Top > 第二巻 > 第四編 第十七章

第四編 早稲田大学開校

ページ画像

第十七章 いわゆる「大学教育普及事業」の発達

ページ画像

一 大学改称後の講義録と巡回講話

ページ画像

 ユニヴァーシティー・エクステンション、それは学苑の当局者として高田早苗が多年に亘り倦むことなく情熱を傾け続けた問題であり、学苑が、そして高田自身が、我が国におけるその先駆者であることをひそかに誇りとしていたことには疑いを容れる余地がない。今日この語は「大学拡張」として定着しているが、家永豊吉が我が国に紹介した際には、本書第一巻八三一頁に見られるように、「大学教育普及」と言い、その後学苑の公式出版物には、明治三十六年には「大学拡張」と、更に明治四十年には「大学拡張事業」と、また大正二年には「大学教育普及事業」と訳出されていて、必ずしも訳語は一定していない。高田は、種々な機会に原語をそのまま使用し、或いはまた「校外教育」という語をその同義語として口にしている。

 既に前巻に説述したように、校外教育の構想は小野梓にまで遡ることができるが、学苑の校外教育が具体化した第一歩は、明治十九年の政学講義会発行の講義録であり、更に二十年代には巡回講話がこれに加わったのであった。巡回講話と講義録とが、大学と改称後も校外教育の二本の柱と考えられていたことは、明治四十年の『廿五年紀念早稲田大学創業録』の左の記事によっても明らかである。

この両者は、一は口舌により他は筆記印刷によるの差ありと雖も、その目的とする所は、ともに大学教育の普及にありて、かの欧米に所謂大学拡張事業と正しくその揆を一にするものなり。即ち巡回講話は、時を定めずして之れを行ひ、毎年数回本校講師三、四名を一組として全国各地方を巡講せしむる仕組にて、学科は勿論各種専門に渉ると雖も、孰づれも皆な通俗を主とし、用語の平易なるを択び、例証の卑近なるを採り、参聴は常に無料なるを例とす。又た講義録の発刊は、遠僻の地にありて学に志す者、若くは業務あるが為め余暇を以て学を修めんとする者の為めに、特にその指南車を供せんとするものにて、各講師の講義に関する用意も、亦た勉めて解し易きを期するにあり。而して是等講義録の学科は、大体学校の正科に於けるものと同じく、目下政治経済科講義、法律科講義、文学科講義、早稲田商業講義、早稲田中学講義、の五種を発刊し、是等講義録によりて所要の学科を学習する者、即ち称して校外生となす者、現に約五万人あり。又た明治三十九年より漢訳政法理財科講義録を発行し、以て清国に於ける篤志者の便益を計りたれば、この種の校外生亦た将さに数千名に上ぼらんとするに至りたり。尚ほ校外生の為めに今年新たに夏期講習会を開催し、過ぐる七月十一日より同二十日まで十日間本校大講堂に於いて社会学、法律学、経済学、文学、生物学等に関して講師諸氏の講演を請ひ、参聴者頗ぶる多かりき。 (一六七―一六八頁)

 さて、学苑が初めて講義録を発行して通信教授の道を開いたのは、前巻に既述(六〇五頁以降および八四五頁以降)した如く、明治十九年五月で、形式的には、政学講義会という横田敬太の個人的事業として発足したが、翌年よりは東京専門学校出版局を発行所とし、『政学部講義』と『法学部講義』の二種が刊行され、更に二十一年からは『東京専門学校講義録』と名称を改めて、政治科、司法科、行政科の三種類に増加した。講義録が学苑の直営に移管されたのは二十四年で、二十八年には文学科、三十四年には史学科の講義録がこれに加わった。このようにして、早稲田大学と改称した時点においては、政治経済科、法律科、行政科、文学教育科、史学科の五種類の『早稲田大学講義録』が毎月二回ずつ早稲田大学出版部より発行され、二年間で校外生課程を終了させる組織により、地方における向学の士を大いに啓発していたのであった。また三十五年五月からは、「一、専門大家の確実・多趣味なる講話により、穏当・確実なる倫理・知識を与へて、品性を高め、高雅なる嗜好を養ふこと、二、確実なる科学知識を与ふること、三、各科の講話すべて毎号読み切りとし、十五ケ月にして各科全体を講じ終ふること」(「早稲田大学講義録之栞」『早稲田学報』明治三十五年九月発行臨時増刊第七三号一九頁)を主旨とする『中等教育』が発行され、後の『早稲田中学講義』の先駆をなしているが、後者の創刊以前に既に姿を消している。

 『早稲田大学講義録』に関しては、明治三十六年十月からは、史学科が歴史地理科と改められ、また三十九年十月からは、恐らく後述(五一二頁以降)する経営の困難を打開する合理化策と思惟されるが、政治経済科、法律科、文学科の三種類に整理された。なお同時に、永続はしなかったが、「清国人をして高等専門の学科に関する所謂新学を修めしめんが為に」、「漢訳講義録発行の端緒」(「明治四十年度早稲田大学講義録之栞」『早稲田学報』明治三十九年九月発行臨時増刊第一三九号三頁)と自認する漢訳『早稲田大学政法理財科講義』も刊行されている。

 他方、経営の困難は必ずしも通信教育を萎靡させたとのみは言うことができず、実業教育、中等普通教育および成人教育の面への活発な進出がこの時期に断行されているのが注目されねばならない。すなわち、『早稲田商業講義』、『早稲田中学講義』、そして経営上の憂いが解消した後ではあるが、『高等国民教育』の発刊がそれである。

 『早稲田商業講義』の創刊は明治三十八年三月で、時あたかも早稲田実業学校創立四周年に相当する。「商業全盛時代」と言われた当時ほど、商業に対する最新の学術と商業道徳とを必要とする時代はないので、現に商業に従事する者に普通の商業教育を授けるのを目的としたというのが発行の要旨である。すなわち、「其の程度は、普通の甲種商業学校より高等商業学校、尚ほ進んでは商科大学に至り、恰も是等の学校に於て教授する所の中より、最も重要なる部分だけを抜萃したるものに等しい観がある」(『早稲田大学講義録之栞』明治四十四年三月発行二四頁)とは、創刊数年後において自画自讃するところである。創刊当初における学科配当および担当講師は左表の通りであった。

第二十四表 『早稲田商業講義』学課表(明治三十八年三月)

(「早稲田商業講義之栞」 『早稲田学報』明治三十八年二月発行臨時増刊第一一四号 四―五頁)

 『早稲田中学講義』の発刊は三十九年四月で、奇しくも早稲田中学校創立満十年に相当する。当時、年々小学校を卒業した青年が非常な勢いで社会に送り出されているにも拘らず、中学校の設備が不足している上に、種々な境遇に妨げられて小学校以上の教育を受けられず、向学心を抱きながらもその目的を達することができない者が激増する有様であった。こうした欠を補うため、我が学苑は先に中学校を設立したが、この大勢を補足するには九牛の一毛にも過ぎず、しかも地方の青少年の要望を満たすべくもなかったので、ここに通信教授により中等普通教育の徹底を期することにした。本講義録の特長は、もとより中学校教授細目に準じ、大学教授ならびに専門教育家が各学科の講義を担当したばかりでなく、実際社会において必要な学問芸術を加味するのは勿論のこと、新学説の紹介や時事の研究に関する項目をも加えた点にあった。そして第二十五表の学課表に示されている学科の配当は、中学校卒業程度の学力を二年間で修得せしめるように配慮されている。

