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第四編 早稲田大学開校

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第六章 早稲田学士の出現

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一 早稲田ルネッサンス

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 言葉の濫用として咎められることがないなら、我が百年の歴史にルネッサンスと讃え得べきは、明治四十年以下の数年である。しかしダンテを数えてルネッサンスの輝ける先駆と言う如く、明治三十九年を早稲田ルネッサンスの第一年に数えねばならないであろう。

 げにこの明治三十九年は、国家的に言えば、日露戦争に大勝して、極東の島帝国がアジアの安定勢力として、世界一等国の列伍に入った年であった。

一躍ここに我が国は

一等国に列したり

かくも栄ゆる大御代に

生を享けたる国の民

 小学生の歌ったこの歌は、全国民の喜びと誇りの素直な反映に外ならなかった。おまけにこの年は六十年に一度の丙午だ。丙午生れは男女とも気が強く、夫は女房を食い殺し女房は夫を食い殺すという迷信で忌まれるのに、この年のみは新興の意気を負うて、却ってこれを見栄にし、勝の字をつければその厄難を免れると言って、男なら勝・勝男・勝一、女なら勝代・勝子・勝枝などという名の戸籍届出が夥しいのが一特長である。全国的に雪の多い年としても知られ、東京でも何十年ぶりかに樹氷が生じ、満街を水晶の花が彩った。大戦という任務を終って年末に挂冠した桂内閣に代って、正月早々、西園寺内閣が成立したのも、国民の気分一新に応ずるものだった。明治天皇は、幼時の学友が今や公卿として初めて首相の印綬を帯びたのを、殊の外に喜ばれたということが、巷にまで漏れ伝わったが、国民は別な理由により、西園寺が若き日十年のフランス遊学で、「当時仏蘭西で最も名声のあつた政治学者の一人」(白柳秀湖)であった、ルソーの系統の学説の大成者、アコラス(Emile Acollas)の政治哲学を身に体した自由思想家なる点に、薩長藩閥の専制的なのとは違った時代が開けるとして期待をかけた。

 我が学苑としては、前年、日露戦争中に大学部の第一回卒業生を出した。『早稲田学報』第一二一号(明治三十八年八月発行)によると、政治経済学科が八十九名。この中には大山郁夫永井柳太郎の二秀才が、鳳雛伏竜として早くから注目せられていた。法学科は四十一名、文学科が七十四名。後者の中では吉江喬松が孤雁の号で、国木田哲夫(独歩)の編集した雑誌『新古文林』に自然詩人として学生時代から名が聞え、小川未明は、学業成績は中位でも、いわば異色に富んだ浪漫派作家として、坪内雄蔵から「作られた新しき人にあらずして、生れたる新しき人なり」との折紙をつけて、前途を属目せられた。

 これら早稲田大学の第一回新卒業生の前途洋々として注目すべしの印象を世間に与えつつある矢先、年が明けて明治三十九年を迎えたので、その一月早々『早稲田文学』が再興したのは、一文学科の仕事でなく、全学苑の鬱勃たる隆興の気を代表すとも言うべき晴れの文化現象であった。

 第一次の『早稲田文学』が十九世紀終末七年間に果した役割があまりにも大きかったため、世は再興を促すことしきりで、大早稲田があのくらいな雑誌の再興ができぬのは恥辱だというような呼び声さえあった。学苑関係者の間でも、中島茂一(孤島、明三二文学部)や薄田貞敬(斬雲、明三二文学科選科)などの中堅文士が、師坪内逍遙にそれを迫ったが、逍遙は、島村抱月が洋行中なので、あれが帰ってくるまで待てと言って、たやすく立つ気配がない。

 たまたま日露戦争が起ったので、逍遙は倫理研究への没頭から翻然として醒めたように、この千載一遇の大勝利で国運一新の際、文学芸術の士もそれに応ずる覚悟がなくてはならぬと叫んで、この際創成すべきは、西洋のオペラの如く、文芸・絵画・舞踊・音楽を打って一丸とした総合芸術であるとして、先ず理論として「新楽劇論」を唱え、その第一試作「新曲浦島」を発表した。毀誉褒貶というより、文壇・学界こぞっての絶讃で、上田敏は、その中の和楽の指定は到底実現の困難なるを指摘しながら、しかも「かくの如き名作の作家と時代を同じうして生れたるは光栄である」とまで言ったので、果然、戦勝に伴う文化創造の第一歓声は早稲田に挙がったと言ってよい。「鉢かつぎ姫」「金毛狐」などの諸作が後を追うて続々と生れた。

