各新聞雑誌これが是非の論争に参加せざるはないほど隆昌或いは喧騒を極めた。

我は天才の出現を望む。嗚呼、日蓮の如き、奈破翁一世の如き、詩人バイロンの如き、大聖仏陀の如き、哲学者ショペンハウエルの如き、英雄豪傑は最早や此世に出づる能はざる乎。久しい哉、我の凡人に倦めることや。

(『樗牛全集』第四巻 一〇〇五頁)

 しかし時代は漸く民主的風潮に傾斜せんとする緒について、独善的・超人待望的気炎には背を向け、教育普及が軌道に乗りかけてきた。独り早稲田大学のみに就いて見るも、これまでは応募者数百に過ぎない。しかるに新大学への階梯としての高等予科生募集に関して都下の諸新聞は、一躍にしてその数倍を突破する盛況を示すとの世評を伝えた。

 これ「大学」というものへの憧憬の熾烈を証するものに外ならない。これまで大学は最高学府で、これを象徴する赤門は最も狭き門であり、難行道の最たるもので、普通の学才では潜ることが不可能の観を呈し、巷には、希望を達せぬ今で言う「浪人」が漸く氾濫し、こうした多数の剰余学生の処理が識者を悩ます問題になりかかった矢先に、新たに大学に昇格する早稲田が門戸開放を以てこの時勢に臨んだのが、この応募者の飛躍増大の背景でなくてはならぬ。

 明治の学制中、中学は非常に遅れ、基準の不備なるままに、明治二十年代にも未だアナーキーの状態で、私塾・寺小屋程度のものが簇生し、大隈重信編の『開国五十年史』に、西園寺公望が教育史に関して寄稿したものを見ても、「種々程度を異にせる数多の中等学校は各地に設立せられて、殆ど濫設の傾あるに至」る、と記述せられている(上巻六八八頁)。規制がはっきりせぬままに学力の怪しげな教師が杜撰な教科書を勝手に選び、あたかも幕末の各藩がてんでに藩札を発行した如く、収拾のつかない状態に陥った。この頃中学生であった内ヶ崎作三郎が後によく教室で話して聞かせたところによると、彼より少し前の中学卒業生が、高等文官試験の際、口頭試問に「三種の神器」を尋ねられると、即座に勢いよく「弓と矢と鉄砲」と答えたそうである。真偽の程は分らぬが、そういう噂が残っているだけでも、当時の中学教育の実態が想像せられる。明治十九年四月に「中学校令」が定められ、「大学に入るものと、実業に就くものと両様の学生を収容する」ということで、ここに中学と大学との水路が通じたものの、まだ渾沌たる状態を免れず、その八年後の日清戦争最中に公布された「高等学校令」により従来の高等中学校を高等学校と改めたので、中学校は尋常中学校のみになったが、更に三十二年の「中学校令」改正により中学校と名称が改められるとともに、各道府県に一校以上の公立中学校設置が義務づけられ、必要な場合は増設が命ぜられることになった。中学校の数が増加し、卒業生が急増したのは、この前後からで、今、その増加度を表示しよう。

明治二十八年 九六校 明治二十九年 一二〇校 明治三十年 一五六校

明治三十一年 一六八校 明治三十二年 一九〇校 明治三十三年 二一七校

(『中学世界』明治三十六年五月発行第六巻第六号 二一七頁)

三、五年ならずして実に倍以上の増加である。世はこれを「雨後の筍の如き濫立」と評した。蓋し卒業生の落着き場に考慮を払われない増設だからで、その卒業生の急増状況は次表の如くである。

明治二十八年 一、五八一 明治二十九年 一、七九八 明治三十年 二、四五八

明治三十一年 三、〇四三 明治三十二年 四、一七五 明治三十三年 七、七四七 (同誌同号 二一七頁)

まさに五倍近くの増加である。これを収容する官立の高等諸校は、どれだけの能力を持っていたか。明治三十三年の次表を見よ。

高等師範 一九八 商業教員 二九 郵便電信学校 一五一

札幌農学校 一八一 農業教員 三一 士官学校 七一九

高等商業 三一七 外国語学校 五二九 海軍兵学校 二〇〇

高等学校 一、七〇八 美術学校 一二二 海軍機関学校 六六

医学専門 五八二 音楽学校 八二 通計 五、一六七

東京工業 一五八 大阪工業 一一八

工業教員 三四 東京商船 一〇〇 (同誌同号 二一六頁)