 なお、従来大学講義録によって通信教授を受けている、いわゆる校外生は、各地方別に同攻者が集まり、または通信によって友情を温める方法を講じていたが、これを中学講義録学習者にまで及ぼし、出版部を本部とし、各地の同攻会を支部として、校外生の便宜を計ることにした。

第二十五表 『早稲田中学講義』学課表(明治三十九年九月)

(「明治四十年度早稲田大学講義録之栞」 『早稲田学報』明治三十九年九月発行臨時増刊第一三九号 二五頁)

 『高等国民教育』講義録の発刊は四十一年四月のことであるが、本講義録は、既往の大学各科の講義録および中学講義・商業講義と趣を異にしている。すなわち、従来の講義録で等閑視されていた感のある模範的国民、常識ある紳士の育成を目標としている。いわゆる人物養成、すなわち高等国民教育とは、主として立憲思想の涵養と文芸趣味の育成に努めることで、要するに国民として社会人として、いかなる階級の人もいかなる職業の人も、ぜひ身につけておかなければならない教養を修得することである。この理念は、大隈が年来抱いていたもので、また彼が情熱をかけて唱導したものであり、今にして彼の後継者によって提唱され、且つ講義録の体裁で具体化されたのであった。これは次の学課表によっても明らかであろう。

第二十六表 『高等国民教育』学課表(明治四十二年三月)

(『早稲田大学講義録之栞』明治四十二年三月 三〇―三一頁)

 この『高等国民教育』は、他の大学三科の講義ならびに中学および商業の講義が二年を以て完結するのに対し、一年完結の案により発足したが、巷間必ずしも大隈の熱意を十分に理解することなく、従って大きな需要を生むには至らなかったので、きわめて短命に終り、明治末にあっては、学苑の講義録は、毎年十月開講、修業年限何れも一ヵ年半に短縮された『政治経済科講義』『法律科講義』『文学科講義』に、毎年四月開講の、修業年限二ヵ年の『早稲田中学講義』と、これまた一ヵ年半に短縮された『早稲田商業講義』との五種類のみであった。そしてこれらの講義録について、当事者は、

多年斯業に従事して幾多の経験を積み幾多の工夫を凝らしたる結果、各種の講義録に掲載する講義の内容は、何れも平易・懇切殆んど理想的のものと為り、講修者をして常に講義担当の諸名家に親炙して教を受くるの感有らしむるは勿論、本部は、又た此等講修者の為めに、毎年夏期講習会を本大学大講堂に開催して其の無料参聴を許るし、尚ほ其の他に於ても、学問研究上の便宜を与ふるもの尠少ならざるが故、此等講修者即ち称して校外生と為す者は、比年其の数を増加し、目下実に十万に垂んとしつつある也。 (『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 二五二頁)

と、満々たる自信を表明しているのである。

 なお右の引用文中に見られる夏期講習会は、三十九年九月改正の校外生規則第十六条に「校外生ノ為ニ夏期講習会ヲ開キ研究ノ便宜ヲ与フ」(「明治四十年度早稲田大学講義録之栞」『早稲田学報』臨時増刊第一三九号一七頁)と定められたことによるもので、四十三年まで出版部主催で実施されたが、既に左の如くその第一回が四十年七月に開催されている。

本大学出版部に於ては、校外生規則の所定に基き、七月十一日より同二十一日まで、毎月午前七時より正午迄夏期講習大会を大講堂に開きたるが、来聴者五百余名の多きに達せり。今其講習科目及講師を記さんに、

の六氏にして、尚総長大隈伯爵、学長法学博士高田早苗、法学博士和田垣謙三、法学博士中村進午、農学士志賀重昻の諸氏、別に科外講演を担任せられ、各々有益なる問題に就て、平易に講明せられたれば、聴講生をして多大の趣味と実益とを感得せしめ、予期以上の成功を見ることを得たり。因に地方上京者約百名は、之を本大学寄宿舎に収容し、時々茶話会等を催し、旅情の慰藉に勉めたりと云ふ。 (『早稲田学報』明治四十年八月発行第一五〇号 三七頁)

 他方、校外教育のもう一本の柱であった巡回講話については、大学昇格後数年間、見るべき活動が殆ど『早稲田学報』に記録されていないが、漸く三十九年七月下旬には、有賀長雄大石熊吉田中唯一郎の三名が、後半参加の坂本三郎とともに、鶴岡、酒田、村上、新発田、新潟等で、山形・新潟両県校友会主催の講演会に臨み、何れも多数の聴衆を魅了して、巡回講話復興の布石を行っている。次いで翌四十年七月には、新学長高田が、内ヶ崎作三郎青柳篤恒両講師、ならびに南清から帰国した校友伊東知也(明二九法律科、『日本及日本人』記者)を帯同して、二週間に近く、東北三県の校友会訪問を兼ねて、山形・秋田両県各地で巡回講話を行い、酒田の場合など千五百名に上る大聴衆を集めた。ところが、既に第十二章に説述した如く、四十一年以降、巡回講話には基金募集という大目的が加えられるに至った。巡回講話を基金募集という刺身の具にするのが邪道であるのに学苑当局が気付かぬわけはなかろうが、同時にまたこれが一石二鳥の結果を生み出したことが少くなかったのも認められなければなるまい。二八四―二八六頁に挙げた基金募集委員の活動中、「第二十八回早稲田大学報告自四十二年九月至四十三年八月」(『早稲田学報』明治四十三年十月発行第一八八号)には、四十二年九月―四十三年八月にかけて、二十回に亘り「講演会及巡回講話」がそれとともに実施されたことを窺わせる(二八―二九頁)し、更に四十三年九月以降に関しては、その後の「早稲田大学報告」に、「地方講演会及巡回講話」と明記されているものは、左の如くきわめて多数に上り、甚だ活発であったのを示している。

(「早稲田大学第廿八回報告自四十三年九月至四十四年八月」 『早稲田学報』明治四十四年十月発行第二〇〇号 二四―二五頁)

(「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」 『早稲田学報』大正元年十月発行第二一二号 二五―二六頁)

二 校外教育部の新設

ページ画像

 『早稲田学報』第一七七号(明治四十二年十一月発行)は、「校外教育部の新設」と題する次の如き記事を掲げている。

本大学は夙とに欧米諸国の為すに倣らひ、「ユニヴアシテー・エキステンシヨン」の趣旨に基き、時々地方に派遣し公衆を会して講演会を開き来りしが、今回特に校外教育部を置き、従来の規模を一層拡張し、一面講義録を以て通信講義を為すと同時に、地方有志の需めに応じ数日間連続して、業務の余暇を得ざる人、若くは晩学の人の為めに、組織的の学科を講ずる方法を定め、愈々発表を見るに至れり。即ち左に其趣旨と規則を載すといふ。