 これに応じ、『早稲田文学』再興の声が、逍遙をめぐる早稲田文士のみでなく、全国一般の文学青年の問にまで起った一例として、『中学世界』(明治三十八年十二月発行第八巻第一六号)の投書文芸で一等に当選した、梅山英夫の「至嘱五則」を見よ。

曾て『早稲田文学』あり『文学界』あり『しがらみ草紙』ありたる時代は、実に文壇の壮観、前古その比を見ざるものありき。かの三者相前後して倒るるや、世はいたづらに片々たる小談論に富むの文壇となり、引いて今日猶ほ評論壇、亦何等刮目すべき事なきに非ずや。聞く近く『早稲田文学』再興せられ、鷗外先生帰朝早々『しがらみ草紙』復活の挙あらんとすと。文学界の諸子や、四散して恐らくは早く収合するに便ならざらんも、此の機運を利して、亦捲土重来の意気を興すの要なからず。遮莫、逍遙氏の抱月・〔綱島〕梁川等をたづさへて、新装の活劇を演ずる遠きに非ざるべく、鷗外先生の之れと旗鼓相当らんとする亦近きにあらんとす。明治二十七、八年の文壇の壮観は再現せられんとす。 (一五三頁)

この地方青年の「至嘱」の叫びは、世の芸術を愛し文化を重んずる同好者の等しく思うところであったろう。

 島村滝太郎が三年半の留学から帰国したのは、ポーツマスで講和条約が結ばれた直後の明治三十八年九月である。普通なら新聞記事は、文士の動静を文学欄で報じても、社会面で取り扱うことはないのに、島村の帰国のみは社会面が取り扱ったのからして異常だったと、当時の『読売新聞』の記者正宗忠夫(白鳥)が思い出を述べている。この第二次『早稲田文学』の創刊号(明治三十九年一月発行)は再刊の辞に言う。

去年、秋、同人等相寄りて此の事を議するや、或る者はおもへらく、『早稲田文学』は已に一の古典たり、我等また其の名を汚すに忍びずと。されど吾人はまた、世間の或る部分と共に、『早稲田文学』の再生といふことに対しては、一種の伝奇的なる情懐を有す。逝ける友と、懐しくも夢に相逢うて、想ひ訝かるが如き感味あるなり。吾人は此の感情を無視するに忍びず。前身の『早稲田文学』は、之れをして永く古典の泉たらしめよ。後身の『早稲田文学』は、源を彼処に汲んで、自由の潮と流れ漲るを妨げざるべし。此に於てか、同人等、此の議を逍遙氏の裁決に委す。氏、快諾、みづから社務を督するの煩ひだに無くば、『早稲田文学』の再生は我が願ふ所なりと。本誌再興の案すなはち成れり。 (二―三頁)

再興の事情はこれで分明で、新主宰者島村抱月の情理を尽す態度はこの中にも見られる。

 新生『早稲田文学』は抱月の「囚はれたる文芸」を巻頭に置く。菊版にして四十五頁。雑誌論文としては類なき長編で、抱月滞欧中の蘊蓄の一端を披瀝するとともに、今後の文壇を身を以て指導せんとする意気込みを示したのである。