この外に学習院高等科と水産講習所があるが、共に特殊校で、大勢に影響を及ぼす数字ではない。

 してみると、卒業生と受入校の間に二千六百人に近い差があり、その中三分の一は上級学校を志望せぬと仮定したとしても、その上を超す前々からの受験失敗者の大群が重なり累なって屯している数が、非志望者を遙かに凌ぐであろう。この学生浪人大衆は、官学の関門を遮閉されたとすれば、私立学校より外に行き場がない。ここにおいてか文部省も事態の容易でないのに狼狽したが、多年敵視し、圧迫し、潰そうとさえ考えたこともある私立学校に頼る外ない。あたかもよし早稲田大学はこの期に発足しているのである。

 日本における私立大学は決して早稲田を以て最初としない。慶応義塾は既に早く十数年の昔、大学部を設置しているが、その成立組織の上から、大慶応の一翼をなす形で、塾の全名を大学とは改称せず、学生の中には大学のあることに気付かぬ者も多かった。我が学苑は二十年間東京専門学校として都下屈指の学校たる実績と歴史を有するが、惜しげもなくそれを一擲して、面目一新の早稲田大学に生れ変ったのが、学生達の渇望に応じたのだ。大旱に雲霓を望む者に涼気万斛の雨をもたらしたに等しい。その門に集まったもの一挙にして従来の数倍を超えたのが、まさに中外の耳目を聳動した。

二 無差別入学許可の功罪

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 この飛躍的増大の理由は明々白々である。新発足の早稲田大学は、入学者に何の制限も加えず、中学を卒業した者なら、四月の新学期においては、志望者は全部無試験入学を認めるという大胆なる企画を発表したからである。当時は高等学校以上は七月に入学試験を行い、九月に新学期が始まるという学制で、中学卒業生は四月から七月までは無為に過ごす建前であったのに対し、早稲田はその期を無駄にせず活用して高等予科第一期とした。

 しかも無試験の筈なのに、この四月にも入学試験を行っているのは、未だ学制が整備せず、中学の資格を認められておらぬ中等学校や私塾がたくさんあり、また中学中退者や、独学で勉強した者が多かったのに、手を差し伸ばしたからだ。もし帝国大学が数少いエリートのみを対象とした学府と言えるなら、早稲田は甘んじて、それからはみだした非エリートはおろか、学問志望とあればその最底辺にも誘いの声をかけたのである。

 そして七月や九月に編入生募集をした。高等学校その他の官立諸学校の受験失敗者を大量に受け入れるためであるが、早稲田では既に四月の入学者が第一期の勉学を終了して若干の高等教育を受けているので、それだけの学力試験の必要があったのだ。しかし試験といっても、学力を見る程度で、及第を建前とし、落第を異例としたので、学生にはきわめて気安さを感ぜしめたのである。

 このような放胆極まる教育の是非を問う前に、この結果がいかなる卒業生を出したかを見ることにより、その功罪の一斑を明らかにさせよう。小川健作(未明、明三八大文)は、郷里高田の中学で、四年の時数学を二度続けて落第し、再試験を受けるよう勧められたが、これを拒否して上京した。そして早稲田の話を聞いて、恐る恐る受験してみたところ、数学がないので、寧ろ優秀な成績で及第し、すぐ郷里に電報を打ってこれを知らせた時の嬉しさは忘れられない、と語っている(『文章世界』明治四十二年十二月発行第四巻第一六号一〇二―一〇五頁)。早くから漢詩を作って文学雑誌に投書していた彼は、逸速く坪内にその特異な才能を注目され、遂に大学第一回生として卒業して間もなく、ネオ・ロマンティシズムの作家と呼ばれて華々しく文壇登場をし、晩年は文化功労者に推挙せられた。早稲田大学がなかったら、永久に埋没したかもしれぬ特異な才能だった。

 ついでを以て先ず正規な中学学歴のない異種学生を、ここにまとめて語っておこう。順序は前後する嫌いがあろうが、大学予備門としての早稲田の高等予科が、いかに本郷の第一高等学校をはじめとする官立高校と違って、自由、寧ろ放胆な制度であったかを語り得る絶好の機会だからである。