早稲田大学校外教育部趣意書

惟ふに現代の我社会は新旧文明の過渡期に立てり。其変遷の多様にして急激なる真に人をして応接に遑あらざらしむ。此間に処して能く時勢に後れざらんとする者は、其方面の何たるを問はず、一日も晏如として活動の外に立つを得ざるなり。而して活動の源泉となり指揮者となるものは、実に世界の各方面より集り来る日新の智識に外ならず。何人が今日の社会に立つて真の優勝者たるを得るか、将た何人が此急転する活動場裡の落伍者たるを免れ得るか。投機的若くは縁故的事情を頼とする者は姑く措き、真面目の意義に於ては唯智識と人格とが最後の試金石たるの傾向近時益々明なるに非ずや。今日は実に赤手赤裸々にして闘ふの時なり。赤手赤裸々の人に恃む所は唯自己の実力にあるのみ、智識にあるのみ。

此理は固より激烈なる都会の活動より延いて如何なる辺陬にも及び、如何なる日常平凡の生活にも現はれ来る。要は一面に於て国家の為め、将た一身一家の為め、日々眼前の活動を怠らざると共に、他面には断へず之に新鮮なる智識を注加して其朽痕を防ぐにあり。即ち根本の急務は我が智識の源に常に新鮮の流を導くの工夫にあるべし。身は今日の勤めに急なるも、心は常に新しき智識を追ふて時代と共に推移するの余裕なきものは、終に敗北者たるを免れざるなり。而して輓近智識の進歩は愈々急を加へ、政・法・文芸・商・工の諸学術皆続々として新事実・新理論を展開し来ると共に、十年前の新智識は必ずしも十年後の新智識に非るの勢を呈せり。

是に於てか、英米諸国に大学普及事業の隆盛なるあり。我早稲田大学亦天下に卒先して政治・経済・法律・文学・商業各科講義録発行の制を創め、延いて中学講義・高等国民教育講義等の一般的なるものに及び、有らゆる階級の人々をして、身親しく大学の講堂に上る能はざるも随意に之と密接の連絡を保ちて、断へず進歩せる大学的智識を摂取する便を有せしむ。是実に我邦に於ける筆を以てする校外教育事業の鼻祖にして、本大学の窃に誇とする所なり。

而して本大学は今回更に進んで校外教育部を新設し、各地方に講習会を分置して、口を以てする校外教育の端を開かんとす。従来単に或季節或特殊の目的の為めに設けられたる小規模の講習会乃至講演会と言ふが如きものは之ありと雖、大学自らの智識の下に開かるる地方講習機関は此挙を以て嚆矢とす。平生官庁の公務に従ふもの、教育の事業に携はるもの、銀行・会社・農・商・工諸般の実務に忙殺せらるるもの、乃至学生・軍人等一定の規律の下に在るもの、凡て此等の諸君が其所定の日課を終へたる後、少許の時間を割いて此企図に加はるあらば、啻に本大学の本懐のみに非るべし。宗教家が其信仰を布教するに力むる如く、本大学校外教育部は新智識の普ねき伝道を以て任務とする者なり。大方冀くは吾人の意を諒とせんことを。

早稲田大学校外教育部規則

第一章 通則

第一条 本大学は校外教育部を設け、以て大学教育の効果を学苑以外に普及せしめんことを期す。

第二条 本大学校外教育は巡回教育と通信教育(講義録発行)に分つ。

通信教育に関する規程は別に定むる所に由る。

第三条 本大学校外教育部は支部を各地方に置き、校外教育に関する事業を輔翼せしむ。

第四条 本大学は各地支部又は其他有志の開設に係る講習会に講師を派遣し、政治・経済・法律・文学・商業・理工諸科に亘る巡回教育を為す。

第二章 会期

第五条 当分の内春期自四月一日至同十日夏期自七月二十一日至九月十日秋期自十月十五日至同二十五日冬期自十二月二十一日至一月十日を以て開会の期とす。

但し、協議の上、会期以外便宜開設することを得。

第六条 一回の会期は五日間乃至十日間とす。

第三章 講師

第七条 担任講師は本大学各科教授・講師、其他本大学に関係ある諸専門学者中より嘱託す。

第八条 担任講師は二人乃至三人を以て一組を編成す。

特に講師一人の出張を希望する場合は本部に向つて協議するを要す。

第九条 本部は毎会期前、其会期に於て派遣し得べき講師氏名及科目を公表す。

講習会開設を希望する地方は、講習会規則案を添へ、前以て本部に交渉すべし。

第四章 経費

第十条 講師に関する経費は凡て講習会の負担とす。

第十一条 講師出張の標準は凡て左表の如く定む。

但し、滞在費を含まず。

第五章 講義、試験及自修方法

第十二条 講習会の講義は成るべく其大綱を印刷配付して聴講の便を図るべし。

第十三条 講師は一定の時間内に於て聴講者の質疑に応ず。

第十四条 聴講者の希望に依り、論文試験を行ひ、合格証書を与ふ。

第十五条 各支部に於て時々本大学各科講義録研究会・読書会・講話会等を催し、以て聴講者相互の修養機関と為さしむ。

第六章 部友及其特典

第十六条 聴講終了者には校外教育部講習会終了証を授与し、校外教育部部友として永く本大学との関係を保たしむ。

第十七条 左記の者にして講習会修了証を有する時は、本大学専門部政治経済科若くは法律各科一年級に入学を許す。

(一) 本大学発行の『中学講義』若くは『商業講義』を修了し、更に『高等国民教育』を修了せる者。

(二) 本大学発行の『政治経済科、法律科、文学科各講義』の中孰れか其一を修了せる者。

第十八条 本大学発行の『高等国民教育』を特に部友の研究及通信の機関とし、特価を以て部友に配付す。

第十九条 部友は本大学出版の図書に就て特価購読の特典を有す。

第七章 補則

第二十条 講習会開会中、適宜学術講演会を開き、一般公衆の傍聴を許す。

第二十一条 講習会開会中、会場附近の中学校其他諸学校又は早稲田中学講義同攻会及早稲田大学関係諸団体の需めに応じ、一席の講話をなすことあるべし。

第二十二条 講習会の開設及び経営に就て特別の尽力をなしたる者には、適当なる方法を以て本大学より謝意を表すべし。

第二十三条 各地講習会規則は本部規定の準則に準拠し、更に其地方の情況を斟酌して制定するを要す。

早稲田大学校外教育部職員

部長 高田早苗

副部長 市島謙吉

幹事 青柳篤恒

委員 田中唯一郎 高田俊雄 平野履道 栗山精一

山田太一郎 桑田豊蔵 (二―三頁)

 この趣意書で特に強調しているように、従来筆を以て、すなわち講義録によって、地方の篤学者を啓蒙して来たものを、更に口を以て、すなわち講演により、実務に携わるものにまで門戸を開放したのが、校外教育部である。

 校外教育部は、四十三年五月二十一日、大学の講堂で発会式を挙げた。先ず学長高田は、

世界に於ける大学教育の普及事業は其源を英国に発し、爾来オツクスフオールド大学は同校の事業として孜々之に努め、今や全国到る所として校外教育は盛に行はれつつあり。之に次ぐは米国にして、シカゴ大学にては既に其講師を校内の者と校外のものとの二種に分ち居る程なり。其他独・伊・蘭諸国に於ても漸次此の効果を認め、此事業に尽瘁しつつあり。本校も玆に鑑みる所あり、既に二十年前より講義録を発行して校外教育に力め、且地方教育家の求めに応じ巡廻講話をも為したるが、未だ十分なりと認むるを得ず。故に今回更に校外教育部なるものを設け、社会の各階級に亘り広く会員を募りて講習会を開き、時期を定めて大学講師を各地方に派遣し、一週或は十日を以て連続講話を為さしむる事とせり。