 四年前、抱月の留学壮行会を全文壇こぞって芝の紅葉館に開くや、自ら「願わくば三千年ヨーロッパ文化の底流をなすものを摑み来たらん」と抱負を述べた。これは、それに応える意気込みで、ヨーロッパ文芸の歴史を述べたものだとの評があったが、単なる文学史なら幾らも前からあった。これは思潮史として大観し、把握したので、前人未到の境地の開拓に掛かろうとする意気込みが窺える。それは未だ整備が足りないが、その後、丁酉倫理講演会に招かれて述べた「文明思潮を描ける文学」(この講演を聞いて、学界の大御所を以て任じた井上哲次郎は、彼の文学博士推薦を決めたと言われる)から、その後数年間、大学に講じた「欧州文芸思潮史」で漸く円熟し、斯学を独立せしめた功は、抱月に帰せられる。彼はヨーロッパの文学を通観し、科学(ゾラをはじめ、フランス自然主義)と宗教(例えばトルストイの芸術論)に囚われたとなし、それからの解放を叫んで、その後に来たる象徴主義・神秘主義を「解放せられたる文芸」として続論する構成を示したが、日本の文壇は、日露戦争の鉄火碧血の洗礼を受けて、漸く自然主義(すなわち科学的文芸)の段階に到達した状態だった。殊に抱月自身の身辺の後輩長谷川天渓や、門下の正宗白鳥片上天弦相馬御風その他、滔々として自然主義に趨るので、すなわち、やや後戻りして、部下援護のため、自然主義の論陣を張った。当時、哲学者等は、多く自然主義の理論皆無ないしは薄弱を剔抉して剰さぬところへ、島村抱月の「文芸上の自然主義」(明治四十一年一月)、「自然主義の価値」(同年五月)の二論文が出でて、鉄案を下し、自然主義の勝負はここで決着したと言ってよい。実地で論戦を重ねたのは田山花袋、岩野泡鳴、長谷川天渓、或いは生田長江などであったが、塁上に国旗を掲げて勝利を告げたのが抱月だったと言える。ここにおいて文壇はほぼ早稲田の天下に帰し、誇りの高い森鷗外でさえ、『中央公論』第二七年第四号(明治四十五年四月発行)の「坪内逍遙論」に寄せた一文で、「今の文芸の評価も大抵坪内君の子分の手で極まると云つても好からう」(『鷗外全集』第二六巻四三二頁)と言っている。

 文壇に自然主義の勃興したのと表裏して、学界に広く根強く浸潤したのが「プラグマティズム」である。「実際主義」と訳して紹介せられた通り、リアルを基調とすることで、自然主義と相通ずる。プラグマティズムは明治三十年代初頭からぼつぼつ紹介せられ始めたが、日露戦争の思想界に対する刺戟とともに、急に全日本的主張となったのは、あたかも自然主義が日露戦争前から片隅において小杉天外・田山花袋などにより唱えられていたのが、日露戦争を経て急に文壇の主勢力を占めたのと、相一致している。そして奇しくも、いな当然の帰結として、早稲田において二潮流が合一して、渦巻きとなり、竜巻きを揚げた。そこへ社会主義が交わり、三巴になって我が思想界を横流したので、もしオックスフォード・ムーヴメントの称に倣えば、宗教と近代思想の違いはあれ、学苑を揺曳せしめた雰囲気の総称として、これを早稲田ムーヴメントと称するも差支えあるまい。

二 文学科の早稲田

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 『早稲田文学』は再刊とともに、付帯事業として文芸協会の組織を発表した。

 抽象的な会則としては「我が文学、美術、演芸の改善進歩及び其の普及」を計るというのだが、実際の仕事として

挙げたところを見ると、一、雑誌(『早稲田文学』)発行、二、文芸講演、三、演芸刷新(これが後に坪内逍遙の仕事となる)、四、旧演芸研究、五、社交機関としての俱楽部の設立、六、芸術館の建設、七、演芸学校の建設、八、文芸保護案の立案、という膨大な計画である。会頭は大隈重信、発起人は主として早稲田の関係者二十七名、このうち五名が幹事を兼ね、更に各事業部主任者十四名(うち、能楽研究主任の池内信嘉が異派と言える)、賛助員二十九名の中には、文学者以外に徳富蘇峰や加藤高明も加わっている。加藤は、逍遙と名古屋就学時代の友人という関係で、加わったのであろう。賛助員は月々増やすとともに、政治家をも網羅していこうとする意図を示すものである。伊藤博文の名こそ見えないが、その股肱の一人金子堅太郎は間もなく参加した。