 早稲田の一つの特色は、その発行する講義録を修了して、その試験に合格した者には、専門部への入学の途が開かれていることであった。これはまことに安易な方法で、通信試験だから、試験の問題が解けなければ講義録を開いて見てもいいし、また、劇作家額田六福(本名はむつとみと読み、筆名はろっぷくと読む。大九大文)のように、哲学の問題ができなくて、京都大学出の文学士に書いてもらって郵送した者もある。しかし、第四代総長田中穂積、日本経済研究の革新者高橋亀吉(大五大商)、日本社会党の最初の委員長鈴木茂三郎(大四専政)、第一次共産党事件に連座し、マルクス学者としても出色だった猪俣津南雄(大二専政)らは、講義録勉強の入学者または上級編入者である。

 それよりももっと注目すべきものは、中学および講義録ともに関係のないただの高等小学校卒業生も、満十七歳になると、早稲田で施す特殊の中学卒業程度学力認定試験(文部省の中学検定試験は、難しくて容易に通らなかったが、それとはまるで違う)をパスすれば、高等予科の受験資格を与えられる制度があったことだ。

 この過渡期には、こうした学問志望少年が実に多かったのに対して、早稲田の高等予科は救いの網を打ったわけである。この派で後に名をなしたのは、『文章世界』編集の前田晁(明三七文学部)、日本経済新聞社長の小田嶋定吉(大五大文)などである。小田島と同年の受験者木村毅(大六大文)の思い出話によれば、試験日までに中学全科目勉強は間に合わぬままに受験したが、日本史は「徳川の幕府制度」、東洋史は「孔子と老子について」、世界地理は「南米の略図を書き、国境と各国首都を記せ」という類いで、小学校で習ったので間に合い、ただし数学だけは幾何・代数・算術みな間違ったので、落第を覚悟していると、旬日ならずして、「文学科合格」の楕円形の朱印を捺した葉書が届いた。間違いではないかと事務所へ念を押しに行くと、「英文学科だから数学のできぬのは差支えない。入学して、ついて来られる可能性ありと認めた者は、みな合格させた」という当事者の大まかな返事に驚いたという。

 多分、文部省から見れば、このような放胆、寧ろこのような無制限な教育は、恐らく彼らの考える教育の埒外に逸脱しているであろう。しかしそういう学校はない方がよかったとは、何人にも容易に断言できることではない。

三 早稲田の声価と異色

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 それだけに、早稲田は官学のあぶれ者の収容所という世評はまだいい方で、敵意を持つ者は劣等生と落第生の掃溜めと罵って憚らなかった。しかし早稲田大学の出発当時は、いかなる悪口雑言も意とせず、またそれについて何も弁解をしなかった。確かにそういう一面もあったには違いないし、他面、東京専門学校で営々として築き上げた実績があったので、「今に見ろ」という自信に満ちていた。

 例えば、ここに小山内薫を見よ。彼は夏目漱石の属目を受けて、東京帝国大学英文科でも際立った秀才だった。中学は日本一の名門、日比谷の府立尋常中学校である。それがこういう述懐をしている。

私は十九の春に中学を卒業して、其年高等学校の試験を受けた〔同級の武林夢想庵から勧められて文科を志願した〕。……尤もその時分、私の考へでは、文学をやるなら帝大よりも早稲田の方が可いと思つて居たので、どうか高等学校の試験は落第して早稲田へ入りたいと思つて、好い加減な試験を受けて見た。ところが、文科など志願する者は、学問も出来ない人が多いと見えて、私は中通りのところで入学を許された。そこで入ることにした。一つは高等学校の帽子も冠つて見たかつたので。

(『文章世界』明治四十二年八月発行第四巻第一一号 一一―一二頁)

彼の一高受験は明治三十二年である。その頃早稲田は既に早く、この日本一の中学の秀才を惹きつけるだけの業績を整えていたのだ。しかし、一高の受かったのを蹴飛ばしてまで彼を惹きつけるだけの魅力にはまだ欠けていた。

 この時は、早稲田大学が昇格する噂も世間には飛んでいない前だ。もし二年遅れて、早稲田が大学になるチャンスに彼が巡り合せたら、この寧馨児は、或いは早稲田に来たかもしれない。文壇ではよく、島村抱月が鷗外に就かずして逍遙の門に入り、小山内薫が逍遙の膝下に来たらずして鷗外に親しむ結果になったのは、まことに天の配剤の間違いだと言われたものである。小山内が逍遙の演劇刷新運動を助けたら、文芸協会は全く変った歴史を描いていたかもしれぬ。