(『早稲田学報』明治四十三年六月発行第一八四号 一六頁)

と校外教育部新設の趣意を述べ、その後、左の如き総長大隈の演説があった。

日本は漸くして今日あるを得たりと雖も前途は尚遼遠なり。将来文明国として列強の伍班に連ならんとせば勢ひ教育の普及に俟たざるべからず。大学教育の如き固り可なりと雖も、国民悉く大学に入ることは不可能なり。其多数は中等教育にて満足せざるべからず。否、中等教育をも受け得ざるもの大多数を占め居るが今日の我国現状なり。校外教育の必要此に於てか生ず。本大学校友会の支部は既に名古屋・大阪等到る所に之あり。故に今回校外教育部なるものを設けて各地に講習会を有するに至らば、当大学の発展期して待つべきものあらん。 (同誌同号 一六―一七頁)

 翌二十二日より一週間に亘って帝国教育会で開催された第一回講習会の演題ならびに講師は、左の如くであった。

近世劇に見へたる新らしき女 文学博士 坪内雄蔵 江戸の歴史地理 文学博士 吉田東伍

最近三十年外交史 法学博士 有賀長雄 日本帝国と海運 ドクトル・オヴ・フィロソフィー 伊藤重治郎

 この講習会の最後を飾る幹事青柳篤恒の閉会の辞には、傾聴すべきものがあるので、ここに転載しておこう。

此会を開くに当りまして、私共其局に当るものには、校外教育部の希望するやうな会員を果して得られるであらうかと云ふことが懸念でありました。世間には本を読むことを商売にして居る学生、及教員諸君以外の一般人士は新知識に対する渇望の念が非常に薄い。知識欲が誠に浅薄である。電車に乗つて見ても西洋の人は小説であるとか雑誌であるとか何か手にして居らぬ人は殆どないのに、日本人にして電車に乗つて本を見て居る人は殆ど見受けられぬのに見ても分るでないかなどと云ふ説が大分世間には私の耳に這入りますのでありますが、私共は此説を信ずることが出来ぬ。集られる諸君の人数の少なからうと云ふことは少しも懸念をしなかつたのであります。只だ私共の懸念致しましたのは、御集り下さる諸君の種類別、どう云ふ側の方が御集り下さるかと云ふことでありました。従来の講習会は殆ど総て教員諸君、教育界に身を委ねて居られる諸君のみが多く見受けられてある。勿論教育界に居られる方々も吾々校外教育部の喜んで御迎へ致す所でございますが、教員諸君のみを集めての講習では、校外教育即ち「ユニヴアーシチー・エキステンシヨン」の本来の主義から申しまして完全といふことは出来ない。何処迄も一般社会教育、市民教育、即ち「シチズン」を相手にする、一般の市民を相手にすると云ふのが校外教育、西洋の「ユニヴアーシチー・エキステンシヨン」の重なる趣意であつて見ますると云ふと、どうかして教育界に居らるる方々は勿論の話、それのみならず実業界に居らるる方、又官庁・軍隊に居らるる方々、又自家営業をなすつて居らるる方々、各方面の方に御出を願ひたいものであるが、果してどうであらうと云ふことが一の懸念でありました。所が開会致して見ますると誠に良好の成績で、御集り下すつた諸君の総数が三百十名、内婦人四名であります。其中中学教諭及小学校長・教員諸君が九十五名、実業界に居らるる方が七十六名、官庁に御勤務の方々が二十九名、新聞雑誌記者が八名、学生が二十名、個人商店の方が三十五名、軍人の方が一名、其他どの部類にも属することの出来ぬ方が四十六名、先づ大抵各方面の方は網羅しました。又御婦人も御見へになつて居る。即はち開会前の懸念に就いては誠に良好の成績を挙げた、将来非常に有望であると云ふことを深く認めた次第であります。

次ぎに、如何に深遠な学問でも実社会に触れぬで学問の学理を講ずると云ふのは、学校内では兎に角、社会に於て校外教育をすると云ふ点に於て聊か不足なやうに考へられる。其故に深遠な学理を平易な言葉で説明することが出来る人が、是が校外教育の最も必要な資格であると私は平素から考へて居る。西洋諸国で今日盛に行れて居る先刻申しました「ユニヴアーシチー・エキステンシヨン」に就いて、市俄古から一の学校の校外教育に関した著述の立派な本が出来て居る位ひ盛んに行れて居りますが、夫等を繙いて見ましても、一番第一に苦心して居るのは、校外教育に適当したる「レクチユーア」の任選にあるやうに私は見ました。坪内・有賀・吉田・伊藤の四先生が特に連夜御出席下さいまして、深遠高尚な学説を実社会に応用し、平易に御講義下さいましたに就きましては、会員諸君も定めし満足せられたことと信じます。諸君と共に厚く四先生へ御礼を申上げなければならぬと存じます。

要するに校外教育部はまだ創業の際でありまして、是から先きが前途遼遠、日本の内地は申す迄もなく、朝鮮・満洲迄広く大学教育を普及しやうと云ふので、我邦の教育界に極めて重大な職務を帯びて居る。此事業の発達と完成とは要するに社会の御助勢に待たなければなりませぬ。諸君に於かれては幸い一週間の時間であるとは云へ早稲田大学に直接の御縁故の出来た以上は、此上共此事業の発達・完成に就いて直接・間接に御助勢あらんことを深く希望致します。

(同誌明治四十三年七月発行第一八五号 八―九頁)

 「学校自身主催者の位地に立ち、先づ実例を公衆に示さんが為め、全く試験的に開きたる」(『創立三十年紀念早稲田大学創業録』二四九頁)右の第一回講習会が多大の成果を収めたのを聞き伝えた各地の団体からは地方講習会開催の照会が踵を接して到来したから、その要望に応ずるため、次の如く会期・演題・講師等を定めてそれぞれ実行に移した。

神戸市 七月二十日より二十六日まで 一週間

大阪市 七月二十四日より三十日まで 一週間

京都市 七月二十八日より八月三日まで 一週間

右三個所各通

所謂新らしき女 文学博士 坪内雄蔵 新道徳論 法学博士 浮田和民

生活問題 マスター・オヴ・アーツ 田中穂積 日本最新の金融問題 ドクトル・オヴ・フィロソフィー 服部文四郎

新潟市 八月二日より八日まで 一週間

物価論 法学博士 天野為之 王政維新の事情 文学博士 吉田東伍

文章学一班 島村滝太郎

福岡県飯塚町 八月八日より十四日まで 一週間

地質学上より観察せる進化論 理学博士 徳永重康 倫理学一班 文学士 藤井健治郎

(同誌明治四十三年八月発行第一八六号 一六頁)