 こういう大仕掛の文化組織は、えてして看板倒れに終って、実績を残すこと乏しい例が多いのに、文芸協会は着々と実行の緒についているのが異数である。この年(明治三十九年)十一月十日、歌舞伎座に先ず演芸部大会を開き、史劇「桐一葉」の片桐邸奥書院の場・長良堤訣別の場と、洋劇「ヴェニスの商人」の法廷の場とを演じて好評、逍遙の新作楽劇「常闇」は見物の馴れぬためもあったが不評。入場者は二千人を超えて、学者の片手間仕事とは言えぬ盛況であった。文芸協会はその後も時に応じて公演をしており、夏目漱石の小説『三四郎』にはその情景が描かれていて、「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行つて頂戴つて」という一句のある例を見ると、作者が漱石で、その小説の連載される舞台が『朝日新聞』だから、文芸協会というものが既に相当の社会的興味を持たれるまでに拡大していたことが分る。この小説で与次郎は切符を売りつけるに忙しく、中には金も取らないのもある。そんなルーズなことをして大丈夫かと三四郎が念をおすと、「相手は東京帝国大学学生だよ」と言いながら、几帳面に僅かしか売らないより、だらしなくたくさん売る方が大体の上において利益だと言い、「なに善意に払はないのは、文芸協会の方でも八釜敷は云はない筈だ。何うせ幾何切符が売れたつて、とどの詰りは協会の借金になる事は明かだから」と言う(『漱石全集』第四巻二六四―二六五頁)。協会には諸方から相当な寄附が集まり、各界諸名士の入会金も入っていることが、『早稲田文学』の毎月の報告で分る。

 言うまでもなく、文芸協会の仕事は早稲田大学と直接の関係はない。が、決して無関係とは言ってしまえず、何れにしても、その醸し出した高雅な文化的雰囲気は早稲田大学に光被して、その存在を天下に向って大にするに大きな貢献があった。この頃の早稲田大学は、まさに文学科の早稲田だった。

三 渡米野球で入学者激増

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 この三十九年春、学生募集にかかると、学校当局を喜ばせる異変が生じた。申込みが殺到するのである。戦争中は不景気で応募者数が減少し、何れは元に戻る当てはあったが、戦勝景気の半面は極度な経済不況が続くのが通例だという見通しが破られたのである。早稲田大学は中学卒業生には無試験開放を宣言したので、今まで学問を志しながら官学の狭き門に苦しんだ学生が一時に集まり、戦前に学界の評判となった。それまでに回復するには、戦後景気の立直りを待つとして、少くとも数年を要すると踏んでいたところ、三十九年の春の募集を締め切ると、入学者数は早くも復旧への趨勢を見せたのである。左に高等予科第一期在学生数(各年七月現在)を掲げよう。

明治三十四年 四四九名 明治三十五年 八一三名 明治三十六年 一、五六八名

明治三十七年 一、二七〇名 明治三十八年 一、二九四名 明治三十九年 一、三二六名

 彼らの入学後、何故早稲田を志望したのか、その理由を尋ねてみると、さまざま挙げたが、底辺で共通するのは、昨年、国際試合の先鞭をつけてアメリカに野球団を送り、そして今や天下の血を沸かす早慶戦の勝利者だということが、彼らの純真でまだ幼稚な青雲の気に訴えるものの多いためであることが分った。言い換えれば、野球が学校宣伝に有力な媒体となることがここで初めて認識せられた。

 日本では、庭球は、正課としてリーランドから手ほどきを受けた東京高等師範の卒業生が赴任先々の中学に軟式を拡めて全国に普及させた、いわば官製スポーツなるに反し、野球は一高、早・慶、六大学の順で盛り立てた、文部省から見れば継子なので、あらゆる防遏手段を加え、戦時中は軍と組んで撲滅・中絶を企てた。しかし圧力を加えるたびに反発して、いよいよ盛大に蔓延していく。ヨーロッパ人は、恐らくこれがアメリカ発生のスポーツなるため、これを好まず、盛んに行われるのは日・米を筆頭として、主としてその交流の盛んな中・南米から東南アジアに限られるが、我が国民性には著しく適合するところがある。そしてこれを相撲と並び国民的競技にまで昇華させたのは、政府も教育界もその功に与らず、ひとえに学生の努力による。そのうち早・慶の貢献は最も著大で、早慶野球戦を、オックスフォード対ケンブリッジのボート・レース、ハーヴァード対エールのアメリカン・フットボール試合と並べて、世界の三大大学対抗競技と称する者さえあるのは、よく知られたところだ。