 高等予科が大学の階梯になると、第二回生としては杉森孝次郎(旧姓白松、号南山、明三九大文)と片上伸(天弦、明三九大文)が入って来た。杉森は、初め千葉の医学専門学校に入り、たまたま進化論の講義を聞くに及び、「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と考えた。こうした際、大抵の学生なら、官立の高等学校を志望したに違いないが、彼は早稲田の哲学科を目指してきた。後に早稲田では例外的に文部省留学生に推挙され、外国に滞在中、The Principles of the Moral Empire, 1917の倫理書によって学名を英米の哲学界に轟かした。片上伸は、年齢を偽って中学に入ったほどの早熟児で、安倍能成より一歳年下で、しかも一年上級にいたほどの英才。大学を卒業して『早稲田文学』記者となり、漱石がかつて教えた松山の愛媛県尋常中学を卒業した縁から、訪問記者として門を叩くと、『吾輩は猫である』の作者は、「君は、どうして、一高へ入って大学へ来なかったんだ」と咎めるように言った。『猫』に出てくる新体詩人越智東風のモデルは片上だという噂が高かった。

 また第三回生中村将為(星湖、明四〇大文)のような場合もある。中学時代から青年雑誌投書家の雄として知られて、大町桂月などの属目を受け、第二次『早稲田文学』の募集した小説にその作『少年行』が長谷川二葉亭の選で第一等に当選して、在学中から文壇に一席を占めた。その早稲田入学の経緯を聞くと、東京で開業している伯父が、医者になるなら学費一切出してやるが、文学をやるのなら、家に置いて食わしてやっても、学費まで負担してやるわけにいかないと言う。しかし田舎の中学の校長の大島正健(これも当時の教育界の名士)が、君はやっぱり文学を志望すべきだと言う。そこで、

「好きな事をやるならば斃れても好い。」斯ういふ心で、僕は早稲田の文科に入る事に決めた。而して其頃はまだ妙な、田舎漢らしい虚栄心があつたものだから、どれ位、高等学校を踏んで、同じ文科でも帝大の文科に入りたかつたか知れない。けれども年限の長い事や、多分の学資がかかる事を思つて早稲田にした。

(「食客時代」 『文章世界』明治四十二年十月発行第四巻第一三号 九二―九三頁)

これは先の小山内薫が早稲田に心を寄せながら、試験が受かって一高・東大の道を選んだのとは真反対に、東大を最高としながら次善の早稲田を選んだわけである。

 中村星湖と同期に、石橋湛山(明四〇大文)がいる。早稲田の産んだ最初の総理大臣になった彼は、只なんということもなく早稲田に惹かれて、早稲田に入ったという。この「惹かれた」理由を説明していないが、実は強いて聞く必要もなく、何れにしても官学に目もくれなかったことは明らかである。哲学科を首席で出た彼は、島村抱月の注目を受け、その下に『早稲田文学』同人として世に台頭したのは、文芸もしくは文明批評家としてである。伝えられるところによると、東北に赴く汽車の中で、乗り合せの傍人の談片を耳にはさんで悟るところがあり、杉森が医学を捨てて哲学に志したのに反し、反対に哲学や文芸など空漠たることをやってはおられないと感じて、経済研究に転じ、別に師はなく、天性の稟賦で、自学自修し、やがて横浜正金銀行ロンドン支店長時代の加納久朗をして、「ケインズ経済学で石橋に太刀打ちできる研究者は、日本には一人もいない」と嘆称せしめたほどの蘊蓄を積むに至った。戦争の終末期、軍が、日本のあらゆる経済学者、実際の理財家の今までの言説はみなアテにできない、本当のことの聞ける最後の頼みは石橋だけだと言って「追いまわす」のを、「おれが本当のことを言ったら、すぐ憲兵隊に引っくくられる」と言って、逃げ回ったが、終戦後、学者好みの吉田茂内閣が成立すると、雑誌記者で全く野の人で政界には何の縁故もなかった彼を抜擢して一躍大蔵大臣に任じ、荒廃日本の復興を託した。尋常一様の人物ではない。

 大正初期の高等予科には、後年の教授柳田泉(大七大文)が入ってきた。後に明治文学の研究を学問に仕上げるに最大功績を立てた彼は、中学校長から仙台二高と蔵前高工の無試験入学の推薦を受けたものの、志望は早稲田の文科にあり、特に坪内逍遙を敬慕して、校長の歯ぎしりの無念を尻目に、自分の初志を貫徹した。