 この第一年度の講習会のうち、神戸・大阪・京都の状況については、校外教育部幹事の青柳篤恒により、『早稲田学報』第一八七号(明治四十三年九月発行)に詳しく報ぜられており、予想外の成績を収めたことが知り得られる。神戸の講習会は、明治六年創立の歴史を誇る湊川小学校で、午後六時開会、神戸市教育会長の神戸高等商業学校長水島鉄哉の開会の辞を以て開始している。参加者総数四百四十八名(女子三十二名を含む)で、職業別では銀行・会社員二百名、教育家百八十九名(内女子二十九名)、官・公吏十二名、新聞記者五名、雑七十三名(内女子三名)であった。大阪は中之島の公会堂において、夜間ではなく昼間に、東・西・南・北四区教育会連合主催で開催され、開会の辞は北区長向男川実福、閉会の辞は校友・南区長紫安新九郎が述べた。聴衆は六百四、五十名で、中に女子百余名を算したが、月末、しかも昼間のせいか、実務家は案外少く、教育家が多数を占めていたらしいという。京都は、市会議事堂で午後七時から、京都市助役加藤太郎松の開会の辞で始められた。参加者は百七十二名(女子七名を含む)と、三ヵ所中最も少数で、職業別では教育家九十一名(内女子四名)、実業家(個人商店員)四十七名、銀行・会社員十八名、官・公吏三名、学生四名、農業三名、僧侶二名、雑(女子)三名と記録されている(人数は原文のママ)。

 第二年度以降については、「早稲田大学報告」に、左の如く講習会開設が報ぜられている。

横浜市 四十三年十一月二十一日より二十五日まで五日間

国民道徳論 法学博士 浮田和民 最近外交事情 法学博士 有賀長雄

関税問題 法学博士 塩沢昌貞 文芸談 島村滝太郎

高松市 四十四年三月二十九日より四月二日まで五日間

経済及財政 法学博士 天野為之 憲法及行政 法学博士 副島義一

教育及倫理 文学博士 遠藤隆吉 科外講演 法学博士 高田早苗

東京市 四十四年七月二十一日より三十日まで十日間

パナマ運河の開通に就て 男爵 肝付兼行 政治と道徳 法学博士 浮田和民

日本中古商業の比較研究 文学士 平沼淑郎 日本文学史談 五十嵐力

自治と地方改良 内務省書記官、法学士 中川望 建築の進化 工学士 佐藤功一

国際経済上に於ける資本の活動 ドクトル・オヴ・フィロソフィー 服部文四郎 婚姻と法律 法学士 三潴信三

成功と道徳 文学士 藤井健治郎 儒学概論 牧野謙次郎

勧懲機関としての演劇 文学博士 坪内雄蔵 英語発音法 田原栄

岐阜県土岐郡 四十四年七月三十日より八月五日まで七日間

法制大意 法学博士 副島義一

長岡市 四十四年八月四日より十日まで七日間

経済と財政 法学博士 天野為之 地質鉱物学の実用 理学博士 徳永重康

現行の徳育問題 文学士 藤井健治郎

愛知県西尾町 四十四年八月七日より十一日まで五日間

教育倫理 法学博士 浮田和民

福岡県飯塚町 四十四年八月八日より十四日まで七日間

自治制 法学博士 副島義一

岡山県津山町 四十四年八月十三日より二十日まで七日間

新道徳論 法学博士 浮田和民 経済発達の状勢 文学士 藤井健治郎

豊橋市 四十四年八月二十三日より三十日まで七日間

法制 法学博士 副島義一

(「早稲田大学第廿八回報告自四十三年九月至四十四年八月」 『早稲田学報』四十四年十月発行第二〇〇号 二三頁)

東京市 四十五年七月二十一日より三十日まで十日間

最近時の倫理教育問題 法学博士 浮田和民 人 理学博士 坪井正五郎

徳川時代貨幣の変遷 文学博士 吉田東伍 法律と実際生活 法学博士 中村進午

我国海外貿易の将来 法学博士 河津暹 物価と通貨 法学博士 塩沢昌貞

近松を中心としたる浄瑠璃の概観 五十嵐力 交通業に於ける同盟罷業と其善後策 ドクトル・オヴ・フィロソフィー 伊藤重治郎

現代国民生活の最低限度 本大学教授 永井柳太郎 宗教と教育 文学士 藤井健治郎

革支那内外の形勢 本大学教授 青柳篤恒 電気工業一班 マスター・オヴ・メカニカル・エンジニヤリング 牧野賢吾命後に於ける

英語発音法 早稲田大学商学士 武市俊明

広島県豊田郡瀬戸田町 四十五年七月二十四日より三十日まで七日間

自治 法学博士 副島義一 経済 法学博士 塩沢昌貞

福岡県若松町 大正元年八月一日より七日まで七日間

国民道徳論 法学博士 浮田和民 地方経済 法学博士 田中穂積

長野市 大正元年八月五日より十一日まで七日間

経済と財政 法学博士 天野為之 欧洲最近文芸思潮 本大学教授 島村滝太郎

前橋市 大正元年八月五日より十一日まで七日間

工業政策 法学博士 塩沢昌貞 商業政策 文学士 平沼淑郎

(「早稲田大学第廿九回報告自明治四十四年九月至大正元年八月」 同誌大正元年十月発行第二一二号 二四―二五頁)

 右記の中で、四十四年七月東京に開催されたものは、「従来本大学出版部に於ては校外生の為めに毎年夏期講習会を開催し来りしが、本年より之を校外教育部に移し、一層其の主旨を拡張して、校外生に限らず一般有志の為に之を開くこととし」た(同誌明治四十四年八月発行第一九八号一六頁)もので、約四百名の聴講者に対し、毎日午後六時より十時まで(日曜日は午前八時より正午まで)、学苑の講堂で実施されている。聴講料は金一円(小学教員は半額)であった。また高松市の講習会は、香川県校友会が創立十周年を記念するため開催したもので、尋常・高等小学校教員六十八名、中等教員二十五名、実業家四十二名、中等学校卒業者二十名、官吏十五名、有志三十四名、婦人十四名、合計二百十八名が参加している。なお長岡市の講習会は、『北越新報』の主催で、市立長岡商業学校に市の知識人を殆ど網羅したと言うべき盛況であったが、八月五日に未曾有の出水があり、休会のやむなきに至ったにも拘らず、一層増水した翌六日は、主催者が十数艘の船を仕立て、講師および聴衆を送迎したので、予定を一日延期しただけで、無事終了している。