四 異彩の卒業生

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 大学部政治経済学科の第二回卒業生である経済専攻の桑島主計が外交官試験に及第して、後に大使となったのは、早稲田としては東京専門学校時代の埴原正直、専門学校と大学の交替期の林久治郎に次ぐ快挙である。第五回の異材は政治専攻の中野正剛で、朝日新聞記者から代議士となり、名声は先輩永井柳太郎に並ぶものがあった。孤身、東条英機の憲兵政治を糾弾して剰さず、遂にオールマイティの軍の圧力の前に力屈して、戦争中美事に割腹したのは、東条が武人でありながら敗戦後ピストル自殺を図って果さなかった不様と対照される。

 文学科はまさに黄金時代に入り、第二回は関与三郎・杉森孝次郎片上伸の三秀才が首席から順次に占め、野尻正英(抱影)・相馬昌治(御風)・会津八一村岡典嗣・橋戸信(頑鉄)など、多士済々。第三回の哲学専攻の首席石橋湛山は本学出身最初の総理大臣、社会主義者白柳武司(秀湖)も同期である。文学専攻には中村将為(星湖)がいる。第四回は哲学科に北昤吉

 商科も政経・法・文に遅るること三年、四十年に第一回生を出した中に伊地知純正が英語を以て最も名高く、第二回の首席浅川栄次郎は、卒業後直ちに抜擢を被って海外に留学し、ドイツに研究を積んだ後、ベルギーに学んでアンヴェルス商科大学に入り、我が商科をいよいよアンヴェルス学風に色揚げしたのは、既述の如くである。同期の外交部首席に宮島綱男がおり、久しく古巣の商科教壇に立って重きをなしたが、大正六年の学苑騒動で去って、関西大学を大成するに力を尽した。第三回の首席原安三郎は財界の目覚しき成功者。由来、政治経済学科・文学科を以て天下に聞えた早稲田出身者は財界とはまことに縁薄く、その点は慶応・高商の後塵を拝して、本学苑は校友から資金集めをすることの難きを嘆いたものだった。たまたま成功者があれば、明治二十六年邦語政治科卒の増田義一の実業之日本社の如く、ジャーナリズムの上である。しかし商科を設けると、俄然、原安三郎の如き異才の台頭があり、早稲田出身者中、財界第一級の巨頭たる先鞭をつけ、爾後その後継者を絶たず、今や財界にあっても早稲田勢力は牢固として抜き難き強固なるものとなったのは、商科の功が多い。

五 学位令

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 ここに問題となるのは、こうして続々と出現してくる秀才・凡庸生を皆等しなみに引っくるめて、学士号を名告るかどうかということである。

 これより先、明治三十六年に、大町桂月は「人爵なる哉」と題する一文で言う。

人爵なる哉、肩書なる哉、稲荷大明神も、正一位の肩書なくば、難有からず。小学教員にも位を授けよと呼ぶ者あり。高等文官試験に及第したる者も学士と称するを得せしめよと唱ふる者あり。高等商業学校は、未だ大学となるを得ざれども、其卒業生は商業学士と称するを得るに至れり。商業にてはやや長し。他の医工農にならひて商学士ならば、尚更妙ならむ。とにかくに大学以外の学士は、これがはじめ也。やがて高等師範学校卒業生も、師範学士とか何とか称するを得るに至るべし。海陸大学の卒業生も亦軍学士、もしくは軍学博士と称するに至るべき乎。而して特典は私立学校にも及ぼして、早稲田大学、女子大学の卒業生も学士とならむことを請求するに至るべし。 (『筆のしづく』 一三七―一三八頁)