 以上、数例を拾って点描したようなのが、早稲田大学高等予科出身者の姿である。

 政府はこの早稲田大学設立の出願を受けてどうしたか。設立した当時の、大隈の私学校という観念を、この時に至るまで持ち続けていたら、無論、一も二もなく却下したであろう。大隈も成長し、早稲田も発展し、かつてのライヴァル伊藤博文も成長していた。この時政局は漸く一転の兆を示して、桂太郎が、山県有朋の援護によって、いわゆる少壮内閣を作り、ややもすると同じ長州閥の長老伊藤の意には副わぬものが多い。そこで伊藤は、それまで採っていた非政党主義を一擲して、政友会を作って総裁となり、山県・桂の官僚軍閥を制する機関としたというような経緯もあり、もともと性格的に他の何人に対するよりも、いわゆる「馬の合う」大隈・伊藤が旧交の縒りを戻す機運が生じた。後述するように、大学開校式の際、伊藤自ら駕を枉げて会場に臨み、大隈とその学苑に対する頌徳的演説を行ったのは、世の耳目を驚かせたが、しかし学苑の宣伝と、評判の立て直しには、これにまさるものはなかった。これは政府においても、早稲田大学を敵視し、もしくは冷遇できぬ情勢を作り、殊に桂内閣の文部大臣菊池大麓は、さすがに幼少においてイギリスに渡り、ケンブリッジ大学に数学を専攻し、連年首席を占め、日本人の学才のあなどるべからざるを初めて海外に示した秀才だから、区々たる藩閥的偏見など全く念頭にない。大隈には早くから好意を表し、東京専門学校開校式に出席し、その後理学科が廃止されたのを遺憾として、その一日もゆるがせにすべからざるを切言して、「大隈伯の声望を以てするにあらずんば、民間の理工科教育施設は作り難し」と言っていた人であり、折から中学の増設によってその卒業生は巷にあふれ、この収容策に頭を悩ましている際であったから、早稲田が門戸を拡げて、無差別に大量収容の道を開くという事態に直面して、当初その脳裡にあった形式主義に基づく反対を撤回するに至ったのは、必ずしも理解に苦しむことではない。

 なお、他所のことながら、ここに付記せざるを得ぬのは、我が早稲田大学発足の前年、日夕、顧望の中にある目白の丘の上に日本女子大学校が創設せられたことである。記述の繁に流るるを厭うて、試みに三宅雪嶺の『同時代史』を引用すれば、

〔明治三十四年四月二十日〕東京小石川区高田豊川町に日本女子大学校の開校式あり、女子教育を刺戟すること多し。校長成瀬仁蔵の創立にして、西園寺侯が発起人、大隈伯が創立委員長、渋沢男が創立委員兼会計監督として演説あり。敷地五千四百坪、三井及び其他より寄附多く、学科は英語、国文、家政の三科に分ち、入学者は高等女学校四百名、大学部百名なり。後ならば大学の名称が許可せられざるべきも、当時特別の制限なく、且つ要路者との関係多く、女子の大学が出来上れりとて、女学生憧憬の的となる。成瀬は教育家として卓越せざれど、人に説くこと熱心、寄附金を募るに妙を得、常に「此の学校は悉く寄附を以て成る」と明言せり。以前より学校への寄附ありしも、近来愈々盛んにして、大隈伯は早稲田大学の寄附に関係し、更に女子大学の寄附に関係し、早稲田側にて伯の女子大学に深入りするを憂ふ。 (第三巻 二四四頁)

とある。しかし成瀬は金ばかりでなく、教員の一部も、早稲田に「負んぶ」し、例えば浮田が西洋史を担当したり、坪内がシェイクスピアを講じたりした。高等予科を設けず、いきなり大学の教育を授ける組織だから、特に大学校として、卒業生も早稲田より一年早く出たわけだが、自ら学士と称えることは遠慮した。今は早稲田の若干教授が掛持ち講義をする外、殆ど縁がなくなったが、夙に明治三十五年、当時学生新聞と言われた『万朝報』に、

早稲田よいとこ目白を受けて

魔風恋風そよそよと

との俚謡の当選が発表され、数年後には婦女童幼まで歌うようになったので、大正の半ば頃までは同伴者か付随者のような形があり、颯爽とアンドン袴を蹴って大道を濶歩する姿を世間は紫袴将軍と称して、「敵は早稲田に在る乎、本郷に在る乎」(大町桂月)などと、とかく早稲田が連想せられるに至った。これ蓋し、早稲田大学の名が東京全都的或いは全日本的になった象徴として、必ずしも看過すべきではない。