 校外教育部はまた時宜に適した講演会も開催した。すなわち清国では明治四十四年の十月辛亥革命が起り、清朝も袁世凱を総理大臣に任じて収拾策に乗り出すなど、内紛が相次いで起る事態に、我が国の関心も一際喚起せしめられるに至った。そこで、その真相を明らかにし将来に対処せんとする目的から、十一月二十日より四日間、神田一ッ橋女子職業学校大講堂を借り受け、清国事変講演会を毎日五時より九時まで開催し、聴衆一千名、大いに裨益するところがあった。中村進午田中穂積、原口要、根岸佶、服部宇之吉、稲葉君山、市村瓚次郎、青柳篤恒によって、それぞれ二時間ずつ講述された講演は、早稲田大学出版部刊行の月刊雑誌『早稲田講演』の臨時増刊「支那革命号」(明治四十四年十二月発行)に掲載され、講演には参加しなかった大隈重信の「清国事情研究の急務」と題する論文が、巻頭を飾っている。「これらの講演は、辛亥革命についての日本における最も早く、しかもまとまった論説であって、一般には忘れられているけれども、こんにちなお検討にたえる価値を有している」(安藤彦太郎「日本における中国研究と早稲田大学」『早稲田政治経済学雑誌』昭和三十七年十月発行第一七七号一二二頁)と評せられている如く、中華民国を成立させたこの革命の各方面に亘る真相を適切に解明している。中でも大隈は今回の革命の原因を二つ挙げ、一つは従来の革命と同じ政府の堕落、君主の権威の失墜、他はヨーロッパ文明の思想が中国に与えた刺戟と見る。中国国民をして政治組織の改革の必要なことを感ぜしむるに至った第一の刺戟は日本の勃興にあり、その日本は辛亥革命の頃、既に東洋の文明を代表して西洋の文明を東洋に紹介する地位に立ったのであるから、中国は日本の文明を受け入れるべきであるとし、世界平和のために、文明度の高い日本が、文明度の低い中国を保護しなければならないとした。そして革命と日本経済界との関係に論及し、「日本は地理上支那と最も近い国で、文明の程度は支那より高い」ので「支那から原料を輸入して、之に加工して売り出す」のが良いとし、支那保全論を説き、中国問題研究の必要なることを説いたのである。

 校外教育部の存在が高く評価されるようになるにつれ、これを開催する要望もいよいよ盛んになって来た。そこで開設を容易ならしむるため、次のような参考要領を作り、各地教育会および青年会等に発送して、周知せしめるよう努めた。

講習会開設を容易ならしむるに就ての参考案

(一) 早稲田大学校外教育部規則に準拠し、全国を……六区に分割し、各地に於て講習会員を募集し、先づ一百人を得と仮定し、毎月各会員より……会費を醵出せしむる時は、毎年一回講習会を開くことを得べし。

(二) 早稲田大学は各地方講習会員募集の際、官公吏・教員・銀行会社員・商工業者・軍人等、務めて一般社会に向つて広く入会を勧誘せられんことを希望す。

(三) 早稲田大学は講習会開設地の講師歓迎会等、特別の費用を要すべき計画を可成廃せられ、務めて冗費を節して一回にても多く講習会の開かるべき様せられたきことを希望す。

(四) 講師出張中、講習会講義時間に差支なき限り、講習会委員の紹介に因り、其他中学校・師範学校・実業学校、其他諸学校の講演に応ず。

(五) 早稲田大学は、各地方に於て可成本大学校外教育部支部を設置せられんことを希望す。

(六) 早稲田大学は、校外教育部規則規定の春夏秋冬毎会期前、其会期に於て派遣し得べき講師氏名及び科目を予定し、本大学機関雑誌『早稲田講演』を以て之を公表すべし。

(七) 講習会に於ける講演は之を『早稲田講演』に収録す。

明治四十五年五月 早稲田大学 校外教育部

(『早稲田学報』明治四十五年五月発行第二〇七号 一一―一二頁)

 校外教育部に関し、学苑の公式記録は、創設数年後に、左の如く記している。

蓋し学問の領域に境界無しと云へるは、教育普及の極致を形容したるものにして、一国文明の程度を促進せんと欲せば、校外教育部の如きは、極めて緊要欠く可からざるものなれば、吾が早稲田大学が率先して此等の事業に指を染むるに至りたる微衷も、定めて世の識者の諒とする所なる可し。即ち吾が早稲田大学の校外教育部は、広く有志の需めに応じ出張講演を試むる上に於て何等差別的取扱を為さざるものにして、其の所謂知識の伝道に従事する根本目的は、市民教育若くは国民教育の為め幾分か寄与せんとするに在るが故、此の点に関しては、彼の官辺にありて毎年開催せらるる講習会などが、特に教育若しくは慈善等の事業に携はれる一部の者のみを出席せしむるとは、逈かに其の趣を異にする也。次に又た注意す可きは、吾が早稲田大学の校外教育部は、講習会の開催に要する費用を成る可く節減することに勉め、出張教授の如きも、僅少の報酬を以て各地の招請に応ずることと為したる点也。之を要するに、早稲田大学の校外教育部は、其の事業の性質より言へば、従来官に私に世間必らずしも類似のもの之れ無きに非らざりしも、其の直接の目的の市民教育若くは国民教育に在る点に於て自から特色を発揮したるもの也。而して設置以来今日に至るまでの傾向に徴すれば、其の教育機関としての至利至便なる事、漸く世の認識する所と為りたるが如く、単に続々個人有志の招請に接するのみならず、府・県・郡・市若くは青年会等の懇嘱に依り、講習会を開くこと日を逐ふて頻繁なるに至れり。 (『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 二四九―二五〇頁)

 右の自信が必ずしも夜郎自大の謗を受けるべきでないことは、最近の研究書が、学苑の校外教育部規則の制定に対し、次のように評価しているのによっても知られるであろう。

この規則〔四九八―五〇〇頁参照〕によって初めて、早稲田大学の校外教育は、巡回教育と通信教育の二種類の教育形態によって構成されることが明確にされた。そのうち、講義録発行による通信教育に関してはすでに校外生規則が詳細に制定されていたので、校外教育部規則はもっぱら巡回教育、すなわち地方講習会制度について規定したわけである。この規則によれば、地方講習会の組織・運営主体はむしろ各地方の支部に置かれていた。本部たる早稲田大学校外教育部は、それぞれの会期の派遣講師と開講科目の選定を行うだけで、そのほかの具体的な講習会の設営業務はすべて地方支部に委ねられるという仕組みであった。いうまでもなく、この背景には、明治二十六年に開始された巡回学術講話会の蓄積と校友会地方支部の整備があった。講義大綱の印刷配付、論文試験と合格証書授与、講習会修了証の授与と部友制度、あるいは地方講習会と講義録による通信教育とを結合する試みなど、この巡回教育制度は、それまでの活動・実践の成果と経験を集約しながら、本格的な大学拡張運動の実質を備えたものであった。

(田中征男『大学拡張運動の歴史的研究――明治・大正期の「開かれた大学」の思想と実践――』 一七四頁)

 帝国大学における公開講義の開設は恐らく大正に入ってからであり、その半ばに至ってもなお、「大学所在地で公開講義をするもののみで、未だ各地に殖民して講演するものは無い」(丸山良二『日本社会教育の研究』九五頁)のが実状であったから、校外教育部の活動により、庶民の大学としての学苑に対する評価が一層高められたのは、異とするに足りないのである。

三 早稲田大学出版部の分離・独立

ページ画像

 明治二十年秋、東京専門学校出版局の名で講義録を発行して以来十五年間の歩みは、第一巻に略述した如くであるが、学苑が早稲田大学を呼称したのを契機として、東京専門学校出版部も早稲田大学出版部と改称し、一大飛躍の幕が切って落された。