日本女子大学校は高等予科のないため、早稲田より一年先に卒業生を出したが、自らその資格なしとあきらめたか、学士とは名告らなかった。早稲田大学の場合は高等予科がある。ただし一年半で、官立の高等学校の半ばにしか及ばない。現に文部省は大学の名称を許可しても、内実は専門学校としか認めていない。これを学士と呼んで差支えないかどうか。

 肩書は必ずしも拘泥するに及ばず、芦原将軍と名告れる狂人があり、また吉岡将軍というのは早稲田の応援団長に世間がつけた名称である。しかし新聞・雑誌記事になる頻度となると、この二人は名の聞えぬ陸海軍の大将より遙かに多かった。山崎今朝弥という弁護士は、自ら「ベースメント・ユニバーシティ卒業(そんな大学は勿論ある筈なく、渡米時代、地下室の皿洗いの労働に従事して学資稼ぎをしたから、こういうのである)、米国伯爵・亜米利加法学博士・独乙哲学博士・仏蘭西理学博士・英国医学博士・その他いろいろ」と刷った名刺を使用し、自己の雑誌でも仰々しく書き立て、かくして世の学位亡者を嘲罵して痛快を極めた。かと思えば京都大学の紀要では、発表論文に、内藤虎次郎(湖南)は文学博士とだけあり、浜田耕作は文学博士の傍らに文学士と併記してある。京都大学側の弁明を聞くと、一方は大学を卒業していないから只の文学博士、他方は大学を出ているから文学博士・文学士と併記して、区別したのだそうである。それほど学士というのには捨て切れない執着、または魅力、或いは誇りがある。

 ここで学位令を振返ってみると、先ず明治十二年六月に文部省と大学と協議の上で、その年の東京大学の法・理・文三学部の卒業生二十四名および十年と十一年に遡ってその卒業生も加え、合計五十名に日本で初めての学士号を与え、同年、別に医学部も三十七名を学士とした。この頃の学士はすなわち学位であるから価値高く、現に坪内逍遙の処女作『当世書生気質』は「文学士春のやおぼろ先生戯著」の名儀で出て、学士の威重は参議・大臣を凌ぎもしなかったろうが、ある点で決してそれ以下でもなく、小説の社会的地位は、学士がそれを書いたということで、いっぺんに九天の上に揚ったと称された。

 しかし、明治二十年「学位令」が交付され、学位は博士と大博士(大博士は遂に実施されず)との二種に限ることになり、同年七月の追加規則に、大学の卒業生は各専攻の科目を冠して学士と称することを得、としてはあっても、学位たる地位は失ったのである。

 しかし惰性で、学士の肩書はものを言い、高山樗牛や大町桂月が世に出る時は、その発表する文にも著書にも必ず文学士と冠し、それが世に重きをなした。明治三十一年より四十二年にかけて刊行された博文館の『帝国百科全書』(全二百巻)は、各科の学士を広く動員し、学士の肩書のない者は一切除外された。同期の大学出でも、田岡嶺雲は選科出で、学士の称号を用いることを許されず、「やっぱり大学本科出でなくてはダメだよ」と、あの快男児をして溜息をつかせた。日露戦争とともに夏目漱石が小説を書き出すと、世は学士および大学講師という肩書に敬意を払い、彼の世に出るのに大きな助けとなっていると指摘した。しかし画家中村不折が、これら多くの人の著書の装丁をするのに、「学士の肩書で、実績以上に売り込もうとする心根が見えて浅ましい」と言って、学士号の使用を嘲ったのが、世の注目を惹いた。早稲田大学が最初の卒業生を出したのは、たまたま、こういう時勢で、学士の肩書はまだ世間一般の目には重んぜられていた。しかし識者の目には、学士号の価値が軽減し崩壊しつつある時だったのだ。