 しかし好事魔多しの譬に洩れず、この記念すべき拡充期の前夜に、予期せざる二つの事件が起きた。先ずその一は、出版部が講義録以外に手を着け始めた初期の単行本のうちで、近代の名著と言われた『近世無政府主義』が、事もあろうに大逆事件の被告らに思想的な影響を与えたことであった。著者煙山専太郎は、明治三十五年九月、西洋史の講師として招聘されたが、未だ東京帝国大学在学中の同年四月に、有賀長雄の校閲を受け、東京専門学校出版部発兌の「早稲田叢書」の一冊として出版したのが本書である。煙山にはこの書により無政府主義を宣伝したり助成したりする意図は毛頭なく、寧ろ軽浮な思想の一掃を目的として著されたものであることは、同書の左の如き序言によっても明らかである。

近時無政府党の暴行実に惨烈を極め、聞くだに胆を寒からしむる者あり。然れども世人多く其名を謂ふを知て其実を知らず、本編聊か此欠乏に応ぜんことを期する者なり。所謂実行的無政府党なる者、其兇乱獰猛天人の共に嫉視する所、然れども其無智朦昧又頗る憫むべき者あり。……本編純乎たる歴史的研究により、此妄想者・熱狂者が如何にして事実として現社会に発現し来りたりや、其淵源及発達を明にせんことを試みたる者なり。故に素より批評の筆を弄せず。若し夫れ之に対するの策、之に処するの術に至ては、自ら読者方寸の中に存する者あらん。 (一―二頁)

しかしこの書が世に出るや、これを閲覧した一部の青少年の中には、これによって啓蒙されたと信じ、この主義を信奉するに至った者さえあったことは疑うべくもない。例えば、後日大逆事件の中心人物の一人と目されて死刑に処せられた宮下太吉は、法廷で、

煙山氏ノ『無政府主義』ヲ読ミシ時、革命党ノ所為ヲ見テ、日本ニモコンナコトヲシナケレバナラヌカト思ピタリ。

(『大審院特別法廷覚書』より 神崎清『大逆事件』第一巻 四四―四五頁に引用)

と述べ、また同事件被告のうちで最年少者の故に減刑されて懲役八年の刑に服した新村忠雄も、日頃幸徳秋水に心酔し、最も激烈な無政府主義者となっていたが、本書を読むに及んで更に確信を得、一層直接行動論を堅持するようになったという。

 予期せざる第二の事件というのは、いわゆる出版法違反事件である。これは、後に本大学の講師になり、政治経済学科で東洋近世外交史を講じた巽来治郎が、明治三十五年八月に東京専門学校出版部から出版した『日清戦役外交史』の中に、外務省の許可を得ずして外交の機密に属する文書を掲載したことが出版法に触れるとして起訴され、高田早苗も出版責任者として罪を問われた。その結果翌三十六年十二月、東京地方裁判所において、巽は罰金百円、高田は無罪と判決された。

 事の善悪は何れにせよ、この二著は世人の関心を惹き、出版部出版の他の諸冊子の売行にも好影響を及ぼし、『明治三十六年度(自三十五年十月至三十六年九月)報告書 早稲田大学出版部』中の「損益計算表」を一瞥すれば、出版部の経営に貢献するところが少くなかったと言っても、必ずしも過大評価ではないことが知り得られよう。

 ところが日露戦争は大学出版部の経営を苦境に陥れ、やむを得ず使用者を半減するという姑息な手段により経費の節約を計ってもなお、三十八、九年には赤字の増加を防止できなくなったので、遂に出版部廃止論さえ唱えられるに至った。強硬論者は鳩山和夫校長と天野為之とで、種村宗八の私記『早稲田大学出版部の沿革と早稲田大学との関係』の伝うるところによると、

当時の維持員・図書館長たる市島謙吉氏の語る所によれば、出版部廃止論の突発した明進軒(牛込区通寺町)の協議会の席上に於ては、継続論者と廃止論者との間に激論があつて、平生の協議会が談笑の間に解決したのとは別天地の観があつたといふことである。高田出版部長は校外教育機関として出版部存続の必要を痛感してゐたけれども、維持員六人中の有力なる二人が熱心の廃止論者である以上、此儘に経営して行つて其損失の為めに大学に禍しては大事であると考へて、出版部庶務課長小久江成一、出版課長種村宗八の両人に命じて、廃止に関する善後策を取調べさせた。其取調報告によれば「講義録は完結に至らなければ完全に用をなさないものであるから、発行の中途に於て廃刊するのは校外生に対して不徳義であつて、本大学の体面上も、亦教育上からいつても忍び難い事である。たとひ将来廃刊するものと確定しても、現在講義録の完結までは継続して発行せねばならぬ。新に校外生を募集しないで、其数の既に著しく減じてゐる校外生に対して、其卒業期まで講義録を発行して行くには、約二万円の損失を忍ばねばならぬ」といふにあつて、則ち出版部は其事業を継続する事が困難であると共に、之を廃止する事も亦容易ならざる事が明らかになつた。従つて大学当局者としては(一)前途の危険を賭して出版事業を継続するか、(二)校外生の迷惑即ち学校の不信用を顧みないで断然廃刊するか、又は(三)別に経営方法を案出して之を継続するかの三途より外に採るべき途がなかつたのである。 (六―七頁)

 そこで出版部幹部の間で熟議が重ねられたが、大学に財政上の危険を及ぼすことも、校外生に迷惑をかけることも到底できないので、大学に損失を及ぼさない継続方法を案出するより外採るべき途がないということになり、学校との関係を分離し、一個人たる高田早苗が危険を冒して全責任を負い、事業継続を決定し、この旨を大学の維持員会に申し入れた。

 維持員会は慎重に協議した結果、出版部を本校より分離して高田早苗個人の経営に移し、名称のみは依然として「早稲田大学出版部」を名告ることを認めた。すなわち明治三十九年七月十八日の維持員会決議および契約書は次の通りである。

一、早稲田大学出版部ヲ本校ヨリ分離独立セシム。

理由、出版部ノ近況ヲ察スルニ往々ニシテ収支相償ハザルノ形勢アリ。此儘本校直接ノ経営トスル時ハ累ヲ本校ニ及ボスノ虞アルノミナラズ、出版部其発展ニ不便ナリト認ムルヲ以テ、是ヲ分離独立セシメ、来ル九月ヨリ其未来ノ経営ヲ高田早苗氏ニ一任スルニ決ス。

一、出版部ハ依然早稲田大学出版部ト称セシメ、将来其純益ノ一割ヲ本校ニ納附セシム。

一、出版部ヲ分離独立セシムルニ就テハ、同部ノ用ニ供スル為メ新築セル建物及附属品、同部出版ノ現在書籍・講義録等総テ同部ニ譲与シ、且ツ出版部ヨリ納ムベキ三十八年度利益金三千五百円ノ納附ヲ免除シ、同時ニ外ニ対スル権利義務一切ニ就テ出版部ヲシテ責ヲ負ハシム。

右決議ス。

明治三十九年七月 (早稲田大学出版部所蔵『早稲田大学出版部経過概要』)

契約書

社団法人早稲田大学ハ出版部事業ノ将来ヲ慮リ、出版部ニ属スル資産負債ヲ挙ゲテ高田早苗ニ譲渡シ、同氏一己ノ計算ニ於テ同大学ノ出版事業ヲ経営スル事ニ決定シタルヲ以テ、左ニ譲渡ノ顚末ヲ記シ、将来両者ノ間ニ於テ履行スベキ事項ヲ契約ス。