六 初期早稲田学士の評判

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 早稲田大学が明治三十八年七月、最初の卒業生を世に送り出すに当り、七〇頁に既述の如く、学監の高田早苗は、学苑大学部卒業生に学士号を与え、帝国大学での法学士・文学士・理学士等の呼称と区別するために早稲田大学という名を冠し、これによって卒業生の将来の活躍を期待するとの贐の演説を行って、以上の曖昧な点をはっきりさせた。これで見ると、学士の肩書にいささかでもこだわるのは、自由平等を旗幟とする早稲田の建学方針から逸脱するかの疑がないわけではないが、評議の結果学士と名告ることにしたのは、それがまだ幾らか世間に重きをなしていて、生活に便益を受くることがあると信じたからであろう。しかし、例えば大阪医科大学の如く「大阪医学士とす」と卒業証書に明記はしていない。医師と違って、学士の肩書の世間に対して効用の乏しいのを知っていたためというより、やはり早稲田の進歩学風で、そうするには気がさしたのだと思われる。

 この早稲田学士の肩書を早速つけたのは、早稲田の諸講義録の執筆者である。東大にもない政学士の大山郁夫永井柳太郎や、また東大と同じ文学士の杉森孝次郎片上伸が、博士・学士、或いはマスター・オヴ・アーツとかドクトル・デル・フィロゾフィーのいかめしい肩書の諸学者に伍して、早稲田学士の称号をつけられて名前が並んでいる。思うに、地方青年に向っては、肩書のブランクより、これのあった方が、幾らか権威をもって見られたかもしれぬ。

 地方中学でも同じことで、例えば矢野禾積(峰人、元東京都立大学総長・詩人・英文学者)の思い出によると、彼は郷里の岡山県立津山中学校の三年になった時、今度来る国語教師は「いわゆる早稲田文学士」だそうだという噂が流れるのに耳を留めた。同校でも、校長は代々文学士、教師は高等師範出や中学教員の検定合格者が肩を並べているところへ、初めての早稲田学士というのは、若干、清新の響きを与えたから、思い出にも書き留めているのだろう(『思旧帖』一五〇―一五一頁)。その名は松山秀美(白洋、明三九高師)といい、初期『早稲田文学』に作品を発表した青年詩人で、果然その影響は矢野峰人や片岡鉄兵、その他名をなさないで埋もれていった幾人かの詩作者を輩出させ、あの古城趾の街の津山を時ならぬ小詩都とした。早稲田学士の果したこのような例は、全国に他にも幾つかあるだろう。

 教育方面を除いては、文壇にこの肩書の用いられている例を見ると、日本最初の「文士録」は『文学世界』の春の増刊「文と詩」(明治四十年四月発行)に現れ、全体で二百三十二人の名が挙がっている中に、西村酔夢小川未明片上天弦吉江孤雁・高須梅渓・窪田空穂の六人が「早稲田大学文学士」、水野葉舟が「早稲田大学政学士」の肩書をつけられている。この他当然挙ぐべきながら調査が行き届かなかったとして、十四人の名が並べられている中に見ゆる、人見東明と北原白秋とは、早稲田に在学したことがある。この雑誌はその後、毎春の増刊に必ず文士録をつけて、明治四十五年まで六回繰り返し、最後の時は早稲田文学士三十九人、早稲田政学士一人、計四十人に及んでいる。一般世間で、これほど早稲田学士の名が多く並んで、盛観をなしたのは、他に例がない。

 察するに、この編集者前田晁(木城)は三十七年の卒業で、その時は既に早稲田大学と校名は変っていたが、高等予科を終った大学の第一回生が出るより一年前の卒業なので、すれすれのところで早稲田文学士ではない。同じく早稲田大学になってからの卒業でも、そういう過渡期の、早稲田学士を名告れない文士も幾人かいる。それでその差別を明示したのであろうか。

 しかし彼らは皆、気がさすのか、自分で早稲田学士の称号を名告ったり名刺に刷ったりしたことなく、唯一度、高須芳次郎(梅渓)がロングフェローの『エヴァンジェリン』を訳した『乙女の操』という書に序文を書いた時、早稲田文学士の肩書を名前の上に載せた例がある以外、他には見たことがない。

 それに、夏目漱石のように博士号をさえ辞退する者が出てきて、学士の価値は急速に軽減し、遂には本家本元の帝国大学の卒業生でさえ、学士を名告る傾向は年々に薄れた。早稲田では、勿論、その時期になると、これを用いる人は悉皆なくなっていた。早稲田学士という名称は世から一切消滅し、或いは払拭せられた。