譲渡ノ顚末

第一 出版部創設以来高田早苗ハ其部長トシテ出版ノ事ヲ主宰シ、其利益金五万二千余円ヲ早稲田大学ニ提供シテ大学ノ事業ヲ助ケタリ。

第二 出版部ハ前項記載ノ如ク、従来ニ在リテハ本校ノ事業ヲ稗補シタルコト尠カラズト雖モ、日露戦役ノ影響ヲ蒙リ、事業漸ク萎微シ、往々ニシテ損害ヲ生ゼントスルノ虞アリ。且事業ノ性質上、本校ト直接ノ関係ヲ断ツヲ以テ将来発展上便利ナリト認ム。故ニ早稲田大学ハ出版部ニ属スル資産負債ヲ挙ゲテ高田早苗ニ譲渡シ、任意経営セシムルコトトナシ、高田早苗亦之ヲ諾シタリ。

契約事項

第一 早稲田大学ハ高田早苗ニ、同大学ノ名ヲ以テ校外生ヲ募集シ、各種講義録ヲ発行スルコトヲ諾シ、且同大学ノ教科書・参考書ノ出版・発売ヲ為サシムベキ事。

第二 高田早苗ハ出版部ノ営業ニ因リ利益アルトキハ、毎年其純益金ノ二割ヲ早稲田大学ニ納附スベキ事。

第三 高田早苗ハ出版部経営ノ為メニ如何ナル損害ヲ蒙ルトモ、其損害ヲ一身ニ負担シ、早稲田大学ニ其煩累ヲ及ボサザルベキ事。

第四 高田早苗ハ自己ノ都合上他人ニ出版部ニ属スル資産ヲ譲渡セントスル場合ニハ、早稲田大学ノ承諾ヲ求ムルコトヲ要ス。

本契約書二通ヲ作リ各一通ヲ所持スルモノ也。

明治三十九年七月十八日

社団法人早稲田大学代表者理事 鳩山和夫

東京市小石川区関口町二百番地 高田早苗

(同書)

 このようにして出版部経営の全責任を負うことになった高田は先ず匿名組合の結成を思い立ち、東京専門学校創立以来の同志達に呼び掛けて、協力を乞うた。これに賛同して馳せ参じたのは、坪内雄蔵市島謙吉大隈信常田原栄田中唯一郎、小久江成一で、これに高田を加え合計七人が最初の組合員になった。明治三十九年十二月十五日のことである。天野為之が参加しなかったのは、少くとも表面上は、既に『東洋経済雑誌』を経営しているから高田の出版事業には協力できないというのが、主たる理由であった。その後明治四十年十二月十三日付で、高田俊雄、種村宗八の二名が組合員に加わったから、明治の末期までは、これら九名が責任を分ち合った。しかし高田が経営運用の全責任を負っていることには変りがない。といって講義録の収入のみに頼っていては、先細りの懸念がある。その上起死回生の事業を起すとしても、先立つものがない。企業にありがちなこうした悪循環に悩まされていた高田の脳裡に、ある日突然一瞬の閃きがあった。苦境を切り開く唯一の途――それは予約出版による叢書の刊行である。予約金を前収すれば、これが運転資金となって、次々に出版することが可能となり、その純利が次の子を育てるわけである。ただ一つ「早稲田大学」の名にかけても、約束した発行日を一日たりとも遅らせてはならない。巷間の出版会社には、誇大広告によって予約金を取っておきながら発行期限を守らないものが多く、甚だしいものは数ヵ月間も等閑にしているものさえある。期限厳守如何が、出版部としての将来性に関係する重大な問題であったから、高田はこの点を早急に研究するよう種村宗八主事に秘命した。その結果、四十年一月から『大日本時代史』全九巻(重版では十巻、訂正増補版では十二巻)を毎月一冊ずつ発刊することとし、代金前納制をとり、購読申込数に照して印刷すると明記し、申込期限を定めて市販を避け、資金運用の安定を計った。

 その内容は、一、古代史(久米邦武)、二、奈良朝史(重野安繹)、三、平安朝史(池田晃淵)、四、鎌倉時代史(三浦周行)、五、南北朝時代史(久米邦武)、六、室町時代史(渡辺世祐)、七、安土桃山時代史(渡辺世祐)、八、徳川幕府時代史(池田晃淵)、九、幕末史(小林庄次郎)で、約束通り四十年一月から配本を開始し、以後一日として発行日を遅らすことなくこの大部冊の刊行を完了でき、同業界ならびに読者から好評と讃辞とを受けた。この業績は言うまでもなく、当事者全員が渾然一体となった結果であろう。

 かくてこの予約出版に成功した高田は、先に単行本として発行した翻訳書の出版が好評であったのを思い出し、名著七編を選んで『経世七大名著』と名付けて出版することにした。すなわち翌四十一年三月のことで、其の後続々として出版された『内外地誌』(二巻)、『日本近世時代史』(三巻)、『漢籍国字解全書』(四十五巻)、『新釈插図近松傑作全集』(五巻)、『通俗二十一史』(十二巻)等の予約出版物は有力な財政源となり、漸く当事者の愁眉を開かせたのみか、契約に基づく大学への納付金は、大学当局者の頰さえ綻ばす効果を挙げた。本大学各年度の決算報告書に経常費として繰り入れられた出版部納付金の額および臨時納付金は次の通りである。

(『早稲田大学出版部経過概要』)

累計は三万三千二円八十四銭となる。まさに順風満帆と言うべきか。

 早稲田大学出版部は、三十九年七月、学苑のキャンパスを離れて、正門前に新築せられた木造二階建二棟の独立家屋(事務所ならびに倉庫――二六八頁第一図参照)に移転したのみならず、経営的にも早稲田大学からは分離させられたので、『廿五年紀念早稲田大学創業録』には、文芸協会とともに「附属事業」と分類せられ、『創立三十年紀念早稲田大学創業録』にあっても、校外教育部および理工科業務部とともに、「附属事業」の中で頁が割かれている。しかし、殊に明治が大正に代る頃には、同じ付属事業にしても、大学財政への寄与の程度では他の二つは全く比較にならず、従って職員の異動について次の如く、わざわざ数行を費すという異例の措置が講ぜられている。出版部の分離・独立そのことについては、恐らく意識的にこれらの公式報告には触れるのを回避しているが、学長高田としては、学苑そのものに対するのとあまり変ることのない熱情を注ぎ、その結果経営的に予期にまさる大成功を収める結果を生んだのである。しかし、皮肉にも、その大黒字が巷間において噂に噂を生み、「早稲田騒動」の一因にさえなるという、芳しからざる副産物をやがて学苑にもたらしたのであった。

〔早稲田大学出版〕部の主なる職員に就て言へば、従来高田学長部長として一切の事を主宰し、其の下に小久江成一、種村宗八の両氏主事として事務を分掌せられしが、四十一年十二月、小久江氏は日清印刷会社の専務取締役(本部主事は兼任)に転じ、高田俊雄氏入りて新たに主事の任に就き、四十二年九月に至りては、更に市島理事本部の主幹を兼任して部長を助けらるることと為り、以て今日に及べり。 (『創立三十年紀念早稲田大学創業録』 二五三頁)